斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址
名所・史跡
3.31
クチコミ・評判
1~16件(全16件中)
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信長整備の二条御所の前は足利義輝邸でした
- 3.0
- 旅行時期:2023/05(約3年前)
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聚楽第のときも感じたのですが、すでに地中に埋められている大きな建造物の場合「〇〇跡(址)」の石柱を建てる場所はかなり恣意的... 続きを読むで、散策前はこの「斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址」も、最初「旧二条城」跡ととても近い場所だなあと思っていたら、そもそも(室町幕府13代将軍)足利義輝邸を更新するようにして信長は(室町幕府15代将軍)足利義昭の御所を造営したのですね。歴史ある遺構がミルフィーユのように重なっている、古都・京都ならではの奥深さです。
4トラの分類エリアがこちらは「二条・烏丸・河原町」で、旧二条城は「今出川・北大路・北野」なので当初は理解に苦しみました。 閉じる投稿日:2025/06/29
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要衝
- 3.0
- 旅行時期:2023/01(約3年前)
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室町幕府にも関係がある場所
- 3.5
- 旅行時期:2022/10(約3年前)
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平安女学院の前に石碑があります
- 3.0
- 旅行時期:2022/09(約3年前)
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斯波氏と足利義輝の邸宅跡
- 4.0
- 旅行時期:2021/11(約4年前)
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この土地の歴史がわかる
- 3.0
- 旅行時期:2021/01(約5年前)
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室町幕府13代将軍足利義輝邸趾
- 2.0
- 旅行時期:2020/11(約5年前)
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足利時代の有力者の歴史の場所
- 4.0
- 旅行時期:2020/11(約5年前)
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平安女学院の入り口前に碑があります
- 3.5
- 旅行時期:2020/10(約5年前)
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平安女学院の室町通りに面した入り口に碑と説明板があります。足利幕府時代、三管領(斯波・細川・畠山)筆頭として足利将軍家なみ... 続きを読むの扱いを受けたともされる斯波氏は、役職から当主のことを武衛と呼んだそうです。そして斯波氏の居館のことを武衛館と呼びました。これは応仁の乱で焼失するまで続いたそうです。
さらに足利13代将軍・義輝の邸宅もこの地に築かれました。歴史上の表舞台になったのは義輝最期の時です。1565(永禄8)年に松永久秀や、三好三人衆に襲撃され義輝が討ち取られました。そして変遷をへて現在学校になっています。周辺は由緒ある見所が数多くあります。
。 閉じる投稿日:2020/10/27
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室町時代の有名人の邸宅跡だった
- 3.5
- 旅行時期:2020/03(約6年前)
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京都御苑の西側付近をぶらぶら歩いているとこの「斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址」を発見、室町通下立売を下がった東側にありました... 続きを読む。この付近は平安女学院の中高大学が建ち環境が良いところのように思えます。
石標が建っていて長ーい文章が書かれた説明板が掛けられていました。簡単に言うと、
まず斯波氏武衛陣とは室町幕府に武衛と呼ばれていた斯波さんがいてその邸宅跡のようです。しかし武衛陣は応仁の乱で焼失。
その後室町幕府第13代将軍となった足利義輝が邸宅を構えたとのことです。
話は割愛します。もしよろしければ現地を訪問しじゅっくり読んでください。
京都御所を見学した際に訪れてたらいいと思います。この通りの北方向には旧二条城の石碑や付近には多くの見どころがありますので是非どうぞ! 閉じる投稿日:2020/03/13
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室町幕府の有力者邸宅跡
- 3.0
- 旅行時期:2019/04(約7年前)
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平安女学院辺りの歴史を伝える「斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址」
- 3.5
- 旅行時期:2019/03(約7年前)
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石碑のみ
- 2.5
- 旅行時期:2019/01(約7年前)
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石碑と案内書きが平安女学院の校舎前に建っています
- 3.0
- 旅行時期:2016/07(約9年前)
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平安女学院の一角
- 4.0
- 旅行時期:2013/11(約12年前)
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足利義輝暗殺の地
- 5.0
- 旅行時期:2013/10(約12年前)
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管領家の斯波氏は兵衛督・兵衛佐を世襲したため、その唐名である「武衛」を称し、邸宅は「武衛陣」と呼ばれた。だが応仁の乱で「武... 続きを読む衛騒動」と呼ばれる家督争いを起こして衰退し、斯波氏は邸宅を将軍家に献上し、領国尾張に下った(その後斯波義統は守護代織田信友に討たれ、信友は分家の織田信長に討たれる)。
三好長慶に京都を追われた将軍足利義輝は、長慶の死後は将軍専制を目指し様々な手を打ち、卓越した政治手腕を見せた。だが長慶の死後に主家を牛耳った松永久秀と三好三人衆は、幕府の実権を掌握するため、義輝を排除し足利義栄を新将軍に擁立しようとした。義輝は久秀暗殺を企むが、それは久秀の知るところとなった。
久秀と三好三人衆は1565年、二条御所の門が修復中との情報を得て、清水寺参詣と偽り1万の軍勢を京に入れ、義輝に「訴訟の儀あり」と称して門を開けさせ、その間に二条御所を包囲した。御所内の兵力はわずか数十人で、義輝は辞世の句を詠むと源氏重代の大鎧を身にまとい、足利家伝来の銘刀の数々を持って来させた。彼は典太光世、鬼丸國綱、大包平、九字兼定、朝嵐勝光、綾小路定利、二つ銘則宗、三日月宗近、粟田口国綱、一文字助宗などの銘刀を抜き銘を確認すると、それらを畳に突き刺し、迎撃態勢を整えた。剣豪塚原朴伝の教えを受けた義輝は、政治力だけでなく剣術も卓越しており、雑兵たちを次々に切り伏せ、超人的な瞬発力で敵の矢をかわした。刀が切れなくなると次々と交換し、全ての刀を使い果たすまで戦い抜く決意であった。
近習たちはことごとく討ち死にし、今や義輝一人が奮闘していた。三好・松永軍は襖を盾に四方から義輝を取り囲み、池田長正の子が背後から薙刀で義輝の足を払い転倒させると、その上に無数の襖と障子をかぶせ、その上から刀と槍で何度も刺してようやく絶命させた(永禄の変)。義輝が最期に手にしていたのは、源頼光が酒呑童子を退治したと言われる童子切安綱だった。
三好長慶は義輝をあやつろうとし、従わなければ京より追放もしたが、決して将軍を手にかけるようなことはなかった。長慶はライバルが台頭すると一変して義輝と和解し、その家臣にさえなっている。だが義輝は、自分の権威が長慶に支えられていることに思いが至らず、将軍専制に固執し、たびたび長慶暗殺を試みた。その長慶がいなくなればどうなるかを、義輝は身をもって知ることとなった。
義輝はそれまでの将軍とは異なり、際立って有能であり、傀儡では満足できなかったことが、結果的に命取りとなった。長慶とは異なり、常人ではできぬことをできる松永久秀の人間性を、甘く見たのだろう。
二条御所跡は、現在は平安女学院となっている。 閉じる投稿日:2015/06/26
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