たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さんのクチコミ(52ページ)全1,843件
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- 基本情報
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投稿日 2017年01月18日
総合評価:5.0
出雲大社本殿北西側に位置する彰古館。元々は四の鳥居付近に建立されたものを移築し、大正3(1914)年にオープンした資料館です。
数多くの弁天様や大黒様の木像が所狭しと並んでおり、そのお顔を拝見すると不思議と口元が緩んで和やかな気持ちになれます。その他雅楽で使われる楽器や、出雲大社に伝わる古文書が展示してある他、1/30に作られた出雲大社の精巧なミニチュアが飾られています。
建物の建築様式にも特徴があり、外見だけ見ても勿論価値はありますが、入場料200円なのでせっかくならば入館してほっこりした気持ちになるのもまたをかしだと思いました。- 旅行時期
- 2017年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 本殿北西側に位置しています。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れる方は少なかったようです。
- バリアフリー:
- 3.0
- 2階へは階段で上がります。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 一見の価値はあります。
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投稿日 2017年01月18日
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投稿日 2017年01月17日
総合評価:5.0
出雲大社境内を西の門から出て川を渡ったところにある神楽殿、本殿と同様朝夕のおまつりの他、御神楽や御祈祷が奉仕されます。
神楽殿はもともと明治12年出雲大社教が組織化された当時、その教化のために大国主大神を本殿とは別に祀ったことに由来します。
現在の神楽殿は昭和56年に造営されました。その大広間は270畳敷きの広さをがあり、ここに掛かるしめ縄は長さ13.5m、重さ4.4tの巨大なもので知られています。
出雲大社に於ける〝神前結婚〟ができる場所が神楽殿の他、北島国造館、おくにがえり館があります。その全てが会場となった高円宮典子さまの結婚式以来、参拝者は増えたとの話を聞きました。神楽殿で真剣に縁結びを願う女子陣の姿を後ろから見ていると、なにか祈願をするのが申し訳なく思ってしまいました。- 旅行時期
- 2017年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 人混みの少なさ:
- 3.0
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投稿日 2017年01月17日
総合評価:5.0
出雲大社連絡所前バス停から神楽殿に向かう途中にある〝出雲大社教 祖霊社〟。出雲大社教では御祭神である〝大国主大神〟は目に見えない死後の世界である〝幽世(かくりょ:神々の世界・霊魂の世界)〟を司るとの御神徳があるとされ、それに基づき死後の霊魂は幽世へと帰って大国主大神の御加護を受け、永遠に家の守護神となり続けるという考えがあります。
死後の世界に言及した施設であり、〝みたままつり〟と称するお葬式を含めた故人の冥福を祈る祭典が数多く行われています。
靖国神社に祀られている英霊をお慰めする目的での〝靖国神社英霊慰霊大祭〟が行われていることもあり、敷地内には旧海軍のことを謳った石碑や忠魂碑が建立されています。
〝生きる〟ことが大前提になる〝縁結びの神様〟。それとは全く異なる社があることは、興味深いことであると同時にやはり訪れてお参りをする〝価値のある〟場所のように改めて感じました。- 旅行時期
- 2017年01月
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投稿日 2017年01月09日
総合評価:5.0
縁結びの神として超有名所の出雲大社。行くまでの交通機関を問わず、ほとんどの方が〝鳥居〟をくぐって参道を上がる道筋を取ると思うのですが、私はいつも一畑バスの〝連絡所(ターミナル)〟まで行ってしまい、神楽殿から参拝することになります。そんなこともあり、先に参拝を済ませてから参道を下り、写真で有名な木製の〝二の鳥居〟迄戻って改めて本殿とその西側の〝神様が鎮座されている方向〟へも参って来ました。
明らかに〝鼻息の荒い女子〟が、真剣にお参りをし、そして絵馬に書いていることを見ると、やはりここまでしないと〝良縁〟ってないのかな?なんて〝おひとり様〟に慣れてしまっている私には感心するところもありました。とはいえせっかくの出雲大社参拝、ちょっとでも御利益があれば・・・なんて〝マジ〟に絵馬を書いていたのは、なにを隠そう私自身でした(笑)。- 旅行時期
- 2017年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 一畑電車だと少し歩きますが、バスだとすぐです。
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 早朝の方が空いていました。
- バリアフリー:
- 3.0
- 砂利敷きです。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 圧巻です。
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投稿日 2017年01月09日
総合評価:5.0
出雲大社に参拝すると、必ずどこかで割子そばを食べることにしています。今回は八雲東店さんに立ち寄りました。
ガイドブックには色々と書かれていますが、自分なりに〝ゆっくりと美味しく〟頂けたらそれで満足なので、場所で選びました。
多分オーダーを取りに来たのはバイトの娘だと思うのですが、割子そばと三色そばの違いは必ず言うように教育されているようで、「割子そばには薬味しか入っていません!」と真剣に答えているのを見て、ついつい笑ってしまいました。
その〝割子そば〟を食べましたが、やはり美味しさはシンプルな方が良くわかります。昼時前だったので食後のお茶を頂き、のんびりしていたら電車の時間に遅れました(笑)。
時間には左右されますが、ゆっくりと休めるお店でした。- 旅行時期
- 2017年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 一人当たり予算
- 1,500円未満
- 利用形態
- ランチ
- アクセス:
- 5.0
- 一畑バス連絡所バス停からすぐ。
- サービス:
- 5.0
- 時間がずれていたのでゆっくりできました。
- 雰囲気:
- 5.0
- いい感じです。
- 料理・味:
- 5.0
- おいしかったです。
- バリアフリー:
- 5.0
- 自動ドアあり、段差はなし。
- 観光客向け度:
- 5.0
- 行くべし!
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投稿日 2017年01月17日
総合評価:5.0
神門通りの〝宇迦橋(うがばし)〟に聳えるコンクリート製の大きな白い鳥居があります。〝宇迦橋の大鳥居〟等呼称はいくつかあるようですが、出雲大社の〝一の鳥居〟のことになります。
大正4(1915)年に〝大正天皇の即位〟と〝神門通りの開通〟を記念して建てられました。建立当時は〝日本一大きな鳥居〟と言われていたものは、その後国の登録有形文化財に指定され今日に至っています。
意外な話だったのですが、この〝大鳥居〟を見ずして帰る方が少なくないと言われています。元々は国鉄大社駅から出雲大社へと向かう参拝者が潜るようにとされたものであるため、バス便ならば通過しますが、一畑電車出雲大社前駅を利用すると通過しないことになります。あまり深く考えていない方に多いようですが、二の鳥居(木の鳥居)からでは三つの鳥居しか潜れないことには注意しましょう。- 旅行時期
- 2017年01月
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投稿日 2017年01月17日
総合評価:5.0
野見宿禰は第13代出雲國造(出雲大社宮司)です。第11代垂仁天皇の御代7年当時大和国に当麻蹶速(たいまのけはや)という天下一の力人がおりましたが、垂仁天皇はこの当麻蹶速に匹敵する者が他にいないだろうかと御下問になられ、その際一人の家臣が〝出雲国の野見宿禰〟という力人がいることを申し出ました。
役人が出雲国に遣わされ、野見宿禰は朝廷へと赴き、御前試合で当麻蹶速を倒します。
その後朝廷に使えるようになった野見宿禰は、墓陵での殉葬を取り止め、代わって埴輪を納める葬儀を考案します。その功が称えられて焼物に適した土地を与えられ、土師職に任じられるなど、文武両道の神として現在でも崇められています。
その後1,000年の後に学問の神様と崇めらる菅原道真が誕生しますが、野見宿禰が名乗った土師氏一族のうち、菅原姓を名乗ったものがあり、その末裔が菅原道真だとされています。
出雲大社という巨大な社の中では本当に小さく目立たないものですが、天満宮の流れを汲み取れる社ゆえ、参拝は不可欠だと思います。- 旅行時期
- 2017年01月
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投稿日 2017年01月17日
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投稿日 2017年01月11日
総合評価:2.0
出雲・松江初詣の旅が終わり、到着時刻から松江発22:30の大阪行きに乗車することを決めた瞬間、珍しくお腹が減ったので松江駅から歩いて数分の場所にあるイオンモール松江で夕食を食べることにしました。
出雲そばはお昼に食べたので、別のものにしようと立ち寄りました。同じようなお店が並ぶ中で選んだ理由は特にないのですが、これが大誤算でした。メニューにあるものをストレートに選んだだけなのに、はこばれてきたものは「なにこれ?」と言うしかないもの。明らかにメニューに偽りありとしか言えません。
グルメでないかたわれが言うことではないかも知れませんが、あまりにもイケてない内容に〝お子様ランチ〟を間違えて頼んだかな~なんて苦笑してしまいました。
私が最後のお客でしたが、出た途端閉店作業に移る始末。同じ接客業に携わる人間として、ここまでやる気がない店も珍しいとすら思いました。
790円という値段で偉そうなことを言うなと言われるかも知れません。しかしセットになっている〝ざるそば〟は明らかにどこでも食べられるもの。最後の最後でやっちゃったという後悔が残りました。- 旅行時期
- 2017年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 一人当たり予算
- 1,000円未満
- 料理・味:
- 1.0
- バリアフリー:
- 5.0
- 観光客向け度:
- 1.0
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投稿日 2017年01月09日
総合評価:3.0
松江から夜行高速バス〝くにびき号〟を利用した際に休憩地点として利用しました。昼間の天気が良いときだと、秀峰大山が望める場所として記憶に残っていますが、23:00を過ぎた時間では何もありませんでした。
フードコートなどがあると、時間までに帰って来ないお客もおり、そのために出発時刻が遅れることもしばしばあることを考えれば、トイレと一服するだけのパーキングエリアの方が好都合なのかも知れません。景色を堪能するのに再訪を誓うしかなかった今回の訪問でした。- 旅行時期
- 2017年01月
- バリアフリー:
- 5.0
- トイレの快適度:
- 5.0
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投稿日 2016年12月29日
総合評価:5.0
岐阜市内にある標高329mの金華山は、岐阜市街のほとんどの場所から眺めることができる岐阜市のシンボル的な山です。古くは稲葉山と呼ばれ、山頂付近には戦国大名として名を馳せた斎藤道三・織田信長所縁の岐阜城、別名稲葉山城が再建されて聳えています。
人口45万人の岐阜市に於いて、ほとんど手つかずの自然が残る金華山には、その歴史の中に理由があります。江戸期より〝天領・お留め山〟として徳川御三家の尾張藩の管理で入山や樹木の伐採が禁じられており、明治維新以降も御料林、戦後には国有林・鳥獣保護区として保護されてきました。
金華山ロープウェイの他遊歩道も整備されており、体力のあるなしに関わらず〝山登り〟が体験できる手軽さも人気の観光地化している理由だと思われますが、自然が豊かなことが災いしてか〝イノシシ〟の出現が報告されているため注意が必要です。
片道を歩いて片道をロープウェイにする等すればバリエーションが増えるように思うのですが、ロープウェイ往復料金が1,080円に対し、片道は620円とかなり割高です。多客期はともかくオフ期にはなんとかならないものかとも思いました。- 旅行時期
- 2016年12月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- アクセス:
- 5.0
- 金華山ろーぷーウェイを利用すればすぐです。
- 景観:
- 5.0
- 岐阜市内が一望できます。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 平日の夕方は空いていました。
- バリアフリー:
- 3.0
- 通路は舗装されてはいるもののあまり足場が良いとは言えません。
-
投稿日 2016年12月29日
総合評価:5.0
岐阜のシンボル的な存在である金華山、その麓の岐阜公園から山頂駅までを結ぶ所要時間3分程の空の旅が楽しめます。金華山には遊歩道が完備されているため、ロープウェイを利用しなくても登ることはできますが、やはり景色を楽しむならばロープウェイを利用される方が良いでしょう。
季節によって運行時間が変わります。また山頂部にある岐阜城天守閣をはじめとした各施設の営業時間と、ロープウェイの運行時間は必ずしも一致していないので注意が必要です。
通常の運行は15分間隔ですが、団体や多客期には随時運航となるので特に乗れないという心配は必要ありません。今回は16:15山麓駅発に乗りましたが、山頂部施設の最終入場時間は過ぎており、遊歩道の散策のみしてきました。それだけでも標高349mの金華山から見下ろす岐阜市内の夕暮れの様子はなかなかおつなものでした。また天気が良ければ滋賀と岐阜の県境に聳える秀峰伊吹山も望むことができます。
料金は片道620円・往復1,080円ですが、この時間に山頂へと行かれる方は全員往復券を購入されているようでした。
一度は体験する価値は大いにあるように思います。- 旅行時期
- 2016年12月
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 値段はそれなりでしょう。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 時間帯と季節によります。
- バリアフリー:
- 5.0
- 考えられてはいます。
- 乗り場へのアクセス:
- 5.0
- 岐阜公園駐車場からは少し距離があります。
- 車窓:
- 5.0
- 岐阜市内が一望できます。
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投稿日 2016年12月29日
総合評価:5.0
名神高速道路伊吹パーキングエリアは滋賀県最西にあるパーキングエリアです。開業当初は駐車スペースとトイレしかなかった小さなパーキングエリアでしたが、改装されスナックコーナーやショッピングコーナーが設けられ、現在に至っています。
米原JCTと関ケ原ICの間にあるため、お隣の多賀・賤ケ岳・養老の各サービスエリアを利用される方が多いようには思うものの、軽食ならばとることができるため、意外に穴場的な存在と言えるかも知れません。
名古屋方面の各施設の営業時間は7:30~20:30となっており、早朝や夜遅くには利用はできません。しかし名前の通り滋賀県と岐阜県の県境に聳える秀峰伊吹山を望むことができ、天気が良ければその景色堪を堪能することができます。- 旅行時期
- 2016年12月
- バリアフリー:
- 5.0
- スロープと自動ドア完備です。
- トイレの快適度:
- 5.0
- 掃除は行き届いており、快適に利用できます。
- お土産の品数:
- 5.0
- 時間帯にもよりけりですが、結構豊富でした。
-
投稿日 2016年12月30日
総合評価:5.0
斎藤道三や織田信長所縁の岐阜城がある金華山。その麓に広がる都市公園が岐阜公園です。古くは斎藤道三や織田信長の居館があったとされるこの場所には、その歴史を伺い知るものや文化施設が建ち並んでおり、訪れる人々の目を楽しませています。
また岐阜城が聳える金華山山頂へと向かう登山道とロープウェイの拠点でもあり、老若男女自分の好きな方法で山登りを楽しむことができるようになっています。
車で来場された方々向けにいくつかの駐車場が設けられていますが、公園近くのものは一般では駐車できず、堤外第1・2駐車場に停めることになりますが少し歩かねばなりません。障害者手帳を持つものが同乗していると大宮町駐車場が無料で利用できます。
金華山を含めた大変広い敷地面積があるため、ゆっくり楽しむのであればそれなりの時間をみておく必要性を感じました。- 旅行時期
- 2016年12月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 平日の夕方は空いていました。
- バリアフリー:
- 5.0
- 通路は舗装されています。
- 見ごたえ:
- 3.0
- 各種施設を除けば普通の都市公園です。
-
関西店舗とは微妙に違うのかも知れません。
投稿日 2016年12月29日
総合評価:5.0
岐阜市内への郵便局巡りのドライブの帰り、夕食をとるために立ち寄りました。
年末の月曜日ゆえ、いつもと勝手が違う行程になったこともあり、ろくに休憩も取らず車で走っていたのでみょうにお腹が減ってしまったので、岐阜市内で早めにとることを決め、信号待ちをしている時にちょうどあった餃子の王将岐阜県庁前店に入りました。
歴史は長いようですが、改装されているようで店内はとても綺麗です。最近増えている店内禁煙タイプのお店ゆえ、不快感なく食事をすることができます。またメニューも関西店舗とは若干違うようで、見慣れないメニューもたくさんありました。そのため定番メニューをやめて、Aセットチャーハン大盛+餃子というメニューにチャレンジ。天津飯3人前を5分以内で食べられれば無料という最近見かけなくなったチラシが貼られているものの、歳を取ったのかゆっくりしか食べられなくなっていました。
1時間程かけてやっと完食し、しばらく休憩を取って帰路につきました。定番メニューも勿論良いのですが、たまには他のメニューにチャレンジするのも良いかな~なんて改めて思いました。- 旅行時期
- 2016年12月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- 一人当たり予算
- 1,000円未満
- 利用形態
- ディナー
- アクセス:
- 5.0
- 岐阜県庁からすぐ岐大バイパス沿いです。
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 低予算でお腹が満腹になりました。
- サービス:
- 5.0
- 他店と一緒で良い感じです。
- 雰囲気:
- 5.0
- ゆっくりはできました。
- 料理・味:
- 5.0
- なかなかイケていました。
- バリアフリー:
- 3.0
- 入口に段差があります。
- 観光客向け度:
- 3.0
- そういうお店ではありません。
-
投稿日 2016年12月30日
総合評価:5.0
金華山山頂に聳える岐阜城天守閣、昭和31(1956)年に再建されたものですが、鎌倉時代の建仁元(1201)年二階堂行政によって建立された稲葉山砦に歴史が始まります。廃城になったこともあり、歴史の表舞台から消えた時期もありましたが、戦国時代の15世紀中頃美濃国守護代斎藤利永が修復し居城としました。
戦国時代の乱戦が続く中、城主が変わりながら天文2(1533)年に斎藤道三が守護代として入城します。その後改築を経て天文10(1541)年には美濃国守護土岐頼芸を追放し、美濃国守護となりました。天文16(1547)年には織田信長の父である織田信秀と土岐頼芸に加納口の戦いで攻め立てられるもこれを撃退します。これが要因となって天文18(1549)年に道三の娘である濃姫と信長の政略結婚が成立し、斎藤家と織田家は和睦します。
天文23(1554)年には家督を嫡子斎藤義龍に譲って剃髪し斎藤道三と名乗ります。しかし道三が義龍の二人の弟を寵愛したことから親子仲は険悪となり、弘治2(1556)年に長良川の戦いで両者がぶつかることになり、道三の生け捕りを指図した義龍の命にそぐわず、道三は討ち取られてしまいます。父親の首実験を行わなければならなくなった義龍の落胆は大変大きなものだったとされています。そして永禄4(1561)年には義龍が急死し、嫡子(諸説あり)龍興が14歳で家督を継ぎますが、永禄6(1563)年の織田信長による美濃侵攻の際の新加納の戦いで家臣の竹中半兵衛らの活躍もあり、撃退はするものの、政治には無頓著だったとされる龍興の元を重臣達がどんどん離れていってしまい、永禄10(1567)年の稲葉山城の戦いではついに織田信長に居城を落とされてしまい、龍興は北伊勢の長島へと落ち延びます。その後朝倉義景の元に身を寄せますが、朝倉義景と織田信長が戦った刀禰坂の戦いで戦死したとされています。
稲葉山城の戦いで勝利した織田信長は、早速本拠地を小牧山城から稲葉山城に移し、岐阜城と名を改めます。天正4(1576)年には嫡子信忠に家督と美濃尾張の二カ国を譲ります。その後信忠の手によって岐阜城の改築が進められることになります。
しかし戦国の世の中には〝安泰〟という二文字はありません。天正10(1582)年の本能寺の変で織田信長・信忠が斃れると、留守居役の斎藤 利堯が岐阜城を掌握します。しかし間もなく天王山の戦いにて明智光秀が羽柴秀吉に敗れると、信忠の弟信孝に服しました。
清洲会議で織田信孝の居城となった岐阜城でしたが、年末に羽柴秀吉・丹羽長秀・池田元助らの軍に攻め立てられ、信孝は後見人だった織田秀信を引き渡して講和します。
翌年天正11(1583)年信孝は滝川一益と呼応し挙兵するも、後ろ盾の柴田勝家が賤ケ岳の戦いで敗れ、兄信勝に岐阜城を包囲されると降伏を余儀なくされ、後に切腹を命じられます。そして池田元助が岐阜城主となるも、翌年天正12(1584)年小牧・長久手の戦いにて池田恒興・元助父子が戦死。天正13(1585)年には池田輝政が城主となります。その後天正19(1591)年には豊臣秀勝が転封で城主とるもすぐに没し、翌文禄元(1592)年には織田秀信が城主となります。
織田信長の孫である秀信が城主となったものの、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで石田三成に呼応し西軍につきます。そして前哨戦と言われる岐阜城の戦いに於いて東軍の福島正則・池田輝政率いる35,000もの軍勢の前になすすべもなく敗れます。秀信は自刃を試みますが、池田輝政や家臣の説得により降伏し、出家し高野山へと入ります。
関ヶ原の戦後処理に於いて、岐阜城は廃城が決まり、奥平信昌に10万石を与え加納城を築城させます。これによって約400年の岐阜城の歴史は終わりました。
めまぐるしく城主が変わりつつも過ぎ行く時代を生きてきた岐阜城は、まさに兵士が血を流す様を見てきたに違いありません。輪廻転生と言う表現がありますが、まさにそのものではなかったか?そう思えてなりません。
戦前に倒壊した岐阜城は、戦後再建されて現在に至っています。一見すると平和一色の風景ですが、その時代背景を繰り返すことはないのだろうかと考えなければならないところがあるように思いました。- 旅行時期
- 2016年12月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- アクセス:
- 5.0
- ロープウェイを使えばすぐです。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 平日の夕方は空いていました。
- バリアフリー:
- 3.0
- 段差はありました。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 復元ものであれど圧倒されました。
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投稿日 2016年12月25日
総合評価:5.0
瀬田に用事があり、帰ろうとしたところに石山駅行きのバスがターミナルへと入ってきたため、出発時刻を確かめて乗車しました。国道1号線を走り、途中久保江交差点から神領団地・建部大社・瀬田唐橋を経て石山駅まで走って行きます。JRだと2分、140円で済みますが、バスだと20分、230円かかります。
ちなみにお客さんは私一人でした。さすがにこんなルートを選んで乗る方もいないのでしょうが、普段車でさっと通過するだけの車窓が、目新しく思えました。
また近江バスは、女性ドライバーの採用を積極的にしており、乗ったバスも研修中らしい女性でした。
通勤で使っているバスはオートマチックで性格が運転に出ることはまずありませんが、古いバスならではのデコンプミッション車、思いっきりドライバーの性格が出ます。
丁寧な運転を心掛けている新米ドライバーさんに頑張ってと声をかけて下車しました♪- 旅行時期
- 2016年12月
-
投稿日 2016年12月24日
総合評価:5.0
奈良県生駒郡斑鳩町にある法隆寺は、寺伝によると推古15(607)年に日本最初の女帝である第33代推古天皇と摂政であり甥にあたる聖徳太子によって創建された寺院とされています。第32第崇峻天皇が蘇我馬子によって殺害され、急遽異母姉である額田部皇女が崇峻5(592)年に飛鳥豊浦宮で即位し、第33代推古天皇となります。そして推古元(593)年には、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として〝政を摂る〟ことを命じます。摂政となった聖徳太子が推古9(601)年に造営した宮殿が〝斑鳩宮〟であり、推古13(605)年には聖徳太子自らが移り住んだとされています。その後斑鳩宮の西方の伽藍群である法隆寺・中宮寺・法輪寺・法起寺が推古帝や聖徳太子の手によって建立されたとの記録が残っているそうです。
推古天皇自身は推古11(603)年に飛鳥小墾田宮を造営し居を移したとされており、公正な女帝である推古天皇の治世のもと、摂政である聖徳太子はその才能を十分に発揮することになります。推古天皇11(603)年〝冠位十二階制〟、推古12(604)年〝十七条憲法〟等次々と制定し法令組織の基盤を整えます。そして推古15(607)年には遣隋使として小野妹子を派遣し、隋に国の独立性を認めさせるための使節派遣を行っています。
推古天皇は聖徳太子とともに〝仏法興隆〟にも熱心であったとされ、その考えによって聖徳太子が斑鳩宮をこの地に造営することになったとする説もあるようです。
推古天皇の命、聖徳太子の摂政としての平和な治世はそう長くは続きませんでした。推古30(620)年には聖徳太子が49歳で薨去、後ろ盾であった叔父の蘇我馬子も推古34(624)年に薨去します。そして推古36(628)年には推古天皇も飛鳥小墾田宮にて75歳で崩御されます。その際後継者の具体的な指名をしなかったこともあり、権力争いの戦いが勃発することになります。斑鳩宮に聖徳太子の薨去後に太子の皇子である山背大兄王一族が居していたものの、皇極2(643)年蘇我入鹿によって斑鳩宮は焼き払われ、その際山背大兄王一族は自害して果て、太子の一族(上宮王家一族)は滅亡します。
その斑鳩宮跡地に建立されたのが現在の東院伽藍とされています。奈良時代に斑鳩宮の荒廃を嘆いた僧によって建立されたとされているようです。日本最古の木造建築物・最古の五重塔等、〝最古〟と名の付くものが非常に多い法隆寺ですが、血が流れた歴史もありました。しかしその中で戦いの場となってしまった斑鳩宮は焼失したものの、法隆寺は大丈夫であった説があります。勿論聖徳太子自身の存在論という問題もあれど、現実には焼失していてもおかしくない状況で免れたことになにか因果めいたものを感じます。
今は世界遺産に指定され平和一色のお寺さんになってはいますが、明治の廃仏毀釈の考えの下では南大門に続く築地塀がマジで取り壊されようとしたことなど考える事柄はごろごろ転がっているように思います。楽しい史跡巡りも良いですが、こうして今何もなく見学できるのは当たり前のことではない事実を考えないといけない時代になっている…そう思えてなりませんでした。- 旅行時期
- 2016年12月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 5.0
- 駐車場からすぐです。
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 時期と時間によりけりです・
- バリアフリー:
- 3.0
- 結構きついと思います。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 荘厳さを感じます。
-
投稿日 2016年12月24日
総合評価:5.0
法隆寺参道の松並木を進むと大垣と呼ばれる築地塀に囲まれた大きな門があります。法隆寺南大門、団体や車を利用して法隆寺を訪れた場合には駐車場から歩いて向かうために必ず通る場所でもあります。
飛鳥・奈良時代の建造物が多く残る法隆寺の中では珍しい室町時代に建立されたものであり、移設を経験しています。元々は50m程奥にあったそうですが、火災によってオリジナルのものが焼失してしまったため、移設改築を経て現在のものとなっているそうです。
推古天皇と聖徳太子が開基となっている法隆寺ではあるものの、明治時代の廃仏毀釈が進められる際に、この築地塀が取り壊されかかったという話が寺伝に残っているそうです。元々南大門の火災は僧侶同士の争いの結果のことであり、天皇家所縁とも考えられる法隆寺の扱いには、理解し難いこともあるように思えます。それら歴史の生き証人として観光客を静かに見守っている南大門は、つまらない争いは慎むように…と戒めているように感じたのは私だけでしょうか。- 旅行時期
- 2016年12月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 5.0
- 駐車場からすぐです。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 時期と時間によって左右されます。
- バリアフリー:
- 3.0
- 段差はあります。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 大きさと美しさに圧倒されます。






























































