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jijidarumaさんのクチコミ(6ページ)全659件

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  • ドレスデン:宗教改革者マルティン・ルターの大きな銅像が聖母教会前に立っている。

    投稿日 2024年03月13日

    マルチンルター像 ドレスデン

    総合評価:4.0

    宗教改革者Martin Lutherマルティン・ルターの足跡をたどる上で、重要な町(Eislebenアイスレーベン 、Wittenbergヴィッテンベルク)が1996年に世界遺産に登録された。
    “Lutherstadtルターの町“はLutherstadt Eisleben 、Lutherstadt WittenbergとMansfeld-Lutherstadtマンスフェルト・ルターシュタットの三つを言う。

    また、“Bund der Lutherstaedteルターに関連する諸都市の連盟“が 1993年に Wormsヴォルムス(同地のルター記念碑建立125周年の時)で結成されている。
    Eislebenアイスレーベン 、Wittenbergヴィッテンベルク と共にWormsヴォルムス 、Augsburgアウグスブルク、Coburgコーブルク、Eisenachアイゼナハ、Erfurtエアフルト、Halleハレ (Saaleザーレ)、Heidelbergハイデルベルク、Magdeburgマグデブルク、Marburgマーブルク、Nordhausenノルトハウゼン、Schmalkaldenシュマルカルデン、Speyerシュパイアー、Torgauトルガウ、Zeitzツァイツの16都市である。
    ルターが活躍し、影響を与えた範囲に驚く。 

    写真に載せたルターの銅像(ポーズは異なるが)の写真がある。
    ドイツの旅に順次したもので、アイスレーベンの古図の所で書いた“Bund der Lutherstaedteルター都市同盟”のメンバーの一部である。


    2011.05.18. “Lutherstadtルターの町“のWittenbergヴィッテンベルク、Eislebenアイスレーベンのマルクト広場に立つルターの銅像

    2011.05.21.ドレスデン:再建されたFrauenkircheフラウエン教会(聖母教会)をバックに立つルターの銅像(ノイマルクト広場)

    2013.10.27.Wormsヴォルムス:Lutherdenkmalルターの記念碑像・・・ヴォルムスは宗教改革者としてその名を残したマルティン・ルターゆかりの宗教都市で、ルター都市同盟のメンバーである。

    2019.09.25.ハノーファー:マルクト教会南側に立つルターの記念像(現在の像)

    尚、この口コミに投稿されている他の方の写真はFriedrich August II. (Sachsen)フリードリヒ・アウグスト2世 (ザクセン選帝侯) の像です。念のため。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0

  • アウグスト強王を中心とした君主の行列は、2万5千枚のマイセン磁器タイルで描かれたもので最初に見る価値がある。

    投稿日 2024年03月12日

    君主の行列 ドレスデン

    総合評価:5.0

    ≪ドイツ16年ぶりの再訪:⑥ドレスデンの守り・ケーニッヒシュタイン大要塞とザクセン王国の首都ドレスデンを巡った。≫

    <5月8日(火) 曇り 134km  : 累計913km>
    メルキュール・パークホテル・マイセンを9:15に出発する。DresdenとKönigsteinの見学へ。B6・172 60km =>”ザクセンのスイス” Königstein:Festung Königstein大要塞見学10:30~13:25 B172 40km =>Dresden 14:20~16:30 市内観光:Elbe川畔、Semperoperオペラ劇場、Zwinger宮殿・古典絵画巨匠展 、Residenzschloss、君主の行列、聖十字架教会。 L? 15km =>Jagtschloss Moritzburg :城内庭園・Café 17:10~18:10 。L? 19km =>Meißen・Mercure Parkhotel Meißen に18:40到着。夕食は市内の中華料理店”中華園”19:00~20:30 、食後にFrauenkirch聖母教会、ワインケラー・Vinzenz Richter、マルクト広場・市庁舎を見て回る。

    【Dresdenドレスデン市内観光】
    14:20~16:30
    ドレスデンで弧を描いて流れるエルベ川畔もまた美しい。
    第二次大戦の末期に米英軍の爆撃を受けて見る影も無いほどに被災したこの町は戦後の復興の中で営々と建物の再建・修復に尽力してきたという。
    とりわけFrauenkirche聖母教会は瓦礫の山から以前の姿に戻すという修復を続けている。驚くべきザクセン人魂である。

    見るところも多いので、残念ながら場所を選ばねばなら無い。まず、戦災を免れた“Der Fürstenzug 君主の行列”の壁画を最初に訪れたい。

    Residenzschlossレジデンツ城(14世紀・ザクセン王の居城)の中庭に欧州最古の武芸競技場Stallhofシュタールホフがあり、その外壁にマイセン磁器のタイルで描かれた、101mの壮大な壁画が君主の行列である。

    1123~1904年の長期に渡り、Augustアウグスト1世の騎馬像や時代を彩った芸術家たち93名が描かれたもの。2万5千枚のマイセン磁器タイルで描かれたというのがこの町らしい。

    戦災を免れたのは奇跡であろうか!!

    ともあれ、行列の全体、最初の神聖ローマ皇帝Lothar von Supplinburgズップリンブルク家のロタール1世(推定)と、真中のFriedrich August Iアウグスト強王を撮っておいた。35名のザクセンの辺境伯・選帝侯・王が描かれているらしいが、勿論数える気は無いが・・・。

    ・・・・・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    5.0
    コストパフォーマンス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    5.0

  • ドレスデンの守り・Festung Königstein フェストゥンク・ケーニッヒシュタイン大要塞

    投稿日 2017年03月26日

    ケーニヒシュタイン城塞 ドレスデン

    総合評価:5.0

    ドイツ16年ぶりの再訪
    ( 2001年5月3日-5月14日 :12日間 )
    *ゲーテ街道・ドレスデン・マイセン・古城街道を巡る旅*
    5・08(火) 曇り

    ≪Festung Koenigsteinフェスツング・ケーニッヒシュタイン大要塞≫
    要塞からはるかに遠い駐車場に車を停めて、岩上の要塞に向かって歩く。タクシーや観光用の小さな列車(遊園地に見られる)もあったが、ともかく歩き出す。

    ドレスデンからチェコ国境に至るエルベ川流域は”Saechsische Schweizザクセンのスイス”と呼ばれる景勝の地である。このあたりはElbsandsteinエルベ砂岩の山塊が続き、川による侵食で所々に台地が残り、独特の美しい景観を造っている。
    そのエルベ川が湾曲するあたりに巨大な台地・ケーニッヒシュタイン“王の岩”とも称されるものがあり、台上(海抜361m)は広さ9.5haもある。ドイツ最大の要塞として、750年間の歴史的な建物が30も建っている。後期ゴシック、ルネッサンス、バロック、19世紀の様々な時代の集合である。

    古くはゲルマンの一部族が台上に拠点を設けていたと云われ、最も古い歴史文書には1233年Gerhard von Steinにより城郭が築かれたとあるそうだ。中世当時はチェコのボヘミヤ王の支配下だったが、15世紀の初めより、ザクセンの領主の所有となっている。1516年、台上に”奇跡のマリアを称賛する”僧院がBaertigenのGeorg公によって設けられた。1589年にはザクセン選帝侯Christian1世が大要塞を完成させる。このザクセン王国の時代には首都ドレスデンの防御として、重要な拠点となり、ヨーロッパ内でも最強の要塞と謳われたと云う。16世紀の終わり頃から20世紀(第一次・第二次世界大戦)に至るまで、しばしばここは戦時捕虜の収用所や政治犯の牢獄として使われることになる。1806年ナポレオンの台頭によって、ザクセン王国は彼の支配下になり、1813年にはナポレオン自らが要塞の視察を行った。要塞はRheinbundライン同盟(連邦とも言い、ナポレオンを盟主とした南ドイツ諸邦の連合体で、プロイセン・オーストリア連合に対抗したもの)のものとなる。

    1955年には軍事博物館が開設され、1989年のベルリンの壁崩壊後はザクセン州の所有となり、2000年には民間所有と変わっている。
    この長い歴史の中で、不思議なことに築城した思惑とは異なり、HPを読む限りはこの要塞が大きな攻防戦を戦ったという記述が無い。

    大要塞見学 (10:30~13:25 、16DM)  

    城内めぐり見物・Zum Rundgangには66のポイントがあり、最短2時間は必要らしい。
    城内には橋を渡って、城門をくぐって行く道とチケット販売所傍に岩壁をくりぬいたエレベーター(1970年完工)があり、昇りは楽なこれにした。台上に上がると一気に展望が開けた。城内めぐりで選択して見たのは次のような場所だ。
    ①見張りの塔(1601、1600年)、②兵営、③29エレベーター、④突出した岩壁角、⑤クラニッヒ台地、⑥世紀から使用されたパン工房、⑦旧武器庫(1594年)、⑧Koenigsnase“王の鼻”と呼ばれる東に突き出た岩壁角、⑨雷痕の高台(300年もの歳古びた樫の木にしばしば雷が落ちたという。)、
    ⑩Friedrichsburg(見張りの塔として、1589年に建設。1731年にバロックの円形建物に改築され、現在は事務所に利用されている。ここからの景色は絶景で、エルベの向こうには砂岩の台地“Lilienstein百合の岩”が見えて、雄大な美しさを日の光の下で見てみたかった。)、⑫Hungerturm(飢えた塔・見張りの塔であったと云う。)。これで2.2kmの城壁を巡る散策が一巡する。この散策はたいへん魅力的で、台上の森や庭園、そしてElbtalエルベ渓谷を眼下に見ることができた。

    要塞の中央には⑬Magdalenenburg(1621年ルネッサンス様式の小城。アウグスト強王の命により、1725年に238,000Lが入る巨大なワイン樽が造られ、地下貯蔵庫に置かれたという。1818年防弾対策された食糧倉庫に建替えられた。)、⑭Brunnenhaus井戸の小屋(1563年要塞にとって最重要の水を確保するために、152.5mもの深い井戸が掘られた。最初は巻き上げ機によったが、1912年になって電気仕掛けになった。1998年以来、“水汲みショー”が行われている。この日も大勢の観光客が詰め掛けていて、残念ながら私共は断念した。)、⑮Schatzhaus宝物館(ザクセン王国の宝物の貯蔵庫。金貨を入れた樽が展示されていた。)、 
    ⑯新武器庫(1631年、ザクセンの記念物を飾る催し場として建設。今は1806~1945年の要塞建設や軍事史の展示や、Bundeswehrドイツ軍の軍事博物館として大砲などの武器の陳列場となっていて、興味深い。)、⑰司令官の家(司令官家族の私室には19世紀の家具。)、 ⑱Georgenburg(中世当時の城郭。1619年に改築し、最初は狩猟の館に、後に国家の政治犯の収容に使用された。)、⑲Torhaus(1589年、東の昇り口にあたる台上に建てられた。要塞の中心になる建物。この建物下に暗い通路があって、城門に至る。)、○4Torravelin城門(1590年)、⑳Rothe Bruecke赤い橋(入口に架かる橋。レンガの色からこの名がついた。)などを見て回ったが、とても2時間どころではなく、昼食もせずに歩いたが、3時間もかかってしまった。

    近くの保養地にでも宿泊して、ここもさることながら、ザクセンのスイスといわれる渓谷美を堪能して見たかった。

    xxxxx

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.5
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    5.0

  • ドイツ七名窯の第一に位置するマイセン磁器の美しさに感嘆した。

    投稿日 2024年03月07日

    マイセン磁器博物館 (マイセン磁器工場) マイセン

    総合評価:5.0

    【ドイツ七名窯の第一に位置するマイセン磁器の美しさに感嘆した。】

    エルベ川に面した西洋磁器の発祥地として知られる古都マイセンはドレスデンから20kmの位置にある。戦災の被害も少なく、中世の街の雰囲気を残した町だ。

    <5月9日(水) 快晴  264km>
    Meißen8:50に出発。=>マイセン磁器工場・博物館見学 9:15~11:15、Albrechtburg城・大聖堂見学 11:30~13:30 =>B101・A4・72・9 (Nossen・Cheminitz・Hof) 264km =>Bayreuth 16:30~17:10 市庁舎、城、新宮殿 ・ Hotel Jagtschloss Thiergarten 17:40到着。

    *快晴の古都マイセン。今日は気持の良い朝だ。ホテルを8:50に出発して、少し離れた所にある州立マイセン磁器工場に向かう。場所は思いのほか目に付きにくく、工場前を通り過ぎてしまい、2度行ったり来たりしてしまう。

    【Porzellan-Manufaktur Meißen州立マイセン磁器工場】 
    (9:15~11:15 、入館料DM28=1,680円)

    ヨーロッパを代表するマイセン工房と磁器博物館を見学し、その美しさに感嘆した。
    工房はガイドツアーのみだが、実際に創作中の様子を見ることができ、テープによる日本語解説もあって、分かり易く、楽しく、興味深いものだった。

    磁器博物館には18世紀から現代まで、年代に従って、総数3000点の磁器が陳列されている。また、階段下のスペースには、可愛い花模様のマイセン食器を長テーブル上に、テーブルセッティングとして陳列していた。見事なものです。
    陶磁器で作られたパイプオルガンも目を引くものでした。

    (1階のお店で、小さなマイセンの薔薇模様の花瓶を購入した。決めるのに時間がかかったが。 DM 379.85=22,800円)

    尚、マイセン磁器のブランドマークは青い交差した剣である。マイセン磁器であることを証明するマークだ。

    【Meißen マイセン磁器】
    ヨーロッパの磁器の先駆けとなった、Meißenマイセンは*ドイツ七名窯の第一に位置する。宮廷錬金術師のBöttgerベットガーは1709年、ヨーロッパで初めて白色磁器の製造に成功した。ベットガーの仕えるザクセン選帝侯アウグスト1世は磁器製造の秘密を守るため、1710年、磁器工場をアルブレヒト城内に作り、ベットガー達を磁器製造に専念させた。“白い黄金”と称されるマイセンの白色磁器はヨーロッパ中の人気を博し、大きな富をもたらした。

    マイセンのブランドマークは青い交差した剣であり、最も人気の高いモチーフはZwiebelmusterツヴィーベルムスタ(玉葱模様、英語ではBlue Onionブルーオニオン)と呼ばれ、コバルトブルーの色合いを持ち、昔も今も全てが磁器職人の手作業で、繊細且つ優美に造られている磁器である。

    <*参考追記(2008.04.10.):ドイツの陶磁器>
    18世紀後半、ドイツでの磁器窯隆盛の時代、「ドイツの七名窯」に挙げられた、歴史ある由緒ある名窯は、《 第一にヨーロッパの磁器の先駆けとなった、Meißenマイセンであり、Höchst ヘキスト・Fürstenberg フュルステンベルク・KPM Berlinベルリン・Nymphenburgニュンフェンブルグ・FrankenthalフランケンタールそしてLudwigsburgルードヴィクスブルグの7つです。

    その後、18世紀の半ばから、ドイツ各地に磁器窯が造られ、ドイツに於いて、マイセンがキングなら、ドレスデンはクイーンと例えられているDP Dresdenドレスデンや、Villeroy&Bochヴィレロイ・ボッホ、Rosentahlローゼンタール、Hutschenreutherフッチェンロイター、テューリンゲン陶磁器のKloster Veilsdorfクロスター・ヴェールスドルフやKahlaカーラ等が創業されている。

    ドイツを旅する上で、楽しみの一つは“世界に冠たる”ドイツの陶磁器を見ることです。博物館の名品を見て回ることも良いのですが、直に名窯の工房をのぞき、作品の仕上がる工程を見るのも楽しいものです。

    ・・・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    展示内容:
    5.0

  • 世に名高いマイセン磁器が始めて創られたアルブレヒト城を見学した。

    投稿日 2024年03月06日

    アルブレヒト城 マイセン

    総合評価:5.0

    【世に名高いマイセン磁器が始めて創られたアルブレヒト城を見学した。】

    エルベ川に面した西洋磁器の発祥地として知られる古都マイセンはドレスデンから20kmの位置にある。戦災の被害も少なく、中世の街の雰囲気を残した町だ。

    <5月9日(水) 快晴  264km>
    Meißen 8:50に出発。=>マイセン磁器工場・博物館見学 9:15~11:15 、Albrechtburg城・大聖堂見学 11:30~13:30 =>B101・A4・72・9 (Nossen・Cheminitz・Hof) 264km =>Bayreuth 16:30~17:10 市庁舎、城、新宮殿 ・ Hotel Jagtschloss Thiergarten 17:40到着。

    【Albrechtburgアルブレヒト城見学】
    11:30~13:30  DM 14

    州立マイセン磁器工場からマイセンの旧市街に戻り、アルブレヒト城への道を歩いて上る。台上からはエルベ川の流れと向こう岸に私共のメルキュール ホテルが望めます。
    Dom大聖堂(13~15世紀のゴシック建築)前にアルブレヒト城がある。

    古都マイセンは千年を超える歴史を持つ町である。
    この地がザクセンの“ゆり籠”(発祥の地)と呼ばれるように、ザクセンとテューリンゲンを支配した領主Wettinヴェティン家のErnstエルンストとAlbrechtアルブレヒト兄弟により、エルベ川左岸の高台に1471年ドイツ語圏最初の居城と称するアルブレヒト城が築城された。一部はルネサンス様式も見られるが、後ゴシック様式で建てられている。
    ヨーロッパで初めて白色磁器の製造に成功した錬金術師Böttgerベットガーをザクセン選帝侯アウグスト1世(強王)は磁器製造の秘密を守る為、1710年、磁器工場を城内に作り、ベットガー達を磁器製造に専念させた。
    磁器工場は1863年まで続いたという。

    磁器工場が城外に移転した後、アルブレヒト城は大掛かりな改装が行われ、ドレスデンの芸術アカデミーの11人によって、ヴェティン家の歴史やマイセンの歴史が壁に描かれた。当然、マイセン磁器の当時の工房の絵もある。
    1881年以来、城は博物館となる。1989年のベルリンの壁崩壊、1990年東西ドイツ統一と歴史的転換が行われ、1990年10月3日、この城内でFreistaat Sachsen自由州ザクセンの創立が宣言された。


    【Meißen マイセン磁器】
    ヨーロッパの磁器の先駆けとなった、Meißenマイセンはドイツ七名窯の第一に位置する。宮廷錬金術師のBöttgerベットガーは1709年、ヨーロッパで初めて白色磁器の製造に成功した。ベットガーの仕えるザクセン選帝侯アウグスト1世は磁器製造の秘密を守るため、1710年、磁器工場をアルブレヒト城内に作り、ベットガー達を磁器製造に専念させた。“白い黄金”と称されるマイセンの白色磁器はヨーロッパ中の人気を博し、大きな富をもたらした。

    マイセンのブランドマークは青い交差した剣であり、最も人気の高いモチーフはZwiebelmusterツヴィーベルムスタ(玉葱模様、英語ではBlue Onionブルーオニオン)と呼ばれ、コバルトブルーの色合いを持ち、昔も今も全てが磁器職人の手作業で、繊細且つ優美に造られている磁器である。


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    4.0

  • マイセン唯一の古城ホテル メルキュールからは、エルベ川の対岸にアルブレヒト城がよく見える。

    投稿日 2024年03月05日

    Dorint Parkhotel Meißen マイセン

    総合評価:4.5

    【マイセン唯一の古城ホテル メルキュールからは、エルベ川の対岸にアルブレヒト城がよく見える。】

    <2001年5月7日(月)雨 313km>
    Weimarワイマールを8:40スタート B85 79km=>Rudolstadtルードルシュタット10:20~12:30 市内観光:Schloss Heidecksburgハイデックスブルク宮殿、市庁舎。 B88(Jena) 53km=>DornburgドルンブルクのDornburger Schloesser古城群 13:45~14:30 ;ゴシック・ルネッサンス・ロココスタイルの三つの城(1766~1822年にゲーテがしばしば滞在した)。B88・A4(Geraゲラ・Cheminitzケミニッツ・Nossenノッセン)B101 181km =>Meissenマイセン・Mercure Parkhotel Meissenに17:00到着。

    *いわゆる観光街道のゲーテ街道はワイマールから北東に120kmほど離れたLeipzigライプツィヒが終点であり、今回の旅もここに向かうべきなのであろうが、ライプツィヒよりもMeissenマイセン・Dresdenドレスデン観光を選んだ。

    B88・A4を順にGeraゲラ・Cheminitzケミニッツ・Nossenノッセンを走り過ぎると、マイセンに至る。B101でマイセン近くになると、丘の上にいくつも風力発電の大きな翼が回っていて、なかなか壮観な眺めだ。ドイツは風力発電の先進国だけに独特の姿をよく見かける。一気に走った距離は181kmになる。
    Mercure Parkhotel Meissenメルキュール・パークホテル・マイセンに17時丁度に到着した。

    エルベ川に面した西洋磁器の発祥地として知られる古都マイセンはドレスデンから20kmの位置にある。戦災の被害も少なく、中世の街の雰囲気を残した町だ。
    マイセンの旧市街はエルベ川の左岸にあり、今夜から2泊するメルキュール・パークホテル・マイセンはちょうどその対岸にあって、ホテルの庭先からAlbrechtsburgアルブレヒト城が良く見えた。

    <(2泊)Mercure Parkhotel Meißenメルキュール・パークホテル・マイセン>
    (旧称はParkhotel Pannonia Meißenパークホテル・パンノニア・マイセン) 
    D-01662 Meißen 、Hafenstr. 27-31
    4星・全97室、224-1号室(215x2=DM 430x@60=25,800円)

    エルベ川に面しているホテル(2008年現在は更にホテル名がWelcome Parkhotel Meißenウエルカム・パークホテル・マイセンと変わった。更に2024年現在はDorint Parkhotel Meißenドリント・パークホテル・マイセン)である。
    マイセン磁器を扱う商人により、1870年、当時の建築スタイルであるJugentstilユーゲント・シュティール(青春様式=仏語のアール・ヌーヴォー:ドイツ語圏の世紀末美術の傾向を指す)で建設されたVillaヴィラで、小さなメルヘンチックな城の外見をもっている。

    この館を改造し、1993年にはホテルとして開業した。
    レストランなどのある本館と新たに増設した二つの宿泊棟、会議室棟がある。
    さすがにマイセン磁器の名品が本館内に飾られている。

    宿泊客が多いようで、ホテル前の駐車場はいっぱいで、辛うじて駐車できた。
    宿泊棟の部屋は広く、現代的な明るい色調の、まずまずの部屋でした。

    翌日の朝食時には空に明るさが出てきたので、食後はホテルの庭に出てみた。
    ホテルのテラスからエルベ川に向かって緩やかなスロープになっていて、川べりに小さな小屋があった。そこから見るアルブレヒト城の雄姿は見事だ。
    エルベ川は広い川幅をもっているので、観光船はゆったりと運搬船は忙しげに往来していた。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    1人1泊予算
    7,500円 未満
    コストパフォーマンス:
    4.0
    サービス:
    4.0
    バスルーム:
    4.0
    ロケーション:
    5.0
    客室:
    4.0

  • エアフルト大聖堂:ゲラ川に囲まれた盆地の上に発展した宗教都市は雨で寒かった。

    投稿日 2024年03月04日

    大聖堂 (エアフルト) エアフルト

    総合評価:4.0

    ≪ドイツ16年ぶりの再訪:②ドイツ文化の源流と云われるアイゼナハをじっくり観光し、翌日宗教都市である州都エアフルトを訪れた≫

    <2001年5月6日(日) 雨 101km>

    アイゼナハ・ホテル ガルニ ブルクフリードを9:00に出発。A4・B7 68km => Erfurtエアフルト10:00~12:35 市内観光:旧市街・フィッシュマルクト広場、市庁舎、ギルドハウス、クレーマー橋、Kaisersaalカイザーザール 、Domドーム広場と大聖堂 =>B7 33km Weimarワイマール13:00 市内観光

    *テューリンゲン州の州都Erfurtエアフルトは人口20万人を越える。
    西暦805年にフランク王国カール大帝によって造られた町で、1200年の歴史を誇る。町は交通の要路に位置し、宗教都市・商業都市として発展した。

    <市内観光>
    10:00~12:35、狭い旧市街を中心に徒歩でまわる。

    ゲラ川に囲まれた、盆地の上に発展した町であるが、宗教都市の面も見せている。小高い丘の上にDomドーム(大聖堂)と三本の尖塔を持つSeverikircheセヴェリ教会が見える。ドーム広場から見る二つの建築姿は荘厳なものだ。

    ドーム(大聖堂)は742年創建という。ロマネスク、ゴシックの建築様式が見られる、現在の建物は1465年頃のもので、内陣のステンドグラスがその美しさで知られている。
    ドーム広場から階段を上ると大聖堂の入り口に至る。
    大勢の観光客らが雨の中、熱心に参拝している。

    <昼食:Dom Cafeドーム カフェ>
    Domstufen 1, Erfurt,   
    ドームの階段横にカフェがあり、軽食が食べられるようだ。
    雨の降る寒い日にはこれが一番と、Gulaschsuppeグーラシュズッペ(パブリカ風味の肉入りシチュー)とパンを食べる。ほんとに安い、二人でDM6(342円)の昼食である。現金払いは当然か!

    大聖堂近くのドーム広場には雑貨、食料品、花などのお店が雨の中で営業中だ。のぞいて見て、テーブルクロスに気に入ったものがあったので購入する。
    (DM29.9(1,710円)

    <お茶:Rathaus Cafeラートハウス カフェ>   
    RATHAUS ARCADE FISCHMARKT 1、99084 Erfurt
    急に小用に行きたくなる。これも寒い所為か?!ともあれ、市庁舎にあるカフェに飛び込んだ。やむなくコーヒータイムを取った。値段はDM7(400円)で昼食代と同じだった!

    12:35、エアフルトから一路ワイマールを目指して、B7の道を33km走る。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0

  • フルダ観光の目玉はやはりドイツのキリスト教徒の心の故郷と云われるバロックの壮大な大聖堂だろう。

    投稿日 2024年02月17日

    大聖堂 (フルダ) フルダ

    総合評価:4.0

    【ドイツ16年ぶりの再訪:①ゲーテ街道をフルダ、シュパンゲンベルク城、古城ホテル ヘッセンの王子に走る】

    *ゲーテ街道・ドレスデン・マイセン・古城街道を巡る*
    ( 2001年5月3日~5月14日:12日間 )

    この旅で『ドイツ感傷旅行の第一回』がスタートする事となった。

    使用レンタカー:Volvo S80 2400CC  Diesel  Automatic
    初めて乗ることになったボルボ車は大きく、がっちりとした車である。

    <2001年5月4日(金) 晴れ、 306km>

    8:30Sheraton Frankfurt Airportをチェックアウト。ハーツレンタカーにて手続き後(Volvo S80 2400CC Diesel)、フランクフルト 9:10スタート =>誤ってOffenbachオッフェンバッハに入り込む。以後 => A66・B40 102km Fuldaフルダ・人口6万2千人、市内観光:宗教都市の旧市街、大聖堂、聖ミカエル教会、バロックの城、城公園・オランジェリー、旧市庁舎。

    *フランクフルト空港から北東のフルダまで100km、あっと言う感じで着いてしまう。
    旧市街近くに駐車場を見つけることができて、ほっとして市内観光をスタートした。

    【フルダ市内観光】
    ヘッセン州の古都、Fuldaフルダはバロック建築が多く見られる宗教都市(司教領主の支配地)である。
    “陸の水”と古代ドイツ語の意味を持つ*フルダ川が街に沿って北に流れ、Weserヴェーザー川に注ぎ込む。そのフルダ川のほとりに、744年聖ボニファティウス(英人・ドイツのキリスト教化に努めた事から「ドイツ人の使徒」と呼ばれる。754年オランダで反キリスト教徒により殺害された)がベネディクト派の修道院を建てたことから、この町は発展したという。

    その修道院教会の上にDom大聖堂がバロック様式で建てられた(1704~8年)。
    今日の観光の第一はこのバロックの壮大な大聖堂を見ることだ。

    ドーム広場に二つの対称となる尖塔を持つどっしりとした、力にあふれた教会がある。
    ドイツのキリスト教徒の心の故郷に相応しい、たたずまいである。
    内部に入ると、意外に聖壇(この下に聖ボニファティウスの墓がある)などの造りは質素だ。南ドイツの絢爛な教会内部と大きく違うのはルター以降のプロテスタントの影響が強い所為なのか?

    Domの後方にある聖ミカエル教会(Michaelsbergミカエルベルク)を見て、カスターニアン(マロニエ)の見事な並木道を歩いて、司教領主の居城Stadtschlossシュタットシュロス(18世紀バロック様式の城)に至る。
    現在は市政庁がある。

    長大な城の北側にはSchlossgartenシュロス公園があり、噴水の先にはオランジェリーが見えて、公園の花々が麗わしの5月を彩り、ドイツの春真っ盛りの景色を楽しむことができた。

    城門の前にはこの町を象徴している、聖ボニファティウスの十字架を掲げた銅像が建つ。
    旧市街には旧市庁舎をはじめ、様々な木組み建築の建物が見られ、楽しい街だ。

    ・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    4.0

  • ワイマールには文豪ゲーテとシラー、二人の家が仲良く残っている。

    投稿日 2024年02月14日

    ゲーテの住居 ワイマール

    総合評価:4.5

    【ワイマールには文豪ゲーテとシラー、二人の家が仲良く残っている】

    *ゲーテ街道・ドレスデン・マイセン・古城街道を巡る*
    ( 2001年5月3日~5月14日:12日間 )

    この旅で私共の『ドイツ感傷旅行の第一回』がスタートする事となった。

    <2001年5月6日(日) 雨 101km>
    12:35、Erfurtエアフルトから一路Weimarワイマールを目指して、B7の道を33km走る。ワイマール(世界遺産・1998年登録)に13:00の到着だ。
    早速、人口6万人の小都市の市内観光をスタートする。
    (13:00~17:00)

    市内観光は旧市街の市庁舎、クラナハハウス、Stadtschlossシュタットシュロス城(クラナハなどの美術館)と外観のみを見て、イルム公園の奥まった所に白い壁の小さな、木組みの二階建てであるゲーテ山荘、シュヴァイツアー博士記念碑、シラーハウス、国民劇場と文豪ゲーテ・シラー像、ゲーテハウスなどを順に見て回った。

    かつてのワイマール公国の古都Weimarワイマールには文豪ゲーテ・シラーの足跡が残る。
    ゲーテと共にシラーはドイツで起こった文学運動の“Sturm und Drangシュトルム・ウント・ドランク;疾風怒涛”(世俗的道徳や因習を否定し、個性と意欲と自然を尊重した文学運動=古典主義文学運動とも呼ばれる)の代表的文人・作家である。
    ゲーテの“若きウエルテルの悩み” 1774年作、“ファウスト” 1808年作、シラーの“群盗” 1781年作、“ウイリアム・テル”1804年作などが代表作である。


    古都にはゲーテ、シラー、リスト、バッハ、クラナハ、ニーチェ、ヘルダー、フィヒテなどのドイツの文人・芸術家が住み、活躍した事跡がそこかしこに残っている。
    ゲーテが時の領主カール・アウグスト公に招かれて、この地に来たのは1775年であり、26歳の青年期から、82歳で亡くなるまで、文人・政治家として、その生涯の大半をここで過ごしたわけだ。


    <ゲーテハウス>
    ゲーテハウスは1782年から1832年、50年の間、文豪ゲーテ(同時に公国の政治家でもあった)が住んだ家である。
    二階は17室もあるという、黄色い壁の家は中に入ると陰鬱な感じであった。
    ファウストを執筆した書斎、質素な寝室、蔵書に囲まれた図書室、そして意外な鉱物のコレクション(ゲーテは鉱山監督も職務の一つであった)、馬車などを見ることができた。(入場料DM20)

    <シラーハウス>
    シラーハウスは文豪シラーの居住した家である。
    シラーは10歳年上のゲーテの招きに応じて、Jenaイエナ大学(現シラー大学)で教鞭をとった。
    その後、ワイマールに移り、この家には1802年から1805年に亡くなるまで住んでいた。
    傑作“ウイリアム・テル”もここで著したと云う。(入場料DM12)


    ・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    5.0
    コストパフォーマンス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    展示内容:
    4.0

  • テューリンゲン州の州都エアフルト:ゲラ川をまたぐクレーマー橋上に32軒の4階建ての店舖が立ち並んでいる。

    投稿日 2024年03月02日

    クレーマー橋 エアフルト

    総合評価:4.0

    ≪ドイツ16年ぶりの再訪:②ドイツ文化の源流と云われるアイゼナハをじっくり観光し、翌日宗教都市である州都エアフルトを訪れた≫

    <2001年5月6日(日) 雨 101km>

    アイゼナハ・ホテル ガルニ ブルクフリードを9:00に出発。A4・B7 68km => Erfurtエアフルト10:00~12:35 市内観光:旧市街・フィッシュマルクト広場、市庁舎、ギルドハウス、クレーマー橋、Kaisersaalカイザーザール 、Domドーム広場と大聖堂 =>B7 33km Weimarワイマール13:00 市内観光

    *春の天気は気難しい。本日も雨の中、アイゼナハを9:00に出発する。A4・B7を走っていくと、68km、凡そ一時間の距離のテューリンゲン州の州都Erfurtエアフルトに到着した。この町は人口20万人を越えるが旧市街は狭い。
    西暦805年にフランク王国カール大帝によって造られた町で、1200年の歴史を誇る。町は交通の要路に位置し、宗教都市・商業都市として発展した。


    <市内観光>
    10:00~12:35、狭い旧市街を中心に徒歩でまわる。

    傘を差しつつ、まずフィッシュマルクト(魚市場広場)に行く。ドイツの町によくある守護神ローラント像が中心に立ち、春を祝った五月柱を見ることができた。
    この広場の周りには独特の色合いで飾った建物が囲んでいる。ルネッサンス風のギルドハウスやネオ・ゴシック様式の市庁舎は目立って美しい。

    庁舎の裏手にKrämerbrückeクレーマー(商人の意)橋(1117年)がある。
    Geraゲラ川(全長85kmと短く、Arnstadt、Erfurtの町を流れる)の上にかかる橋で、全長120m、幅が18mだという。その橋上には32軒もの4階建ての店舗が両側にあり、商店街を作っている。
    イタリアのフィレンツェにあるポンテ・ヴェッキオ橋にも行った事があるが、エアフルトの方がやや小ぶりなもので、民族性もあってか、ずっと整然としている。

    日曜日でどの店も開いていないのが寂しいが、木組み建築の店舗の裏手に回って、細流であるゲラ川から見る、クレーマー橋の景観は結構良いものだった。

    尚、クレーマー橋の近くにKaisersaalカイザーザールがあり、1808年ここでナポレオン皇帝によって、ヨーロッパ諸国会議が開かれた場所である。
    この時、州長官官邸でナポレオン皇帝がゲーテを謁見したという。ナポレオンはゲーテに向かって、ゲーテの出世作『若きウエルテルの悩み』を愛読し、7回も読んだものだ・・・と、語ったと伝えられている。


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    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    人混みの少なさ:
    3.0

  • アイゼナハの観光で知られていないロイター・ワーグナー博物館がある。

    投稿日 2024年02月28日

    ロイター ヴィラ ワーグナー博物館 アイゼナッハ

    総合評価:3.5

    <2001年5月5日(土) 曇り後雨、肌寒し 59km>
    Friedewaldフリーデヴァルト 8:55出発。=>A4・B7 33km Eisenachアイゼナハ:市内観光 ;Wartburgヴァルトブルク城、ニコライの塔、マルクト広場、バッハハウス、ルターハウス、ゲオルク教会 =>Hotel Garni Burgfriedホテル ガルニ ブルクフリード 17:30着。

    テューリンゲンの森の北西部にあたるアイゼナハ、緑濃い山間によくぞ建てたものといった印象のWartburgヴァルトブルク城(世界遺産・1999年登録)がある。1800年になって、ドイツの歴史・文化を良く体現しているこのヴァルトブルグ城をドイツ民族の文化と精神活動の記念碑とするべく、再建された。

    ヴァルトブルク城の麓、本日の宿となったHotel Garni Burgfriedホテル ガルニ ブルクフリード(ヴァルトブルク山頂への入口に位置する小さなホテルで、旧市街の中心まで徒歩5分)傍に100年以上の歴史ある、詩人Reuter Villaロイターヴィラがあった。
    今は「Reuter Wagner Museumロイター・ワーグナー博物館」と称している。
    一階には19世紀のドイツの作曲家、指揮者、思想家であったRichard Wagnerリヒャルト・ワーグナー(1813年~1883年)の資料室が置かれ、ヴァルトブルク城も舞台となった“タンホイザー”の楽譜などが所蔵されている。
    二階はロイターの住居が保存されている。

    <ドイツの詩人フリッツ・ロイターについて>
    多分、日本人観光客には殆ど知られていないであろうFritz Reuterフリッツ・ロイター(1810~1874年)は19世紀、ドイツの詩人である。Friedrich Reuterフリードリヒ・ロイターとも呼ばれる。
    ドイツ北東部メクレンブルク・フォアポンメルン州のStavenhagen シュターフェンハーゲンで生まれた。彼の父はシュターフェンハーゲンの市長だった。
    低地ドイツ語で郷土での生活をユーモラスに描き、近代郷土文芸の先駆者と言われている。「宿なし」、「Aus der Franzosenzeit, 1859フランス時代より」、「わが農民時代より」など代表的な作品がある。
    晩年はテューリンゲン州のアイゼナハに移り、当地で逝去した。
    *低地ドイツ語は、ロイターのような低地ドイツ語作家の存在にもかかわらず、高地ドイツ語のよう標準ドイツ語として確立されていなかった。

    尚、Richard Wagner Museumリヒャルト・ワーグナー博物館はバイロイトにあるが、スイスのルツェルン近郊トリプシェンにもある、ワーグナーはここで1866年から1872年までの6年間を過ごした。

    ・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.0
    コストパフォーマンス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    5.0
    展示内容:
    3.5

  • アイゼナハでルターもラテン語を学び、ヴァルトブルク城内でギリシャ語の新約聖書をドイツ語に翻訳した。

    投稿日 2024年02月26日

    ルターの家 アイゼナッハ

    総合評価:4.0

    【アイゼナハではルターもラテン語を学び、ヴァルトブルク城内でギリシャ語の新約聖書をドイツ語に翻訳した】

    <2001年5月5日(土) 曇り後雨、肌寒し 59km>
    Friedewaldフリーデヴァルト 8:55出発。=>A4・B7 33km Eisenachアイゼナハ:市内観光 ;Wartburgヴァルトブルク城、ニコライの塔、マルクト広場、バッハハウス、ルターハウス、ゲオルク教会 =>Hotel Garni Burgfriedホテル ガルニ ブルクフリード 17:30着。

    テューリンゲンの森の北西部にあたる、緑濃い山間によくぞ建てたものといった印象のWartburgヴァルトブルク城(世界遺産・1999年登録)がある。
    1800年になって、ドイツの歴史・文化を良く体現しているこのヴァルトブルグ城をドイツ民族の文化と精神活動の記念碑とするべく、再建された。
    それはドイツの宗教改革者、神学者、教授、聖職者、作曲家であったMartin Lutherマルティン・ルター(1483年~1546年)がヴァルトブルグ城のLutherstubeルターシュトゥーベ(ルターの小部屋)でギリシャ語の新約聖書をドイツ語に翻訳した歴史的功績によると云える。
    ルターの生地・没地であるLutherstadt Eislebenアイスレーベンや、彼が長年神学教授を務め、「95ヶ条の論題」を発表して宗教改革の口火を切ったLutherstadt Wittenberg ヴィッテンベルクの町には、いまでもルターの遺構が数多く存在し、アイスレーベンとヴィッテンベルクにあるルター記念建造物群として、1996年に世界遺産に、2015年には著述作品などが記憶遺産に登録されている。

    ヴァルトブルグ城のルターシュトゥーベ(ルターの小部屋)は質素な、木張りの部屋であった。帝国追放例を受けていたルターがザクセン侯の守護の下で、この部屋で誰にも分かるように易しい言葉で、ギリシャ語の新約聖書をドイツ語に翻訳した。1521~22年の凡そ10ヶ月の短い間に翻訳したそうだ。
    尚、旧約聖書はこの後、Coburgコーブルク城(要塞)でドイツ語訳を完成した。
    宗教改革者ルターは聖書を万人のものとした。
    つまり、歴史的なことを成し遂げたわけだ。

    アイゼナハはマルクト広場を中心に市庁舎、ゲオルク教会、ルターの家、ニコライの塔などがある。
    ルターが説教をしたゲオルク教会、その先に中世の木組みの建築の姿でルターハウスがある。少年の日に3年ほどここに下宿し、ラテン語の勉強に通ったそうだ。
    (ルターハウスの入館料もDM10(x@57円=570円)


    ・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    3.5

  • アウグスト強王(兼ポーランド王)に49年もコ‐ゼル伯爵夫人が幽囚された古城(要塞)

    投稿日 2017年04月24日

    シュトルペン城 ドレスデン

    総合評価:4.5

    ≪かつての東ドイツ:ルター諸都市・Berlin・Dresdenなどを巡る≫
    期間:2011年05月13日(金)~05月27日(金)15日間の旅

    5月23日(月);快晴、26℃、59km
    起床7:00、朝食8:30~9:10、Dresden・Schloss Eckberg 9:45スタート ->B6 24km Stolpenシュトルペン 10:15着 ;城内観光~11:45

    この日は元々、ドレスデンからピルナというザクセンのスイスの入口に行く行程を考えていたのだが、その前に少し寄り道したのだ。ドレスデンから真東に行くと、シュトルペンという町があり、ここにBurg Stolpenシュトルペン城という中世の雰囲気に満ちた古城が立っている。
    ドイツ観光局で以前にもらっていた、ザクセン地方の古城群を案内した8ページのパンフレットでこの城の事を知り、49年も幽囚されたコ‐ゼル伯爵夫人にからむ三つの宮殿・城(Schloss Nossen ・Schloss Pillnitz・Burg Stolpen)を是非、訪ねたいと思った。
    とりわけ、その生涯の大部分を過ごしたBurg Stolpenシュトルペン城は興味深く、すでに二つの宮殿・城を見て、ここが最後の訪問地になる。

    <Burg Stolpenシュトルペン城>
    入場券Euro10、 10:15~11:45
    D-01833 Stolpen 、Schlossstrasse 10
    http://www.burg-stolpen.de/
    Lausitzer Berglandラウジッツ山地の西の端に、シュトルペン城(要塞)があり、およそ17kmでチェコの国境に至る。・・が、国境を越えるには徒歩で行く道しかないと云う。
    ドレスデンから20km東に位置する。
    シュトルペンの町の高台に登り、駐車場(Euro1.5)の一角に車を停め、更に坂道を上った。その先に黒々とした城門が出てきた。
    説明ではKasematteカゼマッテというらしい。かつては要塞の砲郭だった。
    城門を過ぎて、40mの長方形の建物Kornhausコルンハウス(かつての穀倉・1527年)があり、城内博物館の切符売り場がある。嬉しい事に日本人が来る事があるのか?ここにも日本語の簡単な説明文があった。
    ここまでが日本流でいえば、二の丸にあたる。
    昔はここに主たる衛兵所が置かれ、馬屋、牢獄・拷問室などがあった。左手にはその拷問室を再現し、様々な責め道具を展示していた。牢獄の壁は青黒い玄武岩の肌をそのまま見せて、陰鬱な感じだ。

    ここを出ると、本丸にあたる城郭になる。目の前に、右手にドーム型の屋根をした塔、左に二つの塔がくっついて立っている。右が面白い名のSchoesserturm税金の塔、左がJohannisturmヨハネの塔(1509年)、後にCoselturmコーゼルの塔と呼ばれた。
    税金の塔は目立った展示は無かったが、この名前は中世に使用されたSchoss税金・租税という言葉から来たと云う。かつては税徴収官や書記官等がここで働いていた。1階が異端者(異教徒)の穴(間)、2階が修道士の穴と妙な名がつき、3階が管理事務所だそうだ。
    左が一番興味のあるヨハネの塔(コーゼルの塔)で元来、聖ヨハネはマイセン辺境伯・司教の守護神だったことから、この名が付けられたと云う。
    1階がヨハネの牢獄と言い、深く口をあけて人を飲み込むような穴があった。
    2階のゴシックの間はシュトルペンの司教時代。

    3~5階が囚人コーゼル伯爵夫人の生涯を展示していた。寝台、トイレ、宮廷大臣 Hoymホイム伯とコーゼル伯爵夫人の肖像画、見事な筆跡のフランス語で書かれた伯爵夫人の手紙(フランス語が如何にドイツの王侯貴族という上流社会で当たり前のように使用されていたかを知る事が出来る)、立派な暖炉、日常に使用した品々、台所、とりわけ見事なマイセン磁器は“伯爵夫人の脱走”と称した作品であった。

    1716年、コーゼル伯爵夫人がシュトルペン城に追放、幽囚される。
    1765年、49年間、幽囚されていたコーゼル伯爵夫人が85歳の高齢で亡くなった。

    6階は塔の見張りでシュトルペン要塞の展示がある。
    外に出てからもう一度塔を見上げたら、二つの塔に見えるが、一つは階段の為の塔であり、もう一つの丸い方が展示のある本塔であった。

    次は右手に立つSeigerturm時計塔と言う。天辺に小さな時計があるらしいが良く見えない。16世紀の頃は鐘を打ち鳴らして、時を知らせた。今は機械仕掛けだが。
    カフェテリアがあり、84.39mもの深い井戸、礼拝堂とコ‐ゼル伯爵夫人の墓碑、突き当りにBurggeistお城の幽霊と称する穴倉がある。幽霊を呼びだして!と書いてある。

    その84.39mの井戸だが、玄武岩上に造った城なので、大変水に困ったと云う。最初は桶を担いで水を運んだ。労力の割に獲る水は少なく、この為、16世紀の頃は水車を利用し水を汲み上げ、720mの水路を作り、ポンプで城内に水を上げる装置を作った。
    この装置は1813年、ナポレオン軍により破壊されてしまったので今は無い。
    戦略上、城外にある装置は敵に破壊されてしまうので、1607/8~1632年の24年の長い間をかけて岩盤を掘り進んだと云う。一日1~1.5cm、年に3~4mと掘り、気が遠くなるような時間をかけて、世界でも稀な84.39mもの深い井戸を作り上げたそうだ。

    最後の塔は15世紀後半のものでSiebenspitzenturm7つの尖塔塔といい、円錐屋根の角に6つの小さな塔が付き、真中に尖塔があったことに名前の由縁がある。
    1632年の町の大火で、円錐屋根は焼失した。塔内には司教の執務室が長い間あった。
    地上階には大きな竈が設けられていたが、1559年、選帝侯妃アンナが香草に詳しく、ここに彼女の台所を備えた。それを“香草の竈”を称していた。天辺は展望台になっている。登らなくても、ここからの周辺の眺望は実に美しい。菜の花の黄色が緑の中を彩り、赤茶色の屋根の家並みも、教会も絵になる風景だ。

    古城にはつきものの暗い地下牢、丸天井の穴蔵、深く口をあけて人を飲み込むような穴、この城には全てがあった。又、そこかしこに玄武岩の岩肌を見る事が出来た。

    コーゼル伯爵夫人が何故、49年も幽囚されたのかは、また別の機会に。

    XXXXX

    旅行時期
    2011年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    5.0
    展示内容:
    4.5

  • アイゼナハに生まれた、バロック時代を代表するバッハは大事にされている。

    投稿日 2024年02月24日

    バッハの家 アイゼナッハ

    総合評価:4.0

    ≪ドイツ16年ぶりの再訪:②ドイツ文化の源流と云われるアイゼナハをじっくり観光し、翌日宗教都市である州都エアフルトを訪れた≫

    <2001年5月5日(土) 曇り後雨、肌寒し 59km>

    Friedewaldフリーデヴァルト 8:55出発。=>A4・B7 33km Eisenachアイゼナハ:市内観光 ;Wartburgヴァルトブルク城、ニコライの塔、マルクト広場、バッハハウス、ルターハウス、ゲオルゲ教会 =>Hotel Garni Burgfriedホテル ガルニ ブルクフリード 17:30着。

    テューリンゲンの森の北西部にあたる、緑濃い山間によくぞ建てたものといった印象のWartburgヴァルトブルク城(世界遺産・1999年登録)がある。
    山上の細長い城郭を見物後、市内観光に出た。

    バッハハウスはヴァルトブルク城を下り、マルクト広場に向う左手にあった。
    マルクト広場を中心に市庁舎、教会、ルターの家、ニコライの塔などがあって、ドイツの旧市街は分かりやすい。

    新緑の菩提樹の下にバッハの立派な銅像が立っていた。スミレの花壇に囲まれ、この町に生まれた、バロック時代を代表するバッハは大事にされている。

    バッハハウスはその直ぐ横に建っている。壁を黄色に塗ったバッハ記念館である。当時の生活様式を再現した部屋、バッハゆかり?の古楽器が置かれ、観光客へのサービスでオルガンや小さなパイプオルガンを演奏してくれた。

    (入館料はDM10(x@57円=570円)

    バッハの足跡はアイゼナハ、ライプツィヒ、ワイマール、エアフルト、ハレ、ツェレ、リューベック、リューネベルク、ヴァイセンフェルス、ポツダム、ケーテン、アルンシュタットなど数多い。

    ・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    展示内容:
    4.0

  • マールブルグ:聖女エリザベートの生きた証しがエリザベート教会となった。

    投稿日 2024年02月22日

    エリーザベト教会 マールブルク

    総合評価:5.0

    2001年5月、ドイツの観光街道であるゲーテ街道の中心、ドイツ文化の源流と云われるEisenachアイゼナハを訪れた。
    この町にはWartburgヴァルトブルク城(世界遺産・1999年登録)が山上にたっていて、かつてのヴァルトブルク城の城主テューリンゲン方伯の妃であった「聖女エリザベートの一代記」などの展示を見る事が出来た。
    この事があって、口コミとした。


    <2001年5月5日(土) 曇り後雨、肌寒し 59km>

    【Wartburgヴァルトブルク城(世界遺産・1999年登録)を訪ねた】 
    http://www.wartburg-eisenach.de
    テューリンゲンの森の北西部にあたる、緑濃い山間によくぞ建てたものといった印象の城である。
    山上の細長い城郭はその中世以来の姿を良く残していて、聖女エリザベートや吟遊詩人たちの歌合戦の話、ルターが隠れ住んだという城内見学が楽しみである。

    Elisabeth-Kemenate聖女エリザベートの間は必見である。
    天井や壁がモザイク(ガラス製1902-6)で彩られ、見事な美しさを今に残している。部屋の壁面をぐるりと飾るモザイクは、聖女の一生を描いていると云う。

    この階には「Elisabeth-Galerie聖女エリザベートの回廊(ギャラリー)」がある。
    6つの大きなフラスコ画が回廊(ギャラリー)を埋めていて、その一代記を表現している。

    ①4歳の時にヴァルトブルク城に到着した場面、
    ②バラの奇跡、
    ③十字軍遠征に参加する夫との別れ、
    ④夫の戦死後、城を追われるエリザベート、
    ⑤Marburgマールブルクで死の床に伏す、
    ⑥死後4年で聖女に列せられたエリザベートを顕彰し、聖体を担ぐセレモニー・列聖式のシーン。
    (1236年以後Marburgマールブルクに壮大な聖エリザベート教会が建設される)

    【聖エリザベートのバラの奇蹟】
    ドイツではじめて福祉事業を行ったとされる、聖女エリザベート信仰には、次のような伝説がある。

    『ライ病患者をいたわったエリザベートが患者を自分の婚姻の寝床に寝かせたが、戻ってきた夫ルートヴィヒ四世がこれを邪推して探したところ、寝床には磔にされたキリスト像を見出した。』と云う。

    また、『13世紀初頭、テューリンゲン州のヴァルトブルク地方は大飢饉が襲い、村人は大変な食糧不足に陥りました。村人のそんな状況を心配したエリザベートは城で作ったパンや肉をこっそり、村人達に分け与えました。夫のルートヴィヒ四世がこれをたしなめましたが、彼女はパンを与えるのをやめません。
    ある時、パンを入れた籠を持った小間使いと一緒に出かけようとして、ルートヴィヒ四世に見つかり、籠の中身を確かめられました。籠の覆いを取ると、そこにはたくさんのバラの花が入っていたのです。』と。

    このバラの奇蹟の伝説をモチーフにした聖女エリザベート一代記が、アイゼナハのヴァルトブルク城、マールブルグの聖エリザベート教会、リューベックの聖霊養老院など、各地で見ることができます。

    ・・・・・

    <2005年5月3日(火) 晴れ 14℃  191km>

    2005年4月21日(木)~5月5日(木)15日間 ;
    1982年から数えて 23年ぶりの北ドイツです。

    【ドイツ中部にあるマールブルグの聖エリザベート教会を訪ねた】

    聖女エリザベートはハンガリーの王女に生まれ、4歳の時にヴァルトブルク城の城主、テューリンゲン方伯のヘルマンの息子だった、当時11歳のルートヴィヒ四世の婚約者として、城にやって来て、14歳で結婚しました。
    夫が1227年に十字軍遠征で戦死した為、3人の子供と共に城を追放されてしまいます(1228年)。この為、マールブルグにやってきた、聖女エリザベートはそこで信心深い一生をおくり、貧者救済の為に献身しました。
    余りに献身が過ぎた為、24歳で亡くなります。死後、エリザベート信仰が起こり、その墓地への巡礼が始まり、ドイツ各地からの巡礼が行われるようになりました。

    4年後の1235年、彼女は“聖女”の称号を受け、マールブルグに聖エリザベート教会の建設が始まります。

    2005.5.03.Marburgマールブルグの麓、右手にあるElisabethkirche聖エリザベート教会を最初に訪ねた。(Euro4)

    この教会は24歳で亡くなった聖女エリザベートの墓の敷地に1235年から50年をかけて建立された。二つの見事な鐘楼をもつ、初期純粋ゴシック様式の教会で、十字架の形を基本として建てられている。正面入口に“天国への入口“と呼ばれる浮き彫りがあり、聖母マリアとキリストを描いている。
    内部に入ると左隅にドイツ最後の将軍ヒンデンブルグ元帥の墓所があり、正面に”バルラッハの十字架のキリスト像“(1918年)、左手に聖女エリザベートの立像(1470年頃)が、茶色のドレス、ブルーのマント、王冠の下は白いスカーフで覆われた、大変優美な服装で立っている。素晴らしく美しい。
    内陣には聖女エリザベートの黄金の聖遺骨箱(1240年頃) 、これも見事な細工である。13、4世紀頃のステンドグラスには聖女エリザベートの善行と生涯が描かれていて、文字通り、聖女エリザベート信仰のあふれた教会であった。

    特にじっくり見たのは聖女エリザベートの墓所(霊廊)で、上部にキリストがエリザベートに王冠を授ける光景、下部にはエリザベートの死の状景、棺の周囲に聖人たち、乞食、いざり、精神病者などがエリザベートの冥福を祈る図が彫られたもので、大変印象深い。

    ・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2005年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    5.0

  • リューベック:聖女エリザベートの一代記の絵が飾られた聖霊養老院

    投稿日 2017年04月04日

    聖霊養老院 リューベック

    総合評価:4.0

    2001年5月、ドイツの観光街道であるゲーテ街道の中心、ドイツ文化の源流と云われるEisenachアイゼナハを訪れた。
    この町にはWartburgヴァルトブルク城(世界遺産・1999年登録)が山上にたっていて、かつてのヴァルトブルク城の城主テューリンゲン方伯の妃であった「聖女エリザベートの一代記」などの展示を見る事が出来た。
    この事があって、写真などを添えて、改めて口コミとした。


    <ドイツ北部のリューベックにある聖霊養老院>
    2005年4月23日 (土)

    北ドイツ周遊で訪れたリューベックに、5本の塔と切妻が美しいHeiligen-Geist-Hospital聖霊養老院があり、偶然、内部に聖女エリザベートの一代記の絵が飾られているのを見た。
    マールブルグの聖エリザベート教会は1285年頃に完成されているが、聖エリザベート信仰が北ドイツにも及んでいたという事だろう。

    聖霊養老院はハンザ商人が資金を出し合い、1280年に建設された福祉施設で、救貧院兼病院であった。現在も老人ホームに使用されている。狭いが立派な個室が並ぶ施設だった。
    ハンザ都市リューベックの経済力の背景も有ったのであろうが、この時代に福祉施設を持っていたとは、恐れ入った話だ。


    XXX

    旅行時期
    2005年04月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    4.0

  • 古城ホテル ヴァルトブルグ城:レストラン ”Landgrafenstube”方伯の間での夕食

    投稿日 2014年09月02日

    ロマンティック ホテル アウフ デア ヴァルトブルク アイゼナッハ

    総合評価:4.0

    ドイツ16年ぶりの再訪
            ( 2001年5月3日?5月14日 :12日間 )
    *ゲーテ街道・ドレスデン・マイセン・古城街道を巡る旅*

    使用レンタカー:Volvo S80 2400CC  Diesel  Automatic

    ≪ゲーテ街道Goethestrasse≫
    明日からゲーテ街道を走る。
    “ドイツ人の心の故郷”と旅行会社の宣伝文句にある、この街道はFrankfurtフランクフルトから東に走り、Hanauハーナウ、宗教都市Fuldaフルダを通り、EisenachアイゼナッハやErfurtエアフルトといった“ドイツの緑の心臓”と呼ばれる、深い森が続く森林地帯Thueringenテューリンゲン地方を過ぎ、かつてのワイマール公国の古都Weimarワイマールに至る。更に東に足を伸ばすとJenaイエナ、その近郊にあるDornburgドルンブルク古城群、そして最終地Leipzigライプチッヒまで400kmの街道である。

    詩人であり、作家として高名であったJohann Wolfgang Von Goetheヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749?1832年)はワイマール公国の外交・財政を管掌する大臣であり、自然科学者、画家でもある、多才な人間であった。文豪ゲーテはフランクフルトの裕福な家庭に育ち、18世紀の西欧における市民階級の興隆期にその才能を開花させた。自ら旅人と称し、彼が訪れた町々はドイツのみならず、フランスのシュトラースブルグStrasbourg、イタリアのナポリ・シチリア・ローマなどに及ぶが、特にこのゲーテ街道はゲーテの足跡が見られる町々が続く。これから私共が訪れる町々はそのゲーテ抜きには語ることができない。
    そしてルター、バッハ、メンデルスゾーン、リスト、シラーといった宗教改革者、音楽家、文人たちも同様にこの街道を行き来し、町々にその足跡を印した。

    5・05(土) 曇り後雨、肌寒し 59km
    Friedewald・Schlosshotel Prinz von Hessen古城ホテル・ヘッセンの王子を8:55出発。?>A4・B7 33km Eisenach :市内観光 ;Wartburg城、ニコライの塔、マルクト広場、バッハハウス、ルターハウス、ゲオルゲ教会 ?>Hotel Garni Burgfriedブルクフリード 17:30着。

    A4・B7をほんの少し(33km)行くと、Eisenachアイゼナッハの町(人口4万5千人)に至る。
    このドイツ文化の源流とも言われる町の観光はまずWartburgヴァルトブルグ城である。
    山上の城までボルボは軽快に上がる。狭い山道は山間をぐるぐる回るような感じで上がって行く。

    ヴァルトブルグ城見学は色々あるが、ここでは2点だけ紹介したい。
    <Elisabeth-Kemenate聖女エリザベートの間>
    は天井や壁がモザイク(ガラス製1902?6)で彩られ、見事な美しさを今に残している。部屋の壁面をぐるりと飾るモザイクは聖女の一生を描いていると云う。2階への階段を上がると、そこには城の礼拝堂があった。13世紀の壁画(キリストの6人の使者像)がかろうじて残っている。
    <Elisabeth-Galerie聖女エリザベートの回廊>
    が2階にある。6つの大きなフラスコ画が回廊を埋めていて、聖女の一代記を表現している。
    ? 4歳の時にヴァルトブルグ城に到着した場面。
    ? バラの奇跡。
    ? 十字軍遠征に参加する夫との別れ。
    ? 夫の戦死後、城を追われるエリザベート母子はマールブルクへ。
    ? Marburgマールブルクで死の床に伏す。
    ? 死後4年で聖女に列せられたエリザベートを顕彰し、聖体を担ぐセレモニー・列聖式のシーン。(1236年以後Marburgに壮大な聖エリザベート教会が建設される。)

    XXX

    ホテルには夕食用のレストランが無いので、タクシーで又古城ホテルのホテル ヴァルトブルグ城に向かう。ホテルへの狭い、急坂は慣れていないと難しそうだ。夕食時に飲むこともあって、タクシーを利用したが正解であった。
    ホテルのレストランは、昼のヴァルトブルグ城見学時に予約してあったので私共の席は窓際に設けてあった。窓の外には“ドイツの緑の心臓”と呼ばれる、深い森が広がっている。

    夕食:Hotel auf der Wartburg のRestaurant ”Landgrafenstube”方伯の間
    (方伯:宮廷伯爵に対し、地方に封土された地方伯爵の意)

    広いレストラン内にはお客も少なめで、この為、大変サービスが良い。
    今夜の料理は郷土料理を注文する。その名もThueringer Menueテューリンゲン・メニュー(58X2DM);
    テューリンゲン風スープ・ジャガイモのクリームスープに血ソーセージの小さな団子入り。メインはジャガイモ、ベーコン、カブラが添えられた豚肉料理。
    デザートにはクアークの渦巻状の菓子にチョコレートのシャーベットが出てきました。
    食前酒はドライ・シェリー(14DM)、ワインはライン川右岸に広がるドイツワインの代表的生産地・Rheingauラインガウの白辛口、Johannisberg Klaus 、Prinz von Hessenヨハニスベルク クラウス、ヘッセンの王子醸造所 、1999年、エレガントでフルーティーなリースリングの白でした。(49DM)

    ・・・食後、ホテルの内を拝見する。暖かな火が燃えた暖炉があり、生き生きした花々が飾られた空間はなかなかすばらしいものでした。
    このホテルは35室と少ないが5星のホテルである。日本人ツアーの宿泊客も来るそうだが、次回はここに宿泊するのも良さそうだ。
    さて、本日の夕食代はしめて、185 DMでした。 19:30?21:50 

    XXX

    旅行時期
    2001年05月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    1人1泊予算
    12,500円 未満
    コストパフォーマンス:
    4.0
    サービス:
    4.5
    ロケーション:
    4.0

  • アイゼナハ・ヴァルトブルグ城にはドイツの歴史が詰まっている。

    投稿日 2017年03月24日

    ヴァルトブルク城 アイゼナッハ

    総合評価:4.5

    ドイツ16年ぶりの再訪
    ( 2001年5月3日-5月14日 :12日間 )
    *ゲーテ街道・ドレスデン・マイセン・古城街道を巡る旅*
    使用レンタカー:Volvo S80 2400CC  Diesel  Automatic

    5・05(土) 曇り後雨、肌寒し 59km
    Eisenachアイゼナッハの町(人口4万5千人)に至る。このドイツ文化の源流とも言われる町の観光はまずWartburgヴァルトブルグ城である。山上の城までボルボは軽快に上がる。狭い山道は山間をぐるぐる回るような感じで上がって行く。城の真下に設けられた駐車場に導かれて停める.

    ヴァルトブルグ城内に入ると1階にRittersaal騎士の間がある。十字に木組みされた丸天井、石造りの部屋は12世紀以来の中世の雰囲気で、質素な空間だ。
    次はSpeisesaal食事の間が続き、領主と領主婦人が日常使用したもの。漆黒の樫の木の太い梁が目立つ天井、中央には古びた暖炉がある。石造りの回廊を通り、次の間に。そこは元来、騎士の間と対に作られたものという。

    Elisabeth-Kemenate聖女エリザベートの間は天井や壁がモザイク(ガラス製1902-6)で彩られ、見事な美しさを今に残している。部屋の壁面をぐるりと飾るモザイクは聖女の一生を描いていると云う。(尚、聖女エリザベートの奇跡の伝説が残る)2階への階段を上がると、そこには城の礼拝堂があった。13世紀の壁画(キリストの6人の使者像)がかろうじて残っている。
    この階にはElisabeth-Galerie聖女エリザベートの回廊がある。6つの大きなフラスコ画が回廊を埋めていて、その一代記を表現している。
    ①4歳の時にヴァルトブルグ城に到着した場面
    ②バラの奇跡③十字軍遠征に参加する夫との別れ
    ④夫の戦死後、城を追われるエリザベート
    ⑤Marburgで死の床に伏す
    ⑥死後4年で聖女に列せられたエリザベートを顕彰し、聖体を担ぐセレモニー・列聖式のシーン。(1236年以後Marburgに壮大な聖エリザベート教会が建設される。)

    リヒャルト・ワーグナーの歌劇 “タンホイザー” の舞台としてこの城は有名である。その昔、有名な詩人、歌人などがヨーロッパ各地より参集し、文化の中心ともなったという。吟遊詩人(Minnesaengerミンネジンガー:12世紀の頃、最盛となった。主に宮廷をめぐり、中世の騎士的恋愛が主題の詩を吟じた。宮廷恋愛歌人とも訳す)達が美しい歌声で、テューリンゲン伯の前で、死を賭して歌合戦を繰り広げた大広間はSaengersaalジンガーザール・歌手の間と呼ばれている。(1206年)壁面には“タンホイザー”の歌合戦のシーンがフレスコ画で描かれている。

    次はLandgrafenzimmer方伯の間で、領主が政務を行った場所。その権力を誇示するライオン(方伯の紋章になった)などの強い動物が壁に描かれている。また、方伯の伝説から、築城の伝説など7つの欄間壁画が見られる。3階への階段を上ると大きな広間に出た。

    Festsaal祝典の間がそれである。長方形の大広間にはシャンデリアがさがり、木彫りの装飾も美しく飾られ、正面には鷲の紋章が威厳を示している。大広間は近年、コンサート等に利用しているようで、何百の椅子が整然と並んでいた。
    ここには二つの話がある。

    一つは“メルヘン王” ルードヴィッヒ二世バイエルン王がここを真似た広間を新白鳥城に作ったと云う。
    二つには1817年10月18日、ドイツ学生同盟(1815年)の学生たち凡そ500名が参集し、ヴァルトブルグ集会を催したこと。
    テーマは1813年ライプチッヒの戦いに勝利したことの祝いであり、ルター宗教改革300年を記念したもの。この集会で宣言されたのはドイツ連邦成立への民族統一、民主主義の基本権の確立であり、当時のドイツ地域での市民階級(中間層)が始めて大衆行動を起こしたという歴史的なものだった。
    その際に使用された学生同盟旗は後年、ドイツの国旗の“黒・赤・黄”の三色旗の基となったそうだ。
    (*ライプチッヒの戦い:諸国民戦争とも言い、1813年10月プロイセン、オーストリア、ロシアの同盟軍がこの地で、ナポレオン軍に大勝し、ナポレオンの退位の契機になった。)

    ここでガイドは終了し、階段を下りて、ゲーテが提唱して作られた博物館に。
    聖物、デューラーの書棚、クラナハの作品などの展示あり。博物館横のお土産ショップ。その後、梁がむき出しになった、狭く、頭がぶつかりそうな通路をルターの小部屋に向かう。真に古城の趣むきたっぷりな木造の渡り廊下である。

    Lutherstubeルターの小部屋は質素な、木張りの部屋であった。帝国追放例を受けていたルターがザクセン侯の守護の下で、この部屋で誰にも分かるように易しい言葉で、ギリシャ語の新約聖書をドイツ語に翻訳した。(1521~22年の凡そ10ヶ月の短い間に翻訳した。;旧約聖書はこの後、Coburgコーブルク城でドイツ語訳を完成。)ルターは聖書を万人のものとした。‐‐‐歴史的なことを成し遂げたわけだ。
    ゲーテもワイマールの大臣となって、アイゼナッハには20回近く訪れたという。城の補修・保存を命じたというが、これもルターの弟子を自任していたゲーテだからだと・・・。

    XXX

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.5
    展示内容:
    4.0

  • フランクフルトからゲーテ街道を東に走ると、かつての水城傍に5星の古城ホテル ヘッセンの王子があった。

    投稿日 2024年02月19日

    Göbels Schlosshotel "Prinz von Hessen" その他の都市

    総合評価:4.5

    【ドイツ16年ぶりの再訪】
    *ゲーテ街道・ドレスデン・マイセン・古城街道を巡る*
    ( 2001年5月3日~5月14日:12日間 )

    ヘッセン州地方はドイツの中部にあたるが、この地方には12、3世紀の中世を具現する古城が多い。なかでも名高いのは小高い丘の上にそびえるSchloss Spangenbergシュパンゲンベルク城である。町の象徴的建造物は1235年に建設されたその旧武器貯蔵庫には現在、狩と城の博物館が入っている。しかも、嬉しいことに4星・全29室、2017年に全面的に改装された古城ホテルでもある。

    <2001年5月4日(金) 晴れ、 306km>

    この日、お茶に立ち寄った古城ホテル シュパンゲンベルク城から南下する。=>B487・83・27、Bad Hersfeldバート・ヘルスフェルトでアウトバーンのA4にのる。12kmでFriedewald フリーデヴァルトのインターである。B62を1km走ると村内(人口2470人)に入る。
    すぐに村の中心で、そこには今夜の宿・古城ホテル・Schlosshotel ”Prinz von Hessenヘッセンの王子”があった。ここまで67kmと近い。
    古城ホテルPrinz von Hessenヘッセンの王子のレセプションに入ると、思っていた以上にモダンな雰囲気の古城ホテルであった。

    ヘッセン州には私が纏めた古城ホテルリストに18ホテルがある。その内、14の古城ホテルに足跡を残したが、その一つに<古城ホテル ヘッセンの王子>がある。

    (1泊)Schlosshotel  "Prinz von Hessen "古城ホテル ヘッセンの王子
    (尚、現在はGoebels Schlosshotel Prinz von Hessen古城ホテル ゲーベルズ・ヘッセンの王子と称している) 
    D-36289 Friedewald 、Schlossplatz 1

    5星・ 全 90室 。230号室=DM355(2万円)
    通された部屋(No.230・35㎡と広い)も新装間もないような明るい、きれいな部屋である。それだけに、値段もこの旅一番の高さだ。

    古城ホテル ヘッセンの王子はWasserburg水城の一辺に対し、コの字型に建った建物の中心に、1997年初めに建設された。ホテル・レストランがあり、左右の翼となる建物は左手が博物館で、右手は会議場などの施設に利用されているようだ。左手の建物裏には広い駐車場、乗馬用の厩舎などが見られる。コの字型の中庭には1605年にできた噴水がいまだに残っている。
    水城は四隅に円筒形の櫓・砦(Dicken-Turm太っちょの塔がホテル棟に面し、左手にGefaengnis-Turm牢獄塔、他の二つの塔はNO-Turmと言う、なんと訳すのか分からないが、塔ではないとでも言うのか?!半壊した姿のままだ)をもち、やや長方形の形をした水城は周囲を掘割に囲まれている。その周辺一帯を草原が更に囲んで、2万㎡の敷地はなんとも広大である。

    この城の歴史もまた古い。フリーデヴァルトはちょうど二つの古街道が十字に結ぶ場所であって、①はFrankfurtフランクフルトとLeipzigライプツィヒを結んだヘッセン州を通過する街道である。②は北海への窓口、Bremenブレーメンと北部バイエルンの中心地であるNuernbergニュルンベルクを結ぶ交易路である。

    1983年、城跡の発掘の際、焼けた層から陶器の破片が出た。その鑑定によると11~12世紀の頃のものだと推測された。この地は10世紀には十数km離れた、Hersfeldヘルスフェルトの僧院の所有地となり、1306年にはヘッセン大公により、帝国封土とされた。1392年にヘッセン大公の狩猟館となった。1476年、水城に改築される。
    17世紀の三十年戦争の頃になると所有者が変遷する。
    18世紀の7年戦争(プロイセン・英連合 対 オーストリア・仏の連合軍間の戦い)では仏軍の攻撃を受けて、水城は破壊されてしまう。
    その後は廃城のまま、中世の古城の姿を留めているだけである。
    夕食はRestaurant ”Prinzenstube”(プリンスの間)にて、春の旬シュパーゲル料理を久しぶりに食べて満足した。翌朝の朝食はパビリオン風の建物にあるレストランSchlossgartenシュロスガルテンで頂く。大好きなドイツの新鮮、かつ豊富な朝食に感激しながら・・・。朝が早いのか?私どもだけのレストランは贅沢なものだ。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    1人1泊予算
    10,000円 未満
    サービス:
    4.5
    バスルーム:
    4.5
    ロケーション:
    3.0
    客室:
    4.5

  • フルダの司教領主の居城シュタットシュロス(18世紀バロック様式)は長大な城で、現在は市政庁だ。

    投稿日 2024年02月18日

    フルダ城 フルダ

    総合評価:4.0

    【ドイツ16年ぶりの再訪:①ゲーテ街道をフルダ、シュパンゲンベルク城、古城ホテル ヘッセンの王子に走る】
    *ゲーテ街道・ドレスデン・マイセン・古城街道を巡る*
    ( 2001年5月3日~5月14日:12日間 )

    この旅で『ドイツ感傷旅行の第一回』がスタートする事となった。


    <2001年5月4日(金) 晴れ、 306km>
    8:30Sheraton Frankfurt Airportをチェックアウト。ハーツレンタカーにて手続き後(Volvo S80 2400CC Diesel)、フランクフルト 9:10スタート =>誤ってOffenbachオッフェンバッハに入り込む。以後 => A66・B40 102km Fuldaフルダ・人口6万2千人、市内観光:宗教都市の旧市街、大聖堂、聖ミカエル教会、バロックの城、城公園・オランジェリー、旧市庁舎。


    【フルダ市内観光】
    ヘッセン州の古都、Fuldaフルダはバロック建築が多く見られる宗教都市(司教領主の支配地)である。
    “陸の水”と古代ドイツ語の意味を持つ*フルダ川が街に沿って北に流れ、Weserヴェーザー川に注ぎ込む。そのフルダ川のほとりに、744年聖ボニファティウス(英人・ドイツのキリスト教化に努めた事から「ドイツ人の使徒」と呼ばれる。754年オランダで反キリスト教徒により殺害された)がベネディクト派の修道院を建てたことから、この町は発展したという。

    Domの後方にある聖ミカエル教会(Michaelsbergミカエルベルク)を見て、カスターニアン(マロニエ)の見事な並木道を歩いて、司教領主の居城Stadtschlossシュタットシュロス(18世紀バロック様式の城)に至る。
    現在は市政庁がある。

    長大な城の北側にはSchlossgartenシュロス公園があり、噴水の先にはオランジェリーが見えて、公園の花々が麗わしの5月を彩り、ドイツの春真っ盛りの景色を楽しむことができた。

    城門の前にはこの町を象徴している、聖ボニファティウスの十字架を掲げた銅像が建つ。
    旧市街には旧市庁舎をはじめ、様々な木組み建築の建物が見られ、楽しい街だ。

    ・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    4.0

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jijidarumaさんにとって旅行とは

傘寿(80歳)を過ぎましたが、ドイツ旅行を回顧しながら、投稿を楽しんでいます。
かつての駐在時代より、古城巡りや古城ホテルに宿泊するのが大好きで、各地を巡りながら、そこに残る伝説・民話を見つけては、訳してきました。
ここではそうした伝説・民話を中心にご紹介しながら、古城巡りや古城ホテル、グルメ体験などについても、掲載してきました。
ご興味あれば、お立ち寄りください。

最近はアジアの香港・マカオ、台湾も時に昔を思い出しつつ、また、日本の小旅行と称した旅も
最近投稿しています。
(2025.06.11.)


プロフィール写真は
シュパンゲンベルクのマルクト広場:相思相愛のクノーとエリゼの二人の像

Spangenbergシュパンゲンベルク:
http://www.spangenberg.de/cms/
ヘッセン州北部のシュヴァルム・エーダー郡に属す人口6千人の町シュパンゲンベルクは今年で都市権710年になる。カッセルの南東に、直線距離で35 km の距離にある。
この町に残る伝説はグリム童話にも掲載されているが、その事から2000年から公式に「Liebenbachstadtリーベンバッハシュタット」と称している。
木組みの家並みが続く旧市街は小さいながらもなかなか良いもので、その中心は庁舎ラートハウス、3階建ての石造りの建物だ。ラーツケラー(レストラン)もあり、マルクト広場を木組みの家が囲んでいた。
その一角に相思相愛のクノーとエリゼの二人の像・・・劇的なシーンを描いているLiebenbachdenkmalリーベンバッハ(恋人たちの小川の意味)記念碑と泉があった。像の裏手には、原野の土を二人が掘り、山の源泉から水を村まで引いた話を示すような鍬が二本、その伝説を語るように置かれていた。
傍には記念碑が建てられた頃の写真や、当時のラートハウスやマルクト広場周辺の家並みを写したものなど、その歴史を説明するように看板が立っていた。

<シュパンゲンベルグ:村に残るクノーとエリゼの相思相愛の伝説 番外編参照。>

https://4travel.jp/travelogue/11528725

(2022.11.16.)

自分を客観的にみた第一印象

大好きな場所

ドイツ

大好きな理由

定年後、かつての駐在を懐かしみ、毎年、ドイツ各地の古城を巡り、様々な古城ホテルの滞在を楽しみながら、レンタカーでドイツの田舎道を31,000km走ってきました。
春が11回、夏1回、秋が4回、クリスマスが1回と、定年後の旅はもう17回となります。
2020年に予定していた18回目は武漢ウイルスの為、延期のままとなり、さらにロシアのウクライナ侵略の勃発もあり、戦時体制の欧州の旅は見送り続けて、2025年を迎えている。

(2025.06.11.)

行ってみたい場所

ドイツ

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