「織田四天王」の一人
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- 旅行時期:2015/04(約11年前)
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by bluejaysさん(男性)
名古屋 クチコミ:14件
1535年、丹羽長政の次男として生まれる。丹羽氏は元々斯波氏の家臣であったが、長秀は1550年から織田信長に仕えた。斎藤征伐・六角征伐・高屋城の戦い・長篠の戦い・越前一向一揆征伐などで武功を挙げ、また軍事面だけではなく安土城の普請奉行としても評価された。
1571年、佐和山城を陥落させてその城主となり、さらに若狭一国を与えられる。1581年の京都御馬揃えにおいても、一番に入場するという栄誉にあずかり、柴田勝家に続く二番家老の席次を認められた。いわゆる「織田四天王」の一人である。
本能寺の変の後は、秀吉に同調するようになり、実質的に家臣と見られていたようだ。1583年の賤ヶ岳の戦いでも秀吉に味方し、若狭に加え越前と加賀二郡を与えられ、123万石の大大名となった。
1585年、胃癌のため死去したとされる。一説によると、織田家をないがしろにする秀吉に抗議して、切腹し内臓を秀吉に送りつけたともいわれる。
息子長重は関ヶ原の戦いで西軍に加担し改易されたが、後に江戸崎藩主、棚倉藩主、白河藩主として返り咲いた。長重の息子光重は二本松藩主となり、明治まで続いた。織田四天王のうち、明治まで大名家として残ったのは丹羽家だけである。
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クチコミ投稿日:2015/06/24
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