戦後最初に建立された慰霊塔は?沖縄之塔?と言っても過言ではないでしょう。
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- 旅行時期:2016/06(約8年前)
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by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)
糸満・ひめゆり クチコミ:203件
米須霊域中心部にある魂魄之塔は、昭和21(1946)年2月27日当時の真和志村村長である金城和信氏を中心とした真和志村民の手によって建立された沖縄戦に於ける?最初の慰霊塔?です。戦争の終結により九死に一生を得た真和志村民は、米軍の命令によって真和志村の収容所に集められた後、食料確保の農作業を行うためここ米須原に集結します。
付近一帯は沖縄戦末期の激戦が繰り広げられた場所であり、皮膚や髪の毛が付着したままのご遺骨が散乱している状況でした。そのため遺骨収集を米軍に要請するも反米主義や皇民化主義に繋がることを危惧され、当初は許可がありませんでした。しかし土を掘っては遺骨が出てくる状況では農作業は一向に進まず、結果米軍も遺骨収集を認めざるを得なくなります。
金城村長自身ふたりの愛娘が戦死しており、今は敵も味方もないという信念から日米軍民問わず2万余柱の遺骨を集めて納骨堂に収め、墨書で?魂魄?と書かれたものにはじまります。その後収容した遺骨は合計35,000余柱にものぼり、沖縄で最初で且つ最大の鎮魂碑となりました。昭和54年2月に国立沖縄戦没者墓苑が完成し、遺骨の多くはそちらに移され、分骨という形で魂魄之塔に残されています。
沖縄県には46都道府県の慰霊塔が建立されましたが、地元沖縄之塔はありません。戦後間もない物資のない時期に米軍から払い下げられたセメント等を用いて建立された魂魄之塔は、大理石や巨石を用いて建立された都道府県別慰霊碑と比較すると、一見するとかなり見劣りがするのは確かです。しかし食料増産のために集められたこの米須霊域の地で沖縄県民の手により集められた遺骨を納めるべく作られた魂魄之塔が、戦後70余年経った現在でも県民の心の拠り所になっている事実は間違いないことでしょう。
沖縄之塔が作られなかった一番の理由は、沖縄県のほとんどが戦場となり、多くの犠牲者を出しているため?場所が絞れなかった?という説もあります。集落や市町村単位で建立された慰霊塔の中心的存在というのが魂魄之塔の意味合いであり、慰霊の日や晴明祭等の故人を偲ぶときには多くの参拝者が訪れることからも想像がつきます。
都道府県別慰霊塔がセンスがないと岡本太郎氏は断言しました。そこまでは思わなくても、決して?見せる?目的で作られてはおらず、とにかく雨ざらしになっていたたくさんの遺骨に対し?慰霊の場所?として作られた魂魄之塔には、訪れる度に違う印象付けをしてくれる。新しいものにはまず見られない、そんな魅力をいつも感じます。
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- ひめゆりの塔から車で5分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- パラパラとはいらっしゃいました。
- バリアフリー:
- 5.0
- 献花は可能です。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 素朴ながら力強いもののように見えます。
クチコミ投稿日:2016/07/14
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