たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さんのクチコミ(66ページ)全1,843件
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糸洲の集落のはずれの分かり辛い場所にあります。~糸洲第二外科壕跡~
投稿日 2016年04月28日
総合評価:5.0
沖縄戦末期に南風原陸軍病院から撤退してきた第二外科の軍医をはじめとする医療スタッフと患者、そして学徒看護隊として動員されていたひめゆり学徒が入壕した場所になります。
一説によると学徒たちはどの壕にいくかを?じゃんけん?で決めたとされることもあり、最も犠牲者を出した第三外科が?一番人気?だったことは、なにかやるせないものがあります。
第二外科壕も昭和20(1945)年6月18日に米軍の馬乗り攻撃を受け犠牲者を出していますが、生存者はその夜に伊原第一・第三外科壕へと移動し、そこで解散命令を受けることになります。
旧道の国道331号線糸洲交差点には第二外科壕の?道標?があるものの気付く方が多いとは思えません。ナビを利用するならば付近の?糸洲農事集会所?を検索すればすぐにわかるかと思います。
残念ながら壕はブロックで内部が閉鎖されており、様子を伺うことはできません。またすぐ隣には舗装された道があり、その整地の際に壕内からの出土品までも埋められてしまったようで、その場所を確認することしかできません。
壕入口付近に建立されている?第二外科壕?と?ぬちどぅ宝?の石碑のみが往時を伝える唯一のものとなっており、第一外科壕跡同様訪れる方も多くはありません。しかし70年前にはここに野戦病院があった事実を是非とも知って貰いたい・・・そんな気持ちにさせる場所には違いありません。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 糸洲農事集会所から徒歩2分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 他に訪れる方はおられませんでした。
- バリアフリー:
- 3.0
- 足元は良くはありません。
- 見ごたえ:
- 5.0
- ここにも野戦病院があった事実を知って貰いたい。
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投稿日 2016年04月29日
総合評価:5.0
那覇市識名4丁目の住宅地にある識名壕は、沖縄戦の最中第62師団野戦病院であったナゲーラ壕が手狭になったため利用されるようになった壕です。正確には石部隊野戦病院識名分院壕といい、元梯梧学徒看護隊の少女たちがナゲーラ壕から移ってきました。5月には米軍の攻撃を受けた際壕内にあった手榴弾が誘爆し、多くの犠牲者を出しました。
その後第32軍司令部の南部撤退命令により、時期を同じくしてナゲーラ壕に配属となったずゐせん学徒も含め、識名壕を出て武富壕・サキタリガマ・米須フシゾーアブ・伊原壕へと移動しています。
第32軍司令部崩壊直前の昭和20(1945)年6月19日にはふたつの学徒隊に解散命令が出され、多くの犠牲者を出したことはあえて語る必要もない程有名なことでしょう。
この識名壕は大変場所がわかり辛く、場所を特定しながら歩かないとなかなか到着できません。また車を停めるスペースもなく、識名園駐車場に停めて歩かないといけません。住居の隙間の狭い階段を下りて行き、壕の底辺まで降りた先はお隣の住宅の真下にあたることは驚いてしまいました。しかしその史跡を残して頂いていることによって今なお70年前に?ここで何があったか?を追体験できることは戦後世代には大変ありがたいことのように思います。
この識名壕ですが結構勘違いされていることがあります。それが名称なのですが、先述したように第62師団野戦病院識名分院が識名壕、つまりこの場所となるのですが、もうひとつ陸軍病院識名分室壕というものがあります。そちらは現在行くことができないため、話題に上ることはほとんどないものの、識名壕は第62師団隷下、それに対し南風原陸軍病院識名分室壕は第32軍直轄だったという大きな違いがあります。師団隷下と直轄の違いは敢えて説明を省きますが、配属された学徒看護隊の?違い?があります。ナゲーラ壕に配属されたのはずゐせん・梯梧の学徒隊、それに対し陸軍病院にはひめゆり学徒隊が配属となっています。
いずれの学徒隊も南部への撤退の途中や解散命令が出されてから多くの犠牲者を出した?悲劇の学徒隊?であったことには変わりませんが、よく似た名前というだけで判断してしまっていることが多い事実は非常に残念に思えてなりません。歴史を知ることは必要であることには変わりはありません。そのことが将来?大きな過ち?を繰り返すかどうかに繋がっている…お参りをしてふと思った次第です。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 光明寺バス停から徒歩2分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 誰とも出会いませんでした。
- バリアフリー:
- 3.0
- 階段があり足場は良くありません。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 場所的な違和感を感じました。
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投稿日 2016年05月06日
総合評価:5.0
沖縄県道 82 号線を西へと向かって走っていると、なにやら展望台らしき建物を発見し立ち寄ります。旧県道 82 号線から少し入って小城体育館のはす向かい、グスクをモチーフにした展望台は?西部プラザ公園展望台?というそうです。建物内はトイレもあり清掃も行き届いているのですが、どうやらこの?西部プラザ公園?というものは既に閉園した場所であるとのこと。しかし小城馬場公園という広場があり、エイサー等が行われている様子。その背景もあり集落の方々の手によってなされているように思います。
展望台の高さは 15m とさほど高いものではないものの、西方向の一部を除いて展望は開けており八重瀬町の田舎の風景や、それにつながる那覇や南風原の風景まで望むことができます。花曇という天気もあり、慶良間諸島までは望めなかったものの、ガイドブックに載らない穴場的な場所としては十分満足ができる場所です。- 旅行時期
- 2016年04月
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投稿日 2016年05月06日
総合評価:5.0
琉球王朝の別邸は世界遺産に登録されています。
那覇市真地にある識名園。その昔琉球王朝の別邸として作られたもので、王家の保養や大陸からの冊封使のもてなしのために利用されていました。明治時代には外国人教師に?宝石を散りばめた箱庭だ?と言わしめるもの、沖縄戦でほとんど焼失し戦後に再興されました。
池泉回遊式という日本庭園の様式を取り入れながら、六角堂や石橋といった中国様式の建物が園内に建立されていることは、通常ならば違和感すら覚えるものですが、そこに現在に引き継がれている沖縄の混ぜこぜという意味の?チャンプール?の精神によって?琉球庭園?という新しい美的感覚を表しています。
アジア諸国の中継点として君臨した琉球文化を余すことなく観光客に伝えている識名園は、やはり沖縄ならではという印象を受けました。いにしえの写真に残る戦前の識名園の様子を見られないのは残念には思うものの、当時に建立された石碑などを拓本などといった記録を元に再現されて今に残ることは、中継点として君臨してきた沖縄琉球を文化を知る場所として往時の面影を知る数少ない場所だと思います。
琉球王朝の拠点首里城からそう遠くない場所に位置するため、公共の交通機関で訪れることが容易であることが、往時に識名園が重宝された理由を今に伝えている・・・そんなように思います。ただひとつ欲をいうと、この識名園の界隈には多くの戦跡も残っているものの、そこに至る通路が識名園の柵にて閉鎖されてしまっていることは残念に思います。- 旅行時期
- 2016年04月
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投稿日 2016年05月07日
総合評価:5.0
奥武山公園というと沖縄を代表する運動公園です。沖縄で唯一プロ野球ナイターが行えるセルラースタジアム那覇や多目的広場である兵庫・沖縄友愛グラウンドをはじめとした各種スポーツ施設の他沖縄県護国神社・沖宮等の歴史施設もあります。
なぜスポーツセンターに兵庫という地名が被っているのか?この経緯は70年前の沖縄戦の戦時中に遡ります。第27代沖縄県知事で最後の官選知事として知られている島田叡氏は、沖縄戦末期の混乱期に軍と密接な関係を保ちつつも住民保護に奔走した?人の心を持つ人間?として、今なお沖縄県民から信頼の念を持たれている?政治家?です。兵庫県のご出身の島田知事は野球をはじめとするスポーツマンとして学生時代から有名だったものの、大阪府の内務部長時に沖縄県知事の打診を受け、ふたつ返事で引き受けられました。残念ながら沖縄戦末期の混乱期に行方不明となられ、今なおご遺体は見つからないままではありますが、その人柄を知る沖縄戦を?生き延びた?住民の方々や出身校の関係者から、島田知事最後の地である沖縄に、所縁のスポーツセンターをということでできたものが兵庫・沖縄友愛グラウンドになります。そのすぐ脇には昨年?島田叡叡氏顕彰碑?が建立され、色々なスポーツを楽しむ住民の方々を見守っています。
戦跡とはなにも戦時中のものでなければないというものではありません。思想信条に関わらず?人の心を持ち続けた偉人?を顕彰することも間違いなく?戦争を間違いなく伝えること?に違いありません。スポーツに勤しむ人々を見ながら、戦時中に人の心を持ち続けた偉人の勇気を感じ取って頂きたく思います。- 旅行時期
- 2016年04月
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投稿日 2016年05月09日
総合評価:5.0
中世の古城八重瀬グスク跡に作られた公園です。カンヒザクラの時期には混み合うこともあるそうですが、普段は閑散としています。頂上付近にはグラウンドや展望台があり、自然に囲まれた沖縄の農村部と那覇の都市部を望むことができます。
入口駐車場付近には、沖縄戦時に白梅学徒看護隊がいた第24師団第一野戦病院壕がありました。白梅学徒看護隊之壕と記されたものは当時の手術壕跡であり、少し下がった位置には本部壕跡があります。本部壕は既に落盤、手術壕は落盤の危険性があるためどちらも入壕することはできないものの、ここに少女学徒がいた事実は知らなければならないことのように思えます。- 旅行時期
- 2016年04月
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投稿日 2016年05月10日
総合評価:5.0
久しぶりに訪れましたが、いつも考えることがあります。?戦争?を?いかに伝えるか??ということ。つまり入館者にどのような手段で訴えかけるのかということになります。
人が住んでいる場所で起こった沖縄戦。それゆえに住民を含め学徒隊等という?民間人?の犠牲者を多大に出しました。中でもひめゆりの塔隣りの伊原第三外科壕は、ひとつの場所で多くの犠牲者を出した場所。その上後世に於いて映画やドラマ化されたこともあり、学徒隊を慰霊している碑としては、群を抜いた知名度を持っています。
その資料館としてのひめゆり平和祈念会館ですが、それに加えた犠牲となった学徒の写真や、壕のレプリカ等を合わせてわかりやすく説明してはいます。勿論資料館としての価値はおおいにあるものの、やはり類似の資料館と比較しても際立ったなにかを感じるものでもなくなってきたように思えてなりません。
17:30と記載されている閉館時間は実は17:25であったりと、要所要所に感じてしまう事務的な要素に以前程の魅力は感じません。
勿論このことは犠牲となられた学徒の皆様には関係はありません。後世の史実を引き継ぐべき人達の拙いやり方につきます。近隣の土産物店に対する不満を持ち込むのも筋道違いであり、逆にそうとしか取られない人に対してはあわれみすら感じます。
なにか興味深い特設展が行われれば行くかも知れません。しかし常設展だけでは多分もう行くこともないように思います。- 旅行時期
- 2016年04月
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投稿日 2016年05月11日
総合評価:5.0
糸洲第二外科壕の場所がわからなかったために先に訪れました。国道331号線にある大きな看板があり、容易に場所は把握できると思います。
積徳高等女学校の学生によって構成されたふじ学徒看護隊25名が動員された場所となりますが、犠牲者の数が少なかった学徒隊として知られています。第24師団第二野戦病院糸洲分院であったこの場所では、第32軍司令部から発令された解散命令を部隊長の判断で握りつぶし、壕の外で行われている戦闘の状況を見て判断されたことにより、他の学徒隊とは全く異なる結果を生み出しました。
昭和20(1945)年6月中〜下頃という米軍に追い込まれて?自決?の選択肢を選ばなければならなかった学徒隊の少年少女の中で、命の大切さを一番に説き、生きながらえることを厳命した小池勇助病院長。それは同じように知事として行政組織を解体し解散命令を出した最後の官選知事島田叡氏の最後の訓示と被るところがあるように思えてなりません。
畑の中にひっそりとある糸洲の壕は訪れる方も少ない場所ではあります。またこの一帯は地下水が豊富な事もあり、それを汲み上げるためのホースが至る所で見られます。また天候の影響をおおいに受ける場所であり、壕の底まで降りる階段が大変滑りやすくなることがあります。最近ではあまり利用されなくなったようですが、平和教育の一環として利用されていた頃に作られた?通路?が奥に繋がるように作られています。しかし知識のない観光客が単独かつ軽装備で立ち入ることは大変危険を伴うため避けるべきだと思います。
入口より底部まで降りるだけでも、この壕に70余年前には多くの人々がひしめき合っていた様子は十分感じられるように思います。- 旅行時期
- 2016年04月
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たまたま入りました。
投稿日 2016年05月12日
総合評価:5.0
糸満深訪を終えて夕食を摂るためにしばらく国道331号線を走っていると?あしびなー沖縄?の標識を見つけ、そこへと向かいました。土曜日の夜なのでどの店も混んでおり、一日持った天気も崩れてきそう…ということで見つけた?びっくりドンキーあしびなー豊崎店?へと入りました。
見慣れた店内の風景は逆に安心するところもあり、せっかく沖縄で食べるのだから…ということで?マンゴージュース?と?パインディッシュ?を注文しました。お味はというと…他の店で食べたのと変わりはありませんが、グルメでないものには?食べ慣れたものが一番?だということには変わりはありません。入店当初は空いていたものの時間の経過とともに混雑してきたので程ほど寛いで退出します。
気分転換には絶対お勧めです!!- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 一人当たり予算
- 2,000円未満
- 利用形態
- ディナー
- アクセス:
- 5.0
- あしびなー沖縄内。
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 値段はそれなりにします。
- サービス:
- 5.0
- 悪くはありません。
- 雰囲気:
- 5.0
- 空いていたら余計に良いかも知れません。
- 料理・味:
- 5.0
- どこの店でも同じ美味しさで頂けます。
- バリアフリー:
- 4.0
- 確か入口に段差があったと思います。
- 観光客向け度:
- 4.0
- そのようなお店ではないとは思います。
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石部隊(第六二師団)野戦病院本部壕が置かれていました。~ナゲーラ壕跡~
投稿日 2016年04月28日
総合評価:5.0
地元ではシチャーラの壕と呼ばれているナゲーラ壕は、沖縄戦が始まる直前に第六二師団野戦病院本部壕として、師団工兵隊によって構築されたものと言われています。
昭和20(1945)年3月8日、沖縄県立首里高等女学校(瑞泉学徒看護隊)と私立昭和高等女学校(梯梧学徒看護隊)が配属となりました。沖縄での地上戦が始まった4月以降、前線から運ばれてくる重症患者は増加の一途を辿り、手狭になったナゲーラ壕から第二外科識名分院へと9名が移動しますが、戦況の悪化とともに学徒隊からの犠牲者も出てくることになります。
その後第三二軍司令部の南部撤退命令によりこの第六二師団野戦病院は放棄されることになりますが、その際に重症患者は処置されたとの証言もあります。その後南部へと向かった学徒隊は伊原・米須・武富の壕に入ったもののすぐに解散命令が出され、多くの犠牲者を出したことは言うまでもありません。
第六二師団野戦病院として構築されたナゲーラ壕ですが、スタッフの移動とともに役割を失うことになります。住民避難壕として利用されていたこともあるようですが定かではありません。
このナゲーラ壕が脚光を浴びた一番の理由は、壕の真上に沖縄自動車道那覇インターチェンジを建設するため、土地を整地する際に多くの遺骨が発掘されたことになります。急遽遺骨収集と慰霊碑の建立がされたとも書かれていますが、それは確認できませんでした。
那覇インターチェンジ付近と書かれているものの、詳細の場所について書かれているものもほとんどなく、まして地元の方もご存知ないということでは本当に場所の特定ができません。最後は意地になって安里川沿いに道なき道を歩いてやっと発見できました。
最近では平和学習等で利用されているようなことも聞かなくなりました。ナゲーラ壕そのものが那覇インターチェンジ真下にあり、なおかつ安里川にぴったりと沿っているため、近づこうにも道がありませんでした。ブログにUPされている写真をみても毎回姿が変わって見えるように思えてなりません。私有地なのかそうでないのかその区分すらわからないので、見学には配慮が必要です。
高速道路と病院壕。あまりにも違う時代背景に違和感すら感じてしまいました。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 那覇インターチェンジ真下ですが、場所はわかりにくいです
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 誰もいませんでした。
- バリアフリー:
- 3.0
- 足元はあまり良くありません。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 那覇インターチェンジの施設との対比には圧巻されます。
-
投稿日 2016年05月13日
総合評価:5.0
ひめゆりの塔から100m程進むとある米須(西)交差点、そこからひむかいの塔をはさんで建てられている?ずゐせんの塔?があります。
沖縄での地上戦が始まる少し前に看護補助要員として、沖縄県立首里高等女学校の生徒によって構成された?瑞泉学徒看護隊?がありました。ナゲーラ壕に置かれた第62師団野戦病院壕に私立昭和高等女学校学徒からなる?梯梧学徒看護隊?とともに配属になり、第32軍司令部の南下に伴い伊原・米須・武富といったこの付近一帯の壕に分散して入ったものの、戦況の悪化に伴い出された解散命令によって、砲弾の飛び交う戦場を彷徨うことを余儀なくされ、結果として多くの犠牲者を出しました。
?ずゐせんの塔??梯梧之塔?ともにひめゆりの塔から僅かな距離しか離れていないにもかかわらず、訪れる方もほとんどおられないようで、慰霊の日の翌日に訪れた時以外は花すら手向けられていませんでした。敢えて無理に行程に加えて欲しいとかではなく、沖縄戦で犠牲になった学徒はなにもひめゆり学徒だけではない、その事実だけは忘れないで頂きたく思います。- 旅行時期
- 2016年04月
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投稿日 2016年05月14日
総合評価:5.0
沖縄島南部戦跡の一大観光スポットと呼んでも過言ではないひめゆりの塔は、沖縄戦末期に学徒看護隊要員として動員された沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒からなるひめゆり学徒隊が籠った伊原第三外科壕跡に建立されました。
第32軍司令部の南部撤退により南風原に置かれていた沖縄陸軍病院南風原壕より撤退を余儀なくされたものの、学徒隊を取り巻く環境は当初はそれ程の深刻なものではなかったようで、配属される壕をじゃんけんで決めたという逸話も残っているようです。
しかし戦況の悪化はそのような気分を許さず、学徒隊に対する解散命令が出された後、なおかつ籠っていた伊原第三外科壕は米軍の馬乗り攻撃を受け多くの犠牲者を出しました。そして危機一髪で難を逃れた、若しくは他の壕にいたため命拾いをした方々も砲弾の飛び交う戦場を彷徨うことしかできず、次第に追い詰められてある者は戦死またある者は自決によって儚くも短い生涯を閉じました。
沖縄戦に於いて動員された学徒隊はなにもひめゆり学徒だけではありません。またひめゆり学徒もなにも伊原第三外科壕だけに配属された訳でもありません。しかし戦後の取り上げ方のまずさから、ひめゆり学徒といは第三外科壕だけが独り歩きしているように思えてなりません。ひめゆりの塔界隈のお土産物屋で周辺の戦跡を尋ねても回答がないことも当てはまるのではないでしょうか?
正直なにが正しいのかわからない時代でもあり、致し方ないところもあるでしょう。しかしそれでは史実の伝承にはなりません。過去の過ちを繰り返さないことが戦争を未然に防ぐのならば、損得だけの問題で片付けてしまわない・・・。そんな配慮が必要な時期になってきているのではないでしょうか。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
-
投稿日 2016年05月15日
総合評価:5.0
昭和20(1945)5月、首里城地下に司令部壕を構えていた沖縄守備第32軍は、戦況の悪化により首里を放棄し南部へと撤退します。そして摩文仁の丘の壕を最終拠点とし抵抗を続けますが、圧倒的な兵力軍備に勝る米軍の前になす術がなく次第に追い詰められて行きます。6月に入ると海軍司令部壕も陥落し、摩文仁一帯も米軍に取り囲まれて先にも進めず後ろへも戻れない絶体絶命の中で学徒隊の解散が言い渡され、砲弾の飛び交う戦場を彷徨わざるを得なくなった学徒の犠牲者が日に日に増加していきました。
そんな中で昭和20(1945)年6月23日未明(22日説あり)には、最後まで戦い抜くようにと訓示をした第32軍司令官牛島満大将と参謀長長勇中将が摩文仁の丘の司令部壕で自決し、日本軍の組織的抵抗が終焉を迎えました。しかし米軍の掃討作戦は続けられ、最終的にアイスバーグ作戦と呼ばれた沖縄での戦いを終了宣言を出したのは7月2日のことになります。
多数の住民を巻きこんだ沖縄戦。なかでも日本軍最後の砦として軍民問わず多くの犠牲者を出したこの付近一帯を自然公園とする動きは、沖縄が日本に復帰する前の昭和40(1965)10月1日のことになります。その後日本に復帰するにあたり広域公園としての都市計画決定を受けた後事業認可を受け、昭和53(1978)年11月13日に開園しました。
摩文仁の丘にある慰霊碑群を合わせ、所属問わず沖縄戦に於いて戦没した20万人以上の氏名を刻んだ平和の礎。それに平和祈念資料館・平和祈念堂など戦争の悲惨さを後世に伝え、平和の意義を唱える場所として今日に至っています。
平和を願う気持ちは誰しも同じですが、その解釈は人それぞれあって当たり前だと思います。よく目にするこれみよがしに不明瞭な史実をあたかも事実かのように熱弁されている姿は正直見苦しい以外なにものでもありません。
平和教育はなにも答えを与える必要はなく、史実に基づいたことをいかに自分自身で導き出せばいい、それだけに尽きるのでは・・・と残念ながら思います。- 旅行時期
- 2016年04月
-
神奈川ご出身で沖縄を含む南方諸地域で戦没された方々を祀っています。
投稿日 2016年05月17日
総合評価:5.0
摩文仁の丘都道府県別慰霊塔のひとつ神奈川の塔は、沖縄をはじめとした南方諸地域で亡くなられた戦没者40,680名の御霊を祀り、恒久平和を願うべく、終戦後20年を迎える昭和40(1965)年11月26日に建立されました。県民400万人を超える方々の浄財を集めての建立ではあったものの時の流れには逆らえず経年劣化が進む中で改修工事の話が進み、戦後70年の節目の年を迎える少し前の平成26年(2014)年に3,000万円を超える寄付金が集まり現在のようになりました。
この神奈川の塔ですが、都道府県別慰霊塔には珍しく神奈川県からの情報が発信されているのが確認でき、毎年11月26日に神奈川県主催の南方諸地域戦没者追悼式典が行われているそうです。立派な塔だけを作るのではなく、その追悼式典の情報を容易に知ることができるのは、やはり戦没者慰霊の気持ちが伝わり、悲劇を繰り返さない気持ちの表れだと心から思います。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 園内バスを利用すればすぐです・
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 平日ならば誰もいません。
- バリアフリー:
- 4.0
- 塔に上がるには階段がありました。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 新しい分だけ見ごたえもあります。
-
投稿日 2016年05月19日
総合評価:5.0
沖縄師範健児之塔の手前、ちょうどトイレが設けられているあたりに入口がある南冥の塔は、沖縄戦に従軍された日系二世の米軍兵士であるヤマモトタツオ氏を中心とし、摩文仁集落の住民が協力しあって集めた約12,000人もの遺骨を集めて建 立された慰霊塔です。
沖縄戦に従軍していたヤマモト氏は、この地で見た母親の遺体にすがる幼児の姿を見たものの職務上見過ごすことしかできず、そのことがずっと心に残っていたそうです。
軍を満期除隊したヤマモト氏はすぐさまその記憶に残る場所に向かいました。収骨もされずに放置されていた多くの遺骨を集めて、この場所に収めたのは昭和29(1954)年9月のことでした。その後多くの遺骨は国立沖縄戦没者墓苑に移されましたが、現在でも分骨が残されています。
訪れる方も少なく静かな場所であるがため、天候によっては潮騒の音が聞こえてきます。すなわち海辺にあるということは、この地で進退極まった兵士住民、そして学徒の多くが追い込まれて自らの命を絶ちました。
魂魄之塔程古くはないものの、都道府県別慰霊塔が建立される前のまだ混乱が残る時期に、コンクリートブロックを積み上げて作られた納骨堂に、塔の建立に携わった人々の忠魂の気持ちの大きさを感じました。
ガイドブックには載らない戦跡のひとつではあるものの、塔隣りにあり火炎放射の跡が残る壕を含めて立ち寄って頂きたい場所のひとつです。- 旅行時期
- 2016年04月
-
満州で組織され、沖縄戦を戦い玉砕された部隊将兵を祀る碑です。
投稿日 2016年05月19日
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歓迎するわけではありませんが、秘密兵器と模った碑を持つ慰霊の碑です。
投稿日 2016年05月20日
総合評価:5.0
沖縄師範健児之塔へと向かう道中にある独立臼砲第一連隊戦没英霊之碑は、昭和13(1938)年に正式制定され、関東軍使い始めた大威力奇襲兵器?98式臼砲?を模った慰霊碑です。昭和15(1940)年8月に満州公主嶺にて創設された対ソ連戦の部隊で、頑丈なソ連のトーチカを破壊するべく開発された?98式臼砲?が最初にあてがわれた部隊でもあります。
満州からガダルカナルへ転戦した後、そのまま戦機を逃し終戦を迎えた隊もあるものの主力部隊は昭和19(1944)年8月に沖縄へと移動し、翌年に始まった沖縄での地上戦に参戦しました。
秘密兵器とされた98式臼砲によって、一定の戦果は上がったものの物量に大きな開きがあるアメリカとの戦いは、日に日に不利な戦況になっていきました。そして昭和20(1945)年6月16日撃つ砲弾もなくなった独立臼砲第一連隊は、斬り込みを敢行したり自決をしたりで玉砕し、組織的戦闘を終えることになります。
所属する隊によっては生存された方も多く、その方々の尽力によって昭和56(1981)8月に独立臼砲第一連隊戦没英霊之碑が建立され、沖縄を含む南方戦線の連隊戦没者を祀っています。
明らかに?兵器?の形をした碑に嫌悪感を抱かれる方もいらっしゃるとは思います。言うまでもないことですが戦争そのものは肯定できるものではありません。しかし?秘密兵器?を預かった兵士の方々の気持ちを考えるとそれはそれでいいのではと思います。賛否両論がでることはわかりますが、毛嫌いして行かないのではなく、行ってみて考えることをすればまた新たな展開が待っている…そう思えてなりません。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 健児之塔駐車場から徒歩5分
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 誰もおられませんでした。
- バリアフリー:
- 3.0
- 段差があります。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 賛否はあるでしょうが、秘密兵器を模した碑には見入ってしまいました。
-
投稿日 2016年05月23日
総合評価:5.0
摩文仁の丘を登っていくと向かって左側にある最初の慰霊碑がみちのくの塔、即ち青森県の慰霊塔になります。青森ご出身の沖縄を含む南方戦没者19,847名の慰霊のため、青森県の秀峰岩木山の原石を航路で運び、昭和39(1964)年11月11日に建立されました。?みちのくの塔?と刻まれている主碑のまわりを囲んでいる6枚の副碑は、戦没された場所を分けた6つの地域に見立てて作られています。諸地域別の戦没者?中部太平洋、日本近海、南西諸島方面(5,527柱)(※うち沖縄本島及び周辺地域544柱)、?ニューギニア、ニューブリテン・セレベス、ソロモン方面(1,217柱)、?比島、レイテ方面(8,053柱)、?マレーシア、スマトラ、ジャワ、ボルネオ方面(1,508柱)、?仏印、ビルマ方面(541柱)、?中国大陸、台湾、香港方面(2,455柱)がそれぞれの副碑に祀られています。
由来文の碑の建立は平成9(1997)年11月11日であり、世代交代が進むご時世に於いて?みちのくの碑?が建立された経緯を伝える重要性を挙げておられることは、県民からも多くの犠牲者を出した?戦争?というものを風化させない心意気が感じられます。慰霊塔入口には?りんごの形?をした碑があるため、多くの人々がビジュアル的にわかるようになっています。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 平和祈念公園駐車場から徒歩5分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 平日の夕方は誰もおられませんでした。
- バリアフリー:
- 4.0
- 塔の座石には段差があります。
- 見ごたえ:
- 5.0
- りんごの碑が目を引きます。
-
投稿日 2016年05月23日
総合評価:5.0
摩文仁の丘を登っていくとりんごの碑があるみちのくの塔の隣にある?岡山の塔?は、先の大戦に於ける岡山県ご出身の戦没者の方々33,799名を祀る慰霊塔として昭和40(1965)10月21日に建立されました。沖縄戦戦没者1,578名と南方緒地域戦没者32,221名を合祀する慰霊塔は、中心部の戦没者の御霊を両手で抱え込むような形をしています。
慰霊塔建立後毎年この場所での追悼式を行っていることを書かれている数少ない都道府県別慰霊塔のひとつであり、沖縄地域戦没者慰霊巡拝団を編成し、現地において追悼式を執り行っています。戦後70余年が過ぎ遺族の顔ぶれも変わってきている時代、慰霊巡拝団を結成されることは、遺族の気持ちを後の世代に引き継ぐには一番良い手段のように思えます。かたちだけの平和学習より余程効果的なように思えてなりません。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 平和祈念公園駐車場より徒歩10分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 平日の夕方は誰もおられませんでした・
- バリアフリー:
- 4.0
- 座碑には段差があります。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 抽象的なものではないため、ストレートに気持ちが伝わります。
-
投稿日 2016年05月23日
総合評価:5.0
島守の塔隣りにある栃木の塔は、栃木のご出身で沖縄戦を含む南方諸地域に於いて戦没された31,495名を祀っています。南方諸地域30,819名、沖縄戦676名が合祀されている琉球王朝の?玉稜?の形式を取り入れた沖縄の伝統的墓型の一種である破風墓を模した墓はあまりにも沖縄の景色に同化し過ぎており、摩文仁の丘にある慰霊塔の中ではそれが逆に違和感を感じるところもあります。
主碑には琉球大理石トラバーチンが、副碑や踏み石に現地産の足尾産庚申御影石と大谷石がそれぞれ用いられており、その建立には現地の方の指導を仰ぐなどして、より沖縄に同化しているものとなっています。
私の場合祖父の出身が栃木なので、来る度に訪れていた場所ではあるものの、なぜこの場所に建立されたのかは知らないことでした。しかし今回の旅で知った終戦間際の混乱期に島田叡知事とともに沖縄県民のために奔走した荒井退造沖縄県警察本部長のご出身が栃木だということで納得しました。
兵庫県ご出身の島田叡知事の?のじぎくの塔?と?栃木の塔?、それに平和の礎とお参りする場所が増えたことにひとつ知識が増えたように思えます。- 旅行時期
- 2016年04月












































































