見応えのある古都
- 4.5
- 旅行時期:2013/07(約13年前)
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by norisaさん(非公開)
チェスキー・クルムロフ クチコミ:1件
チェスキー・クルムロフは、チェコ・南ボヘミア州の小さな都市でクルムロフ城を含む優れた建築物と歴史的文化財で知られています。
この土地は古来から名門ローゼンベルク家の持ち物だったそうです。
しかし、同家の財政は次第に破綻を来たすようになり、ついに借金の抵当に入れられたクルマウ(チェスキー・クルムロフ)は、1601年、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の手に渡りました。
この土地は古来から名門ローゼンベルク家の持ち物だったそうです。
しかし、同家の財政は次第に破綻を来たすようになり、ついに借金の抵当に入れられたクルマウ(チェスキー・クルムロフ)は、1601年、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の手に渡りました。
1867年、この街はは、オーストリア=ハンガリー帝国の一部となりました。
次第に民族主義が芽生え、チェスキー・クルムロフでも神聖ローマ帝国の時代から続くドイツ系住民とチェコ系住民の共存の時代は終わりました。
例えば学校教育や図書館などが、ドイツ系とチェコ系に分離するようになったそうです。
第一次世界大戦の敗戦に伴い、オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊すると、町はチェコスロバキア領となり町の公式名称もクルマウからチェスキー・クルムロフとなりました。
1938年、ナチス・ドイツはチェコスロバキア領内のドイツ系住民の権利が侵害されているとして、いわゆるズデーテン地方の併合を強行したわけです。
その結果チェスキー・クルムロフを含むボヘミアのドイツ語圏地域はドイツ領となり、チェスキークルムロフにはナチスドイツ軍の基地がおかれドイツ人兵士たちによって多くの建造物が破壊されたという悲劇を招きます。
第二次大戦でドイツが敗北すると、ここも新生チェコスロバキアとしてスタートします。
その際、チェコスロバキハ大統領令によりドイツ系住民の市民権と財産が没収されることになりドイツ人は全て追い出され、その結果としてこの街の多くはゴーストタウン化し荒廃したそうです。
そしてソビエトの瓦解と同時期にチェコスロバキアもビロード革命をして自由な国となり、この街も見直されました。
最後の難関は街の中心部にロマ、いわゆるジプシーが住み着いていたことでしたが、この対策を経て、今に至ります。
そしてこの街は1992年に世界遺産に登録されました。
波乱万丈の歴史を持った世界遺産ということですーーー。
複雑な歴史を持つこの街の魅力は赤い屋根に統一された街並みと王宮の塔です。
いつまでも見飽きない景観がこの街にはあります。
- 施設の満足度
-
4.5
- 利用した際の同行者:
- カップル・夫婦
- 観光の所要時間:
- 半日
- アクセス:
- 3.0
- 景観:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 3.0
クチコミ投稿日:2013/11/18
いいね!:8票
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