荒木村重台頭す
- 4.0
- 旅行時期:2014/05(約12年前)
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by bluejaysさん(男性)
茨木・摂津 クチコミ:2件
織田信長は池田勝正・和田惟政・伊丹親興の「摂津三守護」に摂津支配を認めたが、伊丹親興は足利義昭に従い信長に反旗を翻したため、荒木村重に討たれた。池田勝正は池田知正と荒木村重に追放された。その後の情勢は、和田惟政・茨木重朝連合と荒木村重・中川清秀連合の対立へと変化し、1571年ついに西国街道上の白井河原を挟んで両軍が対峙することとなった。
和田・茨木連合軍は500騎で、高山友照・右近軍はまだ到着しておらず、荒木・中川連合軍の2500騎に遠く及ばなかった。和田・茨木連合軍は、「主人である茨木重朝・和田惟政は両名とも将軍に呼び出され京に滞在しており、大将が帰還してから戦端を開きたい」と申し出たが、時間稼ぎだと見破られ、荒木・中川連合軍の猛攻を受けた。和田惟政は「多勢に無勢、これでは勝目は無い。大将は強いだけが能ではなく、可をみて進み、不可を見て退き、無事をもって利をはかるべき」と進言されたが、聞き入れずわずか200騎を引き連れて突撃した。このとき村重が「和田惟政の首を取った者には呉羽台を与える」と約束すると、中川清秀がこれを討ち取った。
中川勢と和田勢が激突している最中、茨木勢は手薄となった荒木本陣に突進して来たが、山陰に隠れていた伏兵2000が茨木勢を包囲し、茨木重朝も戦死する。大将を失った和田・茨木連合軍の兵士たちは「主を討たれてどうして生き残れようか」と言い、玉砕覚悟で討って出てほぼ全滅した。「陰徳太平記」はこの時の様子を「白井河原は名のみにして、唐紅の流となる」と記している。
勢いに乗る荒木・中川連合軍は、茨木城をも攻め落とした。高山勢は遅参したおかげで戦力を温存できたが、和田惟政の子惟長に疑いの目を向けられ、成敗されそうになる。村重から「和田家と戦うなら支援する」という確約を得た高山親子は、逆に惟長を殺して高槻城をのっとり、以後村重の配下となる。
白井河原の戦いを境に摂津三守護は衰え、摂津は荒木村重とその配下の中川清秀・高山右近の支配するところとなる。
- 施設の満足度
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4.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 茨木駅からバス「中河原」下車。
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 4.0
クチコミ投稿日:2015/06/26
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