bluejaysさんのクチコミ(12ページ)全1,027件
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投稿日 2015年08月02日
総合評価:3.0
薩摩藩による討幕の伏線となった、宝暦治水事件で犠牲になった藩士を弔うため1920年に建立された。
宝暦3年(1753年)、幕府は薩摩藩に木曽川・揖斐川・長良川の改修工事を命じたが、伊勢湾付近では多くの本支流が交錯し、大変な難工事であったうえ、幕府は大工の雇用を許さなかった。1000人を動員し工費40万両を費やした工事は、過労や疫病で死者80余名を出し、また幕府に抗議して自刃する者もいた。治水総奉行平田靱負も、工事終了後に自刃。
彼らの事跡は江戸時代には公にされず、碑が建てられたのは1920年のことである。木曽川・揖斐川・長良川の水を汲んだペットボトルが、今も供えられている。- 旅行時期
- 2013年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2015年07月31日
総合評価:5.0
官職を辞して帰郷した西郷隆盛は1874年、旧鹿児島城内に陸軍士官養成のための「幼年学校」「銃隊学校」「砲隊学校」の三校を設立した。幼年学校は、明治維新に功績があった者に与えられた賞典禄によって設立されたことから、「賞典学校」と呼ばれた。西郷隆盛が二千石、鹿児島県令大山綱良が八百石、桐野利秋が二百石を拠出し、また参議大久保利通も千八百石を拠出した。残る二校の費用は「私学校」という名前とは裏腹に、県の予算より支出された。また鹿児島県内各地に分校が設置された。
教務は主に漢文と軍事教練だった。設立の真の目的は、不平士族の暴発を防ぐことだったという。そのため入学できるのは士族、それも元城下士出身者に限られた。
1877年、大久保利通・川路利良らが陰謀を企てたとして、激高した同校生徒が鹿児島鎮台の弾薬庫を襲撃し、これが西南戦争のきっかけとなった。同校は同戦争後に廃止され、現在は門と壁のみが残っている。壁には無数の弾痕が残っている。
現在は鹿児島医療センター。- 旅行時期
- 2013年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年07月31日
総合評価:4.0
1836年、鹿児島城下で高橋八郎の第三子として生まれ、後に村田十蔵の養子となった。初めの名は経麿、のちに経満。
村田は年少のころから西郷隆盛に兄事した。だが真木保臣・有馬新七らの京都挙兵を煽動したと疑われ、西郷は沖永良部島、村田は喜界島へ流罪となった。
1871年、岩倉使節団の一員として欧米を視察し、帰国後に西郷が下野したと聞くと、辞職して鹿児島へ帰った。村田さえいればと考えていた大久保利通は、村田の帰郷を聞いて茫然としたという。村田は桐野利秋・篠原国幹らと私学校を創立して、砲隊学校・章典学校の監督となった。
城山の戦いで自刃した。- 旅行時期
- 2013年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2015年07月31日
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投稿日 2015年07月31日
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投稿日 2015年07月31日
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投稿日 2015年07月31日
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投稿日 2015年07月31日
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投稿日 2015年07月31日
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投稿日 2015年07月31日
総合評価:5.0
城山は、南北朝時代には上山城という上山氏の居城だったが、後に島津氏のものとなり、島津氏は城山の東麓に屋形を築いて居城することになる。
鹿児島城は1601年、島津忠恒(家久)が城山の麓に築いた。彼の実父義弘は、海岸に近いこの地での築城に反対していたが、薩英戦争の時にイギリス軍艦から奥御殿に砲弾を打ち込まれている。
1874年に焼失したのちは、再建されることはなかった。現在は本丸跡に鹿児島県歴史資料センター黎明館、二の丸跡には鹿児島県立図書館、鹿児島市立美術館、鹿児島県立博物館などが建てられている。- 旅行時期
- 2013年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 2.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年07月31日
総合評価:4.5
島津斉彬は富国強兵政策を推進するため、
島津斉彬は1851年薩摩藩主に就任すると、富国強兵政策を推進するため「集成館事業」に取りかかった。集成館はその中核となった工場群の総称で、反射炉・熔鉱炉・蒸気機関の研究所・ガラス工場などがあった。
集成館は薩英戦争で焼失したが、島津久光・忠義親子によって1865年、集成館(現在の尚古集成館本館)が復興された。1877年の西南戦争では多くの工場が焼失し、その後は民間に払い下げられたが振るわず、1915年に廃止された。
1923年、島津家の歴史資料館「尚古集成館」として開館。1959年に国の史跡に、1962年に建物が重要文化財に指定された。- 旅行時期
- 2013年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- コストパフォーマンス:
- 3.0
- 展示内容:
- 4.5
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投稿日 2015年07月31日
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投稿日 2015年07月31日
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投稿日 2015年07月31日
総合評価:5.0
西郷隆盛は1828年、鹿児島城下の下加治屋町で西郷吉兵衛隆盛の長男として生まれる。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変えた。号は南洲。諱の「隆盛」は父と同名だが、元服時には「隆永」だったのを、位階を授けられる際に吉井友実が誤って父の名で届け出たため、それ以降「隆盛」と称した。一時西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門、大島吉之助などの変名も名乗っっている。
西郷従道は1843年、この地で生まれた。幼名は竜助、出家して竜庵と号し、1861年に還俗して名を隆興、通称を信吾(慎吾)と称する。精忠組に入り尊王攘夷運動に奔走した。
維新後は文部卿・陸軍卿・農商務卿・元老・海軍大臣・内務大臣・貴族院議員を歴任した。- 旅行時期
- 2013年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 2.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年07月31日
総合評価:4.5
大久保利通は幼少期に下加治屋町に移住し、下加治屋町の郷中や藩校造士館で西郷隆盛・税所篤・吉井友実・海江田信義らとともに学んだ。
なお石碑に「誕生之地」とあるのは誤り。隣には、次男で内大臣などを務め、二・二六事件で標的にされた牧野伸顕の誕生地を示す小さな碑がある。- 旅行時期
- 2013年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 4.5
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投稿日 2015年07月31日
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投稿日 2015年07月31日
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投稿日 2015年07月31日
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投稿日 2015年07月31日
総合評価:5.0
1852年、鹿児島の加冶屋町に生まれる。神主が与えた「ごんのひょうえ」の通称を好んで使用したが、本称は「ごんべえ」だという。
薩英戦争には年齢を偽って従軍し、戊辰戦争でも戦った。その後勝海舟に弟子入りし、その影響を受けて海軍の道を歩むこととなる。
日清戦争では海軍省軍務局長として働き、第2次山縣内閣の海軍大臣に就任。連合艦隊司令長官に東郷平八郎を推挙する際、明治天皇に「東郷は運の良い男でありますので」と奏上した話は有名である。
1913年には首相に就任。軍部大臣現役武官制の廃止を実現したが、シーメンス事件の責任をとり1914年総辞職。1923年には再度首相に指名されるが、摂政宮(後の昭和天皇)が狙撃された虎ノ門事件の責任を取り、1924年総辞職した。- 旅行時期
- 2013年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年07月31日
総合評価:5.0
1848年、鹿児島の加冶屋町に生まれる。薩摩藩士として薩英戦争に従軍し、戊辰戦争では新潟・函館に転戦して阿波沖海戦や箱館戦争、宮古湾海戦で戦う。
日清戦争では「浪速」艦長を務め、豊島沖海戦、黄海海戦、威海衛海戦で活躍した。
日露開戦前に山本権兵衛によって連合艦隊司令長官に任命される。日露戦争では連合艦隊を率いて、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破り、世界の注目を集めた。日本の同盟国イギリスは東郷を「東洋のネルソン」と称え、ロシアと敵対していたトルコでは子供に「トーゴー」と命名するのが流行し、道路が「トーゴー通り」に改称された。
退役後も東郷の権威は絶大で、軍令・軍政上の大事は東郷にお伺いを立てることが慣例化し、また東郷の権威を利用する者も現れた。海軍省内では伏見宮博恭王軍令部総長とともに「殿下と神様」と呼ばれ、井上成美は「人間を神様にしてはいけない、神様は批判できないから」と語った。乃木希典の死後乃木神社が建立されたため、己も死後に神格化されることを危惧したが、東京都渋谷区と福岡県福津市に東郷神社が建立され、神として祭られた。- 旅行時期
- 2013年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 5.0























