「蛤御門の変」で主戦場に
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- 旅行時期:2015/06(約9年前)
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by bluejaysさん(男性)
今出川・北大路・北野 クチコミ:12件
1788年に発生した天明の大火で御所が炎上したとき、滅多に開くことのなかった新在家御門が開いたため、蛤が火にあぶられ開くことになぞらえ「蛤御門」と呼ばれるようになった。
1863年に起きた八月十八日の政変で、長州藩は京を追放されたが、翌年帝に赦免を嘆願するという名目で兵を率いて上洛した。だが孝明天皇の長州排除の意志は堅く、一橋・会津・桑名・薩摩らが御所を固めて進入を阻止しようとしたため、長州と交戦になった(蛤御門の変/禁門の変)。来島又兵衛は銃弾を受け自刃、久坂玄瑞と寺島忠三郎は嘆願が容れられず鷹司邸で自刃、入江九一は鷹司邸脱出時に越前藩士に槍で突かれ戦死した。真木和泉ら17名は、天王山で自決した。
長州勢は落ち延びる際に藩邸に火を放ち逃走、会津勢も長州藩士が隠れていそうな中立売御門付近の家屋を攻撃し、この二個所から上がった炎が大火に発展し京都市街は焼け野原となった(どんどん焼け)。蛤御門には、禁門の変のときの弾痕が今も残っている。
なお現在の蛤御門は明治になって移設されたもので、それ以前は現在よりも30メートルほど内側に南を向いて建てられていた。
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 2.0
- 見ごたえ:
- 5.0
クチコミ投稿日:2015/07/07
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