サイパンに職を求めて亡くなられた沖縄県民を祀っています。
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- 旅行時期:2016/06(約10年前)
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by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)
那覇 クチコミ:66件
第一次世界大戦後日本の委託統治下にあったサイパンには、多くの人々がサトウキビ栽培や製糖業などに従事するため海を渡りました。そして昭和16(1941)年の太平洋戦争勃発。サイパン・テニアン・マリアナ諸島は日本軍の?絶対的国防圏?の要所とされていたものの、昭和19(1944)年7月にはサイパン守備隊が玉砕し、住民を含めた残りの兵士たちは?万歳突撃?を敢行しさらに犠牲者を増やすことになりました。
一方スーサードクリフやバンザイクリフといった海岸から、飛び降りる自決を選ぶものも多く、1ヶ月の戦いの中で民間人の戦死者は10,000人にも達しました。移民としてサイパンに渡った方々も戦闘に巻き込まれ、砲撃から逃げ惑う中での戦死や自決を遂げた者も多かったことに繋がります。
サイパン移民の多くは沖縄からだったとされています。その移民の歴史の中で開拓を始めた黎明期に始まり、戦場となり軍人・軍属として戦い玉砕したまでの期間に於ける沖縄県民の戦没者12,826名を祀るために昭和38年(1963)年12月に識名霊園に建立された?南洋群島沖縄県人戦没者並開拓殉難者慰霊碑?となります。同じように沖縄を出てサイパンへと向かい、戦闘に巻き込まれて九死に一生を得た生存して帰還した方々の浄財によって建立されました。
戦後の南米も含め、沖縄県民の移民には多くの方が参加され、そのまま帰国することもなかった事実があります。理由は様々ありますが、やはり大きな理由は?しなければならない?背景だったことが挙げられます。それを煽ることも問題ですが、やはり全体的な貧困問題があったことも事実です。
沖縄県民の南洋群島沖縄県人戦没者並開拓殉難者慰霊碑というと、戦没者慰霊碑とはまた趣旨が異なり、沖縄戦に於ける慰霊碑ともまた異なるもののように思えます。しかし生還された方がいるにしても、第二次世界大戦開戦時には60,000人もの沖縄出身者がいたことは事実です。
一般的な慰霊碑とは異なり、普段は施錠されているこの?南洋群島沖縄県人戦没者並開拓殉難者慰霊碑?。複雑な沖縄の背景を垣間見るとともに、今さかんに言われる沖縄を取り巻く環境に繋がっているのではと思いつつ、手を合わせるしかできなかった私でした。
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
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- 識名霊園管理事務所近く。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 慰霊の日の準備がされていました。
- バリアフリー:
- 5.0
- 砂地ですが段差はありません。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 沖縄戦とは違う戦争を垣間見ることができました。
クチコミ投稿日:2016/07/20
いいね!:9票
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