norisaさんのクチコミ(38ページ)全875件
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- 基本情報
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投稿日 2013年11月20日
総合評価:4.0
センテンドレはブダペストの北19kmに位置し、11世紀に十二使徒のひとり、聖アンドリュー(ハンガリー語でセント・エンドレ)に捧げる教会が建てられたことに街の名前が由来しています。
14世紀と17世紀終わりトルコ軍の復讐を恐れ、逃げ延びてきたセルビア人によってかたち創られた街で、現在も街に点在する7つの教会のうち、4つがセルビア正教会のものです。
それだけオスマントルコの勢力拡大はすさまじかったようです。
今世紀初頭には、穏やかなドナウの流れとマッチ箱のような家が立ち並ぶ風景に、数多くの芸術家達が吸い寄せられてきました。
ですからセンテンドレの魅力は歴史の香りの中ののどかな雰囲気ということですーーー。- 旅行時期
- 2013年07月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 3.0
- 景観:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
-
投稿日 2013年11月20日
総合評価:4.0
エステルゴム大聖堂は紀元1000年頃、ハンガリー国王イシュトヴァーン1世により聖アダルベルトの教会として建設され、その後12世紀に火災で焼失、修築されるもトルコ軍の襲撃により破壊されたという悲しい歴史を持っています。
ドナウベントはハンガリー領では北から流れていたドナウ川はハンガリーとスロバキアの間を西からの流れに変わります。
現在の大聖堂は1822年に建設を開始しましたが、1848年革命等で中断され、結局は1869年に完成したものです。
元々この大聖堂は聖イシュトバーンが聖アダルベルトを称えるために建設させたそうです。
ちなみに聖イシュトバーンはハンガリーの初代国王だったお方。
ハンガリーも複雑な歴史を持ちますが、今の民族であるマジャール人がウラル山脈の麓から移動=侵略または避難し、最終的にここを平定=占領して定住しました。
その最初の王様がイシュトバーンというわけですが、それは10世紀のことでした。
ですからヨーロッパ唯二のアジア系民族国家のひとつはこのハンガリーというわけです。
1000年頃、神聖ローマ皇帝同意のもと、ローマ教皇のシルウェステル2世からこの地でイシュトヴァーン1世に戴冠し、彼がハンガリー王となったわけです。
そして歴代の王は、この都市を王国支配の拠点としたとのことですから、ブダペストよりも古い都というわけですね。
大聖堂内部の主祭壇の絵はかのミケランジェロがキャンバスの上に描いたものですが、キャンバス画としては世界最大だそうで、高さは13m以上です。- 旅行時期
- 2013年07月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 展示内容:
- 4.0
-
投稿日 2013年11月20日
総合評価:4.0
この宿は有名な宿泊チェーンである四季倶楽部の直営ですが、普通の四季倶楽部の二倍のお値段設定の「四季倶楽部プレミアム」として最近オープンしたものだそうです。
ここはお値段も高く設定していますが、それだけの価値があります。
部屋は和洋室、洋室、和室ですが、いずれも広い専有面積を持っています。
各部屋にはマッサージチェアがあり、洗面所やバスルームも広くとってあります。
大浴場も広いし、サウナも快適です。
特に食事はお値段の割に質量とも良好といえます。
アクセスが不便なのが欠点ですが、それだけ落ち着いています。- 旅行時期
- 2013年10月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- 1人1泊予算
- 15,000円未満
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 客室:
- 4.5
- 接客対応:
- 4.0
- 風呂:
- 4.0
- 食事・ドリンク:
- 4.5
- バリアフリー:
- 3.5
-
投稿日 2013年11月20日
総合評価:4.5
ヒルトンホテル・ウエストはすぐそばにエッフェル塔で有名なエッフェルさんが設計したブダペスト西駅があり、さらに国会議事堂や聖イシュトバーン大聖堂にも歩ける好立地です。
エントランスもひさしも建物自体もガラス張りです。
ホテルの室内ですが、ミュンヘンやプラハのホテルよりも狭いのですが備品やアメニティ、そして室内自体が新しく使いやすいホテルでした。
またホテルに隣接してブランドショップやその他のお店があり、買い物にはとても便利です。
朝食のビュッフェは食材といい、調理といい素晴らしいものです。
とても居心地の良いホテルです。- 旅行時期
- 2013年07月
- 利用目的
- 観光
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- サービス:
- 4.5
- バスルーム:
- 4.5
- ロケーション:
- 4.5
- 客室:
- 4.0
-
投稿日 2013年11月20日
総合評価:3.0
ブラチスラヴァ城はドナウ川を見下ろす高台の上にあり、かつてマリア・テレジアの居ともなっていた古城で、城内からはドナウ河や付近の林野、ブラチスラヴァの市街が一望できる市内随一の観光名所となっています。
城の四隅に配されている塔をテーブルの脚に見立てて、「ひっくり返したテーブル」という愛称を持つそうですが、広い城内は国立歴史博物館になっています。
城は思ったよりも装飾が少なく、レドニツェ城などに比べてシンプルです。- 旅行時期
- 2013年07月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.0
-
投稿日 2013年11月20日
総合評価:3.5
ミハエル門はブラチスラバの名所です。
この門はかつて旧市街の入口だった門の一つです。
街並みにもマッチした(シャレじゃありません(笑))ツートンカラーの尖塔です。
このミハエル門、元々は旧市街を囲んでいる城壁のひとつの門でした。
それら城壁が取り壊されてこの門だけが残ったようです。
現在の内部は武器博物館となっており、世界各国の剣、槍、大砲などが展示されています。
長い歴史を見続けてきた塔ですーーー。- 旅行時期
- 2013年07月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
-
投稿日 2013年11月20日
総合評価:4.0
ブラチスラバ旧市街はブラチスラバ観光のメインです。
しかし、この街には多くの歴史的遺産があります。
それは実に多彩な歴史的背景があったためですーーー。
市の歴史は有史以来、スロバキア人のほかフン族やケルト人、ローマ人、アヴァール、ドイツ人、ハンガリー人、ユダヤ人などのさまざまな民族が関与しました。
それはこの地が交通の要所だったことを意味します。
同時に競争、争い、殺戮の舞台であったことも暗示しますーー。
実際、紀元以後何回支配者が変わったかよくわかりません。
この多彩な歴史に彩られたブラチスラバは、この500年だけでも、幾多の国家の都市として栄えました。
それは、ハンガリー王国首都(1536年 - 1783年)、スロバキア第一共和国首都(1939年 - 1945年)、チェコスロバキア社会主義共和国におけるスロバキア社会主義共和国首都(1969年 - 1990年)、チェコスロバキア連邦共和国におけるスロバキア共和国首都(1990年 - 1992年)となど、過去多くの首都としてこの地域の中心都市でした。
やはり交通の要所であり、各種地理的条件も揃っていたためでしょう。
また言語的にも、現在ではスロバキア語(かなりチェコ語に似ているそうです)が使われていますが、過去はドイツ語やハンガリー語も公用語だったそうです。
つまりそれは被占領の歴史を意味しますーーー。
今は平和そのものですし、経済的発展も遂げています。
その理由のひとつはウイーンとの近さです。
オーストリア・ウィーンとの距離は欧州の首都間距離としては最も近い約60キロメートルで、中央ヨーロッパの中心の「双子都市」となるとして注目されており、両都市を結ぶ高速道路網などの整備が進んでいます。
そして多くの旧西側企業が進出しています。
ブラチスラバの平均所得はEU加盟国平均よりもずっと多く、多くの産業が発展しています。
そして失業率も2,3%程度でギリシャやイタリアとは比べるべくもなく、イギリス、フランス、ドイツにも大きく差をつけ、アメリカはもちろん日本よりも雇用状況は良いようです。- 旅行時期
- 2013年07月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- 観光の所要時間
- 半日
- アクセス:
- 3.0
- 景観:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
-
投稿日 2013年11月20日
総合評価:4.0
レドニツェとヴァルチツェの文化的景観は、1996年に世界遺産に登録されました。
ここはもともとりヒテンシュタイン家の領地でした。
彼らは現在ではスイスとオーストリアに囲まれた立憲君主制国家として存続しています。
(ほとんど根絶やしにされたヨーロッパ最大級の王室であるハプスブルグ家とは随分異なる運命をたどったようですーーー)
リヒテンシュタイン家は13世紀半ばにレドニツェを、14世紀末までにヴァルチツェをその領地として城を建設していましたが、カール1世がヴァルチツェ城を居城と定め、レドニツェ城は夏の離宮となったそうです。
2つの城の間には1715年より道が造られ、19世紀はじめには、ヨハン・ヨーゼフ1世がイギリス式庭園を建設しました。
レドニツェ城は想像していたよりもはるかにキレイなため新築ではないかと目を疑いました。
聞くと、表面の塗装は一定年月毎に手入れをされているとのことで納得しました。
その庭は本当に広いのですが、実はこれだけではありません。
りヒテンシュタイン家は17世紀にはヴァルチツェの城を本拠地と定め、レドニツェ城は夏の離宮、いわば別荘として共にバロック様式へと改築しました。
周辺にフランス庭園などを配置してこの地域を王宮化していきます。
しかし、その後自然と建物を調和させるイギリス庭園が流行すると、変わり身早く、19世紀初頭にはこのレドニツェとヴァルチツェそしてブジュツラフ近郊に及ぶ広範囲の土地をイギリス庭園化したそうです。
庭園と二つの城を結ぶ回廊の規模はなんと約283平方kmに及びました。
19世紀に造られた温室もそのまま残っています。
100年以上前に造られたとは思えない斬新なデザインです。- 旅行時期
- 2013年07月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- 観光の所要時間
- 半日
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 展示内容:
- 4.0
-
投稿日 2013年11月20日
総合評価:4.0
旧市街広場はプラハの中心的観光地です。
広場中央にはヤン・フスの像があります。
ヤン・フスはボヘミア出身の宗教思想家、宗教改革者だそうです。
彼は宗教改革の先駆者だそうですが、もともとはカレル大学の総長ということですが腐敗したカトリック教に異議を唱えたため火刑に処せられたそうです。
特に寺院が資金集めに乱発していた免罪符に真っ向から反対しました。
(実際、効き目があるのなら買ってみたいものですが(笑))
しかしカトリック教会はそうした反乱を許さず、フスは1411年に破門され有罪とされました。
しかもその後世俗の勢力に引き渡され、杭にかけられて火刑に処されたということですが、いつの時代でも先駆者は大変な目にあうのですね−−−。
フスはその後のプロテスタント運動の先駆者として今でも尊敬されています。
この広場の人混みもかなりのものです。- 旅行時期
- 2013年07月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 4.0
- 景観:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 2.5
-
投稿日 2013年11月20日
-
投稿日 2013年11月20日
総合評価:4.0
この橋は最初、「石橋」と呼ばれていたそうですが「カレル橋」と呼ばれるようになったのは18世紀になってからとのことです。
伝説によると、ヴァーツラフ4世の王妃の懺悔を聞く役目を担っていたヤン・ネポムツキー司祭が、王妃の秘密を王に告げなかったことから、激怒した王が、司祭を捕らえて拷問にかけた後に、橋からヴルタヴァ川へ放り込んだそうです。
15世紀になってその場所には十字架が立てられました。
ヴルタヴァ川=モルダウ川はここではかなり広くなっています。
聖人像が橋の両側にあります。その数は20に上ります。登場人物はその数倍です。
17世紀終わりごろ、貴族や民衆または修道院からの寄付によって、カレル橋に聖人の像が立てられるようになりました。現在のカレル橋には30もの聖人像を見ることができます。
橋にはおみやげを売ったり、似顔絵描きさんも多くいます。
ちょっとした繁華街のようです。
唯一の難点は人が多すぎて歩くのが大変ーーー。- 旅行時期
- 2013年07月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 2.0
- 展示内容:
- 4.0
-
投稿日 2013年11月20日
総合評価:4.0
聖ヴィート大聖堂は、プラハ城で最も大きい建築物であり、チェコで最も大きい大聖堂でもあります。
大聖堂の現在の外観は千年以上にわたる建築の発展の結果だそうです。
大聖堂はもともと10世紀に造られたロマネスク様式のロトンダ(円筒型のシンプルな教会)から始まりましたが、1344年、フランスの巨大な大聖堂に触発されたボヘミア王兼神聖ローマ皇帝カレル4世が現在見られるような堂々たる建物に改築する工事に着手しました。(やはり虚栄心や勝ち気な性格が世界の名建築を生むドライビングフォースの一助になっていることは否定できません)
建設は最も重要なチェコの守護聖人ヴァーツラフの死後1000年後の1929年に完成しました。
それにしても1000年もの歳月をかけて完成させているわけですが、ゴシック、バロック、ネオゴシックなどの様式を見事に調和させています。
メインタワーの頂点はお城のような風情です。
高さは99mという大鐘楼です。
大聖堂正面はあくまでも天空高くその尖塔を延ばしています。
こちらは高さ82mの尖塔が二本です。- 旅行時期
- 2013年07月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 展示内容:
- 3.5
-
投稿日 2013年11月20日
総合評価:4.0
プラハ城は、チェコ共和国首都プラハ、ヴルタヴァ川(モルダウ川)のほとりに位置しており、プラハ城から街全体を見渡せます。
プラハ城の歴史は、9世紀に始まったと言われています。
14世紀、神聖ローマ皇帝カレル(カール)4世により、プラハは黄金の街へと発展し、プラハ城の大建設が始まりました。
現在は城内に聖ヴィート大聖堂その他の施設をかかえ観光のメッカになっています。
城門であるマティアス門では衛兵交代が有名です。
皆さん、なかなかのイケメンですが、やはり良い体格をされています。- 旅行時期
- 2013年07月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 3.5
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 展示内容:
- 4.0
-
投稿日 2013年11月19日
総合評価:4.5
プラハはチェコ共和国の首都であり、同国最大の都市で、中央ヨーロッパ有数の世界都市でもあり人口は、約120万人とのことです。
市内中心部をヴルタヴァ川(モルダウ川)が流れ、古い町並み・建物が数多く現存しており、毎年海外から多くの観光客が訪れる観光地でもあります。
ここにあるカレル大学は中欧最古の大学です。
また尖塔が多くあることから「百塔のプラハ」とも呼ばれるそうです。有名な天文学者ティコ・ブラーエが天体観測を行った天文塔もそのひとつですし、ヤン・フスが説教を行ったベツレヘム教会などもあります。
そしてその塔を利用して有名な天文学者ティコ・ブラーエは超新星や彗星の観測で名をはせました。
彼はデンマーク生まれでしたが、ローマ皇帝ルドルフ2世がこのプラハにスカウトしたわけで、プラハは名実ともに科学や文化の中心であったことがわかります。
さらにはケプラーの法則で有名なケプラーもドイツからこのプラハに招かれ、ティコ・ブラーエの弟子/共同研究者として活躍しました。(ケプラーは数日前に訪れたレーゲンスブルグに移り、そこで最期を迎えましたーーー)
プラハはそのたくさんの塔があることで種々のエピソード、業績をあげたのですね!
なお、プラハは大規模な戦火に曝されることはなかったそうです。
ですから多くの建築物がそのまま残されているわけで、空襲や戦火で大きな被害を受けた都市に比べ幸運でしたーーー。
この歴史地区には見どころに溢れており世界遺産に登録されたのも当然のことです。- 旅行時期
- 2013年07月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- 観光の所要時間
- 1日
- アクセス:
- 4.5
- 景観:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 3.0
-
投稿日 2013年11月19日
総合評価:4.5
ドレスデン、ここは2004年、歴史的建造物の残る文化的景観が評価され、ドレスデン・エルベ渓谷として世界遺産に登録されました。
しかし、交通量の増加に対応するためにエルベ川に車両用の橋を建設することが検討されたことから、2006年に危機にさらされている世界遺産リストに登録されてしまいました。
その後、ユネスコの世界遺産委員会からの警告にもかかわらず建設が推進されたため、2009年の第33回世界遺産委員会で世界遺産リストからの登録抹消が決議されたとのことで、かなりいわくのある観光地です。
世界遺産という名を選ぶのか、住民の利便性を優先するのか?
このドレスデンは新しい橋をかけない限りは極端な渋滞で貴重なガソリンを浪費し、排気ガスに悩まされていたそうです。
そういう事情で新しい橋を一本かけることが世界遺産資格を剥奪するに値するのかどうかという重い課題をつきつけた街でもあります。- 旅行時期
- 2013年07月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- 観光の所要時間
- 半日
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 景観:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
-
投稿日 2013年11月19日
総合評価:3.5
君主の行列はツヴィンガ―城の壁画です。いえ、磁器です。
何と25000枚前後の磁器タイルで絵が描かれています。
これは長さ100m以上にわたって1000年もの間の王侯の姿を描いたもので「君主の行列」といわれます。
ちなみに第二次大戦争中は全て取り外して保管したそうです。
そしてほぼ中央にはひとりだけ馬の前足を持ちあげてえらそーなアウグスト1世、強健王です。7
そして、列の最後でこちらを見る人物。バッハのようです。
それもそのはずバッハはこのドレスデンと切っても切れない深い縁があったのですーーー。- 旅行時期
- 2013年07月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 4.5
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 展示内容:
- 4.0
-
投稿日 2013年11月19日
総合評価:4.0
フラウエン教会のあるドレスデン、大変な空襲に遭いました!
大戦後、瓦礫の堆積のままの状態で放置されていた聖母教会の再建には、世界中から182億円もの寄付が集まり、2005年10月に工事が完了しました。
ですから見立てよりずっと若いわけですね。
瓦礫から掘り出した傷んだ部材をコンピューターを活用して可能な限り元の位置に組み込む作業は「ヨーロッパ最大のジグソーパズル」といわれたそうです。
そして新しい部材との組み合わせがモザイク模様を描き出しているこの建物は、新しい名所となっています。
しかし、いくらコンピューターが発達しているとはいえバラバラになった破片の小片さえ完全に同定できたとは思えません。
でも182億円も寄付が集まったので(可能な限り)完全にもとの石材を見つけて復元した、というのが正しい()解釈ではないでしょうか!?- 旅行時期
- 2013年07月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 展示内容:
- 4.0
-
投稿日 2013年11月19日
総合評価:4.0
ツビンガー宮殿はドレスデンを最も発展させたフリードリッヒ・アウグスト一世(別名アウグスト強健王というそうです!風邪などひかぬようですね(笑))が1700年代前半に建築させたものです。
ここには宮殿に隣接して絵画館や陶器展示館などもあります。
それらを合わせると広大な敷地になります。
芝生には花壇と噴水があり大変華やかです。
時計台がありますが、その両側下部にはなんと陶器製の鈴というか鐘がつるされています。
過去の栄華をうかがわせる大宮殿です。- 旅行時期
- 2013年07月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- 観光の所要時間
- 半日
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 展示内容:
- 4.0
-
投稿日 2013年11月19日
総合評価:4.0
クラウンプラザホテルは市の中心から北へ約5kmにある近代的なホテルです。
といってもプラハ市の史跡に指定されている由緒ある建物なので外観やフロントは古めかしい感じがします。
客室には高速インターネット接続などの機能的な設備があり快適に過ごせます。
地下鉄の駅まで徒歩約8分ですし、ホテル前にトラムの停車駅があるので公共交通機関には不自由しません。
またホテルから徒歩4−10分くらいにふたつのスーパーマーケットがあるため食料品や日用品購入にも便利です。
周囲が開けているので眺望も良く、静かな4つ星ホテルです。- 旅行時期
- 2013年07月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- サービス:
- 4.0
- バスルーム:
- 4.0
- ロケーション:
- 4.0
- 客室:
- 3.5
-
投稿日 2013年11月18日
総合評価:4.5
チェスキー・クルムロフは、チェコ・南ボヘミア州の小さな都市でクルムロフ城を含む優れた建築物と歴史的文化財で知られています。
この土地は古来から名門ローゼンベルク家の持ち物だったそうです。
しかし、同家の財政は次第に破綻を来たすようになり、ついに借金の抵当に入れられたクルマウ(チェスキー・クルムロフ)は、1601年、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の手に渡りました。
この土地は古来から名門ローゼンベルク家の持ち物だったそうです。
しかし、同家の財政は次第に破綻を来たすようになり、ついに借金の抵当に入れられたクルマウ(チェスキー・クルムロフ)は、1601年、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の手に渡りました。
1867年、この街はは、オーストリア=ハンガリー帝国の一部となりました。
次第に民族主義が芽生え、チェスキー・クルムロフでも神聖ローマ帝国の時代から続くドイツ系住民とチェコ系住民の共存の時代は終わりました。
例えば学校教育や図書館などが、ドイツ系とチェコ系に分離するようになったそうです。
第一次世界大戦の敗戦に伴い、オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊すると、町はチェコスロバキア領となり町の公式名称もクルマウからチェスキー・クルムロフとなりました。
1938年、ナチス・ドイツはチェコスロバキア領内のドイツ系住民の権利が侵害されているとして、いわゆるズデーテン地方の併合を強行したわけです。
その結果チェスキー・クルムロフを含むボヘミアのドイツ語圏地域はドイツ領となり、チェスキークルムロフにはナチスドイツ軍の基地がおかれドイツ人兵士たちによって多くの建造物が破壊されたという悲劇を招きます。
第二次大戦でドイツが敗北すると、ここも新生チェコスロバキアとしてスタートします。
その際、チェコスロバキハ大統領令によりドイツ系住民の市民権と財産が没収されることになりドイツ人は全て追い出され、その結果としてこの街の多くはゴーストタウン化し荒廃したそうです。
そしてソビエトの瓦解と同時期にチェコスロバキアもビロード革命をして自由な国となり、この街も見直されました。
最後の難関は街の中心部にロマ、いわゆるジプシーが住み着いていたことでしたが、この対策を経て、今に至ります。
そしてこの街は1992年に世界遺産に登録されました。
波乱万丈の歴史を持った世界遺産ということですーーー。
複雑な歴史を持つこの街の魅力は赤い屋根に統一された街並みと王宮の塔です。
いつまでも見飽きない景観がこの街にはあります。- 旅行時期
- 2013年07月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- 観光の所要時間
- 半日
- アクセス:
- 3.0
- 景観:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 3.0