大内氏の繁栄を偲ぶ
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- 旅行時期:2014/10(約11年前)
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by bluejaysさん(男性)
山口市 クチコミ:8件
大内氏は、弘世の代に周防・長門・石見の守護職となり、山口を本拠地として館を築いたのが大内館の始まりといわれている。
大内政弘は、応仁の乱で西軍の総大将を務めるほどであったが、都での戦いに明け暮れ、山口を留守にする間に山陰の尼子氏が勢力を拡大し、やがて中国地方は大内と尼子の二大勢力の角逐となる。
政弘は、応仁の乱で都から避難した多くの文化人を受け容れ、山口は西の京と言われる隆盛を誇った。政弘の子義興の代に最盛期を迎えたが、その子義隆は1542年、尼子氏との戦いに大敗し、以後政務を省みなくなった。
義隆はその後学問・芸術にのめりこみ、フランシスコ・ザビエルにも布教の許可を与えた。このような義隆の姿勢は、武断派の陶晴賢の反発を招き、晴賢は1551年ついに挙兵する。山口を追われた義隆は、豊後の大友氏のもとに逃れようとしたが、悪天候のためかなわず、長門の大寧寺で自刃し、大内氏は事実上滅亡した。
その後陶晴賢は、大友家から養子にとった大内義長を当主としたが、毛利元就に滅ぼされた。元就が1556年に山口に侵攻すると、義長は山口を放棄して逃亡した。毛利隆元は翌年、大内館の跡地に義隆の菩提寺として、龍福寺を建立した。
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 5.0
クチコミ投稿日:2015/07/19
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