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百々橋の礎石

名所・史跡

今出川・北大路・北野

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百々橋の礎石 https://4travel.jp/dm_shisetsu/11369555

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施設情報

施設名
百々橋の礎石
住所
  • 京都府京都市上京区寺之内通堀川東入る百々町
カテゴリ
  1. 観光・遊ぶ
  2. 名所・史跡
登録者
はまちゃん さん

※施設情報については、時間の経過による変化などにより、必ずしも正確でない情報が当サイトに掲載されている可能性があります。

クチコミ(16件)

今出川・北大路・北野 観光 満足度ランキング 138位
3.31
アクセス:
3.41
市バス堀川寺之内から5分くらい by 関西が好きさん
人混みの少なさ:
4.00
人より車が多い by 関西が好きさん
バリアフリー:
3.63
車がこの前をよくとおるから注意 by 関西が好きさん
見ごたえ:
3.23
歴史の勉強になる by 春待風さん
  • 応仁の乱

    • 4.0
    • 旅行時期:2022/09(約2年前)
    • 0

    堀川寺之内の交差点を東へ入ると人形寺で有名な宝鏡寺があります。更に東へ行くと整備された公園があり、そこに「百々橋の礎石」が...  続きを読むあります。室町幕府はこのあたりに花の御所を開き、政治の中心地であった場所でしたが、応仁の乱では、戦の中心地となった百々橋。東に細川軍、西に山名軍が対峙し、数十万の兵士たちが戦いました。詳しいことは説明板に記載されています。  閉じる

    投稿日:2022/09/08

  • 応仁の乱の遺構

    • 3.0
    • 旅行時期:2022/01(約2年前)
    • 0

     誰もが教科書で習う応仁・文明の乱。東軍と西軍に分かれて長期間の戦闘を繰り広げたが、その東軍と西軍を分けたのが、この百々橋...  続きを読むだった。当時、現地には小川が流れており、百々橋を挟んで両軍が対立。橋より東に布陣したから東軍、西に布陣したので西軍と通称された。現在、橋は洛西竹林公園に復元されているが、現地の名残として礎石が置かれている。京都では「先の戦い」というと第二次世界大戦ではなく、応仁の乱を指す。それほど京都の歴史に深く刻まれた出来事だったのでこうした展示がしてあるのだろう。  閉じる

    投稿日:2022/02/24

  • 大きな礎石がゴロリ

    • 2.5
    • 旅行時期:2021/11(約2年前)
    • 0

     俵屋吉冨小川店前の広場に大きな石と説明板がある。応仁の乱の激戦地だった百々橋の遺構で、川は昭和40年代に埋め立てられてし...  続きを読むまったので、かつてを偲ぶものは残された橋の橋脚に使われた大きな礎石だけ。
     ここから北に延びる通りは茶道の表千家家元や裏千家家元が住む風情ある一画である。電柱や電線が地下に埋設されているため景観がすっきりして、「京都人の密かな愉しみ」でも度々登場する。  閉じる

    投稿日:2022/01/20

  • 堀川通りからだとすぐです。私は今出川駅から行ったので、寺の内通りがくねくね曲がっており迷いながらでした。
    視覚的には何の...  続きを読む変哲もない岩ですが、歴史的にはここに川と「橋」が有ったのだとか、あのしょうもない「応仁の乱」の良く分からない原因の一つの山名陣と細川陣がこの小川を挟んで対峙した時の、あの橋の礎石と思うと、テンションがMAXでした。

    視覚的に期待して行くとガッカリ間違いなしです。ガッカリした人は公園の石の椅子に座って一休みしてください。  閉じる

    投稿日:2021/11/19

  • 応仁の乱の遺構

    • 4.0
    • 旅行時期:2021/09(約3年前)
    • 0

    京都は寺之内堀川を東に入った小川通にあるその名も小川に架かっていた百々橋の橋脚の礎石です。今は小川は埋められて素敵な小川通...  続きを読むりになっており、小さな公園も整備されています。
    百々橋は戦略の要地として、橋を挟んで東西両軍が戦ったという応仁の乱の歴史を伝えています。  閉じる

    投稿日:2021/09/25

  • 4つの礎石のうちの一つ

    • 4.0
    • 旅行時期:2021/09(約3年前)
    • 0

    寺之内通小川にある百々橋の礎石。百々橋は当時、南北に流れていた小川に架かっていた橋。その橋を支えていた4つの礎石のうちの一...  続きを読むつが現地に残されています。応仁の乱では、戦の中心地となった百々橋。東に細川軍、西に山名軍が対峙し、数十万の兵士たちが戦ったとされる歴史の舞台です。  閉じる

    投稿日:2021/09/20

  • 百々橋があったところ

    • 3.0
    • 旅行時期:2021/01(約3年前)
    • 0

    宝鏡寺からさらに東へ進むとこの礎石がある。大きいから目立つ。しかもこれだけじゃなくてその一帯が遊歩道とまではいかないけどち...  続きを読むょっとした街中の休憩所みたいになってる。
    この礎石の前がすぐ道路だから自転車や車にぶつからないように注意しながら撮影したほうがいい。もとは川が南北に流れてて百々橋がかかっていたところ。ここから一条戻り橋の周辺で応仁の乱がおこった。  閉じる

    投稿日:2021/01/13

  • 小川に架っていた橋の礎石

    • 4.0
    • 旅行時期:2020/11(約3年前)
    • 0

    宝鏡寺(旧百々御所)の東、寺之内通にあります。整備された公園のような場所になっています。かつてこの地に小川が南北に流れてい...  続きを読むて、百々橋がかかっていました。戦国時代にこの地を中心に合戦が行われました。特に文明の乱ではこの一帯は西軍の山名方と東軍の細川方との主戦場となりました。小川は昭和40年に埋め立てられました。この礎石は橋げたを支えた4基のうちの1つです。オブジェのように見えました。  閉じる

    投稿日:2020/11/19

  • 応仁の乱の激戦地

    • 2.5
    • 旅行時期:2020/08(約4年前)
    • 0

    烏丸通りから寺之内通りを東に入った所にある俵屋の対面にある百々橋広場の中に百々橋の礎石が置かれています。かつてこの付近には...  続きを読む室町幕府は御所を開き、政治の中心地でしたが、応仁の乱では細川と山名が戦った激戦地となった場所。その百々橋の礎石の一つがここに展示されています。京都を歩いているとこの様な史跡に巡り合えるのが楽しいです。  閉じる

    投稿日:2020/12/22

  • 「応仁の乱」の合戦の場

    • 3.5
    • 旅行時期:2019/12(約4年前)
    • 0

    京都市営バス「堀川寺ノ内」バス停下車し東へすぐです。寺ノ内通りの小川に礎石と説明板があります。百々橋は応仁の乱の際に東軍と...  続きを読む西軍が橋を隔てて合戦を繰り広げた場所です。先日NHKの「ブラタモリ」で放映していたことを思い出し訪れました。当地はきれいに整備されています。  閉じる

    投稿日:2019/12/25

  • ビジュアル付きでわかりやすい

    • 3.0
    • 旅行時期:2018/07(約6年前)
    • 0

    本法寺に参拝した後、裏手に当たる小川通リを歩いていると「小川と百々橋の礎石」という案内板がありました。小川通りは独特の雰囲...  続きを読む気を持つ通りで「裏千家」「表千家」が並ぶ京都ならではの光景です。
    案内板には地図、写真、イラストが記されており、かつての雰囲気を想起させる親切なものでした。  閉じる

    投稿日:2018/10/21

  • 百々橋の礎石 堀川

    • 3.0
    • 旅行時期:2016/04(約8年前)
    • 0

    応仁の乱の際の激戦地だった百々橋の礎石が残る場所。表千家の不審庵の近くです。昭和38年に川を埋め立てた際に、百々橋も撤去さ...  続きを読むれたのですが、礎石は近くの小学校に移され、うち一基が橋のあったこの場所に保存されています。無造作に置いてあるので、案内板がないと見過ごしてしまいます。室町の頃の遺構は案外小振り少ないので貴重です。  閉じる

    投稿日:2016/09/25

  • 応仁の乱に関係する遺構

    • 4.0
    • 旅行時期:2015/02(約9年前)
    • 0

    百々橋の礎石は、堀川通りから寺ノ内通りを入って宝鏡寺を過ぎたところ。この石は、応仁の乱に関係する遺構。山名宗全と細川勝元の...  続きを読む覇権争いは、他の守護大名のいさかいや内紛なども加わって西軍と東軍に分かれた泥仕合の合戦になったのですが、この橋をはさんで何度か大きな戦いが行われたということです。
      閉じる

    投稿日:2015/02/10

  • 応仁の乱、そして「百々橋」の疎石

    • 3.0
    • 旅行時期:2014/10(約10年前)
    • 0

    上京の本法寺に行き、小川通を南に歩いていると、東西を通る寺之内通に突き当たる辺りで、百々橋(どどばし)の礎石があります。応...  続きを読む仁の乱(一四六七~一四七七)の戦場として歴史に名をとどめる「百々橋」の疎石の一つといいます。  閉じる

    投稿日:2014/12/12

  • 室町時代に二度あった「百々橋の戦い」

    • 3.5
    • 旅行時期:2014/08(約10年前)
    • 0

    寺之内通の宝鏡寺門前を「百々の辻」と呼ぶようになったのは平安時代からだが、小川にかかるこの小橋が有名になったのは、戦国時代...  続きを読むの合戦以降である。
    1467年に発生した応仁の乱で、東軍と西軍が百々橋を挟んで戦った。ここから一条戻り橋付近まで、一帯が焼失した。
    それから40年後、細川勝元の子政元の跡嗣をめぐって、養子の澄元と澄之が対立した。1507年澄之は養父政元を殺し、百々橋で澄元と戦った。澄元は近江へ敗走したが、後に京都に戻り、澄之を滅ぼした。
    小川は1963年に埋められ、百々橋も消滅したが、礎石はこの地のほか、室町小学校と洛西竹林公園に展示されている。  閉じる

    投稿日:2015/06/21

  • 応仁の乱の合戦地

    • 3.0
    • 旅行時期:2014/08(約10年前)
    • 0

    百々橋の礎石(どどばしのそせき)は、地下鉄烏丸線の今出川駅から歩いて10分足らず、小川通と寺之内通が突き当たる角にあります...  続きを読む
    百々橋は当地を南北に流れていた小川に架かっていた橋(長さ約7.4m、幅約4m)で、応仁の乱(1467年〜1477年)の際、東軍(細川勝元)と西軍(山名宗全)の両軍が、橋を隔てて数度にわたり合戦を行ったところだそうです。
    遺構として保存されている礎石は直径1mあまりの大きさで、その横には駒札(説明書き)があるだけで、正直、よほどの歴史好きの方は別にしてわざわざこれを観に足を運ぶようなところではありません。
    駒札の写真を添付しますので、歴史好きの方は参考にして下さい。  閉じる

    投稿日:2014/10/21

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