清水旅行記(ブログ) 一覧に戻る
該区間は、明治22年(1889年)2月1日開通である。<br /><br /><br />現在の静岡(しずおか)の名称成立は、意外にも明治初期である。<br /><br />即ち、明治初期まで、該地は徳川幕府直轄地たる天領 府中(ふちゅう)と称された地であり東海道53次宿場町だった。<br />明治元年(1868年)に、明治新政府成立を前に徳川幕府は京都朝廷に対し政権を返還した事で大政奉還が成立し、その為に、徳川幕府は瓦解し、徳川家は徳川御三卿当主たる 田安亀之助(たやす かめのすけ)を元服の上、徳川宗家第16代を継承させ、徳川家達(とくがわ いえさと)公(文久3年(1863年)8月24日~昭和15年(1940年)6月5日)として府中70万石藩主に任じ徳川家存続が許された。<br /><br />幕臣で府中藩士として家達公に従う事を希望した徳川家恩顧者達は、家族下僕一族郎党を引連れ徒歩や船で江戸から府中へと大挙移動した。<br /><br />然るに、該地に到着した藩士から府中(ふちゅう)とは不忠(ふちゅう)に通じるとして、該地名称使用に難色を示す者から意見開陳が出された。<br /><br />因みに、徳島県にも府中と云う地名が存在するが、同理由で読みは(こう)である。<br /><br />静岡近郊に於ける代表的山は賤機山(しずはたやま)である。<br />該山は、実際には山と称するには程遠い標高172mの丘陵で、地元では 静岡浅間神社を背景に 賤ヶ丘(しずがおか)と称していた。<br /><br />なれば、該丘陵を以って名称変更を参考にした処、今度は、新時代に於いて、徳川70万石に対し 賤(いやしい)の字は不適当なりとの意見が開陳され、「静」と言う字を当てはめさせ、更に、「丘」を「岡」に置代えさせ、かくて、明治2年(1869年)6月20日附で、静岡(しずおか)なる藩名が成立した。<br />明治4年(1871年)8月29日に廃藩置県が実施され、静岡藩は廃止され静岡縣が成立した事で該地名称は確定的存在になった。<br /><br /><br />明治20年代になり日清間の雲行きが怪しくなりつつある頃、政府は地形状に於ける諸条件から急勾配を伴う中仙道線建設を後回しし、横濱から西進させる事で東京関西間連絡鉄道建設を決定し直ちに着手し<br />たが、富士川西岸区間鉄道建設資材揚降の為に、清水港を活用させる事に決定したが、此の為に、清水港に該建設関係資材一式を送致させる為に、逓信省鐵道作業局は検討の結果、該輸送を帝國海軍に依頼させる事に決定し、此れを受け、帝國海軍は、付属船 石川丸を提供し、該艦を以って、横濱港から清水港に建設物資一式を搭載輸送した。<br />因みに、付属艦と称する艦種は、現在の輸送艦に相当する艦艇である。<br /><br /><br />國府津-沼津-静岡間は明治22年(1887年)2月1日に開通した。<br /><br />該区間開通に伴い、新橋-静岡間に直通列車上下2本が設定されたが、運転当時は片道7時間5分を要した。<br /><br /><br />興津町内狭隘地通過に関し、現代であれば長大隧道建設を以って通過対処したであろうと推定されるが、当時の我が国に長大隧道建設工事能力は未だ存在せず、且つ、明治維新時の廃仏毀釈の風強き内、工事担当の工部省鐵道作業局は已む無く古刹 清見寺(せいけんじ)境内堀池を埋立させ貫通する事で解決を見る。<br />同様例は同時期に建設設置された横須賀線大船-鎌倉間に所在の鎌倉円覚寺(えんがくじ)境内にも存在する。<br />此の為に、内務省は清見寺に対し風致損傷補償金を支払ったが、当時の第18世住持 宗詮和尚は<br />「此の國難時にお上から資金などを頂く訳にはならぬ」<br />と補償金全額を政府に献上し話題になった。<br /><br />江尻町内は既に住宅密集地を形成していた事から、移転土地収用代替地土地入手の方法が無く、地元地主達が停車場設置の為に土地売却を強硬に反対した事から、江尻停車場は、当初計画の半分程度に縮小せざるを得なかった。<br />然も、停車場中心位置が二転三転して決定出来ず、やっと内定を見た時には該当土地価格が暴騰し、更に、地元有力者達は当局の足元を見て高額な金額を要求する事態に、土地買収担当者は散々な目に遭わされた。<br /><br /><br />該区間開通日たる明治22年(1889年)2月1日に、静岡県庁所在地に於ける鉄道開業故に、開通式典、及び、開通披露式には、該駅前に移転新設された西洋式旅館 大東館に於いて盛大に開催する為に、前日までに東京から次々と政府高官が来静し待機していた。<br /><br />然るに、開業当日深更、静岡一番町在の焼芋屋の残火不始末が原因で同家から出火し、折から駿河湾から吹く冬の季節風に煽られた事から火は次々と燃拡がり、静岡町中心部13町1100世帯が焼失する明治22年静岡大火が発生した。<br /><br />該大火影響で、中心部から離れた静岡停車場や大東館は被災焼失外地で無事だったが、時の初代静岡縣知事 関口隆吉(せきぐち たかよし)(天保7年(1840年)10月26日~明治22年(1899年)5月17日)(明治17年(1884年)9月27日~明治22年(1899年)5月17日在任)は、被災民の心情に配慮し、開通式典会場を静岡駅構内ホーム上に変更し、且つ、該会場たるホームを幕で囲み簡素厳に執行させ、該披露式典に於いて出席者に配布する為に準備されていた、幕の内弁当、餅、紅白饅頭、酒類は、全部被災民への見舞供与に活用された。<br /><br />また、当日は該縣内御殿場に於いても大火が発生し、該県将来の為に期待を抱いていた者達にとって、必ずしも幸先良い日だったとはお世辞にも言えない状況だった。<br /><br /><br />明治30年(1897年)9月9日3時頃、折から来襲の暴風雨が原因で、静岡駅構内に留置中の客車計34両が脱線転覆する事故が発生した。<br />当時の客車大半は単車で重量も軽く、強烈風で次々と転覆する事態になった。<br /><br /><br />該区間複線化は、明治31年(1898年)12月16日に竣工したが、該区間開通時に複線分敷地を準備済だった事から、駿河湾側空地に新設線を設置し、該日以降、新設線は下り専用、既設線は上り専用となる。<br /><br /><br />鐵道唱歌で、該区間に関し、<br />第19番<br />世に名も高き興津鯛<br />(よに なもたかき おきつだい)<br />鐘の音響く清見寺<br />(かねのね ひびく せいけんじ)<br />清水に続く江尻より<br />(しみずに つづく えじりより)<br />行けば程無き久能山♪<br />(ゆけば ほどなき くのうざん)<br /><br />第20番<br />三保の松原 田子の浦<br />(みほのまつばら たごのうら)<br />逆さに映る富士の嶺を<br />(さかさに うつる ふじのねを)<br />波に眺むる舟人は<br />(なみにながむる ふなびとは)<br />夏も冬とや思うらん♪<br />(なつも ふゆとや おもうらん)<br />興津が歌われるのは当然として、此処で田子の浦が歌われるのは筋違い場違いと思いがちだが、本来であれば該区間こそ該歌詞が挿入されて然るべき内容である。<br /><br />鐵道唱歌作詞者 大和田建樹(おおわだ たてき)(安政4年(1857年)5月22日~明治43年(1910年)10月1日)は、時として現地を訪れる事無く、資料を基に想像を以って作詞したのでは無いかと推定される箇所が数件存在し、第22番 焼津に於いて草薙の剣が登場したり、第40番 瀬田では、本来、神戸に向かう列車車窓から見える瀬田唐橋は左手に存在するが、初版では何故か 右に見て と記され、後に間違いに気付き 再販本では 横に見て と改詩された。<br /><br /><br />我が国政府は、明治32年(1899年)7月12日附を以って、従来の開港場たる 横濱、神戸、長崎、及び、函館に加え、新たに、清水、武豊、四日市、下関、門司、博多、唐津、口之津、三角、厳原、佐須奈、鹿見、那覇、濱田、境、宮津、敦賀、七尾、伏木、小樽、釧路、及び、室蘭各港を追加指定する事に決定した。<br /><br />此の為に、内務省土木局は該追加開港場整備を決定した事から、清水港に大型船出入港可能出入港整備計画が策定された。<br /><br />内務省土木局に拠る清水港整備計画に拠り、工事資材運搬を目的として、大正5年(1916年)7月10日に、江尻(現 清水)-清水港(しみずみなと)間1.4kmが開通した。<br />その後、該港湾整備計画が進行した事から、昭和5年(1930年)2月1日附で清水港-清水埠頭(しみずふとう)間1.1kmが延長されたが、県内存在の沼津港線同様、該線に対しても独立線区では無く東海道本線枝支線として取扱れた。<br /><br /><br />大正12年(1923年)9月1日11時58分に、突如関東地方を大地震が襲った。<br /><br />震源は相模湾沖約80km付近で最大震度7.9とされている。<br />該大地震の為に、東海道本線では、東京-國府津-沼津間に被害が発生した事から列車運転が不可能になった。<br /><br />品川-横濱間、及び、御殿場-沼津間は震災発生数日以内に開通したが、震源地至近たる、横濱-國府津-御殿場間は、築堤崩壊無数、隧道崩落数箇所、橋梁損壊が多数発生し、特に、馬入川(現 相模川)橋梁は震災発生と同時に上下線橋梁橋脚が折損倒壊した事から殆どの橋桁が川面に落下し、復旧まで長時間を要する事が判明した為に、鐵道省は、門司鐵道局の提議に依り、下関-釜山間 関釜航路(かんぷ こうろ)に於いて現使用中の、景福丸(けいふくまる)3620t、高麗丸(こうらいまる)3029tを東京芝浦沖に回航させ、震災で壊滅状態の横濱港に代り、東京品川沖8km地点 -清水港間に臨時航路を設定させ、同年同月6日より運航を開始し、主に、震災被災者疎開者利用に応じさせた。<br />該際震災の為に、横濱港は大桟橋をはじめとする港湾施設が壊滅状態だったが、昼夜兼行の復旧工事の結果、同年同月27日に仮復旧工事が竣工し、該船舶は横濱港に直接接岸可能となった事から、翌28日より運航区間を横濱港-清水港間に変更した。<br /><br />東海道本線馬入川橋梁復旧工事は、木造木組に依り、同年10月28日に単線橋梁が開通した事から、該臨時航路は同日附を以って廃止された。<br /><br />然し、清水港が関東への出入口となった事から、該臨時航路に乗船する為に該航路運航中は、江尻駅清水港間に長蛇の列が織り成す状態となった。<br /><br /><br />初代 江尻(現 清水)駅は、清水港発展と共に該駅構内が手狭になったが、周囲は住宅密集地と化し、毎年増加する貨物取扱が困難になるなどの弊害も多く、該地に於いての拡張は困難と判定され、大正15年(1925年)7月14日に現位置に移転したが、不足用地は清水湾を埋立て貨物取扱場として使用した。<br /><br />清水港への支線は昭和5年(1930年)2月1日に清水埠頭まで開通した事は前述した。<br /><br />該線が本格的変化を遂げるのは、日華事変(にっか じへん)(昭和12年(1937年)7月7日~昭和16年(1941年)12月8日)に依る戦時体制強化に伴い、沿線に工場群が進出増加に依り、昭和19年(1944年)7月1日附で、清水埠頭-三保間が延長され、更に、沿線工場への通勤者対策の為に、静岡県、及び、清水市より運輸通信省に対し、該線に於ける旅客輸送業務開始に関する要求があり、此れを受け、同年12月1日附で、制限付旅客扱開始と共に、従来の東海道本線枝線から独立し 清水港(しみずこう)線として独立した。<br /><br />若し、該時点に於いて単独路線として独立せず、東海道本線荒尾-美濃赤坂間の如く、該線枝線状態で継続していれば、後に、第1次特殊地方交通線指定を受ける事も無く、清水港埠頭再整備計画に基き、再編が実施された平成の世まで残存していた可能性が高かったものと思われる。<br /><br />大東亜戦争終結後は、トラックの進出で貨物利用は激減し、併せて、該線に平行し静岡鉄道バスが清水駅-三保間に頻発運転させていた事から旅客利用者も低迷し、昭和41年(1966年)10月1日時刻改正で、旅客扱列車は1日1往復となり、且つ、混合列車と云ふ全国最閑散線区と化してしまった。<br /><br />当然の事ながら、収支収入は静岡鉄道管理局内所属路線最低であり、第1次特殊地方交通線指定を受け、昭和59年(1984年)4月1日附で全線廃止された。<br /><br /><br />静岡市は古代期より大火多発都市だった。<br /><br />即ち國府津-静岡間開通当日たる明治22年(1889年)2月1日に、市内一番町から出火し約1100戸を焼失させた一件は前述したが、明治25年(1894年)1月7日に七間町から出火の際は611戸が焼失している。<br /><br />昭和15年(1940年)1月15日12時30分に静岡市新富町から出火した火事は、折からの駿河湾から吹く強季節風の為に瞬く間に市中心部を焼失させ東海道本線を超え燃え広がった。<br />該大火は約10時間延焼し、全焼5049戸、半焼74戸を出す 昭和15年静岡大火が現出した。<br /><br />当時の地方都市に於ける甚大火災被害では、昭和9年(1934年)3月21日に発生した北海道函館大火に次ぐ存在とされるが、静岡大火では、罹災者28156名が生じたにも拘らず、死者は2名に止まったのは不幸中の幸といえた。<br /><br />該大火に対し、現在の如き被災地に対する災害援助救助法適用など存在しない当時だったが、時の 第37代 米内光政(よない みつまさ)(明治13年(1880年)3月2日~昭和23年(1948年)4月20日)内閣(昭和15年(1940年)1月16日~同年7月22日組閣)は組閣直後の混沌状態だったにも拘らず、該市に対し直ちに援助を決定し、同月17日附を以って、第19代鐵道大臣 松野鶴平(まつの つるへい)(明治16年(1883年)12月22日~昭和37年(1962年)10月18日)(昭和15年(1940年)1月16日~同年7月22日在任)は、大臣命令を以って、第30代静岡県知事 小濱八彌(おばま はちや)(明治24年(1891年)12月8日~昭和48年(1973年)4月6日)(昭和14年(1939年)4月17日~昭和17年(1942年)1月9日在任)、若しくは、稲森誠次(いなもり せいじ)静岡市長宛荷受取人とする、鐵道省所属全駅、及び、連絡会社線連絡指定駅発、清水、草薙、静岡、及び、用宗各駅着貨車は2箇月間運賃5割引、小荷物は1箇月間運賃無料とし、翌々日19日には、新たに、清水港、及び、清水埠頭両駅が指定着駅に追加された。<br /><br />該火災の為に、静岡駅本屋、及び、名古屋鐵道局静岡運転事務所・保線事務所本庁舎に延焼し全焼被害が生じたが、被災当時の静岡運転事務所は沼津-刈谷間を管理統括しており、更に、信号回線焼失の為に、一時列車運行に重大支障が生じた。<br /><br />また、該大火に依り、明治期以前に建築された該市内歴史的重要建造物多数が焼失し烏有に帰した。<br /><br /><br />大東亜戦争中、該区間に於ける空襲被害は、<br /><br />昭和19年(1944年)<br />12月27日 <br /> 警戒警報発令  0時32分<br /> 空襲警報発令  1時00分<br /> 空襲開始    1時12分<br /> 空襲警報解除  4時15分<br /> 警戒警報解除  4時25分<br />清水駅駅構内 <br />  機銃掃射被害<br /><br />昭和20年(1945年)<br />  6月10日<br /> 警戒警報発令 21時20分<br /> 空襲警報発令 22時00分<br /> 空襲開始   22時15分<br /> 空襲警報解除  1時10分<br /> 警戒警報解除  1時15分<br />清水駅構内<br />  機銃掃射被害<br /><br />  6月19日 第21爆撃機軍団 第314航空隊 B29戦略爆撃機計125機 静岡大空襲<br /> 警戒警報発令 23時36分<br /> 空襲警報発令  0時54分<br /> 空襲開始    1時03分<br /> 空襲警報解除  3時30分<br /> 警戒警報解除  3時42分<br />静岡駅本屋半焼 静岡管理部木造本庁舎全焼<br />該市内に於いて25393戸全焼 死者1670名 重傷者約800名 約114000名罹災。<br />静岡駅構内被災車輌<br />  オロ31 17  (名ハツ)全焼<br />  オロ31 26  (名シツ)全焼<br />  オロ31 28  (名シツ)全焼<br />  オロ40 29  (名ナコ)全焼<br />  オハ31 263 (名ナコ)全焼<br />  オハ34 68  (名サワ)全焼<br />  スハ32 431 (名ナコ)全焼<br />  スハフ32 166(門ハヤ)全焼<br />  スハフ32 290(広チカ)全焼<br />  オハニ30 30 (名シツ)全焼<br />  スニ30 98  (大キト)全焼<br />  他木造車数両<br /> 以上、昭和21(1946年)3月31日附戦災廃車<br /><br />  7月 6日 第21爆撃機軍団 第313航空隊 B29戦略爆撃機計133機 清水大空襲<br /> 警戒警報発令  6時12分<br /> 空襲警報発令  8時12分<br /> 空襲開始    8時45分<br /> 空襲警報解除 10時45分<br /> 警戒警報解除 10時50分<br />清水駅構内<br />  静岡機関区清水支区全焼<br /> 木造客車3両全焼<br /><br />  7月30日(清水市艦砲射撃攻撃)<br /> 警戒警報発令 23時12分 <br /> 空襲警報発令  0時 0分<br /> 空襲開始    1時 0分<br /> 空襲警報解除  1時47分<br /> 警戒警報解除  2時20分<br />清水駅構内<br />  駆逐艦隊7隻艦砲射撃主砲弾命中弾着弾被害<br />遠州灘に展開した米英戦艦群を機軸とする聨合艦隊は、濱松市内に対し、戦艦主砲を以って艦砲射撃攻撃を実施したが、他方、該戦艦護衛用駆逐艦隊を分派させ、駿河湾より清水外港付近に侵入し、約15分間に亘り90発の主砲射撃攻撃を実施し、該攻撃に依り、清水駅構内側線、及び、清水港線内線路破壊4箇所40mの被害が発生したが、後者は翌31日6時30分に復旧開通した。<br /><br /><br />長らく該線電化区間は沼津が終点だったが、昭和24年(1949年)2月1日に沼津-静岡間が電化された。<br /><br />該電化工事に鑑み、該線開通時に設置された清見寺跨線橋は架線吊張建築限界に支障する事から、ジャッキアップに拠る橋桁を打上工事を施工し可能にした。<br /><br /><br />80系湘南電車は、同年に製造され、該線東京-沼津間、及び、伊東線に於いて使用されてが、車輌数増備に伴い余裕が生じた事から、翌昭和25年(1950年)3月1日附時刻改正より沼津-静岡間一部客車列車を該電車に置換運用される様になり、此の為に、原-静岡間ホーム高が打上られた。<br /><br />然るに、湘南電車運転の興奮冷めやらぬ同月28日23時3分頃、静岡発新宿行普通貨物第1380列車は草薙-清水間を走行中、狐ヶ崎付近に於いて、該貨物列車牽引機関車機関士は異常な振動を感知した事から非常制動を動作させ急停車した処、現場付近に、該貨物列車の先頭から4両目~24両目までの貨車が脱線転覆し、東海道本線は上下線共に線路を支障した為に不通になった。<br /><br />当時の脱線復旧事故用 操重車は新鶴見、及び、稲沢にのみ配置されていた事から、事故現場への移動に相当日数を要するものとされ、名古屋鉄道局静岡管理部に設置された復旧本部は頭を抱えさせられた。<br /><br />現代と異なり、当時の国道は1号線と云えども所々未舗装状態であり、トラックは存在するものの短距離移動の為の手段であり、東海道本線は東西を貫通する正に輸送の大幹線だった。<br /><br />該事故現場に平行し静岡鉄道静清本線が並走している。<br /><br />当時の静岡鉄道社長は、東海道本線という東西大動脈が事故に依る途絶状態が我が国経済を支える憂い、自社電車運転を中止し、自社線路を東海道本線に接続させ、事故現場を迂回させ運転を行うという破天荒な行動を実施させた。<br /><br /><br />第2次東京オリンピック開催を控えた、昭和39年(1964年)4月24日に草薙-静岡間を走行中だった 特別急行第2001M列車 第1富士号は、当時、該区間に存在した古荘踏切に差掛った処、踏切警報機を無視し該踏切内に進入した無謀運転ダンプカーに激突する事故が発生した。<br /><br />該事故に依り、該列車先頭車 クロ151-7は脱線し線路上に対し「く」の字状に変移して停車し、続く2号車から6号車まで5両が脱線し、加害者ダンプカー運転手は該事故が原因で即死、乗客乗務員数名が重軽傷を負った。<br /><br />同年10月1日に東海道新幹線開通後に於ける151系電車は、九州交流区間乗入の為に改造工事を施行中で、此の為に予備車輌すら無い状態であり、特急電車運転に支障が発生する事態となった事から、翌日から、準急用153系電車を流用して当座をしのいだ。<br /><br />該事故車輌 クロ151-7は、車体が大破し修復困難と判断された事から、事故現場に於いて3分割に解体され、同年9月8日附で廃車手続が執行されたが、新系列電車廃車第1号の不名誉な記録を残した。<br /><br /><br /><br />表紙写真は、<br />清見寺臨時停車場跡<br /><br /><br /><br /><br /><br />東海道本線歴史的痕跡探訪記<br />~東京-濱松町間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10701644<br />~東京驛編~<br /><br />~汐留-濱松町-品川間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10797199<br />~品川-川崎間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10502858<br />~川崎-横濱間編 明治頌歌~<br 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東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~興津-静岡間編 明治頌歌~

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2015/03/20 - 2015/03/20

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横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

該区間は、明治22年(1889年)2月1日開通である。


現在の静岡(しずおか)の名称成立は、意外にも明治初期である。

即ち、明治初期まで、該地は徳川幕府直轄地たる天領 府中(ふちゅう)と称された地であり東海道53次宿場町だった。
明治元年(1868年)に、明治新政府成立を前に徳川幕府は京都朝廷に対し政権を返還した事で大政奉還が成立し、その為に、徳川幕府は瓦解し、徳川家は徳川御三卿当主たる 田安亀之助(たやす かめのすけ)を元服の上、徳川宗家第16代を継承させ、徳川家達(とくがわ いえさと)公(文久3年(1863年)8月24日~昭和15年(1940年)6月5日)として府中70万石藩主に任じ徳川家存続が許された。

幕臣で府中藩士として家達公に従う事を希望した徳川家恩顧者達は、家族下僕一族郎党を引連れ徒歩や船で江戸から府中へと大挙移動した。

然るに、該地に到着した藩士から府中(ふちゅう)とは不忠(ふちゅう)に通じるとして、該地名称使用に難色を示す者から意見開陳が出された。

因みに、徳島県にも府中と云う地名が存在するが、同理由で読みは(こう)である。

静岡近郊に於ける代表的山は賤機山(しずはたやま)である。
該山は、実際には山と称するには程遠い標高172mの丘陵で、地元では 静岡浅間神社を背景に 賤ヶ丘(しずがおか)と称していた。

なれば、該丘陵を以って名称変更を参考にした処、今度は、新時代に於いて、徳川70万石に対し 賤(いやしい)の字は不適当なりとの意見が開陳され、「静」と言う字を当てはめさせ、更に、「丘」を「岡」に置代えさせ、かくて、明治2年(1869年)6月20日附で、静岡(しずおか)なる藩名が成立した。
明治4年(1871年)8月29日に廃藩置県が実施され、静岡藩は廃止され静岡縣が成立した事で該地名称は確定的存在になった。


明治20年代になり日清間の雲行きが怪しくなりつつある頃、政府は地形状に於ける諸条件から急勾配を伴う中仙道線建設を後回しし、横濱から西進させる事で東京関西間連絡鉄道建設を決定し直ちに着手し
たが、富士川西岸区間鉄道建設資材揚降の為に、清水港を活用させる事に決定したが、此の為に、清水港に該建設関係資材一式を送致させる為に、逓信省鐵道作業局は検討の結果、該輸送を帝國海軍に依頼させる事に決定し、此れを受け、帝國海軍は、付属船 石川丸を提供し、該艦を以って、横濱港から清水港に建設物資一式を搭載輸送した。
因みに、付属艦と称する艦種は、現在の輸送艦に相当する艦艇である。


國府津-沼津-静岡間は明治22年(1887年)2月1日に開通した。

該区間開通に伴い、新橋-静岡間に直通列車上下2本が設定されたが、運転当時は片道7時間5分を要した。


興津町内狭隘地通過に関し、現代であれば長大隧道建設を以って通過対処したであろうと推定されるが、当時の我が国に長大隧道建設工事能力は未だ存在せず、且つ、明治維新時の廃仏毀釈の風強き内、工事担当の工部省鐵道作業局は已む無く古刹 清見寺(せいけんじ)境内堀池を埋立させ貫通する事で解決を見る。
同様例は同時期に建設設置された横須賀線大船-鎌倉間に所在の鎌倉円覚寺(えんがくじ)境内にも存在する。
此の為に、内務省は清見寺に対し風致損傷補償金を支払ったが、当時の第18世住持 宗詮和尚は
「此の國難時にお上から資金などを頂く訳にはならぬ」
と補償金全額を政府に献上し話題になった。

江尻町内は既に住宅密集地を形成していた事から、移転土地収用代替地土地入手の方法が無く、地元地主達が停車場設置の為に土地売却を強硬に反対した事から、江尻停車場は、当初計画の半分程度に縮小せざるを得なかった。
然も、停車場中心位置が二転三転して決定出来ず、やっと内定を見た時には該当土地価格が暴騰し、更に、地元有力者達は当局の足元を見て高額な金額を要求する事態に、土地買収担当者は散々な目に遭わされた。


該区間開通日たる明治22年(1889年)2月1日に、静岡県庁所在地に於ける鉄道開業故に、開通式典、及び、開通披露式には、該駅前に移転新設された西洋式旅館 大東館に於いて盛大に開催する為に、前日までに東京から次々と政府高官が来静し待機していた。

然るに、開業当日深更、静岡一番町在の焼芋屋の残火不始末が原因で同家から出火し、折から駿河湾から吹く冬の季節風に煽られた事から火は次々と燃拡がり、静岡町中心部13町1100世帯が焼失する明治22年静岡大火が発生した。

該大火影響で、中心部から離れた静岡停車場や大東館は被災焼失外地で無事だったが、時の初代静岡縣知事 関口隆吉(せきぐち たかよし)(天保7年(1840年)10月26日~明治22年(1899年)5月17日)(明治17年(1884年)9月27日~明治22年(1899年)5月17日在任)は、被災民の心情に配慮し、開通式典会場を静岡駅構内ホーム上に変更し、且つ、該会場たるホームを幕で囲み簡素厳に執行させ、該披露式典に於いて出席者に配布する為に準備されていた、幕の内弁当、餅、紅白饅頭、酒類は、全部被災民への見舞供与に活用された。

また、当日は該縣内御殿場に於いても大火が発生し、該県将来の為に期待を抱いていた者達にとって、必ずしも幸先良い日だったとはお世辞にも言えない状況だった。


明治30年(1897年)9月9日3時頃、折から来襲の暴風雨が原因で、静岡駅構内に留置中の客車計34両が脱線転覆する事故が発生した。
当時の客車大半は単車で重量も軽く、強烈風で次々と転覆する事態になった。


該区間複線化は、明治31年(1898年)12月16日に竣工したが、該区間開通時に複線分敷地を準備済だった事から、駿河湾側空地に新設線を設置し、該日以降、新設線は下り専用、既設線は上り専用となる。


鐵道唱歌で、該区間に関し、
第19番
世に名も高き興津鯛
(よに なもたかき おきつだい)
鐘の音響く清見寺
(かねのね ひびく せいけんじ)
清水に続く江尻より
(しみずに つづく えじりより)
行けば程無き久能山♪
(ゆけば ほどなき くのうざん)

第20番
三保の松原 田子の浦
(みほのまつばら たごのうら)
逆さに映る富士の嶺を
(さかさに うつる ふじのねを)
波に眺むる舟人は
(なみにながむる ふなびとは)
夏も冬とや思うらん♪
(なつも ふゆとや おもうらん)
興津が歌われるのは当然として、此処で田子の浦が歌われるのは筋違い場違いと思いがちだが、本来であれば該区間こそ該歌詞が挿入されて然るべき内容である。

鐵道唱歌作詞者 大和田建樹(おおわだ たてき)(安政4年(1857年)5月22日~明治43年(1910年)10月1日)は、時として現地を訪れる事無く、資料を基に想像を以って作詞したのでは無いかと推定される箇所が数件存在し、第22番 焼津に於いて草薙の剣が登場したり、第40番 瀬田では、本来、神戸に向かう列車車窓から見える瀬田唐橋は左手に存在するが、初版では何故か 右に見て と記され、後に間違いに気付き 再販本では 横に見て と改詩された。


我が国政府は、明治32年(1899年)7月12日附を以って、従来の開港場たる 横濱、神戸、長崎、及び、函館に加え、新たに、清水、武豊、四日市、下関、門司、博多、唐津、口之津、三角、厳原、佐須奈、鹿見、那覇、濱田、境、宮津、敦賀、七尾、伏木、小樽、釧路、及び、室蘭各港を追加指定する事に決定した。

此の為に、内務省土木局は該追加開港場整備を決定した事から、清水港に大型船出入港可能出入港整備計画が策定された。

内務省土木局に拠る清水港整備計画に拠り、工事資材運搬を目的として、大正5年(1916年)7月10日に、江尻(現 清水)-清水港(しみずみなと)間1.4kmが開通した。
その後、該港湾整備計画が進行した事から、昭和5年(1930年)2月1日附で清水港-清水埠頭(しみずふとう)間1.1kmが延長されたが、県内存在の沼津港線同様、該線に対しても独立線区では無く東海道本線枝支線として取扱れた。


大正12年(1923年)9月1日11時58分に、突如関東地方を大地震が襲った。

震源は相模湾沖約80km付近で最大震度7.9とされている。
該大地震の為に、東海道本線では、東京-國府津-沼津間に被害が発生した事から列車運転が不可能になった。

品川-横濱間、及び、御殿場-沼津間は震災発生数日以内に開通したが、震源地至近たる、横濱-國府津-御殿場間は、築堤崩壊無数、隧道崩落数箇所、橋梁損壊が多数発生し、特に、馬入川(現 相模川)橋梁は震災発生と同時に上下線橋梁橋脚が折損倒壊した事から殆どの橋桁が川面に落下し、復旧まで長時間を要する事が判明した為に、鐵道省は、門司鐵道局の提議に依り、下関-釜山間 関釜航路(かんぷ こうろ)に於いて現使用中の、景福丸(けいふくまる)3620t、高麗丸(こうらいまる)3029tを東京芝浦沖に回航させ、震災で壊滅状態の横濱港に代り、東京品川沖8km地点 -清水港間に臨時航路を設定させ、同年同月6日より運航を開始し、主に、震災被災者疎開者利用に応じさせた。
該際震災の為に、横濱港は大桟橋をはじめとする港湾施設が壊滅状態だったが、昼夜兼行の復旧工事の結果、同年同月27日に仮復旧工事が竣工し、該船舶は横濱港に直接接岸可能となった事から、翌28日より運航区間を横濱港-清水港間に変更した。

東海道本線馬入川橋梁復旧工事は、木造木組に依り、同年10月28日に単線橋梁が開通した事から、該臨時航路は同日附を以って廃止された。

然し、清水港が関東への出入口となった事から、該臨時航路に乗船する為に該航路運航中は、江尻駅清水港間に長蛇の列が織り成す状態となった。


初代 江尻(現 清水)駅は、清水港発展と共に該駅構内が手狭になったが、周囲は住宅密集地と化し、毎年増加する貨物取扱が困難になるなどの弊害も多く、該地に於いての拡張は困難と判定され、大正15年(1925年)7月14日に現位置に移転したが、不足用地は清水湾を埋立て貨物取扱場として使用した。

清水港への支線は昭和5年(1930年)2月1日に清水埠頭まで開通した事は前述した。

該線が本格的変化を遂げるのは、日華事変(にっか じへん)(昭和12年(1937年)7月7日~昭和16年(1941年)12月8日)に依る戦時体制強化に伴い、沿線に工場群が進出増加に依り、昭和19年(1944年)7月1日附で、清水埠頭-三保間が延長され、更に、沿線工場への通勤者対策の為に、静岡県、及び、清水市より運輸通信省に対し、該線に於ける旅客輸送業務開始に関する要求があり、此れを受け、同年12月1日附で、制限付旅客扱開始と共に、従来の東海道本線枝線から独立し 清水港(しみずこう)線として独立した。

若し、該時点に於いて単独路線として独立せず、東海道本線荒尾-美濃赤坂間の如く、該線枝線状態で継続していれば、後に、第1次特殊地方交通線指定を受ける事も無く、清水港埠頭再整備計画に基き、再編が実施された平成の世まで残存していた可能性が高かったものと思われる。

大東亜戦争終結後は、トラックの進出で貨物利用は激減し、併せて、該線に平行し静岡鉄道バスが清水駅-三保間に頻発運転させていた事から旅客利用者も低迷し、昭和41年(1966年)10月1日時刻改正で、旅客扱列車は1日1往復となり、且つ、混合列車と云ふ全国最閑散線区と化してしまった。

当然の事ながら、収支収入は静岡鉄道管理局内所属路線最低であり、第1次特殊地方交通線指定を受け、昭和59年(1984年)4月1日附で全線廃止された。


静岡市は古代期より大火多発都市だった。

即ち國府津-静岡間開通当日たる明治22年(1889年)2月1日に、市内一番町から出火し約1100戸を焼失させた一件は前述したが、明治25年(1894年)1月7日に七間町から出火の際は611戸が焼失している。

昭和15年(1940年)1月15日12時30分に静岡市新富町から出火した火事は、折からの駿河湾から吹く強季節風の為に瞬く間に市中心部を焼失させ東海道本線を超え燃え広がった。
該大火は約10時間延焼し、全焼5049戸、半焼74戸を出す 昭和15年静岡大火が現出した。

当時の地方都市に於ける甚大火災被害では、昭和9年(1934年)3月21日に発生した北海道函館大火に次ぐ存在とされるが、静岡大火では、罹災者28156名が生じたにも拘らず、死者は2名に止まったのは不幸中の幸といえた。

該大火に対し、現在の如き被災地に対する災害援助救助法適用など存在しない当時だったが、時の 第37代 米内光政(よない みつまさ)(明治13年(1880年)3月2日~昭和23年(1948年)4月20日)内閣(昭和15年(1940年)1月16日~同年7月22日組閣)は組閣直後の混沌状態だったにも拘らず、該市に対し直ちに援助を決定し、同月17日附を以って、第19代鐵道大臣 松野鶴平(まつの つるへい)(明治16年(1883年)12月22日~昭和37年(1962年)10月18日)(昭和15年(1940年)1月16日~同年7月22日在任)は、大臣命令を以って、第30代静岡県知事 小濱八彌(おばま はちや)(明治24年(1891年)12月8日~昭和48年(1973年)4月6日)(昭和14年(1939年)4月17日~昭和17年(1942年)1月9日在任)、若しくは、稲森誠次(いなもり せいじ)静岡市長宛荷受取人とする、鐵道省所属全駅、及び、連絡会社線連絡指定駅発、清水、草薙、静岡、及び、用宗各駅着貨車は2箇月間運賃5割引、小荷物は1箇月間運賃無料とし、翌々日19日には、新たに、清水港、及び、清水埠頭両駅が指定着駅に追加された。

該火災の為に、静岡駅本屋、及び、名古屋鐵道局静岡運転事務所・保線事務所本庁舎に延焼し全焼被害が生じたが、被災当時の静岡運転事務所は沼津-刈谷間を管理統括しており、更に、信号回線焼失の為に、一時列車運行に重大支障が生じた。

また、該大火に依り、明治期以前に建築された該市内歴史的重要建造物多数が焼失し烏有に帰した。


大東亜戦争中、該区間に於ける空襲被害は、

昭和19年(1944年)
12月27日
 警戒警報発令  0時32分
 空襲警報発令  1時00分
 空襲開始    1時12分
 空襲警報解除  4時15分
 警戒警報解除  4時25分
清水駅駅構内
  機銃掃射被害

昭和20年(1945年)
  6月10日
 警戒警報発令 21時20分
 空襲警報発令 22時00分
 空襲開始   22時15分
 空襲警報解除  1時10分
 警戒警報解除  1時15分
清水駅構内
  機銃掃射被害

  6月19日 第21爆撃機軍団 第314航空隊 B29戦略爆撃機計125機 静岡大空襲
 警戒警報発令 23時36分
 空襲警報発令  0時54分
 空襲開始    1時03分
 空襲警報解除  3時30分
 警戒警報解除  3時42分
静岡駅本屋半焼 静岡管理部木造本庁舎全焼
該市内に於いて25393戸全焼 死者1670名 重傷者約800名 約114000名罹災。
静岡駅構内被災車輌
  オロ31 17  (名ハツ)全焼
  オロ31 26  (名シツ)全焼
  オロ31 28  (名シツ)全焼
  オロ40 29  (名ナコ)全焼
  オハ31 263 (名ナコ)全焼
  オハ34 68  (名サワ)全焼
  スハ32 431 (名ナコ)全焼
  スハフ32 166(門ハヤ)全焼
  スハフ32 290(広チカ)全焼
  オハニ30 30 (名シツ)全焼
  スニ30 98  (大キト)全焼
  他木造車数両
 以上、昭和21(1946年)3月31日附戦災廃車

  7月 6日 第21爆撃機軍団 第313航空隊 B29戦略爆撃機計133機 清水大空襲
 警戒警報発令  6時12分
 空襲警報発令  8時12分
 空襲開始    8時45分
 空襲警報解除 10時45分
 警戒警報解除 10時50分
清水駅構内
  静岡機関区清水支区全焼
 木造客車3両全焼

  7月30日(清水市艦砲射撃攻撃)
 警戒警報発令 23時12分 
 空襲警報発令  0時 0分
 空襲開始    1時 0分
 空襲警報解除  1時47分
 警戒警報解除  2時20分
清水駅構内
  駆逐艦隊7隻艦砲射撃主砲弾命中弾着弾被害
遠州灘に展開した米英戦艦群を機軸とする聨合艦隊は、濱松市内に対し、戦艦主砲を以って艦砲射撃攻撃を実施したが、他方、該戦艦護衛用駆逐艦隊を分派させ、駿河湾より清水外港付近に侵入し、約15分間に亘り90発の主砲射撃攻撃を実施し、該攻撃に依り、清水駅構内側線、及び、清水港線内線路破壊4箇所40mの被害が発生したが、後者は翌31日6時30分に復旧開通した。


長らく該線電化区間は沼津が終点だったが、昭和24年(1949年)2月1日に沼津-静岡間が電化された。

該電化工事に鑑み、該線開通時に設置された清見寺跨線橋は架線吊張建築限界に支障する事から、ジャッキアップに拠る橋桁を打上工事を施工し可能にした。


80系湘南電車は、同年に製造され、該線東京-沼津間、及び、伊東線に於いて使用されてが、車輌数増備に伴い余裕が生じた事から、翌昭和25年(1950年)3月1日附時刻改正より沼津-静岡間一部客車列車を該電車に置換運用される様になり、此の為に、原-静岡間ホーム高が打上られた。

然るに、湘南電車運転の興奮冷めやらぬ同月28日23時3分頃、静岡発新宿行普通貨物第1380列車は草薙-清水間を走行中、狐ヶ崎付近に於いて、該貨物列車牽引機関車機関士は異常な振動を感知した事から非常制動を動作させ急停車した処、現場付近に、該貨物列車の先頭から4両目~24両目までの貨車が脱線転覆し、東海道本線は上下線共に線路を支障した為に不通になった。

当時の脱線復旧事故用 操重車は新鶴見、及び、稲沢にのみ配置されていた事から、事故現場への移動に相当日数を要するものとされ、名古屋鉄道局静岡管理部に設置された復旧本部は頭を抱えさせられた。

現代と異なり、当時の国道は1号線と云えども所々未舗装状態であり、トラックは存在するものの短距離移動の為の手段であり、東海道本線は東西を貫通する正に輸送の大幹線だった。

該事故現場に平行し静岡鉄道静清本線が並走している。

当時の静岡鉄道社長は、東海道本線という東西大動脈が事故に依る途絶状態が我が国経済を支える憂い、自社電車運転を中止し、自社線路を東海道本線に接続させ、事故現場を迂回させ運転を行うという破天荒な行動を実施させた。


第2次東京オリンピック開催を控えた、昭和39年(1964年)4月24日に草薙-静岡間を走行中だった 特別急行第2001M列車 第1富士号は、当時、該区間に存在した古荘踏切に差掛った処、踏切警報機を無視し該踏切内に進入した無謀運転ダンプカーに激突する事故が発生した。

該事故に依り、該列車先頭車 クロ151-7は脱線し線路上に対し「く」の字状に変移して停車し、続く2号車から6号車まで5両が脱線し、加害者ダンプカー運転手は該事故が原因で即死、乗客乗務員数名が重軽傷を負った。

同年10月1日に東海道新幹線開通後に於ける151系電車は、九州交流区間乗入の為に改造工事を施行中で、此の為に予備車輌すら無い状態であり、特急電車運転に支障が発生する事態となった事から、翌日から、準急用153系電車を流用して当座をしのいだ。

該事故車輌 クロ151-7は、車体が大破し修復困難と判断された事から、事故現場に於いて3分割に解体され、同年9月8日附で廃車手続が執行されたが、新系列電車廃車第1号の不名誉な記録を残した。



表紙写真は、
清見寺臨時停車場跡





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旅行の満足度
4.5
観光
4.5
ホテル
5.0
グルメ
4.5
交通
4.5
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
高速・路線バス JRローカル 徒歩

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  • 興津(おきつ)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />東海道本線國府津-静岡間開通(明治22年(1889年)2月1日)と同時に開業。<br />但し、開業当時は新橋方に160m地点に存在したが、明治35年(1902年)11月1日に現在地に移転。<br />現駅本屋は昭和56年(1981年)10月26日竣工。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/okitsu/index.html

    興津(おきつ)駅



    駅本屋
    東海道本線國府津-静岡間開通(明治22年(1889年)2月1日)と同時に開業。
    但し、開業当時は新橋方に160m地点に存在したが、明治35年(1902年)11月1日に現在地に移転。
    現駅本屋は昭和56年(1981年)10月26日竣工。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/okitsu/index.html

    興津駅

  • 興津駅<br /><br /><br /><br />跨線橋<br />明治35年(1902年)9月竣工。

    興津駅



    跨線橋
    明治35年(1902年)9月竣工。

    興津駅

  • 興津駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />全景<br />

    興津駅



    駅構内
    全景

    興津駅

  • 興津駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />東京方<br />俯瞰<br />右手マンション付近が以前の貨物取扱所跡地。<br /><br />静岡市清水区興津中町193<br />東海道本線興津駅 徒歩5分

    興津駅



    駅構内
    東京方
    俯瞰
    右手マンション付近が以前の貨物取扱所跡地。

    静岡市清水区興津中町193
    東海道本線興津駅 徒歩5分

    興津駅

  • 興津-清水間<br /><br /><br /><br />耀海寺(りんかいじ)踏切<br />興津狭隘地<br />該寺は、東海道線建設設置時に興津町民をして該施設設置に対し賛成とさせた。<br /><br />静岡市清水区興津本町223<br />東海道本線興津駅 徒歩8分<br /><br />

    興津-清水間



    耀海寺(りんかいじ)踏切
    興津狭隘地
    該寺は、東海道線建設設置時に興津町民をして該施設設置に対し賛成とさせた。

    静岡市清水区興津本町223
    東海道本線興津駅 徒歩8分

    耀海寺 寺・神社・教会

  • 興津-清水間<br /><br /><br /><br />清見寺(せいけんじ)<br />明治20年代になり日清間の雲行きが怪しくなりつつある頃、政府は地形状に於ける諸条件から急勾配を伴う中仙道線建設を保留し、横濱から西進させる事で東京関西間連絡鉄道建設を決定し直ちに着手し、國府津-静岡間は明治22年(1887年)2月1日に開通した。<br />然し、興津町内狭隘地通過に関し、現代であれば長大隧道建設を以って対処したであろうと推定されるが、当時の我が国に長大隧道建設工事能力は存在せず、且つ、明治維新時の廃仏毀釈の空気強き内、工事担当の工部省鐵道作業局は、已む無く清見寺境内堀池地を貫通する事で解決を見る。<br />同様例は同時期に建設された横須賀線鎌倉円覚寺(えんがくじ)境内にも存在する。<br />此の為に、内務省は清見寺に対し風致損傷補償金を支払ったが、当時の第18世住持 宗詮和尚は「此の國難時にお上から資金を頂く訳にはならぬ」と補償金全額を政府に献上した。<br /><br />静岡市清水区興津清見寺町418<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分<br />http://seikennji.com/

    興津-清水間



    清見寺(せいけんじ)
    明治20年代になり日清間の雲行きが怪しくなりつつある頃、政府は地形状に於ける諸条件から急勾配を伴う中仙道線建設を保留し、横濱から西進させる事で東京関西間連絡鉄道建設を決定し直ちに着手し、國府津-静岡間は明治22年(1887年)2月1日に開通した。
    然し、興津町内狭隘地通過に関し、現代であれば長大隧道建設を以って対処したであろうと推定されるが、当時の我が国に長大隧道建設工事能力は存在せず、且つ、明治維新時の廃仏毀釈の空気強き内、工事担当の工部省鐵道作業局は、已む無く清見寺境内堀池地を貫通する事で解決を見る。
    同様例は同時期に建設された横須賀線鎌倉円覚寺(えんがくじ)境内にも存在する。
    此の為に、内務省は清見寺に対し風致損傷補償金を支払ったが、当時の第18世住持 宗詮和尚は「此の國難時にお上から資金を頂く訳にはならぬ」と補償金全額を政府に献上した。

    静岡市清水区興津清見寺町418
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分
    http://seikennji.com/

    清見寺 寺・神社・教会

  • 興津-清水間<br /><br /><br /><br />清見寺下<br /><br />静岡市清水区興津清見寺町418<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分<br />http://seikennji.com/

    興津-清水間



    清見寺下

    静岡市清水区興津清見寺町418
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分
    http://seikennji.com/

    清見寺 寺・神社・教会

  • 興津-清水間<br /><br /><br /><br />清見寺(せいけんじ)臨時乗降場跡<br />明治天皇皇后たる昭憲皇太后(しょうけん こうたいごう)(嘉永2年(1849年)5月9日〜大正3年(1914年)4月9日)は、殊のほか興津の地を好まれ、明治後半には度々行啓された。<br />明治40年(1907年)4月9日に清見寺にお立寄りされる事になり、該行啓の際に、該寺下に臨時乗降場を設置し御召列車を臨時停車させ利用に供した。<br />因みに、清見寺臨時乗降場設置は該日、及び、翌日のみとされているが、井上毅の一件も在り、且つ、当時の帝國鐵道庁関係資料が、関東大震災の際に鐵道省本庁舎焼失と共に烏有に帰した為に、事実関係解明は今後の研究課題。<br /><br />静岡市清水区興津清見寺町36<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺停留所降車 徒歩1分

    興津-清水間



    清見寺(せいけんじ)臨時乗降場跡
    明治天皇皇后たる昭憲皇太后(しょうけん こうたいごう)(嘉永2年(1849年)5月9日〜大正3年(1914年)4月9日)は、殊のほか興津の地を好まれ、明治後半には度々行啓された。
    明治40年(1907年)4月9日に清見寺にお立寄りされる事になり、該行啓の際に、該寺下に臨時乗降場を設置し御召列車を臨時停車させ利用に供した。
    因みに、清見寺臨時乗降場設置は該日、及び、翌日のみとされているが、井上毅の一件も在り、且つ、当時の帝國鐵道庁関係資料が、関東大震災の際に鐵道省本庁舎焼失と共に烏有に帰した為に、事実関係解明は今後の研究課題。

    静岡市清水区興津清見寺町36
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺停留所降車 徒歩1分

    清見寺 寺・神社・教会

  • 興津-清水間<br /><br /><br /><br />清見寺臨時乗降場跡<br /><br />静岡市清水区興津清見寺町36<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺停留所降車 徒歩1分

    興津-清水間



    清見寺臨時乗降場跡

    静岡市清水区興津清見寺町36
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺停留所降車 徒歩1分

    清見寺 寺・神社・教会

  • 興津-清水間<br /><br /><br /><br />清見寺(せいけんじ)踏切<br /><br />静岡市清水市興津清見寺町28<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分

    興津-清水間



    清見寺(せいけんじ)踏切

    静岡市清水市興津清見寺町28
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分

    清見寺 寺・神社・教会

  • 興津-清水間<br /><br /><br /><br />清見寺踏切<br />近接<br />線路外に門構が存在。<br /><br />静岡市清水市興津清見寺町28<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分

    興津-清水間



    清見寺踏切
    近接
    線路外に門構が存在。

    静岡市清水市興津清見寺町28
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分

    清見寺 寺・神社・教会

  • 興津-清水間<br /><br /><br /><br />清見寺下<br />該寺堀池を埋立て該線を設置。<br /><br />静岡市清水区興津清見町28<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩2分

    興津-清水間



    清見寺下
    該寺堀池を埋立て該線を設置。

    静岡市清水区興津清見町28
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩2分

    清見寺 寺・神社・教会

  • 興津-清水間<br /><br /><br /><br />清見寺(せいけんじ)跨線橋<br /><br />静岡市清水区興津清見寺町416<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分<br />http://seikennji.com/

    興津-清水間



    清見寺(せいけんじ)跨線橋

    静岡市清水区興津清見寺町416
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分
    http://seikennji.com/

    清見寺 寺・神社・教会

  • 興津-清水間<br /><br /><br /><br />清見寺跨線橋<br />写真右 現在の上り線路が開通当時の東海道線。<br />然し、開通当時から複線用用地は確保されていた。<br />興津-静岡間複線化は、明治31年(1898年)12月21日。<br /><br />静岡市清水区興津清見寺町416<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分<br />http://seikennji.com/

    興津-清水間



    清見寺跨線橋
    写真右 現在の上り線路が開通当時の東海道線。
    然し、開通当時から複線用用地は確保されていた。
    興津-静岡間複線化は、明治31年(1898年)12月21日。

    静岡市清水区興津清見寺町416
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分
    http://seikennji.com/

    清見寺 寺・神社・教会

  • 興津-清水間<br /><br /><br /><br />清見寺跨線橋<br />該橋下を通過中の東海旅客鉄道所属211系電車パンダグラフ上昇状態と架線、更に、跨線橋との旧現建築限界がよく解る1枚。<br />石積上に於けるコンクリート部は、昭和24年(1949年)2月1日に沼津-静岡間電化区間延長時に、該跨線橋が架線吊部に支障する事から、ジャッキアップに依り嵩上された。<br /><br />静岡市清水区興津清見寺町416<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分<br />http://seikennji.com/

    興津-清水間



    清見寺跨線橋
    該橋下を通過中の東海旅客鉄道所属211系電車パンダグラフ上昇状態と架線、更に、跨線橋との旧現建築限界がよく解る1枚。
    石積上に於けるコンクリート部は、昭和24年(1949年)2月1日に沼津-静岡間電化区間延長時に、該跨線橋が架線吊部に支障する事から、ジャッキアップに依り嵩上された。

    静岡市清水区興津清見寺町416
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分
    http://seikennji.com/

    清見寺 寺・神社・教会

  • 興津-清水間<br /><br /><br /><br />清見寺跨線橋<br />ポーナル設計の鐡鐡鉄道用橋桁を使用。<br />装飾手摺も設置当時の原型。<br /><br />静岡市清水区興津清見寺町416<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分<br />http://seikennji.com/

    興津-清水間



    清見寺跨線橋
    ポーナル設計の鐡鐡鉄道用橋桁を使用。
    装飾手摺も設置当時の原型。

    静岡市清水区興津清見寺町416
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分
    http://seikennji.com/

    清見寺 寺・神社・教会

  • 興津-清水間<br /><br /><br />茂畑(もはた)踏切<br />殉職職員慰霊碑<br /><br />静岡市清水区興津清見寺町467<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見潟停留所降車 徒歩2分

    興津-清水間


    茂畑(もはた)踏切
    殉職職員慰霊碑

    静岡市清水区興津清見寺町467
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見潟停留所降車 徒歩2分

  • 興津-清水間<br /><br /><br />踏切<br />殉職職員慰霊碑<br />昭和17年(1942年)3月30日14時30分頃 枕木更換作業中に特急列車に接触し職員2名殉職す<br />平成15年(2003年)8月建替<br /><br />静岡市清水区興津清見寺町467<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見潟停留所降車 徒歩2分

    興津-清水間


    踏切
    殉職職員慰霊碑
    昭和17年(1942年)3月30日14時30分頃 枕木更換作業中に特急列車に接触し職員2名殉職す
    平成15年(2003年)8月建替

    静岡市清水区興津清見寺町467
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見潟停留所降車 徒歩2分

  • 興津-清水間<br /><br /><br /><br />波多打川(はたうちかわ)橋梁<br />全景<br /><br />静岡市清水区横砂東町30−18<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見潟停留所降車 徒歩4分

    興津-清水間



    波多打川(はたうちかわ)橋梁
    全景

    静岡市清水区横砂東町30−18
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見潟停留所降車 徒歩4分

  • 興津-清水間<br /><br /><br /><br />波多打川橋梁<br />全景<br /><br />静岡市清水区横砂東町30−18<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見潟停留所降車 徒歩4分

    興津-清水間



    波多打川橋梁
    全景

    静岡市清水区横砂東町30−18
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見潟停留所降車 徒歩4分

  • 興津-清水間<br /><br /><br /><br />長者荘(ちょうじゃそう)<br />該河川両側が井上馨の旧別荘敷地跡。<br /><br />静岡市清水区横砂東町30−20<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見潟停留所降車 徒歩5分

    興津-清水間



    長者荘(ちょうじゃそう)
    該河川両側が井上馨の旧別荘敷地跡。

    静岡市清水区横砂東町30−20
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見潟停留所降車 徒歩5分

  • 興津-清水間<br /><br /><br /><br />臨時停留所跡<br />井上 馨(いのうえ かおる)(天保6年(1836年)1月16日〜大正4年(1915年)9月1日)は、内務省法制局長在任中たる明治23年(1890年)1月に初めて興津を訪れ水口屋に宿泊した事がきっかけとなり興津の地が気に入り、明治29年(1896年)7月に興津西米糠山に別荘 長者荘を建築したが、何事に於いても成り上り者特有の派手好みな井上は、長者荘敷地内に、生前たる明治43年(1910年)11月に銅像を建立し、同月28日に除幕式と披露園遊会が開催され各界から当時の著名人が招待された。<br />然るに、井上は園遊会終了後に東京方面への帰参者利便の為に、当時の鐵道院長官に掛合い、長者荘下の波打川橋梁付近に臨時停留所を設置させた。<br />当時の井上が差出した除幕式園遊会招待状に、<br />『同五時東京方面ノ御方ハ御乗車盤木ヲ以テ報ス』<br />との記述が存在する。<br />盤木とは枕木の事であり、事実を示すが如く大正10年代まで現地に枕木が山積みになっていた。<br />然るに、大宮鉄道博物館に現存する当時の鐵道院関係文書に、該停留所設置に関する記述が存在しない。<br /><br />静岡市清水区興津清見寺町467−33<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見潟停留所降車 徒歩3分

    興津-清水間



    臨時停留所跡
    井上 馨(いのうえ かおる)(天保6年(1836年)1月16日〜大正4年(1915年)9月1日)は、内務省法制局長在任中たる明治23年(1890年)1月に初めて興津を訪れ水口屋に宿泊した事がきっかけとなり興津の地が気に入り、明治29年(1896年)7月に興津西米糠山に別荘 長者荘を建築したが、何事に於いても成り上り者特有の派手好みな井上は、長者荘敷地内に、生前たる明治43年(1910年)11月に銅像を建立し、同月28日に除幕式と披露園遊会が開催され各界から当時の著名人が招待された。
    然るに、井上は園遊会終了後に東京方面への帰参者利便の為に、当時の鐵道院長官に掛合い、長者荘下の波打川橋梁付近に臨時停留所を設置させた。
    当時の井上が差出した除幕式園遊会招待状に、
    『同五時東京方面ノ御方ハ御乗車盤木ヲ以テ報ス』
    との記述が存在する。
    盤木とは枕木の事であり、事実を示すが如く大正10年代まで現地に枕木が山積みになっていた。
    然るに、大宮鉄道博物館に現存する当時の鐵道院関係文書に、該停留所設置に関する記述が存在しない。

    静岡市清水区興津清見寺町467−33
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見潟停留所降車 徒歩3分

  • 興津-清水間<br /><br /><br /><br />袖師(そでし)駅跡<br />該駅は、袖師濱海水浴場利用客の為に季節臨時乗降場として大正15年(1926年)7月3日に開設された。<br />然るに、昭和34年(1959年)に、清水港臨港設備建設開始と共に該付近は工場用地として埋立が進行し、海水浴場不適当地とされた為に利用客は漸次減少し、昭和38年(1963年)夏期営業を最後に実質上休止状態となり、昭和44年(1969年)10月1日附で仮停車場から臨時乗降場に格下られたが、使用実績も無く、昭和46年(1971年)10月1日附で廃止された。<br />因みに、袖師-清水間をほぼ平行した静岡鉄道清水市内線横砂-港橋間は、昭和49年(1974年)7月7日の台風8号被害で壊滅的被害を蒙り、電車復旧を諦め自社バスで代替可能と判断され地元と合意が成立した事から、翌昭和50年(1975年)3月22日附で全線廃止された。<br />昭和62年(1987年)4月1日の国鉄民営化後に、地元清水市横砂町を中心に袖師駅復活運動が展開したが、東海旅客鉄道側の採用とならず尻窄みに終わる。<br /><br />静岡市清水区横砂本町1−34<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン横砂西停留所降車 徒歩3分

    興津-清水間



    袖師(そでし)駅跡
    該駅は、袖師濱海水浴場利用客の為に季節臨時乗降場として大正15年(1926年)7月3日に開設された。
    然るに、昭和34年(1959年)に、清水港臨港設備建設開始と共に該付近は工場用地として埋立が進行し、海水浴場不適当地とされた為に利用客は漸次減少し、昭和38年(1963年)夏期営業を最後に実質上休止状態となり、昭和44年(1969年)10月1日附で仮停車場から臨時乗降場に格下られたが、使用実績も無く、昭和46年(1971年)10月1日附で廃止された。
    因みに、袖師-清水間をほぼ平行した静岡鉄道清水市内線横砂-港橋間は、昭和49年(1974年)7月7日の台風8号被害で壊滅的被害を蒙り、電車復旧を諦め自社バスで代替可能と判断され地元と合意が成立した事から、翌昭和50年(1975年)3月22日附で全線廃止された。
    昭和62年(1987年)4月1日の国鉄民営化後に、地元清水市横砂町を中心に袖師駅復活運動が展開したが、東海旅客鉄道側の採用とならず尻窄みに終わる。

    静岡市清水区横砂本町1−34
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン横砂西停留所降車 徒歩3分

  • 興津-清水間<br /><br /><br /><br />袖師駅跡<br />該駅ホームは日本国有鉄道末期まで残存したが、不要資産と判定され東海旅客鉄道に依り大部分が撤去されたが、該部分のみ変電所が存在する為に僅かに痕跡残存。<br /><br />静岡市清水区横砂本町1−34<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン横砂西停留所降車 徒歩3分

    興津-清水間



    袖師駅跡
    該駅ホームは日本国有鉄道末期まで残存したが、不要資産と判定され東海旅客鉄道に依り大部分が撤去されたが、該部分のみ変電所が存在する為に僅かに痕跡残存。

    静岡市清水区横砂本町1−34
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン横砂西停留所降車 徒歩3分

  • 興津-清水間<br /><br /><br /><br />袖師浜踏切(そでしはま ふみきり)<br />現在、付近一帯は町名改称に伴い、袖師町から横砂町に変更され、該踏切名は、嘗て、該地名は該地点に臨時乗降場が存在した唯一の名残。<br /><br />静岡市清水区横砂本町1−34<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン横砂西停留所降車 徒歩3分

    興津-清水間



    袖師浜踏切(そでしはま ふみきり)
    現在、付近一帯は町名改称に伴い、袖師町から横砂町に変更され、該踏切名は、嘗て、該地名は該地点に臨時乗降場が存在した唯一の名残。

    静岡市清水区横砂本町1−34
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン横砂西停留所降車 徒歩3分

  • 興津-清水間<br /><br /><br /><br />袖師浜踏切<br /><br />静岡市清水区横砂本町1−34<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン横砂西停留所降車 徒歩3分

    興津-清水間



    袖師浜踏切

    静岡市清水区横砂本町1−34
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン横砂西停留所降車 徒歩3分

  • 興津-清水間<br /><br /><br /><br />袖師浜踏切<br />海水浴客は該踏切を横断し海岸側へと向かった。<br /><br />静岡市清水区横砂本町1−34<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン横砂西停留所降車 徒歩3分

    興津-清水間



    袖師浜踏切
    海水浴客は該踏切を横断し海岸側へと向かった。

    静岡市清水区横砂本町1−34
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン横砂西停留所降車 徒歩3分

  • 興津-清水間<br /><br /><br /><br />庵原川(いはらがわ)橋梁<br />該橋は、明治22年(1889年)2月1日開通時の橋梁である。<br />全長38m<br />開通時は、英国人技師 チャールズ・A・ポーナル(Carles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に拠る、<br />英國製<br />錬鐡製プレート・ガーダー橋桁9.1m(30ft)×3連<br />が架橋された。<br />興津-静岡間は、明治31年(1898年)12月16日に複線化されたが、新設橋梁は鋼鐡プレートガーダー橋桁で既設橋梁下流側に架橋され、新設橋梁は下り線専用とされ、既設橋梁は上り線専用となった。<br />鉄道開通当時の上り線橋梁は、列車重量化に対応困難と判定され、大正5年(1916年)に国産鋼鐡製プレートガーダー橋桁に架替が実施された。<br /><br />静岡市清水区横砂中町1−2<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン横砂西停留所降車 徒歩6分

    興津-清水間



    庵原川(いはらがわ)橋梁
    該橋は、明治22年(1889年)2月1日開通時の橋梁である。
    全長38m
    開通時は、英国人技師 チャールズ・A・ポーナル(Carles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に拠る、
    英國製
    錬鐡製プレート・ガーダー橋桁9.1m(30ft)×3連
    が架橋された。
    興津-静岡間は、明治31年(1898年)12月16日に複線化されたが、新設橋梁は鋼鐡プレートガーダー橋桁で既設橋梁下流側に架橋され、新設橋梁は下り線専用とされ、既設橋梁は上り線専用となった。
    鉄道開通当時の上り線橋梁は、列車重量化に対応困難と判定され、大正5年(1916年)に国産鋼鐡製プレートガーダー橋桁に架替が実施された。

    静岡市清水区横砂中町1−2
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン横砂西停留所降車 徒歩6分

  • 興津-清水間<br /><br /><br /><br />庵原川橋梁<br /><br />静岡市清水区横砂中町1−2<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン横砂西停留所降車 徒歩6分

    興津-清水間



    庵原川橋梁

    静岡市清水区横砂中町1−2
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン横砂西停留所降車 徒歩6分

  • 興津-清水間<br /><br /><br /><br />庵原川橋梁<br />鋼鉄製架線柱は、沼津-静岡間電化時に設置した原型柱。<br />沿線大部分の架線柱はPCコンクリート製に更新が進行し、鋼鉄型原型が残存するのは僅少。<br /><br />静岡市清水区横砂中町1−2<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン横砂西停留所降車 徒歩6分

    興津-清水間



    庵原川橋梁
    鋼鉄製架線柱は、沼津-静岡間電化時に設置した原型柱。
    沿線大部分の架線柱はPCコンクリート製に更新が進行し、鋼鉄型原型が残存するのは僅少。

    静岡市清水区横砂中町1−2
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン横砂西停留所降車 徒歩6分

  • 興津-清水間<br /><br /><br /><br />庵原川橋梁<br />上流側<br /><br />静岡市清水区横砂中町1−2<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン横砂西停留所降車 徒歩6分

    興津-清水間



    庵原川橋梁
    上流側

    静岡市清水区横砂中町1−2
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン横砂西停留所降車 徒歩6分

  • 興津-清水間<br /><br /><br /><br />文字山川(もじやまかわ)橋梁<br />旧静岡鉄道清水市内線橋梁橋台跡<br /><br />静岡市清水区袖師町249<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン元西久保停留所降車 徒歩6分

    興津-清水間



    文字山川(もじやまかわ)橋梁
    旧静岡鉄道清水市内線橋梁橋台跡

    静岡市清水区袖師町249
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン元西久保停留所降車 徒歩6分

  • 興津-清水間<br /><br /><br /><br />文字山川橋梁<br />旧静岡鉄道清水市内線橋梁橋台跡<br /><br />静岡市清水区袖師町249<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン元西久保停留所降車 徒歩6分

    興津-清水間



    文字山川橋梁
    旧静岡鉄道清水市内線橋梁橋台跡

    静岡市清水区袖師町249
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン元西久保停留所降車 徒歩6分

  • 興津-清水間<br /><br /><br /><br />第2峰山(だいに みねやま)踏切<br />旧静岡鉄道清水市内線路線跡<br /><br />静岡市清水区袖師町1270<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン袖師小学校入口停留所降車 徒歩2分

    興津-清水間



    第2峰山(だいに みねやま)踏切
    旧静岡鉄道清水市内線路線跡

    静岡市清水区袖師町1270
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン袖師小学校入口停留所降車 徒歩2分

  • 興津-清水間<br /><br /><br /><br />第2峰山(だいに みねやま)踏切<br />旧静岡鉄道清水市内線路線跡<br /><br />静岡市清水区袖師町1270<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン袖師小学校入口停留所降車 徒歩2分

    興津-清水間



    第2峰山(だいに みねやま)踏切
    旧静岡鉄道清水市内線路線跡

    静岡市清水区袖師町1270
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン袖師小学校入口停留所降車 徒歩2分

  • 興津-清水間<br /><br /><br /><br />愛染(あいぞめ)踏切<br />清水港連絡の為に設置。<br /><br />静岡市清水区辻1−10−20<br />東海道本線清水駅江尻口 しずてつジャストライン西久保営業所前停留所降車 徒歩4分

    興津-清水間



    愛染(あいぞめ)踏切
    清水港連絡の為に設置。

    静岡市清水区辻1−10−20
    東海道本線清水駅江尻口 しずてつジャストライン西久保営業所前停留所降車 徒歩4分

  • 清水(しみず)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />該駅は、明治22年(1889年)2月1日開業である。<br />但し、該駅開業時は江尻(えじり)駅と命名されたが、昭和9年(1934年)12月1日に丹那隧道(たんな ずいどう)開通に伴ふ國府津-熱海-沼津間開通に拠り、該区間が熱海線から東海道本線編入に関連した全国白紙時刻改正時に現駅名称に改名された。<br />該駅設置に関して、設置位置確定が遅延し二転三転を余儀無くされたが、即ち、当時の清水旧町域は家屋密集地域であり、路線設定ですら苦心している以上、停車場建設に必要とする土地取得が困難を極めていた。<br />かくて、清水停車場未確定の状態で、明治19年(1886年)10月10日附を以って、富士川西岸-静岡-用宗大崩区間建設の為に設置された現業機関たる逓信省鐵道作業局静岡派出所は、従来の静岡町鷹匠から江尻町入江に移転し江尻鐵道出張所に改称された事から、地元では入江が停車場設置最有力地と見做す者が続出し、一攫千金を狙う者の為に該地区一隊の土地が暴騰した。<br />江尻地域の測量は同年11月25日に完了し、此れを受け路線工事が開始され、同年12月2日11時に帝國海軍補助船 石川丸 が静岡中部地区鉄道開業に要する機材一式を搭載して清水湊沖に停泊し陸揚げを開始した。<br />翌明治20年(1886年)2月13日に完成した巴川仮橋上をトロッコを使用した耐圧試験を実施し、清水湊に陸揚げした蒸気機関車の組立完成を待って、同年4月7日に洞第2号隧道西坑口-二軒茶屋間、同年同月21日に江尻-静岡宝泰寺裏手間に於ける試運転が実施された時点ですら停車場設置位置は未確定状態だったが、紆余曲折の上、同年8月17日に有渡郡清水町江尻字境に確定した。<br />然し、地元有力地主達が土地売却に対し強硬に反対した為に、停車場予定用地は当初計画より縮小せざるを得なかった。<br />此れは、現住所で静岡市清水区相生町1−5付近に相当する。<br />開業当日は静岡市大火と重なり清水町からも大煙が望見され、大火被災者の心情を踏まえ祝賀式は全体的に控え目にされたが、それでも、鈴與第4代目鈴木與平(すずき よへい)(天保8年(1837年)〜明治37年(1904年)は菰酒5樽を準備し通行人に振舞酒を施した。<br />日露間の戦争開始を予測し明治31年(1898年)12月25日には興津-静岡間が複線化されたが、反面、此の頃より江尻は都市化、興津は保養地としての分離傾向が強まった。<br />手狭になった初代駅本屋は、明治40年(1907年)10月3日附で各等待合室付に改築される。<br />清水港は静岡県内各地で生産される茶、蜜柑、缶詰等々の輸出港として重要性が高まった事から整備される事になり、内務省土木局指導の下で明治末期から大改築工事が施工され、改築前は清水湊沖に停泊し艀に積替えていたものが、改築後は大型船舶が直接桟橋に停泊可能になり、鉄道院は此れに対処すべく、大正5年(1916年)7月10日に東海道本線支線として江尻-清水港間1.4kmを開通させ清水港に大型テルファー・クレーン、及び、コンベアーを設置した鐵道院直営岸壁が整備された。<br />因みに、該テルファー・クレーンは該線廃止後も残存し、平成12年(2000年)に国登録有形文化財に指定され保存展示されている。<br />然し、該岸壁への入線は該駅構内を横断するスイッチバックを要し、貨車入換の都度、本線を支障する事態が著しい事と、内務省の整備案一環として新埠頭への取付道路整備の為に現駅上を通過しなければならず、現在であれば大跨線橋設置で対処するものと思われるが、当時の技術では困難であり、前述の不便さ解消をも兼ね駅施設全体を移転させる事に決定し、此れを受け大正15年(1926年)7月14日に約350m東京方に移動した。<br />現位置移転と同時に駅本屋が鉄筋コンクリート平屋建が新築され、清水市内建築物で大東亜戦争中の清水大空襲で被災を免れた数少ない存在だったが、昭和44年(1969年)4月に解体されるまで使用され清水市民に親しまれた。<br />現駅本屋は平成15年(2003年)6月2日竣工の第5代目で橋上駅様式。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/shimizu/index.html

    清水(しみず)駅



    駅本屋
    該駅は、明治22年(1889年)2月1日開業である。
    但し、該駅開業時は江尻(えじり)駅と命名されたが、昭和9年(1934年)12月1日に丹那隧道(たんな ずいどう)開通に伴ふ國府津-熱海-沼津間開通に拠り、該区間が熱海線から東海道本線編入に関連した全国白紙時刻改正時に現駅名称に改名された。
    該駅設置に関して、設置位置確定が遅延し二転三転を余儀無くされたが、即ち、当時の清水旧町域は家屋密集地域であり、路線設定ですら苦心している以上、停車場建設に必要とする土地取得が困難を極めていた。
    かくて、清水停車場未確定の状態で、明治19年(1886年)10月10日附を以って、富士川西岸-静岡-用宗大崩区間建設の為に設置された現業機関たる逓信省鐵道作業局静岡派出所は、従来の静岡町鷹匠から江尻町入江に移転し江尻鐵道出張所に改称された事から、地元では入江が停車場設置最有力地と見做す者が続出し、一攫千金を狙う者の為に該地区一隊の土地が暴騰した。
    江尻地域の測量は同年11月25日に完了し、此れを受け路線工事が開始され、同年12月2日11時に帝國海軍補助船 石川丸 が静岡中部地区鉄道開業に要する機材一式を搭載して清水湊沖に停泊し陸揚げを開始した。
    翌明治20年(1886年)2月13日に完成した巴川仮橋上をトロッコを使用した耐圧試験を実施し、清水湊に陸揚げした蒸気機関車の組立完成を待って、同年4月7日に洞第2号隧道西坑口-二軒茶屋間、同年同月21日に江尻-静岡宝泰寺裏手間に於ける試運転が実施された時点ですら停車場設置位置は未確定状態だったが、紆余曲折の上、同年8月17日に有渡郡清水町江尻字境に確定した。
    然し、地元有力地主達が土地売却に対し強硬に反対した為に、停車場予定用地は当初計画より縮小せざるを得なかった。
    此れは、現住所で静岡市清水区相生町1−5付近に相当する。
    開業当日は静岡市大火と重なり清水町からも大煙が望見され、大火被災者の心情を踏まえ祝賀式は全体的に控え目にされたが、それでも、鈴與第4代目鈴木與平(すずき よへい)(天保8年(1837年)〜明治37年(1904年)は菰酒5樽を準備し通行人に振舞酒を施した。
    日露間の戦争開始を予測し明治31年(1898年)12月25日には興津-静岡間が複線化されたが、反面、此の頃より江尻は都市化、興津は保養地としての分離傾向が強まった。
    手狭になった初代駅本屋は、明治40年(1907年)10月3日附で各等待合室付に改築される。
    清水港は静岡県内各地で生産される茶、蜜柑、缶詰等々の輸出港として重要性が高まった事から整備される事になり、内務省土木局指導の下で明治末期から大改築工事が施工され、改築前は清水湊沖に停泊し艀に積替えていたものが、改築後は大型船舶が直接桟橋に停泊可能になり、鉄道院は此れに対処すべく、大正5年(1916年)7月10日に東海道本線支線として江尻-清水港間1.4kmを開通させ清水港に大型テルファー・クレーン、及び、コンベアーを設置した鐵道院直営岸壁が整備された。
    因みに、該テルファー・クレーンは該線廃止後も残存し、平成12年(2000年)に国登録有形文化財に指定され保存展示されている。
    然し、該岸壁への入線は該駅構内を横断するスイッチバックを要し、貨車入換の都度、本線を支障する事態が著しい事と、内務省の整備案一環として新埠頭への取付道路整備の為に現駅上を通過しなければならず、現在であれば大跨線橋設置で対処するものと思われるが、当時の技術では困難であり、前述の不便さ解消をも兼ね駅施設全体を移転させる事に決定し、此れを受け大正15年(1926年)7月14日に約350m東京方に移動した。
    現位置移転と同時に駅本屋が鉄筋コンクリート平屋建が新築され、清水市内建築物で大東亜戦争中の清水大空襲で被災を免れた数少ない存在だったが、昭和44年(1969年)4月に解体されるまで使用され清水市民に親しまれた。
    現駅本屋は平成15年(2003年)6月2日竣工の第5代目で橋上駅様式。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/shimizu/index.html

    清水駅

  • 清水駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />写真中央部2階建部分が昭和44年(1969年)改築の第4代目駅本屋、左硝子張部分が平成15年(2003年)6月2日竣工増改築第5代目駅本屋。

    清水駅



    駅本屋
    写真中央部2階建部分が昭和44年(1969年)改築の第4代目駅本屋、左硝子張部分が平成15年(2003年)6月2日竣工増改築第5代目駅本屋。

    清水駅

  • 清水駅<br /><br /><br /><br />旧駅本屋<br />出改札口跡<br />該駅本屋使用時はホームとは旅客地下道で連絡した。

    清水駅



    旧駅本屋
    出改札口跡
    該駅本屋使用時はホームとは旅客地下道で連絡した。

    清水駅

  • 清水駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />東口江尻口

    清水駅



    駅本屋
    東口江尻口

    清水駅

  • 清水駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />出改札口

    清水駅



    駅本屋
    出改札口

    清水駅

  • 清水駅<br /><br /><br /><br />東口みなと口<br />駅前広場<br />旧貨物取扱施設跡<br />俯瞰

    清水駅



    東口みなと口
    駅前広場
    旧貨物取扱施設跡
    俯瞰

    清水駅

  • 清水駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />東口みなと口

    清水駅



    駅本屋
    東口みなと口

    清水駅

  • 清水駅<br /><br /><br /><br />駅前<br />東口駅前広場<br />旧貨物線群跡地

    清水駅



    駅前
    東口駅前広場
    旧貨物線群跡地

    清水駅

  • 清水駅<br /><br /><br />第1番ホーム<br />ホーム上に距離標柱(キロポスト)を設置する事は、一般利用者から見れば、けだし単なる障害物たる存在ともなり得ず、全国に所在する殆どの駅では線路上に設置する。<br />然し、東海旅客鉄道静岡支社は、日本国有鉄道静岡鉄道管理局時代から距離標柱をホーム上に公然と設置していた。<br />該社該支社管内該線所属駅で、他に、新居町第1番ホーム等々で散見可能。

    清水駅


    第1番ホーム
    ホーム上に距離標柱(キロポスト)を設置する事は、一般利用者から見れば、けだし単なる障害物たる存在ともなり得ず、全国に所在する殆どの駅では線路上に設置する。
    然し、東海旅客鉄道静岡支社は、日本国有鉄道静岡鉄道管理局時代から距離標柱をホーム上に公然と設置していた。
    該社該支社管内該線所属駅で、他に、新居町第1番ホーム等々で散見可能。

    清水駅

  • 清水駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />キロポスト

    清水駅



    第1番ホーム
    キロポスト

    清水駅

  • 清水駅<br /><br /><br /><br />旧清水港線ホーム跡<br />写真中央部に存在した。

    清水駅



    旧清水港線ホーム跡
    写真中央部に存在した。

    清水駅

  • 清水駅<br /><br /><br /><br />旧臨港改札口跡<br />該駅橋上化まで存在した。

    清水駅



    旧臨港改札口跡
    該駅橋上化まで存在した。

    清水駅

  • 清水駅<br /><br /><br /><br />やすい軒<br />昭和5年(1930年)創業の中華料理店。<br />創業時から民営当初まで清水駅構内に於いて弁当販売、及び、立食蕎麦営業を行っていた。<br />販売当時の駅弁で、幕ノ内弁当と共にシュウマイチャーハン弁当は全国でも知る人ぞ知る存在だった。<br />また、急行桜島高千穂号、東海号停車時には立売販売も実施していた。<br />現在では該駅構内販売から撤退し、駅前に於いて中華料理店のみの営業である。<br /><br />やすい軒(やすい けん)<br />静岡市清水区真砂2−35<br />?: 054−367−1201<br />11:00〜23:00<br />年中無休<br />東海道本線清水駅江尻口 徒歩30秒

    清水駅



    やすい軒
    昭和5年(1930年)創業の中華料理店。
    創業時から民営当初まで清水駅構内に於いて弁当販売、及び、立食蕎麦営業を行っていた。
    販売当時の駅弁で、幕ノ内弁当と共にシュウマイチャーハン弁当は全国でも知る人ぞ知る存在だった。
    また、急行桜島高千穂号、東海号停車時には立売販売も実施していた。
    現在では該駅構内販売から撤退し、駅前に於いて中華料理店のみの営業である。

    やすい軒(やすい けん)
    静岡市清水区真砂2−35
    ?: 054−367−1201
    11:00〜23:00
    年中無休
    東海道本線清水駅江尻口 徒歩30秒

    やすい軒本店 グルメ・レストラン

  • 清水-草薙間<br /><br /><br /><br />真砂(まさご)踏切<br /><br />静岡市清水区真砂町1−48<br />東海道本線清水駅江尻口 徒歩6分

    清水-草薙間



    真砂(まさご)踏切

    静岡市清水区真砂町1−48
    東海道本線清水駅江尻口 徒歩6分

  • 清水-草薙間<br /><br /><br /><br />真砂踏切<br />写真2本目架線柱が旧江尻(現 清水)駅ホーム端。<br /><br />静岡市清水区真砂町1−48<br />東海道本線清水駅江尻口 徒歩6分

    清水-草薙間



    真砂踏切
    写真2本目架線柱が旧江尻(現 清水)駅ホーム端。

    静岡市清水区真砂町1−48
    東海道本線清水駅江尻口 徒歩6分

  • 清水-草薙間<br /><br /><br /><br />真砂踏切<br />架線柱が旧江尻(現 清水)駅ホーム端。<br /><br />静岡市清水区真砂町1−48<br />東海道本線清水駅江尻口 徒歩6分

    清水-草薙間



    真砂踏切
    架線柱が旧江尻(現 清水)駅ホーム端。

    静岡市清水区真砂町1−48
    東海道本線清水駅江尻口 徒歩6分

  • 清水-草薙間<br /><br /><br /><br />初代江尻(現 清水)駅<br />駅本屋跡<br /><br />静岡市清水区江尻東3−1<br />東海道本線清水駅江尻口 徒歩7分

    清水-草薙間



    初代江尻(現 清水)駅
    駅本屋跡

    静岡市清水区江尻東3−1
    東海道本線清水駅江尻口 徒歩7分

  • 清水-草薙間<br /><br /><br /><br />初代江尻(現 清水)駅<br />駅本屋跡<br /><br />静岡市清水区江尻東3−1<br />東海道本線清水駅江尻口 徒歩7分

    清水-草薙間



    初代江尻(現 清水)駅
    駅本屋跡

    静岡市清水区江尻東3−1
    東海道本線清水駅江尻口 徒歩7分

  • 清水-草薙間<br /><br /><br /><br />旧江尻(現 清水)駅跡<br />旧ホーム神戸方端<br />線路隅スペースが旧ホーム跡<br />当時は相対式ホーム<br /><br />静岡市清水区相生町1−5<br />東海道本線清水駅江尻口 徒歩7分

    清水-草薙間



    旧江尻(現 清水)駅跡
    旧ホーム神戸方端
    線路隅スペースが旧ホーム跡
    当時は相対式ホーム

    静岡市清水区相生町1−5
    東海道本線清水駅江尻口 徒歩7分

  • 清水駅<br /><br /><br /><br />旧江尻(現 清水)駅跡地<br />現在は国道149号線(さつき通り)跨線橋が貫通する。<br />東海道本線跨線橋<br />昭和8年(1933年)開通。<br /><br />静岡市清水区相生町1−5<br />東海道本線清水駅江尻口 徒歩7分

    清水駅



    旧江尻(現 清水)駅跡地
    現在は国道149号線(さつき通り)跨線橋が貫通する。
    東海道本線跨線橋
    昭和8年(1933年)開通。

    静岡市清水区相生町1−5
    東海道本線清水駅江尻口 徒歩7分

  • 清水-草薙間<br /><br /><br /><br />初代江尻(現 清水)駅<br />駅前商店街<br />清水銀座<br />駅は移転しても駅前商店街は残置。<br />

    清水-草薙間



    初代江尻(現 清水)駅
    駅前商店街
    清水銀座
    駅は移転しても駅前商店街は残置。

  • 興津-清水間<br /><br /><br /><br />巴川(ともえがわ)橋梁<br />該橋は、明治22年(1889年)2月1日開通時の橋梁である。<br />全長62m<br />開通時は、英国人技師 チャールズ・A・ポーナル(Carles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に拠る、<br />英國製<br />錬鐡製プレート・ガーダー橋桁18.3m(60ft)×3連<br />が架橋された。<br />興津-静岡間は、明治31年(1898年)12月16日に複線化されたが、新設橋梁は鋼鐡プレートガーダー橋桁で既設橋梁下流側に架橋され、新設橋梁は下り線専用とされ、既設橋梁は上り線専用となった。<br />鉄道開通当時の上り線橋梁は、列車重量化に対応困難と判定され、大正6年(1917年)に国産鋼鐡製プレートガーダー橋桁に架替が実施された。<br /><br />静岡市清水区巴町3−6<br />東海道本線清水駅江尻口 徒歩12分

    興津-清水間



    巴川(ともえがわ)橋梁
    該橋は、明治22年(1889年)2月1日開通時の橋梁である。
    全長62m
    開通時は、英国人技師 チャールズ・A・ポーナル(Carles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に拠る、
    英國製
    錬鐡製プレート・ガーダー橋桁18.3m(60ft)×3連
    が架橋された。
    興津-静岡間は、明治31年(1898年)12月16日に複線化されたが、新設橋梁は鋼鐡プレートガーダー橋桁で既設橋梁下流側に架橋され、新設橋梁は下り線専用とされ、既設橋梁は上り線専用となった。
    鉄道開通当時の上り線橋梁は、列車重量化に対応困難と判定され、大正6年(1917年)に国産鋼鐡製プレートガーダー橋桁に架替が実施された。

    静岡市清水区巴町3−6
    東海道本線清水駅江尻口 徒歩12分

  • 清水-草薙<br /><br /><br /><br />巴川橋梁<br />静岡県は、昭和49年(1974年)7月7日に襲来した七夕台風の為に県下は甚大被害を蒙った。<br />当時の清水市内は、該台風上陸時に高潮と重り、該市中心部は洪水状態が現出した。<br />殊に、該河川が増水状態だった事に加味し、該橋梁橋脚に塵芥類が集引し水流阻流状態を発生させ、付近一帯の家屋は床上浸水状態となった。<br />静岡県は、該台風復旧対策として政府や建設省とも協議し、該河川護岸改修を急ぐと共に、併せて、当時の日本国有鉄道に対し、該橋梁橋脚廃止を提議の是非を問うて来た事から、此れを受け、日本国有鉄道は審議の結果、該橋梁架替を決定し、昭和61年(1986年)に、中間橋脚2本を廃止し、平行ワーレントラス橋桁62.0m×1連に架替た。<br />全長62m<br /><br />静岡市清水区巴町3−6<br />東海道本線清水駅江尻口 徒歩12分

    清水-草薙



    巴川橋梁
    静岡県は、昭和49年(1974年)7月7日に襲来した七夕台風の為に県下は甚大被害を蒙った。
    当時の清水市内は、該台風上陸時に高潮と重り、該市中心部は洪水状態が現出した。
    殊に、該河川が増水状態だった事に加味し、該橋梁橋脚に塵芥類が集引し水流阻流状態を発生させ、付近一帯の家屋は床上浸水状態となった。
    静岡県は、該台風復旧対策として政府や建設省とも協議し、該河川護岸改修を急ぐと共に、併せて、当時の日本国有鉄道に対し、該橋梁橋脚廃止を提議の是非を問うて来た事から、此れを受け、日本国有鉄道は審議の結果、該橋梁架替を決定し、昭和61年(1986年)に、中間橋脚2本を廃止し、平行ワーレントラス橋桁62.0m×1連に架替た。
    全長62m

    静岡市清水区巴町3−6
    東海道本線清水駅江尻口 徒歩12分

  • 清水-草薙間<br /><br /><br /><br />清水跨線橋<br />該橋梁は、静岡鐵道清水市内線用に架橋されたのが嚆矢である。<br />その後、東海道本線上下線列車本数増加、及び、清水駅構内貨物入換の為に踏切閉止時間が長時間に亘る事から、該橋梁を自動車道路を併設拡張させる事に決定し、昭和29年(1954年)に工事を開始し、翌昭和30年(1955年)10月に竣工した。<br />後に、昭和49年(1974年)7月7日に襲来した台風が原因で清水市内線は廃止され、廃止路線敷跡に皐月を植えた事から、現在では さつき通り と称されている。

    清水-草薙間



    清水跨線橋
    該橋梁は、静岡鐵道清水市内線用に架橋されたのが嚆矢である。
    その後、東海道本線上下線列車本数増加、及び、清水駅構内貨物入換の為に踏切閉止時間が長時間に亘る事から、該橋梁を自動車道路を併設拡張させる事に決定し、昭和29年(1954年)に工事を開始し、翌昭和30年(1955年)10月に竣工した。
    後に、昭和49年(1974年)7月7日に襲来した台風が原因で清水市内線は廃止され、廃止路線敷跡に皐月を植えた事から、現在では さつき通り と称されている。

  • 清水-草薙間<br /><br /><br /><br />清水跨線橋<br />該橋梁は、静岡鐵道清水市内線用に架橋されたのが嚆矢である。<br />その後、東海道本線上下線列車本数増加、及び、清水駅構内貨物入換の為に踏切閉止時間が長時間に亘る事から、該橋梁を自動車道路を併設拡張させる事に決定し、昭和29年(1954年)に工事を開始し、翌昭和30年(1955年)10月に竣工した。<br />後に、昭和49年(1974年)7月7日に襲来した台風が原因で清水市内線は廃止され、廃止路線敷跡に皐月を植えた事から、現在では さつき通り と称されている。

    清水-草薙間



    清水跨線橋
    該橋梁は、静岡鐵道清水市内線用に架橋されたのが嚆矢である。
    その後、東海道本線上下線列車本数増加、及び、清水駅構内貨物入換の為に踏切閉止時間が長時間に亘る事から、該橋梁を自動車道路を併設拡張させる事に決定し、昭和29年(1954年)に工事を開始し、翌昭和30年(1955年)10月に竣工した。
    後に、昭和49年(1974年)7月7日に襲来した台風が原因で清水市内線は廃止され、廃止路線敷跡に皐月を植えた事から、現在では さつき通り と称されている。

  • 清水-草薙間<br /><br /><br /><br />清水跨線橋<br />該橋梁は、静岡鐵道清水市内線用に架橋されたのが嚆矢である。<br />その後、東海道本線上下線列車本数増加、及び、清水駅構内貨物入換の為に踏切閉止時間が長時間に亘る事から、該橋梁を自動車道路を併設拡張させる事に決定し、昭和29年(1954年)に工事を開始し、翌昭和30年(1955年)10月に竣工した。<br />後に、昭和49年(1974年)7月7日に襲来した台風が原因で清水市内線は廃止され、廃止路線敷跡に皐月を植えた事から、現在では さつき通り と称されている。

    清水-草薙間



    清水跨線橋
    該橋梁は、静岡鐵道清水市内線用に架橋されたのが嚆矢である。
    その後、東海道本線上下線列車本数増加、及び、清水駅構内貨物入換の為に踏切閉止時間が長時間に亘る事から、該橋梁を自動車道路を併設拡張させる事に決定し、昭和29年(1954年)に工事を開始し、翌昭和30年(1955年)10月に竣工した。
    後に、昭和49年(1974年)7月7日に襲来した台風が原因で清水市内線は廃止され、廃止路線敷跡に皐月を植えた事から、現在では さつき通り と称されている。

  • 清水-草薙間<br /><br /><br /><br />並走区間<br />元追分(もとおいわけ)踏切<br />昭和25年(1950年)3月28日に現場付近で上り貨物列車が脱線転覆する事故現場付近。<br /><br />静岡市清水区追分2−12−1<br />静岡鉄道静清本線桜岡駅 徒歩8分

    清水-草薙間



    並走区間
    元追分(もとおいわけ)踏切
    昭和25年(1950年)3月28日に現場付近で上り貨物列車が脱線転覆する事故現場付近。

    静岡市清水区追分2−12−1
    静岡鉄道静清本線桜岡駅 徒歩8分

  • 清水-草薙間<br /><br /><br /><br />並走区間<br />元追分(もとおいわけ)踏切<br />該付近で東海道本線貫通の為に静岡鉄道静清本線に線路を接続させた。<br /><br />静岡市清水区追分2−12−1<br />静岡鉄道静清本線桜岡駅 徒歩8分

    清水-草薙間



    並走区間
    元追分(もとおいわけ)踏切
    該付近で東海道本線貫通の為に静岡鉄道静清本線に線路を接続させた。

    静岡市清水区追分2−12−1
    静岡鉄道静清本線桜岡駅 徒歩8分

  • 清水-草薙間<br /><br /><br /><br />大沢川(おおさわかわ)橋梁<br />該線に於いて、浜名湖、及び、琵琶湖に流入する河川は例外とし、海岸部至近地に存在しながら下り線側が上流域と云う河川は珍しい存在である。<br /><br />静岡市清水区大坪1−1−1<br />静岡鉄道静清本線桜岡駅徒歩10分

    清水-草薙間



    大沢川(おおさわかわ)橋梁
    該線に於いて、浜名湖、及び、琵琶湖に流入する河川は例外とし、海岸部至近地に存在しながら下り線側が上流域と云う河川は珍しい存在である。

    静岡市清水区大坪1−1−1
    静岡鉄道静清本線桜岡駅徒歩10分

  • 清水-草薙間<br /><br /><br /><br />大沢川橋梁<br />下り線橋台は開通当時の原型。<br />現在の橋桁は第3代目で昭和58年(1983年)日立造船神奈川工場製

    清水-草薙間



    大沢川橋梁
    下り線橋台は開通当時の原型。
    現在の橋桁は第3代目で昭和58年(1983年)日立造船神奈川工場製

  • 清水-草薙間<br /><br /><br /><br />並走区間<br />追分踏切<br /><br />静岡市清水区有東坂6<br />静岡鉄道静清本線狐ケ崎駅 徒歩5分

    清水-草薙間



    並走区間
    追分踏切

    静岡市清水区有東坂6
    静岡鉄道静清本線狐ケ崎駅 徒歩5分

  • 清水-草薙間<br /><br /><br /><br />並走区間<br />狐ケ崎駅

    清水-草薙間



    並走区間
    狐ケ崎駅

    狐ケ崎駅

  • 清水-草薙間<br /><br /><br /><br />並走区間<br /><br />静岡市清水区吉川1−11<br />静岡鉄道静清本線狐ケ崎駅 徒歩1分

    清水-草薙間



    並走区間

    静岡市清水区吉川1−11
    静岡鉄道静清本線狐ケ崎駅 徒歩1分

    狐ケ崎駅

  • 清水-草薙間<br /><br /><br /><br />並走区間<br />脱線転覆事故の代替接続終了区間。<br /><br />静岡市清水区吉川1−11<br />静岡鉄道静清本線狐ケ崎駅 徒歩1分

    清水-草薙間



    並走区間
    脱線転覆事故の代替接続終了区間。

    静岡市清水区吉川1−11
    静岡鉄道静清本線狐ケ崎駅 徒歩1分

    狐ケ崎駅

  • 草薙(くさなぎ)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、大正15年(1926年)4月3日開業である。<br />即ち、内閣鐵道院は我が国と欧州連絡を主目的とした特別急行列車運転を計画し、該列車運転を明治45年(1912年)6月を予定していたが、当時の複線区間に於ける最新保安装置は双信閉塞式であり、停車場間に於いて1本列車しか運転可能では無く、当時は江尻(現 清水)-静岡間10.8kmに途中停車場が存在しなかった事から、該閉塞区間を2分割し列車増発を可能とさせるべく、明治44年(1911年)4月10日附で設置された草薙信号所が該駅嚆矢である。<br />然るに、該信号所設置箇所たる安倍郡有度村から見れば、停車列車こそ存在しない特殊信号所でありながら、村民からすれば列車を停車させ客扱させれば此の上も無く便利な存在であり、鐵道院、鐵道省に対し再三に亘り駅昇格請願を提出し、大正13年(1924年)になり数次目の請願が受理された。<br />駅昇格にあたり駅本屋は神戸方0.1km地点に設置されたが、該時は旅客扱に限定され、貨物取扱は実施されなかったが、地元で土地買収を行い鐵道省に無償提供した事で構内拡張が可能になり、該拡張工事が完了した昭和5年(1930年)3月1日より貨物取扱が開始された。

    草薙(くさなぎ)駅



    該駅は、大正15年(1926年)4月3日開業である。
    即ち、内閣鐵道院は我が国と欧州連絡を主目的とした特別急行列車運転を計画し、該列車運転を明治45年(1912年)6月を予定していたが、当時の複線区間に於ける最新保安装置は双信閉塞式であり、停車場間に於いて1本列車しか運転可能では無く、当時は江尻(現 清水)-静岡間10.8kmに途中停車場が存在しなかった事から、該閉塞区間を2分割し列車増発を可能とさせるべく、明治44年(1911年)4月10日附で設置された草薙信号所が該駅嚆矢である。
    然るに、該信号所設置箇所たる安倍郡有度村から見れば、停車列車こそ存在しない特殊信号所でありながら、村民からすれば列車を停車させ客扱させれば此の上も無く便利な存在であり、鐵道院、鐵道省に対し再三に亘り駅昇格請願を提出し、大正13年(1924年)になり数次目の請願が受理された。
    駅昇格にあたり駅本屋は神戸方0.1km地点に設置されたが、該時は旅客扱に限定され、貨物取扱は実施されなかったが、地元で土地買収を行い鐵道省に無償提供した事で構内拡張が可能になり、該拡張工事が完了した昭和5年(1930年)3月1日より貨物取扱が開始された。

    草薙駅

  • 草薙駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />全景

    草薙駅



    駅構内
    全景

    草薙駅

  • 草薙駅<br /><br /><br /><br />旧跨線橋<br />初代駅本屋と共に大正15年(1926年)旅客扱開始時に設置されたが該駅本屋改築工事に伴い解体中。

    草薙駅



    旧跨線橋
    初代駅本屋と共に大正15年(1926年)旅客扱開始時に設置されたが該駅本屋改築工事に伴い解体中。

    草薙駅

  • 草薙駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />東京方<br />俯瞰

    草薙駅



    駅構内
    東京方
    俯瞰

    草薙駅

  • 草薙<br /><br /><br /><br />駅構内<br />仮構内旅客跨線橋

    草薙



    駅構内
    仮構内旅客跨線橋

    草薙駅

  • 草薙<br /><br /><br /><br />駅構内<br />211系近郊型電車

    草薙



    駅構内
    211系近郊型電車

    草薙駅

  • 草薙<br /><br /><br /><br />駅構内<br />第1番ホーム<br />側壁段差

    草薙



    駅構内
    第1番ホーム
    側壁段差

    草薙駅

  • 東静岡(ひがししずおか)駅?<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和37年(1962年)10月1日開業である。<br />大東亜戦争勃発前に策定された東海道本線別線計画、即ち、弾丸列車計画に基き、標準軌採用の新線に対し、狭軌採用の在来線間に於いて、貨物積換施設を要する事から、鐵道省が静岡市長沼地区一帯の土地を買収取得したが、弾丸列車建設計画自体が大東亜戦争熾烈化の為に資材作業員共に不足が深刻化した事で、工事中止となり、該地は戦後は遊休地と化していた。<br />然るに、昭和33年(1958年)12月19日に東海道新幹線工事が承認され、翌昭和34年(1959年)4月20日工事着工となった事から、新幹線静岡駅用地を捻出させる必要が生じ、該駅海側に存在した機関区、及び、客貨車区、貨物取扱施設の一部を移転させる事と、静岡に初めて電車配置が決定した事から、該遊休地を活用が決定され、東海道本線貨車方向別区分拠点として、該地に、静岡操車場、及び、静岡運転所が設置されたのが嚆矢である。<br /><br />静岡市葵区大黒坪346<br />静岡鉄道静清本線古庄駅 徒歩4分

    東静岡(ひがししずおか)駅?



    該駅は、昭和37年(1962年)10月1日開業である。
    大東亜戦争勃発前に策定された東海道本線別線計画、即ち、弾丸列車計画に基き、標準軌採用の新線に対し、狭軌採用の在来線間に於いて、貨物積換施設を要する事から、鐵道省が静岡市長沼地区一帯の土地を買収取得したが、弾丸列車建設計画自体が大東亜戦争熾烈化の為に資材作業員共に不足が深刻化した事で、工事中止となり、該地は戦後は遊休地と化していた。
    然るに、昭和33年(1958年)12月19日に東海道新幹線工事が承認され、翌昭和34年(1959年)4月20日工事着工となった事から、新幹線静岡駅用地を捻出させる必要が生じ、該駅海側に存在した機関区、及び、客貨車区、貨物取扱施設の一部を移転させる事と、静岡に初めて電車配置が決定した事から、該遊休地を活用が決定され、東海道本線貨車方向別区分拠点として、該地に、静岡操車場、及び、静岡運転所が設置されたのが嚆矢である。

    静岡市葵区大黒坪346
    静岡鉄道静清本線古庄駅 徒歩4分

  • 東静岡(ひがししずおか)駅?<br /><br /><br /><br />該駅は、平成10年(1998年)10月30日開業である。<br />因みに、嘗て、昭和42年(1967年)10月1日開設の貨物取扱専用駅に同名駅?が存在したが、該駅は、平成5年(1993年)3月18日附で静岡市駿河区池田に移転時に静岡貨物駅に改称された。<br />該駅?開設にあたり、新駅名を 静岡新都心、若しくは、静岡副都心とでも命名すれば良かったとも思えるが、最終決定駅名が東静岡とは、如何にも保守性強い名古屋と言う土地柄に本拠地を有する企業を色濃く反映した東海旅客鉄道ならではである。

    東静岡(ひがししずおか)駅?



    該駅は、平成10年(1998年)10月30日開業である。
    因みに、嘗て、昭和42年(1967年)10月1日開設の貨物取扱専用駅に同名駅?が存在したが、該駅は、平成5年(1993年)3月18日附で静岡市駿河区池田に移転時に静岡貨物駅に改称された。
    該駅?開設にあたり、新駅名を 静岡新都心、若しくは、静岡副都心とでも命名すれば良かったとも思えるが、最終決定駅名が東静岡とは、如何にも保守性強い名古屋と言う土地柄に本拠地を有する企業を色濃く反映した東海旅客鉄道ならではである。

    東静岡駅

  • 東静岡駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />北口

    東静岡駅



    駅本屋
    北口

    東静岡駅

  • 東静岡駅<br /><br /><br /><br /><br />駅本屋<br />南口

    東静岡駅




    駅本屋
    南口

    東静岡駅

  • 静岡(しずおか)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />該駅は、明治22年(1889年)2月1日開業である。<br />該駅設置箇所は、元来、小丘陵が存在し、既に人口密集地でありながら該地のみ人家が少なかった事から停車場候補地として採択された。<br />それ故、該小丘陵を取崩し撤去する為に、現地に於いて人夫を雇用し該作業を行っていた処、或る日、崩壊事故が発生し死傷者数名が生じた。<br />因みに、該小丘陵残部は東海道本線静岡市内高架化工事着工時まで、寶台院跨線橋付近に残存していたが、該工事着工時に完全撤去された。<br />該駅開業当日は、國府津-静岡間開通と云う事で、盛大な開通式典が予定されていた為に、該開通式典招待者は、前日まで来静し、該駅前に移転新築された西洋式旅館 大東館に参集宿泊していた。<br />旧東海道筋府中宿に於いて江戸期より営業してた旅籠の大萬屋、及び、東萬屋が存在した。<br />然るに、明治維新と共に、全国各地に存在した関所は撤廃されたが、他方、横濱-神戸間に蒸気船が定期運航を開始した事から、旅行者は東西間を該蒸気船を利用して移動する時代となり、旧東海道筋を徒歩で移動する者など絶滅してしまった為に、各宿場は閑古鳥鳴く閑散とした状態になった。<br />此の為に、鉄道開通の情報を得た大萬屋、東萬屋は、将来に於ける生存策として、両者が合体し駅前に移転したもので、合体後に両者の頭文字を用い大東館と称した。<br />然し、開通式を翌日に控えた深更、一番町焼芋屋から火事が発生し、約1100戸が焼失する明治22年静岡大火が発生した。<br />該大火の為に、当時の静岡縣知事 関口隆吉(せきぐち たかよし)(天保7年(1836年)10月26日〜明治22年(1889年)5月17日)(明治17年(1883年)9月2日〜明治22年(1889年)5月17日在任)は、自ら陣頭指揮を執り、該大火被災者に対し、縣臨時予算を以って対処すると共に、該駅前に於いて盛大に行う予定だった開通式典は、該駅ホームに於いて周囲を幕を張巡らせた内部に於いて少数の関係者参加の下に厳かに執行させ、当日出席者に配布する予定だった幕ノ内弁当、紅白饅頭、餅類は見舞品として被災者達に配布させた。<br />因みに、当時の逓信省鐵道局長官 井上 勝(いのうえ まさる)(天保14年(1843年)8月25日〜明治43年(1910年)8月2日)(明治18年(1885年)12月28日〜明治23年(1870年)9月6日在任)が、該大火の報を受け来静中止をしたかの如き文献を散見するが、事実は開通式典に参列する為に、前日に東京から来静し大東館に宿泊している事が、国立国会図書館憲政資料室保存の 井上 勝 関係文書に拠り記述が存在すし、但し、該大火に遠慮して開通式典に出席しなかったと言うのが、けだし真相であり、井上が来静していなかったとする文献は全部事実無根である。<br />尚、開通式当日は、県内御殿場町に於いても大火が発生しており、県庁所在地への鉄道開通と云う日として幸先良い門出とはお世辞にも言えぬ1日だった。<br />該地に、明治31年(1898年)3月24日附で、帝國陸軍第3師団配下として歩兵第34連帯が設置され、軍都としての側面を見せる様になる。<br />更に、明治33年(1900年)に静岡御用邸が設置された。<br />第122代 明治天皇(めいじ てんのう)(嘉永5年(1852年)11月3日〜明治45年(1912年)7月30日)は、東京-京阪神間移動に対し、東海道線全通前は帝國海軍所属艦艇を利用していたが、紀伊半島沖を経由し海上を航行する事から動揺激しく、明治天皇が船酔いし易い体質だった事もあり、該線全通後は鉄道利用に移行された。<br />然るに、当時の列車速度は御召列車と云えども遅く、新橋-京都間が日着困難なだけでは無く新橋-静岡間は6時間を要し、明治39年(1906年)4月1日より新橋-神戸間に1、2等最急行列車が運転開始されたが、該列車は新橋8時発神戸21時40分着で、当時とすれば最速だったとは申せ、運転時間に13時間40分を要しており、東京横濱対京阪神間が日着可能になったとは申せ、該運転速度を御召列車に対し適用させるには無理があった。<br />また、現在とは異なり、線路状態も貧弱で良好では無かった事から列車走行中の動揺も激しく、御召列車御料車内に於いて食事供与は無理が多く、途中休養の為に、静岡、及び、名古屋に御用邸が設置された。<br />御召列車が新橋を出発し静岡まで運転後、天皇、及び、随員共に御召列車から下車して頂き、該御用邸内に於いて食事休憩後、再度御乗車される迄、御召列車整備が行われた。<br />然し、初代駅本屋は貴賓接受設備が存在せず御召列車取扱上不便な事や手狭になった事などを理由に、逓信省鐵道作業局は該駅本屋改築を決定し、明治40年(1907年)10月に第2代木造2階建駅本屋が竣工した。<br />大正後期ともなると列車速度が向上し、更に、昭和初期に東京-大阪間8時間30分運転が可能になった事で日着が可能になった反面、相対的に該御用邸利用は激減し、第124代 昭和天皇(しょうわ てんのう)(明治34年(1901年)4月29日〜昭和64年(1989年)4月29日)が昭和5年(1930年)に、該県内に於いて実施された 帝國陸軍大演習の際に宿泊されたのを最後に利用が無くなり、今後の利用も見込めないと判断された事から、宮内省は検討した結果、該御用邸廃止を決定し、翌昭和6年(1931年)に正式廃止となった。<br />廃止後は静岡県が管理したが、翌昭和7年(1932年)に静岡市に払下られ、該市では市民の為に有効活用していたが、昭和20年(1945年)6月19日未明の静岡大空襲で被災し邸内造営物は全焼し烏有に帰した。<br />戦後、跡地に静岡市役所が建設されたが、駅前から市役所までの通りを 御幸通の名称が、嘗て該地に御用邸が存在していた痕跡を残す。<br />昭和期になり、激増する旅客を前に、該駅施設不足が深刻な状態になり、鐵道省は検討の結果、該駅本屋を再改築する事になり、昭和10年(1935年)10月10日附で、鉄骨鉄筋コンクリート2階建 第3代駅本屋が竣工した。<br />明治期以降、該地に火事が多発した事は前述した。<br />昭和15年(1940年)1月15日12時30分頃、市内新富町から出火した火事は該日まで40数日間晴天が続き、且つ、当日は駿河湾から吹く強季節風の為に、火は瞬く間に燃広がり、市内中心部を焼失させ、更に、東海道本線敷を越え南側を延焼させ約10時間後に鎮火した。<br />該火災に依り全焼5047戸、半焼74戸、市民28156名が罹災する昭和15年静岡大火が発生した。<br />該大火の為に、5年前に新築した該駅本屋が半焼し、該駅構内木造建造物数戸が全焼し、更に、信号回線焼失の為に、該大火発生後24時間は上下線共に列車運行が不可能になった。<br />日華事変(にっか じへん)(昭和12年(1937年)7月7日〜昭和16年(1941年)12月8日)勃発以降、該市は軍事拠点の中枢と位置附られた事から、大東亜戦争末期には連合国軍から空爆攻撃の対象地とされ、該市は、昭和20年(1945年)6月19日未明に米戦略大部隊に依る大規模空襲を受けた。<br />該空襲に依り、死者1670名、重傷者約800名、全焼家屋25239戸、罹災市民114000名を出す被害が発生したが、他方、該駅構内被害は、駅本屋が半焼損し、木造建造物が多数焼失した。<br />該駅南側は、該駅開業以来、静岡機関区、及び、静岡客貨車区が併設されていたが、懸案だった東海道新幹線建設が決定し、該駅停車場追設用地を要する事から、該機関区、及び、該客貨車区移転が決定し、両現業機関を統合の上、該市内長沼地区に移転させ、昭和36年(1961年)10月1日附で、新たに、静岡運転所が開所され、移転後の跡地に新幹線停車場が設置された。<br />該市内は、該線が東西に地上縦断する為に、該市内は南北間に於いて切断された形態が続き、踏切開扉時間が僅少で交通渋滞の要因と化していた事から、該駅を中心とする東西間を高架化し解決させる事に決定し、その為に、東静岡操車場に貨物取扱施設を設置して該取扱を移行させる為に、昭和42年(1967年)9月30日を以って該駅に於ける貨物取扱は全廃した。<br />第3代駅本屋は、昭和15年(1940年)1月15日静岡大火、及び、昭和20年(1945年)6月19日静岡大空襲に於いて、一部施設焼損被害こそ発生したが、該市内中心部に於ける昭和15年(1940年)以前に建築された数少ない現存建築物として貴重な存在だったが、該線高架化工事の支障物となる事から解体が決定し、該方針に依り、昭和48年(1973年)に解体された。<br />高架化工事は予定通り進行し、下り線が昭和52年(1977年)10月、上り線が昭和54年(1979年)10月12日に切替られた。<br />第4代駅本屋は、該高架化工事完成後に着手され、昭和56年(1981年)10月8日に商業複合施設パルシェとして竣工した。<br />更に、継続事業として該駅北口駅前広場整備が進められ、該工事は、昭和58年(1983年)3月24日に完成し、現在の姿になった。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/shizuoka/

    静岡(しずおか)駅



    駅本屋
    該駅は、明治22年(1889年)2月1日開業である。
    該駅設置箇所は、元来、小丘陵が存在し、既に人口密集地でありながら該地のみ人家が少なかった事から停車場候補地として採択された。
    それ故、該小丘陵を取崩し撤去する為に、現地に於いて人夫を雇用し該作業を行っていた処、或る日、崩壊事故が発生し死傷者数名が生じた。
    因みに、該小丘陵残部は東海道本線静岡市内高架化工事着工時まで、寶台院跨線橋付近に残存していたが、該工事着工時に完全撤去された。
    該駅開業当日は、國府津-静岡間開通と云う事で、盛大な開通式典が予定されていた為に、該開通式典招待者は、前日まで来静し、該駅前に移転新築された西洋式旅館 大東館に参集宿泊していた。
    旧東海道筋府中宿に於いて江戸期より営業してた旅籠の大萬屋、及び、東萬屋が存在した。
    然るに、明治維新と共に、全国各地に存在した関所は撤廃されたが、他方、横濱-神戸間に蒸気船が定期運航を開始した事から、旅行者は東西間を該蒸気船を利用して移動する時代となり、旧東海道筋を徒歩で移動する者など絶滅してしまった為に、各宿場は閑古鳥鳴く閑散とした状態になった。
    此の為に、鉄道開通の情報を得た大萬屋、東萬屋は、将来に於ける生存策として、両者が合体し駅前に移転したもので、合体後に両者の頭文字を用い大東館と称した。
    然し、開通式を翌日に控えた深更、一番町焼芋屋から火事が発生し、約1100戸が焼失する明治22年静岡大火が発生した。
    該大火の為に、当時の静岡縣知事 関口隆吉(せきぐち たかよし)(天保7年(1836年)10月26日〜明治22年(1889年)5月17日)(明治17年(1883年)9月2日〜明治22年(1889年)5月17日在任)は、自ら陣頭指揮を執り、該大火被災者に対し、縣臨時予算を以って対処すると共に、該駅前に於いて盛大に行う予定だった開通式典は、該駅ホームに於いて周囲を幕を張巡らせた内部に於いて少数の関係者参加の下に厳かに執行させ、当日出席者に配布する予定だった幕ノ内弁当、紅白饅頭、餅類は見舞品として被災者達に配布させた。
    因みに、当時の逓信省鐵道局長官 井上 勝(いのうえ まさる)(天保14年(1843年)8月25日〜明治43年(1910年)8月2日)(明治18年(1885年)12月28日〜明治23年(1870年)9月6日在任)が、該大火の報を受け来静中止をしたかの如き文献を散見するが、事実は開通式典に参列する為に、前日に東京から来静し大東館に宿泊している事が、国立国会図書館憲政資料室保存の 井上 勝 関係文書に拠り記述が存在すし、但し、該大火に遠慮して開通式典に出席しなかったと言うのが、けだし真相であり、井上が来静していなかったとする文献は全部事実無根である。
    尚、開通式当日は、県内御殿場町に於いても大火が発生しており、県庁所在地への鉄道開通と云う日として幸先良い門出とはお世辞にも言えぬ1日だった。
    該地に、明治31年(1898年)3月24日附で、帝國陸軍第3師団配下として歩兵第34連帯が設置され、軍都としての側面を見せる様になる。
    更に、明治33年(1900年)に静岡御用邸が設置された。
    第122代 明治天皇(めいじ てんのう)(嘉永5年(1852年)11月3日〜明治45年(1912年)7月30日)は、東京-京阪神間移動に対し、東海道線全通前は帝國海軍所属艦艇を利用していたが、紀伊半島沖を経由し海上を航行する事から動揺激しく、明治天皇が船酔いし易い体質だった事もあり、該線全通後は鉄道利用に移行された。
    然るに、当時の列車速度は御召列車と云えども遅く、新橋-京都間が日着困難なだけでは無く新橋-静岡間は6時間を要し、明治39年(1906年)4月1日より新橋-神戸間に1、2等最急行列車が運転開始されたが、該列車は新橋8時発神戸21時40分着で、当時とすれば最速だったとは申せ、運転時間に13時間40分を要しており、東京横濱対京阪神間が日着可能になったとは申せ、該運転速度を御召列車に対し適用させるには無理があった。
    また、現在とは異なり、線路状態も貧弱で良好では無かった事から列車走行中の動揺も激しく、御召列車御料車内に於いて食事供与は無理が多く、途中休養の為に、静岡、及び、名古屋に御用邸が設置された。
    御召列車が新橋を出発し静岡まで運転後、天皇、及び、随員共に御召列車から下車して頂き、該御用邸内に於いて食事休憩後、再度御乗車される迄、御召列車整備が行われた。
    然し、初代駅本屋は貴賓接受設備が存在せず御召列車取扱上不便な事や手狭になった事などを理由に、逓信省鐵道作業局は該駅本屋改築を決定し、明治40年(1907年)10月に第2代木造2階建駅本屋が竣工した。
    大正後期ともなると列車速度が向上し、更に、昭和初期に東京-大阪間8時間30分運転が可能になった事で日着が可能になった反面、相対的に該御用邸利用は激減し、第124代 昭和天皇(しょうわ てんのう)(明治34年(1901年)4月29日〜昭和64年(1989年)4月29日)が昭和5年(1930年)に、該県内に於いて実施された 帝國陸軍大演習の際に宿泊されたのを最後に利用が無くなり、今後の利用も見込めないと判断された事から、宮内省は検討した結果、該御用邸廃止を決定し、翌昭和6年(1931年)に正式廃止となった。
    廃止後は静岡県が管理したが、翌昭和7年(1932年)に静岡市に払下られ、該市では市民の為に有効活用していたが、昭和20年(1945年)6月19日未明の静岡大空襲で被災し邸内造営物は全焼し烏有に帰した。
    戦後、跡地に静岡市役所が建設されたが、駅前から市役所までの通りを 御幸通の名称が、嘗て該地に御用邸が存在していた痕跡を残す。
    昭和期になり、激増する旅客を前に、該駅施設不足が深刻な状態になり、鐵道省は検討の結果、該駅本屋を再改築する事になり、昭和10年(1935年)10月10日附で、鉄骨鉄筋コンクリート2階建 第3代駅本屋が竣工した。
    明治期以降、該地に火事が多発した事は前述した。
    昭和15年(1940年)1月15日12時30分頃、市内新富町から出火した火事は該日まで40数日間晴天が続き、且つ、当日は駿河湾から吹く強季節風の為に、火は瞬く間に燃広がり、市内中心部を焼失させ、更に、東海道本線敷を越え南側を延焼させ約10時間後に鎮火した。
    該火災に依り全焼5047戸、半焼74戸、市民28156名が罹災する昭和15年静岡大火が発生した。
    該大火の為に、5年前に新築した該駅本屋が半焼し、該駅構内木造建造物数戸が全焼し、更に、信号回線焼失の為に、該大火発生後24時間は上下線共に列車運行が不可能になった。
    日華事変(にっか じへん)(昭和12年(1937年)7月7日〜昭和16年(1941年)12月8日)勃発以降、該市は軍事拠点の中枢と位置附られた事から、大東亜戦争末期には連合国軍から空爆攻撃の対象地とされ、該市は、昭和20年(1945年)6月19日未明に米戦略大部隊に依る大規模空襲を受けた。
    該空襲に依り、死者1670名、重傷者約800名、全焼家屋25239戸、罹災市民114000名を出す被害が発生したが、他方、該駅構内被害は、駅本屋が半焼損し、木造建造物が多数焼失した。
    該駅南側は、該駅開業以来、静岡機関区、及び、静岡客貨車区が併設されていたが、懸案だった東海道新幹線建設が決定し、該駅停車場追設用地を要する事から、該機関区、及び、該客貨車区移転が決定し、両現業機関を統合の上、該市内長沼地区に移転させ、昭和36年(1961年)10月1日附で、新たに、静岡運転所が開所され、移転後の跡地に新幹線停車場が設置された。
    該市内は、該線が東西に地上縦断する為に、該市内は南北間に於いて切断された形態が続き、踏切開扉時間が僅少で交通渋滞の要因と化していた事から、該駅を中心とする東西間を高架化し解決させる事に決定し、その為に、東静岡操車場に貨物取扱施設を設置して該取扱を移行させる為に、昭和42年(1967年)9月30日を以って該駅に於ける貨物取扱は全廃した。
    第3代駅本屋は、昭和15年(1940年)1月15日静岡大火、及び、昭和20年(1945年)6月19日静岡大空襲に於いて、一部施設焼損被害こそ発生したが、該市内中心部に於ける昭和15年(1940年)以前に建築された数少ない現存建築物として貴重な存在だったが、該線高架化工事の支障物となる事から解体が決定し、該方針に依り、昭和48年(1973年)に解体された。
    高架化工事は予定通り進行し、下り線が昭和52年(1977年)10月、上り線が昭和54年(1979年)10月12日に切替られた。
    第4代駅本屋は、該高架化工事完成後に着手され、昭和56年(1981年)10月8日に商業複合施設パルシェとして竣工した。
    更に、継続事業として該駅北口駅前広場整備が進められ、該工事は、昭和58年(1983年)3月24日に完成し、現在の姿になった。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/shizuoka/

    静岡駅

  • 静岡駅

  • 静岡駅<br /><br /><br /><br />南口

    静岡駅



    南口

    静岡駅

  • 静岡駅<br /><br /><br /><br />南口と静岡支社

    静岡駅



    南口と静岡支社

    静岡駅

  • 静岡駅<br /><br /><br /><br />東海旅客鉄道静岡支社

    静岡駅



    東海旅客鉄道静岡支社

    静岡駅

  • 静岡駅

    静岡駅

    静岡駅

  • 静岡駅<br /><br /><br /><br />御幸通<br /><br />静岡市葵区御幸町10−2<br />東海道本線静岡駅北口 徒歩1分<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/higashi-shizuoka/index.html

    静岡駅



    御幸通

    静岡市葵区御幸町10−2
    東海道本線静岡駅北口 徒歩1分
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/higashi-shizuoka/index.html

  • 静岡駅<br /><br /><br /><br />御幸通り<br /><br />静岡市葵区御幸町9<br />東海道本線静岡駅北口 徒歩2分

    静岡駅



    御幸通り

    静岡市葵区御幸町9
    東海道本線静岡駅北口 徒歩2分

  • 静岡御用邸跡<br /><br /><br /><br />現 静岡市役所葵区役所<br />明治22年(1889年)に東海道本線開通後、天皇をはじめとする皇室御一家は東京-京阪神間往来を、従来の軍艦利用から漸次鉄道利用に転移されたが、当時は運転速度も遅く、且つ、軌道状態や台車構造から動揺振動も著しい事から、車内での食事供与は困難であり、御召列車運転時は、朝新橋を出発され静岡で休憩昼食を摂って頂く間に車輌整備を行い、改めて西向され名古屋で宿泊されるを慣例とされた。<br />然るに、大正後期ともなると軌道状態は向上し、TR73型3軸ボギー台車が開発され車輌動揺も軽減化されて来た事から、同時に高速運転が可能になり、8時間程度で東京-京都間日着も可能になった事で、該御用邸利用が低下し、昭和5年(1930年)に昭和天皇(しょうわ てんのう)(明治34年(1901年)4月29日〜昭和64年(1989年)1月7日)が該県内御巡幸時に利用されたのを最後に、今後の利用も見込めない事から廃止され静岡縣に払下げられた。<br /><br />静岡市葵区追手町5−1<br />東海道本線静岡駅北口 しずてつジャストライン県庁静岡市役所葵区役所前停留所降車 徒歩30秒

    静岡御用邸跡



    現 静岡市役所葵区役所
    明治22年(1889年)に東海道本線開通後、天皇をはじめとする皇室御一家は東京-京阪神間往来を、従来の軍艦利用から漸次鉄道利用に転移されたが、当時は運転速度も遅く、且つ、軌道状態や台車構造から動揺振動も著しい事から、車内での食事供与は困難であり、御召列車運転時は、朝新橋を出発され静岡で休憩昼食を摂って頂く間に車輌整備を行い、改めて西向され名古屋で宿泊されるを慣例とされた。
    然るに、大正後期ともなると軌道状態は向上し、TR73型3軸ボギー台車が開発され車輌動揺も軽減化されて来た事から、同時に高速運転が可能になり、8時間程度で東京-京都間日着も可能になった事で、該御用邸利用が低下し、昭和5年(1930年)に昭和天皇(しょうわ てんのう)(明治34年(1901年)4月29日〜昭和64年(1989年)1月7日)が該県内御巡幸時に利用されたのを最後に、今後の利用も見込めない事から廃止され静岡縣に払下げられた。

    静岡市葵区追手町5−1
    東海道本線静岡駅北口 しずてつジャストライン県庁静岡市役所葵区役所前停留所降車 徒歩30秒

    静岡市役所本館 (静岡庁舎) 名所・史跡

  • 東海軒(とうかいけん)<br /><br /><br /><br />本社<br />該店は、該駅設置工事時に工事関係者に対する弁当飲食に便宜を諮った加藤龍蔵に対し、明治22年(1889年)12月に該駅構内に於ける元売販売営業許可を得て創業した弁当販売を主とする企業である。<br />該時点より弁当、及び土瓶茶販売を開始した。<br />翌明治23年(1890年)からは静岡丸子宿名物だった 安倍川餅(あべかわもち)販売を行った。<br />即ち、該餅は近世代より東海道筋往還内に於ける名物として、旅行者に知られた餅菓子だった。<br />然るに、明治期以降、横濱港-神戸港間に汽船航路が就航した事で、該街道筋往還者が激減した為に、一時は衰潮の状態下に在った。<br />加藤は、該餅菓子を該線利用者が土産として販売可能とすべく、黄粉をまぶした餅を求肥に代え保存可能な形態に変化させ販売に踏切った。<br />更に、明治24年(1891年)には、山葵漬を販売開始した。<br />山葵漬は、本来、江戸期には存在しない食品である。<br />然し、該鉄道開通うに依り、該線利用者への土産品として考案され、特に、田丸屋が丸型容器を開発した事で、持運びが容易になった為に、此れ以降、静岡名物として爆発的販売商品となった物である。<br />創業当時は加藤弁当部と称したが、明治34年(1901年)に三盛軒に社名改称し、更に、大正3年(1914年)に現社名に再改称した。<br />旧汐留駅構内発掘調査、及び、旧神戸駅構内発掘調査時に、静岡志つをか、しつをか、志つをか、等々の銘名を有する汽車土瓶が出土しており、此れらは該店が販売したものと推定される。<br /><br />静岡市葵区登呂6−5−35<br />?: 054−287−5171<br />東海道本線静岡駅南口 静鉄ジャストライン石田街道線登呂遺跡入口停留所降車 徒歩4分<br />http://www.tokaiken.jp/

    東海軒(とうかいけん)



    本社
    該店は、該駅設置工事時に工事関係者に対する弁当飲食に便宜を諮った加藤龍蔵に対し、明治22年(1889年)12月に該駅構内に於ける元売販売営業許可を得て創業した弁当販売を主とする企業である。
    該時点より弁当、及び土瓶茶販売を開始した。
    翌明治23年(1890年)からは静岡丸子宿名物だった 安倍川餅(あべかわもち)販売を行った。
    即ち、該餅は近世代より東海道筋往還内に於ける名物として、旅行者に知られた餅菓子だった。
    然るに、明治期以降、横濱港-神戸港間に汽船航路が就航した事で、該街道筋往還者が激減した為に、一時は衰潮の状態下に在った。
    加藤は、該餅菓子を該線利用者が土産として販売可能とすべく、黄粉をまぶした餅を求肥に代え保存可能な形態に変化させ販売に踏切った。
    更に、明治24年(1891年)には、山葵漬を販売開始した。
    山葵漬は、本来、江戸期には存在しない食品である。
    然し、該鉄道開通うに依り、該線利用者への土産品として考案され、特に、田丸屋が丸型容器を開発した事で、持運びが容易になった為に、此れ以降、静岡名物として爆発的販売商品となった物である。
    創業当時は加藤弁当部と称したが、明治34年(1901年)に三盛軒に社名改称し、更に、大正3年(1914年)に現社名に再改称した。
    旧汐留駅構内発掘調査、及び、旧神戸駅構内発掘調査時に、静岡志つをか、しつをか、志つをか、等々の銘名を有する汽車土瓶が出土しており、此れらは該店が販売したものと推定される。

    静岡市葵区登呂6−5−35
    ?: 054−287−5171
    東海道本線静岡駅南口 静鉄ジャストライン石田街道線登呂遺跡入口停留所降車 徒歩4分
    http://www.tokaiken.jp/

    東海軒 コンコース売店 グルメ・レストラン

    東海軒〔駅弁〕 by 横浜臨海公園さん
  • 東海軒<br /><br /><br /><br />本社<br />創業当時は加藤弁当部と称したが、明治34年(1901年)に三盛軒に社名改称し、更に、大正3年(1914年)に現社名に再改称した。<br />旧汐留駅構内発掘調査、及び、旧神戸駅構内発掘調査時に、静岡志つをか、しつをか、志つをか、等々の銘名を有する汽車土瓶が出土しており、此れらは該店が販売したものと推定される。<br /><br />静岡市葵区登呂6−5−35<br />?: 054−287−5171<br />東海道本線静岡駅南口 静鉄ジャストライン石田街道線登呂遺跡入口停留所降車 徒歩4分<br />http://www.tokaiken.jp/about.html

    東海軒



    本社
    創業当時は加藤弁当部と称したが、明治34年(1901年)に三盛軒に社名改称し、更に、大正3年(1914年)に現社名に再改称した。
    旧汐留駅構内発掘調査、及び、旧神戸駅構内発掘調査時に、静岡志つをか、しつをか、志つをか、等々の銘名を有する汽車土瓶が出土しており、此れらは該店が販売したものと推定される。

    静岡市葵区登呂6−5−35
    ?: 054−287−5171
    東海道本線静岡駅南口 静鉄ジャストライン石田街道線登呂遺跡入口停留所降車 徒歩4分
    http://www.tokaiken.jp/about.html

    東海軒 コンコース売店 グルメ・レストラン

    東海軒〔駅弁〕 by 横浜臨海公園さん
  • 東海軒<br /><br /><br /><br />鯛めし弁当<br />明治30年(1897年)に発売開始され現在でも販売される鯛めしは、昭和30年代後半まで、駿河湾産真鯛を食材として使用され、沼津駅構内販売業者 桃中軒の鰻丼と共に美味とされ、東海道線を往来者から、つと知られた存在だった事から、該駅ホームに於いて昼夜を問わず立売販売され、該駅に列車到着と共に、該弁当目当に、弁当立売人に殺到する光景が見られた。<br />特に、夜行列車で1、2等寝台車利用客は家族への土産とする為に、事前に担当列車給仕に鯛めし弁当代金とチップを渡し入手依頼するほど人気が有した名物弁当だった。<br /><br />静岡市葵区登呂6−5−35<br />?: 054−287−5171<br />東海道本線静岡駅南口 静鉄ジャストライン石田街道線登呂遺跡入口停留所降車 徒歩4分<br />http://www.tokaiken.jp/taimeshi.html

    東海軒



    鯛めし弁当
    明治30年(1897年)に発売開始され現在でも販売される鯛めしは、昭和30年代後半まで、駿河湾産真鯛を食材として使用され、沼津駅構内販売業者 桃中軒の鰻丼と共に美味とされ、東海道線を往来者から、つと知られた存在だった事から、該駅ホームに於いて昼夜を問わず立売販売され、該駅に列車到着と共に、該弁当目当に、弁当立売人に殺到する光景が見られた。
    特に、夜行列車で1、2等寝台車利用客は家族への土産とする為に、事前に担当列車給仕に鯛めし弁当代金とチップを渡し入手依頼するほど人気が有した名物弁当だった。

    静岡市葵区登呂6−5−35
    ?: 054−287−5171
    東海道本線静岡駅南口 静鉄ジャストライン石田街道線登呂遺跡入口停留所降車 徒歩4分
    http://www.tokaiken.jp/taimeshi.html

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この旅行記へのコメント (7)

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  • 風 魔さん 2024/02/10 22:27:11
    旅行記へのご訪問を、ありがとうございます!
    横浜臨海公園さま
    こんばんは!
    改めて貴旅行記を読み返してみて、東海道本線の駅名~風景~史跡など失われた
    ものも多くあり懐かしい想い出ばかりです!
    我が家は東海道本線の近くで、当時住宅がほとんどなく、夜間には田畑の間から
    は列車の走る音、明け方の寝台特急の通過音などが聞こえていましたが、
    「新幹線と車社会の進展」とともに生活態様はとても変化してきました!

    すべて社会変化のスピードが早く、まさに「昭和は遠くなりにけり」の心境です!
    我が高校の校歌には、三保の松原~清見潟(清見寺の前面)と歌われていますが、
    その景色も工場群に囲まれて、今では富士山の眺望を電線~人工物を避けて撮影す
    ることも困難な時代になりました!

    ところで私の父は、清水港の港湾荷役の○○組の親方(清水の次郎長のような)
    で焼き玉エンジンの小型船を所有しており、年のはなれた兄は一人で操船して折戸
    湾を横断して三保海岸で、釣りや海水浴をして夏休みを過ごしたものでした!
    当時は国鉄・清水駅から折戸湾沿いに折戸・三保地区まで「清水臨港線」が、運行
    しており海と富士山の景色を望みながらノンビリと乗車したものです。

    またの鉄道旅の訪問と情報交換を!
    風 魔
  • 風 魔さん 2019/12/04 08:13:51
    東海道を西へ下る、旅行誌のようです!
    横浜臨海公園さん
    おはようございます。
    改めて旅行記へ再訪しましたが、より詳しい自分の郷土史を発見する
    ようで敬服いたしました。

    まず東海道本線の電車に乗り、駅間の風景とさらに徒歩による周辺の
    描写と解説など、地元民でも知らない情報提供にとても参考になりま
    した。普段何気なく通っている大沢川、高さ1.7mの鉄橋下の自動車道
    、東海道本線と静岡鉄道線の橋梁の見える巴川の風景など懐かしい気持
    ちです。

    今では殆どの地元民でも知らない、海水浴客のための臨時袖師駅のプラ
    ットホーム跡、明治時代の元勲の過ごした興津の史跡、また時折清見寺
    への墓参りのため利用する東海道本線の上の跨橋(線路が跡で開通した
    ため)などは時間と労力をかけて、丹念に調査、研究しないと完成しな
    い日本の鉄道近代史の旅行記ですね!

    我が街の旧清水市は、平成の大合併で静岡市となり歴史ある町名や雰囲
    気が失われてゆくのは寂しいものがあります。
    貴旅行記により、あらためて郷土を想う懐旧の気持ちになりました。
    私の旅のテーマは、「船と海」そして「清水港と富士山」です。
    またの訪問と情報交換を!

    風 魔

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2019/12/08 11:33:44
    拝復
    風 魔さま、こんにちは。


    拙稿への立寄りと掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    皆さん鉄道に乗られる方は大勢おられますが、では、車窓から見えない所とは何ぞやと考えを巡らす方が実に少なく、各地にコンナものが有ったのかと意外に思われている方が多く、小生も少なからず驚かされております。

    東京や大宮鉄道博物館に建設当時の資料が存在せず、実地で歩いてみて、はじめて気付くことばかりです。
    現存する資料と照合する為に、旅行記作成着手から上程まで、時間を要してしまい、1ヶ月に1作上程できれば上々の状態です。

    清水市は、駅裏が再開発で整備されたのは良かったと思いますが、小生は昔の線路が幾重にも並び、貨車がひっきりなしに動いていた時代の方が清水らしさが感じられて良かったと思います。

    40年前に1度だけ乗車した清水港線は、清水駅乗場は構内踏切を渡り長い通路の先に短いホームが有り、ノンビリとした光景が今でも忘れられません。

    また時間がございましたらお立寄りを賜れば幸甚でございます。




    横浜臨海公園
  • ソンマーイさん 2018/06/23 18:29:20
    田子の浦、地名について
    こんにちは、はじめまして

    東海道線関連の労作を拝見しました。
    このような形で地域の交通関連の近現代史がまとめられるのはありがたいことです。

    眼の状態が十全でなく、すべてに目を通したわけではありませんが、鉄道唱歌関連で田子の浦という地名に言及されておりましたので、気がついたことを書き留めます。

    もとより田子の浦は山部赤人の歌にみられる名所で、ここがどこであるかは、国文学系の万葉学者らも検討されていることと思います。

    反歌 田子の浦ゆ打ち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける

    いま、田口益人の歌二首をもって考えてみたいと思います。

    [題詞]田口益人大夫、任上野國司時、至駿河浄見埼、作歌二首
    296 廬原乃  浄見乃埼乃  見穂之浦乃  寛見乍  物念毛奈信
    廬原の 清見の崎の 三保の浦の ゆたけき見つつ 物思ひもなし 

    297 晝見騰  不飽田兒浦  大王之  命恐  夜見鶴鴨
    昼見れど 飽かぬ田子の浦 大君の 命畏み 夜見つるかも 

    297番歌は、田口益人が天皇の名を受けて任国へ急ぐために、残念なことに夜の間に通り過ぎてしまったことだと解釈されたりします。
    しかし、この二首の歌が万葉集に採録されたのは意味があって、田口益人は国誉め、土地褒めの歌を詠んでいる。大王の命に関わる神事のために夜の浜辺にいるのでしょう。

    田子とは多胡(渡来人)であって、この地域にいた先進的な文化を持った人々を上野の地へ移り住まわせる試みがあったのじゃないかと考えています。

    それはともかくとして、清見が埼、三保の浦と田子の浦が対になって歌われていることから、やはり田子の浦は旧庵原郡の地、三保の砂嘴に囲まれた浦を措定するのが妥当だと考えています。

    富士川以東の吉原-原に新駅を作るときに東田子の浦というとんでもない駅名を設けたことが発端で、潤井川、沼川河口に出来た港の名前が田子の浦港。

    こんなことで、田子の浦がどこであったのか、見えにくくなってしまいました。

    鉄道唱歌作者の大和田建樹の「三保の松原、田子の浦、逆さに映る富士の嶺を波に眺むる舟人は、夏も冬とや思ふらん」という詞は正確だと思います。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2018/06/25 15:07:29
    拝復
    ソンマーイさま、はじめまして。


    此の度は、小生のページにフォローを賜りまして、誠に有難うございました。

    また、掲示板に貴重な御意見を賜りまして、深謝しております。

    該旅行記上程は3年前ですが、飼料蒐集は5年前に実施致しました。
    当時は、静岡県立図書館在籍資料を基に作成を進めたのですが、正直申しまして、鉄道関係、及び、初代静岡県知事 関口隆吉に関する資料に就いて、特に、静岡新聞社出版部から公刊された資料は、傍目で見ても間違いとする箇所が多数散見され、該旅行記上程後に、事実と明らかに異なる記述をした為に、小田原-浜松間各編に就いて、内容更新を開始した次第でございます。

    小生は元々古典には疎いのでうが、それでも、田子の浦とは庵原三保説だと考えておりましたが、該資料を参照した結果、不本意ながら東田子の浦としたもので、その後は、やはり庵原三保説が正当だと考えております。

    原-鈴川(現 吉原)間駅開設では、新駅名に対し、地元意見より、当時の名古屋鉄道局静岡管理部の意見が最優先された様で、地元も余り歴史的知識が希薄だったからこそ、該駅名に落ち着いたのではと考えております。

    若し、地元に歴史的知識があれば、山陽本線朝霧駅開設時に、当時の国鉄は当初は西舞子、次いで、東明石を提示しものの、地元は万葉集にも謳われた地名故に朝霧を押し、結果的に採用された経緯があり、当時の国鉄も結構地元に対する理解があったものと想像されます。


    その為に、もう少しお時間を賜れば、該旅行記の更新作業に着手致しますので、其れ迄は何卒ご容赦の程をお願い申します。




    横浜臨海公園
  • M-koku1さん 2015/05/14 16:48:08
    新旅行記
    横浜臨海公園様

    この旅行記のことですか?
    それとも
    別の旅行記のことですか?

    とりあえずこの旅行記はみれますよ!

    内容はまだよくみていません。
    週末にじっくり拝見させていただきますが、
    へこんでいらっしゃるとお気の毒なので、
    情報としてご連絡いたします。

    Mより

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2015/05/14 17:15:40
    拝復
    M-koku1さま、こんにちは。


    旅行記に投票と掲示板にコメントと賜りまして、誠に有難うございます。

    実は、今回、タイムラインに掲載されていない旅行記とは、
    http://4travel.jp/travelogue/10858815
    でございます。

    作成上の苦労から言えば、本日上程した
    http://4travel.jp/travelogue/10859308
    とは比較にならない程、作成で苦労した内容であり、今日現在もタイムラインに掲載が無く、上程した事を知らぬ方ばかりで、困惑させられております。



    横浜臨海公園

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