bluejaysさんのクチコミ(10ページ)全1,027件
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投稿日 2015年08月21日
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投稿日 2015年08月21日
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投稿日 2015年08月21日
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投稿日 2015年08月21日
総合評価:5.0
佐久間象山は1811年、松代藩士佐久間一学の長男として生まれた。1842年、藩主真田幸貫が海防掛に任ぜられると、象山は江川英龍の下で西洋兵学を学び、幸貫に「海防八策」を献上する。
1849年、日本初の電信実験に成功する。
41歳のとき江戸に出て「五月塾」を開き、朱子学・経書・西洋兵学を教えた。塾生には吉田松陰・小林虎三郎・勝海舟・坂本竜馬・橋本左内・河井継之助・山本覚馬などがいた。
1864年、一橋慶喜に招かれて京に入り、慶喜に公武合体と開国を説いた。しかし当時の京は尊皇攘夷派の巣窟となっており、河上彦斎・前田伊右衛門等によって暗殺された。- 旅行時期
- 2015年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年08月21日
総合評価:5.0
武田信玄が本陣を置いた八幡社周辺に、史跡が点在している。
「逆槐」は、武田軍が槐の木を逆茂木として逆さに打ち込んだものが、芽を出し大樹になったもの。「執念の石」は、武田本陣に上杉謙信が乱入するという最大のピンチにおいて、原虎胤が槍で謙信を突いたが取り逃がし、無念さから槍を突き刺したという石で、中央に穴があいている。- 旅行時期
- 2015年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年08月21日
総合評価:5.0
川中島の合戦は、武田・上杉両軍の旗本が入り乱れての乱戦となった。信玄の身辺が手薄になったとき、風のように信玄の本陣に切り込んできた武者がいた。萌黄の胴肩衣をつけ、頭を白布で包んだ武者は月毛の馬の馬上から、三尺ほどの太刀をふるい、床几にかけている信玄めがけて斬りつけた。一の太刀は軍配で受けたが、二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負った。駆けつけた信玄の旗本が槍で馬上の武者を突いたがはずれ、鎧の肩にささった。これを叩き落とそうとして馬の尻を叩いてしまったので、馬が立ち上がり、一目散に走り去った。この白頭巾の武者こそ、上杉謙信であったという。後で信玄の軍配を調べてみると、刀傷が七つもあった。
- 旅行時期
- 2015年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年08月21日
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投稿日 2015年08月21日
総合評価:4.5
信濃に進軍した武田・上杉両軍に対し、中氷飽・上氷飽・戸部・今井・今里・岡田の川中島6ヶ村は、村を戦場としないよう願い出た。
武田・上杉両軍はこれを聞き入れ、約束の証しとして代表の青木家の屋敷に杉の木を植え、幕を張って非戦闘地帯とした。そして9月10日の合戦では、両軍とも約束を守り幕を越えて合戦はしなかったと伝えられる。
だが、川中島の激戦から33年後の1595年に実施された太閤検地において、中氷鉋村の屋敷持ち百姓27軒のうち失せ人屋敷が13軒もあるのは、村で戦闘が行われたことを示唆している。上述の川中島6ヶ村は、1622年に武田の旧臣真田信之が松城藩主として入封すると、真田領を拒否し、幕府に願い出て上田藩の飛び領地となっている。- 旅行時期
- 2015年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 4.5
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投稿日 2015年08月20日
総合評価:5.0
福島正則は1620年嫡男忠勝に先立たれ、2万5000石を幕府に返上し、1624年高井野で死去した。このとき家臣が、正則の遺体を幕府の検使が到着する前に火葬してしまったため、またも法度違反であるとして、残りの2万石も没収された。これは、正則が屈辱に耐えかね切腹したのを隠蔽するため、急いで火葬にしたものとも言われている。
正則の子正利は3112石の旗本に身を落とすこととなったが、1637年子がないまま死去し、ここに福島氏は断絶した。- 旅行時期
- 2015年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 2.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 2.5
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投稿日 2015年08月20日
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投稿日 2015年08月20日
総合評価:5.0
そんなことよりさあ、ちょっと聞いてくれよ。
この前の連休に、上田城行ったんです。上田城。
そしたらなんか人がめちゃくちゃいっぱいで、写真撮れないんです。
で、よく見たらなんか看板掲げてて、「コスプレ用甲冑貸します」とか書いてあるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、真田ブームで普段来てない城跡に来てんじゃねーよ、ボケが。
なんか親子連れとかもいるし。一家4人で真田家か。おめでてーな。
「よーしパパ幸村になるぞー」とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、150円やるからその場所空けろと。
城跡ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
誰もいない城跡に立ち、崩れかかった城壁を見ながら、
ここの城兵たちはどうやって滅んでいったのだろうと想像にふける、
そんな雰囲気がいいんじゃねーか。
で、やっと写真撮れたかと思ったら、隣の奴が「真田家は赤備えだよね」とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、上田城の真田兵は赤備えなんて着けてねーんだよ。ボケが。
お前は本当に真田家を知ってるのかと問いたい。小1時間問い詰めたい。
真田家通の俺から言わせてもらえば今、真田家通の間での最新流行はやっぱり、
真田本城登山、これだね。
1日数本しかないバスで行き、城攻めするつもりで40分徒歩で登る。これが通のやり方。
しかしこれをやると、帰りのバスが2・3時間待ちで半日つぶすという危険も伴う、諸刃の剣。
素人にはお薦め出来ない。
まあお前らド素人は、「真田十勇士」でも見てろってこった。- 旅行時期
- 2015年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 1.5
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年08月20日
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投稿日 2015年08月20日
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投稿日 2015年08月20日
総合評価:5.0
天文年間に真田幸隆が築いたといわれる。
1541年、武田信虎・村上義清・諏訪頼重が海野平に侵攻すると、海野棟綱とその子真田幸隆は小県を棄て、上野に逃れた。幸隆はその後武田晴信に帰属し、1550年の戸石城攻めに際し、旧領小県と諏訪の所領を約束された。武田軍はこのときは大敗したが、翌年幸隆は独力で戸石城を乗っ取り、小県の旧領を回復した。
幸隆の死後は信綱が跡を嗣いだが、1575年の長篠の合戦で戦死し、真田家は幸隆の三男昌幸が相続した。1583年に昌幸が上田城を築くと、真田本城は廃城となった。
長のバス停から30分以上歩く。かなりハードな登山。- 旅行時期
- 2015年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 1.0
- 登山
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.5
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投稿日 2015年08月20日
総合評価:5.0
江戸時代に児島湾を干拓して農地を作ったはいいが、もともと土地のなかったところで、かつ備前・備中国境付近だったために、国境をめぐって100年続く争いが起こった。国が違えば領主が違い、年貢の収入も変わるからである。
最終的に、用水路の向こう(東側)は備前(岡山市内尾)、手前(北側)は備中(都窪郡早島町前潟)、墓地と田んぼの境の高さが変わっている向こう側(西側)は備中(倉敷市茶屋町早沖)と裁定された。かくして国境標石が、もう少し左(東)に立てられたが、一度盗難に遭い、現在はもとの位置よりやや西の墓地に置かれている。- 旅行時期
- 2014年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.5
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投稿日 2015年08月20日
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投稿日 2015年08月18日
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投稿日 2015年08月18日
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投稿日 2015年08月18日
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投稿日 2015年08月18日






















