関ヶ原の戦いで落城
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- 旅行時期:2013/09(約12年前)
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by bluejaysさん(男性)
大津 クチコミ:4件
1586年、浅野長政が築いた。城主はその後増田長盛、新庄直頼と代わり、1595年には京極高次が6万石で入封した。
関が原の合戦で高次は、西軍の大谷吉継の配下にいた。高次の妻初の姉茶々は、豊臣秀頼の母であった。しかしその妹江の夫は、徳川秀忠であった。吉継が北陸から美濃へと転進すると、高次は突如東軍に寝返り、3000名を率いて大津城に籠城した。
西軍は高次の裏切りへの報復として、毛利元康を大将とし、立花宗茂、小早川秀包、筑紫広門ら1万5000人の軍勢で攻撃を開始した。高次は奮戦したが、西軍が近くの長等山に大砲を据え砲撃を加えると、たまらず9月14日に降伏し、開城した。
高次は敗戦を恥じ、剃髪して高野山に登る。立花宗茂ら1万5000の軍勢は、本隊と合流すべく美濃を目指して東進したが、到着する前の翌15日午後、関ヶ原において西軍主力がわずか半日で壊滅してしまった。1万5000の兵を釘付けにして、決戦に参加させなかった功績ははなはだ大きく、降伏したにもかかわらず高次は小浜9万2000石を与えられることになったのである。
大津城は、長等山から砲撃射程に入ることが実証されたため、家康はこれを廃城とし、1601年、膳所城が大津城の用材を用いて築城された。大津城の天守は彦根城に移築されたという。
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4.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 3.5
クチコミ投稿日:2015/06/26
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