犬頭伝説と本多作左衛門
- 5.0
- 旅行時期:2015/04(約11年前)
-
-
by bluejaysさん(男性)
岡崎 クチコミ:2件
上和田の城主宇都宮泰藤が眠っているとき、大蛇が来たので、彼の犬が吠えたが、彼は眠りを妨げられたので怒り、刀で犬の首を刎ねた。すると犬の首は舞い上がり大蛇を噛み殺したので、彼は後悔して犬の霊を慰めるため犬頭神社を作ったのだと言われる。
ところが実際は、京都で晒された新田義貞の首を宇都宮泰藤が奪い、この神社の池に埋め、首塚を築いたことを隠蔽するため、犬頭伝説を流布させたともいう。犬頭神社の池には、今も新田義貞のものと伝えられる首塚がある。
この地はまた、本多作左衛門重次の生誕地でもある。1563年の三河一向一揆の際には、当初門徒側についたが改宗して家康方に寝返り、上和田の塞投の地に知行を与えられた。1565年には天野康景・高力清長とともに「三河三奉行」に任ぜられるが、彼は公正かつ法に厳格で、主君家康にすら諫言した。戦場では勇猛果敢に戦い、片目・片足と何本かの指を失い「鬼作左」と言われた。
1586年、秀吉が家康を上洛させる代償として母大政所を人質に差し出したとき、重次は彼女を粗略に扱い、屋敷の周辺に薪を積みあげて、家康の身に何かあればただちに焼き殺す姿勢を見せた。また秀吉が小田原征伐からの帰り道に岡崎城に立ち寄った際、城将の重次は三度も使者を遣わされたが迎えに現れず、秀吉の怒りをかい、上総古井戸3000石にて蟄居を命じられた。
だが家康は重次の功を忘れず、天下人となったとき彼の子本多成重を丸岡城主にした。
長篠の合戦のおり、陣中から妻あてに書いた「一筆申す 火の用心 お仙痩さすな 馬肥やせ かしく」は、簡潔明瞭な手紙として知られる。
- 施設の満足度
-
5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 岡崎駅から1.2キロ
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 5.0
クチコミ投稿日:2015/06/24
いいね!:0票
利用規約に違反している投稿は、報告することができます。 問題のある投稿を連絡する