2013/03/16 - 2013/03/17
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横浜臨海公園さん
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該区間は、明治22年(1889年)4月16日開業である。
該区間開通時に途中停車場として、焼津(やいづ)驛 藤枝(ふじえだ)驛が設置された。
静岡-島田間建設に於いて難工事とされたのは、静岡-焼津間安倍川(あべかわ)橋梁架橋、及び、石部(せきべ) 磯濱(いそはま)隧道掘削設置工事だった。
即ち、安倍川橋梁は径間558mで何故か理由は定かでは無いが他大河川橋梁と異なり下路トラス構桁で架橋されず錬鐡製上路鈑桁 支間21.3m×24連で構成されたが、該橋梁橋脚基礎構築の際に木枠を沈下させ該材内部にコンクリートを打設する従来に無い独自工法で設置された。
他方、静岡-島田間経路が確定に至るまで二転三転していた事は当時の資料を精査する限り事実である。
内閣鐵道局が京濱間対京阪神間聯絡鐵道建設に対し、静岡以西に於ける経路に就いて東海道街道沿に設置検討していた事は建設資材運搬の観点からも有利であり、初代静岡縣知事 関口隆吉(せきぐち たかよし)(天保7年(1836年)10月26日~明治22年(1889年)5月17日)(明治17年(1883年)9月27日~明治22年(1889年)5月17日在任)が、明治19年(1896年)4月に鉄道用地確保に就いて県内町村長に対し用地確保を通達時に該文書に於いて宇津ノ谷(うつのや)峠通過の為に志太郡藤枝町関係用地確保に関する通達を命令、該通達を受け藤枝町では必要用地を確保し5月18日附文書に於いて確保完了の回答を縣庁宛に返答したが6月3日に静岡縣は藤枝町に対し該確保済用地撤回解除を再通達して来た。
即ち、内閣鐵道局が改めて再測量の結果、宇津ノ谷経由を選定した場合、長大隧道建設、及び、該隧道取付線路建設で5km以上延伸が回避出来ず相当距離を迂回を余儀無くされる事が判明した為に再測量実施の結果に依り高草山麓下たる大崩海岸付近通過に決定した。
静岡平野 対 志太平野間には赤石山脈が存在する。
即ち、該隧道設置箇所は 糸魚川静岡線中央地溝帯、フォッサマグナ(Fossa Magna)太平洋側端部である。
高草山は赤石山脈末端に位置し最北端は新潟縣絲魚川から連続し本州を縦断し駿河湾に落込む構造末端部である。
大崩海岸端高草山麓に対し明治21年(1888年)1月24日に磯濱(いそはま)隧道970m掘削工事を開始した。
該隧道掘削工事作業現場に約300名の工夫が投入されたが、当初計画では静岡町から安倍川橋から直線コースで大崩海岸下に到達し、該隧道通過後は焼津村に到達する選定だったが、大崩海岸は玄武岩を粗面に石英で構成される脆弱な地盤であり、事実、該隧道掘削工事中に落盤事故が発生し、更に、石英片が不特定時に落下する為に露天通過は危険なりとの判断が発生し、安全面を考慮して改たに石部(せきべ)隧道910m掘削を追加決定したが、無理な設置が故に石部隧道神戸方坑門から磯濱隧道新橋方坑門間取付部分に半径300mの急曲線を発生させる事になり、開通後、該急曲線が輸送上の隘路障害となる事態を生起させた。
該隧道工事は遅延していた事から7月には工事促進を促す訓令が発せられてる。
一方、石部 磯濱両隧道は大崩海岸に接した狭隘地に建設された為に築堤は駿河湾に打寄せる荒波に侵食作用が働き崖側は常時崩壊の可能性が在った事から、竣工後は度重なる補修が常態化し管理保線担当をして常再三に亙る保守を要する厄介な存在化する。
また本来の計画であれば焼津は鉄道敷設経路対象外の存在であり、鉄道開通以前は瀬戸川河口に存在する荒浜沿いの寒村の湊に過ぎず、前時代的漁法で漁を行い販路も静岡県内至近地に限定されていたが、鉄道開通に依り販路は東京横浜方面にも拡大し、更に遠洋漁業基地として繁栄の基礎が成立した。
焼津以西は島田に到る区間は志太平野を一直線経路が採用された。
静岡-濱松間開通直前たる明治22年(1889年)4月11日に現在の静岡-安倍川間に於いて大事故が発生した。
即ち、本開業を控え列車が試運転を反復させている最中、現在の用宗駅東方富士見跨線橋付近に於いて、第15号蒸気機関車牽引下り建設資材運搬列車と第5号蒸気機関車牽引上り臨時客貨混合列車が11時8分頃、該地に於いて正面衝突事故が発生した。
然も、運悪く該臨時列車には名古屋招魂社(現 愛知縣護國神社)春季例大祭出席の為に関口静岡縣知事一行が同乗していた。
本来であれば9日出発を予定していたが縣庁に多数の書類が到着していた事から諸決済に時間を要し、更に当日11日には臨時客貨混合列車に乗り遅れ仕方無く該列車便乗中に災難に遭遇した。
乗車車両後部に連結してた貨車から鐵道建設用鋼材が便乗貨車に雪崩込み、即死3名重軽傷者多数を出す事態となり関口知事も鋼材が左脚太股を直撃貫通する重傷を負った。
当時、静岡には優秀な外科医師が存在せず、且つ細菌学の概念も未成立時代故に17日に至急電信に拠り急態知った政府が派遣した外科医師は関口知事の患部を一目見るなり患部に破傷風を併発し一刻も早い切断手術が必要と診断した。
結局、該脚部切断手術の行ったが関口知事は敗血症を併発させ手遅れとなり5月17日に勤務地たる静岡に於いて死去したが、その後も存命であれば幕臣出身でありながら明治期有数の能吏として政府大臣任官に在ったと思われ我が国近現代史に名を残したであろう秀逸な人物だった。
該区間の、鐵道唱歌は、
第21番
駿州一の大都会
(すんしゅういちの だいとかい)
静岡いでて安倍川を
(しずおか いでて あべかわを)
渡れば此処ぞ宇都の谷
(わたれば ここぞ うつのやの)
山切り貫し洞の谷♪
(やまきりぬきし ほらのたに)
第22番
鞘より抜けておのずから
(さやより ぬけて おのずから)
草薙祓いし御剣の
(くさなぎ はらいし みつるぎの)
御威は千代に燃ゆる火の
(みいつは ちよに もゆるひの)
焼津の原は此処なれし♪
(やいづの はらは ここなれし)
草薙とは草薙神社を称する歌詞であり、本来たる至近駅は草薙駅であり、該曲発表当時、草薙駅は存在しなかったとは申せ、何故、焼津に於いて草薙の名称が登場するのか、要するに現地を訪れていないと云ふのが事実と推定されるが吝かならない。
該区間複線化は、
静岡-用宗 明治35年(1902年)12月21日
用宗-石部 明治42年(1909年)11月24日
石部-焼津 明治44年(1911年) 3月10日
焼津-島田 明治40年(1907年) 4月22日
である。
我が国は、昭和12年(1937年)7月7日未明、中国北京郊外に於いて発生した盧溝橋(ろこうきょう)事件は、日華(にっか)事変(昭和12年(1937年)7月7日~昭和16年(1941年)12月8日)へと発展した。
此の為に、準戦時体制移行の為に軍事輸送が激増し、東海道本線、及び、山陽本線は輸送逼迫状態になりつつあった。
当時の鐵道省は該状態を解決させる為に昭和13年(1938年)に、東京-下関間に別途標準軌高速幹線設置を検討し、該計画工事は昭和15年(1940年)7月に 第37代内閣 米内光政(よない みつまさ)(明治13年(1880年)3月2日~昭和23年(1948年)4月20日)(昭和15年(1940年)1月16日~同年7月22日組閣)で1月に第75回帝國議会に於いて予算案が通過し3月の第76回帝國議会で可決成立された。
鐵道省は昭和16年(1941年)8月に建設に時間を要する、新丹那 日本坂 新逢坂山 新東山各隧道工事を着工した。
昭和14年(1939年)1月18日18時45分頃、焼津驛構内に於いて重大事故が発生した。
日華(にっか)事変(昭和12年(1937年)7月7日~昭和16年(1941年)12月8日)の関係で出征兵士歓送の為に該駅に集合していた地元有志数名が歓送集団から弾き飛ばされた際に、折から通過中の軍用列車に捲き込まれ計3名が死亡。
昭和期になり、石部、及び、磯濱両隧道の建築限界狭隘が当時の陸海軍をして大型機器輸送困難な事態を招来させた事で該隧道改築が強要求される次第となった。
当時の鐵道省は弾丸列車計画を推進させるべく新丹那 日本坂両隧道建設を先行させた。
昭和16年(1941年)8月西口坑から着工した日本坂隧道は先導坑が昭和18年(1943年)9月に貫通し引続き本坑整備を推進させ、翌昭和19年(1944年)9月に竣工し10月10日附で従来経路を該新隧道経由に変更した。
因みに、放棄された旧隧道は三菱重工業藤岡発動機製造疎開工場として活用され、戦後は国道1号線として整備され使用された。
大東亜戦争中、該区間に於ける空襲被害は、
昭和20年(1945年)
2月17日
警戒警報発令 0時32分
空襲警報発令 1時00分
空襲開始 1時12分
空襲警報解除 4時15分
警戒警報解除 4時25分
焼津-藤枝間
線路破壊計1箇所計20m
開通 上下線10時57分
5月19日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計272機
警戒警報発令 21時20分
空襲警報発令 22時00分
空襲開始 22時15分
空襲警報解除 1時10分
警戒警報解除 1時15分
静岡-用宗間 安倍川橋梁破壊目標
該河川川上より川下に向い左45度角度で爆弾攻撃
弾痕計11箇所 至近弾
漏斗孔経7~15m 深度1.3~5.0m
6月20日 第21爆撃機軍団 第314航空隊 B29戦略爆撃機計125機 静岡大空襲
警戒警報発令 6時12分
空襲警報発令 8時12分
空襲開始 8時45分
空襲警報解除 10時45分
警戒警報解除 10時50分
草薙-静岡-用宗間計1500m区間沿線火災
静岡驛
駅本屋 付属物置 職員集会所 物資部 倉庫 職員官舎計6戸を除き全焼
駅本屋半焼
開通 上下線20日10時20分
6月28日
警戒警報発令 5時20分
空襲警報発令 5時21分
空襲開始 5時26分
空襲警報解除 8時35分
警戒警報解除 10時32分
島田驛
空襲完了後の米空軍B24×1機が残弾処分の為に島田上空に於いて搭載残弾を投下した処、島田駅構内貨物取扱所に山積状態だった航空機外装塗料に着弾命中し出火炎上
6月29日
警戒警報発令 0時32分
空襲警報発令 1時00分
空襲開始 1時12分
空襲警報解除 4時15分
警戒警報解除 4時25分
島田驛
空母艦載機機銃掃射攻撃
旅客計1名死亡 計1名重傷
7月30日
警戒警報発令 21時20分
空襲警報発令 22時00分
空襲開始 22時15分
空襲警報解除 1時10分
警戒警報解除 1時15分
焼津-藤枝間
空母艦載機に依る下り旅客列車に対し機銃掃射
旅客計1名 職員計1名死亡 旅客計1名以上重軽傷
線路破壊計1箇所計20m
開通 上下線31日17時00分
8月 1日
空襲警報発令 20時55分
空襲開始 21時27分
空襲警報解除 3時 5分
静岡-用宗間 安倍川橋梁機銃掃射銃撃貫通孔
静岡-浜松間は、昭和24年(1949年)5月20日附で電化された。
5月25日2時55分頃、用宗-焼津間東京起点188Km610m地点に於いて重大事故が発生した。
即ち、上り博多Ⅱ発東京行普通急行第12列車D52型蒸気機関車D52217(浜松機関区配置)牽引16両編成は、該区間第3閉塞信号機故障の為に運転規定に依り一旦停止後に微速進行し日本坂隧道に進入したが、該隧道中央部に於いて後続上り貨物第1370列車D51型蒸気機関車D51587(浜松機関区配置)牽引56両編成が追突した。
該事故に依り、旅客51名以上重軽傷。
事故原因は、該隧道内煤煙の為に見通不良状態で微速運転実施の第12列車に後続第1370列車は焼津駅に於いて該区間信号不良通告を受け時速15Kmで運転するも第12列車より高速だった事に依る追突と断定。
復旧日時不明
昭和28年(1953年)9月17日23時22分頃、用宗-焼津間東京起点187Km271m地点に於いて重大事故が発生した。
即ち、上り貨物第116列車EF15型電気機関車EF15 10(新鶴見機関区配置)牽引57両編成は、用宗駅場内信号機手前に於いて列車後部より非常制動動作の為に停止した処、進行方向22-23両目貨車連結器分離に依り341m離別、23~47両目貨車は脱線転覆し上下本線支障。
事故原因は、貨車車輪老朽フランジ摩耗大に依る脱線と断定。
復旧
下り線 18日15時00分
上り線 18日23時40分
戦後、昭和30年代半に東海道新幹線建設計画が具体化した事から日本坂隧道が本来の新幹線用として活用される事に決定された。
此の為に、東海道本線用に復帰使用させる為に国道1号線として道路転換使用中の旧石部、及び、磯浜両隧道を所管管理たる建設省に対し返還請求が成され、該返還後、直ちに工事に着手した。
即ち、旧石部隧道神戸方坑門付近から旧磯浜隧道東京方坑門付近に於ける大崩海岸露天部分間双方を新隧道を掘削構築し直結させ高草山下露天崖部区間、及び、急曲線を解消させ同時に該隧道坑内建築限界口径拡大工事を施工し、石部隧道Ⅱ 上り線2205m、下り線2185mとして完成させた。
日本坂隧道から石部隧道への復帰切換は、
上り線 昭和37年(1962年) 9月18日
下り線 昭和37年(1962年) 9月25日
実施。
焼津-島田間は志太平野に於ける直線区間が存在する事は前述したが、
日本国有鉄道は、東海道新幹線新型車輌設計の参考資料収集の為に該区間に於いて昭和34年(1959年)7月27日~31日に渡り151系直流型特急用電車1編成を使用し高速性能試験を実施し最終日31日に当時の狭軌間に於ける世界最高速度たる時速163kmを記録した。
更に、該区間に新線を併設し架線、架線柱、軌道、等々、新幹線に於いて使用設置形式を採用し、翌昭和35年(1960年)1月15日に工事を開始し、同年7月に竣工後、数々の試験を実施し11月21日に該試験線に於いてクモヤ93型電車が時速175kmを記録を更新した。
該試験線路は昭和63年(1988年)前後まで一部区間は軌条も撤去されず当時の状態を残存させていたが現在は当時の路盤は更地となり広空間が当時の試験線跡の名残を残す。
静岡駅付近高架化工事計画発端は昭和34年(1959年)に遡る。
即ち、静岡市中心部は当時ですら交通渋滞が著しく、更に、当時は各駅に於いて貨物取扱を行っていた関係で、列車通過に限らず、貨車入換の為に踏切は常時閉止状態が日常茶飯事であり、該市内中心部は、東海道本線を以って、あたかも南北分断された形態を呈していた。
此の為に静岡駅構内に存在した、貨物取扱所 静岡機関区 静岡客貨車区を別地に移転させるべく、戦前に鐵道省が弾丸列車貨物積降用地として確保していた該市内柚木地区に移設が決定し、機関区 客貨車区を統合し静岡運転所として昭和36年(1961年)10月1日に移転開設され、翌昭和37年(1962年)10月1日に貨物取扱が移転し静岡操車場が開設された。
該駅構内空地は整備され第1期工事とし昭和42年(1967年)4月に宝石院踏切-安倍川橋梁西岸間高架化工事が着手され該橋梁架替も含め翌昭和43年(1968年)4月1日に竣工し直ちに新線に切替られた。
該橋梁は、明治22年(1889年)4月16日静岡-浜松間開通時に建設され、その後、橋桁は鋼鐡製に交換されたが、昭和19年(1944年)12月7日13時37分に発生した東南海大地震(とうなんかい だいじしん)に依り橋脚に亀裂が発生し、翌昭和20年(1945年)5月19日に米空軍は、該橋梁、及び、天竜川橋梁に対し爆弾攻撃を敢行し、該弾は逸弾になったが、橋脚に弾片が命中するなどした事が原因で橋脚基部に損傷箇所有りと判定され、該第1期高架化工事の際にPCコンクリート製橋梁に架替が施工された。
日本国有鉄道末期地元自治体請願に依り新駅設置が実施された。
静岡-用宗間
安倍川(あべかわ)駅 昭和60年(1985年) 3月14日
焼津-藤枝間
西焼津(にしやいづ)駅 昭和62年(1987年) 3月21日
藤枝-島田間
六合(ろくごう)駅 昭和61年(1986年) 4月26日
表紙写真は、
昭和19年(1944年)10月10日附で使用停止後、カスリーン台風(昭和22年(1947年)9月15日)襲来被害で転倒し、更に、平成23年(2011年)3月15日発生の 静岡県東部地震に依り崖下に崩落した初代 石部(せきべ)隧道神戸方煉瓦積坑門、及び側壁残骸。
東海道本線歴史的痕跡探訪記
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- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 自転車 JRローカル 徒歩
-
静岡(しずおか)駅
駅本屋
該駅は、明治22年(1889年)2月1日開業である。
該駅設置箇所は、元来、小丘陵が存在し、既に人口密集地でありながら該地のみ人家が少なかった事から停車場候補地として採択された。
それ故、該小丘陵を取崩し撤去する為に、現地に於いて人夫を雇用し該作業を行っていた処、或る日、崩壊事故が発生し死傷者数名が生じた。
因みに、該小丘陵残部は東海道本線静岡市内高架化工事着工時まで、寶台院跨線橋付近に残存していたが、該工事着工時に完全撤去された。
該駅開業当日は、國府津-静岡間開通と云う事で、盛大な開通式典が予定されていた為に、該開通式典招待者は、前日まで来静し、該駅前に移転新築された西洋式旅館 大東館に参集宿泊していた。
旧東海道筋府中宿に於いて江戸期より営業してた旅籠の大萬屋、及び、東萬屋が存在した。
然るに、明治維新と共に、全国各地に存在した関所は撤廃されたが、他方、横濱-神戸間に蒸気船が定期運航を開始した事から、旅行者は東西間を該蒸気船を利用して移動する時代となり、旧東海道筋を徒歩で移動する者など絶滅してしまった為に、各宿場は閑古鳥鳴く閑散とした状態になった。
此の為に、鉄道開通の情報を得た大萬屋、東萬屋は、将来に於ける生存策として、両者が合体し駅前に移転したもので、合体後に両者の頭文字を用い大東館と称した。
然し、開通式を翌日に控えた深更、一番町焼芋屋から火事が発生し、約1100戸が焼失する明治22年静岡大火が発生した。
該大火の為に、当時の静岡縣知事 関口隆吉(せきぐち たかよし)(天保7年(1836年)10月26日〜明治22年(1889年)5月17日)(明治17年(1883年)9月2日〜明治22年(1889年)5月17日在任)は、自ら陣頭指揮を執り、該大火被災者に対し、縣臨時予算を以って対処すると共に、該駅前に於いて盛大に行う予定だった開通式典は、該駅ホームに於いて周囲を幕を張巡らせた内部に於いて少数の関係者参加の下に厳かに執行させ、当日出席者に配布する予定だった幕ノ内弁当、紅白饅頭、餅類は見舞品として被災者達に配布させた。
因みに、当時の逓信省鐵道局長官 井上 勝(いのうえ まさる)(天保14年(1843年)8月25日〜明治43年(1910年)8月2日)(明治18年(1885年)12月28日〜明治23年(1870年)9月6日在任)が、該大火の報を受け来静中止をしたかの如き文献を散見するが、事実は開通式典に参列する為に、前日に東京から来静し大東館に宿泊している事が、国立国会図書館憲政資料室保存の 井上 勝 関係文書に拠り記述が存在すし、但し、該大火に遠慮して開通式典に出席しなかったと言うのが、けだし真相であり、井上が来静していなかったとする文献は全部事実無根である。
尚、開通式当日は、県内御殿場町に於いても大火が発生しており、県庁所在地への鉄道開通と云う日として幸先良い門出とはお世辞にも言えぬ1日だった。
該地に、明治31年(1898年)3月24日附で、帝國陸軍第3師団配下として歩兵第34連帯が設置され、軍都としての側面を見せる様になる。
更に、明治33年(1900年)に静岡御用邸が設置された。
第122代 明治天皇(めいじ てんのう)(嘉永5年(1852年)11月3日〜明治45年(1912年)7月30日)は、東京-京阪神間移動に対し、東海道線全通前は帝國海軍所属艦艇を利用していたが、紀伊半島沖を経由し海上を航行する事から動揺激しく、明治天皇が船酔いし易い体質だった事もあり、該線全通後は鉄道利用に移行された。
然るに、当時の列車速度は御召列車と云えども遅く、新橋-京都間が日着困難なだけでは無く新橋-静岡間は6時間を要した。
また、現在とは異なり、線路状態も貧弱で良好では無かった事から列車走行中の動揺も激しく、御召列車御料車内に於いて食事供与は無理が多く、途中休養の為に、静岡、及び、名古屋に御用邸が設置された。
御召列車が新橋を出発し静岡まで運転後、天皇、及び、随員共に御召列車から下車して頂き、該御用邸内に於いて食事休憩後、再度御乗車される迄、御召列車整備が行われた。
然し、初代駅本屋は貴賓接受設備が存在せず御召列車取扱上不便な事や手狭になった事などを理由に、逓信省鐵道作業局は該駅本屋改築を決定し、明治40年(1907年)10月に第2代木造2階建駅本屋が竣工した。
大正後期ともなると列車速度が向上し、更に、昭和初期に東京-大阪間8時間30分運転が可能になった事で日着が可能になった反面、相対的に該御用邸利用は激減し、第124代 昭和天皇(しょうわ てんのう)(明治34年(1901年)4月29日〜昭和64年(1989年)4月29日)が昭和5年(1930年)に、該県内に於いて実施された 帝國陸軍大演習の際に宿泊されたのを最後に利用が無くなり、今後の利用も見込めないと判断された事から、宮内省は検討した結果、該御用邸廃止を決定し、翌昭和6年(1931年)に正式廃止となった。
廃止後は静岡県が管理したが、翌昭和7年(1932年)に静岡市に払下られ、該市では市民の為に有効活用していたが、昭和20年(1945年)6月19日未明の静岡大空襲で被災し邸内造営物は全焼し烏有に帰した。
戦後、跡地に静岡市役所が建設されたが、駅前から市役所までの通りを 御幸通の名称が、嘗て該地に御用邸が存在していた痕跡を残す。
昭和期になり、激増する旅客を前に、該駅施設不足が深刻な状態になり、鐵道省は検討の結果、該駅本屋を再改築する事になり、昭和10年(1935年)10月10日附で、鉄骨鉄筋コンクリート2階建 第3代駅本屋が竣工した。
明治期以降、該地に火事が多発した事は前述した。
昭和15年(1940年)1月15日12時30分頃、市内新富町から出火した火事は該日まで40数日間晴天が続き、且つ、当日は駿河湾から吹く強季節風の為に、火は瞬く間に燃広がり、市内中心部を焼失させ、更に、東海道本線敷を越え南側を延焼させ約10時間後に鎮火した。
該火災に依り全焼5047戸、半焼74戸、市民28156名が罹災する昭和15年静岡大火が発生した。
該大火の為に、5年前に新築した該駅本屋が半焼し、該駅構内木造建造物数戸が全焼し、更に、信号回線焼失の為に、該大火発生後24時間は上下線共に列車運行が不可能になった。
日華事変(にっか じへん)(昭和12年(1937年)7月7日〜昭和16年(1941年)12月8日)勃発以降、該市は軍事拠点の中枢と位置附られた事から、大東亜戦争末期には連合国軍から空爆攻撃の対象地とされ、該市は、昭和20年(1945年)6月19日未明に米戦略大部隊に依る大規模空襲を受けた。
該空襲に依り、死者1670名、重傷者約800名、全焼家屋25239戸、罹災市民114000名を出す被害が発生したが、他方、該駅構内被害は、駅本屋が半焼損し、木造建造物が多数焼失した。
該駅南側は、該駅開業以来、静岡機関区、及び、静岡客貨車区が併設されていたが、懸案だった東海道新幹線建設が決定し、該駅停車場追設用地を要する事から、該機関区、及び、該客貨車区移転が決定し、両現業機関を統合の上、該市内長沼地区に移転させ、昭和36年(1961年)10月1日附で、新たに、静岡運転所が開所され、移転後の跡地に新幹線停車場が設置された。
該市内は、該線が東西に地上縦断する為に、該市内は南北間に於いて切断された形態が続き、踏切開扉時間が僅少で交通渋滞の要因と化していた事から、該駅を中心とする東西間を高架化し解決させる事に決定し、その為に、東静岡操車場に貨物取扱施設を設置して該取扱を移行させる為に、昭和42年(1967年)9月30日を以って該駅に於ける貨物取扱は全廃した。
高架化工事は下り線が昭和52年(1977年)10月、上り線が昭和54年(1979年)10月12日に切替られた。
http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/shizuoka/静岡駅 駅
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静岡-安倍川間
安倍川(あべかわ)橋梁
該橋は、明治21年(1888年)9月1日開通時の橋梁である。
全長558m
開通時は、英国人技師 チャールズ・A・ポーナル(Carles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に拠る、
英國製
錬鐡製プレート・ガーダー橋桁21.3m(70ft)×24連
が架橋された。
該橋梁工事は明治20年(1887年)3月に着工し、翌明治21年(1888年)2月に竣工した。
その後、静岡-石部間は、明治42年(1909年)11月24日に複線化されたが、新設橋梁は鋼鐡プレートガーダー橋桁で既設橋梁湖面側に架橋され、新設橋梁は上り線専用とされ、既設橋梁は下り線専用となった。
鉄道開通当時の上り線錬鐡製橋桁は、次世代蒸気機関車18900型(C51型)、及び、9900型(D50型)導入計画が進行し、列車重量化に対応困難と判定され、大正5年(1916年)に国産鋼鐡製プレートガーダー橋桁に架替られた。 -
静岡-安倍川間
安倍川橋梁
昭和20年(1945年)5月19日の米軍機空襲に依り爆弾攻撃され川下1.560km地点に弾痕が無数発見されたが幸いにも直撃被害は免れた。
大東亜戦争後、該橋梁橋脚は上流域に於ける採掘の関係で川底が低下し洗堀された事で不安定な状態に置かれ、更に、静岡市中心部連続高架化工事の関係で上流側に新橋梁が架橋される事になり、昭和42年(1967年)4月新橋梁工事に着工し、翌昭和43年(1968年)4月に寶台院踏切-安倍川間が高架化されると同時に、該橋梁も新設橋梁に移転し、既設橋梁は橋台橋脚共に廃止撤去された。 -
静岡-安倍川間
富士見(ふじみ)跨線橋 -
静岡-安倍川間
富士見線路橋
該地点に於いて、明治22年(1889年)4月11日11時15分頃、15号蒸気機関車牽引 静岡発濱松行工事臨時列車、及び、5号蒸気機関車牽引 焼津発静岡行工事臨時列車に依る正面衝突事故発生現場。
濱松行工事臨時列車には出張の為に名古屋に赴くべく 初代静岡縣知事 関口隆吉(せきぐち たかよし)(天保7年(1836年)10月26日?明治22年(1889年)5月17日)(明治17年(1883年)9月2日?明治22年(1889年)5月17日在任)一行が乗車していたが、該列車激突に依り後部貨車に搭載していた鋼材類が関口知事が乗車していた車輌に飛込み、即死者数名を出す中、関口知事の左足に該鋼材が命中貫通する重傷を負った。
関口知事は該怪我が原因で破傷風から敗血症を併発し翌5月17日に死去した。 -
安倍川(あべかわ)駅
該駅は、昭和60年(1985年)3月14日開業である。
駅勢人口急増に依り現在増築工事中。安倍川駅 駅
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静岡-安倍川間
丸子川(まりこかわ)橋梁
該橋は、明治21年(1888年)9月1日開通時の橋梁である。
全長25.0m
開通時は、英国人技師 チャールズ・A・ポーナル(Carles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に拠る、
英國製
錬鐡製プレート・ガーダー橋桁12.2m(40ft)×2連
が架橋された。
その後、静岡-石部?間は、明治35年(1902年)12月21日に複線化されたが、新設橋梁は鋼鐡プレートガーダー橋桁で既設橋梁下流側に架橋され、新設橋梁は下り線専用とされ、既設橋梁は上り線専用となった。
鉄道開通当時の下り線錬鐡製橋桁は、列車重量化に対応困難と判定され、大正6年(1917年)に国産鋼鐡製プレートガーダー橋桁に架替られた。 -
安倍川-用宗間
小坂川(こさかかわ)橋梁
該橋は、明治21年(1888年)9月1日開通時の橋梁である。
全長6.0m
開通時は、英国人技師 チャールズ・A・ポーナル(Carles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に拠る、
英國製
錬鐡製プレート・ガーダー橋桁5.5m(18ft)×1連
が架橋された。
その後、静岡-石部?間は、明治35年(1902年)12月21日に複線化されたが、新設橋梁は鋼鐡プレートガーダー橋桁で既設橋梁下流側に架橋され、新設橋梁は下り線専用とされ、既設橋梁は上り線専用となった。
鉄道開通当時の下り線錬鐡製橋桁は、列車重量化に対応困難と判定され、大正6年(1917年)に国産鋼鐡製プレートガーダー橋桁に架替られた。
昭和49年(1974年)7月7日襲来の七夕台風時に該河川が決壊し付近一帯が浸水した事から、河川改修を実施する事になり、該改修時にPCコンクリート複線型橋梁に架替が実施された。 -
用宗(もちむね)駅
該駅は、明治42年(1909年)11月1日開業である。
然るに、該駅は、明治35年(1902年)12月21日附で設置された 石部(せきべ)信号所?が嚆矢である。
即ち、当時、朝鮮半島をめぐる権益問題から日露間国交関係が緊迫の度合いを高めており、静岡-焼津間13.5kmの閉塞区間を2分割させる事で列車増発を可能とさせるべく該信号所が設置された。
他方、地元たる安倍郡用宗村、及び、同郡小坂村は、該村に信号所が設置された事は、将来に於ける駅昇格への好機と捉え、当時の管轄である 逓信省鐵道作業局に対し第1回目の該信号所駅昇格請願書を提出した。
然し、時運悪く、日露戦争(にちろ せんそう)(明治37年(1904年)2月8日?明治38年(1905年)9月5日)が勃発し、軍事輸送最優先の内、該請願は自然沙汰止みになってしまった。
該戦争終結後、用宗村は米作農生産物、小坂村は林業生産出荷を理由に、第2回目の請願書を提出したが、あたかも、第12代第?次西園寺公望(さいおんじ きんもち)(嘉永2年(1849年)12月6日?昭和15年(1940年)11月24日)内閣(明治39年(1906年)1月7日?明治41年(1908年)7月14日在任)に於いて、明治39年(1906年)3月31日附を以って鐵道國有法(てつどう こくゆうほう)が成立し、翌明治40年(1907年)10月1日迄に全国17私有鐵道が政府に買収された多忙混乱を極めた状況下では、一地方の信号所を駅昇格の請願書など一顧だにされず却下された。
此れに諦めず両村は鐵道院に対し第3回目の請願書を提出し、此れに対し、鐵道院は該信号所を駅昇格とする為に、該必要地2500坪、及び、必要建築物を無償提供する事を条件に該請願書に同意した。
駅昇格にあたり、駅本屋は用宗村中心地に接近させるべく、東京方0.4km地点に設置された。
http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/mochimune/index.html用宗駅 駅
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用宗駅
第1番ホーム
旧下り本線
現在は下り待避線用宗駅 駅
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用宗駅
旅客第1番ホーム
全景用宗駅 駅
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用宗駅
旧貨物取扱所跡
該駅に於ける貨物取扱は、昭和49年(1974年)10月1日附で廃止。
軌条類は残存していたが、昭和62年(1987年)4月1日の民営化と同時に国鉄清算事業団を経て民間企業に払下げられ、現在ではマンション群が建つ。用宗駅 駅
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用宗駅
旧貨物取扱所跡
上り線側は、JR東海在来線保守基地として活用。用宗駅 駅
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用宗駅
旅客第2番ホーム
側壁下部は駅昇格設置当時の物。用宗駅 駅
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用宗駅
旅客第2番ホーム
側壁
開業当時の煉瓦積
及び、
その後の電車化に伴うホーム嵩上跡。用宗駅 駅
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用宗駅
旅客第2番ホーム
上屋
古軌条支柱用宗駅 駅
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用宗駅
旅客第2番ホーム
上屋
古軌条支柱用宗駅 駅
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用宗駅
旅客第2番ホーム
上屋
古軌条支柱用宗駅 駅
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用宗駅
旅客第2番ホーム
跨線橋
古軌条支柱
八幡製鐡所社標 ND60 A 1907
(八幡製鐡所(明治40年)1907年製造 60ポンド(37kg)軌条)用宗駅 駅
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用宗駅
旅客第2番ホーム
跨線橋
古軌条支柱
八幡製鐡所社標 ND60 A 1908
(八幡製鐡所(明治41年)1908年製造 60ポンド(37kg)軌条)
我が国は、日清戦争以降、従来に於ける重化学製品海外依存を国産化させる為に政府指導で準備を進め、明治34年(1901年)2月6日に北九州八幡に内務省八幡製鐡所を開設し、同年7月より30kg軌条が生産開始された。
然し、操業黎明期故に、当時の我が国技術では上級品を生産する事は困難であり、事実完成品を試用した処、48時間後の検査では25mmの磨耗が発見される状態だった。
明治38年(1905年)より幹線用60ポンド軌条、即ち、37kg軌条の生産を開始したが、該跨線橋支柱に転用された軌条は37kg軌条生産初期の製品で貴重品である。
因みに軌条類で特殊目的用途品以外の軌条の完全国産化は昭和6年(1931年)。用宗駅 駅
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用宗駅
旅客第2番ホーム
上屋
古軌条支柱
CARNEGIE 1898 ET IIIII I.R.J.
(米カーネギー社 1898年5月製造 逓信省鐵道作業局発注品)
支柱番号第6番b用宗駅 駅
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用宗駅
旅客第2番ホーム
JR東海313系電車用宗駅 駅
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用宗駅
旧貨物取扱所跡
奇跡的に旧貨物取扱ホームが残存。用宗駅 駅
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用宗駅
神戸方
俯瞰
石部隧道?に経路変更される迄、該線は崖下を直進した。用宗駅 駅
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用宗-焼津間
日本坂隧道分岐地点 -
用宗-焼津間
日本坂隧道
東京方取付線路跡
我が国は、昭和12年(1937年)7月7日未明に支那北京郊外に存在する盧溝橋に於ける支那軍不法発砲事件を契機に発生した盧溝橋事件(ろこうきょう じけん)に端を発し、該事件は、日華事変(にっか じへん)(昭和12年(1937年)7月8日~昭和16年(1941年)12月8日)に発展した。
此の為に、我が国は準戦時体制に突入すると共に軍事輸送が急激に増加を見せた事から、東海道本線、及び、山陽本線は客貨共に輸送飽和状態問題が急浮上する事態になった。
当時の鐵道省は、将来に於ける事態を解決させるべく、翌昭和13年(1938年)に、東京-下関間に対し標準軌間高速幹線設置を検討し、該計画は、昭和15年(1940年)に建設工事を開始し昭和29年(1954年)完成に至る15年継続事業とする骨子であり、該案は、第37代 米内光政(よない みつまさ)(明治13年(1880年)3月2日~昭和23年(1948年)4月20)内閣(昭和15年(1940年)1月16日~7月22日在任)の同年1月の第75回帝國議会審議を通過し、同年3月の帝國議会に於いて予算成立を見た事から、此れを受け、鐵道省は同年4月より建設用地収用を開始したが、他方、完成に時間を要する長大隧道建設工事を開始する事に決定し、新丹那、日本坂、新逢坂山、及び、新東山各隧道掘削工事を着工する事になり、日本坂隧道は、西口坑が昭和16年(1941年)8月、東口坑が同年10月に掘削工事を開始した。
同年12月8日に大東亜戦争が勃発し、戦争が長引くに従い、決戦体制強化に伴う、資材欠乏、作業員不足等々が重なり、昭和18年(1943年)8月に該工事は中止を余儀無くさせられたが、新丹那を除く各隧道工事に就いては、在来線たる東海道本線に於ける輸送障害緩和の為に、陸海軍部の強い要請も在り、例外として継続工事に指定され、日本坂隧道2174mは昭和19年(1944年)9月に竣工し、引続き東海道本線取付線路が完成した事から、同年10月10日附で、在来線は石部、及び、磯濱両隧道経由から日本坂隧道経由に変更された。
該線設置に必要な軌条類は御殿場線単線化に伴う発生品を活用した。
尚、多数資料に日本坂隧道使用開始を同年12月1日附とする内容の文献を散見するが、当時の静岡新聞 昭和19年(1944年)10月11日附朝刊記事に、昨日から日本坂隧道使用開始なる記述が存在する事から12月1日附使用開始説は誤りであり事実無根である。
該隧道は、朝鮮満州直通を念頭にした為に車輌幅3400mm対応複線型であり、戦後、昭和24年(1949年)5月20日に静岡-浜松間が電化された際も、在来線としては坑内建築限界が過大な為に架線設置工事に苦労する事も無かった。 -
用宗-焼津間
日本坂隧道
東京方取付線路跡
昭和30年代になり東海道新幹線建設が再燃化し具体的になった事から、該隧道が本来目的たる新幹線用転使用が決定した。
此の為に、国道1号線として転用されていた石部、磯浜両隧道を東海道本線用に復帰使用させる為に、建設省に対し返還請求がされ認められた事から、直ちに工事に着手した。
即ち、該工事は狭隘を極めた坑内建築限界を拡大させるだけでは無く、石部磯浜両隧道間に存在する急曲線を解消させる為に、該両隧道中途から別途隧道を構築し2本を1本の隧道として該急曲線を解消し、更に、高速運転可能な線形とさせ、新石部隧道、上り線2205m、下り線2185mとして完成させ、日本坂隧道から該隧道への切替は、下り線が昭和37年(1962年)9月25日、上り線は同年同月28日に実施した。 -
用宗-焼津間
石部(せきべ)信号所跡
用宗駅は、明治42年(1909年)11月1日に石部信号所?が駅に昇格し旅客扱を開始して当時の用宗村中心地に駅本屋が設置された。
然し、該駅設置当時は、用宗-焼津間7.1kmが単線で列車本数増加に対応すべく、同年同月24日附で、用宗駅起点2.3km地点たる石部隧道東京方坑門手前に信号所を設置し用宗-石部間を複線化させた。
その後、翌明治43年(1910年)10月6日附で磯濱隧道神戸方坑門付近に磯濱信号所が設置され、該信号所は同年12月8日附で廃止された。
因みに、用宗-磯濱間複線化は明治44年(1911年)3月10日である。 -
用宗-焼津間
石部(せきべ)隧道
東京方坑門
落石防護コンクリート構門延長前の石造門構が残存。 -
用宗-焼津間
大崩(おおくずれ)海岸
該海岸は、糸魚川静岡線中央地構帯に属す赤石山脈末端たる高草山から崖状に存在し、駿河湾に落込む形態である。
該線開通後は該地に於いて常時落石被害が発生し弾丸列車用日本坂隧道完成と共に該新隧道を転用使用した。
大東亜戦争後、東海道新幹線建設が決定した事から、該隧道を改築再用する事になり、昭和37年(1962年)9月25日下り線、同月28日上り線が切替えられた。
因みに、付近道路に於いて、昭和46年(1971年)7月5日に大規模土砂崩壊が発生し、自動車1台が巻込まれ、運転手1名が即死する事故が発生した。 -
用宗-焼津間
初代石部隧道
神戸方坑門跡 -
用宗-焼津間
初代石部隧道
神戸方坑門跡
浸食され崩壊した石垣側壁断片と共に、大崩海岸に放置。
本来に於ける海岸線は現在より海面部に存在したが、海岸の浸食作用に依り、次々と崩壊し、将来に於いて列車運行が危険と判断された事から、当時の鐵道省が弾丸列車用隧道として用意した日本坂隧道を在来線用に転用させた。
平成23年(2011年)3月15日22時31分発生の静岡県東部地震の際に側壁部が崩壊し該坑門は崖下に崩落。
現在現場は危険につき全面立入禁止。 -
用宗-焼津間
石部隧道
神戸方坑門
旧磯濱隧道坑門 -
用宗-焼津間
石部隧道
神戸方坑門
結合前の旧磯濱隧道神戸方坑門跡
背景の石積造に対し坑門拡大実施部分はコンクリート打設。 -
用宗-焼津間
旧線路跡
開通時橋台が現存。
焼津市野秋62
東海道本線焼津駅南口 徒歩40分 -
用宗-焼津間
磯濱(いそはま)信号所跡
該信号所は、明治43年(1910年)10月6日に開設された。
東海道本線は我が国屈指の大幹線として全線複線化が急務とされたが、用宗-焼津間に存在する、石部、及び、磯濱両隧道増線工事が竣工した事から、取敢えず、一時的に本線を新線に移設させ、坑内変状が発生していた既成隧道修復工事を施工する為に、該地に信号所を設置し、用宗-磯濱間を単線運転を継続し該工事を施工した。
翌、明治44年(1911年)12月8日に修復工事が完了し複線化が竣工した事から該信号所は廃止された。
旧線路跡
橋台が現存。
奥は石部隧道神戸方坑門
焼津市小浜62
東海道本線焼津駅南口 徒歩38分 -
用宗-焼津間
花沢川橋梁
旧線路跡
橋台が現存。
高速化の為に急曲線上に存在する旧橋梁橋台を使用せず、敢えて直線的に新規架橋。
焼津市小浜93
東海道本線焼津駅南口 徒歩38分 -
用宗-焼津間
花沢川橋梁
旧線路跡
現在は地元生活道路橋梁が架橋された。
焼津市小浜93
東海道本線焼津駅南口 徒歩38分 -
東海道新幹線
日本坂隧道
新大阪方坑門
旧在来線取付線跡
菜の花群生部分が旧取付線路跡地。
焼津市花沢1082
東海道本線焼津駅南口 徒歩36分 -
用宗-焼津間
旧在来線取付線跡
の間は、東海道本線が該箇所を利用通過していた。
焼津市小浜無番地
東海道本線焼津駅南口 徒歩35分 -
用宗-焼津間
旧在来線取付線跡
焼津市小浜無番地
東海道本線焼津駅南口 徒歩35分 -
用宗-焼津間
旧在来線取付線跡
在来線接続点
焼津市野秋595
東海道本線焼津駅南口 徒歩33分 -
用宗-焼津間
旧在来線取付線跡
在来線接続分岐点
焼津市野秋595
東海道本線焼津駅南口 徒歩33分 -
用宗-焼津間
第2花沢川橋梁
旧在来線取付線路跡
神戸方橋台のみ残存。
焼津市小浜183
東海道本線焼津駅南口 徒歩30分 -
用宗-焼津間
瀬戸川(せとがわ)仮信号所跡
該信号所は、瀬戸川橋梁橋脚に異状が発見され、緊急に修復工事が必要とされた事から、該地に分岐器を設置し大正7年(1918年)1月20日に設置され、該信号所-焼津間を単線運転し、該橋梁補修工事を施工した。
その後、同年3月8日に改修工事が完成し、翌日から複線運転に復帰した。
該信号所は同年8月25日に廃止された。
焼津市浜当目無番地
東海道本線焼津駅南口 徒歩25分 -
用宗-焼津間
瀬戸川(せとがわ)橋梁
該橋は、明治22年(1889年)4月16日開通時の橋梁である。
全長127m
焼津市浜当目1−3
東海道本線焼津駅南口 徒歩10分 -
用宗-焼津間
瀬戸川橋梁
焼津市浜当目1−3
東海道本線焼津駅南口 徒歩10分 -
用宗-焼津間
瀬戸川橋梁
上流側
焼津市浜当目1−3
東海道本線焼津駅南口 徒歩10分 -
用宗-焼津間
ふれあい大橋
旧サッポロビール焼津工場引込線用橋梁
昭和53年(1978年)に旧瀬戸川橋梁路盤を活用して架橋したが、日本国有鉄道合理化の煽りを受け、昭和61年(1986年)11月1日附で焼津駅貨物取扱が廃止され、民営分割後は、日本国有鉄道清算事業団が管理していた。
平成10年(1998年)に該組織から該橋梁が焼津市に払下げられ、地元住民の生活道路として整備され再活用された。
焼津市浜当目1−3−1
東海道本線焼津駅 徒歩10分 -
焼津(やいづ)駅
駅本屋
該駅は、明治22年(1889年)4月16日開業である。
本来、焼津に鉄道通過対象外の存在であり、鉄道開通以前に於いては、瀬戸川河口に存在する港湾施設無き荒浜が存在し、前近代的漁法に依る漁を行うだけで、該販路も焼津近辺に限定された存在だったが、焼津に停車場が設置された事で、該販売販路が鉄道利用で東京横浜に拡大効果が発生し、該地鉄道通過は、焼津をして遠洋漁業に発展させる基盤を形成させた。
日華事変(にっか じへん)(昭和12年(1937年)7月7日〜昭和16年(1941年)12月8日)の戦闘苛烈となった昭和14年(1939年)1月18日に出征兵士歓送の為に該駅に集合していた地元有志数名が歓送集団から弾き飛ばされた際に、折から通過中の軍用列車に捲き込まれ、3名が死亡事故も発生した。
鐵道唱歌第22番
鞘より抜けておのずから
(さやより ぬけて おのずから)
草なぎはらいし御剣の
(くさなぎ はらいし みつるぎの)
御威は千代に燃ゆる火の
(みいつは ちよに もゆるひの)
焼津の原はここなれや♪
(やいづの はらは ここなれや)
http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/yaizu/index.html焼津駅 駅
-
焼津駅
駅本屋
出入口 -
焼津駅
駅構内 -
焼津駅
旧貨物取扱所跡 -
焼津駅
旧貨物取扱所跡
該駅に於ける貨車貨物取扱は、昭和49年(1974年)10月1日附で廃止。
跡地は、国鉄清算事業団を経て、サッポロビールが該地を借受け、品川客車区配置を最後に廃車になったナシ20型食堂車を活用してビアホールを経営していたが、借用期間終了と該駅再開発計画の為に焼津市が買収し、現在はマンションが建つ。 -
焼津駅
西口 -
焼津駅
駅前広場
鉄道100年記念碑 -
焼津駅
駅前広場
鉄道100年記念碑
昭和47年(1972年)10月14日建立 -
焼津駅
駅前広場
C57型146号機
ボックス形動輪
全景 -
焼津駅
駅前広場
C57型146号機
ボックス形動輪
正面
保守されていない為に錆が浮出ている。 -
焼津駅
駅前広場
小泉八雲
記念碑 -
焼津駅
駅前広場
小泉八雲(こいずみ やくも)(1850年(嘉永3年)6月27日〜1904年(明治37年)9月26日)は、英國系ギリシャ人。 -
焼津-西焼津間
焼津市立小石川公園
C50型96号機 蒸気機関車
該機関車は、鐵道省正式機種で、8620型後継機として昭和4年(1929年)から昭和8年(1933年)にかけて製造された、炭水車附中型旅客用蒸気機関車である。
戦前は、主として幹線短区間快速用、及び、亜幹線優等列車用として使用された。
C50型96号機は、昭和4年(1929年)12月4日に日本車輌製造本社(名古屋市熱田)で製造された該社第240番目の鉄道車輌で、直ちに名古屋鐵道局米原機関庫に配属された後、稲沢、名古屋、美濃太田、及び、豊橋各機関区を転属し、昭和46年(1971年)に豊橋機関区配置で廃車される迄、名古屋管内から移動が無かった。
該機は154両も製造されたにも拘らず、全国に於いて現存するのは、該機を含め6両に過ぎず、京都梅小路ですら保存対象候補とならなかった。
或る日の事、大宮工場で全般検査が修了し、配置区たる小山機関区への単機回送の際に、該工場検査員が、
「今日の回送に就いては自分が全責任を負うから全速力を出して走行して下さい。」
と言われ、機関士、機関助手が言葉通りにすると、該機関車の最高許容速度90kmは軽く超えてしまい、該機関車に取付けられている機械式速度計120kmを振切り135km前後は楽に出せ、機関士達からは、C59型やC62型より速度が出せる蒸気機関車として、つと知られた存在だった。
焼津市栄町1−9
東海道本線焼津駅南口 徒歩7分 -
焼津-西焼津間
焼津市立小石川公園
C50型蒸気機関車
正面
焼津市栄町1−9
東海道本線焼津駅南口 徒歩7分 -
焼津-西焼津間
焼津市立小石川公園
C50型蒸気機関車
足回
スポーク式動輪が製造年代を感じさせる。
焼津市栄町1−9
東海道本線焼津駅南口 徒歩7分 -
焼津-西焼津間
焼津市立小石川公園
C50型蒸気機関車
機関室
焼津市栄町1−9
東海道本線焼津駅南口 徒歩7分 -
西焼津-藤枝間
内瀬戸川(うちせとかわ)橋梁
焼津市五ヶ堀之内1802
東海道本線焼津駅南口 徒歩15分 -
西焼津(にしやいづ)駅
駅本屋
該駅は、昭和62年(1987年)3月21日開業である。
http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/nishi-yaizu/index.html西焼津駅 駅
-
西焼津駅
駅本屋
近写 -
藤枝(ふじえだ)駅
駅本屋
該駅は、明治22年(1889年)4月16日開業である。
当初計画では、該駅は、旧東海道藤枝本町付近に停車場を設置する予定だった。
然るに、宇津ノ谷(うつのや)峠付近を通過の場合、長大隧道建設、及び、該隧道取付線路設置に5km以上要する事が判明し、改めて再測量の結果、大崩海岸経由に変更された事で、旧宿場町中心地付近に停車場設置が困難となり、該町中心地から南に約3km地点に設置される事に決定した。
然るに、鉄道開通後は物流が変わり、旧東海道の退勢が著しい状態になった事から、藤枝本町有力者が発起人となり、明治44年(1911年)1月15日に藤相鐵道が設立され、同年8月28日に工事免許が交付された事から、大手-藤枝新間建設が進められ、大正2年(1913年)11月16日に開通し旧宿場町対停車場間交通が便利になった。
現駅本屋は、平成18年(2006年)9月1日に竣工した第3代目。
http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/fujieda/index.html -
藤枝駅
改札口 -
藤枝駅
駅構内
第2番ホーム
左手は旧貨物取扱所跡 -
藤枝駅
駅構内
第2番ホーム -
藤枝駅
駅構内
旧南側貨物取扱所跡 -
藤枝駅
駅構内
旧北側貨物積卸場跡 -
藤枝駅
駅構内
第1番線ホーム
旧危険品取扱庫
全景 -
藤枝駅
駅構内
第1番線ホーム
旧危険物取扱庫 -
藤枝駅
駅構内
第1番線ホーム
旧危険品取扱庫
全景
許可を得て立入撮影。 -
藤枝駅
駅構内
第1番線ホーム
旧危険品取扱庫
該線原駅現存建築物と同時期に建設。
但し、藤枝駅現存分の方が、より原形で残存。
許可を得て立入撮影。 -
藤枝駅
駅構内
第1番線ホーム
旧危険品取扱庫
背面
許可を得て立入撮影。 -
藤枝駅
駅構内
第1番線ホーム
旧危険品取扱庫
煉瓦は阿蘭陀様式。
許可を得て立入撮影。 -
藤枝駅
駅舎
南口 -
藤枝-六合間
東海道新幹線高速運転試験線跡
日本国有鉄道は、東海道新幹線建設を前に、新幹線用新型車輌製造のデータを得る為に、東海道本線焼津-島田間に線路を1本追加し、高速運転試験を実施させる事に決定し、昭和34年(1959年)7月27日から同月31日にかけて151系直流型特急用電車を使用し実験を反復させた。
最終日31日には、当時の狭軌線に於ける世界最高速度時速163kmを記録した。 -
藤枝-六合間
東海道新幹線高速運転試験線跡
写真右手空地が該実験線跡。 -
藤枝-六合間
東光寺谷(とうこうじだに)川
島田市上吉田158−2
東海道本線島田駅北口 しずてつジャストライン上吉田停留所降車 徒歩1分 -
藤枝-六合間
東光寺谷川橋梁
藤枝市上青山156
東海道本線藤枝駅北口 藤枝市営交通バス上青島停留所降車 徒歩3分 -
六合(ろくごう)駅
駅本屋
該駅は、昭和61年(1986年)4月26日開業である。
http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/rokugo/index.html六合駅 駅
-
六合駅
駅本屋
構内 -
六合駅
西口駅前広場
クモヤ93000狭軌最高速度175km/h達成記念碑
平成7年(1995年)11月21日建立 -
六合駅
西口駅前広場
クモヤ93000狭軌最高速度175km/h達成記念碑
保守性が強い東海旅客鉄道会社に於いて西暦のみ使用の碑は珍しい。 -
六合-島田間
青島(あおしま)信号所跡
該信号所は、大正12年(1923年)7月1日に開設された。
該信号所開設以前は、藤枝-島田間7.5km間に途中停車場が存在せず、当時は該区間は自動信号化されておらず、双信閉塞式が導入されていた為に、該状態での列車増発が困難だった。
該信号所設置に依り閉塞区間を2分割させる事で列車増発が可能になる。
その後、該区間が自動閉塞が導入された為に、昭和4年(1929年)7月2日附で廃止された。
島田市道悦1−1
東海道本線六合駅南口 徒歩2分 -
六合-島田間
大津谷川(おおつやがわ)橋梁
島田市旭2−21−15
東海道本線島田駅北口 しずてつジャストライン栃山停留所降車 徒歩4分 -
六合-島田間
大津谷川橋梁
島田市旭2−21−15
東海道本線島田駅北口 しずてつジャストライン栃山停留所降車 徒歩4分 -
島田駅
駅本屋
全景
該駅は、明治22年(1889年)4月16日開業である。
鉄道敷設に関し、当初の計画では旧東海道沿を予定していたが、該位置に停車場設置の場合、大井川架橋が困難と判断され、改めて再測量の結果、現位置に決定された。
然るに、該駅設置位置は、当時の島田町中心部から余りに南方に存在した為に、開設早々に困難に遭遇し、相談の結果、島田町有力者達は、旧東海道島田宿から該駅に到る新道設置に就いて、当時の第2代静岡縣知事 時任為基(ときとう ためもと)(天保13年(1842年)5月〜明治38年(1905年)9月1日)(明治22年(1889年)6月8日〜明治25年(1892年)8月20日在任)に対し新道設置に関する請願書を提出し、時任知事は該請願を受入れる代りに、新道用地無償提供、及び、新道設置建設資金26円を寄付に依る事を条件に了承した。
該駅は、大井川東岸に所在する事から、該駅開業当時から木材、及び、製茶出荷を大量に取扱い、反面、該駅に於ける取扱施設が狭隘だった事が原因で、構内滞貨が日常化して来た事から、早くも、明治29年(1896年)8月17日附で、貨物積卸場拡張願が逓信省鐵道局長宛に提出された。
該文書提出と相前後して、同年7月に島田停車場前-大井川向谷間に馬力ながら島田軌道が建設設置され、従来の荷馬車に代り、木材輸送に期待が寄せられた。
島田が経済発展の基盤を築いたのは、明治40年(1907年)1月19日附で、東海紙業會社が創立された事がきっかけである。
即ち、該社は創業者たる 大蔵喜八郎(おおくら きはちろう)(天保8年(1837年)10月23日〜昭和3年(1928年)4月22日)が、欧米視察旅行の際に、大河川流域では木材を川流しさせ、下流域に於いて該木材を使用する製紙業が盛んたる事を知り、大井川流域に於いて該産業が未着手たる事から、大倉自身が製紙製造業が可能なりと判断して企業創業し島田に工場建設が決定した。
該工場は建設も順調に進み、明治43年(1910年)7月7日に稼動開始した。
此の為に、島田町は、該駅構内施設再拡張を立案し、約3700坪の土地を用意し、建設資金2886円を鐵道院に無償提供した。
東海紙業側も自社所有地を無償提供し、該駅構内施設拡張に協力した。
http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/shimada/index.html -
島田駅
出改札口 -
島田駅
静岡空港口 -
島田駅
第2番ホーム
側壁に旧客車時代の石積が残存する。 -
島田駅
駅構内
貨物取扱施設跡島田駅 駅
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この旅行記へのコメント (12)
-
- マリオットさん 2025/01/08 13:17:11
- 古軌条支柱が懐かしい
- 毎回の力作で、とても詳しく調べていると感心します。空襲の記録も残っているのですか。そして駅間を歩いて写真を撮っているとは。
焼津、藤枝、島田方面は何度か行ったのですが、すべて車でした。駅前まで行ったのは藤枝だけです。鉄道を使っていない旅行者なので、ホームや線路の様子を初めて見ました。
用宗駅の古軌条支柱。昔はどこの駅でも見かけた気がします。製鉄の質という問題もあったのですか。駅舎に今でも残っているのを見ると、懐かしい気さえします。
- 横浜臨海公園さん からの返信 2025/01/23 22:14:39
- 拝復
- マリオットさま、こんばんは。
拙稿に投票と掲示板に過分なるコメントを賜りまして、誠に有難うございました。
小生、旅行記作成前に国立国会図書館や国立公文書館を訪れ、可能な限りオリジナル資料を精査し取捨選択しながらの為に、旅行記完成まで数年かかる事も珍しくなく、中には7年かかった旅行記もございます。
兎に角、資料として活用可能な内容に仕上げております。
各駅ホーム上屋古軌条使用柱も、改築等々で此の数年に相当無くなってしまいました。
当該旅行記の表紙の転落廃隧道も、現地を訪れた数年後に津波で流されてしまい、現在では行方不明状態で見る事は出来なくなりました。
現地を訪れた時など、獣道が隠れる程の熊笹が生茂り、藪蚊の大歓迎を受け、ザワザワと蛇が移動するイヤな音を聞きつつ、道と崖淵との区別がつかないと判断した危険スレスレの所からズームで捉えた光景でした。
全部徒歩か貸自転車での訪問ですが、地方特に山中では、藪蚊にマムシ、サルに猪に出くわすのは仕方がないとして、或る所では何かが小生の腰の辺を押したので振り返ると、そこには天然記念物のニホンカモシカが不思議そうな顔をして立っていたなど、現地を訪れるのも本当に大変です。
東海道本線分も完成まで数作を残すばかりですが、その様な訳で表紙の本文は完成しておりますが、あと数年はかかるものと思います。
本年も亦何卒宜敷くお願い申します。
横浜臨海公園
-
- ako-satiさん 2024/12/07 19:57:03
- 初めまして!
- 横浜臨海公園さま
いつも旅行記に訪問くださり いいねまでありがとうございます
初めてコメントします!
地元です!歩いて行けるところ 線路沿いの写真に
声をあげながら 大変興味深く読ませていただきました!
藤枝駅の旧危険品取扱庫は 私もこれはなんだろうと
長い間思ってきましたので 勉強になりました!
またみせてくださいね
ako-sati
- 横浜臨海公園さん からの返信 2024/12/08 09:56:12
- 拝復
- ako-satiさま、おはようございます。
拙稿に投票とコメント、及び、フォローを賜りまして、誠に有難うございました。
当該旅行記は10年以上前に投稿したもので、その後、地元の方なので御存知と思いますが、大崩海岸に津波が押寄せた際に、表紙の駿河湾に転落した煉瓦坑門群は津波に流されてしまい、現在は見る事が不可能になってしまいました。
この地を訪れた時は、藪蚊とマムシの大歓迎を受け、熊笹に覆われた道なき道を進み、崖との区別が無い所で此れ以上進むのは危険と判断し、ズームで撮影した為にピンボケ状態になってしまいました。
某社から本として出版の話を受け、内容を追加していた為に、一時掲示を控えておりました。
今後とも何卒宜敷くお願い申します。
先ずは御礼と、略儀ながら御挨拶まで。
横浜臨海公園
-
- yoshieriさん 2015/03/13 17:44:33
- 17年間住んだ懐かしい静岡
- 横浜臨海公演様
いつもご訪問・ご投票ありがとうございます。
詳細な鉄道記・鉄道の歴史に圧倒されます。
静岡は子育て中の17年間住んだ所で、安倍川、用宗、焼津、西焼津、藤枝、六合、島田、どの駅にも降りたことがあり、知り合いもいて、地名に懐かしさを感じました。
大崩海岸は風光明媚な場所で、よく海中に突き出た道をよく車で走ったものです。
静岡を離れて10年になりますが、駅前の様子もあまり変わっていないようです。のんびりした雰囲気が伝わってきますね。
yoshieri
- 横浜臨海公園さん からの返信 2015/03/16 04:08:21
- 拝復
- yoshieriさま、おはようございます。
何時も拙稿にお立寄りを賜りまして、誠に有難うございます。
yoshieriさまに静岡在住経験がおありだったとは意外でした。
例の、大崩海岸の道は、静岡市と焼津市の境付近で大規模な崖崩れが発生して以来、修復は断念され通行止めになってしまい、頻繁に車が行き交っていた例の海上大橋付近は、全く大橋だけの構造物がそそり立っている状態だけになり、昭和47年(1972年)に通行中の乗用車の上に崖崩れで運転者が亡くなった慰霊碑だけが、不気味な雰囲気の中に残されております。
本当は旧石部隧道坑門の所まで訪れたかったのですが、そこまでの取付道路すら崩壊でアプローチする手段が無く、立入禁止区域として指定されている所を、法を犯してまで入る訳にもいかず、その為に、あの様な上からのショットになってしまった次第でございます。
安倍川駅付近は、静岡駅から隣駅でもありマンション建設が続き、朝は、あの狭いホーム一杯の利用者で危険と判断された事で、駅舎の増床工事中でしたが、拙稿をご覧になられ、それ以外の駅は概ね昔のままだったと思います。
横浜臨海公園
-
- せいこさん 2015/03/03 01:40:14
- こんにちは(*^^*)
- 今日はケンタッキーで声かけて頂きありがとうございます。
短い時間でしたが有意義な時間になりました。
- 横浜臨海公園さん からの返信 2015/03/03 13:31:27
- 拝復
- せいこさま、こんにちは。
掲示板にメッセージを賜りまして、誠に有難うございました。
大正期から昭和初期の東京に於ける、私鉄創立者、及び、健康損害保険会社創立者は、押並べて山梨県出身者に依り占められており、現在の中央本線も甲武鉄道と称した私鉄で、やはり山梨県人が創設した企業です。
小生の旅行記の所々に、該ヒントが隠されております。
ご一読を賜れば幸甚でございます。
今後とも宜敷くお願いします。
横浜臨海公園
-
- norisaさん 2015/02/23 16:41:59
- 超大作、超労作!
- 横浜臨海公園様、
こんばんわ。
ご無沙汰しております。
さて、今回のご旅行記。
一言では書けませんが、超労作、超大作ですね。
ひとつ前のご旅行記もその前もそうですが、綿密な調査と実地検分がなければとてもこのように詳細かつ正確な内容は書けませんね。
唯一の欠点はこれを拝見すると投稿するのが気恥ずかしくなってしまうことでしょうか(笑)
東海道線は今では新幹線にその地位を奪われつつありますが、今も各地域の足として、また関東と関西を結ぶ貨物輸送の大動脈としての地位は揺るぎません。
そうですが、特にこの静岡と島田あたりを結ぶ部分は由比、興津の付近同様架線工事が難儀したのではないかと思われます。
特に大崩れという海岸線。
よくもこんな崖に線路を引いたものだと驚きます。
3.11の地震で側壁が落下するのもむべなるかな。
今のように何でもトンネルで済ませれば比較的容易なのでしょうが、当時のトンネル掘削技術では危ない崖でも海岸線近くに線路をもってくる必要があったのですね。
とにもかくにも先人の努力、技術、そしてこの労作全てに感嘆いたしました。
今後も質の高い旅行記をお願いいたします。
norisa
- 横浜臨海公園さん からの返信 2015/02/24 06:06:06
- 拝復
- norisaさま、おはようございます。
掲示板に過分に過ぎるコメントを賜りまして、深謝しております。
小生、旅行記を作成するにあたり、まず資料収集と精査からはじまり、取捨選択しながらの作業で、最近では完成まで2〜3年経過するのも珍しくなくなりました。
兎に角、精査の過程に於いて、今まで言われていたのが、如何に嘘が多いかを改めて知らされます。
ウィキペディアなどは、そのいい加減な資料の丸写し集大成!
そのウィキは、小生が旅行記を上程後、概ね1週間程度で、小生の記述に沿った内容に書き換えられているのを見ると情けなくなります。
横浜臨海公園
-
- rinnmamaさん 2015/02/22 20:45:13
- 地元です^^
- 横浜臨海公園さま
いつもご訪問・ご投票頂きながら、お礼も申し上げず失礼致しております。
有難うございます。
鉄道の詳しさに圧倒されて、私の拙いコメントなどと遠慮申し上げて
いましたが、今回は地元ですので、一筆と思いました。
と、いいましても難しい事はわかりませんが、懐かしい風景に故郷に
帰りたくなりました・・・
大崩海岸も夫は静岡まで車で通勤していましたが、崖崩れで新道ができた
後、バイパスができてから、行きませんね〜〜
その後、東名の日本坂トンネルの火災もありましたね・・
結婚してから西焼津駅ができました。
あの辺りも田舎でしたが、駅ができますと住宅ができますね。
あと、焼津に嫁いで静岡から焼津駅に行く時、手前の鉄橋辺りで魚の匂いが
するんですよね・・(魚が苦手ですので、気になるのかしら?)
最近、駅まで行きませんので、懐かしかったです。
有難うございました。
(後、2・26事件の旅行記も気になりました。
実は母が、当日に渋谷代々木上原の叔父宅にいて、事件後の風景を
よく話してくれたものですから・・・)
以上、取り留めないコメントで、お許しくださいませ。
だいぶ、春めいてまいりましたが、お身体ご自愛くださいませ。
rinnmama
- 横浜臨海公園さん からの返信 2015/02/22 23:36:31
- 拝復
- rinnmamaさま、こんばんは。
拙稿旅行記に投票とコメントを賜りまして、誠に有難うございました。
rinnmamaさまが、あの辺りのご出身と聞いて驚いております。
> 大崩海岸も夫は静岡まで車で通勤していましたが、崖崩れで新道ができた
> 後、バイパスができてから、行きませんね〜〜
> その後、東名の日本坂トンネルの火災もありましたね・・
→その崖崩れの道路ですが、大崩海岸を回避した橋が出来、そちらがメインになったかの感がありましたが、先般、その道路が崖崩れに遭い、現在では焼津から現地へのアプローチは不可能になっており、開通の見込みも無い様子です。
> 結婚してから西焼津駅ができました。
> あの辺りも田舎でしたが、駅ができますと住宅ができますね。
→電車に乗っていると、昔は、あの辺りは田圃と小工場が点在する所だったのが、今や静岡市のベットタウンと化しております。
> (後、2・26事件の旅行記も気になりました。
> 実は母が、当日に渋谷代々木上原の叔父宅にいて、事件後の風景を
> よく話してくれたものですから・・・)
→来年は2.26事件発生から80年です。
実は、小生の曽祖父は2.26事件で重傷を負ったものの奇跡的に助かっております。
横浜臨海公園
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