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大内氏館跡【大内氏遺跡】

名所・史跡

山口市

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大内氏館跡【大内氏遺跡】 https://4travel.jp/dm_shisetsu/11315840

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施設情報

館跡には現在龍福寺がありますが、室町時代には周防の守護職大内氏の居館があったところです。 正平15年(1360)頃大内弘世が大内御堀からこの地に館を移し、京の街を模して、街造りをしたといわれています。 館は現在の龍福寺境内とほぼ一致する100間四方の敷地を堀と土塁で囲んでいたといわれています。 大内氏歴代の当主はここで政務をとり、約200年間西日本の政治、経済の中心地になりました。

施設名
大内氏館跡【大内氏遺跡】
住所
  • 山口県山口市大殿大路119龍福寺
電話番号
083-934-2810
アクセス
「新山口駅」 列車 20分 → 山口線「山口駅」からバス5分→ 「県庁前」バス停から徒歩10分
中国自動車道小郡IC 車 20分
公式ページ
詳細情報
カテゴリ
  1. 観光・遊ぶ
  2. 名所・史跡

※施設情報については、時間の経過による変化などにより、必ずしも正確でない情報が当サイトに掲載されている可能性があります。

クチコミ(23件)

山口市 観光 満足度ランキング 22位
3.33
アクセス:
3.38
山口市の龍福寺周辺です。 by NH SFCさん
人混みの少なさ:
3.93
他に観光客はいませんでした。 by NH SFCさん
バリアフリー:
3.00
平坦地ですから。 by hannibalさん
見ごたえ:
3.50
あると思います。 by NH SFCさん
  • 満足度の高いクチコミ(8件)

    往時の栄華を偲ばせる大内氏館跡

    5.0

    • 旅行時期:2021/10
    • 投稿日:2024/04/23

    周防国は戦国時代前期には大内氏の城下町として、「西の京」と称されるほど文化が栄えました。龍福寺様の境内は、往時の大内氏の屋...  続きを読む敷跡を偲ぶことができます。屋敷町に大きな境内を構えて、「最盛期はかくや」と創造を巡らせることができます。   閉じる

    釈安住

    by 釈安住さん(男性)

    山口市 クチコミ:21件

  • 守護大名の大内氏の館跡

    • 3.5
    • 旅行時期:2023/12(約5ヶ月前)
    • 0

    室町時代にこの地を治めた中国の有力守護大名の大内氏の館があった場所です。
    現在は龍福寺が鎮座しています。
    大内氏二十四...  続きを読む代当主の弘世公がこの地に館を造り、以降この館で大内氏による政務が行われました。
    現在は土塁と堀跡が残されていて、当時の面影を見ることができます。
    当時の池泉庭園が復元されて、大内氏の権力が思い起こされます。
    境内には史料館もあり、大内氏の遺構が残る観光エリアとなっています。  閉じる

    投稿日:2023/12/31

  • 観光旅行で山口を訪れたときに、かつて山口を拠点に、この地方を治めていた大内氏の館跡に立ち寄りました。残念ながら当時の建物な...  続きを読むどはありません。龍福寺というお寺の山門前に史跡として石柱が立てられていました。境内の景観などから、それなりに雰囲気は伝わりました。  閉じる

    投稿日:2022/11/04

  • 大内氏が居館を置いていた地

    • 3.5
    • 旅行時期:2022/10(約2年前)
    • 0

    山口市の中心部のやや北側、上山口駅からわりと近いところにあります。
    現在は龍福寺の境内となっているところは、かつて山口を...  続きを読む本拠としていた大名の大内氏の居館がありました。ということで大内氏館跡という史跡になっています。
    大内氏は室町時代の大名であり、山口の町を西の京へと発展させました。そういうこともあり、大名庭園があったのでしょう。こちらの史跡内にも庭園の一部が復元されていて、池などがありました。
    見るものが多くあるわけではありませんが、戦国大名としての大内氏の文化的水準の高さを少し感じられることができました。  閉じる

    投稿日:2022/11/02

  • 大きな館があった事が想像できる

    • 3.0
    • 旅行時期:2022/08(約2年前)
    • 0

     室町時代から戦国時代にかけてこの地をを治めた守護大名、大内家の居館跡です。その跡には龍福寺が建てられており、周辺に土塁や...  続きを読む庭園跡などが残復元さているので、それらを見学されていただきました。最盛期には、この龍福治よりかなり広い敷地を有していたとの事で、その規模は、わずかに残された痕跡を見るだけで、想像できると思いました。
      閉じる

    投稿日:2022/08/21

  • 往時の栄華を偲ばせる大内氏館跡

    • 5.0
    • 旅行時期:2021/10(約3年前)
    • 3

    周防国は戦国時代前期には大内氏の城下町として、「西の京」と称されるほど文化が栄えました。龍福寺様の境内は、往時の大内氏の屋...  続きを読む敷跡を偲ぶことができます。屋敷町に大きな境内を構えて、「最盛期はかくや」と創造を巡らせることができます。


      閉じる

    投稿日:2021/10/30

  • 門と庭園

    • 2.5
    • 旅行時期:2021/03(約3年前)
    • 0

    龍福寺というお寺の境内が大内氏の館があった場所だそうです。現在はお寺となっていますが、お屋敷の門と庭園が復元されていました...  続きを読む。地図に庭園と記載されていたので、美しい日本庭園かと期待していたのですが、芝生に池があるのみで、とても殺風景で、残念でした。  閉じる

    投稿日:2021/05/25

  • お寺になっていて

    • 4.0
    • 旅行時期:2021/03(約3年前)
    • 0

    山口市の観光で訪問しました。現在は龍福寺というお寺が建っていますが、ここは昔は大内氏の館が建っていた場所だそうです。京都を...  続きを読む模して造られたという場所ですので、きっと素敵な場所だったのでしょう。現在は案内板などが残るのみで、館跡がないのは残念です。  閉じる

    投稿日:2021/05/11

  • 現在、龍福寺があるところが大内氏館跡です。約200年間西日本の政治の中心だったところです。大内氏館は100間(約180m)...  続きを読む四方を土塁で囲み、その外面は大石を積み上げて防塁となっていたそうです。1360年(正平15年)頃に、大内弘世が大内御堀(現在の山口の東方)からこの地に館を移し、京の街を模して、街造りを始めたのですね。   閉じる

    投稿日:2021/03/15

  • 池泉庭園が復元されています。

    • 3.5
    • 旅行時期:2020/12(約3年前)
    • 0

    大内氏遺跡の大内氏館跡は、龍福寺を中心とする一帯です。近年大規模な発掘調査が行なわれ、大きな池泉庭園跡も確認され、現在復元...  続きを読むされています。中島を浮かべ、緩やかなカーブを描く池泉ですが、北辺部が直線になっています。ここに庭を望む建屋があったと思われるそうです。この池泉庭園は滅亡時のもので、それまで何度かの庭園改造があったそうです。大内氏が栄えたのは室町時代ですが、西日本ではここを中心に文化が花開いていたのでしょう。   閉じる

    投稿日:2021/02/01

  • 大内氏の栄華をたどる

    • 4.0
    • 旅行時期:2020/10(約4年前)
    • 0

    大内氏200年の栄華を今に伝える地味なる遺跡。室町時代の栄光はひとえに日明貿易にあったようです。時には京の都をしのぐ勢いが...  続きを読むあったようです。
    のちに続く毛利氏、維新に志士たちにも影響を与えているのでは。常に時代を意識し、世界を見つめていた姿勢に垣間見えるような気がします。
      閉じる

    投稿日:2020/11/18

  • 西ノ京

    • 3.5
    • 旅行時期:2019/05(約5年前)
    • 0

    続日本百名城巡りの一環として初めて行きました。大路ロビーでスタンプをいただくことができました。龍福寺の敷地がかつての大内...  続きを読む館跡でした。大内氏の菩提寺で、墓石が多くありました。門の跡などしか当時をしのばせるものはありませんでしたが、京都にならったまちづくりをした西ノ京らしさは随所にありました。  閉じる

    投稿日:2019/05/19

  • 現在の龍福寺境内がすっぽりそのままかつての守護大名大内氏館跡です。

    室町時代隆盛を誇った大内氏の政治の中心だった館跡...  続きを読むです。

    大きな平安庭園を思い起こさせる池泉庭園が復元されていて西の京都として栄えた往時の様子を感じられる場所です。

    庭園内には所々井戸や土塁も残り当時の面影を誘います。

    同じ大内氏関連の遺跡で直ぐ傍の築山跡(大内氏遺跡)より大分整備されています。  閉じる

    投稿日:2021/10/30

  • 土塁や門などが再現。

    • 4.0
    • 旅行時期:2018/02(約6年前)
    • 0

    山口を治めた大内家。その館跡がこの場所になります。中世の居館の跡として現存・復元されている貴重な史跡です。
    土塁や西門な...  続きを読むどの建造物が復元されているほか、枯山水庭園も発掘されています。現在は住宅街の中にひっそりとたたずんでいますが、当時の大内氏の繁栄を伺い知ることができる場所ですので、山口観光の際はぜひ訪れたい場所です。  閉じる

    投稿日:2019/09/28

  • 現在は龍福寺があります

    • 3.0
    • 旅行時期:2017/12(約6年前)
    • 1

    JR上山口駅から徒歩15分くらいでしょうか。館跡には龍福寺が現在あります。もとは大内弘世が1360年にここに館を移して京都...  続きを読むの街を模して街づくりをしたとされ、館の敷地は現在の龍福寺の敷地とほぼ同じと言われています。この場所が西の京の中心だったということですね。  閉じる

    投稿日:2018/01/08

  • 西の京として反映した時代を偲ぶ

    • 3.0
    • 旅行時期:2017/09(約7年前)
    • 0

    かつて大内氏が居館とした地で今は龍福寺が建っている他、枯山水庭園や裏手には池泉公園がきれいに整備されていて大内氏反映当時の...  続きを読む雰囲気が伝わってきます。
    中国地方から九州まで治めて山口が「西の京」と言われた時代があったと思うと胸が熱くなりますね。  閉じる

    投稿日:2017/09/24

  • 龍福寺にの参道に石碑が残る

    • 3.5
    • 旅行時期:2017/07(約7年前)
    • 0

    戦国大名の大内義隆氏の菩提を伴うために、毛利氏によって龍福寺がこの大内氏館跡に再興されました。龍福寺の参道には、大内義隆氏...  続きを読むの辞世の句が刻まれた石碑や供養塔などが建てられていました。また龍福寺の山門近くには館跡の解説が写真でされていました。  閉じる

    投稿日:2017/10/15

  • 現在は龍福寺が建てられています

    • 4.0
    • 旅行時期:2017/07(約7年前)
    • 0

    室町時代に周防守護職の大内氏の居館があった場所で、現在は館跡に龍福寺があります。それでも、龍福寺の周囲には、いくつかの館跡...  続きを読むの遺構が残されています。龍福寺は大内氏の菩提寺でもあり、とても見ごたえがあります。大内氏館は、大内弘世が御堀からこの地に館を移し、京都を模して造営したと言われ、土塁に囲まれた居館があり、西日本の経済の中心として機能していました。  閉じる

    投稿日:2017/07/29

  • 今は龍福寺が建立されています。

    • 3.0
    • 旅行時期:2016/04(約8年前)
    • 0

    今は館の遺跡としては龍福寺の境内にある庭園と寺を囲む土塁です。庭園は池を中心したものです。「池泉」といわれたようです。発掘...  続きを読むもされています。また土塁は復元されたものですが当時の館を守る様子もわかります。土塁の上に土塀があったのでしょう。  閉じる

    投稿日:2016/05/06

  • つわものの夢の跡

    • 3.0
    • 旅行時期:2015/09(約9年前)
    • 0

    館跡には現在龍福寺がありますが、室町時代には周防の守護職大内氏の居館があったところです。 100間四方の広大な館で堀トッド...  続きを読む類で囲われていたと言います。

    大きな池をもつ庭園は、1400年代末に政務どころとしてつくられ、大内氏が滅亡する1500年代中頃まで使われたと考えられます。  閉じる

    投稿日:2015/10/05

  • 大内氏の繁栄を偲ぶ

    • 5.0
    • 旅行時期:2014/10(約10年前)
    • 0

    大内氏は、弘世の代に周防・長門・石見の守護職となり、山口を本拠地として館を築いたのが大内館の始まりといわれている。
    大内...  続きを読む政弘は、応仁の乱で西軍の総大将を務めるほどであったが、都での戦いに明け暮れ、山口を留守にする間に山陰の尼子氏が勢力を拡大し、やがて中国地方は大内と尼子の二大勢力の角逐となる。
    政弘は、応仁の乱で都から避難した多くの文化人を受け容れ、山口は西の京と言われる隆盛を誇った。政弘の子義興の代に最盛期を迎えたが、その子義隆は1542年、尼子氏との戦いに大敗し、以後政務を省みなくなった。
    義隆はその後学問・芸術にのめりこみ、フランシスコ・ザビエルにも布教の許可を与えた。このような義隆の姿勢は、武断派の陶晴賢の反発を招き、晴賢は1551年ついに挙兵する。山口を追われた義隆は、豊後の大友氏のもとに逃れようとしたが、悪天候のためかなわず、長門の大寧寺で自刃し、大内氏は事実上滅亡した。
    その後陶晴賢は、大友家から養子にとった大内義長を当主としたが、毛利元就に滅ぼされた。元就が1556年に山口に侵攻すると、義長は山口を放棄して逃亡した。毛利隆元は翌年、大内館の跡地に義隆の菩提寺として、龍福寺を建立した。  閉じる

    投稿日:2015/07/19

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