bluejaysさんのクチコミ(23ページ)全1,027件
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投稿日 2015年06月17日
総合評価:3.5
織田信孝は、信長の次男信雄より数日先に生まれたが、母の身分が低いため三男にされたと言われる。だが信孝は外見・気性が信長に似ており、同い年で愚鈍な兄信雄強い対抗意識を抱いた。
1568年、信長が伊勢を平定すると、信孝は神戸具盛の養子となり、具盛隠居後は神戸氏の当主となり神戸信孝と称した。
本能寺の変のときは堺にいたが、わずかの手勢しかなかったため独自の行動をとることができず、羽柴秀吉軍に合流し、名目上の総大将として山崎の戦いで父の仇を討った。にもかかわらず、清洲会議では秀吉に巧妙に立ち回られてしまい、織田家の後継者は甥の三法師に決まる。信孝は三法師の後見役になり、岐阜城主となる。
だが信孝は約束を違え、三法師を岐阜城から出さなかったため、秀吉に戦う口実を与えてしまう。秀吉に城を囲まれると、母と娘と三法師を引き渡して和睦に応じた。1583年に柴田勝家が挙兵すると、信孝もそれに呼応して挙兵したが、勝家が自害すると後ろ盾を失い、秀吉に降伏した。
信雄は織田家を自分のものにするため、信孝を大御堂寺に送り切腹を申しつけた。その際、怒りのあまり臓物を投げつけたという言い伝えがあり、血痕らしきものがついた掛軸が隣の安養寺に残されているが、医学的見地からはそのようなことは不可能だとされている。- 旅行時期
- 2015年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2015年06月17日
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投稿日 2015年06月17日
総合評価:5.0
平治の乱に敗れた源義朝は、鎌田政清、平賀四郎義宣、渋谷金王丸、鷲栖玄光とともに、政清の舅長田忠致の屋敷へと落ち延びた。だが長田父子は落ちぶれた義朝一行を見て、いずれ平氏に討たれる運命なら、自分が手にかけて恩賞にあずかろうと考えた。
平治物語によると、義朝郎党には酒を勧め、義朝を湯屋へ案内した。金王丸は義朝の背を流していたが、浴衣が用意されてなかったため湯屋の外へ出た。この隙に長田家の郎党橘七五郎・弥七兵衛・濱田三郎の三人が湯屋に入り、裸の義朝に七五郎が組み付き、左右から弥七と濱田が脇下を突き刺したという。
なお長田屋敷跡と湯殿跡は、700メートルも離れている。- 旅行時期
- 2015年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年06月15日
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投稿日 2015年06月17日
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投稿日 2015年06月17日
総合評価:5.0
源義朝を暗殺した長田父子は、その首を都に持参し、恩賞として忠致は壱岐守に、景致は左衛門尉に任じられた。
後に源頼朝が幕府を開くと、長田父子は鎌倉に参上して前非を詫びた。頼朝は勲功をあげれば罪を許し、恩賞として美濃・尾張を与えると約束したため、長田父子は平氏追討に尽力した。だが平氏滅亡後、頼朝は約束通り「身の終わり」を賜うとして、長田父子を父義朝の墓前で磔にした。このときの辞世の句が「ながらへて命ばかりはいきのかみ身のをはりをば今ぞ賜る」。- 旅行時期
- 2015年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年06月15日
総合評価:5.0
駿河の今川氏に備えるため、織田信秀が1548年に築いた。彼は当初、城主に信長の弟信行をあてていたが、後に自ら古渡城から移り住み、1551年末森城で死去した。
信行は1556年、林秀貞・柴田勝家らとともに信長に叛旗を翻すが、稲生の戦いで敗れて和睦した。ところが翌年には再び謀反を企てたため、柴田勝家に密告され、信長に謀殺された。末森城はその後、城主不在のまま放置され、廃城となった
現在は、城山八幡宮となっている。二の丸跡には昭和塾堂が残っており、現在は愛知学院大学が使用している。- 旅行時期
- 2015年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年06月15日
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投稿日 2015年06月15日
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投稿日 2015年06月15日
総合評価:5.0
小笠原頼勝が、八幡山に横山城を築いたのが始まり。頼勝は後に塩見氏を名乗った。頼勝の子頼氏は、横山大膳と名乗った。
横山城は1579年、明智光秀によって落城し、頼氏の子塩見信房は自害した。光秀は城を近世城郭へと修築し、この地を福智山と改名した。和泉式部の歌「丹波なる吹風(ふくち)の山のもみじ葉は散らぬ先より散るかとぞおもう」に因んでいるという。
福知山城には光秀の従弟明智秀満が入ったが、彼は本能寺の変の後は安土城に入り、福知山城にはその父が城代を務めていた。1582年、豊臣秀吉は福知山城を落とすと、秀満の父を捕らえ処刑した。明智氏の福知山支配は、3年で終わった。
その後は秀吉の甥豊臣秀勝、北政所の叔父杉原家次、そして小野木重勝が城主となった。小野木重勝は関ヶ原の戦いで西軍に属し、東軍の細川幽斎が立て篭もる田辺城を攻めた。劣勢の幽斎はどうにか和議にこぎつけたが、関ヶ原で西軍が壊滅すると、細川忠興は福知山城を攻め、小野木重勝を切腹に追い込んだ。
その後は有馬豊氏が入部し、現在のような城郭と城下町を完成させた。1621年に岡部長盛、1624年に稲葉紀通が入部するが、紀通は1648年宮津藩の京極高広と争いを起こし、改易を命じられ自殺した。俗説では、紀通が宮津藩に鰤を注文したことからトラブルとなったと伝わる。1649年に松平忠房、1669年に朽木稙昌が入部し、明治まで続いた。福智山が福知山に改められたのは、1728年のことである。
安土城の石段に多くの石仏が使用されているのは広く知られているが、福知山城も今なお、石垣に宝篋印塔・五輪塔・石仏・笠塔婆などの転用石をおよそ500点用いているのが見てとれる。これは日本の城の中でも最多と考えられ、相当数の寺院や墓所を破壊して石材を調達したことがわかる。神仏を敬わない信長の性格を光秀が嫌悪したという俗説は、意味をなさない。- 旅行時期
- 2015年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年06月15日
総合評価:5.0
浜田彦蔵はこの地に生まれ、13歳のとき漁に出て遭難し、南鳥島でアメリカ船に救助され、アメリカで暮らした。当時は鎖国していたため、彦蔵は国に帰れないと思い、キリシタンの洗礼を受けて「ジョセフ彦」と名乗った。ところが日米和親条約が締結され、彦はハリス領事の通訳として日本に行くことになるが、キリシタンの自分が入国すると身の安全が保証されないため、アメリカ国籍に帰化した。それでも攘夷派の武士に狙われたため、いったんアメリカに戻るが、再び来日し、英字新聞を和訳した「海外新聞」を横浜中華街で発刊する。これは日本最初の新聞である。
アメリカ国籍の彼は青山の外人墓地に葬られたが、日本が国籍法を制定したのはその2年後のことだった。- 旅行時期
- 2015年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年06月14日
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投稿日 2015年06月14日
総合評価:5.0
大久保氏は下野の豪族宇都宮氏の支族で、南北朝時代に宇都宮泰藤が三河国上和田に移住し、忠茂の代に大久保氏を称した。
1563年の三河一向一揆の際は、屋敷を砦に改修して戦った。三河物語の著者で有名な大久保彦左衛門忠教も、この地で生まれている。- 旅行時期
- 2014年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年06月14日
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投稿日 2015年06月14日
総合評価:5.0
槇島城は1221年、長瀬左衛門によって築かれ、巨椋池に浮かぶ槇島にあった。
1499年に畠山義就と畠山政長が戦った宇治・槇島の合戦では、細川政元の攻撃を受けて落城。 その後は政元の居城となり、将軍足利義澄をしばしば招いている。
足利義昭は1573年、織田信長に対し兵を挙げ、幕府奉行衆であった真木島昭光を頼り槇島城へ入った。信長は即座に入洛、城を包囲して義昭を屈服させた(槇島城の戦い)。信長は「恩をもって恨みに報いる」と称して、羽柴秀吉の護衛で義昭を河内若江城へ退去させ、室町幕府はここに事実上滅んだ。
槇島城は義昭退去後、塙直政、井戸良弘らが城将となったが、伏見城築城後は戦略的価値を失い、廃城となった。- 旅行時期
- 2015年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- JR宇治駅から徒歩15分
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年06月14日
総合評価:3.0
この地は、光明皇后(藤原光明子、名は安宿)の生誕地だという伝承がある。この地で修行していた智海上人の小便を女鹿が舐め、光明皇后を産んだと伝えられる。藤原不比等がこの地を訪れたとき、彼女が働いている田が光輝くのを見て、養女にもらい受けたのだという。そのとき母鹿が別れを惜しんで見送ったのが女鹿坂だそうだ。
彼女は実際には藤原不比等と県犬養三千代の間に生まれ、美人なうえに信心深く、悲田院・施薬院を設置して自ら慈善を行った。聖武天皇と結婚し、皇族以外で初めて皇后となり、称徳天皇を産んだ。
浄福寺には「鹿の足跡のついた石」があるが、光明皇后を産んだ母鹿の足跡だとはどこにも書かれていない。- 旅行時期
- 2015年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 光明池駅または和泉中央駅からバス「国分峠」下車徒歩3分
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2015年06月14日
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投稿日 2015年06月14日
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投稿日 2015年06月14日
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投稿日 2015年06月14日























