戸塚・いずみ野・港南台旅行記(ブログ) 一覧に戻る
該区間は、明治20年(1887年)7月11日開通である。<br />該区間内途中停車場として、程ケ谷(現 保土ヶ谷)(ほどがや)驛、及び、戸塚(とつか)驛が設置された。<br /><br />即ち、品川-横濱Ⅰ間仮開業に遅れる事15年目にして初延長区間である。<br /><br />当初、大船への停車場設置計画は存在し無かったが、横須賀線建設工事の為に明治21年(1888年)1月に現位置に信号所に相当する無名分岐点が設置され、更に、同年11月1日附で 大船(おおふな)驛に昇格した。<br /><br /><br />該路線の建設遅延理由として 西南(せいなん)ノ役(明治10年(1877年)2月3日~同年9月24日)に代表される、明治新政府に対する不平不満を抱いた旧士族を主体とした国家に対し度重なる反逆謀反事件鎮定対処に依る軍事出兵費増大は、逆に政府財政歳費捻出困難と云ふ理由も亦事実だが、明治政府首脳部、特に長州藩出身者にとって海岸沿岸部への鉄道建設は、戦時に於ける敵外国艦船砲撃に依る路線自体を破壊使用不能とし、交通遮断を容易化させる要因を懸念躊躇した結果に他ならぬものと推定される。<br /><br />即ち、元治元年(1864年)8月5~7日の3日間、英國東インド艦隊司令長官オーギュストゥス・レオポルド・キーパー(Augustus Leopold KUPER(1809年(文化6年)8月16日~1885年(明治18年)10月28日)海軍少将を総司令官として英仏蘭米4国連合艦隊計17艦は、長州藩攘夷派藩士に依る無差別攻撃に対する懲罰報復攻撃たる 下関砲撃 を敢行した結果、長州藩は反撃すら不可能な一方的敗北に帰したばかりか、長州藩下関壇ノ浦砲台を占領破壊されると云ふ屈辱的結果を招来させたが、該時の長州藩砲台隊長だった 山縣有朋(やまがた ありとも)(天保9年(1838年)5月14日~大正11年(1922年)2月1日)にとって、艦船主砲に依る陸上攻撃実体験は、悪夢の如き記憶として終生脳裏に深く刻み込まれたものだったと思われる。<br /><br />山縣は後年 日清日露両戦争直前の外交姿勢に対し、対恐支病者、対恐露病者と揶揄され程、当該相手国に対し卑屈とも取れる譲歩慎重論者と見做されたが、青年期に於ける砲撃に依る実体験を基にして、通商破壊容易とする沿岸部路線設置を強硬に反対したものでは無ったかと推定される。<br />事実、山縣は山陽鐵道長府-馬関(現 下関)Ⅰ間、及び、九州鐵道小倉Ⅰ(現 西小倉)-黒崎間路線選定に対し、両社希望の建設容易な海岸平坦線設置案に対し強硬に反対し、内陸側25/1000‰急勾配線に対しのみ建設許可を与えた為に、両区間共その後、輸送障害を理由に平坦線代替建設設置を余儀無くさせられる。<br />また、八代-鹿児島間鐵道設置建設に対しても、帝國鐵道庁直轄工事ながら川内経由の海岸線建設を認めず、人口希薄な球磨盆地経由で25~33/1000‰山岳連続急勾配線が介在する路線を選定させ、後年、鐵道省に依る川内経由の路線を建設する無駄を強いられた。<br /><br /><br />明治16年(1883年)に、政府廟議決定に拠り、京濱京阪神間鐵道連絡は東海道案に依らず中仙道案に決定し、直ちに現地測量を開始した。<br /><br />他方、陸軍省は工部省鐵道局に対し、明治17年(1884年)2月25日附公文書を以って横濱以西に於ける緊急鐵道建設要請を通達した。<br /><br />然るに、明治18年(1885年)に工部省鐵道局長 井上 勝(いのうえ まさる)(天保14年(1843年)8月25日~明治43年(1910年)8月2日)(明治10年(1877年)1月11日~明治18年(1886年)12月21日在任)は、中仙道案では山岳地帯建設故に建設工事困難が想定された事から、密に逓信省技師 原口 要(はらぐち かなめ)(嘉永4年(1851年)6月24日~昭和2年(1927年)1月23日)を東海道筋に派遣し、該区間に於ける測量を実施させた。<br /><br />更に、井上内閣鐵道局長(明治18年(1885年)12月22日~明治22年(1889年)9月6日在任)は、明治19年(1886年)に 内閣鐵道局技師 南 清(みなみ きよし)(安政3年(1856年)6月3日~明治37年(1904年)1月3日)に対し、改めて、中仙道中部地域の実測を命じた処、該測量の結果、該経由では碓氷峠を初めとして当時の鉄道技術では登攀困難な急勾配が随所に介在し渓谷地帯通過の為に、建設期間も東海道と比較して2倍以上要する事が判明した為に、此れを基に中仙道案に対し再考を求める意見書が政府に提出された。<br /><br />政府は該意見書を検討した結果、中仙道案は国防上必要有するも、京濱京阪神間鐵道連絡は急務であるとして東海道線建設が決定された。<br /><br />此れらを受け、初代第Ⅰ次内閣総理大臣 伊藤博文(いとう ひろぶみ)(天保12年(1841年)6月24日~明治42年(1909年)10月26日)内閣(明治18年(1885年)12月22日~明治21年(1888年)4月30日組閣)は、井上内閣鐵道局長に対し東海道線着工指令を発した。<br /><br />指令第弐拾四號<br />中仙道鐵道着工ニ前後数里ノ間竣功ヲ告ケ漸ク其中部ニ着手セントスルニ当リ之カ実測ヲ行ルニ其地形タル峻嶮崎謳ニシテ之ヲ東海道ノ平夷ニ比スレハ誠ニ迂路ヲ取ルノ不利アルノミナラス其工費ノ如キモ自ラ多キヲ加ヘ随テ竣工ノ期亦太タ遅速ノ差アルヲ発見シタル旨別紙甲乙號の通鐵道局長官ヨリ具状シタル以テ今般中仙道鐵道敷設ヲ廃シ更ニ浩二ヲ東海道ニ起スニ決定ス 依テ明治壱拾六年拾弐月第四拾七號布告ノ中仙道鐵道敷設ノ為ニ募集シタル債ノ現在残高ハ転シテ之ヲ東海道鐵道工事ニ使用スヘシ<br />                          明治壱拾九年七月壱拾九日<br />                           内閣総理大臣 伯爵 伊藤博文<br /><br /><br />初代横濱驛は頭端式構造で設置されたが、該驛状態に於いて延長延伸させる為には、該驛前に大岡川(おおおかがわ)河口部が存在し、更に、その先には当時の横濱市内住宅最密集地が存在する事から、通常形態に依る路線延伸は短期間に於ける土地収用すら困難と判断された。<br />朝鮮半島権益を巡り、日清間外交関係冷却化に於ける国交断絶と戦闘状態突入開始に備え軍事大量輸送を想定し、京濱対京阪神間東西連絡鐵道建設を急務とする政府、及び、軍部は取り敢えず該駅をスッチバック形態のまま、延伸路線を反転西進構造に依る鉄道設置を決定し、明治19年(1886年)11月に横濱Ⅰ-國府津間建設工事に着工した。<br /><br />該区間内に於ける最大難工事は、清水谷戸(しみずやと)隧道掘削設置工事だった。<br />明治20年(1887年)2月に着工し、開通直前たる同年6月に竣工した。<br />全長211.2m(693ft)<br />該工事監督は、内閣鐵道局1等技師 松本荘一郎(まつもと そういちろう)(嘉永元年(1848年)6月23日~明治36年(1903年)3月19日)が担当し、建設工事は地元業者 松井組が担当した。<br />掘削工事は東西両側から開始したが、地質不良が原因で想定外の難工事化し、陥没事故や落盤事故も1度発生し経費も予定外に嵩んだ事から、該工事竣工後、松井組は破産した。<br /><br /><br />東海道鐵道線路ノ内横濱國府津間落成ニ付本月拾壱日ヨリ旅客ノ運輸ヲ開業ニ左之時刻及ヒ賃金ヲ以テ日々東京横濱間ノ列車ニ接続シ汽車ヲ運転ス<br />但途中程ケ谷(現 保土ヶ谷)戸塚藤澤平塚大磯ノ五ステーシヨンヘ停止ス<br />横濱         國府津    國府津      横濱<br /> 7時50分 →         9時35分   10時00分 → 11時45分<br />12時30分 → 14時15分  14時45分 → 16時30分<br />17時10分 → 18時55分  19時30分 →  21時15分<br /><br />運転当初は1時間45分を要したが、好評だった事から同月23日附で1往復追加運転された。<br />新橋Ⅰ-横濱Ⅰ-國府津間直通列車運転開始は同年11月1日附時刻改正時である。<br /><br /><br />明治20年(1887年)7月11日に横濱Ⅰ-國府津間開通を皮切に、明治22年(1889年)7月1日に東海道線全線が開通した。<br />然し、横濱驛がスルー構造では無くスイッチバック構造で取残された事から、該驛列車到着の都度、機関車の付替を必要とし平時ですら貨車滞貨山積状態だった。<br /><br />日清(にっしん)戦争(明治27年(1894年)7月25日~明治28年(1895年)11月30日)勃発と同時に、該線は平時輸送から軍事輸送移行に依り輸送量は激増したが、此れに反比例して該驛構内は滞貨山積状態化が深刻な状況に、苛立ちを見せた陸軍省は逓信省鐵道局の全面的協力を得て神奈川-程ケ谷(現 保土ヶ谷)間短路直行線敷設を決意し実行した。<br /><br />該敷設工事は神奈川驛から月見橋付近まで在来線に平行し、新橋Ⅰ起点26.6km(16ml40c)を起点に、該橋付近から新橋Ⅰ起点32.7km(20ml26c)付近で従来線に合流し程ケ谷(現 保土ヶ谷)驛まで当時は内海湾状態だった平沼(ひらぬま)に対する築堤設置工事だったが、海面への築堤設置工事は既に新橋Ⅰ-品川間に於いて経験済だった事から工事は順調に進行し、同年12月竣工後、軍用列車は従来の横濱驛を経由せず該短路直行線で使用運行された。<br /><br />然し、不便な状況は該戦争終結後たりと云えど同様だったと見え、明治29年(1895年)に開催された衆議院第7回鐵道会議席上に於いて、当時の逓信省鐵道局長 松本荘一郎(まつもと そういちろう)(嘉永元年(1848年)6月23日~明治36年(1903年)3月19日)(明治26年(1893年)3月16日~明治30年(1896年)8月18日在任)は議員質問に対し、<br />昨年ノ軍事上ノ時ニハ車輌ノ不足ヲ感シマシタノミナラス少シ背ノ高イ馬カ来ルト此次ニ参ル高イ車ノ来ルマテ待タナケレハナラヌト云フ非常ニ不便を感シマシタ、云々<br />なる答弁にも表れていた。<br /><br /><br />該線は東西を結ぶ大幹線故に早期に複線化された。<br /> 横濱Ⅰ-大船間          明治31年(1898年) 8月 1日<br />此の為に、清水谷戸隧道海側に新隧道を掘削施工し、該日より新設隧道は下り線専用、既成隧道は上り線専用となった。<br />更に同日より休止中だった平沼短路線を復活整備し一般旅客列車運転が開始されたが、新橋Ⅰ驛発着中長距離列車は横濱Ⅰ驛を経由せず該短路線経由となった。<br /><br /><br />大船軒(おおふなけん)は、大船駅を中心に近隣駅構内に於いて弁当販売を展開する駅弁販売会社である。<br />該驛構内販売の将来性に着眼した神奈川縣多摩郡保谷村(現 東京都保谷市)出身の富岡周蔵(とみおか しゅうぞう)(生年不詳~昭和14年(1939年)3月25日)が鐵道当局の許可を得て明治31年(1898年)5月16日から弁当販売を開始したもので、当時の販売価格は弁当12銭、並寿司7銭だった。<br />因みに、並寿司とは稲荷寿司の事で、当時は握り寿司類や稲荷寿司類形態は、残された資料や証言から現在より2.5倍以上の容量を有していたが、現在の如く小型化するのは昭和14年(1939年)10月18日附公布20日附施行の価格等統制令以降の事である。<br />翌明治32年(1899年)4月12日よりサンドウィッチ販売を開始したが、当時は鎌倉ハムの製造工賃が高額だった事から該販売価格は1折20銭と弁当より高額だった。<br />鰺押寿司販売は大正2年(1913年)4月からで、販売価格は1折15銭だった。<br />当時の風物詩に、大船驛に於ける販売口上は、<br />えー、サンドウィッチ如何、えー、新聞マッチ如何<br />と呼称していたと伝えられている。<br /><br /><br />鐵道唱歌<br />第6番<br />横須賀行は乗替と<br />(よこすかゆきは のりかへと)<br />呼ばれて降るる大船の<br />(よばれて おるる おほふなの)<br />次は鎌倉鶴が岡<br />(つぎは かまくら つるがをか)<br />源氏の古跡や尋ね見ん♪<br />(げんじの こせきや たづねみん)<br />横須賀線に脱線している。<br /><br /><br />新橋対横濱以西直行列車は、横濱驛を経由せず短路線経由が主流と変化を見せていた事から、明治34年(1901年)10月10日附で横濱市内利便を考慮し神奈川-程ケ谷(現 保土ヶ谷)間に 平沼(ひらぬま)驛が開設された。<br />然し、該驛開業当時の該驛周辺は横濱市中心部外の葦繁る人家僅少地で、夜半ともなれば該驛以外の燈は見当らず、周囲は漆黒の世界が拡がり追剥も出没する不穏な所だった事から、横濱市民で該驛利用者は極めて少数に限られ、大半の者は 横濱Ⅰ-程ケ谷(現 保土ヶ谷)間運転の短距離連絡列車を利用移動し程ケ谷(現 保土ヶ谷)驛乗換者が多かった。<br />但し、運賃計算に対し、明治34年(1901年)10月5日附逓信省通達第388号に拠り、<br />神奈川、程ヶ谷、横濱ヲ除ク外各驛トノ賃金ハ全テ横濱ト同一トス<br />と公示され、当時は全国でも稀な規定だった。<br />更に、明治40年(1907年)11月1日附運賃料金改定時に、神奈川-程ケ谷(現 保土ヶ谷)運賃計算は横濱Ⅰ驛経由でも平沼驛経由に規定改正された。<br />更に、見送客を考慮して、横濱Ⅰ-程ケ谷(現 保土ヶ谷)間運賃は、大人1等10銭、2等6銭、3等4銭に特殊設定された。<br /><br /><br />現在の普通入場券は、明治30年(1897年)10月1日附逓信省通達第1340号に拠り制定され、同年11月5日附で施行発売されたものである。<br />当時の入場券発売驛は、新橋Ⅰ、品川、横濱Ⅰ、名古屋Ⅰ、京都Ⅰ、大阪Ⅰ、三ノ宮Ⅰ、神戸Ⅱ、金澤、及び、横須賀計10驛に限定され、1枚2銭で発売された。<br />更に、定期入場券は、明治36年(1904年)4月1日附逓信省通達第6485号に拠り制定され、同年5月1日附で施行されたが、発売驛は普通入場券とは異なり、新橋Ⅰ、横濱Ⅰ、平沼、名古屋Ⅰ、京都Ⅰ、大阪Ⅱ、三ノ宮Ⅰ、神戸Ⅱ計8驛に限定されたが、発売理由が洋式ホテル案内人が訪日外国人歓送迎を目的としたポーターとしての使用の為に発行された事情もあり、平沼驛が既に外国人旅行者利用が存在していた事実が見出せる。<br /><br /><br />当時の複線区間保安装置は双信閉塞式だったが、該閉塞式では停車場間に1列車しか運転出来ず、列車増発を目的として停車場間2分割の為に、明治36年(1903年)1月20日附で、程ケ谷(現 保土ヶ谷)-戸塚間に 川上(かわかみ)信号所が設置された。<br /><br /><br />明治43年(1910年)11月10日川上-戸塚間に於いて御召列車が機関車不調を理由に自然停車する事故が発生した。<br /><br />即ち、第122代 明治(めいじ)天皇(嘉永5年(1852年)11月3日~明治45年(1912年)7月29日)(慶應3年(1867年)2月13日~明治45年(1912年)7月29日御在位)は、岡山縣下で実施の帝國陸軍大演習統裁の為に新橋Ⅰ驛10時30分発の御召列車に乗車された。<br /><br />当日の編成は、<br />ホロハニ5556 + ホロ5555 + ホイロ5350 + 御料車6号 + ホイロ5351 + ホイ5300 + ホロハニ5995<br />7両編成だった。<br />それ迄の御召列車では供奉車専用車輌が無く、適当に営業用車輌を充当していた事から編成美も統一感も皆無で、編成美はおろか見た目も凸凹ガタガタであり、御料車6号新造と同時に供奉専用車輌も初めて新製され該運転が初公式運転だった。<br />因みに、御料車6号とは現在愛知県明治村で保存一般公開されている車輌で、供奉車と共に全車輌内閣鐵道院新橋工場で製造された。<br /><br />該列車は、途中、横濱市内も無事に通過し、該区間武蔵國相模國境界に存在する清水谷戸隧道を通過後、路線が下り勾配となる事から、御召列車牽引機関車機関手は絶気運転に移行したが、御召列車牽引機関車火夫(機関助手)が該機関車缶内への過剰注水を行った事から、力行運転移行時に缶内の冷水過剰供給を原因とするプライミング現象が発生し、結局、加速不能となり該列車は駅間途中に於いて臨時停車を余儀無くさせられると云う珍事が発生した。<br /><br />該列車事故は此れに止まらなかった。<br />該列車は静岡驛に16時00分に到着したが、途中区間に於ける大降雨の為に著しい雨漏に依り、大粒水滴が御料車車内に降注ぐ事態となった。<br />該原因は、該車輌は同年10月に竣工後、新橋Ⅰ-横濱Ⅰ間に於いて試運転を1度実施後、車体棄損忌避の為にロクに車体精査もせず庫内に厳重格納した事から、隙間調整の存在必要に気付かず、そのまま本番運転に至った為に発生した不幸だった。<br /><br />該事故速報を受け、内閣鐵道院首脳は顔面蒼白茫然自失となったに相違無い。<br />該一件に対し、初代内閣鐵道院総裁 後藤新平(ごとう しんぺい)(安政4年(1857年)9月24日~昭和4年(1929年)4月13日)(明治41年(1908年)12月15日~明治44年(1911年)8月30日在任)、初代中部鐵道管理局長 古川阪次郎(ふるかわ さかじろう)(安政5年(1858年)12月8日~昭和16年(1941年)3月3日)(明治41年(1908年)12月15日~大正2年(1913年)3月4日在任)、及び、第3代新橋工場長 森 彦三(もり ひこぞう)(生没年不詳)(明治37年(1904年)6月4日~大正元年(1912年)10月19日在任)は、何れも恐れ多い極みと進退伺を提出したが、幸いにも明治天皇から優旨が下され訓戒処分で許された。<br /><br /><br />当時の複線区間保安装置は双信閉塞式だったが、該閉塞式では停車場間に1列車しか運転出来ず、列車増発を目的として停車場間2分割の為に、明治44年(1911年)5月1日附で、程ケ谷(現 保土ヶ谷)-川上間に 権現(ごんげん)信号所、戸塚-大船間に 久保(くぼ)信号所が設置された。<br /><br /><br />神奈川-平沼-程ケ谷(現 保土ヶ谷)間短路線は、大正4年(1915年)8月15日附で第2代横濱駅が開業し新線開通と同時に該短路線は廃止撤去が予定されていたが、然し、該短路線沿線には既にライシングサン石油タンク専用線を筆頭格として多数の工場が林立し、貨車授受の関係上、路線廃止ともなれば原材料搬入、製品搬出が困難となる事から複線線路片1本残置が決定された。<br />また同時に平沼驛は同日附を以って廃止された。<br /><br /><br />幹線複線区間に於ける自動信号化に就いては、既に、各方面より早期設置を求める声が挙がっていた。<br /><br />内閣鐵道院は、東海道本線東京-國府津間、京都-神戸間、山陽本線神戸-明石間、及び、東北本線上野-大宮間に就いて、双信閉塞式から当時最新型保安機種とされた連動閉塞式採用を決定し、関係機器一式を三井物産を経由し独アルゲマイネ(ALLGEMEINE ELEKTRISCHE GESELLSCHAFT)社に発注させ第1期発注品到着直後に第1次世界大戦(大正3年(1914年)7月28日~大正7年(1918年)11月11日)が勃発し、日独両国は国交断絶後開戦となり、帝國陸海軍に依る中国青島攻略戦に至った事から、第2期発注品関係機器は独発送地に於いて敵性資産と認定押収され我が国に未着となり該計画は画餅と帰した。<br />然し、該保安機器を採用した場合、自動信号化採用が遅れた事は間違い無く、関係機器が戦争勃発以前到着であれば、故障発生時に於ける部品不足に依る現場に於ける混乱は避けられなかったものと思われる。<br /><br /><br />横濱Ⅱ-大船-平塚間複々線化は大正6年(1917年)に決定され、横濱Ⅱ-大船間は4工区に区分され同年着工した。<br />該区間土木工事は大正12年(1923年)迄に程ケ谷(現 保土ヶ谷)-戸塚間は品濃隧道掘削工事を除き概ね約85%完了、戸塚-大船間は概ね約40%完了時点で関東大震災発生に依り、該工事は一時中断を余儀無くさせられる。<br /><br /><br />幹線電化に関する研究は大正8年(1919年)7月に内閣鐵道院内部に電化調査委員会が設置され、該委員長に 杉浦宗三郎(すぎうら そうざぶろう)(生没年不詳)が就任し、委員に 井上幾太郎(いのうえ いくたろう)(明治11年(1878年)10月19日~昭和30年(1955年)6月19日)、小宮次郎(こみや じろう)(明治13年(1880年)11月23日~昭和36年(1961年)10月2日)、朝倉希一郎(あさくら きいちろう)(明治16年(1883年)3月12日~昭和53年(1978年)4月20日)が任ぜられ検討の途中、大正9年(1920年)5月15日附で、第19代内閣総理大臣 原 敬(はら たかし)(安政3年(1856年)3月15日~大正10年(1921年)11月4日)内閣(大正7年(1918年)9月29日~大正10年(1921年)11月13日組閣)の下で内閣鐵道院は鐵道省に昇格し初代鐵道大臣に 元田 肇(もとだ はじめ)(安政5年(1858年)1月15日~昭和13年(1938年)10月1日)(大正9年(1920年)5月15日~大正11年(1922年)6月12日在任)が任命されたが、該内閣第46回帝國衆議院議会に於いて東海道本線横濱-神戸間全線直流1500V電化が議決され、完成予定は大正17年(1928年)とされ、大正10年(1921年)6月7日附で鐵道省に電気局が設置され、此れを受け同年7月設置の東海道本線電化実行調査特別委員会に於いて工事着工は翌大正11年(1922年)6月に決定された。<br /><br />戦後、大戦前に於ける鉄道幹線電化に就いては軍部、殊に、帝國陸軍に拠る敵国発変電所攻撃に依る送電不能から交通停止の反対論に依り進展しなかったが如き見解が存在するが、少なくとも大正中期に於いては該論が存在しても少数論に過ぎなかった。<br />関東(かんとう)大震災(大正12年(1923年)9月1日)発生が無く、丹那隧道が計画通り貫通していれば、大正17年(1928年)たる昭和3年に東海道本線全線電化が完成していた筈だったが、不幸にして中途に於いて該大震災に遭遇し電化予算の大半は震災復興に流用され、他方、丹那隧道工事は当初計画を大幅に上回る16箇年を要し、戦前に於ける東海道本線電化区間は東京-沼津間、及び、京都-神戸間に限定された。<br /><br /><br />該区間は、大正10年(1921年)5月1日附で従来の双信閉塞式から自動閉塞式に変更となり、米ウェスティングハウス社製の3動型腕木式自動信号機が植柱され、権現、川上、及び、久保各信号所は不要施設となり廃止された。<br /><br /><br />鐵道省は度重なる柏尾川氾濫の都度、列車運休を余儀無くさせられ、更に、該河川敷急屈曲が原因とする大船驛構内に於けるS字状急曲線の存在の為に、該驛進入高速運転障害化克服等々を理由に、該驛柏尾川右岸側から左岸側移転を含む、該駅付近大規模線路変更を策定した。<br />即ち、鎌倉郡玉縄村(現 鎌倉市玉縄)より線路を同郡岡村(現 鎌倉市岡村)付近で既成線に接続させるもので、該地区に存在する丘陵台地を撤去整地平地化し、該地に該驛を全面移転させる骨子で、該計画実施の為に大正12年(1923年)6月より付近一帯の土地買収を開始したが、不幸にして同年発生の関東大震災に遭遇し震災復旧工事が最優先とされ、更に、内務省土木局に依る柏尾川護岸改修工事が開始された事で該計画は画餅に帰した。<br />また同年4月、鐵道省は旧川上信号所付近に仮称 武蔵(むさし)驛開設を決定した。<br />該駅開設予定地は旧相模國所在地にも拘らず、何故、隣接國名を冠したか理解吝かならないが、恐らく正式開業時は旧信号所名たる 川上(かわかみ)驛と命名されたものと思われる。<br />当時、該新設駅設置予定地付近は酪農牧畜業が盛んで現在でも残滓が見られる。<br /><br /><br />大正12年(1923年)9月1日発生の関東大震災で、該区間は、特に震源地至近地たる戸塚以西被害は甚大だった。<br /><br />程ケ谷(現 保土ヶ谷)驛<br /> 驛本屋 半潰<br /> 驛長事務室、旅客ホーム上屋、同旅客待合室 全潰<br /> 旅客跨線橋、貨物ホーム上屋、及び、職員浴場 半焼<br /><br />戸塚驛<br /> 驛本屋は無事<br /> 旅客ホーム 沈下、旅客跨線橋 半焼<br /><br />大船驛<br /> 旅客跨線橋、及び、燈庫を除く構内施設全壊全滅<br /><br />該区間内被災列車<br />横濱Ⅱ-程ケ谷(現 保土ヶ谷)間<br />真鶴発東京行<br />上り旅客普通第112列車<br />8850型蒸気機関車 8851 (東京機関庫配置)牽引 <br /> 客車10両編成<br />該列車は、程ケ谷(現 保土ヶ谷)-横濱Ⅱ間走行中、横濱Ⅱ驛到着直前に該地震に遭遇し急停車したが、該時点に於いて該列車に具体的被害は発生していない。<br />然るに、同日13時頃には沿線火災が盛んな状態になり該列車車輛編成後部に引火した事から、該列車乗務員の手に依り、牽引機関車+編成内先頭客車2両を切離し前方に移動中、該線路陥没に気付かず該機関車先軸が脱線。<br />該編成残8両は同日16時頃に該沿線火災延焼に依り全焼した。<br />因みに、該列車1等車には箱根富士屋ホテル避暑滞在を終え、帰京の為に該列車小田原驛10時22分発に乗車した、第7代駐日アルゼンチン公使事務取扱 アレファンドロ・ド-カリール(Alejandro de-CARRIL)(生没年不詳)(大正10年(1921年)6月~大正12年(1923年)11月在任)、及び、家族使用人一行が乗車していた。<br />該列車牽引機8851号機は、明治44年(1911年)に独ボルジッヒ機関車製造會社(BORSIG LOKOMOTIV-WERKE GmbH,BERLIN)に於いて特別急行列車牽引用に製造された過熱式C型蒸気機関車である。<br /><br />戸塚-大船間<br />東京発姫路行<br />下り旅客普通第79列車<br />18900型蒸気機関車 18953 (沼津機関庫配置)牽引<br />  客車12両編成<br />該列車は、戸塚驛出発直後、該地震に遭遇。<br />該列車牽引機関車は炭水車が分離、機関車本体は脱線傾斜し続く客車12両中7両が脱線転覆4両が脱線傾斜したが、該驛出発直後で加速中の被災だった事から、被災車輌11両中5両が中破損傷したが、車体破壊如き大破被害は発生していない。<br />9日より、大井工場48名、及び、吉原陸軍工兵少佐引率の帝國陸軍第1師団鐵道第1聯隊中隊将兵150名の手に依り被災車輌引起し作業が開始されたが、現場付近路盤は陥没し、且つ、軟弱地たるを以って該作業は困難を極めたが、14日に該被災車輌群は戸塚驛下り側線に収容し、更に、修理の為に10月4日に大井工場に回送された。<br /><br />大船驛構内<br />下り貨物第605列車<br />該列車は、後続旅客普通第79列車退避の為に、大船驛第2番ホーム4番線(現 6番線)入線停車中、該地震に遭遇。<br />該列車編成中、貨車4両目、及び、5両目が脱線転覆し6両目が脱線。<br />因みに、該列車乗務員たる前部車掌は、該列車停車後、第2番ホーム旅客待合室に於いて休憩中に該地震に遭遇し、該待合室倒潰下敷に依り圧即死。<br /><br />上り貨物第624列車<br />9600型蒸気機関車 59674 (高島機関庫配置)<br />該列車は、大船驛到着直後に該地震に遭遇し地盤沈下が原因で、牽引機関車は左側に脱線傾斜し小損、続く有蓋貨車3両無蓋貨車1両が脱線転覆。<br /><br />程ケ谷(現 保土ヶ谷)驛構内ランシングサン石油専用線<br />6350型蒸気機関車 6354 (高島機関庫配置)<br />該社石油タンク内貯蔵庫破損に依り揮発物爆発炎上に依る大火災の為に焼損。<br />該機は焼損程度大だったが、同年中に復旧された。<br />該機関車は、外見が英國風造作だが実は純然たる独逸製で、明治41年(1908年)独ハノーファー機械製造(HANNOVERSCHE MASCHINENBAU)社に於いて製造された飽和式B型蒸気機関車である。<br />製造当初は、主として本線用旅客機として使用されたが、明治末期に、8700型、8800型、8850型、及び、8900型蒸気機関車導入と共に、次第にローカル仕業に使用され、更に、大正初期に、8620型、及び、9600型蒸気機関車が本格導入されるに及び構内入換機として使用された。<br />然し、入換機に炭水車は有効長を縮め、更に、後方視界を妨げる為に入換現場から炭水車は不要とする多数意見から、該機関車は翌大正13年(1924年)に大宮工場に於いて1000型Ⅱタンク式機関車 1003 に改造された。<br /> 有蓋貨車18両焼損。<br /><br />復旧作業は神奈川-大船間は帝國陸軍第1師団鐵道第1聯隊吉原陸軍工兵少佐以下大隊将兵約300名が担当、更に、黒部鐵道建設作業隊約200名の追加応援を得て4日に着手し8日には単線運転が可能になり、直ちに複線復旧工事に着手したが、程ケ谷(現 保土ヶ谷)-大船間は全区間に亘り築堤崩壊、路盤亀裂陥没、線路蛇行状態であり、特に清水谷戸隧道東京方坑口付近は崖崩壊していた事から、該撤去作業は難航を極めるものと思われたが、12日より在郷軍人會埼玉縣比企聨合分会38名、同宮城縣聨合会79名の再追加応援を得た事で該区間復旧工事は進展し、16日に焼失し線路支障障害していた旅客第112列車編成焼失残骸を除去した事で、同日15時30分に程ケ谷(現 保土ヶ谷)-大船間複線復旧工事が完了し、同日23時30分に試運転列車で無事が確認された為に、翌17日5時より複線運転が可能になった。<br />但し、復旧当時の横濱市内、及び、神奈川縣下大部分は停電状態が継続していた事から、保安装置として自動閉塞式が使用出来ず、此の為に、鐵道省は大正10年(1921年)5月1日附で廃止した、権現、川上、及び、久保各信号所旧施設を活用一時復活させ、予備双信閉塞器を設置し列車運行を行ったが、10月9日附で電力回復した事で自動閉塞機器使用が可能になり、当該信号所は翌10日附で廃止された。<br /><br />因みに、第112列車に乗車していたド-カリール公使一行に就いて、当時の我が国との大使交換國は英米独仏露5大国に限定され、アルゼンチンは公使交換國ながら、大正9年(1920年)7月に第5代駐日アルゼンチン臨時代理公使本国帰国後、本国の政情不安が原因で公使派遣が困難な状態だった事から、2代続け駐日公使館勤務筆頭者が公使事務取扱をせざるを得ない状況下に在った。<br />公使一行は地震発生時に該列車内で激震に襲われたにも拘らず、幸いに怪我も無く無事だったが、然し、横濱市内に於いて公使一行を収容すべき、横濱グランドホテル、及び、横濱オリエンタルパレスホテル等々高級優等宿泊施設は地震発生と同時に崩壊壊滅し、更に一般旅館等々も利用不可能な状態だった事から、横濱市内に保護収容可能な施設は皆無であり、鐵道省は、已む無く全焼全壊した横濱驛構内施設に於いて、唯一、焼失倒壊を免れた踏切番小屋に公使一行を収容保護し、6日に米國陸軍救援隊が到着救出するまで鐵道省が責任を以って保護した。<br />公使事務取扱一行保護一件は、ド-カリール公使帰国後、かの国アルゼンチン帰国後の国民に対する演説で、震災で焼野が原になり帰宅も不可能な鐵道職員達が、自身は野宿を強いられ家族等々が犠牲になりながらも公使一行を保護した義挙に対し、日本への絶賛賞賛の美談として、現在も該国小学校義務教育課程に於ける歴史道徳授業で教わる程、アルゼンチン全国民の知られたる史実だが、我が国では該事実は地元横浜市民をも含め完全に忘却されている。<br />参考まで、翌大正13年(1924年)4月末に於ける諸外国震災義援金に鑑み、当時の外務省作成資料に拠れば、<br />1)米國    14989314円(米本土14115872円)<br />2)英國     4204092円(豪州、印度、カナダ等々を含む)<br />3)中國     1657142円<br />4)和蘭      377762円(ヴァタビア等々植民地を含む)<br />5)仏蘭西     254691円(仏本國121788円)<br />6)ペルー     183607円<br />7)白耳義     144643円<br />8)墨西哥     136189円<br />9)英國保護領         72948円(香港、新嘉坡等々を含む)<br />10)タイ             61563円<br />11)スエーデン       57606円<br />12)アルゼンチン       51057円<br />13)伊太利          41426円<br />14)瑞西           21274円<br />第1位アメリカから第7位ベルギーは、第1次世界大戦に於いて我が国が聯合国側参戦の恩義返礼と捉えられ、第6位ペルー、及び、第8位メキシコの中心的存在は日系移民の義勇義援的行動と考えられるが、第12位にアルゼンチンが登場するのは該一件が貢献していたものと考えて良いと思われる。<br />後に、大東亜(だいとうあ)戦争(昭和16年(1941年)12月8日~昭和20年(1945年)8月15日)勃発に伴い、ブラジル、メキシコ等々南米諸国家は米國の半ば恫喝紛いの強要に依り、我が国と次々に国交断絶を余儀無くさせられたが、親日嫌米感情傾向が強烈なアルゼンチンは該要求を断固拒否し我が国との外交関係は継続し、已無く国交断絶に及んだのは、昭和19年(1944年)11月26日附と該戦争後半期だった。<br /><br /><br />大正13年(1924年)1月15日5時50分頃、関東大震災余震と推定される中規模地震発生の為に横濱市内各所に被害が発生し、該線高島-程ケ谷(現 保土ヶ谷)間は上り線16時50分 下り線17時20分、該線程ケ谷(現 保土ヶ谷)-戸塚間は下り線は無事だったが、上り線は13時50分に開通するまで各々被害が発生した。<br /><br /><br />程ケ谷(現 保土ヶ谷)-戸塚間品濃隧道経由新線は大正14年(1925年)8月に開通し、直ちに該新複線に切替られ電気機関車試運転が隔日間隔で実施された。<br />品濃隧道は、既に複線用隧道建設施工が主流たる時代だったが、現場付近は地質不良に依り敢て単線並列形態で施工された。<br />新線開通と同時に既成線たる清水谷戸隧道の内部建築限界拡大改良工事と架線張架工事が実施された。<br /><br />関東大震災発生で工事が中断遅延した横濱Ⅱ-國府津間電化工事が完成し、12月13日より東京-國府津間に於いて直流1500V運転を開始したが、当時は鐵道省所属線に当該電化区間が存在せず、且つ、試運転の段階で特に英國製電気機関車に運転上に於ける主要搭載機器たる電動カム軸動作不良等々の致命的故障が頻発した事から、電気機関車に対する全幅的信頼を置けず、暫くの間は電気機関車後部に蒸気機関車1両を連結し、季節柄、客車に対し暖房用蒸気送気を行い、牽引電気機関車故障発生時に蒸気機関車が代替後押状態で運行した。<br /><br /><br />同月19日14時52分頃、大船驛構内に於いて重大事故が発生した。<br />即ち、上り貨物第644列車は該驛到着後、操車掛誘導に依り貨車計24両牽引の上、入換完了待合中、別途、試験車輌 オケン5020 を先頭として当該入換線に推進運転した試験列車の為に双方列車が衝突し、オケン5020大破、電車計2両破損、第644列車牽引蒸気機関車、及び、貨車計6両が破損し、鐵道省官房試験委員、及び、運転手計17名が重軽傷を負った。<br />事故原因は、官房試験委員対電車運転手間に於ける該試験列車運転打合不備。<br />試験車輌 オケン5020 は、内閣鐵道省が大正4年(1915年)に米イリノイ大学(University of ILLINOIS)に特別発注製造し車輌性能等状態測定機器を搭載した特殊車輌である。<br />その後、該車輌は修理され昭和3年(1928年)10月1日附車輌称号改正に拠り オヤ6650 に改番された。<br /><br /><br />大正15年(1926年)8月に電気機関車単独牽引運転が実施され、その後、電気機関車輌数拡充の結果、昭和2年(1927年)5月11日より、東京-國府津間定期旅客列車は全列車が電気機関車牽引となった。<br /><br /><br />関東大震災後に於ける内務省震災復興院指導に拠り、横濱市復興整備計画一環として、当時の横濱驛本屋付近に幹線道路設置が策定された事から、必然的に該驛移転が余儀無くされ、鐵道省は検討を重ねた結果、半ば休止線状態だった神奈川-程ケ谷(現 保土ヶ谷)間短路線を復活整備させ、該線上に対し横濱驛移転を決定し、昭和2年(1927年)5月24日に新驛本屋工事に着手したが、移設工事期間中に於ける旅客救済を目的に、同年6月1日に旧平沼驛跡に平沼仮乗降場が設置された。<br />翌昭和3年(1928年)10月15日に新線開通と同時に横濱驛は現在位置に移転開業し、此れに伴い平沼仮乗降場は廃止された。<br />該新駅開業に依り、従来の横濱市内繁華街は関内野毛が中心だったが、横濱Ⅲ驛移転後は新駅付近が新商業地として繁栄が期待された。<br /><br /><br />該線東京-横濱Ⅱ間列車線、横濱Ⅱ-國府津間、及び、横須賀線大船-横須賀間は、大正14年(1925年)12月13日附で直流1500V電化運転が開始され、該運転開始当初の牽引電気機関車故障多発も克服安定し、該区間運転客車列車は臨時列車を除き殆ど電気機関車牽引となったが、御召列車は機関車故障発生を懸念して慎重を期し蒸気機関車牽引で残存したが、昭和2年(1927年)10月20日に電気機関車牽引の御召列車が初運転された。<br /><br />即ち、第124代 昭和(しょうわ)天皇(明治34年(1901年)4月29日~昭和64年(1989年)1月7日)(昭和元年(1926年)12月25日~昭和64年(1989年)1月7日御在位)は、海軍大元帥として帝國海軍特別大演習統裁の為に、東京驛9時05分発横須賀驛10時15分着の御召列車に乗車された。<br /><br />当日の編成は、<br />6001(ED511)+6002(ED51 2)+ホロハニ5556+ホロ5555+ホイロ5350+御料車12号+ホイロ5351+ホイ5300+ホロハニ5995<br />7両編成だった。<br /><br />因みに、昭和天皇は横須賀驛到着後、横須賀軍港碇泊中各軍艦群に依る皇礼砲轟き海軍軍楽隊吹奏の内、逸見(へみ)海軍桟橋より艦載水雷艇に乗艇、御召艦 戦艦 陸奥 に乗艦された。<br />乗艦後、直ちに該艦内に於いて、第8代海軍軍令部長 海軍大将 鈴木貫太郎(すずき かんたろう)(慶應3年(1868年)1月18日~昭和23年(1948年)4月17日)(大正14年(1925年)4月15日~昭和4年(1929年)1月22日在任)、第12代海軍大臣  海軍大将 岡田啓介(おかだ けいすけ)(慶應4年(1868年)2月14日~昭和27年(1952年)10月17日)(昭和2年(1927年)4月20日~昭和4年(1929年)7月2日在任)、第7代陸奥艦長 海軍大佐 枝原百合一(えだはら ゆりかず)(明治14年(1881年)7月16日~昭和19年(1944年)6月28日)(大正15年(1926年)12月1日~昭和2年(1927年)12月1日在任)、第24代横須賀鎮守府司令長官 海軍中将 安保清種(あぼ きよかず)(明治3年(1870年)11月8日~昭和23年(1948年)6月8日)(昭和2年(1927年)4月20日~昭和3年(1928年)5月16日在任)他を単独拝謁、続いて後甲板に於いて該大演習統監部職員奏任官39名、御召艦乗組奏任官70名に対し列立拝謁を行い、拝謁終了後、陸奥乗組員全員と記念撮影を経て11時30分出港。<br />但し、該当時は山手線貨物線は非電化だった事から、当然ながら電気機関車は山手線原宿宮廷専用驛に入線出来ず、電気機関車牽引御召列車は発着共に東京驛に限定された。<br /><br /><br />昭和初期に、程ケ谷(現 保土ヶ谷)驛構内に於いて重大事故2件が発生した。<br />昭和3年(1928年)5月8日7時35分頃、八王子発横濱線高島貨物線経由鎌倉行臨時旅客第1902列車客車8両編成は、該驛に於いて、八王子-東神奈川-高島-程ケ谷(現 保土ヶ谷)間牽引蒸気機関車を解放し該驛より電気機関車牽引とすべく該列車に連結時に速度節制を誤り該列車に激突した。<br />該事故に依り客車1両が連結器小損、該驛に於いて損傷客車1両を解放し17分遅延で運転した。<br />該事故に依り修学旅行中の尋常小学校児童17名、職員1名軽傷。<br /><br />昭和4年(1929年)10月6日23時8分頃、該驛構内に於いて、上り貨物第58列車 D50型蒸気機関車D50338 牽引貨車61両編成は、該驛通過時に前部より11両目木材積載有蓋車後輪が脱線し、次位12両目無蓋車前輪も脱線、該驛分岐器に於いて衝突と同時に車輌転向し、後続13両目以下貨車が連鎖脱線、更に現場に下り貨物第55列車 D50型蒸気機関車D50339 牽引貨車56両編成中央部車輌に接触した事から、第58列車貨車計28両脱線大破2両破損、第55列車貨車計12両脱線大破3両破損し、旅客貨物上下線を支障。<br />復旧は翌7日6時10分単線運転、全面復旧9日11時20分。<br />事故原因は当時は一般認識無き競合脱線。<br /><br /><br />該区間複々線化は、<br /> 程ケ谷(保土ヶ谷)-大船間     昭和3年(1928年)3月31日<br /> 横濱Ⅲ-程ケ谷(保土ヶ谷)間 昭和4年(1929年)8月21日<br /><br />震災発生直前に策定された 品川-横濱Ⅲ-平塚間客貨分離運転は、品川-新鶴見-横濱Ⅲ-程ケ谷(保土ヶ谷)間が昭和4年(1929年)8月21日に竣工開通した事で、貨物列車は原則的に新鶴見経由となった。<br />また、高島-程ケ谷(保土ヶ谷)間貨物専用線は同年9月16日に廃止後、高島町貨物高架橋は撤去され、跡地一部は大蔵省管轄を経て内務省管轄に移管され現在の国道1号線敷地として活用される。<br /><br /><br />昭和5年(1930年)3月15日附時刻改正より、東京-大船-横須賀間列車は電車に置換られ、客車列車時代の1時間1本運転が1時間2本運転となった。<br />電車化当初は横須賀線専用車輌完成が間合わず、他線から寄集め車輌で運転されたが、同年10月末より該線専用車輌完成に依り格式を有する高雅な雰囲気が醸成された。<br />但し、電車化に依り、それまで列車停車驛だった、程ケ谷(現 保土ヶ谷)、及び、戸塚両驛は電車停車専用となり東海道本線普通列車は通過する。<br /><br /><br />横濱市は市域拡大の為に昭和2年(1927年)4月1日附で橘樹郡保土ヶ谷町は該市に編入し、更に、12月1日附で該地域に保土ヶ谷區が成立したが、程ヶ谷驛名は旧東海道筋宿場名から採名された事から、地元より區名に合せ驛名改称要望が強く出された事を受け、昭和6年(1931年)10月1日附で現驛名に改称された。<br /><br /><br />現在の運賃制度は、昭和12年(1937年)6月1日附運賃料金改定時規則が基準である。<br /><br />該運賃改正制度以前は、大人1名引率8歳未満幼児2名が無料とされたのに対し、該改正に拠り大人引率に依る幼児無料を1名とし、更に、小児運賃料金適用年齢を6~12歳と規定した。<br />即ち、6歳以上を小児運賃料金とした背景に、当時の尋常小学校1年次児童修学旅行時に於いて、一方が無料、一方が有料となる運賃適用に於ける学級内年齢差矛盾是正が要因とされた。<br /><br />昭和14年(1939年)10月15日附運賃料金改定時に、初めて市内着発制度が出現し、東京、横濱、名古屋、京都、大阪、及び、神戸市内制度が採用され、当該中心驛より201Km以上着発と云う現在と同じ状態だが、当時の鐵道省運賃制度は1Km刻みで設定されており、該改正以前は乗車券等は各駅毎に口座が存在し、出札窓口発券作業煩瑣合理化の狙いも在った。<br />その後、昭和19年(1944年)5月1日附運賃料金改定時に、当該都市は、東京、大阪に限定され、着発距離も101Km以上に変更、更に、51~100Km着発に対し、現在の 東京山手線内 の前身たる 東京電車環状線 着発が制定された。<br />該特定都市に、横浜、名古屋、京都、及び、神戸各市内着発制度復活は、昭和44年(1969年)5月10日附運賃料金改定時で、更に、昭和47年(1972年)10月1日附運賃料金改定時に、広島、北九州、福岡、仙台、及び、札幌各市内着発が追加された。<br /><br /><br />昭和14年(1939年)4月1日附で、それまで鎌倉郡所属だった戸塚町、川上村、中田村、中和田村、瀬谷村、本郷村、中川村、及び、大正村1町7村は、横濱市編入と同時に該町村集合に依り戸塚區が成立した。<br />当時、戸塚は日立製作所、日本光学(現 ニコン)等々大手企業工場進出が著しく、日華事変勃発後の戦時体制移行に伴い、陸海軍部の要請も在り内務省裁定に拠り決定した。<br />同時に、該郡鵠沼町も藤澤市に編入された。<br /><br /><br />同年7月27日8時50分頃、保土ヶ谷-戸塚間矢部踏切付近に於いて、下り貨物線運転の臨時軍用第8025列車乗車の日本光学(現 ニコン)戸塚工場職工戦時出征招集者歓送の為に、該社社員一同が該踏切付近に於いて集結待機中、歓送者数名が線路上に雪崩込み、折から下り旅客線通過中の 東京発熱海行準急第221列車 EF51型電気機関車EF51 1牽引11両編成は、該列車牽引機関車機関士は前方異変に気付き、直ちに非常制動を動作させるも、線路上の参集者数名を次々と跳ね飛ばした。<br />該事故に依り、公衆8名即死 7名重傷 軽傷者数不明。<br /><br /><br />我が国は、日華(にっか)事変(昭和12年(1937年)7月8日~昭和16年(1941年)12月8日)勃発に依る平時自由経済体制より戦時統制経済移行に依り、昭和15年(1940年)3月以降、一般向生活物資不足が深刻な状況となり、特に食料品不足が顕著になった事から、普段は一般庶民に無縁な驛構内販売、即ち、鐵道非利用者に依る弁当購入、及び、構内食堂利用が激増し、本来の旅行者が食に在り付けぬ事態が全国各地で多発した事態に、鐵道省は昭和17年(1942年)5月1日附大臣命令を以って、駅構内飲食物購入販売利用は、旅行者用外食券持参、且つ、発駅401Km以上の乗車券所持提示者に限定する事が決定された。<br /><br /><br />大東亜戦争中に於ける該区間内空襲被害は、<br />昭和20年(1945年)<br />   4月 5日 <br />  0時32分 警戒警報発令<br />  1時00分 空襲警報発令<br />  1時12分 空襲開始<br />  4時13分 空襲警報解除<br />  4時25分 警戒警報解除<br />横濱-保土ヶ谷間 線路破壊計1箇所80m<br />復旧 12時00分<br /><br />   4月16日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 B29戦略爆撃機計109機 京濱大空襲 <br /> 21時20分 警戒警報発令<br /> 22時03分 空襲警報発令<br /> 22時15分 空襲開始<br />  1時11分 空襲警報解除<br />  1時15分 警戒警報解除<br />保土ヶ谷-戸塚間 線路破壊計110m<br />復旧 17日5時00分<br /><br />   5月24日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第73航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計520機 東京城南大空襲 <br />  1時05分 警戒警報発令<br />  1時36分 空襲警報発令<br />  1時36分 空襲開始<br />  3時50分 空襲警報解除<br />  3時55分 警戒警報解除<br />保土ヶ谷-戸塚間 架線切断計1箇所<br />復旧 8時30分<br /><br />  5月29日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊B29戦略爆撃機計474機 横濱大空襲 <br />  6時26分 警戒警報発令<br />  8時12分 空襲警報発令<br />  8時45分 空襲開始<br /> 10時45分 空襲警報解除<br /> 10時50分 警戒警報解除<br />保土ヶ谷驛<br /> 配給所 全焼<br />貨車11両 全焼<br />蒸気運転復旧 14時05分 電気運転復旧30日始発<br /><br />  7月28日<br />  9時25分 警戒警報発令<br />  9時47分 空襲警報発令<br /> 12時25分 空襲開始<br /> 13時04分 空襲警報解除<br /> 13時13分 警戒警報解除<br />戸塚-保土ヶ谷間走行中 清水谷戸隧道神戸方坑口付近<br />横須賀線上り旅客第1106S列車<br />P51型艦載機 機銃掃射<br />旅客1名 機銃弾破片眼孔貫通重傷<br /><br />  8月15日<br />  5時35分 警戒警報発令<br />  5時37分 空襲警報発令<br />  8時55分 空襲開始<br /> 11時26分 空襲警報解除<br /> 11時45分 警戒警報解除<br />   9時20分頃<br />保土ヶ谷驛停車中<br />横須賀線下り電車<br />P51型艦載機 機銃掃射<br />東京車掌區久里浜支區所属車掌 機銃弾破片顔面貫通重傷<br /><br />因みに、大東亜戦争中に於ける東海道本線東京-神戸間空襲被害は計172回で列車運休時間は計15時間である。<br />該数値として此れが多少たる判断は、九州南部に対する聯合国軍日本本土上陸作戦、即ち、オリムピック作戦の前哨戦として該地方交通網短期集中波状破壊攻撃が実施された 鹿児島本線門司港-鹿児島間空襲被害計88回列車運休時間計2032時間と比較すれば一目瞭然である。<br />中央本線計81回計729時間、山陽本線計31回計678時間、東北本線計72回計1010時間、常磐線計71回計325時間とされる。<br />長崎本線鳥栖-長崎港間空襲被害計13回だったにも拘らず列車運休時間計159時間と意外に長時間だが、此れは昭和20年(1945年)8月9日11時2分に長崎市浦上上空に於いて爆発炸裂した原子爆弾に依る超激烈爆風に依り、該線道ノ尾-浦上間下ノ川橋梁鈑桁横湾曲被害発生等々復旧に時間を要し、12日23時00分仮復旧時まで道ノ尾-長崎-長崎港間不通が原因である。<br /><br /><br />昭和18年(1943年)12月1日旅客規則改定に拠り電車区間相互発着乗車券は途中下車前途無効扱に改訂され、昭和19年(1944年)4月1日より翌昭和20年(1945年)10月1日には電車區間相互発着乗車券所持者乗越が禁止されたが、戦争終結直後に於ける列車混雑は常軌を逸したもので電車内に於いて圧死者すら発生した事から、東京鉄道局は苦肉の策として、昭和20年(1945年)12月16日より翌昭和21年(1946年)2月28日迄、学生定期乗車券使用停止、及び、電車区間内各駅に於いて、7時30分~8時30分、及び、16時00分~17時30分は乗車券発売停止を実施し乗車制限を強化した為に該使用停止期間中は諸学校は学期末試験どころの騒ぎでは無く休校を余儀無くさせられた。<br /><br /><br />該区間内に於けるRTO設置駅は、<br /> 戸塚 昭和21年(1946年)12月12日~昭和27年(1952年)3月31日<br /> 大船 昭和20年(1945年)11月 1日~昭和27年(1952年)3月31日<br />である。<br /><br />朝鮮動乱(昭和25年(1950年)6月25日~昭和28年(1953年)7月27日)勃発に依り、進駐軍は国際連合旗下軍隊として動員令が発令された事から進駐軍専用輸送特別列車が運転された。<br /> 9月15日<br />  戸塚発奥羽本線秋田駅行 1本<br />   16日<br />  藤沢発奥羽本瀬秋田駅行 1本<br />   17日<br />  藤沢発奥羽本線山形駅行 2本<br />  戸塚発奥羽本線神町駅行 2本<br />   18日<br />  戸塚発奥羽本線山形駅行 2本<br />   23日<br />  戸塚発奥羽本線横手駅行 1本<br />   25日<br />  戸塚発奥羽本線弘前駅行 3本<br /><br /><br />東海道本線東京-大船-国府津-熱海間運転客車列車を電車化計画は実現に至るまで計4回計画された。<br />即ち、<br />1)大正10年(1921年)試案で横浜Ⅱ-国府津間直流1500V電化と同時に電車化計画が立案されたが、該工事中たる大正12年(1923年)9月1日に関東大震災発生に伴う復旧工事優先に依る予算流用に依り中止。<br />該電化用に設計製作された2扉セミクロスシート配置のデハ43200型電車群は該震災後に於ける混雑激化を理由に2等車を除き全車輌3扉ロングシート化改造。<br />2)震災復興完了後たる昭和4年(1929年)電車化計画で現車を使用し試運転も実施されたが、翌昭和5年(1930年)発生の昭和恐慌に依る予算削減が原因で東海道本線分は中止され横須賀線のみ実施。<br />3)昭和15年(1940年)10月開催予定の第1次東京オリムピック大会に合せ電車化が計画されたが、該オリムピック大会開催中止に伴い電車化も中止。<br />4)大東亜戦争終結後、昭和24年(1949年)に日本国有鉄道発足に伴い電車化が計画され決定実現を見たが、第1回該計画より28年目にして現実化した。<br /><br />後に 湘南(しょうなん)型と称された80系電車は、昭和25年(1950年)1月に順次完成し、同月30日より品川-平塚間に於いて試運転を開始したが、然るに、翌2月9日に保土ヶ谷-戸塚間品濃隧道東京方坑口付近に於いて、架線切断の為にパンダグラフ地気短路が原因で、クハ86型 クハ86017、モハ80型 モハ80027計2両が全焼事故が発生した。<br />事故原因は、当時の日本国有鉄道が車輌製造会社に対し3月1日附時刻改正に投入させるべく車輌完成を急がせた為に、試運転は疎か通電試験すら省略状態で納入した為に半ば整備不良車輌状態だったが、その後の調査で某車輌の如きは制動管内に鋳屑残留例すら存在した。<br />事実、東芝等々国有鉄道電車製造初企業に対し、編成単位、且つ、電装完備状態納入を要求した事から、当該時刻改正日に車輌焼失計2両、未入手計7両状態で運行開始した為に車輌不足は免れず、9日より一部列車を客車列車に戻し大井工機部に入場させ応急修理せざるを得ず、報道関係者からは湘南電車をして遭難電車と揶揄される始末だった。<br />当該整備不良車輌は緊急修復され4月15日より平常運転に復帰した。<br />該被災車輛2両は同年1月31日に新潟鉄工所で製造竣工したばかりだったが、 クハ86017 は昭和26年(1951年)10月18日附、モハ80027 は同年11月2日附で大井工場に於いて復旧工事が施工された。<br /><br /><br />大東亜戦争後、昭和30年代以降、特に踏切が多数存在した保土ヶ谷-大船間に於いて踏切重大事故が多発した。<br /><br />昭和36年(1961年)1月31日16時22分頃、保土ヶ谷-戸塚間川上踏切に於いて、該踏切直前横断の無謀運転大型ダンプカーに、上り横須賀線久里浜発東京行普通第716S列車13両編成が衝突し、該電車先頭車は脱線状態で進行し、下り線走行中の横須賀線東京発久里浜行普通第1501S列車に激突し、該列車先頭車が脱線大破し電車計13両が破損。<br />該事故に依りダンプカー運転手即死、旅客死亡計5名、重軽傷者計98名に被害。<br /><br />昭和38年(1963年)8月2日20時11分頃、戸塚-大船間に於いて、上り大阪発東京行急行第108M 第1せっつ号 乗車旅客が、自殺目的の為に扉開放コックを操作し車輌外部に投身した処、該列車台車に捲込れ、当該本人身体は粉砕状態となったが、轢断身体脚部が下り線走行中の横須賀線東京発久里浜行普通第1905S列車12両編成10両目モハ70020中央扉を破壊客室内に侵入し該車輌乗車中旅客数名に直撃命中した為に、重軽傷者6名内2名は脳挫傷が原因で後死亡する事故が発生した。<br /><br /><br />以下、旅行記写真第1号に続く。

東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~横濱-大船間編 明治頌歌~

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2019/11/16 - 2019/11/16

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横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

該区間は、明治20年(1887年)7月11日開通である。
該区間内途中停車場として、程ケ谷(現 保土ヶ谷)(ほどがや)驛、及び、戸塚(とつか)驛が設置された。

即ち、品川-横濱Ⅰ間仮開業に遅れる事15年目にして初延長区間である。

当初、大船への停車場設置計画は存在し無かったが、横須賀線建設工事の為に明治21年(1888年)1月に現位置に信号所に相当する無名分岐点が設置され、更に、同年11月1日附で 大船(おおふな)驛に昇格した。


該路線の建設遅延理由として 西南(せいなん)ノ役(明治10年(1877年)2月3日~同年9月24日)に代表される、明治新政府に対する不平不満を抱いた旧士族を主体とした国家に対し度重なる反逆謀反事件鎮定対処に依る軍事出兵費増大は、逆に政府財政歳費捻出困難と云ふ理由も亦事実だが、明治政府首脳部、特に長州藩出身者にとって海岸沿岸部への鉄道建設は、戦時に於ける敵外国艦船砲撃に依る路線自体を破壊使用不能とし、交通遮断を容易化させる要因を懸念躊躇した結果に他ならぬものと推定される。

即ち、元治元年(1864年)8月5~7日の3日間、英國東インド艦隊司令長官オーギュストゥス・レオポルド・キーパー(Augustus Leopold KUPER(1809年(文化6年)8月16日~1885年(明治18年)10月28日)海軍少将を総司令官として英仏蘭米4国連合艦隊計17艦は、長州藩攘夷派藩士に依る無差別攻撃に対する懲罰報復攻撃たる 下関砲撃 を敢行した結果、長州藩は反撃すら不可能な一方的敗北に帰したばかりか、長州藩下関壇ノ浦砲台を占領破壊されると云ふ屈辱的結果を招来させたが、該時の長州藩砲台隊長だった 山縣有朋(やまがた ありとも)(天保9年(1838年)5月14日~大正11年(1922年)2月1日)にとって、艦船主砲に依る陸上攻撃実体験は、悪夢の如き記憶として終生脳裏に深く刻み込まれたものだったと思われる。

山縣は後年 日清日露両戦争直前の外交姿勢に対し、対恐支病者、対恐露病者と揶揄され程、当該相手国に対し卑屈とも取れる譲歩慎重論者と見做されたが、青年期に於ける砲撃に依る実体験を基にして、通商破壊容易とする沿岸部路線設置を強硬に反対したものでは無ったかと推定される。
事実、山縣は山陽鐵道長府-馬関(現 下関)Ⅰ間、及び、九州鐵道小倉Ⅰ(現 西小倉)-黒崎間路線選定に対し、両社希望の建設容易な海岸平坦線設置案に対し強硬に反対し、内陸側25/1000‰急勾配線に対しのみ建設許可を与えた為に、両区間共その後、輸送障害を理由に平坦線代替建設設置を余儀無くさせられる。
また、八代-鹿児島間鐵道設置建設に対しても、帝國鐵道庁直轄工事ながら川内経由の海岸線建設を認めず、人口希薄な球磨盆地経由で25~33/1000‰山岳連続急勾配線が介在する路線を選定させ、後年、鐵道省に依る川内経由の路線を建設する無駄を強いられた。


明治16年(1883年)に、政府廟議決定に拠り、京濱京阪神間鐵道連絡は東海道案に依らず中仙道案に決定し、直ちに現地測量を開始した。

他方、陸軍省は工部省鐵道局に対し、明治17年(1884年)2月25日附公文書を以って横濱以西に於ける緊急鐵道建設要請を通達した。

然るに、明治18年(1885年)に工部省鐵道局長 井上 勝(いのうえ まさる)(天保14年(1843年)8月25日~明治43年(1910年)8月2日)(明治10年(1877年)1月11日~明治18年(1886年)12月21日在任)は、中仙道案では山岳地帯建設故に建設工事困難が想定された事から、密に逓信省技師 原口 要(はらぐち かなめ)(嘉永4年(1851年)6月24日~昭和2年(1927年)1月23日)を東海道筋に派遣し、該区間に於ける測量を実施させた。

更に、井上内閣鐵道局長(明治18年(1885年)12月22日~明治22年(1889年)9月6日在任)は、明治19年(1886年)に 内閣鐵道局技師 南 清(みなみ きよし)(安政3年(1856年)6月3日~明治37年(1904年)1月3日)に対し、改めて、中仙道中部地域の実測を命じた処、該測量の結果、該経由では碓氷峠を初めとして当時の鉄道技術では登攀困難な急勾配が随所に介在し渓谷地帯通過の為に、建設期間も東海道と比較して2倍以上要する事が判明した為に、此れを基に中仙道案に対し再考を求める意見書が政府に提出された。

政府は該意見書を検討した結果、中仙道案は国防上必要有するも、京濱京阪神間鐵道連絡は急務であるとして東海道線建設が決定された。

此れらを受け、初代第Ⅰ次内閣総理大臣 伊藤博文(いとう ひろぶみ)(天保12年(1841年)6月24日~明治42年(1909年)10月26日)内閣(明治18年(1885年)12月22日~明治21年(1888年)4月30日組閣)は、井上内閣鐵道局長に対し東海道線着工指令を発した。

指令第弐拾四號
中仙道鐵道着工ニ前後数里ノ間竣功ヲ告ケ漸ク其中部ニ着手セントスルニ当リ之カ実測ヲ行ルニ其地形タル峻嶮崎謳ニシテ之ヲ東海道ノ平夷ニ比スレハ誠ニ迂路ヲ取ルノ不利アルノミナラス其工費ノ如キモ自ラ多キヲ加ヘ随テ竣工ノ期亦太タ遅速ノ差アルヲ発見シタル旨別紙甲乙號の通鐵道局長官ヨリ具状シタル以テ今般中仙道鐵道敷設ヲ廃シ更ニ浩二ヲ東海道ニ起スニ決定ス 依テ明治壱拾六年拾弐月第四拾七號布告ノ中仙道鐵道敷設ノ為ニ募集シタル債ノ現在残高ハ転シテ之ヲ東海道鐵道工事ニ使用スヘシ
                          明治壱拾九年七月壱拾九日
                           内閣総理大臣 伯爵 伊藤博文


初代横濱驛は頭端式構造で設置されたが、該驛状態に於いて延長延伸させる為には、該驛前に大岡川(おおおかがわ)河口部が存在し、更に、その先には当時の横濱市内住宅最密集地が存在する事から、通常形態に依る路線延伸は短期間に於ける土地収用すら困難と判断された。
朝鮮半島権益を巡り、日清間外交関係冷却化に於ける国交断絶と戦闘状態突入開始に備え軍事大量輸送を想定し、京濱対京阪神間東西連絡鐵道建設を急務とする政府、及び、軍部は取り敢えず該駅をスッチバック形態のまま、延伸路線を反転西進構造に依る鉄道設置を決定し、明治19年(1886年)11月に横濱Ⅰ-國府津間建設工事に着工した。

該区間内に於ける最大難工事は、清水谷戸(しみずやと)隧道掘削設置工事だった。
明治20年(1887年)2月に着工し、開通直前たる同年6月に竣工した。
全長211.2m(693ft)
該工事監督は、内閣鐵道局1等技師 松本荘一郎(まつもと そういちろう)(嘉永元年(1848年)6月23日~明治36年(1903年)3月19日)が担当し、建設工事は地元業者 松井組が担当した。
掘削工事は東西両側から開始したが、地質不良が原因で想定外の難工事化し、陥没事故や落盤事故も1度発生し経費も予定外に嵩んだ事から、該工事竣工後、松井組は破産した。


東海道鐵道線路ノ内横濱國府津間落成ニ付本月拾壱日ヨリ旅客ノ運輸ヲ開業ニ左之時刻及ヒ賃金ヲ以テ日々東京横濱間ノ列車ニ接続シ汽車ヲ運転ス
但途中程ケ谷(現 保土ヶ谷)戸塚藤澤平塚大磯ノ五ステーシヨンヘ停止ス
横濱         國府津    國府津     横濱
 7時50分 →   9時35分  10時00分 → 11時45分
12時30分 → 14時15分  14時45分 → 16時30分
17時10分 → 18時55分  19時30分 → 21時15分

運転当初は1時間45分を要したが、好評だった事から同月23日附で1往復追加運転された。
新橋Ⅰ-横濱Ⅰ-國府津間直通列車運転開始は同年11月1日附時刻改正時である。


明治20年(1887年)7月11日に横濱Ⅰ-國府津間開通を皮切に、明治22年(1889年)7月1日に東海道線全線が開通した。
然し、横濱驛がスルー構造では無くスイッチバック構造で取残された事から、該驛列車到着の都度、機関車の付替を必要とし平時ですら貨車滞貨山積状態だった。

日清(にっしん)戦争(明治27年(1894年)7月25日~明治28年(1895年)11月30日)勃発と同時に、該線は平時輸送から軍事輸送移行に依り輸送量は激増したが、此れに反比例して該驛構内は滞貨山積状態化が深刻な状況に、苛立ちを見せた陸軍省は逓信省鐵道局の全面的協力を得て神奈川-程ケ谷(現 保土ヶ谷)間短路直行線敷設を決意し実行した。

該敷設工事は神奈川驛から月見橋付近まで在来線に平行し、新橋Ⅰ起点26.6km(16ml40c)を起点に、該橋付近から新橋Ⅰ起点32.7km(20ml26c)付近で従来線に合流し程ケ谷(現 保土ヶ谷)驛まで当時は内海湾状態だった平沼(ひらぬま)に対する築堤設置工事だったが、海面への築堤設置工事は既に新橋Ⅰ-品川間に於いて経験済だった事から工事は順調に進行し、同年12月竣工後、軍用列車は従来の横濱驛を経由せず該短路直行線で使用運行された。

然し、不便な状況は該戦争終結後たりと云えど同様だったと見え、明治29年(1895年)に開催された衆議院第7回鐵道会議席上に於いて、当時の逓信省鐵道局長 松本荘一郎(まつもと そういちろう)(嘉永元年(1848年)6月23日~明治36年(1903年)3月19日)(明治26年(1893年)3月16日~明治30年(1896年)8月18日在任)は議員質問に対し、
昨年ノ軍事上ノ時ニハ車輌ノ不足ヲ感シマシタノミナラス少シ背ノ高イ馬カ来ルト此次ニ参ル高イ車ノ来ルマテ待タナケレハナラヌト云フ非常ニ不便を感シマシタ、云々
なる答弁にも表れていた。


該線は東西を結ぶ大幹線故に早期に複線化された。
横濱Ⅰ-大船間          明治31年(1898年) 8月 1日
此の為に、清水谷戸隧道海側に新隧道を掘削施工し、該日より新設隧道は下り線専用、既成隧道は上り線専用となった。
更に同日より休止中だった平沼短路線を復活整備し一般旅客列車運転が開始されたが、新橋Ⅰ驛発着中長距離列車は横濱Ⅰ驛を経由せず該短路線経由となった。


大船軒(おおふなけん)は、大船駅を中心に近隣駅構内に於いて弁当販売を展開する駅弁販売会社である。
該驛構内販売の将来性に着眼した神奈川縣多摩郡保谷村(現 東京都保谷市)出身の富岡周蔵(とみおか しゅうぞう)(生年不詳~昭和14年(1939年)3月25日)が鐵道当局の許可を得て明治31年(1898年)5月16日から弁当販売を開始したもので、当時の販売価格は弁当12銭、並寿司7銭だった。
因みに、並寿司とは稲荷寿司の事で、当時は握り寿司類や稲荷寿司類形態は、残された資料や証言から現在より2.5倍以上の容量を有していたが、現在の如く小型化するのは昭和14年(1939年)10月18日附公布20日附施行の価格等統制令以降の事である。
翌明治32年(1899年)4月12日よりサンドウィッチ販売を開始したが、当時は鎌倉ハムの製造工賃が高額だった事から該販売価格は1折20銭と弁当より高額だった。
鰺押寿司販売は大正2年(1913年)4月からで、販売価格は1折15銭だった。
当時の風物詩に、大船驛に於ける販売口上は、
えー、サンドウィッチ如何、えー、新聞マッチ如何
と呼称していたと伝えられている。


鐵道唱歌
第6番
横須賀行は乗替と
(よこすかゆきは のりかへと)
呼ばれて降るる大船の
(よばれて おるる おほふなの)
次は鎌倉鶴が岡
(つぎは かまくら つるがをか)
源氏の古跡や尋ね見ん♪
(げんじの こせきや たづねみん)
横須賀線に脱線している。


新橋対横濱以西直行列車は、横濱驛を経由せず短路線経由が主流と変化を見せていた事から、明治34年(1901年)10月10日附で横濱市内利便を考慮し神奈川-程ケ谷(現 保土ヶ谷)間に 平沼(ひらぬま)驛が開設された。
然し、該驛開業当時の該驛周辺は横濱市中心部外の葦繁る人家僅少地で、夜半ともなれば該驛以外の燈は見当らず、周囲は漆黒の世界が拡がり追剥も出没する不穏な所だった事から、横濱市民で該驛利用者は極めて少数に限られ、大半の者は 横濱Ⅰ-程ケ谷(現 保土ヶ谷)間運転の短距離連絡列車を利用移動し程ケ谷(現 保土ヶ谷)驛乗換者が多かった。
但し、運賃計算に対し、明治34年(1901年)10月5日附逓信省通達第388号に拠り、
神奈川、程ヶ谷、横濱ヲ除ク外各驛トノ賃金ハ全テ横濱ト同一トス
と公示され、当時は全国でも稀な規定だった。
更に、明治40年(1907年)11月1日附運賃料金改定時に、神奈川-程ケ谷(現 保土ヶ谷)運賃計算は横濱Ⅰ驛経由でも平沼驛経由に規定改正された。
更に、見送客を考慮して、横濱Ⅰ-程ケ谷(現 保土ヶ谷)間運賃は、大人1等10銭、2等6銭、3等4銭に特殊設定された。


現在の普通入場券は、明治30年(1897年)10月1日附逓信省通達第1340号に拠り制定され、同年11月5日附で施行発売されたものである。
当時の入場券発売驛は、新橋Ⅰ、品川、横濱Ⅰ、名古屋Ⅰ、京都Ⅰ、大阪Ⅰ、三ノ宮Ⅰ、神戸Ⅱ、金澤、及び、横須賀計10驛に限定され、1枚2銭で発売された。
更に、定期入場券は、明治36年(1904年)4月1日附逓信省通達第6485号に拠り制定され、同年5月1日附で施行されたが、発売驛は普通入場券とは異なり、新橋Ⅰ、横濱Ⅰ、平沼、名古屋Ⅰ、京都Ⅰ、大阪Ⅱ、三ノ宮Ⅰ、神戸Ⅱ計8驛に限定されたが、発売理由が洋式ホテル案内人が訪日外国人歓送迎を目的としたポーターとしての使用の為に発行された事情もあり、平沼驛が既に外国人旅行者利用が存在していた事実が見出せる。


当時の複線区間保安装置は双信閉塞式だったが、該閉塞式では停車場間に1列車しか運転出来ず、列車増発を目的として停車場間2分割の為に、明治36年(1903年)1月20日附で、程ケ谷(現 保土ヶ谷)-戸塚間に 川上(かわかみ)信号所が設置された。


明治43年(1910年)11月10日川上-戸塚間に於いて御召列車が機関車不調を理由に自然停車する事故が発生した。

即ち、第122代 明治(めいじ)天皇(嘉永5年(1852年)11月3日~明治45年(1912年)7月29日)(慶應3年(1867年)2月13日~明治45年(1912年)7月29日御在位)は、岡山縣下で実施の帝國陸軍大演習統裁の為に新橋Ⅰ驛10時30分発の御召列車に乗車された。

当日の編成は、
ホロハニ5556 + ホロ5555 + ホイロ5350 + 御料車6号 + ホイロ5351 + ホイ5300 + ホロハニ5995
7両編成だった。
それ迄の御召列車では供奉車専用車輌が無く、適当に営業用車輌を充当していた事から編成美も統一感も皆無で、編成美はおろか見た目も凸凹ガタガタであり、御料車6号新造と同時に供奉専用車輌も初めて新製され該運転が初公式運転だった。
因みに、御料車6号とは現在愛知県明治村で保存一般公開されている車輌で、供奉車と共に全車輌内閣鐵道院新橋工場で製造された。

該列車は、途中、横濱市内も無事に通過し、該区間武蔵國相模國境界に存在する清水谷戸隧道を通過後、路線が下り勾配となる事から、御召列車牽引機関車機関手は絶気運転に移行したが、御召列車牽引機関車火夫(機関助手)が該機関車缶内への過剰注水を行った事から、力行運転移行時に缶内の冷水過剰供給を原因とするプライミング現象が発生し、結局、加速不能となり該列車は駅間途中に於いて臨時停車を余儀無くさせられると云う珍事が発生した。

該列車事故は此れに止まらなかった。
該列車は静岡驛に16時00分に到着したが、途中区間に於ける大降雨の為に著しい雨漏に依り、大粒水滴が御料車車内に降注ぐ事態となった。
該原因は、該車輌は同年10月に竣工後、新橋Ⅰ-横濱Ⅰ間に於いて試運転を1度実施後、車体棄損忌避の為にロクに車体精査もせず庫内に厳重格納した事から、隙間調整の存在必要に気付かず、そのまま本番運転に至った為に発生した不幸だった。

該事故速報を受け、内閣鐵道院首脳は顔面蒼白茫然自失となったに相違無い。
該一件に対し、初代内閣鐵道院総裁 後藤新平(ごとう しんぺい)(安政4年(1857年)9月24日~昭和4年(1929年)4月13日)(明治41年(1908年)12月15日~明治44年(1911年)8月30日在任)、初代中部鐵道管理局長 古川阪次郎(ふるかわ さかじろう)(安政5年(1858年)12月8日~昭和16年(1941年)3月3日)(明治41年(1908年)12月15日~大正2年(1913年)3月4日在任)、及び、第3代新橋工場長 森 彦三(もり ひこぞう)(生没年不詳)(明治37年(1904年)6月4日~大正元年(1912年)10月19日在任)は、何れも恐れ多い極みと進退伺を提出したが、幸いにも明治天皇から優旨が下され訓戒処分で許された。


当時の複線区間保安装置は双信閉塞式だったが、該閉塞式では停車場間に1列車しか運転出来ず、列車増発を目的として停車場間2分割の為に、明治44年(1911年)5月1日附で、程ケ谷(現 保土ヶ谷)-川上間に 権現(ごんげん)信号所、戸塚-大船間に 久保(くぼ)信号所が設置された。


神奈川-平沼-程ケ谷(現 保土ヶ谷)間短路線は、大正4年(1915年)8月15日附で第2代横濱駅が開業し新線開通と同時に該短路線は廃止撤去が予定されていたが、然し、該短路線沿線には既にライシングサン石油タンク専用線を筆頭格として多数の工場が林立し、貨車授受の関係上、路線廃止ともなれば原材料搬入、製品搬出が困難となる事から複線線路片1本残置が決定された。
また同時に平沼驛は同日附を以って廃止された。


幹線複線区間に於ける自動信号化に就いては、既に、各方面より早期設置を求める声が挙がっていた。

内閣鐵道院は、東海道本線東京-國府津間、京都-神戸間、山陽本線神戸-明石間、及び、東北本線上野-大宮間に就いて、双信閉塞式から当時最新型保安機種とされた連動閉塞式採用を決定し、関係機器一式を三井物産を経由し独アルゲマイネ(ALLGEMEINE ELEKTRISCHE GESELLSCHAFT)社に発注させ第1期発注品到着直後に第1次世界大戦(大正3年(1914年)7月28日~大正7年(1918年)11月11日)が勃発し、日独両国は国交断絶後開戦となり、帝國陸海軍に依る中国青島攻略戦に至った事から、第2期発注品関係機器は独発送地に於いて敵性資産と認定押収され我が国に未着となり該計画は画餅と帰した。
然し、該保安機器を採用した場合、自動信号化採用が遅れた事は間違い無く、関係機器が戦争勃発以前到着であれば、故障発生時に於ける部品不足に依る現場に於ける混乱は避けられなかったものと思われる。


横濱Ⅱ-大船-平塚間複々線化は大正6年(1917年)に決定され、横濱Ⅱ-大船間は4工区に区分され同年着工した。
該区間土木工事は大正12年(1923年)迄に程ケ谷(現 保土ヶ谷)-戸塚間は品濃隧道掘削工事を除き概ね約85%完了、戸塚-大船間は概ね約40%完了時点で関東大震災発生に依り、該工事は一時中断を余儀無くさせられる。


幹線電化に関する研究は大正8年(1919年)7月に内閣鐵道院内部に電化調査委員会が設置され、該委員長に 杉浦宗三郎(すぎうら そうざぶろう)(生没年不詳)が就任し、委員に 井上幾太郎(いのうえ いくたろう)(明治11年(1878年)10月19日~昭和30年(1955年)6月19日)、小宮次郎(こみや じろう)(明治13年(1880年)11月23日~昭和36年(1961年)10月2日)、朝倉希一郎(あさくら きいちろう)(明治16年(1883年)3月12日~昭和53年(1978年)4月20日)が任ぜられ検討の途中、大正9年(1920年)5月15日附で、第19代内閣総理大臣 原 敬(はら たかし)(安政3年(1856年)3月15日~大正10年(1921年)11月4日)内閣(大正7年(1918年)9月29日~大正10年(1921年)11月13日組閣)の下で内閣鐵道院は鐵道省に昇格し初代鐵道大臣に 元田 肇(もとだ はじめ)(安政5年(1858年)1月15日~昭和13年(1938年)10月1日)(大正9年(1920年)5月15日~大正11年(1922年)6月12日在任)が任命されたが、該内閣第46回帝國衆議院議会に於いて東海道本線横濱-神戸間全線直流1500V電化が議決され、完成予定は大正17年(1928年)とされ、大正10年(1921年)6月7日附で鐵道省に電気局が設置され、此れを受け同年7月設置の東海道本線電化実行調査特別委員会に於いて工事着工は翌大正11年(1922年)6月に決定された。

戦後、大戦前に於ける鉄道幹線電化に就いては軍部、殊に、帝國陸軍に拠る敵国発変電所攻撃に依る送電不能から交通停止の反対論に依り進展しなかったが如き見解が存在するが、少なくとも大正中期に於いては該論が存在しても少数論に過ぎなかった。
関東(かんとう)大震災(大正12年(1923年)9月1日)発生が無く、丹那隧道が計画通り貫通していれば、大正17年(1928年)たる昭和3年に東海道本線全線電化が完成していた筈だったが、不幸にして中途に於いて該大震災に遭遇し電化予算の大半は震災復興に流用され、他方、丹那隧道工事は当初計画を大幅に上回る16箇年を要し、戦前に於ける東海道本線電化区間は東京-沼津間、及び、京都-神戸間に限定された。


該区間は、大正10年(1921年)5月1日附で従来の双信閉塞式から自動閉塞式に変更となり、米ウェスティングハウス社製の3動型腕木式自動信号機が植柱され、権現、川上、及び、久保各信号所は不要施設となり廃止された。


鐵道省は度重なる柏尾川氾濫の都度、列車運休を余儀無くさせられ、更に、該河川敷急屈曲が原因とする大船驛構内に於けるS字状急曲線の存在の為に、該驛進入高速運転障害化克服等々を理由に、該驛柏尾川右岸側から左岸側移転を含む、該駅付近大規模線路変更を策定した。
即ち、鎌倉郡玉縄村(現 鎌倉市玉縄)より線路を同郡岡村(現 鎌倉市岡村)付近で既成線に接続させるもので、該地区に存在する丘陵台地を撤去整地平地化し、該地に該驛を全面移転させる骨子で、該計画実施の為に大正12年(1923年)6月より付近一帯の土地買収を開始したが、不幸にして同年発生の関東大震災に遭遇し震災復旧工事が最優先とされ、更に、内務省土木局に依る柏尾川護岸改修工事が開始された事で該計画は画餅に帰した。
また同年4月、鐵道省は旧川上信号所付近に仮称 武蔵(むさし)驛開設を決定した。
該駅開設予定地は旧相模國所在地にも拘らず、何故、隣接國名を冠したか理解吝かならないが、恐らく正式開業時は旧信号所名たる 川上(かわかみ)驛と命名されたものと思われる。
当時、該新設駅設置予定地付近は酪農牧畜業が盛んで現在でも残滓が見られる。


大正12年(1923年)9月1日発生の関東大震災で、該区間は、特に震源地至近地たる戸塚以西被害は甚大だった。

程ケ谷(現 保土ヶ谷)驛
 驛本屋 半潰
 驛長事務室、旅客ホーム上屋、同旅客待合室 全潰
 旅客跨線橋、貨物ホーム上屋、及び、職員浴場 半焼

戸塚驛
 驛本屋は無事
 旅客ホーム 沈下、旅客跨線橋 半焼

大船驛
 旅客跨線橋、及び、燈庫を除く構内施設全壊全滅

該区間内被災列車
横濱Ⅱ-程ケ谷(現 保土ヶ谷)間
真鶴発東京行
上り旅客普通第112列車
8850型蒸気機関車 8851 (東京機関庫配置)牽引
 客車10両編成
該列車は、程ケ谷(現 保土ヶ谷)-横濱Ⅱ間走行中、横濱Ⅱ驛到着直前に該地震に遭遇し急停車したが、該時点に於いて該列車に具体的被害は発生していない。
然るに、同日13時頃には沿線火災が盛んな状態になり該列車車輛編成後部に引火した事から、該列車乗務員の手に依り、牽引機関車+編成内先頭客車2両を切離し前方に移動中、該線路陥没に気付かず該機関車先軸が脱線。
該編成残8両は同日16時頃に該沿線火災延焼に依り全焼した。
因みに、該列車1等車には箱根富士屋ホテル避暑滞在を終え、帰京の為に該列車小田原驛10時22分発に乗車した、第7代駐日アルゼンチン公使事務取扱 アレファンドロ・ド-カリール(Alejandro de-CARRIL)(生没年不詳)(大正10年(1921年)6月~大正12年(1923年)11月在任)、及び、家族使用人一行が乗車していた。
該列車牽引機8851号機は、明治44年(1911年)に独ボルジッヒ機関車製造會社(BORSIG LOKOMOTIV-WERKE GmbH,BERLIN)に於いて特別急行列車牽引用に製造された過熱式C型蒸気機関車である。

戸塚-大船間
東京発姫路行
下り旅客普通第79列車
18900型蒸気機関車 18953 (沼津機関庫配置)牽引
  客車12両編成
該列車は、戸塚驛出発直後、該地震に遭遇。
該列車牽引機関車は炭水車が分離、機関車本体は脱線傾斜し続く客車12両中7両が脱線転覆4両が脱線傾斜したが、該驛出発直後で加速中の被災だった事から、被災車輌11両中5両が中破損傷したが、車体破壊如き大破被害は発生していない。
9日より、大井工場48名、及び、吉原陸軍工兵少佐引率の帝國陸軍第1師団鐵道第1聯隊中隊将兵150名の手に依り被災車輌引起し作業が開始されたが、現場付近路盤は陥没し、且つ、軟弱地たるを以って該作業は困難を極めたが、14日に該被災車輌群は戸塚驛下り側線に収容し、更に、修理の為に10月4日に大井工場に回送された。

大船驛構内
下り貨物第605列車
該列車は、後続旅客普通第79列車退避の為に、大船驛第2番ホーム4番線(現 6番線)入線停車中、該地震に遭遇。
該列車編成中、貨車4両目、及び、5両目が脱線転覆し6両目が脱線。
因みに、該列車乗務員たる前部車掌は、該列車停車後、第2番ホーム旅客待合室に於いて休憩中に該地震に遭遇し、該待合室倒潰下敷に依り圧即死。

上り貨物第624列車
9600型蒸気機関車 59674 (高島機関庫配置)
該列車は、大船驛到着直後に該地震に遭遇し地盤沈下が原因で、牽引機関車は左側に脱線傾斜し小損、続く有蓋貨車3両無蓋貨車1両が脱線転覆。

程ケ谷(現 保土ヶ谷)驛構内ランシングサン石油専用線
6350型蒸気機関車 6354 (高島機関庫配置)
該社石油タンク内貯蔵庫破損に依り揮発物爆発炎上に依る大火災の為に焼損。
該機は焼損程度大だったが、同年中に復旧された。
該機関車は、外見が英國風造作だが実は純然たる独逸製で、明治41年(1908年)独ハノーファー機械製造(HANNOVERSCHE MASCHINENBAU)社に於いて製造された飽和式B型蒸気機関車である。
製造当初は、主として本線用旅客機として使用されたが、明治末期に、8700型、8800型、8850型、及び、8900型蒸気機関車導入と共に、次第にローカル仕業に使用され、更に、大正初期に、8620型、及び、9600型蒸気機関車が本格導入されるに及び構内入換機として使用された。
然し、入換機に炭水車は有効長を縮め、更に、後方視界を妨げる為に入換現場から炭水車は不要とする多数意見から、該機関車は翌大正13年(1924年)に大宮工場に於いて1000型Ⅱタンク式機関車 1003 に改造された。
 有蓋貨車18両焼損。

復旧作業は神奈川-大船間は帝國陸軍第1師団鐵道第1聯隊吉原陸軍工兵少佐以下大隊将兵約300名が担当、更に、黒部鐵道建設作業隊約200名の追加応援を得て4日に着手し8日には単線運転が可能になり、直ちに複線復旧工事に着手したが、程ケ谷(現 保土ヶ谷)-大船間は全区間に亘り築堤崩壊、路盤亀裂陥没、線路蛇行状態であり、特に清水谷戸隧道東京方坑口付近は崖崩壊していた事から、該撤去作業は難航を極めるものと思われたが、12日より在郷軍人會埼玉縣比企聨合分会38名、同宮城縣聨合会79名の再追加応援を得た事で該区間復旧工事は進展し、16日に焼失し線路支障障害していた旅客第112列車編成焼失残骸を除去した事で、同日15時30分に程ケ谷(現 保土ヶ谷)-大船間複線復旧工事が完了し、同日23時30分に試運転列車で無事が確認された為に、翌17日5時より複線運転が可能になった。
但し、復旧当時の横濱市内、及び、神奈川縣下大部分は停電状態が継続していた事から、保安装置として自動閉塞式が使用出来ず、此の為に、鐵道省は大正10年(1921年)5月1日附で廃止した、権現、川上、及び、久保各信号所旧施設を活用一時復活させ、予備双信閉塞器を設置し列車運行を行ったが、10月9日附で電力回復した事で自動閉塞機器使用が可能になり、当該信号所は翌10日附で廃止された。

因みに、第112列車に乗車していたド-カリール公使一行に就いて、当時の我が国との大使交換國は英米独仏露5大国に限定され、アルゼンチンは公使交換國ながら、大正9年(1920年)7月に第5代駐日アルゼンチン臨時代理公使本国帰国後、本国の政情不安が原因で公使派遣が困難な状態だった事から、2代続け駐日公使館勤務筆頭者が公使事務取扱をせざるを得ない状況下に在った。
公使一行は地震発生時に該列車内で激震に襲われたにも拘らず、幸いに怪我も無く無事だったが、然し、横濱市内に於いて公使一行を収容すべき、横濱グランドホテル、及び、横濱オリエンタルパレスホテル等々高級優等宿泊施設は地震発生と同時に崩壊壊滅し、更に一般旅館等々も利用不可能な状態だった事から、横濱市内に保護収容可能な施設は皆無であり、鐵道省は、已む無く全焼全壊した横濱驛構内施設に於いて、唯一、焼失倒壊を免れた踏切番小屋に公使一行を収容保護し、6日に米國陸軍救援隊が到着救出するまで鐵道省が責任を以って保護した。
公使事務取扱一行保護一件は、ド-カリール公使帰国後、かの国アルゼンチン帰国後の国民に対する演説で、震災で焼野が原になり帰宅も不可能な鐵道職員達が、自身は野宿を強いられ家族等々が犠牲になりながらも公使一行を保護した義挙に対し、日本への絶賛賞賛の美談として、現在も該国小学校義務教育課程に於ける歴史道徳授業で教わる程、アルゼンチン全国民の知られたる史実だが、我が国では該事実は地元横浜市民をも含め完全に忘却されている。
参考まで、翌大正13年(1924年)4月末に於ける諸外国震災義援金に鑑み、当時の外務省作成資料に拠れば、
1)米國    14989314円(米本土14115872円)
2)英國     4204092円(豪州、印度、カナダ等々を含む)
3)中國     1657142円
4)和蘭      377762円(ヴァタビア等々植民地を含む)
5)仏蘭西     254691円(仏本國121788円)
6)ペルー     183607円
7)白耳義     144643円
8)墨西哥     136189円
9)英國保護領     72948円(香港、新嘉坡等々を含む)
10)タイ       61563円
11)スエーデン    57606円
12)アルゼンチン   51057円
13)伊太利      41426円
14)瑞西       21274円
第1位アメリカから第7位ベルギーは、第1次世界大戦に於いて我が国が聯合国側参戦の恩義返礼と捉えられ、第6位ペルー、及び、第8位メキシコの中心的存在は日系移民の義勇義援的行動と考えられるが、第12位にアルゼンチンが登場するのは該一件が貢献していたものと考えて良いと思われる。
後に、大東亜(だいとうあ)戦争(昭和16年(1941年)12月8日~昭和20年(1945年)8月15日)勃発に伴い、ブラジル、メキシコ等々南米諸国家は米國の半ば恫喝紛いの強要に依り、我が国と次々に国交断絶を余儀無くさせられたが、親日嫌米感情傾向が強烈なアルゼンチンは該要求を断固拒否し我が国との外交関係は継続し、已無く国交断絶に及んだのは、昭和19年(1944年)11月26日附と該戦争後半期だった。


大正13年(1924年)1月15日5時50分頃、関東大震災余震と推定される中規模地震発生の為に横濱市内各所に被害が発生し、該線高島-程ケ谷(現 保土ヶ谷)間は上り線16時50分 下り線17時20分、該線程ケ谷(現 保土ヶ谷)-戸塚間は下り線は無事だったが、上り線は13時50分に開通するまで各々被害が発生した。


程ケ谷(現 保土ヶ谷)-戸塚間品濃隧道経由新線は大正14年(1925年)8月に開通し、直ちに該新複線に切替られ電気機関車試運転が隔日間隔で実施された。
品濃隧道は、既に複線用隧道建設施工が主流たる時代だったが、現場付近は地質不良に依り敢て単線並列形態で施工された。
新線開通と同時に既成線たる清水谷戸隧道の内部建築限界拡大改良工事と架線張架工事が実施された。

関東大震災発生で工事が中断遅延した横濱Ⅱ-國府津間電化工事が完成し、12月13日より東京-國府津間に於いて直流1500V運転を開始したが、当時は鐵道省所属線に当該電化区間が存在せず、且つ、試運転の段階で特に英國製電気機関車に運転上に於ける主要搭載機器たる電動カム軸動作不良等々の致命的故障が頻発した事から、電気機関車に対する全幅的信頼を置けず、暫くの間は電気機関車後部に蒸気機関車1両を連結し、季節柄、客車に対し暖房用蒸気送気を行い、牽引電気機関車故障発生時に蒸気機関車が代替後押状態で運行した。


同月19日14時52分頃、大船驛構内に於いて重大事故が発生した。
即ち、上り貨物第644列車は該驛到着後、操車掛誘導に依り貨車計24両牽引の上、入換完了待合中、別途、試験車輌 オケン5020 を先頭として当該入換線に推進運転した試験列車の為に双方列車が衝突し、オケン5020大破、電車計2両破損、第644列車牽引蒸気機関車、及び、貨車計6両が破損し、鐵道省官房試験委員、及び、運転手計17名が重軽傷を負った。
事故原因は、官房試験委員対電車運転手間に於ける該試験列車運転打合不備。
試験車輌 オケン5020 は、内閣鐵道省が大正4年(1915年)に米イリノイ大学(University of ILLINOIS)に特別発注製造し車輌性能等状態測定機器を搭載した特殊車輌である。
その後、該車輌は修理され昭和3年(1928年)10月1日附車輌称号改正に拠り オヤ6650 に改番された。


大正15年(1926年)8月に電気機関車単独牽引運転が実施され、その後、電気機関車輌数拡充の結果、昭和2年(1927年)5月11日より、東京-國府津間定期旅客列車は全列車が電気機関車牽引となった。


関東大震災後に於ける内務省震災復興院指導に拠り、横濱市復興整備計画一環として、当時の横濱驛本屋付近に幹線道路設置が策定された事から、必然的に該驛移転が余儀無くされ、鐵道省は検討を重ねた結果、半ば休止線状態だった神奈川-程ケ谷(現 保土ヶ谷)間短路線を復活整備させ、該線上に対し横濱驛移転を決定し、昭和2年(1927年)5月24日に新驛本屋工事に着手したが、移設工事期間中に於ける旅客救済を目的に、同年6月1日に旧平沼驛跡に平沼仮乗降場が設置された。
翌昭和3年(1928年)10月15日に新線開通と同時に横濱驛は現在位置に移転開業し、此れに伴い平沼仮乗降場は廃止された。
該新駅開業に依り、従来の横濱市内繁華街は関内野毛が中心だったが、横濱Ⅲ驛移転後は新駅付近が新商業地として繁栄が期待された。


該線東京-横濱Ⅱ間列車線、横濱Ⅱ-國府津間、及び、横須賀線大船-横須賀間は、大正14年(1925年)12月13日附で直流1500V電化運転が開始され、該運転開始当初の牽引電気機関車故障多発も克服安定し、該区間運転客車列車は臨時列車を除き殆ど電気機関車牽引となったが、御召列車は機関車故障発生を懸念して慎重を期し蒸気機関車牽引で残存したが、昭和2年(1927年)10月20日に電気機関車牽引の御召列車が初運転された。

即ち、第124代 昭和(しょうわ)天皇(明治34年(1901年)4月29日~昭和64年(1989年)1月7日)(昭和元年(1926年)12月25日~昭和64年(1989年)1月7日御在位)は、海軍大元帥として帝國海軍特別大演習統裁の為に、東京驛9時05分発横須賀驛10時15分着の御召列車に乗車された。

当日の編成は、
6001(ED511)+6002(ED51 2)+ホロハニ5556+ホロ5555+ホイロ5350+御料車12号+ホイロ5351+ホイ5300+ホロハニ5995
7両編成だった。

因みに、昭和天皇は横須賀驛到着後、横須賀軍港碇泊中各軍艦群に依る皇礼砲轟き海軍軍楽隊吹奏の内、逸見(へみ)海軍桟橋より艦載水雷艇に乗艇、御召艦 戦艦 陸奥 に乗艦された。
乗艦後、直ちに該艦内に於いて、第8代海軍軍令部長 海軍大将 鈴木貫太郎(すずき かんたろう)(慶應3年(1868年)1月18日~昭和23年(1948年)4月17日)(大正14年(1925年)4月15日~昭和4年(1929年)1月22日在任)、第12代海軍大臣 海軍大将 岡田啓介(おかだ けいすけ)(慶應4年(1868年)2月14日~昭和27年(1952年)10月17日)(昭和2年(1927年)4月20日~昭和4年(1929年)7月2日在任)、第7代陸奥艦長 海軍大佐 枝原百合一(えだはら ゆりかず)(明治14年(1881年)7月16日~昭和19年(1944年)6月28日)(大正15年(1926年)12月1日~昭和2年(1927年)12月1日在任)、第24代横須賀鎮守府司令長官 海軍中将 安保清種(あぼ きよかず)(明治3年(1870年)11月8日~昭和23年(1948年)6月8日)(昭和2年(1927年)4月20日~昭和3年(1928年)5月16日在任)他を単独拝謁、続いて後甲板に於いて該大演習統監部職員奏任官39名、御召艦乗組奏任官70名に対し列立拝謁を行い、拝謁終了後、陸奥乗組員全員と記念撮影を経て11時30分出港。
但し、該当時は山手線貨物線は非電化だった事から、当然ながら電気機関車は山手線原宿宮廷専用驛に入線出来ず、電気機関車牽引御召列車は発着共に東京驛に限定された。


昭和初期に、程ケ谷(現 保土ヶ谷)驛構内に於いて重大事故2件が発生した。
昭和3年(1928年)5月8日7時35分頃、八王子発横濱線高島貨物線経由鎌倉行臨時旅客第1902列車客車8両編成は、該驛に於いて、八王子-東神奈川-高島-程ケ谷(現 保土ヶ谷)間牽引蒸気機関車を解放し該驛より電気機関車牽引とすべく該列車に連結時に速度節制を誤り該列車に激突した。
該事故に依り客車1両が連結器小損、該驛に於いて損傷客車1両を解放し17分遅延で運転した。
該事故に依り修学旅行中の尋常小学校児童17名、職員1名軽傷。

昭和4年(1929年)10月6日23時8分頃、該驛構内に於いて、上り貨物第58列車 D50型蒸気機関車D50338 牽引貨車61両編成は、該驛通過時に前部より11両目木材積載有蓋車後輪が脱線し、次位12両目無蓋車前輪も脱線、該驛分岐器に於いて衝突と同時に車輌転向し、後続13両目以下貨車が連鎖脱線、更に現場に下り貨物第55列車 D50型蒸気機関車D50339 牽引貨車56両編成中央部車輌に接触した事から、第58列車貨車計28両脱線大破2両破損、第55列車貨車計12両脱線大破3両破損し、旅客貨物上下線を支障。
復旧は翌7日6時10分単線運転、全面復旧9日11時20分。
事故原因は当時は一般認識無き競合脱線。


該区間複々線化は、
 程ケ谷(保土ヶ谷)-大船間  昭和3年(1928年)3月31日
 横濱Ⅲ-程ケ谷(保土ヶ谷)間 昭和4年(1929年)8月21日

震災発生直前に策定された 品川-横濱Ⅲ-平塚間客貨分離運転は、品川-新鶴見-横濱Ⅲ-程ケ谷(保土ヶ谷)間が昭和4年(1929年)8月21日に竣工開通した事で、貨物列車は原則的に新鶴見経由となった。
また、高島-程ケ谷(保土ヶ谷)間貨物専用線は同年9月16日に廃止後、高島町貨物高架橋は撤去され、跡地一部は大蔵省管轄を経て内務省管轄に移管され現在の国道1号線敷地として活用される。


昭和5年(1930年)3月15日附時刻改正より、東京-大船-横須賀間列車は電車に置換られ、客車列車時代の1時間1本運転が1時間2本運転となった。
電車化当初は横須賀線専用車輌完成が間合わず、他線から寄集め車輌で運転されたが、同年10月末より該線専用車輌完成に依り格式を有する高雅な雰囲気が醸成された。
但し、電車化に依り、それまで列車停車驛だった、程ケ谷(現 保土ヶ谷)、及び、戸塚両驛は電車停車専用となり東海道本線普通列車は通過する。


横濱市は市域拡大の為に昭和2年(1927年)4月1日附で橘樹郡保土ヶ谷町は該市に編入し、更に、12月1日附で該地域に保土ヶ谷區が成立したが、程ヶ谷驛名は旧東海道筋宿場名から採名された事から、地元より區名に合せ驛名改称要望が強く出された事を受け、昭和6年(1931年)10月1日附で現驛名に改称された。


現在の運賃制度は、昭和12年(1937年)6月1日附運賃料金改定時規則が基準である。

該運賃改正制度以前は、大人1名引率8歳未満幼児2名が無料とされたのに対し、該改正に拠り大人引率に依る幼児無料を1名とし、更に、小児運賃料金適用年齢を6~12歳と規定した。
即ち、6歳以上を小児運賃料金とした背景に、当時の尋常小学校1年次児童修学旅行時に於いて、一方が無料、一方が有料となる運賃適用に於ける学級内年齢差矛盾是正が要因とされた。

昭和14年(1939年)10月15日附運賃料金改定時に、初めて市内着発制度が出現し、東京、横濱、名古屋、京都、大阪、及び、神戸市内制度が採用され、当該中心驛より201Km以上着発と云う現在と同じ状態だが、当時の鐵道省運賃制度は1Km刻みで設定されており、該改正以前は乗車券等は各駅毎に口座が存在し、出札窓口発券作業煩瑣合理化の狙いも在った。
その後、昭和19年(1944年)5月1日附運賃料金改定時に、当該都市は、東京、大阪に限定され、着発距離も101Km以上に変更、更に、51~100Km着発に対し、現在の 東京山手線内 の前身たる 東京電車環状線 着発が制定された。
該特定都市に、横浜、名古屋、京都、及び、神戸各市内着発制度復活は、昭和44年(1969年)5月10日附運賃料金改定時で、更に、昭和47年(1972年)10月1日附運賃料金改定時に、広島、北九州、福岡、仙台、及び、札幌各市内着発が追加された。


昭和14年(1939年)4月1日附で、それまで鎌倉郡所属だった戸塚町、川上村、中田村、中和田村、瀬谷村、本郷村、中川村、及び、大正村1町7村は、横濱市編入と同時に該町村集合に依り戸塚區が成立した。
当時、戸塚は日立製作所、日本光学(現 ニコン)等々大手企業工場進出が著しく、日華事変勃発後の戦時体制移行に伴い、陸海軍部の要請も在り内務省裁定に拠り決定した。
同時に、該郡鵠沼町も藤澤市に編入された。


同年7月27日8時50分頃、保土ヶ谷-戸塚間矢部踏切付近に於いて、下り貨物線運転の臨時軍用第8025列車乗車の日本光学(現 ニコン)戸塚工場職工戦時出征招集者歓送の為に、該社社員一同が該踏切付近に於いて集結待機中、歓送者数名が線路上に雪崩込み、折から下り旅客線通過中の 東京発熱海行準急第221列車 EF51型電気機関車EF51 1牽引11両編成は、該列車牽引機関車機関士は前方異変に気付き、直ちに非常制動を動作させるも、線路上の参集者数名を次々と跳ね飛ばした。
該事故に依り、公衆8名即死 7名重傷 軽傷者数不明。


我が国は、日華(にっか)事変(昭和12年(1937年)7月8日~昭和16年(1941年)12月8日)勃発に依る平時自由経済体制より戦時統制経済移行に依り、昭和15年(1940年)3月以降、一般向生活物資不足が深刻な状況となり、特に食料品不足が顕著になった事から、普段は一般庶民に無縁な驛構内販売、即ち、鐵道非利用者に依る弁当購入、及び、構内食堂利用が激増し、本来の旅行者が食に在り付けぬ事態が全国各地で多発した事態に、鐵道省は昭和17年(1942年)5月1日附大臣命令を以って、駅構内飲食物購入販売利用は、旅行者用外食券持参、且つ、発駅401Km以上の乗車券所持提示者に限定する事が決定された。


大東亜戦争中に於ける該区間内空襲被害は、
昭和20年(1945年)
4月 5日 
  0時32分 警戒警報発令
  1時00分 空襲警報発令
  1時12分 空襲開始
  4時13分 空襲警報解除
  4時25分 警戒警報解除
横濱-保土ヶ谷間 線路破壊計1箇所80m
復旧 12時00分

4月16日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 B29戦略爆撃機計109機 京濱大空襲 
 21時20分 警戒警報発令
 22時03分 空襲警報発令
 22時15分 空襲開始
  1時11分 空襲警報解除
  1時15分 警戒警報解除
保土ヶ谷-戸塚間 線路破壊計110m
復旧 17日5時00分

5月24日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第73航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計520機 東京城南大空襲 
  1時05分 警戒警報発令
  1時36分 空襲警報発令
  1時36分 空襲開始
  3時50分 空襲警報解除
  3時55分 警戒警報解除
保土ヶ谷-戸塚間 架線切断計1箇所
復旧 8時30分

5月29日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊B29戦略爆撃機計474機 横濱大空襲 
  6時26分 警戒警報発令
  8時12分 空襲警報発令
  8時45分 空襲開始
 10時45分 空襲警報解除
 10時50分 警戒警報解除
保土ヶ谷驛
 配給所 全焼
貨車11両 全焼
蒸気運転復旧 14時05分 電気運転復旧30日始発

7月28日
  9時25分 警戒警報発令
  9時47分 空襲警報発令
 12時25分 空襲開始
 13時04分 空襲警報解除
 13時13分 警戒警報解除
戸塚-保土ヶ谷間走行中 清水谷戸隧道神戸方坑口付近
横須賀線上り旅客第1106S列車
P51型艦載機 機銃掃射
旅客1名 機銃弾破片眼孔貫通重傷

8月15日
  5時35分 警戒警報発令
  5時37分 空襲警報発令
  8時55分 空襲開始
 11時26分 空襲警報解除
 11時45分 警戒警報解除
   9時20分頃
保土ヶ谷驛停車中
横須賀線下り電車
P51型艦載機 機銃掃射
東京車掌區久里浜支區所属車掌 機銃弾破片顔面貫通重傷

因みに、大東亜戦争中に於ける東海道本線東京-神戸間空襲被害は計172回で列車運休時間は計15時間である。
該数値として此れが多少たる判断は、九州南部に対する聯合国軍日本本土上陸作戦、即ち、オリムピック作戦の前哨戦として該地方交通網短期集中波状破壊攻撃が実施された 鹿児島本線門司港-鹿児島間空襲被害計88回列車運休時間計2032時間と比較すれば一目瞭然である。
中央本線計81回計729時間、山陽本線計31回計678時間、東北本線計72回計1010時間、常磐線計71回計325時間とされる。
長崎本線鳥栖-長崎港間空襲被害計13回だったにも拘らず列車運休時間計159時間と意外に長時間だが、此れは昭和20年(1945年)8月9日11時2分に長崎市浦上上空に於いて爆発炸裂した原子爆弾に依る超激烈爆風に依り、該線道ノ尾-浦上間下ノ川橋梁鈑桁横湾曲被害発生等々復旧に時間を要し、12日23時00分仮復旧時まで道ノ尾-長崎-長崎港間不通が原因である。


昭和18年(1943年)12月1日旅客規則改定に拠り電車区間相互発着乗車券は途中下車前途無効扱に改訂され、昭和19年(1944年)4月1日より翌昭和20年(1945年)10月1日には電車區間相互発着乗車券所持者乗越が禁止されたが、戦争終結直後に於ける列車混雑は常軌を逸したもので電車内に於いて圧死者すら発生した事から、東京鉄道局は苦肉の策として、昭和20年(1945年)12月16日より翌昭和21年(1946年)2月28日迄、学生定期乗車券使用停止、及び、電車区間内各駅に於いて、7時30分~8時30分、及び、16時00分~17時30分は乗車券発売停止を実施し乗車制限を強化した為に該使用停止期間中は諸学校は学期末試験どころの騒ぎでは無く休校を余儀無くさせられた。


該区間内に於けるRTO設置駅は、
 戸塚 昭和21年(1946年)12月12日~昭和27年(1952年)3月31日
 大船 昭和20年(1945年)11月 1日~昭和27年(1952年)3月31日
である。

朝鮮動乱(昭和25年(1950年)6月25日~昭和28年(1953年)7月27日)勃発に依り、進駐軍は国際連合旗下軍隊として動員令が発令された事から進駐軍専用輸送特別列車が運転された。
 9月15日
  戸塚発奥羽本線秋田駅行 1本
   16日
  藤沢発奥羽本瀬秋田駅行 1本
   17日
  藤沢発奥羽本線山形駅行 2本
  戸塚発奥羽本線神町駅行 2本
   18日
  戸塚発奥羽本線山形駅行 2本
   23日
  戸塚発奥羽本線横手駅行 1本
   25日
  戸塚発奥羽本線弘前駅行 3本


東海道本線東京-大船-国府津-熱海間運転客車列車を電車化計画は実現に至るまで計4回計画された。
即ち、
1)大正10年(1921年)試案で横浜Ⅱ-国府津間直流1500V電化と同時に電車化計画が立案されたが、該工事中たる大正12年(1923年)9月1日に関東大震災発生に伴う復旧工事優先に依る予算流用に依り中止。
該電化用に設計製作された2扉セミクロスシート配置のデハ43200型電車群は該震災後に於ける混雑激化を理由に2等車を除き全車輌3扉ロングシート化改造。
2)震災復興完了後たる昭和4年(1929年)電車化計画で現車を使用し試運転も実施されたが、翌昭和5年(1930年)発生の昭和恐慌に依る予算削減が原因で東海道本線分は中止され横須賀線のみ実施。
3)昭和15年(1940年)10月開催予定の第1次東京オリムピック大会に合せ電車化が計画されたが、該オリムピック大会開催中止に伴い電車化も中止。
4)大東亜戦争終結後、昭和24年(1949年)に日本国有鉄道発足に伴い電車化が計画され決定実現を見たが、第1回該計画より28年目にして現実化した。

後に 湘南(しょうなん)型と称された80系電車は、昭和25年(1950年)1月に順次完成し、同月30日より品川-平塚間に於いて試運転を開始したが、然るに、翌2月9日に保土ヶ谷-戸塚間品濃隧道東京方坑口付近に於いて、架線切断の為にパンダグラフ地気短路が原因で、クハ86型 クハ86017、モハ80型 モハ80027計2両が全焼事故が発生した。
事故原因は、当時の日本国有鉄道が車輌製造会社に対し3月1日附時刻改正に投入させるべく車輌完成を急がせた為に、試運転は疎か通電試験すら省略状態で納入した為に半ば整備不良車輌状態だったが、その後の調査で某車輌の如きは制動管内に鋳屑残留例すら存在した。
事実、東芝等々国有鉄道電車製造初企業に対し、編成単位、且つ、電装完備状態納入を要求した事から、当該時刻改正日に車輌焼失計2両、未入手計7両状態で運行開始した為に車輌不足は免れず、9日より一部列車を客車列車に戻し大井工機部に入場させ応急修理せざるを得ず、報道関係者からは湘南電車をして遭難電車と揶揄される始末だった。
当該整備不良車輌は緊急修復され4月15日より平常運転に復帰した。
該被災車輛2両は同年1月31日に新潟鉄工所で製造竣工したばかりだったが、 クハ86017 は昭和26年(1951年)10月18日附、モハ80027 は同年11月2日附で大井工場に於いて復旧工事が施工された。


大東亜戦争後、昭和30年代以降、特に踏切が多数存在した保土ヶ谷-大船間に於いて踏切重大事故が多発した。

昭和36年(1961年)1月31日16時22分頃、保土ヶ谷-戸塚間川上踏切に於いて、該踏切直前横断の無謀運転大型ダンプカーに、上り横須賀線久里浜発東京行普通第716S列車13両編成が衝突し、該電車先頭車は脱線状態で進行し、下り線走行中の横須賀線東京発久里浜行普通第1501S列車に激突し、該列車先頭車が脱線大破し電車計13両が破損。
該事故に依りダンプカー運転手即死、旅客死亡計5名、重軽傷者計98名に被害。

昭和38年(1963年)8月2日20時11分頃、戸塚-大船間に於いて、上り大阪発東京行急行第108M 第1せっつ号 乗車旅客が、自殺目的の為に扉開放コックを操作し車輌外部に投身した処、該列車台車に捲込れ、当該本人身体は粉砕状態となったが、轢断身体脚部が下り線走行中の横須賀線東京発久里浜行普通第1905S列車12両編成10両目モハ70020中央扉を破壊客室内に侵入し該車輌乗車中旅客数名に直撃命中した為に、重軽傷者6名内2名は脳挫傷が原因で後死亡する事故が発生した。


以下、旅行記写真第1号に続く。

旅行の満足度
5.0
観光
4.5
グルメ
5.0
交通
4.5
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 該区間は、清水谷戸隧道を分水嶺に、横浜-該隧道間に今井川、該隧道-大船間に柏尾川が存在し、大東亜戦争後に於ける護岸工事竣工まで、度々河川氾濫が原因で列車運行を不可能にならしめたが、特に、昭和36年(1961年)6月24日に襲来した台風6号は28日まで保土ヶ谷-藤沢間が不通となり、特に、今井川が氾濫した事で約2000m区間が浸水した為に、該線大多数の列車が茅ヶ崎折返運転となり当時の我が国筆頭の大動脈が大混乱となった。<br />昭和41年(1966年)6月26日に襲来した台風4号では、保土ヶ谷-大船間に存在する塚本川、柏尾川両河川が氾濫した為に、両橋梁浸水に依り列車運行が不可能になった。<br /><br /><br />東海道本線東京-大船間46.5kmは、東海道線、及び、横須賀線列車が線路を共有し列車運行していた為に、列車運転間隔は最低3分と設定せざるを得ず、個々連続運転では6分以上間隔を空けねばならず、列車増発は事実上不可能な状態だった。<br />該区間に於ける双方列車分離運転計画は、既に、昭和11年(1936年)に第1次オリムピック輸送対応策として策定され、事実、東京-品川間の如き一部区間で工事着工し竣工箇所も存在したが、大東亜(だいとうあ)戦争(昭和16年(1941年)12月8日~昭和20年(1945年)8月15日)勃発進展に伴い、該計画は中止を余儀無くさせられた。<br /><br />該戦争終結後、特に、東海道本線沿線は人口集中地帯に於ける空襲被災に依る地方への疎開の関係で、該沿線人口が爆発的増加を見せ、該時点に於いて該線朝の上り列車は超満員で飽和状態だった事から、早急な改善を必要としていた。<br /><br />日本国有鉄道本社は検討の結果、<br /> 1)東京-品川間 別線建設<br /> 2)品川-新鶴見-大船間 貨物線改良転用<br /> 3)新鶴見-梶ヶ谷-戸塚-大船間 新隧道設置<br />を骨子として該計画は理事会に於いて承認決定された。<br /><br />品濃隧道神戸方坑口-大船間3複線化に鑑み、特に、戸塚、大船両駅構内付近は、住宅密集地たるを以って新追加複線分用地は皆無に均しく、該地捻出の為に、該線大船-藤沢間に湘南貨物(しょうなん かもつ)駅開設に依る貨物取扱業務集約化に依り、当該両駅は昭和44年(1969年)10月1日附を以って貨物取扱業務を廃止し該捻出地を以って新線建設設置用地に充当した。<br /><br />該計画に基き工事は進行し、昭和51年(1976年)10月1日附で東京-品川間別線が開通した。<br /><br />然るに、新鶴見-梶ヶ谷-戸塚間工事竣工は難航した。<br />即ち、新線隧道設置開通に依る貨物列車通過に伴う騒音振動を懸念危惧した一部沿線住民から新線設置反対運動が派生し、本来、該新貨物線通過予定地上は自民党保守勢力支持層が強い地域にも拘らず、当時の社会党、共産党が当該反対運動を背後から煽動し、更に、極左過激派も同調支援実力行動した事から、特に神奈川区篠原地区では反対運動が激化し怪我人を出す騒動へと発展した。<br />最終的に司法判断として裁判所に於いて強制代執行が認められた為に新隧道掘削工事は再開し、昭和54年(1979年)10月1日附で当該新貨物線が開通した事から、直ちに、品川-新鶴見-大船間貨物線改良工事が開始され、翌昭和55年(1980年)10月1日附で、東海道本線、横須賀線列車分離運転が開始され、同時に、保土ヶ谷-戸塚間に 東戸塚(ひがしとづか)駅が開業した。<br />但し、横須賀線は新川崎、東戸塚両駅が開業し、更に、総武本線と相互乗入運転が開始された事で、列車本数増加が可能便利になった反面、横須賀線単独運転時代の如き列車内に於ける高雅な雰囲気は一夜にして喪失し、客層の風儀品格低下は否定し得ない事実である。<br /><br /><br />平成27年(2015年)5月1日附 水防法改正に拠り、神奈川県は平成30年(2018年)公示に拠る柏尾川洪水浸水想定区域地図を作製したが、該地図に拠れば、該河川想定上に於ける最大規模降雨に依る該河川堤防は最大0.5~3.0m浸水と判定され、然も、戸塚駅、及び、大船駅周辺付近は、最大5.0m浸水が想定されたが、該状態は大東亜戦争終結直後たる昭和24年(1949年)9月15日に関東平野北部に最大被害を発生させた カスリーン台風に依る利根川堤防決壊時に於ける東北本線栗橋駅構内浸水被害に相当し、該駅構内から水が引いたのは浸水15日後であり、単線復旧は30日後だった。<br /><br /><br />大東亜戦争終結時に全国に存在した政令指定都市に於ける旧國跨複都市は、横浜市(武蔵國、相模國)、及び、神戸市(摂津國、播磨國)2市に限定された存在だったが、平成期に新政令指定都市として、堺市(摂津國、和泉國、河内國)、及び、岡山市(備前國、備中國、美作國)が成立した。<br /><br /><br /><br /><br />表紙写真は、<br />明治31年(1898年)複線化時施工の清水谷戸下り線用隧道 神戸方口<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />東海道本線歴史的痕跡探訪記<br />~東京-濱松町間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10701644<br />~東京驛編~<br /><br />~汐留-濱松町-品川間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10797199<br />~品川-川崎間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10502858<br />~川崎-横濱間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10711843<br />~横濱駅移設変転史編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10316826<br />~横濱-大船間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/10713813<br />~大船-平塚間編 明治頌歌~<br /><br />~平塚旧帝國海軍専用線群跡編 明治頌歌~<br /><br />~平塚-國府津間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/10715768<br />~國府津-根府川間編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10298330<br />~根府川-熱海間編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10310352<br />~丹那隧道完成秘話 丹那隧道碑文から読み取れし或る歴史的事実~<br />http://4travel.jp/travelogue/10291350<br />~丹那隧道完成秘話 三島口建設工事鉄道線探訪記~<br />http://4travel.jp/travelogue/10575630<br />~熱海-沼津間編~<br /><br />~沼津駅驛編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10294787<br />~沼津港線編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10621891<br />~沼津-富士間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10623829<br />~富士-興津間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10625542<br />~興津-静岡間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10859308<br />~静岡-島田間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10855589<br />~島田-掛川間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10858139<br />~掛川-濱松間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10858815<br />~濱松-豊橋間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10858508<br />~豊橋-岡崎間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10870287<br />~岡崎-大府間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10898135<br />~大府-名古屋-尾張一宮間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/10898177<br />~名古屋驛編~<br /><br />~尾張一宮-岐阜-大垣間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/10990946<br />~美濃赤坂支線編~<br 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/>https://4travel.jp/travelogue/11366806<br />~西宮-灘間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/11321266<br />~灘-神戸間編 大正浪漫~<br />https://4travel.jp/travelogue/11245946

    該区間は、清水谷戸隧道を分水嶺に、横浜-該隧道間に今井川、該隧道-大船間に柏尾川が存在し、大東亜戦争後に於ける護岸工事竣工まで、度々河川氾濫が原因で列車運行を不可能にならしめたが、特に、昭和36年(1961年)6月24日に襲来した台風6号は28日まで保土ヶ谷-藤沢間が不通となり、特に、今井川が氾濫した事で約2000m区間が浸水した為に、該線大多数の列車が茅ヶ崎折返運転となり当時の我が国筆頭の大動脈が大混乱となった。
    昭和41年(1966年)6月26日に襲来した台風4号では、保土ヶ谷-大船間に存在する塚本川、柏尾川両河川が氾濫した為に、両橋梁浸水に依り列車運行が不可能になった。


    東海道本線東京-大船間46.5kmは、東海道線、及び、横須賀線列車が線路を共有し列車運行していた為に、列車運転間隔は最低3分と設定せざるを得ず、個々連続運転では6分以上間隔を空けねばならず、列車増発は事実上不可能な状態だった。
    該区間に於ける双方列車分離運転計画は、既に、昭和11年(1936年)に第1次オリムピック輸送対応策として策定され、事実、東京-品川間の如き一部区間で工事着工し竣工箇所も存在したが、大東亜(だいとうあ)戦争(昭和16年(1941年)12月8日~昭和20年(1945年)8月15日)勃発進展に伴い、該計画は中止を余儀無くさせられた。

    該戦争終結後、特に、東海道本線沿線は人口集中地帯に於ける空襲被災に依る地方への疎開の関係で、該沿線人口が爆発的増加を見せ、該時点に於いて該線朝の上り列車は超満員で飽和状態だった事から、早急な改善を必要としていた。

    日本国有鉄道本社は検討の結果、
     1)東京-品川間 別線建設
     2)品川-新鶴見-大船間 貨物線改良転用
     3)新鶴見-梶ヶ谷-戸塚-大船間 新隧道設置
    を骨子として該計画は理事会に於いて承認決定された。

    品濃隧道神戸方坑口-大船間3複線化に鑑み、特に、戸塚、大船両駅構内付近は、住宅密集地たるを以って新追加複線分用地は皆無に均しく、該地捻出の為に、該線大船-藤沢間に湘南貨物(しょうなん かもつ)駅開設に依る貨物取扱業務集約化に依り、当該両駅は昭和44年(1969年)10月1日附を以って貨物取扱業務を廃止し該捻出地を以って新線建設設置用地に充当した。

    該計画に基き工事は進行し、昭和51年(1976年)10月1日附で東京-品川間別線が開通した。

    然るに、新鶴見-梶ヶ谷-戸塚間工事竣工は難航した。
    即ち、新線隧道設置開通に依る貨物列車通過に伴う騒音振動を懸念危惧した一部沿線住民から新線設置反対運動が派生し、本来、該新貨物線通過予定地上は自民党保守勢力支持層が強い地域にも拘らず、当時の社会党、共産党が当該反対運動を背後から煽動し、更に、極左過激派も同調支援実力行動した事から、特に神奈川区篠原地区では反対運動が激化し怪我人を出す騒動へと発展した。
    最終的に司法判断として裁判所に於いて強制代執行が認められた為に新隧道掘削工事は再開し、昭和54年(1979年)10月1日附で当該新貨物線が開通した事から、直ちに、品川-新鶴見-大船間貨物線改良工事が開始され、翌昭和55年(1980年)10月1日附で、東海道本線、横須賀線列車分離運転が開始され、同時に、保土ヶ谷-戸塚間に 東戸塚(ひがしとづか)駅が開業した。
    但し、横須賀線は新川崎、東戸塚両駅が開業し、更に、総武本線と相互乗入運転が開始された事で、列車本数増加が可能便利になった反面、横須賀線単独運転時代の如き列車内に於ける高雅な雰囲気は一夜にして喪失し、客層の風儀品格低下は否定し得ない事実である。


    平成27年(2015年)5月1日附 水防法改正に拠り、神奈川県は平成30年(2018年)公示に拠る柏尾川洪水浸水想定区域地図を作製したが、該地図に拠れば、該河川想定上に於ける最大規模降雨に依る該河川堤防は最大0.5~3.0m浸水と判定され、然も、戸塚駅、及び、大船駅周辺付近は、最大5.0m浸水が想定されたが、該状態は大東亜戦争終結直後たる昭和24年(1949年)9月15日に関東平野北部に最大被害を発生させた カスリーン台風に依る利根川堤防決壊時に於ける東北本線栗橋駅構内浸水被害に相当し、該駅構内から水が引いたのは浸水15日後であり、単線復旧は30日後だった。


    大東亜戦争終結時に全国に存在した政令指定都市に於ける旧國跨複都市は、横浜市(武蔵國、相模國)、及び、神戸市(摂津國、播磨國)2市に限定された存在だったが、平成期に新政令指定都市として、堺市(摂津國、和泉國、河内國)、及び、岡山市(備前國、備中國、美作國)が成立した。




    表紙写真は、
    明治31年(1898年)複線化時施工の清水谷戸下り線用隧道 神戸方口







    東海道本線歴史的痕跡探訪記
    ~東京-濱松町間編 明治頌歌~
    http://4travel.jp/travelogue/10701644
    ~東京驛編~

    ~汐留-濱松町-品川間編 明治頌歌~
    http://4travel.jp/travelogue/10797199
    ~品川-川崎間編 明治頌歌~
    http://4travel.jp/travelogue/10502858
    ~川崎-横濱間編 明治頌歌~
    http://4travel.jp/travelogue/10711843
    ~横濱駅移設変転史編 明治頌歌~
    http://4travel.jp/travelogue/10316826
    ~横濱-大船間編 明治頌歌~
    https://4travel.jp/travelogue/10713813
    ~大船-平塚間編 明治頌歌~

    ~平塚旧帝國海軍専用線群跡編 明治頌歌~

    ~平塚-國府津間編 明治頌歌~
    https://4travel.jp/travelogue/10715768
    ~國府津-根府川間編~
    http://4travel.jp/travelogue/10298330
    ~根府川-熱海間編~
    http://4travel.jp/travelogue/10310352
    ~丹那隧道完成秘話 丹那隧道碑文から読み取れし或る歴史的事実~
    http://4travel.jp/travelogue/10291350
    ~丹那隧道完成秘話 三島口建設工事鉄道線探訪記~
    http://4travel.jp/travelogue/10575630
    ~熱海-沼津間編~

    ~沼津駅驛編~
    http://4travel.jp/travelogue/10294787
    ~沼津港線編~
    http://4travel.jp/travelogue/10621891
    ~沼津-富士間編 明治頌歌~
    http://4travel.jp/travelogue/10623829
    ~富士-興津間編 明治頌歌~
    http://4travel.jp/travelogue/10625542
    ~興津-静岡間編 明治頌歌~
    http://4travel.jp/travelogue/10859308
    ~静岡-島田間編 明治頌歌~
    http://4travel.jp/travelogue/10855589
    ~島田-掛川間編 明治頌歌~
    http://4travel.jp/travelogue/10858139
    ~掛川-濱松間編 明治頌歌~
    http://4travel.jp/travelogue/10858815
    ~濱松-豊橋間編 明治頌歌~
    http://4travel.jp/travelogue/10858508
    ~豊橋-岡崎間編 明治頌歌~
    http://4travel.jp/travelogue/10870287
    ~岡崎-大府間編 明治頌歌~
    http://4travel.jp/travelogue/10898135
    ~大府-名古屋-尾張一宮間編 明治頌歌~
    https://4travel.jp/travelogue/10898177
    ~名古屋驛編~

    ~尾張一宮-岐阜-大垣間編 明治頌歌~
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    ~美濃赤坂支線編~
    https://4travel.jp/travelogue/10992335
    ~大垣-垂井-関ケ原間編 明治頌歌~
    https://4travel.jp/travelogue/11095931
    ~大垣-新垂井-関ケ原間編~
    https://4travel.jp/travelogue/11200178
    ~関ケ原-米原間編 明治頌歌~
    https://4travel.jp/travelogue/11099834
    ~関ケ原-深谷-長濱間/深谷-長岡(現 近江長岡)間(廃止線)編 明治頌歌~
    https://4travel.jp/travelogue/11141230
    ~米原-近江八幡間編 明治頌歌~
    https://4travel.jp/travelogue/11099568
    ~近江八幡-草津間編 明治頌歌~
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    ~草津-膳所間編 明治頌歌~
    https://4travel.jp/travelogue/11102339
    ~膳所-濱大津間(廃止線)編 明治頌歌~
    http://4travel.jp/travelogue/11157145
    ~膳所-稲荷-京都間(廃止線)編 明治頌歌~

    ~膳所-山科-京都間(現行線)編 大正浪漫~
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    ~京都驛編 明治頌歌~

    ~京都-向日町間編 明治頌歌~

    ~向日町-高槻間編 明治頌歌~

    ~高槻-茨木間編 明治頌歌~
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    ~吹田-淡路-大阪間(廃止線)編 明治頌歌~

    ~吹田-新大阪-大阪間(現行線)編 大正浪漫~

    ~大阪駅周辺編~

    ~大阪-西宮間編 明治頌歌~
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    ~西宮-灘間編 明治頌歌~
    https://4travel.jp/travelogue/11321266
    ~灘-神戸間編 大正浪漫~
    https://4travel.jp/travelogue/11245946

  • 横浜(よこはま)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />該駅は、同一駅名使用例では初代から通算し現在地に落ち着くまで3回の移転変遷を余儀無くされ、諸例に於ける県庁所在地代表駅としては大津駅、及び、博多駅と共に全国的に3例しか存在しない稀有例である。<br />初代は初代新橋駅同様、頭端式構造で設計構築され、駅前に大岡川、更に、その先には当時の横濱に於ける最大密集地が存在した為に、該状態での延伸は困難であり、当時の朝鮮半島情勢を巡り日清間緊迫の度合を深める中、東西間連絡鉄道建設を急務とした当時の政府や帝國陸軍は、中仙道線建設を留保し、東海道線建設を決定した事から、取り敢えず、スルー形態では無くスイッチバック形態での路線延伸を決定し、明治19年(1886年)11月に着工し、翌明治20年(1887年)7月11日に横濱Ⅰ-國府津間が開通した。<br />然し、スルー形態では無いスイッチバック形態で、牽引機関車の付替だけで無く、運転上好ましからぬ状態である事に変りなく、横濱駅構内には常に滞貨が堆積状態で貨車留置が絶えぬ状況だった。<br />特に、日清(にっしん)戦争(明治27年(1894年)7月25日~明治28年(1895年)11月30日)勃発に依り、当時の帝國陸軍は軍事輸送に対し支障懸念を抱き、同年12月に神奈川-程ケ谷間に陸軍独自の短路線を建設し、東西間連絡軍用関係列車は横濱駅を経由せず、そのまま直行運転させた。<br />該戦争終結後、該短路線は使用されず荒れる任せる状態だったが、帝國陸軍から内務省鐵道作業局に対し無償譲渡し、明治31年(1898年)8月1日より直行列車に限定して運転された。<br />直行列車は神奈川、及び、程ケ谷両驛に停車したが、横浜所要者利便の為に、直行列車運転時刻に合せ、連絡列車が横濱Ⅰ-程ケ谷間に運転され、此の為に、保土ヶ谷駅史上、該時期の全急行列車が停車した。<br />然し、横濱市民から見れば、程ケ谷まで出る事自体、不便極まり無く、鐵道作業局は帝國陸軍から無償譲渡された短路線が予想以上の効果を発揮させた事に驚愕し、取敢えず、横濱市民の利便を考慮し、明治34年(1901年)10月10日附で短路線上に平沼(ひらぬま)驛を開設した。<br />然し、現在でこそ該驛跡地付近一帯は住宅雑集地だが、該驛開設当時の付近一帯の状況は、関東(かんとう)大震災後の埋立後の状態と異なり、平沼南港隣接の葦茂る沢沼地で該駅取付道路も完備せず、夜ともなると遠く浅間(せんげん)社の燈が侘しく望む他は周囲は漆黒の世界が拡がり、時には闇に乗じ追剥も出没する未開野蛮地だった。<br />それ故、東西直行列車は平沼驛開業と同時に程ケ谷(現 保土ヶ谷)驛を通過したが、神奈川驛には従来通り停車していた事から、大半の者は従来通り市内から人力車か路面電車で神奈川驛に向かい該駅から列車に乗車した為に、平沼驛利用者は開業から廃止まで終始低調を極めていた。<br />初代横浜驛は現在の桜木町驛に所在していたが、西進の際はスイッチバックを必要とした為に、大正4年(1915年)8月15日に現在の西区高島町に第2代目として移転し通過型線状となった煉瓦積3階建建築物は関東大震災で全焼し、更に、内務省震災復興局策定計画で、驛本屋中心部を幹線道路が貫通する事から、鐵道省は明治期に建設され、その後、休止扱となっていた短路線を整備復活させ線路上に新駅を移転させる事に決定し、第3代目驛本屋工事は、昭和2年(1927年)5月24日に着工し、翌昭和3年(1928年)10月15日に鉄骨鉄筋コンクリート造2階建が竣工した第3代目該驛本屋は独逸風建築様式とされ、現場は明治期から大正初期に於ける埋立地故に、16m松丸太約2000本を打ち込み此れを土台にした。<br />因みに、鐵道省に拠る鉄骨鉄筋コンクリート剛建築に拠る驛本屋建築は大正11年(1922年)10月に着工した新宿驛が第1号となるべき筈だったが、9割方建築完了途上に於いて関東大震災に遭遇し、中破被害が発生し修復中に呉駅驛が先行完成した為に、呉驛が鉄骨鉄筋コンクリート剛驛本屋建築第1号になった。<br />大東亜戦争中、昭和20年(1945年)5月29日の横浜大空襲で、該驛西口駅舎や小荷物事務室、電車列車ホーム上屋等々が焼失したが、驛本屋は旅客乗降口庇が焦げた程度で他驛と比較し被害は軽微だった。<br />戦後は進駐軍の為に同年10月1日にRTOが設置され昭和27年(1952年)3月31日まで残存した。<br />第3代横浜駅所在地は明治期まで平沼内海入江だった事から地盤沈下が尋常では無く、旧中央旅客通路を頂点に凸状態になっていた。<br />第3代目駅本屋建替が決定し、昭和53年(1978年)12月1日から解体作業が開始され、跡地に現駅ビルが開業した。<br />西口ステーションビルを解体撤去し新西口駅ビルは令和元年(2019年)に竣工。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1638

    横浜(よこはま)駅



    駅本屋
    該駅は、同一駅名使用例では初代から通算し現在地に落ち着くまで3回の移転変遷を余儀無くされ、諸例に於ける県庁所在地代表駅としては大津駅、及び、博多駅と共に全国的に3例しか存在しない稀有例である。
    初代は初代新橋駅同様、頭端式構造で設計構築され、駅前に大岡川、更に、その先には当時の横濱に於ける最大密集地が存在した為に、該状態での延伸は困難であり、当時の朝鮮半島情勢を巡り日清間緊迫の度合を深める中、東西間連絡鉄道建設を急務とした当時の政府や帝國陸軍は、中仙道線建設を留保し、東海道線建設を決定した事から、取り敢えず、スルー形態では無くスイッチバック形態での路線延伸を決定し、明治19年(1886年)11月に着工し、翌明治20年(1887年)7月11日に横濱Ⅰ-國府津間が開通した。
    然し、スルー形態では無いスイッチバック形態で、牽引機関車の付替だけで無く、運転上好ましからぬ状態である事に変りなく、横濱駅構内には常に滞貨が堆積状態で貨車留置が絶えぬ状況だった。
    特に、日清(にっしん)戦争(明治27年(1894年)7月25日~明治28年(1895年)11月30日)勃発に依り、当時の帝國陸軍は軍事輸送に対し支障懸念を抱き、同年12月に神奈川-程ケ谷間に陸軍独自の短路線を建設し、東西間連絡軍用関係列車は横濱駅を経由せず、そのまま直行運転させた。
    該戦争終結後、該短路線は使用されず荒れる任せる状態だったが、帝國陸軍から内務省鐵道作業局に対し無償譲渡し、明治31年(1898年)8月1日より直行列車に限定して運転された。
    直行列車は神奈川、及び、程ケ谷両驛に停車したが、横浜所要者利便の為に、直行列車運転時刻に合せ、連絡列車が横濱Ⅰ-程ケ谷間に運転され、此の為に、保土ヶ谷駅史上、該時期の全急行列車が停車した。
    然し、横濱市民から見れば、程ケ谷まで出る事自体、不便極まり無く、鐵道作業局は帝國陸軍から無償譲渡された短路線が予想以上の効果を発揮させた事に驚愕し、取敢えず、横濱市民の利便を考慮し、明治34年(1901年)10月10日附で短路線上に平沼(ひらぬま)驛を開設した。
    然し、現在でこそ該驛跡地付近一帯は住宅雑集地だが、該驛開設当時の付近一帯の状況は、関東(かんとう)大震災後の埋立後の状態と異なり、平沼南港隣接の葦茂る沢沼地で該駅取付道路も完備せず、夜ともなると遠く浅間(せんげん)社の燈が侘しく望む他は周囲は漆黒の世界が拡がり、時には闇に乗じ追剥も出没する未開野蛮地だった。
    それ故、東西直行列車は平沼驛開業と同時に程ケ谷(現 保土ヶ谷)驛を通過したが、神奈川驛には従来通り停車していた事から、大半の者は従来通り市内から人力車か路面電車で神奈川驛に向かい該駅から列車に乗車した為に、平沼驛利用者は開業から廃止まで終始低調を極めていた。
    初代横浜驛は現在の桜木町驛に所在していたが、西進の際はスイッチバックを必要とした為に、大正4年(1915年)8月15日に現在の西区高島町に第2代目として移転し通過型線状となった煉瓦積3階建建築物は関東大震災で全焼し、更に、内務省震災復興局策定計画で、驛本屋中心部を幹線道路が貫通する事から、鐵道省は明治期に建設され、その後、休止扱となっていた短路線を整備復活させ線路上に新駅を移転させる事に決定し、第3代目驛本屋工事は、昭和2年(1927年)5月24日に着工し、翌昭和3年(1928年)10月15日に鉄骨鉄筋コンクリート造2階建が竣工した第3代目該驛本屋は独逸風建築様式とされ、現場は明治期から大正初期に於ける埋立地故に、16m松丸太約2000本を打ち込み此れを土台にした。
    因みに、鐵道省に拠る鉄骨鉄筋コンクリート剛建築に拠る驛本屋建築は大正11年(1922年)10月に着工した新宿驛が第1号となるべき筈だったが、9割方建築完了途上に於いて関東大震災に遭遇し、中破被害が発生し修復中に呉駅驛が先行完成した為に、呉驛が鉄骨鉄筋コンクリート剛驛本屋建築第1号になった。
    大東亜戦争中、昭和20年(1945年)5月29日の横浜大空襲で、該驛西口駅舎や小荷物事務室、電車列車ホーム上屋等々が焼失したが、驛本屋は旅客乗降口庇が焦げた程度で他驛と比較し被害は軽微だった。
    戦後は進駐軍の為に同年10月1日にRTOが設置され昭和27年(1952年)3月31日まで残存した。
    第3代横浜駅所在地は明治期まで平沼内海入江だった事から地盤沈下が尋常では無く、旧中央旅客通路を頂点に凸状態になっていた。
    第3代目駅本屋建替が決定し、昭和53年(1978年)12月1日から解体作業が開始され、跡地に現駅ビルが開業した。
    西口ステーションビルを解体撤去し新西口駅ビルは令和元年(2019年)に竣工。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1638

    横浜駅

  • 横浜駅<br /><br /><br /><br />旧手小荷物取扱所跡<br />2階部分外壁封鎖跡は元手小荷物輸送テルハ着発跡。

    横浜駅



    旧手小荷物取扱所跡
    2階部分外壁封鎖跡は元手小荷物輸送テルハ着発跡。

    横浜駅

  • 横浜駅<br /><br /><br /><br />第1番旅客ホーム<br />京急電鉄専用

    横浜駅



    第1番旅客ホーム
    京急電鉄専用

    横浜駅

  • 横浜駅<br /><br /><br /><br />第1番旅客ホーム<br />1番線2番線<br />昭和5年(1930年)2月5日附開設。<br />京濱電気鐵道(現 京急電鉄)用。<br />同年1月26日附で京濱線(現 京浜東北線・根岸線)移転が完了した事で開設可能となる。

    横浜駅



    第1番旅客ホーム
    1番線2番線
    昭和5年(1930年)2月5日附開設。
    京濱電気鐵道(現 京急電鉄)用。
    同年1月26日附で京濱線(現 京浜東北線・根岸線)移転が完了した事で開設可能となる。

    横浜駅

  • 横浜駅<br /><br /><br /><br />第2番旅客ホーム<br />3番線4番線<br />昭和5年(1930年)1月26日附開設。<br />京浜東北線・根岸線用。<br />昭和4年(1929年)9月16日附で高島-程ケ谷(現 保土ヶ谷)間貨物専用線廃止に依り該線用貨物高架橋撤去に依る旧横濱Ⅱ-櫻木町間高架橋延長が可能になり、該工事竣工に依り横濱Ⅲ驛に取付可能となる。

    横浜駅



    第2番旅客ホーム
    3番線4番線
    昭和5年(1930年)1月26日附開設。
    京浜東北線・根岸線用。
    昭和4年(1929年)9月16日附で高島-程ケ谷(現 保土ヶ谷)間貨物専用線廃止に依り該線用貨物高架橋撤去に依る旧横濱Ⅱ-櫻木町間高架橋延長が可能になり、該工事竣工に依り横濱Ⅲ驛に取付可能となる。

    横浜駅

  • 横浜駅<br /><br /><br /><br />第3番旅客ホーム<br />5番線6番線<br />昭和3年(1930年)10月15日附開設。<br />東海道本線下り線用。

    横浜駅



    第3番旅客ホーム
    5番線6番線
    昭和3年(1930年)10月15日附開設。
    東海道本線下り線用。

    横浜駅

  • 横浜駅<br /><br /><br /><br />第4番旅客ホーム<br />7番線8番線<br />昭和3年(1930年)10月15日附開設。<br />東海道本線上り線用。

    横浜駅



    第4番旅客ホーム
    7番線8番線
    昭和3年(1930年)10月15日附開設。
    東海道本線上り線用。

    横浜駅

  • 横浜駅<br /><br /><br /><br />第5番旅客ホーム<br />9番線10番線<br />昭和55年(1980年)10月1日附開設。<br />横須賀線用。<br />元来は複々線化当時の貨物線。<br />平成22年(2010年)4月25日附で旧東急電鉄東横線跡地活用に依り拡張化。

    横浜駅



    第5番旅客ホーム
    9番線10番線
    昭和55年(1980年)10月1日附開設。
    横須賀線用。
    元来は複々線化当時の貨物線。
    平成22年(2010年)4月25日附で旧東急電鉄東横線跡地活用に依り拡張化。

    横浜駅

  • 横浜駅<br /><br /><br /><br />西口

    横浜駅



    西口

    横浜駅

  • 横浜駅<br /><br /><br />

    横浜駅


    横浜駅

  • 横浜-保土ヶ谷間<br /><br /><br /><br />平沼(ひらぬま)跨線橋<br />高島町浅間町間連絡道路<br />東海道本線は客貨分離を実行すべく鐵道省は昭和4年(1929年)8月21日に品川-新鶴見-鶴見-程ケ谷(現 保土ヶ谷)間に貨物線が開通させたが、列車本数増加と共に踏切閉止多発を想定し同年1月に設置された。<br />更に、同年4月16日に横浜市電が高島町1丁目電停から浅間下電停まで延長開通。<br />初代橋梁は老朽化に依り架替実施、現橋梁は第2代目。

    横浜-保土ヶ谷間



    平沼(ひらぬま)跨線橋
    高島町浅間町間連絡道路
    東海道本線は客貨分離を実行すべく鐵道省は昭和4年(1929年)8月21日に品川-新鶴見-鶴見-程ケ谷(現 保土ヶ谷)間に貨物線が開通させたが、列車本数増加と共に踏切閉止多発を想定し同年1月に設置された。
    更に、同年4月16日に横浜市電が高島町1丁目電停から浅間下電停まで延長開通。
    初代橋梁は老朽化に依り架替実施、現橋梁は第2代目。

  • 浜-保土ヶ谷間<br /><br /><br /><br />旧 平沼駅跡<br />写真中央部柵内が該駅前広場跡<br />明治31年(1898年)8月1日より該区間は短路線として旅客営業を開始したが、当初は該駅は設置されず、逓信省鐵道作業局は、程ケ谷(現 保土ヶ谷)驛に優等列車を停車させていたが、横濱市民から見れば市外の程ケ谷に於ける遠出乗降は不便極まり無く、改めて、明治34年(1901年)10月10日に該駅が開業した。<br />然し、当時の平沼一帯は横濱市内から見れば場末で、線路反対側は帷子川河口部入江が拡がる葦茂る人煙稀な地であり、夜ともなれば追い剥ぎも出没する漆黒の世界だった為に一般利用者からは忌避され、西下する者も不便を承知で神奈川驛から乗車する有様だった。<br />その後、内閣鐵道院に拠り、大正4年(1915年)8月15日に、現在の西区高島町交差点付近を経由する新線が開通し該線上に横濱新駅が移転した為に同日附で廃止された。<br />然るに、関東大震災復興計画の一環として、内務省震災復興院指導に拠り横浜市内中心部の再開発計画で幹線道路設置が決定した為に横濱驛再移転が決定し、東海道本線付替工事に拠り昭和2年(1927年)6月1日仮乗降場格下設置、昭和3年(1928年)10月15日 横濱驛移転開業に伴い廃止。

    浜-保土ヶ谷間



    旧 平沼駅跡
    写真中央部柵内が該駅前広場跡
    明治31年(1898年)8月1日より該区間は短路線として旅客営業を開始したが、当初は該駅は設置されず、逓信省鐵道作業局は、程ケ谷(現 保土ヶ谷)驛に優等列車を停車させていたが、横濱市民から見れば市外の程ケ谷に於ける遠出乗降は不便極まり無く、改めて、明治34年(1901年)10月10日に該駅が開業した。
    然し、当時の平沼一帯は横濱市内から見れば場末で、線路反対側は帷子川河口部入江が拡がる葦茂る人煙稀な地であり、夜ともなれば追い剥ぎも出没する漆黒の世界だった為に一般利用者からは忌避され、西下する者も不便を承知で神奈川驛から乗車する有様だった。
    その後、内閣鐵道院に拠り、大正4年(1915年)8月15日に、現在の西区高島町交差点付近を経由する新線が開通し該線上に横濱新駅が移転した為に同日附で廃止された。
    然るに、関東大震災復興計画の一環として、内務省震災復興院指導に拠り横浜市内中心部の再開発計画で幹線道路設置が決定した為に横濱驛再移転が決定し、東海道本線付替工事に拠り昭和2年(1927年)6月1日仮乗降場格下設置、昭和3年(1928年)10月15日 横濱驛移転開業に伴い廃止。

  • 横浜-保土ヶ谷間<br /><br /><br /><br />旧 平沼駅跡<br />道路に対し偏角状態が駅本屋広場諸施設跡を示す。

    横浜-保土ヶ谷間



    旧 平沼駅跡
    道路に対し偏角状態が駅本屋広場諸施設跡を示す。

  • 横浜-保土ヶ谷間<br /><br /><br /><br />鋼鉄製架線柱<br />旅客鉄道線が全線覆状態に対し、走行中の成田エクスプレス横の相模鉄道本線は1線分のみしか無く上り線架線柱は追加跡が歴然。<br />架線柱建植時に当時の神中鐵道線(現 相模鉄道本線)が単線だった事が原因。

    横浜-保土ヶ谷間



    鋼鉄製架線柱
    旅客鉄道線が全線覆状態に対し、走行中の成田エクスプレス横の相模鉄道本線は1線分のみしか無く上り線架線柱は追加跡が歴然。
    架線柱建植時に当時の神中鐵道線(現 相模鉄道本線)が単線だった事が原因。

    横浜駅

  • 横浜-保土ヶ谷間<br /><br /><br /><br />鋼鐡製架線柱<br />昭和3年(1928年)10月15日 東海道本線現線路移転時建植の架線柱。

    横浜-保土ヶ谷間



    鋼鐡製架線柱
    昭和3年(1928年)10月15日 東海道本線現線路移転時建植の架線柱。

    横浜駅

  • 横浜-保土ヶ谷間<br /><br /><br /><br />鋼鐡製架線柱<br />全景<br />昭和3年(1928年)10月15日 植柱鋼鐡架線柱

    横浜-保土ヶ谷間



    鋼鐡製架線柱
    全景
    昭和3年(1928年)10月15日 植柱鋼鐡架線柱

    横浜駅

  • 横濱-程ヶ谷間<br /><br /><br /><br />旧東海道本線線路敷<br />昭和3年(1928年)10月14日まで東海道本線旅客線現位置移転まで当該建築物敷地を通過していた。<br />昭和4年(1929年)8月21日に、品川-新鶴見-鶴見-程ケ谷(現 保土ヶ谷)間貨物線開通で不要施設となり、同年9月16日に廃線。<br />大東亜戦争後まで空地だったが、後に国鉄職員住宅が建設され、現在は国鉄清算事業団所有を経て大部分が民間払下されマンション群が林立。<br />最近説明柱設置。

    横濱-程ヶ谷間



    旧東海道本線線路敷
    昭和3年(1928年)10月14日まで東海道本線旅客線現位置移転まで当該建築物敷地を通過していた。
    昭和4年(1929年)8月21日に、品川-新鶴見-鶴見-程ケ谷(現 保土ヶ谷)間貨物線開通で不要施設となり、同年9月16日に廃線。
    大東亜戦争後まで空地だったが、後に国鉄職員住宅が建設され、現在は国鉄清算事業団所有を経て大部分が民間払下されマンション群が林立。
    最近説明柱設置。

  • 横浜Ⅲ-保土ヶ谷間<br /><br /><br /><br />東海道本線新旧線合流地点<br />東京方<br />俯瞰

    横浜Ⅲ-保土ヶ谷間



    東海道本線新旧線合流地点
    東京方
    俯瞰

  • 横浜-保土ヶ谷間<br /><br /><br /><br />旧東海道本線線路跡<br />該地に水道道橋梁4線複々線橋台跡が残存していたが、当該地は日本国有鉄道清算事業団を経て横浜市に払下後、地域施設建設と同時に埋没。

    横浜-保土ヶ谷間



    旧東海道本線線路跡
    該地に水道道橋梁4線複々線橋台跡が残存していたが、当該地は日本国有鉄道清算事業団を経て横浜市に払下後、地域施設建設と同時に埋没。

  • 横浜-保土ヶ谷間<br /><br /><br /><br />水道道人道跨線橋<br />昭和39年(1964年)9月15日附設置。<br />因みに、当該踏切上に設置されていた相模鉄道西横浜駅本屋は移動を余儀無くし、12月1日附で橋上駅舎化された。

    横浜-保土ヶ谷間



    水道道人道跨線橋
    昭和39年(1964年)9月15日附設置。
    因みに、当該踏切上に設置されていた相模鉄道西横浜駅本屋は移動を余儀無くし、12月1日附で橋上駅舎化された。

    西横浜駅

  • 横浜-保土ヶ谷間<br /><br /><br /><br />水道道踏切跡<br />該道は横濱市内への水道供給本管設置の為に敷設されたが、明治27年(1894年)12月に神奈川-程ケ谷(現 保土ヶ谷)間短路線敷設時に踏切設置。<br />その後、交通量増加に伴い該踏切閉止時間が長時間たる事から廃止が決定され、昭和39年(1964年)5月14日附で工事開始、9月15日附で廃止された。<br />因みに、当該踏切上に設置されていた相模鉄道西横浜駅本屋は移転を余儀無くし、12月1日附で橋上駅舎化された。

    横浜-保土ヶ谷間



    水道道踏切跡
    該道は横濱市内への水道供給本管設置の為に敷設されたが、明治27年(1894年)12月に神奈川-程ケ谷(現 保土ヶ谷)間短路線敷設時に踏切設置。
    その後、交通量増加に伴い該踏切閉止時間が長時間たる事から廃止が決定され、昭和39年(1964年)5月14日附で工事開始、9月15日附で廃止された。
    因みに、当該踏切上に設置されていた相模鉄道西横浜駅本屋は移転を余儀無くし、12月1日附で橋上駅舎化された。

  • 横浜-保土ヶ谷間<br /><br /><br /><br />旧東海道本線線路跡、及び、旧相模鉄道連絡線跡

    横浜-保土ヶ谷間



    旧東海道本線線路跡、及び、旧相模鉄道連絡線跡

  • 西横浜駅<br /><br /><br /><br />相模鉄道日本国有鉄道連絡線跡

    西横浜駅



    相模鉄道日本国有鉄道連絡線跡

  • 横浜-保土ヶ谷間<br /><br /><br /><br />旧相模鉄道連絡線跡<br />元来は、左手集合住宅地に存在した大正15年(1926年)3月10日設置の東洋電機株式会社横濱工場貨物専用線。<br />該駅と相模鐵道神中線西横浜駅は隣接してたが何故か連絡線が存在しなかった。<br />大東亜戦争中に帝國海軍厚木航空隊への航空燃料輸送で、当時の相模線は単線非電化故に大量輸送は困難であり、終戦後、該航空隊に進駐して来た米空軍は運輸省鉄道総局に対し、該駅と西横浜駅間連絡線建設を要求した事から、昭和23年(1948年)9月20日に該専用線を活用し分岐設置され、貨車授受、及び、旅客車輌搬入等々に使用され、相模鉄道電気機関車が該線経由で保土ヶ谷駅貨物取扱業務を行った。<br />然し、東海道線横須賀線分離運転に鑑み、東海道貨物線別線化の為に昭和54年(1979年)10月6日附で保土ヶ谷駅貨物取扱廃止に依り廃線。

    横浜-保土ヶ谷間



    旧相模鉄道連絡線跡
    元来は、左手集合住宅地に存在した大正15年(1926年)3月10日設置の東洋電機株式会社横濱工場貨物専用線。
    該駅と相模鐵道神中線西横浜駅は隣接してたが何故か連絡線が存在しなかった。
    大東亜戦争中に帝國海軍厚木航空隊への航空燃料輸送で、当時の相模線は単線非電化故に大量輸送は困難であり、終戦後、該航空隊に進駐して来た米空軍は運輸省鉄道総局に対し、該駅と西横浜駅間連絡線建設を要求した事から、昭和23年(1948年)9月20日に該専用線を活用し分岐設置され、貨車授受、及び、旅客車輌搬入等々に使用され、相模鉄道電気機関車が該線経由で保土ヶ谷駅貨物取扱業務を行った。
    然し、東海道線横須賀線分離運転に鑑み、東海道貨物線別線化の為に昭和54年(1979年)10月6日附で保土ヶ谷駅貨物取扱廃止に依り廃線。

  • 横浜-保土ヶ谷間<br /><br /><br /><br />旧相模鉄道連絡線跡

    横浜-保土ヶ谷間



    旧相模鉄道連絡線跡

  • 横浜-保土ヶ谷駅<br /><br /><br /><br />保土ヶ谷駅<br />神戸方<br />構内俯瞰

    横浜-保土ヶ谷駅



    保土ヶ谷駅
    神戸方
    構内俯瞰

  • 保土ヶ谷(ほどがや)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治20年(1887年)7月11日開業である。<br />但し、開業当初は 程ケ谷(ほどがや)駅として開業。<br />日清(にっしん)戦争(明治27年(1894年)7月25日~明治28年(1895年)11月30日)勃発に伴い、当時の初代横濱駅に於けるスイッチバックに拠る貨物滞貨に業を煮やした帝國陸軍は、明治27年(1894年)12月某日に、横濱Ⅰ駅を不経由とする神奈川-程ケ谷間に短路線が建設され列車の直通運転を可能ならしめたが、日清戦争終結後、該路線は使用される事も無く休止状態だった事から、逓信省鐵道作業局は陸軍省から該短路線の譲渡を受け、直通列車に限定し運用開始したが、明治31年(1898年)から該区間内に平沼驛が開設される明治34年(1901年)10日10日まで、程ケ谷驛に急行列車が停車していた。<br />明治末期の程ケ谷には、既に、日本絹綿紡績會社、及び、東京麦酒株式会社醸造所工場が進出設置されていたが、該完成品発送地は神奈川驛、若しくは、初代横濱驛に馬車で搬送して積込んでいたが、該駅は遠隔故に不経済たる事夥しく、明治31年(1898年)2月に程ケ谷町総代 岡野欣之助(おかの きんのすけ)は、当時の逓信大臣 末松謙澄(すえまつ のりずみ)(安政2年(1855年)9月30日~大正9年(1920年)10月5日)に貨物取扱請願書を提出し、該請願書審査の結果、翌明治32年(1899年)12月1日より貨物取扱を開始する。<br />初代程ケ谷駅はカーブ上に立地し、ホーム両端部は踏切が存在する事から、ホーム延長が困難と判断され、大正3年(1914年)3月25日に現位置に移転し、更に、大正6年(1917年)3月28日に第2代目駅本屋、及び、新ホームが竣工した。<br />因みに、新ホーム上屋支柱古軌条は、内務省八幡製鐵所が明治34年(1901年)11月16日に軌条生産を開始時の146本内数本が使用され、歴史的産業遺産上、重要な存在だったが、昭和54年(1979年)に東海道・横須賀線分離運転工事開始に伴うホーム解体後は遺憾にも廃棄処分された。<br />大正3年(1914年)7月に第1次世界大戦が勃発し、我が国は未曾有の好景気にさらされたが、反面、我が国と敵対関係となった独墺は勿論、連合国側たる英仏米も自国軍需品生産の為に工場がフル稼働状態下では、他国発注に応じる余裕は困難であり、事実、該時期を境に欧米諸国からの輸入は途絶状態を見るに至った。<br />此れは我が国に深刻な状況を現出させ、それ迄の海外依存体制から自国生産体制への転換を迫られる事となった。<br />鐵道院大井工場では、直流600V36kW電車用電動機を解体精査し、鉄道車輌用電動機、及び、鉄道車輌用制御器等々の国産化をすべく、大正7年(1918年)6月24日に東洋電機製造株式會社が設立され、程ケ谷駅隣接地たる橘樹郡保土ヶ谷町久保16に用地を求め、該品製造の為に、大正15年(1926年)3月10日附で東洋電機横濱工場が開設され、該駅に於ける代表的な貨物出荷品となる。<br />該駅第17代駅長 新井堯爾(あらい たかし)(明治19年(1886年)5月15日~昭和41年(1966年)5月9日)(大正3年(1914年)12月23日~大正4年(1915年)5月27日在任)は、埼玉県白岡市出身の鉄道官僚、政治家。<br />明治45年(1912年)東京帝國大学法学部卒業後、翌大正2年(1913年)11月の高等文官任用行政科試験に優等合格。<br />該試験同期優等合格者に、榎本重治(えのもと しげはる)(明治23年(1890年)1月~昭和54年(1979年))内閣鐵道院→海軍省採用、石射猪太郎(いしい いたろう)(明治20年(1887年)2月6日~昭和29年(1954年)2月8日)外務省採用、木下道雄(きのした みちお)(明治20年(1887年)6月13日~昭和49年(1974年)12月5日)内務省採用→昭和天皇侍従、等々が居る。<br />新井は本人の希望通り当時の内閣鐵道院に採用、本院研修後、沼津驛見習助役に任官後、大正3年(1914年)12月23日附で該驛長に任官。<br />その後、大正4年(1915年)5月27日附で東京鐵道管理局庶務課賠償掛長兼保険掛長に転属した。<br />新井は大正5年(1916年)11月28日に結婚したが、翌29日に東北本線下田-古間木(現 三沢)間に於いて、古間木驛助役通票閉塞器不正取扱に依る臨時旅客列車と貨物列車の正面衝突事故発生の為に、臨時旅客列車乗車の帝國陸軍弘前第8師団入営壮丁乗客619名中、死者29名、重軽傷者171名を出す重大事故発生の為に、該職在任中の新井は結婚式翌日だったにも拘らず急遽現地に出張し、被害者遺族との折衝に明け暮れさせられた。<br />新井は欧米鉄道事情研究を目的に私費留学を決意し、大正10年(1921年)8月に鐵道省を依願休職し渡航したが、欧米では交通と観光が一体化する事実を識る。<br />不幸にして留学中に関東大震災が発生した為に留学を中止し、帰国を余儀無くさせられた。<br />昭和期ともなると訪日外国人観光客集客に依る外貨獲得が真剣に論議され、昭和4年(1929年)3月関連の第56帝國議会に於いて、衆貴両院は訪日外国観光客に関する調査を実施し、同年11月26日附で閣議決定を受け、鐵道省は省内に國際観光局を新設し、新井が初代局長(昭和5年(1930年)4月24日~昭和7年(1932年)1月16日在任)に就任した。<br />その後、東京鐵道局長(昭和7年(1932年)1月16日~昭和9年(1934年)8月4日在任)を経て、昭和9年(1934年)8月4日に鐵道省運輸局長に就任し、昭和12年(1937年)7月14日に退官するまで該職に在った。<br />静岡県興津に隠棲していた最後の元老 西園寺公望(さいおんじ きんもち)公(嘉永2年(1849年)12月7日~昭和15年(1940年)11月24日)の私設秘書 原田熊雄(はらだ くまお)(明治21年(1888年)1月7日~昭和21年(1946年)2月26日)と新井とは学生時代からの昵懇飲み仲間で大親友だった。<br />昭和11年(1936年)2月26日払暁発生した、陸軍皇道派青年将校に依る国家反逆事件たる 2.26事件に於いて、該青年将校達が所属部隊を無断濫悪用し、第124代 昭和(しょうわ )天皇(明治34年(1901年)4月29日~昭和64年(1989年)1月7日)(昭和元年(1926年)12月25日~昭和64年(1989年)1月7日御在位)の側近をして、君側の奸を賊として征伐すると称し重臣や高級軍人を襲撃殺傷した際に、新井は原田も主要襲撃対象者たる事を知り、新井は自身の危険をも顧みず鐵道省高等官たる地位を利用し、原田に新井の鐵道省高等官制服を着用させ、周囲に原田を鐵道省高官だと身分を偽らさせた上で、原田を東京から興津に脱出させ、戒厳令発令に拠る電信電話が途絶し軍公務以外の一般車道路通行禁止となり、東京府、神奈川県発着は皆無で事態真相把握に焦慮していた西園寺公は、戒厳令下で閉鎖された東京驛に代り新橋驛特発となった特別急行 燕 号に乗車し無事興津に脱出到着した原田から初めて事件の全体像を把握する事が可能になり、昭和天皇の下、事態収拾に向う。<br />鐵道省退官後は、昭和14年(1939年)4月30日附で華中鐵道理事に招聘されたが、大東亜戦争中たる昭和17年(1942年)4月30日公示の第23回衆議院議員選挙に大政翼賛会推薦で埼玉3区から立候補当選し昭和20年(1945年)12月18日まで議席を有した。<br />然るに、新井は鐵道省在職中の経験から欧米事情に精通し、大政翼賛会推挙でありながら偏狭的国粋主義思潮には一切同調せず、時の東條内閣(昭和16年(1941年)10月18日~昭和19年(1944年)7月22日在任)の施政方針には完全に対し批判的立場であり、その後、志を同じくする大政翼賛会推薦議員有志、岸信介(きし のぶすけ)(明治29年(1896年)11月13日~昭和62年(1987年)8月7日)を筆頭に秘密裏に組織された憂國同志会が結成時に、中谷武世(なかたに たけし)(明治31年(1898年)7月1日~平成2年(1990年)10月21日)、赤城宗徳(あかぎ むねのり)(明治37年(1904年12月2日~平成5年(1993年)11月11日)、椎名悦三郎(しいな えつざぶろう)(明治31年(1898年)1月10日~昭和54年(1979年)9月30日)等と共に参加し、東條内閣倒閣運動を表裏展開活動した。<br />大東亜戦争継続が絶望的状況になりつつある時、元駐英大使 吉田 茂(よしだ しげる)(明治11年(1878年)9月22日~昭和42年(1967年)10月20日)は、該在英経験を生かし、英國を仲介背景とする我が国と聯合国側との和平を真剣に考えていた際に、新井は原田と共に、吉田の思想に賛同し協力を惜しまなかった事から、憲兵隊から危険思想持主として要注意人物視され要監視対象された。<br />昭和20年(1945年)4月7日附で 第42代内閣総理大臣に 鈴木貫太郎(すずき かんたろう)(慶應4年(1868年)1月18日~昭和23年(1948年)4月17日)(昭和20年(1945年)4月7日~同年8月17日組閣)が任命され、秘に終戦内閣として始動すると、該内閣第24代海軍大臣 海軍大将 米内光政(よない みつまさ)(明治13年(1880年)3月2日~昭和23年(1948年)4月20日))(昭和20年(1945年)4月7日~同年8月17日在任)、第23代海軍次官 海軍中将 井上成美(いのうえ しげよし)(明治22年(1889年)12月9日~昭和50年(1975年)12月15日)は、海軍第16代教育局長 海軍少将 高木惣吉(たかき そうきち)(明治26年(1893年)8月9日~昭和54年(1979年)7月27日)(昭和19年3月1日~9月9日在任)に対し終戦工作を命じたが、病床の原田に代り新井は高木に協力を惜しまず援護した。<br />新井は大東亜戦争後に日本交通公社会長を前後2期務め(昭和24年(1949年)12月24日~昭和25年(1950年)1月9日)、及び、昭和30年(1955年)1月19日~昭和36年(1961年)1月30日)、更に、昭和27年(1952年)10月1日の第25回衆議院議員選挙に埼玉県から無所属で出馬当選し、在期中に自由党に入党したが、翌昭和28年(1953年)4月19日の第26回衆議院議員選挙で自由党候補として出馬するも落選した。<br />因みに、第61~63代内閣総理大臣に就任した佐藤栄作(さとう えいさく)(明治34年(1901年)3月27日~昭和50年(1975年)6月3日)(昭和39年(1964年)11月9日~昭和47年(1972年)7月7日組閣)は、新井を単に鉄道官僚や政治家の先輩としてでは無く、終生佐藤自身の師として仰ぎ崇敬していた。<br />京濱線東京-櫻木町間は帝國海軍の要請も在り、鐵道省は櫻木町-浦賀間延長を検討し、取敢えず、横浜市内に建設工事に必要な用地収得を開始したが、既に該地域は住宅密集地であり困難を極める。<br />大正10年(1921年)には、櫻木町-蒔田-程ケ谷間延長が決定し工事着工を待つばかりだったが、着手直前に関東大震災に見舞われ、震災復旧を最優先とされた事から、やがて延長計画は予算不足から中止となり画餅と化した。<br />鐵道省は、横浜市内に於ける取得済用地を昭和3年(1928年)11月5日附で湘南電気鐵道に払下げ、該社に拠り、昭和5年(1930年)4月1日に黄金町-浦賀間が開通した。<br />関東大震災以前、現在の東口付近は現在のUR都市機構保土ヶ谷駅前ハイツ所在地付近より神奈川県税保土ヶ谷事務所所在地付近は、浅野セメント原料採取場が存在し、貨物取扱場が存在した以外は人家は僅少だった。<br />然るに、関東大震災後の横浜市復興計画に於いて、内務省震災復興局主導に拠る現国道1号線設置に伴い、浅野セメント土砂採取場は撤退し、跡地は住宅地へと変貌を遂げつつ状況に在った。<br />大正13年(1924年)に複々線化工事一環として相対式ホームを島式ホームに改築された。<br />横浜市は市域拡大の為に、昭和2年(1927年)4月1日に橘樹郡保土ヶ谷町を横浜市に編入したが、更に、同年12月1日附で該地域に保土ヶ谷区が成立した。<br />横須賀線は昭和5年(1930年)3月15日より全面電車化されたが、此れを受け、程ケ谷は戸塚と共に東海道線列車は通過となり横須賀線電車停車専用駅となる。<br />同年12月28日には国道1号線上を横浜市電が藤棚-程ケ谷駅前まで延長される。<br />昭和3年(1928年)5月8日7時35分頃、該驛構内に於いて事故が発生した。<br />即ち、八王子発横濱線経由東神奈川、濱神奈川、高島経由鎌倉行 臨時旅客第1902列車8両編成は、八王子-程ケ谷間牽引の蒸気機関車を解放し、該駅より牽引の電気機関車連結時に、速度節制を誤り、神戸方1両目客車に激突し連結器が損傷した。<br />該事故に依り、修学旅行尋常小学校生徒27名、職員1名が重軽傷を負った。<br />該当時は、東神奈川から貨物線が存在し、高島から該駅への貨物線も存在した事から、かくの如き経路を運転する事も亦可能だった。<br />該駅構内で、翌昭和4年(1929年)10月6日23時8分頃にも重大事故が発生した。<br />該駅貨物線通過中の上り貨物第58列車 D50338牽引61両編成は、前から11両目の木材運搬無蓋車が脱線し積荷木材が線路上に散乱した為に、該列車貨車29両が脱線、2両が大破被害が発生したのみならず、反対側貨物線を走行中の下り貨物第55列車 D50339牽引56両編成に被害が及び、12両が脱線、3両が大破する二重事故となった。<br />事故原因は競合脱線と推定された。<br />線路被害が大きく、翌7日6時10分に単線復旧、複線復旧は同月9日11時20分だったが、客貨分離複々線化直後の事故だった為に、旅客列車への影響は無かった。<br />地元から区名に合せ駅名改称は要望が強く出されていたが、昭和6年(1931年)10月1日附で現駅名に改称された。<br />該駅東側地区からは長年に亘り、改札口設置要望がなされていたが、此れを受け昭和13年(1938年)3月25日に東口が設置される。<br />大東亜戦争中、昭和20年(1945年)5月29日に横浜市は大空襲被害を受けたが、該駅では構内職員配給所に焼夷弾が命中し全焼した以外は、構内留置中の貨車11両に被害が生じた。<br />また、終戦の日たる同年8月15日9時20分頃、該駅停車中の横須賀線下り電車に米P51艦載機が機銃掃射を浴びせ職員1名が両眼を打ち抜かれる重傷を生じた。<br />該駅付近は相模鉄道線と隣接しながら何故か連絡線設備が存在せず、大東亜戦争後、進駐軍から貨物取扱業務に就いて、従来の厚木経由では不便との指摘から、東洋電機横浜工場専用線を一部活用し、昭和23年(1948年)9月20日に、該駅対相模鉄道西横浜駅間に連絡線が完成し、貨車、及び、車輌の搬入搬出に利用された。<br />該第2代目駅本屋は、東海道線横須賀線分離運転工事に支障し、橋上化させる事に決定を見た為に、昭和54年(1979年)12月に解体された。<br />現第3代目駅本屋は、該路線分離運転直前たる昭和56年(1981年)2月1日に竣工。<br />更に、駅ビル アーバン は、平成3年(1991年)5月1日に完成した。<br />駅前には、第2代目駅本屋移転時に記念植樹した大銀杏樹が101年の歳月を経て現存する。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1404

    保土ヶ谷(ほどがや)駅



    該駅は、明治20年(1887年)7月11日開業である。
    但し、開業当初は 程ケ谷(ほどがや)駅として開業。
    日清(にっしん)戦争(明治27年(1894年)7月25日~明治28年(1895年)11月30日)勃発に伴い、当時の初代横濱駅に於けるスイッチバックに拠る貨物滞貨に業を煮やした帝國陸軍は、明治27年(1894年)12月某日に、横濱Ⅰ駅を不経由とする神奈川-程ケ谷間に短路線が建設され列車の直通運転を可能ならしめたが、日清戦争終結後、該路線は使用される事も無く休止状態だった事から、逓信省鐵道作業局は陸軍省から該短路線の譲渡を受け、直通列車に限定し運用開始したが、明治31年(1898年)から該区間内に平沼驛が開設される明治34年(1901年)10日10日まで、程ケ谷驛に急行列車が停車していた。
    明治末期の程ケ谷には、既に、日本絹綿紡績會社、及び、東京麦酒株式会社醸造所工場が進出設置されていたが、該完成品発送地は神奈川驛、若しくは、初代横濱驛に馬車で搬送して積込んでいたが、該駅は遠隔故に不経済たる事夥しく、明治31年(1898年)2月に程ケ谷町総代 岡野欣之助(おかの きんのすけ)は、当時の逓信大臣 末松謙澄(すえまつ のりずみ)(安政2年(1855年)9月30日~大正9年(1920年)10月5日)に貨物取扱請願書を提出し、該請願書審査の結果、翌明治32年(1899年)12月1日より貨物取扱を開始する。
    初代程ケ谷駅はカーブ上に立地し、ホーム両端部は踏切が存在する事から、ホーム延長が困難と判断され、大正3年(1914年)3月25日に現位置に移転し、更に、大正6年(1917年)3月28日に第2代目駅本屋、及び、新ホームが竣工した。
    因みに、新ホーム上屋支柱古軌条は、内務省八幡製鐵所が明治34年(1901年)11月16日に軌条生産を開始時の146本内数本が使用され、歴史的産業遺産上、重要な存在だったが、昭和54年(1979年)に東海道・横須賀線分離運転工事開始に伴うホーム解体後は遺憾にも廃棄処分された。
    大正3年(1914年)7月に第1次世界大戦が勃発し、我が国は未曾有の好景気にさらされたが、反面、我が国と敵対関係となった独墺は勿論、連合国側たる英仏米も自国軍需品生産の為に工場がフル稼働状態下では、他国発注に応じる余裕は困難であり、事実、該時期を境に欧米諸国からの輸入は途絶状態を見るに至った。
    此れは我が国に深刻な状況を現出させ、それ迄の海外依存体制から自国生産体制への転換を迫られる事となった。
    鐵道院大井工場では、直流600V36kW電車用電動機を解体精査し、鉄道車輌用電動機、及び、鉄道車輌用制御器等々の国産化をすべく、大正7年(1918年)6月24日に東洋電機製造株式會社が設立され、程ケ谷駅隣接地たる橘樹郡保土ヶ谷町久保16に用地を求め、該品製造の為に、大正15年(1926年)3月10日附で東洋電機横濱工場が開設され、該駅に於ける代表的な貨物出荷品となる。
    該駅第17代駅長 新井堯爾(あらい たかし)(明治19年(1886年)5月15日~昭和41年(1966年)5月9日)(大正3年(1914年)12月23日~大正4年(1915年)5月27日在任)は、埼玉県白岡市出身の鉄道官僚、政治家。
    明治45年(1912年)東京帝國大学法学部卒業後、翌大正2年(1913年)11月の高等文官任用行政科試験に優等合格。
    該試験同期優等合格者に、榎本重治(えのもと しげはる)(明治23年(1890年)1月~昭和54年(1979年))内閣鐵道院→海軍省採用、石射猪太郎(いしい いたろう)(明治20年(1887年)2月6日~昭和29年(1954年)2月8日)外務省採用、木下道雄(きのした みちお)(明治20年(1887年)6月13日~昭和49年(1974年)12月5日)内務省採用→昭和天皇侍従、等々が居る。
    新井は本人の希望通り当時の内閣鐵道院に採用、本院研修後、沼津驛見習助役に任官後、大正3年(1914年)12月23日附で該驛長に任官。
    その後、大正4年(1915年)5月27日附で東京鐵道管理局庶務課賠償掛長兼保険掛長に転属した。
    新井は大正5年(1916年)11月28日に結婚したが、翌29日に東北本線下田-古間木(現 三沢)間に於いて、古間木驛助役通票閉塞器不正取扱に依る臨時旅客列車と貨物列車の正面衝突事故発生の為に、臨時旅客列車乗車の帝國陸軍弘前第8師団入営壮丁乗客619名中、死者29名、重軽傷者171名を出す重大事故発生の為に、該職在任中の新井は結婚式翌日だったにも拘らず急遽現地に出張し、被害者遺族との折衝に明け暮れさせられた。
    新井は欧米鉄道事情研究を目的に私費留学を決意し、大正10年(1921年)8月に鐵道省を依願休職し渡航したが、欧米では交通と観光が一体化する事実を識る。
    不幸にして留学中に関東大震災が発生した為に留学を中止し、帰国を余儀無くさせられた。
    昭和期ともなると訪日外国人観光客集客に依る外貨獲得が真剣に論議され、昭和4年(1929年)3月関連の第56帝國議会に於いて、衆貴両院は訪日外国観光客に関する調査を実施し、同年11月26日附で閣議決定を受け、鐵道省は省内に國際観光局を新設し、新井が初代局長(昭和5年(1930年)4月24日~昭和7年(1932年)1月16日在任)に就任した。
    その後、東京鐵道局長(昭和7年(1932年)1月16日~昭和9年(1934年)8月4日在任)を経て、昭和9年(1934年)8月4日に鐵道省運輸局長に就任し、昭和12年(1937年)7月14日に退官するまで該職に在った。
    静岡県興津に隠棲していた最後の元老 西園寺公望(さいおんじ きんもち)公(嘉永2年(1849年)12月7日~昭和15年(1940年)11月24日)の私設秘書 原田熊雄(はらだ くまお)(明治21年(1888年)1月7日~昭和21年(1946年)2月26日)と新井とは学生時代からの昵懇飲み仲間で大親友だった。
    昭和11年(1936年)2月26日払暁発生した、陸軍皇道派青年将校に依る国家反逆事件たる 2.26事件に於いて、該青年将校達が所属部隊を無断濫悪用し、第124代 昭和(しょうわ )天皇(明治34年(1901年)4月29日~昭和64年(1989年)1月7日)(昭和元年(1926年)12月25日~昭和64年(1989年)1月7日御在位)の側近をして、君側の奸を賊として征伐すると称し重臣や高級軍人を襲撃殺傷した際に、新井は原田も主要襲撃対象者たる事を知り、新井は自身の危険をも顧みず鐵道省高等官たる地位を利用し、原田に新井の鐵道省高等官制服を着用させ、周囲に原田を鐵道省高官だと身分を偽らさせた上で、原田を東京から興津に脱出させ、戒厳令発令に拠る電信電話が途絶し軍公務以外の一般車道路通行禁止となり、東京府、神奈川県発着は皆無で事態真相把握に焦慮していた西園寺公は、戒厳令下で閉鎖された東京驛に代り新橋驛特発となった特別急行 燕 号に乗車し無事興津に脱出到着した原田から初めて事件の全体像を把握する事が可能になり、昭和天皇の下、事態収拾に向う。
    鐵道省退官後は、昭和14年(1939年)4月30日附で華中鐵道理事に招聘されたが、大東亜戦争中たる昭和17年(1942年)4月30日公示の第23回衆議院議員選挙に大政翼賛会推薦で埼玉3区から立候補当選し昭和20年(1945年)12月18日まで議席を有した。
    然るに、新井は鐵道省在職中の経験から欧米事情に精通し、大政翼賛会推挙でありながら偏狭的国粋主義思潮には一切同調せず、時の東條内閣(昭和16年(1941年)10月18日~昭和19年(1944年)7月22日在任)の施政方針には完全に対し批判的立場であり、その後、志を同じくする大政翼賛会推薦議員有志、岸信介(きし のぶすけ)(明治29年(1896年)11月13日~昭和62年(1987年)8月7日)を筆頭に秘密裏に組織された憂國同志会が結成時に、中谷武世(なかたに たけし)(明治31年(1898年)7月1日~平成2年(1990年)10月21日)、赤城宗徳(あかぎ むねのり)(明治37年(1904年12月2日~平成5年(1993年)11月11日)、椎名悦三郎(しいな えつざぶろう)(明治31年(1898年)1月10日~昭和54年(1979年)9月30日)等と共に参加し、東條内閣倒閣運動を表裏展開活動した。
    大東亜戦争継続が絶望的状況になりつつある時、元駐英大使 吉田 茂(よしだ しげる)(明治11年(1878年)9月22日~昭和42年(1967年)10月20日)は、該在英経験を生かし、英國を仲介背景とする我が国と聯合国側との和平を真剣に考えていた際に、新井は原田と共に、吉田の思想に賛同し協力を惜しまなかった事から、憲兵隊から危険思想持主として要注意人物視され要監視対象された。
    昭和20年(1945年)4月7日附で 第42代内閣総理大臣に 鈴木貫太郎(すずき かんたろう)(慶應4年(1868年)1月18日~昭和23年(1948年)4月17日)(昭和20年(1945年)4月7日~同年8月17日組閣)が任命され、秘に終戦内閣として始動すると、該内閣第24代海軍大臣 海軍大将 米内光政(よない みつまさ)(明治13年(1880年)3月2日~昭和23年(1948年)4月20日))(昭和20年(1945年)4月7日~同年8月17日在任)、第23代海軍次官 海軍中将 井上成美(いのうえ しげよし)(明治22年(1889年)12月9日~昭和50年(1975年)12月15日)は、海軍第16代教育局長 海軍少将 高木惣吉(たかき そうきち)(明治26年(1893年)8月9日~昭和54年(1979年)7月27日)(昭和19年3月1日~9月9日在任)に対し終戦工作を命じたが、病床の原田に代り新井は高木に協力を惜しまず援護した。
    新井は大東亜戦争後に日本交通公社会長を前後2期務め(昭和24年(1949年)12月24日~昭和25年(1950年)1月9日)、及び、昭和30年(1955年)1月19日~昭和36年(1961年)1月30日)、更に、昭和27年(1952年)10月1日の第25回衆議院議員選挙に埼玉県から無所属で出馬当選し、在期中に自由党に入党したが、翌昭和28年(1953年)4月19日の第26回衆議院議員選挙で自由党候補として出馬するも落選した。
    因みに、第61~63代内閣総理大臣に就任した佐藤栄作(さとう えいさく)(明治34年(1901年)3月27日~昭和50年(1975年)6月3日)(昭和39年(1964年)11月9日~昭和47年(1972年)7月7日組閣)は、新井を単に鉄道官僚や政治家の先輩としてでは無く、終生佐藤自身の師として仰ぎ崇敬していた。
    京濱線東京-櫻木町間は帝國海軍の要請も在り、鐵道省は櫻木町-浦賀間延長を検討し、取敢えず、横浜市内に建設工事に必要な用地収得を開始したが、既に該地域は住宅密集地であり困難を極める。
    大正10年(1921年)には、櫻木町-蒔田-程ケ谷間延長が決定し工事着工を待つばかりだったが、着手直前に関東大震災に見舞われ、震災復旧を最優先とされた事から、やがて延長計画は予算不足から中止となり画餅と化した。
    鐵道省は、横浜市内に於ける取得済用地を昭和3年(1928年)11月5日附で湘南電気鐵道に払下げ、該社に拠り、昭和5年(1930年)4月1日に黄金町-浦賀間が開通した。
    関東大震災以前、現在の東口付近は現在のUR都市機構保土ヶ谷駅前ハイツ所在地付近より神奈川県税保土ヶ谷事務所所在地付近は、浅野セメント原料採取場が存在し、貨物取扱場が存在した以外は人家は僅少だった。
    然るに、関東大震災後の横浜市復興計画に於いて、内務省震災復興局主導に拠る現国道1号線設置に伴い、浅野セメント土砂採取場は撤退し、跡地は住宅地へと変貌を遂げつつ状況に在った。
    大正13年(1924年)に複々線化工事一環として相対式ホームを島式ホームに改築された。
    横浜市は市域拡大の為に、昭和2年(1927年)4月1日に橘樹郡保土ヶ谷町を横浜市に編入したが、更に、同年12月1日附で該地域に保土ヶ谷区が成立した。
    横須賀線は昭和5年(1930年)3月15日より全面電車化されたが、此れを受け、程ケ谷は戸塚と共に東海道線列車は通過となり横須賀線電車停車専用駅となる。
    同年12月28日には国道1号線上を横浜市電が藤棚-程ケ谷駅前まで延長される。
    昭和3年(1928年)5月8日7時35分頃、該驛構内に於いて事故が発生した。
    即ち、八王子発横濱線経由東神奈川、濱神奈川、高島経由鎌倉行 臨時旅客第1902列車8両編成は、八王子-程ケ谷間牽引の蒸気機関車を解放し、該駅より牽引の電気機関車連結時に、速度節制を誤り、神戸方1両目客車に激突し連結器が損傷した。
    該事故に依り、修学旅行尋常小学校生徒27名、職員1名が重軽傷を負った。
    該当時は、東神奈川から貨物線が存在し、高島から該駅への貨物線も存在した事から、かくの如き経路を運転する事も亦可能だった。
    該駅構内で、翌昭和4年(1929年)10月6日23時8分頃にも重大事故が発生した。
    該駅貨物線通過中の上り貨物第58列車 D50338牽引61両編成は、前から11両目の木材運搬無蓋車が脱線し積荷木材が線路上に散乱した為に、該列車貨車29両が脱線、2両が大破被害が発生したのみならず、反対側貨物線を走行中の下り貨物第55列車 D50339牽引56両編成に被害が及び、12両が脱線、3両が大破する二重事故となった。
    事故原因は競合脱線と推定された。
    線路被害が大きく、翌7日6時10分に単線復旧、複線復旧は同月9日11時20分だったが、客貨分離複々線化直後の事故だった為に、旅客列車への影響は無かった。
    地元から区名に合せ駅名改称は要望が強く出されていたが、昭和6年(1931年)10月1日附で現駅名に改称された。
    該駅東側地区からは長年に亘り、改札口設置要望がなされていたが、此れを受け昭和13年(1938年)3月25日に東口が設置される。
    大東亜戦争中、昭和20年(1945年)5月29日に横浜市は大空襲被害を受けたが、該駅では構内職員配給所に焼夷弾が命中し全焼した以外は、構内留置中の貨車11両に被害が生じた。
    また、終戦の日たる同年8月15日9時20分頃、該駅停車中の横須賀線下り電車に米P51艦載機が機銃掃射を浴びせ職員1名が両眼を打ち抜かれる重傷を生じた。
    該駅付近は相模鉄道線と隣接しながら何故か連絡線設備が存在せず、大東亜戦争後、進駐軍から貨物取扱業務に就いて、従来の厚木経由では不便との指摘から、東洋電機横浜工場専用線を一部活用し、昭和23年(1948年)9月20日に、該駅対相模鉄道西横浜駅間に連絡線が完成し、貨車、及び、車輌の搬入搬出に利用された。
    該第2代目駅本屋は、東海道線横須賀線分離運転工事に支障し、橋上化させる事に決定を見た為に、昭和54年(1979年)12月に解体された。
    現第3代目駅本屋は、該路線分離運転直前たる昭和56年(1981年)2月1日に竣工。
    更に、駅ビル アーバン は、平成3年(1991年)5月1日に完成した。
    駅前には、第2代目駅本屋移転時に記念植樹した大銀杏樹が101年の歳月を経て現存する。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1404

    保土ケ谷駅

  • 保土ヶ谷駅<br /><br /><br /><br />大銀杏<br />現駅開業時植樹。<br />樹齢102年。<br />昭和56年(1981年)2月に駅橋上化時に画面左手から右手に移植。

    保土ヶ谷駅



    大銀杏
    現駅開業時植樹。
    樹齢102年。
    昭和56年(1981年)2月に駅橋上化時に画面左手から右手に移植。

    保土ケ谷駅

  • 保土ヶ谷駅<br /><br /><br /><br />改札口

    保土ヶ谷駅



    改札口

    保土ケ谷駅

  • 保土ヶ谷駅<br /><br /><br /><br />東口<br />東口設置は、昭和13年(1938年)3月25日附開設。

    保土ヶ谷駅



    東口
    東口設置は、昭和13年(1938年)3月25日附開設。

    保土ケ谷駅

  • 保土ヶ谷駅<br /><br /><br /><br />東口

    保土ヶ谷駅



    東口

    保土ケ谷駅

  • 保土ヶ谷駅<br /><br /><br /><br />旧旅客第1番ホーム跡<br />明治20年(1887年)7月11日開業時設置。<br />煉瓦積ホーム側壁。<br />架線柱付近に跨線橋が存在した。<br />ホーム手前がカーブしているのは、昭和3年(1928年)該駅改良時に改造設置された分岐器跡。<br />その後は第2代駅本屋旅客ホーム連絡通路として昭和54年(1979年)まで使用。

    保土ヶ谷駅



    旧旅客第1番ホーム跡
    明治20年(1887年)7月11日開業時設置。
    煉瓦積ホーム側壁。
    架線柱付近に跨線橋が存在した。
    ホーム手前がカーブしているのは、昭和3年(1928年)該駅改良時に改造設置された分岐器跡。
    その後は第2代駅本屋旅客ホーム連絡通路として昭和54年(1979年)まで使用。

    保土ケ谷駅

  • 保土ヶ谷駅<br /><br /><br /><br />旧旅客第1番ホーム跡<br />電車導入前だった為にホーム高さは低ステップ付客車専用。

    保土ヶ谷駅



    旧旅客第1番ホーム跡
    電車導入前だった為にホーム高さは低ステップ付客車専用。

    保土ケ谷駅

  • 保土ヶ谷駅<br /><br /><br /><br />旧旅客第2番ホーム跡<br />複々線化以降残存し東海道線横須賀線列車分離工事に伴い昭和54年(1979年)に廃止解体。<br />該ホーム上屋支柱には、八幡製鐵所に於いて国産軌条製造初年度製品が多数使用されていたが解体と同時に撤去された。<br />現存していれば、鉄道産業遺産として国登録指定されたものと思われる。

    保土ヶ谷駅



    旧旅客第2番ホーム跡
    複々線化以降残存し東海道線横須賀線列車分離工事に伴い昭和54年(1979年)に廃止解体。
    該ホーム上屋支柱には、八幡製鐵所に於いて国産軌条製造初年度製品が多数使用されていたが解体と同時に撤去された。
    現存していれば、鉄道産業遺産として国登録指定されたものと思われる。

    保土ケ谷駅

  • 保土ヶ谷駅<br /><br /><br /><br />東口駅前<br />関東大震災発生前後まで該地区に於ける人家は稀で、現在の、UR都市機構保土ヶ谷駅前ハイツ所在地から神奈川県税保土ヶ谷事務所所在地一帯は、浅野セメント石灰石原料採取場が存在し貨物取扱業務を行っていたが、関東大震災後、横浜市震災復興計画で、内務省震災復興局主導に拠る現国道1号線設置の為に、浅野セメント原料採取場は廃止撤去。

    保土ヶ谷駅



    東口駅前
    関東大震災発生前後まで該地区に於ける人家は稀で、現在の、UR都市機構保土ヶ谷駅前ハイツ所在地から神奈川県税保土ヶ谷事務所所在地一帯は、浅野セメント石灰石原料採取場が存在し貨物取扱業務を行っていたが、関東大震災後、横浜市震災復興計画で、内務省震災復興局主導に拠る現国道1号線設置の為に、浅野セメント原料採取場は廃止撤去。

  • 保土ヶ谷-東戸塚間<br /><br /><br /><br />東海道踏切<br />遠景

    保土ヶ谷-東戸塚間



    東海道踏切
    遠景

    東戸塚駅

  • 保土ヶ谷-東戸塚間<br /><br /><br /><br />東海道踏切<br />近接<br />該踏切設置後、架線柱の位置から該道路が拡張された事を示す。

    保土ヶ谷-東戸塚間



    東海道踏切
    近接
    該踏切設置後、架線柱の位置から該道路が拡張された事を示す。

    東戸塚駅

  • 保土ヶ谷-東戸塚間<br /><br /><br /><br />架線柱<br />昭和5年(1930年)鋼鉄製架線柱。<br />近景

    保土ヶ谷-東戸塚間



    架線柱
    昭和5年(1930年)鋼鉄製架線柱。
    近景

    東戸塚駅

  • 保土ヶ谷-東戸塚間<br /><br /><br /><br />大仙寺(だいせんじ)踏切

    保土ヶ谷-東戸塚間



    大仙寺(だいせんじ)踏切

  • 保土ヶ谷-東戸塚間<br /><br /><br /><br />勾配変化<br />該地点以西は左側線路が22/1000‰、右側線路が20/1000‰登り勾配。

    保土ヶ谷-東戸塚間



    勾配変化
    該地点以西は左側線路が22/1000‰、右側線路が20/1000‰登り勾配。

  • 保土ヶ谷-東戸塚間<br /><br /><br /><br />樹源寺(じゅげんじ)踏切<br />左横は樹源寺寺務所。<br />東海道本線設置に依り該寺敷地が踏切で遮断。

    保土ヶ谷-東戸塚間



    樹源寺(じゅげんじ)踏切
    左横は樹源寺寺務所。
    東海道本線設置に依り該寺敷地が踏切で遮断。

  • 保土ヶ谷-東戸塚間<br /><br /><br /><br />樹源寺踏切<br />山側

    保土ヶ谷-東戸塚間



    樹源寺踏切
    山側

  • 保土ヶ谷-東戸塚間<br /><br /><br /><br />樹源寺踏切<br />複々線で勾配相違に依る標高差が歴然。

    保土ヶ谷-東戸塚間



    樹源寺踏切
    複々線で勾配相違に依る標高差が歴然。

  • 保土ヶ谷-東戸塚間<br /><br /><br /><br />樹源寺踏切

    保土ヶ谷-東戸塚間



    樹源寺踏切

  • 保土ヶ谷-東戸塚間<br /><br /><br /><br />権現(ごんげん)信号所跡<br />該信号所は、明治44年(1911年)5月1日附の旅客列車高速化を前提とした時刻改正に伴い、双信閉塞区間を2分割させる為に設置された。<br />その後、該区間に自動閉塞式導入に依り、大正10年(1921年)5月1日に一旦廃止された。<br />然るに、関東大震災発生に依り、自動信号機が多数転倒し停電状態が継続した事から、該区間復旧時に一時的に双信閉塞器を使用する為に、大正12年(1923年)9月19日に復活させた。<br />自動閉塞式復旧に依り、同年10月10日に改めて廃止。

    保土ヶ谷-東戸塚間



    権現(ごんげん)信号所跡
    該信号所は、明治44年(1911年)5月1日附の旅客列車高速化を前提とした時刻改正に伴い、双信閉塞区間を2分割させる為に設置された。
    その後、該区間に自動閉塞式導入に依り、大正10年(1921年)5月1日に一旦廃止された。
    然るに、関東大震災発生に依り、自動信号機が多数転倒し停電状態が継続した事から、該区間復旧時に一時的に双信閉塞器を使用する為に、大正12年(1923年)9月19日に復活させた。
    自動閉塞式復旧に依り、同年10月10日に改めて廃止。

  • 保土ヶ谷-東戸塚間<br /><br /><br /><br />権現信号所跡<br />大正末期に色灯式自動信号機が輸入配備され、特に電化区間では架線柱が障害になり夜目では確認困難な腕木式自動信号機は急速に存在感が希薄化する。<br />その後、3動型腕木式自動信号機は地方線区に転用され昭和31年(1956年)筑豊本線桂川-原田間使用を最後に廃止。<br />現在では該区間で使用された信号機本体が大宮鉄道博物館で保存展示されている。

    保土ヶ谷-東戸塚間



    権現信号所跡
    大正末期に色灯式自動信号機が輸入配備され、特に電化区間では架線柱が障害になり夜目では確認困難な腕木式自動信号機は急速に存在感が希薄化する。
    その後、3動型腕木式自動信号機は地方線区に転用され昭和31年(1956年)筑豊本線桂川-原田間使用を最後に廃止。
    現在では該区間で使用された信号機本体が大宮鉄道博物館で保存展示されている。

  • 保土ヶ谷-東戸塚間<br /><br /><br /><br />今井川暗渠付近

    保土ヶ谷-東戸塚間



    今井川暗渠付近

  • 保土ヶ谷-東戸塚間<br /><br /><br /><br />今井川(いまいがわ)拱橋<br />該橋梁は、明治20年(1887年)7月11日開通である。<br />該河川は帷子川(かたびらがわ)上流域を称する。

    保土ヶ谷-東戸塚間



    今井川(いまいがわ)拱橋
    該橋梁は、明治20年(1887年)7月11日開通である。
    該河川は帷子川(かたびらがわ)上流域を称する。

  • 東戸塚-保土ヶ谷間<br /><br /><br /><br />今井川暗渠<br />該暗渠は全体が煉瓦構造で、俗称 ねじりまんぼ 構成。<br />該線開通時に設置。

    東戸塚-保土ヶ谷間



    今井川暗渠
    該暗渠は全体が煉瓦構造で、俗称 ねじりまんぼ 構成。
    該線開通時に設置。

  • 東戸塚-保土ヶ谷間<br /><br /><br /><br />今井川拱橋<br />煉瓦積は典型的な英國式。

    東戸塚-保土ヶ谷間



    今井川拱橋
    煉瓦積は典型的な英國式。

  • 保土ヶ谷-東戸塚間<br /><br /><br /><br />清水谷戸(しみずやと)隧道<br />該隧道は、明治20年(1887年)7月11日開通である。<br />全長211.2m(693ft)<br />横濱-國府津間延長工事決定に基き、明治20年(1887年)2月に着工し、開通直前たる同年6月に竣工した。<br />該工事監督は、技師 松本荘一郎(まつもと そういちろう)(嘉永元年(1848年)6月23日~明治36年(1903年)3月19日)が担当し、建設工事は地元業者 松井組が担当した。<br />総工費は259円<br />掘削工事は東西両側から開始したが、該工事竣工後、地質不良が原因で地盤沈下の為に作業員小屋が反転するなど予想外の難工事で、落盤事故が1回発生し経費も想定外に嵩んだ事から、松井組は経営破綻した。<br />明治22年(1889年)7月10日未明の集中豪雨に依り該切通崩壊に依り13日復旧まで列車運行が不可能になる。<br />その後、明治31年(1898年)8月1日に、横濱-大船間複線化時に下り線側に新設隧道が構築された。<br />新隧道は、213.7m(696.0ft)で、新設隧道は下り線専用、既設隧道は上り線専用になる。<br />関東大震災発生と同時に、東京方坑口下り線側面切取約1000坪、及び、神戸方坑口下り線側面約500坪が崩壊、該隧道内部に若干の亀裂が発生した。<br />該隧道は上線隧道は明治中期建築故に、建築限界が狭隘で、電化工事に於ける架線吊架余地空間が存在せず、それ故、該隧道山側に品濃(しなの)隧道を別途完成させ、大正14年(1925年)12月5日に横濱-大船間電化工事竣工時に、新設された品濃隧道が開通した為に、同年同月13日から該区間運転施設を移管させ、その間に、清水谷戸隧道は隧道口径拡大の為に、路盤低下、及び、側面垂直化工事が施工された為に、現在の隧道上部は煉瓦積に対し垂直部はコンクリート打である。<br />因みに、該隧道上り隧道は我が国第17番目の隧道で、現役鉄道隧道で我が国最古とする文献が多いが、正確には東北本線矢板-野崎間に存在する針生(はりお)隧道が若干早く竣工した関係で該隧道は現役隧道では第2番目竣工である

    保土ヶ谷-東戸塚間



    清水谷戸(しみずやと)隧道
    該隧道は、明治20年(1887年)7月11日開通である。
    全長211.2m(693ft)
    横濱-國府津間延長工事決定に基き、明治20年(1887年)2月に着工し、開通直前たる同年6月に竣工した。
    該工事監督は、技師 松本荘一郎(まつもと そういちろう)(嘉永元年(1848年)6月23日~明治36年(1903年)3月19日)が担当し、建設工事は地元業者 松井組が担当した。
    総工費は259円
    掘削工事は東西両側から開始したが、該工事竣工後、地質不良が原因で地盤沈下の為に作業員小屋が反転するなど予想外の難工事で、落盤事故が1回発生し経費も想定外に嵩んだ事から、松井組は経営破綻した。
    明治22年(1889年)7月10日未明の集中豪雨に依り該切通崩壊に依り13日復旧まで列車運行が不可能になる。
    その後、明治31年(1898年)8月1日に、横濱-大船間複線化時に下り線側に新設隧道が構築された。
    新隧道は、213.7m(696.0ft)で、新設隧道は下り線専用、既設隧道は上り線専用になる。
    関東大震災発生と同時に、東京方坑口下り線側面切取約1000坪、及び、神戸方坑口下り線側面約500坪が崩壊、該隧道内部に若干の亀裂が発生した。
    該隧道は上線隧道は明治中期建築故に、建築限界が狭隘で、電化工事に於ける架線吊架余地空間が存在せず、それ故、該隧道山側に品濃(しなの)隧道を別途完成させ、大正14年(1925年)12月5日に横濱-大船間電化工事竣工時に、新設された品濃隧道が開通した為に、同年同月13日から該区間運転施設を移管させ、その間に、清水谷戸隧道は隧道口径拡大の為に、路盤低下、及び、側面垂直化工事が施工された為に、現在の隧道上部は煉瓦積に対し垂直部はコンクリート打である。
    因みに、該隧道上り隧道は我が国第17番目の隧道で、現役鉄道隧道で我が国最古とする文献が多いが、正確には東北本線矢板-野崎間に存在する針生(はりお)隧道が若干早く竣工した関係で該隧道は現役隧道では第2番目竣工である

  • 保土ヶ谷-東戸塚間<br /><br /><br /><br />品濃(しなの)隧道<br />該隧道は、大正14年(1925年)12月13日開通である。<br />即ち、該隧道は、年々激増する東海道本線輸送改善策として程ヶ谷-平塚間複々線化に依る客貨分離運転計画に基き、大正14年(1925年)12月1日に完成し、同年同月13日横濱-國府津間直流1500V電化と同時に使用開始した。<br />因みに、該隧道が複線型では無く単線型隧道で建設されたのは、該隧道界隈の地盤が悪く複線型構造は不適当と判定された為である。<br />坑門は東京神戸方双方共、アーチ部が煉瓦積で他部分がコンクリート打で建設されたが、此れは、大正末期と云えども、アーチ部はコンクリート打建築は困難で未確立だった為で、同時期に建設された全国の隧道で見られる特異な形態である。<br />並行する清水谷戸隧道と共に、該隧道頂点に旧武蔵國、及び、相模國境が存在する。

    保土ヶ谷-東戸塚間



    品濃(しなの)隧道
    該隧道は、大正14年(1925年)12月13日開通である。
    即ち、該隧道は、年々激増する東海道本線輸送改善策として程ヶ谷-平塚間複々線化に依る客貨分離運転計画に基き、大正14年(1925年)12月1日に完成し、同年同月13日横濱-國府津間直流1500V電化と同時に使用開始した。
    因みに、該隧道が複線型では無く単線型隧道で建設されたのは、該隧道界隈の地盤が悪く複線型構造は不適当と判定された為である。
    坑門は東京神戸方双方共、アーチ部が煉瓦積で他部分がコンクリート打で建設されたが、此れは、大正末期と云えども、アーチ部はコンクリート打建築は困難で未確立だった為で、同時期に建設された全国の隧道で見られる特異な形態である。
    並行する清水谷戸隧道と共に、該隧道頂点に旧武蔵國、及び、相模國境が存在する。

  • 保土ヶ谷-東戸塚間<br /><br /><br /><br />清水谷戸隧道<br />西口付近<br />清水谷戸隧道を通過すると武蔵國から相模國に入る。<br />該付近には現在でも酪農農家が数軒が存在。<br />横浜開港時に在住外国人に対し牛乳、バター、チーズ等々の原材料を供給していた名残り。

    保土ヶ谷-東戸塚間



    清水谷戸隧道
    西口付近
    清水谷戸隧道を通過すると武蔵國から相模國に入る。
    該付近には現在でも酪農農家が数軒が存在。
    横浜開港時に在住外国人に対し牛乳、バター、チーズ等々の原材料を供給していた名残り。

  • 保土ヶ谷-東戸塚間<br /><br /><br /><br />猪久保(いのくぼ)隧道<br />全長4008m<br />神戸方<br />坑口

    保土ヶ谷-東戸塚間



    猪久保(いのくぼ)隧道
    全長4008m
    神戸方
    坑口

  • 東戸塚(ひがしとつか)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和55年(1980年10月1日開業である。<br />https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1292

    東戸塚(ひがしとつか)駅



    該駅は、昭和55年(1980年10月1日開業である。
    https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1292

    東戸塚駅

  • 東戸塚駅<br /><br /><br /><br />西口

    東戸塚駅



    西口

    東戸塚駅

  • 東戸塚駅<br /><br /><br /><br />東口

    東戸塚駅



    東口

    東戸塚駅

  • 東戸塚駅<br /><br /><br /><br />東口

    東戸塚駅



    東口

    東戸塚駅

  • 東戸塚駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム

    東戸塚駅



    旅客ホーム

    東戸塚駅

  • 東戸塚駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム

    東戸塚駅



    旅客ホーム

    東戸塚駅

  • 東戸塚-戸塚間<br /><br /><br /><br />川上(かわかみ)信号所跡<br />明治期後半に於ける複線区間保安装置は双信閉塞式だったが、該閉塞式では停車場間に1列車しか運転出来ず、列車増発を目的として停車場間2分割の為に、明治36年(1903年)1月20日附で、程ケ谷(現 保土ヶ谷)-戸塚間に川上信号所が設置された。<br />該区間は、大正10年(1921年)5月1日附で従来の双信閉塞式から自動閉塞式に変更となり該信号所は不要施設となり廃止された。<br />然るに、関東大震災後に於ける9月17日複線復旧に鑑み、復旧当時の横濱市内、及び、神奈川縣下大部分は停電状態が継続していた事から、保安装置として自動閉塞式が使用出来ず、此の為に、鐵道省は、大正10年(1921年)5月1日附で廃止した、権現、川上、及び、久保各信号所旧施設を活用一時復活させ、予備双信閉塞器を設置し列車運行を行ったが、同年10月9日附で電力回復した事から自動閉塞機器使用が可能になり、当該信号所は翌10日附で廃止。

    東戸塚-戸塚間



    川上(かわかみ)信号所跡
    明治期後半に於ける複線区間保安装置は双信閉塞式だったが、該閉塞式では停車場間に1列車しか運転出来ず、列車増発を目的として停車場間2分割の為に、明治36年(1903年)1月20日附で、程ケ谷(現 保土ヶ谷)-戸塚間に川上信号所が設置された。
    該区間は、大正10年(1921年)5月1日附で従来の双信閉塞式から自動閉塞式に変更となり該信号所は不要施設となり廃止された。
    然るに、関東大震災後に於ける9月17日複線復旧に鑑み、復旧当時の横濱市内、及び、神奈川縣下大部分は停電状態が継続していた事から、保安装置として自動閉塞式が使用出来ず、此の為に、鐵道省は、大正10年(1921年)5月1日附で廃止した、権現、川上、及び、久保各信号所旧施設を活用一時復活させ、予備双信閉塞器を設置し列車運行を行ったが、同年10月9日附で電力回復した事から自動閉塞機器使用が可能になり、当該信号所は翌10日附で廃止。

  • 保土ヶ谷-東戸塚間<br /><br /><br /><br />川上信号所跡

    保土ヶ谷-東戸塚間



    川上信号所跡

  • 東戸塚-戸塚間<br /><br /><br /><br />3複々線区間<br />猪久保隧道西口-大船駅間は3複々線区間。

    東戸塚-戸塚間



    3複々線区間
    猪久保隧道西口-大船駅間は3複々線区間。

  • 東戸塚-戸塚間<br /><br /><br /><br />川上地区<br />3複々線区間

    東戸塚-戸塚間



    川上地区
    3複々線区間

  • 東戸塚-戸塚間<br /><br /><br /><br />旧川上踏切跡

    東戸塚-戸塚間



    旧川上踏切跡

  • 東戸塚-戸塚間<br /><br /><br /><br />旧川上踏切跡<br />無謀運転大型トラックに依る列車衝突事故が多発した事で知られていた。

    東戸塚-戸塚間



    旧川上踏切跡
    無謀運転大型トラックに依る列車衝突事故が多発した事で知られていた。

  • 東戸塚-戸塚間<br /><br /><br /><br />戸塚道路戸塚跨線橋<br />通称ワンマン道路<br />昭和30年(1955年)2月1日開通。<br />開通当時は有料だったが現在は無料自動車専用道路。

    東戸塚-戸塚間



    戸塚道路戸塚跨線橋
    通称ワンマン道路
    昭和30年(1955年)2月1日開通。
    開通当時は有料だったが現在は無料自動車専用道路。

  • 東戸塚-戸塚間<br /><br /><br /><br />旧架線柱<br />米ベイツ社製架線柱<br />全景

    東戸塚-戸塚間



    旧架線柱
    米ベイツ社製架線柱
    全景

  • 東戸塚-戸塚間<br /><br /><br /><br />旧架線柱<br />米ベイツ社製架線柱<br />大正14年(1925年)建柱<br />複々線化工事に伴い該区間部高架化に依り鋼鉄柱のみ取残された。<br />最近まで該地に2本残存していたが、腐食増大を理由に1本は撤去された。

    東戸塚-戸塚間



    旧架線柱
    米ベイツ社製架線柱
    大正14年(1925年)建柱
    複々線化工事に伴い該区間部高架化に依り鋼鉄柱のみ取残された。
    最近まで該地に2本残存していたが、腐食増大を理由に1本は撤去された。

  • 東戸塚-戸塚間<br /><br /><br /><br />旧東海道踏切跡<br />通称 戸塚大踏切と称し開かずの踏切の代名詞だった。<br />地下新道開通に依り 平成27年(2015年)3月25日16時を以て廃止閉鎖された。

    東戸塚-戸塚間



    旧東海道踏切跡
    通称 戸塚大踏切と称し開かずの踏切の代名詞だった。
    地下新道開通に依り 平成27年(2015年)3月25日16時を以て廃止閉鎖された。

  • 戸塚(とつか)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治20年(1887年)7月11日開業である。<br />即ち、横濱-國府津間開通と同時に開業した。<br />該駅開業時は鎌倉郡戸塚村に属し旧幕藩時代は旧東海道宿場町の1つだった。<br />該駅は、大正6年(1917年)に横濱-平塚間客貨分離運転の為に複々線化工事着工に依り、初代駅本屋を含め大改良を必要とした事から、大正11年(1922年)に駅本屋、旅客ホーム、旅客跨線橋が改築され、特に旅客ホームは既成の相対式から島式に改造された。<br />関東大震災発生に依り該駅自体は3動型腕木式信号機柱倒壊以外に直接被害は発生せず被害は軽微だったが該驛改築に依り新築状態だった事も要因と思われる。<br />昭和5年(1930年)3月14日まで、該駅は、大森、及び、程ヶ谷駅と共に東海道本線普通列車の停車駅でもあったが、翌15日より横須賀線電車運転と共に該電車停車駅に限定され、東海道本線普通列車再停車は、東海道本線、及び、横須賀線電車分離運転開始の昭和55年(1980年)10月1日からである。<br />昭和12年(1937年)12月5日附で日立製作所戸塚工場が設置され日立が通信機器部門に進出するきっかけとなったが、此の頃より、戸塚に於いて、日本光学工業をはじめ相次いで大手企業が進出したが、此れは該地域に対し現在の東京電力の前身たる東京電燈株式会社の大変電所が存在した事が要因であり総送電量12万kWが可能だった。<br />此の為に、戦時体制強化と共に軍部の要請を受け、横濱市第6次市域拡張計画に基き、昭和14年(1939年)4月1日附で、戸塚町、中川村、川上村、豊田村、本郷村、瀬谷村、及び、大正村が従来の鎌倉郡所属から横濱市に編入され戸塚区が成立した。<br />故に、殆どの横浜市域が旧武蔵國出自なのに対し、戸塚区、及び、戸塚区分区の栄区、泉区、及び、瀬谷区が旧相模國出自なのは前述の事情に拠るものであり、全国政令指定都市中で唯一異國合体行政組織である。<br />https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1057

    戸塚(とつか)駅



    該駅は、明治20年(1887年)7月11日開業である。
    即ち、横濱-國府津間開通と同時に開業した。
    該駅開業時は鎌倉郡戸塚村に属し旧幕藩時代は旧東海道宿場町の1つだった。
    該駅は、大正6年(1917年)に横濱-平塚間客貨分離運転の為に複々線化工事着工に依り、初代駅本屋を含め大改良を必要とした事から、大正11年(1922年)に駅本屋、旅客ホーム、旅客跨線橋が改築され、特に旅客ホームは既成の相対式から島式に改造された。
    関東大震災発生に依り該駅自体は3動型腕木式信号機柱倒壊以外に直接被害は発生せず被害は軽微だったが該驛改築に依り新築状態だった事も要因と思われる。
    昭和5年(1930年)3月14日まで、該駅は、大森、及び、程ヶ谷駅と共に東海道本線普通列車の停車駅でもあったが、翌15日より横須賀線電車運転と共に該電車停車駅に限定され、東海道本線普通列車再停車は、東海道本線、及び、横須賀線電車分離運転開始の昭和55年(1980年)10月1日からである。
    昭和12年(1937年)12月5日附で日立製作所戸塚工場が設置され日立が通信機器部門に進出するきっかけとなったが、此の頃より、戸塚に於いて、日本光学工業をはじめ相次いで大手企業が進出したが、此れは該地域に対し現在の東京電力の前身たる東京電燈株式会社の大変電所が存在した事が要因であり総送電量12万kWが可能だった。
    此の為に、戦時体制強化と共に軍部の要請を受け、横濱市第6次市域拡張計画に基き、昭和14年(1939年)4月1日附で、戸塚町、中川村、川上村、豊田村、本郷村、瀬谷村、及び、大正村が従来の鎌倉郡所属から横濱市に編入され戸塚区が成立した。
    故に、殆どの横浜市域が旧武蔵國出自なのに対し、戸塚区、及び、戸塚区分区の栄区、泉区、及び、瀬谷区が旧相模國出自なのは前述の事情に拠るものであり、全国政令指定都市中で唯一異國合体行政組織である。
    https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1057

    戸塚駅

  • 戸塚駅<br /><br /><br /><br />西口<br />旧駅本屋側

    戸塚駅



    西口
    旧駅本屋側

    戸塚駅

  • 戸塚駅<br /><br /><br /><br />東口<br />該駅は西口が駅本屋所在地であり東口は存在しなかったが、戸塚競馬場観客の為に昭和12年(1937年)4月16日に臨時乗降口が開設されたのが嚆矢である。<br />因みに、当時の競馬は軍用馬育成の為に陸軍省、及び、農林商務省後援で盛大だったが、馬券販売価格が1枚10円で該年6月1日附で鐵道省料金改定が実施されたが、当時の2等上段寝台料金は1枚5円だった事から現A寝台上段料金が9360円で倍数の18720円と換算すると、当時の馬券は現在の如き低所得労務者如きが安易に購入可能な存在では無く、高額所得者達の特権遊行だった。<br />同年12月5日に日立製作所戸塚工場が設置され日立が通信機器部門に進出が契機となり、戸塚に於いて、日本光学工業をはじめ相次いで大手企業が進出したが、此れは現在の東京電力の前身たる東京電燈株式会社の大変電所が存在した事が要因であり総送電量12万kWが可能だった。<br />此の為に、戦時体制強化と共に軍部の要請を受け、横濱市第6次市域拡張計画に基き、昭和14年(1939年)4月1日附で、戸塚町、中川村、川上村、豊田村、本郷村、瀬谷村、及び、大正村が従来の鎌倉郡所属から横濱市に編入され戸塚区が成立した。<br />戦時中は日立製作所戸塚工場他労働者通勤の為に東西跨線橋建設が進められ、該跨線橋は昭和17年(1942年)6月7日附で竣工し同時に東口が正式開業した。<br />また、日立製作所で完成した大型機器輸送の為に該工場まで引込線が設置され廃止後も保修車収容線として一部現存する。<br />該駅東京方に存在する 東海道とうかいどう)踏切(通称 大踏切は(おおふみきり)は、嘗て東海道本線が経済の大動脈だった時代、列車運転が範奏していた当時、該駅構内に於いて貨車入換作業の為に踏切が閉止状態が常態化していた事から、時の内閣総理大臣 吉田 茂(よしだ しげる)(明治11年(1879年)9月22日~昭和42年(1967年)10月20日)が自宅所在地たる大磯から東京永田町往還時に長時間に亘る踏切閉止に不興し、国道1号線バイパス、通称 ワンマン道路 が建設され昭和28年(1953年)8月15日に一部完成し、開業当時は有料道路で午前上り、午後下り専用の一方通行だったが、翌々年昭和30年(1955年)2月に全面完成し時間相互通行は解除された。<br />該駅本屋橋上化工事は昭和41年(1966年)着工され、昭和44年(1969年)完成した。<br />昭和55年(1980年)10月1日に東海道本線、横須賀線電車分離運転が開始され、該駅に再度、東海道本線普通列車停車駅となる。<br />該駅構内は該分離運転開始直前に大改造され、最早、昭和初期の面影すら存在しない。

    戸塚駅



    東口
    該駅は西口が駅本屋所在地であり東口は存在しなかったが、戸塚競馬場観客の為に昭和12年(1937年)4月16日に臨時乗降口が開設されたのが嚆矢である。
    因みに、当時の競馬は軍用馬育成の為に陸軍省、及び、農林商務省後援で盛大だったが、馬券販売価格が1枚10円で該年6月1日附で鐵道省料金改定が実施されたが、当時の2等上段寝台料金は1枚5円だった事から現A寝台上段料金が9360円で倍数の18720円と換算すると、当時の馬券は現在の如き低所得労務者如きが安易に購入可能な存在では無く、高額所得者達の特権遊行だった。
    同年12月5日に日立製作所戸塚工場が設置され日立が通信機器部門に進出が契機となり、戸塚に於いて、日本光学工業をはじめ相次いで大手企業が進出したが、此れは現在の東京電力の前身たる東京電燈株式会社の大変電所が存在した事が要因であり総送電量12万kWが可能だった。
    此の為に、戦時体制強化と共に軍部の要請を受け、横濱市第6次市域拡張計画に基き、昭和14年(1939年)4月1日附で、戸塚町、中川村、川上村、豊田村、本郷村、瀬谷村、及び、大正村が従来の鎌倉郡所属から横濱市に編入され戸塚区が成立した。
    戦時中は日立製作所戸塚工場他労働者通勤の為に東西跨線橋建設が進められ、該跨線橋は昭和17年(1942年)6月7日附で竣工し同時に東口が正式開業した。
    また、日立製作所で完成した大型機器輸送の為に該工場まで引込線が設置され廃止後も保修車収容線として一部現存する。
    該駅東京方に存在する 東海道とうかいどう)踏切(通称 大踏切は(おおふみきり)は、嘗て東海道本線が経済の大動脈だった時代、列車運転が範奏していた当時、該駅構内に於いて貨車入換作業の為に踏切が閉止状態が常態化していた事から、時の内閣総理大臣 吉田 茂(よしだ しげる)(明治11年(1879年)9月22日~昭和42年(1967年)10月20日)が自宅所在地たる大磯から東京永田町往還時に長時間に亘る踏切閉止に不興し、国道1号線バイパス、通称 ワンマン道路 が建設され昭和28年(1953年)8月15日に一部完成し、開業当時は有料道路で午前上り、午後下り専用の一方通行だったが、翌々年昭和30年(1955年)2月に全面完成し時間相互通行は解除された。
    該駅本屋橋上化工事は昭和41年(1966年)着工され、昭和44年(1969年)完成した。
    昭和55年(1980年)10月1日に東海道本線、横須賀線電車分離運転が開始され、該駅に再度、東海道本線普通列車停車駅となる。
    該駅構内は該分離運転開始直前に大改造され、最早、昭和初期の面影すら存在しない。

    戸塚駅

  • 戸塚駅<br /><br /><br /><br />2階改札口

    戸塚駅



    2階改札口

    戸塚駅

  • 戸塚駅<br /><br /><br /><br />地下中央出改札口

    戸塚駅



    地下中央出改札口

    戸塚駅

  • 戸塚駅<br /><br /><br /><br />第2番旅客ホーム<br />旧第1番旅客ホーム

    戸塚駅



    第2番旅客ホーム
    旧第1番旅客ホーム

    戸塚駅

  • 戸塚駅<br /><br /><br /><br />第1番旅客ホーム<br />昭和55年(1980年)10月1日附使用開始。

    戸塚駅



    第1番旅客ホーム
    昭和55年(1980年)10月1日附使用開始。

    戸塚駅

  • 戸塚駅<br /><br /><br /><br />旧貨物取扱施設跡

    戸塚駅



    旧貨物取扱施設跡

    戸塚駅

  • 戸塚駅<br /><br /><br /><br />第1倉田川(だいいち くらたがわ)橋梁<br />該橋梁は、明治21年(1888年)7月11日開通の橋梁である。<br />全長64.50m(205ft)<br />英國製<br />20.70m(68.0ft)×3連<br />が架橋された。<br />該鈑桁は錬鐡製構造で橋台は煉瓦積構造、橋脚は石積構造。<br />然し、建設省土木局に依る柏尾川河川改修工事に伴い昭和49年(1974年)に現橋梁に架替が実施された。

    戸塚駅



    第1倉田川(だいいち くらたがわ)橋梁
    該橋梁は、明治21年(1888年)7月11日開通の橋梁である。
    全長64.50m(205ft)
    英國製
    20.70m(68.0ft)×3連
    が架橋された。
    該鈑桁は錬鐡製構造で橋台は煉瓦積構造、橋脚は石積構造。
    然し、建設省土木局に依る柏尾川河川改修工事に伴い昭和49年(1974年)に現橋梁に架替が実施された。

  • 戸塚駅<br /><br /><br /><br />神戸方<br />交差形分岐器<br />東海道本線・横須賀線別進入の為に設置。

    戸塚駅



    神戸方
    交差形分岐器
    東海道本線・横須賀線別進入の為に設置。

  • 戸塚駅<br /><br /><br /><br />旧日立製作所貨物連絡線跡<br />転向線形態で大型機器輸送に使用された。

    戸塚駅



    旧日立製作所貨物連絡線跡
    転向線形態で大型機器輸送に使用された。

  • 戸塚駅<br /><br /><br /><br />旧日立製作所貨物連絡線跡<br />大型貨物車シキ輸送路だった。

    戸塚駅



    旧日立製作所貨物連絡線跡
    大型貨物車シキ輸送路だった。

  • 戸塚駅<br /><br /><br /><br />旧日立製作所貨物連絡線跡

    戸塚駅



    旧日立製作所貨物連絡線跡

  • 戸塚-大船間<br /><br /><br /><br />久保(くぼ)信号所跡<br />該信号所は、明治44年(1911年)5月1日附の旅客列車高速化を前提とした時刻改正に伴い、双信閉塞区間を2分割させる為に設置された。<br />その後、該区間に自動閉塞式導入に依り、大正10年(1921年)5月1日に一旦廃止された。<br />然るに、関東大震災発生に依り、自動信号機が多数転倒し停電状態が継続した事から、該区間復旧時に一時的に双信閉塞器を使用する為に、大正12年(1923年)9月19日に復活させた。<br />自動閉塞式復旧に依り、同年10月10日に改めて廃止。

    戸塚-大船間



    久保(くぼ)信号所跡
    該信号所は、明治44年(1911年)5月1日附の旅客列車高速化を前提とした時刻改正に伴い、双信閉塞区間を2分割させる為に設置された。
    その後、該区間に自動閉塞式導入に依り、大正10年(1921年)5月1日に一旦廃止された。
    然るに、関東大震災発生に依り、自動信号機が多数転倒し停電状態が継続した事から、該区間復旧時に一時的に双信閉塞器を使用する為に、大正12年(1923年)9月19日に復活させた。
    自動閉塞式復旧に依り、同年10月10日に改めて廃止。

  • 戸塚-大船間<br /><br /><br /><br />久保信号所跡

    戸塚-大船間



    久保信号所跡

  • 戸塚-大船間<br /><br /><br /><br />鼬川(いたちがわ)橋梁<br />全景<br />私有地に附許可を得て立入撮影。

    戸塚-大船間



    鼬川(いたちがわ)橋梁
    全景
    私有地に附許可を得て立入撮影。

  • 戸塚-大船間<br /><br /><br /><br />鼬川橋梁<br />手前<br />根岸線上下線用橋梁<br />上下線で桁構造が異るのは、根岸線上り線用橋梁は大東亜戦争中に設置された帝国海軍専用線用橋梁の残滓。<br />戦争終結と同時に使用停止となり、約30年間放置状態継続の後、根岸線洋光台-大船間延長時に再用。<br />私有地に附許可を得て立入撮影。

    戸塚-大船間



    鼬川橋梁
    手前
    根岸線上下線用橋梁
    上下線で桁構造が異るのは、根岸線上り線用橋梁は大東亜戦争中に設置された帝国海軍専用線用橋梁の残滓。
    戦争終結と同時に使用停止となり、約30年間放置状態継続の後、根岸線洋光台-大船間延長時に再用。
    私有地に附許可を得て立入撮影。

  • 戸塚-大船間<br /><br /><br /><br />根岸線連絡高架橋<br />該高架橋設置当時と異なり現在は根岸線本郷台-大船間運転の定期貨物列車は存在せず、逗子駅発着臨時貨物列車運転時に限定使用。

    戸塚-大船間



    根岸線連絡高架橋
    該高架橋設置当時と異なり現在は根岸線本郷台-大船間運転の定期貨物列車は存在せず、逗子駅発着臨時貨物列車運転時に限定使用。

  • 戸塚-大船間<br /><br /><br /><br />直線分岐予定地点<br />当時の柏尾川河川改修と共にS字曲線状態だった大船驛移転も含め直線化させ高速運転可能とする計画だったが関東大震災発生で画餅。

    戸塚-大船間



    直線分岐予定地点
    当時の柏尾川河川改修と共にS字曲線状態だった大船驛移転も含め直線化させ高速運転可能とする計画だったが関東大震災発生で画餅。

  • 大船駅<br /><br /><br /><br />全景<br />神戸方<br />俯瞰

    大船駅



    全景
    神戸方
    俯瞰

  • 大船駅<br /><br /><br /><br />砂押川(すなおしがわ)橋梁<br />該河川上に横浜市と鎌倉市の境界線が存在する。<br />関東大震災発生と同時に、東京、品川、及び、横濱各機関庫設置の蒸気機関車用揚水機に送水する水道管は、震災と同時に停電の為に全て使用不能になった。<br />蒸気機関車運転確保の為に、東京鐵道局は同月3日に、仮復旧した六郷川橋梁上に大井工場から10t水槽、及び、簡易型揚水機2基を移設設置し、品川機関庫所属6300型テンダー式蒸気機関車1両と共に動力水確保をせんとして、たが、該橋梁付近は該河川下流域に属し、満潮時は海水が混合する汽水域に属す所だった事から、該所に於ける揚水を断念し、代りに、同月10日より揚水地を六郷川橋梁上から笠間川橋梁上に変更し、同年10月21日に水道給水が復旧するまで動力水を確保した。

    大船駅



    砂押川(すなおしがわ)橋梁
    該河川上に横浜市と鎌倉市の境界線が存在する。
    関東大震災発生と同時に、東京、品川、及び、横濱各機関庫設置の蒸気機関車用揚水機に送水する水道管は、震災と同時に停電の為に全て使用不能になった。
    蒸気機関車運転確保の為に、東京鐵道局は同月3日に、仮復旧した六郷川橋梁上に大井工場から10t水槽、及び、簡易型揚水機2基を移設設置し、品川機関庫所属6300型テンダー式蒸気機関車1両と共に動力水確保をせんとして、たが、該橋梁付近は該河川下流域に属し、満潮時は海水が混合する汽水域に属す所だった事から、該所に於ける揚水を断念し、代りに、同月10日より揚水地を六郷川橋梁上から笠間川橋梁上に変更し、同年10月21日に水道給水が復旧するまで動力水を確保した。

    大船駅

  • 大船駅<br /><br /><br /><br />西口<br />該駅は、明治21年(1888年)11月1日開業である。<br />然し、該月日は具体的営業開始では無く、即ち、横須賀線建設施工工事の為に、分岐点として設置されたもので、実質的営業開始は、翌明治22年(1889年)7月6日附である。<br />貨物取扱開始に至っては、明治27年(1894年)5月25日である。<br />即ち、該駅付近に存在する柏尾川(かしおがわ)の氾濫源に該駅が設置された事から、貨物取扱に要する土地取得が困難だったからである。<br />https://www.jreast.co.jp/estation/stations/342.html

    大船駅



    西口
    該駅は、明治21年(1888年)11月1日開業である。
    然し、該月日は具体的営業開始では無く、即ち、横須賀線建設施工工事の為に、分岐点として設置されたもので、実質的営業開始は、翌明治22年(1889年)7月6日附である。
    貨物取扱開始に至っては、明治27年(1894年)5月25日である。
    即ち、該駅付近に存在する柏尾川(かしおがわ)の氾濫源に該駅が設置された事から、貨物取扱に要する土地取得が困難だったからである。
    https://www.jreast.co.jp/estation/stations/342.html

    大船駅

  • 大船駅<br /><br /><br /><br />旧駅本屋跡<br />該駅は、明治20年(1887年)7月11日に横濱-國府津間開通時は、戸塚、及び、藤澤両駅は設置されたが該駅は未設置だった。<br />然るに、朝鮮半島情勢に於いて明治15年(1882年)7月に壬午(じんご)事変勃発に拠り日清両国間に一気に緊張感が高まった事から、帝國海軍横須賀鎮守府に対する緊急輸送ルート開設確保の為に、海軍側から鉄道建設要求に鑑み、該鉄道建設工事列車運転分岐点として、明治21年(1888年)11月1日設置の大船信号所が嚆矢である。<br />即ち、工部省鐵道作業局は、当初、横須賀への連絡鉄道分岐点を藤澤停車場を予定していたが、現地調査の結果、鎌倉郡鵠沼村付近に人家密集地が存在し移転の為に生じるであろう厄介な問題や、長大隧道建設を要する事が判明し、急遽、該郡大船村付近を分岐地に選定決定した。<br />横須賀線建設は順調に進み、翌明治22年(1889年)6月16日に大船-横須賀間開通と同時に旅客扱を開始し信号所から駅に昇格した。<br />該駅は、東京方から該駅構内を通過し神戸方に向かう途中、連続S字急曲線が存在し、現在ですら運転速度制限が存在する為に輸送上に於ける障害化しているが、此れは、横濱-國府津間建設時に2級河川 柏尾川(かしおがわ)流域を忠実に路線敷設せざるを得なかった事が要因であり、該区間建設後、内務省土木局は柏尾川河川改修の一環として、明治38年(1905年)に沿岸流域に存在する耕地整理に着手し、次いで、明治40年(1907年)に河川改修工事に本格的に着手し、翌明治41年(1908年)7月に竣工する迄、河川身が極端な蛇行を反復させ、降雨後に於ける地域一帯は大幅冠水が日常化していた。<br />今日に於いて、柏尾川と地図上に於ける行政区域境相違は、旧流域の痕跡である。<br />鐵道省は、輸送上障害となっていた該区間変更を計画したが、現在の横浜市栄区長尾台付近より短隧道を経て鎌倉市岡本1丁目付近に至る短路線建設に拠り、速度制限撤廃で高速運転可能な線形となる計画案で、新線途中に該駅移転も含まれ、工事開始は大正12年(1923年)10月1日を予定していた。<br />不運にも、関東大震災発生は該駅が柏尾川砂上に存在する事から、震災発生と同時に駅本屋を含め多くの施設が殆ど全壊したが、燈具小屋、及び、跨線橋は一部崩落箇所が発生したが無事だった。<br />また、該駅停車中の下り貨物第605列車、及び、上り貨物第624列車に脱線転覆等々の被害が発生し9600型テンダー式蒸気機関車59674号機は被災したが、後に復旧され昭和50年(1975年)に稚内機関区配置を最後に廃車された。<br />復旧工事は、同年同月4日に横濱-藤澤間が着手され、同月8日に横濱-該駅間が単線開通したが、程ケ谷(現 保土ヶ谷)-横濱間で被災した上り旅客第112列車は震災発生時に脱線し死者こそ発生しなかったが、その後の沿線火災が原因で類焼全焼した為に、同月16日に大井工場震災復旧班に拠り除去され、翌17日より横濱-該駅間が複線運転が可能になった。<br />尚、該震災発生と被害復旧最優先とに拠り短路線建設予算を費消し、該計画は中止になった。<br />また、震災復興の過程に於いて、該駅本屋位置が変更され、大正14年(1925年)8月21日に第2代新駅本屋が竣工し、駅橋上化工事開始の昭和45年(1970年)8月まで使用された。<br />昭和5年(1930年)3月15日に横須賀線電車運転開始まで、原則として東海道線近距離列車と横須賀線列車は東京-大船間を併結運転したが、分離運転に伴い、横須賀線上り電車は東海道本線下り列車運転を障害しない様に、該駅構内に東海道線乗越橋が設置された。<br />現第3代駅本屋は昭和46年(1971年)4月1日竣工で同時に橋上化された。<br />https://www.jreast.co.jp/estation/stations/342.html

    大船駅



    旧駅本屋跡
    該駅は、明治20年(1887年)7月11日に横濱-國府津間開通時は、戸塚、及び、藤澤両駅は設置されたが該駅は未設置だった。
    然るに、朝鮮半島情勢に於いて明治15年(1882年)7月に壬午(じんご)事変勃発に拠り日清両国間に一気に緊張感が高まった事から、帝國海軍横須賀鎮守府に対する緊急輸送ルート開設確保の為に、海軍側から鉄道建設要求に鑑み、該鉄道建設工事列車運転分岐点として、明治21年(1888年)11月1日設置の大船信号所が嚆矢である。
    即ち、工部省鐵道作業局は、当初、横須賀への連絡鉄道分岐点を藤澤停車場を予定していたが、現地調査の結果、鎌倉郡鵠沼村付近に人家密集地が存在し移転の為に生じるであろう厄介な問題や、長大隧道建設を要する事が判明し、急遽、該郡大船村付近を分岐地に選定決定した。
    横須賀線建設は順調に進み、翌明治22年(1889年)6月16日に大船-横須賀間開通と同時に旅客扱を開始し信号所から駅に昇格した。
    該駅は、東京方から該駅構内を通過し神戸方に向かう途中、連続S字急曲線が存在し、現在ですら運転速度制限が存在する為に輸送上に於ける障害化しているが、此れは、横濱-國府津間建設時に2級河川 柏尾川(かしおがわ)流域を忠実に路線敷設せざるを得なかった事が要因であり、該区間建設後、内務省土木局は柏尾川河川改修の一環として、明治38年(1905年)に沿岸流域に存在する耕地整理に着手し、次いで、明治40年(1907年)に河川改修工事に本格的に着手し、翌明治41年(1908年)7月に竣工する迄、河川身が極端な蛇行を反復させ、降雨後に於ける地域一帯は大幅冠水が日常化していた。
    今日に於いて、柏尾川と地図上に於ける行政区域境相違は、旧流域の痕跡である。
    鐵道省は、輸送上障害となっていた該区間変更を計画したが、現在の横浜市栄区長尾台付近より短隧道を経て鎌倉市岡本1丁目付近に至る短路線建設に拠り、速度制限撤廃で高速運転可能な線形となる計画案で、新線途中に該駅移転も含まれ、工事開始は大正12年(1923年)10月1日を予定していた。
    不運にも、関東大震災発生は該駅が柏尾川砂上に存在する事から、震災発生と同時に駅本屋を含め多くの施設が殆ど全壊したが、燈具小屋、及び、跨線橋は一部崩落箇所が発生したが無事だった。
    また、該駅停車中の下り貨物第605列車、及び、上り貨物第624列車に脱線転覆等々の被害が発生し9600型テンダー式蒸気機関車59674号機は被災したが、後に復旧され昭和50年(1975年)に稚内機関区配置を最後に廃車された。
    復旧工事は、同年同月4日に横濱-藤澤間が着手され、同月8日に横濱-該駅間が単線開通したが、程ケ谷(現 保土ヶ谷)-横濱間で被災した上り旅客第112列車は震災発生時に脱線し死者こそ発生しなかったが、その後の沿線火災が原因で類焼全焼した為に、同月16日に大井工場震災復旧班に拠り除去され、翌17日より横濱-該駅間が複線運転が可能になった。
    尚、該震災発生と被害復旧最優先とに拠り短路線建設予算を費消し、該計画は中止になった。
    また、震災復興の過程に於いて、該駅本屋位置が変更され、大正14年(1925年)8月21日に第2代新駅本屋が竣工し、駅橋上化工事開始の昭和45年(1970年)8月まで使用された。
    昭和5年(1930年)3月15日に横須賀線電車運転開始まで、原則として東海道線近距離列車と横須賀線列車は東京-大船間を併結運転したが、分離運転に伴い、横須賀線上り電車は東海道本線下り列車運転を障害しない様に、該駅構内に東海道線乗越橋が設置された。
    現第3代駅本屋は昭和46年(1971年)4月1日竣工で同時に橋上化された。
    https://www.jreast.co.jp/estation/stations/342.html

    大船駅

  • 大船駅<br /><br /><br /><br />南改札口<br />昭和46年(1971年)4月1日使用開始。

    大船駅



    南改札口
    昭和46年(1971年)4月1日使用開始。

    大船駅

  • 大船駅<br /><br /><br /><br />東口<br />地元住民の要望に依り昭和25年(1950年)9月開設。

    大船駅



    東口
    地元住民の要望に依り昭和25年(1950年)9月開設。

    大船駅

  • 大船駅<br /><br /><br /><br />笠間口<br />橋上化後に於ける混雑緩和の為に、平成18年(2006年)2月2日開設。

    大船駅



    笠間口
    橋上化後に於ける混雑緩和の為に、平成18年(2006年)2月2日開設。

    大船駅

  • 大船駅<br /><br /><br /><br />笠間口<br />該改札口は該駅本屋所在地たる鎌倉市では無く横浜市所在。

    大船駅



    笠間口
    該改札口は該駅本屋所在地たる鎌倉市では無く横浜市所在。

    大船駅

  • 大船駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />東京方<br />俯瞰

    大船駅



    駅構内
    東京方
    俯瞰

    大船駅

  • 名古屋リニア・鉄道館<br /><br /><br /><br />ED11型直流電気機関車<br />該車輌は、東海道本線全線電化計画の一環として試作見本機関車購入の為に、米ジェネラル・エレクトリック(GENERAL ELECTRIC Co Ltd)社に於いて製造された直流1500V仕様のD型貨物牽引用電気機関車である。<br />全長11275mm 整備総トン数59.6tで 205kW電動機×4個装備。<br />該車輌は、当時、米ウェスティングハウス社日本総販売代理店だった高田商會を仲介し鐵道省が2両発注した。<br />大正10年(1921年)11月3日に購入契約が成立し、米本国で完成後、大正12年(1923年)2月に横濱港に到着。<br />因みに、該車輌1両に対する製造経費は18000円と記録されている。<br />製造当時の鐵道省所属路線に直流1500V区間は存在しなかった為に、取敢えず、直流1200V/600V対応で完成させ、鐵道省大井工場で組立工事を施工し、完成後は直ちに中野電車庫に配置され、終電後に中央本線、及び、山手線で試運転が実施された。<br />大正14年(1925年)に直流1500V仕様に改造と同時に東京機関庫に配置転換し、12月13日に横濱-國府津間直流1500V電化完成に依り東京-國府津間で貨物列車牽引用に使用された。<br />新製当時は1010型と称したが、昭和3年(1928年)10月1日附型式称号改正で現行のED11型に改称された。<br />廃車後は浜松工場牽引車輌として使用。<br />現在では、名古屋リニア・鉄道館で保存展示されている。

    名古屋リニア・鉄道館



    ED11型直流電気機関車
    該車輌は、東海道本線全線電化計画の一環として試作見本機関車購入の為に、米ジェネラル・エレクトリック(GENERAL ELECTRIC Co Ltd)社に於いて製造された直流1500V仕様のD型貨物牽引用電気機関車である。
    全長11275mm 整備総トン数59.6tで 205kW電動機×4個装備。
    該車輌は、当時、米ウェスティングハウス社日本総販売代理店だった高田商會を仲介し鐵道省が2両発注した。
    大正10年(1921年)11月3日に購入契約が成立し、米本国で完成後、大正12年(1923年)2月に横濱港に到着。
    因みに、該車輌1両に対する製造経費は18000円と記録されている。
    製造当時の鐵道省所属路線に直流1500V区間は存在しなかった為に、取敢えず、直流1200V/600V対応で完成させ、鐵道省大井工場で組立工事を施工し、完成後は直ちに中野電車庫に配置され、終電後に中央本線、及び、山手線で試運転が実施された。
    大正14年(1925年)に直流1500V仕様に改造と同時に東京機関庫に配置転換し、12月13日に横濱-國府津間直流1500V電化完成に依り東京-國府津間で貨物列車牽引用に使用された。
    新製当時は1010型と称したが、昭和3年(1928年)10月1日附型式称号改正で現行のED11型に改称された。
    廃車後は浜松工場牽引車輌として使用。
    現在では、名古屋リニア・鉄道館で保存展示されている。

    リニア 鉄道館 美術館・博物館

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  • マリオットさん 2022/03/08 13:37:48
    はじめまして。
    はじめまして、足跡から来ましたマリオットです。

    東海道本線の歴史的痕跡シリーズは、ものすごい大作ですね。関西方面から読んで見たのですが、情報量が多すぎて頭に入らないくらいでした。旅行記と言うより、歴史資料集のような印象すら受けます。どうやったらこれだけ調べられるのだろうと、不思議に思えたりもしました。

    取り分け鉄道が好きでもなく、東海道本線は新幹線に乗るだけですが。でも古いレンガで作られた施設が今でも残っているとは、どこかの駅でと途中下車してみたくなりました。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2022/03/08 14:16:20
    拝復
    マリオットさま、こんにちは。

    拙稿にお立寄りと掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。
    従来の鉄道史は嘘が嘘を呼び史実と懸け離れた内容が、さも事実なりと称してまかり通る現実から、投稿した内容記述は国立公文書館、国会図書館、外交史料館等々で自分で原資料から検討し事実を発信しようとして旅行記として投稿する様になりました。
    その為に、資料として活用可能な範囲で仕上げております。
    コロナ騒動の関係で業務以外での旅行は遠慮している状態なので、関西方面を訪れ、東海道本線全線を完成させたと思っております。

    今後との何卒宜敷くお願い申します。



    横浜臨海公園

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