安徳天皇入水の地
- 5.0
- 旅行時期:2014/10(約11年前)
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by bluejaysさん(男性)
下関 クチコミ:30件
現在「壇ノ浦町」と呼ばれ、「壇ノ浦古戦場」の碑が立てられているところは、関門海峡の最狭部である。江戸時代には「早鞆瀬戸」と呼ばれた難所であり、現代でも操船を誤り座礁する事故がしばしば起きる。
だが「壇ノ浦」は本来は、長府沖である。神功皇后が長府の忌宮神社に、三韓出兵に際して戦勝祈願の祭壇を築いたことに由来している。「吾妻鏡」の記述によれば、平家は合戦に当たり彦島を出て東に向かい、田之浦に陣取ったという。源氏はさらに東の「壇浦奥津」に布陣した。奥津とは、長府沖の満珠島・干珠島の古称である。連敗を重ねて後のない平家軍は、たとえこの戦いで後退することになっても、潮流の複雑な関門海峡に源氏を引き込めば、敵は操船できなくなるだろうと考えたようだ。
午前には東向きだった潮の流れに乗り、当初は平家軍が有利に戦いを進めたが、14時頃に潮流が西向きに変わると、平家軍は後退して行った。
だが関門海峡の九州側は、すでに源範頼軍が占領していた。平家軍が海峡の最狭部にさしかかると、水上からは義経軍の、陸上からは範頼軍の一斉射撃を受けた。平家軍は総崩れとなり、やがて女たちが次々と海へと身を投じ始めた。安徳天皇も平時子に抱かれ、海の藻屑と消えた。
本来の古戦場は、今日「壇ノ浦古戦場」の石碑がある地点ではなく、もっと東である。石碑のある地点は「平家終焉の地」であり、安徳天皇入水の地そのものである。
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 景観:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
クチコミ投稿日:2015/07/12
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