ゆっくさんのクチコミ(36ページ)全1,048件
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投稿日 2015年11月10日
総合評価:3.0
津和野の街並みはこの津和野川が走っている幅500m程の谷間の盆地に位置しています。
国道9号を走ると、山腹を走ることになるため、津和野川が走っている津和野の町を眼下に見下ろすこととなり、津和野城址や太皷谷稲成神社のある山が対岸に見えます。また、国道9号から津和野市街へ降りる分岐点には大きな鳥居が建立されています。
津和野川が1991年から街並みと一体化したデザイン整備を行っており、石積みの護岸等の景観は、2002年には土木学会のデザイン賞優秀賞も受賞したそうです。- 旅行時期
- 2014年07月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 3.0
- 景観:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
-
投稿日 2015年11月10日
総合評価:3.0
殿町通りの終わり(太皷谷稲成神社、弥栄神社の方向)の河のたもとの広場に建立されています。
津和野の鷺舞は、600年の歴史があるとのことです。鷺舞自体はもともと京都の祇園祭で奉納されていた舞で、当時、津和野を治めていた吉見大蔵正頼が、厄病除けを祈念して津和野に持ってきたとのこと。今でも、7月20日と27日に弥栄神社の例祭で共奉されています。
本家、京都では江戸時代中期に廃れてしまい、第二次世界大戦後に、この津和野の鷺舞をもとに復興したとのことです。
銅像は黒緑色で、ちょっと怖いですが、実際の舞う時は、白い羽根に赤い足の衣装で舞うそうです。津和野の鷺舞は国の重要無形民俗文化財に指定されています。- 旅行時期
- 2013年07月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2015年11月10日
総合評価:3.0
山陰の小京都、津和野の殿町通りにあり、なまこ壁の塀に重厚な木造の大きな門が、殿町通りを演出しています。
多胡家老門は、駅から見て殿町通りの終わりの場所(太皷谷稲成神社側)にあります。
多胡家は津和野藩の筆頭家老を務めた家柄で、往時の屋敷は残っていませんが、脇門付きの薬医門が、どっしりと構えています。また、その両脇には物見番所も残っており、さすが筆頭家老という感じです。
なお、殿町通りの中央付近には家老を務めた大岡家の表門も同様に残っており、多胡家老門のような物見番所はないですが、脇門付きの薬医門が残っています。ちなみに、こちらは敷地内は津和野町役場庁舎となっていました。- 旅行時期
- 2014年07月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
投稿日 2015年11月10日
総合評価:5.0
山陰の小京都、津和野の殿町通りのちょうど真ん中付近にあり、なまこ壁の塀に重厚な木造の大きな門が、殿町通りを演出しています。
家老を務めた大岡家の敷地にあり、入口の門は、往時の門で脇門付きの薬医門となっています。
また、庁舎は、江戸時代の家老屋敷ではないものの、大正8年に建設された建物だそうで、平等院鳳凰堂をイメージしてデザインされたとのこと。個人的には重文指定受けても良さそうな重厚さだと思いました。
現在も庁舎として現役で活躍しているとのことで感心しましたが、殿町通りの雰囲気と相まって、袴姿の役人が出てきそうです。
なお、殿町通りの終わり(太皷谷稲成神社側)には、大岡家老門よりやや豪華な筆頭家老の多胡家の門があります。- 旅行時期
- 2014年07月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年11月10日
総合評価:3.0
山陰の小京都、津和野の殿町通りにあり、なまこ壁の塀に重厚な木造の大きな門が、殿町通りを演出しています。
多胡家老門は、駅から見て殿町通りの終わりの場所に、大岡家老門は殿町通りのちょうど中央にあります。
多胡家は津和野藩の筆頭家老を務めた家柄で、往時の屋敷は残っていませんが、脇門付きの薬医門が、どっしりと構えています。また、その両脇には物見番所も残っており、さすが筆頭家老という感じです。
また、大岡家も家老を務めた家柄で、多胡家老門と同様に屋敷は残っていませんが、脇門付きの薬医門です。こちらには物見番所はありませんでした。が、敷地には、大正に建てられたという役所が建っており、見事に門にマッチしています。津和野町役場庁舎となして現役で活用されています。- 旅行時期
- 2014年07月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
投稿日 2015年11月10日
総合評価:4.0
津和野駅前の広場前の交差点を斜めに入って、徒歩10分程です。城壁、なまこ壁に鯉の泳ぐ堀切、電柱も地中に埋設された200m弱の通りです。
いわゆる観光地化されたお土産屋やお食事処が並ぶというわけではなく、落ち着いた武家屋敷風な建物が並ぶ通りで、昔ながらの藩校跡や昭和レトロな洋館教会も通りに面しています。道の終わりは太皷谷稲成神社の参道へと続いています。
山陰の小京都という別名もあるようですが、私が訪れた時は、観光客らしき人は皆無でして、ゆったりとした静かな時間が流れている感じでした。本来の城下町はこんな感じなんでしょうね。- 旅行時期
- 2014年07月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2015年11月08日
総合評価:4.0
上田駅お堀口の商店街の坂道を上り、三井住友銀行を左折すると突き当りです。徒歩10分弱でしょうか。
現在は藩主屋敷跡全体が上田高校となっており、藩主屋敷門そのものが上田高校の正門です。お堀も残っています。現在の門は1790年の再建だそうです。
上田城は、ここから更に10分程歩いた場所ですが、なぜ本丸に藩主屋敷がなかったんだろうと思いましたが、上田城を築いた真田昌幸とその子幸村は関ヶ原で西軍についたため、城は取り壊し。
東軍についていた幸村の兄である信之が、その後上田藩を任され初代藩主となりますが、その際ここに居を構えたのが始まりだそうです。
その後、仙石氏、松平氏と藩主が変わっても、ここに住み続けたとか。
上田藩主を守らない上田城っていったい・・・。
縁起でも悪かったのでしょうか。- 旅行時期
- 2013年08月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2015年11月08日
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投稿日 2015年11月08日
総合評価:5.0
『よはしらじんじゃ』と呼びます。
松本の観光名所の一つである縄手通り中央にあります。
松本駅から徒歩10分ほどです。
明治になって建てられた神社で、
古事記にて天地開闢の際に最初に現れた造化三神である
・アメノミナカヌシノカミ
・タカムスビノカミ
・カミムスビノカミ
と、天照大神の、その名の通り四柱の神を祀っている神社です。
なんともすごい神々が祀られている神社ですが、
あらゆる願いごとをむすぶ御利益があるとか。
松本市内でも最強のパワースポットとして知られているそうです。- 旅行時期
- 2013年08月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 2.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.5
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投稿日 2015年11月08日
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投稿日 2015年11月08日
総合評価:3.5
松本城公園の本丸に入るために黒門を通らず、そのお堀の右側を進んでいくと二の丸にあたります。
私が訪問した時は石垣の修復中で、フェンスに囲まれて中に入ることができませんでしたが、フェンス越しになんとなく平面復元されていることがわかりました。
天守の築城と同時に建設されたとのことで、約130年後の1727年に、火災により本丸が焼失後、本丸は再建されることはなく、中心は二の丸御殿に移ったそうです。
本丸に比べて一回りほど小さいのかな。
その二の丸御殿も明治になり焼失、その後裁判所が置かれていたそうです。
その裁判所も平成になって松本城の北に移設されました。その当時の裁判所は、明治憲法下の和風裁判所ということで、県宝に指定され、松本市歴史の里に移築復元されています。- 旅行時期
- 2013年08月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2015年11月08日
総合評価:4.5
松本駅から松本城へ徒歩で行く際におそらく通るであろう女鳥羽川にかかる千歳橋から土手通りまでの300m弱の通りです。
商家や武家屋敷風な建物が残る風情ある商店街というかお土産ストリートです。
江戸時代から続いている町屋なのかと思いましたが、実際には江戸時代までは土手で、明治になる四柱神社が近くに建立された際に参道となり、戦後に闇市が開かれ発展したらしいです。
なお、平成13年に通りを全面改装して、このような町屋風の街並みにリニューアルしたとのことです。
雑貨や骨董やカフェといったものから、地元商店街のように八百屋や花屋もありました。カエルのオブジェがいっぱいありました。
なお、女鳥羽川を渡った反対側の中町通りには、江戸時代から続く、なまこ壁の蔵が並んだ通りとなっています。- 旅行時期
- 2013年08月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 2.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2015年11月08日
総合評価:5.0
青春18切符で100名城巡りをしている際、暗くなって来たのでさて次はどこに移動しようかと考えている際、ここは彦根。
ふと地図を見ると、大垣が近い。こんな時でないと、ムーンライトながらには乗らないかもと思い、急きょ改札へ。
なかなか入手できないと聞いていましたが、ダメもとで尋ねると、なんと空いていました。
東京発は入手困難らしいのですが、大垣発は比較的取りやすいとのことです。
夜行と言っても、ライトはずーっと付いています。寝られない人もいるかと思いますが、逆にセキュリティー的に安心できました。
食堂車はありませんので、事前に食べ物、アルコールは入手しときましょう。
夜行と考えると、寝台ではないので辛いかと思いますが、のんびりと長時間、電車でどうどうと寝られると思うと、快適です。
名古屋までは覚えていますが、気付いたら東京でした。- 旅行時期
- 2013年08月
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 5.0
- 乗り場へのアクセス:
- 5.0
- 車窓:
- 5.0
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投稿日 2015年11月08日
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投稿日 2015年11月06日
総合評価:3.0
丸岡城天守閣の天守台真下にあります。
福井藩から独立した丸岡藩初代藩主(丸岡城6代城主)本多成重の父親である本多作左衛門重次が長篠の合戦時に妻に宛てた手紙だそうです。作左衛門は徳川家康の家臣の一人です。
お仙とは、成重の幼名先千代です。
そして、なんとこの文章が「火の用心」という言葉を最初に使った文章だとか。
ちなみに、本多重次の菩提寺のある茨城県取手市青柳の本願寺にも同様の一筆啓上の碑があるそうです。- 旅行時期
- 2013年08月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
投稿日 2015年11月06日
総合評価:4.0
丸岡城天守閣へ登る入口に建っています。
丸岡城天守閣は現存天守のためか、天守閣内部にはほとんど展示物はなく、往時の丸岡城郭の模型のみですので、丸岡城に関する歴史の予習・復習はこの資料館で行いましょう。
丸岡城歴代藩主の本多家、有馬家が使用していた武具や調度品等が展示されています。
丸岡城は現存12天守の中でも、犬山城と並んで最も古いと言われている城ですし、北陸唯一ですので、いろいろ残っているのかと思いましたが、意外にこじんまりしていました。- 旅行時期
- 2013年08月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 展示内容:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
-
投稿日 2015年11月06日
総合評価:5.0
現存12天守の丸岡城址が霞ヶ城公園として整備されています。
現存天守の地として、公園の周りがお土産屋さんとして整備されているわけでもなく、普通に民家の中の突如ポツンと存在しています。
丸岡城は柴田勝家とともに一向一揆で福井を平定した甥の柴田勝豊により築城されました。
諸説ありますが、現存天守では最も古く、二重三階の望楼型の天守で、笏谷石製の石瓦が屋根に使われています。小高い丘に建っているため、最上階からは丸岡の街が一望できました。城を囲むようにお堀が五角形に巡らされていましたが、既に全部埋め立てられています。
敷地内には歴史民俗資料館や福井名物、福井土産を入手できる軽食屋もあります。また、日本のさくら名所100選にも選ばれており、400本のソメイヨシノがあるそうです。- 旅行時期
- 2013年08月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 2.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年11月06日
総合評価:4.0
最寄駅は一乗谷駅です。
駅から10分程で下城戸につきます。道の右側に土塁とともに、遺跡の碑が建っているのですぐわかると思います。
そして、ここから、約2?の谷の奥地にある上城戸があります。今度は河の左側に土塁が残っています。
上城戸から下城戸までが朝倉氏が居城としていた一乗谷城の城下町となります。
上城戸、下城戸ともに、谷が一番狭くなる場所に作られたそうです。
この約2?のエリアに最盛期には1万人が住んでおり、応仁の乱後の京都の文化人が集まり、京文化が華開く北陸の小京都と言われていたとのことです。約100年後、5代義景が織田信長に敗れ、城下町は焼討ちにあい灰燼に帰しました。- 旅行時期
- 2013年08月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 2.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
投稿日 2015年11月06日
総合評価:3.0
唐門から入ると、朝倉館跡の奥の湯殿跡庭園の高台へ続く際にあります。朝倉氏遺跡の国の特別名勝に指定されている4庭園の一つです。
諏訪館庭園と石組の形式が似ているため、朝倉義景作の庭だと考えられているそうです。
他の3庭園と違い、館跡の発掘と共に庭が発掘されたとのことで、4庭園の中では最も小規模とのことですが、確かに館跡にくっつており、どこからが、敢えて庭址なのか難しいです。
よくよく考えると庭址として遺跡指定されているのも珍しいですね。
桃山時代の庭園として、以降手が加えられることなく残っているのは、非常に貴重だということです。- 旅行時期
- 2013年08月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 2.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 2.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
投稿日 2015年11月06日
総合評価:4.0
唐門から入ると、朝倉館跡を見下ろす高台に位置にする一乗谷朝倉氏遺跡4庭園跡の一つです。
4庭園とも国の特別名勝に指定されていますが、その中でも最も古い庭園だそうです。文献等が残っておらず、どのような建物が建っていたかも不明だそうです。
湯殿とは台所や入浴等、主人の日常生活の場所だったと思われますが、文献がないのに、なぜわかったんだろうかと思いつつ、廻りました。
でも、確かに、ここが庭だったというのは一目瞭然です。それは、多数の石が配置されているからです。というか、多すぎです。枯山水的に、きっと意味のある並びなんだと思います。- 旅行時期
- 2013年08月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 2.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 2.0
- 見ごたえ:
- 3.0










































