はまちゃんさんのクチコミ(118ページ)全8,702件
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投稿日 2016年06月07日
総合評価:3.5
首里城から南に歩いて15分ほどのところにある“崎山公園”の一角に「崎山樋川」があります。
現地にある説明板によると『王府時代、年中行事のおりには、崎山御嶽とともに、高級女神官であった首里大阿母志良礼(シュリノオオアムムシラレ)の参詣がありました。また、良い方角(恵方)が巳(南南東)に当たる年には、元旦に王様に献上する若水(元旦に初めて汲む水)が汲まれました。』とあります。添付写真を参照ください。
沖縄では、岩盤の奥の水脈から樋(とい)で水を引いてきたものを、「樋川(ヒージャー)」といいます。昔は、水が豊富に流れ近隣の酒製作所の源となっていたそうですが、岩盤の奥を覗いて見ると水は少し溜まっているが、樋からは水は流れ出ていませんでした。この場所は、小高い丘になっているのに水が湧き出ていることが不思議に思いました。
近くには雨乞御嶽や御茶屋御殿石獅子などの史跡もあるので合わせて観て回ればよいでしょう。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2016年06月07日
総合評価:4.0
首里城から南に歩いて15分ほどのところにある“崎山公園”の一角に「雨乞御嶽」があります。
御嶽の説明板によると『雨乞いのおこなわれた御嶽(ウタキ)は沖縄各地にありますが、ここは俗にアマグイヌウタキと呼ばれ、干ばつの打ち続くときに、王様が親(みずか)ら家臣たちを率いて、この御嶽で雨乞いの祈願をされました。 マーニ(クロツグ)の生えた小さな丘を、低い石垣で丸く囲んで聖域とし、石敷きの壇に香炉が設けられていました。
また、ここから南西方向への眺望の広がりはみごとで、首里八景の一つとして「雩壇春晴」(うだんしゅんせい) 「春雨の合間に雨乞いの丘からの眺望が素晴らしい」とうたわれています。』とあります。添付写真を参照ください。
御嶽がある場所と言えば、木が生い茂り、ちょっと薄暗い神秘的なオーラを感じるところが多いですが、こちらは、空に向かって雨乞いをするためか、高台にあって明るく開放的な所でした。
説明板にもある様に、ここからの南西方向への眺望は見事な広がりをみせており、那覇の街や遠くは東シナ海まで見渡すことができました。
近くには崎山御嶽や御茶屋御殿石獅子などの史跡もあるので合わせて観て回ればよいでしょう。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2016年06月07日
総合評価:4.0
府道1号線のバス停「忍頂寺小学校前」から、間道(浄福寺の前の道)を300m程登ってくると、「忍頂寺」の西門に到ります。府道1号線のバス停「寿命院前」から100m程登って行くと山門に到るようですが、途中、石段があるようなので、車で行くには「忍頂寺小学校前」から入った方が良いと思います。
現地にある由緒書きには『およそ千百年の昔、貞観年中に三澄が国家の安寧を祈願するために立てた寺院で寺号は、清和天皇から賜ったものという。織田信長の保護を受けたが、高山右近が切支丹宗伝播のため寺院を焼いて寺領を没収した。現在はその寺院の一坊であった寿命院がのこっている。』と記載されています。詳細については由緒書きの写真を添付しますので参照ください。
訪れたときには、境内が工事中で本堂や鐘楼、観音堂などの建物をゆっくり拝観することができませんでしたが、それでも歴史と風格を感じることができました。本堂裏には、大阪府指定有形文化財に指定されている、元亨元年(1321年)建立の“五輪塔”があるので、是非、ご覧になられることをオススメします。- 旅行時期
- 2016年06月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2016年06月07日
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投稿日 2016年06月06日
総合評価:3.5
高槻市立樫田小学校の北側、府道733号線沿いに“桂香寺”の標識があり、その横から細い間道を上がると「桂香寺」の石標があり、石標横の石段を上ると境内に至ります。
現地にあった由緒書きによると、『桂香寺は、久昌山と号して臨済宗妙心寺派に属し、釈迦牟尼仏を本尊とする。慶長6年(1601年)創建された。万延元年(1860年)火災に遭い、その直後再建されたが、昭和45年に全面改築され現在に至る』とあります。詳細は由緒書きの写真を添付しますので参照ください。
お寺は立派な石垣の上、少し高台にあって、立派な石塔や灯篭が並ぶきれいに整備された境内から、集落を見渡すことができます。- 旅行時期
- 2016年06月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2016年06月06日
総合評価:4.0
718年創建と言う歴史ある天台宗のお寺さんです。小塩山の中腹にあり、アクセスが悪く、一番近いバス停(阪急バス・灰方)から歩いて50分ほどかかります。私は車(無料駐車場有)で行きましたが、府道733号線の一部と、お寺への参道(車道)は、車が離合できないほど狭いので車で行かれる方は注意が必要です。
現地にある説明板によると、応仁の乱により建物は焼失したそうで、現在の建物は大部分が江戸時代に再建されたものとか。山の中腹にある分、境内からの京都方面の眺めはたいへんよかったです。参道や境内にはモミジの木が多く、紅葉時期は大変綺麗だろうと思いました。- 旅行時期
- 2016年06月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 2.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2016年06月06日
総合評価:3.5
首里崎山町の城南小学校の北西すぐのところ、小さな公園の入り口に「御茶屋御殿石獅子」があります。
現地の説明板によると、この石獅子は1677年に作られ、王府の別邸・御茶屋御殿(現・首里カトリック教会)に置かれたとのこと。その場所に崖崩れの恐れが生じたため、現在はこの場所に移されたとか。
石獅子像は、愛嬌のある顔をした高さ1.5mほどもある堂々としたもので、一部、色彩が残っています。 沖縄戦で猛爆を受けた首里にあってよくぞ無事に残ったものだと思い、300年以上も前に造られたものを目にできるのはありがたいと思いました。
すぐ近くに、は雨乞御嶽や儀間真常の墓などの史跡があるので合わせて観て回ればよいでしょう。- 旅行時期
- 2016年04月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2016年06月06日
総合評価:3.0
ゆいレールの首里駅より歩いて5分ほど、“赤田クラブ”という施設の入り口右側に、「首里殿内跡」の説明板があります。
琉球王国時代の高級女神官の一人「首里大阿母志良礼(シュイウフアムシラレ)」の神殿及び住居跡です。
説明板には、『首里大阿母志良礼は、最高女神官「聞得大君(きこえおおきみ)」の下におかれた三人の高級女神官の一人で、聞得大君を補佐して国王の長寿・国の繁栄・五穀豊穣・航海安全を祈願するほか、王国祭祀で重要な地域の御嶽や神女(しんじょ)(ノロ)を管轄した神官。』と言う意味のことが記載されています。詳細は、説明板の写真を添付しますので参照ください。
明治期に神殿は移設され、現在その跡地には赤田クラブという公民館が建っているだけで、遺構はなにも残っておらず、観るものはありませんが、説明板を見てたった3人の女神官が琉球全体にわたって重要な役割を果たしていたことに驚きました。
この辺りには、古都首里の遺跡がたくさんあります。私は、首里城公園管理センターで頂いた“首里城首里巡り”という絵図マップを参考に散策しました。首里の歴史に興味ある方は、首里城を訪れたら、絵図マップを入手して散策されると良いと思います。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2016年06月05日
総合評価:3.0
県道82号線の“赤田”交差点付近を大角座(ウフカクジャー)と言います。
沖縄の方言で「ウフ」は多いとか大きいという意味があり、また、「アゴ」のことを「カクジ」と言うそうで、何本もの道路が交差し角張った動物のあごの形に似ていることから大きな顎(ウフカクジャー)」と名付けられ、その当て字として「大角座(ウフカクザ)」となったとか。現在は6本の道路が交差し、交通量の多い要所となっています。現地には「大角座」と書かれた説明用の標石があるのみで、観光するような遺構はなにも残っていません。詳細については、標石の写真を添付しますので参照ください。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2016年06月05日
総合評価:3.5
ゆいレールの儀保駅より歩いて5分ほどのところにあります。
「虎瀬山(トゥラジヤマ)」は、標高130mの琉球石灰岩でできた丘陵で、琉球王国時代に王家の別邸(虎瀬ヌ御殿)が建てられていたそうです。山の名前の由来は、首里城から見ると頂上の岩石が虎の頭に見えたからだそうですが、現在の山頂にはそれらしき岩は見あたりません。
廃藩置県後「虎瀬ヌ御殿」は壊され、沖縄戦で虎瀬山の松林も消失し、現在その跡地は虎瀬(トラセ)公園として整備されています。
公園の西側の登り口には、小さな子供向けの遊具広場があり、坂道を登っていくと山頂部は広く、休憩所のほかにトイレや水飲み場も整備されていて、小さな拝所のようなものがあります。山頂部からは、首里城や遠く那覇港の方まで見渡すことができます。
駐車場はありませんが、訪れる人も少なく、のんびりと散策するのにいいところです。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2016年06月04日
総合評価:3.0
「亀川盛武生家跡」は、モノレール儀保駅より北へ歩いて3分ほどのところにあります。
生家跡には説明板があり、亀川盛武の肖像画とともに、次のような説明があります。
【説明板に記載されている文章】
琉球処分期の三司官、処分反対の指導者であった亀川盛武の生家跡。
亀川家は、毛氏豊見城殿内(もううじとみぐすくドゥンチ)の分家で、与那城間切(よなぐすくまぎり)の総地頭家(そうじとうけ)である。
1871年に維新慶賀使が上京。尚泰(しょうたい)を琉球藩王とする旨の命を受けて帰国したが、それが琉球処分への布石となったことから、亀川らは慶賀使の伊江王子朝直、宜湾親方朝保らを激しく糾弾、三司官の宜湾を辞職に追い込んだ。
1875年に、明治政府の処分官松田道之が来島。処分へ向けた諸策が次々に打ち出される中、亀川は反日派(頑固党)のリーダーとして、士族層の抵抗運動を指導した。処分の後も脱清(脱琉渡清(だつりゅうとしん))派を支援して、県政への非協力を画策するなど、抵抗の姿勢を崩さなかった。
琉球王国の崩壊という抗しがたい現実に、それでもなお抵抗せんとした亀川は、時代を象徴する人物の一人だったといえる。
現地は、民家の前に説明板があるだけで、生家の遺構らしきものは残っていません。説明板の後ろにある民家との関わりも判りませんでした。1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)については、ほとんど知識がありませんでしたが、この説明板を見て勉強してみたいと思いました。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2016年06月04日
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投稿日 2016年06月04日
総合評価:3.5
ゆいレールの儀保駅から歩いて5分足らず、儀保通り(県道28号)沿いの一角にあります。
琉球王国最後の国王尚泰の四男、松山王子尚順が住居としていた、約5000坪を占める邸宅跡です。尚順は事業家や政治家としても活躍、広大な屋敷内に桃原農園を設立し、熱帯果樹や香辛料、観葉植物の栽培を行った人で、残念ながら御殿は沖縄戦で消失してしまったとか。
広大な敷地内は、ガジュマルなどの木々が繁茂し、どんな干ばつのときでも水を絶やさないと言われ、昔は貴重な水源だった佐司笠樋川(共同井戸・泉井)があります。佐司笠樋川は琉球石灰岩を積み上げて形作った綺麗な形をしていて、周りの樹木ともマッチしてとても良い感じです。現在は水源としては使われていないようですが、現在でも、井戸拝み(カーおがみ)に訪れる人がたえないそうです。自由に入って観ることができますので、近くに行かれたら、是非、ご覧になられることをオススメします。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2016年06月03日
総合評価:3.0
県道82号線の“儀保”の信号から南に歩いて3分ほどのところにあります。
羽地朝秀は琉球王国時代、首里王府の最高ポストである摂政に就任し、行政機構の改革や農村支配の見直し、王府祭祀の合理化など、政治・経済・社会全般にわたって活躍するとともに、王国の正史『中山世鑑』を編集した政治家。詳細については、現地にあった石碑の説明板の写真を添付しますので参照ください。
生家跡は、住宅に挟まれた小さな空き地になっていて、説明用の石碑があるだけで遺構は何も残っていません。
この辺りには、松山御殿跡、安谷川御嶽、佐司笠樋川、宝口樋川など古都首里の遺跡がたくさんあります。私は、首里城公園管理センターで頂いた“首里城首里巡り”という絵図マップを参考に散策しました。首里の歴史に興味ある方は、首里城を訪れたら、絵図マップを入手して散策されると良いと思います。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2016年06月03日
総合評価:3.5
那覇市立松城中学校の南すぐのところに「繁多川」があります。繁多川(ハンタガー)は、昔から使われてきた湧き水を利用した井泉(共同井戸)で、住宅に囲まれた窪地に琉球石灰岩で造られた井泉があって今も水が湧き出ています。水が飲めるのかどうか判りませんでしたが、この井泉は字指定の文化財になっており、しっかりと管理・保存されている印象を受けました。
現地にある説明板によると、ハンタガーとは、もともと、端(ハンタ)にある井泉を意味したとされ、この呼び名に「繁多川」の字が当てられ地域の名称になったとか。詳細は、説明板の写真を添付しますので参照ください。
周辺には、ウフカー(大川)やボージガー(坊主川)などの泉井があります。古い集落にはこのようなカー(井泉・共同井戸)があることが多いので、集落を歩きながら泉井の場所を探すことも楽しいことです。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2016年06月03日
総合評価:3.5
世界遺産のひとつ、“玉陵”のすぐ近く、寒川通り(県道50号線)に面する“琉染”と言う染物屋さんの向かい側の道路沿いに「美連嶽」の説明板が建っています。
御嶽(うたき)は、琉球の信仰における祭祀などを行う施設で、現地の説明板によると、『昭和戦前期まで境内は広さ約250坪ほどのおだやかな起伏のある小丘で、一面芝生が広がり、高さ5m程の奇岩が直立する奇岩と芝生の調和する美しい庭園のようにも見えました。』とありますが、現在、その境内には、民家が建ち、民家の間に御嶽の岩がせまくるしく残されているだけで昔の面影は残っていません。しかし、御嶽の祭壇には香炉があり、今も拝所として守られているようです。
説明板に表記されている図面を見ると、この周辺には、“大美御殿”や、“中山門”“玉陵”、“御客屋”などの施設の表記があり、このあたり一帯は王府関連の建造物が建ち並んでいたことが想像できます。現在は、残念ながら玉陵以外その遺構は何も残っていませんが古都首里を思いながら周辺を散策しました。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2016年06月02日
総合評価:3.0
首里高校の前、寒川通り(県道50号線)沿いに「大美御殿跡」の石標が建っています。
石標には、古地図とともに、『もとは尚清(しょうせい)王の世子(せいし)時代の別邸。
1547年に増築し、首里城内の女性の休養・産所、また冠婚葬祭などの礼式を行う場所となった。
1853年5月に来琉したアメリカのペリー提督一行が6月に首里城を訪問した際、大美御殿を摂政邸と称して、宴会が催された。1879年の廃藩置県後、建物の一部に首里役所が置かれたが、明治後期に敷地・建物ともに払い下げられ、1925年に県立第一中学校の運動場となった。沖縄戦後は、首里高校の校地として引き継がれている。』と表記されています。
石標に表示されている古地図を見ると、首里城の第一の坊門であった中山門から、第二の坊門であった守礼門までの間の道が示されていて、その周辺には、“大美御殿”や、“中城御殿”、“玉陵”、“御客屋”などの施設の表記があり、このあたり一帯は王府関連の建造物が建ち並んでいたことが想像できます。現在は、残念ながら玉陵を除いてその遺構は何も残っていませんが古都首里を思いながら周辺を散策しました。
この辺りには、古都首里の遺跡がたくさんあります。私は、首里城公園管理センターで頂いた“首里城首里巡り”という絵図マップを参考に散策しました。首里の歴史に興味ある方は、首里城を訪れたら、絵図マップを入手して散策されると良いと思います。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2016年06月02日
総合評価:3.5
「官松嶺跡」は、県道29号線「沖縄都ホテル前」バス停近くにあり、「官松嶺記」の碑と説明用の石標が建っています。
石標の説明によると、『官松嶺は、かつては眺望の良い小高い景勝地で、1497年に尚真王がこの丘に数千株の松の苗を植えさせて、頂上に「官松嶺記」の碑を建立した。以来、この丘を官松嶺と称した。官松嶺一帯は、1914年首里・那覇間の電車軌道の敷設などによって、昭和初期には名前の由来となった松の木々はすでになく、沖縄戦の後には、官松嶺の頂上付近が削られて民家やホテルが建設された。沖縄戦で破壊された「官松嶺記」の碑は、上半分が沖縄県立博物館・美術館に保存されている。』と記載されています。詳細については、添付写真を参照ください。
石標にある古い写真には、木々が茂る小高い丘の上に碑が建っているのがよく判り、現在の様子と全く異なっていることがよく判ります。現在は、「官松嶺記」の復元碑が建っているだけで、面影はなにも残っておりませんが、石標の説明文や古い写真を見て、歴史を感じることができました。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2016年06月02日
総合評価:3.0
寒川通り(県道50号線)にある安国寺の西側、道路沿いに「御客屋跡」の石標が建っています。
石標には、古い御客屋の絵図とともに、『薩摩(さつま)藩の在番奉行(ざいばんぶぎょう)などが首里城に登城(とうじょう)する際の控所。創建年代は不詳。敷地は451坪余あったという。在番奉行一行等は、ここで城からの案内を待って登城した。1879年の廃藩置県後は首里警察署が置かれた。1890年に首里尋常小学校となり、校舎が建てられたが、1912年首里城内に首里尋常高等小学校として移転したため、後に民間の電気会社に払い下げられた。』と表記されています。
石標に表示されている絵図を見ると、首里城の第一の坊門であった“中山門”や“安国寺”などの表記があり、この道は首里城に至る随一の公道で、王府関連の建造物が建ち並んでいたことが想像できます。現在は、残念ながらその遺構は何も残っていませんが古都首里を思いながら周辺を散策しました。
この辺りには、古都首里の遺跡がたくさんあります。私は、首里城公園管理センターで頂いた“首里城首里巡り”という絵図マップを参考に散策しました。首里の歴史に興味ある方は、首里城を訪れたら、絵図マップを入手して散策されると良いと思います。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0






































































