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明智藪

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明智光秀最期の地

  • 5.0
  • 旅行時期:2014/05(約12年前)
bluejaysさん

by bluejaysさん(男性)

伏見 クチコミ:7件

山崎の戦いに敗れた明智光秀は、いったん勝竜寺城に入ったものの、大軍を収容できない平城であったため、兵の脱走が相次ぎ兵力はわずか700人にまで減っていた。光秀は暗夜にまぎれ、十数騎で勝竜寺城を密かに脱出し、坂本城を目指した。だが小栗栖にさしかかったとき、落ち武者狩りの土民中村長兵衛の竹槍にかかり深手を負った。竹中重門の「豊鑑」は、このときの状況をやけに詳細に記録している。
「里の中道の細きを出て行くに、垣ごしにつきつける槍、明智光秀の脇にあたりぬ。されど、さらぬ体にてかけ通りて、三町ばかり行き、里のはずれにて、馬よりころび落ちけり。」
溝尾庄兵衛は、光秀を介錯し自害を遂げさせると、その首を藪の中に隠して坂本に逃走した。だが彼の首は掘り出され、秀吉によって粟田口の刑場にさらされた。
その後、この地に赤い竹が多く生えてきたり、光秀の内臓が飛び出した地(通称「ワタ出」)には草が生えないなどの怪現象が起こった。地元民は光秀最期の地を「明智藪」と呼び、後世に伝えて来たが、竹薮は本経寺の土地であり、近年になって藪を刈り砂防工事を行ったことから、本来の明智藪は消滅した。現在は、本来の場所より手前の地にライオンズクラブによる石碑が建てられているが、そこには光秀を襲撃した者たちを信長の近臣飯田一族と明記している。

施設の満足度

5.0

利用した際の同行者:
一人旅
アクセス:
4.0
人混みの少なさ:
5.0
見ごたえ:
5.0

クチコミ投稿日:2015/07/10

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