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該区間は、大正8年(1919年)8月1日開通である。<br /><br /><br />金生山(かなぶやま)は大垣市赤坂町に所在する標高219mの山で、該山全体が石灰石、及び、大理石に依り構成されている事から、良質なセメント材原産として明治期より注目される存在となった。<br /><br />即ち、元来セメント材は、煉瓦建築に於ける煉瓦継目材として使用されるに過ぎない脇役的存在だったが、明治末期頃からはコンクリート建築勃興に依り、それ迄の補助材から主要材として脚光を浴びる様になる。<br /><br />該山より産出された石灰石は抗瀬川水運に依り大垣駅まで搬送され、該駅に於いて貨車に積替られ目的地に搬出されていたが、該河川を上下する和舟積載では搭載量に限度があり、現地に於いて算出された石灰石が積出が間に合わず、野晒のまま劣硬化する事態が続出した。<br /><br />此の為に、地元有力者達は、明治45年(1912年)に大垣-垂井間に新駅設置を請願、大正6年(1917年)3月16日附で、当時、東京新橋に本所が存在した時の中部鐵道管理局長 長尾半平太(ながお はんぺいた)(慶應元年(1865年)9月17日~昭和11年(1936年)6月30日)に対し、該状況打破の為に、鉄道支線敷設請願書を上申をした。<br /><br />即ち、該請願書に、金生山産出の石灰石、及び、大理石搬送は物理的事情から鉄道一環輸送が不可欠たるとし、今後、コンクリート建築物が主流となり、名古屋にセメント工場設置に依り、需要が爆発的増加を見る事は明らかであるとして、鉄道施設設置を絶対必要とした。<br /><br />中部鐵道管理局は該請願書を審議した結果、該必要性が認められ、該支線設置の為に、地元赤坂町民有志は寄付金5000円拠出し、更に、地元業者は、貨物駅用地買収費8000円寄附を実地し、大垣駅起点3.1km地点に分岐用信号所 荒尾信号所を設置し、大正8年(1919年)8月1日に荒尾-美濃赤坂間1.9km間が開通した。<br /><br /><br />然し、金生山麓から美濃赤坂駅に至る約1.8kmは馬車に依る輸送を余儀無くされ、川舟輸送時代と殆ど変らない状態だった事から、地元では該線培養線として 西濃(せいのう)鐵道を設立し、該社は、大正15年(1926年)9月15日附で、第25代第Ⅰ次若槻禮次郎(わかつき れいじろう)(慶應2年(1866年)3月21日~昭和24年(1949年)11月12日)内閣(大正15年(1926年)1月30日~昭和2年(1927年)9月2日組閣) 第5代鐵道大臣 仙石 貢(せんごく みつぎ)(安政4年(1857年)7月22日~昭和6年(1931年)10月30日)(大正15年(1926年)1月30日~同年6月30日在任)に対し、市松線美濃赤坂-市松間2.6km、及び、昼飯線美濃赤坂-昼飯間1.9kmの建設許可免状交付を申請し、鐵道省で審査の結果、同年12月6日附で建設許可免状を交付した。<br /><br />西濃鐵道は、昭和2年(1927年)3月に発生した構造不況の影響の煽りを受けた事から、建設工事遅延を余儀無くされたが、昭和3年(1928年)12月17日に開通した。<br /><br />他方、新たに開業した西濃鐵道は貨物専用であり、金生山への作業従業員や赤坂町居住者から旅客扱開始を希望する声が出るのは自然の成り行きだったと言えた。<br /><br /><br />鐵道省工作局は、昭和4年(1929年)に船舶用小型ガソリン機関を活用し、キハニ5000型ガソリン動車を開発した。<br /><br />該車は全長10mの2軸車輌で、池貝鐡工所が帝國海軍内火艇搭載用に開発した4気筒40馬力船舶用ガソリン機関1台を搭載し、同年7月に日本車輌製造本店に於いて計12両が完成したが、然し、当時既に民間で使用されていたガソリン動車群を参考にした形跡が皆無であり、頑丈で軽量化の考慮が全くされず、計算上に於ける総重量15tを超過する計19tとなり、機関出力に対しコロ軸を採用せず平軸だった事から、起動ですら難渋する状態だった。<br /><br />車輌製造費は1両18390円と算出されたが、当時の日本車輌製造標準型ガソリン動車1両13000円から見ても極めて割高だった。<br /><br />該車輌は、完成後、同年8月に東京大井工場内に搬入され、該車輌導入予定地たる、札幌、仙台、名古屋大垣、大阪姫路、徳島小松島各地より、機関手乗務員計20名、工作関係者15名が集められ、該工場内に於いて構造実習後、実車常務試運転を横浜線東神奈川-原町田(現 町田)間に於いて10日間に亘り実施された。<br /><br />該車輌は、米原機関庫大垣支庫に2両配置され、同年9月6日より、大垣-美濃赤坂-西濃鐵道赤坂本町間に於いて試運転が開始された。<br /><br />鐵道省としては、初のガソリン動車納入故に、慎重に慎重を重ね、初期故障は克服したものと判断し、翌昭和5年(1930年)2月1日より、大垣-西濃鐵道市橋線赤坂本町間5.5kmに於いて営業運転を開始した。<br /><br />該区間開通当時、東海道本線大垣-垂井間に荒尾信号所が設置され美濃赤坂への分岐点を設置したが、該動車がフリーケントサーヴィスを目的として導入された事に誘発され、地元たる不破郡宇留生村は、該信号所に於いて客扱を可能とすべく、名古屋鐵道局に対し駅昇格請願を行った。<br /><br />名古屋鐵道局は該請願を審査した結果、該請願を限定承認した。<br /><br />即ち、若し、該信号所を駅昇格すると本線列車の相当数を停車させなければならず、該利用者数は期待出来ずと判断された事から、美濃赤坂支線該信号所起点0.3km地点に駅設置がされ、同年12月1日に荒尾駅が開業し、同日附で荒尾信号所は南荒尾信号所に名称変更された。<br /><br />キハニ5000型運転開始に依り、従来の蒸気機関車牽引列車と比較して、列車本数増加に依る利便性向上から利用者が激増し、昭和7年(1932年)には、1両が配置転換で追加配置され計3両となったが、該車輌では収容力が不足し輸送が困難になった事から、該車より大型の昭和11年(1936年)にキハ41000型に代られた。<br /><br />因みに、当時の気動車は一部例外を除きガソリン機関を搭載していた事から、現在の如き総括制御装置は搭載されておらず、故に、運転上に於いて、単車の場合は問題は無いが、2両以上を連結して運転する際は、各車輌に運転士を乗務させ、加速時は、先頭車運転士のブザー合図に依り同時にギア変換を行い運行すると云ふ複雑な運転方式を駆使していた。<br /><br />日華事変(にっか じへん)(昭和12年(1937年)7月8日~昭和16年(1941年)12月8日)勃発に依る戦時体制移行でガソリン統制強化時代に突入した。<br /><br />昭和15年(1940年)10月1日時刻改正では大垣-美濃赤坂-赤坂本町間に気動車列車が6往復運行されていたが、金生山産出の石灰石採掘工員輸送を理由に大東亜戦争勃発後も、該車輌運用は該区間3往復に減少したとは云え、昭和20年(1945年)3月31日まで運転され、翌日から蒸気機関車牽引列車に代ったが、戦前に於ける我が国に於けるガソリン動車が最後の一般運転区間となった。<br /><br /><br />該区間は、昭和33年(1958年)10月1日附で直流1500Vで電化された。<br /><br />同日より、大垣電車区にクモハ40型、及び、クモハ14型が配置され、大垣-垂井間区間運転と共に、大垣-美濃赤坂間で使用されたが、反面、気動車運用が無くなった事で、西濃鉄道美濃赤坂-赤坂本町間乗入運転は廃止された。<br /><br /><br />金生山石灰石採掘減少から、西濃鉄道昼飯線美濃赤坂-昼飯間1.9kmは、平成18年(2006年)3月31日附で全線廃止されてしまった。<br /><br /><br />現在では、西濃鉄道乙女坂-美濃赤坂-笠寺-名古屋臨海鉄道名古屋南貨物間に、新日鐵住友金属名古屋製鉄所宛石灰石積ホッパー貨物列車2本が運行されている。<br /><br />因みに、西濃運輸は企業名酷似だが全くの別企業組織である。<br /><br /><br />該区間沿線は荒尾駅周辺を除き、一面、田園風景拡がる地で、民営分割当時まで、旅客列車は朝夕に限定され、昼間運転の旅客列車は土曜のみ1本に限定だったが、現在では大垣岐阜名古屋のベットタウンと化し、昼間も旅客列車が運転されている。<br /><br /><br /><br /><br />表紙写真は、<br />美濃赤坂駅終端部。<br /><br /><br /><br /><br />東海道本線歴史的痕跡探訪記<br />~東京-濱松町間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10701644<br />~東京驛編~<br /><br />~汐留-濱松町-品川間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10797199<br />~品川-川崎間編 明治頌歌~<br 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東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~美濃赤坂線編~

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2019/03/31 - 2019/03/31

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横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

該区間は、大正8年(1919年)8月1日開通である。


金生山(かなぶやま)は大垣市赤坂町に所在する標高219mの山で、該山全体が石灰石、及び、大理石に依り構成されている事から、良質なセメント材原産として明治期より注目される存在となった。

即ち、元来セメント材は、煉瓦建築に於ける煉瓦継目材として使用されるに過ぎない脇役的存在だったが、明治末期頃からはコンクリート建築勃興に依り、それ迄の補助材から主要材として脚光を浴びる様になる。

該山より産出された石灰石は抗瀬川水運に依り大垣駅まで搬送され、該駅に於いて貨車に積替られ目的地に搬出されていたが、該河川を上下する和舟積載では搭載量に限度があり、現地に於いて算出された石灰石が積出が間に合わず、野晒のまま劣硬化する事態が続出した。

此の為に、地元有力者達は、明治45年(1912年)に大垣-垂井間に新駅設置を請願、大正6年(1917年)3月16日附で、当時、東京新橋に本所が存在した時の中部鐵道管理局長 長尾半平太(ながお はんぺいた)(慶應元年(1865年)9月17日~昭和11年(1936年)6月30日)に対し、該状況打破の為に、鉄道支線敷設請願書を上申をした。

即ち、該請願書に、金生山産出の石灰石、及び、大理石搬送は物理的事情から鉄道一環輸送が不可欠たるとし、今後、コンクリート建築物が主流となり、名古屋にセメント工場設置に依り、需要が爆発的増加を見る事は明らかであるとして、鉄道施設設置を絶対必要とした。

中部鐵道管理局は該請願書を審議した結果、該必要性が認められ、該支線設置の為に、地元赤坂町民有志は寄付金5000円拠出し、更に、地元業者は、貨物駅用地買収費8000円寄附を実地し、大垣駅起点3.1km地点に分岐用信号所 荒尾信号所を設置し、大正8年(1919年)8月1日に荒尾-美濃赤坂間1.9km間が開通した。


然し、金生山麓から美濃赤坂駅に至る約1.8kmは馬車に依る輸送を余儀無くされ、川舟輸送時代と殆ど変らない状態だった事から、地元では該線培養線として 西濃(せいのう)鐵道を設立し、該社は、大正15年(1926年)9月15日附で、第25代第Ⅰ次若槻禮次郎(わかつき れいじろう)(慶應2年(1866年)3月21日~昭和24年(1949年)11月12日)内閣(大正15年(1926年)1月30日~昭和2年(1927年)9月2日組閣) 第5代鐵道大臣 仙石 貢(せんごく みつぎ)(安政4年(1857年)7月22日~昭和6年(1931年)10月30日)(大正15年(1926年)1月30日~同年6月30日在任)に対し、市松線美濃赤坂-市松間2.6km、及び、昼飯線美濃赤坂-昼飯間1.9kmの建設許可免状交付を申請し、鐵道省で審査の結果、同年12月6日附で建設許可免状を交付した。

西濃鐵道は、昭和2年(1927年)3月に発生した構造不況の影響の煽りを受けた事から、建設工事遅延を余儀無くされたが、昭和3年(1928年)12月17日に開通した。

他方、新たに開業した西濃鐵道は貨物専用であり、金生山への作業従業員や赤坂町居住者から旅客扱開始を希望する声が出るのは自然の成り行きだったと言えた。


鐵道省工作局は、昭和4年(1929年)に船舶用小型ガソリン機関を活用し、キハニ5000型ガソリン動車を開発した。

該車は全長10mの2軸車輌で、池貝鐡工所が帝國海軍内火艇搭載用に開発した4気筒40馬力船舶用ガソリン機関1台を搭載し、同年7月に日本車輌製造本店に於いて計12両が完成したが、然し、当時既に民間で使用されていたガソリン動車群を参考にした形跡が皆無であり、頑丈で軽量化の考慮が全くされず、計算上に於ける総重量15tを超過する計19tとなり、機関出力に対しコロ軸を採用せず平軸だった事から、起動ですら難渋する状態だった。

車輌製造費は1両18390円と算出されたが、当時の日本車輌製造標準型ガソリン動車1両13000円から見ても極めて割高だった。

該車輌は、完成後、同年8月に東京大井工場内に搬入され、該車輌導入予定地たる、札幌、仙台、名古屋大垣、大阪姫路、徳島小松島各地より、機関手乗務員計20名、工作関係者15名が集められ、該工場内に於いて構造実習後、実車常務試運転を横浜線東神奈川-原町田(現 町田)間に於いて10日間に亘り実施された。

該車輌は、米原機関庫大垣支庫に2両配置され、同年9月6日より、大垣-美濃赤坂-西濃鐵道赤坂本町間に於いて試運転が開始された。

鐵道省としては、初のガソリン動車納入故に、慎重に慎重を重ね、初期故障は克服したものと判断し、翌昭和5年(1930年)2月1日より、大垣-西濃鐵道市橋線赤坂本町間5.5kmに於いて営業運転を開始した。

該区間開通当時、東海道本線大垣-垂井間に荒尾信号所が設置され美濃赤坂への分岐点を設置したが、該動車がフリーケントサーヴィスを目的として導入された事に誘発され、地元たる不破郡宇留生村は、該信号所に於いて客扱を可能とすべく、名古屋鐵道局に対し駅昇格請願を行った。

名古屋鐵道局は該請願を審査した結果、該請願を限定承認した。

即ち、若し、該信号所を駅昇格すると本線列車の相当数を停車させなければならず、該利用者数は期待出来ずと判断された事から、美濃赤坂支線該信号所起点0.3km地点に駅設置がされ、同年12月1日に荒尾駅が開業し、同日附で荒尾信号所は南荒尾信号所に名称変更された。

キハニ5000型運転開始に依り、従来の蒸気機関車牽引列車と比較して、列車本数増加に依る利便性向上から利用者が激増し、昭和7年(1932年)には、1両が配置転換で追加配置され計3両となったが、該車輌では収容力が不足し輸送が困難になった事から、該車より大型の昭和11年(1936年)にキハ41000型に代られた。

因みに、当時の気動車は一部例外を除きガソリン機関を搭載していた事から、現在の如き総括制御装置は搭載されておらず、故に、運転上に於いて、単車の場合は問題は無いが、2両以上を連結して運転する際は、各車輌に運転士を乗務させ、加速時は、先頭車運転士のブザー合図に依り同時にギア変換を行い運行すると云ふ複雑な運転方式を駆使していた。

日華事変(にっか じへん)(昭和12年(1937年)7月8日~昭和16年(1941年)12月8日)勃発に依る戦時体制移行でガソリン統制強化時代に突入した。

昭和15年(1940年)10月1日時刻改正では大垣-美濃赤坂-赤坂本町間に気動車列車が6往復運行されていたが、金生山産出の石灰石採掘工員輸送を理由に大東亜戦争勃発後も、該車輌運用は該区間3往復に減少したとは云え、昭和20年(1945年)3月31日まで運転され、翌日から蒸気機関車牽引列車に代ったが、戦前に於ける我が国に於けるガソリン動車が最後の一般運転区間となった。


該区間は、昭和33年(1958年)10月1日附で直流1500Vで電化された。

同日より、大垣電車区にクモハ40型、及び、クモハ14型が配置され、大垣-垂井間区間運転と共に、大垣-美濃赤坂間で使用されたが、反面、気動車運用が無くなった事で、西濃鉄道美濃赤坂-赤坂本町間乗入運転は廃止された。


金生山石灰石採掘減少から、西濃鉄道昼飯線美濃赤坂-昼飯間1.9kmは、平成18年(2006年)3月31日附で全線廃止されてしまった。


現在では、西濃鉄道乙女坂-美濃赤坂-笠寺-名古屋臨海鉄道名古屋南貨物間に、新日鐵住友金属名古屋製鉄所宛石灰石積ホッパー貨物列車2本が運行されている。

因みに、西濃運輸は企業名酷似だが全くの別企業組織である。


該区間沿線は荒尾駅周辺を除き、一面、田園風景拡がる地で、民営分割当時まで、旅客列車は朝夕に限定され、昼間運転の旅客列車は土曜のみ1本に限定だったが、現在では大垣岐阜名古屋のベットタウンと化し、昼間も旅客列車が運転されている。




表紙写真は、
美濃赤坂駅終端部。




東海道本線歴史的痕跡探訪記
~東京-濱松町間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10701644
~東京驛編~

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~品川-川崎間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10502858
~川崎-横濱間編 明治頌歌~
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~横濱-大船間編 明治頌歌~
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~灘-神戸間編 大正浪漫~
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旅行の満足度
4.5
観光
4.5
ホテル
3.0
グルメ
4.5
交通
4.5
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
新幹線 JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • 大垣駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム第3番線は、手小荷物車 ニ 業務用に使用されていたが、昭和5年(1930年)に、大垣-美濃赤坂-赤坂本町間に鐵道省初のガソリン動車 キハニ5000型導入時に整備されたホームである。<br />然し、開設当時は上屋が存在せず露天状態だった。<br />該ホーム上屋設置は、昭和30年(1955年)で、該上屋支柱に古軌条が再用されたが、該古軌条刻印は皇紀標記である。<br />皇紀(こうき)とは、初代 神武(じんむ)天皇(庚午元年(紀元前711年)1月1日~神武7年(紀元前584年)3月11日)(神武元年(紀元前660年)1月1日~神武76年(紀元前584年)3月11日御在位)が樫原ノ地に於ける即位を以って基準とする我が国独自の暦で、我が国に於ける大東亜戦争終結時までの国家主義絶頂期の帝國陸軍を初めとする一部官庁に於いて採用されたが、西暦と比較し、概ね一般的とはなり得なかった。<br />然るに、我が国は、日華(にっか)事変(昭和12年(1937年)7月8日~昭和16年(1941年)12月8日)勃発以降、漸次、平時体制から戦時体制へと移行し、特に、昭和15年(1940年)が皇紀2600年相当だった事から、重化学工業界に対しても西暦使用から皇紀暦使用へと変化を見る次第となった。<br />当時の我が国に於ける軌条生産は、八幡製鐡所の独占状態に均しかったが、概ね、昭和15年(1940年/2600年)~昭和23年(1948年/2608年)製造品に該刻印が見られる。<br />該製鐡所は軍需品製造優先ながらも大東亜戦争(昭和16年(1941年)12月8日~昭和20年(1945年)8月15日)勃発後も、少数製造ながら軌条製造を継続させていたが、平時産と比較し全体的に炭素度は低く、且つ、品質的にも粗製感が否定し得ず、特に、該戦争終結後に我が国に進駐してきた連合国側から製鉄業務が禁止され原材料入手も困難だった事から、手持ち古鋼材を溶解再用して完成させた軌条は製品として甚だ劣り、戦後の緊急物資不足時に短期使用を経て、安定製品登場と共に、該皇紀標記軌条は側線転用もされず、現地から撤去されたが、ホーム上屋支柱、跨線橋補助材、柵、等々に転用例が存在する。

    大垣駅



    第2番ホーム第3番線は、手小荷物車 ニ 業務用に使用されていたが、昭和5年(1930年)に、大垣-美濃赤坂-赤坂本町間に鐵道省初のガソリン動車 キハニ5000型導入時に整備されたホームである。
    然し、開設当時は上屋が存在せず露天状態だった。
    該ホーム上屋設置は、昭和30年(1955年)で、該上屋支柱に古軌条が再用されたが、該古軌条刻印は皇紀標記である。
    皇紀(こうき)とは、初代 神武(じんむ)天皇(庚午元年(紀元前711年)1月1日~神武7年(紀元前584年)3月11日)(神武元年(紀元前660年)1月1日~神武76年(紀元前584年)3月11日御在位)が樫原ノ地に於ける即位を以って基準とする我が国独自の暦で、我が国に於ける大東亜戦争終結時までの国家主義絶頂期の帝國陸軍を初めとする一部官庁に於いて採用されたが、西暦と比較し、概ね一般的とはなり得なかった。
    然るに、我が国は、日華(にっか)事変(昭和12年(1937年)7月8日~昭和16年(1941年)12月8日)勃発以降、漸次、平時体制から戦時体制へと移行し、特に、昭和15年(1940年)が皇紀2600年相当だった事から、重化学工業界に対しても西暦使用から皇紀暦使用へと変化を見る次第となった。
    当時の我が国に於ける軌条生産は、八幡製鐡所の独占状態に均しかったが、概ね、昭和15年(1940年/2600年)~昭和23年(1948年/2608年)製造品に該刻印が見られる。
    該製鐡所は軍需品製造優先ながらも大東亜戦争(昭和16年(1941年)12月8日~昭和20年(1945年)8月15日)勃発後も、少数製造ながら軌条製造を継続させていたが、平時産と比較し全体的に炭素度は低く、且つ、品質的にも粗製感が否定し得ず、特に、該戦争終結後に我が国に進駐してきた連合国側から製鉄業務が禁止され原材料入手も困難だった事から、手持ち古鋼材を溶解再用して完成させた軌条は製品として甚だ劣り、戦後の緊急物資不足時に短期使用を経て、安定製品登場と共に、該皇紀標記軌条は側線転用もされず、現地から撤去されたが、ホーム上屋支柱、跨線橋補助材、柵、等々に転用例が存在する。

    大垣駅

  • 南荒尾(みなみあらお)信号所<br /><br /><br /><br />該信号所は、大正8年(1919年)8月1日開設である。<br />開設当初は、荒尾聯絡所と称したが、村中心地に駅開設が決定し、昭和5年(1930年)12月1日附で現名称に変更した。<br />右奥分岐線が美濃赤坂線。<br /><br />大垣市熊野町無番地<br />東海道本線荒尾駅 徒歩6分

    南荒尾(みなみあらお)信号所



    該信号所は、大正8年(1919年)8月1日開設である。
    開設当初は、荒尾聯絡所と称したが、村中心地に駅開設が決定し、昭和5年(1930年)12月1日附で現名称に変更した。
    右奥分岐線が美濃赤坂線。

    大垣市熊野町無番地
    東海道本線荒尾駅 徒歩6分

  • 荒尾(あらお)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和5年(1930年)12月1日開業である。<br />大垣-美濃赤坂-赤坂本町間へのキハニ5000型ガソリン動車導入に依り、フリーケントサーヴィスが容易になった事に誘発され、地元たる不破郡宇留生村は、該信号所に於いて客扱を可能とすべく、名古屋鐵道局に対し駅昇格請願を行い、名古屋鐵道局は該請願を審査した結果、該請願を限定承認した。<br />即ち、若し、該信号所を駅昇格すると本線列車の相当数を停車させなければならず、該利用者数は期待出来ずと判断された事から、美濃赤坂支線該信号所起点0.3km地点に駅設置がされ、同年12月1日に荒尾駅が開業し、同日附で荒尾信号所は南荒尾信号所に名称変更された。<br />因みに、該駅は開業以来、無人駅である。

    荒尾(あらお)駅



    該駅は、昭和5年(1930年)12月1日開業である。
    大垣-美濃赤坂-赤坂本町間へのキハニ5000型ガソリン動車導入に依り、フリーケントサーヴィスが容易になった事に誘発され、地元たる不破郡宇留生村は、該信号所に於いて客扱を可能とすべく、名古屋鐵道局に対し駅昇格請願を行い、名古屋鐵道局は該請願を審査した結果、該請願を限定承認した。
    即ち、若し、該信号所を駅昇格すると本線列車の相当数を停車させなければならず、該利用者数は期待出来ずと判断された事から、美濃赤坂支線該信号所起点0.3km地点に駅設置がされ、同年12月1日に荒尾駅が開業し、同日附で荒尾信号所は南荒尾信号所に名称変更された。
    因みに、該駅は開業以来、無人駅である。

    荒尾駅

  • 荒尾駅<br /><br /><br /><br />ホーム<br />現在の ムーンライトながら号の元祖たる 東京発大垣行普通第375М列車は、電車化当初は美濃赤坂行で、該列車運転当時は153系急行型電車がグリーン車2両を含む12両編成が入線していた。

    荒尾駅



    ホーム
    現在の ムーンライトながら号の元祖たる 東京発大垣行普通第375М列車は、電車化当初は美濃赤坂行で、該列車運転当時は153系急行型電車がグリーン車2両を含む12両編成が入線していた。

    荒尾駅

  • 荒尾駅<br /><br /><br />ホーム出入口階段<br />普段の乗降客と比較し何とも大規模。

    荒尾駅


    ホーム出入口階段
    普段の乗降客と比較し何とも大規模。

    荒尾駅

  • 荒尾駅<br /><br /><br /><br />ホーム待合室

    荒尾駅



    ホーム待合室

    荒尾駅

  • 荒尾駅<br /><br /><br /><br />駅名板

    荒尾駅



    駅名板

    荒尾駅

  • 荒尾駅<br /><br /><br /><br />ホーム<br />全景<br />嘗て、153系12両編成電車は後部4両がホームからはみ出していたが、該部分にはホームが無いにも拘らず、律儀にもドアは開いていた。

    荒尾駅



    ホーム
    全景
    嘗て、153系12両編成電車は後部4両がホームからはみ出していたが、該部分にはホームが無いにも拘らず、律儀にもドアは開いていた。

    荒尾駅

  • 荒尾駅<br /><br /><br /><br />構内<br />全景

    荒尾駅



    構内
    全景

    荒尾駅

  • 荒尾-美濃赤坂間<br /><br /><br /><br />荒尾踏切<br />旅客線路は終点まで一直線状態。<br /><br />大垣市赤坂町1500<br />東海道本線荒尾駅 徒歩5分

    荒尾-美濃赤坂間



    荒尾踏切
    旅客線路は終点まで一直線状態。

    大垣市赤坂町1500
    東海道本線荒尾駅 徒歩5分

  • 荒尾-美濃赤坂間<br /><br /><br /><br />場内信号機<br /><br />大垣市赤坂町800<br />東海道本線荒尾駅 徒歩12分

    荒尾-美濃赤坂間



    場内信号機

    大垣市赤坂町800
    東海道本線荒尾駅 徒歩12分

    美濃赤坂駅

  • 荒尾-美濃赤坂間<br /><br /><br /><br />場内信号機<br />左 旅客線用<br />右 西濃鉄道連絡線用<br />西濃鉄道昼飯線現役時代は、信号機が更に1基計3基存在した。<br /><br />大垣市赤坂町800<br />東海道本線荒尾駅 徒歩12分

    荒尾-美濃赤坂間



    場内信号機
    左 旅客線用
    右 西濃鉄道連絡線用
    西濃鉄道昼飯線現役時代は、信号機が更に1基計3基存在した。

    大垣市赤坂町800
    東海道本線荒尾駅 徒歩12分

    美濃赤坂駅

  • 美濃赤坂駅<br /><br /><br /><br />構内全景<br /><br />大垣市赤坂町825<br />東海道本線美濃赤坂駅 徒歩8分

    美濃赤坂駅



    構内全景

    大垣市赤坂町825
    東海道本線美濃赤坂駅 徒歩8分

    美濃赤坂駅

  • 美濃赤坂駅<br /><br /><br /><br />分岐点<br />全景<br /><br />大垣市赤坂町725<br />東海道本線美濃赤坂駅 徒歩6分

    美濃赤坂駅



    分岐点
    全景

    大垣市赤坂町725
    東海道本線美濃赤坂駅 徒歩6分

    美濃赤坂駅

  • 美濃赤坂駅<br /><br /><br /><br />分岐点<br />左分岐線は、廃止された西濃鉄道昼飯線連絡線跡。<br /><br />大垣市赤坂町725<br />東海道本線美濃赤坂駅 徒歩6分

    美濃赤坂駅



    分岐点
    左分岐線は、廃止された西濃鉄道昼飯線連絡線跡。

    大垣市赤坂町725
    東海道本線美濃赤坂駅 徒歩6分

    美濃赤坂駅

  • 美濃赤坂駅<br /><br /><br /><br />貨物取扱施設

    美濃赤坂駅



    貨物取扱施設

    美濃赤坂駅

  • 美濃赤坂駅<br /><br /><br /><br />金生山

    美濃赤坂駅



    金生山

    美濃赤坂駅

  • 美濃赤坂駅<br /><br /><br /><br />西濃鉄道連絡線旅客ホーム跡

    美濃赤坂駅



    西濃鉄道連絡線旅客ホーム跡

    美濃赤坂駅

  • 美濃赤坂駅<br /><br /><br /><br />西濃鉄道機関車庫

    美濃赤坂駅



    西濃鉄道機関車庫

    美濃赤坂駅

  • 美濃赤坂駅<br /><br /><br /><br />貨物側線跡<br />道床が残存。

    美濃赤坂駅



    貨物側線跡
    道床が残存。

    美濃赤坂駅

  • 美濃赤坂駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />

    美濃赤坂駅



    駅構内

    美濃赤坂駅

  • 美濃赤坂駅<br /><br /><br /><br />貨物取扱ホーム跡

    美濃赤坂駅



    貨物取扱ホーム跡

    美濃赤坂駅

  • 美濃赤坂駅<br /><br /><br /><br />貨物取扱ホーム跡<br />古軌条支柱使用。

    美濃赤坂駅



    貨物取扱ホーム跡
    古軌条支柱使用。

    美濃赤坂駅

  • 美濃赤坂駅<br /><br /><br /><br />貨物取扱ホーム跡<br />古軌条支柱使用。

    美濃赤坂駅



    貨物取扱ホーム跡
    古軌条支柱使用。

    美濃赤坂駅

  • 美濃赤坂駅<br /><br /><br /><br />貨物取扱ホーム跡<br />古軌条支柱使用。<br />然し、錆が著しく解読不可能。

    美濃赤坂駅



    貨物取扱ホーム跡
    古軌条支柱使用。
    然し、錆が著しく解読不可能。

    美濃赤坂駅

  • 美濃赤坂駅<br /><br /><br /><br />貨物取扱ホーム跡<br />古軌条支柱使用。

    美濃赤坂駅



    貨物取扱ホーム跡
    古軌条支柱使用。

    美濃赤坂駅

  • 美濃赤坂駅<br /><br /><br /><br />全景

    美濃赤坂駅



    全景

    美濃赤坂駅

  • 美濃赤坂駅<br /><br /><br /><br />現用旅客ホーム

    美濃赤坂駅



    現用旅客ホーム

    美濃赤坂駅

  • 美濃赤坂駅<br /><br /><br /><br />駅本屋

    美濃赤坂駅



    駅本屋

    美濃赤坂駅

  • 美濃赤坂(みのあかさか)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、大正8年(1919年)8月1日開業である。<br />金生山産出の石灰石は抗瀬川水運に依り大垣駅まで搬送され、該駅に於いて貨車に積替られ目的地に搬出されていたが、該河川を上下する和舟積載では搭載量に限度があり、現地に於いて算出された石灰石が積出が間に合わず、野晒のまま劣硬化する事態が続出した。<br />此の為に、地元有力者達は、明治45年(1912年)に大垣-垂井間に新駅設置を請願、大正6年(1917年)3月16日附で、当時、東京新橋に本所が存在した時の中部鐵道管理局長 長尾半平太(ながお はんぺいた)(慶應元年(1865年)9月17日~昭和11年(1936年)6月30日)に対し、該状況打破の為に、鉄道支線敷設請願書を上申をした。<br />中部鐵道管理局は該請願書を審議した結果、該必要性が認められ、該支線設置の為に、地元赤坂町民有志は寄付金5000円拠出し、更に、地元業者は、貨物駅用地買収費8000円寄附を実地し、大垣駅起点3.1km地点に分岐用信号所 荒尾信号所を設置し、大正8年(1919年)8月1日に荒尾-美濃赤坂間1.9km間が開通と同時に該駅も開業した。<br />開業当初は貨主旅従で、東北本線秋葉原駅業務取扱と酷似していたが、昨今では貨物取扱業務は漸次低下し、反面、該駅周辺が大垣市郊外ベットタウンと化した事から、旅客取扱量は微増化している。

    美濃赤坂(みのあかさか)駅



    該駅は、大正8年(1919年)8月1日開業である。
    金生山産出の石灰石は抗瀬川水運に依り大垣駅まで搬送され、該駅に於いて貨車に積替られ目的地に搬出されていたが、該河川を上下する和舟積載では搭載量に限度があり、現地に於いて算出された石灰石が積出が間に合わず、野晒のまま劣硬化する事態が続出した。
    此の為に、地元有力者達は、明治45年(1912年)に大垣-垂井間に新駅設置を請願、大正6年(1917年)3月16日附で、当時、東京新橋に本所が存在した時の中部鐵道管理局長 長尾半平太(ながお はんぺいた)(慶應元年(1865年)9月17日~昭和11年(1936年)6月30日)に対し、該状況打破の為に、鉄道支線敷設請願書を上申をした。
    中部鐵道管理局は該請願書を審議した結果、該必要性が認められ、該支線設置の為に、地元赤坂町民有志は寄付金5000円拠出し、更に、地元業者は、貨物駅用地買収費8000円寄附を実地し、大垣駅起点3.1km地点に分岐用信号所 荒尾信号所を設置し、大正8年(1919年)8月1日に荒尾-美濃赤坂間1.9km間が開通と同時に該駅も開業した。
    開業当初は貨主旅従で、東北本線秋葉原駅業務取扱と酷似していたが、昨今では貨物取扱業務は漸次低下し、反面、該駅周辺が大垣市郊外ベットタウンと化した事から、旅客取扱量は微増化している。

    美濃赤坂駅

  • 美濃赤坂駅<br /><br /><br /><br />駅本屋

    美濃赤坂駅



    駅本屋

    美濃赤坂駅

  • 美濃赤坂駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />切妻鉄張屋根<br />平屋建<br />下見板張構造<br />大正8年(1919年)建築

    美濃赤坂駅



    駅本屋
    切妻鉄張屋根
    平屋建
    下見板張構造
    大正8年(1919年)建築

  • 美濃赤坂駅<br /><br /><br />駅本屋内<br />旅客待合室。

    美濃赤坂駅


    駅本屋内
    旅客待合室。

    美濃赤坂駅

  • 美濃赤坂駅<br /><br /><br />駅本屋内<br />旅客待合室。

    美濃赤坂駅


    駅本屋内
    旅客待合室。

    美濃赤坂駅

  • 美濃赤坂駅<br /><br /><br /><br />出札口跡<br />鉄道全盛期には出札窓口が2窓も存在した。

    美濃赤坂駅



    出札口跡
    鉄道全盛期には出札窓口が2窓も存在した。

    美濃赤坂駅

  • 美濃赤坂駅<br /><br /><br /><br />旧改札口からホーム

    美濃赤坂駅



    旧改札口からホーム

    美濃赤坂駅

  • 美濃赤坂駅<br /><br /><br /><br />右 出札口跡<br />左 手小荷物取扱窓口跡

    美濃赤坂駅



    右 出札口跡
    左 手小荷物取扱窓口跡

    美濃赤坂駅

  • 美濃赤坂駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />ホーム側

    美濃赤坂駅



    駅本屋
    ホーム側

    美濃赤坂駅

  • 美濃赤坂駅<br /><br /><br /><br />機関車折返線<br />蒸気機関車牽引時代は、客車から切離し、後部に付替える必要性が有った。<br />該区間電化後は、電気機関車が旅客列車を牽引する事は無く、故に、機関車折返線には架線が張られていない。

    美濃赤坂駅



    機関車折返線
    蒸気機関車牽引時代は、客車から切離し、後部に付替える必要性が有った。
    該区間電化後は、電気機関車が旅客列車を牽引する事は無く、故に、機関車折返線には架線が張られていない。

    美濃赤坂駅

  • 美濃赤坂駅<br /><br /><br /><br />旅客線終端部

    美濃赤坂駅



    旅客線終端部

    美濃赤坂駅

  • 美濃赤坂駅<br /><br /><br /><br />旅客線終端部

    美濃赤坂駅



    旅客線終端部

    美濃赤坂駅

  • 美濃赤坂駅<br /><br /><br /><br />西濃鉄道本社

    美濃赤坂駅



    西濃鉄道本社

    美濃赤坂駅

  • 西濃鉄道<br /><br /><br /><br />本町踏切<br /><br />大垣市赤坂町256<br />東海道本線美濃赤坂駅 徒歩10分

    西濃鉄道



    本町踏切

    大垣市赤坂町256
    東海道本線美濃赤坂駅 徒歩10分

  • 西濃鉄道<br /><br /><br /><br />赤坂本町駅跡碑<br />表面<br /><br />大垣市赤坂町256<br />東海道本線美濃赤坂駅 徒歩10分

    西濃鉄道



    赤坂本町駅跡碑
    表面

    大垣市赤坂町256
    東海道本線美濃赤坂駅 徒歩10分

  • 西濃鉄道<br /><br /><br /><br />赤坂本町駅跡碑<br />平成15年(2003年)11月 赤坂商工会建立<br /><br />大垣市赤坂町256<br />東海道本線美濃赤坂駅 徒歩10分

    西濃鉄道



    赤坂本町駅跡碑
    平成15年(2003年)11月 赤坂商工会建立

    大垣市赤坂町256
    東海道本線美濃赤坂駅 徒歩10分

  • 西濃鉄道<br /><br /><br /><br />赤坂本町駅跡碑<br /><br />大垣市赤坂町256<br />東海道本線美濃赤坂駅 徒歩10分

    西濃鉄道



    赤坂本町駅跡碑

    大垣市赤坂町256
    東海道本線美濃赤坂駅 徒歩10分

  • 西濃鉄道<br /><br /><br /><br />赤坂本町駅跡<br /><br />大垣市赤坂町256-3<br />東海道本線美濃赤坂駅 徒歩10分<br /><br />大垣市赤坂町256<br />東海道本線美濃赤坂駅 徒歩10分

    西濃鉄道



    赤坂本町駅跡

    大垣市赤坂町256-3
    東海道本線美濃赤坂駅 徒歩10分

    大垣市赤坂町256
    東海道本線美濃赤坂駅 徒歩10分

  • 西濃鉄道<br /><br /><br /><br />赤坂本町駅跡<br /><br />大垣市赤坂町256-3<br />東海道本線美濃赤坂駅 徒歩10分

    西濃鉄道



    赤坂本町駅跡

    大垣市赤坂町256-3
    東海道本線美濃赤坂駅 徒歩10分

  • 西濃鉄道<br /><br /><br /><br />赤坂本町駅跡<br />全景<br />駅舎、ホーム、階段等々が残存。<br /><br />大垣市赤坂町256-3<br />東海道本線美濃赤坂駅 徒歩10分

    西濃鉄道



    赤坂本町駅跡
    全景
    駅舎、ホーム、階段等々が残存。

    大垣市赤坂町256-3
    東海道本線美濃赤坂駅 徒歩10分

  • 赤坂本町<br /><br /><br /><br />駅本屋跡<br />左手駐車スペースに出改札口が存在した。<br /><br />大垣市赤坂町256-3<br />東海道本線美濃赤坂駅 徒歩10分

    赤坂本町



    駅本屋跡
    左手駐車スペースに出改札口が存在した。

    大垣市赤坂町256-3
    東海道本線美濃赤坂駅 徒歩10分

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この旅行記へのコメント (6)

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  • アリスさん 2021/09/21 22:29:46
    はじめまして。
    横浜臨海公園さん、こんばんは。

    はじめまして、アリスと申します。
    このたびは、私の旅行記をごらんいただき、
    そして、フォローいただき、ありがとうございます。
    少し遅れましたが、私もフォローさせていただきました。

    岐阜の旅行記は、やはり目にとまります^^
    私は千葉出身ですが、夫が岐阜出身です^^
    電車や線路の写真、とてもいいなあと思いました^^
    桜と一緒に撮るとまた、風情がありますね。

    また、お邪魔させていただきたいと思います。
    ありがとうございました。

    アリス

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2021/09/22 13:17:04
    拝復
    アリスさま、こんにちは。

    拙稿に初訪問と投票を賜りまして、誠に有難うございました。
    大垣から米原までの区間は、東海道本線でも一番訪れにくい所で、あれは全部自転車と徒歩で移動しております。
    荒尾-新垂井間は人家も少なく、特に、青墓などと云う地名からして火葬場と墓場以外、周囲に人気も人家など皆無な所など、不気味な雰囲気が漂い、気分が良いものではありませんでしたが、一番の難関区間の旅行記上程が終了し、正直ホッとしております。

    今後とも何卒宜敷くお願い申します。




    横浜臨海公園
  • イメ・トラさん 2021/09/15 09:22:17
    いいね、ありがとうございます
    美濃赤坂付近は通過駅ですが、桜がいいですね。桜が咲くころ散歩してみたいです。
    そのころコロナが収まっていることを祈るばかりです

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2021/10/03 08:13:47
    拝復
    イメ・トラさま、おはようございます。

    掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。
    昨今のフォートラベルはトラブルばかり発生しており、小生も別の会員の方の掲示板にコメントを寄稿した処、それが明示されたのがなぜか1箇月後だった事が立て続けに起こり、困惑させられておりました。

    仰せの通り、美濃赤坂は鉄道の終点ではあっても車では通過しがちな町で、観光地では無い所なので、なかなか訪れる機会に恵まれませんが、逆に静かな所故に、堪能し易い所です。
    是非とも桜花の頃に訪れてみるとよいと思います。



    横浜臨海公園
  • フロンティアさん 2019/04/14 18:29:49
    美濃赤坂線とホテルに対するこだわり
     こんばんは。いつもお世話になります。
     かつて岐阜に住んだことがありますが、美濃赤坂線は利用したことがなく、どのような路線か気になり拝見させて頂きました。
     基本的にはローカル線でレトロ感が伝わる路線のようですね。ただ元々は貨物鉄道の色彩が強いんですね。その美濃赤坂線ですが、朝夕を除くと運行本数が極めて少ないのでどうしても利用は敬遠してしまいますが…
     話は変わりますが、横浜臨海公園さんの口コミを拝見しているとルートインホテルの口コミがそれなりにあるように感じますが、横浜臨海公園さんにとってホテルに対するこだわりみたいなものがあればお聞かせ戴けると嬉しいです。
     ちなみに僕自身は東横インを利用することが多いのですが、東横インの場合、個別空調で、コインランドリーがそれなりにあるので個人的にはよく利用しています。ただルートインの朝食は品数豊富で、その点は素晴らしいと思います。
     最後にいつもご覧戴きましてありがとうございます。今後もいろんな話題を提供できれば…と思いますので引き続きよろしくお願いします。


    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2019/04/15 14:51:35
    拝復
    フロンティアさま、こんにちは。

    拙稿に投票と掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    仰せの如く、美濃赤坂線は最近までは貨主旅従の路線でしたが、沿線が大垣市中心地から至近だったにも拘らず、長年田園地帯だった事で、昨今では住宅地としての人気も高まり、旅客列車本数も増え、昼間も運転される様になりました。
    但し、終点赤坂は中仙道赤坂宿の面影を色濃く残しておりますが、観光客はみなさん自動車で来る様で、電車利用者は未だ少ない様に思います。

    小生が、ホテル宿泊時にルートインを利用する理由として、部屋がソコソコ広い事や大浴場があり、疲れた時など有難く利用出来るのに対し、東横インは、今から15年ほど前ですが、現社長の父が社長時代、態度が横柄で我々日本人を小馬鹿にした態度がマスコミにも取り上げられ、社員の25時間プラス、サービス労働勤務などもあり、それ以来、東横インは一切利用する事しなくなりました。
    ルートインも古くから存在する所で高崎を除けば、0.5度設定可能な個別空調に改造が完了した様です。



    横浜臨海公園

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