沖縄戦に於いて組織的抵抗が終焉を迎えた場所です。
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- 旅行時期:2016/04(約10年前)
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by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)
糸満・ひめゆり クチコミ:207件
昭和20(1945)5月、首里城地下に司令部壕を構えていた沖縄守備第32軍は、戦況の悪化により首里を放棄し南部へと撤退します。そして摩文仁の丘の壕を最終拠点とし抵抗を続けますが、圧倒的な兵力軍備に勝る米軍の前になす術がなく次第に追い詰められて行きます。6月に入ると海軍司令部壕も陥落し、摩文仁一帯も米軍に取り囲まれて先にも進めず後ろへも戻れない絶体絶命の中で学徒隊の解散が言い渡され、砲弾の飛び交う戦場を彷徨わざるを得なくなった学徒の犠牲者が日に日に増加していきました。
そんな中で昭和20(1945)年6月23日未明(22日説あり)には、最後まで戦い抜くようにと訓示をした第32軍司令官牛島満大将と参謀長長勇中将が摩文仁の丘の司令部壕で自決し、日本軍の組織的抵抗が終焉を迎えました。しかし米軍の掃討作戦は続けられ、最終的にアイスバーグ作戦と呼ばれた沖縄での戦いを終了宣言を出したのは7月2日のことになります。
多数の住民を巻きこんだ沖縄戦。なかでも日本軍最後の砦として軍民問わず多くの犠牲者を出したこの付近一帯を自然公園とする動きは、沖縄が日本に復帰する前の昭和40(1965)10月1日のことになります。その後日本に復帰するにあたり広域公園としての都市計画決定を受けた後事業認可を受け、昭和53(1978)年11月13日に開園しました。
摩文仁の丘にある慰霊碑群を合わせ、所属問わず沖縄戦に於いて戦没した20万人以上の氏名を刻んだ平和の礎。それに平和祈念資料館・平和祈念堂など戦争の悲惨さを後世に伝え、平和の意義を唱える場所として今日に至っています。
平和を願う気持ちは誰しも同じですが、その解釈は人それぞれあって当たり前だと思います。よく目にするこれみよがしに不明瞭な史実をあたかも事実かのように熱弁されている姿は正直見苦しい以外なにものでもありません。
平和教育はなにも答えを与える必要はなく、史実に基づいたことをいかに自分自身で導き出せばいい、それだけに尽きるのでは・・・と残念ながら思います。
- 施設の満足度
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5.0
クチコミ投稿日:2016/05/15
いいね!:9票
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