たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さんのクチコミ(17ページ)全1,843件
- サムネイル表示
- リスト表示
- ホテル
- ショッピング
- グルメ・レストラン
- 交通機関
- 観光スポット
- 基本情報
-
投稿日 2020年10月03日
総合評価:5.0
守山市守山、中山道沿いに天満宮はあった。社伝によれば平安時代中期の天徳3(959)年付近の東門院境内に鎮座したのが創建とされている。安土桃山時代の天文15(1546)年に近隣からの失火によって神祠宝庫とも焼失している。その後幾度の変遷を経て明治11(1878)年、現在地に菅原道真公の末裔である京都高辻家の邸宅内に建立されていた社殿と神宝を移し現在に至っている。
御祭神は菅原道真公であるが、右大臣であった菅公が藤原時平の讒言によって太宰府への流刑に処せられ、不遇のまま逝去した延喜3(903)年以降〝道真の祟り〟と恐れられた事象が多発したことから、天暦元(947)年京都北野社に祀られた時期にほぼ被っていることから、全国に残る〝天満宮〟と同様御祭神菅原道真公を勧請したことが創建に繋がっているのであろうと推測できる。事実官公の末裔である高辻家から寄進された神宝は道真所縁のものも少なくはなく、祭神の神像は菅公御賀の肖像と寛平6(894)年に菅公自らが刻んだ木像彫刻であると伝えられている。旧社格は村社であり、決して大きくはない天満宮ではあるが小さくても大規模な天満宮と同じものから構成されていることに気付いたのはちょっとびっくりした。往時では〝村の鎮守の神様〟として崇めたてられていたことも目に浮かぶようだった。- 旅行時期
- 2020年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 守山駅から徒歩10分程度。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 時期と時間によりけり。
- バリアフリー:
- 5.0
- 砂利敷きではあるが石畳があり歩きやすかった。
- 見ごたえ:
- 5.0
- コンパクトでも確かに天満宮であった。
-
投稿日 2020年10月08日
総合評価:5.0
守山駅からバスでひと停留所の〝油池〟、その近くにある吉身町墓地の一角に一部が欠けた六地蔵が残っている。守山空襲の弾痕残る地蔵と呼ばれる地蔵尊は、守山空襲の傷跡を今に伝えるものとして残され現在に至っている。
昭和20(1945)年7月30日、大津の滋賀海軍航空隊を爆撃した空母ハンコックの艦載機であるF4F〝ワイルドキャット〟4機が守山付近へと来襲。守山駅発車直後の国鉄車両と駅周辺に対し機銃掃射を浴びせた。犠牲者・負傷者数は記録のばらつきがあるが、死者11名・負傷者22名が身元判明者として記されている。
その機銃掃射の標的のひとつとなったものが、吉身町墓地に残る〝守山空襲の弾痕残る地蔵〟である。駅や線路からそう離れていないことから、付近に加えられた機銃掃射の弾が当たったものである。粉砕された形跡がないことから銃弾が直接命中し、その衝撃による破壊の証拠にもなっている。
管理者の方がこの地蔵を残す〝理由〟を書かれていた。『地蔵さん、痛かったやろうな。怖かったやろな。新しい地蔵さんに変えたらよいのやけど、この傷跡を後世に残し、戦争のむごさを伝えたいのや。ごめんね。』と。
戦後75年を過ぎ〝戦跡〟と呼ばれるものが開発や老朽化という理由に於いて消滅して行っている事実がある。残せるものは残すその考えを目にして、改めて戦争の悲惨さを考えさせられた私であった。- 旅行時期
- 2020年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 油池バス停すぐ。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 普段は訪れる方もないようだ。
- バリアフリー:
- 5.0
- 地蔵前はコンクリートで舗装されている。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 機銃の破壊力がわかるものになっている。
-
投稿日 2020年10月13日
中山道守山宿 町屋 うの家 (守山市歴史文化まちづくり館) 守山
総合評価:5.0
中山道守山宿の街並みに似合う大きな建物がある。〝町屋うの家〟は現在では守山市歴史文化まちづくり館となっているが、元は滋賀県初の総理大臣となった宇野宗佑氏の生家である。造り酒屋として平成21(2009)年頃までは事業を続けていたようだが、その後廃業。明治初期に建てられた築140年と言われる母屋は、守山市が平成22(2010)年に宇野家を譲り受け、改修工事を経て平成24(2012)年1月29日に守山宿に於ける観光拠点・情報発信ブースと憩いの場としてリニューアルオープンし今日に至っている。
宇野宗佑氏生家として資料館を運営していた時代もあったようだが、氏の収集品の数が多過ぎて〝飾り切れない〟ことから単独での資料館運営を諦めたとも言われており、現在では守山市名誉市民となっている友禅作家で人間国宝の森口華弘氏共々、その足跡を見せる〝展示セクション〟として訪れた者に功績を伝えている。またレストランやカフェなどもあり、観光客の立ち寄り拠点となっている他に、会議室や和室を貸し出すことによって地元住民の利用者を集めることも行っており、宿場町にある旧家は外観はそのままでも間違いなく〝人の拠りどころ〟として第二の人生を送っている。
短命内閣で終わった宇野政権ではあるが、宗佑氏の略歴などを見ていると〝サラブレッド〟の如く政界入りした訳ではないことがわかり、親しみを感じられるようになれた場所でもあった。- 旅行時期
- 2020年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 守山駅から徒歩10分程度。
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 見学にはお金は不要です。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 時期と時間に大きく左右されます。
- 展示内容:
- 5.0
- 古と現在が融合しているように思う。
- バリアフリー:
- 5.0
- バリアフリー化は一部を除き完了している。
-
投稿日 2020年10月01日
総合評価:5.0
旧中山道沿いにある比叡山東門院守山寺。創建は奈良時代末期に最澄が比叡山延暦寺を開いた際に四境に門を構え、その東門としたことに始まるとされている。平安時代初期には征夷大将軍である坂上田村麻呂が東威東征の為に守山まで進軍した際に、東門院の仁王像に戦勝祈願を行い見事念願成就すると感謝の意から境内に七堂伽藍を整備して千手観音を勧請し、さらに桓武天皇からは寺領が寄進され〝守山寺東門院〟という寺号と院号を賜っている。
山号・院号・寺号は〝比叡山の東門を守り給う寺〟に由来するとされ、この界隈の地名である〝守山〟に繋がっていると言われている。弘仁元(810)年に琵琶湖に十一面観音像が出現した事を仏意と悟り本尊として勧請し、以後鎮護国家の道場として整備され今日に至っている。
旧本尊の十一面観音像は守山観音として信仰の対象になったものの昭和61(1986)年の火災により焼失しているが、その他にも寺宝を多々所有しており、国の重要文化財や守山市指定文化財となっているものが多く残っている。
江戸時代には中山道守山宿に境内が位置していることから格式高い寺院として朝鮮通信使の宿所として利用されていた。
境内には樹齢500年とも言われる銀杏の木や歴史ある石塔もあるが夜だったこともあり詳しくはわからなかった。しかし事前調査で情報が無かった〝ライトアップ〟が行われており、昼間とは違う幻想的な景色が広がっていた。
歴史探索をするにはやはり昼間の参拝が必要であるが、秋の夜に浮かび上がるライトアップされた景色はまた違った意味で趣があった。ライトアップ期間中であれば昼夜訪れることでまた違う素晴らしさを感じることができる場所だと改めて感じた。- 旅行時期
- 2020年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 守山駅から徒歩12分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- ライトアップを撮影する者1人あり。
- バリアフリー:
- 4.0
- 境内は砂利敷である。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 幻想的であった。
-
投稿日 2018年10月11日
総合評価:5.0
守山駅構内にあります。地元の観光案内の他に、行政関係の手続きや商工会議所の試験受付まで手広く行っています。
公の施設にも関わらず7:30~19:30と開館時間も長く、なにかと使い勝手の良い施設です。
また市内観光するために無料で貸し自転車を提供されており、あまり便利とは言えないバスでの観光を補完するようにされていることはポイント高いものだと思いました。
中山道六十九次の六十七番目の宿場町である守山。交通の要衝であることは今なお変わらず、そのために多くの道が複雑に絡まっていることから、バスが遅れることは当たり前のこの街散策に自転車を利用した観光は良いものです♪- 旅行時期
- 2018年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 守山駅と繋がっています。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 時間と時期に左右されます。
- バリアフリー:
- 5.0
- エレベーターは完備していました。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 観光案内所としては充実していました。
-
投稿日 2020年10月04日
総合評価:5.0
比叡山延暦寺を守る東の関門として創建された東門院に因み名付けられた町守山。江戸時代初期の寛永19(1642)年に〝守山宿〟として制札が与えられ、宿場町としての歴史が始まった。
中山道69宿のうち草津・大津は東海道と重複しており、事実上中山道最後の宿場町でもあった。京からの東下りの際には朝京都を発つと夕方には辿り着ける八里の距離に位置しており、〝京立ち守山泊まり〟と言われるように利用者が大変多く繁栄したと言われている。その結果後に東の吉身と西の今宿が加宿となりさらに発展している。
しかし道路整備が進む中で旧街道は歴史的建造物も多く、幅員拡張ができないために街道とはまた違う場所を整備し道路網を作り上げた。残された旧道は狭いながらも残されたため、歴史的名所として観光客を集めている。
しかし守山宿の場合滋賀県道2号線が旧街道を通っていることから、一方通行ではあるものの車の通りがある。そのため建物に見惚れて道路の真ん中で立っているとかなり危険である。
周辺に駐車場は完備しているため、区間を定めてでも良いので車両通行禁止にすべきではと歩きで向かった私は感じた。- 旅行時期
- 2020年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 守山駅から徒歩10分程度。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 夜だったので散歩されている方位だった。
- バリアフリー:
- 5.0
- 道路は舗装されている。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 暗くても歴史がわかる。
-
投稿日 2020年10月12日
総合評価:3.0
ピエリ守山で〝めっちゃさわれる動物園〟として一世風靡した堀井動物園。動物の取扱を巡って裁判まで起こされ、結果罰金刑が言い渡された。しかし代表を変えた別会社を作り未だ活動していると言われている。
本拠地は一見すると〝ゴミ屋敷〟のようにしか見えない上、決して衛生的な環境とは言い難い状態で現在に至っている。
動物園そのものを廃業したと言われているようだが、鍵のかかった倉庫内には鳥が飼育されている様子が伺えた。確かに夏場だと界隈ではえも言われぬ臭いが漂っており、近隣住民にとっては迷惑以外なにものでもない。
園長の判断次第であるが、設備を再構築してやり直せるのかどうかを判断し、無理ならば判決に基づいて廃業するしかないであろう。中途半端にされることで、飼われている動物も近隣住民も不幸にしかならないことは目に見えているとしか思えなかった場所であった。- 旅行時期
- 2020年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 岡町バス停からすぐ。
- コストパフォーマンス:
- 1.0
- 安くはないはずだった。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 部外者は勿論関係者も見かけなかった
- 施設の快適度:
- 1.0
- いかにも悪そうという感じ。
- バリアフリー:
- 3.0
- 段差はないがごちゃごちゃしているのは確かである。
- 動物・展示物の充実度:
- 1.0
- 廃業すべきレベルである。
-
投稿日 2020年10月01日
総合評価:5.0
旧野洲郡中主町にある兵主大社。歴史は古く日本武尊の父親とされる第12代景行天皇が皇子である稲背入彦命に命じ、大和国に八千矛神(大国主神)を祀り兵主大神として崇敬したことに端を発するとされている。その後志賀高穴穂宮に遷都に伴い穴太の地に遷座。第29代欽明天皇の御代に琵琶湖を渡り、現在地に遷座し現在に至っている。
兵主を〝つわものぬし〟と呼び歴代武家の信仰厚く、源頼朝による神宝、足利尊氏による楼門造営等社宝として残っており、江戸時代には社領の寄進を受ける等手厚い保護を受けている。
社号碑のある鳥居から入る参道は途中で直角に曲がっており、一般的な神社らしからぬ造りとなっている。境内は生い茂る木々はないものの広い境内と歴史ある建物から厳か感の漂う場所となっている。旧野洲郡では名神大社として御上神社があるが、また違う趣のある神社であった。- 旅行時期
- 2020年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 野洲駅からバス15分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 夕方には1人の参拝者と出会っただけだった。
- バリアフリー:
- 3.0
- 参道は砂利敷である。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 光を遮るものはないが厳か感が漂っていた。
-
投稿日 2020年08月06日
総合評価:5.0
貴生川から信楽間14.7kmを運行している信楽高原鐵道信楽線。信楽線とは言うが他に路線はない。旧国鉄・JR西日本信楽線を経て第三セクター信楽高原鐵道となり現在に至っている。
地元に因む〝ラッピングトレイン〟を走らせており、訪れたときは〝リサ・ラーソンラッピングトレイン〟が走っていた。当日の運行はSKR401・501の2両編成となっており、終日単線運行である信楽高原鐵道信楽線を往復していた。予想外だったのはSKR311〝SHINOBI-TRAIN〟が信楽駅構内に留置されていたこと。もしかしたら日中はことらが稼働していたのかも知れない。
三セク後に大きな事故を起こした信楽高原鐵道。その後も自然災害で廃止の憂き目にあいつつも、地元住民やファンに助けられてきた鉄道会社も少ないのではと考える。夕方18:00頃の信楽発貴生川行は、ぽつぽつと学生が乗り込んで出発して行った。この人数はコロナ禍で学校が休みだという理由だが、平日ならばそこそこの人数が乗り込むはずである。
いつもラッピング期間が延びてしまう不思議なところはあるが、安全面だけには最善の注意を払いながら、通勤通学・レジャーで信楽を訪れる者の足になり続けて欲しいと願う私であった。- 旅行時期
- 2020年08月
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 入場券は最低運賃の210円。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- コロナ禍の影響があって…。
- バリアフリー:
- 4.0
- 無人駅も含め階段利用が多いが、スロープがある駅もある。
- 乗り場へのアクセス:
- 5.0
- 観光地近くには駅はある。
- 車窓:
- 5.0
- 山の中のローカル線の旅。
-
投稿日 2020年08月11日
総合評価:5.0
信楽高原鉄道玉桂寺前駅近くにある秋葉山十輪院玉桂寺。第47代淳仁天皇が平城京の北京として造営した保良宮に建築したとして開基であると寺伝には書かれている。
その後空海弘法大師によって、保良宮跡地に現在の玉桂寺の基礎が開かれることとなり、以来ご本尊を弘法大師としつつ現在に至っている。
寺宝や仏像には由緒あるものが多数あり、旧蔵の重要文化財であった京都国立博物館に寄託していた木造阿弥陀如来立像は、調査により鎌倉時代建暦2(1212)年に作られ、像内の願文により浄土宗の祖法然の弟子であった源智が、師の一周忌に際して発願したものであることが判明している。また同じく像内に残されていた結縁交名から、数万もの人物がこの阿弥陀如来像に結縁したしたこともわかっている。
作者は快慶の弟子である行快と推定されており、昭和56(1981)年に国の重要文化財に指定された後、平成22(2010)年の法然の八百年大遠忌を記念し浄土宗に譲渡されている。
その他現存する仏像や石塔は甲賀市の指定文化財となっているものもあり、樹齢5~600年の高野槙は滋賀県指定の天然記念物となっている。
境内は高野槙を含めた木々が生い茂り、昼間でも薄暗く感じる場所があったりと厳か感が漂っている。またそのような中に一際目立つ一願成就大不動明王は、カラフルさが一際目を引く存在になっている。
ぼけ封じの観音霊場でもあるが、玉桂寺准四国八十八ヶ所霊場札所めぐりが境内で結願できるなど、ありとあらゆる霊場巡りができる場所として、多くの参拝者が訪れる場所となっている。
最近あまり見かけない〝忠魂碑〟が境内に残るなど神社の要素も併せ持っている玉桂寺は、地元住民からすれば氏神様のような感覚を持たれているようにも感じられる。ただ古いだけではなく、新しいものも随所に取り入れられている玉桂寺は、観光という意味でも訪れる価値があると改めて感じる場所であった。- 旅行時期
- 2020年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 信楽高原鉄道玉桂寺前駅より徒歩5分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 時期と時間に左右されます。
- バリアフリー:
- 4.0
- 境内の多くは砂利敷です。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 〝旧〟と〝新〟の微妙なコンビネーションが素晴らしい。
-
投稿日 2020年08月11日
総合評価:5.0
信楽高原鉄道玉桂寺前駅から信楽高原鉄道線路と大戸川を渡る橋である保良の宮橋。駅からお寺までをつなぐ参道を兼ねています。
地方活性化施策の一環として平成2(1990)年に架橋されたもので、歩行者専用となっているが、駅側入口には扉が設けられており、動物の通行もあるようだ。
名前の由来は奈良時代淳仁天皇が北京として建設を進めた保良宮に由来している。保良宮伝承地は他にもあるが、玉桂寺を建立したとされる空海弘法大師が残した寺伝に基づいている。
鋼製の吊り橋は何の変哲もない橋のように見えるが、列車の運行時間に被れば信楽高原鉄道の車両を真上から撮影できる撮り鉄御用達の場所でもある。
夜にはなかなか撮影の難しい場所ではあるが、カメラに納めなくても見るだけで充分満足の行く場所でもあった。- 旅行時期
- 2020年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 信楽高原鉄道玉桂寺駅下車すぐです。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 時期と時間に左右されます。
- バリアフリー:
- 5.0
- 両岸はスロープが付いています。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 色々な角度から眺めると良さがわかります。
-
投稿日 2020年08月12日
総合評価:5.0
国道422号線上朝宮から滋賀県道522号線を暫く北上すると右手に見えて来る。岩屋山仙禅寺というのが正式な呼称であるが、通称の岩屋観音として知られている場所である。開創は奈良時代の養老7(723)年鷲峰山金胎寺(宇治田原町)の別院として行基の手によると伝えられており、山岳信仰の霊地として最盛期には僧房五宇を有して栄えたと記されていた。
しかし交通の要所に建立されたことが災いし、暦応・文明の2度に渡る兵火によって寺は焼失する。その後巨岩上に小堂が作られて、本尊十一面観音秘仏(未公開)を安置して現在に至っている。小堂(観音堂)の床下右にある花崗岩の巨岩には、三尊形式の摩崖仏が浮き彫りにされている。中央には薬師如来坐像が彫られており左の脇像の下には〝建長元(1249)年〟と刻まれていることから、我が国に残存する摩崖仏像では二番目に古いものとされ、昭和56(1981)年9月5日当時の信楽町によって町指定登録文化財(彫刻)に指定されている。平成16(2004)年10月1日に信楽町は甲賀市となり消滅するが、その後も市指定登録文化財(彫刻)となり現在に至っている。
本尊十一面観音を拝むことはできないが、薬師如来坐像は見ることができる。しかし摩崖仏の摩耗が激しいことに加えて、鬱蒼とした木々が日光を遮っているために本当に見辛いものとなっている。デジカメでは光量を加減したにもかかわらず仏像を収めることができなかった。それをストロボを焚いてアナログカメラで撮影したものだけが薬師如来像を確認できることに気付いた。野外でありながら〝光の加減〟を考えなければならない像は、決して多くはなかった記憶から、それだけ〝貴重な体験〟だったことになる。寺付近の場所を離れ、集落に出ると日差しが残っていることを知り、改めてこの場所がありがたい場所であることに気付いた私であった。- 旅行時期
- 2020年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 朝宮郵便局から車で5分程の場所。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れたときには誰にも会わなかった。
- バリアフリー:
- 3.0
- 足元は舗装されてはいない。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 苦労して見ることができた阿弥陀如来像には感激した。
-
投稿日 2020年08月19日
総合評価:5.0
その昔私は仙台に住んでいた。帰省の際にたまに飛行機も利用していたが、当時空港への足は仙台駅もしくは館腰駅からのバス便しかなく、定時運行が難しい路線だった記憶がある。
今回は初めて仙台空港アクセス線を利用した。普通列車ではあったが30分かからず仙台駅から空港まで到着できた。バスだと1時間を費やしていた時代とは比較にならない便利さだった。
三セク運行ということで割高感は否めない。しかし快適さは格段に上がったので、コスト面の見直しがされればなおありがたいのに・・・と感じたバス路線時代を知っている私であった。- 旅行時期
- 2019年05月
- コストパフォーマンス:
- 3.0
- 割高感はある。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 時と場合によりけりだ。
- バリアフリー:
- 5.0
- 駅舎は考えられている。
- 乗り場へのアクセス:
- 5.0
- 仙台駅では乗り継ぎもスムーズであった。
- 車窓:
- 4.0
- 単調に見えるのかも知れない。
-
投稿日 2020年08月18日
総合評価:5.0
信楽高原鉄道玉桂寺前駅。昭和62(1987)年7月13日に開業した駅は、第三セクター化された際に開業した駅です。
高野槙で知られる玉桂寺へは保良の宮橋を渡って5分程の距離にあり、参拝に公共交通機関を利用するにはロケーション的には便利な駅です。
日常生活では通学時の利用程度のようで駅舎や関連施設はなく自転車置き場のみがあるだけでした。
参道を兼ねている保良の宮橋とは絶妙の位置関係にあり、1面1線の駅ホームからの橋や橋から見た駅舎の景色などはパンフレットに掲載される程有名なものとなっています。
運行本数は1時間あたり1~2本しかないために玉桂寺滞在を含む時間取りには注意が必要ですが、上手く利用すれば利用価値は高いと思います。- 旅行時期
- 2020年06月
- 施設の快適度:
- 5.0
- 何もないが綺麗にはされている。
- バリアフリー:
- 5.0
- 駅ホームまではスロープがある。
-
これやこのゆくもかえるもわかれては知るも知らぬも逢坂の関~蝉丸~
投稿日 2020年09月11日
総合評価:5.0
国道1号線から少し右手に入ったところに碑が建立されている。平安時代中期に不破関・鈴鹿関と共に〝三関〟のひとつとして交通の要所として名を馳せていた。古より貴族や武将、文人墨客が通過しており、中でも盲であり琵琶の名手であった蝉丸は、この地に庵を結んだとされており百人一首に取り上げられている〝これやこのゆくもかえるもわかれては知るも知らぬも逢坂の関〟の一首は、この地を通り過ぎる人の流れを詠んだものとされている。
碑の残る界隈は鉄道建設や、国道・名神高速の建設時に大きく道が掘り下げられたこともあり、往時を知るものは残ってはいない。またその絡みもあり逢坂の関そのものの存在場所にも多々異論があり、多くの説では現碑よりも少し大津方向に置かれていたのではないか?と言われている。
狭い旧道沿いに蝉丸神社共々あることから、車を停めるスペースがない。うなぎの名店かねよの駐車場を30分以内であれば利用可…と書かれているものも散見するが確認はできなかった。また界隈の史跡を巡って歩くにも、京阪京津線大谷駅から上栄町駅まで京津線の駅間距離が最も離れている区間を歩かねばならない。訪れることの難しさを感じた場所であった。- 旅行時期
- 2020年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 京阪電鉄京津線大谷駅から徒歩5分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪ねたときは誰にも会わなかった。
- バリアフリー:
- 5.0
- 碑の周りを除けば舗装はされている。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 歴史を感じることはできた。
-
投稿日 2020年09月20日
総合評価:5.0
大津市秋葉台、国道1号線から名神高速道路に至る住宅地の中に大規模な前方後円墳がある。茶臼山古墳は4世紀末から5世紀初頭古墳時代中期の築造とされており、被葬者は明らかではないが首長墓として考えられており、南側の小茶臼山古墳と共に大正10(1921)年3月3日に国の史跡に指定されている。
壬申の乱で敗れ自害した大友皇子(弘文天皇)やその一族の墓とも言われるが、築造推定時期からはずれており、第九代開化天皇の第三皇子で第12代景行天皇の曽祖父である彦坐王のものとされる説の方に信憑性があると言われている。
いずれにせよ宮内庁が絡んではいないので皇族の墳丘としては可能性が低く、往時の首領豪族のものであるというのが事実であるように思う。
茶臼山・小茶臼山古墳がある一帯は公園になっており、近隣の住民の憩いの場所になっている他、外回りの仕事をしている者の休憩場所として利用されている。その他グラウンドもあり野球やサッカーなども行われており、〝歴史公園〟の名が相応しいものとなって現在に至っている。
史跡指定はされてはいるものの御陵のように囲いがある訳ではないので、公園一帯を色々な目的で利用されていることを目にすることができる。歴史に触れながら大人になって行く子供達に、羨ましさを感じてしまう場所であった。- 旅行時期
- 2020年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 京阪電鉄膳所本町駅より徒歩15分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 公園やグラウンドの利用者はいるが、古墳には人はいない。
- バリアフリー:
- 5.0
- 公園部分は舗装されている。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 一見して古墳とわかるものである。
-
投稿日 2020年09月20日
総合評価:5.0
いつも夜に訪れている道の駅妹子の郷。今回は昼間訪れることができた。人通りがあることが大きな違いでもあるが、今年の場合は〝Welcome to IMOKONOSATO〟と記された〝壁書き〟にある。6月に訪れた際にはシーズンが書かれておらず、2020というYearのみ描かれていた。それから3ヶ月が経ちどうなっているかを見たところ、シーズンは書かれてはいなかったがなんと〝アマビエ〟が描かれていた。気付く者も少ないかも知れないが、なんだかほっこりする気持ちになった。
なお24時間オープンとなっているローソン和邇妹子の郷店についてであるが、当面の間は時短営業となっており06:00~23:00となっているため注意が必要である。- 旅行時期
- 2020年09月
- バリアフリー:
- 5.0
- スロープが刻まれている。
- トイレの快適度:
- 5.0
- いつも清掃が行き届いており快適に利用できる。
- お土産の品数:
- 5.0
- 品数は豊富にあった。
-
投稿日 2020年09月20日
総合評価:5.0
大津市役所の裏、弘文天皇長等山前陵向かいに重厚な鳥居が建つ。国宝指定されている新羅善神堂である。平安時代に園城寺を再興した智証大師円珍が、留学先の塔から日本に戻る際、夢枕に我は〝新羅明神〟と名乗る老翁が出てきた。翁が言うには、我が像を寺の守護神として祀るようにと伝えて消えて行った。
帰国後比叡山の山王院に住んだ後、延暦寺第5代座主となった円珍は園城寺(三井寺)を賜り伝法灌頂の道場とした。その後比叡山を山門派が占拠したため、園城寺は寺門派の拠点となるが、その際に彫られたもののひとつが〝新羅明神像〟である。
当時園城寺は広大な敷地を持っており、この新羅善神堂の場所は寺域北端であったとされる。後に武家としての頭角を現し官軍として前九年の役を戦った源頼義が新羅明神に詣でて戦勝を祈ったとの記録が残っており、その新羅明神への信仰から源氏と園城寺の深い関係ができたと言われている。その流れで頼義の三男である源義光はこの園城寺〝新羅善神堂〟で元服し、以降新羅三郎義光と名乗って武功を上げている。
源氏との繋がりが強かった園城寺は、源頼朝をはじめとする源氏の棟梁からの寄進もあり栄えたとされているが、その後源実朝が暗殺されて北条得宗家が政治を司った時には荒廃し、南北朝時代の貞和年間に源頼義に始まる河内源氏の足利尊氏によって再建されたものが、現存する新羅善神堂とされている。安土桃山時代には豊臣秀吉によって園城寺が破却されるも、この新羅善神堂は堂とはあるものの園城寺の守護神である新羅大明神を祀った鎮守社、つまり神社であり祟りを恐れて他の堂宇は全て破却される中で唯一取り払われずに残っている。
明治34(1901)年には室町時代の建造物の特徴を色濃く残している建物として国宝に指定されている。
しかし現在では残念ながら訪れる者もおらず参道を歩くにも蜘蛛の巣が張っている状態であった。歴史を辿るにあたりかなり重要な立ち位置にあると思うのだが、その威厳は伝わってこない。園城寺の管理地として〝立入禁止〟の立て札のみが目立っている姿にかなり残念な思いをした。- 旅行時期
- 2020年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 京阪電車大津市役所前駅より徒歩5分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 参拝者には会わなかった。
- バリアフリー:
- 3.0
- 足場は悪い。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 建物の立派さは良くわかる。
-
投稿日 2020年09月20日
総合評価:5.0
シベリア鉄道の極東地区起工式典に出席する途中日本に立ち寄ったロシア帝国皇太子ニコライ。明治24(1891)年5月11日に琵琶湖への日帰り観光を終えて京都へと戻る際、人力車で現場付近を通りかかったところ、警備にあたっていた滋賀県警察部守山警察署巡査の津田三蔵にサーベルで切りつけられ裂傷を負った。傷は長かったものの浅く命にかかわるものではなかった。三蔵は即座に捕らえられるが、その処分を巡って小国であった当時の日本は揉めに揉めている。皇族に対する危害を与えた〝大逆罪〟を適用しての死刑が囁かれる中、時の大審院院長児島惟謙は〝日本は法治国家である〟という姿勢を崩さず、最終的には一般人に対する謀殺未遂罪を適用し〝無期徒刑〟の判決を下し三権分立の司法権の独立を貫いた事件でもあったことが知られている。
犯人の津田三蔵は移送・収監された釧路集治監に於いて2ヶ月後に病死。怪我を負ったニコライは本国へと戻り、その後ロマノフ朝第14代ロシア皇帝となったニコライ2世も、日本人差別が進んだ結果とも言われる日露戦争に敗北し、国内が乱れる中ロシア革命が勃発し、皇帝の地位を失った末家族もろとも処刑されている。
大津事件の際に出血を拭った手拭いが後にDNA鑑定され、革命で処刑された王女達であることを証明したことは皮肉であるとしか言いようがない。旧東海道沿いであり、人通りも少ない場所にひっそりと建つ〝碑〟がその物語を語っているように見えた場所であった。- 旅行時期
- 2020年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 大津駅から徒歩10分程度。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 旧道沿いなので少なめである。
- バリアフリー:
- 5.0
- 碑の周りは舗装されている。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 石碑だけではあるが、輪廻転生を表すには十分である。
-
投稿日 2020年09月19日
総合評価:5.0
下阪本にある東南寺。場所柄坂本城内にあったとされる寺院は、奈良時代後期延暦年間に最澄が創立したものとされている。境内が比叡山の東南戸津ヶ浜にあったことから東南寺と呼ばれるようになったものであるが、江戸時代寛永年間に高島郡今津にあった一堂を当地に移した経緯から今津堂とも呼ばれることもある。
伝教大師最澄が文字や仏教というものをを知らない庶民にも広く布教し、両親の追善供養の為に開いた〝戸津説法〟が行われた場所として知られており、令和の時代になっても天台座主から直接使命された僧侶が最澄の志を継ぎ法華経を解り易く民衆に説法を行うことから、天台座主の登竜門としても知られている。
また境内は坂本城二ノ丸跡地とされており、本能寺の変後の明智左馬之助秀満によって火をかけられ、坂本城落城の際の戦死者を祀る供養塔が建立されている。
明智氏の首塚は少し離れた場所にあり、この地は家来筋のものだと言われているが、詳細はわかっていない部分が多いようだ。
坂本城の最後は光秀の妻子を殺害した秀満が切腹し、残る重臣が火薬庫に火をつけたため木っ端微塵に吹き飛んでしまったとされていることから、城郭のあった場所が残っているとは考え難いのが事実であるが、そのあたりは寛永年間の改修時に歴史を遡って供養塔を建立したのではないかと推測する。
現在の坂本城跡でも言われることであるが、本丸跡が城跡公園となっているに過ぎず、城内とされる場所に石碑が建てられていることも知らない観光客も多いと聞く。折角大河ドラマ〝麒麟が来る〟で明智光秀像に関心が集まっていることを踏まえると、往時の坂本城をビジュアルで復元し、今なお残る寺院が坂本城内にあることを知らしめることに繋げれば尚更興味深いものになるのではないかと感じたのは私だけでは無いと思う。- 旅行時期
- 2020年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 坂本城跡公園から徒歩5分くらい。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れた際には誰とも出会わなかった。
- バリアフリー:
- 4.0
- 石畳の部分もあるがほとんど砂利敷である。
- 見ごたえ:
- 5.0
- やはり圧倒される。





















































































