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該区間は、武豊港-岐阜間中仙道建設連絡線設置の一環として、明治19年(1886年)3月1日から同年5月1日にかけて開通した。<br /><br /><br />初代名古屋駅は、当時の名古屋区長 吉田禄在(よしだ ろくざい)(天保9年(1839年)10月29日~大正5年(1916年)3月5日)の進言推挙に依り、現在の名鉄グランドホテル、近鉄パッセ、名鉄百貨店本店所在地に設置されたが、該地は元来、笹島の字名の通り、葦草や初夏には卯の花咲く笹繁れし沼沢湿地であり、その状態のままでの停車場設置工事施工は、鉄道車輌たる重量物通過時に於ける自然沈下の可能性指摘から早期完成は困難と判断され、此の為に金山台地を開削し、該捻出余土を以って地固をさせた。<br /><br />熱田Ⅰ-清洲Ⅰ間延長工事は同年4月1日に竣工開通したが、名古屋駅設置工事は慎重を期した為に更に1箇月遅延し、翌5月1日に一ノ宮(現 尾張一宮)延長時に開業した。<br />恐らく、該駅設置に対し、意外にも排水、及び、地固に時間を要し、4月1日に於ける同時開業が困難と判定された事が原因と推定される。<br />然し、地盤が悪い事夥しく、該駅開業後も駅前には大池が残存した為に、夏季ともなると該駅利用者は薮蚊の大群に歓迎され、然も、新築後数年後に発生した濃尾大震災で、駅本屋他構内施設は悉く全壊する。<br /><br /><br />鐵道作業局は、名護屋(現 名古屋)までの開通前に、機関庫設置を、現在の金山駅所在地付近を予定していた。<br />即ち、当初計画に於いて、元来、金山台地箇所を削取を施工し土地を容易に入手したが、該地は台地内で、周囲が崖で囲まれた土地故に狭隘を理由に将来に於ける拡張困難と判断された事から、該地への機関庫設置計画を放棄し、初代清洲驛延長時たる明治19年(1886年)4月に初代名護屋驛構内に設置開設された。<br />初代名護屋驛は、翌明治20年(1887年)4月25日附で名古屋に名称変更される。<br /><br /><br />明治24年(1891年)10月28日6時38分頃発生した濃尾大震災(のうび だいしんさい)は、我が国近現代に於ける陸部直下型地震として最大規模のものとされ、該線沿線熱田から大垣にかけて最大震度6~7を記録した。<br />事実、余りの大震度故に、125年経過した現在でも該地震余震が発生している。<br /><br />中部地域に於いて、耐震構造皆無たる木造建築物が次々と崩壊し、全壊44203戸、半壊21378戸、崖崩10224箇所、死者行方不明者7273名、重軽傷者17175名の被害が発生した。<br /><br />該地震発生と同時に激震発生が原因で、名古屋、木曾川、岐阜、及び、大垣各駅本屋が全壊、一ノ宮(現 尾張一宮)駅本屋は半壊状態となった。<br /><br />該地震発生当時、コンクリート建築建物は出現以前だったが、既に、煉瓦建築建物は存在した。<br /><br />明治21年(1888年)に竣工した 名古屋郵便電信局本館庁舎は、名古屋に於ける該当時としては最新洋風建築物だったが、地震発生と同時に2階部分が崩壊し、当直局員4名が倒壊煉瓦の下敷になり圧死した事から、煉瓦建築は地震に対し脆弱きなりとの認識、且つ、風説が拡散した。<br /><br />然し、該地震発生当時に、我が国に耐震設計なる概念自体が存在すら無く、該地震被害状況から内務省が工部大学校(現 東京大学工学部)教授 辰野金吾(たつの きんご)(嘉永7年(1854)10月13日~大正8年(1919年)3月25日)を座長に据え、震災予防調査会を結成させ、該会が明治30年(1897年)に発表した震害防止策として、煉瓦建築物に対し煉瓦内部に鉄骨組込とする見解を発表した。<br />即ち、木造建築物に対し、<br />1)土台構築<br />2)土台、柱、小屋鉄材緊結<br />3)柱、梁、桁対ボルト締<br />の施工が効果的とされた。<br /><br />因みに、該震災対策教訓を反映させた東京駅本屋は、煉瓦建築ながら鉄骨組込構築だった事から関東大震災発生時に損傷は発生していない。<br />また、木造建築物に対する耐震施工は、現在に於ける木造耐震設計施工技術と何等大差無い当時としては斬新大胆な内容だった。<br /><br />復旧は、<br /> 岡崎-名古屋Ⅰ間   明治24年(1888年)11月 5日<br /> 名古屋Ⅰ-木曾川間              12月20日<br />である。<br /><br />また、我が国政府は、該大震災被災者に対する救援物資送致に対し、被災地在駅宛荷物運賃は無料、該被災地個人宛荷物運賃は半額とする事に決定させた。<br />今日に於ける被災地救援物資運賃無料制度の嚆矢である。<br /><br />因みに、駅本屋復旧時たる明治25年(1889年)に名古屋駅が現位置に移転したとの記述をする複数文献を散見するが、該事実は無く、故に該文献全部 事実無根である。<br /><br /><br />名古屋-湊町間を基幹線とする関西(かんせい)鐵道は、明治28年(1895年)5月24日に初代名古屋駅に乗入れたが、該当時に於ける該駅ホームは1面しか存在せず、当然の事ながら列車使用に対する困難が表面化し、該社は、翌明治29年(1896年)7月6日附で、現在の中村区向野に愛知駅を開設した。<br /><br />後に、鐵道國有法に基き、明治40年(1907年)10月1日附で政府に買収され関西(かんせい)本線と命名されたが、然し、名古屋の地に官設鉄道中心駅が2箇所に分散された現状は望ましい事などでは無く、東海道本線名古屋駅に集約させるべく関西本線愛知駅は廃止が決定し明治43年(1910年)に使用中止となった旧愛知駅構内に該機関庫移転が決定した事から、旧愛知駅本屋を同時期に建設途中の高山本線接続の関係で移転を決定した岐阜駅本屋として再用させる事に決定し、大正元年(1912年)10月に旧愛知駅本屋は解体移築された。<br /><br /><br />逓信省鐵道作業局は、列車運行に於ける保安力向上の為に、主要単線区間に対し、通票閉塞式導入促進化を決定し、明治38年(1905年)7月20日より使用開始したが、<br /> 刈谷-大府間 通票2号□<br /> 大府-大高間   1号○<br /> 大高-熱田間   2号□<br />であり、該当区間複線化まで使用された。<br /><br />該区間複線化は、<br /> 大府-大高間   明治40年(1907年) 6月13日<br /> 大高-熱田間                9月26日<br /> 熱田-名古屋間  明治32年(1899年) 7月13日<br /> 名古屋-枇杷島間 明治40年(1907年) 3月27日<br /> 枇杷島-清洲間               4月 8日<br />である。<br /><br />因みに、熱田-名古屋間複線化時には、既に、当時の最新保安装置たる双信閉塞式が開発されていたにも拘らず、何故か旧式のブロック閉塞式が導入された。<br /><br />その大高-熱田間単線時代末期、大高駅に於いて大事故が発生する。<br /><br />明治40年(1907年)8月15日5時33分、該駅に於いて列車交換すべく、下り貨物第403列車は所定位置に停車したが、上り旅客第12列車は、該駅上り線に入線せず下り線側に入線した為に、停車の為に減速していたとは申せ、制動効果無く、下り貨物第403列車に正面衝突した。<br />該事故に依り、旅客17名、職員4名が重軽傷を負ったが、事故原因は、該駅駅手が転轍機を上り線側に転換させるべき処、暑さが原因に依る緊張感弛緩の為に、誤って下り線側に転換させたと云ふ単純極まるものだった。<br /><br /><br />鐵道唱歌<br />第32番<br />鳴海絞の産地なる<br />(なるみしぼりの さんちなる)<br />鳴海に近き大高を<br />(なるみに ちかき おおだかを)<br />下りて凡そ一里半<br />(くだりて およそ いちりはん)<br />行けば昔の桶狭間♪<br />(いけば むかしの おけはざま)<br />鳴海と云えば旧東海道筋にあたる宿場町で、1里半は約6km故に、本来は無関係の筈だが、ネタ切れなのか、それとも現地精査を怠ったか何れかであろうと推定される。<br />何れにせよ、沿線とは無関係な歌詞内容で牽強付会の感は免れぬ。<br /><br />第33番<br />めぐみ熱田の御やしろは<br />(めぐみ あつたの おやしろは)<br />三種の神器を一つなる<br />(さんしゅのしんきを ひとつなる)<br />その草薙の神剣<br />(その くさなぎの かみつるぎ)<br />あふげや同胞四千萬♪<br />(あおげや どうほう しせんまん)<br />歌詞で流石に熱田神宮を無視する事は無かった。<br /><br />第34番<br />名高き金の鯱は<br />(なだかき きんの しゃちほこは)<br />名古屋の城の光なり<br />(なごやの しろの ひかりなり)<br />地震のはなし未だ消えぬ<br />(じしんの はなし まだきえぬ)<br />岐阜の鵜飼も見てゆかん♪<br />(ぎふの うかいも みてゆかん)<br />前述、濃尾大震災から約10年後にも拘らず該震災被害が読み込まれているのは余程印象強かったからだが、それにしても、名古屋の次が清洲、一ノ宮を飛ばし岐阜とは如何なものか。<br /><br /><br />該線は、名古屋市内中心部を縦貫する為に、既に、明治末期頃から交通障害の原因とされ、更に、該線南側は町として発展を阻害されていた<br />更に、列車本数増加、及び、名古屋駅構内に於ける貨車入換作業の為に、該駅付近踏切は閉止状態拡大状態は、逆に、名古屋市をして発展疎外の感が免れず、不便極まる状態改善を求める声が起きるのは自然の成り行きと言えた。<br /><br />内閣鐵道院は、中央本線東京-萬世橋間、及び、東北本線東京-秋葉原-上野間高架線設置を決定していたが、次期高架化候補として、山手線澁谷駅付近と共に、東海道本線名古屋駅付近が高架化対象候補として選定され、大正7年(1918年)に凡その骨子が決定した。<br /><br />従来は、名古屋地域に於ける貨車組成は名古屋駅構内に於いて実施されていたが、貨車組成は増加の一途を辿っていたにも拘らず、該駅構内は拡張の余地無く既に飽和状態だった事から、鐵道省は貨車組成の為に操車場設置を決定し、最有力候補地として、大高、及び、稲澤が最終選出された。<br />大高が選定された場合、中央本線列車であれば、当時存在した熱田-古渡間連絡線が使用可能だったが、関西本線列車は機関車付替を要する事から、全列車がスルー運転可能として稲澤に決定し、該貨物操車場は、大正14年(1925年)1月16日に開業し、同時に、名古屋-稲澤間に貨物列車用単線が開通し該区間は3線化された。<br /><br />他方、名古屋駅構内は、狭隘な敷地内に於いて客貨取扱を行い、然も、肝心の旅客取扱ホームが2面5線しか存在せず、該ホームを以って、東海道本線上下線、関西本線、及び、中央本線旅客列車発着を行使しなければならず、明治末期に既に飽和状態を露呈していた。<br /><br />該工事は東京方から着手すべく、昭和4年(1929年)4月9日附で、熱田-名古屋間東京起点364.3km地点に露橋(つゆはし)仮信号所が設置され、列車進行に支障を生じさせ無き様に工事列車が運転された。<br /><br />該駅を中心にして東京方高架化工事が竣工した事から、該仮信号所は昭和6年(1931年)3月27日附で廃止されたが、他方、同日附を以って、神戸方該高架化工事の為に、名古屋-枇杷島間東京起点368.2km地点に栄生(さこ)仮信号所が設置された。<br /><br />次いで、昭和10年(1935年)11月に、関西本線の前身たる 関西(かんせい)鐵道起点 愛知驛跡地に存在した 名古屋機関庫、及び、名古屋駅構内に存在した客車区を、現位置たる、関西本線名古屋-八田間中間地たる中区向野に全面移転させ、該機関庫跡地を整備し、名古屋驛構内取扱貨物一切を該跡地に移転させた。<br />そして、旧客車区、及び、旧貨物取扱施設跡地を活用し、新駅本屋、及び、高架線設置工事が施工され、該高架線工事は、昭和12年(1937年)2月1日附で竣工し、該日より新高架線が使用開始され地上線は廃止された。<br /><br />即ち、該日0時を期し、上り神戸発東京行23等普通急行第16列車が該駅に0時18分着0時24分に出発後、線路切替工事に着手し、下り東京発下関行23等普通急行第5列車が該駅到着4時6分を以って新高架線、及び、新駅使用第1号列車となった。<br /><br />因みに、現代であれば複線区間上下線新旧切替は別日時施工が一般的だが、該当時は、常磐線日暮里-南千住間、大阪駅周辺、神戸市中心部高架化、及び、城東線(現 大阪環状線)各高架線は同時施工を当然の如く実施されていた。<br /><br />中央本線は、開通当時より山側に設置されていたが、該高架化後は、山王付近に於いて東海道本線築堤下を通過し、海側を直進し該駅構内に進入する形態に改められた。<br /><br />該当時、中央本線、及び、関西本線には該駅を深夜帯通過列車は存在せず、故に、両線への切替工事で影響が発生した列車は存在しなかった。<br /><br />名古屋駅は高架化工事竣工後、仮駅舎に依り取扱を行っていたが、初代から通産4代目となる駅本屋設置工事は、鐵道省工務局建築課が設計担当、大倉土木(現 大倉組)が土木施工担当で、昭和9年(1934年)7月に着工し、昭和12年(1937年)10月に竣工した。<br />該新駅本屋は鉄骨鉄筋コンクリート地上5階地下1階建築で、1階部分を該駅本屋とし、2~5階部分は名古屋鐵道局が入居し、更に、該駅を東西自由通路が往還可能と云ふ、鐵道省直営駅として初構造様式だった。<br /><br /><br />名古屋駅付近高架化工事竣工に合せ、名古屋市は、昭和14年(1939年)5月1日に市制50周年を迎える事から、該記念行事として 名古屋汎太平洋平和博覧會(なごや ぱんたいへいよう へいわ はくらんかい)開催が決定され、現在の該市港区役所所在地会場に於いて、昭和12年(1937年)3月15日~同年5月31日に亘る期間、該会場に於いて開催され、該会場への観客輸送用臨時列車として、新製直後のキハ43000型電気式ディーゼル動車3両編成が活躍した。<br /><br /><br />昭和2年(1927年)7月31日16時頃、該線枇杷島駅構内に於いて、列車追突事故が発生した。<br /><br />即ち、当日15時頃より、愛知縣内中部地域は集中豪雨に依り、該線大府-大高間に於いて落雷を原因とする停電の為に自動信号機が消燈状態になり、次いで、該状態が、大高-稲澤間に拡大した。<br /><br />該状態の為に、下り貨物第69列車は、稲澤駅に11分延着状態で到着し、次列車たる、下り貨物第91列車は、枇杷島駅を7分延着状態で出発時に、後続の、18900型蒸気機関車牽引下り東京発下関行 特別急行第1列車 が高速状態で追突した。<br /><br />該事故に依り、第1列車牽引18900型蒸気機関車は脱線転覆し、該列車編成内 スニ47828半鋼製車輌は脱線、オニ27844木造製車輌は脱線半壊、スロネ28511木造製車輌は脱線し、旅客1名重傷、職員1名重傷後死亡の被害が発生した。<br /><br />第1列車は駅たる名古屋駅で牽引機関車が交換され、乗務員たる機関手、機関助手も乗務直後だったにも拘らず、真夏故に緊張感弛緩状態だったと推定される。<br /><br />スニ47828は、同年6月24日附で大阪汽車會社製造本社で製造直後だったが、鐵道省に於ける初の半鋼製車輌追突事故だったが、強度の強さを証明する事態となった。<br /><br /><br />鐵道省は、昭和初期に於ける構造的不況対策打開策の一環として、地方閑散線区に於けるキハニ5000型ガソリン動車導入に依る旅客数増加活性化が予想以上に効果的だった事から、ガソリン動車導入に依るフリーケントサーヴィスに本格的に参入が決定され、名古屋鐵道局名古屋運転事務所管内では、大垣-美濃赤坂-赤坂本町間に続き、武豊-大府-名古屋間、及び、岐阜-美濃太田-多治見間にキハ41000型ガソリン動車導入が決定された。<br /><br />此の為に、該区間内沿線に於いて、比較的大中集落人口が存在し乗降が見込めると判断された地に個々停留所が設置された。<br />即ち、該停留所共通項として、原則ホームだけで駅本屋は存在せず、従来の蒸気機関車牽引列車は通過とする無人駅で、乗車券類は着発駅指定として、発券は該ガソリン動車乗務車掌が車内補充券を発行し、集改札も当該列車乗務車掌が行うもので、該区間内に共和駅が設置された。<br /><br /><br />昭和13年(1938年)4月29日11時7分頃、名古屋-枇杷島間に於いて、日華事変(にっか じへん)(昭和12年(1937年)7月8日~昭和16年(1941年)12月8日)への出征将兵乗車の軍用列車歓送の為に、該線沿線に集結していた在郷軍人会、国防婦人会、及び、一般人に依る集団の一部が、該線路内に興奮状態で雪崩的で押出された際に、折から該地点を通過中のC5081蒸気機関車牽引下り貨物第563列車28両編成に次々と跳ね飛ばされ、死者10名、重軽傷者50名を出す惨事が発生した。<br />該貨物列車機関士は逮捕起訴され、初級審たる名古屋刑事地方裁判所に於ける公判で、該被告に依る非常制動作動認識地点が争点となり、結果として被告に罰金500円の判決が下ったが、該被告は該判決を不服とし、名古屋控訴院に控訴したが、2審では逆に被告責任が追認され、罰金1000円の判決が下った事から、該被告は判決に納得する訳にもならず、大審院に上告するも、結果的に該上告棄却となり、該判決が確定したが、刑事裁判に於いて、初級審より第2審判決が重くなると云う稀有判例である。<br />因みに、名古屋鐵道局は、該事故に於ける死亡者遺族に香典見舞金として金計7000円、重軽傷者に対し、負傷程度に依り慰謝料金計5670円を支払った。<br /><br /><br />航空機産業発達と共に、名古屋市を中核とした周辺中京地域には、昭和10年代に入り、群馬県太田市(中島飛行製作所)及び、東京府武蔵野市(中島飛行製作所)と共に、我が国に於ける航空機製造産業重要拠点地が形成され、三菱重工業、愛知時計、等々の企業が航空機製造の為に、続々と工場進出に至った。<br /><br /><br />他方、遊休地化した旧地上線跡地を活用し、名古屋鐵道西部線、及び、東部線連絡線設置の為に地下線建設が急務とされた。<br /><br />旧名岐鐵道押切町-新岐阜間、及び、愛知電気鐵道神宮前-豊橋間2社は、対等合併が決定し、名岐鐵道が存続会社として、昭和10年(1935年)8月1日附で名古屋鐵道Ⅱが成立し、旧名岐区間は西部線、旧愛電区間は東部線と命名された。<br />新会社最大目標は、神宮前-東枇杷島間連絡線を設置すべく、東海道本線高架化に依り遊休地と化していた該旧路盤跡を鐵道省から払下を受け、接続線を建設すると言ふもので、該工事に着工した途中、日華事変(にっか じへん)(昭和12年(1937年)7月7日~昭和16年(1941年)12月8日)勃発に伴い、昭和13年(1938年)4月1日附で国家総動員体法が施行され、該工事に必要な鋼材コンクリート等々が政府の統制下とされ入手困難な状況となったが、中京地区に当時台頭していた航空機製造産業の勃興と共に、工員輸送上、絶対必要と判断された事から工事は継続され、工事遅延を克服し、昭和16年(1941年)8月12日附で東枇杷島-新名古屋間が開通し、同日を以って、名古屋市電押切町-柳橋間乗入運転を廃止した。<br /><br />該社は引続き、新名古屋-神宮前間延長工事に着手し、途中、昭和16年(1941年)12月8日に大東亜戦争が勃発したが、工員輸送上、必要不可欠であるとして該工事は続行され、昭和19年(1944年)9月1日附で該区間神宮前-金山橋間、及び、山王-新名古屋(現 名鉄名古屋)間は複線、山王-新金山橋間が単線で、次いで、同年12月15日山王-金山橋間が複線で開通したが、堀川橋梁、及び、中川運河橋梁は中央本線が使用していた旧橋梁を転使用した。<br />当時は、東部線が直流1500V、西部線が直流600Vだった事から、複電圧設備を有する一部車輌以外は直通運転は不可能で、此の為に、神宮前駅構内に死電接続点が設置された。<br />名古屋鐵道は新名古屋-神宮前間連絡線建設工事が竣工し中央本線古渡(ふるわたり)信号所付近に金山橋(かなやまばし)駅を開設させた。<br /><br /><br />昭和17年(1942年)11月15日時刻改正は、関門隧道旅客営業開始に伴ふ全国規模に依る白紙改正されたもので、該時刻改正に依り、鐵道省は従来使用されていた12時間制度から24時間制に変更使用させた。<br /><br />因みに、該時刻改正に依る24時間制採用に対し、大多数の成年男子は満20歳に達すると、当時の徴兵制度に拠り、現役将兵として2年間の兵役義務が課せられており、陸海軍共に24時間制を採用していた事から、別段不便は感じられなかったが、12時間制に慣れ親んだ婦女子にとっては困惑の限りであり、思考切替は大変だったと伝えられている。<br />内務省、及び、現在の法務省に相当する司法省は24時間制採用を見送った為に、警察、及び、法務省は、現在でも公文書共々12時間制を採用している。<br /><br />更に、該時刻改正と同時に旅客規則が改正され、従来に於ける優等列車は、特別急行列車、及び、普通急行列車の2種類だったが、該時刻改正を機に、前者を第1種急行列車、後者を第2種急行列車として区分変更した。<br />即ち、当時の特別急行列車に於ける2等、及び、3等座席車は、当該列車号車指定の定員制度に依り立席乗車は一切認めていなかったが、該規定改正で号車指定定員制度が撤廃され、旅行証明書持参者は当該列車急行券が無制限で購入可能になった。<br />それ故、当該列車2、3等座席車は、朝鮮、大陸連絡客、若しくは、九州、沖縄、台湾連絡客で通路デッキに至るまで溢れんばかりの超満員状態が現出する事態となった。<br /><br />熱田駅は、現在でこそ優等列車はおろか、快速列車ですら通過する中間駅だが、該時刻改正時、該駅停車優等列車として、旧特別急行 櫻 号の伝統を継ぐ、東京-鹿児島間第1種急行第3、4列車が1、2等寝台車、及び、洋食堂車連結2、3等座席車連結、東京-博多間第1種急行第5、6列車が2等寝台車、及び、食堂車連結2、3等座席列車が堂々停車していた。<br /><br />即ち、該駅は該地に所在する熱田神宮最寄駅であり、戦前は、大臣、大使、陸海軍将官、等々の親任官就任ともなれば、熱田神宮、伊勢神宮外宮内宮御礼参拝は当然とされ、皇族、及び、政府高官参拝の為の停車理由ではあったが、他方、当時の我が国に於ける航空機製造産業に於ける基幹が、該駅周辺に存在した事も見逃せない事実である。<br /><br />大東亜戦争末期たる、昭和20年(1945年)7月1日時刻改正では、我が国に於ける急行列車は東京-下関間第1、2列車1往復だけになってしまたが、然し、該駅にも律儀に停車していた。<br /><br />因みに、該列車は客車17両編成で構成され、牽引機関車を含め18両編成と言う東海道本線旅客列車史上最連結車輌列車だった。<br />該列車は寝台車全廃後も、皇族、政府高官、枢軸国中立国駐日在外交官等々要人輸送用として、本来はローカル幹線で使用されていたマロネロ37型半室2等寝台半室2等座席車が1両連結された。然し、運転時間は、東京8時30分発、下関翌9時00分着で、運転速度は急行列車を称しながら、実態は明治末期頃の状況まで低下していた。<br /><br />因みに、平成30年(2018年)2月1日現在、東京駅5時発山手線外廻電車に乗車し、途中、東海道本線、及び、山陽本線普通列車を乗継ぎ、品川、小田原、熱海、浜松、豊橋、大垣、米原、草津、相生、糸崎、西条、岩国で乗換え、下関に23時50分に到着するが、新快速列車も利用可能とは申せ、全区間料金不要で乗車可能である。<br /><br />現在と比較し、途中、米航空母艦艦載機に依る機銃掃射の不意打攻撃恐怖に脅えての旅は、正に命懸け道中だった。<br /><br />因みに、マロネロ37型とは、全車寝台利用が見込めぬ地方亜幹線等々に於いて使用目的とする為に、マロネロ37600型として半室寝台半室座席車輌として設計され、昭和11年(1936年)から昭和14年(1939年)にかけて、日本車輌製造本店、川崎車輌(現 川崎重工業)、及び、鐵道省大宮工場に於いて計35両が製造された。<br />車内構造は、半室に2等2段寝台6床、2等2人用転換式座席16脚が設置され、大東亜戦争勃発時に於ける東京発着列車では、鳥羽行夜行普通列車にのみ連結されていた。<br />昭和16年(1941年)10月1日附車輌称号規定改正に拠りマロネロ37型に変更され、更に、大東亜戦争末期に2等寝台廃止に伴う余剰車輌の対象車輌19両が3等座席車マハ47型に改造された。<br />未改造車はマロネロ3712 1両が濱松工機部構内で戦災に遭遇するも、残存車は進駐軍接収の対象となったが、講和条約発効後は全車輌返還された。<br />最後は、札幌-稚内間 急行利尻号に連結されたが、非冷房を理由に昭和41年(1966年)までに全車廃車された。<br /><br /><br />赤帽(あかぼう)と言っても、現在では存在をも知る者も少なくなったが、鉄道構内に於ける絶滅した営業商行為である。<br />即ち、赤帽とは駅構内間移動時に有価に依り、荷物を運搬する赤い帽子を着用した者である。<br /><br />該区間に於ける赤帽配置駅は、大正14年(1925年)4月1日時点に於いて、名古屋、尾張一ノ宮(現 尾張一宮)2駅にのみ存在したが、昭和9年(1934年)12月1日時点で、熱田にも常駐した。<br /><br />旅客荷物に対する当該駅構内に於ける運搬料金は、1個に対し5銭、青函航路利用者に対する青森-連絡船-函館間移送で1個20銭と決められていた。<br />然し、大東亜戦争逼迫時たる昭和19年(1944年)12月1日時点では、一般人は勿論、退役老人から、旧制中学校生徒、旧制女学校生徒と云えども勤労動員を必要とした時代に、余剰国民など存在する訳も無く、同年4月1日を以って、該線では、東京、横濱、名古屋、京都、大阪、神戸を除き、不急不要と判断され廃止され、利用資格も傷痍軍人に限定され、例え大臣、陸海軍将官と云えども利用は不可能になった。<br /><br /><br />大東亜戦争中、該区間に於ける空襲被害は、<br />昭和19年(1944年)<br />12月18日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 B29戦略爆撃機計63機<br /> 警戒警報発令 12時19分<br /> 空襲警報発令 12時35分<br /> 空襲開始   13時00分<br /> 空襲警報解除 15時05分<br /> 警戒警報解除 15時15分<br />爆弾6t 焼夷弾149t<br />主要攻撃目標 三菱重工業名古屋航空機製作所<br />笠寺-熱田間 <br />  線路築堤破壊 山崎川橋梁東京方100m地点 2箇所50m<br />小田原発大垣行普通第705列車 笠寺12時36分 熱田12時44分<br /> 開通<br />  下り線16時30分<br />  上り線20時30分<br /><br />昭和20年(1945年)<br />  1月 3日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 B29戦略爆撃機計57機<br /> 警戒警報発令 13時40分<br /> 空襲警報発令 14時23分<br /> 空襲開始   14時46分<br /> 空襲警報解除 15時50分<br /> 警戒警報解除 15時55分<br />八幡信号所構内施設<br />  焼夷弾至近弾爆発に依る不動産施設壁焦痕多数。<br /><br />  1月 7日 <br /> 警戒警報発令  0時18分<br /> 空襲警報発令  0時20分<br /> 空襲開始    0時50分<br /> 空襲警報解除  1時20分<br /> 警戒警報解除  2時40分<br />熱田駅構内<br />  手小荷物取扱所 第3番ホーム上屋 第6番ホーム上屋<br /> 広島発東京行 普通第  6列車 名古屋0時04分 熱田0時12分<br /><br />  2月15日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 第313航空隊 B29戦略爆撃機計33機<br /> 警戒警報発令 13時30分<br /> 空襲警報発令 13時43分<br /> 空襲開始   14時02分<br /> 空襲警報解除 15時01分<br /> 警戒警報解除 15時35分<br />爆弾34t 焼夷弾75t<br />主要攻撃目標 三菱発動機製作所<br />笠寺駅構内<br />  駅本屋 助役派出所<br /> 東京発大垣行 普通第135列車 笠寺13時56分 熱田14時05分<br /><br />  3月12日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計285機<br /> 警戒警報発令 23時42分 <br /> 空襲警報発令  0時02分<br /> 空襲開始    1時20分<br /> 空襲警報解除  3時35分<br /> 警戒警報解除  3時41分<br />爆弾26t 焼夷弾793t<br />熱田-名古屋間<br />  沿線火災<br />  木造跨線人道橋焼失落下<br /> 広島発東京行 普通第  6列車 熱田0時12分<br />名古屋駅構内被災車輌<br />  オロ35 62(広ヒワ)小破<br /> 以上、名古屋区修復<br /><br />  3月19日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計291機<br /> 警戒警報発令  5時20分<br /> 空襲警報発令  5時21分<br /> 空襲開始    5時26分<br /> 空襲警報解除  8時35分<br /> 警戒警報解除 10時32分<br />爆弾94t 焼夷弾1842t<br />笠寺-名古屋間<br />  線路破壊4箇所100m <br />開通10時45分<br /> 名古屋駅構内<br />  駅本屋 鐵道局本庁舎<br />  熱田神宮奉安殿全焼 <br /> 門司発東京行 普通第  8列車 名古屋発2時34分 熱田発2時40分<br />名古屋駅構内被災車輌<br />  オハ35 465(大リウソ)全焼<br /> 以上、昭和22年(1947年)1月14日附戦災廃車<br /><br />5月14日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B爆撃機計477機<br /> 警戒警報発令 6時23分<br /> 空襲警報発令 7時50分<br /> 空襲開始   8時05分<br /> 空襲警報解除 9時25分<br /> 警戒警報解除 9時46分<br />爆弾6t 焼夷弾25t<br />清洲-五條川間<br />  枕木焼損50本<br /> 開通10時05分<br /> 枇杷島駅構内 貨物ホーム上屋<br /> 清洲駅構内 岐阜施設部倉庫<br />  貨車 枇杷島61両 清洲1両全焼<br />        名古屋城全焼<br /><br />  5月17日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B爆撃機計457機<br /> 警戒警報発令  0時17分<br /> 空襲警報発令  0時30分<br /> 空襲開始    2時10分<br /> 空襲警報解除  4時30分<br /> 警戒警報解除  4時40分<br />爆弾131t 焼夷弾3609t<br />大高-名古屋間<br />  線路破壊4箇所50m 枕木焼損49本<br />笠寺-熱田間 <br />  東京発大阪行普通第143列車14両編成中2両機銃掃射攻撃大破<br /> 笠寺駅構内<br />  駅本屋、及び、貨物ホーム全焼<br /> 熱田駅構内<br />  駅本屋 上下線ホーム上屋 手小荷物取扱所 貨物ホーム上屋 跨線橋<br />貨車 笠寺1両 熱田4両 名古屋7両全焼<br />   熱田駅職員1名死亡 笠寺駅職員2名 熱田駅職員2名重傷<br /> 広島発東京行 普通第  6列車 熱田発0時12分 大高発0時25分<br /> 開通15時30分<br />        熱田神宮境内施設全焼 <br />        名古屋鉄道本社全焼 愛知時計製作所建造物8割破壊<br /><br />  6月 9日 第21爆撃機軍団 第313航空隊 B29戦略爆撃機計42機<br /> 警戒警報発令  7時45分<br /> 空襲警報発令  8時24分<br /> 空襲開始    9時18分<br /> 空襲警報解除 10時00分<br /> 警戒警報解除 10時05分<br />爆弾278t 焼夷弾772t<br />熱田駅構内<br />  第2信号取扱所 継電室全焼<br />大垣発東京行 普通第712列車 熱田発8時47分<br />        愛知時計工場、愛知航空機工場<br /><br />  7月15日 <br /> 警戒警報発令 12時50分<br /> 空襲警報発令<br /> 空襲開始<br /> 空襲警報解除<br /> 警戒警報解除 13時40分<br />枇杷島駅構内 清洲駅構内<br />  駅本屋窓硝子 爆風損壊<br /><br />  7月29日 第20航空軍 第314航空隊 B29戦略爆撃機計122機<br /> 警戒警報発令  0時00分<br /> 空襲警報発令  0時10分<br /> 空襲開始    0時15分<br /> 空襲警報解除  1時00分<br /> 警戒警報解除  1時30分<br />爆弾38t 焼夷弾659t<br />稲澤-尾張一ノ宮(現 尾張一宮)間<br /> 線路破壊8箇所 120m 枕木焼損30本<br />開通12時52分<br />尾張一ノ宮駅構内<br /> 駅本屋 東部信号取扱所 東西貨物取扱所ホーム上屋<br /> 踏切警手詰所 職員官舎3棟 全焼<br /><br />  8月 1日<br /> 警戒警報発令  0時00分<br /> 空襲警報発令  0時15分<br /> 空襲開始    0時30分<br /> 空襲警報解除  0時45分<br /> 警戒警報解除  1時00分<br />稲澤駅構内<br />通信掛詰所 倉庫1棟<br />上り線貨物本線1箇所100m屈曲<br />開通3日15時<br /> 蒸気機関車6両 貨車28両全焼<br /><br /> 8月 2日<br /> 警戒警報発令  0時00分<br /> 空襲警報発令  0時15分<br /> 空襲開始    0時30分<br /> 空襲警報解除  1時00分<br /> 警戒警報解除  1時15分<br />稲澤駅構内<br /> 第1信号扱所 中継貨物掛詰所 ホーム上屋<br />上り貨物本線 下り貨物直通線 下り出発通路線 <br />  線路破壊11箇所474m 枕木焼損350本<br />開通18時<br /><br />該戦争末期ともなると、全国的に施設保持困難とする状態不良に依る損耗が顕著となり、殊に、昭和20年(1945年)3月以降の山陽本線神戸-門司間に於いて毎日の如く大脱線事故が頻発し、該月以降、東京-門司間全区間開通状態が珍しいとすら称される状態だった。<br />それでも、旅客列車は貨物列車に対し優先的に運転された事もあり、山陽本線以遠発列車は、同年4月以降は概ね1時間以内の遅延で運転された。<br /><br /><br />現在の名駅通は、旧東海道本線地上区間跡地を転用したとの記述をする文献を多数散見するが、上下線合せても計8m未満故に、現状の如き旧該線転用は理論上不可能である。<br />然も、該旧地上線敷地跡は、名古屋鐵道Ⅱが昭和19年(1944年)9月1日附で開通した神宮前-新名古屋(現 名鉄名古屋)間設置工事の際に転用済である。<br /><br />名古屋市は、運輸通信省、商工省、愛知県や陸海軍省の協力の下、該地に金山総合駅設置を決定し、付近を走る東海道本線、及び、中央本線にホームを設置用地を収得すべく昭和20年(1945年)2月に開削工事に着手した。<br />当時、名古屋市は昭和19年(1944年)12月13日に初空襲を受けて以来、該時点に於いて度重なる空爆被害を蒙っていたが、戦時下故に壮年工事作業員など存在しようも無く、已む無く、旧制中学校生徒、旧制女学校生徒、旧制高等学校生徒を勤労奉仕隊と称して活用せざるを得なかった。<br /><br />該計画では、<br />1)中央本線古渡信号所を該地に移転させ島式ホーム1面2線設置。 <br />2)名古屋鉄道名古屋本線金山橋駅を該地に移設させ島式ホーム2面4線設置。<br />3)東海道本線ホーム2面4線設置。<br />とするもので、東海道本線上り線を山側に移設しホーム用土盛が準備段階で終戦を迎え該工事は緊急性を喪失したものとして中止された。<br /><br />名古屋市は、名古屋市戦災復興計画に基き、昭和22年(1947年)3月に金山総合駅計画を立案した。<br /><br />大東亜戦争終結当時の名古屋市長は、第14代 佐藤正俊(さとう まさとし)(明治19年(1886年)9月18日~昭和37年(1962年)5月31日)(昭和17年(1942年)2月21日~昭和21年(1946年)11月1日在任)だった。<br /><br />佐藤は、内務官僚出身で、且つ、官選市長最後の人物である。<br /><br />佐藤は、再三に亘る空襲被災で焼野原と化した名古屋市再生復興は現時点しか無いと判断し、此の為に、内務省土木局出身技師 田淵寿郎(たぶち じゅうろう)(明治23年(1890年)3月3日~昭和49年(1974年)7月10日)に該市復興の切札として三顧の礼を以って招聘し、田淵は該依頼を受諾し同年10月に該市技術監職に大抜擢され就任した。<br />田淵は、嘗て、内務省の大先輩で田淵も薫陶を受けた 後藤新平(ごとう しんぺい)(安政4年(1857年)7月24日~昭和4年(1929年)4月13日)が、関東大震災復興時に於ける当時の東京市、及び、横濱市に防火帯を兼ねた広幅道路設置に依る遺訓を実現化させるべく、該市中心部に縦横に100m道路設置を立案実現した1通りが現名駅通であり、俗説が事実の如く罷り通るのは事実無根も甚だしいと云うべきである。<br /><br />我々が研究目的で閲覧する公刊市町村史は、正直な処、玉石混交の感が強く、某市史など、よくぞ具体的資料を精査し記述した内容に感嘆されるのに対し、逆に某市史は、よくぞ此処まで信しやかに嘘を書き並べた内容に驚愕し、侮蔑感すら抱く内容のものとが存在するが、名古屋市史は典型的前者の内容で、全体的に謙虚で具体的な内容が記述されており好感を抱く。<br /><br />反対に、全国的に見て最悪市町村誌史とも云ふべき存在が東京八王子市史である。<br />内容は資料の価値観是非すら判断出来ぬド素人が書いたのではと呆れ、市誌評論家と称する市井者推薦と仄聞する噴飯出版内容の典型である。<br /><br /><br />東海道本線電化工事は、昭和24年(1949年)5月20日に浜松まで電化が達成されたが、我が国の膨大なインフレ状態を打破すべく、米国の経済学者 ジョセフ・マレル・ドッジ(Joseph Marrell DODGE)(1890年(明治23年)11月18日~昭和39年(1964年)12月2日)の提言に依り、金融引締政策ドッジライン(DODGELINE)施行の影響で新規事業開始は困難になり、浜松以西の電化工事早期着工は無期延期状態となった。<br /><br />浜松以西が電化されたのは昭和28年(1953年)7月21日に浜松-名古屋間が延伸され、該区間に初めて EH10型直流式貨物用電気機関車が入線した。<br />次いで、同年11月11日に名古屋-稲沢操車場間が電化区間延伸となったが、該電化区間入線は貨物用電気機関車に限定され、電車は飯田線電車が修繕担当の名古屋工場に全般検査時に回送入線するだけで、一般人には未だ程遠い存在だった。<br /><br />稲沢-米原間電化開業は、正式には 昭和30年(1955年)7月20日だが、稲沢-大垣間電化工事は同年6月20日に竣工し、引続き、EF15型、および、EH10型電気機関車に依る試運転が開始され、同年7月2日には大垣駅まで80型電車が初入線した。<br /><br /><br />昭和34年(1959年)9月21日に、中部地方に襲来した大東亜戦争後、最大規模台風とされる 台風15号(伊勢湾台風)は、中部平野海岸部に甚大被害を発生させたが、該線は大高-熱田間に於いて、天白川護岸流失、新堀川護岸決壊の重大被害が発生した。<br />一部開通は同月28日0時10分だったが、送電関係が完全復旧とはなっておらず、それまで架線への送電が不可能だった事から、豊橋-名古屋-大垣間運転は蒸気機関車が大活躍した。<br />電気運転復旧は同月28日で、岡崎-岐阜間が3時6分、岐阜-大垣間は10時47分だった。<br /><br /><br />前述した金山総合駅計画は、昭和37年(1962年)1月25日に中央本線千種-名古屋間に存在した古渡信号所が移転して、該地にホーム1面2線が設置されたのを皮切りに、名古屋市は日本国有鉄道の依頼に拠り、東海道本線ホーム設置用用地として、昭和45年(1970年)に金山台地上に於ける土地買収に着手した。<br /><br />然るに、該地一帯は、大東亜戦争末期に於ける数次の空襲で焼野が原となり、所謂、一家全滅不在者地主ばかりだった所に、終戦直後のドサクサで居ついた在日系不法占拠が、法規上に於ける占有権取得年数たる20年間を経過した直後だった事から、民法第162条上に於ける不法占拠者が正当土地所有者と化す厄介な事態となった。<br /><br />更に、此れら土地新所有者が該市に対し不法とも言える法外な金額を提示し譲らなかった事から、日本国有鉄道は、ホーム2面4線計画を放棄し、改めて、ホーム1面2線での計画見直しを迫られた。<br /><br />戦災復興計画案は、昭和22年(1947年)3月に上程されたが、然し、該工事着工に至るまで更に時間を要した。<br />結局、該線上に新駅開設は、平成元年(1989年)7月9日であるが、戦時下に於ける工事開始期日をも加算すると、実に44年間もの歳月を必要とした。<br /><br /><br />日本国有鉄道は名古屋地区に於ける該線客貨線分離を策定し、該計画案に基き、大府-名古屋間複々線化計画が決定した。<br /><br />即ち、該区間中、大府-笠寺間は既成線腹付様式とし、笠寺-名古屋間は東海道新幹線並列様式とする内容で、該工事は昭和40年(1965年)に着工し、概ね土木工事が完成し、昭和53年(1978年)4月に大高駅が高架線上に移転した段階で、当時の日本国有鉄道を巡る財政悪化が原因で該工事は凍結中断の已む無きに至った。<br />然るに、該複々線工事凍結に至る間、我が国於ける貨物輸送は劇的変化が生じ、即ち、名神、及び、東名両高速自動車道全線開通に依りトラック輸送が躍進し、鉄道貨物に陰りを見せ掛けていた時期である。<br />その後、昭和62年(1987年)4月1日の日本国有鉄道民営分割に依り、該工事凍結区間は日本国有鉄道清算事業団に継承され、該事業団は東海旅客鉄道に対し該施設買収を提示して来た。<br />該社にとって、大府-笠寺間施設編入に異存は無かった。<br />然し、笠寺-名古屋間に対しては、名古屋地区副都心として位置付けられた金山を通過せず、迂回経路に対し異議を有していた。<br />最終的に東海旅客鉄道は大府-名古屋間複々線未完成施設買収を断念し、該区間複々線計画は画餅に帰した。<br />昨今では、架橋済高架橋梁撤去作業も開始されている。<br /><br /><br />昭和57年(1982年)3月15日深夜、名古屋駅構内で大事故が発生する。<br /><br />即ち、当時、東京-紀伊勝浦間を運転していた寝台特急 紀伊 号が、該駅まで併結していた寝台特急いなば号から切離され、関西本線で該列車を牽引するディーゼル機関車が来ない事に不審を抱いた該列車乗務車掌が該駅助役に指摘し、名古屋第1運転所に連絡した処、当該機関士は乗務すべき機関車に居らず休憩室で仮眠を継続していた為に、直ちに起床させ該機関車に乗務させ該駅に向かわせた。<br />数分後、該機関車が該駅に姿を見せたが、減速せず該列車編成に激突した。<br />原因は該機関士の過度の飲酒で事故当時、酩酊状態だった。<br />事件当時、日本国有鉄道に於ける環境は、当局に於ける生産性向上運動が、労働組合たる動労、及び、国労から否定され、更に裁判で当局が敗訴した事が原因で、職場の規律は乱脈放題状態だった。<br /><br />該事故で衝突されたスハネフ14102寝台車は車体が「く」の字状に屈折し廃車となったが、死者が出なかった事は不幸中の幸いだったとは言え、当時の日本国有鉄道現場の風紀が乱脈を極めていた事実が物語る。<br /><br /><br />平成12年(2000年)9月11日より翌12日にかけて、愛知県、及び、岐阜県南部地方は記録的集中豪雨が降った。<br />名古屋地方気象台に於ける総雨量は600mmを越え、該地方気象台に於ける観測史上最大数値とされた。<br /><br />新川は庄内川の避逸河川として江戸中期に尾張徳川家に依り開削された人工川である。<br /><br />然るに、該降雨量に依り新川堤防が決壊し、濁流が住宅地に流れ込み、西枇杷島町を中心に計18000戸に住宅浸水被害が発生した事から、該線築堤外は湖水状態となった。<br />該豪雨は、後に、 東海豪雨と命名され、更に、該豪雨を教訓として、平成18年(2006年)1月1日附で、特定都市河川保水被害対策法が制定された。<br /><br /><br />豊橋-名古屋-岐阜間旅客輸送は、戦前から一貫して名古屋鉄道優位が揺ぎ無かったが、昭和62年(1987年)4月1日附で日本国有鉄道が民営分割されたが、該地域は東海旅客鉄道成立以降、該社に依る乗客奪還巻返し作戦が功を成し、現在では完全に運賃時間共に該社優位の状況である。<br /><br /><br /><br /><br />表紙写真は、<br />明治19年(1886年)4月1日開通時の初代堀川橋梁矩形断面橋脚(現在は名古屋鉄道名古屋本線下り橋梁<br /><br /><br /><br /><br /><br />東海道本線歴史的痕跡探訪記<br />~東京-濱松町間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10701644<br />~東京驛編~<br /><br />~汐留-濱松町-品川間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10797199<br 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東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~大府-名古屋-尾張一宮間編 明治頌歌~

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2017/02/13 - 2017/02/15

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横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

該区間は、武豊港-岐阜間中仙道建設連絡線設置の一環として、明治19年(1886年)3月1日から同年5月1日にかけて開通した。


初代名古屋駅は、当時の名古屋区長 吉田禄在(よしだ ろくざい)(天保9年(1839年)10月29日~大正5年(1916年)3月5日)の進言推挙に依り、現在の名鉄グランドホテル、近鉄パッセ、名鉄百貨店本店所在地に設置されたが、該地は元来、笹島の字名の通り、葦草や初夏には卯の花咲く笹繁れし沼沢湿地であり、その状態のままでの停車場設置工事施工は、鉄道車輌たる重量物通過時に於ける自然沈下の可能性指摘から早期完成は困難と判断され、此の為に金山台地を開削し、該捻出余土を以って地固をさせた。

熱田Ⅰ-清洲Ⅰ間延長工事は同年4月1日に竣工開通したが、名古屋駅設置工事は慎重を期した為に更に1箇月遅延し、翌5月1日に一ノ宮(現 尾張一宮)延長時に開業した。
恐らく、該駅設置に対し、意外にも排水、及び、地固に時間を要し、4月1日に於ける同時開業が困難と判定された事が原因と推定される。
然し、地盤が悪い事夥しく、該駅開業後も駅前には大池が残存した為に、夏季ともなると該駅利用者は薮蚊の大群に歓迎され、然も、新築後数年後に発生した濃尾大震災で、駅本屋他構内施設は悉く全壊する。


鐵道作業局は、名護屋(現 名古屋)までの開通前に、機関庫設置を、現在の金山駅所在地付近を予定していた。
即ち、当初計画に於いて、元来、金山台地箇所を削取を施工し土地を容易に入手したが、該地は台地内で、周囲が崖で囲まれた土地故に狭隘を理由に将来に於ける拡張困難と判断された事から、該地への機関庫設置計画を放棄し、初代清洲驛延長時たる明治19年(1886年)4月に初代名護屋驛構内に設置開設された。
初代名護屋驛は、翌明治20年(1887年)4月25日附で名古屋に名称変更される。


明治24年(1891年)10月28日6時38分頃発生した濃尾大震災(のうび だいしんさい)は、我が国近現代に於ける陸部直下型地震として最大規模のものとされ、該線沿線熱田から大垣にかけて最大震度6~7を記録した。
事実、余りの大震度故に、125年経過した現在でも該地震余震が発生している。

中部地域に於いて、耐震構造皆無たる木造建築物が次々と崩壊し、全壊44203戸、半壊21378戸、崖崩10224箇所、死者行方不明者7273名、重軽傷者17175名の被害が発生した。

該地震発生と同時に激震発生が原因で、名古屋、木曾川、岐阜、及び、大垣各駅本屋が全壊、一ノ宮(現 尾張一宮)駅本屋は半壊状態となった。

該地震発生当時、コンクリート建築建物は出現以前だったが、既に、煉瓦建築建物は存在した。

明治21年(1888年)に竣工した 名古屋郵便電信局本館庁舎は、名古屋に於ける該当時としては最新洋風建築物だったが、地震発生と同時に2階部分が崩壊し、当直局員4名が倒壊煉瓦の下敷になり圧死した事から、煉瓦建築は地震に対し脆弱きなりとの認識、且つ、風説が拡散した。

然し、該地震発生当時に、我が国に耐震設計なる概念自体が存在すら無く、該地震被害状況から内務省が工部大学校(現 東京大学工学部)教授 辰野金吾(たつの きんご)(嘉永7年(1854)10月13日~大正8年(1919年)3月25日)を座長に据え、震災予防調査会を結成させ、該会が明治30年(1897年)に発表した震害防止策として、煉瓦建築物に対し煉瓦内部に鉄骨組込とする見解を発表した。
即ち、木造建築物に対し、
1)土台構築
2)土台、柱、小屋鉄材緊結
3)柱、梁、桁対ボルト締
の施工が効果的とされた。

因みに、該震災対策教訓を反映させた東京駅本屋は、煉瓦建築ながら鉄骨組込構築だった事から関東大震災発生時に損傷は発生していない。
また、木造建築物に対する耐震施工は、現在に於ける木造耐震設計施工技術と何等大差無い当時としては斬新大胆な内容だった。

復旧は、
岡崎-名古屋Ⅰ間   明治24年(1888年)11月 5日
名古屋Ⅰ-木曾川間              12月20日
である。

また、我が国政府は、該大震災被災者に対する救援物資送致に対し、被災地在駅宛荷物運賃は無料、該被災地個人宛荷物運賃は半額とする事に決定させた。
今日に於ける被災地救援物資運賃無料制度の嚆矢である。

因みに、駅本屋復旧時たる明治25年(1889年)に名古屋駅が現位置に移転したとの記述をする複数文献を散見するが、該事実は無く、故に該文献全部 事実無根である。


名古屋-湊町間を基幹線とする関西(かんせい)鐵道は、明治28年(1895年)5月24日に初代名古屋駅に乗入れたが、該当時に於ける該駅ホームは1面しか存在せず、当然の事ながら列車使用に対する困難が表面化し、該社は、翌明治29年(1896年)7月6日附で、現在の中村区向野に愛知駅を開設した。

後に、鐵道國有法に基き、明治40年(1907年)10月1日附で政府に買収され関西(かんせい)本線と命名されたが、然し、名古屋の地に官設鉄道中心駅が2箇所に分散された現状は望ましい事などでは無く、東海道本線名古屋駅に集約させるべく関西本線愛知駅は廃止が決定し明治43年(1910年)に使用中止となった旧愛知駅構内に該機関庫移転が決定した事から、旧愛知駅本屋を同時期に建設途中の高山本線接続の関係で移転を決定した岐阜駅本屋として再用させる事に決定し、大正元年(1912年)10月に旧愛知駅本屋は解体移築された。


逓信省鐵道作業局は、列車運行に於ける保安力向上の為に、主要単線区間に対し、通票閉塞式導入促進化を決定し、明治38年(1905年)7月20日より使用開始したが、
刈谷-大府間 通票2号□
大府-大高間   1号○
大高-熱田間   2号□
であり、該当区間複線化まで使用された。

該区間複線化は、
大府-大高間   明治40年(1907年) 6月13日
大高-熱田間                9月26日
熱田-名古屋間  明治32年(1899年) 7月13日
名古屋-枇杷島間 明治40年(1907年) 3月27日
枇杷島-清洲間               4月 8日
である。

因みに、熱田-名古屋間複線化時には、既に、当時の最新保安装置たる双信閉塞式が開発されていたにも拘らず、何故か旧式のブロック閉塞式が導入された。

その大高-熱田間単線時代末期、大高駅に於いて大事故が発生する。

明治40年(1907年)8月15日5時33分、該駅に於いて列車交換すべく、下り貨物第403列車は所定位置に停車したが、上り旅客第12列車は、該駅上り線に入線せず下り線側に入線した為に、停車の為に減速していたとは申せ、制動効果無く、下り貨物第403列車に正面衝突した。
該事故に依り、旅客17名、職員4名が重軽傷を負ったが、事故原因は、該駅駅手が転轍機を上り線側に転換させるべき処、暑さが原因に依る緊張感弛緩の為に、誤って下り線側に転換させたと云ふ単純極まるものだった。


鐵道唱歌
第32番
鳴海絞の産地なる
(なるみしぼりの さんちなる)
鳴海に近き大高を
(なるみに ちかき おおだかを)
下りて凡そ一里半
(くだりて およそ いちりはん)
行けば昔の桶狭間♪
(いけば むかしの おけはざま)
鳴海と云えば旧東海道筋にあたる宿場町で、1里半は約6km故に、本来は無関係の筈だが、ネタ切れなのか、それとも現地精査を怠ったか何れかであろうと推定される。
何れにせよ、沿線とは無関係な歌詞内容で牽強付会の感は免れぬ。

第33番
めぐみ熱田の御やしろは
(めぐみ あつたの おやしろは)
三種の神器を一つなる
(さんしゅのしんきを ひとつなる)
その草薙の神剣
(その くさなぎの かみつるぎ)
あふげや同胞四千萬♪
(あおげや どうほう しせんまん)
歌詞で流石に熱田神宮を無視する事は無かった。

第34番
名高き金の鯱は
(なだかき きんの しゃちほこは)
名古屋の城の光なり
(なごやの しろの ひかりなり)
地震のはなし未だ消えぬ
(じしんの はなし まだきえぬ)
岐阜の鵜飼も見てゆかん♪
(ぎふの うかいも みてゆかん)
前述、濃尾大震災から約10年後にも拘らず該震災被害が読み込まれているのは余程印象強かったからだが、それにしても、名古屋の次が清洲、一ノ宮を飛ばし岐阜とは如何なものか。


該線は、名古屋市内中心部を縦貫する為に、既に、明治末期頃から交通障害の原因とされ、更に、該線南側は町として発展を阻害されていた
更に、列車本数増加、及び、名古屋駅構内に於ける貨車入換作業の為に、該駅付近踏切は閉止状態拡大状態は、逆に、名古屋市をして発展疎外の感が免れず、不便極まる状態改善を求める声が起きるのは自然の成り行きと言えた。

内閣鐵道院は、中央本線東京-萬世橋間、及び、東北本線東京-秋葉原-上野間高架線設置を決定していたが、次期高架化候補として、山手線澁谷駅付近と共に、東海道本線名古屋駅付近が高架化対象候補として選定され、大正7年(1918年)に凡その骨子が決定した。

従来は、名古屋地域に於ける貨車組成は名古屋駅構内に於いて実施されていたが、貨車組成は増加の一途を辿っていたにも拘らず、該駅構内は拡張の余地無く既に飽和状態だった事から、鐵道省は貨車組成の為に操車場設置を決定し、最有力候補地として、大高、及び、稲澤が最終選出された。
大高が選定された場合、中央本線列車であれば、当時存在した熱田-古渡間連絡線が使用可能だったが、関西本線列車は機関車付替を要する事から、全列車がスルー運転可能として稲澤に決定し、該貨物操車場は、大正14年(1925年)1月16日に開業し、同時に、名古屋-稲澤間に貨物列車用単線が開通し該区間は3線化された。

他方、名古屋駅構内は、狭隘な敷地内に於いて客貨取扱を行い、然も、肝心の旅客取扱ホームが2面5線しか存在せず、該ホームを以って、東海道本線上下線、関西本線、及び、中央本線旅客列車発着を行使しなければならず、明治末期に既に飽和状態を露呈していた。

該工事は東京方から着手すべく、昭和4年(1929年)4月9日附で、熱田-名古屋間東京起点364.3km地点に露橋(つゆはし)仮信号所が設置され、列車進行に支障を生じさせ無き様に工事列車が運転された。

該駅を中心にして東京方高架化工事が竣工した事から、該仮信号所は昭和6年(1931年)3月27日附で廃止されたが、他方、同日附を以って、神戸方該高架化工事の為に、名古屋-枇杷島間東京起点368.2km地点に栄生(さこ)仮信号所が設置された。

次いで、昭和10年(1935年)11月に、関西本線の前身たる 関西(かんせい)鐵道起点 愛知驛跡地に存在した 名古屋機関庫、及び、名古屋駅構内に存在した客車区を、現位置たる、関西本線名古屋-八田間中間地たる中区向野に全面移転させ、該機関庫跡地を整備し、名古屋驛構内取扱貨物一切を該跡地に移転させた。
そして、旧客車区、及び、旧貨物取扱施設跡地を活用し、新駅本屋、及び、高架線設置工事が施工され、該高架線工事は、昭和12年(1937年)2月1日附で竣工し、該日より新高架線が使用開始され地上線は廃止された。

即ち、該日0時を期し、上り神戸発東京行23等普通急行第16列車が該駅に0時18分着0時24分に出発後、線路切替工事に着手し、下り東京発下関行23等普通急行第5列車が該駅到着4時6分を以って新高架線、及び、新駅使用第1号列車となった。

因みに、現代であれば複線区間上下線新旧切替は別日時施工が一般的だが、該当時は、常磐線日暮里-南千住間、大阪駅周辺、神戸市中心部高架化、及び、城東線(現 大阪環状線)各高架線は同時施工を当然の如く実施されていた。

中央本線は、開通当時より山側に設置されていたが、該高架化後は、山王付近に於いて東海道本線築堤下を通過し、海側を直進し該駅構内に進入する形態に改められた。

該当時、中央本線、及び、関西本線には該駅を深夜帯通過列車は存在せず、故に、両線への切替工事で影響が発生した列車は存在しなかった。

名古屋駅は高架化工事竣工後、仮駅舎に依り取扱を行っていたが、初代から通産4代目となる駅本屋設置工事は、鐵道省工務局建築課が設計担当、大倉土木(現 大倉組)が土木施工担当で、昭和9年(1934年)7月に着工し、昭和12年(1937年)10月に竣工した。
該新駅本屋は鉄骨鉄筋コンクリート地上5階地下1階建築で、1階部分を該駅本屋とし、2~5階部分は名古屋鐵道局が入居し、更に、該駅を東西自由通路が往還可能と云ふ、鐵道省直営駅として初構造様式だった。


名古屋駅付近高架化工事竣工に合せ、名古屋市は、昭和14年(1939年)5月1日に市制50周年を迎える事から、該記念行事として 名古屋汎太平洋平和博覧會(なごや ぱんたいへいよう へいわ はくらんかい)開催が決定され、現在の該市港区役所所在地会場に於いて、昭和12年(1937年)3月15日~同年5月31日に亘る期間、該会場に於いて開催され、該会場への観客輸送用臨時列車として、新製直後のキハ43000型電気式ディーゼル動車3両編成が活躍した。


昭和2年(1927年)7月31日16時頃、該線枇杷島駅構内に於いて、列車追突事故が発生した。

即ち、当日15時頃より、愛知縣内中部地域は集中豪雨に依り、該線大府-大高間に於いて落雷を原因とする停電の為に自動信号機が消燈状態になり、次いで、該状態が、大高-稲澤間に拡大した。

該状態の為に、下り貨物第69列車は、稲澤駅に11分延着状態で到着し、次列車たる、下り貨物第91列車は、枇杷島駅を7分延着状態で出発時に、後続の、18900型蒸気機関車牽引下り東京発下関行 特別急行第1列車 が高速状態で追突した。

該事故に依り、第1列車牽引18900型蒸気機関車は脱線転覆し、該列車編成内 スニ47828半鋼製車輌は脱線、オニ27844木造製車輌は脱線半壊、スロネ28511木造製車輌は脱線し、旅客1名重傷、職員1名重傷後死亡の被害が発生した。

第1列車は駅たる名古屋駅で牽引機関車が交換され、乗務員たる機関手、機関助手も乗務直後だったにも拘らず、真夏故に緊張感弛緩状態だったと推定される。

スニ47828は、同年6月24日附で大阪汽車會社製造本社で製造直後だったが、鐵道省に於ける初の半鋼製車輌追突事故だったが、強度の強さを証明する事態となった。


鐵道省は、昭和初期に於ける構造的不況対策打開策の一環として、地方閑散線区に於けるキハニ5000型ガソリン動車導入に依る旅客数増加活性化が予想以上に効果的だった事から、ガソリン動車導入に依るフリーケントサーヴィスに本格的に参入が決定され、名古屋鐵道局名古屋運転事務所管内では、大垣-美濃赤坂-赤坂本町間に続き、武豊-大府-名古屋間、及び、岐阜-美濃太田-多治見間にキハ41000型ガソリン動車導入が決定された。

此の為に、該区間内沿線に於いて、比較的大中集落人口が存在し乗降が見込めると判断された地に個々停留所が設置された。
即ち、該停留所共通項として、原則ホームだけで駅本屋は存在せず、従来の蒸気機関車牽引列車は通過とする無人駅で、乗車券類は着発駅指定として、発券は該ガソリン動車乗務車掌が車内補充券を発行し、集改札も当該列車乗務車掌が行うもので、該区間内に共和駅が設置された。


昭和13年(1938年)4月29日11時7分頃、名古屋-枇杷島間に於いて、日華事変(にっか じへん)(昭和12年(1937年)7月8日~昭和16年(1941年)12月8日)への出征将兵乗車の軍用列車歓送の為に、該線沿線に集結していた在郷軍人会、国防婦人会、及び、一般人に依る集団の一部が、該線路内に興奮状態で雪崩的で押出された際に、折から該地点を通過中のC5081蒸気機関車牽引下り貨物第563列車28両編成に次々と跳ね飛ばされ、死者10名、重軽傷者50名を出す惨事が発生した。
該貨物列車機関士は逮捕起訴され、初級審たる名古屋刑事地方裁判所に於ける公判で、該被告に依る非常制動作動認識地点が争点となり、結果として被告に罰金500円の判決が下ったが、該被告は該判決を不服とし、名古屋控訴院に控訴したが、2審では逆に被告責任が追認され、罰金1000円の判決が下った事から、該被告は判決に納得する訳にもならず、大審院に上告するも、結果的に該上告棄却となり、該判決が確定したが、刑事裁判に於いて、初級審より第2審判決が重くなると云う稀有判例である。
因みに、名古屋鐵道局は、該事故に於ける死亡者遺族に香典見舞金として金計7000円、重軽傷者に対し、負傷程度に依り慰謝料金計5670円を支払った。


航空機産業発達と共に、名古屋市を中核とした周辺中京地域には、昭和10年代に入り、群馬県太田市(中島飛行製作所)及び、東京府武蔵野市(中島飛行製作所)と共に、我が国に於ける航空機製造産業重要拠点地が形成され、三菱重工業、愛知時計、等々の企業が航空機製造の為に、続々と工場進出に至った。


他方、遊休地化した旧地上線跡地を活用し、名古屋鐵道西部線、及び、東部線連絡線設置の為に地下線建設が急務とされた。

旧名岐鐵道押切町-新岐阜間、及び、愛知電気鐵道神宮前-豊橋間2社は、対等合併が決定し、名岐鐵道が存続会社として、昭和10年(1935年)8月1日附で名古屋鐵道Ⅱが成立し、旧名岐区間は西部線、旧愛電区間は東部線と命名された。
新会社最大目標は、神宮前-東枇杷島間連絡線を設置すべく、東海道本線高架化に依り遊休地と化していた該旧路盤跡を鐵道省から払下を受け、接続線を建設すると言ふもので、該工事に着工した途中、日華事変(にっか じへん)(昭和12年(1937年)7月7日~昭和16年(1941年)12月8日)勃発に伴い、昭和13年(1938年)4月1日附で国家総動員体法が施行され、該工事に必要な鋼材コンクリート等々が政府の統制下とされ入手困難な状況となったが、中京地区に当時台頭していた航空機製造産業の勃興と共に、工員輸送上、絶対必要と判断された事から工事は継続され、工事遅延を克服し、昭和16年(1941年)8月12日附で東枇杷島-新名古屋間が開通し、同日を以って、名古屋市電押切町-柳橋間乗入運転を廃止した。

該社は引続き、新名古屋-神宮前間延長工事に着手し、途中、昭和16年(1941年)12月8日に大東亜戦争が勃発したが、工員輸送上、必要不可欠であるとして該工事は続行され、昭和19年(1944年)9月1日附で該区間神宮前-金山橋間、及び、山王-新名古屋(現 名鉄名古屋)間は複線、山王-新金山橋間が単線で、次いで、同年12月15日山王-金山橋間が複線で開通したが、堀川橋梁、及び、中川運河橋梁は中央本線が使用していた旧橋梁を転使用した。
当時は、東部線が直流1500V、西部線が直流600Vだった事から、複電圧設備を有する一部車輌以外は直通運転は不可能で、此の為に、神宮前駅構内に死電接続点が設置された。
名古屋鐵道は新名古屋-神宮前間連絡線建設工事が竣工し中央本線古渡(ふるわたり)信号所付近に金山橋(かなやまばし)駅を開設させた。


昭和17年(1942年)11月15日時刻改正は、関門隧道旅客営業開始に伴ふ全国規模に依る白紙改正されたもので、該時刻改正に依り、鐵道省は従来使用されていた12時間制度から24時間制に変更使用させた。

因みに、該時刻改正に依る24時間制採用に対し、大多数の成年男子は満20歳に達すると、当時の徴兵制度に拠り、現役将兵として2年間の兵役義務が課せられており、陸海軍共に24時間制を採用していた事から、別段不便は感じられなかったが、12時間制に慣れ親んだ婦女子にとっては困惑の限りであり、思考切替は大変だったと伝えられている。
内務省、及び、現在の法務省に相当する司法省は24時間制採用を見送った為に、警察、及び、法務省は、現在でも公文書共々12時間制を採用している。

更に、該時刻改正と同時に旅客規則が改正され、従来に於ける優等列車は、特別急行列車、及び、普通急行列車の2種類だったが、該時刻改正を機に、前者を第1種急行列車、後者を第2種急行列車として区分変更した。
即ち、当時の特別急行列車に於ける2等、及び、3等座席車は、当該列車号車指定の定員制度に依り立席乗車は一切認めていなかったが、該規定改正で号車指定定員制度が撤廃され、旅行証明書持参者は当該列車急行券が無制限で購入可能になった。
それ故、当該列車2、3等座席車は、朝鮮、大陸連絡客、若しくは、九州、沖縄、台湾連絡客で通路デッキに至るまで溢れんばかりの超満員状態が現出する事態となった。

熱田駅は、現在でこそ優等列車はおろか、快速列車ですら通過する中間駅だが、該時刻改正時、該駅停車優等列車として、旧特別急行 櫻 号の伝統を継ぐ、東京-鹿児島間第1種急行第3、4列車が1、2等寝台車、及び、洋食堂車連結2、3等座席車連結、東京-博多間第1種急行第5、6列車が2等寝台車、及び、食堂車連結2、3等座席列車が堂々停車していた。

即ち、該駅は該地に所在する熱田神宮最寄駅であり、戦前は、大臣、大使、陸海軍将官、等々の親任官就任ともなれば、熱田神宮、伊勢神宮外宮内宮御礼参拝は当然とされ、皇族、及び、政府高官参拝の為の停車理由ではあったが、他方、当時の我が国に於ける航空機製造産業に於ける基幹が、該駅周辺に存在した事も見逃せない事実である。

大東亜戦争末期たる、昭和20年(1945年)7月1日時刻改正では、我が国に於ける急行列車は東京-下関間第1、2列車1往復だけになってしまたが、然し、該駅にも律儀に停車していた。

因みに、該列車は客車17両編成で構成され、牽引機関車を含め18両編成と言う東海道本線旅客列車史上最連結車輌列車だった。
該列車は寝台車全廃後も、皇族、政府高官、枢軸国中立国駐日在外交官等々要人輸送用として、本来はローカル幹線で使用されていたマロネロ37型半室2等寝台半室2等座席車が1両連結された。然し、運転時間は、東京8時30分発、下関翌9時00分着で、運転速度は急行列車を称しながら、実態は明治末期頃の状況まで低下していた。

因みに、平成30年(2018年)2月1日現在、東京駅5時発山手線外廻電車に乗車し、途中、東海道本線、及び、山陽本線普通列車を乗継ぎ、品川、小田原、熱海、浜松、豊橋、大垣、米原、草津、相生、糸崎、西条、岩国で乗換え、下関に23時50分に到着するが、新快速列車も利用可能とは申せ、全区間料金不要で乗車可能である。

現在と比較し、途中、米航空母艦艦載機に依る機銃掃射の不意打攻撃恐怖に脅えての旅は、正に命懸け道中だった。

因みに、マロネロ37型とは、全車寝台利用が見込めぬ地方亜幹線等々に於いて使用目的とする為に、マロネロ37600型として半室寝台半室座席車輌として設計され、昭和11年(1936年)から昭和14年(1939年)にかけて、日本車輌製造本店、川崎車輌(現 川崎重工業)、及び、鐵道省大宮工場に於いて計35両が製造された。
車内構造は、半室に2等2段寝台6床、2等2人用転換式座席16脚が設置され、大東亜戦争勃発時に於ける東京発着列車では、鳥羽行夜行普通列車にのみ連結されていた。
昭和16年(1941年)10月1日附車輌称号規定改正に拠りマロネロ37型に変更され、更に、大東亜戦争末期に2等寝台廃止に伴う余剰車輌の対象車輌19両が3等座席車マハ47型に改造された。
未改造車はマロネロ3712 1両が濱松工機部構内で戦災に遭遇するも、残存車は進駐軍接収の対象となったが、講和条約発効後は全車輌返還された。
最後は、札幌-稚内間 急行利尻号に連結されたが、非冷房を理由に昭和41年(1966年)までに全車廃車された。


赤帽(あかぼう)と言っても、現在では存在をも知る者も少なくなったが、鉄道構内に於ける絶滅した営業商行為である。
即ち、赤帽とは駅構内間移動時に有価に依り、荷物を運搬する赤い帽子を着用した者である。

該区間に於ける赤帽配置駅は、大正14年(1925年)4月1日時点に於いて、名古屋、尾張一ノ宮(現 尾張一宮)2駅にのみ存在したが、昭和9年(1934年)12月1日時点で、熱田にも常駐した。

旅客荷物に対する当該駅構内に於ける運搬料金は、1個に対し5銭、青函航路利用者に対する青森-連絡船-函館間移送で1個20銭と決められていた。
然し、大東亜戦争逼迫時たる昭和19年(1944年)12月1日時点では、一般人は勿論、退役老人から、旧制中学校生徒、旧制女学校生徒と云えども勤労動員を必要とした時代に、余剰国民など存在する訳も無く、同年4月1日を以って、該線では、東京、横濱、名古屋、京都、大阪、神戸を除き、不急不要と判断され廃止され、利用資格も傷痍軍人に限定され、例え大臣、陸海軍将官と云えども利用は不可能になった。


大東亜戦争中、該区間に於ける空襲被害は、
昭和19年(1944年)
12月18日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 B29戦略爆撃機計63機
 警戒警報発令 12時19分
 空襲警報発令 12時35分
 空襲開始   13時00分
 空襲警報解除 15時05分
 警戒警報解除 15時15分
爆弾6t 焼夷弾149t
主要攻撃目標 三菱重工業名古屋航空機製作所
笠寺-熱田間
  線路築堤破壊 山崎川橋梁東京方100m地点 2箇所50m
小田原発大垣行普通第705列車 笠寺12時36分 熱田12時44分
 開通
  下り線16時30分
  上り線20時30分

昭和20年(1945年)
  1月 3日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 B29戦略爆撃機計57機
 警戒警報発令 13時40分
 空襲警報発令 14時23分
 空襲開始   14時46分
 空襲警報解除 15時50分
 警戒警報解除 15時55分
八幡信号所構内施設
  焼夷弾至近弾爆発に依る不動産施設壁焦痕多数。

  1月 7日 
 警戒警報発令  0時18分
 空襲警報発令  0時20分
 空襲開始    0時50分
 空襲警報解除  1時20分
 警戒警報解除  2時40分
熱田駅構内
  手小荷物取扱所 第3番ホーム上屋 第6番ホーム上屋
 広島発東京行 普通第  6列車 名古屋0時04分 熱田0時12分

  2月15日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 第313航空隊 B29戦略爆撃機計33機
 警戒警報発令 13時30分
 空襲警報発令 13時43分
 空襲開始   14時02分
 空襲警報解除 15時01分
 警戒警報解除 15時35分
爆弾34t 焼夷弾75t
主要攻撃目標 三菱発動機製作所
笠寺駅構内
  駅本屋 助役派出所
 東京発大垣行 普通第135列車 笠寺13時56分 熱田14時05分

  3月12日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計285機
 警戒警報発令 23時42分 
 空襲警報発令  0時02分
 空襲開始    1時20分
 空襲警報解除  3時35分
 警戒警報解除  3時41分
爆弾26t 焼夷弾793t
熱田-名古屋間
  沿線火災
  木造跨線人道橋焼失落下
 広島発東京行 普通第  6列車 熱田0時12分
名古屋駅構内被災車輌
  オロ35 62(広ヒワ)小破
 以上、名古屋区修復

  3月19日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計291機
 警戒警報発令  5時20分
 空襲警報発令  5時21分
 空襲開始    5時26分
 空襲警報解除  8時35分
 警戒警報解除 10時32分
爆弾94t 焼夷弾1842t
笠寺-名古屋間
  線路破壊4箇所100m
開通10時45分
 名古屋駅構内
  駅本屋 鐵道局本庁舎
  熱田神宮奉安殿全焼 
 門司発東京行 普通第  8列車 名古屋発2時34分 熱田発2時40分
名古屋駅構内被災車輌
  オハ35 465(大リウソ)全焼
 以上、昭和22年(1947年)1月14日附戦災廃車

5月14日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B爆撃機計477機
 警戒警報発令 6時23分
 空襲警報発令 7時50分
 空襲開始   8時05分
 空襲警報解除 9時25分
 警戒警報解除 9時46分
爆弾6t 焼夷弾25t
清洲-五條川間
  枕木焼損50本
 開通10時05分
 枇杷島駅構内 貨物ホーム上屋
 清洲駅構内 岐阜施設部倉庫
  貨車 枇杷島61両 清洲1両全焼
        名古屋城全焼

  5月17日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B爆撃機計457機
 警戒警報発令  0時17分
 空襲警報発令  0時30分
 空襲開始    2時10分
 空襲警報解除  4時30分
 警戒警報解除  4時40分
爆弾131t 焼夷弾3609t
大高-名古屋間
  線路破壊4箇所50m 枕木焼損49本
笠寺-熱田間
  東京発大阪行普通第143列車14両編成中2両機銃掃射攻撃大破
 笠寺駅構内
  駅本屋、及び、貨物ホーム全焼
 熱田駅構内
  駅本屋 上下線ホーム上屋 手小荷物取扱所 貨物ホーム上屋 跨線橋
貨車 笠寺1両 熱田4両 名古屋7両全焼
   熱田駅職員1名死亡 笠寺駅職員2名 熱田駅職員2名重傷
 広島発東京行 普通第  6列車 熱田発0時12分 大高発0時25分
 開通15時30分
        熱田神宮境内施設全焼
        名古屋鉄道本社全焼 愛知時計製作所建造物8割破壊

  6月 9日 第21爆撃機軍団 第313航空隊 B29戦略爆撃機計42機
 警戒警報発令  7時45分
 空襲警報発令  8時24分
 空襲開始    9時18分
 空襲警報解除 10時00分
 警戒警報解除 10時05分
爆弾278t 焼夷弾772t
熱田駅構内
  第2信号取扱所 継電室全焼
大垣発東京行 普通第712列車 熱田発8時47分
        愛知時計工場、愛知航空機工場

  7月15日 
 警戒警報発令 12時50分
 空襲警報発令
 空襲開始
 空襲警報解除
 警戒警報解除 13時40分
枇杷島駅構内 清洲駅構内
  駅本屋窓硝子 爆風損壊

  7月29日 第20航空軍 第314航空隊 B29戦略爆撃機計122機
 警戒警報発令  0時00分
 空襲警報発令  0時10分
 空襲開始    0時15分
 空襲警報解除  1時00分
 警戒警報解除  1時30分
爆弾38t 焼夷弾659t
稲澤-尾張一ノ宮(現 尾張一宮)間
 線路破壊8箇所 120m 枕木焼損30本
開通12時52分
尾張一ノ宮駅構内
 駅本屋 東部信号取扱所 東西貨物取扱所ホーム上屋
 踏切警手詰所 職員官舎3棟 全焼

  8月 1日
 警戒警報発令  0時00分
 空襲警報発令  0時15分
 空襲開始    0時30分
 空襲警報解除  0時45分
 警戒警報解除  1時00分
稲澤駅構内
通信掛詰所 倉庫1棟
上り線貨物本線1箇所100m屈曲
開通3日15時
 蒸気機関車6両 貨車28両全焼

 8月 2日
 警戒警報発令  0時00分
 空襲警報発令  0時15分
 空襲開始    0時30分
 空襲警報解除  1時00分
 警戒警報解除  1時15分
稲澤駅構内
 第1信号扱所 中継貨物掛詰所 ホーム上屋
上り貨物本線 下り貨物直通線 下り出発通路線
  線路破壊11箇所474m 枕木焼損350本
開通18時

該戦争末期ともなると、全国的に施設保持困難とする状態不良に依る損耗が顕著となり、殊に、昭和20年(1945年)3月以降の山陽本線神戸-門司間に於いて毎日の如く大脱線事故が頻発し、該月以降、東京-門司間全区間開通状態が珍しいとすら称される状態だった。
それでも、旅客列車は貨物列車に対し優先的に運転された事もあり、山陽本線以遠発列車は、同年4月以降は概ね1時間以内の遅延で運転された。


現在の名駅通は、旧東海道本線地上区間跡地を転用したとの記述をする文献を多数散見するが、上下線合せても計8m未満故に、現状の如き旧該線転用は理論上不可能である。
然も、該旧地上線敷地跡は、名古屋鐵道Ⅱが昭和19年(1944年)9月1日附で開通した神宮前-新名古屋(現 名鉄名古屋)間設置工事の際に転用済である。

名古屋市は、運輸通信省、商工省、愛知県や陸海軍省の協力の下、該地に金山総合駅設置を決定し、付近を走る東海道本線、及び、中央本線にホームを設置用地を収得すべく昭和20年(1945年)2月に開削工事に着手した。
当時、名古屋市は昭和19年(1944年)12月13日に初空襲を受けて以来、該時点に於いて度重なる空爆被害を蒙っていたが、戦時下故に壮年工事作業員など存在しようも無く、已む無く、旧制中学校生徒、旧制女学校生徒、旧制高等学校生徒を勤労奉仕隊と称して活用せざるを得なかった。

該計画では、
1)中央本線古渡信号所を該地に移転させ島式ホーム1面2線設置。
2)名古屋鉄道名古屋本線金山橋駅を該地に移設させ島式ホーム2面4線設置。
3)東海道本線ホーム2面4線設置。
とするもので、東海道本線上り線を山側に移設しホーム用土盛が準備段階で終戦を迎え該工事は緊急性を喪失したものとして中止された。

名古屋市は、名古屋市戦災復興計画に基き、昭和22年(1947年)3月に金山総合駅計画を立案した。

大東亜戦争終結当時の名古屋市長は、第14代 佐藤正俊(さとう まさとし)(明治19年(1886年)9月18日~昭和37年(1962年)5月31日)(昭和17年(1942年)2月21日~昭和21年(1946年)11月1日在任)だった。

佐藤は、内務官僚出身で、且つ、官選市長最後の人物である。

佐藤は、再三に亘る空襲被災で焼野原と化した名古屋市再生復興は現時点しか無いと判断し、此の為に、内務省土木局出身技師 田淵寿郎(たぶち じゅうろう)(明治23年(1890年)3月3日~昭和49年(1974年)7月10日)に該市復興の切札として三顧の礼を以って招聘し、田淵は該依頼を受諾し同年10月に該市技術監職に大抜擢され就任した。
田淵は、嘗て、内務省の大先輩で田淵も薫陶を受けた 後藤新平(ごとう しんぺい)(安政4年(1857年)7月24日~昭和4年(1929年)4月13日)が、関東大震災復興時に於ける当時の東京市、及び、横濱市に防火帯を兼ねた広幅道路設置に依る遺訓を実現化させるべく、該市中心部に縦横に100m道路設置を立案実現した1通りが現名駅通であり、俗説が事実の如く罷り通るのは事実無根も甚だしいと云うべきである。

我々が研究目的で閲覧する公刊市町村史は、正直な処、玉石混交の感が強く、某市史など、よくぞ具体的資料を精査し記述した内容に感嘆されるのに対し、逆に某市史は、よくぞ此処まで信しやかに嘘を書き並べた内容に驚愕し、侮蔑感すら抱く内容のものとが存在するが、名古屋市史は典型的前者の内容で、全体的に謙虚で具体的な内容が記述されており好感を抱く。

反対に、全国的に見て最悪市町村誌史とも云ふべき存在が東京八王子市史である。
内容は資料の価値観是非すら判断出来ぬド素人が書いたのではと呆れ、市誌評論家と称する市井者推薦と仄聞する噴飯出版内容の典型である。


東海道本線電化工事は、昭和24年(1949年)5月20日に浜松まで電化が達成されたが、我が国の膨大なインフレ状態を打破すべく、米国の経済学者 ジョセフ・マレル・ドッジ(Joseph Marrell DODGE)(1890年(明治23年)11月18日~昭和39年(1964年)12月2日)の提言に依り、金融引締政策ドッジライン(DODGELINE)施行の影響で新規事業開始は困難になり、浜松以西の電化工事早期着工は無期延期状態となった。

浜松以西が電化されたのは昭和28年(1953年)7月21日に浜松-名古屋間が延伸され、該区間に初めて EH10型直流式貨物用電気機関車が入線した。
次いで、同年11月11日に名古屋-稲沢操車場間が電化区間延伸となったが、該電化区間入線は貨物用電気機関車に限定され、電車は飯田線電車が修繕担当の名古屋工場に全般検査時に回送入線するだけで、一般人には未だ程遠い存在だった。

稲沢-米原間電化開業は、正式には 昭和30年(1955年)7月20日だが、稲沢-大垣間電化工事は同年6月20日に竣工し、引続き、EF15型、および、EH10型電気機関車に依る試運転が開始され、同年7月2日には大垣駅まで80型電車が初入線した。


昭和34年(1959年)9月21日に、中部地方に襲来した大東亜戦争後、最大規模台風とされる 台風15号(伊勢湾台風)は、中部平野海岸部に甚大被害を発生させたが、該線は大高-熱田間に於いて、天白川護岸流失、新堀川護岸決壊の重大被害が発生した。
一部開通は同月28日0時10分だったが、送電関係が完全復旧とはなっておらず、それまで架線への送電が不可能だった事から、豊橋-名古屋-大垣間運転は蒸気機関車が大活躍した。
電気運転復旧は同月28日で、岡崎-岐阜間が3時6分、岐阜-大垣間は10時47分だった。


前述した金山総合駅計画は、昭和37年(1962年)1月25日に中央本線千種-名古屋間に存在した古渡信号所が移転して、該地にホーム1面2線が設置されたのを皮切りに、名古屋市は日本国有鉄道の依頼に拠り、東海道本線ホーム設置用用地として、昭和45年(1970年)に金山台地上に於ける土地買収に着手した。

然るに、該地一帯は、大東亜戦争末期に於ける数次の空襲で焼野が原となり、所謂、一家全滅不在者地主ばかりだった所に、終戦直後のドサクサで居ついた在日系不法占拠が、法規上に於ける占有権取得年数たる20年間を経過した直後だった事から、民法第162条上に於ける不法占拠者が正当土地所有者と化す厄介な事態となった。

更に、此れら土地新所有者が該市に対し不法とも言える法外な金額を提示し譲らなかった事から、日本国有鉄道は、ホーム2面4線計画を放棄し、改めて、ホーム1面2線での計画見直しを迫られた。

戦災復興計画案は、昭和22年(1947年)3月に上程されたが、然し、該工事着工に至るまで更に時間を要した。
結局、該線上に新駅開設は、平成元年(1989年)7月9日であるが、戦時下に於ける工事開始期日をも加算すると、実に44年間もの歳月を必要とした。


日本国有鉄道は名古屋地区に於ける該線客貨線分離を策定し、該計画案に基き、大府-名古屋間複々線化計画が決定した。

即ち、該区間中、大府-笠寺間は既成線腹付様式とし、笠寺-名古屋間は東海道新幹線並列様式とする内容で、該工事は昭和40年(1965年)に着工し、概ね土木工事が完成し、昭和53年(1978年)4月に大高駅が高架線上に移転した段階で、当時の日本国有鉄道を巡る財政悪化が原因で該工事は凍結中断の已む無きに至った。
然るに、該複々線工事凍結に至る間、我が国於ける貨物輸送は劇的変化が生じ、即ち、名神、及び、東名両高速自動車道全線開通に依りトラック輸送が躍進し、鉄道貨物に陰りを見せ掛けていた時期である。
その後、昭和62年(1987年)4月1日の日本国有鉄道民営分割に依り、該工事凍結区間は日本国有鉄道清算事業団に継承され、該事業団は東海旅客鉄道に対し該施設買収を提示して来た。
該社にとって、大府-笠寺間施設編入に異存は無かった。
然し、笠寺-名古屋間に対しては、名古屋地区副都心として位置付けられた金山を通過せず、迂回経路に対し異議を有していた。
最終的に東海旅客鉄道は大府-名古屋間複々線未完成施設買収を断念し、該区間複々線計画は画餅に帰した。
昨今では、架橋済高架橋梁撤去作業も開始されている。


昭和57年(1982年)3月15日深夜、名古屋駅構内で大事故が発生する。

即ち、当時、東京-紀伊勝浦間を運転していた寝台特急 紀伊 号が、該駅まで併結していた寝台特急いなば号から切離され、関西本線で該列車を牽引するディーゼル機関車が来ない事に不審を抱いた該列車乗務車掌が該駅助役に指摘し、名古屋第1運転所に連絡した処、当該機関士は乗務すべき機関車に居らず休憩室で仮眠を継続していた為に、直ちに起床させ該機関車に乗務させ該駅に向かわせた。
数分後、該機関車が該駅に姿を見せたが、減速せず該列車編成に激突した。
原因は該機関士の過度の飲酒で事故当時、酩酊状態だった。
事件当時、日本国有鉄道に於ける環境は、当局に於ける生産性向上運動が、労働組合たる動労、及び、国労から否定され、更に裁判で当局が敗訴した事が原因で、職場の規律は乱脈放題状態だった。

該事故で衝突されたスハネフ14102寝台車は車体が「く」の字状に屈折し廃車となったが、死者が出なかった事は不幸中の幸いだったとは言え、当時の日本国有鉄道現場の風紀が乱脈を極めていた事実が物語る。


平成12年(2000年)9月11日より翌12日にかけて、愛知県、及び、岐阜県南部地方は記録的集中豪雨が降った。
名古屋地方気象台に於ける総雨量は600mmを越え、該地方気象台に於ける観測史上最大数値とされた。

新川は庄内川の避逸河川として江戸中期に尾張徳川家に依り開削された人工川である。

然るに、該降雨量に依り新川堤防が決壊し、濁流が住宅地に流れ込み、西枇杷島町を中心に計18000戸に住宅浸水被害が発生した事から、該線築堤外は湖水状態となった。
該豪雨は、後に、 東海豪雨と命名され、更に、該豪雨を教訓として、平成18年(2006年)1月1日附で、特定都市河川保水被害対策法が制定された。


豊橋-名古屋-岐阜間旅客輸送は、戦前から一貫して名古屋鉄道優位が揺ぎ無かったが、昭和62年(1987年)4月1日附で日本国有鉄道が民営分割されたが、該地域は東海旅客鉄道成立以降、該社に依る乗客奪還巻返し作戦が功を成し、現在では完全に運賃時間共に該社優位の状況である。




表紙写真は、
明治19年(1886年)4月1日開通時の初代堀川橋梁矩形断面橋脚(現在は名古屋鉄道名古屋本線下り橋梁





東海道本線歴史的痕跡探訪記
~東京-濱松町間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10701644
~東京驛編~

~汐留-濱松町-品川間編 明治頌歌~
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~品川-川崎間編 明治頌歌~
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~川崎-横濱間編 明治頌歌~
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~横濱駅移設変転史編 明治頌歌~
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~横濱-大船間編 明治頌歌~
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~大船-平塚間編 明治頌歌~

~平塚-國府津間編 明治頌歌~

~國府津-根府川間編~
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~根府川-熱海間編~
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~丹那隧道完成秘話 丹那隧道碑文から読み取れし或る歴史的事実~
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~丹那隧道完成秘話 三島口建設工事鉄道線探訪記~
http://4travel.jp/travelogue/10575630
~熱海-沼津間編~

~沼津駅驛編~
http://4travel.jp/travelogue/10294787
~沼津港線編~
http://4travel.jp/travelogue/10621891
~沼津-富士間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10623829
~富士-興津間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10625542
~興津-静岡間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10859308
~静岡-島田間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10855589
~島田-掛川間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10858139
~掛川-濱松間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10858815
~濱松-豊橋間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10858508
~豊橋-岡崎間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10870287
~岡崎-大府間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10898135
~大府-名古屋-尾張一宮間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/10898177
~名古屋驛編~

~尾張一宮-岐阜-大垣間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/10990946
~美濃赤坂支線編~
https://4travel.jp/travelogue/10992335
~大垣-垂井-関ケ原間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11095931
~大垣-新垂井-関ケ原間編~
https://4travel.jp/travelogue/11200178
~関ケ原-米原間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11099834
~関ケ原-深谷-長濱間(廃止線)編 明治頌歌~

~米原-近江八幡間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11099568
~近江八幡-草津間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11214049
~草津-膳所間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11102339
~膳所-濱大津間(廃止線)編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/11157145
~膳所-稲荷-京都間(廃止線)編 明治頌歌~

~膳所-山科-京都間(現行線)編 大正浪漫~
http://4travel.jp/travelogue/11157106
~京都驛編 明治頌歌~

~京都-向日町間編 明治頌歌~

~向日町-高槻間編 明治頌歌~

~高槻-吹田間編 明治頌歌~

~吹田-淡路-大阪間(廃止線)編 明治頌歌~

~吹田-新大阪-大阪間(現行線)編 大正浪漫~

~大阪駅周辺編~

~大阪-西宮間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11366806
~西宮-灘間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11321266
~灘-神戸間編 大正浪漫~
https://4travel.jp/travelogue/11245946

旅行の満足度
4.5
ホテル
5.0
グルメ
4.5
交通
4.5
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
高速・路線バス 新幹線 JRローカル 私鉄 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 大府(おおぶ)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治20年(1887年)9月10日開業である。<br />武豊港-熱田Ⅰ間は明治19年(1886年)3月1日に開通したが、該区間建設は中仙道線建設の為に設置されたもので、開通当時は初代緒川-大高間に停車場は設置されなかった。<br />然るに、東京-京阪神間鉄道設置を急ぐ政府は、当初計画たる中仙道鉄道線建設で、碓氷峠をはじめとする急勾配存在で該設置が困難たる事を知らされる。<br />特に、日清間に於ける緊急勃発時に鉄道存在の有無を懸念する政府は、急遽、東海道経由での鉄道建設に変更し、該区間内分岐点として該駅が開設された。<br />本来、停車場が存在しない地に分岐線建設の為に新規に駅設置がされた所では、明治期では大船、赤羽、大宮、昭和期では新所原等々が存在する。<br />該駅設置後、東海道本線全通後は、武豊線沿線に於いて発想貨物中継地として、該駅構内施設が次々と拡張された。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/obu/index.html

    大府(おおぶ)駅



    該駅は、明治20年(1887年)9月10日開業である。
    武豊港-熱田Ⅰ間は明治19年(1886年)3月1日に開通したが、該区間建設は中仙道線建設の為に設置されたもので、開通当時は初代緒川-大高間に停車場は設置されなかった。
    然るに、東京-京阪神間鉄道設置を急ぐ政府は、当初計画たる中仙道鉄道線建設で、碓氷峠をはじめとする急勾配存在で該設置が困難たる事を知らされる。
    特に、日清間に於ける緊急勃発時に鉄道存在の有無を懸念する政府は、急遽、東海道経由での鉄道建設に変更し、該区間内分岐点として該駅が開設された。
    本来、停車場が存在しない地に分岐線建設の為に新規に駅設置がされた所では、明治期では大船、赤羽、大宮、昭和期では新所原等々が存在する。
    該駅設置後、東海道本線全通後は、武豊線沿線に於いて発想貨物中継地として、該駅構内施設が次々と拡張された。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/obu/index.html

    大府駅

  • 大府-共和間<br /><br /><br /><br />鞍流瀬川(くらなせがわ)橋梁<br /><br />大府市東新町3-78<br />東海道本線共和駅 徒歩4分

    大府-共和間



    鞍流瀬川(くらなせがわ)橋梁

    大府市東新町3-78
    東海道本線共和駅 徒歩4分

  • 大府-共和間<br /><br /><br /><br />鞍流瀬川橋梁<br />昭和34年(1959年)9月21日に、中部地方に激甚災害をもたらした伊勢湾台風に依り、該河川が氾濫した為に築堤が決壊。<br />該橋梁部以外は護岸工事に依り河川部が拡大。<br /><br />大府市東新町3‐78<br />東海道本線共和駅 徒歩4分

    大府-共和間



    鞍流瀬川橋梁
    昭和34年(1959年)9月21日に、中部地方に激甚災害をもたらした伊勢湾台風に依り、該河川が氾濫した為に築堤が決壊。
    該橋梁部以外は護岸工事に依り河川部が拡大。

    大府市東新町3‐78
    東海道本線共和駅 徒歩4分

  • 共和駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />旧共和踏切跡<br />構内跨線橋竣工に伴い該踏切は廃止された。

    共和駅



    駅構内
    旧共和踏切跡
    構内跨線橋竣工に伴い該踏切は廃止された。

    共和駅

  • 共和駅<br /><br /><br /><br />共和踏切地蔵堂<br />南無延命地蔵菩薩

    共和駅



    共和踏切地蔵堂
    南無延命地蔵菩薩

    共和駅

  • 共和駅<br /><br /><br /><br />共和踏切地蔵堂<br />南無延命地蔵菩薩<br />元共和踏切跡<br />該踏切では無謀横断が原因で轢死者が多数発生した。<br />その菩提を弔う為に建立。<br />後に人道跨線橋設置に伴い該踏切は廃止されたが、地蔵菩薩のみ取残されたかの様に残存。

    共和駅



    共和踏切地蔵堂
    南無延命地蔵菩薩
    元共和踏切跡
    該踏切では無謀横断が原因で轢死者が多数発生した。
    その菩提を弔う為に建立。
    後に人道跨線橋設置に伴い該踏切は廃止されたが、地蔵菩薩のみ取残されたかの様に残存。

    共和駅

  • 共和(きょうわ)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />該駅は、昭和8年(1933年)12月7日開業である。<br />該駅開業当時は無人駅で、名古屋-武豊間に同年7月1日附で名古屋機関庫配置のキハ41000型ガソリン動車18両導入に伴い開業した。<br />此の為に、開業当時は旅客扱のみ、且つ、取扱範囲も、車掌が車内発券が可能な範囲で、東海道本線濱松、豊橋、蒲郡、岡崎-名古屋-岐阜間、関西本線桑名、四日市発着間に限定された。<br />然るに、日華事変(にっかじへん)(昭和12年(1937年)7月7日~昭和16年(1941年)12月8日)勃発に伴う戦時体制移行の為に、政府に拠るガソリンを含む揮発油使用規制実施に拠り、ガソリン動車運転が困難になり、該駅は、昭和15年(1940年)11月1日附を以って営業休止になる。<br />然し、大東亜戦争(だいとうあせんそう)(昭和16年(1941年)12月8日期~昭和20年(1945年)8月15日)勃発に伴い、名古屋中京地域に航空機製造産業が逐次勃興し該工場が設立された事から、該製造関係者の為に、昭和20年(1945年)7月11日に工員定期乗車券所持者限定で客扱を復活を遂げた。<br />昭和26年(1951年)9月1日附を以って、それまでの利用制限が一切撤廃され、同時に手荷物取扱を開始した。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kyowa/index.html

    共和(きょうわ)駅



    駅本屋
    該駅は、昭和8年(1933年)12月7日開業である。
    該駅開業当時は無人駅で、名古屋-武豊間に同年7月1日附で名古屋機関庫配置のキハ41000型ガソリン動車18両導入に伴い開業した。
    此の為に、開業当時は旅客扱のみ、且つ、取扱範囲も、車掌が車内発券が可能な範囲で、東海道本線濱松、豊橋、蒲郡、岡崎-名古屋-岐阜間、関西本線桑名、四日市発着間に限定された。
    然るに、日華事変(にっかじへん)(昭和12年(1937年)7月7日~昭和16年(1941年)12月8日)勃発に伴う戦時体制移行の為に、政府に拠るガソリンを含む揮発油使用規制実施に拠り、ガソリン動車運転が困難になり、該駅は、昭和15年(1940年)11月1日附を以って営業休止になる。
    然し、大東亜戦争(だいとうあせんそう)(昭和16年(1941年)12月8日期~昭和20年(1945年)8月15日)勃発に伴い、名古屋中京地域に航空機製造産業が逐次勃興し該工場が設立された事から、該製造関係者の為に、昭和20年(1945年)7月11日に工員定期乗車券所持者限定で客扱を復活を遂げた。
    昭和26年(1951年)9月1日附を以って、それまでの利用制限が一切撤廃され、同時に手荷物取扱を開始した。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kyowa/index.html

    共和駅

  • 共和駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />全景<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kyowa/index.html

    共和駅



    駅本屋
    全景
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kyowa/index.html

    共和駅

  • 共和駅<br /><br /><br /><br />駅舎<br />西口<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kyowa/index.html

    共和駅



    駅舎
    西口
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kyowa/index.html

    共和駅

  • 共和駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kyowa/index.html

    共和駅



    駅構内
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kyowa/index.html

    共和駅

  • 南大高(みなみおおだか)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、平成21年(2009年)3月14日開業である。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/minami-odaka/index.html

    南大高(みなみおおだか)駅



    該駅は、平成21年(2009年)3月14日開業である。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/minami-odaka/index.html

    南大高駅

  • 南大高駅<br /><br /><br /><br />下り待避線<br />複々線用地を活用。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/minami-odaka/index.html<br />

    南大高駅



    下り待避線
    複々線用地を活用。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/minami-odaka/index.html

    南大高駅

  • 南大高-大高間<br /><br /><br />複々線用地<br />複々線計画が挫折中止した今、完全に遊休施設化。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/minami-odaka/index.html

    南大高-大高間


    複々線用地
    複々線計画が挫折中止した今、完全に遊休施設化。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/minami-odaka/index.html

  • 大高(おおだか)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治19年(1886年)3月1日開業である。<br />但し、理由は定かでは無いが、翌明治20年(1887年)9月10日前後に、駅本屋を現位置に移転した。<br />恐らく、移転理由として必要停車場用地収用に手間取り、仮駅として設置されてのでは無いかと推定される。<br />該駅周辺に特に集落が存在した訳でも無く、寧ろ、大府7.1km-熱田Ⅰ5.9kmの中間点として、列車交換施設設置理由が事実ではないかと推定される。<br />兎に角、開業以来、昭和初期に至るまで、該駅周辺は農業以外、産業らしい産業が無く、名古屋市内他地域に於いて、重工業産業工場が次々と進出したのに対し、該地に該動きは全くと言って無かった。<br />大東亜戦争末期に於いて、名古屋市内各地が多少なりの空襲被害を受けたのに対し、米戦略部隊も承知していたと見え、該駅構内に於いて空襲被害は一切発生しなかった。<br />戦後、東海道新幹線設置工事に伴い、初代駅本屋は支障する事から解体され、昭和37年(1962年)2月に第2代駅本屋が橋上形式で設置されたが、高度経済成長期に、大府-名古屋間客貨列車運転分離計画に基き複々線化が決定し、該駅は、昭和53年(1978年)4月に高架化され、現第3代駅本屋設置と同時に貨物取扱が廃止された。<br />該駅は、中京地域鉄道創生期に開業した歴史を有するにも拘らず、現在ですら快速電車が通過し、普通列車のみの停車に留まっている。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/minami-odaka/

    大高(おおだか)駅



    該駅は、明治19年(1886年)3月1日開業である。
    但し、理由は定かでは無いが、翌明治20年(1887年)9月10日前後に、駅本屋を現位置に移転した。
    恐らく、移転理由として必要停車場用地収用に手間取り、仮駅として設置されてのでは無いかと推定される。
    該駅周辺に特に集落が存在した訳でも無く、寧ろ、大府7.1km-熱田Ⅰ5.9kmの中間点として、列車交換施設設置理由が事実ではないかと推定される。
    兎に角、開業以来、昭和初期に至るまで、該駅周辺は農業以外、産業らしい産業が無く、名古屋市内他地域に於いて、重工業産業工場が次々と進出したのに対し、該地に該動きは全くと言って無かった。
    大東亜戦争末期に於いて、名古屋市内各地が多少なりの空襲被害を受けたのに対し、米戦略部隊も承知していたと見え、該駅構内に於いて空襲被害は一切発生しなかった。
    戦後、東海道新幹線設置工事に伴い、初代駅本屋は支障する事から解体され、昭和37年(1962年)2月に第2代駅本屋が橋上形式で設置されたが、高度経済成長期に、大府-名古屋間客貨列車運転分離計画に基き複々線化が決定し、該駅は、昭和53年(1978年)4月に高架化され、現第3代駅本屋設置と同時に貨物取扱が廃止された。
    該駅は、中京地域鉄道創生期に開業した歴史を有するにも拘らず、現在ですら快速電車が通過し、普通列車のみの停車に留まっている。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/minami-odaka/

    大高駅

  • 大高駅<br /><br /><br /><br />駅前広場

    大高駅



    駅前広場

    大高駅

  • 大高駅<br /><br /><br /><br />複々線用地<br />左手空地は日本国有鉄道時代に計画され、工事半ばにして中断した客貨分離運転の為の複々線工事跡。

    大高駅



    複々線用地
    左手空地は日本国有鉄道時代に計画され、工事半ばにして中断した客貨分離運転の為の複々線工事跡。

    大高駅

  • 大高駅<br /><br /><br />旅客ホーム

    大高駅


    旅客ホーム

    大高駅

  • 大高-熱田間<br /><br /><br /><br />天白川(てんぱくがわ)橋梁<br />該橋は、明治19年(1886年)3月1日開通時の橋梁である。<br />但し、英國より該橋梁架橋用鋼材未着の為に、初代橋梁は木組総木造構造で構築された。<br />その後、英國より橋梁用鋼材回着を受け、明治21年(1888年)8月に架替が実施され、<br />C.A.W.ポーナル(C.A.W.POWNALL)(生没不詳)設計に依る、<br />錬鐡製プレートガーダー橋桁21.3m(70ft)×6蓮<br />に架替られた。<br />因みに、輸入鋼材を含め架替費用は250291円とされる。<br />大高-熱田Ⅱ間は、明治40年(1907年)9月26日附で複線化されたが、新橋梁は既成橋梁下流側に架橋され、該日より新橋梁は下り線専用となり、既成橋梁は上り線専用になった。<br />その後、大正期に国産鋼鐡製プレートガーダー橋桁に更改された。<br />該区間高架化工事竣工に依り、昭和53年(1978年)4月に現新橋梁に変更。<br /><br />名古屋市緑区鳴尾町無番地<br />東海道本線大高駅 名古屋市営交通自動車線大慶松停留所降車 徒歩9分

    大高-熱田間



    天白川(てんぱくがわ)橋梁
    該橋は、明治19年(1886年)3月1日開通時の橋梁である。
    但し、英國より該橋梁架橋用鋼材未着の為に、初代橋梁は木組総木造構造で構築された。
    その後、英國より橋梁用鋼材回着を受け、明治21年(1888年)8月に架替が実施され、
    C.A.W.ポーナル(C.A.W.POWNALL)(生没不詳)設計に依る、
    錬鐡製プレートガーダー橋桁21.3m(70ft)×6蓮
    に架替られた。
    因みに、輸入鋼材を含め架替費用は250291円とされる。
    大高-熱田Ⅱ間は、明治40年(1907年)9月26日附で複線化されたが、新橋梁は既成橋梁下流側に架橋され、該日より新橋梁は下り線専用となり、既成橋梁は上り線専用になった。
    その後、大正期に国産鋼鐡製プレートガーダー橋桁に更改された。
    該区間高架化工事竣工に依り、昭和53年(1978年)4月に現新橋梁に変更。

    名古屋市緑区鳴尾町無番地
    東海道本線大高駅 名古屋市営交通自動車線大慶松停留所降車 徒歩9分

  • 笠寺駅<br /><br /><br /><br />旧笠寺信号場跡<br />昭和17年(1942年)4月10日開設時の信号場跡<br />写真中央部付近に設置されていた。<br /><br />名古屋市南区立脇町1-5<br />東海道本線笠寺駅 徒歩2分

    笠寺駅



    旧笠寺信号場跡
    昭和17年(1942年)4月10日開設時の信号場跡
    写真中央部付近に設置されていた。

    名古屋市南区立脇町1-5
    東海道本線笠寺駅 徒歩2分

    笠寺駅

  • 笠寺駅<br /><br /><br />駅構内

    笠寺駅


    駅構内

    笠寺駅

  • 笠寺(かさでら)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和18年(1943年)6月1日開業である。<br />然し、該駅前身は、該市港区大江地区に建設完成した三菱重工業名古屋航空機製作所に対する機材搬出入の為に設置された、現在の名古屋港臨海鉄道の前身たる貨物専用線分岐の為に、昭和17年(1942年)4月10日に開業した 笠寺仮信号場が嚆矢である。<br />時節柄、大東亜戦争中で、該信号所付近に航空機製造産業関連企業が群立した事から、通勤輸送対策が緊急事項となり、故に、該仮信号所の旅客取扱業務開始が行政、及び、陸海軍部から必然的要求になった。<br />該駅開業当初は、該駅発着の工員定期券所持者に利用限定され、不審者侵入、即ち、敵間諜(スパイ)摘発の為に、制服憲兵が改札口横で24時間目を光らせていた。<br />その後、軍公務者利用可能要求に答え、同年10月1日附で利用制限は撤廃された。<br />因みに、該駅名は、該地に存在する笠覆寺(りゅうふくじ)に安置される笠寺観音像から採用命名されたが、該名に対し、名古屋市民にとって、観音像とは大須や中村であり、故に、該寺名に対する知名度は高く無く、該駅名公表を意外と感じた市民も多かったとされる。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/minami-odaka/index.html

    笠寺(かさでら)駅



    該駅は、昭和18年(1943年)6月1日開業である。
    然し、該駅前身は、該市港区大江地区に建設完成した三菱重工業名古屋航空機製作所に対する機材搬出入の為に設置された、現在の名古屋港臨海鉄道の前身たる貨物専用線分岐の為に、昭和17年(1942年)4月10日に開業した 笠寺仮信号場が嚆矢である。
    時節柄、大東亜戦争中で、該信号所付近に航空機製造産業関連企業が群立した事から、通勤輸送対策が緊急事項となり、故に、該仮信号所の旅客取扱業務開始が行政、及び、陸海軍部から必然的要求になった。
    該駅開業当初は、該駅発着の工員定期券所持者に利用限定され、不審者侵入、即ち、敵間諜(スパイ)摘発の為に、制服憲兵が改札口横で24時間目を光らせていた。
    その後、軍公務者利用可能要求に答え、同年10月1日附で利用制限は撤廃された。
    因みに、該駅名は、該地に存在する笠覆寺(りゅうふくじ)に安置される笠寺観音像から採用命名されたが、該名に対し、名古屋市民にとって、観音像とは大須や中村であり、故に、該寺名に対する知名度は高く無く、該駅名公表を意外と感じた市民も多かったとされる。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/minami-odaka/index.html

    笠寺駅

  • 笠寺駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />東海道新幹線設置に伴い第3代駅本屋は解体され、該新幹線下に第4代駅本屋設置。

    笠寺駅



    駅本屋
    東海道新幹線設置に伴い第3代駅本屋は解体され、該新幹線下に第4代駅本屋設置。

    笠寺駅

  • 笠寺駅<br /><br /><br /><br />旅客駅構内

    笠寺駅



    旅客駅構内

    笠寺駅

  • 笠寺駅<br /><br /><br />駅構内<br />全景

    笠寺駅


    駅構内
    全景

    笠寺駅

  • 笠寺駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />遠目に日本貨物鉄道所有EF64型1000番台電気機関車が駐留。<br />但し、該機関車は本来の用途は中央本線の如き急勾配運用が主目的であり、東海道本線での使用は半ば邪道である。

    笠寺駅



    駅構内
    遠目に日本貨物鉄道所有EF64型1000番台電気機関車が駐留。
    但し、該機関車は本来の用途は中央本線の如き急勾配運用が主目的であり、東海道本線での使用は半ば邪道である。

    笠寺駅

  • 笠寺-熱田Ⅱ間<br /><br /><br /><br />笠寺踏切<br /><br />名古屋市南区塩屋町6-1<br />東海道本線笠寺駅 徒歩5分

    笠寺-熱田Ⅱ間



    笠寺踏切

    名古屋市南区塩屋町6-1
    東海道本線笠寺駅 徒歩5分

    笠寺駅

  • 笠寺-熱田Ⅱ間<br /><br /><br /><br />貨物線分岐予定点<br /><br />名古屋市南区塩屋町6‐1<br />東海道本線笠寺駅 徒歩5分

    笠寺-熱田Ⅱ間



    貨物線分岐予定点

    名古屋市南区塩屋町6‐1
    東海道本線笠寺駅 徒歩5分

    笠寺駅

  • 笠寺-熱田Ⅱ間<br /><br /><br /><br />山崎川(やまざきかわ)橋梁<br /><br />名古屋市南区塩屋町1-1<br />名古屋鉄道名古屋本線堀田駅 徒歩13分

    笠寺-熱田Ⅱ間



    山崎川(やまざきかわ)橋梁

    名古屋市南区塩屋町1-1
    名古屋鉄道名古屋本線堀田駅 徒歩13分

  • 笠寺-熱田間<br /><br /><br /><br />山崎川橋梁<br />橋梁自体は複々線工事時代に架替済。<br /><br />名古屋市南区戸部下1‐4<br />名古屋鉄道名古屋本線堀田駅 徒歩11分

    笠寺-熱田間



    山崎川橋梁
    橋梁自体は複々線工事時代に架替済。

    名古屋市南区戸部下1‐4
    名古屋鉄道名古屋本線堀田駅 徒歩11分

  • 笠寺-熱田Ⅱ間<br /><br /><br />笠寺高架橋<br />神戸方<br />終端部<br /><br />名古屋市熱田区内浜町1‐1<br />名古屋鉄道名古屋本線堀田駅 徒歩8分

    笠寺-熱田Ⅱ間


    笠寺高架橋
    神戸方
    終端部

    名古屋市熱田区内浜町1‐1
    名古屋鉄道名古屋本線堀田駅 徒歩8分

  • 笠寺-熱田Ⅱ間<br /><br /><br /><br />東海道(とうかいどう)踏切<br /><br />名古屋市熱田区内浜町1-1<br />名古屋鉄道名古屋本線堀田駅 徒歩8分

    笠寺-熱田Ⅱ間



    東海道(とうかいどう)踏切

    名古屋市熱田区内浜町1-1
    名古屋鉄道名古屋本線堀田駅 徒歩8分

  • 笠寺-熱田Ⅱ間<br /><br /><br /><br />東海道踏切地蔵堂<br />該踏切は轢死者発生が多く、仏教信徒が多い中部地区を背景に斃死者を厚く弔う。<br /><br />名古屋市熱田区内浜町1-1<br />名古屋鉄道名古屋本線堀田駅 徒歩8分

    笠寺-熱田Ⅱ間



    東海道踏切地蔵堂
    該踏切は轢死者発生が多く、仏教信徒が多い中部地区を背景に斃死者を厚く弔う。

    名古屋市熱田区内浜町1-1
    名古屋鉄道名古屋本線堀田駅 徒歩8分

  • 笠寺-熱田Ⅱ間<br /><br /><br /><br />新堀川運河(しんほりかわ うんが)橋梁<br />上流側<br /><br />名古屋市熱田区桃園町3-23<br />名古屋鉄道名古屋本線堀田駅 徒歩3分

    笠寺-熱田Ⅱ間



    新堀川運河(しんほりかわ うんが)橋梁
    上流側

    名古屋市熱田区桃園町3-23
    名古屋鉄道名古屋本線堀田駅 徒歩3分

  • 笠寺-熱田Ⅱ間<br /><br /><br /><br />新堀川運河橋梁<br />下流側<br /><br />名古屋市熱田区神宮4‐9<br />名古屋鉄道名古屋本線堀田駅 徒歩5分<br />

    笠寺-熱田Ⅱ間



    新堀川運河橋梁
    下流側

    名古屋市熱田区神宮4‐9
    名古屋鉄道名古屋本線堀田駅 徒歩5分

  • 笠寺-熱田Ⅱ間<br /><br /><br /><br />新堀川運河橋梁<br />下流側<br /><br />名古屋市熱田区神宮4-9<br />名古屋鉄道名古屋本線堀田駅 徒歩7分

    笠寺-熱田Ⅱ間



    新堀川運河橋梁
    下流側

    名古屋市熱田区神宮4-9
    名古屋鉄道名古屋本線堀田駅 徒歩7分

  • 笠寺‐熱田Ⅱ間<br /><br /><br /><br />新堀川運河<br />引込線橋台跡が残存。<br /><br />名古屋市熱田区神宮4-9<br />名古屋鉄道名古屋本線堀田駅 徒歩7分

    笠寺‐熱田Ⅱ間



    新堀川運河
    引込線橋台跡が残存。

    名古屋市熱田区神宮4-9
    名古屋鉄道名古屋本線堀田駅 徒歩7分

  • 笠寺-熱田間<br /><br /><br /><br />初代熱田駅跡<br /><br />名古屋市熱田区神宮4-9<br />名古屋鉄道名古屋本線堀田駅 徒歩7分

    笠寺-熱田間



    初代熱田駅跡

    名古屋市熱田区神宮4-9
    名古屋鉄道名古屋本線堀田駅 徒歩7分

  • 笠寺-熱田間<br /><br /><br /><br />初代熱田駅跡<br />該駅初代駅開設目的は、当時の熱田港中継仲介の貨物輸送だった。<br /><br />名古屋市熱田区神宮4-9<br />名古屋鉄道名古屋本線堀田駅 徒歩7分

    笠寺-熱田間



    初代熱田駅跡
    該駅初代駅開設目的は、当時の熱田港中継仲介の貨物輸送だった。

    名古屋市熱田区神宮4-9
    名古屋鉄道名古屋本線堀田駅 徒歩7分

  • 笠寺-熱田Ⅱ間<br /><br /><br />初代熱田駅跡<br />該駅は、明治19年(1886年)3月1日開業である。<br />然し、該駅に於ける成立過程は複雑であり、初代該駅は現在位置より東京方1.8km地点、即ち、現在の該市瑞穂区浮島町付近に設置され、熱田港を中継する川運貨物輸送が主だった。<br />然るに、鉄道輸送が順調を見せるに従い施設狭隘が顕著になり、明治29年(1896年)9月1日附で現位置に移転した。<br /><br />名古屋市熱田区神宮4‐9<br />名古屋鉄道名古屋本線堀田駅 徒歩7分

    笠寺-熱田Ⅱ間


    初代熱田駅跡
    該駅は、明治19年(1886年)3月1日開業である。
    然し、該駅に於ける成立過程は複雑であり、初代該駅は現在位置より東京方1.8km地点、即ち、現在の該市瑞穂区浮島町付近に設置され、熱田港を中継する川運貨物輸送が主だった。
    然るに、鉄道輸送が順調を見せるに従い施設狭隘が顕著になり、明治29年(1896年)9月1日附で現位置に移転した。

    名古屋市熱田区神宮4‐9
    名古屋鉄道名古屋本線堀田駅 徒歩7分

  • 笠寺-熱田Ⅱ間<br /><br /><br /><br />神宮前踏切跡<br />愛知電気鐵道開業以来、該駅下車後、熱田神宮参拝者利用でごった返した該踏切は、高速列車が往来する為に、保安上の理由から昨年10月末に人道跨線橋竣工と同時に廃止された。<br /><br />名古屋市熱田区内浜町1-1<br />名古屋鉄道名古屋本線神宮前駅 徒歩1分

    笠寺-熱田Ⅱ間



    神宮前踏切跡
    愛知電気鐵道開業以来、該駅下車後、熱田神宮参拝者利用でごった返した該踏切は、高速列車が往来する為に、保安上の理由から昨年10月末に人道跨線橋竣工と同時に廃止された。

    名古屋市熱田区内浜町1-1
    名古屋鉄道名古屋本線神宮前駅 徒歩1分

    神宮前駅

  • 熱田駅<br /><br /><br /><br />駅前通

    熱田駅



    駅前通

    熱田駅

  • 熱田(あつた)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治19年(1886年)3月1日開業である。<br />然し、該駅に於ける成立過程は複雑であり、初代該駅は現在位置より東京方1.8km地点、即ち、現在の該市瑞穂区浮島町付近に設置され、熱田港を中継する川運貨物輸送が主だった。<br />然るに、鉄道輸送が順調を見せるに従い施設狭隘が顕著になり、明治29年(1896年)9月1日附で現位置に移転した。<br />新拠点に対処すべく、熱田港対該新駅間連絡は新堀川運河を掘削使用する事で解決された。<br />該新駅隣接地に、明治19年(1886年)3月1日に鐵道車輌製造所が創業した。<br />現在の日本車輌製造(にほん しゃりょう せいぞう)である。<br />該駅が現位置に移転時に該社も該駅隣接地に移転し、当初は鉄道関係備品製造、後に、鉄道車輌製造を開始し、該地域に於ける重化学工業嚆矢の存在となった。<br />昭和17年(1942年)11月15日時刻改正は、関門隧道旅客営業開始に伴う全国規模の大改正で、該時刻改正で、鐵道省は、従来の12時間制から24時間制採用に移行した。<br />更に、該j国改正と同時に旅客規定が改正され、従来に於ける優等列車種別は、特別急行列車、及び、普通急行列車の2区分だったものを、該時刻改正を期に、前者を第1種急行列車、後者を第2種急行列車に変更した。<br />即ち、当時の特別急行列車に於ける2等座席車、及び、3等座席車は、当該列車号車指定として駅発売の定員制度であり、立席利用は一切認められていなかったが、該改正に依り定員制度が撤廃され、旅行証明書持参者は当該列車乗車の為に無制限で急行券が購入可能になった。<br />此の為に、当該列車は、朝鮮、満洲連絡客、若しくは、九州、沖縄、台湾連絡客でデッキまで超満員状態が現出した。<br />該時刻改正に依り、該駅には、時刻改正前の特別急行 櫻 第3、4列車が第1種急行列車東京-鹿児島間運転となり、1、2等寝台車、洋食堂車連結2、3等座席車連結列車、及び、第5、6列車東京-博多間運転 2等寝台車、和食堂車連結、2、3等座席車連結列車が該駅に停車した。<br />該駅は、官幣大社 熱田神宮への最寄駅として、皇族や政府高官参拝者利用の為の停車であると同時に、該駅周辺に当時の我が国に於ける航空産業に於ける基幹が存在した事も停車理由となり得たであろう事は想像に難くない。<br />該駅は、当時の中京地区重工業製品搬送拠点の1箇所だった事から、且つ、我が国に於ける航空機製造産業に於ける積出駅で、対名古屋鐵道連絡貨車授受取扱駅でもあった事から、当然の帰着として、連合国軍戦略部隊空爆対象地点とされた為に、数次に亙る空襲で該駅構内は駅本屋以下、殆どの施設が全焼被害を受け該駅機能は壊滅状態のまま終戦を迎えた。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/atsuta/index.html

    熱田(あつた)駅



    該駅は、明治19年(1886年)3月1日開業である。
    然し、該駅に於ける成立過程は複雑であり、初代該駅は現在位置より東京方1.8km地点、即ち、現在の該市瑞穂区浮島町付近に設置され、熱田港を中継する川運貨物輸送が主だった。
    然るに、鉄道輸送が順調を見せるに従い施設狭隘が顕著になり、明治29年(1896年)9月1日附で現位置に移転した。
    新拠点に対処すべく、熱田港対該新駅間連絡は新堀川運河を掘削使用する事で解決された。
    該新駅隣接地に、明治19年(1886年)3月1日に鐵道車輌製造所が創業した。
    現在の日本車輌製造(にほん しゃりょう せいぞう)である。
    該駅が現位置に移転時に該社も該駅隣接地に移転し、当初は鉄道関係備品製造、後に、鉄道車輌製造を開始し、該地域に於ける重化学工業嚆矢の存在となった。
    昭和17年(1942年)11月15日時刻改正は、関門隧道旅客営業開始に伴う全国規模の大改正で、該時刻改正で、鐵道省は、従来の12時間制から24時間制採用に移行した。
    更に、該j国改正と同時に旅客規定が改正され、従来に於ける優等列車種別は、特別急行列車、及び、普通急行列車の2区分だったものを、該時刻改正を期に、前者を第1種急行列車、後者を第2種急行列車に変更した。
    即ち、当時の特別急行列車に於ける2等座席車、及び、3等座席車は、当該列車号車指定として駅発売の定員制度であり、立席利用は一切認められていなかったが、該改正に依り定員制度が撤廃され、旅行証明書持参者は当該列車乗車の為に無制限で急行券が購入可能になった。
    此の為に、当該列車は、朝鮮、満洲連絡客、若しくは、九州、沖縄、台湾連絡客でデッキまで超満員状態が現出した。
    該時刻改正に依り、該駅には、時刻改正前の特別急行 櫻 第3、4列車が第1種急行列車東京-鹿児島間運転となり、1、2等寝台車、洋食堂車連結2、3等座席車連結列車、及び、第5、6列車東京-博多間運転 2等寝台車、和食堂車連結、2、3等座席車連結列車が該駅に停車した。
    該駅は、官幣大社 熱田神宮への最寄駅として、皇族や政府高官参拝者利用の為の停車であると同時に、該駅周辺に当時の我が国に於ける航空産業に於ける基幹が存在した事も停車理由となり得たであろう事は想像に難くない。
    該駅は、当時の中京地区重工業製品搬送拠点の1箇所だった事から、且つ、我が国に於ける航空機製造産業に於ける積出駅で、対名古屋鐵道連絡貨車授受取扱駅でもあった事から、当然の帰着として、連合国軍戦略部隊空爆対象地点とされた為に、数次に亙る空襲で該駅構内は駅本屋以下、殆どの施設が全焼被害を受け該駅機能は壊滅状態のまま終戦を迎えた。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/atsuta/index.html

    熱田駅

  • 熱田駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />近接

    熱田駅



    駅本屋
    近接

    熱田駅

  • 熱田駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />全景<br />手前旧貨物取扱所は貨物取扱業務廃止に依り民営直前に閉鎖後30年経過。<br />現在使用施設は該駅最盛期の約10%前後

    熱田駅



    駅本屋
    全景
    手前旧貨物取扱所は貨物取扱業務廃止に依り民営直前に閉鎖後30年経過。
    現在使用施設は該駅最盛期の約10%前後

    熱田駅

  • 熱田駅<br /><br /><br /><br />出改札口<br />急行列車全盛期に停車駅だった痕跡雰囲気は皆無状態。

    熱田駅



    出改札口
    急行列車全盛期に停車駅だった痕跡雰囲気は皆無状態。

    熱田駅

  • 熱田駅<br /><br /><br />旅客跨線橋<br />内部

    熱田駅


    旅客跨線橋
    内部

    熱田駅

  • 熱田駅<br /><br /><br /><br />旧旅客第1番ホーム

    熱田駅



    旧旅客第1番ホーム

    熱田駅

  • 熱田駅<br /><br /><br /><br />旧旅客第1番ホーム<br />日本国有鉄道は欧州に於ける旅客、及び、自動車同時輸送に着眼し、該システム導入を検討した結果、名古屋‐北九州(東小倉)間運転が決定され、昭和61年(1986年)12月26日下り列車より運用開始した。<br />運転当初、利用者側から好評を以って迎えられたが、翌昭和62年(1987年)4月1日に民営分割が実施された事で、該列車を取巻く環境に激変が発生した。<br />即ち、民営分割に依り、運賃料金は各関係会社距離に応じた配分関係となった為に、九州旅客鉄道は下関‐小倉間12.3km分しか収入と成り得ず、且つ、小倉駅は純然たる旅客駅故に自動車積降が不可能な事から、隣駅 東小倉駅を活用せざるを得なかったが、該駅は日本貨物鉄道所属駅であり、故に、九州旅客鉄道は日本貨物鉄道に対し施設利用料を支払わねばならず、該列車とは九州旅客鉄道にとってお荷物以外何物でもなかった。<br />それ故、数年経ずして九州旅客鉄道から運転取止めに対する強硬意見が提出され、平成6年(1994年)を以って運転休止となった。

    熱田駅



    旧旅客第1番ホーム
    日本国有鉄道は欧州に於ける旅客、及び、自動車同時輸送に着眼し、該システム導入を検討した結果、名古屋‐北九州(東小倉)間運転が決定され、昭和61年(1986年)12月26日下り列車より運用開始した。
    運転当初、利用者側から好評を以って迎えられたが、翌昭和62年(1987年)4月1日に民営分割が実施された事で、該列車を取巻く環境に激変が発生した。
    即ち、民営分割に依り、運賃料金は各関係会社距離に応じた配分関係となった為に、九州旅客鉄道は下関‐小倉間12.3km分しか収入と成り得ず、且つ、小倉駅は純然たる旅客駅故に自動車積降が不可能な事から、隣駅 東小倉駅を活用せざるを得なかったが、該駅は日本貨物鉄道所属駅であり、故に、九州旅客鉄道は日本貨物鉄道に対し施設利用料を支払わねばならず、該列車とは九州旅客鉄道にとってお荷物以外何物でもなかった。
    それ故、数年経ずして九州旅客鉄道から運転取止めに対する強硬意見が提出され、平成6年(1994年)を以って運転休止となった。

    熱田駅

  • 熱田駅<br /><br /><br /><br />旧旅客第1番ホーム

    熱田駅



    旧旅客第1番ホーム

    熱田駅

  • 熱田駅<br /><br /><br /><br />旧旅客第1番ホーム<br />側壁<br />時代変化に依る車輌高変貌の都度、積増を施工。

    熱田駅



    旧旅客第1番ホーム
    側壁
    時代変化に依る車輌高変貌の都度、積増を施工。

    熱田駅

  • 熱田駅<br /><br /><br /><br />旧第1ホーム<br />全景

    熱田駅



    旧第1ホーム
    全景

    熱田駅

  • 熱田駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム(旧第3番ホーム)

    熱田駅



    第2番ホーム(旧第3番ホーム)

    熱田駅

  • 熱田駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム(旧第3番ホーム)

    熱田駅



    第2番ホーム(旧第3番ホーム)

    熱田駅

  • 熱田駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム(旧第3番ホーム)<br />背景から見て取れる様に、金山地区と比較して該駅周辺に高層マンションは少ない。

    熱田駅



    第2番ホーム(旧第3番ホーム)
    背景から見て取れる様に、金山地区と比較して該駅周辺に高層マンションは少ない。

    熱田駅

  • 熱田駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム(旧第2番ホーム)<br />因みに、該駅ホーム財産票記載に拠れば、該駅ホーム上屋設置は明治43年(1910年)とされる。<br />然るに、該支柱古軌条は、外塗を原因とする判読不能が多数存在する為に、解読不能ばかりだが、解読判明分には、1912年(明治45年\大正元年)米イリノイ製鋼所製造軌条が存在する等々、疑問を呈さぜるを得ない。<br />更に、該駅は昭和20年(1945年)に連合軍戦略爆撃対の空爆を数次に受けた為に、該駅構内施設の殆んどが壊滅状態となった際に、該ホーム上屋も被災したが、焼失したのは上屋木造屋根部分のみであり、骨格たる古軌条支柱は無事だった事から、屋根張をさせる事で再生可能と判定され段階で、資料喪失を理由に財産票年を算出したのではないかと推定される。<br />因みに、当時の内閣鐵道院、及び、鐵道省の方針に依り、軌条最低使用限度を概ね20年と設定していた事に鑑み、故に、該ホーム上屋は昭和初期構築物と推定される。

    熱田駅



    第1番ホーム(旧第2番ホーム)
    因みに、該駅ホーム財産票記載に拠れば、該駅ホーム上屋設置は明治43年(1910年)とされる。
    然るに、該支柱古軌条は、外塗を原因とする判読不能が多数存在する為に、解読不能ばかりだが、解読判明分には、1912年(明治45年\大正元年)米イリノイ製鋼所製造軌条が存在する等々、疑問を呈さぜるを得ない。
    更に、該駅は昭和20年(1945年)に連合軍戦略爆撃対の空爆を数次に受けた為に、該駅構内施設の殆んどが壊滅状態となった際に、該ホーム上屋も被災したが、焼失したのは上屋木造屋根部分のみであり、骨格たる古軌条支柱は無事だった事から、屋根張をさせる事で再生可能と判定され段階で、資料喪失を理由に財産票年を算出したのではないかと推定される。
    因みに、当時の内閣鐵道院、及び、鐵道省の方針に依り、軌条最低使用限度を概ね20年と設定していた事に鑑み、故に、該ホーム上屋は昭和初期構築物と推定される。

    熱田駅

  • 熱田駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム(旧第2番ホーム)<br />旅客ホーム上屋支柱古軌条<br />DARLINGTON IRON OH 1906ⅠⅠⅠⅠⅠⅠⅠ I.R.J.<br />(英ダーリントン アイアン社 1906年7月製造 鐵道院発注品)<br /><br />英國ダーリントン・アイアン社は我が国鉄道創業時に於ける京濱間、及び、京阪神間開通時に条鋼たる軌条類一式納入の軌条、及び、橋梁製造企業。

    熱田駅



    第1番ホーム(旧第2番ホーム)
    旅客ホーム上屋支柱古軌条
    DARLINGTON IRON OH 1906ⅠⅠⅠⅠⅠⅠⅠ I.R.J.
    (英ダーリントン アイアン社 1906年7月製造 鐵道院発注品)

    英國ダーリントン・アイアン社は我が国鉄道創業時に於ける京濱間、及び、京阪神間開通時に条鋼たる軌条類一式納入の軌条、及び、橋梁製造企業。

    熱田駅

  • 熱田駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム(旧第2番ホーム)

    熱田駅



    第1番ホーム(旧第2番ホーム)

    熱田駅

  • 熱田駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム(旧第2番ホーム)

    熱田駅



    第1番ホーム(旧第2番ホーム)

    熱田駅

  • 熱田駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム(旧第3番ホーム)

    熱田駅



    第2番ホーム(旧第3番ホーム)

    熱田駅

  • 熱田駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム(旧第3番ホーム)

    熱田駅



    第2番ホーム(旧第3番ホーム)

    熱田駅

  • 熱田駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム(旧第2番ホーム)<br />東京方端部

    熱田駅



    第1番ホーム(旧第2番ホーム)
    東京方端部

    熱田駅

  • 熱田駅<br /><br /><br /><br />日本国有鉄道名古屋鉄道西連絡線跡<br />昭和40年(1965年)8月31日まで、両社間貨車授受を行っていたが、名古屋臨海鉄道開業に依り、貨車授受は笠寺駅取扱に移管され、該駅貨車授受取扱業務は翌9月1日を以って廃止された。<br />然るに、線路は残存した事から、該駅貨物取扱所西連絡線を使用し、昭和42年(1967年)夏に破天荒な臨時列車が運転された。<br />即ち、名古屋鉄道所有の急行用気動車キハ8000系6両を日本国有鉄道名古屋鉄道管理局が一時借用し、名古屋駅23時28分発 高山駅行 臨時急行列車りんどう号として運転された。<br />該社は、旧名岐鐵道時代より柳橋・新名古屋-下呂間に週末に限定し、該社デハボ750型車内を便所付一部座敷席に改造し、鵜沼より高山本線旅客列車に併結させていたが、日華事変(にっか じへん)(昭和12年(1937年)7月8日~昭和16年(1941年)12月8日)以降は、該社建築限界の関係で車体幅が狭隘な鐵道省所有ホハ12000型2両を該社線に毎日乗入を実施させていたが、大東亜戦争末期に中止に追い込まれてしまった。<br />戦争終結後、該社にとって高山本線乗入復活は総意悲願でもあり、日本国有鉄道名古屋鉄道管理局に対し、数次に亘る請願の結果、該請願が通過した。<br />因みに、当時の国鉄は、社有気動車の国鉄乗入に対し小田急電鉄新宿-松田-御殿場間運転列車の如き独自性を有した車輌導入に寛容な態度だったが、国鉄車輌に車輌単位併結の場合は、可能な限り国鉄車輌と同一とする事を要求された事から、南海電気鉄道 南海難波-和歌山市-白浜間、島原鉄道 口之津-諫早-長崎・佐世保・小倉間乗入車輌は当時の国鉄キハ55型に準拠、富士急行 河口湖-大月-新宿間乗入車輌はキハ58型に準拠した車輌が製造された。<br />然るに、編成単位乗入に対しては車輌製造基準は緩く、独自でも可能だった事から、該車は台車を含め床下機器こそ当時の国鉄キハ58型構造に準拠したが、床上構造は該社7000系パノラマ号電車に準拠し、全車冷房付2等車(現 普通車)は固定クロスシート時代に転換式シート設備と云う、当時の国鉄急行気動車に存在しない特異で大胆な構造だった。<br />因みに、当時の全国の国鉄急行用気動車で2等(現 普通車)用車輌で冷房付車輌は1%未満、1等(現 グリーン車)用車輌では、北海道用キロ26型0%、キロ27型、及び、キロ28型では33%、準急用気動車キロ25型は0%で冷房改造対象外だった事から、昭和44年(1969年)運賃料金改正時に、殆どの車輌がキハ26型400番台普通車に格下された時代に、該社キハ8000系は準急用気動車としては正に例外中の例外的存在だった。<br />該車は、昭和40年(1965年)6月より、日本車輌製造本店で順次完成し、同年8月より 準急たかやま号として、神宮前-新鵜沼(鵜沼)-高山間に運転開始したが、当然ながら運転開始当初より全車両座席指定制だった。<br />該車輌は午前中に神宮前を出発し、午後、高山を出発後、神宮前到着後、該社線内に留置された。<br />それ故に、名古屋鉄道管理局側より、夏季繁忙期に於いて、夜間留置時間帯の有効活用案として該車輌活用を提議して来たもので、該貨物取扱線を経由し熱田駅構内に回送後、深夜臨時急行列車として1等車2両2等車4両計6両で運転された。<br />運転日は、同年7月15、22、29日、及び、8月5、19、26日の6日間だったが、地元名古屋では評判の車輌であり、全車座席指定ながら発売日当日に完売満席となる盛況だった。<br />該列車運転は利用者側から好評だった事から、名古屋鉄道管理局は次期翌年春夏期の運転を計画したが、日本国有鉄道本社から私鉄車輌借用運転は好ましからずとの反対意見が出され、結局、該車輌借用運転は該期のみの限定設定に終った。

    熱田駅



    日本国有鉄道名古屋鉄道西連絡線跡
    昭和40年(1965年)8月31日まで、両社間貨車授受を行っていたが、名古屋臨海鉄道開業に依り、貨車授受は笠寺駅取扱に移管され、該駅貨車授受取扱業務は翌9月1日を以って廃止された。
    然るに、線路は残存した事から、該駅貨物取扱所西連絡線を使用し、昭和42年(1967年)夏に破天荒な臨時列車が運転された。
    即ち、名古屋鉄道所有の急行用気動車キハ8000系6両を日本国有鉄道名古屋鉄道管理局が一時借用し、名古屋駅23時28分発 高山駅行 臨時急行列車りんどう号として運転された。
    該社は、旧名岐鐵道時代より柳橋・新名古屋-下呂間に週末に限定し、該社デハボ750型車内を便所付一部座敷席に改造し、鵜沼より高山本線旅客列車に併結させていたが、日華事変(にっか じへん)(昭和12年(1937年)7月8日~昭和16年(1941年)12月8日)以降は、該社建築限界の関係で車体幅が狭隘な鐵道省所有ホハ12000型2両を該社線に毎日乗入を実施させていたが、大東亜戦争末期に中止に追い込まれてしまった。
    戦争終結後、該社にとって高山本線乗入復活は総意悲願でもあり、日本国有鉄道名古屋鉄道管理局に対し、数次に亘る請願の結果、該請願が通過した。
    因みに、当時の国鉄は、社有気動車の国鉄乗入に対し小田急電鉄新宿-松田-御殿場間運転列車の如き独自性を有した車輌導入に寛容な態度だったが、国鉄車輌に車輌単位併結の場合は、可能な限り国鉄車輌と同一とする事を要求された事から、南海電気鉄道 南海難波-和歌山市-白浜間、島原鉄道 口之津-諫早-長崎・佐世保・小倉間乗入車輌は当時の国鉄キハ55型に準拠、富士急行 河口湖-大月-新宿間乗入車輌はキハ58型に準拠した車輌が製造された。
    然るに、編成単位乗入に対しては車輌製造基準は緩く、独自でも可能だった事から、該車は台車を含め床下機器こそ当時の国鉄キハ58型構造に準拠したが、床上構造は該社7000系パノラマ号電車に準拠し、全車冷房付2等車(現 普通車)は固定クロスシート時代に転換式シート設備と云う、当時の国鉄急行気動車に存在しない特異で大胆な構造だった。
    因みに、当時の全国の国鉄急行用気動車で2等(現 普通車)用車輌で冷房付車輌は1%未満、1等(現 グリーン車)用車輌では、北海道用キロ26型0%、キロ27型、及び、キロ28型では33%、準急用気動車キロ25型は0%で冷房改造対象外だった事から、昭和44年(1969年)運賃料金改正時に、殆どの車輌がキハ26型400番台普通車に格下された時代に、該社キハ8000系は準急用気動車としては正に例外中の例外的存在だった。
    該車は、昭和40年(1965年)6月より、日本車輌製造本店で順次完成し、同年8月より 準急たかやま号として、神宮前-新鵜沼(鵜沼)-高山間に運転開始したが、当然ながら運転開始当初より全車両座席指定制だった。
    該車輌は午前中に神宮前を出発し、午後、高山を出発後、神宮前到着後、該社線内に留置された。
    それ故に、名古屋鉄道管理局側より、夏季繁忙期に於いて、夜間留置時間帯の有効活用案として該車輌活用を提議して来たもので、該貨物取扱線を経由し熱田駅構内に回送後、深夜臨時急行列車として1等車2両2等車4両計6両で運転された。
    運転日は、同年7月15、22、29日、及び、8月5、19、26日の6日間だったが、地元名古屋では評判の車輌であり、全車座席指定ながら発売日当日に完売満席となる盛況だった。
    該列車運転は利用者側から好評だった事から、名古屋鉄道管理局は次期翌年春夏期の運転を計画したが、日本国有鉄道本社から私鉄車輌借用運転は好ましからずとの反対意見が出され、結局、該車輌借用運転は該期のみの限定設定に終った。

    熱田駅

  • 熱田駅<br /><br /><br />日本車輌製造(にほん しゃりょう せいぞう)本社<br />該社は、鉄道車輌製造企業として創立された。<br />即ち、明治中期に於ける我が国の技術力では、蒸気機関車製造は鋼材から全部を完全国産とするのは不可能であり、鋼鉄製品を欧米から輸入組立が限界だった。<br />然し、車輪車軸は輸入に頼わざるを得なかったが、他方、我が国には古来より木造建築技術が存在した事から、客車、及び、貨車製造は明治初期から可能だった事実は特筆されるべきである。<br />驚くべき事は、当時の多数の零細企業が鉄道車輌製造に関与する内、現在、我が国のみならず世界的文具製造企業として有数大手たるコクヨが、実は、明治期の一時期に客車製造を行っていた事実は、該社内に於いてですら忘却された史実である。<br />該駅が現位置に移転時に該社も該駅現在地に移転し、当初は鉄道関係備品製造、後に、鉄道車輌製造を開始し、該地域に於ける重化学工業嚆矢の存在となった。<br /><br />名古屋市熱田区三本松町1‐1<br />東海道本線熱田駅 徒歩6分

    熱田駅


    日本車輌製造(にほん しゃりょう せいぞう)本社
    該社は、鉄道車輌製造企業として創立された。
    即ち、明治中期に於ける我が国の技術力では、蒸気機関車製造は鋼材から全部を完全国産とするのは不可能であり、鋼鉄製品を欧米から輸入組立が限界だった。
    然し、車輪車軸は輸入に頼わざるを得なかったが、他方、我が国には古来より木造建築技術が存在した事から、客車、及び、貨車製造は明治初期から可能だった事実は特筆されるべきである。
    驚くべき事は、当時の多数の零細企業が鉄道車輌製造に関与する内、現在、我が国のみならず世界的文具製造企業として有数大手たるコクヨが、実は、明治期の一時期に客車製造を行っていた事実は、該社内に於いてですら忘却された史実である。
    該駅が現位置に移転時に該社も該駅現在地に移転し、当初は鉄道関係備品製造、後に、鉄道車輌製造を開始し、該地域に於ける重化学工業嚆矢の存在となった。

    名古屋市熱田区三本松町1‐1
    東海道本線熱田駅 徒歩6分

    熱田駅

  • 熱田駅<br /><br /><br />名古屋鉄道神宮前西駅跡<br />常滑線発着貨車授受用地<br />愛知電気鐵道常滑線は、該社東部線と単線跨線橋で連絡こそ可能だったが、該連絡跨線橋使用可能なのは一部貨物列車に限定され、全旅客列車は西駅発着とされた。<br />大東亜戦争中は、該線沿線発着貨車は、全部、該駅中継扱だった。<br />

    熱田駅


    名古屋鉄道神宮前西駅跡
    常滑線発着貨車授受用地
    愛知電気鐵道常滑線は、該社東部線と単線跨線橋で連絡こそ可能だったが、該連絡跨線橋使用可能なのは一部貨物列車に限定され、全旅客列車は西駅発着とされた。
    大東亜戦争中は、該線沿線発着貨車は、全部、該駅中継扱だった。

    熱田駅

  • 熱田-金山間<br /><br /><br /><br />旧貨物取扱施設跡地<br />遠目の金山駅付近と比較し該地周辺倉庫群。

    熱田-金山間



    旧貨物取扱施設跡地
    遠目の金山駅付近と比較し該地周辺倉庫群。

    熱田駅

  • 旧帝國陸軍名古屋兵器廠跡

    旧帝國陸軍名古屋兵器廠跡

  • 中京倉庫<br /><br /><br /><br />旧帝國陸軍名古屋兵器廠<br /><br />名古屋市熱田区六野1-2<br />

    中京倉庫



    旧帝國陸軍名古屋兵器廠

    名古屋市熱田区六野1-2

  • 東海道中央短路連絡線廃止線跡<br /><br /><br /><br />東海道本線側起点部<br />該線は、中央本線貨物列車を、当時、名古屋地区に於ける貨物取扱中心地だった熱田駅に直通させるべく、熱田-古渡(ふるわたり)間1.8kmが建設され、大正7年(1918年)9月10日に開通した。<br />然し、熱田駅構内は狭隘で拡張の余地が無く、且つ、稲澤、及び、笹島の開業に依り、貨物取扱が集約された事から、該路線は次第に不要施設化し、昭和5年(1930年)3月31日を以って列車運行が終了し、翌4月1日附を以って廃止された。<br />旧路線廃止跡の大部分は道路化した。<br /><br />名古屋市熱田区六野1-2<br />東海道本線金山駅 徒歩10分

    東海道中央短路連絡線廃止線跡



    東海道本線側起点部
    該線は、中央本線貨物列車を、当時、名古屋地区に於ける貨物取扱中心地だった熱田駅に直通させるべく、熱田-古渡(ふるわたり)間1.8kmが建設され、大正7年(1918年)9月10日に開通した。
    然し、熱田駅構内は狭隘で拡張の余地が無く、且つ、稲澤、及び、笹島の開業に依り、貨物取扱が集約された事から、該路線は次第に不要施設化し、昭和5年(1930年)3月31日を以って列車運行が終了し、翌4月1日附を以って廃止された。
    旧路線廃止跡の大部分は道路化した。

    名古屋市熱田区六野1-2
    東海道本線金山駅 徒歩10分

  • 金山(かなやま)駅<br /><br /><br /><br />南口<br />該駅は、平成元年(1989年)7月9日開業である。<br />現在の金山駅所在地は、元来、金山台地開削地である。<br />逓信省鐵道局は、当初計画では、該地に機関庫設置を立案し、実際に工事に着工したが、該地は周囲が崖に囲まれ土地狭隘を理由に、将来に於ける拡張困難と判断された事から、該地への機関庫設置を放棄し、改めて、初代清洲延長たる明治19年(1886年)4月に初代名護屋駅構内に設置開所した。<br />初代名護屋駅は、翌明治20年(1887年)4月25日附で名古屋に名称変更され、更に、明治29年(1896年)9月1日附で、現在の名鉄名古屋駅付近に移転したが、該機関庫は継続して元駅付近に存在した。<br />他方、該機関庫設置予定地は空地のまま昭和10年代後半を迎えた。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kanayama/index.html

    金山(かなやま)駅



    南口
    該駅は、平成元年(1989年)7月9日開業である。
    現在の金山駅所在地は、元来、金山台地開削地である。
    逓信省鐵道局は、当初計画では、該地に機関庫設置を立案し、実際に工事に着工したが、該地は周囲が崖に囲まれ土地狭隘を理由に、将来に於ける拡張困難と判断された事から、該地への機関庫設置を放棄し、改めて、初代清洲延長たる明治19年(1886年)4月に初代名護屋駅構内に設置開所した。
    初代名護屋駅は、翌明治20年(1887年)4月25日附で名古屋に名称変更され、更に、明治29年(1896年)9月1日附で、現在の名鉄名古屋駅付近に移転したが、該機関庫は継続して元駅付近に存在した。
    他方、該機関庫設置予定地は空地のまま昭和10年代後半を迎えた。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kanayama/index.html

    金山駅 (愛知県)

  • 金山駅<br /><br /><br /><br />北口<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kanayama/index.html

    金山駅



    北口
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kanayama/index.html

    金山駅 (愛知県)

  • 熱田Ⅱ-金山間<br /><br /><br /><br />金山橋(かなやまばし)跨線橋<br />手前ホームは名古屋鉄道名古屋本線金山駅。

    熱田Ⅱ-金山間



    金山橋(かなやまばし)跨線橋
    手前ホームは名古屋鉄道名古屋本線金山駅。

    金山駅 (愛知県)

  • 金山駅<br /><br /><br /><br />中央本線用旅客ホーム<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kanayama/index.html

    金山駅



    中央本線用旅客ホーム
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kanayama/index.html

    金山駅 (愛知県)

  • 金山駅<br /><br /><br /><br />東海道本線用旅客ホーム<br />該駅は中央本線が先行開業した為に、中央本線が第1番、及び、第2番を名乗るのに対し、東海道本線は後発開業の為に第3番、及び、第4番を名乗る。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kanayama/index.html

    金山駅



    東海道本線用旅客ホーム
    該駅は中央本線が先行開業した為に、中央本線が第1番、及び、第2番を名乗るのに対し、東海道本線は後発開業の為に第3番、及び、第4番を名乗る。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kanayama/index.html

    金山駅 (愛知県)

  • 金山駅<br /><br /><br /><br />東海道本線用旅客ホーム<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kanayama/index.html

    金山駅



    東海道本線用旅客ホーム
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kanayama/index.html

    金山駅 (愛知県)

  • 金山駅<br /><br /><br /><br />東海道本線用旅客ホーム<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kanayama/index.html

    金山駅



    東海道本線用旅客ホーム
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kanayama/index.html

    金山駅 (愛知県)

  • 金山-尾頭橋間<br /><br /><br /><br />堀川(ほりかわ)橋梁<br />該橋は、明治19年(1886年)4月1日開通時の橋梁である。<br />初代橋梁は橋台橋脚を除き純木造木組構造で架橋されたが、その後、翌明治20年(1887年)4月に英國より該橋梁架橋鋼材一式が回着し、<br />C.A.W.ポーナル(C.A.W.POWNALL)(生没不詳)設計に依る、<br />錬鐙プレートガーダー橋桁15.2m(50ft)×1連<br />錬鐡プレートガーダー橋桁21.3m(70ft)×2連<br />計3連に架替られた。<br />因みに、輸入鋼材を含め架替費用は12134円とされる。<br />熱田Ⅱ-名古屋Ⅰ間は、明治32年(1899年)7月1日に複線化されたが、該新橋梁は、既成橋梁下流側に新規に複線構造橋梁を架橋し、第2代橋梁は使用停止されたが、翌明治33年(1900年)7月25日に、中央線名古屋Ⅰ-多治見間開通に伴い、該橋梁は該線用に転活用された。<br /><br />名古屋市中区正下4‐14<br />東海道本線金山駅南口 徒歩5分

    金山-尾頭橋間



    堀川(ほりかわ)橋梁
    該橋は、明治19年(1886年)4月1日開通時の橋梁である。
    初代橋梁は橋台橋脚を除き純木造木組構造で架橋されたが、その後、翌明治20年(1887年)4月に英國より該橋梁架橋鋼材一式が回着し、
    C.A.W.ポーナル(C.A.W.POWNALL)(生没不詳)設計に依る、
    錬鐙プレートガーダー橋桁15.2m(50ft)×1連
    錬鐡プレートガーダー橋桁21.3m(70ft)×2連
    計3連に架替られた。
    因みに、輸入鋼材を含め架替費用は12134円とされる。
    熱田Ⅱ-名古屋Ⅰ間は、明治32年(1899年)7月1日に複線化されたが、該新橋梁は、既成橋梁下流側に新規に複線構造橋梁を架橋し、第2代橋梁は使用停止されたが、翌明治33年(1900年)7月25日に、中央線名古屋Ⅰ-多治見間開通に伴い、該橋梁は該線用に転活用された。

    名古屋市中区正下4‐14
    東海道本線金山駅南口 徒歩5分

  • 金山-尾頭橋間<br /><br /><br /><br />堀川橋梁<br />東海道本線用橋梁<br />明治32年(1899年)7月13日開通。<br /><br />名古屋市中区正下4-14<br />東海道本線金山駅南口 徒歩5分

    金山-尾頭橋間



    堀川橋梁
    東海道本線用橋梁
    明治32年(1899年)7月13日開通。

    名古屋市中区正下4-14
    東海道本線金山駅南口 徒歩5分

  • 金山-尾頭橋間<br /><br /><br /><br />堀川橋梁<br />東海道本線用橋梁<br /><br />名古屋市中区正下4-14<br />東海道本線金山駅南口 徒歩5分

    金山-尾頭橋間



    堀川橋梁
    東海道本線用橋梁

    名古屋市中区正下4-14
    東海道本線金山駅南口 徒歩5分

  • 金山-尾頭橋間<br /><br /><br /><br />堀川橋梁<br />東海道本線用東京方橋台<br /><br />名古屋市中区正下4‐14<br />東海道本線金山駅南口 徒歩5分

    金山-尾頭橋間



    堀川橋梁
    東海道本線用東京方橋台

    名古屋市中区正下4‐14
    東海道本線金山駅南口 徒歩5分

  • 金山-尾頭橋間<br /><br /><br /><br />堀川橋梁<br />中央本専用東京方橋台<br /><br />名古屋市中区正下4‐14<br />東海道本線金山駅南口 徒歩5分

    金山-尾頭橋間



    堀川橋梁
    中央本専用東京方橋台

    名古屋市中区正下4‐14
    東海道本線金山駅南口 徒歩5分

  • 金山-尾頭橋間<br /><br /><br /><br />堀川橋梁<br />

    金山-尾頭橋間



    堀川橋梁

  • 金山-尾頭橋間<br /><br /><br /><br />堀川橋梁<br />該橋は、明治32年(1899年)7月13日附で、熱田Ⅱ‐名古屋Ⅰ間複線化時に新架橋された橋梁である。

    金山-尾頭橋間



    堀川橋梁
    該橋は、明治32年(1899年)7月13日附で、熱田Ⅱ‐名古屋Ⅰ間複線化時に新架橋された橋梁である。

  • 金山-尾頭橋間<br /><br /><br /><br />堀川橋梁<br />手前 明治32年(1899年)7月13日複線化時架橋橋梁<br />奥  明治19年(1886年)4月 1日開業時架橋の橋脚

    金山-尾頭橋間



    堀川橋梁
    手前 明治32年(1899年)7月13日複線化時架橋橋梁
    奥  明治19年(1886年)4月 1日開業時架橋の橋脚

  • 金山-尾頭橋間<br /><br /><br /><br />堀川橋梁<br />明治19年(1886年)4月1日開業時架橋橋脚<br />矩形断面橋脚<br />

    金山-尾頭橋間



    堀川橋梁
    明治19年(1886年)4月1日開業時架橋橋脚
    矩形断面橋脚

  • 金山-尾頭橋間<br /><br /><br /><br />堀川橋梁<br />矩形断面橋脚<br />該橋脚形態は、箱形断面であり、円形断面橋脚と比較し、流水圧増大時に圧迫される事から、架線橋梁橋脚使用例は少数。

    金山-尾頭橋間



    堀川橋梁
    矩形断面橋脚
    該橋脚形態は、箱形断面であり、円形断面橋脚と比較し、流水圧増大時に圧迫される事から、架線橋梁橋脚使用例は少数。

  • 金山-尾頭橋間<br /><br /><br /><br />堀川橋梁

    金山-尾頭橋間



    堀川橋梁

  • 金山-尾頭橋間<br /><br /><br /><br />堀川橋梁

    金山-尾頭橋間



    堀川橋梁

  • 金山-尾頭橋間<br /><br /><br /><br />堀川橋梁<br />東海道本線用橋梁<br />神戸方俯瞰<br /><br />名古屋市中川区尾頭橋1-47<br />東海道本線尾頭橋駅 徒歩7分

    金山-尾頭橋間



    堀川橋梁
    東海道本線用橋梁
    神戸方俯瞰

    名古屋市中川区尾頭橋1-47
    東海道本線尾頭橋駅 徒歩7分

  • 金山-尾頭橋間<br /><br /><br /><br />堀川橋梁<br />東海道本線用橋梁<br />神戸方<br /><br />名古屋市中川区尾頭橋1-47<br />東海道本線尾頭橋駅 徒歩7分

    金山-尾頭橋間



    堀川橋梁
    東海道本線用橋梁
    神戸方

    名古屋市中川区尾頭橋1-47
    東海道本線尾頭橋駅 徒歩7分

  • 金山-尾頭橋間<br /><br /><br /><br />堀川橋梁<br />名古屋鉄道名古屋本線下り線用橋梁<br />該橋梁は、明治33年(1900年)7月25日附で、中央西線(現 中央本線)名古屋Ⅰ‐多治見間開通時に再用された。<br />翌明治34年(1901年)に錬鐡製橋桁から鋼鐡製橋桁に更改された。

    金山-尾頭橋間



    堀川橋梁
    名古屋鉄道名古屋本線下り線用橋梁
    該橋梁は、明治33年(1900年)7月25日附で、中央西線(現 中央本線)名古屋Ⅰ‐多治見間開通時に再用された。
    翌明治34年(1901年)に錬鐡製橋桁から鋼鐡製橋桁に更改された。

  • 金山-尾頭橋間<br /><br /><br /><br />堀川橋梁<br />明治19年(1886年)4月1日開業時架橋橋脚<br />矩形断面橋脚<br />

    金山-尾頭橋間



    堀川橋梁
    明治19年(1886年)4月1日開業時架橋橋脚
    矩形断面橋脚

  • 金山-尾頭橋間<br /><br /><br /><br />堀川橋梁<br />明治34年(1901年)現用の鋼鉄製橋桁に更改されたが、その後、9900型(D50型)大型貨物用蒸気機関車導入に鑑み、該橋桁下部に追加部材に依り補強施工された。<br /><br />名古屋市中川区尾頭橋1-47<br />東海道本線尾頭橋駅 徒歩7分

    金山-尾頭橋間



    堀川橋梁
    明治34年(1901年)現用の鋼鉄製橋桁に更改されたが、その後、9900型(D50型)大型貨物用蒸気機関車導入に鑑み、該橋桁下部に追加部材に依り補強施工された。

    名古屋市中川区尾頭橋1-47
    東海道本線尾頭橋駅 徒歩7分

  • 金山-尾頭橋間<br /><br /><br /><br />堀川橋梁<br />明治34年(1901年)更改時の鋼鐡製橋桁。

    金山-尾頭橋間



    堀川橋梁
    明治34年(1901年)更改時の鋼鐡製橋桁。

  • 金山-尾頭橋間<br /><br /><br /><br />堀川橋梁<br />神戸方橋台<br />概ね、明治32年(1899年)7月13日附で複線化時の原形を有する。<br /><br />名古屋市中川区尾頭橋1-47<br />東海道本線尾頭橋駅 徒歩7分

    金山-尾頭橋間



    堀川橋梁
    神戸方橋台
    概ね、明治32年(1899年)7月13日附で複線化時の原形を有する。

    名古屋市中川区尾頭橋1-47
    東海道本線尾頭橋駅 徒歩7分

  • 金山-尾頭橋間<br /><br /><br /><br />堀川橋梁<br />名古屋鉄道名古屋本線<br />名鉄岐阜方橋台<br />明治19年(1886年)4月1日開通時の橋梁橋台。<br />台座にコンクリート補強改造痕。<br /><br />名古屋市中川区尾頭橋1-47<br />東海道本線尾頭橋駅 徒歩7分

    金山-尾頭橋間



    堀川橋梁
    名古屋鉄道名古屋本線
    名鉄岐阜方橋台
    明治19年(1886年)4月1日開通時の橋梁橋台。
    台座にコンクリート補強改造痕。

    名古屋市中川区尾頭橋1-47
    東海道本線尾頭橋駅 徒歩7分

  • 金山-尾頭橋間

    金山-尾頭橋間

  • 金山-尾頭橋間<br /><br /><br /><br />江川(えがわ)架道橋<br />全景<br /><br />名古屋市中川区山王4<br />東海道本線尾頭橋駅 徒歩4分

    金山-尾頭橋間



    江川(えがわ)架道橋
    全景

    名古屋市中川区山王4
    東海道本線尾頭橋駅 徒歩4分

  • 金山-尾頭橋間<br /><br /><br /><br />江川架道橋<br />該区間高架化時に設置。<br />施工時期が昭和初期故に、アーチ部はコンクリート打放状態で竣工。<br />通行は中型車以下に限定。<br /><br />名古屋市中川区山王4<br />東海道本線尾頭橋駅 徒歩4分

    金山-尾頭橋間



    江川架道橋
    該区間高架化時に設置。
    施工時期が昭和初期故に、アーチ部はコンクリート打放状態で竣工。
    通行は中型車以下に限定。

    名古屋市中川区山王4
    東海道本線尾頭橋駅 徒歩4分

  • 尾頭橋(おとうばし)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、平成7年(1995年)3月16日開業である。<br />即ち、該駅に隣接し嘗て存在した、ナゴヤ球場至近駅として臨時駅ナゴヤ球場正門前駅が好評だった事から、対抗馬たる名古屋鉄道ナゴヤ球場駅乗降利用者を奪還すべく、東海道本線上に正式駅として開業したものである。<br />因みに、該駅名は、江戸期、尾張徳川家家臣として、堀川対岸に尾頭組屋敷が存在し、該組屋敷衆の為に架橋されたのが尾頭橋の橋名が地名の元名である。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/otobashi/index.html

    尾頭橋(おとうばし)駅



    該駅は、平成7年(1995年)3月16日開業である。
    即ち、該駅に隣接し嘗て存在した、ナゴヤ球場至近駅として臨時駅ナゴヤ球場正門前駅が好評だった事から、対抗馬たる名古屋鉄道ナゴヤ球場駅乗降利用者を奪還すべく、東海道本線上に正式駅として開業したものである。
    因みに、該駅名は、江戸期、尾張徳川家家臣として、堀川対岸に尾頭組屋敷が存在し、該組屋敷衆の為に架橋されたのが尾頭橋の橋名が地名の元名である。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/otobashi/index.html

    尾頭橋駅

  • 尾頭橋駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />該駅付近は場外馬券売場が存在する為か、該駅利用者は名古屋名物醜悪労務者の溜り場でもあり環境宜しからず。

    尾頭橋駅



    駅本屋
    該駅付近は場外馬券売場が存在する為か、該駅利用者は名古屋名物醜悪労務者の溜り場でもあり環境宜しからず。

    尾頭橋駅

  • 尾頭橋-名古屋間<br /><br /><br /><br />露橋(つゆはし)信号所跡<br />該信号所は、熱田Ⅱ-名古屋Ⅰ間5.2kmに於ける当時の最新複線用保安装置たる双信閉塞式を2分割し、列車増発を可能とさせるべく、大正9年(1920年)12月15日附で設置された。<br />その後、大正15年(1926年)2月23日に、大府-名古屋間に自動閉塞式が導入された事から該信号所は不要施設となり、翌24日附で廃止された。<br /><br />名古屋市中川区露橋1-4-4<br />名古屋鉄道名古屋本線山王駅 徒歩1分

    尾頭橋-名古屋間



    露橋(つゆはし)信号所跡
    該信号所は、熱田Ⅱ-名古屋Ⅰ間5.2kmに於ける当時の最新複線用保安装置たる双信閉塞式を2分割し、列車増発を可能とさせるべく、大正9年(1920年)12月15日附で設置された。
    その後、大正15年(1926年)2月23日に、大府-名古屋間に自動閉塞式が導入された事から該信号所は不要施設となり、翌24日附で廃止された。

    名古屋市中川区露橋1-4-4
    名古屋鉄道名古屋本線山王駅 徒歩1分

    山王駅

  • 尾頭橋-名古屋間<br /><br /><br /><br />露橋(つゆはし)仮信号場跡<br />名古屋市内中心部は、該線のみならず、中央本線、及び、関西本線列車が往来し、既に、明治末期頃より該市内に於ける交通障害の原因とされていた。<br />鐵道省は該状態を解消させるべく、昭和3年(1928年)に名古屋市内中心部高架化計画を策定した。<br />該計画に基き、該線東京方より第?期工事に着工すべく、昭和4年(1929年)4月9日に、東京起点364.3km地点に工事機器資材搬入の為に該本線分岐点を設定し、仮信号場を設置した。<br />その後、該信号場?名古屋駅構内間約1.7kmの高架化工事が完了し、第?期工事の為に該線神戸方より施工される事になり、該信号場は、昭和6年(1931年)3月27日附で廃止された。<br /><br />名古屋市中川区露橋1-2-1<br />名古屋鉄道名古屋本線山王駅 徒歩1分

    尾頭橋-名古屋間



    露橋(つゆはし)仮信号場跡
    名古屋市内中心部は、該線のみならず、中央本線、及び、関西本線列車が往来し、既に、明治末期頃より該市内に於ける交通障害の原因とされていた。
    鐵道省は該状態を解消させるべく、昭和3年(1928年)に名古屋市内中心部高架化計画を策定した。
    該計画に基き、該線東京方より第?期工事に着工すべく、昭和4年(1929年)4月9日に、東京起点364.3km地点に工事機器資材搬入の為に該本線分岐点を設定し、仮信号場を設置した。
    その後、該信号場?名古屋駅構内間約1.7kmの高架化工事が完了し、第?期工事の為に該線神戸方より施工される事になり、該信号場は、昭和6年(1931年)3月27日附で廃止された。

    名古屋市中川区露橋1-2-1
    名古屋鉄道名古屋本線山王駅 徒歩1分

    山王駅

  • 尾頭橋-名古屋間<br /><br /><br /><br />三間杁(みます)架道橋<br />10.5m<br />上り線側<br /><br />名古屋市中川区山王3-13<br />名古屋鉄道名古屋本線山王駅 徒歩1分

    尾頭橋-名古屋間



    三間杁(みます)架道橋
    10.5m
    上り線側

    名古屋市中川区山王3-13
    名古屋鉄道名古屋本線山王駅 徒歩1分

  • 尾頭橋-名古屋間<br /><br /><br /><br />三間杁架道橋<br />下り線側<br /><br />名古屋市中川区山王3-13<br />名古屋鉄道名古屋本線山王駅 徒歩1分

    尾頭橋-名古屋間



    三間杁架道橋
    下り線側

    名古屋市中川区山王3-13
    名古屋鉄道名古屋本線山王駅 徒歩1分

  • 尾頭橋-名古屋間<br /><br /><br /><br />中川運河(なかがわ うんが)橋梁<br />東京方陸上橋部分<br />手前橋梁 中央本線用<br />中央橋梁 東海道本線用<br />奥橋梁 名古屋鉄道名古屋本線用<br /><br />名古屋区中川区横堀町1-16<br />名古屋鉄道名古屋本線山王駅 徒歩4分

    尾頭橋-名古屋間



    中川運河(なかがわ うんが)橋梁
    東京方陸上橋部分
    手前橋梁 中央本線用
    中央橋梁 東海道本線用
    奥橋梁 名古屋鉄道名古屋本線用

    名古屋区中川区横堀町1-16
    名古屋鉄道名古屋本線山王駅 徒歩4分

  • 尾頭橋-名古屋間<br /><br /><br /><br />中川運河橋梁<br />神戸方陸上橋部分<br /><br />名古屋市中川区運河町1?6<br />名古屋鉄道名古屋本線山王駅 徒歩5分<br />

    尾頭橋-名古屋間



    中川運河橋梁
    神戸方陸上橋部分

    名古屋市中川区運河町1?6
    名古屋鉄道名古屋本線山王駅 徒歩5分

  • 尾頭橋-名古屋間<br /><br /><br /><br />中川運河橋梁

    尾頭橋-名古屋間



    中川運河橋梁

  • 尾頭橋-名古屋間<br /><br /><br /><br />中川運河(なかがわ うんが)橋梁<br />橋桁は昭和6年(1931年)横河橋梁製作所製。<br />

    尾頭橋-名古屋間



    中川運河(なかがわ うんが)橋梁
    橋桁は昭和6年(1931年)横河橋梁製作所製。

  • 尾頭橋-名古屋間<br /><br /><br /><br />日置(ひおき)架道橋<br />全長8.30m<br />旧日置踏切跡<br />昭和12年(1937年)2月1日の高架化まで該地平線に踏切が存在した。<br /><br />名古屋市中川区西日置町9<br />東海道本線金山駅北口 名古屋市営交通自動車線西日置停留所降車 徒歩1分

    尾頭橋-名古屋間



    日置(ひおき)架道橋
    全長8.30m
    旧日置踏切跡
    昭和12年(1937年)2月1日の高架化まで該地平線に踏切が存在した。

    名古屋市中川区西日置町9
    東海道本線金山駅北口 名古屋市営交通自動車線西日置停留所降車 徒歩1分

  • 尾頭橋-名古屋間<br /><br /><br /><br />日置跨線橋<br />踏切地蔵堂<br />該踏切に於ける轢死者を弔った堂。<br /><br />名古屋市中川区西日置町9<br />東海道本線金山駅北口 名古屋市営交通自動車線西日置停留所降車 徒歩1分

    尾頭橋-名古屋間



    日置跨線橋
    踏切地蔵堂
    該踏切に於ける轢死者を弔った堂。

    名古屋市中川区西日置町9
    東海道本線金山駅北口 名古屋市営交通自動車線西日置停留所降車 徒歩1分

  • 尾頭橋-名古屋間<br /><br /><br /><br />旧日置踏切跡<br />踏切地蔵堂<br /><br />名古屋市中川区西日置町9<br />東海道本線金山駅北口 名古屋市営交通自動車線西日置停留所降車 徒歩1分

    尾頭橋-名古屋間



    旧日置踏切跡
    踏切地蔵堂

    名古屋市中川区西日置町9
    東海道本線金山駅北口 名古屋市営交通自動車線西日置停留所降車 徒歩1分

  • 尾頭橋-名古屋間<br /><br /><br /><br />旧日置踏切跡<br />踏切地蔵堂<br />旧銘石柱磨耗に依り新石柱が建立。<br /><br />名古屋市中川区西日置町9<br />東海道本線金山駅北口 名古屋市営交通自動車線西日置停留所降車 徒歩1分

    尾頭橋-名古屋間



    旧日置踏切跡
    踏切地蔵堂
    旧銘石柱磨耗に依り新石柱が建立。

    名古屋市中川区西日置町9
    東海道本線金山駅北口 名古屋市営交通自動車線西日置停留所降車 徒歩1分

  • 尾頭橋-名古屋間<br /><br /><br /><br />六反(ろくたん)架道橋<br />県道愛知名駅南線<br /><br />名古屋市中村区名駅南5?13?1<br />東海道本線尾頭橋駅 名古屋市営交通自動車線六反公園停留所降車 徒歩1分

    尾頭橋-名古屋間



    六反(ろくたん)架道橋
    県道愛知名駅南線

    名古屋市中村区名駅南5?13?1
    東海道本線尾頭橋駅 名古屋市営交通自動車線六反公園停留所降車 徒歩1分

  • 尾頭橋-名古屋間<br /><br /><br /><br />六反架道橋<br />鋼鉄製橋脚<br />明治期に設置された東京永楽間高架橋群橋梁支柱と比較し構造が単純化。<br /><br />名古屋市中村区名駅南5-13-1<br />東海道本線尾頭橋駅 名古屋市営交通自動車線六反公園停留所降車 徒歩1分

    尾頭橋-名古屋間



    六反架道橋
    鋼鉄製橋脚
    明治期に設置された東京永楽間高架橋群橋梁支柱と比較し構造が単純化。

    名古屋市中村区名駅南5-13-1
    東海道本線尾頭橋駅 名古屋市営交通自動車線六反公園停留所降車 徒歩1分

  • 尾頭橋-名古屋間<br /><br /><br /><br />旧線跡<br />第2平野高架橋<br />高架化切替後、名古屋鐵道に払下られ、該社は該地を活用し東西線連絡線として設置されたが、折しも、我が国は日華事変から大東亜戦争への中間期に相当し、資材不足を克服し開通に漕ぎ着けさせた。<br />単純連続橋桁高架構造。<br />各地からかき集めたのか、橋桁様式が千差万別状態。

    尾頭橋-名古屋間



    旧線跡
    第2平野高架橋
    高架化切替後、名古屋鐵道に払下られ、該社は該地を活用し東西線連絡線として設置されたが、折しも、我が国は日華事変から大東亜戦争への中間期に相当し、資材不足を克服し開通に漕ぎ着けさせた。
    単純連続橋桁高架構造。
    各地からかき集めたのか、橋桁様式が千差万別状態。

  • 尾頭橋-名古屋間<br /><br /><br />笹島第1高架橋<br />鉄骨鉄筋スラブ構造。

    尾頭橋-名古屋間


    笹島第1高架橋
    鉄骨鉄筋スラブ構造。

  • 尾頭橋-名古屋間<br /><br /><br />笹島第1高架橋<br />鉄骨鉄筋スラブ構造。

    尾頭橋-名古屋間


    笹島第1高架橋
    鉄骨鉄筋スラブ構造。

  • 尾頭橋-名古屋間<br /><br /><br /><br />笹島第1(ささしま だいいち)高架橋<br />鐵道省は、直営倉庫管理で貨物運送付帯事業として開設し、該駅以外では、秋葉原、梅田、及び、昭和19年(1944年)開始の青森が存在した。<br />該高架橋は昭和6年(1931年)3月に竣工したが、完成済高架下を活用し、昭和8年(1933年)10月1日に営業を開始し、昭和12年(1937年)2月1日以降は笹島駅管理に変更されたが、鐵道省直営第1、2倉庫3929㎡が完成し設置され、該駅貨物取扱施設利用業者に供応させた。<br />昭和24年(1949年)6月1日附で日本国有鉄道発足を前に、同年5月1日附を以って、運輸省鉄道総局直営事業から離れ、日本通運倉庫に運営変更された。

    尾頭橋-名古屋間



    笹島第1(ささしま だいいち)高架橋
    鐵道省は、直営倉庫管理で貨物運送付帯事業として開設し、該駅以外では、秋葉原、梅田、及び、昭和19年(1944年)開始の青森が存在した。
    該高架橋は昭和6年(1931年)3月に竣工したが、完成済高架下を活用し、昭和8年(1933年)10月1日に営業を開始し、昭和12年(1937年)2月1日以降は笹島駅管理に変更されたが、鐵道省直営第1、2倉庫3929㎡が完成し設置され、該駅貨物取扱施設利用業者に供応させた。
    昭和24年(1949年)6月1日附で日本国有鉄道発足を前に、同年5月1日附を以って、運輸省鉄道総局直営事業から離れ、日本通運倉庫に運営変更された。

  • 尾頭橋-名古屋間<br /><br /><br /><br />第2貨物通路(だいに かもつつうろ)架道橋

    尾頭橋-名古屋間



    第2貨物通路(だいに かもつつうろ)架道橋

  • 笹島駅跡<br /><br /><br /><br />旧中川運河船溜跡<br />大正7年(1918年)開削。<br />名古屋駅構内貨物取扱施設移転先は、該数候補地を検討した結果、旧愛知駅が存在した中区笹島地区に決定し、該決定に基き、大正15年(1926年)12月より該地区用地買収を開始すると同時に、堀川より分岐する中川運河開削工事に着手した。<br />該用地買収は順調に進行し、引続き該貨物取扱施設設置工事に着手し、昭和4年(1929年)5月1日附で、該駅貨物取扱業務は新設された笹島貨物取扱所に全面移転した。

    笹島駅跡



    旧中川運河船溜跡
    大正7年(1918年)開削。
    名古屋駅構内貨物取扱施設移転先は、該数候補地を検討した結果、旧愛知駅が存在した中区笹島地区に決定し、該決定に基き、大正15年(1926年)12月より該地区用地買収を開始すると同時に、堀川より分岐する中川運河開削工事に着手した。
    該用地買収は順調に進行し、引続き該貨物取扱施設設置工事に着手し、昭和4年(1929年)5月1日附で、該駅貨物取扱業務は新設された笹島貨物取扱所に全面移転した。

  • 尾頭橋-名古屋間<br /><br /><br /><br />豊太閤(とよたいこう)架道橋<br />昭和12年(1937年)2月1日開通。<br />但し、開通当時は広幅だったが、戦災復興計画に依り道路が拡張された結果、該架道橋内が狭隘間となった事から、戦後は自動車激増が原因で該橋梁支柱に自動車激突被害が多発した為に、道路拡張工事と共に昭和47年(1972年)2月14日附で該橋梁拡張工事が竣工した。<br /><br />名古屋市中村区牧野町3<br />東海道本線名古屋駅広小路口 徒歩5分

    尾頭橋-名古屋間



    豊太閤(とよたいこう)架道橋
    昭和12年(1937年)2月1日開通。
    但し、開通当時は広幅だったが、戦災復興計画に依り道路が拡張された結果、該架道橋内が狭隘間となった事から、戦後は自動車激増が原因で該橋梁支柱に自動車激突被害が多発した為に、道路拡張工事と共に昭和47年(1972年)2月14日附で該橋梁拡張工事が竣工した。

    名古屋市中村区牧野町3
    東海道本線名古屋駅広小路口 徒歩5分

  • 尾頭橋-名古屋駅<br /><br /><br /><br />明治橋(めいじばし)跨線橋<br />端柱<br />該跨線橋は、該線設置に依り、該地付近に禰宜町(ねぎまち)踏切が設置されたが、当時の名古屋駅は構内に於いて貨物取扱、貨車組成等々を行使していた事から、該踏切閉止時間は長時間に及ぶ事も多発し、該踏切閉止に依る交通路確保の為に跨線橋設置が決定され、明治33年(1900年)2月に設置工事に着手し、翌明治34年(1901年)3月31日に欄干部分を除き純木造構造に依る跨線橋が設置された。<br />該跨線橋は、広小路通 対 中村地区連絡として重要視され、該橋梁乗越部は土盛構造で未舗装だった事から、降雨時は路面が泥濘化し登攀に難渋したものと思われる。<br />該跨線橋は名古屋市民から親しまれた存在だったが、東海道本線名古屋中心部連続高架化工事竣工に伴い、不要施設となり、昭和12年(1937年)1月31日24時を以って廃止撤去された。<br /><br />名古屋市中村区名駅南3-23-25<br />東海道本線名古屋駅広小路口 徒歩9分

    尾頭橋-名古屋駅



    明治橋(めいじばし)跨線橋
    端柱
    該跨線橋は、該線設置に依り、該地付近に禰宜町(ねぎまち)踏切が設置されたが、当時の名古屋駅は構内に於いて貨物取扱、貨車組成等々を行使していた事から、該踏切閉止時間は長時間に及ぶ事も多発し、該踏切閉止に依る交通路確保の為に跨線橋設置が決定され、明治33年(1900年)2月に設置工事に着手し、翌明治34年(1901年)3月31日に欄干部分を除き純木造構造に依る跨線橋が設置された。
    該跨線橋は、広小路通 対 中村地区連絡として重要視され、該橋梁乗越部は土盛構造で未舗装だった事から、降雨時は路面が泥濘化し登攀に難渋したものと思われる。
    該跨線橋は名古屋市民から親しまれた存在だったが、東海道本線名古屋中心部連続高架化工事竣工に伴い、不要施設となり、昭和12年(1937年)1月31日24時を以って廃止撤去された。

    名古屋市中村区名駅南3-23-25
    東海道本線名古屋駅広小路口 徒歩9分

    明治橋標柱 名所・史跡

    明治橋標柱〔鉄道史跡〕 by 横浜臨海公園さん
  • 尾頭橋-名古屋駅<br /><br /><br /><br />明治橋跨線橋<br />端柱<br />記念碑<br />全景<br /><br />名古屋市中村区名駅南3-23-25<br />東海道本線名古屋駅広小路口 徒歩9分

    尾頭橋-名古屋駅



    明治橋跨線橋
    端柱
    記念碑
    全景

    名古屋市中村区名駅南3-23-25
    東海道本線名古屋駅広小路口 徒歩9分

    明治橋標柱 名所・史跡

    明治橋標柱〔鉄道史跡〕 by 横浜臨海公園さん
  • 名古屋駅<br /><br /><br /><br />初代名古屋駅跡<br />手前から 名鉄グランドホテル、近鉄パッセ、及び、名鉄百貨店本店が所在。<br />該駅開業から昭和12年(1937年)1月31日まで該地に存在した。

    名古屋駅



    初代名古屋駅跡
    手前から 名鉄グランドホテル、近鉄パッセ、及び、名鉄百貨店本店が所在。
    該駅開業から昭和12年(1937年)1月31日まで該地に存在した。

    名鉄グランドホテル 宿・ホテル

  • 名古屋(なごや)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治19年(1886年)5月1日開業である。<br />但し、開業当初は名護屋と表記した。<br />当時は、該地名は名古屋、名護屋、那古屋等々の標記が存在し、行政側も地名確定に至っていなかった事情が在った。<br />初代名古屋駅は現在の名鉄百貨店本店付近に設置されたが、該地は葦笹茂る沢沼拡がる湿地帯で、地均しの必要から、金山駅付近に存在した金山台地を削り取り整備した。<br />翌明治20年(1887年)2月1日に、従来は柳橋止だった広小路通が該駅前まで延長され便利になった。<br />同年4月25日に現駅名表記に改称された。<br />然るに、地盤が薄弱だった事は、後々まで響き、明治24年(1891年)10月28日6時38分発生の濃尾大震災(のうび だいしんさい)は、我が国に於ける陸上直下型地震としては、平成28年(2016年)4月日に発生した熊本大震災に次ぐ震度とされ、熱田から岐阜、大垣にかけて最大震度6~7を記録した。<br />初代駅本屋は新築後数年しか経過していなかったにも拘らず、該地震初震動で全壊した。<br />翌明治25年(1892年)に第2代駅本屋が建築され、昭和12年(1937年)2月1日に高架化に依り、該駅が現位置移転まで、名古屋市民に親しまれた存在だった。<br />然し、明治30年代半まで、該駅前には損鉢池が残存した事から、特に夏場等々には、害虫大量発生源と化し、該環境に対して評判は芳しく無かったものと思われる。<br />初代から数え、第4代となる名古屋鉄道局庁舎駅本屋設置工事は、鉄道省工務局建築課が監督し、大倉土木の施工担当に依り、昭和9年(1934年)7月に着工し、昭和12年(1937年)10月に竣工した。<br />該駅上部の名古屋鐵道局本庁舎は、大東亜戦争末期、屋上に陸軍対航空機高射砲陣地が設置された事から連合国軍戦略爆撃部隊に依る攻撃対象となり、昭和20年(1945年)3月19日の夜間空襲に依り5階建造物内3階以上が、焼夷弾命中に依り殆どの部分が焼失したが、2階以下は無事で、殊に、該駅施設が入居する1階部分が完全な状態で残された事は幸運だった。<br />大東亜戦争終結後は、我が国がポツダム宣言受諾を根拠に連合国軍隊が進駐を開始展開したが、同時に、全国各主要駅に対しRTO設置を要求して来た。<br />該駅1等旅客用待合室、及び、2等旅客用待合室は、無事だった事から真っ先に接収され、胡桃の木に漆塗りの重厚な内装だった1等旅客用待合室は、米國人好みのペイント塗りにされ、両待合室共に昭和27年(1952年)3月1日まで接収が継続した。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/nagoya/index.html

    名古屋(なごや)駅



    該駅は、明治19年(1886年)5月1日開業である。
    但し、開業当初は名護屋と表記した。
    当時は、該地名は名古屋、名護屋、那古屋等々の標記が存在し、行政側も地名確定に至っていなかった事情が在った。
    初代名古屋駅は現在の名鉄百貨店本店付近に設置されたが、該地は葦笹茂る沢沼拡がる湿地帯で、地均しの必要から、金山駅付近に存在した金山台地を削り取り整備した。
    翌明治20年(1887年)2月1日に、従来は柳橋止だった広小路通が該駅前まで延長され便利になった。
    同年4月25日に現駅名表記に改称された。
    然るに、地盤が薄弱だった事は、後々まで響き、明治24年(1891年)10月28日6時38分発生の濃尾大震災(のうび だいしんさい)は、我が国に於ける陸上直下型地震としては、平成28年(2016年)4月日に発生した熊本大震災に次ぐ震度とされ、熱田から岐阜、大垣にかけて最大震度6~7を記録した。
    初代駅本屋は新築後数年しか経過していなかったにも拘らず、該地震初震動で全壊した。
    翌明治25年(1892年)に第2代駅本屋が建築され、昭和12年(1937年)2月1日に高架化に依り、該駅が現位置移転まで、名古屋市民に親しまれた存在だった。
    然し、明治30年代半まで、該駅前には損鉢池が残存した事から、特に夏場等々には、害虫大量発生源と化し、該環境に対して評判は芳しく無かったものと思われる。
    初代から数え、第4代となる名古屋鉄道局庁舎駅本屋設置工事は、鉄道省工務局建築課が監督し、大倉土木の施工担当に依り、昭和9年(1934年)7月に着工し、昭和12年(1937年)10月に竣工した。
    該駅上部の名古屋鐵道局本庁舎は、大東亜戦争末期、屋上に陸軍対航空機高射砲陣地が設置された事から連合国軍戦略爆撃部隊に依る攻撃対象となり、昭和20年(1945年)3月19日の夜間空襲に依り5階建造物内3階以上が、焼夷弾命中に依り殆どの部分が焼失したが、2階以下は無事で、殊に、該駅施設が入居する1階部分が完全な状態で残された事は幸運だった。
    大東亜戦争終結後は、我が国がポツダム宣言受諾を根拠に連合国軍隊が進駐を開始展開したが、同時に、全国各主要駅に対しRTO設置を要求して来た。
    該駅1等旅客用待合室、及び、2等旅客用待合室は、無事だった事から真っ先に接収され、胡桃の木に漆塗りの重厚な内装だった1等旅客用待合室は、米國人好みのペイント塗りにされ、両待合室共に昭和27年(1952年)3月1日まで接収が継続した。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/nagoya/index.html

    名古屋駅

  • 名古屋駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />広小路旅客通路

    名古屋駅



    駅構内
    広小路旅客通路

    名古屋駅

  • 名古屋駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />広小路旅客通路

    名古屋駅



    駅構内
    広小路旅客通路

    名古屋駅

  • 名古屋駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />広小路旅客通路

    名古屋駅



    駅構内
    広小路旅客通路

    名古屋駅

  • 名古屋駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />広小路旅客通路<br />元来は貴賓専用通路。

    名古屋駅



    駅構内
    広小路旅客通路
    元来は貴賓専用通路。

    名古屋駅

  • 名古屋駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />広小路旅客通路<br />元貴賓専用通路。<br />該駅高架化工事竣工時、我が国国内において1等展望車連結列車は、特別急行 富士、及び、特別急行 燕しか存在せず、各列車共に編成最後尾を飾る存在でもあった。<br />此の為に、東京発下り該列車該車利用主要客層たる、皇族、政府高官、陸海軍将官、等々乗降容易の為に、該旅客通路が設置された。

    名古屋駅



    駅構内
    広小路旅客通路
    元貴賓専用通路。
    該駅高架化工事竣工時、我が国国内において1等展望車連結列車は、特別急行 富士、及び、特別急行 燕しか存在せず、各列車共に編成最後尾を飾る存在でもあった。
    此の為に、東京発下り該列車該車利用主要客層たる、皇族、政府高官、陸海軍将官、等々乗降容易の為に、該旅客通路が設置された。

    名古屋駅

  • 名古屋駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />広小路旅客通路<br />元貴賓専用通路。<br />当時の我が国国民体型が反映され、天井部分が低位置に存在。

    名古屋駅



    駅構内
    広小路旅客通路
    元貴賓専用通路。
    当時の我が国国民体型が反映され、天井部分が低位置に存在。

    名古屋駅

  • 名古屋駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />神戸方俯瞰

    名古屋駅



    駅構内
    神戸方俯瞰

    名古屋駅

  • 名古屋駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />旧手小荷物取扱跡<br />台車から野本を積降する為にホームが低いのが特徴。

    名古屋駅



    第2番ホーム
    旧手小荷物取扱跡
    台車から野本を積降する為にホームが低いのが特徴。

    名古屋駅

  • 名古屋駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />太閤旅客通路<br />昭和12年(1937年)2月1日該駅高架化当時の旅客通路。<br />当時の日本人身長標準値を参考に高さを設定した為に、天井が低位置に存在する。

    名古屋駅



    駅構内
    太閤旅客通路
    昭和12年(1937年)2月1日該駅高架化当時の旅客通路。
    当時の日本人身長標準値を参考に高さを設定した為に、天井が低位置に存在する。

    名古屋駅

  • 名古屋駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />広小路旅客通路

    名古屋駅



    駅構内
    広小路旅客通路

    名古屋駅

  • 名古屋駅<br /><br /><br /><br />広小路通路

    名古屋駅



    広小路通路

    名古屋駅

  • 名古屋駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム

    名古屋駅



    第2番ホーム

    名古屋駅

  • 名古屋駅<br /><br /><br /><br />第3番ホーム

    名古屋駅



    第3番ホーム

    名古屋駅

  • 名古屋駅<br /><br /><br /><br />第3番ホーム

    名古屋駅



    第3番ホーム

    名古屋駅

  • 名古屋-枇杷島間<br /><br /><br /><br />東海道本線旧地上線跡<br />鐵道省から払下後、現在は地下に名古屋鉄道名古屋本線名古屋隧道が存在。<br /><br />名古屋市西区牛島町9<br />東海道本線名古屋駅

    名古屋-枇杷島間



    東海道本線旧地上線跡
    鐵道省から払下後、現在は地下に名古屋鉄道名古屋本線名古屋隧道が存在。

    名古屋市西区牛島町9
    東海道本線名古屋駅

  • 名古屋-枇杷島間<br /><br /><br /><br />則武(そくたけ)跨線橋<br /><br />名古屋市西区牛島町8<br />東海道本線名古屋駅 名古屋市営交通自動車線ノリタケの森停留場降車 徒歩1分

    名古屋-枇杷島間



    則武(そくたけ)跨線橋

    名古屋市西区牛島町8
    東海道本線名古屋駅 名古屋市営交通自動車線ノリタケの森停留場降車 徒歩1分

  • 名古屋-枇杷島間<br /><br /><br /><br />名古屋鉄道名鉄名古屋地下隧道<br />岐阜方隧道坑門<br />該地点に於いて、昭和20年(1945年)1月8日9時17分頃、重大事故が発生した。<br />即ち、当時、名古屋、岐阜地方に於ける天候は大雪で、該天候が原因で各列車に大幅な遅延が発生していたが、枇杷島-名古屋間に於いて、上り貨物第950列車 C53蒸気機関車牽引39両編成は、424分遅延を以って運転していたが、名古屋駅上り第1場内信号機が停止現示だった事から、該信号機手前に於いて停止していたが、後続 上り貨物第80列車 C51 88蒸気機関車牽引42両は、204分遅延を以って運転中、該機関車機関士、及び、機関助士は不覚にも居眠り状態で運転した為に、停止信号機を冒進し、第950列車に高速状態で追突した。<br />該事故に依り、追突した第80列車 C51 88蒸気機関車は、脱線傾斜、貨車14両が脱線転覆し、内5両が脱線と同時に貨車搭載貨物から出火全焼、第950列車後部貨車7両が脱線転覆し、並行する該社線該隧道付近上に落下した。<br />該事故に依り、荷物車掌、荷物手4名が重軽傷を負った。<br />開通は、貨物上下線が当日16時30分、旅客上下線は当月10日1時55分。<br />因みに、追突した第80列車機関士は、名古屋機関区事務室に於いて事故事情聴取中に、入換中の別機関車に投身自殺した。<br /><br />名古屋市西区則武新町10<br />東海道本線名古屋駅 名古屋市営交通自動車線ノリタケの森停留所降車 徒歩6分

    名古屋-枇杷島間



    名古屋鉄道名鉄名古屋地下隧道
    岐阜方隧道坑門
    該地点に於いて、昭和20年(1945年)1月8日9時17分頃、重大事故が発生した。
    即ち、当時、名古屋、岐阜地方に於ける天候は大雪で、該天候が原因で各列車に大幅な遅延が発生していたが、枇杷島-名古屋間に於いて、上り貨物第950列車 C53蒸気機関車牽引39両編成は、424分遅延を以って運転していたが、名古屋駅上り第1場内信号機が停止現示だった事から、該信号機手前に於いて停止していたが、後続 上り貨物第80列車 C51 88蒸気機関車牽引42両は、204分遅延を以って運転中、該機関車機関士、及び、機関助士は不覚にも居眠り状態で運転した為に、停止信号機を冒進し、第950列車に高速状態で追突した。
    該事故に依り、追突した第80列車 C51 88蒸気機関車は、脱線傾斜、貨車14両が脱線転覆し、内5両が脱線と同時に貨車搭載貨物から出火全焼、第950列車後部貨車7両が脱線転覆し、並行する該社線該隧道付近上に落下した。
    該事故に依り、荷物車掌、荷物手4名が重軽傷を負った。
    開通は、貨物上下線が当日16時30分、旅客上下線は当月10日1時55分。
    因みに、追突した第80列車機関士は、名古屋機関区事務室に於いて事故事情聴取中に、入換中の別機関車に投身自殺した。

    名古屋市西区則武新町10
    東海道本線名古屋駅 名古屋市営交通自動車線ノリタケの森停留所降車 徒歩6分

  • 名古屋-枇杷島間<br /><br /><br /><br />6号線架道橋<br /><br />名古屋市西区桃ノ木町10<br />東海道本線名古屋駅 名古屋市営交通自動車線ノリタケの森停留所降車 徒歩6分

    名古屋-枇杷島間



    6号線架道橋

    名古屋市西区桃ノ木町10
    東海道本線名古屋駅 名古屋市営交通自動車線ノリタケの森停留所降車 徒歩6分

    栄生駅

  • 名古屋-枇杷島間<br /><br /><br /><br />6号線架道橋<br /><br />名古屋市西区桃ノ木町10<br />東海道本線名古屋駅 名古屋市営交通自動車線ノリタケの森停留所降車 徒歩6分

    名古屋-枇杷島間



    6号線架道橋

    名古屋市西区桃ノ木町10
    東海道本線名古屋駅 名古屋市営交通自動車線ノリタケの森停留所降車 徒歩6分

    栄生駅

  • 名古屋-枇杷島間<br /><br /><br /><br />栄生(さこ)仮信号場跡<br />名古屋市内中心部は、該線のみならず、中央本線、及び、関西本線が往来する事から、既に、明治末期頃より該市内交通障害要因と問題視されていた。<br />更に、名古屋駅自体、当時はホームが2面しか存在せず、且つ、列車発着にも支障遅延が常態化していた。<br />該計画に基き、該線神戸方工事に着手すべく、工事機器、資材搬入の為に、昭和6年(1931年)3月27日に開設された。<br />その後、昭和12年(1937年)2月1日に該高架線工事が竣工した事から、該仮信号所は翌2日に廃止された。<br />

    名古屋-枇杷島間



    栄生(さこ)仮信号場跡
    名古屋市内中心部は、該線のみならず、中央本線、及び、関西本線が往来する事から、既に、明治末期頃より該市内交通障害要因と問題視されていた。
    更に、名古屋駅自体、当時はホームが2面しか存在せず、且つ、列車発着にも支障遅延が常態化していた。
    該計画に基き、該線神戸方工事に着手すべく、工事機器、資材搬入の為に、昭和6年(1931年)3月27日に開設された。
    その後、昭和12年(1937年)2月1日に該高架線工事が竣工した事から、該仮信号所は翌2日に廃止された。

    栄生駅

  • 名古屋-枇杷島間<br /><br /><br /><br />栄生仮信号所跡<br />現 名古屋鉄道名古屋本線栄生駅、及び、地元地名読は何れも栄生(さこう)だが、何故、鐵道省は栄生(さこ)と呼称したのかは不明。

    名古屋-枇杷島間



    栄生仮信号所跡
    現 名古屋鉄道名古屋本線栄生駅、及び、地元地名読は何れも栄生(さこう)だが、何故、鐵道省は栄生(さこ)と呼称したのかは不明。

    栄生駅

  • 名古屋-枇杷島間<br /><br /><br /><br />庄内川(しょうないがわ)橋梁<br />該橋は、明治19年(1886年)4月1日開通の橋梁である。<br />但し、英國より該橋梁架橋用鋼材未着の為に、初代橋梁は木組総木造構造で構築された。<br />その後、英國より橋梁用鋼材回着を受け、明治21年(1888年)8月に架替が実施され、<br />C.A.W.ポーナル(C.A.W.POWNALL)(生没不詳)設計に依る、<br />錬鐡製プレートガーダー橋桁21.3m(70ft)×6蓮<br />に架替られた。<br />因みに、輸入鋼材を含め架替費用は250291円とされる。<br />明治24年10月25日6時38分頃発生した濃尾大震災に依り、該橋梁橋脚に亀裂が入ったが、数日中に修復され仮復旧開通した。<br />名古屋Ⅰ-枇杷島間は、明治40年(1907年)3月27日附で複線化されが、新橋梁は既成橋梁下流側に架橋され、該日より新橋梁は下り線専用となり、既成橋梁は上り線専用になった。<br />その後、大正期に国産鋼鐡製プレートガーダー橋桁に更改された。<br /><br />名古屋市西区枇杷島町無番地<br />名古屋鉄道名古屋本線栄生駅 徒歩12分

    名古屋-枇杷島間



    庄内川(しょうないがわ)橋梁
    該橋は、明治19年(1886年)4月1日開通の橋梁である。
    但し、英國より該橋梁架橋用鋼材未着の為に、初代橋梁は木組総木造構造で構築された。
    その後、英國より橋梁用鋼材回着を受け、明治21年(1888年)8月に架替が実施され、
    C.A.W.ポーナル(C.A.W.POWNALL)(生没不詳)設計に依る、
    錬鐡製プレートガーダー橋桁21.3m(70ft)×6蓮
    に架替られた。
    因みに、輸入鋼材を含め架替費用は250291円とされる。
    明治24年10月25日6時38分頃発生した濃尾大震災に依り、該橋梁橋脚に亀裂が入ったが、数日中に修復され仮復旧開通した。
    名古屋Ⅰ-枇杷島間は、明治40年(1907年)3月27日附で複線化されが、新橋梁は既成橋梁下流側に架橋され、該日より新橋梁は下り線専用となり、既成橋梁は上り線専用になった。
    その後、大正期に国産鋼鐡製プレートガーダー橋桁に更改された。

    名古屋市西区枇杷島町無番地
    名古屋鉄道名古屋本線栄生駅 徒歩12分

  • 名古屋-枇杷島間<br /><br /><br /><br />名古屋街道(なごやかいどう)跨線橋<br /><br />清須市西枇杷島町問屋11-1<br />名古屋鉄道名古屋本線西枇杷島駅 徒歩3分

    名古屋-枇杷島間



    名古屋街道(なごやかいどう)跨線橋

    清須市西枇杷島町問屋11-1
    名古屋鉄道名古屋本線西枇杷島駅 徒歩3分

  • 名古屋-枇杷島間<br /><br /><br /><br />名古屋街道跨線橋<br /><br />清須市西枇杷島町問屋11-1<br />名古屋鉄道名古屋本線西枇杷島駅 徒歩3分

    名古屋-枇杷島間



    名古屋街道跨線橋

    清須市西枇杷島町問屋11-1
    名古屋鉄道名古屋本線西枇杷島駅 徒歩3分

  • 名古屋-枇杷島間<br /><br /><br /><br />名古屋街道跨線橋<br /><br />清須市西枇杷島町問屋11-1<br />名古屋鉄道名古屋本線西枇杷島駅 徒歩3分

    名古屋-枇杷島間



    名古屋街道跨線橋

    清須市西枇杷島町問屋11-1
    名古屋鉄道名古屋本線西枇杷島駅 徒歩3分

  • 名古屋-枇杷島間<br /><br /><br /><br />名古屋街道跨線橋<br /><br />清須市西枇杷島町問屋11-1<br />名古屋鉄道名古屋本線西枇杷島駅 徒歩3分

    名古屋-枇杷島間



    名古屋街道跨線橋

    清須市西枇杷島町問屋11-1
    名古屋鉄道名古屋本線西枇杷島駅 徒歩3分

  • 名古屋-枇杷島間<br /><br /><br /><br />名古屋街道跨線橋<br /><br />清須市西枇杷島町問屋11-1<br />名古屋鉄道名古屋本線西枇杷島駅 徒歩3分

    名古屋-枇杷島間



    名古屋街道跨線橋

    清須市西枇杷島町問屋11-1
    名古屋鉄道名古屋本線西枇杷島駅 徒歩3分

  • 名古屋-枇杷島間<br /><br /><br /><br />名古屋街道架道橋<br />該架道橋は、道路幅が狭隘だった事から橋台への接触事故が反発し、橋台保護の観点から、鉄筋コンクリート覆に改装された。<br /><br />清須市西枇杷島町東六軒25<br />名古屋鉄道名古屋本線西枇杷島駅 徒歩3分

    名古屋-枇杷島間



    名古屋街道架道橋
    該架道橋は、道路幅が狭隘だった事から橋台への接触事故が反発し、橋台保護の観点から、鉄筋コンクリート覆に改装された。

    清須市西枇杷島町東六軒25
    名古屋鉄道名古屋本線西枇杷島駅 徒歩3分

  • 名古屋-枇杷島間<br /><br /><br /><br />名古屋街道跨線橋<br /><br />清須市西枇杷島町問屋11-1<br />名古屋鉄道名古屋本線西枇杷島駅 徒歩3分

    名古屋-枇杷島間



    名古屋街道跨線橋

    清須市西枇杷島町問屋11-1
    名古屋鉄道名古屋本線西枇杷島駅 徒歩3分

  • 名古屋-枇杷島間<br /><br /><br /><br />西枇杷島洪橋<br /><br />清須市西枇杷島町日之出1‐38<br />名古屋鉄道名古屋本線西枇杷島駅 徒歩2分

    名古屋-枇杷島間



    西枇杷島洪橋

    清須市西枇杷島町日之出1‐38
    名古屋鉄道名古屋本線西枇杷島駅 徒歩2分

  • 名古屋-枇杷島間<br /><br /><br /><br />西枇杷島洪橋<br />該洪橋内部煉瓦が緩やかに渦巻状に設置。<br />対重量の為。<br /><br />清須市西枇杷島町日之出1‐38<br />名古屋鉄道名古屋本線西枇杷島駅 徒歩2分

    名古屋-枇杷島間



    西枇杷島洪橋
    該洪橋内部煉瓦が緩やかに渦巻状に設置。
    対重量の為。

    清須市西枇杷島町日之出1‐38
    名古屋鉄道名古屋本線西枇杷島駅 徒歩2分

  • 名古屋-枇杷島間<br /><br /><br /><br />西枇杷島洪橋<br /><br />清須市西枇杷島町日之出1‐38<br />名古屋鉄道名古屋本線西枇杷島駅 徒歩2分

    名古屋-枇杷島間



    西枇杷島洪橋

    清須市西枇杷島町日之出1‐38
    名古屋鉄道名古屋本線西枇杷島駅 徒歩2分

  • 名古屋-枇杷島間<br /><br /><br /><br />西枇杷島洪橋<br /><br />清須市西枇杷島町日之出1‐38<br />名古屋鉄道名古屋本線西枇杷島駅 徒歩2分

    名古屋-枇杷島間



    西枇杷島洪橋

    清須市西枇杷島町日之出1‐38
    名古屋鉄道名古屋本線西枇杷島駅 徒歩2分

  • 名古屋-枇杷島間<br /><br /><br /><br />津島(つしま)跨線橋<br />該跨線橋は、大正3年(1914年)1月23日に当時の名古屋電気鐵道津島線開業時に設置。<br />現在の名古屋鉄道は名古屋市内に於いて名古屋電気鐵道に依り、明治31年(1898年)5月6日に縣庁前-笹島間開業を嚆矢とする企業である。<br />名古屋市内区間は市内線と称したが、他方、該社は、市外域への路線拡大を計画実現させるべく、郡部線と称し、大正元年(1912年)8月6日に押切町-岩倉-西印田間を開業させて以来、次々と路線を拡大させた。<br />然るに、該社運賃が高額だった事から該市民の反発を招来させ、大正5年(1916年)9月1日には暴徒化した群集に依り電車焼討事件が勃発した。<br />此の為に、該事態を重視した名古屋市は該市公営化に依る運賃是正を決定し、大正11年(1922年)8月1日附で、市内線は名古屋市に依り買収され、郡部線に就いては、名古屋鐵道が創設され、該社に対し権利動不動産一切が譲渡された。<br />要するに、現在の名古屋鉄道、名古屋市営交通、及び、中部電力は、大正期まで辿れば同一企業である。<br /><br />清須市西枇杷島町日之出1‐4<br />名古屋鉄名古屋本線西枇杷島駅 徒歩1分

    名古屋-枇杷島間



    津島(つしま)跨線橋
    該跨線橋は、大正3年(1914年)1月23日に当時の名古屋電気鐵道津島線開業時に設置。
    現在の名古屋鉄道は名古屋市内に於いて名古屋電気鐵道に依り、明治31年(1898年)5月6日に縣庁前-笹島間開業を嚆矢とする企業である。
    名古屋市内区間は市内線と称したが、他方、該社は、市外域への路線拡大を計画実現させるべく、郡部線と称し、大正元年(1912年)8月6日に押切町-岩倉-西印田間を開業させて以来、次々と路線を拡大させた。
    然るに、該社運賃が高額だった事から該市民の反発を招来させ、大正5年(1916年)9月1日には暴徒化した群集に依り電車焼討事件が勃発した。
    此の為に、該事態を重視した名古屋市は該市公営化に依る運賃是正を決定し、大正11年(1922年)8月1日附で、市内線は名古屋市に依り買収され、郡部線に就いては、名古屋鐵道が創設され、該社に対し権利動不動産一切が譲渡された。
    要するに、現在の名古屋鉄道、名古屋市営交通、及び、中部電力は、大正期まで辿れば同一企業である。

    清須市西枇杷島町日之出1‐4
    名古屋鉄名古屋本線西枇杷島駅 徒歩1分

    西枇杷島駅

  • 名古屋-枇杷島間<br /><br /><br /><br />津島跨線橋<br />全景<br /><br />清須市西枇杷島町日之出1‐4<br />名古屋鉄道名古屋本線西枇杷島駅 徒歩1分

    名古屋-枇杷島間



    津島跨線橋
    全景

    清須市西枇杷島町日之出1‐4
    名古屋鉄道名古屋本線西枇杷島駅 徒歩1分

    西枇杷島駅

  • 名古屋-枇杷島間<br /><br /><br /><br />津島跨線橋<br />当時の車輌建築限界に基き設置された為に、開口部が狭隘。<br /><br />清須市西枇杷島町日之出1‐4<br />名古屋鉄道名古屋本線西枇杷島駅 徒歩1分

    名古屋-枇杷島間



    津島跨線橋
    当時の車輌建築限界に基き設置された為に、開口部が狭隘。

    清須市西枇杷島町日之出1‐4
    名古屋鉄道名古屋本線西枇杷島駅 徒歩1分

    西枇杷島駅

  • 名古屋-枇杷島間<br /><br /><br /><br />津島跨線橋<br />道路部分。<br /><br />清須市西枇杷島町日之出1‐4<br />名古屋鉄道名古屋本線西枇杷島駅 徒歩1分

    名古屋-枇杷島間



    津島跨線橋
    道路部分。

    清須市西枇杷島町日之出1‐4
    名古屋鉄道名古屋本線西枇杷島駅 徒歩1分

    西枇杷島駅

  • 枇杷島(びわじま)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治39年(1906年)4月16日開業である。<br />然るに、駅史上では、明治19年(1886年)4月1日に初代清洲駅が開業し、該駅開業日時に現位置に移転した。<br />該移転理由は定かでは無いが、何故か移転距離が1km程度では無く、3km弱に亘る大幅移動移転故に、記録上は移転と称しても、現実には新設と見做す解釈が多数説とされる。<br />更に、初代清洲が中島郡大里村所在だったのに対し、現駅所在地は西春日井郡西枇杷島町たる事から、名古屋Ⅰ-木曾川間は、明治40年(1907年)3月1日から同年4月18日にかけて次々と複線化されたが、該駅移転理由に停車場施設距離の均等化を狙ったのであれば、該複線化まで単線だった事から、列車交換を容易とさせるき目的をも有していた一面を否定し得ず、故に、多数説に於いて、登記名目上に於ける駅移転なるも、実質上は、明治39年(1906年)4月16日を以って初代清洲旅客営業廃止、即、該駅開設とする見解が在り、横浜臨海公園も該説支持者である。<br />因みに、駅名称は、該地付近に存在した庄内川中州が枇杷の形状に似ている事から命名された。<br />該駅開設以来、該駅周辺は田畑拡がる純然たる農村だたが、明治末期以降、紡績関係工場が次々と開設され、特に、富士紡績枇杷島工場が設置された事で専用線が設置され、該駅構内貨物取扱施設が拡充された。<br />然るに、日華事変(にっか じへん)(昭和12年(1937年)7月8日~昭和16年(1941年)12月8日)勃発以降、名古屋を軸とする中部地域では、我が国に於ける航空機清造産業の基幹を担った事から、名古屋を中止として次々と航空機清造企業が進出し、特に紡績製造工場は航空機製造関連工場への転換がはかられた。<br />此の為に、富士紡績枇杷島工場不動産一式は三菱重工業に買収され、三菱重工枇杷島工場として航空機搭載内燃機関製造工場に指定された。<br />大東亜戦争末期、該駅は連合国軍戦略部隊攻撃対象となった。<br />昭和20年(1945年)5月14日に、貨物取扱業務施設が攻撃対象となり、貨物ホーム上屋が全焼し、更に、該駅構内留置中の貨車61両が全焼した。<br />同ね7月15日攻撃では、三菱重工業枇杷島工場が爆弾攻撃を受ける内、該工場を狙った爆弾が炸裂し、爆風に依り該駅本屋た施設窓硝子が爆風に依り全損被害が発生他。<br />昭和55年(1980年)10月1日附で、該駅一般貨物取扱業務が廃止され、此れ以降、専用線発着貨物に限定されたが、鉄道貨物取扱輸送業務衰退は蔽うべくも無く、平成7年(1995年)12月1日附で大阪セメント専用線、平成18年(2006年)4月1日附で残り貨物取扱業務は全廃された。<br />その後、該駅本屋が老朽化が深刻な状態になった事から改築が決定し、平成20年(2008年)12月13日附で、第2代駅本屋が設置され橋上化された。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/biwajima/index.html

    枇杷島(びわじま)駅



    該駅は、明治39年(1906年)4月16日開業である。
    然るに、駅史上では、明治19年(1886年)4月1日に初代清洲駅が開業し、該駅開業日時に現位置に移転した。
    該移転理由は定かでは無いが、何故か移転距離が1km程度では無く、3km弱に亘る大幅移動移転故に、記録上は移転と称しても、現実には新設と見做す解釈が多数説とされる。
    更に、初代清洲が中島郡大里村所在だったのに対し、現駅所在地は西春日井郡西枇杷島町たる事から、名古屋Ⅰ-木曾川間は、明治40年(1907年)3月1日から同年4月18日にかけて次々と複線化されたが、該駅移転理由に停車場施設距離の均等化を狙ったのであれば、該複線化まで単線だった事から、列車交換を容易とさせるき目的をも有していた一面を否定し得ず、故に、多数説に於いて、登記名目上に於ける駅移転なるも、実質上は、明治39年(1906年)4月16日を以って初代清洲旅客営業廃止、即、該駅開設とする見解が在り、横浜臨海公園も該説支持者である。
    因みに、駅名称は、該地付近に存在した庄内川中州が枇杷の形状に似ている事から命名された。
    該駅開設以来、該駅周辺は田畑拡がる純然たる農村だたが、明治末期以降、紡績関係工場が次々と開設され、特に、富士紡績枇杷島工場が設置された事で専用線が設置され、該駅構内貨物取扱施設が拡充された。
    然るに、日華事変(にっか じへん)(昭和12年(1937年)7月8日~昭和16年(1941年)12月8日)勃発以降、名古屋を軸とする中部地域では、我が国に於ける航空機清造産業の基幹を担った事から、名古屋を中止として次々と航空機清造企業が進出し、特に紡績製造工場は航空機製造関連工場への転換がはかられた。
    此の為に、富士紡績枇杷島工場不動産一式は三菱重工業に買収され、三菱重工枇杷島工場として航空機搭載内燃機関製造工場に指定された。
    大東亜戦争末期、該駅は連合国軍戦略部隊攻撃対象となった。
    昭和20年(1945年)5月14日に、貨物取扱業務施設が攻撃対象となり、貨物ホーム上屋が全焼し、更に、該駅構内留置中の貨車61両が全焼した。
    同ね7月15日攻撃では、三菱重工業枇杷島工場が爆弾攻撃を受ける内、該工場を狙った爆弾が炸裂し、爆風に依り該駅本屋た施設窓硝子が爆風に依り全損被害が発生他。
    昭和55年(1980年)10月1日附で、該駅一般貨物取扱業務が廃止され、此れ以降、専用線発着貨物に限定されたが、鉄道貨物取扱輸送業務衰退は蔽うべくも無く、平成7年(1995年)12月1日附で大阪セメント専用線、平成18年(2006年)4月1日附で残り貨物取扱業務は全廃された。
    その後、該駅本屋が老朽化が深刻な状態になった事から改築が決定し、平成20年(2008年)12月13日附で、第2代駅本屋が設置され橋上化された。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/biwajima/index.html

    枇杷島駅

  • 枇杷島駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />該駅本屋が老朽化が状態に深刻な状態だった事から改築が決定し、平成20年(2008年)12月13日附で、第2代駅本屋が設置され橋上化された。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/biwajima/index.html

    枇杷島駅



    駅本屋
    該駅本屋が老朽化が状態に深刻な状態だった事から改築が決定し、平成20年(2008年)12月13日附で、第2代駅本屋が設置され橋上化された。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/biwajima/index.html

    枇杷島駅

  • 枇杷島駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />1番線<br />下り貨物列車用

    枇杷島駅



    第1番ホーム
    1番線
    下り貨物列車用

    枇杷島駅

  • 枇杷島駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />2番線<br />上り貨物列車用

    枇杷島駅



    第1番ホーム
    2番線
    上り貨物列車用

    枇杷島駅

  • 枇杷島駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />3番線<br />下り旅客列車停車用

    枇杷島駅



    第2番ホーム
    3番線
    下り旅客列車停車用

    枇杷島駅

  • 枇杷島駅<br /><br /><br /><br />出改札口

    枇杷島駅



    出改札口

    枇杷島駅

  • 枇杷島-五條川間<br /><br /><br /><br />新川(しんかわ)橋梁<br />該橋は、明治19年(1886年)4月1日開通時の橋梁である。<br />全景<br /><br />清須市西枇杷島町小場塚1188<br />東海道本線枇杷島駅 徒歩15分

    枇杷島-五條川間



    新川(しんかわ)橋梁
    該橋は、明治19年(1886年)4月1日開通時の橋梁である。
    全景

    清須市西枇杷島町小場塚1188
    東海道本線枇杷島駅 徒歩15分

  • 新川橋梁<br />旅客下り線用<br />東京方<br /><br />清須市西枇杷島町小場塚1188<br />東海道本線枇杷島駅 徒歩15分

    新川橋梁
    旅客下り線用
    東京方

    清須市西枇杷島町小場塚1188
    東海道本線枇杷島駅 徒歩15分

  • 新川橋梁<br />旅客下り線用<br />東京方<br />元来は複線用橋梁だったが、東海交通城北線建設時に用地不足が原因で、上り線は新橋梁に移設した。<br /><br />清須市西枇杷島町小場塚1188<br />東海道本線枇杷島駅 徒歩15分

    新川橋梁
    旅客下り線用
    東京方
    元来は複線用橋梁だったが、東海交通城北線建設時に用地不足が原因で、上り線は新橋梁に移設した。

    清須市西枇杷島町小場塚1188
    東海道本線枇杷島駅 徒歩15分

  • 五條川(ごじょうがわ)信号場<br /><br /><br /><br />該信号場は、昭和17年(1942年)1月15日設置である。<br />即ち、従来は名古屋以東発稲澤操車場着となる貨物列車は、該線下り線から上り線への渡り線を転線し該操車場に入線していたが、日華事変(にっか じへん)(昭和12年(1937年)7月8日~昭和16年(1941年)12月8日)勃発以降、それ迄の平時体制から戦時体制へ転換したが、軍用を含め列車本数が激増し、本線途中に該操車場への到着列車が、該本線渡り線を通過して該操車場に入線するのは好ましからぬ事であり、他列車遅延原因とも成り得る為に、該信号場が設置された。<br />該信号場は、設置以来、独立した有人信号場だったが、昭和26年(1951年)4月2日より、該線清洲駅の遠隔操作に依る取扱となった為に、同日附で無人化された。<br /><br />清須市寺野中国無番地<br />東海道本線清洲駅 徒歩25分

    五條川(ごじょうがわ)信号場



    該信号場は、昭和17年(1942年)1月15日設置である。
    即ち、従来は名古屋以東発稲澤操車場着となる貨物列車は、該線下り線から上り線への渡り線を転線し該操車場に入線していたが、日華事変(にっか じへん)(昭和12年(1937年)7月8日~昭和16年(1941年)12月8日)勃発以降、それ迄の平時体制から戦時体制へ転換したが、軍用を含め列車本数が激増し、本線途中に該操車場への到着列車が、該本線渡り線を通過して該操車場に入線するのは好ましからぬ事であり、他列車遅延原因とも成り得る為に、該信号場が設置された。
    該信号場は、設置以来、独立した有人信号場だったが、昭和26年(1951年)4月2日より、該線清洲駅の遠隔操作に依る取扱となった為に、同日附で無人化された。

    清須市寺野中国無番地
    東海道本線清洲駅 徒歩25分

  • 五條川-清洲Ⅱ間<br /><br /><br /><br />五條川(ごじょうがわ)橋梁<br />該橋は、明治19年(1886年)4月1日開通の橋梁である。<br />全長58.0m<br />明治24年(1891年)10月28日6時37分頃、該地方を襲った濃尾大地震に依り該橋梁橋梁2本が傾斜被害が発生した。<br />枇杷島-清洲Ⅰ間は、明治40年(1907年)4月18日に複線化されたが、新橋梁は既成橋梁上流側に架橋され、該日より、新橋梁は上り線専用、既成橋梁は下り線専用となった。<br /><br />清須市朝日城屋敷1-1<br />東海道本線清洲駅 徒歩20分

    五條川-清洲Ⅱ間



    五條川(ごじょうがわ)橋梁
    該橋は、明治19年(1886年)4月1日開通の橋梁である。
    全長58.0m
    明治24年(1891年)10月28日6時37分頃、該地方を襲った濃尾大地震に依り該橋梁橋梁2本が傾斜被害が発生した。
    枇杷島-清洲Ⅰ間は、明治40年(1907年)4月18日に複線化されたが、新橋梁は既成橋梁上流側に架橋され、該日より、新橋梁は上り線専用、既成橋梁は下り線専用となった。

    清須市朝日城屋敷1-1
    東海道本線清洲駅 徒歩20分

  • 五條川-清洲Ⅱ間<br /><br /><br /><br />五條川橋梁<br />東京方<br />橋台<br />現橋梁橋台桁間に元橋梁橋台が現存。<br /><br />清須市清洲田中町32<br />東海道本線清洲駅 徒歩20分

    五條川-清洲Ⅱ間



    五條川橋梁
    東京方
    橋台
    現橋梁橋台桁間に元橋梁橋台が現存。

    清須市清洲田中町32
    東海道本線清洲駅 徒歩20分

  • 五條川-清洲Ⅱ間<br /><br /><br /><br />五條川橋梁<br />東京方<br />橋台<br />現橋梁橋台桁間に元橋梁橋台が現存。<br /><br />清須市清洲田中町32<br />東海道本線清洲駅 徒歩20分

    五條川-清洲Ⅱ間



    五條川橋梁
    東京方
    橋台
    現橋梁橋台桁間に元橋梁橋台が現存。

    清須市清洲田中町32
    東海道本線清洲駅 徒歩20分

  • 五條川-清洲Ⅱ間<br /><br /><br /><br />五條川橋梁<br />旧橋脚跡。<br /><br />清須市清洲田中町32<br />東海道本線清洲駅 徒歩20分

    五條川-清洲Ⅱ間



    五條川橋梁
    旧橋脚跡。

    清須市清洲田中町32
    東海道本線清洲駅 徒歩20分

  • 五條川-清洲Ⅱ間<br /><br /><br /><br />五條川橋梁<br />旧麒麟麦酒貨物専用線橋梁<br />神戸方<br /><br />清須市清洲479<br />東海道本線清洲駅 徒歩18分

    五條川-清洲Ⅱ間



    五條川橋梁
    旧麒麟麦酒貨物専用線橋梁
    神戸方

    清須市清洲479
    東海道本線清洲駅 徒歩18分

  • 五條川-清洲Ⅱ間<br /><br /><br /><br />清洲駅Ⅰ跡<br />該駅は、明治19年(1886年)4月1日開業である。<br />然し、駅本屋竣工は、明治21年(1888年)6月竣工で、それ迄は、掘立小屋で業務を遂行したらしい。<br />然るに、該駅成立途中過程は複雑である。<br />即ち、明治39年(1906年)4月16日附で現在の枇杷島に移転改称された。<br />然し、同日附で元該駅位置に清洲信号所が設置され、明治40年(1907年)4月18日に枇杷島-清洲間が複線化された事で翌19日附で廃止された。<br /><br />清須市清洲田中町32<br />東海道本線清洲駅 徒歩15分

    五條川-清洲Ⅱ間



    清洲駅Ⅰ跡
    該駅は、明治19年(1886年)4月1日開業である。
    然し、駅本屋竣工は、明治21年(1888年)6月竣工で、それ迄は、掘立小屋で業務を遂行したらしい。
    然るに、該駅成立途中過程は複雑である。
    即ち、明治39年(1906年)4月16日附で現在の枇杷島に移転改称された。
    然し、同日附で元該駅位置に清洲信号所が設置され、明治40年(1907年)4月18日に枇杷島-清洲間が複線化された事で翌19日附で廃止された。

    清須市清洲田中町32
    東海道本線清洲駅 徒歩15分

  • 五條川-清洲Ⅱ間<br /><br /><br /><br />清洲駅Ⅰ跡<br /><br />清須市清洲田中町32<br />東海道本線清洲駅 徒歩15分<br />

    五條川-清洲Ⅱ間



    清洲駅Ⅰ跡

    清須市清洲田中町32
    東海道本線清洲駅 徒歩15分

  • 清洲(きよす)駅Ⅱ<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和9年(1934年)2月24日開業である。<br />20年間に亘り停車場が存在した事は、それなりに地元に対し繁栄をもたらした事実に対し、此の事実に旧駅付近住民が納得する筈も無く、停車場再興の機運が勃興するのは当然であり、数次に亘る駅設置請願が承認され該駅開設が決定された。<br />該駅設置時に建築された初代駅本屋は老朽化が深刻だった事から、改築が決定し、平成22年(2010年)2月に現第2代駅本屋竣工と同時に該駅は橋上化された。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kiyosu/index.html<br />

    清洲(きよす)駅Ⅱ



    該駅は、昭和9年(1934年)2月24日開業である。
    20年間に亘り停車場が存在した事は、それなりに地元に対し繁栄をもたらした事実に対し、此の事実に旧駅付近住民が納得する筈も無く、停車場再興の機運が勃興するのは当然であり、数次に亘る駅設置請願が承認され該駅開設が決定された。
    該駅設置時に建築された初代駅本屋は老朽化が深刻だった事から、改築が決定し、平成22年(2010年)2月に現第2代駅本屋竣工と同時に該駅は橋上化された。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kiyosu/index.html

    清洲駅

  • 清洲駅Ⅱ<br /><br /><br /><br />出改札口

    清洲駅Ⅱ



    出改札口

    清洲駅

  • 清洲駅Ⅱ<br /><br /><br /><br />駅構内<br />EF64 1000番台直流型電気機関車牽引貨物列車

    清洲駅Ⅱ



    駅構内
    EF64 1000番台直流型電気機関車牽引貨物列車

    清洲駅

  • 清洲Ⅱ-稲澤間<br /><br /><br /><br />大垣街道踏切<br /><br />稲沢市井之口町出町前5160<br />

    清洲Ⅱ-稲澤間



    大垣街道踏切

    稲沢市井之口町出町前5160

  • 清洲Ⅱ-稲澤間<br /><br /><br /><br />井之口人道跨線橋<br /><br />稲沢市井之口町出町前<br />

    清洲Ⅱ-稲澤間



    井之口人道跨線橋

    稲沢市井之口町出町前

  • 清洲Ⅱ‐稲沢間<br /><br /><br /><br />稲沢操車場跡

    清洲Ⅱ‐稲沢間



    稲沢操車場跡

  • 清洲Ⅱ‐稲沢間<br /><br /><br /><br />稲沢操車場跡

    清洲Ⅱ‐稲沢間



    稲沢操車場跡

  • 稲澤(いなざわ)駅<br /><br /><br />該駅は、明治37年(1904年)8月5日開業である。<br />該駅開業当時、清洲Ⅰ-一ノ宮(現 尾張一宮)間は単線で駅間が10.0km在り、日露戦争(にちろ せんそう)勃発に依る軍事輸送強化を急務とした事から、該区間を2分割し、列車交換施設として設置されたものである。<br />然し、該当時の稲澤は、明治8年(1875年)2月1日附で稲葉村、及び、小澤村が合併し、個々1文字を流用して稲澤村が成立したもので、該村人口に対し停車場設置を要すべき集落など存在せず、該駅開設当時は周辺に田園風景拡がる準農村に過ぎなかった。<br />然るに、該駅周辺が寒村だった事が幸いし、土地収用が容易だった事が、該駅周辺が鉄道の街として発展する基盤が成立した。<br />即ち、大正期に至るまで、貨車組成は名古屋駅構内に於いて実施していたが、構内狭隘で拡張の余地無き事から、鐵道省中京地区に於ける貨車用操車場を設置すべく、検討した結果、最終候補地として大高と稲澤に絞られた。<br />然し、該駅に該操車場が設置となれば、東海道本線列車のみならず、中央本線、及び、関西本線列車に対し、機関車付替を不要とし直接入線可能な事から、操車場は稲澤に設置が決定された。<br />更に、該地に操車場が設置された事で、鐵道省職員、及び、該職員家族が続々と転勤して来た事から、稲澤町人口が急激に増加した。<br />貨物取扱は拠点対拠点輸送体系に移行した為に、途中区間に於ける組成開放は不要になり、該操車場は平成6年(1994年)5月2日附で廃止された。<br />膨大な旧操車場用地は日本貨物鉄道から日本国有鉄道清算事業団に移管され、更に、該事業団から稲沢市に払下げられ、該地活用に対して、該市主導に依る稲沢市再開発計画が開始され、平成12年(2000年)に概ね完成した。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/inazawa/index.html<br />

    稲澤(いなざわ)駅


    該駅は、明治37年(1904年)8月5日開業である。
    該駅開業当時、清洲Ⅰ-一ノ宮(現 尾張一宮)間は単線で駅間が10.0km在り、日露戦争(にちろ せんそう)勃発に依る軍事輸送強化を急務とした事から、該区間を2分割し、列車交換施設として設置されたものである。
    然し、該当時の稲澤は、明治8年(1875年)2月1日附で稲葉村、及び、小澤村が合併し、個々1文字を流用して稲澤村が成立したもので、該村人口に対し停車場設置を要すべき集落など存在せず、該駅開設当時は周辺に田園風景拡がる準農村に過ぎなかった。
    然るに、該駅周辺が寒村だった事が幸いし、土地収用が容易だった事が、該駅周辺が鉄道の街として発展する基盤が成立した。
    即ち、大正期に至るまで、貨車組成は名古屋駅構内に於いて実施していたが、構内狭隘で拡張の余地無き事から、鐵道省中京地区に於ける貨車用操車場を設置すべく、検討した結果、最終候補地として大高と稲澤に絞られた。
    然し、該駅に該操車場が設置となれば、東海道本線列車のみならず、中央本線、及び、関西本線列車に対し、機関車付替を不要とし直接入線可能な事から、操車場は稲澤に設置が決定された。
    更に、該地に操車場が設置された事で、鐵道省職員、及び、該職員家族が続々と転勤して来た事から、稲澤町人口が急激に増加した。
    貨物取扱は拠点対拠点輸送体系に移行した為に、途中区間に於ける組成開放は不要になり、該操車場は平成6年(1994年)5月2日附で廃止された。
    膨大な旧操車場用地は日本貨物鉄道から日本国有鉄道清算事業団に移管され、更に、該事業団から稲沢市に払下げられ、該地活用に対して、該市主導に依る稲沢市再開発計画が開始され、平成12年(2000年)に概ね完成した。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/inazawa/index.html

    稲沢駅

  • 稲沢駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />全景<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/inazawa/index.html

    稲沢駅



    駅本屋
    全景
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/inazawa/index.html

    稲沢駅

  • 稲沢駅<br /><br /><br /><br />駅構内コンコース<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/inazawa/index.html

    稲沢駅



    駅構内コンコース
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/inazawa/index.html

    稲沢駅

  • 稲沢駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム<br />該駅旅客ホーム改築前は、上屋支柱使用の古軌条群の宝庫だったが、改築時に全面撤去され現存せず。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/inazawa/index.html

    稲沢駅



    旅客ホーム
    該駅旅客ホーム改築前は、上屋支柱使用の古軌条群の宝庫だったが、改築時に全面撤去され現存せず。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/inazawa/index.html

    稲沢駅

  • 稲沢駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/inazawa/index.html<br />

    稲沢駅



    旅客ホーム
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/inazawa/index.html

    稲沢駅

  • 稲沢駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/inazawa/index.html

    稲沢駅



    旅客ホーム
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/inazawa/index.html

    稲沢駅

  • 愛知機関区<br /><br /><br /><br />旧 稲沢機関区<br />元来、名古屋地域に於ける機関車配置は名古屋機関庫(現 名古屋車両センター)に集中していたが、年々増加する東海道本線貨物列車限定で運用分離が計画され、該計画に依り、大正14年(1925年)1月21日附で、名古屋機関庫稲澤分庫設置が該機関区発端である。<br />その後、翌大正15年(1926年)5月1日附で、名古屋機関庫から独立し、改めて、稲澤機関庫が成立した。

    愛知機関区



    旧 稲沢機関区
    元来、名古屋地域に於ける機関車配置は名古屋機関庫(現 名古屋車両センター)に集中していたが、年々増加する東海道本線貨物列車限定で運用分離が計画され、該計画に依り、大正14年(1925年)1月21日附で、名古屋機関庫稲澤分庫設置が該機関区発端である。
    その後、翌大正15年(1926年)5月1日附で、名古屋機関庫から独立し、改めて、稲澤機関庫が成立した。

    稲沢駅

  • 愛知機関区<br /><br /><br /><br />該機関区内留置中の休車群。

    愛知機関区



    該機関区内留置中の休車群。

    稲沢駅

  • 稲澤‐尾張一宮間<br /><br /><br /><br />陸田(くがた)乗越橋付近<br /><br />稲沢市陸田町<br />東海道本線尾張一宮駅 名鉄バス陸田停留所降車 徒歩12分

    稲澤‐尾張一宮間



    陸田(くがた)乗越橋付近

    稲沢市陸田町
    東海道本線尾張一宮駅 名鉄バス陸田停留所降車 徒歩12分

  • 稲澤‐尾張一宮間<br /><br /><br /><br />陸田乗越橋付近<br />該地には、嘗ては、大正12年(1923年)に該操車場設置時に架橋された立派な跨線橋が存在した。<br />九州鐵道會社発注品<br />独逸HARKORT製 1894年(明治27年)<br />鋼鉄製ボースリング・プラットトラス橋桁47.25m×1連<br />熊本県加勢川、緑川、濱戸川橋梁の何れから転活用が存在し東海道本線車中からもよく見えたが、該操車場廃止後の土地整理時に撤去解体されたのは惜しまれる。<br /><br />稲沢市陸田町<br />東海道本線尾張一宮駅 名鉄バス陸田停留所降車 徒歩12分

    稲澤‐尾張一宮間



    陸田乗越橋付近
    該地には、嘗ては、大正12年(1923年)に該操車場設置時に架橋された立派な跨線橋が存在した。
    九州鐵道會社発注品
    独逸HARKORT製 1894年(明治27年)
    鋼鉄製ボースリング・プラットトラス橋桁47.25m×1連
    熊本県加勢川、緑川、濱戸川橋梁の何れから転活用が存在し東海道本線車中からもよく見えたが、該操車場廃止後の土地整理時に撤去解体されたのは惜しまれる。

    稲沢市陸田町
    東海道本線尾張一宮駅 名鉄バス陸田停留所降車 徒歩12分

  • 稲澤‐尾張一宮間<br /><br /><br /><br />陸田乗越橋付近<br />旧稲沢操車場<br />上り線神戸方分岐点<br /><br />稲沢市陸田町<br />東海道本線尾張一宮駅 名鉄バス陸田停留所降車 徒歩12分

    稲澤‐尾張一宮間



    陸田乗越橋付近
    旧稲沢操車場
    上り線神戸方分岐点

    稲沢市陸田町
    東海道本線尾張一宮駅 名鉄バス陸田停留所降車 徒歩12分

  • 稲澤-尾張一宮間<br /><br /><br /><br />陸田(くがた)跨線橋<br />上下本線乗越の為に設置。<br /><br />稲沢市陸田町<br />東海道本線稲沢駅 名鉄バス陸田停留所降車 徒歩12分

    稲澤-尾張一宮間



    陸田(くがた)跨線橋
    上下本線乗越の為に設置。

    稲沢市陸田町
    東海道本線稲沢駅 名鉄バス陸田停留所降車 徒歩12分

  • 稲澤-尾張一宮間<br /><br /><br /><br />妙興寺踏切

    稲澤-尾張一宮間



    妙興寺踏切

  • 稲澤-尾張一宮間<br /><br /><br /><br />妙興寺踏切

    稲澤-尾張一宮間



    妙興寺踏切

  • 稲澤-尾張一宮間<br /><br /><br /><br />大江川(おおえがわ)橋梁<br /><br />一宮市倭町氏永<br />名古屋鉄道名古屋本線島氏永駅 徒歩10分

    稲澤-尾張一宮間



    大江川(おおえがわ)橋梁

    一宮市倭町氏永
    名古屋鉄道名古屋本線島氏永駅 徒歩10分

  • 稲澤-尾張一宮間<br /><br /><br /><br />大江川橋梁<br />石積橋台<br /><br />一宮市倭町氏永<br />名古屋鉄道名古屋本線島氏永駅 徒歩10分

    稲澤-尾張一宮間



    大江川橋梁
    石積橋台

    一宮市倭町氏永
    名古屋鉄道名古屋本線島氏永駅 徒歩10分

  • 稲澤-尾張一宮間<br /><br /><br /><br />大江川橋梁<br />該石積橋台上部コンクリートは、昭和20年(1945年)1月13日3時38分頃発生した三河湾大地震に依る損傷復旧痕<br /><br />一宮市倭町氏永<br />名古屋鉄道名古屋本線島氏永駅 徒歩10分

    稲澤-尾張一宮間



    大江川橋梁
    該石積橋台上部コンクリートは、昭和20年(1945年)1月13日3時38分頃発生した三河湾大地震に依る損傷復旧痕

    一宮市倭町氏永
    名古屋鉄道名古屋本線島氏永駅 徒歩10分

  • 稲澤-尾張一宮間<br /><br /><br /><br />稲澤操車場<br />上り線分岐点<br /><br />一宮市大和町妙興寺<br />名古屋鉄道名古屋本線妙興寺駅 徒歩8分

    稲澤-尾張一宮間



    稲澤操車場
    上り線分岐点

    一宮市大和町妙興寺
    名古屋鉄道名古屋本線妙興寺駅 徒歩8分

  • 稲澤-尾張一宮間<br /><br /><br /><br />一宮市内高架橋<br />起点部<br /><br />一宮市大和町妙興寺<br />名古屋鉄道名古屋本線妙興寺駅 徒歩8分

    稲澤-尾張一宮間



    一宮市内高架橋
    起点部

    一宮市大和町妙興寺
    名古屋鉄道名古屋本線妙興寺駅 徒歩8分

  • 尾張一宮(おわりいちのみや)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治19年(1886年)5月1日開業である。<br />即ち、清洲?-一ノ宮(現 尾張一宮)間開通に伴い開業したものである。<br />該駅は開業当初は、一ノ宮(いちのみや)驛と称した。<br />該駅本屋は、明治24年(1891年)10月28日6時33分頃発生した濃尾大震災で半壊被害が発生したが、原材活用で直ちに復旧された。<br />初代駅位置は現在の一宮市松島町付近に存在したが、該駅付近が密集地と化し拡張の余地が無く、此の為に、明治43年(1910年)に現位置に移転し、旧駅本屋付近は貨物取扱専用となった。<br />該駅は、開業当初は一ノ宮と称したが、当時は他一宮神社所在地に停車場が存在しなかった事から何等問題を生じなかったが、全国各地に鉄道線が整備され、他一宮最寄駅が複数新設設置された事で、大正5年(1916年)1月1日附を以って該駅名に旧国名たる尾張が冠され、尾張一ノ宮(おわりいちのみや)に改称された。<br />一宮市は、昭和20年(1945年)7月28日夜半、米戦略部隊所属B29爆撃機92機に依る空襲を受け、該空襲に依り該駅構内に焼夷弾多数が落下爆発し、移転時新築の駅本屋、東信号取扱所、東西貨物ホーム上屋、踏切警手詰所、及び、職員官舎3棟に被災全焼被害が生じた。<br />該駅本屋は、戦災焼失後、仮建築を経て、第三者に依る地元資本参加民衆駅制度に基き設置が決定されたが、当時は朝鮮動乱(ちょうせん どうらん)(昭和25年(1950年)6月25日~昭和28年(1953年)7月27日)勃発を反映し、我が国は未曾有の好景気に支えられ、併せて繊維ブームに依り一宮市は繊維業者後援を受け、第3代駅本屋は鉄骨鉄筋コンクリート建築4階建で、昭和25年(1950年)10月21日附で竣工した。<br />竣工当時、該市は戦災復興途上の状況であり、故に、該市内に適当とする不動産が僅少だった事もあり、該駅本屋に店舗入居者は少なく、逆に、山一證券をはじめとする東京大阪に本社が存在する大手企業支店として入居例が多く見られた。<br />戦後、昭和27年(1952年)11月15日附で現駅名たる尾張一宮に再改称された。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/owari-ichinomiya/index.html

    尾張一宮(おわりいちのみや)駅



    該駅は、明治19年(1886年)5月1日開業である。
    即ち、清洲?-一ノ宮(現 尾張一宮)間開通に伴い開業したものである。
    該駅は開業当初は、一ノ宮(いちのみや)驛と称した。
    該駅本屋は、明治24年(1891年)10月28日6時33分頃発生した濃尾大震災で半壊被害が発生したが、原材活用で直ちに復旧された。
    初代駅位置は現在の一宮市松島町付近に存在したが、該駅付近が密集地と化し拡張の余地が無く、此の為に、明治43年(1910年)に現位置に移転し、旧駅本屋付近は貨物取扱専用となった。
    該駅は、開業当初は一ノ宮と称したが、当時は他一宮神社所在地に停車場が存在しなかった事から何等問題を生じなかったが、全国各地に鉄道線が整備され、他一宮最寄駅が複数新設設置された事で、大正5年(1916年)1月1日附を以って該駅名に旧国名たる尾張が冠され、尾張一ノ宮(おわりいちのみや)に改称された。
    一宮市は、昭和20年(1945年)7月28日夜半、米戦略部隊所属B29爆撃機92機に依る空襲を受け、該空襲に依り該駅構内に焼夷弾多数が落下爆発し、移転時新築の駅本屋、東信号取扱所、東西貨物ホーム上屋、踏切警手詰所、及び、職員官舎3棟に被災全焼被害が生じた。
    該駅本屋は、戦災焼失後、仮建築を経て、第三者に依る地元資本参加民衆駅制度に基き設置が決定されたが、当時は朝鮮動乱(ちょうせん どうらん)(昭和25年(1950年)6月25日~昭和28年(1953年)7月27日)勃発を反映し、我が国は未曾有の好景気に支えられ、併せて繊維ブームに依り一宮市は繊維業者後援を受け、第3代駅本屋は鉄骨鉄筋コンクリート建築4階建で、昭和25年(1950年)10月21日附で竣工した。
    竣工当時、該市は戦災復興途上の状況であり、故に、該市内に適当とする不動産が僅少だった事もあり、該駅本屋に店舗入居者は少なく、逆に、山一證券をはじめとする東京大阪に本社が存在する大手企業支店として入居例が多く見られた。
    戦後、昭和27年(1952年)11月15日附で現駅名たる尾張一宮に再改称された。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/owari-ichinomiya/index.html

    尾張一宮駅

  • 尾張一宮駅<br /><br /><br /><br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/owari-ichinomiya/index.html

    尾張一宮駅



    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/owari-ichinomiya/index.html

    尾張一宮駅

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この旅行記へのコメント (12)

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  • takakoさん 2021/04/16 20:18:18
    辞書みたいです!
    はじめまして。
    フォローありがとうございます。
    どれもあまりの大作!どれだけ大変だったかと。
    尊敬してしまいます。
    一駅一駅訪ねてみえるのは凄いですね。
    私は名古屋ですが、
    三河の方には行く機会があり、豊橋までは
    JRに乗るので、とても親しみを感じながら拝見しました。
    さて、金山の次の駅の尾頭橋ですが、
    実は私の最寄り駅になります。(自宅からは少し離れてはいますが、名古屋駅に出るには1番近く、早いのです。)
    90%JRA(競馬の場外馬券場)出資している駅で、場外馬券場に近いです。
    場外馬券場も数年前にとても綺麗な建物になり、言われないと何かもわからないかも。
    確かに開催される土日は馬券を購入するおじさん、おじいさんの利用も多いですが、
    平日は学生、近くに救急病院もありそこの方々も沢山利用し、普通の駅で、環境が悪いとは思いませんよ。
    ただ、夜は周りが暗いのとお店等ないので、
    遅い時間はちょっとのんびりと歩くって感じではないですね。早歩きです笑
    あと、電車好きの方にもっと知って欲しい駅だといつも思っています。
    なぜなら名古屋方面のホームからはすぐ隣にかこかもなく名鉄が走っていて、その向こうには中央線があります。
    で、金山駅からも名古屋駅からもカーブになっているのでどちらの方も遠くから電車が見えるのです。一度に東海道線、名鉄、中央線3本みえる時もあります。それにはちょっと感動!そして尾頭橋駅自体カーブしているので、電車も傾いて止まり、ホームと電車の間が空いていて乗り降りに気を使います。

    普通しか止まりませんが金山まで2分、名古屋駅までは3分ととても便利な駅です。
    そんな感じの駅です。
    金山は総合駅ですが
    昔は名鉄線離れていました。

    駅周辺の調査や写真もとてもとても時間もかかり、体力もいることと思います。
    凄い!に尽きます。
    takako

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2021/04/17 13:57:15
    拝復
    takakoさま、こんにちは。


    拙稿に投票と掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。
    上程済旅行記も製作中旅行記も全部徒歩か貸自転車で現地を訪れたものです。
    名古屋駅前で電動自転車を拝借させて頂き大高まで往復した際は、復路途中でバッテリーがアウトになってしまい、フツーの自転車よりペダルが重くなりながら熱田から名古屋まで青くなりながら漕いだものです。


    JRになって東海道線は快適便利になりましたね。
    国鉄時代の快速電車なんて153系と云う内外ボロボロの車輌を使用し、足が遅いのと乗降に時間を要する為に、何時も遅延状態で走っていたのがウソみたいになってしまいました。
    途中で名鉄パノラマカー7000系なんて車輌に追い抜かれると、アチラは転換シートの快適さが眩しく感じたものでした。

    名鉄の金山橋駅は、いまの名鉄電車折返線付近に存在した筈です。
    東京発名古屋行時代の急行東海1号に始発駅から乗車して、はじめて見た名古屋の印象は国鉄私鉄の駅がバラバラで、何て不便なところなんだろうと思ったのが今から50年前の出来事です。

    尾頭橋駅が至近駅との由。
    中日戦観戦客を見込んでJR東海が開設したナゴヤ球場正門前駅を利用した事はございましたか?
    名古屋駅から今は無きキハ82系臨時列車で数分でしたが、数百メートルだけJR貨物線を使用する為に、特殊な乗車券が販売されていました。
    尾頭橋駅には名古屋駅で出札のトップを勤められていた方が勤務されていましたが、退職されてしまい残念に思っております。

    金山-尾頭橋間は堀川橋梁を谷間にS字カーブ状で、電車の望見にうってつけの所ですね。


    小生こそ今後とも宜敷くお願い申します。




    横浜臨海公園
  • naniwa ladyさん 2019/01/15 12:37:51
    おめでとうございます。♪
    松の内は今日までになってしまい、正月の飾りつけをなおしました。
    いつもすごいブログで感心しています。
    体調はいかがでしょうか・・
    本年もよろしくお願いします。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2019/01/16 13:16:04
    拝復
    naniwa ladyさま、寒中お見舞いを申し上げます。


    ご挨拶と拙稿への投票を賜りまして、誠に有難うございました。

    本年も亦何卒宜敷くお願い申します。



    横浜臨海公園
  • kuniさん 2018/08/11 10:55:57
    金山から大府だったか
    横浜臨海公園さん、おはようございます。

    もう50年以上前のことですが、親に連れられて金山駅からたぶん大府駅までだと思うんですが、親戚の家に遊びに行くために蒸気機関車が引く列車に何回も乗ったことがあった記憶が浮かんできた旅行記でした。

    当時は名古屋住まいで、市内にはチンチン電車の愛称で呼ばれる路面電車が縦横に走っていて、バスのウインカーはうさぎさんの耳でした。

    昔の懐かしい思い出を思い出させていただきありがとうございました。

    kuni

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2018/08/11 14:57:14
    拝復
    kuniさま、こんにちは。

    拙稿に投票と掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    名古屋市電は、元々、全線民営で市内線のみ名古屋市が買収公営化し、市外線に就いては、新会社を設立して存続させたものが今日の名古屋鉄道であり、それ故、名古屋市電と名鉄は兄弟関係に有り、大東亜戦争中に現地下線開通まで、名鉄電車が押切町まで市電に乗入を実施しておりました。
    兎に角、昭和30年代の名古屋市内は市電が縦横に走り、嘗ての航空産業で栄え、通勤用に路線延長を反復させた経緯があったものと思われます。



    横浜臨海公園
  • tadさん 2018/03/16 13:28:52
    大著です。
    とても、精密には読み切れません。ただ、次の箇所、なるほどと思いました。(。。。は途中省略)
    「辰野金吾。。。を座長に据え、震災予防調査会を結成させ、該会が明治30年(1897年)に発表した震害防止策として、煉瓦建築物に対し煉瓦内部に鉄骨組込とする見解を発表した。
    。。。
    因みに、該震災対策教訓を反映させた東京駅本屋は、煉瓦建築ながら鉄骨組込構築だった事から関東大震災発生時に損傷は発生していない。」

    この説明、納得しました。レンガ建築に普通は鉄骨などはいっていないと想像しますが、東京駅では、辰野金吾は鉄骨を入れていたのですね。辰野金吾が震災予防調査会の座長をしていたんですか。

     かつての跨線橋などの支え部分の写真を見ると、レンガが多用されていますが、震災がなければ、基本的には、鉄筋コンクリートよりは、よほど長持ちしそうですね。JR西日本の新幹線の鉄筋コンクリートの高架部分の支柱が簡単に鉄筋の錆などでコンクリートが剥落していたのを思い出します。今は見苦しく、あちこちの支柱の上に、補強工事跡が見えます。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2018/03/16 14:53:37
    拝復
    tadさま、こんにちは。


    拙稿への投票、及び、掲示板へのコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    濃尾大震災は、明治期に於ける最大級地震被害を発生させたもので、政府としても、洋風建築に使用すべく煉瓦建築物造営に於いて、貴重なデータを残す必要があり、研究チームを現地に派遣し、詳細な調査を実施した結果を踏まえ、該地震以降に於ける煉瓦建築物に対応した内容だった様です。

    煉瓦は目地さへしっかり作成積すれば、耐久力は強いとされ、事実、霞が関煉瓦建築物群では、旧司法省本館は大東亜戦争中の空襲で全焼したにも拘らず、モルタル修復で使用され、現在は、設計当時の原型に復元されており、同時に空襲被災した、海軍省本館、外務省本館も、戦後すぐに解体されなければ、現在でも、その姿を見ることは困難では無かったと思われます。





    横浜臨海公園
  • S...t...e...Pha...n...i...Eさん 2018/03/11 14:40:54
    超超超大作!!
    横浜臨海公園さん、こんにちは~

    ようやく・・・じっくり読ませていただけました!
    それでも読み込めてないような気がして仕方ないのですが、、、
    大府~尾張という決して長くない区間でいつも一瞬で通り過ぎてしまうんですが、すごく歴史もあっていろんなことの積み重ねが今の姿なんやな~と思うとこの区間への見方が変わってきました。

    名古屋駅が出来上がるまでにも場所選びから始まって、ずいぶん紆余曲折あったんですね。今の形になるまでいろいろとルートを変えつつ発展してきた様子がよくわかりました。
    この旅行記を読んで、いかに名古屋とこの周辺が昔から交通、物流の要だったかってことを感じましたね。東京の重要区間に次いで早い段階から高架化がされてきたのも名古屋が別格だったからやろうなぁと。
    おかげで事故や災害の被害、戦争被害も大きく、その度に駅や鉄道会社が苦労してきたんですね~・・・

    踏切付近にお地蔵さんが多いのもなんだか納得です。
    あまり意識してなかったんですが、私の地元でもちょっと注意してみてみようかな・・・

    熱田駅もやっぱり特別扱いやったんですね~
    こっちは神社もあるので余計にってことですよね。
    私は駅のホームの断層を見るのが結構好きなんですが、歴史を感じますよね^^

    表紙にもなってる堀川の橋梁?はレンガ造りでどっしりとしてますね!
    明治のものなのに今もすごく頼りがいのありそうな風格が素晴らしいです。
    同じようにこの辺りはレンガ造りの跨線橋がずいぶん多いんやなぁという印象を受けました。

    いやそれにしても。。。本当に読みごたえがあって、、、!
    やっぱりまだまだちゃんと読めてない気がしますw
    しかもそれに見合うコメントができなくて恐縮なんですが、とにかくいつも大尊敬です!!!
    この「大府~名古屋~尾張」編はすごく大変だったようでお疲れさまでした。
    清州あたりの写真は雪も降ってるじゃないですか!
    他には天気のいいのもあって、現地に赴いての調査も大変だったんじゃないかと・・・
    私の「なんちゃって駅間歩き」とは比べ物にならないですね(笑)
    (いや、比べたら失礼ですね^^;)

    今は名古屋のリニア開業に向けてかなりもめてるようですが、どうなるんでしょうね。
    名古屋周辺はもうすぐ新しい歴史ができそうですね。

    ステファニー

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2018/03/11 15:34:50
    拝復
    ステファニーさま、こんにちは。


    拙稿への投票、及び、掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    大府-名古屋-尾張一宮間編は、構想から完成まで3年かかってしまいました。
    兎に角、次から次へと資料と称する文書を読みながら、取捨選択しなければならず、今まで通説として伝えられていた内容が、該旅行記ではオリジナル文書を元に、次々と否定させて頂きました。

    東海道本線で高架線を旅行記にしたものでは、東京-浜松町間編が一番大変でしたが、それにもまして神戸市内高架線旅行記は、作成準備段階から、かなり厄介な問題を内包しており、上程後、無事に済まされるかどうか微妙な内容になると思います。

    大阪では、現在の大阪環状線が城東線と称した時代、特に、天満-鶴橋間は昭和40年代後半頃まで、地平時代の痕跡が多数残っており、明治中期の煉瓦橋台等々も壊されず現存していたものが、平成になり土地売却と共に、次々と破壊撤去されてしまい、現在では微々たる存在になってしまいました。


    東海道本線は、平成20年(2008年)に丹那隧道建築史を上程して以来、10年が経過してしまいましたが、未だ、東京-神戸間が半分完成したに過ぎません。

    まだまだ時間を要すると思いますが、何卒、ご期待の程を!




    横浜臨海公園
  • frau.himmelさん 2018/03/02 20:40:30
    先ほど書いたコメントが消えました・・・
    横浜臨海公園様、こんばんは。
    あれ~~不思議です。
    今日、3時前にコメントを書いて、投稿してから出かけたのですが、どこかへ消えてしまいました。もう一度思い出して書きますね。
    ・・・・・・・・
    横浜臨海公園さま、こんにちは。いつもありがとうございます。
    大府-名古屋-尾張一宮間編。
    今回はまた凄い超大作を発表なさいましたね。
    写真も200枚超え、内容たるやいつもに増して充実した格調高いもの。

    投稿なさった日に1時間ほどかけて拝見させていただきました。
    実はその時、感動してコメントをしたためたのですが、読み返してみて、横浜臨海公園様の旅行記にあまりにも似合わない薄っぺらいもの、恥ずかしくて引っ込めてしまいました。

    今回の旅行記の大府-名古屋-尾張一宮間。
    実はこの地域、私あんまり知らないのです。
    名古屋ははるか昔行ったことがあるかなー程度で、ほとんどは通過しただけの未知の地。
    横浜臨海公園さまが長年取り組んでいらっしゃった天職とでも言うべき明治頌歌に絡めた調査。ほんとに凄いなーという言葉しか見つかりません。
    一駅一駅下車してお撮りになった駅舎および近辺の写真。
    これだけを考えてもどれだけ調査にお時間がかかったことか。私には気が遠くなりそうです。

    それだけではありません。
    駅舎の柱の1本1本、橋げたの古い煉瓦の1枚1枚、それらをいとおしみながら写真を撮っていらっしゃる横浜臨海公園様の並々ならぬ努力と情熱をひしと感じました。
    まだまだ明治を感じさせる場所があることを、横浜臨海公園様の数々の旅行記で知りました。
    年々、日本国中の駅が新しくなって便利になるのはいいけど、ヨーロッパのように歴史的に価値のある駅舎や橋梁は残してほしいと思います。

    明治頌歌、これからも素晴らしい続編をお書きになるのでしょうね。
    でもお身体にはお気を付けて、あまり無理はなさいませんように。

    himmel

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2018/03/04 10:52:09
    拝復
    frau.himmelさま、こんにちは。


    拙稿に投票と掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    旅行記に対する写真規定投稿枚数を、はるかに超越してしまい、心なしか後ろめたい気分です。

    昨年投稿の旅行記が、重巡洋艦か駆逐艦クラスだったとすると、今回の投稿は文句無く戦艦クラスだったと思います。
    今回の投稿では、地域資料の収集から旅行記完成まで、3年半を要してしまいました。
    今まで言われてきた歴史的史実が、如何に違っていたかを御理解下されば幸甚でございます。

    それにしても、最近のフォートラベルは掲示板に投稿した内容が消滅してしまうなど、トラブルばかりで興醒です。




    横浜臨海公園

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