キタ(大阪駅・梅田)旅行記(ブログ) 一覧に戻る
該区間は、明治7年(1874年)5月11日開業である。<br /><br /><br />初代大阪驛は、当初計画では堂島大江橋端に設置が予定されていたが、然し、明治6年(1873年)12月26日附を以って大阪-京都間延長が決定し、該地で停車場設置を実施した場合、京都方面延長時は頭端式構造とせざるを得ず、直進式形態を以って有利と判断された事から、該駅設置箇所は曾根崎に変更された。<br />該駅は、西成郡曾根崎(そねざき)村千日墓地、即ち、現在の大阪中央郵便局庁舎所在地付近に設置されたが、元来、該墓地は、行旅人、低出自者穢多非人等々捨棄遺体埋葬地であり、更に、現在の梅田(うめだ)は旧淀川下流域湿地帯を埋立た埋田を改称した所で、明治11年(1878年)7月22日附大政官布告第17号に拠る郡区町村編成例法に基き、翌明治12年(1879年)2月10日附で、大阪市区制施行時は東西南北4区が設置されたが、現在とは異り該市域は極めて狭隘であり、曾根崎、野田、九條、難波は、何れも西成郡下に存在する村であり町ですら無かった。<br />大阪停車場設置予定地が、堂島から曾根崎梅田に変更されたのは、将来に於ける京都延長を考慮再考した結果である。<br />それ故、該線神戸方から福島付近に於いて大きく左折状態となるのは該決定の結果であり、本来計画では神戸方より堂島方向に直進する計画だった。<br />然し、堂島が大阪市内中心地だったのに対し、該駅開設時たる梅田曾根崎は、当時の大阪市民、殊に、堂島、船場周辺在住商人達から見れば、鉄道利用時以外に足を向ける事すら無き不吉な地であり、該駅貨物取扱施設分離の為に、梅田駅設置工事開始時点ですら該墓地は一部残存し、且つ、現在ですら、ビル建設現場、道路工事等々掘削時に人骨発見の報道を耳にするのは此の為である。<br /><br /><br />該沿線所在農地補償に鑑み、摂津國尼崎藩は大政官に対し、明治3年(1870年)10月31日附で、潰地土地補償明示要求する上申書を提出したが、該上申書に依れば、沿線測量作業従事の英國人技師に対し、外國人ヲ仇讐之如ク相心得沸騰之模様 なる不穏な空気が醸成され急迫した事情が記述されていた。<br /><br />大政官は、民部省と協議し、同年12月5日附回答書に於いて、該沿線諸藩に対し、関係住民に対し相当の補償を行う旨通牒した。<br />然し、大阪駅設置予定地に対し地元民が工事関係者に対し投石等々の妨害行為を反復させた事から、工部省鐵道寮は大阪府に対し現状改善を要求し、此れを受け該府は明治5年(1872年)11月に、梅田鉄道設置敷地内への部外者立入禁止を実施した。<br /><br /><br />該区間建設工事完了が、明治7年(1874年)5月6日で、該区間営業開始が同月11日と、試運転から開業まで5日間と云う開業を急ぐ理由として、同年2月に江藤新平(えとう しんぺい)(天保5年(1834年)3月18日~明治7年(1874年)4月13日)を首謀者とする佐賀の乱(さがのらん)(同年2月1日~同年3月1日)が勃発し、更に、西日本、及び、九州各地に於ける不平士族に依る反政府叛乱暴発の懸念が増大していた事から、鉄道に依る軍事輸送体制速達化と云う点を最優先とされ、例え、神崎(現 尼崎)、及び、住吉両停車場工事未完成、大阪駅本屋未完成状態で、此れら造営物竣工遅延が存在しても、鉄道開通に一刻の猶予もならなかった為であると解している。<br /><br /><br />該区間開業時に殆どの橋梁が木造木組で構成されたが、下記4橋は、英ダーリントン(DARLINGTON)社製 錬鐡製ピン組構造で、橋台は煉瓦製、橋脚は鍛鐡製複合円柱構造で架橋された。<br />架橋工事責任監督は、テォドール・シャン(Teodore SHANN)(1850年(嘉永3年)~1878年(明治11年))が担当した。<br /><br /> 1)十三川(じゅうそうがわ)橋梁 塚本-神埼(現 尼崎)間<br />全長191.1m(627ft)<br />下路ポニーワーレントラス構桁21.3m(70ft) × 9連<br />明治3年(1870年)11月着工、明治7年(1871年)1月竣工。<br />総工費 計34234円66銭<br />明治27年(1894年)7月に、神戸工場製主桁材追加に依り複線仕様に改造。<br />明治29年(1896年)3月11日附で複線化。<br />該橋梁は、内務省土木局に依る淀川河川大改修工事で新淀川開削に依り、明治35年(1902年)に廃橋、翌明治36年(1903年)に撤去されたが、一部構桁は内務省土木局保管を経て、若干改造の上、昭和10年(1935年)に長柄運河濱中津道路橋に転用され現存。<br /><br /> 2)水戸川(みとがわ)橋梁 塚本-神埼(現 尼崎)間<br />全長23.5m(77ft)<br />下路ポニーワーレントラス構桁21.3m(70ft) × 1連<br />明治3年(1870年)11月着工、明治6年(1870年)11月竣工。<br />該橋梁は、内務省土木局に依る淀川河川大改修計画で該河川が廃川廃橋となり、明治20年(1887年)に現地から撤去され、明治22年(1889年)に、東海道本線篠原-野洲間光善寺川橋梁に転用。<br /><br /> 3)下神崎川(しもかんざきがわ)橋梁Ⅰ 塚本-神埼(現 尼崎)間<br />全長361.8m(1187ft)<br />下路ポニーワーレントラス構桁21.3m(70ft) × 17連<br />明治3年(1870年)11月着工、明治7年(1871年)5月6日竣工。<br />総工費 計65569円70銭<br />明治27年(1894年)7月26日附で、神戸工場製主桁材追加に依り複線仕様に改造。<br />明治29年(1896年)3月11日附で複線化。<br />該橋梁は、老朽化、及び、次世代本線用大型重量蒸気機関車9900型(D50型)、18900型(C51型)非対応と判定された事から架替対象となり、大正3年(1914年)に新橋梁使用開始と共に使用停止となり構桁は撤去されたが、建設中の 有馬(ありま)鐵道三田-有馬間橋桁使用払下申請分に対し、翌大正4年(1915年)に該払下分は、該鉄道橋梁用として、武庫川、有野川、有馬川、及び、青名川橋梁用に架橋されたが、該鉄道は、大正8年(1919年)3月31日附を以って内閣鐵道院に買収され有馬線をとなったが、該線は、大東亜戦争末期に於ける非常決戦要綱に基き、不要不急線指定を受けた為に、昭和18年(1943年)7月1日附を以って全線休止扱となり、該橋梁群は、全部撤去の上、群馬鉱山から鉄鉱石産出輸送の為に建設中の長野原線(現 吾妻線)渋川-長野原(現 長野原草津口)間雁澤、須川両橋梁架橋用に再転用された。<br />他方、内4連は、兵庫電気軌道(現 山陽電気鉄道)に払下られ、大正6年(1917年)に舞子跨線線路橋として再用架橋された。<br /><br />  4)武庫川(むこがわ)橋梁Ⅰ 立花-甲子園口間<br />全長255.1m(837ft)<br />下路ポニーワーレントラス構桁21.3m × 12連<br />明治3年(1870年)11月着工、明治7年(1874年)2月竣工。<br />総工費 計44673円34銭<br />明治27年(1894年)7月に、神戸工場製主桁材追加に依り複線仕様に改造。<br />明治29年(1896年)3月11日附で複線化。<br />該橋梁は、架橋当時の錬鐡製橋桁使用の為に、次世代本線用大型重量蒸気機関車9900型(D50型)、18900型(C51型)非対応と判定された事から桁交換対象となり、大正5年(1916年)に鋼鐡製橋桁に交換された。<br /><br /><br />明治9年(1876年)に、大阪-京都間開通に依り、神戸‐大阪-京都間全通を祝し、第122代 明治(めいじ)天皇(嘉永5年(1852年)11月3日~明治45年(1912年)7月29日)(慶應3年(1867年)1月30日~明治45年(1912年)7月29日御在位)が明治10年(1877年)2月5日に開通記念式典に行幸された。<br /><br />以下、明治天皇紀 第4巻<br />京都神戸間ノ鐵道既ニ開通セルヲ以テ西幸ヲ機トシ其ノ開業ノ典ヲ行ヒ賜ンカタメ京都大阪神戸ノ各停車場ニ臨幸ス 是ノ日夜来ノ雪ハレテカイセイナリ 午前八時四十分 熾仁親王 晃親王 及ヒ 内閣顧問木戸孝允 参議山縣有朋 参議兼工部卿伊藤博文 宮内卿徳大寺實則 海軍大輔川村純義等を随ヘ賜ヒテ出門アラセラル 九時京都停車場ニ著御 鐵道局長井上勝等ノ奉迎ヲ受ケ賜ヒ召ニ應シテ参集セル英吉利 伊太利 亜米利加合衆國 白耳義 墺地利 露西亜 仏蘭西 独逸 西班牙各國公使及ヒ在京都奏任以上ノ官吏ニ謁ヲ賜ヒテ 九時三十分乗車シ賜フ 親王及ヒ孝允實則 侍従長東久世通禧等陪乗シ 有朋博文以下並ヒニ中山忠能等麝香間祇候五人及ヒ各國公使 京都府知事槇村正直 在京都華族総代山本實政等前後ニ分乗ス 十時四十分玉車ノ大阪停車場ニ著スルヤ陸軍ノ禮砲殷々トシテ天地ニ轟ク 奉迎ノ大阪府知事 在大阪奉任以上ノ官吏 並ヒニ外國領事等ニ謁ヲ賜ヒ 停車場内ヲ通御シテ式場ニ入リ賜フ 壇上玉座ノ前方ニハ両親王左右ニ侍立シ 壇下ノ右方ニハ内閣顧問参議以下 左方ニハ各國公使 外務省官吏 陸海軍武官等列立シ 宮内卿侍従長ハ玉座ノ両側ニ侍ス<br />大阪府知事渡邊昇陛前ニ進ミ府民ニ代リテ祝辞ヲ奏ス<br />其ノ文ニ曰ク<br />伏テ惟ルニ海口西南ニ開ケ天成ノ便ヲ占ムルモノ古来大坂ヲ以テ中州ノ要?吻トス今ヤ隆盛ノ照代ニ遭遇シ人為ノ大ナル鐵路ヲ東北ニ架シ重キヲ載セ遠ニ致ス實ニ四通ノ衝ニ當レリ臣等幸ニ其ノ間ニ往シ無窮ノ錫ヲ享ケ無涯ノ聖恩ニ浴ス必ヤ業ヲ勉メ職ヲ営ニ以テ天恩ノ萬一ニ報ヒ國家ノ富盛ヲ圖ルヘシ爰ニ吉日ヲ擇ヒ開業ノ式ヲ行ハル仰テ府下一般ノ人民ニ代リ聊カ祝詩ヲ奉リ以テ期ス後来ノ繁榮氣管ノ煙ハ續々竈ノ煙ト賜リ列車ノ聲ハ軋轢々歓楽ノ聲ト和スルコトヲ謹テ白ス<br />曰ク、<br />祝詞満足セリ朕衆庶ノ公益ヲ謀リ永ク福祉ヲ全センコトヲ望ム<br />既ニシテ親王及諸臣等ヲ従ヘテ玉車ニ乗御 大阪府知事亦扈従ス 正午神戸停車場に著御アリ神戸港停泊ノ艦船禮砲を發スルコト式ノ如シ奉迎ノ兵庫縣権令森岡昌純 縣民ニ代リテ祝辞を奏ス<br />其ノ文ニ曰ク<br />維明治十年二月五日<br />天皇陛下西京神戸間鐵道開業式ニ光臨ス兵庫縣権令正六位臣森岡昌純惟國ノ富強ハ運輸ニ基ス蕎ニ東京横濱間ノ首線ヲ開行シ継テ本港京坂間ノ工ヲ竣ヘ今日茲ノ盛典を挙行セラル聖主國ヲ富シ利スルノ道悉クセリト云ヘシ古語ニ云始アラサル贖シ克終リ有ル鮮シト仰願クハ陛下ノ盛徳大業乾行斯線路ヲシテ長ク東西ニ亘リ海内ノ臣民?ニ其澤ヲ被ランコトヲ惟昌純管下人民ト伏シテ翼望スル所ナリ謹テ祝ス<br />祝詞満足セリ朕衆庶ノ公益ヲ謀リ永ク福祉ヲ全センコトヲ望ム<br />ト賜フル<br /><br /><br />現代語訳し、更に、補文し、<br />2月5日<br />京都神戸間鉄道が開通した事から、第122代 明治(めいじ)天皇(嘉永5年(1852年)11月3日~明治45年(1912年)7月29日(慶應3年(1867年)1月30日~明治45年(1912年)7月29日御在位)は、西日本行幸を機に、現地に於いて開業式典開催が決定した為に、京都、大阪、神戸各停車場に臨幸される事になった。<br />当日は、夜半来から降り続いた雪も止み快晴だった。<br /><br />8時40分に、有栖川宮熾仁(ありすがわのみや たるひと)親王 (天保6年(1835年)3月17日~明治28年(1895年)1月15日)、山階宮晃(やましなのみや あきら)親王(文化13年(1816年)10月22日~明治31年(1898年)2月17日)、及び、内閣顧問 木戸孝允(きど たかよし)(天保4年(1831年)8月11日~明治10年(1877年)5月26日)、参議 山縣有朋(やまがた ありとも)(天保9年(1838年)6月14日~大正11年(1922年)2月1日)、参議兼工部卿 伊藤博文(いとう ひろぶみ)(天保12年(1841年)10月16日~明治42年(1909年)10月26日)(明治6年(1873年)10月25日~明治11年(1878年)5月15日在任)、宮内卿 徳大寺實則(とくだいじ さねのり)(天保10年(1841年)1月10日~大正6年(1917年)6月4日)(明治4年(1871年)9月15日~明治17年(1884年)3月21日在任)、海軍大輔 海軍中将 川村純義(かわむら すみよし)(天保7年(1836年)12月18日~明治37年(1904年)8月12日)等を従え、京都御所を出発された。<br /><br />天皇一行は、9時に京都停車場に到着し、工部省鐵道寮頭 井上 勝(いのうえ まさる)(天保14年(1841年)12月18日~明治43年(1910年)8月2日)(明治7年(1874年)1月10日~明治10年(1877年)1月19日在任)等の奉迎を受けた。<br />更に、該区間開通式典に招待された、イギリス、イタリア、アメリカ合衆國、ベルギー、オーストリア、ロシア、フランス、ドイツ、スペイン各国駐在公使、及び、在京都在勤奏任官職以上の官吏を拝謁された。<br />9時30分に御召列車は出発した。<br />御料車に明治天皇の他に、有栖川宮、山階宮、木戸孝允、徳大寺實則、侍従長 東久世通禧(ひがしくぜ みちひろ)(天保4年(1834年)1月1日~明治45年(1912年)1月4日)(明治4年(1871年)11月27日~明治10年(1877年)8月29日在任)が陪乗した。<br />山縣有朋、伊藤博文、以下、並びに、中山忠能(なかやま ただやす)(文化6年(1809年)12月17日~明治21年(1888年)6月12日)等、麝香ノ間祇侯5名、及び、各国公使、第2代京都府知事 植村正直(うえむら まさなお)(天保5年(1834年)6月29日~明治29年(1896年)4月21日)(明治8年(1876年)月日~明治14年(1881年)在任)等々は、御料車前後の車輌に分乗した。<br /><br />御召列車は、10時40分に大阪停車場に到着したが、到着と同時に陸軍は皇礼砲を放ち、殷々として天地に轟いた。<br />第4代大阪府知事 渡邉 昇(わたなべ のぼる)(天保9年(1838年)5月1日~大正2年(1913年)11月10日)(明治5年(1872年)11月11日~明治10年(1877年)1月12日在任)以下、在大阪在勤奏任官職以上の諸官吏、並びに、駐在外国領事等を拝謁された。<br />該停車場には式場が設営され、壇上主座に明治天皇、主座前方左右に有栖川宮、山階宮両親王、主座左方に木戸内閣顧問、山縣伊藤両参議、主座左方に各国駐在公使領事、及び、外務省接受官吏、陸海軍武官、そして、玉座両脇に東久世宮内卿、徳大寺侍従長が侍立した。<br /><br />そして、渡邉大阪府知事は明治天皇の御前に進み、府民代表として祝辞を奏上した。<br /><br />大阪は、淀川河口が西南部に所在し、古来より天成の便が良く、中洲(堂島)が要害地だったが、今では隆盛の時期となり、鐵路は東北に設置され、重量物を載し、実に東西南北四方に当たる為に無制限の栄を得たが、此れも、天皇の恩恵に依るもので、必ずや業績を挙げ効果を発揮すべく、天皇の恩典に報い国家の富盛を栄えるべく、吉日を選択し親しく開業式典を行うのは仰ぎて府下一般の人民に代り、聊か祝詞を奉りを以って、後来の繁栄気管の煙は続々竈の煙と一体になり、列車の音は軋として歓楽の声と調和する次第を謹んで上程す。<br /><br />此の上奏に対し明治天皇は、<br />祝辞の内容に納得した、朕は国民をして公益を謀り、永く福祉を全うする事を望む。<br />との勅語を賜った。<br /><br />そして、有栖川宮、山階宮両親王、及び、諸臣を従え、御料車に乗車され、該停車場から、渡邉大阪府知事も扈従乗車した。<br />御召列車は12時に神戸停車場に到着したが、到着と同時に神戸港停泊中の内外海軍艦船から皇礼砲が発せられた。<br />明治天皇は、該停車場に待機中の、奉迎の兵庫縣権令をはじめ在神戸在勤奉任官職以上の官吏、神戸港碇泊帝國海軍艦船乗組 海軍中佐以上の奏任官職、並びに、在日外国領事等を拝謁し、該停車場記念式典会場にお入りになられ、該式典会場に於いて、第8代兵庫縣権令 森岡昌純(もりおか まさずみ)(天保4年(1834年)1月10日~明治31年(1898年)3月27日)(明治9年(1876年)9月9日~明治18年(1885年)4月7日在任)は、兵庫縣民を代表し祝辞を奏上した。<br /><br />此の上奏に対し明治天皇は、<br />祝辞の内容に納得した、朕は国民をして公益を謀り、永く福祉を全うする事を望む。<br />との勅語を賜った。<br /><br /><br />初代大阪驛構内を開業直前に撮影したものと推定される写真を精査すると、該駅構内に線路は僅か2本しか存在せず、牧歌的光景が拡がる風景だが、現在位置移転直前たる、明治32年(1899年)、若しくは、翌明治33年(1900年)撮影と推定される写真では、該駅構内に線路が幾重にも連なり、更に、下り神戸方に新設ホーム1本が追設置され、西成(にしなり)鐵道(現 大阪環状線大阪-西九条間、及び、桜島線西九条-安治川口間)旅客列車が出発待機中の光景が現存する。<br /><br /><br />明治29年(1896年)4月8日附法律第7号に拠り 河川法が公布され、該法律に拠る新淀川河川高水工事開始決定に依り、新淀川開削に伴い、該区間に新橋梁架橋を要する事となり、該橋梁設置の為に、明治31年(1898年)第12回帝國議会に於いて明治31年(1898年)より明治33年(1900年)に至る継続事業として計160万円支出が設定され、翌明治34年(1901年)第13回帝國議会に於いて、該事業は4箇年継続が決定された。<br /><br /><br />大阪駅所在地が晴れて大阪市編入を果たしたのは、明治30年(1897年)4月1日附である。<br />空地しか存在し得なかった大阪駅前付近が、市街地化様相を見せるのは、概ね明治20年代後半からである。<br />即ち、明治29年(1896年)に開始された淀川河川治水改修事業の為に、当該新河川上在住民は当該地から退去を余儀無くさせらた結果、該駅周辺空地に適当に移転して来た事で該駅周辺人口が増加した。<br /><br />初代大阪驛本屋は煉瓦建築物で、当時の大阪市民には珍しい存在だったが、加速度的客貨輸送量増加に対応し切れず、業務上に於いて手狭となった事から、明治34年(1901年)7月1日附で現位置に移転し、同時に第2代駅本屋が建築された。<br />然し、該時点ですら該駅裏手は一面田園地帯拡がる農耕地帯だった。<br /><br /><br />鐵道唱歌<br />第60番<br />大阪いでて右左<br />(おおさか いでて みぎひだり)<br />菜種ならざる畑もなし<br />(なたね ならざる はたもなし)<br />神崎川のながれのみ<br />(かんざきがわの ながれのみ)<br />淺黄にゆくぞ美しき♪<br />(あさぎに ゆくぞ うつくしき)<br /><br />第61番<br />神崎よりのりかへて<br />(かんざきより のりかえて)<br />ゆあみにのぼる有馬山<br />(ゆあみに のぼる ありまやま)<br />池田伊丹と名にききし<br />(いけだ いたみと なにききし)<br />酒の産地をとほおるなり♪<br />(さけの さんちを とほるなり)<br />当時は、大阪方面から有馬温泉に向かう経路は、明治31年(1898年)6月8日に開通した阪鶴(はんかく)鐵道有馬口(現 生瀬)駅下車で人力車に揺られつつ約9kmの山道を行くのが最短距離とされていた。<br /><br /><br />阪神間移動は、鉄道開業以来、長らく鐵道作業局が独占状態を維持継続していたが、明治38年(1905年)4月12日に、阪神電気鐵道に依り大阪出入橋-神戸三宮間濱街道沿に電車運行が開始された事から、電車の快適性、且つ、頻発運転から、該区間鉄道利用者の約63%が該社線利用に転移した為に、鐵道作業局線は旅客利用が激減し苦境状況に陥った。<br /><br />明治41年(1908年)以降、遅れ馳せながら、戎、岡本両仮乗降場設置、及び、水野、武庫川、芦屋信号所設置を決定した理由として、列車増発に依る該区間利用者奪還巻返しを主軸とする対抗策実施と解される。<br /><br /><br />明治42年(1909年)7月31日16時50分に、大阪市北区空心町より出火した火災は、折から大阪湾から吹付けた強風の為に煽られ、該区内計11365戸が焼失する大火に発展した。<br /><br />該大火報告を受け 第122代 明治(めいじ)天皇(嘉永5年(1852年)11月3日~明治45年(1912年)7月29日)(慶應3年(1867年)2月13日~明治45年(1912年)7月29日御在位)は、直ちに、侍従 日野西資博(ひのにし すけひろ)(明治3年(1870年)~昭和17年(1942年))を現地に派遣し被害の現状を巡視させ、大阪府を通じ金12000円を下賜し罹災者救恤補助とさせた。<br /><br />当時の大阪市は、事態を重視すると同時に、好機とばかり該火災焼失地該地域に於ける再開発事業を一気に進行させる事に決し、該決定に基き、焼失前に於ける迷路状道路を再編整備した事から、町割再編を含め、該市中心部より発展する機会を得た。<br /><br />該火災復興事業完了後に依る道路再編は、大東亜戦争末期に於ける昭和20年(1945年)の数次に亘る空襲被災時に鑑み、該市心斎橋以南地域と比較し、道路拡張効果として大火砕流発生件数が少数だった事が原因で、該区内に於ける焼死者数は該市他区と比較し格段に少数だった。<br /><br /><br />大阪市に於ける都市再開発計画は、大正6年(1917年)8月11日附で該市に都市計画調査会設置を以って嚆矢とする。<br /><br />然るに、東京市における都市再開発計画が、明治18年(1885年)12月に市区改正審査委員会設置が発端だったのに対し、大阪市に約33年の遅れが発生した背景として、同年7月2日に発生した淀川大洪水に対し、内務省土木局直轄工事として淀川河川治水大改修工事が開始され、該工事は25年後の、明治43年(1910年)に竣工したが、該工事完了後に於ける旧廃川敷埋立整備、及び、土地再編を伴った為に、該期間中は都市再開発に着手したくとも着手困難たる事情を有していたからである。<br /><br /><br />内閣鐵道院は、複線区間に於ける保安装置 双信式閉塞式に代る次世代閉塞方式として 当時、独逸に於いて開発された連動閉塞式に着目し、大正3年(1914年)に採用が決定され、独ジーメンス(SIEMENS)社に対し該社連動閉塞機器41組を発注し、東京地区に先駆け、大正4年(1915年)10月に、京都-大阪-神戸-明石間に設置試用し、翌大正5年(1916年)4月より正式採用された。<br /><br />引続き、内閣鐵道院は、東海道本線東京-國府津間、及び、東北本線上野-大宮間導入を決定し、該社に対し該機器追加発注を行ったが、折しも、我が国は、欧州に於いて第1次世界大戦(だいいちじ せかいたいせん)(大正4年(1915年)8月4日~大正7年(1918年)11月11日)が勃発し、第3次日英同盟條約(ANGLO-JAPANESE ALLIANCE-Ⅲ)に拠り、我が国は大正3年(1914年)8月23日附を以って、聨合国側として参戦し独逸とは敵国関係となり外交関係が断絶した為に、該社に発注済機器は独逸政府をして敵性資産と認定され該政府に没収され我が国に未着となった。<br /><br />内閣鐵道院は改めて検討した結果、米ウェスティングハウス(WESTINGHAUSE)社製、自動閉塞式採用が決定され、大正10年(1921年)7月20日附で、該線大阪-神戸間が連動閉塞式から自動閉塞式に変更されたが、当時の我が国の技術では、電球、及び、レンズの大量製造は困難だった事から、信号機は色燈式では無く上位腕木3位式自動信号機が採用された。<br /><br />然し、若し、独逸から連動閉塞式関連機器一式が到着していれば、該式は非自動式故に何れかの時期に自動閉塞式に更新が必要となり、寧ろ、開戦に伴う輸出禁止処置は該機器設置区間にとって不幸中の幸だったと言える。<br /><br /><br />大阪駅構内に於ける貨物取扱業務は、大正10年(1921年)の時点で年間150万tに達し、該駅構内に於ける貨物取扱業務量は既に限界を超えていた。<br />鐵道省に依る大阪駅第3次改良計画は、従来は該駅構内に於いて存在した機関庫、客車組成、及び、貨物取扱業務を分散させ純然たる旅客駅化させると同時に、上下淀川橋梁間を高架化させる計画が策定され、該計画に対し大阪市は都市計画推進上、千載一遇の好機と判断し、鐵道省に対し全面協力を決定した事から、鐵道省は厄介な必要土地買収は大阪市に委託し、此れを受け大阪市は土地買収を大正11年(1922年)12月に開始し昭和3年(1928年)6月に完了した。<br />同年10月には該駅北側に存在した客車留置施設を吹田に仮移転させ、該客車留置線跡地を活用し新高架橋工事が開始された。<br />鐵道省は、該駅高架化の為に貨物取扱業務を分離させるべく、当初は、該市福島町一帯移転設置を検討したが、地元住民の反対運動が激化し反対市民大会を決起結成するに及び、鐵道省は福島町移転案を放棄し、改めて人家が少ない該駅裏側の北梅田地区を選定決定した。<br /><br />神崎(現 尼崎)-東灘間は、大正15年(1926年)11月15日附で複々線化されたが、大阪-神崎(現 尼崎)間複々線化は、大阪駅付近高架化工事と並行し住宅密集地故に民有地土地収用問題に手間取り、<br />大阪-塚本間           <br /> 昭和12年(1937年)10月10日<br />歌島(現 塚本)-神崎(現 尼崎)間 <br />昭和  9年(1934年) 5月25日<br />に竣工した。<br /><br /><br />該高架化工事第1期分は昭和9年(1934年)5月に竣工した事から、地上線から高架線への切替工事を同月31日未明に開始し翌6月1日に竣工させたが、該切替工事には、当時該駅東京方に存在した阪神急行電鐵線トラス構桁を撤去し地上線に切替を要する大工事だった。<br /><br />該区間電化工事は、同年7月20日に吹田-大阪-神戸-須磨間が完成したが、該電化に依り、普通電車は朝夕混雑時間帯は、モハ - クロハ - クハ - モハ4両編成が10分間隔11駅停車で38分、閑散時間帯は、モハ - クロハ 2両編成が15~20分間隔で運転。<br />大阪-神戸間に急行電車が運転開始されたが、モハ - サロハ - サハ - モハ 4両編成を2本使用で、大阪神戸共に6時30分、及び、7時30分~21時00分発30分間隔で運転され大阪-三ノ宮間24分、大阪-神戸間28分を要したが、急行と称するも、当時の鐵道省に於ける列車種別たる 特別急行、普通急行とは異なり、料金不要の速達列車と云う意味であり、該区間途中停車駅は三ノ宮、元町2駅だけで、明らかに、該区間並行の阪神急行電鐵神戸線(現 阪急電鉄神戸本線)、及び、阪神電気鐵道本線を対抗意識したもので、現在の新快速電車以上の存在だった。<br /><br />因みに、該区間旅客列車運転時間は、大正14年(1925年)3月1日附時刻改正では、途中、神崎(現 尼崎)、西ノ宮(現 西宮)、芦屋、住吉、灘、三ノ宮Ⅰの6駅停車で、8620型蒸気機関車牽引普通列車は概ね53分を要したが、当時は、車輌間が自動連結器では無く螺旋連結器使用し、空気制動使用では無く真空制動使用の為に、連結定数、最高速度共に制限が有った。<br />昭和5年(1930年)10月1日時刻改正では、C51型蒸気機関車牽引普通列車は、4分短縮の概ね49分運転していたが、別途、C10型タンク式蒸気機関車牽引快速度列車は、途中、三ノ宮のみ停車で32分で運転した。<br /><br />因みに、該電化運転開始時に於ける並行私鉄たる、阪神急行電鐵(現 阪急電鉄神戸本線)大阪梅田-神戸三宮間途中無停車の特急電車は25分、急行電車は7時00分~9時15分発、及び、15時25分~19時25分発に限定され36分を要した。<br /><br />阪神電気鐵道本線大阪梅田-神戸元町間運転で、特急電車は5時00分~24時00分発運転で35分を要した。<br /><br />但し、運賃は、両私鉄共に大人片道40銭だったのに対し、鐵道省線は大人片道3等50銭、2等通行税込1円10銭で、該区間利用者にとって到達時間を採るか割安運賃を採るかに選択が分かれた。<br /><br /><br />該電化運転開始翌日たる7月21日21時31分頃、塚本-大阪間に於いて列車追突事故が発生した。<br />即ち、神戸発東京行12等普通急行第18列車は落雷が原因で停電し消燈状態信号機手前に於いて運転規定に則り一旦停止をしていた処、後続第3556電車4両編成は時速約14kmで走行中、先行第18列車約20m地点に於いて該列車尾燈に気付き、非常制動を動作させるも間に合わず、該電車は第18列車後部に衝突した。<br />因みに、当時の鉄道車輌には運転席にブレート、即ち、ワイパーが無く、故に、雨天ともなると雨粒でガラスが見えなくなるなど当然だった。<br />ワイパーが無かったのは鉄道車輌だけでは無く、自動車、そして、飛行機にすら存在していなかった。<br />戦時中の記録フィルムに、我が国の陸海軍機出撃風景の場に於いて、離陸滑走時に風防を開放し1名が起立しているのは、ワイパーが無く、前方注意の為に操縦士に対し、立っている搭乗員が自身の足で操縦士に対し方向指示する為で、別に単に前方注視の存在では無かった。<br />該追突事故に依り、第18列車最後部 2等寝台車マロネフは妻板屈曲、他8両に小損被害が発生したが列車運行続行は差支え無いと判断され、遅延状態で運行継続した。<br />一方、第3556電車は、東京方4,3号車車輌密着連結器制動管破損、2号車密着連結器破損の被害が発生したが、1号車は無事だった事から単車で宮原電車庫に回送し、他3両は、後続第3186電車推進運転で回送し、22時50分開通した。<br />該事故に依り、旅客14名、職員1名が軽傷を負った。<br /><br /><br />鐵道省は、大阪-神戸間複々線化竣工直前に、世間に対し該複々線化完成を強烈に印象付けるべく、急行専用新型電車導入を決定した。<br /><br />即ち、当時世界的な流行だった流線型を採用し高速感を前面に打出した モハ52型で、該車両は、昭和11年(1936年)3~5月に1編成が竣工し、<br /> モハ52001 + サロハ46018 + サハ48029 +  モハ52002<br />の4両編成が登場し、試運転を重ね、同年12月8日より急行電車に導入した。<br /><br />第1次車は側面が狭窓様式だったが、ぶどう2号1色塗装が当り前の時代に2色塗装で登場した事からセンセーションを以って迎えられた。<br /><br />翌昭和12年(1937年)6~8月登場の第2次車2編成では、側面が広窓様式で製造され、より高速感が際立たせられ、23等合造車サロハ66型には便所も設置された。<br />昭和12年(1937年)6月15日運転開始。<br />モハ52003 + サロハ66016 + サハ48030 + モハ52004<br />昭和12年(1937年)8月22日運転開始。<br />モハ52005 + サロハ66017 + サハ48031 + モハ52006<br />昭和12年(1937年)9月17日運転開始  先頭車 半流線様式<br />モハ43039 + サロハ66018 + サハ48032 + モハ43038<br />昭和12年(1937年)9月18日運転開始  先頭車 半流線様式<br />モハ43041 + サロハ66019 + サハ48033 + モハ43040<br /><br />昭和12年(1937年)10月10日 京都-吹田間電化では、普通電車50本、急行電車5本運用となり、別途、吹田-神崎(現 尼崎)間2両編成×4本、及び、住吉-鷹取間2両編成5本に依る短区間運転が開始され、此の為に、電車不足分として東京鐵道局管内より、モハ34型4両、クハ38型4両が転属した。<br /><br /><br />昭和13年(1938年)7月5日に阪神地域に甚大被害を齎した阪神大水害に依る該区間被害は、<br />塚本駅<br />駅本屋床下浸水。<br />立花駅<br />上り線外側築堤50m崩壊、同日19時復旧。<br />立花-甲子園口間<br />武庫川下り内外線用橋梁、第6号橋脚基礎部洗掘に依り同日14時20分頃、橋脚山側沈下傾斜。<br />武庫川橋梁は無事だった上り内外線を活用し列車運行を確保し、木組に依るトレッスル構造で橋桁を保持させ、同月19日迄に杭打を完了し、同月20日に橋桁打上を施工し、同月21日2時53分に復旧工事が完了した。<br /><br /><br />京都-大阪-神戸-明石間運転の普通電車は、戦時体制移行に依る通勤者増加の混雑緩和の為に、京濱線に先立ち昭和13年(1938年)9月4日限りで2等車連結を中止し、クロハ59型、及び、クロハ69型の2等室は3等改造まで座席等々室内設備そのままで3等代用として継続使用された事から、老若男女問わず、皆競って該車に殺到し該車両だけは常に混雑していた。<br /><br /><br />昭和16年(1941年)3月26日21時51分頃、塚本駅構内に於いて重大事故が発生した。<br /><br />即ち、下り貨物第283列車 D50269蒸気機関車牽引43両編成は、該駅5分遅延で下り貨物側線に停止すべき処、該列車機関士は時速約40kmで走行、停止信号を冒進した為に、該駅安全側線に進入した事から、該列車牽引機関車全軸脱線、1~13両目貨車は脱線転覆、14両目貨車は全軸脱線、15両目貨車は1軸脱線し、下り内外線を支障した処、併走中の下り外側線走行中の下り濱松発姫路行普通第711列車 C51259蒸気機関車牽引6両編成は、該駅出発信号機が、急に進行現示から停止現示になった事から、該列車機関士は非常制動を動作させるも、間に合わず、第283列車脱線転覆貨車に接触した為に、第711列車機関車本体、及び、1、2両目客車は脱線転覆、炭水車、及び、3.4両目客車が脱線した。<br />更に、併走中の下り内側線走行中の第3201電車2両編成は、第283列車脱線転覆貨車に激突接触し、該電車は全軸脱線し上り線を支障した。<br />実は、同時刻、上り内側線走行中の電車が存在したが、事故発生時の大音響を聞きつけ現場に駆けつけた地元町内会長が、手にした提燈を必死に振り、該上り電車を停止させた為に、直前に該電車を含めた四重衝突事故は回避された。<br /><br />該事故に依り、第711列車旅客1名、機関士機関助士2名が死亡、旅客職員計143名が重軽傷を負った。<br /><br />復旧は、上り外側線27日14時45分、上り内側線同日15時30分、下り内側線28日6時27分、下り外側線、及び、下り貨物側線同日11時37分。<br /><br />事故原因は、下り貨物第283列車機関士の漠然運転に依る信号無視で、該列車機関士、及び、機関助士は逮捕起訴され、第1審に於いて、機関士は禁固1年、機関助士は禁固2箇月執行猶予5年の判決が下り、両被告共に該判決を不服とし控訴したが、上級審に於いて控訴棄却の判決が下り刑が確定した。<br /><br />第3201電車2号車 クハ58022は貨車との衝突時に於ける車体損傷が著しく、復旧されぬまま吹田工機部に長期間放置状態が継続したが、後に該工機部に於いて4扉改造化工事を受けクハ55136に改番され、その後、クハ85022→クハ79052と改番され使用され昭和50年代まで使用された。<br /><br /><br />大東亜戦争中、該区間に於ける空襲被害は、<br /> 3月13日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計275機<br /> 警戒警報発令 23時10分<br /> 空襲警報発令 23時20分<br /> 空襲開始    23時57分<br /> 空襲警報解除  3時00分<br /> 警戒警報解除  3時25分<br />  大阪-塚本間 枕木焼損計300本<br />  上下線 17時00分開通<br /><br /> 6月 1日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計458機<br /> 警戒警報発令  7時43分<br /> 空襲警報発令  9時03分<br /> 空襲開始     9時28分<br /> 空襲警報解除 11時00分<br /> 警戒警報解除 11時20分<br />  大阪-塚本間 線路破壊4箇所計65m<br />  神崎駅構内<br />   福知山線上り旅客ホーム上屋半焼<br />  上下線 15時50分開通<br />  電車 同月2日始発<br /><br /> 6月 7日 第21爆撃機軍団 第58爆撃隊 第73爆撃隊 第313爆撃隊 第314爆撃隊 B29戦略爆撃機計409機<br /> 警戒警報発令  9時40分<br /> 空襲警報発令 11時00分<br /> 空襲開始    11時09分<br /> 空襲警報解除 12時05分<br /> 警戒警報解除 12時28分<br />  大阪-塚本間 線路破壊6箇所計150m 枕木焼損計100本<br />  梅田架道橋桁、西池架道橋桁 機銃掃射貫通孔<br />  塚本駅本屋半壊 線路分区全焼<br />  塚本駅 旅客1名 職員1名死亡 重軽傷者多数<br />  上下線 8日5時50分開通<br /><br /> 6月15日 第21爆撃機軍団 第58爆撃隊 第73爆撃隊 第313爆撃隊 第314爆撃隊 B29戦略爆撃機計444機<br /> 警戒警報発令  7時22分<br /> 空襲警報発令  7時30分<br /> 空襲開始     8時44分<br /> 空襲警報解除 10時55分<br /> 警戒警報解除 11時10分<br />  大阪-塚本-宮原間 線路破壊7箇所計280m 枕木焼損計700本<br />    塚本駅本屋全焼<br />  上下線 15時50分開通<br /> 塚本駅構内被災車輌<br />     スハフ32  15(東シナ)小破<br />  オハ 35  25(東シナ)小破<br /> 以上、復旧。<br />  オロ 35  17(大キト)全焼<br />  オハ 31 356(大ヒメ)全焼<br />  オハ 31 453(大ワカ)全焼<br />  オハ 31 459(大キト)全焼<br />  スハフ32 303(広イト)全焼<br />  スハ 32 217(大ワカ)全焼<br />  スハ 32 239(東シナ)全焼<br />  スハ 32 297(東シナ)全焼<br />  スハ 32 492(東シナ)全焼<br />  オハ 34  76(大ミハソ)全焼<br />  オハ 34 120(大ミハソ)全焼<br />  オハ 35 106(大ワカ)全焼<br />  オハ 36     29(東シナ)全焼<br />  オハ 36  33(東シナ)全焼<br />  オハ 36  65(東シナ)全焼<br />  オハ 40       2(東シナ)全焼<br />  マハ 47 128(大ヒメ)全焼<br />  他木造車1両(形式番号不詳)<br /> 神崎駅構内被災車輌<br />  木造車2両(形式番号不詳)<br /> 以上、昭和21年(1946年)3月31日附戦災廃車<br /><br /><br />昭和20年(1945年)6月8日早朝、神崎(現 尼崎)駅構内に於いて地気短路が原因で電車が全焼する事故が発生した。<br /><br />即ち、前日7日午前中、大阪駅付近を中心とした大規模空襲に依り、吹田操車場-大阪-塚本間は甚大被害を受け、大阪-塚本間復旧は翌8日5時50分に開通したが、架線接触事故を防止する為に停電状態だったものを通電した処、該空襲の為に前途運休となり該駅構内に留置中の モハ42004(4扉改造車) は、漏電の為に瞬時にして発火全焼した。<br /><br />関西地区では大東亜戦争中より地気短路が原因に依る電車発火事故が多発し、前年たる、昭和19年(1944年)6月19日には、阪和線和泉府中-信太山間に於いて、宮原電車区から鳳電車区に転属直後の モハ43001+ クハ58011が、モハ43001のパンダグラフ地気短路異常に依り、出火全焼する事故が発生したばかりだった。<br /><br />阪和線は、昭和19年(1944年)5月1日附で、南海電気鐵道山手線を買収した路線で、元は、南海電気鐵道が阪和電気鐵道を吸収合併したものだったが、南海電気鐵道は、阪和電気鐵道買収時に、本来秀逸だった阪和の車輌が南海本体所有の不良部品と交換させ、更に、買収が決定するや、電気関係品、電動機、抵抗器や制動機器をはじめとする部品等々を火事場泥棒的に南海が非引継品目として回収し省に引継をさせず、然も、南海電気鐵道電車、鐵道省電車の大多数は電空カム軸制御式を採用していたのに対し、阪和電気鐵道電車はより高度な電動カム軸制御式だった事から、買収時には稼動不能車が全車輛の6割を超える異常事態での運行状態だった。<br />因みに、該社は社史を2回公刊したが、不都合と見え該事実記述は全く存在しない。<br />該車輌は、昭和22年(1947年)10月22日附で事故廃車後、小田急電鉄に払下られ、同社デハ1821型として再生された。<br /><br /><br />東海道本線京都-大阪-神戸間に於ける電車に依る急行運転は、大東亜戦争初期たる昭和17年(1942年)11月に中止され普通のみの運転となった。<br /><br />他方、阪和線は、前述の様に、昭和19年(1944年)5月1日附で政府買収されたが、社線時代の運行形態が継続され、急行運転が残存し、大東亜戦争末期たる昭和20年(1945年)4月15日附で廃止されたが、戦争終結後の昭和21年(1946年)12月24日に復活した。<br /><br />然るに、東海道本線に於ける急行電車運転復活は、若干遅れ、昭和24年(1949年)4月10日附で京都-大阪間朝1往復、夕2往復が復活し、同年5月11日附で、京都-大阪-神戸間11往復が復活した。<br />使用車輌は在来車を整備使用し米国調のケバケバしい塗装で出場した為に、姥桜感が免れず斬新さには欠けたが、翌昭和25年(1950年)8月17日附で、宮原電車区にクハ86型、モハ80型計8両新製配置を皮切に、同年9月末迄にクハ86型計16両、モハ80型16両が新製配置され、4両編成8本使用に依り、同年8月29日より80系電車が導入され、同年10月1日附時刻改正時より、京都-大阪-神戸間急行電車が定期運転化されたが、但し、利用者層の変化と需要の関係を検討した結果2等車連結は見送られた。<br />また、80系導入に依り余剰となった52型電車は、阪和線特急電車に使用するべく鳳電車区に配置換となり、同年10月1日附時刻改正時より阪和線天王寺-東和歌山(現 和歌山)間に特急電車が運転された。<br /><br /><br />京都-大阪-神戸間運転の急行電車は、昭和9年(1934年)7月20日に、大阪-神戸間運転開始以来、急電(きゅうでん)の愛称で親しまれたが、該時期には、東京地区では料金徴収の準急電車が登場しており、急行料金無料有料列車が混在する事は、利用者に対し誤解と混乱を招来させるものとして、昭和32年(1957年)10月1日附時刻改正時を以って、中央本線東京-浅川(現 高尾)間運転急行電車をも含め、従来の急行の名称から快速に変更した。<br />更に、それ迄は、複々線区間上下線共に、外側線が急行運転、内側線が普通運転と区分されていたが、該時刻改正時を以って、快速普通共に内側線走行に変更された。<br /><br /><br />現在の新快速電車は、大阪府千里が丘に於いて開催された 日本万国博覧会(昭和45年(1970年)3月15日~同年9月15日開催)閉幕後に於ける輸送確保を期し、同年10月1日時刻改正時より運転された物である。<br />即ち、該博覧会観覧客輸送の為に、当初、横須賀線用に製作された113系電車を流用し冷房取付改造工事を施工して運転された臨時快速電車が好評だった事から立案された列車である。<br />然し、運転当初はは車体塗装こそ横須賀線色とは言え、車内はセミクロスシート配置で、該車輌運転最高速度は時速95kmの為に、必ずしも速達感が有していた訳では無く、京阪間、及び、阪神間移動は、相変わらず快適な民鉄が優位だった。<br />然るに、山陽新幹線新大阪-岡山間開業に伴う、平行在来線急行電車、殊に、新大阪-宇野間運転の鷲羽(わしう)号が、夜行運転以外、全廃された事から、該電車に使用されていた153系急行用電車が大量余剰となり、全車冷房改造済車輌を6両編成に組成し、且つ、最高運転速度も時速110km運転が可能になった事で速達感が増した。<br />更に、車体塗装も、白地に水色を配した基調に変更された為に、利用者からは注目を集め。一部電車に至っては、京都-大阪間、及び、大阪-神戸間に於いて併走する特急電車を追抜く高速性を発揮した。<br /><br /><br />新快速電車は順調に運転され、京阪神間旅客輸送に於ける高速性こそ他並行私鉄の追従を許さぬ存在だったが、昭和50年代ともなると153系電車の固定クロスシートでは流石に腐陳化が顕著となり、更に、2扉デッキ付構造では混雑時に於ける乗降時間の延伸から列車遅延の要因ともなり、此の為に、大阪鉄道管理局は日本国有鉄道本社に対し、車輛をグレードアップし他並行私鉄と対抗可能な新車輛設計配置を要求した。<br /><br />此の為に開発された新型車両が117系電車である。<br /><br />117系電車は、昭和49年(1974年)に山陽新幹線岡山-博多間開通に鑑み、北九州地区に新製配置された キハ67系快速用気動車を念頭に設計製造され、外観は大東亜戦争前に配置された急行用モハ52型塗装を彷彿させる2色で構成し、車体は2扉デッキ無で車内は転換式シートを配置した構造で、当時全国各地で運転されていた急行列車より遥かにグレードが高かった。<br />第1陣は、昭和54年(1979年)9月12日附で宮原電車区に配置され、試運転、及び、乗務員訓練を経て、翌昭和55年(1980年)1月22日より完成分8編成を使用して運用開始された。<br />更に、同年6月末迄に残13編成が完成した事から、同年7月5日より新快速電車全列車が117系で運用された。<br /><br />昭和61年(1986年)11月1日附時刻改正では、日本国有鉄道最後の白紙時刻改正が実施され、該時刻改正に依り、新快速電車は、複々線区間に於いて内側線走行から外側線走行に再変更された。<br /><br /><br />平成7年(1995年)1月17日早暁5時46分に発生した阪神淡路大震災に於ける該区間被害は、<br /><br />立花駅構内<br /> 土台擁壁1箇所崩壊計3m 擁壁傾斜1箇所計8m <br />立花-甲子園口間<br /> 路盤沈下計240m<br />甲子園口-西ノ宮(現 西宮)間<br /> 土台擁壁1箇所崩壊計2m 擁壁傾斜1箇所計5m<br /> 津門川上り内外線側橋梁アンカーボルト剥離<br />塚本駅<br /> 上り 甲子園口発京都行 普通第502C列車  乗客約30名は該駅外に誘導<br />塚本-尼崎間<br /> 下り 京都発西明石行 普通第107C列車  乗客約350名は尼崎駅に徒歩誘導<br />甲子園口駅<br /> 上り 西明石発京都行 普通第108C列車 乗客約30名は該駅に誘導<br /><br />該区間復旧は、<br /> 大阪-尼崎間          同年1月18日<br /> 尼崎-甲子園口間        同年1月19日<br /> 甲子園口-西ノ宮(現 西宮)間 同年1月25日<br />である。<br /><br /><br />JR東西線京橋-尼崎間12.5kmは、平成9年(1997年)3月8日時刻改正と同時に開通したが、途中、加島-尼崎間は、東海道本線直下地下を通過する為に、加島駅は東海道本線敷地下に駅が存在する。<br /><br /><br />旧梅田駅跡地土地活用取扱に就いては長らく結論が出ず、大阪市を含め混迷を深めていたが、その間、日本貨物鉄道に依る貨物取扱業務を吹田に全面移転が決定するまで19年を要した。<br />最終的に、平成27年(2015年)6月に該跡地はUR都市機構譲渡を適当とする答申を受け、該決定に基き、同年10月に土地譲渡契約が締結され、更に、平成30年(2018年)7月に三菱地所が買収し同年9月に土地引渡が完了し、現在工事が進行中である。<br /><br /><br />令和2年(2020年)1月1日現在、新快速電車は、途中停車駅に尼崎、及び、芦屋が追加されたが、大阪-三ノ宮間最短22分、大阪-神戸間最短24分で到着する。<br /><br />明治7年(1874年)開通当時の運転時間から見れば正に隔世の感ありである。<br /><br /><br /><br /><br />表紙写真は、<br />明治6年(1873年)11月竣工、新堀川(しんほりかわ)洪橋<br /><br /><br /><br /><br />東海道本線歴史的痕跡探訪記<br />~東京-濱松町間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10701644<br />~東京驛編~<br /><br />~汐留-濱松町-品川間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10797199<br />~品川-川崎間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10502858<br />~川崎-横濱間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10711843<br />~横濱駅移設変転史編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10316826<br />~横濱-大船間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/10713813<br />~大船-平塚間編 明治頌歌~<br /><br />~平塚-國府津間編 明治頌歌~<br /><br />~國府津-根府川間編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10298330<br />~根府川-熱海間編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10310352<br />~丹那隧道完成秘話 丹那隧道碑文から読み取れし或る歴史的事実~<br 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東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~大阪-西宮間編 明治頌歌~

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2019/11/23 - 2019/11/23

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横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

該区間は、明治7年(1874年)5月11日開業である。


初代大阪驛は、当初計画では堂島大江橋端に設置が予定されていたが、然し、明治6年(1873年)12月26日附を以って大阪-京都間延長が決定し、該地で停車場設置を実施した場合、京都方面延長時は頭端式構造とせざるを得ず、直進式形態を以って有利と判断された事から、該駅設置箇所は曾根崎に変更された。
該駅は、西成郡曾根崎(そねざき)村千日墓地、即ち、現在の大阪中央郵便局庁舎所在地付近に設置されたが、元来、該墓地は、行旅人、低出自者穢多非人等々捨棄遺体埋葬地であり、更に、現在の梅田(うめだ)は旧淀川下流域湿地帯を埋立た埋田を改称した所で、明治11年(1878年)7月22日附大政官布告第17号に拠る郡区町村編成例法に基き、翌明治12年(1879年)2月10日附で、大阪市区制施行時は東西南北4区が設置されたが、現在とは異り該市域は極めて狭隘であり、曾根崎、野田、九條、難波は、何れも西成郡下に存在する村であり町ですら無かった。
大阪停車場設置予定地が、堂島から曾根崎梅田に変更されたのは、将来に於ける京都延長を考慮再考した結果である。
それ故、該線神戸方から福島付近に於いて大きく左折状態となるのは該決定の結果であり、本来計画では神戸方より堂島方向に直進する計画だった。
然し、堂島が大阪市内中心地だったのに対し、該駅開設時たる梅田曾根崎は、当時の大阪市民、殊に、堂島、船場周辺在住商人達から見れば、鉄道利用時以外に足を向ける事すら無き不吉な地であり、該駅貨物取扱施設分離の為に、梅田駅設置工事開始時点ですら該墓地は一部残存し、且つ、現在ですら、ビル建設現場、道路工事等々掘削時に人骨発見の報道を耳にするのは此の為である。


該沿線所在農地補償に鑑み、摂津國尼崎藩は大政官に対し、明治3年(1870年)10月31日附で、潰地土地補償明示要求する上申書を提出したが、該上申書に依れば、沿線測量作業従事の英國人技師に対し、外國人ヲ仇讐之如ク相心得沸騰之模様 なる不穏な空気が醸成され急迫した事情が記述されていた。

大政官は、民部省と協議し、同年12月5日附回答書に於いて、該沿線諸藩に対し、関係住民に対し相当の補償を行う旨通牒した。
然し、大阪駅設置予定地に対し地元民が工事関係者に対し投石等々の妨害行為を反復させた事から、工部省鐵道寮は大阪府に対し現状改善を要求し、此れを受け該府は明治5年(1872年)11月に、梅田鉄道設置敷地内への部外者立入禁止を実施した。


該区間建設工事完了が、明治7年(1874年)5月6日で、該区間営業開始が同月11日と、試運転から開業まで5日間と云う開業を急ぐ理由として、同年2月に江藤新平(えとう しんぺい)(天保5年(1834年)3月18日~明治7年(1874年)4月13日)を首謀者とする佐賀の乱(さがのらん)(同年2月1日~同年3月1日)が勃発し、更に、西日本、及び、九州各地に於ける不平士族に依る反政府叛乱暴発の懸念が増大していた事から、鉄道に依る軍事輸送体制速達化と云う点を最優先とされ、例え、神崎(現 尼崎)、及び、住吉両停車場工事未完成、大阪駅本屋未完成状態で、此れら造営物竣工遅延が存在しても、鉄道開通に一刻の猶予もならなかった為であると解している。


該区間開業時に殆どの橋梁が木造木組で構成されたが、下記4橋は、英ダーリントン(DARLINGTON)社製 錬鐡製ピン組構造で、橋台は煉瓦製、橋脚は鍛鐡製複合円柱構造で架橋された。
架橋工事責任監督は、テォドール・シャン(Teodore SHANN)(1850年(嘉永3年)~1878年(明治11年))が担当した。

1)十三川(じゅうそうがわ)橋梁 塚本-神埼(現 尼崎)間
全長191.1m(627ft)
下路ポニーワーレントラス構桁21.3m(70ft) × 9連
明治3年(1870年)11月着工、明治7年(1871年)1月竣工。
総工費 計34234円66銭
明治27年(1894年)7月に、神戸工場製主桁材追加に依り複線仕様に改造。
明治29年(1896年)3月11日附で複線化。
該橋梁は、内務省土木局に依る淀川河川大改修工事で新淀川開削に依り、明治35年(1902年)に廃橋、翌明治36年(1903年)に撤去されたが、一部構桁は内務省土木局保管を経て、若干改造の上、昭和10年(1935年)に長柄運河濱中津道路橋に転用され現存。

2)水戸川(みとがわ)橋梁 塚本-神埼(現 尼崎)間
全長23.5m(77ft)
下路ポニーワーレントラス構桁21.3m(70ft) × 1連
明治3年(1870年)11月着工、明治6年(1870年)11月竣工。
該橋梁は、内務省土木局に依る淀川河川大改修計画で該河川が廃川廃橋となり、明治20年(1887年)に現地から撤去され、明治22年(1889年)に、東海道本線篠原-野洲間光善寺川橋梁に転用。

3)下神崎川(しもかんざきがわ)橋梁Ⅰ 塚本-神埼(現 尼崎)間
全長361.8m(1187ft)
下路ポニーワーレントラス構桁21.3m(70ft) × 17連
明治3年(1870年)11月着工、明治7年(1871年)5月6日竣工。
総工費 計65569円70銭
明治27年(1894年)7月26日附で、神戸工場製主桁材追加に依り複線仕様に改造。
明治29年(1896年)3月11日附で複線化。
該橋梁は、老朽化、及び、次世代本線用大型重量蒸気機関車9900型(D50型)、18900型(C51型)非対応と判定された事から架替対象となり、大正3年(1914年)に新橋梁使用開始と共に使用停止となり構桁は撤去されたが、建設中の 有馬(ありま)鐵道三田-有馬間橋桁使用払下申請分に対し、翌大正4年(1915年)に該払下分は、該鉄道橋梁用として、武庫川、有野川、有馬川、及び、青名川橋梁用に架橋されたが、該鉄道は、大正8年(1919年)3月31日附を以って内閣鐵道院に買収され有馬線をとなったが、該線は、大東亜戦争末期に於ける非常決戦要綱に基き、不要不急線指定を受けた為に、昭和18年(1943年)7月1日附を以って全線休止扱となり、該橋梁群は、全部撤去の上、群馬鉱山から鉄鉱石産出輸送の為に建設中の長野原線(現 吾妻線)渋川-長野原(現 長野原草津口)間雁澤、須川両橋梁架橋用に再転用された。
他方、内4連は、兵庫電気軌道(現 山陽電気鉄道)に払下られ、大正6年(1917年)に舞子跨線線路橋として再用架橋された。

4)武庫川(むこがわ)橋梁Ⅰ 立花-甲子園口間
全長255.1m(837ft)
下路ポニーワーレントラス構桁21.3m × 12連
明治3年(1870年)11月着工、明治7年(1874年)2月竣工。
総工費 計44673円34銭
明治27年(1894年)7月に、神戸工場製主桁材追加に依り複線仕様に改造。
明治29年(1896年)3月11日附で複線化。
該橋梁は、架橋当時の錬鐡製橋桁使用の為に、次世代本線用大型重量蒸気機関車9900型(D50型)、18900型(C51型)非対応と判定された事から桁交換対象となり、大正5年(1916年)に鋼鐡製橋桁に交換された。


明治9年(1876年)に、大阪-京都間開通に依り、神戸‐大阪-京都間全通を祝し、第122代 明治(めいじ)天皇(嘉永5年(1852年)11月3日~明治45年(1912年)7月29日)(慶應3年(1867年)1月30日~明治45年(1912年)7月29日御在位)が明治10年(1877年)2月5日に開通記念式典に行幸された。

以下、明治天皇紀 第4巻
京都神戸間ノ鐵道既ニ開通セルヲ以テ西幸ヲ機トシ其ノ開業ノ典ヲ行ヒ賜ンカタメ京都大阪神戸ノ各停車場ニ臨幸ス 是ノ日夜来ノ雪ハレテカイセイナリ 午前八時四十分 熾仁親王 晃親王 及ヒ 内閣顧問木戸孝允 参議山縣有朋 参議兼工部卿伊藤博文 宮内卿徳大寺實則 海軍大輔川村純義等を随ヘ賜ヒテ出門アラセラル 九時京都停車場ニ著御 鐵道局長井上勝等ノ奉迎ヲ受ケ賜ヒ召ニ應シテ参集セル英吉利 伊太利 亜米利加合衆國 白耳義 墺地利 露西亜 仏蘭西 独逸 西班牙各國公使及ヒ在京都奏任以上ノ官吏ニ謁ヲ賜ヒテ 九時三十分乗車シ賜フ 親王及ヒ孝允實則 侍従長東久世通禧等陪乗シ 有朋博文以下並ヒニ中山忠能等麝香間祇候五人及ヒ各國公使 京都府知事槇村正直 在京都華族総代山本實政等前後ニ分乗ス 十時四十分玉車ノ大阪停車場ニ著スルヤ陸軍ノ禮砲殷々トシテ天地ニ轟ク 奉迎ノ大阪府知事 在大阪奉任以上ノ官吏 並ヒニ外國領事等ニ謁ヲ賜ヒ 停車場内ヲ通御シテ式場ニ入リ賜フ 壇上玉座ノ前方ニハ両親王左右ニ侍立シ 壇下ノ右方ニハ内閣顧問参議以下 左方ニハ各國公使 外務省官吏 陸海軍武官等列立シ 宮内卿侍従長ハ玉座ノ両側ニ侍ス
大阪府知事渡邊昇陛前ニ進ミ府民ニ代リテ祝辞ヲ奏ス
其ノ文ニ曰ク
伏テ惟ルニ海口西南ニ開ケ天成ノ便ヲ占ムルモノ古来大坂ヲ以テ中州ノ要?吻トス今ヤ隆盛ノ照代ニ遭遇シ人為ノ大ナル鐵路ヲ東北ニ架シ重キヲ載セ遠ニ致ス實ニ四通ノ衝ニ當レリ臣等幸ニ其ノ間ニ往シ無窮ノ錫ヲ享ケ無涯ノ聖恩ニ浴ス必ヤ業ヲ勉メ職ヲ営ニ以テ天恩ノ萬一ニ報ヒ國家ノ富盛ヲ圖ルヘシ爰ニ吉日ヲ擇ヒ開業ノ式ヲ行ハル仰テ府下一般ノ人民ニ代リ聊カ祝詩ヲ奉リ以テ期ス後来ノ繁榮氣管ノ煙ハ續々竈ノ煙ト賜リ列車ノ聲ハ軋轢々歓楽ノ聲ト和スルコトヲ謹テ白ス
曰ク、
祝詞満足セリ朕衆庶ノ公益ヲ謀リ永ク福祉ヲ全センコトヲ望ム
既ニシテ親王及諸臣等ヲ従ヘテ玉車ニ乗御 大阪府知事亦扈従ス 正午神戸停車場に著御アリ神戸港停泊ノ艦船禮砲を發スルコト式ノ如シ奉迎ノ兵庫縣権令森岡昌純 縣民ニ代リテ祝辞を奏ス
其ノ文ニ曰ク
維明治十年二月五日
天皇陛下西京神戸間鐵道開業式ニ光臨ス兵庫縣権令正六位臣森岡昌純惟國ノ富強ハ運輸ニ基ス蕎ニ東京横濱間ノ首線ヲ開行シ継テ本港京坂間ノ工ヲ竣ヘ今日茲ノ盛典を挙行セラル聖主國ヲ富シ利スルノ道悉クセリト云ヘシ古語ニ云始アラサル贖シ克終リ有ル鮮シト仰願クハ陛下ノ盛徳大業乾行斯線路ヲシテ長ク東西ニ亘リ海内ノ臣民?ニ其澤ヲ被ランコトヲ惟昌純管下人民ト伏シテ翼望スル所ナリ謹テ祝ス
祝詞満足セリ朕衆庶ノ公益ヲ謀リ永ク福祉ヲ全センコトヲ望ム
ト賜フル


現代語訳し、更に、補文し、
2月5日
京都神戸間鉄道が開通した事から、第122代 明治(めいじ)天皇(嘉永5年(1852年)11月3日~明治45年(1912年)7月29日(慶應3年(1867年)1月30日~明治45年(1912年)7月29日御在位)は、西日本行幸を機に、現地に於いて開業式典開催が決定した為に、京都、大阪、神戸各停車場に臨幸される事になった。
当日は、夜半来から降り続いた雪も止み快晴だった。

8時40分に、有栖川宮熾仁(ありすがわのみや たるひと)親王 (天保6年(1835年)3月17日~明治28年(1895年)1月15日)、山階宮晃(やましなのみや あきら)親王(文化13年(1816年)10月22日~明治31年(1898年)2月17日)、及び、内閣顧問 木戸孝允(きど たかよし)(天保4年(1831年)8月11日~明治10年(1877年)5月26日)、参議 山縣有朋(やまがた ありとも)(天保9年(1838年)6月14日~大正11年(1922年)2月1日)、参議兼工部卿 伊藤博文(いとう ひろぶみ)(天保12年(1841年)10月16日~明治42年(1909年)10月26日)(明治6年(1873年)10月25日~明治11年(1878年)5月15日在任)、宮内卿 徳大寺實則(とくだいじ さねのり)(天保10年(1841年)1月10日~大正6年(1917年)6月4日)(明治4年(1871年)9月15日~明治17年(1884年)3月21日在任)、海軍大輔 海軍中将 川村純義(かわむら すみよし)(天保7年(1836年)12月18日~明治37年(1904年)8月12日)等を従え、京都御所を出発された。

天皇一行は、9時に京都停車場に到着し、工部省鐵道寮頭 井上 勝(いのうえ まさる)(天保14年(1841年)12月18日~明治43年(1910年)8月2日)(明治7年(1874年)1月10日~明治10年(1877年)1月19日在任)等の奉迎を受けた。
更に、該区間開通式典に招待された、イギリス、イタリア、アメリカ合衆國、ベルギー、オーストリア、ロシア、フランス、ドイツ、スペイン各国駐在公使、及び、在京都在勤奏任官職以上の官吏を拝謁された。
9時30分に御召列車は出発した。
御料車に明治天皇の他に、有栖川宮、山階宮、木戸孝允、徳大寺實則、侍従長 東久世通禧(ひがしくぜ みちひろ)(天保4年(1834年)1月1日~明治45年(1912年)1月4日)(明治4年(1871年)11月27日~明治10年(1877年)8月29日在任)が陪乗した。
山縣有朋、伊藤博文、以下、並びに、中山忠能(なかやま ただやす)(文化6年(1809年)12月17日~明治21年(1888年)6月12日)等、麝香ノ間祇侯5名、及び、各国公使、第2代京都府知事 植村正直(うえむら まさなお)(天保5年(1834年)6月29日~明治29年(1896年)4月21日)(明治8年(1876年)月日~明治14年(1881年)在任)等々は、御料車前後の車輌に分乗した。

御召列車は、10時40分に大阪停車場に到着したが、到着と同時に陸軍は皇礼砲を放ち、殷々として天地に轟いた。
第4代大阪府知事 渡邉 昇(わたなべ のぼる)(天保9年(1838年)5月1日~大正2年(1913年)11月10日)(明治5年(1872年)11月11日~明治10年(1877年)1月12日在任)以下、在大阪在勤奏任官職以上の諸官吏、並びに、駐在外国領事等を拝謁された。
該停車場には式場が設営され、壇上主座に明治天皇、主座前方左右に有栖川宮、山階宮両親王、主座左方に木戸内閣顧問、山縣伊藤両参議、主座左方に各国駐在公使領事、及び、外務省接受官吏、陸海軍武官、そして、玉座両脇に東久世宮内卿、徳大寺侍従長が侍立した。

そして、渡邉大阪府知事は明治天皇の御前に進み、府民代表として祝辞を奏上した。

大阪は、淀川河口が西南部に所在し、古来より天成の便が良く、中洲(堂島)が要害地だったが、今では隆盛の時期となり、鐵路は東北に設置され、重量物を載し、実に東西南北四方に当たる為に無制限の栄を得たが、此れも、天皇の恩恵に依るもので、必ずや業績を挙げ効果を発揮すべく、天皇の恩典に報い国家の富盛を栄えるべく、吉日を選択し親しく開業式典を行うのは仰ぎて府下一般の人民に代り、聊か祝詞を奉りを以って、後来の繁栄気管の煙は続々竈の煙と一体になり、列車の音は軋として歓楽の声と調和する次第を謹んで上程す。

此の上奏に対し明治天皇は、
祝辞の内容に納得した、朕は国民をして公益を謀り、永く福祉を全うする事を望む。
との勅語を賜った。

そして、有栖川宮、山階宮両親王、及び、諸臣を従え、御料車に乗車され、該停車場から、渡邉大阪府知事も扈従乗車した。
御召列車は12時に神戸停車場に到着したが、到着と同時に神戸港停泊中の内外海軍艦船から皇礼砲が発せられた。
明治天皇は、該停車場に待機中の、奉迎の兵庫縣権令をはじめ在神戸在勤奉任官職以上の官吏、神戸港碇泊帝國海軍艦船乗組 海軍中佐以上の奏任官職、並びに、在日外国領事等を拝謁し、該停車場記念式典会場にお入りになられ、該式典会場に於いて、第8代兵庫縣権令 森岡昌純(もりおか まさずみ)(天保4年(1834年)1月10日~明治31年(1898年)3月27日)(明治9年(1876年)9月9日~明治18年(1885年)4月7日在任)は、兵庫縣民を代表し祝辞を奏上した。

此の上奏に対し明治天皇は、
祝辞の内容に納得した、朕は国民をして公益を謀り、永く福祉を全うする事を望む。
との勅語を賜った。


初代大阪驛構内を開業直前に撮影したものと推定される写真を精査すると、該駅構内に線路は僅か2本しか存在せず、牧歌的光景が拡がる風景だが、現在位置移転直前たる、明治32年(1899年)、若しくは、翌明治33年(1900年)撮影と推定される写真では、該駅構内に線路が幾重にも連なり、更に、下り神戸方に新設ホーム1本が追設置され、西成(にしなり)鐵道(現 大阪環状線大阪-西九条間、及び、桜島線西九条-安治川口間)旅客列車が出発待機中の光景が現存する。


明治29年(1896年)4月8日附法律第7号に拠り 河川法が公布され、該法律に拠る新淀川河川高水工事開始決定に依り、新淀川開削に伴い、該区間に新橋梁架橋を要する事となり、該橋梁設置の為に、明治31年(1898年)第12回帝國議会に於いて明治31年(1898年)より明治33年(1900年)に至る継続事業として計160万円支出が設定され、翌明治34年(1901年)第13回帝國議会に於いて、該事業は4箇年継続が決定された。


大阪駅所在地が晴れて大阪市編入を果たしたのは、明治30年(1897年)4月1日附である。
空地しか存在し得なかった大阪駅前付近が、市街地化様相を見せるのは、概ね明治20年代後半からである。
即ち、明治29年(1896年)に開始された淀川河川治水改修事業の為に、当該新河川上在住民は当該地から退去を余儀無くさせらた結果、該駅周辺空地に適当に移転して来た事で該駅周辺人口が増加した。

初代大阪驛本屋は煉瓦建築物で、当時の大阪市民には珍しい存在だったが、加速度的客貨輸送量増加に対応し切れず、業務上に於いて手狭となった事から、明治34年(1901年)7月1日附で現位置に移転し、同時に第2代駅本屋が建築された。
然し、該時点ですら該駅裏手は一面田園地帯拡がる農耕地帯だった。


鐵道唱歌
第60番
大阪いでて右左
(おおさか いでて みぎひだり)
菜種ならざる畑もなし
(なたね ならざる はたもなし)
神崎川のながれのみ
(かんざきがわの ながれのみ)
淺黄にゆくぞ美しき♪
(あさぎに ゆくぞ うつくしき)

第61番
神崎よりのりかへて
(かんざきより のりかえて)
ゆあみにのぼる有馬山
(ゆあみに のぼる ありまやま)
池田伊丹と名にききし
(いけだ いたみと なにききし)
酒の産地をとほおるなり♪
(さけの さんちを とほるなり)
当時は、大阪方面から有馬温泉に向かう経路は、明治31年(1898年)6月8日に開通した阪鶴(はんかく)鐵道有馬口(現 生瀬)駅下車で人力車に揺られつつ約9kmの山道を行くのが最短距離とされていた。


阪神間移動は、鉄道開業以来、長らく鐵道作業局が独占状態を維持継続していたが、明治38年(1905年)4月12日に、阪神電気鐵道に依り大阪出入橋-神戸三宮間濱街道沿に電車運行が開始された事から、電車の快適性、且つ、頻発運転から、該区間鉄道利用者の約63%が該社線利用に転移した為に、鐵道作業局線は旅客利用が激減し苦境状況に陥った。

明治41年(1908年)以降、遅れ馳せながら、戎、岡本両仮乗降場設置、及び、水野、武庫川、芦屋信号所設置を決定した理由として、列車増発に依る該区間利用者奪還巻返しを主軸とする対抗策実施と解される。


明治42年(1909年)7月31日16時50分に、大阪市北区空心町より出火した火災は、折から大阪湾から吹付けた強風の為に煽られ、該区内計11365戸が焼失する大火に発展した。

該大火報告を受け 第122代 明治(めいじ)天皇(嘉永5年(1852年)11月3日~明治45年(1912年)7月29日)(慶應3年(1867年)2月13日~明治45年(1912年)7月29日御在位)は、直ちに、侍従 日野西資博(ひのにし すけひろ)(明治3年(1870年)~昭和17年(1942年))を現地に派遣し被害の現状を巡視させ、大阪府を通じ金12000円を下賜し罹災者救恤補助とさせた。

当時の大阪市は、事態を重視すると同時に、好機とばかり該火災焼失地該地域に於ける再開発事業を一気に進行させる事に決し、該決定に基き、焼失前に於ける迷路状道路を再編整備した事から、町割再編を含め、該市中心部より発展する機会を得た。

該火災復興事業完了後に依る道路再編は、大東亜戦争末期に於ける昭和20年(1945年)の数次に亘る空襲被災時に鑑み、該市心斎橋以南地域と比較し、道路拡張効果として大火砕流発生件数が少数だった事が原因で、該区内に於ける焼死者数は該市他区と比較し格段に少数だった。


大阪市に於ける都市再開発計画は、大正6年(1917年)8月11日附で該市に都市計画調査会設置を以って嚆矢とする。

然るに、東京市における都市再開発計画が、明治18年(1885年)12月に市区改正審査委員会設置が発端だったのに対し、大阪市に約33年の遅れが発生した背景として、同年7月2日に発生した淀川大洪水に対し、内務省土木局直轄工事として淀川河川治水大改修工事が開始され、該工事は25年後の、明治43年(1910年)に竣工したが、該工事完了後に於ける旧廃川敷埋立整備、及び、土地再編を伴った為に、該期間中は都市再開発に着手したくとも着手困難たる事情を有していたからである。


内閣鐵道院は、複線区間に於ける保安装置 双信式閉塞式に代る次世代閉塞方式として 当時、独逸に於いて開発された連動閉塞式に着目し、大正3年(1914年)に採用が決定され、独ジーメンス(SIEMENS)社に対し該社連動閉塞機器41組を発注し、東京地区に先駆け、大正4年(1915年)10月に、京都-大阪-神戸-明石間に設置試用し、翌大正5年(1916年)4月より正式採用された。

引続き、内閣鐵道院は、東海道本線東京-國府津間、及び、東北本線上野-大宮間導入を決定し、該社に対し該機器追加発注を行ったが、折しも、我が国は、欧州に於いて第1次世界大戦(だいいちじ せかいたいせん)(大正4年(1915年)8月4日~大正7年(1918年)11月11日)が勃発し、第3次日英同盟條約(ANGLO-JAPANESE ALLIANCE-Ⅲ)に拠り、我が国は大正3年(1914年)8月23日附を以って、聨合国側として参戦し独逸とは敵国関係となり外交関係が断絶した為に、該社に発注済機器は独逸政府をして敵性資産と認定され該政府に没収され我が国に未着となった。

内閣鐵道院は改めて検討した結果、米ウェスティングハウス(WESTINGHAUSE)社製、自動閉塞式採用が決定され、大正10年(1921年)7月20日附で、該線大阪-神戸間が連動閉塞式から自動閉塞式に変更されたが、当時の我が国の技術では、電球、及び、レンズの大量製造は困難だった事から、信号機は色燈式では無く上位腕木3位式自動信号機が採用された。

然し、若し、独逸から連動閉塞式関連機器一式が到着していれば、該式は非自動式故に何れかの時期に自動閉塞式に更新が必要となり、寧ろ、開戦に伴う輸出禁止処置は該機器設置区間にとって不幸中の幸だったと言える。


大阪駅構内に於ける貨物取扱業務は、大正10年(1921年)の時点で年間150万tに達し、該駅構内に於ける貨物取扱業務量は既に限界を超えていた。
鐵道省に依る大阪駅第3次改良計画は、従来は該駅構内に於いて存在した機関庫、客車組成、及び、貨物取扱業務を分散させ純然たる旅客駅化させると同時に、上下淀川橋梁間を高架化させる計画が策定され、該計画に対し大阪市は都市計画推進上、千載一遇の好機と判断し、鐵道省に対し全面協力を決定した事から、鐵道省は厄介な必要土地買収は大阪市に委託し、此れを受け大阪市は土地買収を大正11年(1922年)12月に開始し昭和3年(1928年)6月に完了した。
同年10月には該駅北側に存在した客車留置施設を吹田に仮移転させ、該客車留置線跡地を活用し新高架橋工事が開始された。
鐵道省は、該駅高架化の為に貨物取扱業務を分離させるべく、当初は、該市福島町一帯移転設置を検討したが、地元住民の反対運動が激化し反対市民大会を決起結成するに及び、鐵道省は福島町移転案を放棄し、改めて人家が少ない該駅裏側の北梅田地区を選定決定した。

神崎(現 尼崎)-東灘間は、大正15年(1926年)11月15日附で複々線化されたが、大阪-神崎(現 尼崎)間複々線化は、大阪駅付近高架化工事と並行し住宅密集地故に民有地土地収用問題に手間取り、
大阪-塚本間           
昭和12年(1937年)10月10日
歌島(現 塚本)-神崎(現 尼崎)間
昭和  9年(1934年) 5月25日
に竣工した。


該高架化工事第1期分は昭和9年(1934年)5月に竣工した事から、地上線から高架線への切替工事を同月31日未明に開始し翌6月1日に竣工させたが、該切替工事には、当時該駅東京方に存在した阪神急行電鐵線トラス構桁を撤去し地上線に切替を要する大工事だった。

該区間電化工事は、同年7月20日に吹田-大阪-神戸-須磨間が完成したが、該電化に依り、普通電車は朝夕混雑時間帯は、モハ - クロハ - クハ - モハ4両編成が10分間隔11駅停車で38分、閑散時間帯は、モハ - クロハ 2両編成が15~20分間隔で運転。
大阪-神戸間に急行電車が運転開始されたが、モハ - サロハ - サハ - モハ 4両編成を2本使用で、大阪神戸共に6時30分、及び、7時30分~21時00分発30分間隔で運転され大阪-三ノ宮間24分、大阪-神戸間28分を要したが、急行と称するも、当時の鐵道省に於ける列車種別たる 特別急行、普通急行とは異なり、料金不要の速達列車と云う意味であり、該区間途中停車駅は三ノ宮、元町2駅だけで、明らかに、該区間並行の阪神急行電鐵神戸線(現 阪急電鉄神戸本線)、及び、阪神電気鐵道本線を対抗意識したもので、現在の新快速電車以上の存在だった。

因みに、該区間旅客列車運転時間は、大正14年(1925年)3月1日附時刻改正では、途中、神崎(現 尼崎)、西ノ宮(現 西宮)、芦屋、住吉、灘、三ノ宮Ⅰの6駅停車で、8620型蒸気機関車牽引普通列車は概ね53分を要したが、当時は、車輌間が自動連結器では無く螺旋連結器使用し、空気制動使用では無く真空制動使用の為に、連結定数、最高速度共に制限が有った。
昭和5年(1930年)10月1日時刻改正では、C51型蒸気機関車牽引普通列車は、4分短縮の概ね49分運転していたが、別途、C10型タンク式蒸気機関車牽引快速度列車は、途中、三ノ宮のみ停車で32分で運転した。

因みに、該電化運転開始時に於ける並行私鉄たる、阪神急行電鐵(現 阪急電鉄神戸本線)大阪梅田-神戸三宮間途中無停車の特急電車は25分、急行電車は7時00分~9時15分発、及び、15時25分~19時25分発に限定され36分を要した。

阪神電気鐵道本線大阪梅田-神戸元町間運転で、特急電車は5時00分~24時00分発運転で35分を要した。

但し、運賃は、両私鉄共に大人片道40銭だったのに対し、鐵道省線は大人片道3等50銭、2等通行税込1円10銭で、該区間利用者にとって到達時間を採るか割安運賃を採るかに選択が分かれた。


該電化運転開始翌日たる7月21日21時31分頃、塚本-大阪間に於いて列車追突事故が発生した。
即ち、神戸発東京行12等普通急行第18列車は落雷が原因で停電し消燈状態信号機手前に於いて運転規定に則り一旦停止をしていた処、後続第3556電車4両編成は時速約14kmで走行中、先行第18列車約20m地点に於いて該列車尾燈に気付き、非常制動を動作させるも間に合わず、該電車は第18列車後部に衝突した。
因みに、当時の鉄道車輌には運転席にブレート、即ち、ワイパーが無く、故に、雨天ともなると雨粒でガラスが見えなくなるなど当然だった。
ワイパーが無かったのは鉄道車輌だけでは無く、自動車、そして、飛行機にすら存在していなかった。
戦時中の記録フィルムに、我が国の陸海軍機出撃風景の場に於いて、離陸滑走時に風防を開放し1名が起立しているのは、ワイパーが無く、前方注意の為に操縦士に対し、立っている搭乗員が自身の足で操縦士に対し方向指示する為で、別に単に前方注視の存在では無かった。
該追突事故に依り、第18列車最後部 2等寝台車マロネフは妻板屈曲、他8両に小損被害が発生したが列車運行続行は差支え無いと判断され、遅延状態で運行継続した。
一方、第3556電車は、東京方4,3号車車輌密着連結器制動管破損、2号車密着連結器破損の被害が発生したが、1号車は無事だった事から単車で宮原電車庫に回送し、他3両は、後続第3186電車推進運転で回送し、22時50分開通した。
該事故に依り、旅客14名、職員1名が軽傷を負った。


鐵道省は、大阪-神戸間複々線化竣工直前に、世間に対し該複々線化完成を強烈に印象付けるべく、急行専用新型電車導入を決定した。

即ち、当時世界的な流行だった流線型を採用し高速感を前面に打出した モハ52型で、該車両は、昭和11年(1936年)3~5月に1編成が竣工し、
モハ52001 + サロハ46018 + サハ48029 + モハ52002
の4両編成が登場し、試運転を重ね、同年12月8日より急行電車に導入した。

第1次車は側面が狭窓様式だったが、ぶどう2号1色塗装が当り前の時代に2色塗装で登場した事からセンセーションを以って迎えられた。

翌昭和12年(1937年)6~8月登場の第2次車2編成では、側面が広窓様式で製造され、より高速感が際立たせられ、23等合造車サロハ66型には便所も設置された。
昭和12年(1937年)6月15日運転開始。
モハ52003 + サロハ66016 + サハ48030 + モハ52004
昭和12年(1937年)8月22日運転開始。
モハ52005 + サロハ66017 + サハ48031 + モハ52006
昭和12年(1937年)9月17日運転開始 先頭車 半流線様式
モハ43039 + サロハ66018 + サハ48032 + モハ43038
昭和12年(1937年)9月18日運転開始 先頭車 半流線様式
モハ43041 + サロハ66019 + サハ48033 + モハ43040

昭和12年(1937年)10月10日 京都-吹田間電化では、普通電車50本、急行電車5本運用となり、別途、吹田-神崎(現 尼崎)間2両編成×4本、及び、住吉-鷹取間2両編成5本に依る短区間運転が開始され、此の為に、電車不足分として東京鐵道局管内より、モハ34型4両、クハ38型4両が転属した。


昭和13年(1938年)7月5日に阪神地域に甚大被害を齎した阪神大水害に依る該区間被害は、
塚本駅
駅本屋床下浸水。
立花駅
上り線外側築堤50m崩壊、同日19時復旧。
立花-甲子園口間
武庫川下り内外線用橋梁、第6号橋脚基礎部洗掘に依り同日14時20分頃、橋脚山側沈下傾斜。
武庫川橋梁は無事だった上り内外線を活用し列車運行を確保し、木組に依るトレッスル構造で橋桁を保持させ、同月19日迄に杭打を完了し、同月20日に橋桁打上を施工し、同月21日2時53分に復旧工事が完了した。


京都-大阪-神戸-明石間運転の普通電車は、戦時体制移行に依る通勤者増加の混雑緩和の為に、京濱線に先立ち昭和13年(1938年)9月4日限りで2等車連結を中止し、クロハ59型、及び、クロハ69型の2等室は3等改造まで座席等々室内設備そのままで3等代用として継続使用された事から、老若男女問わず、皆競って該車に殺到し該車両だけは常に混雑していた。


昭和16年(1941年)3月26日21時51分頃、塚本駅構内に於いて重大事故が発生した。

即ち、下り貨物第283列車 D50269蒸気機関車牽引43両編成は、該駅5分遅延で下り貨物側線に停止すべき処、該列車機関士は時速約40kmで走行、停止信号を冒進した為に、該駅安全側線に進入した事から、該列車牽引機関車全軸脱線、1~13両目貨車は脱線転覆、14両目貨車は全軸脱線、15両目貨車は1軸脱線し、下り内外線を支障した処、併走中の下り外側線走行中の下り濱松発姫路行普通第711列車 C51259蒸気機関車牽引6両編成は、該駅出発信号機が、急に進行現示から停止現示になった事から、該列車機関士は非常制動を動作させるも、間に合わず、第283列車脱線転覆貨車に接触した為に、第711列車機関車本体、及び、1、2両目客車は脱線転覆、炭水車、及び、3.4両目客車が脱線した。
更に、併走中の下り内側線走行中の第3201電車2両編成は、第283列車脱線転覆貨車に激突接触し、該電車は全軸脱線し上り線を支障した。
実は、同時刻、上り内側線走行中の電車が存在したが、事故発生時の大音響を聞きつけ現場に駆けつけた地元町内会長が、手にした提燈を必死に振り、該上り電車を停止させた為に、直前に該電車を含めた四重衝突事故は回避された。

該事故に依り、第711列車旅客1名、機関士機関助士2名が死亡、旅客職員計143名が重軽傷を負った。

復旧は、上り外側線27日14時45分、上り内側線同日15時30分、下り内側線28日6時27分、下り外側線、及び、下り貨物側線同日11時37分。

事故原因は、下り貨物第283列車機関士の漠然運転に依る信号無視で、該列車機関士、及び、機関助士は逮捕起訴され、第1審に於いて、機関士は禁固1年、機関助士は禁固2箇月執行猶予5年の判決が下り、両被告共に該判決を不服とし控訴したが、上級審に於いて控訴棄却の判決が下り刑が確定した。

第3201電車2号車 クハ58022は貨車との衝突時に於ける車体損傷が著しく、復旧されぬまま吹田工機部に長期間放置状態が継続したが、後に該工機部に於いて4扉改造化工事を受けクハ55136に改番され、その後、クハ85022→クハ79052と改番され使用され昭和50年代まで使用された。


大東亜戦争中、該区間に於ける空襲被害は、
3月13日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計275機
 警戒警報発令 23時10分
 空襲警報発令 23時20分
 空襲開始    23時57分
 空襲警報解除  3時00分
 警戒警報解除  3時25分
  大阪-塚本間 枕木焼損計300本
  上下線 17時00分開通

6月 1日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計458機
 警戒警報発令  7時43分
 空襲警報発令  9時03分
 空襲開始     9時28分
 空襲警報解除 11時00分
 警戒警報解除 11時20分
  大阪-塚本間 線路破壊4箇所計65m
  神崎駅構内
  福知山線上り旅客ホーム上屋半焼
  上下線 15時50分開通
  電車 同月2日始発

6月 7日 第21爆撃機軍団 第58爆撃隊 第73爆撃隊 第313爆撃隊 第314爆撃隊 B29戦略爆撃機計409機
 警戒警報発令  9時40分
 空襲警報発令 11時00分
 空襲開始    11時09分
 空襲警報解除 12時05分
 警戒警報解除 12時28分
  大阪-塚本間 線路破壊6箇所計150m 枕木焼損計100本
  梅田架道橋桁、西池架道橋桁 機銃掃射貫通孔
  塚本駅本屋半壊 線路分区全焼
  塚本駅 旅客1名 職員1名死亡 重軽傷者多数
  上下線 8日5時50分開通

6月15日 第21爆撃機軍団 第58爆撃隊 第73爆撃隊 第313爆撃隊 第314爆撃隊 B29戦略爆撃機計444機
 警戒警報発令  7時22分
 空襲警報発令  7時30分
 空襲開始     8時44分
 空襲警報解除 10時55分
 警戒警報解除 11時10分
 大阪-塚本-宮原間 線路破壊7箇所計280m 枕木焼損計700本
塚本駅本屋全焼
  上下線 15時50分開通
 塚本駅構内被災車輌
   スハフ32  15(東シナ)小破
  オハ 35  25(東シナ)小破
 以上、復旧。
  オロ 35  17(大キト)全焼
  オハ 31 356(大ヒメ)全焼
  オハ 31 453(大ワカ)全焼
  オハ 31 459(大キト)全焼
  スハフ32 303(広イト)全焼
  スハ 32 217(大ワカ)全焼
  スハ 32 239(東シナ)全焼
  スハ 32 297(東シナ)全焼
  スハ 32 492(東シナ)全焼
  オハ 34  76(大ミハソ)全焼
  オハ 34 120(大ミハソ)全焼
  オハ 35 106(大ワカ)全焼
  オハ 36 29(東シナ)全焼
  オハ 36  33(東シナ)全焼
  オハ 36  65(東シナ)全焼
  オハ 40  2(東シナ)全焼
  マハ 47 128(大ヒメ)全焼
  他木造車1両(形式番号不詳)
 神崎駅構内被災車輌
  木造車2両(形式番号不詳)
 以上、昭和21年(1946年)3月31日附戦災廃車


昭和20年(1945年)6月8日早朝、神崎(現 尼崎)駅構内に於いて地気短路が原因で電車が全焼する事故が発生した。

即ち、前日7日午前中、大阪駅付近を中心とした大規模空襲に依り、吹田操車場-大阪-塚本間は甚大被害を受け、大阪-塚本間復旧は翌8日5時50分に開通したが、架線接触事故を防止する為に停電状態だったものを通電した処、該空襲の為に前途運休となり該駅構内に留置中の モハ42004(4扉改造車) は、漏電の為に瞬時にして発火全焼した。

関西地区では大東亜戦争中より地気短路が原因に依る電車発火事故が多発し、前年たる、昭和19年(1944年)6月19日には、阪和線和泉府中-信太山間に於いて、宮原電車区から鳳電車区に転属直後の モハ43001+ クハ58011が、モハ43001のパンダグラフ地気短路異常に依り、出火全焼する事故が発生したばかりだった。

阪和線は、昭和19年(1944年)5月1日附で、南海電気鐵道山手線を買収した路線で、元は、南海電気鐵道が阪和電気鐵道を吸収合併したものだったが、南海電気鐵道は、阪和電気鐵道買収時に、本来秀逸だった阪和の車輌が南海本体所有の不良部品と交換させ、更に、買収が決定するや、電気関係品、電動機、抵抗器や制動機器をはじめとする部品等々を火事場泥棒的に南海が非引継品目として回収し省に引継をさせず、然も、南海電気鐵道電車、鐵道省電車の大多数は電空カム軸制御式を採用していたのに対し、阪和電気鐵道電車はより高度な電動カム軸制御式だった事から、買収時には稼動不能車が全車輛の6割を超える異常事態での運行状態だった。
因みに、該社は社史を2回公刊したが、不都合と見え該事実記述は全く存在しない。
該車輌は、昭和22年(1947年)10月22日附で事故廃車後、小田急電鉄に払下られ、同社デハ1821型として再生された。


東海道本線京都-大阪-神戸間に於ける電車に依る急行運転は、大東亜戦争初期たる昭和17年(1942年)11月に中止され普通のみの運転となった。

他方、阪和線は、前述の様に、昭和19年(1944年)5月1日附で政府買収されたが、社線時代の運行形態が継続され、急行運転が残存し、大東亜戦争末期たる昭和20年(1945年)4月15日附で廃止されたが、戦争終結後の昭和21年(1946年)12月24日に復活した。

然るに、東海道本線に於ける急行電車運転復活は、若干遅れ、昭和24年(1949年)4月10日附で京都-大阪間朝1往復、夕2往復が復活し、同年5月11日附で、京都-大阪-神戸間11往復が復活した。
使用車輌は在来車を整備使用し米国調のケバケバしい塗装で出場した為に、姥桜感が免れず斬新さには欠けたが、翌昭和25年(1950年)8月17日附で、宮原電車区にクハ86型、モハ80型計8両新製配置を皮切に、同年9月末迄にクハ86型計16両、モハ80型16両が新製配置され、4両編成8本使用に依り、同年8月29日より80系電車が導入され、同年10月1日附時刻改正時より、京都-大阪-神戸間急行電車が定期運転化されたが、但し、利用者層の変化と需要の関係を検討した結果2等車連結は見送られた。
また、80系導入に依り余剰となった52型電車は、阪和線特急電車に使用するべく鳳電車区に配置換となり、同年10月1日附時刻改正時より阪和線天王寺-東和歌山(現 和歌山)間に特急電車が運転された。


京都-大阪-神戸間運転の急行電車は、昭和9年(1934年)7月20日に、大阪-神戸間運転開始以来、急電(きゅうでん)の愛称で親しまれたが、該時期には、東京地区では料金徴収の準急電車が登場しており、急行料金無料有料列車が混在する事は、利用者に対し誤解と混乱を招来させるものとして、昭和32年(1957年)10月1日附時刻改正時を以って、中央本線東京-浅川(現 高尾)間運転急行電車をも含め、従来の急行の名称から快速に変更した。
更に、それ迄は、複々線区間上下線共に、外側線が急行運転、内側線が普通運転と区分されていたが、該時刻改正時を以って、快速普通共に内側線走行に変更された。


現在の新快速電車は、大阪府千里が丘に於いて開催された 日本万国博覧会(昭和45年(1970年)3月15日~同年9月15日開催)閉幕後に於ける輸送確保を期し、同年10月1日時刻改正時より運転された物である。
即ち、該博覧会観覧客輸送の為に、当初、横須賀線用に製作された113系電車を流用し冷房取付改造工事を施工して運転された臨時快速電車が好評だった事から立案された列車である。
然し、運転当初はは車体塗装こそ横須賀線色とは言え、車内はセミクロスシート配置で、該車輌運転最高速度は時速95kmの為に、必ずしも速達感が有していた訳では無く、京阪間、及び、阪神間移動は、相変わらず快適な民鉄が優位だった。
然るに、山陽新幹線新大阪-岡山間開業に伴う、平行在来線急行電車、殊に、新大阪-宇野間運転の鷲羽(わしう)号が、夜行運転以外、全廃された事から、該電車に使用されていた153系急行用電車が大量余剰となり、全車冷房改造済車輌を6両編成に組成し、且つ、最高運転速度も時速110km運転が可能になった事で速達感が増した。
更に、車体塗装も、白地に水色を配した基調に変更された為に、利用者からは注目を集め。一部電車に至っては、京都-大阪間、及び、大阪-神戸間に於いて併走する特急電車を追抜く高速性を発揮した。


新快速電車は順調に運転され、京阪神間旅客輸送に於ける高速性こそ他並行私鉄の追従を許さぬ存在だったが、昭和50年代ともなると153系電車の固定クロスシートでは流石に腐陳化が顕著となり、更に、2扉デッキ付構造では混雑時に於ける乗降時間の延伸から列車遅延の要因ともなり、此の為に、大阪鉄道管理局は日本国有鉄道本社に対し、車輛をグレードアップし他並行私鉄と対抗可能な新車輛設計配置を要求した。

此の為に開発された新型車両が117系電車である。

117系電車は、昭和49年(1974年)に山陽新幹線岡山-博多間開通に鑑み、北九州地区に新製配置された キハ67系快速用気動車を念頭に設計製造され、外観は大東亜戦争前に配置された急行用モハ52型塗装を彷彿させる2色で構成し、車体は2扉デッキ無で車内は転換式シートを配置した構造で、当時全国各地で運転されていた急行列車より遥かにグレードが高かった。
第1陣は、昭和54年(1979年)9月12日附で宮原電車区に配置され、試運転、及び、乗務員訓練を経て、翌昭和55年(1980年)1月22日より完成分8編成を使用して運用開始された。
更に、同年6月末迄に残13編成が完成した事から、同年7月5日より新快速電車全列車が117系で運用された。

昭和61年(1986年)11月1日附時刻改正では、日本国有鉄道最後の白紙時刻改正が実施され、該時刻改正に依り、新快速電車は、複々線区間に於いて内側線走行から外側線走行に再変更された。


平成7年(1995年)1月17日早暁5時46分に発生した阪神淡路大震災に於ける該区間被害は、

立花駅構内
 土台擁壁1箇所崩壊計3m 擁壁傾斜1箇所計8m
立花-甲子園口間
 路盤沈下計240m
甲子園口-西ノ宮(現 西宮)間
 土台擁壁1箇所崩壊計2m 擁壁傾斜1箇所計5m
 津門川上り内外線側橋梁アンカーボルト剥離
塚本駅
 上り 甲子園口発京都行 普通第502C列車 乗客約30名は該駅外に誘導
塚本-尼崎間
 下り 京都発西明石行 普通第107C列車 乗客約350名は尼崎駅に徒歩誘導
甲子園口駅
 上り 西明石発京都行 普通第108C列車 乗客約30名は該駅に誘導

該区間復旧は、
 大阪-尼崎間         同年1月18日
 尼崎-甲子園口間        同年1月19日
 甲子園口-西ノ宮(現 西宮)間 同年1月25日
である。


JR東西線京橋-尼崎間12.5kmは、平成9年(1997年)3月8日時刻改正と同時に開通したが、途中、加島-尼崎間は、東海道本線直下地下を通過する為に、加島駅は東海道本線敷地下に駅が存在する。


旧梅田駅跡地土地活用取扱に就いては長らく結論が出ず、大阪市を含め混迷を深めていたが、その間、日本貨物鉄道に依る貨物取扱業務を吹田に全面移転が決定するまで19年を要した。
最終的に、平成27年(2015年)6月に該跡地はUR都市機構譲渡を適当とする答申を受け、該決定に基き、同年10月に土地譲渡契約が締結され、更に、平成30年(2018年)7月に三菱地所が買収し同年9月に土地引渡が完了し、現在工事が進行中である。


令和2年(2020年)1月1日現在、新快速電車は、途中停車駅に尼崎、及び、芦屋が追加されたが、大阪-三ノ宮間最短22分、大阪-神戸間最短24分で到着する。

明治7年(1874年)開通当時の運転時間から見れば正に隔世の感ありである。




表紙写真は、
明治6年(1873年)11月竣工、新堀川(しんほりかわ)洪橋




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~吹田-新大阪-大阪間(現行線)編 大正浪漫~

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~灘-神戸間編 大正浪漫~
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旅行の満足度
4.5
観光
4.5
ホテル
5.0
グルメ
4.5
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
高速・路線バス 新幹線 JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 大阪(おおさか)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治7年(1874年)5月11日開業である。<br />初代大阪驛は、当初計画では堂島大江橋端に設置が予定されていたが、然し、明治6年(1873年)12月26日附を以って、大阪-京都間延長が決定し、該地で京都方面延長時は頭端式とせざるを得ず、直行式形態を以って曾根崎に変更された。<br />該駅は、西成郡曾根崎村千日墓地、即ち、現在の大阪中央郵便局庁舎所在地に設置されたが、元来、該墓地は、行旅人、低出自者等々捨棄埋葬地であり、更に、現在の梅田(うめだ)は、淀川下流域湿地帯を埋立た埋田を改称した所で、明治11年(1878年)7月22日附大政官布告第17号に拠る、郡区町村編成例法に基き、翌明治12年(1879年)2月10日附で、大阪市区制施行時は東西南北4区が設置されたが、現在とは異り該市域は極めて狭隘であり、曾根崎、野田、九條、難波は、何れも西成郡下に存在する村であり町ですら無かった。<br />大阪停車場設置予定地が堂島から曾根崎梅田に変更されたのは、将来に於ける京都延長を考慮再考した結果である。<br />その為に、堂島が大阪市内中心地だったのに対し、要するに、該駅開設時に於ける梅田曾根崎は、当時の大阪市民、殊に、堂島、船場周辺在住商人達から見れば、鉄道利用時以外に足を向ける事すら無き不吉な地であり、該駅貨物取扱施設分離の為に、梅田駅設置工事開始時点ですら、該墓地が残存し、且つ、現在ですら道路工事等々で人骨発見の報道を耳にするのは此の為である。<br />初代駅長は長州出身の 武藤正義(むとう まさよし)(生没年不詳)で、妻は、高杉晋作(たかすぎ しんさく)(天保10年(1839年)9月27日~慶應3年(1867年)5月17日)の妹 武 である。<br />また、該区間開通時は駅本屋は未完成で竣工は、開通後と云う慌しい状態だった。<br />因みに、該駅所在地の大阪市編入は、明治30年(1897年)4月1日附である。<br />初代大阪驛本屋は煉瓦建築物で、当時の大阪市民には珍しい存在だったが、加速度的増加の客貨輸送量に対応し切れず、業務上に於いて手狭となった事から、明治34年(1901年)7月1日附で現位置に移転し、同時に第2代駅本屋が建築された。<br />該駅構内食堂設置は、明治44年(1911年)10月15日と他道府県庁所在地と比較して極めて遅く、願出に依り小荷物室階上に設置され、西洋料理、及び、和洋酒類を提供したが、前述した様に、当時ですら大阪中心地在住者は鉄道利用者以外に該駅付近に出掛ける事を忌避し、且つ、当時の大阪市民で上流階級に属する人々は西洋料理に違和感を抱き好まなかった事もあり、該食堂は西洋料理提供主体から次第にビアホールへと変化した。<br />鐵道省に依る大阪駅第3次改良計画は、従来は該駅構内に於いて存在した機関庫、客車組成、及び、貨物取扱業務を分散させ純然たる旅客駅化させると同時に、上下淀川橋梁間を高架化させる計画が策定され、該計画に対し大阪市は都市計画推進上、千載一遇の好機と判断し、鐵道省に対し全面協力を決定した事から、鐵道省は厄介な必要土地買収は大阪市に委託し、此れを受け大阪市は土地買収を大正11年(1922年)12月に開始し昭和3年(1928年)6月に完了した。<br />同年10月には該駅北側に存在した客車留置施設を吹田に仮移転させ、該客車留置線跡地を活用し新高架橋工事が開始された。<br />該高架化工事第1期分は昭和9年(1934年)5月に竣工した事から、地上線から高架線への切替工事を同月31日未明に開始し翌6月1日に竣工させたが、該切替工事には、当時該駅東京方に存在した阪神急行電鐵線トラス構桁を撤去し地上線に切替を要する大工事だった。<br />他方、高架化に伴う現行駅本屋を撤去し鉄骨鉄筋コンクリート建築で鐵道省直営ホテル一体となった5階建駅本屋建築が決定し、昭和10年(1935年)4月1日に仮建築となる第3代駅本屋が竣工し、明治34年(1901年)竣工の第2代駅本屋が解体され、昭和11年(1936年)1月18日に該工事着工式が執り行われ、昭和15年(1940年)5月に3階部分まで一部完成し、同年6月1日附で竣工したが、時あたかも日華事変の最中、我が国が戦時体制へと移行した事から、ホテル部分の建造は見送られ、遊休鋼材610tは帝國陸軍に対し供出が決定し、該供出は昭和18年(1943年)10月に実施された。<br />大東亜戦争終結直後たる昭和20年(1945年)9月29日附で進駐軍用RTOが開設され、昭和27年(1952年)3月31日まで存在した。<br />然るに、該時期より該駅構内に於ける地盤沈下現象が深刻な状態となっていた。<br />即ち、該駅付近は元来湿地帯を埋立た所で、高架化工事時に、武智式鉄骨鉄筋コンクリート法に依り建設された事が原因で該駅構内が凹凸状態だった。<br />該工事方法では杭打を深度4.0m~6.5mに設定したが、該駅付近は、表面より深度6.0m~9.5mが砂礫粘土層だったが、深度9.5m~23.0mは悪性粘土層、深度23.0m~28.0mは砂利層であり、梅田層と称される岩盤は深度30.0m以上とされ、該高架線開通直後より車輌重量に依る圧押に依る高架橋沈下が発見され、同時に地下水汲上に依る地盤沈下が著しい状態で、此の為に、日本国有鉄道は昭和20年代半ばに莫大な資金を投入して該駅構内地盤沈下対策を講じさせられた。<br />昭和40年代半ばともなると、該駅本屋老朽化が深刻な状態となった事から、建替が決定され、昭和54年(1979年)12月15日附で第5代駅本屋 地上27階建地下4階建 アクティ大阪が開業した。

    大阪(おおさか)駅



    該駅は、明治7年(1874年)5月11日開業である。
    初代大阪驛は、当初計画では堂島大江橋端に設置が予定されていたが、然し、明治6年(1873年)12月26日附を以って、大阪-京都間延長が決定し、該地で京都方面延長時は頭端式とせざるを得ず、直行式形態を以って曾根崎に変更された。
    該駅は、西成郡曾根崎村千日墓地、即ち、現在の大阪中央郵便局庁舎所在地に設置されたが、元来、該墓地は、行旅人、低出自者等々捨棄埋葬地であり、更に、現在の梅田(うめだ)は、淀川下流域湿地帯を埋立た埋田を改称した所で、明治11年(1878年)7月22日附大政官布告第17号に拠る、郡区町村編成例法に基き、翌明治12年(1879年)2月10日附で、大阪市区制施行時は東西南北4区が設置されたが、現在とは異り該市域は極めて狭隘であり、曾根崎、野田、九條、難波は、何れも西成郡下に存在する村であり町ですら無かった。
    大阪停車場設置予定地が堂島から曾根崎梅田に変更されたのは、将来に於ける京都延長を考慮再考した結果である。
    その為に、堂島が大阪市内中心地だったのに対し、要するに、該駅開設時に於ける梅田曾根崎は、当時の大阪市民、殊に、堂島、船場周辺在住商人達から見れば、鉄道利用時以外に足を向ける事すら無き不吉な地であり、該駅貨物取扱施設分離の為に、梅田駅設置工事開始時点ですら、該墓地が残存し、且つ、現在ですら道路工事等々で人骨発見の報道を耳にするのは此の為である。
    初代駅長は長州出身の 武藤正義(むとう まさよし)(生没年不詳)で、妻は、高杉晋作(たかすぎ しんさく)(天保10年(1839年)9月27日~慶應3年(1867年)5月17日)の妹 武 である。
    また、該区間開通時は駅本屋は未完成で竣工は、開通後と云う慌しい状態だった。
    因みに、該駅所在地の大阪市編入は、明治30年(1897年)4月1日附である。
    初代大阪驛本屋は煉瓦建築物で、当時の大阪市民には珍しい存在だったが、加速度的増加の客貨輸送量に対応し切れず、業務上に於いて手狭となった事から、明治34年(1901年)7月1日附で現位置に移転し、同時に第2代駅本屋が建築された。
    該駅構内食堂設置は、明治44年(1911年)10月15日と他道府県庁所在地と比較して極めて遅く、願出に依り小荷物室階上に設置され、西洋料理、及び、和洋酒類を提供したが、前述した様に、当時ですら大阪中心地在住者は鉄道利用者以外に該駅付近に出掛ける事を忌避し、且つ、当時の大阪市民で上流階級に属する人々は西洋料理に違和感を抱き好まなかった事もあり、該食堂は西洋料理提供主体から次第にビアホールへと変化した。
    鐵道省に依る大阪駅第3次改良計画は、従来は該駅構内に於いて存在した機関庫、客車組成、及び、貨物取扱業務を分散させ純然たる旅客駅化させると同時に、上下淀川橋梁間を高架化させる計画が策定され、該計画に対し大阪市は都市計画推進上、千載一遇の好機と判断し、鐵道省に対し全面協力を決定した事から、鐵道省は厄介な必要土地買収は大阪市に委託し、此れを受け大阪市は土地買収を大正11年(1922年)12月に開始し昭和3年(1928年)6月に完了した。
    同年10月には該駅北側に存在した客車留置施設を吹田に仮移転させ、該客車留置線跡地を活用し新高架橋工事が開始された。
    該高架化工事第1期分は昭和9年(1934年)5月に竣工した事から、地上線から高架線への切替工事を同月31日未明に開始し翌6月1日に竣工させたが、該切替工事には、当時該駅東京方に存在した阪神急行電鐵線トラス構桁を撤去し地上線に切替を要する大工事だった。
    他方、高架化に伴う現行駅本屋を撤去し鉄骨鉄筋コンクリート建築で鐵道省直営ホテル一体となった5階建駅本屋建築が決定し、昭和10年(1935年)4月1日に仮建築となる第3代駅本屋が竣工し、明治34年(1901年)竣工の第2代駅本屋が解体され、昭和11年(1936年)1月18日に該工事着工式が執り行われ、昭和15年(1940年)5月に3階部分まで一部完成し、同年6月1日附で竣工したが、時あたかも日華事変の最中、我が国が戦時体制へと移行した事から、ホテル部分の建造は見送られ、遊休鋼材610tは帝國陸軍に対し供出が決定し、該供出は昭和18年(1943年)10月に実施された。
    大東亜戦争終結直後たる昭和20年(1945年)9月29日附で進駐軍用RTOが開設され、昭和27年(1952年)3月31日まで存在した。
    然るに、該時期より該駅構内に於ける地盤沈下現象が深刻な状態となっていた。
    即ち、該駅付近は元来湿地帯を埋立た所で、高架化工事時に、武智式鉄骨鉄筋コンクリート法に依り建設された事が原因で該駅構内が凹凸状態だった。
    該工事方法では杭打を深度4.0m~6.5mに設定したが、該駅付近は、表面より深度6.0m~9.5mが砂礫粘土層だったが、深度9.5m~23.0mは悪性粘土層、深度23.0m~28.0mは砂利層であり、梅田層と称される岩盤は深度30.0m以上とされ、該高架線開通直後より車輌重量に依る圧押に依る高架橋沈下が発見され、同時に地下水汲上に依る地盤沈下が著しい状態で、此の為に、日本国有鉄道は昭和20年代半ばに莫大な資金を投入して該駅構内地盤沈下対策を講じさせられた。
    昭和40年代半ばともなると、該駅本屋老朽化が深刻な状態となった事から、建替が決定され、昭和54年(1979年)12月15日附で第5代駅本屋 地上27階建地下4階建 アクティ大阪が開業した。

    大阪駅

  • 大阪駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />正面

    大阪駅



    駅本屋
    正面

    大阪駅

  • 大阪駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />俯瞰<br />東京方

    大阪駅



    駅構内
    俯瞰
    東京方

    大阪駅

  • 大阪駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />俯瞰<br />東京方

    大阪駅



    駅構内
    俯瞰
    東京方

    大阪駅

  • 大阪駅<br /><br /><br /><br />構内<br />神戸方<br />俯瞰

    大阪駅



    構内
    神戸方
    俯瞰

    大阪駅

  • 大阪-塚本間<br /><br /><br /><br />郵便局前(ゆうびんきょく)架道橋<br />全長32.0m<br />元々、該線地上線時代は踏切名だったが、高架線化と同時に架道橋名として継承された。<br /><br />大阪市北区梅田3<br />東海道本線大阪駅 徒歩1分

    大阪-塚本間



    郵便局前(ゆうびんきょく)架道橋
    全長32.0m
    元々、該線地上線時代は踏切名だったが、高架線化と同時に架道橋名として継承された。

    大阪市北区梅田3
    東海道本線大阪駅 徒歩1分

  • 大阪中央郵便局<br /><br /><br /><br />初代大阪駅跡<br />明治7年(1874年)5月11日~明治34年(1901年3月31日に存在した初代大阪駅本屋跡。

    大阪中央郵便局



    初代大阪駅跡
    明治7年(1874年)5月11日~明治34年(1901年3月31日に存在した初代大阪駅本屋跡。

  • 大阪-塚本間<br /><br /><br /><br />梅田西通(うめだにしどおり)架道橋<br />全長29.50m<br /><br />大阪市北区福島6<br />東海道本線大阪駅 徒歩5分

    大阪-塚本間



    梅田西通(うめだにしどおり)架道橋
    全長29.50m

    大阪市北区福島6
    東海道本線大阪駅 徒歩5分

  • 大阪-塚本間<br /><br /><br /><br />浄正橋(じょうせいばし)跨線橋<br />該跨線橋下は梅田野田連絡線。<br /><br />大阪市北区福島5<br />大阪環状線福島駅 徒歩2分

    大阪-塚本間



    浄正橋(じょうせいばし)跨線橋
    該跨線橋下は梅田野田連絡線。

    大阪市北区福島5
    大阪環状線福島駅 徒歩2分

  • 大阪-塚本間<br /><br /><br /><br />福島第1(ふくしまだいいち)高架橋<br /><br />大阪市北区福島6<br />大阪環状線福島駅 徒歩1分

    大阪-塚本間



    福島第1(ふくしまだいいち)高架橋

    大阪市北区福島6
    大阪環状線福島駅 徒歩1分

  • 大阪-塚本間<br /><br /><br /><br />福島第1(ふくしまだいいち)架道橋<br /><br />大阪市北区6<br />大阪環状線福島駅 徒歩1分

    大阪-塚本間



    福島第1(ふくしまだいいち)架道橋

    大阪市北区6
    大阪環状線福島駅 徒歩1分

  • 大阪-塚本間<br /><br /><br /><br />福島第2(ふくしまだいに)高架橋<br /><br />大阪市北区福島6<br />大阪環状線福島駅 徒歩1分

    大阪-塚本間



    福島第2(ふくしまだいに)高架橋

    大阪市北区福島6
    大阪環状線福島駅 徒歩1分

  • 大阪-塚本間<br /><br /><br /><br />福島第2(ふくしま だいに)架道橋<br />25.90m<br />下り内外線側<br /><br />大阪市北区福島8<br />大阪環状線福島駅 徒歩2分

    大阪-塚本間



    福島第2(ふくしま だいに)架道橋
    25.90m
    下り内外線側

    大阪市北区福島8
    大阪環状線福島駅 徒歩2分

  • 大阪-塚本間<br /><br /><br /><br />福島第2架道橋<br />上り内外線側<br />球体支柱<br /><br />大阪市北区福島8<br />大阪環状線福島駅 徒歩2分

    大阪-塚本間



    福島第2架道橋
    上り内外線側
    球体支柱

    大阪市北区福島8
    大阪環状線福島駅 徒歩2分

  • 大阪-塚本間<br /><br /><br /><br />福島第2架道橋<br />鋼鉄支柱<br />東池架道橋<br />球体支柱<br />高架橋設置期<br />右 上り内外線 昭和12年(1937年)<br />左 下り内外線 大正15年(1926年)<br />形態が相違。<br /><br />大阪市北区福島8<br />大阪環状線福島駅 徒歩2分

    大阪-塚本間



    福島第2架道橋
    鋼鉄支柱
    東池架道橋
    球体支柱
    高架橋設置期
    右 上り内外線 昭和12年(1937年)
    左 下り内外線 大正15年(1926年)
    形態が相違。

    大阪市北区福島8
    大阪環状線福島駅 徒歩2分

  • 大阪-塚本間<br /><br /><br /><br />東池(ひがしいけ)架道橋<br />12.90m<br />下り内外線側<br /><br />大阪市北区福島8<br />東海道本線大阪駅東口 阪神バス福島7丁目停留所降車 徒歩2分

    大阪-塚本間



    東池(ひがしいけ)架道橋
    12.90m
    下り内外線側

    大阪市北区福島8
    東海道本線大阪駅東口 阪神バス福島7丁目停留所降車 徒歩2分

  • 大阪-塚本間<br /><br /><br /><br />東池架道橋<br />上り内外線側<br /><br />大阪市北区福島8<br />東海道本線大阪駅東口 阪神バス福島7丁目停留所降車 徒歩2分

    大阪-塚本間



    東池架道橋
    上り内外線側

    大阪市北区福島8
    東海道本線大阪駅東口 阪神バス福島7丁目停留所降車 徒歩2分

  • 大阪-塚本間<br /><br /><br /><br />東池架道橋<br />球体支柱<br />高架橋設置期<br />右 上り内外線 昭和12年(1937年)<br />左 下り内外線 大正15年(1926年)<br />建設時に依り形態相違。<br /><br />大阪市北区福島8<br />東海道本線大阪駅東口 阪神バス福島7丁目停留所降車 徒歩2分

    大阪-塚本間



    東池架道橋
    球体支柱
    高架橋設置期
    右 上り内外線 昭和12年(1937年)
    左 下り内外線 大正15年(1926年)
    建設時に依り形態相違。

    大阪市北区福島8
    東海道本線大阪駅東口 阪神バス福島7丁目停留所降車 徒歩2分

  • 大阪-塚本間<br /><br /><br /><br />福島第3架道橋<br />17.20m<br />下り内外線側<br /><br />大阪市北区鷺洲4<br />東海道本線大阪駅東口 阪神バス鷺洲停留所降車 徒歩2分

    大阪-塚本間



    福島第3架道橋
    17.20m
    下り内外線側

    大阪市北区鷺洲4
    東海道本線大阪駅東口 阪神バス鷺洲停留所降車 徒歩2分

  • 大阪-塚本間<br /><br /><br /><br />福島第3架道橋<br />上り内外線側<br /><br />大阪市北区鷺洲4<br />東海道本線大阪駅東口 阪神バス鷺洲停留所降車 徒歩2分

    大阪-塚本間



    福島第3架道橋
    上り内外線側

    大阪市北区鷺洲4
    東海道本線大阪駅東口 阪神バス鷺洲停留所降車 徒歩2分

  • 大阪-塚本間<br /><br /><br /><br />福島第3架道橋<br />鉄筋コンクリート製支柱<br />設置竣工時期に依り支柱構造相違。<br />右 上り内外線 昭和12年(1937年)<br />左 下り内外線 大正15年(1926年)<br /><br />大阪市北区鷺洲4<br />東海道本線大阪駅東口 阪神バス鷺洲停留所降車 徒歩2分

    大阪-塚本間



    福島第3架道橋
    鉄筋コンクリート製支柱
    設置竣工時期に依り支柱構造相違。
    右 上り内外線 昭和12年(1937年)
    左 下り内外線 大正15年(1926年)

    大阪市北区鷺洲4
    東海道本線大阪駅東口 阪神バス鷺洲停留所降車 徒歩2分

  • 大阪-塚本間<br /><br /><br /><br />西池(にしいけ)架道橋<br />全長16.9m<br />下り内外線側<br /><br />大阪市北区大淀南3-12<br />東海道本線大阪駅東口 阪神バス鷺洲停留所降車 徒歩3分

    大阪-塚本間



    西池(にしいけ)架道橋
    全長16.9m
    下り内外線側

    大阪市北区大淀南3-12
    東海道本線大阪駅東口 阪神バス鷺洲停留所降車 徒歩3分

  • 大阪-塚本間<br /><br /><br /><br />西池架道橋<br />上り内外線側<br /><br />大阪市北区大淀南3-12<br />東海道本線大阪駅東口 阪神バス鷺洲停留所降車 徒歩3分

    大阪-塚本間



    西池架道橋
    上り内外線側

    大阪市北区大淀南3-12
    東海道本線大阪駅東口 阪神バス鷺洲停留所降車 徒歩3分

  • 大阪-塚本間<br /><br /><br /><br />西池架道橋<br />下り内外線側<br />初代橋梁は、木組木造で防腐処理が施し架橋されたが、明治10年(1877年)頃より木部各部腐朽が顕著となり、明治12年(1879年)に英國製錬鐡製鈑桁に交換された。<br />該架道橋は、昭和20年(1945年)6月7日空襲時の機銃掃射被害を受け、主桁貫通口径45mm被害発生し、応急修理されたが、大東亜戦争終結後、該桁本体に瑕疵存在が判明し桁交換が実施された。<br /><br />大阪市北区大淀南3-12<br />東海道本線大阪駅東口 阪神バス鷺洲停留所降車 徒歩3分

    大阪-塚本間



    西池架道橋
    下り内外線側
    初代橋梁は、木組木造で防腐処理が施し架橋されたが、明治10年(1877年)頃より木部各部腐朽が顕著となり、明治12年(1879年)に英國製錬鐡製鈑桁に交換された。
    該架道橋は、昭和20年(1945年)6月7日空襲時の機銃掃射被害を受け、主桁貫通口径45mm被害発生し、応急修理されたが、大東亜戦争終結後、該桁本体に瑕疵存在が判明し桁交換が実施された。

    大阪市北区大淀南3-12
    東海道本線大阪駅東口 阪神バス鷺洲停留所降車 徒歩3分

  • 大阪-塚本間<br /><br /><br /><br />鷺洲(さぎす)架道橋<br /><br />大阪市北区大淀北2<br />東海道本線大阪駅東口 阪神バス鷺洲6丁目停留所降車 徒歩1分

    大阪-塚本間



    鷺洲(さぎす)架道橋

    大阪市北区大淀北2
    東海道本線大阪駅東口 阪神バス鷺洲6丁目停留所降車 徒歩1分

  • 大阪-塚本間<br /><br /><br /><br />鷺洲架道橋<br />昭和46年(1971年)7月9日まで使用後、橋桁は撤去されたが旧橋台が残存。<br /><br />大阪市北区大淀北2<br />東海道本線大阪駅東口 阪神バス鷺洲6丁目停留所降車 徒歩1分

    大阪-塚本間



    鷺洲架道橋
    昭和46年(1971年)7月9日まで使用後、橋桁は撤去されたが旧橋台が残存。

    大阪市北区大淀北2
    東海道本線大阪駅東口 阪神バス鷺洲6丁目停留所降車 徒歩1分

  • 大阪-塚本間<br /><br /><br /><br />下淀川(しもよどがわ)橋梁<br />該橋は、明治35年(1902年)2月10日開通の橋梁である。<br />全長789.0m(ft)<br />T.クーパー(T.COPPER)(1839年(天保10年)~1919年(大正8年))、及び、C.C.シュナイダー(C.C.SCHUNEIDER)(1843年(天保14年)~1916年(大正5年))共同設計に依る、<br />米ペンコイド製鋼所(Roberts Co.PENCYD IRON WORKS)社 明治32年(1899年)製<br />下路プラットトラス構桁30.5m(100ft)×23連 + 21.3m(70ft)×1蓮<br />計24連が架橋された。<br />該橋梁本体は、複線型鋼鐡製鋲締構造で、橋台橋脚共に煉瓦製。<br />該橋梁は、内務省土木局に依る新淀川開削改修高水化工事計画に基き、既成 下十三橋梁を廃橋とし該橋が架橋された。<br />明治33年(1900年)着工、明治35年(1902年)2月10日竣工。<br />その後、大阪-塚本間複々線化計画の為に追加架橋が決定し、既成橋梁下流18m地点に、<br />全長793.0m<br />上路プレートガーダー桁28.5m桁×1連 + 30.5m桁×22連 + 25.4m桁×1連 + 16.0m桁1連<br />計25連が架橋された。<br />該工事は、昭和10年(1935年)10月着工、昭和12年(1937年)10月竣工。<br />該橋梁橋台橋脚共にコンクリート製<br />総工費は計558079円<br />該区間は、同年10月10日附で複々線化され、同日より新橋梁は下り内外線専用、既成橋梁は上り内外線専用となった。<br />昭和20年(1945年)6月1日米戦力部隊B29爆撃機に依る空襲時に、該橋梁は機銃掃射を受け、上り線用プラットトラス構桁1連に貫通孔発生被害が発生した。<br />戦後、該河川は洪水災害防止の観点から、建設省土木局は堤防嵩上計画を立案し、此の為に、該橋梁部分が計画堤防より凹状態となり堤防決壊原因となり得る事から、日本国有鉄道、建設省、及び、大阪府協議した結果、該橋梁架替実施を決定し、該工事は、昭和41年(1966年)3月17日に着工し、<br />   下り外線 昭和42年(1967年)12月10日<br />   下り内線 昭和43年(1968年) 8月11日<br />   上り内線 昭和45年(1970年) 9月 2日<br />   上り外線 昭和46年(1971年) 7月 9日<br />に橋梁切替が実施され、該橋梁切替後に旧橋梁は撤去された。<br />当時の総工費は計3639256000円。

    大阪-塚本間



    下淀川(しもよどがわ)橋梁
    該橋は、明治35年(1902年)2月10日開通の橋梁である。
    全長789.0m(ft)
    T.クーパー(T.COPPER)(1839年(天保10年)~1919年(大正8年))、及び、C.C.シュナイダー(C.C.SCHUNEIDER)(1843年(天保14年)~1916年(大正5年))共同設計に依る、
    米ペンコイド製鋼所(Roberts Co.PENCYD IRON WORKS)社 明治32年(1899年)製
    下路プラットトラス構桁30.5m(100ft)×23連 + 21.3m(70ft)×1蓮
    計24連が架橋された。
    該橋梁本体は、複線型鋼鐡製鋲締構造で、橋台橋脚共に煉瓦製。
    該橋梁は、内務省土木局に依る新淀川開削改修高水化工事計画に基き、既成 下十三橋梁を廃橋とし該橋が架橋された。
    明治33年(1900年)着工、明治35年(1902年)2月10日竣工。
    その後、大阪-塚本間複々線化計画の為に追加架橋が決定し、既成橋梁下流18m地点に、
    全長793.0m
    上路プレートガーダー桁28.5m桁×1連 + 30.5m桁×22連 + 25.4m桁×1連 + 16.0m桁1連
    計25連が架橋された。
    該工事は、昭和10年(1935年)10月着工、昭和12年(1937年)10月竣工。
    該橋梁橋台橋脚共にコンクリート製
    総工費は計558079円
    該区間は、同年10月10日附で複々線化され、同日より新橋梁は下り内外線専用、既成橋梁は上り内外線専用となった。
    昭和20年(1945年)6月1日米戦力部隊B29爆撃機に依る空襲時に、該橋梁は機銃掃射を受け、上り線用プラットトラス構桁1連に貫通孔発生被害が発生した。
    戦後、該河川は洪水災害防止の観点から、建設省土木局は堤防嵩上計画を立案し、此の為に、該橋梁部分が計画堤防より凹状態となり堤防決壊原因となり得る事から、日本国有鉄道、建設省、及び、大阪府協議した結果、該橋梁架替実施を決定し、該工事は、昭和41年(1966年)3月17日に着工し、
    下り外線 昭和42年(1967年)12月10日
    下り内線 昭和43年(1968年) 8月11日
    上り内線 昭和45年(1970年) 9月 2日
    上り外線 昭和46年(1971年) 7月 9日
    に橋梁切替が実施され、該橋梁切替後に旧橋梁は撤去された。
    当時の総工費は計3639256000円。

  • 大阪-塚本間<br /><br /><br />下淀川橋梁<br />支間28.5m<br />上り内外線側桁<br />旧該第2代橋梁下り内外線用桁を修復転用。<br /><br />大阪市北区大淀北2<br />東海道本選大阪駅東口 阪神バス鷺洲6丁目停留所降車 徒歩4分

    大阪-塚本間


    下淀川橋梁
    支間28.5m
    上り内外線側桁
    旧該第2代橋梁下り内外線用桁を修復転用。

    大阪市北区大淀北2
    東海道本選大阪駅東口 阪神バス鷺洲6丁目停留所降車 徒歩4分

  • 大阪-塚本間<br /><br /><br />下淀川橋梁<br />上り内外線側桁<br />製造銘板<br />鐵道省<br /><br />大阪市北区大淀北2<br />東海道本選大阪駅東口 阪神バス鷺洲6丁目停留所降車 徒歩4分

    大阪-塚本間


    下淀川橋梁
    上り内外線側桁
    製造銘板
    鐵道省

    大阪市北区大淀北2
    東海道本選大阪駅東口 阪神バス鷺洲6丁目停留所降車 徒歩4分

  • 大阪-塚本間<br /><br /><br /><br />下淀川橋梁<br />上り線側

    大阪-塚本間



    下淀川橋梁
    上り線側

  • 大阪-塚本間<br /><br /><br /><br />東海道本線<br />旧路盤跡<br />新橋梁架替後、旧橋梁は撤去され元堤防に積増工事が施工された。

    大阪-塚本間



    東海道本線
    旧路盤跡
    新橋梁架替後、旧橋梁は撤去され元堤防に積増工事が施工された。

  • 大阪-塚本間<br /><br /><br /><br />東海道本線<br />旧路盤跡<br />昭和62年(1987年)3月31日まで日本国有鉄道所有地、民営分割時、日本国有鉄道清算事業団所有を経て、民間に払下げられた。

    大阪-塚本間



    東海道本線
    旧路盤跡
    昭和62年(1987年)3月31日まで日本国有鉄道所有地、民営分割時、日本国有鉄道清算事業団所有を経て、民間に払下げられた。

  • 大阪-塚本間<br /><br /><br /><br />下淀川橋梁<br />神戸方<br />俯瞰<br />左手が旧地平時代の路線跡、下流側に新橋梁設置した為に、右手側に緩曲線が存在する。

    大阪-塚本間



    下淀川橋梁
    神戸方
    俯瞰
    左手が旧地平時代の路線跡、下流側に新橋梁設置した為に、右手側に緩曲線が存在する。

  • 塚本(つかもと)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和9年(1934年)7月20日開業である。<br />即ち、吹田-須磨間電車運転開始に鑑み、立花、甲子園口、六甲道、及び、元町と共に開設された。<br />但し、該駅は、同年5月25日附で開設された歌島(うたじま)信号場が嚆矢であり、該駅中心点より神戸方0.8km地点に設置されたにも拘らず、同一駅構内として併合された。<br />該駅は、開業当初から貨物業務取扱は一切行われていない。<br />昭和16年(1941年)3月26日21時51分頃、該駅構内に於いて下り貨物列車が停止信号を冒進し安全側線に進入、脱線転覆した処に、並走する下り外側線走行中の旅客列車が接触脱線した処、さらに下り内側線走行中の下り電車が接触大破する3重衝突事故が発生した。<br />大東亜戦争末期、連合国戦略部隊に依る空爆被害の為に、該駅は、昭和20年(1945年)6月7日、及び、15日両日に亘り、空襲の為に、主として前者は爆弾、後者は焼夷弾に依り、駅本屋以下、該駅関係施設は全滅に瀕し、更に、防空壕退避中の旅客職員数名に死傷者が発生した。<br />該駅本屋は、応急建築物を経て、昭和23年(1948年)5月26日附で第3代駅本屋が竣工したが、総工費は当時の相場で870000円とされた。<br />大阪-塚本間に存在する淀川堤防は、洪水防止対策として高位化が決定された事から、現行橋梁では地元が氾濫源被害となり得る為に、日本国有鉄道は、建設省、大阪府とも協議し、該橋梁架替、及び、該駅、及び、該駅付近高架化が決定され現駅本屋改築も決定された。<br />該工事は、昭和42年(1967年)10月1日に着工し、昭和46年(1971年)7月9日に現第4代駅本屋が完成した。<br />https://www.jr-odekake.net/eki/top.php?id=0610132

    塚本(つかもと)駅



    該駅は、昭和9年(1934年)7月20日開業である。
    即ち、吹田-須磨間電車運転開始に鑑み、立花、甲子園口、六甲道、及び、元町と共に開設された。
    但し、該駅は、同年5月25日附で開設された歌島(うたじま)信号場が嚆矢であり、該駅中心点より神戸方0.8km地点に設置されたにも拘らず、同一駅構内として併合された。
    該駅は、開業当初から貨物業務取扱は一切行われていない。
    昭和16年(1941年)3月26日21時51分頃、該駅構内に於いて下り貨物列車が停止信号を冒進し安全側線に進入、脱線転覆した処に、並走する下り外側線走行中の旅客列車が接触脱線した処、さらに下り内側線走行中の下り電車が接触大破する3重衝突事故が発生した。
    大東亜戦争末期、連合国戦略部隊に依る空爆被害の為に、該駅は、昭和20年(1945年)6月7日、及び、15日両日に亘り、空襲の為に、主として前者は爆弾、後者は焼夷弾に依り、駅本屋以下、該駅関係施設は全滅に瀕し、更に、防空壕退避中の旅客職員数名に死傷者が発生した。
    該駅本屋は、応急建築物を経て、昭和23年(1948年)5月26日附で第3代駅本屋が竣工したが、総工費は当時の相場で870000円とされた。
    大阪-塚本間に存在する淀川堤防は、洪水防止対策として高位化が決定された事から、現行橋梁では地元が氾濫源被害となり得る為に、日本国有鉄道は、建設省、大阪府とも協議し、該橋梁架替、及び、該駅、及び、該駅付近高架化が決定され現駅本屋改築も決定された。
    該工事は、昭和42年(1967年)10月1日に着工し、昭和46年(1971年)7月9日に現第4代駅本屋が完成した。
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    塚本駅

  • 塚本駅<br /><br /><br /><br />東口<br />旧駅本屋側<br />地上時代は、手前横断歩道付近に駅本屋が存在した。<br />https://www.jr-odekake.net/eki/top.php?id=0610132

    塚本駅



    東口
    旧駅本屋側
    地上時代は、手前横断歩道付近に駅本屋が存在した。
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    塚本駅

  • 塚本駅<br /><br /><br /><br />西口<br />https://www.jr-odekake.net/eki/top.php?id=0610132

    塚本駅



    西口
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    塚本駅

  • 塚本駅<br /><br /><br /><br />改札口<br />https://www.jr-odekake.net/eki/top.php?id=0610132

    塚本駅



    改札口
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    塚本駅

  • 塚本駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />東京方

    塚本駅



    第1番ホーム
    東京方

    塚本駅

  • 塚本駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />神戸方

    塚本駅



    第2番ホーム
    神戸方

    塚本駅

  • 塚本-尼崎間<br /><br /><br /><br />宮原操車場下り線分岐地<br />左 本線<br />右 宮原操車場連絡線

    塚本-尼崎間



    宮原操車場下り線分岐地
    左 本線
    右 宮原操車場連絡線

    塚本駅

  • 塚本-尼崎間<br /><br /><br /><br />宮原操車場下り線分岐地<br />

    塚本-尼崎間



    宮原操車場下り線分岐地

    塚本駅

  • 塚本-尼崎間<br /><br /><br /><br />下十三川(しも じゅうそうがわ)橋梁<br />該橋は、明治7年(1871年)5月11日開通の橋梁である。<br />初代橋梁は、全長191.1m(627ft)<br />W.ポール(W.POLE)(生没年不詳)設計に依る<br />英ダーリントン造船所(DARLINGTON IRON)社製<br />下路ポニーワーレントラス構桁21.3m(70ft) × 9連<br />が架橋された。<br />該橋梁本体は、錬鐡製ピン締構造で、橋台は煉瓦製、橋脚は鍛鐡製複合円柱構造。<br />明治3年(1870年)11月着工、明治7年(1874年)1月竣工。<br />総工費は、計34234円66銭。<br />該架橋工事は、御雇英國人技師 テオドール・シャン(Teodore SHANN)(1850年(嘉永3年)~1878年(明治11年))が監督指揮した。<br />その後、複線化工事に対応すべく、明治27年(1894年)7月26日附で、神戸工場製主桁材追加に依り複線仕様改造。<br />明治29年(1896年)3月11日附で複線化された。

    塚本-尼崎間



    下十三川(しも じゅうそうがわ)橋梁
    該橋は、明治7年(1871年)5月11日開通の橋梁である。
    初代橋梁は、全長191.1m(627ft)
    W.ポール(W.POLE)(生没年不詳)設計に依る
    英ダーリントン造船所(DARLINGTON IRON)社製
    下路ポニーワーレントラス構桁21.3m(70ft) × 9連
    が架橋された。
    該橋梁本体は、錬鐡製ピン締構造で、橋台は煉瓦製、橋脚は鍛鐡製複合円柱構造。
    明治3年(1870年)11月着工、明治7年(1874年)1月竣工。
    総工費は、計34234円66銭。
    該架橋工事は、御雇英國人技師 テオドール・シャン(Teodore SHANN)(1850年(嘉永3年)~1878年(明治11年))が監督指揮した。
    その後、複線化工事に対応すべく、明治27年(1894年)7月26日附で、神戸工場製主桁材追加に依り複線仕様改造。
    明治29年(1896年)3月11日附で複線化された。

  • 塚本-尼崎間<br /><br /><br /><br />下十三川橋梁<br />上り外側線側<br />該橋は、内務省土木局に依る淀川大改修工事計画に伴ふ新淀川開削に依り、下淀川橋梁が架橋設置され新淀川本流となった事から、該橋該河川は、明治35年(1902年)に川幅が大幅縮小された為に、橋梁としては存続したが、初代橋梁構桁は明治36年(1903年)に縮小撤去され現状となり、更に、その後、該河川は廃川となり、撤去される事も無く整備され現在は人道架道橋化。

    塚本-尼崎間



    下十三川橋梁
    上り外側線側
    該橋は、内務省土木局に依る淀川大改修工事計画に伴ふ新淀川開削に依り、下淀川橋梁が架橋設置され新淀川本流となった事から、該橋該河川は、明治35年(1902年)に川幅が大幅縮小された為に、橋梁としては存続したが、初代橋梁構桁は明治36年(1903年)に縮小撤去され現状となり、更に、その後、該河川は廃川となり、撤去される事も無く整備され現在は人道架道橋化。

  • 塚本-尼崎間<br /><br /><br /><br />下十三川<br />旧煉瓦積橋台<br />神戸方<br />明治35年(1902年)構築。<br />落書消致の為に白塗化。

    塚本-尼崎間



    下十三川
    旧煉瓦積橋台
    神戸方
    明治35年(1902年)構築。
    落書消致の為に白塗化。

  • 塚本-尼崎間<br /><br /><br /><br />宮川(みやかわ)橋梁<br />該橋は、明治7年(1874年)5月11日開通の橋梁である。<br />初代橋梁は木組総木造構造で、防腐処理が施工されていたが、明治11年(1878年)頃より木部腐朽が顕著となり、該状態では、列車運行に対し懸念が発生する事態となった事から、翌明治12年(1879年)頃に神戸工場製錬鐡鈑桁に架替が実施された。<br />その後、該橋該河川は明治38年(1905年)に廃川となり、整備され現在は人道架道橋化。

    塚本-尼崎間



    宮川(みやかわ)橋梁
    該橋は、明治7年(1874年)5月11日開通の橋梁である。
    初代橋梁は木組総木造構造で、防腐処理が施工されていたが、明治11年(1878年)頃より木部腐朽が顕著となり、該状態では、列車運行に対し懸念が発生する事態となった事から、翌明治12年(1879年)頃に神戸工場製錬鐡鈑桁に架替が実施された。
    その後、該橋該河川は明治38年(1905年)に廃川となり、整備され現在は人道架道橋化。

  • 塚本-尼崎間<br /><br /><br /><br />宮川橋梁<br />下り外側線

    塚本-尼崎間



    宮川橋梁
    下り外側線

  • 塚本-尼崎間<br /><br /><br /><br />宮川橋梁<br />下り内側線

    塚本-尼崎間



    宮川橋梁
    下り内側線

  • 塚本-尼崎間<br /><br /><br /><br />歌島信号場Ⅰ跡<br />該信号所は、大正7年(1918年)5月15日設置の歌島仮信号所が嚆矢である。<br />即ち、双信閉塞式採用に依る、大阪-尼崎間7.7kmを該信号所設置に依り分割させたもので、大正11年(1922年)4月1日附で信号場に名称変更された。<br />腕木式自動閉塞式採用に依り、大正15年(1926年)11月15日附で廃止。

    塚本-尼崎間



    歌島信号場Ⅰ跡
    該信号所は、大正7年(1918年)5月15日設置の歌島仮信号所が嚆矢である。
    即ち、双信閉塞式採用に依る、大阪-尼崎間7.7kmを該信号所設置に依り分割させたもので、大正11年(1922年)4月1日附で信号場に名称変更された。
    腕木式自動閉塞式採用に依り、大正15年(1926年)11月15日附で廃止。

  • 塚本-尼崎間<br /><br /><br /><br />蓮池川(はすいけがわ)橋梁<br />該橋は、明治7年(1874年)5月11日開通の橋梁である。<br />6.60m×1 + 5.0m×1<br />初代橋梁は、木造木組構造で防腐処理を施され架橋されたが、明治10年(1877年)頃より木部各部腐朽が顕著となり、該状態では列車運行上に於いて懸念が生じる事態となった事から、明治12年(1879年)頃に、神戸工場製錬鐡製鈑桁に架替られた。<br />その後、明治41年(1908年)に該河川は廃川となり、整備され現在は架道橋化。

    塚本-尼崎間



    蓮池川(はすいけがわ)橋梁
    該橋は、明治7年(1874年)5月11日開通の橋梁である。
    6.60m×1 + 5.0m×1
    初代橋梁は、木造木組構造で防腐処理を施され架橋されたが、明治10年(1877年)頃より木部各部腐朽が顕著となり、該状態では列車運行上に於いて懸念が生じる事態となった事から、明治12年(1879年)頃に、神戸工場製錬鐡製鈑桁に架替られた。
    その後、明治41年(1908年)に該河川は廃川となり、整備され現在は架道橋化。

  • 塚本-尼崎間<br /><br /><br /><br />蓮池川橋梁<br />上り線側<br />JR東西線加島-尼崎間は、東海道本線直下地下を通過。

    塚本-尼崎間



    蓮池川橋梁
    上り線側
    JR東西線加島-尼崎間は、東海道本線直下地下を通過。

  • 塚本-尼崎間<br /><br /><br /><br />蓮池川橋梁<br />上り線側桁

    塚本-尼崎間



    蓮池川橋梁
    上り線側桁

  • 塚本-尼崎間<br /><br /><br /><br />殉職消防隊員慰霊碑<br />平成14年(2002年)11月6日19時10分頃、現場石垣上フェンス1.1mをよじ登り、線路内に不法侵入し悪ふざけをしていた地元公立男子中学生2名は、19時12分頃、下り新快速電車に跳ねられ1名が重傷を負った。<br />他方、現場付近の電車運転を抑止させ、19時43分頃、大阪市消防局救急隊員4名は負傷中学生を救助すべく線路内に到着し、内2名の救急隊員は現場に於いて、負傷中学生を担架に乗せ救出活動中、19時45分頃、現場を時速100kmで走行中の特急スーパーはくと11号に跳ねられ、1名即死、1名重傷の2次被害が発生した。<br />如何にも、大阪的いい加減ナアナアな空気の内で発生した、起こってはならぬ粗末極まりない事故。

    塚本-尼崎間



    殉職消防隊員慰霊碑
    平成14年(2002年)11月6日19時10分頃、現場石垣上フェンス1.1mをよじ登り、線路内に不法侵入し悪ふざけをしていた地元公立男子中学生2名は、19時12分頃、下り新快速電車に跳ねられ1名が重傷を負った。
    他方、現場付近の電車運転を抑止させ、19時43分頃、大阪市消防局救急隊員4名は負傷中学生を救助すべく線路内に到着し、内2名の救急隊員は現場に於いて、負傷中学生を担架に乗せ救出活動中、19時45分頃、現場を時速100kmで走行中の特急スーパーはくと11号に跳ねられ、1名即死、1名重傷の2次被害が発生した。
    如何にも、大阪的いい加減ナアナアな空気の内で発生した、起こってはならぬ粗末極まりない事故。

  • 塚本-尼崎間<br /><br /><br /><br />殉職消防隊員慰霊碑<br />近接

    塚本-尼崎間



    殉職消防隊員慰霊碑
    近接

  • 塚本-尼崎間<br /><br /><br /><br />殉職消防隊員慰霊碑<br />亡くなられた救急隊員の方は、愚かな迷惑行為が原因に依る全くの無駄死に均しい殉職である。<br />大阪府下では、昭和55年(1980年)2月20日20時59分頃、京阪電気鉄道京阪本線枚方市-御殿山間に於いて、地元公立中学生5名が、側溝蓋を線路上に置き、現場を急行電車7両が通過、3両が脱線し、1両が大破するという悪質事故があった。<br />該事故で死者が発生しなったのは意外中の意外だが、何れの事故も、大阪府下公立学校に於ける異常とも言える同和偏狭教育の結果、倫理道徳躾教育の不徹底さと事勿れ主義に依る甘さが事故の遠因である。

    塚本-尼崎間



    殉職消防隊員慰霊碑
    亡くなられた救急隊員の方は、愚かな迷惑行為が原因に依る全くの無駄死に均しい殉職である。
    大阪府下では、昭和55年(1980年)2月20日20時59分頃、京阪電気鉄道京阪本線枚方市-御殿山間に於いて、地元公立中学生5名が、側溝蓋を線路上に置き、現場を急行電車7両が通過、3両が脱線し、1両が大破するという悪質事故があった。
    該事故で死者が発生しなったのは意外中の意外だが、何れの事故も、大阪府下公立学校に於ける異常とも言える同和偏狭教育の結果、倫理道徳躾教育の不徹底さと事勿れ主義に依る甘さが事故の遠因である。

  • 塚本-尼崎間<br /><br /><br /><br />下神崎川(しも かんざきがわ)橋梁<br />該橋は、明治7年(1871年)5月11日開通の橋梁である。<br />初代橋梁は、全長361.8m(1187ft)<br />W.ポール(W.POLE)(生没年不詳)設計に依る<br />英ダーリントン造船所(DARLINGTON IRON)社製<br />下路ポニーワーレントラス構桁21.3m(70ft) × 17連<br />が架橋された。<br />該橋梁本体は、錬鐡製ピン締構造で、橋台は煉瓦製、橋脚は鍛鐡製複合円柱構造。<br />明治3年(1870年)11月着工、明治7年(1874年)5月6日竣工。<br />総工費は、計65569円70銭。<br />該架橋工事は、御雇英國人技師 テオドール・シャン(Teodore SHANN)(1850年(嘉永3年)~1878年(明治11年))が監督指揮した。<br />その後、複線化工事に対応すべく、明治27年(1894年)7月26日附で、神戸工場製主桁材追加に依り複線仕様改造。<br />明治29年(1896年)3月11日附で複線化された。<br />その後、該橋は老朽化の為に掛替が実施され、初代橋梁は、大正5年(1916年)に撤去されたが、内4連が、兵庫電気軌道(現 山陽電気鉄道)に払下げられ、大正6年(1917年)に、該社線塩屋-東垂水間舞子跨線線路橋、及び、東垂水跨線線路橋として再用架橋されたが、後者は昭和初期撤去、前者は昭和23年(1948年)補強、昭和57年(1982年)補修を経て、老朽化の為に昭和62年(1987年)に架替れたが、内1連を該社二見検車区内に於いて部分保存。

    塚本-尼崎間



    下神崎川(しも かんざきがわ)橋梁
    該橋は、明治7年(1871年)5月11日開通の橋梁である。
    初代橋梁は、全長361.8m(1187ft)
    W.ポール(W.POLE)(生没年不詳)設計に依る
    英ダーリントン造船所(DARLINGTON IRON)社製
    下路ポニーワーレントラス構桁21.3m(70ft) × 17連
    が架橋された。
    該橋梁本体は、錬鐡製ピン締構造で、橋台は煉瓦製、橋脚は鍛鐡製複合円柱構造。
    明治3年(1870年)11月着工、明治7年(1874年)5月6日竣工。
    総工費は、計65569円70銭。
    該架橋工事は、御雇英國人技師 テオドール・シャン(Teodore SHANN)(1850年(嘉永3年)~1878年(明治11年))が監督指揮した。
    その後、複線化工事に対応すべく、明治27年(1894年)7月26日附で、神戸工場製主桁材追加に依り複線仕様改造。
    明治29年(1896年)3月11日附で複線化された。
    その後、該橋は老朽化の為に掛替が実施され、初代橋梁は、大正5年(1916年)に撤去されたが、内4連が、兵庫電気軌道(現 山陽電気鉄道)に払下げられ、大正6年(1917年)に、該社線塩屋-東垂水間舞子跨線線路橋、及び、東垂水跨線線路橋として再用架橋されたが、後者は昭和初期撤去、前者は昭和23年(1948年)補強、昭和57年(1982年)補修を経て、老朽化の為に昭和62年(1987年)に架替れたが、内1連を該社二見検車区内に於いて部分保存。

  • 塚本-尼崎間<br /><br /><br /><br />下神崎川橋梁<br />東京方

    塚本-尼崎間



    下神崎川橋梁
    東京方

  • 塚本-尼崎間<br /><br /><br /><br />下神崎川橋梁<br />東京方

    塚本-尼崎間



    下神崎川橋梁
    東京方

  • 尼崎(あまがさき)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治7年(1874年)6月1日開業である。<br />即ち、神戸Ⅰ-大阪Ⅰ間は、同年5月11日開通したが、何故か該駅は同時開設されず、開業後、約3週間を経て、住吉Ⅰと共に同時に開業した。<br />但し、該駅開業当初は 神崎(かんざき)と命名され、現駅名変更は、昭和24年(1949年)1月1日附である。<br />該駅開設当時は、尼崎町中心部から遠隔地でもあり、該駅周囲は一面田圃が拡がる光景だった事が幸いし、大正中期頃より大手工場が次々と進出した。<br />現在の、福知山(ふくちやま)線尼崎-福知山間前身は、阪鶴(はんかく)鐵道と称する民間鉄道で、明治31年(1898年)9月1日に神埼(現 尼崎)-池田(現 川西池田)間開通が嚆矢であり、開業時点から大阪-神埼(現 尼崎)間直通乗入運転が実施された。<br />該駅周辺は大規模工場群が存在した為に、大東亜戦争末期に米戦略部隊に依る空襲に依り、該駅は、昭和20年(1945年)6月15日、及び、同月26日の空爆に依り、福知山線上り旅客ホーム上屋半焼、若干線路破壊、及び、構内留置中木造客車2両全焼被害が発生したが、駅本屋、及び、構内諸施設に被害は発生せず無事だった。<br />大正期より、該駅周辺には工場群が林立し、最盛期には該駅各社間専用線が8線存在し、且つ、昭和42年(1967年)10月1日附で尼崎市中央卸市場への尼崎市場線が開通したが、該時点に於いて最早貨車輸送時代では無くトラック輸送主体たる現実を見据えなかった事から、該線は短命で、昭和55年(1980年)10月1日附で廃止された。<br />該駅は、平成7年(1995年)9月26日に駅本屋が改築し橋上化された、更に、平成9年(1997年)3月8日附時刻改正でJR東西線が開通したが、他方、該駅付近に所在したキリンビール尼崎工場他は別地に移転廃止され、跡地に、大型商業施設 COCOE、及び、高層住宅街 アシンブ潮江が開設され、嘗ての如き、薄暗い該駅前イメージは払拭された。

    尼崎(あまがさき)駅



    該駅は、明治7年(1874年)6月1日開業である。
    即ち、神戸Ⅰ-大阪Ⅰ間は、同年5月11日開通したが、何故か該駅は同時開設されず、開業後、約3週間を経て、住吉Ⅰと共に同時に開業した。
    但し、該駅開業当初は 神崎(かんざき)と命名され、現駅名変更は、昭和24年(1949年)1月1日附である。
    該駅開設当時は、尼崎町中心部から遠隔地でもあり、該駅周囲は一面田圃が拡がる光景だった事が幸いし、大正中期頃より大手工場が次々と進出した。
    現在の、福知山(ふくちやま)線尼崎-福知山間前身は、阪鶴(はんかく)鐵道と称する民間鉄道で、明治31年(1898年)9月1日に神埼(現 尼崎)-池田(現 川西池田)間開通が嚆矢であり、開業時点から大阪-神埼(現 尼崎)間直通乗入運転が実施された。
    該駅周辺は大規模工場群が存在した為に、大東亜戦争末期に米戦略部隊に依る空襲に依り、該駅は、昭和20年(1945年)6月15日、及び、同月26日の空爆に依り、福知山線上り旅客ホーム上屋半焼、若干線路破壊、及び、構内留置中木造客車2両全焼被害が発生したが、駅本屋、及び、構内諸施設に被害は発生せず無事だった。
    大正期より、該駅周辺には工場群が林立し、最盛期には該駅各社間専用線が8線存在し、且つ、昭和42年(1967年)10月1日附で尼崎市中央卸市場への尼崎市場線が開通したが、該時点に於いて最早貨車輸送時代では無くトラック輸送主体たる現実を見据えなかった事から、該線は短命で、昭和55年(1980年)10月1日附で廃止された。
    該駅は、平成7年(1995年)9月26日に駅本屋が改築し橋上化された、更に、平成9年(1997年)3月8日附時刻改正でJR東西線が開通したが、他方、該駅付近に所在したキリンビール尼崎工場他は別地に移転廃止され、跡地に、大型商業施設 COCOE、及び、高層住宅街 アシンブ潮江が開設され、嘗ての如き、薄暗い該駅前イメージは払拭された。

    尼崎駅(JR)

  • 尼崎駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />近接

    尼崎駅



    駅本屋
    近接

    尼崎駅(JR)

  • 尼崎駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />北口

    尼崎駅



    駅本屋
    北口

    尼崎駅(JR)

  • 尼崎駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />南口

    尼崎駅



    駅本屋
    南口

    尼崎駅(JR)

  • 尼崎駅<br /><br /><br /><br />東改札口

    尼崎駅



    東改札口

    尼崎駅(JR)

  • 尼崎駅<br /><br /><br /><br />西改札口

    尼崎駅



    西改札口

    尼崎駅(JR)

  • 尼崎-立花間<br /><br /><br /><br />旧福知山線尼崎乗降場跡<br />写真中央部付近。

    尼崎-立花間



    旧福知山線尼崎乗降場跡
    写真中央部付近。

  • 尼崎-立花間<br /><br /><br /><br />旧福知山線線路跡<br />JR東西線開通と共に別線化され廃止。

    尼崎-立花間



    旧福知山線線路跡
    JR東西線開通と共に別線化され廃止。

  • 尼崎-立花間<br /><br /><br /><br />東海道線乗越橋<br />東京方<br />福知山線新経路として架橋された。

    尼崎-立花間



    東海道線乗越橋
    東京方
    福知山線新経路として架橋された。

  • 尼崎-立花間<br /><br /><br /><br />東海道線乗越橋<br />神戸方

    尼崎-立花間



    東海道線乗越橋
    神戸方

  • 尼崎-立花間<br /><br /><br /><br />東海道線乗越橋<br />神戸方

    尼崎-立花間



    東海道線乗越橋
    神戸方

  • 尼崎-立花間<br /><br /><br /><br />庄下川(しょうげがわ)橋梁<br />下り内外線側<br />該橋梁は、明治7年(1874年)5月11日開通の橋梁である。<br />全長36.0m<br />6.09m(20ft)×5連<br />該橋梁架橋当時は庄下川避溢橋と称し普段は川流が無かった。<br />初代橋梁は木造木組構造で防腐処理を施工し架橋されたが、明治10年(1877年)頃より木部各部腐朽が顕著となり、列車運行上に於いて懸念が生じる事態となった事から、明治12年(1879年)に英国製錬鐡鈑桁に交換された。<br />その後、内務省土木局に依る武庫川河川改良工事に依り辰川(たつみがわ)流身を該河川変更工事が施工され実河川に変身した。

    尼崎-立花間



    庄下川(しょうげがわ)橋梁
    下り内外線側
    該橋梁は、明治7年(1874年)5月11日開通の橋梁である。
    全長36.0m
    6.09m(20ft)×5連
    該橋梁架橋当時は庄下川避溢橋と称し普段は川流が無かった。
    初代橋梁は木造木組構造で防腐処理を施工し架橋されたが、明治10年(1877年)頃より木部各部腐朽が顕著となり、列車運行上に於いて懸念が生じる事態となった事から、明治12年(1879年)に英国製錬鐡鈑桁に交換された。
    その後、内務省土木局に依る武庫川河川改良工事に依り辰川(たつみがわ)流身を該河川変更工事が施工され実河川に変身した。

  • 尼崎-立花間<br /><br /><br /><br />庄下川橋梁<br />下り内外線側

    尼崎-立花間



    庄下川橋梁
    下り内外線側

  • 尼崎-立花間<br /><br /><br />庄下川橋梁<br />神戸方<br />煉瓦積橋台<br />該橋梁架橋当時の物。

    尼崎-立花間


    庄下川橋梁
    神戸方
    煉瓦積橋台
    該橋梁架橋当時の物。

  • 尼崎-立花間<br /><br /><br /><br />庄下川橋梁<br />上り内外線側<br />大正15年(1926年)11月15日附複々線化増線橋梁。

    尼崎-立花間



    庄下川橋梁
    上り内外線側
    大正15年(1926年)11月15日附複々線化増線橋梁。

  • 尼崎-立花間<br /><br /><br /><br />芦原川(あしわらがわ)橋梁<br />該橋は、明治7年(1874年)5月11日開通の橋梁である。<br />5.18m(17ft)×1連<br />初代橋梁は木組総木造構造で、防腐処理が施工されていたが、明治10年(1877年)頃より木部腐朽が顕著となり、該状態では、列車運行に対し懸念が発生する事態となった事から、明治12年(1879年)頃に英國製錬鐡鈑桁に架替が実施された。<br /><br />尼崎市東七松町2-1<br />東海道本線尼崎駅南口 阪神バス水道局前停留所降車 徒歩2分

    尼崎-立花間



    芦原川(あしわらがわ)橋梁
    該橋は、明治7年(1874年)5月11日開通の橋梁である。
    5.18m(17ft)×1連
    初代橋梁は木組総木造構造で、防腐処理が施工されていたが、明治10年(1877年)頃より木部腐朽が顕著となり、該状態では、列車運行に対し懸念が発生する事態となった事から、明治12年(1879年)頃に英國製錬鐡鈑桁に架替が実施された。

    尼崎市東七松町2-1
    東海道本線尼崎駅南口 阪神バス水道局前停留所降車 徒歩2分

  • 尼崎-立花間<br /><br /><br /><br />芦原川橋梁<br />下り内外線側<br />神戸方<br />橋台<br /><br />尼崎市東七松町2-1<br />東海道本線尼崎駅南口 阪神バス水道局前停留所降車 徒歩2分

    尼崎-立花間



    芦原川橋梁
    下り内外線側
    神戸方
    橋台

    尼崎市東七松町2-1
    東海道本線尼崎駅南口 阪神バス水道局前停留所降車 徒歩2分

  • 尼崎-立花間<br /><br /><br /><br />三反田踏切<br />下り内外線側。<br />明治22年(1889年)4月1日附施行町村合併以前の旧村名が残存。<br /><br />尼崎市東七松町2-1<br />東海道本線尼崎駅南口 阪神バス橘公園停留所降車 徒歩2分

    尼崎-立花間



    三反田踏切
    下り内外線側。
    明治22年(1889年)4月1日附施行町村合併以前の旧村名が残存。

    尼崎市東七松町2-1
    東海道本線尼崎駅南口 阪神バス橘公園停留所降車 徒歩2分

  • 立花-甲子園口間<br /><br /><br /><br />三反田踏切<br />上り内外線側<br /><br />尼崎市三反田町2<br />東海道本線尼崎駅南口 阪神バス橘公園停留所降車 徒歩3分

    立花-甲子園口間



    三反田踏切
    上り内外線側

    尼崎市三反田町2
    東海道本線尼崎駅南口 阪神バス橘公園停留所降車 徒歩3分

  • 立花(たちばな)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和9年(1934年)7月20日開業である。<br />即ち、該駅は、塚本、甲子園口、六甲道、及び、元町各駅と共に、電車運転開始に依り開設された。<br />その為に、開業以来現在に至るまで貨物取扱は一切無い。<br />大東亜戦争中に於ける阪神間所在駅で、甲子園口駅と共に数少ない空襲無被災駅だった。<br />該駅は、日本万国博覧会(にっぽん ばんこく はくらんかい)(昭和45年(1970年)3月1日~同年9月13日開催)終了後たる、同年10月に第2代橋上駅本屋に改築された。

    立花(たちばな)駅



    該駅は、昭和9年(1934年)7月20日開業である。
    即ち、該駅は、塚本、甲子園口、六甲道、及び、元町各駅と共に、電車運転開始に依り開設された。
    その為に、開業以来現在に至るまで貨物取扱は一切無い。
    大東亜戦争中に於ける阪神間所在駅で、甲子園口駅と共に数少ない空襲無被災駅だった。
    該駅は、日本万国博覧会(にっぽん ばんこく はくらんかい)(昭和45年(1970年)3月1日~同年9月13日開催)終了後たる、同年10月に第2代橋上駅本屋に改築された。

    立花駅

  • 立花駅<br /><br /><br /><br />北口

    立花駅



    北口

    立花駅

  • 立花駅<br /><br /><br /><br />改札口

    立花駅



    改札口

    立花駅

  • 立花駅<br /><br /><br /><br />南口

    立花駅



    南口

    立花駅

  • 立花-甲子園口間<br /><br /><br /><br />古小路(ふるこうじ)橋梁<br />該

    立花-甲子園口間



    古小路(ふるこうじ)橋梁

  • 立花-甲子園口間<br /><br /><br /><br />大島川(おおしまがわ)橋梁<br />全長27.50m<br />6.66m×4連<br />該橋梁は、明治7年(1874年)5月1日開通である。<br />但し、開通時は大島川避溢橋として設置されたが、その後の河川改修に依り神戸方桁下のみ河川が設置された為に、当該河川設置時に現橋梁名に改名された。<br />初代橋梁は木造木組で構築され、明治11年(1879年)頃に錬鐡製橋桁に交換された。

    立花-甲子園口間



    大島川(おおしまがわ)橋梁
    全長27.50m
    6.66m×4連
    該橋梁は、明治7年(1874年)5月1日開通である。
    但し、開通時は大島川避溢橋として設置されたが、その後の河川改修に依り神戸方桁下のみ河川が設置された為に、当該河川設置時に現橋梁名に改名された。
    初代橋梁は木造木組で構築され、明治11年(1879年)頃に錬鐡製橋桁に交換された。

  • 立花-甲子園口間<br /><br /><br /><br />大島川橋梁<br />該橋梁桁4連中、内2連は自動車通行容易の為に再交換された。<br />

    立花-甲子園口間



    大島川橋梁
    該橋梁桁4連中、内2連は自動車通行容易の為に再交換された。

  • 立花-甲子園口間<br /><br /><br /><br />大島川橋梁<br />

    立花-甲子園口間



    大島川橋梁

  • 立花-甲子園口間<br /><br /><br /><br />大島川橋梁<br />神戸方<br />煉瓦積橋台<br />該橋台は改造されているが該橋梁架橋時の物。

    立花-甲子園口間



    大島川橋梁
    神戸方
    煉瓦積橋台
    該橋台は改造されているが該橋梁架橋時の物。

  • 立花-甲子園口間<br /><br /><br /><br />水野(みずの)信号所跡<br />該信号所は、明治43年(1910年)3月29日附設置である。<br />即ち、該信号所設置以前は神崎(現 尼崎)-西ノ宮Ⅰ(現 西宮)間は7.1kmを有し、当時の保安装置たる双信閉塞式では該区間内に列車1本しか運転出来ず、列車増発を可能とすべく該区間閉塞を2分割する為に設置された。<br />その後、閉塞式が双信閉塞式から連動閉塞式に変更されたが非自動式に変り無く該信号所は存続したが、大正10年(1921年)7月20日附で、京都-大阪-神戸間に自動閉塞式導入に依り該信号所は不要施設となり翌21日附で廃止された。<br /><br />尼崎市稲葉荘4-16<br />東海道本線甲子園口駅南口 阪神バス稲葉荘停留所降車 徒歩5分

    立花-甲子園口間



    水野(みずの)信号所跡
    該信号所は、明治43年(1910年)3月29日附設置である。
    即ち、該信号所設置以前は神崎(現 尼崎)-西ノ宮Ⅰ(現 西宮)間は7.1kmを有し、当時の保安装置たる双信閉塞式では該区間内に列車1本しか運転出来ず、列車増発を可能とすべく該区間閉塞を2分割する為に設置された。
    その後、閉塞式が双信閉塞式から連動閉塞式に変更されたが非自動式に変り無く該信号所は存続したが、大正10年(1921年)7月20日附で、京都-大阪-神戸間に自動閉塞式導入に依り該信号所は不要施設となり翌21日附で廃止された。

    尼崎市稲葉荘4-16
    東海道本線甲子園口駅南口 阪神バス稲葉荘停留所降車 徒歩5分

  • 立花-甲子園口間<br /><br /><br /><br />武庫川(むこがわ)橋梁<br />全長255.1m(837ft)<br />下路ポニーワーレントラス構桁21.3m × 12連<br />明治3年(1870年)11月着工、明治7年(1874年)2月竣工。<br />総工費 計44673円34銭<br />明治27年(1894年)7月に、神戸工場製主桁材追加に依り複線仕様に改造され、明治29年(1896年)3月11日附で複線化。<br />該橋梁は、次世代本線用大型重量蒸気機関車9900型(D50型)、18900型(C51型)に対し非対応と判定された事から、大正5年(1916年)に国産鈑桁に交換された。<br />その後、鐵道省に依る複々線化計画に依り、該橋梁下流側に新橋梁が架橋され、該新橋梁は大正15年(1926年)に竣工し、一時的に本線を新橋梁に移転し、既成橋梁を修理の上、該区間は同年11月15日附で複々線化され、該日より既成橋梁は上り内外線専用、新橋梁は下り内外線専用となった。<br /><br />尼崎市南武庫之荘12<br />東海道本線甲子園口駅北口 徒歩20分

    立花-甲子園口間



    武庫川(むこがわ)橋梁
    全長255.1m(837ft)
    下路ポニーワーレントラス構桁21.3m × 12連
    明治3年(1870年)11月着工、明治7年(1874年)2月竣工。
    総工費 計44673円34銭
    明治27年(1894年)7月に、神戸工場製主桁材追加に依り複線仕様に改造され、明治29年(1896年)3月11日附で複線化。
    該橋梁は、次世代本線用大型重量蒸気機関車9900型(D50型)、18900型(C51型)に対し非対応と判定された事から、大正5年(1916年)に国産鈑桁に交換された。
    その後、鐵道省に依る複々線化計画に依り、該橋梁下流側に新橋梁が架橋され、該新橋梁は大正15年(1926年)に竣工し、一時的に本線を新橋梁に移転し、既成橋梁を修理の上、該区間は同年11月15日附で複々線化され、該日より既成橋梁は上り内外線専用、新橋梁は下り内外線専用となった。

    尼崎市南武庫之荘12
    東海道本線甲子園口駅北口 徒歩20分

  • 立花-甲子園口間<br /><br /><br /><br />武庫川橋梁<br />上り内外線側<br />東京方<br /><br />尼崎市南武庫之荘12<br />東海道本線甲子園口駅北口 徒歩20分

    立花-甲子園口間



    武庫川橋梁
    上り内外線側
    東京方

    尼崎市南武庫之荘12
    東海道本線甲子園口駅北口 徒歩20分

  • 立花-甲子園口間<br /><br /><br /><br />武庫川橋梁<br />下り内外線側<br />大正15年(1926年)竣工。<br />昭和13年(1938年)7月5日発生の阪神大水害で、該橋梁第6橋脚に甚大被害が発生し、同月21日2時53分に復旧する迄、上り内外線用橋梁を使用した。<br /><br />尼崎市稲葉荘4-14<br />東海道本線甲子園口駅北口 徒歩21分

    立花-甲子園口間



    武庫川橋梁
    下り内外線側
    大正15年(1926年)竣工。
    昭和13年(1938年)7月5日発生の阪神大水害で、該橋梁第6橋脚に甚大被害が発生し、同月21日2時53分に復旧する迄、上り内外線用橋梁を使用した。

    尼崎市稲葉荘4-14
    東海道本線甲子園口駅北口 徒歩21分

  • 立花-甲子園口間<br /><br /><br /><br />武庫川橋梁<br />上り内外線側橋梁<br />鍛鐡製複合円柱橋脚<br /><br />西宮市甲子園口北町7<br />東海道本線甲子園口駅北口 徒歩7分

    立花-甲子園口間



    武庫川橋梁
    上り内外線側橋梁
    鍛鐡製複合円柱橋脚

    西宮市甲子園口北町7
    東海道本線甲子園口駅北口 徒歩7分

  • 立花-甲子園口間<br /><br /><br /><br />武庫川橋梁<br />上り内外線側橋梁<br />鍛鐡製複合円柱橋脚<br />昭和13年(1938年)7月5日の阪神大水害で該橋梁に直接被害は発生しなかったが、橋脚強化を目的に昭和14年(1939年)2~7月に橋脚身体補強工事が施工されたが明治7年(1874年)2月竣工時の姿が残存。<br /><br />西宮市甲子園口北町7<br />東海道本線甲子園口駅北口 徒歩7分

    立花-甲子園口間



    武庫川橋梁
    上り内外線側橋梁
    鍛鐡製複合円柱橋脚
    昭和13年(1938年)7月5日の阪神大水害で該橋梁に直接被害は発生しなかったが、橋脚強化を目的に昭和14年(1939年)2~7月に橋脚身体補強工事が施工されたが明治7年(1874年)2月竣工時の姿が残存。

    西宮市甲子園口北町7
    東海道本線甲子園口駅北口 徒歩7分

  • 立花-甲子園口間<br /><br /><br /><br />武庫川橋梁<br />上り内外線側橋梁<br />鍛鐡製複合円柱橋脚<br />近接<br /><br />西宮市甲子園口北町7<br />東海道本線甲子園口駅北口 徒歩7分

    立花-甲子園口間



    武庫川橋梁
    上り内外線側橋梁
    鍛鐡製複合円柱橋脚
    近接

    西宮市甲子園口北町7
    東海道本線甲子園口駅北口 徒歩7分

  • 立花-甲子園口間<br /><br /><br /><br />武庫川橋梁<br />上り内外線側<br /><br />西宮市甲子園口北町7<br />東海道本線甲子園口駅北口 徒歩7分

    立花-甲子園口間



    武庫川橋梁
    上り内外線側

    西宮市甲子園口北町7
    東海道本線甲子園口駅北口 徒歩7分

  • 立花-甲子園口間<br /><br /><br /><br />武庫川橋梁<br />下り内外線側<br />大正15年(1926年)11月15日開通。

    立花-甲子園口間



    武庫川橋梁
    下り内外線側
    大正15年(1926年)11月15日開通。

  • 立花-甲子園口間<br /><br /><br /><br />新堀川(しんぼりがわ)橋梁<br />明治6年(1873年)11月竣工。<br /><br />西宮市甲子園口北町5<br />東海道本線甲子園口駅北口 徒歩4分

    立花-甲子園口間



    新堀川(しんぼりがわ)橋梁
    明治6年(1873年)11月竣工。

    西宮市甲子園口北町5
    東海道本線甲子園口駅北口 徒歩4分

  • 立花-甲子園口間<br /><br /><br /><br />新堀川橋梁<br />完成時は河川用橋梁だったが、その、河川改修に依り河川部は中央橋梁に限定され、両側橋梁は歩行者軽車輌通行専用橋として現存。<br />煉瓦積構築<br /><br />西宮市甲子園口北町5<br />東海道本線甲子園口駅北口 徒歩4分

    立花-甲子園口間



    新堀川橋梁
    完成時は河川用橋梁だったが、その、河川改修に依り河川部は中央橋梁に限定され、両側橋梁は歩行者軽車輌通行専用橋として現存。
    煉瓦積構築

    西宮市甲子園口北町5
    東海道本線甲子園口駅北口 徒歩4分

  • 立花-甲子園口間<br /><br /><br /><br />新堀川橋梁<br />上り内外線側<br /><br />西宮市甲子園口北町5<br />東海道本線甲子園口駅北口 徒歩4分

    立花-甲子園口間



    新堀川橋梁
    上り内外線側

    西宮市甲子園口北町5
    東海道本線甲子園口駅北口 徒歩4分

  • 立花-甲子園口間<br /><br /><br /><br />新堀川橋梁<br />煉瓦表面は悪質な落書が著しい劣化状態だったが、煉瓦表面を研磨した為に開業当時のレンガ色が復元された。<br /><br />西宮市甲子園口北町5<br />東海道本線甲子園口駅北口 徒歩4分

    立花-甲子園口間



    新堀川橋梁
    煉瓦表面は悪質な落書が著しい劣化状態だったが、煉瓦表面を研磨した為に開業当時のレンガ色が復元された。

    西宮市甲子園口北町5
    東海道本線甲子園口駅北口 徒歩4分

  • 立花-甲子園口間<br /><br /><br /><br />新堀川橋梁<br />下り内外線側<br />大正15年(1926年)11月15日附複々線化時に海側に増線した為に、原形が損傷。<br /><br />西宮市甲子園口1-1<br />東海道本線甲子園口駅南口 徒歩4分

    立花-甲子園口間



    新堀川橋梁
    下り内外線側
    大正15年(1926年)11月15日附複々線化時に海側に増線した為に、原形が損傷。

    西宮市甲子園口1-1
    東海道本線甲子園口駅南口 徒歩4分

  • 立花-甲子園口間<br /><br /><br /><br />新堀川橋梁<br />下り内外線側<br />原型橋梁部分は馬蹄形。<br /><br />西宮市甲子園口1-1<br />東海道本線甲子園口駅南口 徒歩4分

    立花-甲子園口間



    新堀川橋梁
    下り内外線側
    原型橋梁部分は馬蹄形。

    西宮市甲子園口1-1
    東海道本線甲子園口駅南口 徒歩4分

  • 立花-甲子園口間<br /><br /><br /><br />新堀川橋梁<br />内部<br />モルタル塗補修が成されているが一部モルタル剥離部分に原煉瓦が露出。<br /><br />西宮市甲子園口1-1<br />東海道本線甲子園口駅南口 徒歩4分

    立花-甲子園口間



    新堀川橋梁
    内部
    モルタル塗補修が成されているが一部モルタル剥離部分に原煉瓦が露出。

    西宮市甲子園口1-1
    東海道本線甲子園口駅南口 徒歩4分

  • 甲子園口(こうしえんぐち)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和9年(1934年)7月20日開業である。<br />即ち、該日より、吹田-神戸-須磨間に於いて電車運転開始時に、塚本、立花、六甲道、及び、元町各駅と同時に開設された。<br />該駅は、東京方末端部に於いて武庫川を渡河する為に築堤構造で構築され、該築堤内部に地下道で南北を貫通構造である。<br />昭和13年(1938年)7月5日発生の阪神大水害で、武庫川が氾濫し濁流が該駅本屋に流込み約3m床上浸水被害が発生した。<br />大東亜戦争末期、我が国本土は連合国戦略部隊に依る空爆被害が続出したが、該駅は、阪神間に存在する諸駅に数少ない無被害だった。<br />現駅本屋は、昭和53年(1978年)3月に改築された第2代鉄筋コンクリート造構造だが、北口駅舎は該駅開業当時の原型で、杉綾様模様入柱、筋目柱模様構造で、建築当時の鐵道省標準様式が見られた。<br />阪神淡路大震災で、該駅付近は不通となったが、同月19日に尼崎-甲子園口間、同月25日に甲子園口-芦屋間復旧まで、該駅は鉄道代替バス乗降駅として機能し長蛇の列が見られた。<br />該駅開業時に設置された初代駅本屋は老朽化を理由に、平成26年(2014年)3月22日附で改築され、第2代駅本屋が竣工した。<br />http://www.jr-odekake.net/eki/top.php?id=0610135

    甲子園口(こうしえんぐち)駅



    該駅は、昭和9年(1934年)7月20日開業である。
    即ち、該日より、吹田-神戸-須磨間に於いて電車運転開始時に、塚本、立花、六甲道、及び、元町各駅と同時に開設された。
    該駅は、東京方末端部に於いて武庫川を渡河する為に築堤構造で構築され、該築堤内部に地下道で南北を貫通構造である。
    昭和13年(1938年)7月5日発生の阪神大水害で、武庫川が氾濫し濁流が該駅本屋に流込み約3m床上浸水被害が発生した。
    大東亜戦争末期、我が国本土は連合国戦略部隊に依る空爆被害が続出したが、該駅は、阪神間に存在する諸駅に数少ない無被害だった。
    現駅本屋は、昭和53年(1978年)3月に改築された第2代鉄筋コンクリート造構造だが、北口駅舎は該駅開業当時の原型で、杉綾様模様入柱、筋目柱模様構造で、建築当時の鐵道省標準様式が見られた。
    阪神淡路大震災で、該駅付近は不通となったが、同月19日に尼崎-甲子園口間、同月25日に甲子園口-芦屋間復旧まで、該駅は鉄道代替バス乗降駅として機能し長蛇の列が見られた。
    該駅開業時に設置された初代駅本屋は老朽化を理由に、平成26年(2014年)3月22日附で改築され、第2代駅本屋が竣工した。
    http://www.jr-odekake.net/eki/top.php?id=0610135

    甲子園口駅

  • 甲子園口駅<br /><br /><br /><br />南口駅舎<br />昭和53年(1978年)10月2日附で改築された第2代鉄筋コンクリート造構造。<br />http://www.jr-odekake.net/eki/top.php?id=0610135

    甲子園口駅



    南口駅舎
    昭和53年(1978年)10月2日附で改築された第2代鉄筋コンクリート造構造。
    http://www.jr-odekake.net/eki/top.php?id=0610135

    甲子園口駅

  • 甲子園口駅<br /><br /><br /><br />旅客第2番ホーム<br />東京方

    甲子園口駅



    旅客第2番ホーム
    東京方

    甲子園口駅

  • 甲子園口駅<br /><br /><br /><br />旅客第2番ホーム<br />神戸方

    甲子園口駅



    旅客第2番ホーム
    神戸方

    甲子園口駅

  • 甲子園口駅<br /><br /><br /><br />旅客第2番ホーム<br />上屋古軌条支柱

    甲子園口駅



    旅客第2番ホーム
    上屋古軌条支柱

    甲子園口駅

  • 甲子園口駅<br /><br /><br /><br />旅客第2番ホーム<br />上屋古軌条支柱

    甲子園口駅



    旅客第2番ホーム
    上屋古軌条支柱

    甲子園口駅

  • 甲子園口-西宮間<br /><br /><br /><br />鋼製架線支柱<br />昭和9年(1934年)7月20日の吹田-神戸-須磨館電化時建植架線支柱が多数残存。

    甲子園口-西宮間



    鋼製架線支柱
    昭和9年(1934年)7月20日の吹田-神戸-須磨館電化時建植架線支柱が多数残存。

  • 甲子園口-西宮間<br /><br /><br /><br />津門川(つとがわ)橋梁<br />旧 洲崎貨物線跡<br /><br />西宮市津門大塚町10<br />東海道本線西宮駅南口 阪神バス津門稲荷町停留所降車 徒歩4分

    甲子園口-西宮間



    津門川(つとがわ)橋梁
    旧 洲崎貨物線跡

    西宮市津門大塚町10
    東海道本線西宮駅南口 阪神バス津門稲荷町停留所降車 徒歩4分

  • 甲子園口-西宮間<br /><br /><br /><br />津門川橋梁<br />洲崎貨物線跡<br />銘板<br /><br />西宮市津門大塚町10<br />東海道本線西宮駅南口 阪神バス津門稲荷町停留所降車 徒歩4分

    甲子園口-西宮間



    津門川橋梁
    洲崎貨物線跡
    銘板

    西宮市津門大塚町10
    東海道本線西宮駅南口 阪神バス津門稲荷町停留所降車 徒歩4分

  • 甲子園口-西宮間<br /><br /><br /><br />津門川架道橋<br />7.10m<br />上り内外線側<br />平成7年(1995年)1月17日発生の阪神淡路大震災に依りアンカーボルト剥離被害が発生した。<br /><br />西宮市津門大塚町10<br />東海道本線西宮駅南口 阪神バス津門稲荷町停留所降車 徒歩4分

    甲子園口-西宮間



    津門川架道橋
    7.10m
    上り内外線側
    平成7年(1995年)1月17日発生の阪神淡路大震災に依りアンカーボルト剥離被害が発生した。

    西宮市津門大塚町10
    東海道本線西宮駅南口 阪神バス津門稲荷町停留所降車 徒歩4分

  • 甲子園口-西宮間<br /><br /><br /><br />津門川(つとがわ)橋梁<br />11.10m<br />上り内外線側<br /><br />西宮市神祇宮町7-3<br />東海道本線西宮駅南口 阪神バス津門稲荷町停留所降車 徒歩5分

    甲子園口-西宮間



    津門川(つとがわ)橋梁
    11.10m
    上り内外線側

    西宮市神祇宮町7-3
    東海道本線西宮駅南口 阪神バス津門稲荷町停留所降車 徒歩5分

  • 甲子園口-西宮間<br /><br /><br /><br />旧洲崎貨物線跡<br />該線跡は、川西航空機が陸海軍航空機増産を目的として洲崎工場設置を決定した事を受け、航空機製造部品、及び、該完成品発送の必要性から、専用線設置の為に、該駅貨物取扱所より線路延長が決定された。<br />即ち、東京方甲子園口駅付近まで本線に併走し、武庫川堤を南下、阪神電気鉄道武庫川線武庫大橋-洲崎間複線線路1本を3線軌条化させ該工場に至る計6.9km設置が突貫工事で進められ、昭和19年(1944年)11月15日附で開通したが、該専用線敷設の為に、特別風致地区たる武庫川堤松林を伐採する等々を強行執行せざるを得なかった。<br />因みに、該専用線は該戦争終結後は、一時連合国進駐軍が使用したが、半ば放置されたまま、昭和33年(1958年)には休止扱、昭和45年(1970年)に廃止されたが、廃止後も大部分の区間で軌条が残存していた。

    甲子園口-西宮間



    旧洲崎貨物線跡
    該線跡は、川西航空機が陸海軍航空機増産を目的として洲崎工場設置を決定した事を受け、航空機製造部品、及び、該完成品発送の必要性から、専用線設置の為に、該駅貨物取扱所より線路延長が決定された。
    即ち、東京方甲子園口駅付近まで本線に併走し、武庫川堤を南下、阪神電気鉄道武庫川線武庫大橋-洲崎間複線線路1本を3線軌条化させ該工場に至る計6.9km設置が突貫工事で進められ、昭和19年(1944年)11月15日附で開通したが、該専用線敷設の為に、特別風致地区たる武庫川堤松林を伐採する等々を強行執行せざるを得なかった。
    因みに、該専用線は該戦争終結後は、一時連合国進駐軍が使用したが、半ば放置されたまま、昭和33年(1958年)には休止扱、昭和45年(1970年)に廃止されたが、廃止後も大部分の区間で軌条が残存していた。

  • 甲子園口-西宮間<br /><br /><br /><br />武庫川(むこがわ)仮信号所跡<br />該地には常設を要しない仮信号所が設置存在した。<br />即ち、保安機器たる双信閉塞を分割し列車増発を可能とした。<br /> Ⅰ)明治41年(1908年)2月10~12日<br />西宮蛭子(ひるこ)神社祭礼参観者輸送列車増発。<br /> Ⅱ)同年11月11~19日<br />同年11月18日に神戸沖に於いて 第122代 明治(めいじ)天皇(嘉永5年(1852年)11月3日~明治45年(1912年)7月29日)(慶應3年(1867年)1月30日~明治45年(1912年)7月29日御在位)総裁に依る、帝國海軍聨合艦隊観艦式挙行の為、京阪神地域在住者参観者輸送列車増発。<br />因みに、聨合艦隊司令長官は、海軍大将 伊集院五郎(いじゅういん ごろう)(嘉永5年(1852年)11月9日~大正10年(1921年)1月13日)(明治41年(1908年)10月8日~同年11月20日在任)で、最終階級は元帥。<br />日露(にちろ)戦争(明治37年(1904年)2月8日~明治38年(1905年)9月5日)に於いて、帝國海軍戦艦、及び、装甲巡洋艦搭載の主砲弾装着の伊集院信管発明で知られる。<br /> Ⅲ)明治42年(1909年)12月21~23日<br />西宮蛭子(ひるこ)神社祭礼参観者輸送列車増発の為。<br />同年12月24日廃止された。<br />

    甲子園口-西宮間



    武庫川(むこがわ)仮信号所跡
    該地には常設を要しない仮信号所が設置存在した。
    即ち、保安機器たる双信閉塞を分割し列車増発を可能とした。
    Ⅰ)明治41年(1908年)2月10~12日
    西宮蛭子(ひるこ)神社祭礼参観者輸送列車増発。
    Ⅱ)同年11月11~19日
    同年11月18日に神戸沖に於いて 第122代 明治(めいじ)天皇(嘉永5年(1852年)11月3日~明治45年(1912年)7月29日)(慶應3年(1867年)1月30日~明治45年(1912年)7月29日御在位)総裁に依る、帝國海軍聨合艦隊観艦式挙行の為、京阪神地域在住者参観者輸送列車増発。
    因みに、聨合艦隊司令長官は、海軍大将 伊集院五郎(いじゅういん ごろう)(嘉永5年(1852年)11月9日~大正10年(1921年)1月13日)(明治41年(1908年)10月8日~同年11月20日在任)で、最終階級は元帥。
    日露(にちろ)戦争(明治37年(1904年)2月8日~明治38年(1905年)9月5日)に於いて、帝國海軍戦艦、及び、装甲巡洋艦搭載の主砲弾装着の伊集院信管発明で知られる。
    Ⅲ)明治42年(1909年)12月21~23日
    西宮蛭子(ひるこ)神社祭礼参観者輸送列車増発の為。
    同年12月24日廃止された。

  • 甲子園口-西宮間<br /><br /><br /><br />旧貨物取扱施設跡<br />左手マンション群は、西宮駅貨物取扱施設跡地が日本国有鉄道清算事業団を経て民間に払下られた土地活用で完成した。

    甲子園口-西宮間



    旧貨物取扱施設跡
    左手マンション群は、西宮駅貨物取扱施設跡地が日本国有鉄道清算事業団を経て民間に払下られた土地活用で完成した。

  • 西宮(にしのみや)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治7年(1874年)5月11日開業である。<br />但し、該駅開業当時は現在位置と異なり旧貨物取扱所付近に開設された。<br />該駅開業時は 西ノ宮 と称したが、此れは、三ノ宮と同様、東京から来神者が読めないと云う理由を以って「ノ」補与されたもので、該地に於いて該駅以外に先例は無い。<br />該駅付近は、京都伏見、摂津灘と共に関西3大日本酒製造蔵元とされ、それ故に、開業以来、全国各地宛酒類発送貨物が多数を占めた。<br />該駅は、大阪、及び、神戸共に、利便性が良好な事から、旅客利用者が増加したが、明治38年(1905年)4月12日に、阪神電気鐵道が大阪出入橋-神戸瀧道間開通後は、快適、且つ、頻発運転の電車運転の為に、該影響に依り、該駅旅客利用者は激減し、概ね、短距離利用者約63%が阪神電気鉄道に流れる事態となった。<br />減少を続けた短距離旅客利用客が増加に転じたのは、昭和9年(1934年)7月20日に、吹田-神戸-須磨間が直流1500V電化完成で電車運転が開始された以降の事である。<br />明治末期ともなると貨物取扱業務が激増した事から、西部鐵道管理局は該駅構内拡張を決定し、該工事は、明治44年(1911年)11月1日に着工した。<br />大正期に、該駅周辺に、アサヒビール、紡績関係工場が進出し貨物取扱量が激増したが、既成該駅構内が狭隘な事から拡張が困難と判断され、旅客取扱業務のみ大正13年(1924年)4月に現位置に移転し、同時に第2代駅本屋が造営された。<br />大東亜戦争(昭和16年(1941年)12月8日~昭和20年(1945年)8月15日)勃発後、陸海軍航空機増産を目的として川西航空機洲崎工場設置が決定し、航空機製造部品、及び、該完成品発送の為に、専用線設置の為に、該駅貨物取扱所より線路延長が決定された。<br />即ち、東京方甲子園口駅付近まで本線に併走し、武庫川堤を南下、阪神電気鉄道武庫川線武庫大橋-洲崎間複線線路1本を3線軌条化させ該工場に至る計6.9km設置が突貫工事で進められ、昭和19年(1944年)11月15日附で開通したが、該専用線敷設の為に、特別風致地区たる武庫川堤の松林を伐採する等々を強行せざるを得なかった。<br />因みに、該専用線は該戦争終結後は、一時連合国進駐軍が使用したが、半ば放置されたまま、昭和33年(1958年)には休止扱、昭和45年(1970年)に廃止されたが、廃止以降も大部分の区間で軌道が残存していた。<br />昭和13年(1938年)7月5日発生の阪神大水害に依り、該駅構内は浸水、及び、土砂侵入被害が著しく、該駅構内留置中の貨車38両に浸水被害が発生したが、運良く該駅停車中の列車、電車が無かったのは不幸中の幸いと言えた。<br />大東亜戦争末期たる昭和20年(1945年)8月5日 阪神間空襲に依り該駅構内に焼夷弾が落下炸裂し、上下線貨物取扱ホーム上屋、及び、西信号取扱所が全焼したが、駅本屋を含め他構内施設は無事だったのは不幸中の幸いだった。<br />該駅北側住民から、出改札口設置要望が強く、度重なる西宮市の請願に依り、昭和24年(1949年)4月1日附で、北口が設置され、旅客地下通路を通じ、人の通行みならず、自転車に乗ったままの地元住民の奇矯姿が平成8年(1996年)の該駅改築まで見られた。<br />該駅は開業以来貨物取扱業務が多量を占めていたが、日本国有鉄道貨物取扱業務の根本的見直しに依り、昭和61年(1986年)11月1日附を以って全面的に廃止され、貨物専用線も漸次撤去された。<br />該駅前は駅前広場が狭隘で、路線バス乗入にも困難が伴っていた事から、西宮市は、平成4年(1992年)に日本国有鉄道清算事業団から当該敷地を買収し、駅前再開発計画が開始した。<br />平成7年(1995年)1月17日発生の阪神淡路大震災に依り、同月25日に甲子園口-芦屋間復旧開通まで該駅営業は休止を余儀無くさせられた。<br />平成9年(1997年)2月16日附で第3代橋上式駅本屋が竣工した。<br />明治期以来、懸案とされた駅名改称問題は、該変更にマルスシステムの大規模変更を要する事から、西日本旅客鉄道は難色を示し続けていたが、さくら夙川駅開業に依り該問題解決が可能と判断された事から、該駅名変更関連費用全額地元負担を条件に承認され、平成19年(2007年)3月18日附時刻改正に依り、晴れて西宮に改称された。<br />https://www.jr-odekake.net/eki/top.php?id=0610136

    西宮(にしのみや)駅



    該駅は、明治7年(1874年)5月11日開業である。
    但し、該駅開業当時は現在位置と異なり旧貨物取扱所付近に開設された。
    該駅開業時は 西ノ宮 と称したが、此れは、三ノ宮と同様、東京から来神者が読めないと云う理由を以って「ノ」補与されたもので、該地に於いて該駅以外に先例は無い。
    該駅付近は、京都伏見、摂津灘と共に関西3大日本酒製造蔵元とされ、それ故に、開業以来、全国各地宛酒類発送貨物が多数を占めた。
    該駅は、大阪、及び、神戸共に、利便性が良好な事から、旅客利用者が増加したが、明治38年(1905年)4月12日に、阪神電気鐵道が大阪出入橋-神戸瀧道間開通後は、快適、且つ、頻発運転の電車運転の為に、該影響に依り、該駅旅客利用者は激減し、概ね、短距離利用者約63%が阪神電気鉄道に流れる事態となった。
    減少を続けた短距離旅客利用客が増加に転じたのは、昭和9年(1934年)7月20日に、吹田-神戸-須磨間が直流1500V電化完成で電車運転が開始された以降の事である。
    明治末期ともなると貨物取扱業務が激増した事から、西部鐵道管理局は該駅構内拡張を決定し、該工事は、明治44年(1911年)11月1日に着工した。
    大正期に、該駅周辺に、アサヒビール、紡績関係工場が進出し貨物取扱量が激増したが、既成該駅構内が狭隘な事から拡張が困難と判断され、旅客取扱業務のみ大正13年(1924年)4月に現位置に移転し、同時に第2代駅本屋が造営された。
    大東亜戦争(昭和16年(1941年)12月8日~昭和20年(1945年)8月15日)勃発後、陸海軍航空機増産を目的として川西航空機洲崎工場設置が決定し、航空機製造部品、及び、該完成品発送の為に、専用線設置の為に、該駅貨物取扱所より線路延長が決定された。
    即ち、東京方甲子園口駅付近まで本線に併走し、武庫川堤を南下、阪神電気鉄道武庫川線武庫大橋-洲崎間複線線路1本を3線軌条化させ該工場に至る計6.9km設置が突貫工事で進められ、昭和19年(1944年)11月15日附で開通したが、該専用線敷設の為に、特別風致地区たる武庫川堤の松林を伐採する等々を強行せざるを得なかった。
    因みに、該専用線は該戦争終結後は、一時連合国進駐軍が使用したが、半ば放置されたまま、昭和33年(1958年)には休止扱、昭和45年(1970年)に廃止されたが、廃止以降も大部分の区間で軌道が残存していた。
    昭和13年(1938年)7月5日発生の阪神大水害に依り、該駅構内は浸水、及び、土砂侵入被害が著しく、該駅構内留置中の貨車38両に浸水被害が発生したが、運良く該駅停車中の列車、電車が無かったのは不幸中の幸いと言えた。
    大東亜戦争末期たる昭和20年(1945年)8月5日 阪神間空襲に依り該駅構内に焼夷弾が落下炸裂し、上下線貨物取扱ホーム上屋、及び、西信号取扱所が全焼したが、駅本屋を含め他構内施設は無事だったのは不幸中の幸いだった。
    該駅北側住民から、出改札口設置要望が強く、度重なる西宮市の請願に依り、昭和24年(1949年)4月1日附で、北口が設置され、旅客地下通路を通じ、人の通行みならず、自転車に乗ったままの地元住民の奇矯姿が平成8年(1996年)の該駅改築まで見られた。
    該駅は開業以来貨物取扱業務が多量を占めていたが、日本国有鉄道貨物取扱業務の根本的見直しに依り、昭和61年(1986年)11月1日附を以って全面的に廃止され、貨物専用線も漸次撤去された。
    該駅前は駅前広場が狭隘で、路線バス乗入にも困難が伴っていた事から、西宮市は、平成4年(1992年)に日本国有鉄道清算事業団から当該敷地を買収し、駅前再開発計画が開始した。
    平成7年(1995年)1月17日発生の阪神淡路大震災に依り、同月25日に甲子園口-芦屋間復旧開通まで該駅営業は休止を余儀無くさせられた。
    平成9年(1997年)2月16日附で第3代橋上式駅本屋が竣工した。
    明治期以来、懸案とされた駅名改称問題は、該変更にマルスシステムの大規模変更を要する事から、西日本旅客鉄道は難色を示し続けていたが、さくら夙川駅開業に依り該問題解決が可能と判断された事から、該駅名変更関連費用全額地元負担を条件に承認され、平成19年(2007年)3月18日附時刻改正に依り、晴れて西宮に改称された。
    https://www.jr-odekake.net/eki/top.php?id=0610136

    西宮駅 (JR)

  • 西宮駅<br /><br /><br /><br />南口<br />近接

    西宮駅



    南口
    近接

    西宮駅 (JR)

  • 西宮駅<br /><br /><br /><br />北口<br />昭和24年(1949年)4月1日附で開設された。

    西宮駅



    北口
    昭和24年(1949年)4月1日附で開設された。

    西宮駅 (JR)

  • 西宮駅<br /><br /><br /><br />出改札口

    西宮駅



    出改札口

    西宮駅 (JR)

  • 西宮駅<br /><br /><br /><br />第1番旅客ホーム<br />神戸方

    西宮駅



    第1番旅客ホーム
    神戸方

    西宮駅 (JR)

  • 西宮駅<br /><br /><br /><br />第2番旅客ホーム<br />全景<br />神戸方俯瞰

    西宮駅



    第2番旅客ホーム
    全景
    神戸方俯瞰

    西宮駅 (JR)

  • 西宮駅<br /><br /><br /><br />第2番旅客ホーム<br />全景<br />東京方俯瞰

    西宮駅



    第2番旅客ホーム
    全景
    東京方俯瞰

    西宮駅 (JR)

  • 西宮駅<br /><br /><br /><br />第2番旅客ホーム<br />神戸方<br />電化以前の客車時代のホーム痕跡が残存。

    西宮駅



    第2番旅客ホーム
    神戸方
    電化以前の客車時代のホーム痕跡が残存。

    西宮駅 (JR)

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  • フィーコさん 2020/01/09 23:18:14
    埋田→梅田
    海浜臨海公園さま こんばんは。

    ご無沙汰しております。
    今年もよろしくお願いいたします。

    寒川さんに1/4 朝7:30に到達しましたところ
    もう御祓受付が45分待ちでした。
    私が七赤金星 八方塞がりだそうです。

    大阪駅付近は 西成の村だったのですね。
    西成という範囲が広かった?位置的に南北に位置してたのでしょうか?

    私が学生の頃、阪和線から大阪経由 神戸 長田まで通っていたのです。
    学校近くは阪急と阪神近くの西代だったのですが 定期代は国鉄の方が半額でしたので国鉄長田から15 分余分に歩きました。
    (通学定期は自分のバイト代で買っていたので安い方を選びました)

    母が戦争中 学徒動員で和歌山から明石の軍需工場へ行かされていたそうですが、移動は貨車で(アウシュビッツの様)詰め込まれ
    押し潰されて亡くなった方もいたようです。
    一時帰宅の時に 明石の空襲で工場が燃え
    行かなくてもよくなったので良かったと言ってました。(工場勤務ではひもじかったようです)空襲に遭わなくてよかったとも。

    今は亡き母を思い出しました。

    とりとめない事を書き失礼しました。

    フィーコ

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2020/01/10 11:59:11
    拝復
    フィーコさま、こんにちは。

    今年の寒川神社は参拝客が異常に多く、その為に、普段はノラが昼寝の場と化し閑散としている最寄駅たる相模線宮山駅は改札制限をする程の盛況だった様子です。

    仰せの通り、大阪駅周辺一帯は難波や守口などを含め元祖大阪市を囲んだ所が西成郡だった所で、元々明治20年代初頭まで湿地帯だった事から、地番が存在せず住民も存在しない正に無主の地だったものが、淀川治水工事で追われた人々が住着き、旅行者相手の商店などを開いたのが今の大阪駅前だったと思われます。

    それにしても和歌山から新長田までの通学は距離がありますね。
    ご存じの様に、新長田駅前周辺は、阪神淡路大震災で甚大被害を被り、新長田駅自体も損壊類焼し、須磨-神戸-灘間が開通しても、暫くの間、新長田駅は未復旧と云う事で電車が通過処置をされておりました。

    フィーコさまのお母様は、明石の軍需工場に勤労学徒動員で通われたそうですが、恐らく、西明石に現在でも存在する川崎重工明石工場の前身、川崎飛行機に動員されていたのではと推察します。
    明石は、昭和20年(1945年)に、1月19日、6月26日、及び、7月7日に空襲で被災しており、特に、7月の空襲で川崎飛行機明石工場が目標となった事から、西明石駅周辺で甚大被害が発生しております。


    本年も亦何卒宜敷くお願い申します。




    横浜臨海公園

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