きゅういとせろりさんのクチコミ(16ページ)全6,077件
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投稿日 2023年09月27日
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投稿日 2023年09月27日
総合評価:3.5
石尊垢離場跡とは難しいですが、「石尊」は相模大山の阿夫利神社、「垢離場」とは垢を落とす場、すなわち「水ごり」「みそぎ」の場ということでした。当時は川岸に石が敷き詰められて川に入りやすいようになっていたとのこと。近所には「葦が多かった」という「片葉の葦」の案内板もあるので川岸は草がいっぱいだったはずで、この場所は特別だったのでしょう。相模大山まではかなり遠いですし、わざわざ江戸の人がここにくるのではなく、両国橋の東の住人のみだったとは思いますが、さぞや賑わったことでしょう。
- 旅行時期
- 2022年10月
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2023年09月27日
総合評価:4.0
赤穂浪士討ち入りのころは両国橋のたもとにあったというこの場所も、当時は賑やかな場所だったでしょうが、両国橋が北に移動してしまった今は寂しい場所で、駐車場のフェンスにこの高札型の案内板が他の2つの案内板とともに架かっているだけです。もっとも討ち入り後なのでまだ早朝だったでしょうから静かな時間だったのかもしれません。
意外だったのが、目の前の両国橋を渡らずに泉岳寺までは迂回して行ったということ。登城の武士との無用の争いを避けるためとのことで、泉岳寺に着くまでは気が抜けなかったということなのでしょうね。- 旅行時期
- 2022年10月
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2023年09月27日
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投稿日 2023年09月27日
総合評価:4.0
両国橋のたもとの両国橋児童公園の中にある巨大な石碑。
日露戦争の戦没者慰霊のための石碑です。書は陸軍大臣を務めた大山巌のものとのこと。
明治以後で最初の大規模な犠牲のでた戦争だったこともあり、やはり大きな石碑であることが必要だったのでしょう。
なお、この公園の中には他にも赤穂浪士の句碑もありますが大きさにかなりの差があります。
こちらも「忠義」で有名なお話。この「表忠碑」と「忠」が揃っているのもまた不思議なものです。- 旅行時期
- 2022年10月
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2023年09月27日
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投稿日 2023年09月26日
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投稿日 2023年09月26日
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投稿日 2023年09月26日
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投稿日 2023年09月26日
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投稿日 2023年09月26日
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投稿日 2023年09月26日
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投稿日 2023年09月26日
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投稿日 2023年09月24日
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投稿日 2023年09月24日
総合評価:4.0
両国駅の南側、国道を越えた住宅街の中の両国小学校の東側フェンスに案内板があります。
小学校のフェンスの向こう側にあるため見つけにくいのが難です。
この尺振八(せきしんぱち)はジョン万次郎他から英語を学んで通訳・英語学者として活躍した人でこの地に「共立学舎」をつくり、多くの門下生を育てたとのこと。その跡地が小学校、ということなのでしょう。
ただ、案内板は「学校の跡」ということ以外の説明が乏しく、その人となりや業績はあまり書いてなく、英語学者の嚆矢であったでしょうに、ちょっと残念かな、と思います。- 旅行時期
- 2022年10月
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2023年09月24日
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投稿日 2023年09月24日
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投稿日 2023年09月24日
総合評価:4.0
APAホテルから大江戸博物館と両国中学校の間の細い歩道を東に向かうとき、中学校のフェンスにある案内板がめにつきます。
この一帯は江戸時代は大きな米蔵があった場所で、お堀に囲まれ、初期には12棟、最終的には37棟もある米蔵群があったようです。当時としては米蔵は金庫にも相当する重要施設だったわけで、14万坪という規模にも驚きます。
ただ当時の面影は全くなく、この場所にあったというだけで、運河と倉庫を現代の地図にあわせて想像するだけしかできません。ちょっと当時の風景の想像図でもあるといいなあ、と思います。- 旅行時期
- 2022年10月
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2023年09月24日
総合評価:4.0
両国駅の北側にある横網町公園のメインの建物にひとつ。
横網町公園は旧陸軍被服本廠跡。あの火災旋風で4万人近くが亡くなった場所。その鎮魂のための慰霊堂として建てられたものです。が、この一帯はその後の本所深川大空襲の場所でもあります。なので現在はその慰霊もあわせて「東京都慰霊堂」になっています。
外観は一見、裏に三重塔があることもあって正面や背面は寺院のようですが、上の方と側面は神社のようでもあり、三重塔自体も白くてどことなくエキゾチック。いろんな宗教の様式の折衷のように感じます。やはり公式の慰霊堂なので形式には自由でありたかったのでしょう。全体的に白い建物なので夜目にも鮮やかでした。- 旅行時期
- 2022年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2023年09月24日





























