足利義輝暗殺の地
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- 旅行時期:2013/10(約12年前)
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by bluejaysさん(男性)
二条・烏丸・河原町 クチコミ:18件
管領家の斯波氏は兵衛督・兵衛佐を世襲したため、その唐名である「武衛」を称し、邸宅は「武衛陣」と呼ばれた。だが応仁の乱で「武衛騒動」と呼ばれる家督争いを起こして衰退し、斯波氏は邸宅を将軍家に献上し、領国尾張に下った(その後斯波義統は守護代織田信友に討たれ、信友は分家の織田信長に討たれる)。
三好長慶に京都を追われた将軍足利義輝は、長慶の死後は将軍専制を目指し様々な手を打ち、卓越した政治手腕を見せた。だが長慶の死後に主家を牛耳った松永久秀と三好三人衆は、幕府の実権を掌握するため、義輝を排除し足利義栄を新将軍に擁立しようとした。義輝は久秀暗殺を企むが、それは久秀の知るところとなった。
久秀と三好三人衆は1565年、二条御所の門が修復中との情報を得て、清水寺参詣と偽り1万の軍勢を京に入れ、義輝に「訴訟の儀あり」と称して門を開けさせ、その間に二条御所を包囲した。御所内の兵力はわずか数十人で、義輝は辞世の句を詠むと源氏重代の大鎧を身にまとい、足利家伝来の銘刀の数々を持って来させた。彼は典太光世、鬼丸國綱、大包平、九字兼定、朝嵐勝光、綾小路定利、二つ銘則宗、三日月宗近、粟田口国綱、一文字助宗などの銘刀を抜き銘を確認すると、それらを畳に突き刺し、迎撃態勢を整えた。剣豪塚原朴伝の教えを受けた義輝は、政治力だけでなく剣術も卓越しており、雑兵たちを次々に切り伏せ、超人的な瞬発力で敵の矢をかわした。刀が切れなくなると次々と交換し、全ての刀を使い果たすまで戦い抜く決意であった。
近習たちはことごとく討ち死にし、今や義輝一人が奮闘していた。三好・松永軍は襖を盾に四方から義輝を取り囲み、池田長正の子が背後から薙刀で義輝の足を払い転倒させると、その上に無数の襖と障子をかぶせ、その上から刀と槍で何度も刺してようやく絶命させた(永禄の変)。義輝が最期に手にしていたのは、源頼光が酒呑童子を退治したと言われる童子切安綱だった。
三好長慶は義輝をあやつろうとし、従わなければ京より追放もしたが、決して将軍を手にかけるようなことはなかった。長慶はライバルが台頭すると一変して義輝と和解し、その家臣にさえなっている。だが義輝は、自分の権威が長慶に支えられていることに思いが至らず、将軍専制に固執し、たびたび長慶暗殺を試みた。その長慶がいなくなればどうなるかを、義輝は身をもって知ることとなった。
義輝はそれまでの将軍とは異なり、際立って有能であり、傀儡では満足できなかったことが、結果的に命取りとなった。長慶とは異なり、常人ではできぬことをできる松永久秀の人間性を、甘く見たのだろう。
二条御所跡は、現在は平安女学院となっている。
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 5.0
クチコミ投稿日:2015/06/26
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