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該区間は、大府-濱松間延長区間として、明治21年(1888年)9月1日に開通した。<br /><br /><br />該区間開通時、途中停車場として、馬郡(まごおり)(現 舞阪)、及び、鷲津(わしづ)両駅が設置されたが、同年12月1日に馬郡は舞坂(まいさか)に駅名改称された。<br /><br />また、馬郡(現 舞阪)-鷲津間に存在する浜名湖(はまなこ)接合部を横断する為に、今切水道に対し3橋が架橋された。<br /><br />浜名湖は元来は独立淡水湖だったが、貞観11年(869年)7月9日発生の貞観大震災(じょうがん だいしんさい)発生の際に、該湖に津波が襲来した事が原因で塩分が混濁し、更に、明應7年(1498年)9月11日に明應大地震で、現在の今切付近が陥没し遠州灘と直結し現在の汽水湖形態になった。<br /><br />鉄道敷設の報を知るや、地元たる新居の漁業協同組合は、該橋梁橋脚下付近が有力な漁場となる事を期待し、内閣鐵道局に対し漁業権付与を求める請願書を提出した。<br /><br />請願書を受理した内閣鐵道局は、審査の結果、該漁業組合に対し、該場の異常時に於ける橋梁保護を義務附する事を条件に漁業権を付与させた。<br /><br /><br />当初の路線敷設計画は、鷲津から旧東海道筋白須賀宿を経由して二川に向う経路だったが、白須賀村が鉄道通過に対し、反対運動が展開された事で、現在の経路に変更された事と伝えられている。<br /><br />然るに、若し、白須賀村経路で路線が設置された場合、著しい迂回路となり距離が延伸するだけでは済まず、途中勾配が25/1000‰以上の急勾配、及び、急曲線が連続する該線内に於いて隘路と化した可能性が高く、実際には、測量の結果、敷設経路が変更され運転上に於いて無理が無い現経路に確定したと言うのが、けだし真相であると思われる。<br /><br />現経路ですら鷲津から新所原付近に存在する湖西連峰麓まで連続10‰登り連続勾配であり、電化以前たる、昭和25年(1950年)10月1日附時刻改正で、大東亜戦争後として速度向上が実施されたが、それですら、浜松-豊橋間最速下り列車たる、東京発鹿児島行普通急行第33列車(後に 霧島 と命名)が、該区間途中駅無停車であるにも拘らず38分で運転し、該区間全駅停車の普通列車に至っては58分を要している。<br />該当時は、当時の狭軌区間に於いて最大出力が発揮可能とされた旅客用大型蒸気機関車C59型、並びに、C62型を使用して此の状態だった。<br /><br />若し、当初計画通り白須賀経由で路線を設置したら、開通当時は勿論、非電化時代は単機での列車牽引登攀は困難であり、仮に電化しても、後に、山陽本線三原-広島間が昭和37年(1962年)5月12日に電化されたが、該区間中、瀬野-八本松間上り線は22/1000‰登り連続勾配の為に、電化当時の151系特急用電車、及び、153系準急用電車は電動車以外に付随車を多数連結し、且つ、1台100kW主電動機では出力不足の為に、広島駅で列車後部に補助電気機関車を連結しなければ登攀不可能な状態だった。<br />電車にして該状態である。<br />重量貨物列車に至っては現在でも補助機関車の手助けが必要な状態である。<br /><br />白須賀経由で路線敷設されていたら、鷲津は、山北、大垣と共に、補助機関車連結地として、鉄道の町へと繁栄していた可能性が高かったと思われる。<br /><br />因みに、該区間全駅停車の普通電車は概ね32分、かつて存在した途中駅無停車の急行電車は24分で走破していた。<br /><br /><br />渥美郡二川村から請願されていた停車場設置に就いて、停車場設置に必要地無償献納を条件に設置が了承され、明治29年(1896年)4月7日に二川駅が開業した。<br /><br />因みに、該駅開業時に新築された駅本屋は、東南海地震、及び、三河大震災にも損傷せず、東海道本線沿線最古の駅舎として知られた存在だったが、築100年以上を経過した事から老朽化が深刻な状態となり、平成14年(2002年)4月27日に現第2代目駅本屋が竣工したが、それを前に旧駅本屋は保存が断念され解体撤去された。<br /><br /><br />鐵道唱歌 <br />第27番<br />琴ひく風の濱松も<br />(ことひく かぜの はままつも)<br />菜種に蝶の舞阪も<br />(なたねに ちょうの まいさかも)<br />うしろに走る愉快さを<br />(うしろに はしる ゆかいさを)<br />うたうか磯の波のこえ♪<br />(うたうか いその なみのこえ)<br /><br />第28番<br />煙を水に横たへて<br />(けむりを みずに よこたえて)<br />わたる濱名の橋の上<br />(わたる はまなの はしのうえ)<br />たもと涼しく吹く風に<br />(たもと すずしく ふくかぜに)<br />夏もののこらずなりにけり♪<br />(なつもの のこらず なりにけり)<br /><br />第29番<br />右は入海しずかにて<br />(みぎは いりうみ しずかにて)<br />空には富士の雪しろし<br />(そらには ふじの ゆきしろし)<br />左は遠州洋ちかく<br />(ひだりは えんしゅうなだ ちかく)<br />山なす波ぞ砕けちる♪<br />(やまなす なみぞ くだけちる)<br /><br />3曲に亘り浜名湖を歌っている。<br /><br />第30番<br />豊橋おりて乗る汽車は<br />(とよはし おりて のる きしゃは)<br />これぞ豊川稲荷道<br />(これぞ とよかわ いなりみち)<br />東海道にてすぐれたる<br />(とうかいどうにて すぐれたる)<br />海のながめは蒲郡♪<br />(うみの ながめは がまごおり)<br /><br />鐵道唱歌に於いて浜名湖沿岸の車窓の眺めが素晴らしいのは解るが、然し、第30番に於いて、豊橋と蒲郡が一緒と云うのは何とも素っ気無い。<br /><br /><br />濱松-豊橋間に於ける複線化は、<br />濱松-舞坂(現 舞阪)間 明治37年(1904年)2月8日<br />舞坂(現 舞阪)-鷲津間             8月5日<br />鷲津-豊橋間      明治36年(1905年)7月6日<br />である。<br /><br /><br />松本良順(まつもと りょうじゅん)(天保3年(1832年)7月13日~明治40年(1907年)3月12日)は、幕末から明治期にかけて活躍した我が国に於ける近代西洋医学界の権威である。<br /><br />幕末期に於ける西洋医学とは、即ち、当時の鎖国の影響からオランダ医学一辺倒だったが、開国に依り、新たにドイツ医学が導入され、変革期でもあったが、良順はドイツ医学1期生に属する教育を受けた人物である。<br /><br />徳川幕府典医を経て、戊辰戦争に幕府軍に従軍し新政府軍に捕えられたが、明治維新後に新政府から赦免後、山縣有朋(やまがた ありとも)(天保9年(1838年)6月14日~大正11年(1922年)2月1日)に懇願され、初代帝國陸軍軍医総監(明治6年(1873年)5月20日~明治12年(1879年)10月14日在任)に就任した。<br /><br />当時の我が国国民は、栄養状態が粗末な事が原因で、体格体力的に欧米人より劣る事は勿論ながら、平均寿命も短命であり、且つ、国民病と称された結核罹病者が多く、結核は大東亜戦争前までの病死筆頭の存在とされたが、良順は、日本人の健康増進法として、国民に対し海水浴に依る健康維持を提案奨励させた。<br /><br />当時は、東京大森、及び、大阪濱寺に於いて、汐浴と称し微々たる存在に過ぎなかったが、改めて、政府内務省主導に拠る滞在型保養地を兼ね、逗子、大磯、興津、須磨が選定され、更に、鎌倉七里ガ浜、沼津、弁天島が追加された。<br /><br />弁天島は浜名湖中心部に位置し、更に、東海道本線に於いて、東京大阪の中間点に存在する事から、保養地に存在する軽水浴場として俄かに脚光を浴び、此の為に、明治39年(1906年)7月11日に、弁天島上に辨天島臨時停留場が設置され、現在の弁天島駅の嚆矢となる。<br /><br /><br />鷲津驛裏は浜名湖に面し、或る程度の水深が存在した事から、汽船発着桟橋として脚光を浴びた。<br /><br />現在の 浜名湖遊覧船(はまなこ ゆうらんせん)は、本来、鷲津港を機軸として、明治40年(1907年)8月13日に創設された 濱名湖巡航船(はまなこ じゅんこうせん)が嚆矢である。<br /><br />即ち、当時は道路未発達の状態から、浜名湖奥地に於ける交通路は汽船に頼わざるを得ず、鷲津港から出航する該汽船は、半ば浜名湖に所在する町村への培養的交通機関として認識されており、地元にとって鉄道連絡船としての側面をも有する重要な足だった。<br /><br />当時は、地元鉄道線各駅は勿論、東京、横濱、名古屋、京都、大阪、及び、神戸間と連帯運輸契約を有し、各駅間乗車券が発売されていた。<br />また、鷲津駅には乗換客を目当てに赤帽も存在していた。<br /><br />然るに、明治43年(1910年)4月21日に公布された 軽便鐵道法(けいべん てつどうほう)は、8箇条から成立する単純な法律だったが、全国各地に鉄道培養線建設熱を促させ、該法に基き、大正3年(1914年)11月30日に、濱松軽便鐵道(はままつ けいべん てんつどう)が、元城(もとしろ)-金指(かなさし)間を開通させ、翌大正4年(1915年)9月20日に元城-板屋町(いたやまち)間開通で浜松中心地への連絡を果たし、同年12月28日に金指-気賀(きが)、更に、大正12年(1923年)4月18日に気賀-奥山(おくやま)まで全通させた事で、浜松町中心地から浜名郡諸奥地に鉄道線が直通した事で地元民の利便性が向上した結果、鷲津経由を要する該汽船利用者は漸次減少傾向を呈した。<br /><br />更に、昭和初期に入り、社会構造上の長期不況体制と共に、内務省土木局直轄工事として、現在の国道301号線、同362号線、及び、県道483号線、同493号線が整備設置された事で、乗合バス、及び、トラックの進出に依り一般乗船客が減少傾向に拍車がかかり、更に、昭和15年(1940年)6月1日附で、遠州森-遠江二俣-金指間開通に依り東西二俣線(現 天竜浜名湖鉄道天浜線)が連結全通した事で、該社は更に苦境に立たされた。<br /><br />大東亜戦争終結直後の昭和21年(1946年)に、該社は 浜名湖観光汽船(はまなこ かんこう きせん)に社名変更したが、当然の事ながら一般乗船客より観光客重視が前面に出たものだが、当時は終戦直後でもあり、我々日本人は食うや食わずの日々であり、観光など思いもよらぬ時代故に、該社名改名は、寧ろ、当時の進駐軍、及び、家族関係者接受の為と見るべきであろう。<br />昭和33年(1958年)に、該湖東部の舘山寺(かんざんじ)付近に鉱泉が湧出した事から、観光拠点として整備される様になり、次第に拠点を鷲津港から舘山寺に移転させ、昭和52年(1977年)に現社名に再変更された。<br /><br />該社は、静岡県に依る鷲津港再整備計画に基き、鷲津桟橋廃止が決定した事から、昭和50年(1975年)3月1日附で鷲津桟橋寄港が廃止され、同時に鉄道連絡船としての使命も終焉を迎えた。<br /><br />現在では半ば保守もされず自然崩壊状態の桟橋跡が残存する。<br /><br /><br />昭和9年(1934年)3月23日3時42分頃、鷲津-二川間に於いて重大事故が発生した。<br /><br />即ち、該区間走行中の 東京発大阪行 普通急行第1007列車編成中、食堂車 スシ37 728調理室付近から出火し、消火活動の効果無く、該車車輌は全焼した。<br />該車輌は、法規上は 昭和10年(1935年)6月24日附で廃車手続が執されたが、同年3月30日附で台枠以下を活用し車体を新製し、 スシ37 818に再生された。<br />鐵道省車輌では、廃車手続より再生例が数多く存在し、大東亜戦争中に空襲被災廃車車輌ですら、手続より再生時が早い例が存在する。<br /><br /><br />昭和初期に、当時の帝國陸海軍部は、戦争勃発に伴う遠州灘沖に出没する、敵艦船に依る艦砲射撃を要因とした東海道本線交通遮断途絶を懸念し、鐵道省に対し浜名湖奥岸側を通過する新路線設置を要求して来た事から、鐵道省は検討した結果、掛川-遠江二俣-新所原間に対し二俣線建設を決定した。<br /><br />該線は、昭和10年(1935年)4月17日に、掛川-遠州森間を二俣東線開通を嚆矢として延伸を重ね、昭和15年(1940年)6月1日附で、遠江森-遠江二俣-金指間開通を以って全線開通した。<br /><br /><br />昭和19年(1944年)12月7日13時36分に東南海(とうなんかい)大地震が発生した。<br />該震災に依り、弁天島-新居町間に存在する第3濱名(だいさん はまな)橋梁は橋台崩落、橋脚が座屈傾斜し、更に、元来が湿地帯に設置された新居町-鷲津-新所原間築堤が崩壊し、上下線線路が梯子状になった事で列車運行が不可能になった為に、主に軍用列車を中心に掛川-新所原間は二俣線(現 天竜浜名湖鉄道)に迂回運転をさせ当面の列車運休回避を可能にさせた。<br /><br />該橋梁修復は昼夜兼行で行われ、下り線開通が同年12月13日、上り線は同年12月27日にずれ込んだ。<br /><br /><br />大東亜戦争中、該区間に於ける空襲被害は、<br /><br />  5月19日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計272機<br /> 警戒警報発令  0時32分<br /> 空襲警報発令  1時00分<br /> 空襲開始    1時12分<br /> 空襲警報解除  4時15分<br /> 警戒警報解除  4時25分<br />濱松-高塚間 <br />  艦載機焼夷弾攻撃 枕木焦損1箇所12本<br />弁天島-新居町間<br />  上り貨物列車艦載機機銃掃射攻撃に依り荷物車1両炎上 新居町駅後退退避<br /> 第3浜名上り線用橋梁損傷 19日8時開通まで舞阪-新居町間下り線使用に依る単線運転。<br />  該貨物列車機関士即死<br /><br />  6月19日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 B29戦略爆撃機計136機 豊橋大空襲<br /> 警戒警報発令 21時20分<br /> 空襲警報発令 22時00分<br /> 空襲開始    0時31分<br /> 空襲警報解除  1時10分<br /> 警戒警報解除  1時15分<br />豊橋駅構内<br />  駅本屋 飯田線(旧 豊川鐵道)駅舎 西口駅舎 跨線橋 配電分室 <br />大山塚職員官舎 南新勝職員官舎<br />  蒸気機関車6両 貨車74両<br />該駅構内被災車輌<br />  オロ 35  63(廣ヒロ)全焼<br />  スロ 34  11(大ミハソ)全焼<br />  オハ 35 334(大ヒメ)全焼<br />  オハ 40  20(廣ヒロ)全焼<br />  オハ 40  23(廣ヒロ)全焼<br />  スハ 32 123(大ミハソ)全焼<br />  スハ 32 407(名ハツ)全焼<br />  スハ 32 736(名ハツ)全焼<br />  スハ 32 737(名ハツ)全焼<br />  スハ 32 770(廣セキ)全焼<br />  スハ 32 775(廣ヒロ)全焼<br />  スハ 36  87(廣ヒロ)全焼<br />  スハ 36 100(廣ヒロ)全焼<br />  マハ 47 101(大ヒメ)全焼<br />  オハフ33  96(名ナコ)全焼<br />  スハフ32 319(名ハツ)全焼<br />  スハニ31  19(門ハヤ)全焼<br /> 以上、昭和21年(1946年)3月31日附戦災廃車。<br /><br /> 上り軍用貨物列車に直撃弾命中の為に該列車搭載品弾薬砲弾誘爆し該駅構内被害甚大。<br />   線路破壊 1箇所30m 枕木焼損11本<br />   職員8名死亡 14名以上重軽傷<br /><br />  7月23日<br /> 警戒警報発令  6時12分<br /> 空襲警報発令  8時12分<br /> 空襲開始    8時45分<br /> 空襲警報解除 10時45分<br /> 警戒警報解除 10時50分<br />濱松-弁天島間<br />   線路破壊 5箇所50m<br />舞阪駅構内<br />  駅本屋 待合室 跨線橋 <br /><br />  7月25日 P51型艦載機機銃掃射<br /> 警戒警報発令 23時12分 <br /> 空襲警報発令  0時 0分<br /> 空襲開始    1時 0分<br /> 空襲警報解除  1時47分<br /> 警戒警報解除  2時20分<br />舞阪-弁天島間<br />  東京発大阪行普通旅客第133列車<br />  艦載機機銃掃射銃撃<br />    旅客13名死亡重軽傷者多数<br />舞阪駅構内被災車輌<br />  オロ 31 142(大キト)全焼<br />  オハ 31  64(名トヤ)全焼<br />  マユ 31   2(東シナ)全焼<br /> 以上、昭和21年(1946年)3月31日附戦災廃車。<br />  マユ 33  12(東トウ)全焼<br /> 以上、昭和22年(1947年)4月26日附戦災廃車。<br /><br />  7月30日 濱松艦砲射撃<br /> 警戒警報発令  5時20分<br /> 空襲警報発令  5時21分<br /> 空襲開始    5時26分<br /> 空襲警報解除  8時35分<br /> 警戒警報解除 10時32分<br />濱松-舞阪間<br />   線路破壊<br />新居町駅構内艦砲射撃命中弾20発<br />   駅本屋、跨線橋ガラス全損<br />遠州灘に展開した米英連合艦隊所属 ボルティモア級重巡洋艦ボストン(BOSTON)、及び、同型艦クインシー(QUINCY)2艦は、全長205.3m 総トン数13600 主砲20cm3連装×3砲を有する、主砲が30cmであれば、明治期に於ける我が国の戦艦三笠に匹敵する軍艦である。<br />ボストンは第1、及び、第2浜名橋梁、クインシーは第3浜名橋梁攻撃を命令されていたが、同時に主目標が浜名海兵団とされたが、移動目標たる戦闘航行中の軍艦に対しならいざ知らず、該2艦には射撃用レーダーや測距儀が搭載されていたにも拘らず、第1~3浜名橋梁や新居町駅構内の如き不動産に対する静止目標に対し、主砲弾に至近弾こそ発生したが何故か命中弾は発生せず、戦艦級に秀逸な砲術士官や射撃手が配置されていたが、巡洋艦級に対して並の者しか配置されていなかったのか、此れらに命中弾が発生せず被害が無かった事は不幸中の幸いと言えた。<br /><br /><br />地上時代に於ける浜松駅構内は、南部に機関区、客貨車区、及び、貨物取扱施設が存在したが、該駅高架化工事に伴い、該区域に旅客取扱施設設置が決定した為に、貨物取扱代替施設を必要とする事から、西浜松駅が設置された。<br />該駅開業に合せ、大型トラック通行に支障無き様に浜松西武地域に於ける道路整備拡充を完了させ、此の為に、該駅開業と同時に、浜松-二川間一般貨物取扱が廃止され該駅に集約された。<br /><br /><br /><br />表紙写真は、<br />初代第2浜名橋梁旧下線橋梁橋脚基礎跡<br /><br /><br /><br /><br /><br />東海道本線歴史的痕跡探訪記<br />~東京-濱松町間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10701644<br />~東京驛編~<br /><br />~汐留-濱松町-品川間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10797199<br />~品川-川崎間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10502858<br />~川崎-横濱間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10711843<br />~横濱駅移設変転史編 明治頌歌~<br 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東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~濱松-豊橋間編 明治頌歌~

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2014/11/02 - 2014/11/02

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横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

該区間は、大府-濱松間延長区間として、明治21年(1888年)9月1日に開通した。


該区間開通時、途中停車場として、馬郡(まごおり)(現 舞阪)、及び、鷲津(わしづ)両駅が設置されたが、同年12月1日に馬郡は舞坂(まいさか)に駅名改称された。

また、馬郡(現 舞阪)-鷲津間に存在する浜名湖(はまなこ)接合部を横断する為に、今切水道に対し3橋が架橋された。

浜名湖は元来は独立淡水湖だったが、貞観11年(869年)7月9日発生の貞観大震災(じょうがん だいしんさい)発生の際に、該湖に津波が襲来した事が原因で塩分が混濁し、更に、明應7年(1498年)9月11日に明應大地震で、現在の今切付近が陥没し遠州灘と直結し現在の汽水湖形態になった。

鉄道敷設の報を知るや、地元たる新居の漁業協同組合は、該橋梁橋脚下付近が有力な漁場となる事を期待し、内閣鐵道局に対し漁業権付与を求める請願書を提出した。

請願書を受理した内閣鐵道局は、審査の結果、該漁業組合に対し、該場の異常時に於ける橋梁保護を義務附する事を条件に漁業権を付与させた。


当初の路線敷設計画は、鷲津から旧東海道筋白須賀宿を経由して二川に向う経路だったが、白須賀村が鉄道通過に対し、反対運動が展開された事で、現在の経路に変更された事と伝えられている。

然るに、若し、白須賀村経路で路線が設置された場合、著しい迂回路となり距離が延伸するだけでは済まず、途中勾配が25/1000‰以上の急勾配、及び、急曲線が連続する該線内に於いて隘路と化した可能性が高く、実際には、測量の結果、敷設経路が変更され運転上に於いて無理が無い現経路に確定したと言うのが、けだし真相であると思われる。

現経路ですら鷲津から新所原付近に存在する湖西連峰麓まで連続10‰登り連続勾配であり、電化以前たる、昭和25年(1950年)10月1日附時刻改正で、大東亜戦争後として速度向上が実施されたが、それですら、浜松-豊橋間最速下り列車たる、東京発鹿児島行普通急行第33列車(後に 霧島 と命名)が、該区間途中駅無停車であるにも拘らず38分で運転し、該区間全駅停車の普通列車に至っては58分を要している。
該当時は、当時の狭軌区間に於いて最大出力が発揮可能とされた旅客用大型蒸気機関車C59型、並びに、C62型を使用して此の状態だった。

若し、当初計画通り白須賀経由で路線を設置したら、開通当時は勿論、非電化時代は単機での列車牽引登攀は困難であり、仮に電化しても、後に、山陽本線三原-広島間が昭和37年(1962年)5月12日に電化されたが、該区間中、瀬野-八本松間上り線は22/1000‰登り連続勾配の為に、電化当時の151系特急用電車、及び、153系準急用電車は電動車以外に付随車を多数連結し、且つ、1台100kW主電動機では出力不足の為に、広島駅で列車後部に補助電気機関車を連結しなければ登攀不可能な状態だった。
電車にして該状態である。
重量貨物列車に至っては現在でも補助機関車の手助けが必要な状態である。

白須賀経由で路線敷設されていたら、鷲津は、山北、大垣と共に、補助機関車連結地として、鉄道の町へと繁栄していた可能性が高かったと思われる。

因みに、該区間全駅停車の普通電車は概ね32分、かつて存在した途中駅無停車の急行電車は24分で走破していた。


渥美郡二川村から請願されていた停車場設置に就いて、停車場設置に必要地無償献納を条件に設置が了承され、明治29年(1896年)4月7日に二川駅が開業した。

因みに、該駅開業時に新築された駅本屋は、東南海地震、及び、三河大震災にも損傷せず、東海道本線沿線最古の駅舎として知られた存在だったが、築100年以上を経過した事から老朽化が深刻な状態となり、平成14年(2002年)4月27日に現第2代目駅本屋が竣工したが、それを前に旧駅本屋は保存が断念され解体撤去された。


鐵道唱歌
第27番
琴ひく風の濱松も
(ことひく かぜの はままつも)
菜種に蝶の舞阪も
(なたねに ちょうの まいさかも)
うしろに走る愉快さを
(うしろに はしる ゆかいさを)
うたうか磯の波のこえ♪
(うたうか いその なみのこえ)

第28番
煙を水に横たへて
(けむりを みずに よこたえて)
わたる濱名の橋の上
(わたる はまなの はしのうえ)
たもと涼しく吹く風に
(たもと すずしく ふくかぜに)
夏もののこらずなりにけり♪
(なつもの のこらず なりにけり)

第29番
右は入海しずかにて
(みぎは いりうみ しずかにて)
空には富士の雪しろし
(そらには ふじの ゆきしろし)
左は遠州洋ちかく
(ひだりは えんしゅうなだ ちかく)
山なす波ぞ砕けちる♪
(やまなす なみぞ くだけちる)

3曲に亘り浜名湖を歌っている。

第30番
豊橋おりて乗る汽車は
(とよはし おりて のる きしゃは)
これぞ豊川稲荷道
(これぞ とよかわ いなりみち)
東海道にてすぐれたる
(とうかいどうにて すぐれたる)
海のながめは蒲郡♪
(うみの ながめは がまごおり)

鐵道唱歌に於いて浜名湖沿岸の車窓の眺めが素晴らしいのは解るが、然し、第30番に於いて、豊橋と蒲郡が一緒と云うのは何とも素っ気無い。


濱松-豊橋間に於ける複線化は、
濱松-舞坂(現 舞阪)間 明治37年(1904年)2月8日
舞坂(現 舞阪)-鷲津間             8月5日
鷲津-豊橋間      明治36年(1905年)7月6日
である。


松本良順(まつもと りょうじゅん)(天保3年(1832年)7月13日~明治40年(1907年)3月12日)は、幕末から明治期にかけて活躍した我が国に於ける近代西洋医学界の権威である。

幕末期に於ける西洋医学とは、即ち、当時の鎖国の影響からオランダ医学一辺倒だったが、開国に依り、新たにドイツ医学が導入され、変革期でもあったが、良順はドイツ医学1期生に属する教育を受けた人物である。

徳川幕府典医を経て、戊辰戦争に幕府軍に従軍し新政府軍に捕えられたが、明治維新後に新政府から赦免後、山縣有朋(やまがた ありとも)(天保9年(1838年)6月14日~大正11年(1922年)2月1日)に懇願され、初代帝國陸軍軍医総監(明治6年(1873年)5月20日~明治12年(1879年)10月14日在任)に就任した。

当時の我が国国民は、栄養状態が粗末な事が原因で、体格体力的に欧米人より劣る事は勿論ながら、平均寿命も短命であり、且つ、国民病と称された結核罹病者が多く、結核は大東亜戦争前までの病死筆頭の存在とされたが、良順は、日本人の健康増進法として、国民に対し海水浴に依る健康維持を提案奨励させた。

当時は、東京大森、及び、大阪濱寺に於いて、汐浴と称し微々たる存在に過ぎなかったが、改めて、政府内務省主導に拠る滞在型保養地を兼ね、逗子、大磯、興津、須磨が選定され、更に、鎌倉七里ガ浜、沼津、弁天島が追加された。

弁天島は浜名湖中心部に位置し、更に、東海道本線に於いて、東京大阪の中間点に存在する事から、保養地に存在する軽水浴場として俄かに脚光を浴び、此の為に、明治39年(1906年)7月11日に、弁天島上に辨天島臨時停留場が設置され、現在の弁天島駅の嚆矢となる。


鷲津驛裏は浜名湖に面し、或る程度の水深が存在した事から、汽船発着桟橋として脚光を浴びた。

現在の 浜名湖遊覧船(はまなこ ゆうらんせん)は、本来、鷲津港を機軸として、明治40年(1907年)8月13日に創設された 濱名湖巡航船(はまなこ じゅんこうせん)が嚆矢である。

即ち、当時は道路未発達の状態から、浜名湖奥地に於ける交通路は汽船に頼わざるを得ず、鷲津港から出航する該汽船は、半ば浜名湖に所在する町村への培養的交通機関として認識されており、地元にとって鉄道連絡船としての側面をも有する重要な足だった。

当時は、地元鉄道線各駅は勿論、東京、横濱、名古屋、京都、大阪、及び、神戸間と連帯運輸契約を有し、各駅間乗車券が発売されていた。
また、鷲津駅には乗換客を目当てに赤帽も存在していた。

然るに、明治43年(1910年)4月21日に公布された 軽便鐵道法(けいべん てつどうほう)は、8箇条から成立する単純な法律だったが、全国各地に鉄道培養線建設熱を促させ、該法に基き、大正3年(1914年)11月30日に、濱松軽便鐵道(はままつ けいべん てんつどう)が、元城(もとしろ)-金指(かなさし)間を開通させ、翌大正4年(1915年)9月20日に元城-板屋町(いたやまち)間開通で浜松中心地への連絡を果たし、同年12月28日に金指-気賀(きが)、更に、大正12年(1923年)4月18日に気賀-奥山(おくやま)まで全通させた事で、浜松町中心地から浜名郡諸奥地に鉄道線が直通した事で地元民の利便性が向上した結果、鷲津経由を要する該汽船利用者は漸次減少傾向を呈した。

更に、昭和初期に入り、社会構造上の長期不況体制と共に、内務省土木局直轄工事として、現在の国道301号線、同362号線、及び、県道483号線、同493号線が整備設置された事で、乗合バス、及び、トラックの進出に依り一般乗船客が減少傾向に拍車がかかり、更に、昭和15年(1940年)6月1日附で、遠州森-遠江二俣-金指間開通に依り東西二俣線(現 天竜浜名湖鉄道天浜線)が連結全通した事で、該社は更に苦境に立たされた。

大東亜戦争終結直後の昭和21年(1946年)に、該社は 浜名湖観光汽船(はまなこ かんこう きせん)に社名変更したが、当然の事ながら一般乗船客より観光客重視が前面に出たものだが、当時は終戦直後でもあり、我々日本人は食うや食わずの日々であり、観光など思いもよらぬ時代故に、該社名改名は、寧ろ、当時の進駐軍、及び、家族関係者接受の為と見るべきであろう。
昭和33年(1958年)に、該湖東部の舘山寺(かんざんじ)付近に鉱泉が湧出した事から、観光拠点として整備される様になり、次第に拠点を鷲津港から舘山寺に移転させ、昭和52年(1977年)に現社名に再変更された。

該社は、静岡県に依る鷲津港再整備計画に基き、鷲津桟橋廃止が決定した事から、昭和50年(1975年)3月1日附で鷲津桟橋寄港が廃止され、同時に鉄道連絡船としての使命も終焉を迎えた。

現在では半ば保守もされず自然崩壊状態の桟橋跡が残存する。


昭和9年(1934年)3月23日3時42分頃、鷲津-二川間に於いて重大事故が発生した。

即ち、該区間走行中の 東京発大阪行 普通急行第1007列車編成中、食堂車 スシ37 728調理室付近から出火し、消火活動の効果無く、該車車輌は全焼した。
該車輌は、法規上は 昭和10年(1935年)6月24日附で廃車手続が執されたが、同年3月30日附で台枠以下を活用し車体を新製し、 スシ37 818に再生された。
鐵道省車輌では、廃車手続より再生例が数多く存在し、大東亜戦争中に空襲被災廃車車輌ですら、手続より再生時が早い例が存在する。


昭和初期に、当時の帝國陸海軍部は、戦争勃発に伴う遠州灘沖に出没する、敵艦船に依る艦砲射撃を要因とした東海道本線交通遮断途絶を懸念し、鐵道省に対し浜名湖奥岸側を通過する新路線設置を要求して来た事から、鐵道省は検討した結果、掛川-遠江二俣-新所原間に対し二俣線建設を決定した。

該線は、昭和10年(1935年)4月17日に、掛川-遠州森間を二俣東線開通を嚆矢として延伸を重ね、昭和15年(1940年)6月1日附で、遠江森-遠江二俣-金指間開通を以って全線開通した。


昭和19年(1944年)12月7日13時36分に東南海(とうなんかい)大地震が発生した。
該震災に依り、弁天島-新居町間に存在する第3濱名(だいさん はまな)橋梁は橋台崩落、橋脚が座屈傾斜し、更に、元来が湿地帯に設置された新居町-鷲津-新所原間築堤が崩壊し、上下線線路が梯子状になった事で列車運行が不可能になった為に、主に軍用列車を中心に掛川-新所原間は二俣線(現 天竜浜名湖鉄道)に迂回運転をさせ当面の列車運休回避を可能にさせた。

該橋梁修復は昼夜兼行で行われ、下り線開通が同年12月13日、上り線は同年12月27日にずれ込んだ。


大東亜戦争中、該区間に於ける空襲被害は、

  5月19日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計272機
 警戒警報発令  0時32分
 空襲警報発令  1時00分
 空襲開始    1時12分
 空襲警報解除  4時15分
 警戒警報解除  4時25分
濱松-高塚間
  艦載機焼夷弾攻撃 枕木焦損1箇所12本
弁天島-新居町間
  上り貨物列車艦載機機銃掃射攻撃に依り荷物車1両炎上 新居町駅後退退避
 第3浜名上り線用橋梁損傷 19日8時開通まで舞阪-新居町間下り線使用に依る単線運転。
  該貨物列車機関士即死

  6月19日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 B29戦略爆撃機計136機 豊橋大空襲
 警戒警報発令 21時20分
 空襲警報発令 22時00分
 空襲開始    0時31分
 空襲警報解除  1時10分
 警戒警報解除  1時15分
豊橋駅構内
  駅本屋 飯田線(旧 豊川鐵道)駅舎 西口駅舎 跨線橋 配電分室
大山塚職員官舎 南新勝職員官舎
  蒸気機関車6両 貨車74両
該駅構内被災車輌
  オロ 35  63(廣ヒロ)全焼
  スロ 34  11(大ミハソ)全焼
  オハ 35 334(大ヒメ)全焼
  オハ 40  20(廣ヒロ)全焼
  オハ 40  23(廣ヒロ)全焼
  スハ 32 123(大ミハソ)全焼
  スハ 32 407(名ハツ)全焼
  スハ 32 736(名ハツ)全焼
  スハ 32 737(名ハツ)全焼
  スハ 32 770(廣セキ)全焼
  スハ 32 775(廣ヒロ)全焼
  スハ 36  87(廣ヒロ)全焼
  スハ 36 100(廣ヒロ)全焼
  マハ 47 101(大ヒメ)全焼
  オハフ33  96(名ナコ)全焼
  スハフ32 319(名ハツ)全焼
  スハニ31  19(門ハヤ)全焼
 以上、昭和21年(1946年)3月31日附戦災廃車。

 上り軍用貨物列車に直撃弾命中の為に該列車搭載品弾薬砲弾誘爆し該駅構内被害甚大。
   線路破壊 1箇所30m 枕木焼損11本
   職員8名死亡 14名以上重軽傷

  7月23日
 警戒警報発令  6時12分
 空襲警報発令  8時12分
 空襲開始    8時45分
 空襲警報解除 10時45分
 警戒警報解除 10時50分
濱松-弁天島間
   線路破壊 5箇所50m
舞阪駅構内
  駅本屋 待合室 跨線橋

  7月25日 P51型艦載機機銃掃射
 警戒警報発令 23時12分 
 空襲警報発令  0時 0分
 空襲開始    1時 0分
 空襲警報解除  1時47分
 警戒警報解除  2時20分
舞阪-弁天島間
  東京発大阪行普通旅客第133列車
  艦載機機銃掃射銃撃
    旅客13名死亡重軽傷者多数
舞阪駅構内被災車輌
  オロ 31 142(大キト)全焼
  オハ 31  64(名トヤ)全焼
  マユ 31   2(東シナ)全焼
 以上、昭和21年(1946年)3月31日附戦災廃車。
  マユ 33  12(東トウ)全焼
 以上、昭和22年(1947年)4月26日附戦災廃車。

  7月30日 濱松艦砲射撃
 警戒警報発令  5時20分
 空襲警報発令  5時21分
 空襲開始    5時26分
 空襲警報解除  8時35分
 警戒警報解除 10時32分
濱松-舞阪間
   線路破壊
新居町駅構内艦砲射撃命中弾20発
   駅本屋、跨線橋ガラス全損
遠州灘に展開した米英連合艦隊所属 ボルティモア級重巡洋艦ボストン(BOSTON)、及び、同型艦クインシー(QUINCY)2艦は、全長205.3m 総トン数13600 主砲20cm3連装×3砲を有する、主砲が30cmであれば、明治期に於ける我が国の戦艦三笠に匹敵する軍艦である。
ボストンは第1、及び、第2浜名橋梁、クインシーは第3浜名橋梁攻撃を命令されていたが、同時に主目標が浜名海兵団とされたが、移動目標たる戦闘航行中の軍艦に対しならいざ知らず、該2艦には射撃用レーダーや測距儀が搭載されていたにも拘らず、第1~3浜名橋梁や新居町駅構内の如き不動産に対する静止目標に対し、主砲弾に至近弾こそ発生したが何故か命中弾は発生せず、戦艦級に秀逸な砲術士官や射撃手が配置されていたが、巡洋艦級に対して並の者しか配置されていなかったのか、此れらに命中弾が発生せず被害が無かった事は不幸中の幸いと言えた。


地上時代に於ける浜松駅構内は、南部に機関区、客貨車区、及び、貨物取扱施設が存在したが、該駅高架化工事に伴い、該区域に旅客取扱施設設置が決定した為に、貨物取扱代替施設を必要とする事から、西浜松駅が設置された。
該駅開業に合せ、大型トラック通行に支障無き様に浜松西武地域に於ける道路整備拡充を完了させ、此の為に、該駅開業と同時に、浜松-二川間一般貨物取扱が廃止され該駅に集約された。



表紙写真は、
初代第2浜名橋梁旧下線橋梁橋脚基礎跡





東海道本線歴史的痕跡探訪記
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~大垣-新垂井-関ケ原間編~
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~関ケ原-米原間編 明治頌歌~
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~関ケ原-深谷-長濱間(廃止線)編 明治頌歌~

~米原-近江八幡間編 明治頌歌~
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~近江八幡-草津間編 明治頌歌~
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~草津-膳所間編 明治頌歌~
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~膳所-濱大津間(廃止線)編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/11157145
~膳所-稲荷-京都間(廃止線)編 明治頌歌~

~膳所-山科-京都間(現行線)編 大正浪漫~
http://4travel.jp/travelogue/11157106
~京都驛編 明治頌歌~

~京都-向日町間編 明治頌歌~

~向日町-高槻間編 明治頌歌~

~高槻-茨木間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11634036
~茨木-吹田間編 明治頌歌~

~吹田-淡路-大阪間(廃止線)編 明治頌歌~

~吹田-新大阪-大阪間(現行線)編 大正浪漫~

~大阪駅周辺編~

~大阪-西宮間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11366806
~西宮-灘間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11321266
~灘-神戸間編 大正浪漫~
https://4travel.jp/travelogue/11245946

旅行の満足度
5.0
観光
4.5
ホテル
4.5
グルメ
4.5
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • 浜松(はままつ)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />該駅は、明治21年(1888年)9月1日開業である。<br />即ち、大府-濱松間延長の終端駅として設置された。<br />当初計画では、該駅は、龍禅寺(りゅうぜんじ)付近、現在の浜松市中区旭町付近に設置を予定していた。<br />然るに、明治10年代半ばともなると、鉄道に対する偏見認識も変化を見せ、当時の濱松にとって鉄道開通は必要不可欠の存在とされた事から、該計画を知った濱松に於ける住民代表達は、地元出身で帝國海軍主計総監 長谷川貞雄(はせがわ さだお)(弘化2年(1845年)5月20日〜明治38年(1905年)2月8日)を通じ、時の政府に対し町中心至近地への停車場設置を要請し、此の為に、天龍川方面から高塚に対し、線路向が「へ」の字状に敷設された為に、該駅一帯高架化工事完了まで地上線として残存した線路が該駅構内に於いて急曲線を描き、該駅通過列車は徐行しながら運転する状態が継続した。<br />開業時に建設された初代駅本屋は、改良を重ね使用されていたが、手狭になった事から、改築される事になり、大正15年(1926年)12月12日附で第2代目駅本屋が竣工した。<br />更に、該駅南方面住民達から、駅舎改札設置要請が度々なされた事から、昭和5年(1930年)4月15日附で南口駅舎が設置された。<br />昭和15年(1940年)以降に於ける濱松は、山葉楽器(現 ヤマハ)、河合楽器、鈴木自動車(現 スズキ)等々の各企業が、製造内容を陸海軍の要請に基き軍事品に転換させ、軍用品を製造製作する一方、鐵道省濱松工機部(現 東海旅客鉄道浜松工場)は、中部地域配置の蒸気機関車検収を一手に取扱い、既に、蒸気機関車製造をも実施していた事から、大東亜戦争遂行に於ける軍需品主要生産地と位置付けられ、聯合国側から昭和19年(1944年)末頃より、度重なる空襲や戦艦を主体とした艦砲射撃に依り、該駅構内諸設備は全滅に瀕した。<br />終戦後、戦禍に依り全滅した該駅諸設備を再興すべく、仮建築の駅本屋を経て昭和21年(1946年)10月に駅本屋建築を開始し、翌昭和22年(1947年)5月に竣工したのが第4代目駅本屋である。<br />その後、該駅は、東海道本線が地上線だった事から、静岡市と共に浜松市が東西に鉄道が縦貫する事で分断された形態になり、殊に、該状態が交通渋滞の要因ともなっていた事から、付近一帯を高架化する事に決定された。<br />取敢えず、貨物取扱を独立させるべく、昭和46年(1971年)4月26日附で西浜松(にしはままつ)駅が開業した。<br />然るに、問題となったのは、当時の遠州鉄道(えんしゅう てつどう)本線は、該鉄道馬込駅に於いて連絡線を使用し国鉄との貨車中継を実施し、特に、遠州鉄道は車輌全般検査を名古屋鉄道(なごや てつどう)鳴海工場に委託していた為に、連絡線を廃止する事は該社本線の死活問題に発展する重大課題だった事から、昭和51年(1979年)3月31日まで継続して連絡線が使用された。<br />その後、電車回送輸送は、西鹿島駅から二俣線(現 天竜浜名湖鉄道天浜線)を経由させる事に決着した為に、該連絡線を廃止させる事が可能になった。<br />該駅付近高架化工事は下り線、次いで、上り線の順位で竣工し、終戦直後に新築した駅本屋もビル化される事になり、昭和54年(1979年)10月16日に竣工したのが現行第5代目駅本屋である。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/hamamatsu/index.html

    浜松(はままつ)駅



    駅本屋
    該駅は、明治21年(1888年)9月1日開業である。
    即ち、大府-濱松間延長の終端駅として設置された。
    当初計画では、該駅は、龍禅寺(りゅうぜんじ)付近、現在の浜松市中区旭町付近に設置を予定していた。
    然るに、明治10年代半ばともなると、鉄道に対する偏見認識も変化を見せ、当時の濱松にとって鉄道開通は必要不可欠の存在とされた事から、該計画を知った濱松に於ける住民代表達は、地元出身で帝國海軍主計総監 長谷川貞雄(はせがわ さだお)(弘化2年(1845年)5月20日〜明治38年(1905年)2月8日)を通じ、時の政府に対し町中心至近地への停車場設置を要請し、此の為に、天龍川方面から高塚に対し、線路向が「へ」の字状に敷設された為に、該駅一帯高架化工事完了まで地上線として残存した線路が該駅構内に於いて急曲線を描き、該駅通過列車は徐行しながら運転する状態が継続した。
    開業時に建設された初代駅本屋は、改良を重ね使用されていたが、手狭になった事から、改築される事になり、大正15年(1926年)12月12日附で第2代目駅本屋が竣工した。
    更に、該駅南方面住民達から、駅舎改札設置要請が度々なされた事から、昭和5年(1930年)4月15日附で南口駅舎が設置された。
    昭和15年(1940年)以降に於ける濱松は、山葉楽器(現 ヤマハ)、河合楽器、鈴木自動車(現 スズキ)等々の各企業が、製造内容を陸海軍の要請に基き軍事品に転換させ、軍用品を製造製作する一方、鐵道省濱松工機部(現 東海旅客鉄道浜松工場)は、中部地域配置の蒸気機関車検収を一手に取扱い、既に、蒸気機関車製造をも実施していた事から、大東亜戦争遂行に於ける軍需品主要生産地と位置付けられ、聯合国側から昭和19年(1944年)末頃より、度重なる空襲や戦艦を主体とした艦砲射撃に依り、該駅構内諸設備は全滅に瀕した。
    終戦後、戦禍に依り全滅した該駅諸設備を再興すべく、仮建築の駅本屋を経て昭和21年(1946年)10月に駅本屋建築を開始し、翌昭和22年(1947年)5月に竣工したのが第4代目駅本屋である。
    その後、該駅は、東海道本線が地上線だった事から、静岡市と共に浜松市が東西に鉄道が縦貫する事で分断された形態になり、殊に、該状態が交通渋滞の要因ともなっていた事から、付近一帯を高架化する事に決定された。
    取敢えず、貨物取扱を独立させるべく、昭和46年(1971年)4月26日附で西浜松(にしはままつ)駅が開業した。
    然るに、問題となったのは、当時の遠州鉄道(えんしゅう てつどう)本線は、該鉄道馬込駅に於いて連絡線を使用し国鉄との貨車中継を実施し、特に、遠州鉄道は車輌全般検査を名古屋鉄道(なごや てつどう)鳴海工場に委託していた為に、連絡線を廃止する事は該社本線の死活問題に発展する重大課題だった事から、昭和51年(1979年)3月31日まで継続して連絡線が使用された。
    その後、電車回送輸送は、西鹿島駅から二俣線(現 天竜浜名湖鉄道天浜線)を経由させる事に決着した為に、該連絡線を廃止させる事が可能になった。
    該駅付近高架化工事は下り線、次いで、上り線の順位で竣工し、終戦直後に新築した駅本屋もビル化される事になり、昭和54年(1979年)10月16日に竣工したのが現行第5代目駅本屋である。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/hamamatsu/index.html

    浜松駅

  • 浜松<br /><br /><br /><br />浜松駅北口駅前広場<br />旧東海道本線線路跡<br />中央空間部が旧線跡<br /><br />浜松市中区旭町7−14<br />東海道本線浜松駅北口 徒歩1分

    浜松



    浜松駅北口駅前広場
    旧東海道本線線路跡
    中央空間部が旧線跡

    浜松市中区旭町7−14
    東海道本線浜松駅北口 徒歩1分

    浜松駅

  • 浜松-西浜松間<br /><br /><br /><br />旧東海道本線線路跡<br />昭和57年(1982年)に該区間高架化工事完了後、地元浜松市に払下げられ市道として整備された。<br /><br />浜松市中区旭町7−14<br />東海道本線浜松駅北口 徒歩1分

    浜松-西浜松間



    旧東海道本線線路跡
    昭和57年(1982年)に該区間高架化工事完了後、地元浜松市に払下げられ市道として整備された。

    浜松市中区旭町7−14
    東海道本線浜松駅北口 徒歩1分

  • 浜松-西浜松間<br /><br /><br /><br />旧東海道本線線路跡<br /><br />浜松市鍛冶町140−3<br />東海道本線浜松駅北口 徒歩4分

    浜松-西浜松間



    旧東海道本線線路跡

    浜松市鍛冶町140−3
    東海道本線浜松駅北口 徒歩4分

  • 浜松-西浜松間<br /><br /><br /><br />旧東海道本線線路跡<br />東京方俯瞰<br /><br />浜松市中区鍛冶町140−3<br />東海道本線浜松駅北口 徒歩4分

    浜松-西浜松間



    旧東海道本線線路跡
    東京方俯瞰

    浜松市中区鍛冶町140−3
    東海道本線浜松駅北口 徒歩4分

  • 浜松-西浜松間<br /><br /><br /><br />旧東海道本線線路跡<br />旧鍛冶町踏切跡<br /><br />浜松市中区鍛冶町140−3<br />東海道本線浜松駅北口 徒歩4分

    浜松-西浜松間



    旧東海道本線線路跡
    旧鍛冶町踏切跡

    浜松市中区鍛冶町140−3
    東海道本線浜松駅北口 徒歩4分

  • 浜松-西浜松間<br /><br /><br /><br />旧東海道本線線路跡<br />塩田公園付近<br />在来線合流地終点。<br /><br />浜松市中区塩町146<br />東海道本線浜松駅北口 徒歩10分

    浜松-西浜松間



    旧東海道本線線路跡
    塩田公園付近
    在来線合流地終点。

    浜松市中区塩町146
    東海道本線浜松駅北口 徒歩10分

  • 浜松-西浜松間<br /><br /><br /><br />堀留ぽっぽ道<br />旧浜松駅浜松工場間連絡線跡<br />該道は本来、旧浜松駅浜松工場間引込線が存在したが、該区間高架化工事の煽りを受け廃止された事から、該線路跡を遊歩道化させ地元に開放した。<br />因みに、浜松工場への連絡線は浜松駅から高塚駅に変更された。<br /><br />浜松市中区菅原町1−15<br />東海道本線浜松駅北口 遠鉄バス武道館停留所降車 徒歩3分

    浜松-西浜松間



    堀留ぽっぽ道
    旧浜松駅浜松工場間連絡線跡
    該道は本来、旧浜松駅浜松工場間引込線が存在したが、該区間高架化工事の煽りを受け廃止された事から、該線路跡を遊歩道化させ地元に開放した。
    因みに、浜松工場への連絡線は浜松駅から高塚駅に変更された。

    浜松市中区菅原町1−15
    東海道本線浜松駅北口 遠鉄バス武道館停留所降車 徒歩3分

    堀留ぽっぽ道 公園・植物園

    堀留ぽっぽ道〔鉄道廃線敷活用遊歩道〕 by 横浜臨海公園さん
  • 浜松-西浜松間<br /><br /><br /><br />堀留ぽっぽ道<br />旧浜松駅浜松工場間連絡線跡<br /><br />浜松市中区菅原町11−20<br />東海道本線浜松駅北口 遠鉄バス武道館停留所降車 徒歩5分

    浜松-西浜松間



    堀留ぽっぽ道
    旧浜松駅浜松工場間連絡線跡

    浜松市中区菅原町11−20
    東海道本線浜松駅北口 遠鉄バス武道館停留所降車 徒歩5分

    堀留ぽっぽ道 公園・植物園

    堀留ぽっぽ道〔鉄道廃線敷活用遊歩道〕 by 横浜臨海公園さん
  • 浜松-西浜松間<br /><br /><br /><br />堀留ぽっぽ道<br />旧浜松駅浜松工場連絡線跡<br /><br />浜松市中区東伊場2−17−1<br />東海道本線浜松駅北口 遠鉄バス西伊場停留所 徒歩4分

    浜松-西浜松間



    堀留ぽっぽ道
    旧浜松駅浜松工場連絡線跡

    浜松市中区東伊場2−17−1
    東海道本線浜松駅北口 遠鉄バス西伊場停留所 徒歩4分

    堀留ぽっぽ道 公園・植物園

    堀留ぽっぽ道〔鉄道廃線敷活用遊歩道〕 by 横浜臨海公園さん
  • 浜松-西浜松間<br /><br /><br />堀留ぽっぽ道<br />鐵道省蒸気機関車ケ90型91号機<br />該蒸気機関車は、東濃鐵道(?)新多治見-可児-御嵩間開業用として大正7年(1918年)2月に大日本軌道鐡工所に於いて2両製造された特殊狭軌用蒸気機関車である。<br />その後、該鉄道が鐵道省の建設予定線に一部区間が一致した事から、新多治見-可児間は大正15年(1926年)9月25日に政府買収をされ太多線の一部区間を形成したが、昭和3年(1928年)10月1日に狭軌に改軌された為に該機関車は使用中止後、昭和5年(1930年)5月に廃車された。<br />鐵道省浜松工場で保管後、現在、ケ90号機は名古屋リニア館、ケ91号機は該地に於いて保存展示されている。<br />因みに、東濃鐵道政府非買収区間たる可児-広見間は東美鐵道が経営を行い、戦時統合に依り名古屋鉄道に吸収合併を受け、現在の該社広見線である。<br /><br />浜松市中区東伊場2−17−1<br />東海道本線浜松駅北口 遠鉄バス西伊場停留所 徒歩4分

    浜松-西浜松間


    堀留ぽっぽ道
    鐵道省蒸気機関車ケ90型91号機
    該蒸気機関車は、東濃鐵道(?)新多治見-可児-御嵩間開業用として大正7年(1918年)2月に大日本軌道鐡工所に於いて2両製造された特殊狭軌用蒸気機関車である。
    その後、該鉄道が鐵道省の建設予定線に一部区間が一致した事から、新多治見-可児間は大正15年(1926年)9月25日に政府買収をされ太多線の一部区間を形成したが、昭和3年(1928年)10月1日に狭軌に改軌された為に該機関車は使用中止後、昭和5年(1930年)5月に廃車された。
    鐵道省浜松工場で保管後、現在、ケ90号機は名古屋リニア館、ケ91号機は該地に於いて保存展示されている。
    因みに、東濃鐵道政府非買収区間たる可児-広見間は東美鐵道が経営を行い、戦時統合に依り名古屋鉄道に吸収合併を受け、現在の該社広見線である。

    浜松市中区東伊場2−17−1
    東海道本線浜松駅北口 遠鉄バス西伊場停留所 徒歩4分

    堀留ぽっぽ道 公園・植物園

    堀留ぽっぽ道〔鉄道廃線敷活用遊歩道〕 by 横浜臨海公園さん
  • 浜松-西浜松間<br /><br /><br />堀留ぽっぽ道<br />鐵道省蒸気機関車ケ90型91号機<br />機関室内部<br />空気制動機は無く手制動器のみ。<br /><br />浜松市中区東伊場2−17−1<br />東海道本線浜松駅北口 遠鉄バス西伊場停留所降車 徒歩4分

    浜松-西浜松間


    堀留ぽっぽ道
    鐵道省蒸気機関車ケ90型91号機
    機関室内部
    空気制動機は無く手制動器のみ。

    浜松市中区東伊場2−17−1
    東海道本線浜松駅北口 遠鉄バス西伊場停留所降車 徒歩4分

    堀留ぽっぽ道 公園・植物園

    堀留ぽっぽ道〔鉄道廃線敷活用遊歩道〕 by 横浜臨海公園さん
  • 浜松-西浜松間<br /><br /><br />堀留ぽっぽ道<br />鐵道省蒸気機関車ケ90型91号機<br />後部<br />全長4.581m<br />全高2.743m<br />全幅1.696m<br /><br />浜松市中区東伊場2−17−1<br />東海道本線浜松駅北口 遠鉄バス西伊場停留所降車 徒歩4分

    浜松-西浜松間


    堀留ぽっぽ道
    鐵道省蒸気機関車ケ90型91号機
    後部
    全長4.581m
    全高2.743m
    全幅1.696m

    浜松市中区東伊場2−17−1
    東海道本線浜松駅北口 遠鉄バス西伊場停留所降車 徒歩4分

    堀留ぽっぽ道 公園・植物園

    堀留ぽっぽ道〔鉄道廃線敷活用遊歩道〕 by 横浜臨海公園さん
  • 浜松-西浜松間<br /><br /><br /><br />旧浜松駅浜松工場間連絡線跡<br />堀留ぽっぽ道終端<br /><br />浜松市中区東伊場2−10−2<br />東海道本線浜松駅北口 遠鉄バス西伊場停留所降車 徒歩3分

    浜松-西浜松間



    旧浜松駅浜松工場間連絡線跡
    堀留ぽっぽ道終端

    浜松市中区東伊場2−10−2
    東海道本線浜松駅北口 遠鉄バス西伊場停留所降車 徒歩3分

    堀留ぽっぽ道 公園・植物園

    堀留ぽっぽ道〔鉄道廃線敷活用遊歩道〕 by 横浜臨海公園さん
  • 浜松-西浜松間<br /><br /><br /><br />旧浜松駅浜松工場間連絡線跡<br />路線痕跡が残存するのは該箇所のみ。<br />最近まで廃軌条が残存していた。<br /><br />浜松市中区西伊場9−80<br />東海道本線浜松駅北口 遠鉄バス西伊場停留所降車 徒歩3分

    浜松-西浜松間



    旧浜松駅浜松工場間連絡線跡
    路線痕跡が残存するのは該箇所のみ。
    最近まで廃軌条が残存していた。

    浜松市中区西伊場9−80
    東海道本線浜松駅北口 遠鉄バス西伊場停留所降車 徒歩3分

  • 西浜松(にしはままつ)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和46年(1971年)4月26日開業である。

    西浜松(にしはままつ)駅



    該駅は、昭和46年(1971年)4月26日開業である。

  • 西浜松駅<br /><br /><br /><br />地上時代に於ける浜松駅には、南側に、機関区、及び、客貨取扱施設が存在したが、該駅付近高架化工事に伴い、機関区、及び、客貨取扱代替施設を必要とする事から設置された。

    西浜松駅



    地上時代に於ける浜松駅には、南側に、機関区、及び、客貨取扱施設が存在したが、該駅付近高架化工事に伴い、機関区、及び、客貨取扱代替施設を必要とする事から設置された。

  • 西浜松駅<br /><br /><br /><br />該駅開業に合せ、浜松西部地域に於ける道路整備を完了させ、大型トラック通行を容易にさせた事から、該駅開業と同時に浜松-二川間途中駅に於ける一般貨物取扱を廃止し、浜松-鷲津間各駅貨物取扱を該駅に集約させた。

    西浜松駅



    該駅開業に合せ、浜松西部地域に於ける道路整備を完了させ、大型トラック通行を容易にさせた事から、該駅開業と同時に浜松-二川間途中駅に於ける一般貨物取扱を廃止し、浜松-鷲津間各駅貨物取扱を該駅に集約させた。

  • 西浜松-高塚間<br /><br /><br /><br />鈴木(すずき)踏切<br />全景<br /><br />浜松市南区高塚町50<br />東海道本線高塚駅 徒歩8分

    西浜松-高塚間



    鈴木(すずき)踏切
    全景

    浜松市南区高塚町50
    東海道本線高塚駅 徒歩8分

  • 西浜松-高塚間<br /><br /><br /><br />鈴木踏切<br />自動車製造企業 鈴木自動車本社正門前に存在。<br />歩行者は地下道通行指定の為に該踏切徒歩通行は不可。<br /><br />浜松市南区高塚町50<br />東海道本線高塚駅 徒歩8分

    西浜松-高塚間



    鈴木踏切
    自動車製造企業 鈴木自動車本社正門前に存在。
    歩行者は地下道通行指定の為に該踏切徒歩通行は不可。

    浜松市南区高塚町50
    東海道本線高塚駅 徒歩8分

  • 高塚駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />東京方から俯瞰<br /><br />浜松市南区高塚町50<br />東海道本線高塚駅 徒歩8分

    高塚駅



    駅構内
    東京方から俯瞰

    浜松市南区高塚町50
    東海道本線高塚駅 徒歩8分

    高塚駅

  • 高塚(たかつか)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和4年(1929年)7月1日開業である。<br />然し、該駅前身は、当時の鐵道院が立案計画し、明治45年(1912年)に予定された満州露西亜欧州連絡用特別急行列車運転の為に、当時の最新保安装置たる双信閉塞式に於ける閉塞区間2分割に依る列車増発を可能とさせるべく、明治44年(1911年)3月31日附で設置された、高塚信号所が嚆矢である。<br />即ち、該信号所設置当時、濱松-舞坂(現 舞阪)間10.4kmに途中停車場が存在せず、それ故、該区間中間地点に信号所が設置された。<br />然るに、地元たる濱名郡可美村では、該村内に信号所が開設された事から、駅昇格の声が発生するのは自然の成り行きであり、鐵道省に対し再三に亘る駅設置請願が行われ、昭和2年(1927年)に該請願が受理され駅昇格が決定された。<br />尚、該駅は、現在は浜松市南区高塚町所在だが、平成3年(1991年)5月1日附で浜松市に編入される迄、東海道本線東京-神戸間に於ける最後の村所属駅だった。

    高塚(たかつか)駅



    該駅は、昭和4年(1929年)7月1日開業である。
    然し、該駅前身は、当時の鐵道院が立案計画し、明治45年(1912年)に予定された満州露西亜欧州連絡用特別急行列車運転の為に、当時の最新保安装置たる双信閉塞式に於ける閉塞区間2分割に依る列車増発を可能とさせるべく、明治44年(1911年)3月31日附で設置された、高塚信号所が嚆矢である。
    即ち、該信号所設置当時、濱松-舞坂(現 舞阪)間10.4kmに途中停車場が存在せず、それ故、該区間中間地点に信号所が設置された。
    然るに、地元たる濱名郡可美村では、該村内に信号所が開設された事から、駅昇格の声が発生するのは自然の成り行きであり、鐵道省に対し再三に亘る駅設置請願が行われ、昭和2年(1927年)に該請願が受理され駅昇格が決定された。
    尚、該駅は、現在は浜松市南区高塚町所在だが、平成3年(1991年)5月1日附で浜松市に編入される迄、東海道本線東京-神戸間に於ける最後の村所属駅だった。

    高塚駅

  • 高塚駅<br /><br /><br /><br />新駅本屋<br />完成すれば第2代目駅本屋<br />平成27年(2015年)3月1日竣工予定。

    高塚駅



    新駅本屋
    完成すれば第2代目駅本屋
    平成27年(2015年)3月1日竣工予定。

    高塚駅

  • 高塚駅<br /><br /><br /><br />跨線橋<br />該駅開業時に設置。

    高塚駅



    跨線橋
    該駅開業時に設置。

    高塚駅

  • 高塚駅<br /><br /><br /><br />跨線橋<br />支柱に古軌条使用。

    高塚駅



    跨線橋
    支柱に古軌条使用。

    高塚駅

  • 高塚駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />側壁段差

    高塚駅



    第1番ホーム
    側壁段差

    高塚駅

  • 舞阪(まいさか)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治21年(1888年)9月1日開業である。<br />該駅開業当時は、馬郡(うまごおり)と称したが、同年12月1日附で、舞坂(まいさか)に改称された。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/maisaka/index.html

    舞阪(まいさか)駅



    該駅は、明治21年(1888年)9月1日開業である。
    該駅開業当時は、馬郡(うまごおり)と称したが、同年12月1日附で、舞坂(まいさか)に改称された。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/maisaka/index.html

    舞阪駅

  • 舞阪駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />南口<br />本来設置の初代駅本屋側

    舞阪駅



    駅本屋
    南口
    本来設置の初代駅本屋側

    舞阪駅

  • 舞阪駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />北口<br />該駅改築に伴い新設。

    舞阪駅



    駅本屋
    北口
    該駅改築に伴い新設。

    舞阪駅

  • 舞阪駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />北口<br />元来は貨物取扱線が存在した。<br />該地区に於ける養殖鰻生産量が全国一だった時代、貨車への鰻積込に駅員総出で行っていた。

    舞阪駅



    駅本屋
    北口
    元来は貨物取扱線が存在した。
    該地区に於ける養殖鰻生産量が全国一だった時代、貨車への鰻積込に駅員総出で行っていた。

    舞阪駅

  • 舞阪駅<br /><br /><br /><br />旧貨物取扱所跡<br />舞阪と云えば、浜名湖に於ける鰻養殖で全国第1位の地である。<br />即ち、浜名湖に於ける鰻養殖は、明治33年(1900年)に、地元漁業従事者 服部倉三郎(はっとり くらさぶろう)が舞阪に於いて開殖したのが嚆矢である。<br />服部は、浜名湖に天然鰻が豊富に存在する事に着眼し、養魚池を良質な環境に維持させる事で、鰻の稚魚たるシラス鰻を入手育成させる事で鰻養殖は可能なりと判断した。<br />更に、好都合だったのは、明治21年(1888年)9月1日に、該地に鉄道が開通し、該地に停車場が設置された事で輸送手段が成立し、且つ、該地が東京大阪の中間地点に所在する事から、2大販路への輸送が拡大し、好都合な条件下の在った事で、最盛期には地元運送業者の手だけでは足りず、該駅職員総出で鰻積込を行う状態だった。<br />該駅貨物取扱は、浜松駅付近高架化工事の一環として、昭和46年(1971年)4月26日附で貨物専用の西浜松駅が開設された事から、該駅は高塚駅と共に貨物取扱が集約化され同日附で廃止された。

    舞阪駅



    旧貨物取扱所跡
    舞阪と云えば、浜名湖に於ける鰻養殖で全国第1位の地である。
    即ち、浜名湖に於ける鰻養殖は、明治33年(1900年)に、地元漁業従事者 服部倉三郎(はっとり くらさぶろう)が舞阪に於いて開殖したのが嚆矢である。
    服部は、浜名湖に天然鰻が豊富に存在する事に着眼し、養魚池を良質な環境に維持させる事で、鰻の稚魚たるシラス鰻を入手育成させる事で鰻養殖は可能なりと判断した。
    更に、好都合だったのは、明治21年(1888年)9月1日に、該地に鉄道が開通し、該地に停車場が設置された事で輸送手段が成立し、且つ、該地が東京大阪の中間地点に所在する事から、2大販路への輸送が拡大し、好都合な条件下の在った事で、最盛期には地元運送業者の手だけでは足りず、該駅職員総出で鰻積込を行う状態だった。
    該駅貨物取扱は、浜松駅付近高架化工事の一環として、昭和46年(1971年)4月26日附で貨物専用の西浜松駅が開設された事から、該駅は高塚駅と共に貨物取扱が集約化され同日附で廃止された。

    舞阪駅

  • 舞阪駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />東京方俯瞰

    舞阪駅



    駅構内
    東京方俯瞰

    舞阪駅

  • 舞阪駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />第1番ホーム

    舞阪駅



    駅構内
    第1番ホーム

    舞阪駅

  • 舞阪駅<br /><br /><br /><br />構内<br />下り線信号取扱所<br />全国で見られた施設だったが、貨物取扱廃止と共に撤去例が多く現存例は少数。

    舞阪駅



    構内
    下り線信号取扱所
    全国で見られた施設だったが、貨物取扱廃止と共に撤去例が多く現存例は少数。

    舞阪駅

  • 舞阪-弁天島間<br /><br /><br /><br />第1浜名(だいいち はまな)橋梁<br />該橋は、明治21年(1888年)9月1日開通時の橋梁である。<br />全長178m<br />開通時は、英国人技師 チャールズ・A・ポーナル(Carles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に拠る、<br />英國製<br />錬鐡製プレート・ガーダー橋桁18.3m(60ft)×8連<br />が架橋された。<br />その後、舞坂(現 舞阪)-鷲津間は、明治37年(1904年)8月5日に複線化されたが、新設橋梁は鋼鐡プレートガーダー橋桁で既設橋梁湖面側に架橋され、新設橋梁は上り線専用とされ、既設橋梁は下り線専用となった。<br />鉄道開通当時の上り線錬鐡製橋桁は、列車重量化に対応困難と判定され、大正5年(1916年)に国産鋼鐡製プレートガーダー橋桁に架替られた。<br />その後、東南海震災、及び、大東亜戦争中の空襲被害に依り全面的に架替られる事になり、<br />上り線橋梁 昭和34年(1959年)12月20日<br />下り線橋梁 昭和34年(1959年) 1月20日<br />に架替が実施された。<br /><br />浜松市西区舞阪町弁天島2669<br />東海道本線弁天島駅 徒歩2分

    舞阪-弁天島間



    第1浜名(だいいち はまな)橋梁
    該橋は、明治21年(1888年)9月1日開通時の橋梁である。
    全長178m
    開通時は、英国人技師 チャールズ・A・ポーナル(Carles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に拠る、
    英國製
    錬鐡製プレート・ガーダー橋桁18.3m(60ft)×8連
    が架橋された。
    その後、舞坂(現 舞阪)-鷲津間は、明治37年(1904年)8月5日に複線化されたが、新設橋梁は鋼鐡プレートガーダー橋桁で既設橋梁湖面側に架橋され、新設橋梁は上り線専用とされ、既設橋梁は下り線専用となった。
    鉄道開通当時の上り線錬鐡製橋桁は、列車重量化に対応困難と判定され、大正5年(1916年)に国産鋼鐡製プレートガーダー橋桁に架替られた。
    その後、東南海震災、及び、大東亜戦争中の空襲被害に依り全面的に架替られる事になり、
    上り線橋梁 昭和34年(1959年)12月20日
    下り線橋梁 昭和34年(1959年) 1月20日
    に架替が実施された。

    浜松市西区舞阪町弁天島2669
    東海道本線弁天島駅 徒歩2分

  • 舞阪-弁天島間<br /><br /><br /><br />第1浜名橋梁<br />東京方俯瞰<br /><br />浜松市西区舞阪町弁天島2669<br />東海道本線弁天島駅 徒歩2分

    舞阪-弁天島間



    第1浜名橋梁
    東京方俯瞰

    浜松市西区舞阪町弁天島2669
    東海道本線弁天島駅 徒歩2分

  • 舞阪-弁天島間<br /><br /><br /><br />第1浜名橋梁<br />初代橋梁橋脚跡<br />手前 旧下り線<br />先方 旧上り線<br /><br />浜松市西区舞阪町弁天島2669<br />東海道本線弁天島駅 徒歩2分

    舞阪-弁天島間



    第1浜名橋梁
    初代橋梁橋脚跡
    手前 旧下り線
    先方 旧上り線

    浜松市西区舞阪町弁天島2669
    東海道本線弁天島駅 徒歩2分

  • 舞阪-弁天島間<br /><br /><br /><br />第1浜名橋梁<br />初代橋梁橋脚跡<br />手前 旧下り線<br />先方 旧上り線<br /><br />浜松市西区舞阪町弁天島2669<br />東海道本線弁天島駅 徒歩2分

    舞阪-弁天島間



    第1浜名橋梁
    初代橋梁橋脚跡
    手前 旧下り線
    先方 旧上り線

    浜松市西区舞阪町弁天島2669
    東海道本線弁天島駅 徒歩2分

  • 弁天島(べんてんじま)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治39年(1906年)7月1日開業である。<br />開設当時は、浜名湖に於ける湖水浴ならぬ海水浴客乗降利用者の為の仮停車場として設置された為に、海水浴場閉鎖と共に同年9月11日に一旦廃止された。<br />然し、該駅開設が利用者から概ね好評だった事から、翌明治40年(1907年)6月15日附で復活し前年度より開設期間を延長し同年10月10日まで営業した。<br />明治41年(1908年)は、営業開始時期が更に早まり、営業扱は同年5月18日に開始した。<br />仮設ながら、該駅開設が好評であり、且つ、該当時は、新居町駅未設時代故に濱名郡新居町地区住民の請願もあり、帝國鐵道庁は該駅開設期間を夏期限定から通年営業とする事に決定し、明治42年(1909年)4月17日より通年営業扱に変更された。<br />大正5年(1916年)9月1日附で、該駅は改めて仮駅から常設駅に格上げされ、同時に旅客取扱制限が撤廃された。<br />該駅を停車場とするにあたり鐵道院は地元濱名郡舞坂町に対し、該現行駅本屋を改築し鐵道院に対し無償提供する事を条件提示した事から、該町では審議の上、該提示を了承する事とし本決定を見た。<br />該駅の特長は、仮駅開設以来、大都市特定所在駅と同様、貨物取扱業務が一切無く、更に、日本国有鉄道時代当時、全国で僅少だった業務委託取扱駅だった。

    弁天島(べんてんじま)駅



    該駅は、明治39年(1906年)7月1日開業である。
    開設当時は、浜名湖に於ける湖水浴ならぬ海水浴客乗降利用者の為の仮停車場として設置された為に、海水浴場閉鎖と共に同年9月11日に一旦廃止された。
    然し、該駅開設が利用者から概ね好評だった事から、翌明治40年(1907年)6月15日附で復活し前年度より開設期間を延長し同年10月10日まで営業した。
    明治41年(1908年)は、営業開始時期が更に早まり、営業扱は同年5月18日に開始した。
    仮設ながら、該駅開設が好評であり、且つ、該当時は、新居町駅未設時代故に濱名郡新居町地区住民の請願もあり、帝國鐵道庁は該駅開設期間を夏期限定から通年営業とする事に決定し、明治42年(1909年)4月17日より通年営業扱に変更された。
    大正5年(1916年)9月1日附で、該駅は改めて仮駅から常設駅に格上げされ、同時に旅客取扱制限が撤廃された。
    該駅を停車場とするにあたり鐵道院は地元濱名郡舞坂町に対し、該現行駅本屋を改築し鐵道院に対し無償提供する事を条件提示した事から、該町では審議の上、該提示を了承する事とし本決定を見た。
    該駅の特長は、仮駅開設以来、大都市特定所在駅と同様、貨物取扱業務が一切無く、更に、日本国有鉄道時代当時、全国で僅少だった業務委託取扱駅だった。

    弁天島駅

  • 弁天島駅<br /><br /><br /><br />駅入口旅客地下道<br />該駅は、弁天島中央部に存在し、該駅両側に、東京方に第1浜名橋梁、神戸方に第2浜名橋梁が存在する狭挟構造である。<br />然るに、該両橋梁は、昭和19年(1944年)12月7日に発生した東南海大地震に依り、橋脚部変状変位等々の被害が発生した。<br />被害当時は被災部分を応急修理し使用していたが、戦後になり改めて該橋梁を精査した処、大東亜戦争中の艦砲射撃の影響と共に、橋脚基礎部分に重大な瑕疵が発見され、該状態に於ける継続使用は危険との判定結果が出された。<br />此の為に、日本国有鉄道は既成橋梁修理使用継続を放棄し、新橋梁架橋する事に決定した。<br />該工事担当の日本国有鉄道岐阜工事局は、既成線に対し覆囲形態で架橋させる為に、既成下り線外側、及び、既成上り線外側を活用し、新線を配置する構造に最終決定した事から、新下り線設置に支障する事から、地上に存在した初代駅本屋を解体撤去した為に、該駅利用者は地下旅客通路から階段を上り、ホーム上に移転新設した駅本屋を利用すると云う、全国でも稀有で特異な形態になった。

    弁天島駅



    駅入口旅客地下道
    該駅は、弁天島中央部に存在し、該駅両側に、東京方に第1浜名橋梁、神戸方に第2浜名橋梁が存在する狭挟構造である。
    然るに、該両橋梁は、昭和19年(1944年)12月7日に発生した東南海大地震に依り、橋脚部変状変位等々の被害が発生した。
    被害当時は被災部分を応急修理し使用していたが、戦後になり改めて該橋梁を精査した処、大東亜戦争中の艦砲射撃の影響と共に、橋脚基礎部分に重大な瑕疵が発見され、該状態に於ける継続使用は危険との判定結果が出された。
    此の為に、日本国有鉄道は既成橋梁修理使用継続を放棄し、新橋梁架橋する事に決定した。
    該工事担当の日本国有鉄道岐阜工事局は、既成線に対し覆囲形態で架橋させる為に、既成下り線外側、及び、既成上り線外側を活用し、新線を配置する構造に最終決定した事から、新下り線設置に支障する事から、地上に存在した初代駅本屋を解体撤去した為に、該駅利用者は地下旅客通路から階段を上り、ホーム上に移転新設した駅本屋を利用すると云う、全国でも稀有で特異な形態になった。

    弁天島駅

  • 弁天島駅<br /><br /><br /><br />出改札口<br />ホーム上に設置。

    弁天島駅



    出改札口
    ホーム上に設置。

    弁天島駅

  • 弁天島駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム<br />ホーム上屋下から右部分は旧線路跡。<br />第1浜名、及び、第2浜名橋梁架替後、旧線跡部分が拡張された。

    弁天島駅



    旅客ホーム
    ホーム上屋下から右部分は旧線路跡。
    第1浜名、及び、第2浜名橋梁架替後、旧線跡部分が拡張された。

    弁天島駅

  • 弁天島-新居町間<br /><br /><br /><br />第2浜名(だいに はまな)橋梁<br />該橋は、明治21年(1888年)9月1日開通時の橋梁である。<br />全長197m<br />開通時は、英国人技師 チャールズ・A・ポーナル(Carles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に拠る、<br />英國製<br />錬鐡製プレート・ガーダー橋桁18.3m(60ft)×9連<br />が架橋された。<br />その後、舞坂(現 舞阪)-鷲津間は、明治37年(1904年)8月5日に複線化されたが、新設橋梁は鋼鐡プレートガーダー橋桁で既設橋梁湖面側に架橋され、新設橋梁は上り線専用とされ、既設橋梁は下り線専用となった。<br />鉄道開通当時の上り線錬鐡製橋桁は、列車重量化に対応困難と判定され、大正5年(1916年)に国産鋼鐡製プレートガーダー橋桁に架替られた。<br />その後、東南海震災、及び、大東亜戦争中の空襲被害に依り全面的に架替られる事になり、<br />上り線橋梁 昭和34年(1959年)12月20日<br />下り線橋梁 昭和34年(1959年) 1月20日<br />に架替が実施された。<br /><br />浜松市西区舞阪町弁天島3825<br />東海道本線弁天島駅 徒歩4分

    弁天島-新居町間



    第2浜名(だいに はまな)橋梁
    該橋は、明治21年(1888年)9月1日開通時の橋梁である。
    全長197m
    開通時は、英国人技師 チャールズ・A・ポーナル(Carles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に拠る、
    英國製
    錬鐡製プレート・ガーダー橋桁18.3m(60ft)×9連
    が架橋された。
    その後、舞坂(現 舞阪)-鷲津間は、明治37年(1904年)8月5日に複線化されたが、新設橋梁は鋼鐡プレートガーダー橋桁で既設橋梁湖面側に架橋され、新設橋梁は上り線専用とされ、既設橋梁は下り線専用となった。
    鉄道開通当時の上り線錬鐡製橋桁は、列車重量化に対応困難と判定され、大正5年(1916年)に国産鋼鐡製プレートガーダー橋桁に架替られた。
    その後、東南海震災、及び、大東亜戦争中の空襲被害に依り全面的に架替られる事になり、
    上り線橋梁 昭和34年(1959年)12月20日
    下り線橋梁 昭和34年(1959年) 1月20日
    に架替が実施された。

    浜松市西区舞阪町弁天島3825
    東海道本線弁天島駅 徒歩4分

  • 弁天島-新居町間<br /><br /><br /><br />第2浜名橋梁<br />初代橋梁橋台跡<br />該橋台は河川改修時に撤去され現存せず。<br /><br />浜松市西区舞阪町弁天島3825<br />東海道本線弁天島駅 徒歩4分

    弁天島-新居町間



    第2浜名橋梁
    初代橋梁橋台跡
    該橋台は河川改修時に撤去され現存せず。

    浜松市西区舞阪町弁天島3825
    東海道本線弁天島駅 徒歩4分

  • 弁天島-新居町間<br /><br /><br /><br />第2浜名橋梁<br />初代橋梁橋脚跡<br /><br />浜松市西区舞阪町弁天島3825<br />東海道本線弁天島駅 徒歩4分

    弁天島-新居町間



    第2浜名橋梁
    初代橋梁橋脚跡

    浜松市西区舞阪町弁天島3825
    東海道本線弁天島駅 徒歩4分

  • 弁天島-新居町間<br /><br /><br /><br />第2浜名橋梁<br />初代橋梁<br />旧下り線用<br />橋脚基礎部跡<br />干潮時露出<br /><br />浜松市西区舞阪町弁天島3825<br />東海道本線弁天島駅 徒歩4分

    弁天島-新居町間



    第2浜名橋梁
    初代橋梁
    旧下り線用
    橋脚基礎部跡
    干潮時露出

    浜松市西区舞阪町弁天島3825
    東海道本線弁天島駅 徒歩4分

  • 弁天島-新居町間<br /><br /><br /><br />第2浜名橋梁<br />浜名湖内海への船舶出入の為に中央橋桁は高位置設置。<br /><br />浜松市西区舞阪町弁天島3825<br />東海道本線弁天島駅 徒歩5分<br /><br />

    弁天島-新居町間



    第2浜名橋梁
    浜名湖内海への船舶出入の為に中央橋桁は高位置設置。

    浜松市西区舞阪町弁天島3825
    東海道本線弁天島駅 徒歩5分

  • 弁天島-新居町間<br /><br /><br /><br />第3浜名(だいさん はまな)橋梁<br />該橋は、明治21年(1888年)9月1日開通時の架橋である。<br />全長475m<br />開通時は、英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Carles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に拠る、<br />英國製<br />錬鐵製プレートガーダー橋桁 支間18.3m(60ft)×24連<br />が架橋された。<br />該橋梁架橋工事は、明治20年(1887年)1月に着工し、翌明治21年(1888年)3月に竣工した。<br />その後、舞坂(現 舞阪)-鷲津間は、明治37年(1904年)8月5日附で複線化されたが、該橋梁湖面側に新橋梁が鋼鐡製ガーダーで架橋され、新設橋梁は上り線専用、既設橋梁は下り線専用になった。<br />大正期に入り内閣鐵道院は将来に向けた次世代大型蒸気機関車、即ち、旅客用18900型(C51型)、及び、貨物用9900型(D50型)の設計が完了し該機関車導入が現実的になってきた事から、下り線用橋梁錬鐡プレートガーダー橋桁では列車総重量に対する強度不足が懸念された為に、該錬鐡製プレートガーダー橋桁を鋼鍠製E40型プレートガーダー橋桁に交換すべく、大正8年(1919年)に交換工事が実施された。<br /><br />湖西市新居町新居3397<br />東海道本線弁天島駅 遠鉄バス西浜名橋停留所降車 徒歩1分

    弁天島-新居町間



    第3浜名(だいさん はまな)橋梁
    該橋は、明治21年(1888年)9月1日開通時の架橋である。
    全長475m
    開通時は、英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Carles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に拠る、
    英國製
    錬鐵製プレートガーダー橋桁 支間18.3m(60ft)×24連
    が架橋された。
    該橋梁架橋工事は、明治20年(1887年)1月に着工し、翌明治21年(1888年)3月に竣工した。
    その後、舞坂(現 舞阪)-鷲津間は、明治37年(1904年)8月5日附で複線化されたが、該橋梁湖面側に新橋梁が鋼鐡製ガーダーで架橋され、新設橋梁は上り線専用、既設橋梁は下り線専用になった。
    大正期に入り内閣鐵道院は将来に向けた次世代大型蒸気機関車、即ち、旅客用18900型(C51型)、及び、貨物用9900型(D50型)の設計が完了し該機関車導入が現実的になってきた事から、下り線用橋梁錬鐡プレートガーダー橋桁では列車総重量に対する強度不足が懸念された為に、該錬鐡製プレートガーダー橋桁を鋼鍠製E40型プレートガーダー橋桁に交換すべく、大正8年(1919年)に交換工事が実施された。

    湖西市新居町新居3397
    東海道本線弁天島駅 遠鉄バス西浜名橋停留所降車 徒歩1分

  • 弁天島-新居町間<br /><br /><br /><br />第3浜名橋梁<br />昭和19年(1944年)12月7日13時36分に、三重県熊野灘沖を震源とするマグニチュード最大7.9の東南海大地震(とうなんかい おおじしん)が発生した。<br />該地震発生時に、該下り線橋梁通過中の東京発門司行普通急行列車は激震を感知し編成大半は神戸方陸上に急停車したが、該列車後部2両は該橋梁上に於いて残地停車し、該橋梁上方面に目を向けると、その先の通過した東京方該橋梁は橋脚が横倒し橋桁が湖面に落下していた。<br />若し、該列車が、あと1秒遅延状態で走行していれば、数両の客車は該橋梁上で脱線転覆しながら湖面に投出水没し、当該車輌に乗車乗客殆どの水死が免れ得なかったものと思われる。<br />復旧は鐵道連隊の応援を求め、下り線は同月13日、上り線は同月27日になったが、復旧するまで間は二俣線で迂回運転を行い混乱を最小限度に抑えた。<br />昭和20年(1945年)5月19日の空襲は、B24爆撃機に依る空爆が主体だったが、爆撃機護衛の為にP51攻撃機多数が飛来し、新居町-弁天島間該橋梁上を通過中だった上り貨物列車は、該機から突然機銃掃射攻撃を受け、牽引機関車機関士は即し、機関助士は機関室から浜名湖面に飛降り、一命は取り留めた。<br />該列車編成中貨車は機銃掃射の為に発火炎上したが、湖面から泳ぎ着いた機関助士の手に拠り該列車は新居町駅構内に後退させ、炎上収まらぬ該貨車は該駅に於いて消火された。<br />空襲警報解除後に該橋梁被害を調査した処、上り線橋梁は該貨物列車が橋梁を覆った為に、第11号橋桁、及び、第12号橋桁に機銃弾が命中したが、橋梁上の軌条に被弾箇所が見られる程度で速度制限40kmとすれば走行は可能と判明したが、下り線橋梁は第10号橋桁に機銃掃射を受け中破被害と判定された事から、静岡運輸部では舞阪-新居町間を上り線を使用し単線運転を実施し、更に、下り列車数本は掛川-新所原間を二俣線を使用し迂回運転を行った。<br />損傷した下り本線は応急復旧工事が奏を効し翌19日8時59分に修復が完了し通常運転に復帰した。<br />戦後、日本国有鉄道は第1〜3浜名橋梁に於ける震災被害、及び、空襲被害を精査した処、特に第3浜名橋梁に就いては早急に取付部を含めた架替が必要との結果が出され、昭和25年(1950年)に架替が実施された。<br /><br />湖西市新居町新居3397<br />東海道本線弁天島駅 遠鉄バス西浜名橋停留所降車 徒歩1分

    弁天島-新居町間



    第3浜名橋梁
    昭和19年(1944年)12月7日13時36分に、三重県熊野灘沖を震源とするマグニチュード最大7.9の東南海大地震(とうなんかい おおじしん)が発生した。
    該地震発生時に、該下り線橋梁通過中の東京発門司行普通急行列車は激震を感知し編成大半は神戸方陸上に急停車したが、該列車後部2両は該橋梁上に於いて残地停車し、該橋梁上方面に目を向けると、その先の通過した東京方該橋梁は橋脚が横倒し橋桁が湖面に落下していた。
    若し、該列車が、あと1秒遅延状態で走行していれば、数両の客車は該橋梁上で脱線転覆しながら湖面に投出水没し、当該車輌に乗車乗客殆どの水死が免れ得なかったものと思われる。
    復旧は鐵道連隊の応援を求め、下り線は同月13日、上り線は同月27日になったが、復旧するまで間は二俣線で迂回運転を行い混乱を最小限度に抑えた。
    昭和20年(1945年)5月19日の空襲は、B24爆撃機に依る空爆が主体だったが、爆撃機護衛の為にP51攻撃機多数が飛来し、新居町-弁天島間該橋梁上を通過中だった上り貨物列車は、該機から突然機銃掃射攻撃を受け、牽引機関車機関士は即し、機関助士は機関室から浜名湖面に飛降り、一命は取り留めた。
    該列車編成中貨車は機銃掃射の為に発火炎上したが、湖面から泳ぎ着いた機関助士の手に拠り該列車は新居町駅構内に後退させ、炎上収まらぬ該貨車は該駅に於いて消火された。
    空襲警報解除後に該橋梁被害を調査した処、上り線橋梁は該貨物列車が橋梁を覆った為に、第11号橋桁、及び、第12号橋桁に機銃弾が命中したが、橋梁上の軌条に被弾箇所が見られる程度で速度制限40kmとすれば走行は可能と判明したが、下り線橋梁は第10号橋桁に機銃掃射を受け中破被害と判定された事から、静岡運輸部では舞阪-新居町間を上り線を使用し単線運転を実施し、更に、下り列車数本は掛川-新所原間を二俣線を使用し迂回運転を行った。
    損傷した下り本線は応急復旧工事が奏を効し翌19日8時59分に修復が完了し通常運転に復帰した。
    戦後、日本国有鉄道は第1〜3浜名橋梁に於ける震災被害、及び、空襲被害を精査した処、特に第3浜名橋梁に就いては早急に取付部を含めた架替が必要との結果が出され、昭和25年(1950年)に架替が実施された。

    湖西市新居町新居3397
    東海道本線弁天島駅 遠鉄バス西浜名橋停留所降車 徒歩1分

  • 弁天島-新居町間<br /><br /><br /><br />初代 第3浜名橋梁<br />橋台跡<br />右 開通時<br />左 増線時<br />煉瓦上部のコンクリートは東南海大震災に於ける被災修復復旧部分。<br /><br />湖西市新居町新居3442<br />東海道本線弁天島駅 遠鉄バス西浜名橋停留所降車 徒歩1分

    弁天島-新居町間



    初代 第3浜名橋梁
    橋台跡
    右 開通時
    左 増線時
    煉瓦上部のコンクリートは東南海大震災に於ける被災修復復旧部分。

    湖西市新居町新居3442
    東海道本線弁天島駅 遠鉄バス西浜名橋停留所降車 徒歩1分

  • 弁天島-新居町間<br /><br /><br /><br />第3浜名橋梁<br />初代橋梁<br />橋台跡<br /><br />湖西市新居町新居3442<br />東海道本線弁天島駅 遠鉄バス西浜名橋停留所降車 徒歩1分

    弁天島-新居町間



    第3浜名橋梁
    初代橋梁
    橋台跡

    湖西市新居町新居3442
    東海道本線弁天島駅 遠鉄バス西浜名橋停留所降車 徒歩1分

  • 弁天島-新居町間<br /><br /><br /><br />第3浜名橋梁<br />初代橋梁<br />橋台跡<br />昭和19年(1944年)12月7日に発生した東南海大地震で該橋梁橋台が崩壊し基礎煉瓦が散乱。<br /><br />湖西市新居町新居3442<br />東海道本線弁天島駅 遠鉄バス西浜名橋停留所降車 徒歩1分

    弁天島-新居町間



    第3浜名橋梁
    初代橋梁
    橋台跡
    昭和19年(1944年)12月7日に発生した東南海大地震で該橋梁橋台が崩壊し基礎煉瓦が散乱。

    湖西市新居町新居3442
    東海道本線弁天島駅 遠鉄バス西浜名橋停留所降車 徒歩1分

  • 弁天島-新居町間<br /><br /><br /><br />第3浜名橋梁<br />散乱煉瓦断片<br /><br />湖西市新居町新居3442<br />東海道本線弁天島駅 遠鉄バス西浜名橋停留所降車 徒歩1分

    弁天島-新居町間



    第3浜名橋梁
    散乱煉瓦断片

    湖西市新居町新居3442
    東海道本線弁天島駅 遠鉄バス西浜名橋停留所降車 徒歩1分

  • 弁天島-新居町間<br /><br /><br /><br />第3浜名橋梁<br />全景<br />東京方<br /><br />湖西市新居町新居3442<br />東海道本線弁天島駅 遠州鉄道バス向島停留所 徒歩1分

    弁天島-新居町間



    第3浜名橋梁
    全景
    東京方

    湖西市新居町新居3442
    東海道本線弁天島駅 遠州鉄道バス向島停留所 徒歩1分

  • 新居町(あらいまち)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、大正4年(1915年)1月10日開業である。<br />該駅所在地たる旧濱名郡新居町は、該郡西部地域に於ける当時の中心地だったが、何故か鉄道開通時に停車場設置が見送られた事から、地元では再三に亘り停車場設置に関する請願を行われたが、該請願に対し鐵道院が該駅設置許可を与えたのは明治45年(1912年)2月だった。<br />然るに、該駅設置要件として鐵道院の提示要件は、該停車場必要用地確保、及び、該土木工事費用約65000円は全額地元負担とする条件だった。<br />然し、該停車場予定地は浜名湖湖畔部であり、過半が湖面であった為に、当時としては大規模な埋立工事を必要とした。<br />該停車場設置工事に対し町内では意見が割れたが、結局、濱名湖埋立を承認し停車場用地を確保させる為に約3年を要し、該駅開業に漕ぎ付けさせた。<br />昭和19年(1944年)12月7日に発生した東南海大地震(とうなんかい だいじしん)で、該駅被害は第1番ホーム横壁に一部崩壊が発生したが、他駅施設と比較して被害は僅少だった。<br />然るに、翌昭和20年(1945年)7月30日未明に実施された遠州灘に展開した米戦艦艦隊40cm主砲弾に依る艦砲射撃で、該地に展開していた帝國海軍浜名海兵団施設と共に敵側攻撃目標の1箇所と位置付けられた事から、該駅構内に該弾20発が着弾したが、全部不発だった事から着弾時に於ける爆風で該駅構内施設窓ガラスが全損したに止まった。<br />終戦直後、連合国軍は我が国に於いて戦時捕虜となった将兵を捕虜収容所から解放帰還させる為に、旅客船を以って救援に訪れたが、我が国主要港湾施設は戦時中に連合軍が投下した機雷処理が未処理の為に入港困難な状態だった事から、同年9月3日〜9日に該旅客船を遠州灘に停泊させ、新居町まで送還列車が運転された。<br />我が国政府、及び、運輸省は混乱を避ける為に、該期間中は該駅一般営業扱を中止させ、停車列車も全部通過とさせた。

    新居町(あらいまち)駅



    該駅は、大正4年(1915年)1月10日開業である。
    該駅所在地たる旧濱名郡新居町は、該郡西部地域に於ける当時の中心地だったが、何故か鉄道開通時に停車場設置が見送られた事から、地元では再三に亘り停車場設置に関する請願を行われたが、該請願に対し鐵道院が該駅設置許可を与えたのは明治45年(1912年)2月だった。
    然るに、該駅設置要件として鐵道院の提示要件は、該停車場必要用地確保、及び、該土木工事費用約65000円は全額地元負担とする条件だった。
    然し、該停車場予定地は浜名湖湖畔部であり、過半が湖面であった為に、当時としては大規模な埋立工事を必要とした。
    該停車場設置工事に対し町内では意見が割れたが、結局、濱名湖埋立を承認し停車場用地を確保させる為に約3年を要し、該駅開業に漕ぎ付けさせた。
    昭和19年(1944年)12月7日に発生した東南海大地震(とうなんかい だいじしん)で、該駅被害は第1番ホーム横壁に一部崩壊が発生したが、他駅施設と比較して被害は僅少だった。
    然るに、翌昭和20年(1945年)7月30日未明に実施された遠州灘に展開した米戦艦艦隊40cm主砲弾に依る艦砲射撃で、該地に展開していた帝國海軍浜名海兵団施設と共に敵側攻撃目標の1箇所と位置付けられた事から、該駅構内に該弾20発が着弾したが、全部不発だった事から着弾時に於ける爆風で該駅構内施設窓ガラスが全損したに止まった。
    終戦直後、連合国軍は我が国に於いて戦時捕虜となった将兵を捕虜収容所から解放帰還させる為に、旅客船を以って救援に訪れたが、我が国主要港湾施設は戦時中に連合軍が投下した機雷処理が未処理の為に入港困難な状態だった事から、同年9月3日〜9日に該旅客船を遠州灘に停泊させ、新居町まで送還列車が運転された。
    我が国政府、及び、運輸省は混乱を避ける為に、該期間中は該駅一般営業扱を中止させ、停車列車も全部通過とさせた。

    新居町駅

  • 新居町駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />キロポストがホーム上に存在するのは東海旅客鉄道静岡支社独自の存在で珍しい。<br />在来線東京-大阪間中間点

    新居町駅



    第1番ホーム
    キロポストがホーム上に存在するのは東海旅客鉄道静岡支社独自の存在で珍しい。
    在来線東京-大阪間中間点

    新居町駅

  • 新居町駅<br /><br /><br /><br />南口<br />出改札口

    新居町駅



    南口
    出改札口

    新居町駅

  • 新居町駅<br /><br /><br /><br />旧貨物取扱施設跡地<br />現在では払下げられコンビニや駐車場に変貌。

    新居町駅



    旧貨物取扱施設跡地
    現在では払下げられコンビニや駐車場に変貌。

    新居町駅

  • 新居町駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム

    新居町駅



    第2番ホーム

    新居町駅

  • 新居町駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />古軌条活用支柱

    新居町駅



    第2番ホーム
    古軌条活用支柱

    新居町駅

  • 新居町駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム上屋<br />支柱古軌条<br />CAMMELLS FIELD TOUGHENED STEEL SEC3□□ I.R.J.<br />(英キャムメル・フィールド・スティール社製造 逓信省鐵道作業局発注品 製造年号不明)<br />他古軌条支柱はペイント厚化粧の為に判読不能。<br />支柱番号第2号b

    新居町駅



    第2番ホーム上屋
    支柱古軌条
    CAMMELLS FIELD TOUGHENED STEEL SEC3□□ I.R.J.
    (英キャムメル・フィールド・スティール社製造 逓信省鐵道作業局発注品 製造年号不明)
    他古軌条支柱はペイント厚化粧の為に判読不能。
    支柱番号第2号b

    新居町駅

  • 新居町駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />跨線橋<br />該駅開業当時は跨線橋は未設置で旅客は構内を踏切横断していたが、改めて、大正14年(1925年)4月に設置された。

    新居町駅



    駅構内
    跨線橋
    該駅開業当時は跨線橋は未設置で旅客は構内を踏切横断していたが、改めて、大正14年(1925年)4月に設置された。

    新居町駅

  • 新居町駅<br /><br /><br /><br />北口<br />昭和28年(1953年)8月7日開所に浜名湖競艇場利用者の為に設置。

    新居町駅



    北口
    昭和28年(1953年)8月7日開所に浜名湖競艇場利用者の為に設置。

    新居町駅

  • 新居町駅<br /><br /><br />北口<br />改札口<br />ボートレース場利用者を捌く為に小駅にしては改札ラッチが多数存在する。<br />因みに、該出札窓口はマルス端末機が未設置だった民営当初、乗車券口座設備数では静岡県内筆頭箇所だった。

    新居町駅


    北口
    改札口
    ボートレース場利用者を捌く為に小駅にしては改札ラッチが多数存在する。
    因みに、該出札窓口はマルス端末機が未設置だった民営当初、乗車券口座設備数では静岡県内筆頭箇所だった。

    新居町駅

  • 新居町-鷲津間<br /><br /><br /><br />浜名川(はまなかわ)橋梁<br />該橋は、明治21年(1888年)9月1日開通時の架橋である。<br />架橋時は、<br />英國製<br />錬鐵製プレートガーダー橋桁 支間6.1m(20ft)×1連<br />が架橋された。<br />その後、舞坂(現 舞阪)-鷲津間は、明治37年(1904年)8月5日附で複線化されたが、該橋梁湖面側に新橋梁が架橋され、新橋は上り線専用、既成橋梁は下り線専用になった。<br /><br />浜名郡新居栄町3358<br />東海道本線新居町駅南口 徒歩4分

    新居町-鷲津間



    浜名川(はまなかわ)橋梁
    該橋は、明治21年(1888年)9月1日開通時の架橋である。
    架橋時は、
    英國製
    錬鐵製プレートガーダー橋桁 支間6.1m(20ft)×1連
    が架橋された。
    その後、舞坂(現 舞阪)-鷲津間は、明治37年(1904年)8月5日附で複線化されたが、該橋梁湖面側に新橋梁が架橋され、新橋は上り線専用、既成橋梁は下り線専用になった。

    浜名郡新居栄町3358
    東海道本線新居町駅南口 徒歩4分

  • 新居町-鷲津間<br /><br /><br /><br />浜名川橋梁<br />橋桁は交換されたが煉瓦積橋台は開通当時の原型。<br />該地方は、昭和19年(1944年)12月7日発生の東南海大震災で橋梁共に損壊箇所が多数発生し、該橋梁の如き原型で現存する箇所は僅稀。<br /><br />浜名郡新居栄町3358<br />東海道本線新居町駅南口 徒歩4分

    新居町-鷲津間



    浜名川橋梁
    橋桁は交換されたが煉瓦積橋台は開通当時の原型。
    該地方は、昭和19年(1944年)12月7日発生の東南海大震災で橋梁共に損壊箇所が多数発生し、該橋梁の如き原型で現存する箇所は僅稀。

    浜名郡新居栄町3358
    東海道本線新居町駅南口 徒歩4分

  • 帝國海軍濱名海兵団跡地<br /><br /><br /><br />該橋梁以南が濱名海兵団跡地<br /><br />浜名郡新居町新居170−1<br />東海道本線新居町駅 徒歩10分

    帝國海軍濱名海兵団跡地



    該橋梁以南が濱名海兵団跡地

    浜名郡新居町新居170−1
    東海道本線新居町駅 徒歩10分

  • 帝國海軍濱名海兵団跡地<br /><br /><br /><br />防空壕跡<br /><br />浜名郡新居町住吉西2345<br />東海道本線新居町駅南口 徒歩25分

    帝國海軍濱名海兵団跡地



    防空壕跡

    浜名郡新居町住吉西2345
    東海道本線新居町駅南口 徒歩25分

  • 帝國海軍濱名海兵団跡地<br /><br /><br /><br />防空壕跡<br />近景<br /><br />浜名郡新居町住吉西2345<br />東海道本線新居町駅南口 徒歩25分

    帝國海軍濱名海兵団跡地



    防空壕跡
    近景

    浜名郡新居町住吉西2345
    東海道本線新居町駅南口 徒歩25分

  • 新居町-鷲津間<br /><br /><br /><br />鷲津駅<br />構内<br /><br />湖西市鷲津1371<br />東海道本線鷲津駅 徒歩20分

    新居町-鷲津間



    鷲津駅
    構内

    湖西市鷲津1371
    東海道本線鷲津駅 徒歩20分

  • 鷲津(わしづ)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治21年(1888年)9月1日開業である。<br />本来、当初建設計画では、鷲津を経由せず旧東海道街道筋たる白須賀(しらすか)村経由を予定していたが、該村が鉄道通過を忌避した為に、急遽、現経路に決定されたとされているが、仮に、白須賀経由で設置された場合、登攀勾配は22‰以下での設置は避けられず、当時の蒸気機関車の性能上、可能な限り勾配を忌避する必要性が高く、故に、現行経路に決定されたと言うのが、けだし真相であろうと推定される。<br />該駅開設当時、該駅付近より現在の新所原駅付近一帯は人家が殆ど存在せず、それ故、該駅開業後に於いて客貨共に利用が伸び悩んだ事から、逓信省鐵道庁は、明治25年(1892年)8月に該駅廃止を決定し地元に対し内示して来た。<br />該報を知り驚愕した地元吉津村は、利用者増加策として、取敢えず、村民に濱松まで往復乗車を奨励させ、毎日実行させが、他方、日清間国交関係悪化に伴う、開戦を策定していた帝國陸軍参謀本部は、該報を受け審議した結果、該駅廃止に拠り、舞坂(現 舞阪)-豊橋間26.1kmに途中停車場が存在せず、1閉塞となる事で、列車交換が不可能になるばかりで無く、戦時輸送体制上、好ましからぬ事態を憂慮し該駅廃止に対し猛反対した事から該案は自然沙汰止みとなった。<br />該駅存続が決定した事を受け、吉津村では、翌明治26年(1893年)4月に該駅開業以来仮建築だった駅本屋を新築献納し第2代目駅本屋が竣工した。<br />戦後、昭和28年(1953年)7月21日に、浜松-名古屋間が電化される迄、当該地区では、下り列車は新居町付近より台地に向け登り勾配を登攀する為に全速前進しながら進行させていたが、当時の特別急行列車と言えども、新所原通過直前は息切れ状態で時速30km前後の速度まで低下していた事から、当初計画通り、白須賀経由で設置された場合、登攀用補助蒸気機関車の後押を要する区間として、東海道本線の隘路の1箇所になっていたに相違無い。<br />鷲津が繁栄の基礎となったのは、明治40年(1907年)8月13日附で、現在の浜名湖遊覧船の前身企業たる濱名湖巡航船が創設され、該駅裏手に存在した鷲津港を基点に、浜名湖各地への連絡航路拠点となった事で、該駅が連絡船連絡駅になった事が発端で乗換客の為に店舗が出現する事で、当時の濱名郡西部に於ける繁栄地の嚆矢となった。<br />更に、浜名湖湖面が一部埋立てられ、昭和4年(1929年)4月に、富士瓦斯紡績鷲津工場が開設され、1000名以上の者が居住する様になり、該駅前は開業当時とは全く異なった姿を呈する様になった。<br />現在では、該駅付近は湖西市中心地である。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/washizu/index.html

    鷲津(わしづ)駅



    該駅は、明治21年(1888年)9月1日開業である。
    本来、当初建設計画では、鷲津を経由せず旧東海道街道筋たる白須賀(しらすか)村経由を予定していたが、該村が鉄道通過を忌避した為に、急遽、現経路に決定されたとされているが、仮に、白須賀経由で設置された場合、登攀勾配は22‰以下での設置は避けられず、当時の蒸気機関車の性能上、可能な限り勾配を忌避する必要性が高く、故に、現行経路に決定されたと言うのが、けだし真相であろうと推定される。
    該駅開設当時、該駅付近より現在の新所原駅付近一帯は人家が殆ど存在せず、それ故、該駅開業後に於いて客貨共に利用が伸び悩んだ事から、逓信省鐵道庁は、明治25年(1892年)8月に該駅廃止を決定し地元に対し内示して来た。
    該報を知り驚愕した地元吉津村は、利用者増加策として、取敢えず、村民に濱松まで往復乗車を奨励させ、毎日実行させが、他方、日清間国交関係悪化に伴う、開戦を策定していた帝國陸軍参謀本部は、該報を受け審議した結果、該駅廃止に拠り、舞坂(現 舞阪)-豊橋間26.1kmに途中停車場が存在せず、1閉塞となる事で、列車交換が不可能になるばかりで無く、戦時輸送体制上、好ましからぬ事態を憂慮し該駅廃止に対し猛反対した事から該案は自然沙汰止みとなった。
    該駅存続が決定した事を受け、吉津村では、翌明治26年(1893年)4月に該駅開業以来仮建築だった駅本屋を新築献納し第2代目駅本屋が竣工した。
    戦後、昭和28年(1953年)7月21日に、浜松-名古屋間が電化される迄、当該地区では、下り列車は新居町付近より台地に向け登り勾配を登攀する為に全速前進しながら進行させていたが、当時の特別急行列車と言えども、新所原通過直前は息切れ状態で時速30km前後の速度まで低下していた事から、当初計画通り、白須賀経由で設置された場合、登攀用補助蒸気機関車の後押を要する区間として、東海道本線の隘路の1箇所になっていたに相違無い。
    鷲津が繁栄の基礎となったのは、明治40年(1907年)8月13日附で、現在の浜名湖遊覧船の前身企業たる濱名湖巡航船が創設され、該駅裏手に存在した鷲津港を基点に、浜名湖各地への連絡航路拠点となった事で、該駅が連絡船連絡駅になった事が発端で乗換客の為に店舗が出現する事で、当時の濱名郡西部に於ける繁栄地の嚆矢となった。
    更に、浜名湖湖面が一部埋立てられ、昭和4年(1929年)4月に、富士瓦斯紡績鷲津工場が開設され、1000名以上の者が居住する様になり、該駅前は開業当時とは全く異なった姿を呈する様になった。
    現在では、該駅付近は湖西市中心地である。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/washizu/index.html

    鷲津駅

  • 鷲津駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />現在の建築は昭和36年(1961年)改築の第3代目。

    鷲津駅



    駅本屋
    現在の建築は昭和36年(1961年)改築の第3代目。

    鷲津駅

  • 鷲津駅<br /><br /><br /><br />出改札口<br />朝夕以外は閑散としている。

    鷲津駅



    出改札口
    朝夕以外は閑散としている。

    鷲津駅

  • 鷲津駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />跨線橋

    鷲津駅



    駅構内
    跨線橋

    鷲津駅

  • 鷲津駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />右手に鷲津桟橋への貨物取扱所が存在した。

    鷲津駅



    駅構内
    右手に鷲津桟橋への貨物取扱所が存在した。

    鷲津駅

  • 鷲津駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />旧貨物取扱所跡<br />跡地は荒払下げられ現在は集合住宅が2棟建つが、旧線路跡を忍ばせるが如く緩い曲線状を描く。

    鷲津駅



    駅構内
    旧貨物取扱所跡
    跡地は荒払下げられ現在は集合住宅が2棟建つが、旧線路跡を忍ばせるが如く緩い曲線状を描く。

    鷲津駅

  • 鷲津駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />東京方俯瞰

    鷲津駅



    駅構内
    東京方俯瞰

    鷲津駅

  • 鷲津-新所原間<br /><br /><br /><br />鷲津踏切(わしづ ふみきり)<br />旧浜名湖汽船鷲津桟橋連絡道<br /><br />湖西市鷲津官有無番地<br />東海道本線鷲津駅 徒歩2分

    鷲津-新所原間



    鷲津踏切(わしづ ふみきり)
    旧浜名湖汽船鷲津桟橋連絡道

    湖西市鷲津官有無番地
    東海道本線鷲津駅 徒歩2分

  • 鷲津-新所原間<br /><br /><br /><br />横須賀川(よこすかがわ)橋梁<br />橋桁は交換されているが、橋台は該区間開通当時の原型。<br /><br />湖西市鷲津1293<br />東海道本線鷲津駅 徒歩3分

    鷲津-新所原間



    横須賀川(よこすかがわ)橋梁
    橋桁は交換されているが、橋台は該区間開通当時の原型。

    湖西市鷲津1293
    東海道本線鷲津駅 徒歩3分

  • 浜名湖汽船鷲津乗船桟橋跡<br /><br /><br /><br />旧乗船事務所兼待合所跡<br />跡地には老人福祉会館が設置されたが廃止され、現在は整地されて何も無し。<br /><br />湖西市鷲津1293−4<br />東海道本線鷲津駅 徒歩4分

    浜名湖汽船鷲津乗船桟橋跡



    旧乗船事務所兼待合所跡
    跡地には老人福祉会館が設置されたが廃止され、現在は整地されて何も無し。

    湖西市鷲津1293−4
    東海道本線鷲津駅 徒歩4分

  • 浜名湖汽船鷲津乗船桟橋跡<br /><br /><br /><br />旧桟橋跡<br />汽船発着廃止後は使用される事も無く、休日ともなると釣人の姿が多数見られたが、桟橋本体の経年変化に依る崩壊で、現在は湖西市命令に拠り立入禁止。<br /><br />湖西市鷲津1293−4<br />東海道本線鷲津駅 徒歩4分

    浜名湖汽船鷲津乗船桟橋跡



    旧桟橋跡
    汽船発着廃止後は使用される事も無く、休日ともなると釣人の姿が多数見られたが、桟橋本体の経年変化に依る崩壊で、現在は湖西市命令に拠り立入禁止。

    湖西市鷲津1293−4
    東海道本線鷲津駅 徒歩4分

  • 浜名湖汽船鷲津乗船桟橋跡<br /><br /><br /><br />旧桟橋跡<br />保守されぬまま桟橋先端は崩壊状態。<br /><br />湖西市鷲津1293−4<br />東海道本線鷲津駅 徒歩4分

    浜名湖汽船鷲津乗船桟橋跡



    旧桟橋跡
    保守されぬまま桟橋先端は崩壊状態。

    湖西市鷲津1293−4
    東海道本線鷲津駅 徒歩4分

  • 浜名湖汽船鷲津乗船桟橋跡<br /><br /><br /><br />天皇陛下御乗船跡碑<br />昭和天皇(しょうわ てんのう)(明治34年(1901年)4月29日〜昭和64年(1989年)1月7日)は、即位後、陸海軍大元帥として陸軍特別大演習統監の為に、昭和5年(1930年)5月28日より同年6月3日に亘る7日間、静岡県内各地を巡幸された。<br />同年6月1日は、濱松→鷲津間を御召列車に乗車され、鷲津桟橋から佐久米桟橋まで濱名湖巡航船所有汽船に御召船とし乗船され湖内を移動された事を記念して該碑が建立された。<br />因みに、当日その後は佐久米桟橋上陸後、気賀から三方ケ原古戦場見学を経て、濱松→沼津間を御召列車で移動後、当日は、沼津御用邸に宿泊された。<br /><br />湖西市鷲津2524<br />東海道本線鷲津駅 徒歩8分

    浜名湖汽船鷲津乗船桟橋跡



    天皇陛下御乗船跡碑
    昭和天皇(しょうわ てんのう)(明治34年(1901年)4月29日〜昭和64年(1989年)1月7日)は、即位後、陸海軍大元帥として陸軍特別大演習統監の為に、昭和5年(1930年)5月28日より同年6月3日に亘る7日間、静岡県内各地を巡幸された。
    同年6月1日は、濱松→鷲津間を御召列車に乗車され、鷲津桟橋から佐久米桟橋まで濱名湖巡航船所有汽船に御召船とし乗船され湖内を移動された事を記念して該碑が建立された。
    因みに、当日その後は佐久米桟橋上陸後、気賀から三方ケ原古戦場見学を経て、濱松→沼津間を御召列車で移動後、当日は、沼津御用邸に宿泊された。

    湖西市鷲津2524
    東海道本線鷲津駅 徒歩8分

  • 鷲津<br /><br /><br /><br />浜名湖れんが館<br />明治21年(1888年)9月1日に鷲津に停車場が設置され、その後、該駅設置当時は田園風景拡がる該地に次々と製糸工場が進出したが、該建造物は、貨車積込前に事前搬入する為に、宮崎製糸鷲津工場乾繭保管倉庫として明治37年(1904年)に建築された。<br />その後、製糸業の衰退と共に該建造物は使用停止となり解体が計画されたが、歴史的建造物と云う事で湖西市が買収し、現在は 浜名湖れんが館の名で有料イヴェント会場として公開されている。<br /><br />湖西市畑ケ尻479<br />?: 055−576−1280<br />東海道本線鷲津駅 徒歩6分<br />http://www.city.kosai.shizuoka.jp/2282.htm

    鷲津



    浜名湖れんが館
    明治21年(1888年)9月1日に鷲津に停車場が設置され、その後、該駅設置当時は田園風景拡がる該地に次々と製糸工場が進出したが、該建造物は、貨車積込前に事前搬入する為に、宮崎製糸鷲津工場乾繭保管倉庫として明治37年(1904年)に建築された。
    その後、製糸業の衰退と共に該建造物は使用停止となり解体が計画されたが、歴史的建造物と云う事で湖西市が買収し、現在は 浜名湖れんが館の名で有料イヴェント会場として公開されている。

    湖西市畑ケ尻479
    ?: 055−576−1280
    東海道本線鷲津駅 徒歩6分
    http://www.city.kosai.shizuoka.jp/2282.htm

    浜名湖れんが館 名所・史跡

    浜名湖れんが館〔歴史的建造物〕 by 横浜臨海公園さん
  • 鷲津-新所原間<br /><br /><br /><br />路線風景<br />背後の湖西連峰(こさい れんぽう)麓に所在する新所原駅に向かい登り連続10‰勾配が続く。<br /><br />湖西市古見1250<br />東海道本線鷲津駅 遠鉄バス湖西市民会館停留所降車 徒歩3分

    鷲津-新所原間



    路線風景
    背後の湖西連峰(こさい れんぽう)麓に所在する新所原駅に向かい登り連続10‰勾配が続く。

    湖西市古見1250
    東海道本線鷲津駅 遠鉄バス湖西市民会館停留所降車 徒歩3分

  • 鷲津-新所原間<br /><br /><br /><br />古見川(こみかわ)橋梁<br /><br />湖西市吉美3764<br />東海道本線鷲津駅 遠鉄バス川尻停留所降車 徒歩2分

    鷲津-新所原間



    古見川(こみかわ)橋梁

    湖西市吉美3764
    東海道本線鷲津駅 遠鉄バス川尻停留所降車 徒歩2分

  • 鷲津-新所原間<br /><br /><br /><br />古見川橋梁<br />橋桁銘板<br />鐵道省<br /><br />湖西市吉美3764<br />東海道本線鷲津駅 遠鉄バス川尻停留所降車 徒歩2分

    鷲津-新所原間



    古見川橋梁
    橋桁銘板
    鐵道省

    湖西市吉美3764
    東海道本線鷲津駅 遠鉄バス川尻停留所降車 徒歩2分

  • 鷲津-新所原間<br /><br /><br /><br />線路築堤<br /><br />湖西市吉美3879<br />東海道本線鷲津駅 遠鉄バス湖西市民会館停留所降車 徒歩10分

    鷲津-新所原間



    線路築堤

    湖西市吉美3879
    東海道本線鷲津駅 遠鉄バス湖西市民会館停留所降車 徒歩10分

  • 鷲津-新所原間<br /><br /><br /><br />茶屋松架道橋<br />路線敷設で遮断された地元田畑間移動の為に設置。<br /><br />湖西市五田無番地<br />東海道本線鷲津駅 遠鉄バス川尻停留所降車 徒歩5分

    鷲津-新所原間



    茶屋松架道橋
    路線敷設で遮断された地元田畑間移動の為に設置。

    湖西市五田無番地
    東海道本線鷲津駅 遠鉄バス川尻停留所降車 徒歩5分

  • 鷲津-新所原間<br /><br /><br /><br />茶屋松架道橋<br />内部<br />損傷剥離も僅少で比較的構築当時の原型を保持。<br /><br />湖西市五田無番地<br />東海道本線鷲津駅 遠鉄バス川尻停留所降車 徒歩5分

    鷲津-新所原間



    茶屋松架道橋
    内部
    損傷剥離も僅少で比較的構築当時の原型を保持。

    湖西市五田無番地
    東海道本線鷲津駅 遠鉄バス川尻停留所降車 徒歩5分

  • 鷲津-新所原間<br /><br /><br /><br />線路築堤<br />昭和19年(1944年)12月7日に発生した、東南海大地震(とうなんかい だいじしん)に依り鷲津-新所原間築堤は全部崩落し、線路が梯子状宙吊状態になり復旧に時間を要した。<br />該震災不通時は二俣線を迂回路として使用し列車運行を行った。<br /><br />湖西市新所無番地<br />東海道本線鷲津駅 遠鉄バス笠子橋停留所降車 徒歩6分

    鷲津-新所原間



    線路築堤
    昭和19年(1944年)12月7日に発生した、東南海大地震(とうなんかい だいじしん)に依り鷲津-新所原間築堤は全部崩落し、線路が梯子状宙吊状態になり復旧に時間を要した。
    該震災不通時は二俣線を迂回路として使用し列車運行を行った。

    湖西市新所無番地
    東海道本線鷲津駅 遠鉄バス笠子橋停留所降車 徒歩6分

  • 鷲津-新所原間<br /><br /><br /><br />一宮川(いちのみやかわ)橋梁<br />該橋梁は橋桁を使用しない総煉瓦積アーチ橋。<br />眼鏡連続3連構造<br />総延長9.1m<br /><br />湖西市新所無番地<br />東海道本線鷲津駅 遠鉄バス笠子橋停留所降車 徒歩8分

    鷲津-新所原間



    一宮川(いちのみやかわ)橋梁
    該橋梁は橋桁を使用しない総煉瓦積アーチ橋。
    眼鏡連続3連構造
    総延長9.1m

    湖西市新所無番地
    東海道本線鷲津駅 遠鉄バス笠子橋停留所降車 徒歩8分

  • 鷲津-新所原間<br /><br /><br /><br />一宮川橋梁<br />北関東では信越本線高崎-小諸間建設で総煉瓦積連続アーチ橋の存在は珍しく無いが、東海道本線東京-神戸間に於いて該構造橋梁は該橋梁のみ。<br /><br />湖西市新所無番地<br />東海道本線鷲津駅 遠鉄バス笠子橋停留所降車 徒歩8分

    鷲津-新所原間



    一宮川橋梁
    北関東では信越本線高崎-小諸間建設で総煉瓦積連続アーチ橋の存在は珍しく無いが、東海道本線東京-神戸間に於いて該構造橋梁は該橋梁のみ。

    湖西市新所無番地
    東海道本線鷲津駅 遠鉄バス笠子橋停留所降車 徒歩8分

  • 鷲津-新所原間<br /><br /><br /><br />一宮川橋梁<br />内部<br />総煉瓦積構造、総コンクリート構造橋梁は、重量が一定均等に掛かる為に、主として勾配線区に於いて応用される。<br />該橋梁は、昭和19年(1944年)12月7日に発生した東南海大震災で歪損被害が発生し鋼鉄帯で修復された。<br /><br />湖西市新所無番地<br />東海道本線鷲津駅 遠鉄バス笠子橋停留所降車 徒歩8分

    鷲津-新所原間



    一宮川橋梁
    内部
    総煉瓦積構造、総コンクリート構造橋梁は、重量が一定均等に掛かる為に、主として勾配線区に於いて応用される。
    該橋梁は、昭和19年(1944年)12月7日に発生した東南海大震災で歪損被害が発生し鋼鉄帯で修復された。

    湖西市新所無番地
    東海道本線鷲津駅 遠鉄バス笠子橋停留所降車 徒歩8分

  • 鷲津-新所原間<br /><br /><br /><br />一宮川橋梁<br />上り線側<br />東南海大震災で損傷、コンクリートで修復。<br /><br />湖西市新所無番地<br />東海道本線鷲津駅 遠鉄バス笠子停留所降車 徒歩8分

    鷲津-新所原間



    一宮川橋梁
    上り線側
    東南海大震災で損傷、コンクリートで修復。

    湖西市新所無番地
    東海道本線鷲津駅 遠鉄バス笠子停留所降車 徒歩8分

  • 鷲津-新所原間<br /><br /><br /><br />笹子川(ささこがわ)橋梁<br />右橋梁 現用橋<br />左橋梁 廃止橋<br />河川改修に依り河流が変更された結果、新橋梁を設置し、その為に該区間開通時に架橋された橋梁は廃止されたが、撤去されず現地に残地。<br /><br />湖西市新所無番地<br />東海道本線鷲津駅 遠鉄バス笠子橋停留所降車 徒歩12分

    鷲津-新所原間



    笹子川(ささこがわ)橋梁
    右橋梁 現用橋
    左橋梁 廃止橋
    河川改修に依り河流が変更された結果、新橋梁を設置し、その為に該区間開通時に架橋された橋梁は廃止されたが、撤去されず現地に残地。

    湖西市新所無番地
    東海道本線鷲津駅 遠鉄バス笠子橋停留所降車 徒歩12分

  • 鷲津-新所原間<br /><br /><br /><br />前田川架道橋<br />下り線側<br />正面全景<br /><br />湖西市新所無番地<br />東海道本線鷲津駅 遠鉄バス笠子橋停留所降車 徒歩15分

    鷲津-新所原間



    前田川架道橋
    下り線側
    正面全景

    湖西市新所無番地
    東海道本線鷲津駅 遠鉄バス笠子橋停留所降車 徒歩15分

  • 鷲津-新所原間<br /><br /><br /><br />前田川架道橋<br />下り線側<br />元来は河川用橋梁だったが、戦後埋立てられ現在は暗渠。<br /><br />湖西市新所無番地<br />東海道本線鷲津駅 遠鉄バス笠子橋停留所降車 徒歩15分

    鷲津-新所原間



    前田川架道橋
    下り線側
    元来は河川用橋梁だったが、戦後埋立てられ現在は暗渠。

    湖西市新所無番地
    東海道本線鷲津駅 遠鉄バス笠子橋停留所降車 徒歩15分

  • 鷲津-新所原間<br /><br /><br /><br />前田川架道橋<br />上り線側<br /><br />湖西市新所無番地<br />東海道本線鷲津駅 遠鉄バス笠子橋停留所降車 徒歩15分

    鷲津-新所原間



    前田川架道橋
    上り線側

    湖西市新所無番地
    東海道本線鷲津駅 遠鉄バス笠子橋停留所降車 徒歩15分

  • 鷲津-新所原間<br /><br /><br /><br />白須賀(しらすか)信号所跡<br />該信号所は、大正2年(1913年)3月1日設置である。<br />濱松-豊橋間は、明治21年(1888年)9月1日に開通したが、該区間開通当時は鷲津-豊橋間17.0kmに途中停車場が存在せず、且つ、当時は単線だった事から、忽ち、列車交換、及び、列車増発に困難を発生せしめた。<br />地元請願も有り、明治29年(1896年)4月7日に、二川驛が開設されたが、此れとて、鷲津-二川間は10.1kmと長距離で、時刻表上で必ずしも改善されたとは言い難い状態だった。<br />鷲津-豊橋間は、明治36年(1903年)7月6日に複線化されたが、当時、自動閉塞式は未整備状態であり、該使用は非自動式たる双信閉塞式だった故に、該距離をして1閉塞では列車増発が不可能に近く、此の為に、鷲津-二川間に於ける双信閉塞を2分割させるべく該信号所が設置された。<br />その後、濱松-豊橋間に自動閉塞式が導入された為に、昭和3年(1928年)6月2日附で廃止された。<br />因みに、通常であれば、信号所は地元請願で駅昇の動きが見られるものだが、該信号所廃止当時の付近一帯は、鬱蒼とした雑木林繁る不毛地帯であり、該付近一帯に人が定着する様になったのは、大東亜戦争後に、旧満州、及び旧朝鮮引揚者が該地に入植開墾事業を展開した以降の事であり、少なくとも、該信号所設置当時は人煙稀な地故に、該地に於いて、駅昇格運動など発生の余地すら存在し得なかった。<br /><br />湖西市駅南1<br />東海道本線新所原駅 徒歩12分

    鷲津-新所原間



    白須賀(しらすか)信号所跡
    該信号所は、大正2年(1913年)3月1日設置である。
    濱松-豊橋間は、明治21年(1888年)9月1日に開通したが、該区間開通当時は鷲津-豊橋間17.0kmに途中停車場が存在せず、且つ、当時は単線だった事から、忽ち、列車交換、及び、列車増発に困難を発生せしめた。
    地元請願も有り、明治29年(1896年)4月7日に、二川驛が開設されたが、此れとて、鷲津-二川間は10.1kmと長距離で、時刻表上で必ずしも改善されたとは言い難い状態だった。
    鷲津-豊橋間は、明治36年(1903年)7月6日に複線化されたが、当時、自動閉塞式は未整備状態であり、該使用は非自動式たる双信閉塞式だった故に、該距離をして1閉塞では列車増発が不可能に近く、此の為に、鷲津-二川間に於ける双信閉塞を2分割させるべく該信号所が設置された。
    その後、濱松-豊橋間に自動閉塞式が導入された為に、昭和3年(1928年)6月2日附で廃止された。
    因みに、通常であれば、信号所は地元請願で駅昇の動きが見られるものだが、該信号所廃止当時の付近一帯は、鬱蒼とした雑木林繁る不毛地帯であり、該付近一帯に人が定着する様になったのは、大東亜戦争後に、旧満州、及び旧朝鮮引揚者が該地に入植開墾事業を展開した以降の事であり、少なくとも、該信号所設置当時は人煙稀な地故に、該地に於いて、駅昇格運動など発生の余地すら存在し得なかった。

    湖西市駅南1
    東海道本線新所原駅 徒歩12分

  • 新所原(しんじょはら)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和11年(1936年)12月1日開業である。<br />然し、該駅前身は、同年2月13日附で設置された新所原仮信号場が嚆矢である。<br />即ち、昭和初期に、当時の帝國陸海軍部は、有事勃発時に伴い、遠州灘沖に出現する敵艦隊艦砲射撃を原因とする、東海道本線被害に拠る交通途絶を懸念し、鐵道省に対し、浜名湖北岸側を迂回可能な路線設置を要求して来た事から、鐵道省は該案を審議検討の結果、掛川を起点とする二俣線建設を決定した。<br />該線東側に就いては、昭和10年(1935年)4月17日に、掛川-遠州森間12.8kmを二俣東線として開通させたが、西側に就いては、東海道本線に分岐可能な既成駅が存在せず、且つ、該線建設工事列車運転の為に、必要とする事から、検討の結果、該線鷲津-二川間たる東京起点282.4km地点に新所原仮信号場を設置し、二俣西線建設工事列車運転の為に開設された。<br />該例の如き、本来存在無き地に新路線建設の為に停車場設置の前例として、八高北線(現 八高線)建設工事列車運転の為に、昭和5年(1930年)10月15日附で、高崎線新町-倉賀野間大宮起点66.8km地点に分岐器を設置した小野仮信号所設置を嚆矢とする。<br />同年12月1日に二俣西線新所原-三ケ日間開通と共に、該仮信号所は駅に昇格され正式開業した。<br />該駅開業を直前に地元濱名郡新所村は、新駅名称を地元地名として梅田、若しくは、新所を正式採用する事を希望したが、既成使用駅や駅名混同の要因有りとして、該請求は採択されず新所原に決定された。<br />該駅開業を前に、殆どの二俣線列車は豊橋駅始終点と設定された事から、東海道本線上下線間に分岐器で渡り線を通過する事で保安低下を防止する為に、開業当初からコンクリート製乗越橋が設置された。<br />更に、該駅構内には全国でも稀有例として駅構内に県境が存在するが、本来は、該県境は梅田(うめだ)川中心流身に設定されていたが、該駅構内整備の一環として、河川改修が同時に施工され、該河川は東側たる静岡県側に移設した為に、県境のみ元位置に残置する結果となった。<br />二俣線は、日本国有鉄道静岡鉄道管理局所属から離れ、昭和62年(1987年)3月14日を以って、天竜浜名湖鉄道天浜線として再スタートを切ったが、該日を以って、前述乗越橋は該鉄道資産として継承されず廃止され、暫くの間は無残な姿を残存させていたが、現在では殆どの部分が撤去された。<br />因みに、該駅開設当時の所在住所は新所村だったが、現在は駅名に合せ新所原町である。<br />該例の如きとして、高崎線宮原駅、及び、東北本線那須塩原駅等々が散見され、殊に、後者は市名として追採用された。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/washizu/index.html

    新所原(しんじょはら)駅



    該駅は、昭和11年(1936年)12月1日開業である。
    然し、該駅前身は、同年2月13日附で設置された新所原仮信号場が嚆矢である。
    即ち、昭和初期に、当時の帝國陸海軍部は、有事勃発時に伴い、遠州灘沖に出現する敵艦隊艦砲射撃を原因とする、東海道本線被害に拠る交通途絶を懸念し、鐵道省に対し、浜名湖北岸側を迂回可能な路線設置を要求して来た事から、鐵道省は該案を審議検討の結果、掛川を起点とする二俣線建設を決定した。
    該線東側に就いては、昭和10年(1935年)4月17日に、掛川-遠州森間12.8kmを二俣東線として開通させたが、西側に就いては、東海道本線に分岐可能な既成駅が存在せず、且つ、該線建設工事列車運転の為に、必要とする事から、検討の結果、該線鷲津-二川間たる東京起点282.4km地点に新所原仮信号場を設置し、二俣西線建設工事列車運転の為に開設された。
    該例の如き、本来存在無き地に新路線建設の為に停車場設置の前例として、八高北線(現 八高線)建設工事列車運転の為に、昭和5年(1930年)10月15日附で、高崎線新町-倉賀野間大宮起点66.8km地点に分岐器を設置した小野仮信号所設置を嚆矢とする。
    同年12月1日に二俣西線新所原-三ケ日間開通と共に、該仮信号所は駅に昇格され正式開業した。
    該駅開業を直前に地元濱名郡新所村は、新駅名称を地元地名として梅田、若しくは、新所を正式採用する事を希望したが、既成使用駅や駅名混同の要因有りとして、該請求は採択されず新所原に決定された。
    該駅開業を前に、殆どの二俣線列車は豊橋駅始終点と設定された事から、東海道本線上下線間に分岐器で渡り線を通過する事で保安低下を防止する為に、開業当初からコンクリート製乗越橋が設置された。
    更に、該駅構内には全国でも稀有例として駅構内に県境が存在するが、本来は、該県境は梅田(うめだ)川中心流身に設定されていたが、該駅構内整備の一環として、河川改修が同時に施工され、該河川は東側たる静岡県側に移設した為に、県境のみ元位置に残置する結果となった。
    二俣線は、日本国有鉄道静岡鉄道管理局所属から離れ、昭和62年(1987年)3月14日を以って、天竜浜名湖鉄道天浜線として再スタートを切ったが、該日を以って、前述乗越橋は該鉄道資産として継承されず廃止され、暫くの間は無残な姿を残存させていたが、現在では殆どの部分が撤去された。
    因みに、該駅開設当時の所在住所は新所村だったが、現在は駅名に合せ新所原町である。
    該例の如きとして、高崎線宮原駅、及び、東北本線那須塩原駅等々が散見され、殊に、後者は市名として追採用された。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/washizu/index.html

    新所原駅

  • 新所原駅<br /><br /><br /><br />跨線橋<br />該駅開業時に設置。

    新所原駅



    跨線橋
    該駅開業時に設置。

    新所原駅

  • 新所原駅<br /><br /><br /><br />旧二俣線ホーム<br />現在は天竜浜名湖鉄道車両留置に使用。

    新所原駅



    旧二俣線ホーム
    現在は天竜浜名湖鉄道車両留置に使用。

    新所原駅

  • 新所原駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム跨線路橋支柱古軌条<br />H.WENDEL IX 1929 IBS ASCE IS BS<br />(仏ヴァンデル社 1929年9月製造 鐵道省発注品)<br />ASCE はアメリカ土木学会規定の60ポンド(30キロ)第3種指定軌条。<br />製造時期は製造困難とされた鋼鉄軌条も第1次世界大戦後に於ける国産体制確立直前期に相当し輸入軌条末期の存在。<br />

    新所原駅



    第2番ホーム跨線路橋支柱古軌条
    H.WENDEL IX 1929 IBS ASCE IS BS
    (仏ヴァンデル社 1929年9月製造 鐵道省発注品)
    ASCE はアメリカ土木学会規定の60ポンド(30キロ)第3種指定軌条。
    製造時期は製造困難とされた鋼鉄軌条も第1次世界大戦後に於ける国産体制確立直前期に相当し輸入軌条末期の存在。

    新所原駅

  • 新所原駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />東京方俯瞰

    新所原駅



    駅構内
    東京方俯瞰

    新所原駅

  • 新所原駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />梅田川(うめだがわ)<br />本来は豊橋川に川流が所在したが、該駅開設時に河川改修を実施した際に現川流に変更された。

    新所原駅



    駅構内
    梅田川(うめだがわ)
    本来は豊橋川に川流が所在したが、該駅開設時に河川改修を実施した際に現川流に変更された。

    新所原駅

  • 新所原駅<br /><br /><br /><br />構内<br />神戸方<br />場内出発信号機付近が旧梅田川旧河川跡<br />静岡県愛知県県境。

    新所原駅



    構内
    神戸方
    場内出発信号機付近が旧梅田川旧河川跡
    静岡県愛知県県境。

    新所原駅

  • 二川(ふたがわ)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治29年(1896年)4月7日開業である。<br />大府-濱松間は、明治21年(1888年)9月1日に開通したが、該区間開通当時、鷲津-豊橋間16.0kmに途中停車場が存在せず、且つ、開業早々たる明治24年(1891年)になり、鷲津駅は乗降客僅少を理由に廃止が計画される状態だった。<br />然るに、開通当時、該区間は複線化されておらず単線だった事から、既に、日清両国間は朝鮮半島の権益をめぐり対立の度合いを深めており、特に、陸海軍省から列車交換施設廃止は好ましからずとの意見が開陳された事で、該駅廃止は回避された。<br />他方、渥美郡二川村は、明治初期まで旧東海道筋に所在する宿場町として繁栄したが、横濱-神戸間に蒸気船が就航開業した事で、旅行者は漸次船舶利用に転移し、該宿利用が激減する事態を招来させ、該村全体に危機感が強まった。<br />その為に、該村では、逓信省鐵道庁に対し、停車場設置に関する請願を展開したが、折りしも、日清戦争(にっしん せんそう)(明治27年(1894年)7月25日〜明治28年(1895年)11月30日)勃発に依り、該請願は沙汰止みになった。<br />然し、該戦争が終結した事から、改めて、逓信省鐵道局に対し再請願を実施し、明治28年(1895年)に該請願が受理され、停車場設置が決定した。<br />その際に、逓信省鐵道局が提示した停車場設置条件として、該停車場設置要地全部を地元が用意負担し無償提供する内容だった事から、該村では、必要地を地権者から買収し、逓信省鐵道局に対し無償提供した。<br />改築以前の駅本屋は、該駅開業当時の該線東京-神戸間に於ける最古の駅舎だったが、老朽化が著しい事から保存は断念され改築される事に決定した。<br />現第2代目駅本屋は、平成14年(2002年)4月27日竣工。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/futagawa/index.html

    二川(ふたがわ)駅



    該駅は、明治29年(1896年)4月7日開業である。
    大府-濱松間は、明治21年(1888年)9月1日に開通したが、該区間開通当時、鷲津-豊橋間16.0kmに途中停車場が存在せず、且つ、開業早々たる明治24年(1891年)になり、鷲津駅は乗降客僅少を理由に廃止が計画される状態だった。
    然るに、開通当時、該区間は複線化されておらず単線だった事から、既に、日清両国間は朝鮮半島の権益をめぐり対立の度合いを深めており、特に、陸海軍省から列車交換施設廃止は好ましからずとの意見が開陳された事で、該駅廃止は回避された。
    他方、渥美郡二川村は、明治初期まで旧東海道筋に所在する宿場町として繁栄したが、横濱-神戸間に蒸気船が就航開業した事で、旅行者は漸次船舶利用に転移し、該宿利用が激減する事態を招来させ、該村全体に危機感が強まった。
    その為に、該村では、逓信省鐵道庁に対し、停車場設置に関する請願を展開したが、折りしも、日清戦争(にっしん せんそう)(明治27年(1894年)7月25日〜明治28年(1895年)11月30日)勃発に依り、該請願は沙汰止みになった。
    然し、該戦争が終結した事から、改めて、逓信省鐵道局に対し再請願を実施し、明治28年(1895年)に該請願が受理され、停車場設置が決定した。
    その際に、逓信省鐵道局が提示した停車場設置条件として、該停車場設置要地全部を地元が用意負担し無償提供する内容だった事から、該村では、必要地を地権者から買収し、逓信省鐵道局に対し無償提供した。
    改築以前の駅本屋は、該駅開業当時の該線東京-神戸間に於ける最古の駅舎だったが、老朽化が著しい事から保存は断念され改築される事に決定した。
    現第2代目駅本屋は、平成14年(2002年)4月27日竣工。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/futagawa/index.html

    二川駅

  • 二川駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />第2番ホーム

    二川駅



    駅本屋
    第2番ホーム

    二川駅

  • 二川駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />第2番ホーム

    二川駅



    駅構内
    第2番ホーム

    二川駅

  • 二川駅<br /><br /><br /><br />南口

    二川駅



    南口

    二川駅

  • 二川-豊橋間<br /><br /><br /><br />豊橋鉄道渥美線乗越橋<br /><br />豊橋市柳生町西海戸48−5<br />豊橋鉄道柳生橋駅 徒歩5分

    二川-豊橋間



    豊橋鉄道渥美線乗越橋

    豊橋市柳生町西海戸48−5
    豊橋鉄道柳生橋駅 徒歩5分

  • 二川-豊橋間<br /><br /><br /><br />豊橋鉄道渥美線乗越橋<br />該乗越橋は、大正14年(1925年)5月1日に、当時の 渥美電気鐵道が新豊橋-師団口間開通時に設置された。<br /><br />豊橋市柳生町西海戸48−5<br />豊橋鉄道柳生橋駅 徒歩5分

    二川-豊橋間



    豊橋鉄道渥美線乗越橋
    該乗越橋は、大正14年(1925年)5月1日に、当時の 渥美電気鐵道が新豊橋-師団口間開通時に設置された。

    豊橋市柳生町西海戸48−5
    豊橋鉄道柳生橋駅 徒歩5分

  • 二川-豊橋間<br /><br /><br /><br />柳生川(やぎゅうがわ)橋梁<br /><br />豊橋市柳生町28<br />豊橋鉄道柳生橋駅 徒歩2分

    二川-豊橋間



    柳生川(やぎゅうがわ)橋梁

    豊橋市柳生町28
    豊橋鉄道柳生橋駅 徒歩2分

  • 二川-豊橋<br /><br /><br /><br />柳生川橋梁<br />修復されているが橋台は開業当時の原型<br /><br />豊橋市柳生町28<br />豊橋鉄道柳生橋駅 徒歩2分

    二川-豊橋



    柳生川橋梁
    修復されているが橋台は開業当時の原型

    豊橋市柳生町28
    豊橋鉄道柳生橋駅 徒歩2分

  • 豊橋(とよはし)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />該駅は、明治21年(1888年)9月1日開業である。<br />当地は吉田(よしだ)と称する東海道宿場町として発展し、本来であれば代表的地名たる該名称を駅名として採用されるのが自然である。<br />然るに、該駅開業時は現在地と異なり、神戸方400m地点に設置された。当時は河川未改修時代の豊川(とよかわ)に架橋されていた、現在の吉田大橋前身名たる橋名が豊橋と称していた事から、該橋名が駅名として採用された。<br />該駅開業翌年たる明治22年81889年)2月24日未明、該駅構内で事件が発生した。<br />豊橋に駐屯した帝國陸軍歩兵第18連隊兵士約250名が該駅構内に乱入し、該駅職員に対し殴打狼藉行為をした。<br />該事件遠因は、当時の鉄道職員が旧士族階級で占められていたのに対し、軍隊、殊に、陸軍は徴兵制度に拠り当時の平民次男坊以下の者が大多数を占め、普段から行動がトロく、且つ、だらしが無い事を該駅職員に度々揶揄されていた事に憤怒を激高させた事で行動化させ事件となったものである。<br />その後、明治29年(1896年)2月12日附で、旅客扱のみ現在地に移転したが、貨物取扱は旧駅施設を継続使用した事から、該駅中心点たる東京起点293.6km地点は、現在に至るも該駅開設時に於ける数値が設定使用されている。<br />陸軍省(りくぐんしょう)は、日露戦争(にちろせんそう)(明治37年(1904年)2月8日?明治38年(1905年)9月5日)後に於ける軍備拡張計画の一環として、明治39年(1906年)に帝國陸軍第15師団司令本部が東海道筋に設置される事が決定し、沼津、浜松、及び、岐阜各市に於いて誘致が争われた結果、陸軍省は翌明治40年(1907年)3月に豊橋に設置する事を決定し、明治41年(1908年)11月1日附で司令本部が正式開庁した事が要因で、該駅客貨利用に増加を見たが、然し、当時の該駅構内施設では客貨取扱共に限界が生じた事から、明治43年(1910年)に該駅拡張計画が決定したが、同年8月に発生した連続巨大台風襲来に依る豊川氾濫が原因で工事着工は延期を余儀無くされたが、翌明治44年(1911年)に該駅拡張工事に着工した。<br />大正5年(1916年)7月10日に第3代駅本屋が竣工し該駅は面目を一新する。<br />該駅は、開業以来、駅本屋が存在する現在の東口に限定されていたが、海側住民の度重なる請願を受け、昭和2年(1927年)4月に西口が開設された。<br />同時に同年5月17日附で駅本屋増築が竣工する。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/toyohashi/index.html

    豊橋(とよはし)駅



    駅本屋
    該駅は、明治21年(1888年)9月1日開業である。
    当地は吉田(よしだ)と称する東海道宿場町として発展し、本来であれば代表的地名たる該名称を駅名として採用されるのが自然である。
    然るに、該駅開業時は現在地と異なり、神戸方400m地点に設置された。当時は河川未改修時代の豊川(とよかわ)に架橋されていた、現在の吉田大橋前身名たる橋名が豊橋と称していた事から、該橋名が駅名として採用された。
    該駅開業翌年たる明治22年81889年)2月24日未明、該駅構内で事件が発生した。
    豊橋に駐屯した帝國陸軍歩兵第18連隊兵士約250名が該駅構内に乱入し、該駅職員に対し殴打狼藉行為をした。
    該事件遠因は、当時の鉄道職員が旧士族階級で占められていたのに対し、軍隊、殊に、陸軍は徴兵制度に拠り当時の平民次男坊以下の者が大多数を占め、普段から行動がトロく、且つ、だらしが無い事を該駅職員に度々揶揄されていた事に憤怒を激高させた事で行動化させ事件となったものである。
    その後、明治29年(1896年)2月12日附で、旅客扱のみ現在地に移転したが、貨物取扱は旧駅施設を継続使用した事から、該駅中心点たる東京起点293.6km地点は、現在に至るも該駅開設時に於ける数値が設定使用されている。
    陸軍省(りくぐんしょう)は、日露戦争(にちろせんそう)(明治37年(1904年)2月8日?明治38年(1905年)9月5日)後に於ける軍備拡張計画の一環として、明治39年(1906年)に帝國陸軍第15師団司令本部が東海道筋に設置される事が決定し、沼津、浜松、及び、岐阜各市に於いて誘致が争われた結果、陸軍省は翌明治40年(1907年)3月に豊橋に設置する事を決定し、明治41年(1908年)11月1日附で司令本部が正式開庁した事が要因で、該駅客貨利用に増加を見たが、然し、当時の該駅構内施設では客貨取扱共に限界が生じた事から、明治43年(1910年)に該駅拡張計画が決定したが、同年8月に発生した連続巨大台風襲来に依る豊川氾濫が原因で工事着工は延期を余儀無くされたが、翌明治44年(1911年)に該駅拡張工事に着工した。
    大正5年(1916年)7月10日に第3代駅本屋が竣工し該駅は面目を一新する。
    該駅は、開業以来、駅本屋が存在する現在の東口に限定されていたが、海側住民の度重なる請願を受け、昭和2年(1927年)4月に西口が開設された。
    同時に同年5月17日附で駅本屋増築が竣工する。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/toyohashi/index.html

    豊橋駅

  • 豊橋駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />戦前、豊橋は陸軍を基軸とし、更に、昭和14年(1939年)には豊橋予備士官学校が設置開校した事などから軍都として繁栄したが、大東亜戦争勃発後、帝國海軍は隣接地たる豊川に新たに海軍工廠を設置稼動させた事から、該地域は同時に軍事産業生産地の一大拠点ともなった。<br />該地は、昭和20年(1945年)6月19日未明、米陸軍戦略部隊所属のB29戦略爆撃機計136機に依る大空襲を受けた。<br />該空爆に拠り、該市内77% 15886戸が全焼全壊被害を生じ、該市内中心部は壊滅状態になった。<br />該大空襲に依り、該駅構内施設は東部信号梃子取扱所以外は全滅に瀕し、同月25日まで信号回線焼失の為に、二川-西伊奈(現 西小坂井)間は自動閉塞機器が使用不可能になった事から無閉塞状態の為に、隔時閉塞式に基き列車を運行させた。<br />該駅旅客扱は、軍公務、及び、該市戦災被災者を除き、一般旅客扱は同年7月20日まで停止された。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/toyohashi/index.html

    豊橋駅



    駅本屋
    戦前、豊橋は陸軍を基軸とし、更に、昭和14年(1939年)には豊橋予備士官学校が設置開校した事などから軍都として繁栄したが、大東亜戦争勃発後、帝國海軍は隣接地たる豊川に新たに海軍工廠を設置稼動させた事から、該地域は同時に軍事産業生産地の一大拠点ともなった。
    該地は、昭和20年(1945年)6月19日未明、米陸軍戦略部隊所属のB29戦略爆撃機計136機に依る大空襲を受けた。
    該空爆に拠り、該市内77% 15886戸が全焼全壊被害を生じ、該市内中心部は壊滅状態になった。
    該大空襲に依り、該駅構内施設は東部信号梃子取扱所以外は全滅に瀕し、同月25日まで信号回線焼失の為に、二川-西伊奈(現 西小坂井)間は自動閉塞機器が使用不可能になった事から無閉塞状態の為に、隔時閉塞式に基き列車を運行させた。
    該駅旅客扱は、軍公務、及び、該市戦災被災者を除き、一般旅客扱は同年7月20日まで停止された。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/toyohashi/index.html

    豊橋駅

  • 豊橋駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />大東亜戦争後、全滅した該駅施設内で取敢えず駅本屋が仮復旧されたが、当時は全国各地に於いて戦災被害を受けていた為に運輸省にも復旧予算が限定されていた状態だった事から、全国初の試みとして地元資本を参入させ、駅本屋構内に於いて商業施設に依る営業行為を行ふと言う民衆駅として、昭和25年(1950年)3月14日に木造モルタル造2階建第5代目駅本屋が完成した。<br />第5代目駅本屋は約20年間に亘り使用されたが、いかせん終戦直後に於ける物資不足時の木造建築だった事から、施設自体の老朽化が急速進行した為に、昭和44年(1969年)に全面改築が決定され、翌昭和45年(1970年)4月1日に鉄骨鉄筋コンクリート4階建第6代目駅本屋が竣工した。<br />該駅は、昭和2年(1927年)に西口が開設されて以降、東西改札口間は木造跨線橋で連絡していたが、該市制90周年に合せ該駅増床、及び、東西間自由通路化が行われる事に決定し、平成8年(1996年)10月1日に完成した。

    豊橋駅



    駅本屋
    大東亜戦争後、全滅した該駅施設内で取敢えず駅本屋が仮復旧されたが、当時は全国各地に於いて戦災被害を受けていた為に運輸省にも復旧予算が限定されていた状態だった事から、全国初の試みとして地元資本を参入させ、駅本屋構内に於いて商業施設に依る営業行為を行ふと言う民衆駅として、昭和25年(1950年)3月14日に木造モルタル造2階建第5代目駅本屋が完成した。
    第5代目駅本屋は約20年間に亘り使用されたが、いかせん終戦直後に於ける物資不足時の木造建築だった事から、施設自体の老朽化が急速進行した為に、昭和44年(1969年)に全面改築が決定され、翌昭和45年(1970年)4月1日に鉄骨鉄筋コンクリート4階建第6代目駅本屋が竣工した。
    該駅は、昭和2年(1927年)に西口が開設されて以降、東西改札口間は木造跨線橋で連絡していたが、該市制90周年に合せ該駅増床、及び、東西間自由通路化が行われる事に決定し、平成8年(1996年)10月1日に完成した。

    豊橋駅

  • 豊橋駅<br /><br /><br /><br />西口<br />昭和2年(1927年)4月開設<br />昭和20年(1945年)6月19日未明の豊橋大空襲で被災全焼し一時閉鎖されが、昭和21年(1946年)2月1日に応急掘立小屋状態で復活。

    豊橋駅



    西口
    昭和2年(1927年)4月開設
    昭和20年(1945年)6月19日未明の豊橋大空襲で被災全焼し一時閉鎖されが、昭和21年(1946年)2月1日に応急掘立小屋状態で復活。

    豊橋駅

  • 豊橋駅<br /><br /><br /><br />旧豊橋機関区跡<br />写真中心部に転車台が存在し、主に蒸気機関車の転向に使用された。<br />現在は当時の設備は全部撤去され保線補修施設基地に転用。

    豊橋駅



    旧豊橋機関区跡
    写真中心部に転車台が存在し、主に蒸気機関車の転向に使用された。
    現在は当時の設備は全部撤去され保線補修施設基地に転用。

    豊橋駅

  • 豊橋駅<br /><br /><br /><br />第4番ホーム<br />東海道本線上り列車発着用<br />明治29年(1896年)移設当時の石積ホーム側壁が残存。

    豊橋駅



    第4番ホーム
    東海道本線上り列車発着用
    明治29年(1896年)移設当時の石積ホーム側壁が残存。

    豊橋駅

  • 豊橋駅<br /><br /><br /><br />第4番ホーム<br />昭和20年(1945年)6月19日未明、豊橋空襲開始直前、該駅上り旅客ホーム第2番線には、客室内からデッキに至るまで計3000名以上の乗客を乗せ超満員状態の大阪発東京行上り15両編成旅客普通列車が定刻に到着し停車中だった。<br />該列車牽引蒸気機関車に乗務していた機関士機関助士は、2分後の定刻出発準備中だったが、該駅当務駅長が該機関車に駈寄り、該列車を直ちに出発させよと通告し発車手配を行った。<br />貨物列車と異なり、旅客列車は現地に於いて定刻より早発させる事は規定上禁止事項とされているが、現に陸軍中部軍管区に依り豊橋市を中心として21時30分に空襲警報が発令され、既に、該時点に於いて該市上空にB29戦略大型爆撃機特有のエンジン音が不気味に鳴響いていた状態だった事から、危険回避の為に出発時刻定刻まで待機不要と判断され、当務駅長の指示に依り、急き立てられるが如くして該列車は直ちに出発した。<br />該列車は加速を続け、該駅発車後2分経過し名古屋鐵道渥美線(現 豊橋鉄道渥美線)乗越橋付近に差しかかり、該列車牽引機関車機関助士が火室に石炭投入を中断し後方を振返ると、既に、豊橋の街はB29戦略大型爆撃機から投下された爆弾焼夷弾群の為に一面火の海状態であり、仮に、該列車が定刻発車を厳守していれば、該列車乗客職員は全員遭難すると云う大惨事は免れ得なかったものと推定され、該駅処置は正鵠を得たものであり間一髪だった。<br />因みに、同年7月27日に鹿児島市は米軍戦略部隊所属B29爆撃機多数に依る空襲を受け、市中心部は壊滅的被害を蒙った。<br />該空襲は、白昼たる12時45分に開始されたが、空爆開始当時、鹿児島本線鹿児島駅構内には、日豊本線上り宮崎行旅客普通列車、及び、指宿線(現 指宿枕崎線)山川行混合普通列車が出発待機状態で、鹿児島本線門司港発鹿児島行旅客普通列車がホームに到着する直前だった。<br />該駅首席助役は空襲警報が発令され、現にB29戦略爆撃機が編隊を組んで鹿児島市内上空を飛行する姿が目撃されており、列車内に留まるのは危険故に防空壕に退避を呼び掛けたにも拘らず、該列車乗客の軍人達が連日の猛暑と疲労から退避行動を執らず、それを見ていた一般旅客達も同様に退避しなかった所に、B29戦略爆撃機から投下された250K爆弾3発が該列車群に次々と命中炸裂し、結果、旅客400名以上、職員12名が即死、重軽傷者軽微の大惨事となった。<br />列車に爆弾が直撃爆発すると被害が甚大になる典型例である。<br />若し、豊橋駅や該列車機関士が定時運転に固執していたならば、豊橋大空襲に於ける死者624名を更に大量に上回る人命が失われたであろう事は確実だったと思われ、該駅長の判断は正鵠だった。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/toyohashi/index.html

    豊橋駅



    第4番ホーム
    昭和20年(1945年)6月19日未明、豊橋空襲開始直前、該駅上り旅客ホーム第2番線には、客室内からデッキに至るまで計3000名以上の乗客を乗せ超満員状態の大阪発東京行上り15両編成旅客普通列車が定刻に到着し停車中だった。
    該列車牽引蒸気機関車に乗務していた機関士機関助士は、2分後の定刻出発準備中だったが、該駅当務駅長が該機関車に駈寄り、該列車を直ちに出発させよと通告し発車手配を行った。
    貨物列車と異なり、旅客列車は現地に於いて定刻より早発させる事は規定上禁止事項とされているが、現に陸軍中部軍管区に依り豊橋市を中心として21時30分に空襲警報が発令され、既に、該時点に於いて該市上空にB29戦略大型爆撃機特有のエンジン音が不気味に鳴響いていた状態だった事から、危険回避の為に出発時刻定刻まで待機不要と判断され、当務駅長の指示に依り、急き立てられるが如くして該列車は直ちに出発した。
    該列車は加速を続け、該駅発車後2分経過し名古屋鐵道渥美線(現 豊橋鉄道渥美線)乗越橋付近に差しかかり、該列車牽引機関車機関助士が火室に石炭投入を中断し後方を振返ると、既に、豊橋の街はB29戦略大型爆撃機から投下された爆弾焼夷弾群の為に一面火の海状態であり、仮に、該列車が定刻発車を厳守していれば、該列車乗客職員は全員遭難すると云う大惨事は免れ得なかったものと推定され、該駅処置は正鵠を得たものであり間一髪だった。
    因みに、同年7月27日に鹿児島市は米軍戦略部隊所属B29爆撃機多数に依る空襲を受け、市中心部は壊滅的被害を蒙った。
    該空襲は、白昼たる12時45分に開始されたが、空爆開始当時、鹿児島本線鹿児島駅構内には、日豊本線上り宮崎行旅客普通列車、及び、指宿線(現 指宿枕崎線)山川行混合普通列車が出発待機状態で、鹿児島本線門司港発鹿児島行旅客普通列車がホームに到着する直前だった。
    該駅首席助役は空襲警報が発令され、現にB29戦略爆撃機が編隊を組んで鹿児島市内上空を飛行する姿が目撃されており、列車内に留まるのは危険故に防空壕に退避を呼び掛けたにも拘らず、該列車乗客の軍人達が連日の猛暑と疲労から退避行動を執らず、それを見ていた一般旅客達も同様に退避しなかった所に、B29戦略爆撃機から投下された250K爆弾3発が該列車群に次々と命中炸裂し、結果、旅客400名以上、職員12名が即死、重軽傷者軽微の大惨事となった。
    列車に爆弾が直撃爆発すると被害が甚大になる典型例である。
    若し、豊橋駅や該列車機関士が定時運転に固執していたならば、豊橋大空襲に於ける死者624名を更に大量に上回る人命が失われたであろう事は確実だったと思われ、該駅長の判断は正鵠だった。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/toyohashi/index.html

    豊橋駅

  • 豊橋駅<br /><br /><br /><br />第4番ホーム<br />給水栓跡<br />旧型客車は殆ど全車両に便所洗面所が設置されていた為に主要停車駅に車輌水タンクに給水可能な水栓が設置されていた。

    豊橋駅



    第4番ホーム
    給水栓跡
    旧型客車は殆ど全車両に便所洗面所が設置されていた為に主要停車駅に車輌水タンクに給水可能な水栓が設置されていた。

    豊橋駅

  • 豊橋駅<br /><br /><br /><br />第3番ホーム<br />給水栓跡<br />電車化進行と同時に便所洗面所省略車輌が激増し、更に駅改良工事施工の際に撤去例が多く、現存例は少数。

    豊橋駅



    第3番ホーム
    給水栓跡
    電車化進行と同時に便所洗面所省略車輌が激増し、更に駅改良工事施工の際に撤去例が多く、現存例は少数。

    豊橋駅

  • 豊橋駅<br /><br /><br /><br />壺屋(つぼや)<br />該店は該駅構内営業店として明治22年(1889年)に構内営業が許可され以来、126年余に亘り該駅構内営業を一手に引受ける飲食業者である。<br />元来は、江戸期に豊川に於ける船頭相手の河川問屋だったが、該駅開業時に駅前に於いて壺屋旅館を創業させ、次いで該駅構内営業許可を得て活動を開始した。<br />該駅弁の代表格たる稲荷寿司は明治36年(1903年)、鰻飯は明治40年(1907年)から販売されているロングセラー品である。<br />該駅改築前は構内販売を東口改札口横に存在し、特に該店舗内で焼き上げる醤油団子は美味だったが、現在では駅弁販売売店以外の構内販売は、写真の きしめん販売だけである。<br />http://tsuboya-toyohashi.com/history/

    豊橋駅



    壺屋(つぼや)
    該店は該駅構内営業店として明治22年(1889年)に構内営業が許可され以来、126年余に亘り該駅構内営業を一手に引受ける飲食業者である。
    元来は、江戸期に豊川に於ける船頭相手の河川問屋だったが、該駅開業時に駅前に於いて壺屋旅館を創業させ、次いで該駅構内営業許可を得て活動を開始した。
    該駅弁の代表格たる稲荷寿司は明治36年(1903年)、鰻飯は明治40年(1907年)から販売されているロングセラー品である。
    該駅改築前は構内販売を東口改札口横に存在し、特に該店舗内で焼き上げる醤油団子は美味だったが、現在では駅弁販売売店以外の構内販売は、写真の きしめん販売だけである。
    http://tsuboya-toyohashi.com/history/

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この旅行記へのコメント (5)

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  • nadeshiko28さん 2018/04/27 09:55:15
    いつも大変お世話になっております。今回も大作ですね☆
    ご無沙汰しております。

    私事ですが
    昨年の夏 勤務中に転んでしまい外科手術を受け入院していました。
    入院中に 朝方自分の部屋でベッドから降りてそのまましりもちをつき
    今度は 腰椎を骨折してしまいました。
    1カ月以上の入院でした。
    現在もリハビリを続けていますが・・・
    なかなか以前のように気力が出ません(汗)
    4トラの方も 遠のいていました。

    最近やっと更新しょうと思いつつも
    SDカードを無くしたり
    記憶が曖昧になったりで・・・
    なかなか進みません ><
    こんな私ですが
    身体のリハビリと 心のリハビリを頑張りながら

    4トラの仲間に置いて行かれないよう頑張りたいと思います。
    よろしくお願いいたします。


    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2018/04/27 14:40:41
    拝復
    nadeshiko28さま、こんにちは。


    掲示板を拝見し、nadeshiko28さまが災難に遭われた事を知り、驚愕しております。

    実は、小生も体調が思わしくなく、以前の様に旅行記作成の為に、原野を歩くなど困難な状態になってしまい、現時点に於いて、旅行記用下原稿は150作弱完成済のものの、写真撮影が出来ず、旅行記上程も滞ってしまいました。

    何卒、お体を大事にされて下さいませ。



    横浜臨海公園

    nadeshiko28

    nadeshiko28さん からの返信 2018/04/29 05:31:25
    RE: 拝復
    横浜臨海公園様へ

    > 掲示板を拝見し、nadeshiko28さまが災難に遭われた事を知り、驚愕しております。
     
     ご心配をおかけいたしました。
     2度目の手術もどうにか無事に終わり 快復に向かっています。

    > 実は、小生も体調が思わしくなく、以前の様に旅行記作成の為に、原野を歩くなど困難な状態になってしまい、現時点に於いて、旅行記用下原稿は150作弱完成済のものの、写真撮影が出来ず、旅行記上程も滞ってしまいました。

     お体ご自愛下さい。

    > 何卒、お体を大事にされて下さいませ。
     
      ありがとうございます。
     横浜臨海公園様は 4トラの鏡のような方ですので
      いつまでもお元気でいてくださいね。
     「 横浜臨海公園様のご活躍を祈念いたします。」

    nadeshiko28
  • naniwa ladyさん 2015/02/17 09:02:13
    ご無沙汰です♪♪
    いつも私の旅行記に来ていただき、1票、有難うございます。
    いつもながらの博識に、思わず頭が下がります。キーを打つだけでも手が痛くなりそうです。
    鉄道唱歌を歌いながら、蒸気機関車に乗ってみたいなぁ・・

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2015/02/17 15:07:39
    拝復
    naniwa ladyさま、こんにちは。


    愚作旅行記に投票とコメントを賜りまして深謝しております。
    誠に有難うございました。

    次の旅行記が完成直前です。
    但し、その旅行記の表紙の写真はショッキングだと思われますので、何卒驚かないで下さい。



    横浜臨海公園

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