蒲郡旅行記(ブログ) 一覧に戻る
該区間は、大府-濱松間延長区間として、明治21年(1888年)9月1日開通である。<br /><br /><br />豊橋-大府間に於ける鉄道敷設の測量は、明治20年(1887年)5月に実施された。<br /><br />然し、従来の東海道線設置と異なり、該区間は、御油(現 愛知御津)-大府間は旧東海道街道筋とは平行させず、当時の一般的概念から見れば人煙少ない僻地と言うべき地に敷設された。<br /><br />以前は、旧東海道宿場筋から、蒸気機関車が排出する煤煙の弊害に依り、農作物生産に影響するだけでは無く、鶏が卵を生まなくなる、云々や、鉄道開通に伴い青壮年男子が鉄道を利用して吉田(現 豊橋)遊郭で放蕩する、云々、等々の理由を以って鉄道設置に猛反対し、敷設路線は遥か彼方へと追いやられたとする説が現在ですら有力視され、且つ、事実の如く伝承されて来た。<br /><br />然るに、該論を精査すると、当時の鉄道設置反対理由に就いて、尽く傍証が乏しく、且つ、事実と相違する事が判明する。<br /><br />即ち、明治10年代半ばともなると、鉄道設置に依る効果が全国各地で認識され、概ね、鉄道設置反対より誘致賛成派が積極的に自身所有地を無償提供して停車場設置を切望させる程になっていた。<br /><br />要するに、問題点は該当地に於いて、果たして路線設置が可能か否かの一点に掛かっていたと視るべきである。<br /><br />要は、明治20年代半ばに於いて、当時の小型低出力蒸気機関車では、例え該機関車が全出力を発揮したとしても、如何にしても全体的な出力不足は免れがたく、該地区を測量した結果25‰を超える一方的長距離登り連続勾配が不可避と判定された事から、已む無く、勾配を忌避させる為に、御油(現 愛知御津)-矢矧川橋梁東岸間に於いて「く」の字状を形成し、湾曲状に建設設置させたと云ふのが、けだし真相であろうと推定される。<br /><br />蒲郡村庄屋 長島藤六郎(ながしま とうろくろう)(天保11年(1840年)~ ? )は、内閣鐵道局主任技師 松田周次(まつだ しゅうじ)(生没年不詳)に対し、旧東海道筋では無く、現在の平坂街道筋設置を提言した。<br /><br />即ち、平坂街道は、旧東海道小坂井宿を起点とし、大塚、三谷、塩津を経由し平坂湊に至る約40kmの比較的平坦な街道で、測量の結果、途中隧道設置を1箇所要するも、概ね10/1000‰以下の勾配で設置可能であり、此の為に、東海道線は平坂街道筋に設置が決定された。<br /><br />明治19年(1886年)12月16日附扶桑新聞記事に、<br />本線ノ中ニテ土地最モ高ク工事容非ル場所ハ即チ箱根山ニ比ル御殿場ニ近傍ナリ 更ニ第二ハ旧東海道筋赤坂ノ先ナル本宿ニテ此拠ハ海面ヨリ高キ事百十二尺余ナレトモ其前後ナル線路ノ勾配ハ百分ノ一ノ上ニ昇ラスト云フ<br />との記述が傍証である。<br /><br />後に、現在の名古屋鉄道(なごや てつどう)の一翼基幹を形成させた 愛知電気鐵道(あいち でんきてつどう)が、名古屋-吉田(現 豊橋)間鉄道建設を決定した際に、旧東海道筋を一直線状に路線設置を成立させたが、伊奈-東岡崎間は25/1000‰の一方的登り勾配が避けられず、大正15年(1926年)4月1日に東岡崎-小坂井間26.0kmが開通し、次いで、昭和2年(1927年)6月1日に伊奈-吉田(現 豊橋)間5.0kmを以って名古屋神宮前-吉田間全通を果たしたが、吉田-平井間は既設の豊川鐵道(とよかわ てつどう)(現 東海旅客鉄道飯田線)線路に腹付させ該社と共有使用する事で豊橋駅乗入が可能になった。<br />そもそも該社が当初から直流1500Vを採用する高規格鉄道線だったからこそ可能だったのであり、若し、蒸気機関車での運転ならば、後部に補助機関車を連結した上でなければ、該区間での登攀は極めて困難だったものと推定される。<br /><br />事実、名古屋鉄道名古屋本線名電赤坂駅付近は山峡を思わせる土地形状で、若し、東海道本線が該地を経由して設置されれば、該地は神奈川県山北村と同じ発展を遂げたに相違ないと思われる。<br /><br /><br />豊橋-岡崎間開通時に於ける途中停車場は御油(ごゆ)(現 愛知御津)、及び、蒲郡の2箇所が設置された。<br /><br />内閣鐵道作業局は、当初計画で停車場設置を蒲郡村では無く三谷村に計画していた。<br /><br />然るに、当時の三谷村は漁村で、且つ、小規模ながら湊を有していた事から、地元海運業者衆から該地への停車場設置に難色を提示され、停車場設置に対し隣接する寒村たる蒲郡村に決定を見た。<br /><br />然し、蒲郡に現実に停車場が設置された事で、直ちに三谷村は後悔させられる事になる。<br /><br />蒲郡に停車場設置後、駅前に陸運業者や店舗、駅前旅館群が形成され、活気を呈したのに対し、三谷村は凋落の一途を辿り、蒲郡村が蒲郡町に昇格したのが、鉄道開業翌年たる明治22年(1889年)10月1日だったのに対し、三谷村が三谷町昇格は遅れ、明治27年(1894年)6月23日であるが、既に時代が輸送が海運から鉄道輸送へと変化した事を如実にしたものであった。<br /><br />三谷町は当局に対し、停車場設置請願を反復させたが、設置が実現したのは、実に鉄道開通41年後の昭和4年(1929年)7月3日だった。<br /><br />即ち、三谷町は、三谷漁港から水揚げされる水産物、及び、石炭等々の貨物輸送を停車場設置目的として明治41年(1908年)5月25日附で、帝國鐵道庁長官宛に第1回請願を行った。<br />次いで、翌明治42年(1909年)3月に内閣鐵道院初代総裁 後藤新平(ごとう しんぺい)(安政4年(1857年)7月24日~昭和4年(1929年)4月13日)(明治41年(1908年)12月5日~明治44年(1911年)8月30日在任)に対し第2回請願を行ったが、当時は隣接駅と3哩(4.82km)以上離れている事が条件だった為に、何れの請願も採用とする処とならず該請願は却下された。<br /><br />更に、第1次世界大戦勃発に依り一般物価が暴騰し、暫く新駅設置に関する請願提出は見送られた。<br /><br />大正13年(1924年)5月4日に、第24代内閣総理大臣 加藤高明(かとう たかあき)(安政7年(1860年)1月25日~大正15年(1926年)1月28日)内閣(大正13年(1924年)6月1日~大正15年(1926年)1月30日組閣)の第5代鐵道大臣 仙石 貢(せんごく みつぎ)(安政2年(1857年)7月22日~昭和6年(1931年)10月30日)(大正13年(24年)6月1日~大正15年(1926年)1月30日在任)に対し第3回請願が行われたが、当時の鐵道省の回答は停車場設置必要地の無償提供要求が提示された事から、三谷町では早速検討し該提示が可能たる事を回答した。<br /><br />大正15年(1926年)7月には、鐵道省内部に於いて、三谷付近への駅設置が内定したとの新聞報道に依り、三谷町では更に金10万円を建設資金として提供する事を決定し、第25代第Ⅰ次 若槻禮次郎(わかつき れいじろう)(文久2年(1866年)3月21日~昭和24年(1949年)11月20日)内閣(大正15年(1926年)1月30日~昭和2年(1927年)4月20日組閣)の第6代鐵道大臣 井上匡四郎(いのうえ ただしろう)(明治9年(1876年)4月30日~昭和34年(1959年)3月18日)(大正15年(1926年)1月30日~昭和2年(1927年)4月20日在任)に提出し、鐵道省は該内容を審議した結果、同年12月8日に大臣決済が下り新駅設置が決定した。<br /><br />該決定に基き、昭和2年(1927年)2月、及び、同年7月に現地測量が実施され、昭和3年(1928年)2月11日に工事着工し、翌昭和4年(1929年)7月3日に工事竣工し開業の運びとなった。<br /><br />然し、蒲郡対三谷に於ける比較は当時ですら覆うべくも無い状態であり、且つ、急行東海号が東京-名古屋・大垣間運転していた時代は中距離急行列車も停車したが、現在では、蒲郡が寝台特急列車を除く全旅客列車が停車するのに対し、三谷は特別快速電車が通過する純然たるローカル駅の地位へと甘んじた存在である。<br /><br /><br />鐵道唱歌 <br />第30番<br />豊橋おりて乗る汽車は<br />(とよはし おりて のるきしゃは)<br />此れぞ豊川稲荷道<br />(これぞ とよかわいなりみち)<br />東海道にてすぐれたる<br />(とうかいどうにて すぐれたる)<br />海のながめは蒲郡♪<br />(うみの ながめは がまごおり)<br /><br />豊橋と蒲郡が同じ1曲内とは素っ気無い歌詞である。<br /><br />第31番<br />見よや徳川家康の<br />(みよや とくがわいえやすの)<br />おこりし土地の岡崎を<br />(おこりし とちの おかざきを)<br />矢矧の橋に残れるは<br />(やはぎのはしに のこれるは)<br />藤吉郎のものがたり♪<br />(とうきちろうの ものがたり)<br /><br />豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)(天文6年(1537年)3月17日?~慶長3年(1598年)9月18日)の伝記とされる太閤記(たいこうき)に於いて、秀吉が羽柴藤吉郎時代に、矢矧川橋上での蜂須賀小六(はちすか ころく)(大永6年(1526年)~天正14年(1586年)7月8日)との邂逅を歌詞にしたものである。<br /><br /><br />該区間に於ける複線化は、<br />豊橋-御油(現 愛知御津)間 明治41年(1908年)6月 2日<br />御油(現 愛知御津)-蒲郡間               29日<br />蒲郡-岡崎間        明治35年(1902年)9月  1日<br />既成線路の山側に新設線路が敷設され、新設線路は上り線専用、既成線路は下り線専用になった。<br /><br /><br />東海道本線、若しくは、東海道新幹線に乗車し、蒲郡付近を通過すると、車窓に三河湾や竹島と共に、瀟洒な高級リゾートホテルが望見される。<br /><br /><br />蒲郡竹島城山地区には、三河地方には珍しく冷泉が湧出していたが、名古屋の大手繊維取扱問屋滝兵社長 滝 信四郎(たき のぶしろう)(慶應4年(1868年)7月15日~昭和13年(1938年)11月26日)は、風光明媚な該地に着目し、明治45年(1912年)7月25日に高級割烹旅館 常磐館(ときわかん)を開業させた事で、該地区が高級リゾート地として脚光を浴びる嚆矢となった。<br /><br />常磐館には、皇族、華族、政財界名士、陸海軍将官、文士が宿泊し、殊に、大正11年(1922年)に、作家 菊池 寛(きくち かん)(明治21年(1888年)12月26日~昭和23年(1948年)3月6日)が火華を発表し、該作品中に該館が採り上げられた事がきっかけで、川端康成(かわばた やすなり)(明治32年(1899年)6月14日~昭和47年(1972年)4月16日)、高濱虚子(たかはま きょし)(明治7年(1874年)2月22日~昭和34年(1959年)4月8日)、与謝野晶子(よさの あきこ)(明治11年(1878年)12月7日~昭和17年(1942年)5月29日)、山本有三(やまもと ゆうぞう)(明治20年(1887年)7月27日~昭和49年(1974年)1月11日)、谷崎潤一郎(たにざき じゅんいちろう)(明治19年(1886年)7月24日~昭和40年(1965年)7月30日)、三島由紀夫(みしま ゆきお)(大正14年(1925年)1月14日~昭和45年(1970年)11月25日)等々の作家詩人が、三河湾や竹島を描写した作品を登場させた事から、蒲郡の地名が次第に知られる結果となった。<br /><br />他方、我が国は、第1次世界大戦終結後に発生した世界的大不況の影響から、輸出は伸び悩み、更に、当時の我が国は固定相場制を採用し米1ドル2円だった事から、慢性的な外貨不足状態に苦しんでいた。<br /><br />此の為に、我が国は昭和2年(1927年)以降、国際収支改善対策を必要とした事から、該対策をして国策として実施する事になり、第27代 濱口雄幸(はまぐち おさち)(明治3年(1870年)5月1日~昭和6年(1931年)8月26日)内閣(昭和4年(1929年)7月2日~昭和6年(1931年)4月14日組閣)に依り具体化され、該政策を受け、鐵道省は昭和5年(1930年)4月24日に国際観光局を新設し、初代局長に新井尭璽(あらい たかし)(明治19年(1886年)5月15日~昭和41年(1966年)5月9日)(昭和6年(1931年)4月14日~昭和7年(1932年)1月16日在任)を任命就任させ、外国人観光誘致に関する指導、監督、助成を担当する事になった。<br /><br />他方、同時期に、大蔵省預金部は我が国国内に於ける外国人対応可能ホテル新設、若しくは、増改築時に該地方公共団体に対し、低金利に拠る財務融資させる事に決定した。<br /><br />即ち、外貨獲得の必要性から、我が国国内各地への外国人訪問の為に、観光ホテル新設、若しくは、増改築に対し、長期低金利に依る融資を実施し、然も、該経営に対しては必ずしも公共団体が行う必要が無く、第三者たる民間への業務委託も亦可能とし、且つ、該融資額全額回収完了時に、該地方団体に対し無償払下される事から、該地方団体は該不動産をして第三者に対し転売も可能と言う極めて有利な内容だった。<br /><br />蒲郡町は、直ちに国際観光ホテル建設を決定し、内務省社会局に対し観光ホテル新設を申請した処、当時、全国各地から40数件申請が提出されたが、蒲郡町申請分は、横浜市申請分の横浜ニューグランドホテル増床分件と共に、第1位融資に内定を見た。<br /><br />該ホテル工事は昭和8年(1933年)8月に着工した。<br /><br />該ホテル設計は、久野 節(くの みさお)(明治15年(1882年)12月21日~昭和37年(1962年)8月7日)が担当した。<br /><br />久野は、東京帝國大学工学部建築学科卒業後、千葉県を経て、明治44年(1911年)に鐵道院に移籍し、鐵道省工務部初代建築課長に就任したが、昭和2年(1927年)に退官し、久野建設事務所を立ち上げ活動していた。<br />久野は、様式として近世復興形式を得意とし、事実、該ホテル外観は日本調帝冠様式だった。<br /><br />該ホテル工事は大林組が担当し、翌昭和9年(1934年)2月に竣工した。<br />鉄骨鉄筋コンクリート造4階一部6階構造で、該ホテル内部は完全純様式であり、部屋数30室の他、レストランのみならず、当時のホテルとしては珍しくダンスホールをも設置されていた。<br /><br /><br />昭和19年(1944年)12月7日13時36分に発生した東南海大地震(とうなんかい だいじしん)の影響で、豊橋-御油(現 愛知御津)間に存在する豊川橋梁は橋脚が沈下破損する被害が発生したが、袋井-新所原間被害と比較し、該区間被害は軽微だった。<br /><br /><br />更に、翌昭和20年(9145年)1月13日3時38分に三河大地震(みかわ だいじしん)が発生した。<br /><br />該地震は、震度こそ前年12月7日に発生した東南海大地震より低い数値だったが、然し、人的被害は前大地震より2倍以上の被害が発生した。<br /><br />即ち、該大地震発生時刻が深更たる就寝時間だった事から、倒壊家屋の下敷きになった被災者が多数存在した点に於いて、平成7年(1995年)1月17日5時46分に発生した阪神淡路(はんしん あわじ)大震災と共通点が見出せる。<br /><br />該地震発生時に該線沿線に疎開していた名古屋市内所在國民学校訓導児童が多数、寺院を宿所として利用しており、個々寺院に於いて床陥没を生じた所では、人的被害も軽微だったが、碧南郡高岡村所在の徳念寺の如き、本堂天井が崩壊しながら床陥没しなかった寺院では、訓導2名、児童28名即死の被害が発生した。<br /><br />該地震に依り、豊川橋梁が再度橋脚傾斜陥没、及び、蒲郡-幸田間に断層が原因たる路盤隆起の被害が発生したが、陸軍の協力も得て、該震災発生当日中に修復され運転再開が可能になったが、然し、該隆起こそ、深溝断層(ふこうず だんそう)であり、昭和50年(1975年)2月に愛知県天然記念物に指定された。<br /><br /><br />大東亜戦争中、該区間に於ける空襲被害は、<br />昭和20年(1945年)<br />2月15日 B29戦略爆撃機33機<br /> 警戒警報発令 13時30分<br /> 空襲警報発令 13時43分<br /> 空襲開始   14時00分<br /> 空襲警報解除 15時07分<br /> 警戒警報解除 15時35分<br />該空襲では、東海道本線に対し直接被害は発生こそ無かったが、該線豊川橋梁に平行し存在する飯田線下り線用橋梁に対しP51型艦載機から機銃掃射攻撃を受け橋桁小損被害が発生。<br />開通 同日19時45分<br /><br />5月19日<br /> 警戒警報発令  0時30分<br /> 空襲警報発令  1時00分<br /> 空襲開始    1時15分<br /> 空襲警報解除  3時00分<br /> 警戒警報解除  3時15分<br />御油(現 愛知御津)駅構内<br />  空母艦載機 機銃掃射攻撃<br />  枕木焼損1箇所12本<br /><br />7月18日<br /> 警戒警報発令  0時00分<br /> 空襲警報発令  0時30分<br /> 空襲開始    0時45分<br /> 空襲警報解除  2時00分<br /> 警戒警報解除  2時15分<br />幸田-岡崎間<br />  線路破壊 1箇所10m<br /><br />7月20日<br /> 警戒警報発令  0時00分<br /> 空襲警報発令  0時30分<br /> 空襲開始    0時45分<br /> 空襲警報解除  2時00分<br /> 警戒警報解除  2時15分<br />幸田駅<br />  下り旅客普通列車<br />  空母艦載機 機銃掃射攻撃<br />旅客数名即死 重軽傷者相当数<br /><br />8月 1日<br /> 警戒警報発令  0時00分<br /> 空襲警報発令  0時30分<br /> 空襲開始    0時45分<br /> 空襲警報解除  2時00分<br /> 警戒警報解除  2時30分<br />幸田駅<br />  駅本屋 職員官舎 全焼<br />  蒸気機関車 幸田1両 岡崎1両<br />   以上、中破<br />  客車    幸田6両<br />  貨車    岡崎1両<br />   以上、大破全焼<br /><br />8月 2日(岡崎空襲)<br /> 警戒警報発令  0時00分<br /> 空襲警報発令  0時30分<br /> 空襲開始    0時45分<br /> 空襲警報解除  1時30分<br /> 警戒警報解除  2時00分<br />岡崎駅<br />  駅本屋 構内施設 全焼<br />  該駅構内線路破壊 1箇所20m<br />  蒸気機関車用給水塔(上下線共)中破<br /><br />8月 7日 第20航空軍 第58航空隊 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計124機 豊川大空襲<br /> 警戒警報発令  0時32分<br /> 空襲警報発令  1時00分<br /> 空襲開始    1時12分<br /> 空襲警報解除  4時15分<br /> 警戒警報解除  4時25分<br />御油(現 愛知御津)駅構内 <br />  駅本屋 下りホーム待合所 貨物ホーム上屋 踏切番職員官舎<br />  上下線線路破壊1箇所100m 枕木焼失50本<br />該駅構内被災車輌<br />  オハ31 161(大キト)全焼<br />  スハ32 452(仙フク)全焼<br /> 以上、昭和21年(1946年)3月31日附戦災廃車<br />豊橋-三河三谷間 機銃掃射攻撃被害数箇所<br />開通 同日19時<br /><br /><br />大東亜戦争後、三河大島地区は蒲郡ホテルと共に進駐軍に接収され、高級将校宿泊専用ホテルとして再スタートを切った。<br /><br />此の為に、蒲郡駅に進駐軍専用列車たる、デキシー・リミテッド(DIXIE LIMITED)、及び、アライッド・リミテッド(ALLIED LIMITED)2往復が停車した。<br /><br />進駐軍に依る接収は、昭和26年(1951年)4月30日に一部解除になるまで継続したが、接収完全解除は、昭和27年(1952年)5月31日である。<br /><br /><br />昭和32年(1957年)第8回植樹祭は岐阜県で開催されたが、該大会にご出席される為に 第124代 昭和天皇(しょうわ てんのう)(明治34年(1901年)4月29日~昭和64年(1989年)1月7日)(昭和元年(1926年)12月25日~昭和64年(1989年)1月9日御在位)、及び、香淳皇后(こうじゅん こうごう)(明治36年(1903年)3月6日~平成12年(2000年)6月16日)両陛下は、同年4月6日9時10分東京駅発御召列車で御西下された。<br />天皇皇后両陛下は、同月10日に名古屋を御出発され、トヨタ自動車工場を御見学後、該ホテルで2泊された。<br />天皇皇后両陛下は、同月12日に蒲郡駅11時30分発御召列車に乗車され御帰京された。<br /><br /><br />昭和期に於ける3大大型台風とは、室戸(むろと)台風(昭和9年(1934年)9月21日)、枕崎(まくらざき)台風(昭和20年(1945年)9月16日)、及び、伊勢湾(いせわん)台風(昭和34年(1959年)9月26日)を称する。<br /><br />該台風群内で、該線愛知県内に関係するものは伊勢湾台風で、特に、安城-尾張一宮間被害が著しく、中部電力送電線に被害が発生した事で、該線沿線の変電所への送電が不可能になり、此の為に、途中で立往生を余儀無くされた電車、及び、電気機関車が、蒸気機関車の手助を借り48時間後に救援される始末だった。<br /><br />然し、三河地方に於いて台風被害が際立ったものは、昭和28年(1953年)9月25日襲来の台風13号とされる。<br /><br />即ち、該台風は、該日19時頃に該県碧南市付近に上陸したが、悪い事に、三河湾の満潮時と共に大潮と重複した事から、該湾に面した各市町村では、通常潮位より約3.56mを超過する事態となり、海水は防潮堤を乗越え、該各地に於いて浸水被害を発生させたが、特に、豊橋市内に於いて、豊川堤防が各地で決壊し、該市内は、あたかも湖水状態になった。<br /><br />原因は、異常な潮位と共に、該川が豊橋市内に於いてΩ状になり滞水し易い構造と共に、堤防が東南海大地震(昭和19年(1944年)12月7日)、及び、三河大地震(昭和20年(1945年)1月13日)被害の後遺症として堤防が劣化し膨大な水量に耐えられず決壊した、等々が原因と断定された。<br /><br />豊川放水路設置治水事業は、既に、大正期に当時の内務省土木局に依り立案されており、昭和13年(1939年)に着手されたものの、折からの日華事変(にっか じへん)(昭和12年(1937年)7月7日~昭和16年(1941年)12月8日)勃発に依る国家総動員体制導入に依り工事は中断された。<br /><br />然るに、大東亜戦争終結後、大型台風襲来の都度、豊橋市内は冠水が当然の如き状態となり、内務省土木局の後塵組織たる建設省中部地方建設局は、該工事を昭和30年(1955年)に再開し、此の為に、日本国有鉄道岐阜建設局は該放水路設置箇所に新架橋を決定し、昭和37年(1962年)1月に着工し、翌昭和38年(1963年)1月に竣工し、東海道本線、及び、飯田線下り線を1連3本の下路ポニーワーレントラス橋梁に切替られた。<br /><br />因みに、我が国に於ける鉄道橋梁3線型トラス橋梁は該橋梁以外1箇所しか無く、極めて稀な存在である。<br /><br /><br />三河大塚-三河三谷間に存在する 星越山(ほしごえやま)隧道は、明治21年(1888年)9月1日附で、大府-濱松間開通時に蒲郡-御油(現 愛知御津)間に設置された該線愛知県内唯一の隧道である。<br /><br />その後、該区間複線化工事が起工され、新隧道は既成隧道山側に設置がなされ、該区間は、明治41年(1908年)6月29日附で複線化され、新設隧道は上り線専用となり、既成隧道は下り線専用となった。<br /><br />その後、大東亜戦争後に於ける東海道本線全線電化計画に鑑み、浜松-名古屋間電化工事に際し、該下り線用隧道の取扱が問題視された。<br />即ち、該隧道は建設期が古い事から建築限界が狭隘で、電化必須に於ける架線吊張の必要空間有余が存在せず、且つ、該区間を単線運転し該工事を施工は困難とされた。<br />該工事を担当する日本国有鉄道岐阜工事局は検討した結果、大東亜戦争勃発以前に計画された弾丸列車計画の為に、当時の鐵道省が付近一帯の用地を取得済だった事から、該用地を活用し、別地点に複線用隧道を掘削設置する事で、当面の該線電化を可能とすべく、該隧道掘削工事を起工し、該新隧道は、昭和27年(1952年)4月に竣工し、同年12月に東海道本線上り線が新隧道経由に切替えられた。<br /><br />更に、新隧道切替で使用停止になった旧上り線隧道を整備し、下り線を旧上り線に切替が実施され、旧下り線隧道は使用中止となり放置された。<br />然るに、日本国有鉄道常務理事会で東海道新幹線東京-新大阪間建設が決定した事から、該新隧道は本来使用目的たる新幹線用に転用される事になり、此の為に、使用中止後、放置されていた旧下り線用隧道を、坑径拡大工事を施工し、下り線は、昭和37年(1962年)4月25日、上り線は、同年6月2日に切替られ、改築工事が完了した元隧道に路線が戻された。<br /><br /><br />蒲郡駅を中心とする前後区間に於ける踏切閉鎖時間増大に依る閉鎖を解消させる為に、該駅区間高架化が決定し、該工事は、平成7年(1995年)3月28日に着工し、下り線は平成15年(2003年)4月14日、上り線は平成17年(2005年)12月18日に新高架線に切替られ、交通渋滞が解消された。<br /><br /><br />表紙写真は、<br />豊橋-西小坂井間に現存する 旧平井前避溢橋跡<br /><br /><br /><br /><br /><br />東海道本線歴史的痕跡探訪記<br />~東京-濱松町間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10701644<br />~東京驛編~<br /><br />~汐留-濱松町-品川間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10797199<br />~品川-川崎間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10502858<br />~川崎-横濱間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10711843<br />~横濱駅移設変転史編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10316826<br />~横濱-大船間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/10713813<br />~大船-平塚間編 明治頌歌~<br /><br />~平塚-國府津間編 明治頌歌~<br /><br />~國府津-根府川間編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10298330<br />~根府川-熱海編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10310352<br />~丹那隧道完成秘話 丹那隧道碑文から読み取れし或る歴史的事実~<br />http://4travel.jp/travelogue/10291350<br />~丹那隧道完成秘話 三島口建設工事鉄道線探訪記~<br />http://4travel.jp/travelogue/10575630<br />~熱海-沼津間編~<br /><br />~沼津駅驛編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10294787<br />~沼津港線編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10621891<br />~沼津-富士間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10623829<br />~富士-興津間編 明治頌歌~<br 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東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~豊橋-岡崎間編 明治頌歌~

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2015/12/25 - 2015/12/26

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横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

該区間は、大府-濱松間延長区間として、明治21年(1888年)9月1日開通である。


豊橋-大府間に於ける鉄道敷設の測量は、明治20年(1887年)5月に実施された。

然し、従来の東海道線設置と異なり、該区間は、御油(現 愛知御津)-大府間は旧東海道街道筋とは平行させず、当時の一般的概念から見れば人煙少ない僻地と言うべき地に敷設された。

以前は、旧東海道宿場筋から、蒸気機関車が排出する煤煙の弊害に依り、農作物生産に影響するだけでは無く、鶏が卵を生まなくなる、云々や、鉄道開通に伴い青壮年男子が鉄道を利用して吉田(現 豊橋)遊郭で放蕩する、云々、等々の理由を以って鉄道設置に猛反対し、敷設路線は遥か彼方へと追いやられたとする説が現在ですら有力視され、且つ、事実の如く伝承されて来た。

然るに、該論を精査すると、当時の鉄道設置反対理由に就いて、尽く傍証が乏しく、且つ、事実と相違する事が判明する。

即ち、明治10年代半ばともなると、鉄道設置に依る効果が全国各地で認識され、概ね、鉄道設置反対より誘致賛成派が積極的に自身所有地を無償提供して停車場設置を切望させる程になっていた。

要するに、問題点は該当地に於いて、果たして路線設置が可能か否かの一点に掛かっていたと視るべきである。

要は、明治20年代半ばに於いて、当時の小型低出力蒸気機関車では、例え該機関車が全出力を発揮したとしても、如何にしても全体的な出力不足は免れがたく、該地区を測量した結果25‰を超える一方的長距離登り連続勾配が不可避と判定された事から、已む無く、勾配を忌避させる為に、御油(現 愛知御津)-矢矧川橋梁東岸間に於いて「く」の字状を形成し、湾曲状に建設設置させたと云ふのが、けだし真相であろうと推定される。

蒲郡村庄屋 長島藤六郎(ながしま とうろくろう)(天保11年(1840年)~ ? )は、内閣鐵道局主任技師 松田周次(まつだ しゅうじ)(生没年不詳)に対し、旧東海道筋では無く、現在の平坂街道筋設置を提言した。

即ち、平坂街道は、旧東海道小坂井宿を起点とし、大塚、三谷、塩津を経由し平坂湊に至る約40kmの比較的平坦な街道で、測量の結果、途中隧道設置を1箇所要するも、概ね10/1000‰以下の勾配で設置可能であり、此の為に、東海道線は平坂街道筋に設置が決定された。

明治19年(1886年)12月16日附扶桑新聞記事に、
本線ノ中ニテ土地最モ高ク工事容非ル場所ハ即チ箱根山ニ比ル御殿場ニ近傍ナリ 更ニ第二ハ旧東海道筋赤坂ノ先ナル本宿ニテ此拠ハ海面ヨリ高キ事百十二尺余ナレトモ其前後ナル線路ノ勾配ハ百分ノ一ノ上ニ昇ラスト云フ
との記述が傍証である。

後に、現在の名古屋鉄道(なごや てつどう)の一翼基幹を形成させた 愛知電気鐵道(あいち でんきてつどう)が、名古屋-吉田(現 豊橋)間鉄道建設を決定した際に、旧東海道筋を一直線状に路線設置を成立させたが、伊奈-東岡崎間は25/1000‰の一方的登り勾配が避けられず、大正15年(1926年)4月1日に東岡崎-小坂井間26.0kmが開通し、次いで、昭和2年(1927年)6月1日に伊奈-吉田(現 豊橋)間5.0kmを以って名古屋神宮前-吉田間全通を果たしたが、吉田-平井間は既設の豊川鐵道(とよかわ てつどう)(現 東海旅客鉄道飯田線)線路に腹付させ該社と共有使用する事で豊橋駅乗入が可能になった。
そもそも該社が当初から直流1500Vを採用する高規格鉄道線だったからこそ可能だったのであり、若し、蒸気機関車での運転ならば、後部に補助機関車を連結した上でなければ、該区間での登攀は極めて困難だったものと推定される。

事実、名古屋鉄道名古屋本線名電赤坂駅付近は山峡を思わせる土地形状で、若し、東海道本線が該地を経由して設置されれば、該地は神奈川県山北村と同じ発展を遂げたに相違ないと思われる。


豊橋-岡崎間開通時に於ける途中停車場は御油(ごゆ)(現 愛知御津)、及び、蒲郡の2箇所が設置された。

内閣鐵道作業局は、当初計画で停車場設置を蒲郡村では無く三谷村に計画していた。

然るに、当時の三谷村は漁村で、且つ、小規模ながら湊を有していた事から、地元海運業者衆から該地への停車場設置に難色を提示され、停車場設置に対し隣接する寒村たる蒲郡村に決定を見た。

然し、蒲郡に現実に停車場が設置された事で、直ちに三谷村は後悔させられる事になる。

蒲郡に停車場設置後、駅前に陸運業者や店舗、駅前旅館群が形成され、活気を呈したのに対し、三谷村は凋落の一途を辿り、蒲郡村が蒲郡町に昇格したのが、鉄道開業翌年たる明治22年(1889年)10月1日だったのに対し、三谷村が三谷町昇格は遅れ、明治27年(1894年)6月23日であるが、既に時代が輸送が海運から鉄道輸送へと変化した事を如実にしたものであった。

三谷町は当局に対し、停車場設置請願を反復させたが、設置が実現したのは、実に鉄道開通41年後の昭和4年(1929年)7月3日だった。

即ち、三谷町は、三谷漁港から水揚げされる水産物、及び、石炭等々の貨物輸送を停車場設置目的として明治41年(1908年)5月25日附で、帝國鐵道庁長官宛に第1回請願を行った。
次いで、翌明治42年(1909年)3月に内閣鐵道院初代総裁 後藤新平(ごとう しんぺい)(安政4年(1857年)7月24日~昭和4年(1929年)4月13日)(明治41年(1908年)12月5日~明治44年(1911年)8月30日在任)に対し第2回請願を行ったが、当時は隣接駅と3哩(4.82km)以上離れている事が条件だった為に、何れの請願も採用とする処とならず該請願は却下された。

更に、第1次世界大戦勃発に依り一般物価が暴騰し、暫く新駅設置に関する請願提出は見送られた。

大正13年(1924年)5月4日に、第24代内閣総理大臣 加藤高明(かとう たかあき)(安政7年(1860年)1月25日~大正15年(1926年)1月28日)内閣(大正13年(1924年)6月1日~大正15年(1926年)1月30日組閣)の第5代鐵道大臣 仙石 貢(せんごく みつぎ)(安政2年(1857年)7月22日~昭和6年(1931年)10月30日)(大正13年(24年)6月1日~大正15年(1926年)1月30日在任)に対し第3回請願が行われたが、当時の鐵道省の回答は停車場設置必要地の無償提供要求が提示された事から、三谷町では早速検討し該提示が可能たる事を回答した。

大正15年(1926年)7月には、鐵道省内部に於いて、三谷付近への駅設置が内定したとの新聞報道に依り、三谷町では更に金10万円を建設資金として提供する事を決定し、第25代第Ⅰ次 若槻禮次郎(わかつき れいじろう)(文久2年(1866年)3月21日~昭和24年(1949年)11月20日)内閣(大正15年(1926年)1月30日~昭和2年(1927年)4月20日組閣)の第6代鐵道大臣 井上匡四郎(いのうえ ただしろう)(明治9年(1876年)4月30日~昭和34年(1959年)3月18日)(大正15年(1926年)1月30日~昭和2年(1927年)4月20日在任)に提出し、鐵道省は該内容を審議した結果、同年12月8日に大臣決済が下り新駅設置が決定した。

該決定に基き、昭和2年(1927年)2月、及び、同年7月に現地測量が実施され、昭和3年(1928年)2月11日に工事着工し、翌昭和4年(1929年)7月3日に工事竣工し開業の運びとなった。

然し、蒲郡対三谷に於ける比較は当時ですら覆うべくも無い状態であり、且つ、急行東海号が東京-名古屋・大垣間運転していた時代は中距離急行列車も停車したが、現在では、蒲郡が寝台特急列車を除く全旅客列車が停車するのに対し、三谷は特別快速電車が通過する純然たるローカル駅の地位へと甘んじた存在である。


鐵道唱歌
第30番
豊橋おりて乗る汽車は
(とよはし おりて のるきしゃは)
此れぞ豊川稲荷道
(これぞ とよかわいなりみち)
東海道にてすぐれたる
(とうかいどうにて すぐれたる)
海のながめは蒲郡♪
(うみの ながめは がまごおり)

豊橋と蒲郡が同じ1曲内とは素っ気無い歌詞である。

第31番
見よや徳川家康の
(みよや とくがわいえやすの)
おこりし土地の岡崎を
(おこりし とちの おかざきを)
矢矧の橋に残れるは
(やはぎのはしに のこれるは)
藤吉郎のものがたり♪
(とうきちろうの ものがたり)

豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)(天文6年(1537年)3月17日?~慶長3年(1598年)9月18日)の伝記とされる太閤記(たいこうき)に於いて、秀吉が羽柴藤吉郎時代に、矢矧川橋上での蜂須賀小六(はちすか ころく)(大永6年(1526年)~天正14年(1586年)7月8日)との邂逅を歌詞にしたものである。


該区間に於ける複線化は、
豊橋-御油(現 愛知御津)間 明治41年(1908年)6月 2日
御油(現 愛知御津)-蒲郡間               29日
蒲郡-岡崎間        明治35年(1902年)9月  1日
既成線路の山側に新設線路が敷設され、新設線路は上り線専用、既成線路は下り線専用になった。


東海道本線、若しくは、東海道新幹線に乗車し、蒲郡付近を通過すると、車窓に三河湾や竹島と共に、瀟洒な高級リゾートホテルが望見される。


蒲郡竹島城山地区には、三河地方には珍しく冷泉が湧出していたが、名古屋の大手繊維取扱問屋滝兵社長 滝 信四郎(たき のぶしろう)(慶應4年(1868年)7月15日~昭和13年(1938年)11月26日)は、風光明媚な該地に着目し、明治45年(1912年)7月25日に高級割烹旅館 常磐館(ときわかん)を開業させた事で、該地区が高級リゾート地として脚光を浴びる嚆矢となった。

常磐館には、皇族、華族、政財界名士、陸海軍将官、文士が宿泊し、殊に、大正11年(1922年)に、作家 菊池 寛(きくち かん)(明治21年(1888年)12月26日~昭和23年(1948年)3月6日)が火華を発表し、該作品中に該館が採り上げられた事がきっかけで、川端康成(かわばた やすなり)(明治32年(1899年)6月14日~昭和47年(1972年)4月16日)、高濱虚子(たかはま きょし)(明治7年(1874年)2月22日~昭和34年(1959年)4月8日)、与謝野晶子(よさの あきこ)(明治11年(1878年)12月7日~昭和17年(1942年)5月29日)、山本有三(やまもと ゆうぞう)(明治20年(1887年)7月27日~昭和49年(1974年)1月11日)、谷崎潤一郎(たにざき じゅんいちろう)(明治19年(1886年)7月24日~昭和40年(1965年)7月30日)、三島由紀夫(みしま ゆきお)(大正14年(1925年)1月14日~昭和45年(1970年)11月25日)等々の作家詩人が、三河湾や竹島を描写した作品を登場させた事から、蒲郡の地名が次第に知られる結果となった。

他方、我が国は、第1次世界大戦終結後に発生した世界的大不況の影響から、輸出は伸び悩み、更に、当時の我が国は固定相場制を採用し米1ドル2円だった事から、慢性的な外貨不足状態に苦しんでいた。

此の為に、我が国は昭和2年(1927年)以降、国際収支改善対策を必要とした事から、該対策をして国策として実施する事になり、第27代 濱口雄幸(はまぐち おさち)(明治3年(1870年)5月1日~昭和6年(1931年)8月26日)内閣(昭和4年(1929年)7月2日~昭和6年(1931年)4月14日組閣)に依り具体化され、該政策を受け、鐵道省は昭和5年(1930年)4月24日に国際観光局を新設し、初代局長に新井尭璽(あらい たかし)(明治19年(1886年)5月15日~昭和41年(1966年)5月9日)(昭和6年(1931年)4月14日~昭和7年(1932年)1月16日在任)を任命就任させ、外国人観光誘致に関する指導、監督、助成を担当する事になった。

他方、同時期に、大蔵省預金部は我が国国内に於ける外国人対応可能ホテル新設、若しくは、増改築時に該地方公共団体に対し、低金利に拠る財務融資させる事に決定した。

即ち、外貨獲得の必要性から、我が国国内各地への外国人訪問の為に、観光ホテル新設、若しくは、増改築に対し、長期低金利に依る融資を実施し、然も、該経営に対しては必ずしも公共団体が行う必要が無く、第三者たる民間への業務委託も亦可能とし、且つ、該融資額全額回収完了時に、該地方団体に対し無償払下される事から、該地方団体は該不動産をして第三者に対し転売も可能と言う極めて有利な内容だった。

蒲郡町は、直ちに国際観光ホテル建設を決定し、内務省社会局に対し観光ホテル新設を申請した処、当時、全国各地から40数件申請が提出されたが、蒲郡町申請分は、横浜市申請分の横浜ニューグランドホテル増床分件と共に、第1位融資に内定を見た。

該ホテル工事は昭和8年(1933年)8月に着工した。

該ホテル設計は、久野 節(くの みさお)(明治15年(1882年)12月21日~昭和37年(1962年)8月7日)が担当した。

久野は、東京帝國大学工学部建築学科卒業後、千葉県を経て、明治44年(1911年)に鐵道院に移籍し、鐵道省工務部初代建築課長に就任したが、昭和2年(1927年)に退官し、久野建設事務所を立ち上げ活動していた。
久野は、様式として近世復興形式を得意とし、事実、該ホテル外観は日本調帝冠様式だった。

該ホテル工事は大林組が担当し、翌昭和9年(1934年)2月に竣工した。
鉄骨鉄筋コンクリート造4階一部6階構造で、該ホテル内部は完全純様式であり、部屋数30室の他、レストランのみならず、当時のホテルとしては珍しくダンスホールをも設置されていた。


昭和19年(1944年)12月7日13時36分に発生した東南海大地震(とうなんかい だいじしん)の影響で、豊橋-御油(現 愛知御津)間に存在する豊川橋梁は橋脚が沈下破損する被害が発生したが、袋井-新所原間被害と比較し、該区間被害は軽微だった。


更に、翌昭和20年(9145年)1月13日3時38分に三河大地震(みかわ だいじしん)が発生した。

該地震は、震度こそ前年12月7日に発生した東南海大地震より低い数値だったが、然し、人的被害は前大地震より2倍以上の被害が発生した。

即ち、該大地震発生時刻が深更たる就寝時間だった事から、倒壊家屋の下敷きになった被災者が多数存在した点に於いて、平成7年(1995年)1月17日5時46分に発生した阪神淡路(はんしん あわじ)大震災と共通点が見出せる。

該地震発生時に該線沿線に疎開していた名古屋市内所在國民学校訓導児童が多数、寺院を宿所として利用しており、個々寺院に於いて床陥没を生じた所では、人的被害も軽微だったが、碧南郡高岡村所在の徳念寺の如き、本堂天井が崩壊しながら床陥没しなかった寺院では、訓導2名、児童28名即死の被害が発生した。

該地震に依り、豊川橋梁が再度橋脚傾斜陥没、及び、蒲郡-幸田間に断層が原因たる路盤隆起の被害が発生したが、陸軍の協力も得て、該震災発生当日中に修復され運転再開が可能になったが、然し、該隆起こそ、深溝断層(ふこうず だんそう)であり、昭和50年(1975年)2月に愛知県天然記念物に指定された。


大東亜戦争中、該区間に於ける空襲被害は、
昭和20年(1945年)
2月15日 B29戦略爆撃機33機
 警戒警報発令 13時30分
 空襲警報発令 13時43分
 空襲開始   14時00分
 空襲警報解除 15時07分
 警戒警報解除 15時35分
該空襲では、東海道本線に対し直接被害は発生こそ無かったが、該線豊川橋梁に平行し存在する飯田線下り線用橋梁に対しP51型艦載機から機銃掃射攻撃を受け橋桁小損被害が発生。
開通 同日19時45分

5月19日
 警戒警報発令  0時30分
 空襲警報発令  1時00分
 空襲開始    1時15分
 空襲警報解除  3時00分
 警戒警報解除  3時15分
御油(現 愛知御津)駅構内
  空母艦載機 機銃掃射攻撃
  枕木焼損1箇所12本

7月18日
 警戒警報発令  0時00分
 空襲警報発令  0時30分
 空襲開始    0時45分
 空襲警報解除  2時00分
 警戒警報解除  2時15分
幸田-岡崎間
  線路破壊 1箇所10m

7月20日
 警戒警報発令  0時00分
 空襲警報発令  0時30分
 空襲開始    0時45分
 空襲警報解除  2時00分
 警戒警報解除  2時15分
幸田駅
  下り旅客普通列車
  空母艦載機 機銃掃射攻撃
旅客数名即死 重軽傷者相当数

8月 1日
 警戒警報発令  0時00分
 空襲警報発令  0時30分
 空襲開始    0時45分
 空襲警報解除  2時00分
 警戒警報解除  2時30分
幸田駅
  駅本屋 職員官舎 全焼
  蒸気機関車 幸田1両 岡崎1両
   以上、中破
  客車    幸田6両
  貨車    岡崎1両
   以上、大破全焼

8月 2日(岡崎空襲)
 警戒警報発令  0時00分
 空襲警報発令  0時30分
 空襲開始    0時45分
 空襲警報解除  1時30分
 警戒警報解除  2時00分
岡崎駅
  駅本屋 構内施設 全焼
  該駅構内線路破壊 1箇所20m
  蒸気機関車用給水塔(上下線共)中破

8月 7日 第20航空軍 第58航空隊 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計124機 豊川大空襲
 警戒警報発令  0時32分
 空襲警報発令  1時00分
 空襲開始    1時12分
 空襲警報解除  4時15分
 警戒警報解除  4時25分
御油(現 愛知御津)駅構内
  駅本屋 下りホーム待合所 貨物ホーム上屋 踏切番職員官舎
  上下線線路破壊1箇所100m 枕木焼失50本
該駅構内被災車輌
  オハ31 161(大キト)全焼
  スハ32 452(仙フク)全焼
 以上、昭和21年(1946年)3月31日附戦災廃車
豊橋-三河三谷間 機銃掃射攻撃被害数箇所
開通 同日19時


大東亜戦争後、三河大島地区は蒲郡ホテルと共に進駐軍に接収され、高級将校宿泊専用ホテルとして再スタートを切った。

此の為に、蒲郡駅に進駐軍専用列車たる、デキシー・リミテッド(DIXIE LIMITED)、及び、アライッド・リミテッド(ALLIED LIMITED)2往復が停車した。

進駐軍に依る接収は、昭和26年(1951年)4月30日に一部解除になるまで継続したが、接収完全解除は、昭和27年(1952年)5月31日である。


昭和32年(1957年)第8回植樹祭は岐阜県で開催されたが、該大会にご出席される為に 第124代 昭和天皇(しょうわ てんのう)(明治34年(1901年)4月29日~昭和64年(1989年)1月7日)(昭和元年(1926年)12月25日~昭和64年(1989年)1月9日御在位)、及び、香淳皇后(こうじゅん こうごう)(明治36年(1903年)3月6日~平成12年(2000年)6月16日)両陛下は、同年4月6日9時10分東京駅発御召列車で御西下された。
天皇皇后両陛下は、同月10日に名古屋を御出発され、トヨタ自動車工場を御見学後、該ホテルで2泊された。
天皇皇后両陛下は、同月12日に蒲郡駅11時30分発御召列車に乗車され御帰京された。


昭和期に於ける3大大型台風とは、室戸(むろと)台風(昭和9年(1934年)9月21日)、枕崎(まくらざき)台風(昭和20年(1945年)9月16日)、及び、伊勢湾(いせわん)台風(昭和34年(1959年)9月26日)を称する。

該台風群内で、該線愛知県内に関係するものは伊勢湾台風で、特に、安城-尾張一宮間被害が著しく、中部電力送電線に被害が発生した事で、該線沿線の変電所への送電が不可能になり、此の為に、途中で立往生を余儀無くされた電車、及び、電気機関車が、蒸気機関車の手助を借り48時間後に救援される始末だった。

然し、三河地方に於いて台風被害が際立ったものは、昭和28年(1953年)9月25日襲来の台風13号とされる。

即ち、該台風は、該日19時頃に該県碧南市付近に上陸したが、悪い事に、三河湾の満潮時と共に大潮と重複した事から、該湾に面した各市町村では、通常潮位より約3.56mを超過する事態となり、海水は防潮堤を乗越え、該各地に於いて浸水被害を発生させたが、特に、豊橋市内に於いて、豊川堤防が各地で決壊し、該市内は、あたかも湖水状態になった。

原因は、異常な潮位と共に、該川が豊橋市内に於いてΩ状になり滞水し易い構造と共に、堤防が東南海大地震(昭和19年(1944年)12月7日)、及び、三河大地震(昭和20年(1945年)1月13日)被害の後遺症として堤防が劣化し膨大な水量に耐えられず決壊した、等々が原因と断定された。

豊川放水路設置治水事業は、既に、大正期に当時の内務省土木局に依り立案されており、昭和13年(1939年)に着手されたものの、折からの日華事変(にっか じへん)(昭和12年(1937年)7月7日~昭和16年(1941年)12月8日)勃発に依る国家総動員体制導入に依り工事は中断された。

然るに、大東亜戦争終結後、大型台風襲来の都度、豊橋市内は冠水が当然の如き状態となり、内務省土木局の後塵組織たる建設省中部地方建設局は、該工事を昭和30年(1955年)に再開し、此の為に、日本国有鉄道岐阜建設局は該放水路設置箇所に新架橋を決定し、昭和37年(1962年)1月に着工し、翌昭和38年(1963年)1月に竣工し、東海道本線、及び、飯田線下り線を1連3本の下路ポニーワーレントラス橋梁に切替られた。

因みに、我が国に於ける鉄道橋梁3線型トラス橋梁は該橋梁以外1箇所しか無く、極めて稀な存在である。


三河大塚-三河三谷間に存在する 星越山(ほしごえやま)隧道は、明治21年(1888年)9月1日附で、大府-濱松間開通時に蒲郡-御油(現 愛知御津)間に設置された該線愛知県内唯一の隧道である。

その後、該区間複線化工事が起工され、新隧道は既成隧道山側に設置がなされ、該区間は、明治41年(1908年)6月29日附で複線化され、新設隧道は上り線専用となり、既成隧道は下り線専用となった。

その後、大東亜戦争後に於ける東海道本線全線電化計画に鑑み、浜松-名古屋間電化工事に際し、該下り線用隧道の取扱が問題視された。
即ち、該隧道は建設期が古い事から建築限界が狭隘で、電化必須に於ける架線吊張の必要空間有余が存在せず、且つ、該区間を単線運転し該工事を施工は困難とされた。
該工事を担当する日本国有鉄道岐阜工事局は検討した結果、大東亜戦争勃発以前に計画された弾丸列車計画の為に、当時の鐵道省が付近一帯の用地を取得済だった事から、該用地を活用し、別地点に複線用隧道を掘削設置する事で、当面の該線電化を可能とすべく、該隧道掘削工事を起工し、該新隧道は、昭和27年(1952年)4月に竣工し、同年12月に東海道本線上り線が新隧道経由に切替えられた。

更に、新隧道切替で使用停止になった旧上り線隧道を整備し、下り線を旧上り線に切替が実施され、旧下り線隧道は使用中止となり放置された。
然るに、日本国有鉄道常務理事会で東海道新幹線東京-新大阪間建設が決定した事から、該新隧道は本来使用目的たる新幹線用に転用される事になり、此の為に、使用中止後、放置されていた旧下り線用隧道を、坑径拡大工事を施工し、下り線は、昭和37年(1962年)4月25日、上り線は、同年6月2日に切替られ、改築工事が完了した元隧道に路線が戻された。


蒲郡駅を中心とする前後区間に於ける踏切閉鎖時間増大に依る閉鎖を解消させる為に、該駅区間高架化が決定し、該工事は、平成7年(1995年)3月28日に着工し、下り線は平成15年(2003年)4月14日、上り線は平成17年(2005年)12月18日に新高架線に切替られ、交通渋滞が解消された。


表紙写真は、
豊橋-西小坂井間に現存する 旧平井前避溢橋跡





東海道本線歴史的痕跡探訪記
~東京-濱松町間編 明治頌歌~
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~東京驛編~

~汐留-濱松町-品川間編 明治頌歌~
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~横濱駅移設変転史編 明治頌歌~
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~横濱-大船間編 明治頌歌~
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~丹那隧道完成秘話 丹那隧道碑文から読み取れし或る歴史的事実~
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~丹那隧道完成秘話 三島口建設工事鉄道線探訪記~
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~熱海-沼津間編~

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~沼津港線編~
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~京都驛編 明治頌歌~

~京都-向日町間編 明治頌歌~

~向日町-高槻間編 明治頌歌~

~高槻-吹田間編 明治頌歌~

~吹田-淡路-大阪間(廃止線)編 明治頌歌~

~吹田-新大阪-大阪間(現行線)編 大正浪漫~

~大阪駅周辺編~

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~西宮-灘間編 明治頌歌~
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~灘-神戸間編 大正浪漫~
https://4travel.jp/travelogue/11245946

旅行の満足度
4.5
観光
4.0
ホテル
4.0
グルメ
2.5
交通
4.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
高速・路線バス 新幹線 JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 豊橋(とよはし)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治21年(1888年)9月1日開業である。<br />当地は吉田(よしだ)と称する東海道宿場町として発展し、本来であれば代表的地名たる該名称を駅名として採用されるのが自然である。<br />然るに、該駅開業時は現在地と異なり、神戸方400m地点に設置されたが、当時は河川未改修時代の豊川(とよかわ)に架橋されていた、現在の吉田大橋前身名たる橋名が豊橋と称していた事から、該橋名が駅名として採用された。<br />その後、明治29年(1896年)2月12日附で、旅客扱のみ現在地に移転したが、貨物取扱は旧駅施設を継続使用した事から、該駅中心点たる東京起点293.6km地点は、現在に至るも該駅開設時に於ける数値が設定使用されている。<br />陸軍省(りくぐんしょう)は、日露戦争(にちろせんそう)(明治37年(1904年)2月8日〜明治38年(1905年)9月5日)後に於ける軍備拡張計画の一環として、明治39年(1906年)に帝國陸軍第15師団司令本部が東海道筋に設置される事が決定し、沼津、浜松、及び、岐阜各市に於いて誘致戦の結果、陸軍省は翌明治40年(1907年)3月に豊橋設置を決定し、明治41年(1908年)11月1日附で司令本部が正式開庁した事が要因で、該駅客貨利用に増加を見たが、然し、当時の該駅構内施設では客貨取扱共に限界が生じた事から、明治43年(1910年)に該駅拡張計画が決定したが、同年8月に発生した連続巨大台風襲来に依る豊川氾濫が原因で工事着工は延期を余儀無くされたが、翌明治44年(1911年)に該駅拡張工事に着工した。<br />大正5年(1916年)7月10日に第3代駅本屋が竣工し該駅は面目を一新した。<br />該駅は、開業以来、駅本屋が存在する現在の東口に限定されていたが、海側住民の度重なる請願を受け、昭和2年(1927年)4月に西口が開設された。<br />同時に同年5月17日附で駅本屋増築が竣工する。<br />戦前、豊橋は陸軍を基軸とし、更に、昭和14年(1939年)には豊橋予備士官学校が設置開校した事などから軍都として繁栄したが、大東亜戦争勃発後、帝國海軍は隣接地たる豊川に新たに海軍工廠を設置稼動させた事から、該地域は同時に軍事産業生産地の一大拠点ともなった。<br />該地は、昭和20年(1945年)6月19日未明、米陸軍戦略部隊所属のB29戦略爆撃機計136機に依る大空襲を受けた。<br />該空爆に拠り、該市内77% 15886戸が全焼全壊被害を生じ、該市内中心部は壊滅状態になった。<br />該空襲開始直前、該駅上り旅客ホーム第2番線には、客室内からデッキに至るまで計3000名以上の乗客を乗せ超満員の大阪発東京行上り15両編成旅客普通列車が定刻に到着し停車中だった。<br />該列車牽引蒸気機関車に乗務していた機関士機関助士は、2分後の定刻出発準備中に該駅当務駅長が該機関車に駈寄り、該列車を直ちに出発させよと通告し発車手配を行った。<br />貨物列車と異なり、旅客列車は現地に於いて定刻より早発させる事は規定上禁止事項とされているが、現に陸軍中部軍管区に依り豊橋市を中心として21時30分に空襲警報が発令され、既に、該時点に於いて該市上空にB29戦略大型爆撃機特有のエンジン音が不気味に鳴響いていた状態だった事から、危険回避の為に出発時刻定刻まで待機不要と判断され、当務駅長の指示に依り、急き立てられるが如くして該列車は直ちに出発した。<br />該列車は加速を続け、名古屋鐵道渥美線(現 豊橋鉄道渥美線)乗越橋付近に差しかかり、該列車牽引機関車機関助士が火室に石炭を追加投入すべく後方を振返ると、既に、豊橋の街はB29戦略大型爆撃機から投下された爆弾焼夷弾群の為に一面火の海状態であり、仮に、該列車が定刻発車を厳守していれば、該列車乗客職員は全員遭難すると云う大惨事は免れ得なかったものと推定され、該駅処置は正当であり間一髪だった。<br />該空襲に依り、該駅構内は東部信号梃子取扱所以外施設は全滅に瀕し、同月25日まで保安信号回線焼失の為に、二川-西伊奈(現 西小坂井)間は自動閉塞機器が使用不可能になった事から無閉塞状態の為に、隔時閉塞式に基き列車を運行させた。大東亜戦争終了後、取敢えず、同時に焼失した旧飯田線用吉田駅本屋コンクリート壁を活用し、代用駅本屋が設置された。<br />該時点に於いて、東海道本線豊橋駅とは別個に存在した飯田線、及び、名古屋鉄道名古屋本線用吉田駅を統合した。<br />その後、地元資本を導入し、駅本屋を設置する民衆駅制度が制定され、該駅は第<br />1号適用に決定し、該計画に基き、昭和25年(1950年)に第4代駅本屋が木造モルタル造2階建建築が完成した。<br />然し、木造建築で商業施設を入居構造では自ずから限界が有り、更に、終戦直後の建築で耐久性が低く、意外にも老朽化が早かった事から、昭和45年(1970年)に鉄骨鉄筋コンクリート5階建建築の第5代目駅本屋に改築された。<br />更に、東西自由通行を目的として、平成8年(1996年)には、東西自由通路を設置し現在の姿が完成した。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/toyohashi/index.html

    豊橋(とよはし)駅



    該駅は、明治21年(1888年)9月1日開業である。
    当地は吉田(よしだ)と称する東海道宿場町として発展し、本来であれば代表的地名たる該名称を駅名として採用されるのが自然である。
    然るに、該駅開業時は現在地と異なり、神戸方400m地点に設置されたが、当時は河川未改修時代の豊川(とよかわ)に架橋されていた、現在の吉田大橋前身名たる橋名が豊橋と称していた事から、該橋名が駅名として採用された。
    その後、明治29年(1896年)2月12日附で、旅客扱のみ現在地に移転したが、貨物取扱は旧駅施設を継続使用した事から、該駅中心点たる東京起点293.6km地点は、現在に至るも該駅開設時に於ける数値が設定使用されている。
    陸軍省(りくぐんしょう)は、日露戦争(にちろせんそう)(明治37年(1904年)2月8日〜明治38年(1905年)9月5日)後に於ける軍備拡張計画の一環として、明治39年(1906年)に帝國陸軍第15師団司令本部が東海道筋に設置される事が決定し、沼津、浜松、及び、岐阜各市に於いて誘致戦の結果、陸軍省は翌明治40年(1907年)3月に豊橋設置を決定し、明治41年(1908年)11月1日附で司令本部が正式開庁した事が要因で、該駅客貨利用に増加を見たが、然し、当時の該駅構内施設では客貨取扱共に限界が生じた事から、明治43年(1910年)に該駅拡張計画が決定したが、同年8月に発生した連続巨大台風襲来に依る豊川氾濫が原因で工事着工は延期を余儀無くされたが、翌明治44年(1911年)に該駅拡張工事に着工した。
    大正5年(1916年)7月10日に第3代駅本屋が竣工し該駅は面目を一新した。
    該駅は、開業以来、駅本屋が存在する現在の東口に限定されていたが、海側住民の度重なる請願を受け、昭和2年(1927年)4月に西口が開設された。
    同時に同年5月17日附で駅本屋増築が竣工する。
    戦前、豊橋は陸軍を基軸とし、更に、昭和14年(1939年)には豊橋予備士官学校が設置開校した事などから軍都として繁栄したが、大東亜戦争勃発後、帝國海軍は隣接地たる豊川に新たに海軍工廠を設置稼動させた事から、該地域は同時に軍事産業生産地の一大拠点ともなった。
    該地は、昭和20年(1945年)6月19日未明、米陸軍戦略部隊所属のB29戦略爆撃機計136機に依る大空襲を受けた。
    該空爆に拠り、該市内77% 15886戸が全焼全壊被害を生じ、該市内中心部は壊滅状態になった。
    該空襲開始直前、該駅上り旅客ホーム第2番線には、客室内からデッキに至るまで計3000名以上の乗客を乗せ超満員の大阪発東京行上り15両編成旅客普通列車が定刻に到着し停車中だった。
    該列車牽引蒸気機関車に乗務していた機関士機関助士は、2分後の定刻出発準備中に該駅当務駅長が該機関車に駈寄り、該列車を直ちに出発させよと通告し発車手配を行った。
    貨物列車と異なり、旅客列車は現地に於いて定刻より早発させる事は規定上禁止事項とされているが、現に陸軍中部軍管区に依り豊橋市を中心として21時30分に空襲警報が発令され、既に、該時点に於いて該市上空にB29戦略大型爆撃機特有のエンジン音が不気味に鳴響いていた状態だった事から、危険回避の為に出発時刻定刻まで待機不要と判断され、当務駅長の指示に依り、急き立てられるが如くして該列車は直ちに出発した。
    該列車は加速を続け、名古屋鐵道渥美線(現 豊橋鉄道渥美線)乗越橋付近に差しかかり、該列車牽引機関車機関助士が火室に石炭を追加投入すべく後方を振返ると、既に、豊橋の街はB29戦略大型爆撃機から投下された爆弾焼夷弾群の為に一面火の海状態であり、仮に、該列車が定刻発車を厳守していれば、該列車乗客職員は全員遭難すると云う大惨事は免れ得なかったものと推定され、該駅処置は正当であり間一髪だった。
    該空襲に依り、該駅構内は東部信号梃子取扱所以外施設は全滅に瀕し、同月25日まで保安信号回線焼失の為に、二川-西伊奈(現 西小坂井)間は自動閉塞機器が使用不可能になった事から無閉塞状態の為に、隔時閉塞式に基き列車を運行させた。大東亜戦争終了後、取敢えず、同時に焼失した旧飯田線用吉田駅本屋コンクリート壁を活用し、代用駅本屋が設置された。
    該時点に於いて、東海道本線豊橋駅とは別個に存在した飯田線、及び、名古屋鉄道名古屋本線用吉田駅を統合した。
    その後、地元資本を導入し、駅本屋を設置する民衆駅制度が制定され、該駅は第
    1号適用に決定し、該計画に基き、昭和25年(1950年)に第4代駅本屋が木造モルタル造2階建建築が完成した。
    然し、木造建築で商業施設を入居構造では自ずから限界が有り、更に、終戦直後の建築で耐久性が低く、意外にも老朽化が早かった事から、昭和45年(1970年)に鉄骨鉄筋コンクリート5階建建築の第5代目駅本屋に改築された。
    更に、東西自由通行を目的として、平成8年(1996年)には、東西自由通路を設置し現在の姿が完成した。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/toyohashi/index.html

    豊橋駅

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />初代豊橋駅跡<br /><br />豊橋市花田町無番地<br />東海道本線豊橋駅西口 徒歩15分

    豊橋-西小坂井間



    初代豊橋駅跡

    豊橋市花田町無番地
    東海道本線豊橋駅西口 徒歩15分

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />初代豊橋駅跡<br />該地付近は、昭和20年(1945年)6月19日未明の豊橋大空襲で壊滅的被害を受け、戦後再整備された為に、当時の初代該駅痕跡は皆無。<br /><br />豊橋市花田町無番地<br />東海道本線豊橋駅西口 徒歩15分

    豊橋-西小坂井間



    初代豊橋駅跡
    該地付近は、昭和20年(1945年)6月19日未明の豊橋大空襲で壊滅的被害を受け、戦後再整備された為に、当時の初代該駅痕跡は皆無。

    豊橋市花田町無番地
    東海道本線豊橋駅西口 徒歩15分

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />東海道本線飯田線平走区間<br />手前2線が飯田線上下線。

    豊橋-西小坂井間



    東海道本線飯田線平走区間
    手前2線が飯田線上下線。

  • 豊橋-小坂井間<br /><br /><br /><br />東海道本線飯田線平走区間<br />奥2線が東海道本線上下線。

    豊橋-小坂井間



    東海道本線飯田線平走区間
    奥2線が東海道本線上下線。

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />船町駅<br />飯田線船町駅、及び、下地駅は東海道本線に平行し設置されているが、東海道本線側には駅施設が存在しない。<br />同様例では、嘗て、信越本線小諸駅付近に存在した。

    豊橋-西小坂井間



    船町駅
    飯田線船町駅、及び、下地駅は東海道本線に平行し設置されているが、東海道本線側には駅施設が存在しない。
    同様例では、嘗て、信越本線小諸駅付近に存在した。

    船町駅

  • 船町駅<br /><br /><br /><br />飯田線所属駅。<br />因みに、該線を使用する名古屋鉄道名古屋本線は、該駅、及び、下地駅は全列車通過。

    船町駅



    飯田線所属駅。
    因みに、該線を使用する名古屋鉄道名古屋本線は、該駅、及び、下地駅は全列車通過。

    船町駅

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />船町貨物側線跡<br />上は飯田線上り線。<br />豊橋−平井信号所間は該線が戦時買収以前の豊川鐵道時代以来、名古屋鉄道名古屋本線と線路共用。<br />現在の財産区分は、<br />飯田線下り線が東海旅客鉄道所有。<br />飯田線上り線が名古屋鉄道所有。<br /><br />豊橋市北島町高田163<br />飯田線船町駅 徒歩2分

    豊橋-西小坂井間



    船町貨物側線跡
    上は飯田線上り線。
    豊橋−平井信号所間は該線が戦時買収以前の豊川鐵道時代以来、名古屋鉄道名古屋本線と線路共用。
    現在の財産区分は、
    飯田線下り線が東海旅客鉄道所有。
    飯田線上り線が名古屋鉄道所有。

    豊橋市北島町高田163
    飯田線船町駅 徒歩2分

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />船町貨物側線跡<br /><br />豊橋市北島町高田160<br />飯田線船町駅 徒歩2分

    豊橋-西小坂井間



    船町貨物側線跡

    豊橋市北島町高田160
    飯田線船町駅 徒歩2分

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />船町貨物線跡<br /><br />豊橋市北島町高田155<br />飯田線船町駅 徒歩2分

    豊橋-西小坂井間



    船町貨物線跡

    豊橋市北島町高田155
    飯田線船町駅 徒歩2分

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />船町貨物線跡<br />左手線路は、飯田線上下線、及び、東海道本線上下線。<br /><br />豊橋市北島町高田155<br />飯田線船町駅 徒歩2分

    豊橋-西小坂井間



    船町貨物線跡
    左手線路は、飯田線上下線、及び、東海道本線上下線。

    豊橋市北島町高田155
    飯田線船町駅 徒歩2分

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />船町貨物線跡<br />遠方は 豊橋オフレールステーション。<br /><br />豊橋市北島町北島無番地<br />飯田線船町駅 徒歩3分

    豊橋-西小坂井間



    船町貨物線跡
    遠方は 豊橋オフレールステーション。

    豊橋市北島町北島無番地
    飯田線船町駅 徒歩3分

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />豊橋オフレールステーション<br />船町貨物線跡<br />該駅は、明治35年(1902年)4月1日に当時の豊川鐵道に依り開設された船町貨物積卸施設が嚆矢である。<br />該貨物積卸施設開設当初は、豊川上流域たる鳳来寺山系に於いて産出した木材を、該河川で筏流しに依り該地まで移送後、該地に於いて貨車に積込業務が主だった。<br />開設当初は吉田(現 豊橋)駅側線扱だったが、明治37年(1904年)7月25日附で、吉田(現 豊橋)駅起点1.7kmとして独立駅扱されたが、昭和18年(1943年)8月1日附で戦時買収時に、豊橋駅側線扱に再変更された。<br />大東亜戦争後は、当時建設中だった佐久間ダム建設資材積卸場として機能していた。<br />その後、自動車の台頭と共に、鉄道貨物輸送体系の変化から、貨車使用取扱が減少し、コンテナ使用へと変化したが、該地には、平成10年(1998年)10月2日まで貨物列車が発着していたが、翌日以降、全面的にトラック輸送に切替られ、該貨物取扱施設に列車が入線する事は無くなった。<br />現名称への変更は、平成18年(2006年)4月1日である。<br /><br />豊橋市北島町北島無番地<br />飯田線船町駅 徒歩3分

    豊橋-西小坂井間



    豊橋オフレールステーション
    船町貨物線跡
    該駅は、明治35年(1902年)4月1日に当時の豊川鐵道に依り開設された船町貨物積卸施設が嚆矢である。
    該貨物積卸施設開設当初は、豊川上流域たる鳳来寺山系に於いて産出した木材を、該河川で筏流しに依り該地まで移送後、該地に於いて貨車に積込業務が主だった。
    開設当初は吉田(現 豊橋)駅側線扱だったが、明治37年(1904年)7月25日附で、吉田(現 豊橋)駅起点1.7kmとして独立駅扱されたが、昭和18年(1943年)8月1日附で戦時買収時に、豊橋駅側線扱に再変更された。
    大東亜戦争後は、当時建設中だった佐久間ダム建設資材積卸場として機能していた。
    その後、自動車の台頭と共に、鉄道貨物輸送体系の変化から、貨車使用取扱が減少し、コンテナ使用へと変化したが、該地には、平成10年(1998年)10月2日まで貨物列車が発着していたが、翌日以降、全面的にトラック輸送に切替られ、該貨物取扱施設に列車が入線する事は無くなった。
    現名称への変更は、平成18年(2006年)4月1日である。

    豊橋市北島町北島無番地
    飯田線船町駅 徒歩3分

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />豊川(とよかわ)橋梁<br />該橋は、明治21年(1888年)9月1日開通時の橋梁である。<br />開通時は英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、<br />英国パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製<br />錬鐡製<br />上路プレートガーダー橋桁 支間21.3m( 70ft)×11連<br />250m<br />が架橋された。<br />豊橋-御油(現 愛知御津)間は、明治41年(1908年)6月2日に複線化されたが、増線橋梁に、<br />米國アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE)社製<br />鋼鐡製<br />上路プレートガーダー橋桁 支間 21.3m( 70ft)×11連<br />264m<br />が上流側に架橋され、新橋梁は上り線専用、既成橋梁は下り線専用になった。<br />その後、次世代大型蒸気機関車導入が想定され、該橋梁構造では対応困難と判定され、大正6年(1913年)に該橋下線橋桁架替が実施され<br />国産汽車製造會社製<br />上路プレートガーダー橋桁 支間 21.3m( 70ft)×11連<br />に架替られた。<br />昭和19年(1944年)12月7日発生の東南海地震発生に依り、該上り線用橋梁に橋脚傾斜被害が発生したが、応急修理に依り震災当日に開通した。<br /><br />豊橋市北島町外川原無番地<br />飯田線船町駅 徒歩20分

    豊橋-西小坂井間



    豊川(とよかわ)橋梁
    該橋は、明治21年(1888年)9月1日開通時の橋梁である。
    開通時は英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、
    英国パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製
    錬鐡製
    上路プレートガーダー橋桁 支間21.3m( 70ft)×11連
    250m
    が架橋された。
    豊橋-御油(現 愛知御津)間は、明治41年(1908年)6月2日に複線化されたが、増線橋梁に、
    米國アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE)社製
    鋼鐡製
    上路プレートガーダー橋桁 支間 21.3m( 70ft)×11連
    264m
    が上流側に架橋され、新橋梁は上り線専用、既成橋梁は下り線専用になった。
    その後、次世代大型蒸気機関車導入が想定され、該橋梁構造では対応困難と判定され、大正6年(1913年)に該橋下線橋桁架替が実施され
    国産汽車製造會社製
    上路プレートガーダー橋桁 支間 21.3m( 70ft)×11連
    に架替られた。
    昭和19年(1944年)12月7日発生の東南海地震発生に依り、該上り線用橋梁に橋脚傾斜被害が発生したが、応急修理に依り震災当日に開通した。

    豊橋市北島町外川原無番地
    飯田線船町駅 徒歩20分

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />豊川橋梁<br />大東亜戦争後、上り線用橋梁に老朽化が深刻な状態になった事から、豊川放水路設置と共に該橋梁のみ架替を実施する事になり、昭和48年(1973年)4月に現東海道本線橋梁が完成し、下り線は同年7月、上り線は同年9月に新橋梁に切替られた。<br />旧東海道本線下り線用橋梁は飯田線下り線用橋梁に切替られ現存する。<br /><br />豊橋市北島町外川原無番地<br />飯田線船町駅 徒歩20分

    豊橋-西小坂井間



    豊川橋梁
    大東亜戦争後、上り線用橋梁に老朽化が深刻な状態になった事から、豊川放水路設置と共に該橋梁のみ架替を実施する事になり、昭和48年(1973年)4月に現東海道本線橋梁が完成し、下り線は同年7月、上り線は同年9月に新橋梁に切替られた。
    旧東海道本線下り線用橋梁は飯田線下り線用橋梁に切替られ現存する。

    豊橋市北島町外川原無番地
    飯田線船町駅 徒歩20分

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />旧豊川橋梁橋台跡<br />東京方<br /><br />豊橋市北島町外川原無番地<br />飯田線船町駅 徒歩16分

    豊橋-西小坂井間



    旧豊川橋梁橋台跡
    東京方

    豊橋市北島町外川原無番地
    飯田線船町駅 徒歩16分

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />豊川橋梁<br />旧 東海道本線<br />  下り線用橋梁(現 上り線用)<br /><br />豊橋市北島町無番地<br />飯田線船町駅 徒歩16分

    豊橋-西小坂井間



    豊川橋梁
    旧 東海道本線
      下り線用橋梁(現 上り線用)

    豊橋市北島町無番地
    飯田線船町駅 徒歩16分

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />豊川橋梁<br /><br />豊橋市北島町無番地<br />飯田線船町駅 徒歩16分

    豊橋-西小坂井間



    豊川橋梁

    豊橋市北島町無番地
    飯田線船町駅 徒歩16分

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />豊川橋梁<br />飯田線下り線用橋梁<br />旧東海道本線上り線用橋梁<br /><br />豊橋市北島町無番地<br />飯田線船町駅 徒歩16分

    豊橋-西小坂井間



    豊川橋梁
    飯田線下り線用橋梁
    旧東海道本線上り線用橋梁

    豊橋市北島町無番地
    飯田線船町駅 徒歩16分

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />豊川橋梁<br /><br />右 飯田線下り線用橋梁<br />左 東海道本線上下線用橋梁<br /><br />豊橋市北島町無番地<br />飯田線船町駅 徒歩16分<br />

    豊橋-西小坂井間



    豊川橋梁

    右 飯田線下り線用橋梁
    左 東海道本線上下線用橋梁

    豊橋市北島町無番地
    飯田線船町駅 徒歩16分

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />豊川橋梁<br />飯田線下り線用橋梁橋脚<br />石積構造<br /><br />豊橋市北島町無番地<br />飯田線船町駅 徒歩16分<br />

    豊橋-西小坂井間



    豊川橋梁
    飯田線下り線用橋梁橋脚
    石積構造

    豊橋市北島町無番地
    飯田線船町駅 徒歩16分

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />豊川橋梁<br />飯田線下り線用橋梁<br />元東海道本線上り線用橋梁<br /><br />豊橋市横須賀町28<br />飯田線下地駅 徒歩1分

    豊橋-西小坂井間



    豊川橋梁
    飯田線下り線用橋梁
    元東海道本線上り線用橋梁

    豊橋市横須賀町28
    飯田線下地駅 徒歩1分

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />豊川橋梁<br />東海道本線<br />現用橋梁<br />神戸方<br />昭和48年(1973年)切替<br /><br />豊橋市横須賀町28<br />飯田線下地駅 徒歩1分

    豊橋-西小坂井間



    豊川橋梁
    東海道本線
    現用橋梁
    神戸方
    昭和48年(1973年)切替

    豊橋市横須賀町28
    飯田線下地駅 徒歩1分

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />豊川橋梁<br />旧東海道本線上り線用橋梁<br />現飯田線下り線用橋梁<br />神戸方<br /><br />豊橋市横須賀町28<br />飯田線下地駅 徒歩1分

    豊橋-西小坂井間



    豊川橋梁
    旧東海道本線上り線用橋梁
    現飯田線下り線用橋梁
    神戸方

    豊橋市横須賀町28
    飯田線下地駅 徒歩1分

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />豊川橋梁<br />旧東海道本線上り線用橋梁<br />現在は飯田線下り線用橋梁に転用。<br /><br />豊橋市横須賀町28<br />飯田線下地駅 徒歩1分

    豊橋-西小坂井間



    豊川橋梁
    旧東海道本線上り線用橋梁
    現在は飯田線下り線用橋梁に転用。

    豊橋市横須賀町28
    飯田線下地駅 徒歩1分

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />豊川橋梁<br />旧橋梁橋台跡<br />右 旧豊川鐵道(現 東海旅客鉄道飯田線)<br />  下り線用橋梁跡<br />左 東海道本線<br />  上り線用橋梁跡

    豊橋-西小坂井間



    豊川橋梁
    旧橋梁橋台跡
    右 旧豊川鐵道(現 東海旅客鉄道飯田線)
      下り線用橋梁跡
    左 東海道本線
      上り線用橋梁跡

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />豊川橋梁<br />飯田線下り線用<br />辰野方橋台<br />旧東海道本線上り線用橋梁

    豊橋-西小坂井間



    豊川橋梁
    飯田線下り線用
    辰野方橋台
    旧東海道本線上り線用橋梁

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />豊川橋梁<br />東海道本線<br />旧下り線用<br />橋台跡

    豊橋-西小坂井間



    豊川橋梁
    東海道本線
    旧下り線用
    橋台跡

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />豊川橋梁<br />旧東海道本線<br />神戸方<br />上り線用橋梁橋台跡

    豊橋-西小坂井間



    豊川橋梁
    旧東海道本線
    神戸方
    上り線用橋梁橋台跡

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />豊川橋梁<br />神戸方

    豊橋-西小坂井間



    豊川橋梁
    神戸方

  • 下地駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />下り線<br />写真左手は東海道本線上り線列車。

    下地駅



    駅構内
    下り線
    写真左手は東海道本線上り線列車。

    下地駅

  • 下地駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />飯田線上り線<br />該線所有は名古屋鉄道。<br />架線柱が鋼柱で、他3線が東海旅客鉄道所有でコンクリート柱。

    下地駅



    駅構内
    飯田線上り線
    該線所有は名古屋鉄道。
    架線柱が鋼柱で、他3線が東海旅客鉄道所有でコンクリート柱。

    下地駅

  • 下地駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />開業当時の飯田線は写真右のホームに線路が存在した。<br />豊川橋梁変更に依り線路位置移転。

    下地駅



    駅構内
    開業当時の飯田線は写真右のホームに線路が存在した。
    豊川橋梁変更に依り線路位置移転。

    下地駅

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />庚申前(こうしんまえ)架道橋

    豊橋-西小坂井間



    庚申前(こうしんまえ)架道橋

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />庚申前架道橋

    豊橋-西小坂井間



    庚申前架道橋

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />庚申前架道橋

    豊橋-西小坂井間



    庚申前架道橋

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />孫八川(まごはちがわ)橋梁<br />上流側

    豊橋-西小坂井間



    孫八川(まごはちがわ)橋梁
    上流側

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />孫八川橋梁<br />下流側<br />該橋梁は設置当時は該橋梁下に河川が存在し道路との併用橋だったが、該河川が廃川になった関係で現在は道路橋として機能。

    豊橋-西小坂井間



    孫八川橋梁
    下流側
    該橋梁は設置当時は該橋梁下に河川が存在し道路との併用橋だったが、該河川が廃川になった関係で現在は道路橋として機能。

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />孫八川橋梁<br />下流側

    豊橋-西小坂井間



    孫八川橋梁
    下流側

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />孫八川橋梁<br />橋桁<br />銘板<br />鐵道省<br />昭和五年

    豊橋-西小坂井間



    孫八川橋梁
    橋桁
    銘板
    鐵道省
    昭和五年

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />平井前(ひらいまえ)避溢橋跡<br />豊川放水路橋梁開通に伴い廃止。<br />現橋梁との高低相違に注意。<br /><br />豊川市下五井町平井前無番地<br />飯田線下地駅 徒歩30分

    豊橋-西小坂井間



    平井前(ひらいまえ)避溢橋跡
    豊川放水路橋梁開通に伴い廃止。
    現橋梁との高低相違に注意。

    豊川市下五井町平井前無番地
    飯田線下地駅 徒歩30分

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />平井前避溢橋跡<br />使用中止後50年以上を経過し土塁も崩壊し石積橋台橋脚が残存。<br /><br />豊川市下五井町平井前無番地<br />飯田線下地駅 徒歩30分

    豊橋-西小坂井間



    平井前避溢橋跡
    使用中止後50年以上を経過し土塁も崩壊し石積橋台橋脚が残存。

    豊川市下五井町平井前無番地
    飯田線下地駅 徒歩30分

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />平井前避溢橋跡<br />旧路盤盛土跡<br /><br />豊川市下五井町平井前無番地<br />飯田線下地駅 徒歩30分

    豊橋-西小坂井間



    平井前避溢橋跡
    旧路盤盛土跡

    豊川市下五井町平井前無番地
    飯田線下地駅 徒歩30分

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />平井前(ひらいまえ)避溢橋跡<br />該橋は、明治21年(1888年)9月1日開通時の橋梁である。<br />避溢橋(ひいつきょう)とは耳馴れぬ名称だが、通常時は無川流状態だが、大雨等々で濁流が原因で築堤崩壊を防止する為に事前に設置するものである。<br />然るに、大東亜戦争後、該橋梁神戸方に豊川放水路が開削され、該放水路に架橋が決定し、該橋梁海側に新築堤と共に該放水路橋梁取付部が設置された事から、該橋梁は廃止が決定し、昭和38年(1963年)6月28日附で該線上り線が新線に切替後に当初計画どおり廃止された。<br /><br />豊川市下五井町平井前無番地<br />飯田線下地駅 徒歩30分

    豊橋-西小坂井間



    平井前(ひらいまえ)避溢橋跡
    該橋は、明治21年(1888年)9月1日開通時の橋梁である。
    避溢橋(ひいつきょう)とは耳馴れぬ名称だが、通常時は無川流状態だが、大雨等々で濁流が原因で築堤崩壊を防止する為に事前に設置するものである。
    然るに、大東亜戦争後、該橋梁神戸方に豊川放水路が開削され、該放水路に架橋が決定し、該橋梁海側に新築堤と共に該放水路橋梁取付部が設置された事から、該橋梁は廃止が決定し、昭和38年(1963年)6月28日附で該線上り線が新線に切替後に当初計画どおり廃止された。

    豊川市下五井町平井前無番地
    飯田線下地駅 徒歩30分

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />平井前避溢橋跡<br />該橋梁廃止後53年が経過し、該橋梁盛土築堤は放置状態から盗掘持去されて消滅し、橋台、及び、橋脚のみ無残に残存している。<br /><br />豊川市下五井町平井前無番地<br />飯田線下地駅 徒歩30分

    豊橋-西小坂井間



    平井前避溢橋跡
    該橋梁廃止後53年が経過し、該橋梁盛土築堤は放置状態から盗掘持去されて消滅し、橋台、及び、橋脚のみ無残に残存している。

    豊川市下五井町平井前無番地
    飯田線下地駅 徒歩30分

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />平井前避溢橋跡<br /><br />豊川市下五井町平井前無番地<br />飯田線下地駅 徒歩30分

    豊橋-西小坂井間



    平井前避溢橋跡

    豊川市下五井町平井前無番地
    飯田線下地駅 徒歩30分

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />新平井前避溢橋<br />豊川放水路橋梁切替後の新橋梁。<br />T形桁PCコンクリート構造。<br /><br />豊川市下五井町平井前無番地<br />飯田線下地駅 徒歩30分

    豊橋-西小坂井間



    新平井前避溢橋
    豊川放水路橋梁切替後の新橋梁。
    T形桁PCコンクリート構造。

    豊川市下五井町平井前無番地
    飯田線下地駅 徒歩30分

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />豊川放水路(とよかわ ほうすいろ)橋梁<br />全景<br />該橋梁は、豊川放水路治水事業一環として、建設省、及び、中部地方建設局に依る該河川開削改良事業に依り架橋されたものである。<br />即ち、該河川は、愛知県南部段戸山麓を水源地として、長篠城付近に於いて宇連川と合流し、豊橋市内中心部を経て三河湾に至るもので、奥三河地域に於いて降雨後、約4時間程度で該市内に達し、更に、該市内の於いて大きくΩ状を形成する事から、大型台風襲来に伴う河川氾濫に依る床上浸水被害が頻発した。<br />此れに対し、内務省土木局は、既に、大正期には該河川放水路設置計画を立案し策定したが、実際の該工事着手は昭和13年(1938年)になり、然も、前年より日華事変(にっかじへん)(昭和12年(1937年)7月8日〜昭和16年(1941年)12月8日)が勃発し、我が国は国家総動員法施行(昭和13年(1938年)12月20日)に伴い、該工事は不急工事と認定され中止を余儀無くさせられた。<br />大東亜戦争後、数度の大型台風襲来の為に、該市内に於いて深刻な浸水被害が発生した事から、内務省土木局の業務を継承した建設省中部地方建設局は、昭和28年(1953年)に該工事を再開した事から、東海道本線、及び、飯田線渡河問題が浮上した。<br />該橋梁設置に鑑み、既成路線路盤を使用せず、別線として設置する事に決定し、該橋梁設置工事は昭和37年(1962年)1月に着工し、翌昭和38年(1963年)1月に竣工し、東海道本線は同年3月5日附で下り線、同年6月28日附で上り線が切替られた。<br />我が国鉄道橋梁で、線路3線用橋梁は、東海道本線貨物支線鶴見-塩浜操車場間に存在する桜堀運河に架橋された桜堀橋梁の2例だけの極めて稀な存在である。<br /><br />豊川市下五井町平井無番地<br />飯田線下地駅 徒歩35分

    豊橋-西小坂井間



    豊川放水路(とよかわ ほうすいろ)橋梁
    全景
    該橋梁は、豊川放水路治水事業一環として、建設省、及び、中部地方建設局に依る該河川開削改良事業に依り架橋されたものである。
    即ち、該河川は、愛知県南部段戸山麓を水源地として、長篠城付近に於いて宇連川と合流し、豊橋市内中心部を経て三河湾に至るもので、奥三河地域に於いて降雨後、約4時間程度で該市内に達し、更に、該市内の於いて大きくΩ状を形成する事から、大型台風襲来に伴う河川氾濫に依る床上浸水被害が頻発した。
    此れに対し、内務省土木局は、既に、大正期には該河川放水路設置計画を立案し策定したが、実際の該工事着手は昭和13年(1938年)になり、然も、前年より日華事変(にっかじへん)(昭和12年(1937年)7月8日〜昭和16年(1941年)12月8日)が勃発し、我が国は国家総動員法施行(昭和13年(1938年)12月20日)に伴い、該工事は不急工事と認定され中止を余儀無くさせられた。
    大東亜戦争後、数度の大型台風襲来の為に、該市内に於いて深刻な浸水被害が発生した事から、内務省土木局の業務を継承した建設省中部地方建設局は、昭和28年(1953年)に該工事を再開した事から、東海道本線、及び、飯田線渡河問題が浮上した。
    該橋梁設置に鑑み、既成路線路盤を使用せず、別線として設置する事に決定し、該橋梁設置工事は昭和37年(1962年)1月に着工し、翌昭和38年(1963年)1月に竣工し、東海道本線は同年3月5日附で下り線、同年6月28日附で上り線が切替られた。
    我が国鉄道橋梁で、線路3線用橋梁は、東海道本線貨物支線鶴見-塩浜操車場間に存在する桜堀運河に架橋された桜堀橋梁の2例だけの極めて稀な存在である。

    豊川市下五井町平井無番地
    飯田線下地駅 徒歩35分

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />豊川放水路橋梁<br />下路ポニーワーレントラス橋梁<br />径間152,5m<br />支間50.5m×3連<br />2連 横河恭良製作所大阪工場製<br />1連 高田機工製<br />昭和37年(1962年)製造<br /><br />豊川市下五井町平井無番地<br />飯田線下地駅 徒歩35分

    豊橋-西小坂井間



    豊川放水路橋梁
    下路ポニーワーレントラス橋梁
    径間152,5m
    支間50.5m×3連
    2連 横河恭良製作所大阪工場製
    1連 高田機工製
    昭和37年(1962年)製造

    豊川市下五井町平井無番地
    飯田線下地駅 徒歩35分

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />豊川放水路橋梁<br />名古屋鉄道名古屋本線用橋梁<br />下路平行弦ワーレントラス橋梁<br />昭和38年(1963年)10月29日路線切替。<br /><br />豊川市下五井町平井無番地<br />飯田線下地駅 徒歩35分

    豊橋-西小坂井間



    豊川放水路橋梁
    名古屋鉄道名古屋本線用橋梁
    下路平行弦ワーレントラス橋梁
    昭和38年(1963年)10月29日路線切替。

    豊川市下五井町平井無番地
    飯田線下地駅 徒歩35分

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />豊川放水路橋梁<br /><br />豊川市平井町神明無番地<br />飯田線小坂井駅 徒歩20分

    豊橋-西小坂井間



    豊川放水路橋梁

    豊川市平井町神明無番地
    飯田線小坂井駅 徒歩20分

  • 豊橋-西小坂井間<br /><br /><br /><br />西小坂井駅<br />駅構内<br />東京方俯瞰<br /><br />豊川市平井町東野地無番地<br />東海道本線西小坂井駅 徒歩4分

    豊橋-西小坂井間



    西小坂井駅
    駅構内
    東京方俯瞰

    豊川市平井町東野地無番地
    東海道本線西小坂井駅 徒歩4分

  • 西小坂井(にしこさかい)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和23年(1948年)8月1日開業である。<br />然し、該駅前身は、昭和20年(1945年)6月10日開設の西伊奈(にしいな)信号場が嚆矢である。<br />即ち、当時は大東亜戦争(だいとうあせんそう)(昭和16年(1941年)12月8日〜昭和20年(1945年)8月15日)末期だったにも拘らず、該地に所在した住友金属伊奈工場への搬出入の為の専用線設置に伴う、分岐点が発端である。<br />即ち、本来であれば、該施設は名古屋鐵道本線伊奈駅が至近地で、該駅から側線設置も亦可能だったが、当時の該社建築限界が鐵道省標準規格と比較して狭隘で、且つ、路盤規格も脆弱だった事から、大型機器搬送に不適格と判断され、東海道本線に信号所設置が決定された。<br />地元、小坂井町は、該信号場開設時に駅昇格を期待し、停車場必要用地確保、及び、無償勤労奉仕に依り該土地整備を行った処で終戦を迎えた。<br />終戦に伴い、該工場は生産中止となり休業状態を余儀無くさせられた事から、該信号場廃止を恐れた該町は、名古屋鐵道局静岡管理部に対し、大都市向該地特産生鮮野菜積出を理由に、該信号場存続の為に継続利用申請を行い、審査の結果、該申請が認定された事から、翌昭和21年(1946年)9月20日より、臨時貨物扱に限定し、該積出が開始された。<br />該町は、更に、該信号場に於ける旅客扱を可能とすべく、昭和22年(1947年)1月に、該町町長以下連名に依り、名古屋鐵道局長に対し、駅昇格請願書を提出した。<br />該鐵道局に於いて審議の結果、該信号場駅昇格に関する諸経費、及び、施設関係全部を無償提供を条件に可能と回答が得られた事から、該町は、該実現の為に努力し昇格に漕ぎ着けた。<br />因みに、該駅貨物取扱業務は豊橋駅至近を理由に合理化対象駅に指定され、昭和47年(1972年)3月1日附で廃止された。

    西小坂井(にしこさかい)駅



    該駅は、昭和23年(1948年)8月1日開業である。
    然し、該駅前身は、昭和20年(1945年)6月10日開設の西伊奈(にしいな)信号場が嚆矢である。
    即ち、当時は大東亜戦争(だいとうあせんそう)(昭和16年(1941年)12月8日〜昭和20年(1945年)8月15日)末期だったにも拘らず、該地に所在した住友金属伊奈工場への搬出入の為の専用線設置に伴う、分岐点が発端である。
    即ち、本来であれば、該施設は名古屋鐵道本線伊奈駅が至近地で、該駅から側線設置も亦可能だったが、当時の該社建築限界が鐵道省標準規格と比較して狭隘で、且つ、路盤規格も脆弱だった事から、大型機器搬送に不適格と判断され、東海道本線に信号所設置が決定された。
    地元、小坂井町は、該信号場開設時に駅昇格を期待し、停車場必要用地確保、及び、無償勤労奉仕に依り該土地整備を行った処で終戦を迎えた。
    終戦に伴い、該工場は生産中止となり休業状態を余儀無くさせられた事から、該信号場廃止を恐れた該町は、名古屋鐵道局静岡管理部に対し、大都市向該地特産生鮮野菜積出を理由に、該信号場存続の為に継続利用申請を行い、審査の結果、該申請が認定された事から、翌昭和21年(1946年)9月20日より、臨時貨物扱に限定し、該積出が開始された。
    該町は、更に、該信号場に於ける旅客扱を可能とすべく、昭和22年(1947年)1月に、該町町長以下連名に依り、名古屋鐵道局長に対し、駅昇格請願書を提出した。
    該鐵道局に於いて審議の結果、該信号場駅昇格に関する諸経費、及び、施設関係全部を無償提供を条件に可能と回答が得られた事から、該町は、該実現の為に努力し昇格に漕ぎ着けた。
    因みに、該駅貨物取扱業務は豊橋駅至近を理由に合理化対象駅に指定され、昭和47年(1972年)3月1日附で廃止された。

  • 西小坂井駅<br /><br /><br /><br />出改札口

    西小坂井駅



    出改札口

  • 西小坂井駅<br /><br /><br /><br />改札口<br />内部

    西小坂井駅



    改札口
    内部

  • 西小坂井駅<br /><br /><br /><br />構内旅客通路

    西小坂井駅



    構内旅客通路

  • 西小坂井駅<br /><br /><br /><br />構内旅客跨線橋

    西小坂井駅



    構内旅客跨線橋

  • 西小坂井駅<br /><br /><br /><br />跨線橋<br />内部<br />支柱に古軌条活用。

    西小坂井駅



    跨線橋
    内部
    支柱に古軌条活用。

  • 西小坂井駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム

    西小坂井駅



    第2番ホーム

  • 西小坂井駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />旧貨物取扱跡<br />現在はマンションやパチンコ屋が存在。

    西小坂井駅



    駅構内
    旧貨物取扱跡
    現在はマンションやパチンコ屋が存在。

  • 西小坂井駅<br /><br /><br /><br />旧住友金属貨物専用線跡

    西小坂井駅



    旧住友金属貨物専用線跡

  • 西小坂井駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />東京方俯瞰

    西小坂井駅



    駅構内
    東京方俯瞰

  • 西小坂井-愛知御津間<br /><br /><br /><br />旧住友金属貨物専用線跡<br />幾度かの変遷を経て貨物輸送廃止後は地元に払下後道路化。<br /><br />豊川市伊奈町慶応350<br />東海道本線西小坂井駅 徒歩6分

    西小坂井-愛知御津間



    旧住友金属貨物専用線跡
    幾度かの変遷を経て貨物輸送廃止後は地元に払下後道路化。

    豊川市伊奈町慶応350
    東海道本線西小坂井駅 徒歩6分

  • 西小坂井−愛知御津間<br /><br /><br /><br />佐奈川橋梁

    西小坂井−愛知御津間



    佐奈川橋梁

  • 西小坂井−愛知御津間<br /><br /><br /><br />佐奈川(さながわ)橋梁<br /><br />豊川市伊奈町佐脇原無番地<br />東海道本線西小坂井駅 徒歩15分

    西小坂井−愛知御津間



    佐奈川(さながわ)橋梁

    豊川市伊奈町佐脇原無番地
    東海道本線西小坂井駅 徒歩15分

  • 西小坂井−愛知御津間<br /><br /><br /><br />白川(しらかわ)橋梁<br /><br />豊川市御津町下佐脇14<br />東海道本線西小坂井駅 徒歩25分

    西小坂井−愛知御津間



    白川(しらかわ)橋梁

    豊川市御津町下佐脇14
    東海道本線西小坂井駅 徒歩25分

  • 西小坂井-愛知御津間<br /><br /><br /><br />音羽川(おとわがわ)橋梁<br /><br />豊川市御津町下佐脇58<br />東海道本線愛知御津駅 徒歩12分

    西小坂井-愛知御津間



    音羽川(おとわがわ)橋梁

    豊川市御津町下佐脇58
    東海道本線愛知御津駅 徒歩12分

  • 愛知御津(あいちみと)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治21年(1888年)9月1日開業である。<br />即ち、該駅は、大府-濱松間開通時に設置された。<br />該駅開業当時は 御油(ごゆ)と命名されたが、此れは、当時旧東海道筋に駅設置を検討していたからで、実際には御津村経由となった事から御油とは関係無い明昌だった為に、その後、該駅本屋再建時に、町名改正に合せ、現駅名に改称された。<br />因みに、該駅名改称時に、当時の名古屋鉄道局静岡管理部は、新名称を三河御津(みかわ みと)としたく、地元に提示したが、地元側の強い希望に依り現名称に決定されたとするが、寧ろ、該線隣接駅に、既に三河三谷が存在する事から、乗降上の混同忌避の為に、名古屋鐵道局が誘導を以って該名に決定させたと言うのが、けだし真相であろう。<br />該駅は、大東亜戦争末期たる昭和20年(1945年)8月7日深夜に米戦略部隊に依る空襲を受け、開業時設置の初代駅本屋他、該駅構内諸施設に全半焼被害が発生した。<br />現駅本屋は、該空襲で全焼後、仮建築の第2代を経て、昭和23年(1948年)4月に再建された第3代建築である。

    愛知御津(あいちみと)駅



    該駅は、明治21年(1888年)9月1日開業である。
    即ち、該駅は、大府-濱松間開通時に設置された。
    該駅開業当時は 御油(ごゆ)と命名されたが、此れは、当時旧東海道筋に駅設置を検討していたからで、実際には御津村経由となった事から御油とは関係無い明昌だった為に、その後、該駅本屋再建時に、町名改正に合せ、現駅名に改称された。
    因みに、該駅名改称時に、当時の名古屋鉄道局静岡管理部は、新名称を三河御津(みかわ みと)としたく、地元に提示したが、地元側の強い希望に依り現名称に決定されたとするが、寧ろ、該線隣接駅に、既に三河三谷が存在する事から、乗降上の混同忌避の為に、名古屋鐵道局が誘導を以って該名に決定させたと言うのが、けだし真相であろう。
    該駅は、大東亜戦争末期たる昭和20年(1945年)8月7日深夜に米戦略部隊に依る空襲を受け、開業時設置の初代駅本屋他、該駅構内諸施設に全半焼被害が発生した。
    現駅本屋は、該空襲で全焼後、仮建築の第2代を経て、昭和23年(1948年)4月に再建された第3代建築である。

    愛知御津駅

  • 愛知御津駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />昭和23年(1948年)4月再建。<br />

    愛知御津駅



    駅本屋
    昭和23年(1948年)4月再建。

    愛知御津駅

  • 愛知御津駅<br /><br /><br /><br />駅本屋

    愛知御津駅



    駅本屋

    愛知御津駅

  • 愛知御津駅<br /><br /><br /><br />駅構内

    愛知御津駅



    駅構内

    愛知御津駅

  • 愛知御津駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム

    愛知御津駅



    第1番ホーム

    愛知御津駅

  • 愛知御津駅<br /><br /><br /><br />駅構内

    愛知御津駅



    駅構内

    愛知御津駅

  • 愛知御津駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />ホーム側壁段差。<br />開業当初の車輌が低床度と現代車輌との比較。

    愛知御津駅



    第2番ホーム
    ホーム側壁段差。
    開業当初の車輌が低床度と現代車輌との比較。

    愛知御津駅

  • 愛知御津-三河大塚間<br /><br /><br /><br />御津川(みとがわ)橋梁<br /><br />豊川市御津町泙野無番地<br />東海道本線愛知御津駅 徒歩16分

    愛知御津-三河大塚間



    御津川(みとがわ)橋梁

    豊川市御津町泙野無番地
    東海道本線愛知御津駅 徒歩16分

  • 愛知御津-三河大塚間<br /><br /><br /><br />御津川橋梁<br />架替が実施されPCコンクリート橋梁化された。<br /><br />豊川市御津町泙野無番地<br />東海道本線愛知御津駅 徒歩16分

    愛知御津-三河大塚間



    御津川橋梁
    架替が実施されPCコンクリート橋梁化された。

    豊川市御津町泙野無番地
    東海道本線愛知御津駅 徒歩16分

  • 愛知御津-三河大塚間<br /><br /><br /><br />大津用水路(おおつようすいろ)橋梁<br />全景<br /><br />豊川市御津町大草無番地<br />東海道本線愛知御津駅 徒歩25分

    愛知御津-三河大塚間



    大津用水路(おおつようすいろ)橋梁
    全景

    豊川市御津町大草無番地
    東海道本線愛知御津駅 徒歩25分

  • 愛知御津-三河大塚間<br /><br /><br /><br />大津用水路橋梁<br />積石煉瓦巻構造<br />東南海大地震、及び、三河大地震で被害を受けず、内部もコンクリート、モルタル補強される事無く、設置当時の原型を残す貴重な存在。<br /><br />豊川市御津町大草無番地<br />東海道本線愛知御津駅 徒歩25分

    愛知御津-三河大塚間



    大津用水路橋梁
    積石煉瓦巻構造
    東南海大地震、及び、三河大地震で被害を受けず、内部もコンクリート、モルタル補強される事無く、設置当時の原型を残す貴重な存在。

    豊川市御津町大草無番地
    東海道本線愛知御津駅 徒歩25分

  • 愛知御津-三河大塚間<br /><br /><br /><br />三河大塚駅構内<br />神戸方俯瞰

    愛知御津-三河大塚間



    三河大塚駅構内
    神戸方俯瞰

  • 三河大塚駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />全景<br />該駅は、昭和35年(1960年)3月1日開業である。<br />然し、該駅前身たる仮停車場設置は、昭和28年(1953年)7月8日である。<br />即ち、該地域付近に所在する三河大島は、該線開通当時から愛知県内有数の海水浴場適地として知られた存在だったが、此の為に、既に大正期から駅設置運動が発生し、殊に、大正12年(1923年)7月1日附で、双信閉塞分割を理由に該地付近に大塚信号所が設置された事で、該信号所の駅昇格を狙い、駅昇格運動が盛んになったが、豊橋-岡崎間に自動閉塞式が導入された事で、該信号所は昭和2年(1927年)2月12日附で廃止され、更に、翌昭和3年(1928年)7月3日附で隣町たる三谷町に三河三谷駅が設置された事で、該駅設置運動は自然消滅した。<br />大東亜戦争後、東海道本線はは沼津以西区間に対する電化工事が進展し、浜松-名古屋間は昭和28年(1953年)7月21日に電化開業が決定された事で、地元大塚村は新駅設置に対する起爆剤となり、該請願が効をなし、取敢えず、名古屋鉄道管理局限定の仮停車場として電化竣工に先行し同年同月8日に開業した。<br />当然の事ながら、管理局限定の仮駅故に、開設期間、及び、取扱区間に制限が設定され海水浴期間限定の営業だった。<br />該村では、該駅を常設駅とすべく度々請願を行い、更に、該村が蒲郡市に編入された事で拍車がかかり、該請願が承認され、昭和35年(1960年)3月1日附で駅昇格が実現し、同時に旅客取扱制限も撤廃された。

    三河大塚駅



    駅本屋
    全景
    該駅は、昭和35年(1960年)3月1日開業である。
    然し、該駅前身たる仮停車場設置は、昭和28年(1953年)7月8日である。
    即ち、該地域付近に所在する三河大島は、該線開通当時から愛知県内有数の海水浴場適地として知られた存在だったが、此の為に、既に大正期から駅設置運動が発生し、殊に、大正12年(1923年)7月1日附で、双信閉塞分割を理由に該地付近に大塚信号所が設置された事で、該信号所の駅昇格を狙い、駅昇格運動が盛んになったが、豊橋-岡崎間に自動閉塞式が導入された事で、該信号所は昭和2年(1927年)2月12日附で廃止され、更に、翌昭和3年(1928年)7月3日附で隣町たる三谷町に三河三谷駅が設置された事で、該駅設置運動は自然消滅した。
    大東亜戦争後、東海道本線はは沼津以西区間に対する電化工事が進展し、浜松-名古屋間は昭和28年(1953年)7月21日に電化開業が決定された事で、地元大塚村は新駅設置に対する起爆剤となり、該請願が効をなし、取敢えず、名古屋鉄道管理局限定の仮停車場として電化竣工に先行し同年同月8日に開業した。
    当然の事ながら、管理局限定の仮駅故に、開設期間、及び、取扱区間に制限が設定され海水浴期間限定の営業だった。
    該村では、該駅を常設駅とすべく度々請願を行い、更に、該村が蒲郡市に編入された事で拍車がかかり、該請願が承認され、昭和35年(1960年)3月1日附で駅昇格が実現し、同時に旅客取扱制限も撤廃された。

    三河大塚駅

  • 三河大塚駅<br /><br /><br /><br />現駅本屋<br />昭和40年(1965年)8月6日附 第2代駅本屋竣工。<br />平成17年(2005年)7月20日附 現第3代駅本屋竣工。

    三河大塚駅



    現駅本屋
    昭和40年(1965年)8月6日附 第2代駅本屋竣工。
    平成17年(2005年)7月20日附 現第3代駅本屋竣工。

    三河大塚駅

  • 三河大塚駅<br /><br /><br /><br />駅開設記念碑

    三河大塚駅



    駅開設記念碑

    三河大塚駅

  • 三河大塚駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />殆ど露天構造でホーム上屋が若干。

    三河大塚駅



    駅構内
    殆ど露天構造でホーム上屋が若干。

    三河大塚駅

  • 三河大塚駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />駅名板<br />後方ホーム上に駅中心キロポスト

    三河大塚駅



    第1番ホーム
    駅名板
    後方ホーム上に駅中心キロポスト

    三河大塚駅

  • 三河大塚駅<br /><br /><br /><br />新星越山隧道連絡線跡<br />上り線右手路盤跡が連絡線跡。<br />昭和27年(1952年)12月〜昭和37年(1962年)6月2日使用。

    三河大塚駅



    新星越山隧道連絡線跡
    上り線右手路盤跡が連絡線跡。
    昭和27年(1952年)12月〜昭和37年(1962年)6月2日使用。

  • 三河大塚-三河三谷間<br /><br /><br /><br />大塚(おおつか)信号所跡<br />該信号所は、大正12年(1923年)7月1日開設である。<br />即ち、開設当時の保安施設たる双信閉塞式区間を2分割し、閉塞区間を分割した事で列車本数増加が可能になる為で、御油(現 愛知御津)-蒲郡間8.5km中間点に設置された。<br />その後、昭和3年(1928年)2月1日附で、豊橋-岡崎間に自動閉塞式が導入された事から該信号所は不要となり、同月12日附で廃止された。

    三河大塚-三河三谷間



    大塚(おおつか)信号所跡
    該信号所は、大正12年(1923年)7月1日開設である。
    即ち、開設当時の保安施設たる双信閉塞式区間を2分割し、閉塞区間を分割した事で列車本数増加が可能になる為で、御油(現 愛知御津)-蒲郡間8.5km中間点に設置された。
    その後、昭和3年(1928年)2月1日附で、豊橋-岡崎間に自動閉塞式が導入された事から該信号所は不要となり、同月12日附で廃止された。

  • 三河大塚-三河三谷間<br /><br /><br /><br />大塚信号所跡<br /><br />東海道本線三河大塚駅

    三河大塚-三河三谷間



    大塚信号所跡

    東海道本線三河大塚駅

  • 三河大塚-三河三谷間<br /><br /><br /><br />大塚信号所跡

    三河大塚-三河三谷間



    大塚信号所跡

  • 三河大塚-三河三谷間<br /><br /><br /><br />星越山(ほしごえやま)隧道<br />302m<br />東京方坑口<br />該隧道は、明治21年(1888年)9月1日附で、大府-濱松間開通時に蒲郡-御油(現 愛知御津)間に設置された。<br />豊橋-大府間路線設置が確定したのは明治20年(1887年)5月だったが、該隧道は該決定を待たず、同年1月に先行着工し、翌明治21年(1888年)6月に貫通したが素堀状態であり、内外畳築が該区間開通に間合ぬ事から素堀状態で開通し、内外畳築工事は、開通から6年後たる明治27年(1894年)に持越された。<br />その後、該区間複線化工事が起工され、新隧道は既成隧道山側に設置がなされ、該区間は、明治41年(1908年)6月29日附で複線化され、新設隧道は上り線専用となり、既成隧道は下り線専用となった。<br />その後、大東亜戦争後に於ける東海道本線全線電化計画に鑑み、浜松-名古屋間電化工事に際し、該下り線用隧道の取扱が問題視された。<br />即ち、該隧道は建設期が古い事から建築限界が狭隘で、電化必須に於ける架線吊張の必要空間有余が存在せず、且つ、該区間を単線運転し該工事を施工は困難とされた。<br />該工事を担当する日本国有鉄道岐阜工事局は検討した結果、大東亜戦争勃発以前に計画された弾丸列車計画の為に、当時の鐵道省が付近一帯の用地を取得済だった事から、該用地を活用し、別地点に複線用隧道を掘削設置する事で、当面の該線電化を可能とすべく、該隧道掘削工事を起工し、該新隧道は、昭和27年(1952年)4月に竣工し、同年12月に東海道本線上り線が新隧道経由に切替えられた。<br />更に、新隧道切替で使用停止になった旧上り線隧道を整備し、下り線を旧上り線に切替が実施され、旧下り線隧道は使用中止となり放置された。<br />然るに、日本国有鉄道常務理事会で東海道新幹線東京-新大阪間建設が決定した事から、該新隧道は本来使用目的たる新幹線用に転用される事になり、此の為に、使用中止後、放置されていた旧下り線用隧道を、坑径拡大工事を施工し、下り線は、昭和37年(1962<br />年)4月25日、上り線は、同年6月2日に切替られ、元隧道に戻された。<br />因みに、該隧道名たる星越山なる山名は存在せず、原山が正当名称だが、至近地 星越峠から命名された。

    三河大塚-三河三谷間



    星越山(ほしごえやま)隧道
    302m
    東京方坑口
    該隧道は、明治21年(1888年)9月1日附で、大府-濱松間開通時に蒲郡-御油(現 愛知御津)間に設置された。
    豊橋-大府間路線設置が確定したのは明治20年(1887年)5月だったが、該隧道は該決定を待たず、同年1月に先行着工し、翌明治21年(1888年)6月に貫通したが素堀状態であり、内外畳築が該区間開通に間合ぬ事から素堀状態で開通し、内外畳築工事は、開通から6年後たる明治27年(1894年)に持越された。
    その後、該区間複線化工事が起工され、新隧道は既成隧道山側に設置がなされ、該区間は、明治41年(1908年)6月29日附で複線化され、新設隧道は上り線専用となり、既成隧道は下り線専用となった。
    その後、大東亜戦争後に於ける東海道本線全線電化計画に鑑み、浜松-名古屋間電化工事に際し、該下り線用隧道の取扱が問題視された。
    即ち、該隧道は建設期が古い事から建築限界が狭隘で、電化必須に於ける架線吊張の必要空間有余が存在せず、且つ、該区間を単線運転し該工事を施工は困難とされた。
    該工事を担当する日本国有鉄道岐阜工事局は検討した結果、大東亜戦争勃発以前に計画された弾丸列車計画の為に、当時の鐵道省が付近一帯の用地を取得済だった事から、該用地を活用し、別地点に複線用隧道を掘削設置する事で、当面の該線電化を可能とすべく、該隧道掘削工事を起工し、該新隧道は、昭和27年(1952年)4月に竣工し、同年12月に東海道本線上り線が新隧道経由に切替えられた。
    更に、新隧道切替で使用停止になった旧上り線隧道を整備し、下り線を旧上り線に切替が実施され、旧下り線隧道は使用中止となり放置された。
    然るに、日本国有鉄道常務理事会で東海道新幹線東京-新大阪間建設が決定した事から、該新隧道は本来使用目的たる新幹線用に転用される事になり、此の為に、使用中止後、放置されていた旧下り線用隧道を、坑径拡大工事を施工し、下り線は、昭和37年(1962
    年)4月25日、上り線は、同年6月2日に切替られ、元隧道に戻された。
    因みに、該隧道名たる星越山なる山名は存在せず、原山が正当名称だが、至近地 星越峠から命名された。

  • 三河大塚-三河三谷間<br /><br /><br /><br />星越山隧道<br />神戸方坑口<br />上り線は該地点から新星越隧道に直進していた。

    三河大塚-三河三谷間



    星越山隧道
    神戸方坑口
    上り線は該地点から新星越隧道に直進していた。

  • 三河三谷(みかわみや)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和4年(1929年)7月3日開業である。<br />該線開通当時、該駅設置に反対した為に、内閣鐵道局は、当初計画には存在しなかった蒲郡村に停車場設置の結果、該駅付近一帯は、たちまち急激な発展を見るに至ったが、反対に、三谷村周辺は取り残されたかの如き寂れ方だった。<br />それ故、該状態を目の当たりにし後悔した三谷町は、三谷湊から産出する魚介類、及び、農生産物積出地として新駅設置請願を明治41年(1908年)5月25日附で帝國鐵道庁に対し行い、次いで、翌明治42年(1909年)3月に内閣鐵道院初代総裁 後藤新平(ごとう しんぺい)(安政4年(1857年)7月24日〜昭和4年(1929年)4月13日)に対し再請願を行ったが、当時の鐵道院は隣接駅と3哩(4.83km)以上有しなければ認定しない方針だった事から、該請願は2件とも却下された。<br />その後、第1次世界大戦(だいいちじせかいたいせん)勃発(大正3年(1914年)8月23日〜大正7年(1918年)11月11日)や物価暴騰等々に依り、新駅設置どころではなくなり、暫く静観状態だったが、大正13年(1924年)8月4日に、当時の第24代 加藤高明(かとう たかあき)(安政7年(1860年)1月25日〜大正15年(1926年)1月28日)内閣(大正13年(1924年)6月11日〜大正15年(1926年)1月28日在任)の第5代鐵道大臣 仙石 貢(せんごく みつぎ)(安政4年(1857年)7月22日〜昭和6年(1931年)10月30日)(大正13年(1924年)6月11日〜大正15年(1926年)1月30日在任)に対し、第3回請願を実施した。<br />該請願では同時に停車場設置予定地を鐵道省に対し無償提供する旨も誓約してた。<br />此れを受け、鐵道省名古屋鐵道局は大正15年(1926年)7月に担当者を現地に派遣させ、町勢、出入貨物の実態調査を実施させた。<br />第25代第?次若槻禮次郎(わかつき れいじろう)(文久2年(1866年3月21日〜昭和24年(1949年)11月20日)内閣(大正15年(1926年)1月30日〜昭和2年(1927年)4月20日在任)の第6代鐵道大臣 井上匡四郎(いのうえ  ただしろう)(明治9年(1876年)4月30日〜昭和34年(1959年)3月18日)(大正15年(1926年)1月30日〜昭和2年(1927年)4月20日在任)に提出し、審議の結果、同年12月8日に該大臣決済が下りた。<br />

    三河三谷(みかわみや)駅



    該駅は、昭和4年(1929年)7月3日開業である。
    該線開通当時、該駅設置に反対した為に、内閣鐵道局は、当初計画には存在しなかった蒲郡村に停車場設置の結果、該駅付近一帯は、たちまち急激な発展を見るに至ったが、反対に、三谷村周辺は取り残されたかの如き寂れ方だった。
    それ故、該状態を目の当たりにし後悔した三谷町は、三谷湊から産出する魚介類、及び、農生産物積出地として新駅設置請願を明治41年(1908年)5月25日附で帝國鐵道庁に対し行い、次いで、翌明治42年(1909年)3月に内閣鐵道院初代総裁 後藤新平(ごとう しんぺい)(安政4年(1857年)7月24日〜昭和4年(1929年)4月13日)に対し再請願を行ったが、当時の鐵道院は隣接駅と3哩(4.83km)以上有しなければ認定しない方針だった事から、該請願は2件とも却下された。
    その後、第1次世界大戦(だいいちじせかいたいせん)勃発(大正3年(1914年)8月23日〜大正7年(1918年)11月11日)や物価暴騰等々に依り、新駅設置どころではなくなり、暫く静観状態だったが、大正13年(1924年)8月4日に、当時の第24代 加藤高明(かとう たかあき)(安政7年(1860年)1月25日〜大正15年(1926年)1月28日)内閣(大正13年(1924年)6月11日〜大正15年(1926年)1月28日在任)の第5代鐵道大臣 仙石 貢(せんごく みつぎ)(安政4年(1857年)7月22日〜昭和6年(1931年)10月30日)(大正13年(1924年)6月11日〜大正15年(1926年)1月30日在任)に対し、第3回請願を実施した。
    該請願では同時に停車場設置予定地を鐵道省に対し無償提供する旨も誓約してた。
    此れを受け、鐵道省名古屋鐵道局は大正15年(1926年)7月に担当者を現地に派遣させ、町勢、出入貨物の実態調査を実施させた。
    第25代第?次若槻禮次郎(わかつき れいじろう)(文久2年(1866年3月21日〜昭和24年(1949年)11月20日)内閣(大正15年(1926年)1月30日〜昭和2年(1927年)4月20日在任)の第6代鐵道大臣 井上匡四郎(いのうえ ただしろう)(明治9年(1876年)4月30日〜昭和34年(1959年)3月18日)(大正15年(1926年)1月30日〜昭和2年(1927年)4月20日在任)に提出し、審議の結果、同年12月8日に該大臣決済が下りた。

    三河三谷駅

  • 三河三谷駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />全景<br />全盛期には、東京-名古屋・大垣間を運転した 急行東海号も停車していたが、現在では特別快速電車は通過し、何となくうらぶれた雰囲気が否定出来ない、<br />因みに、三谷町に於ける温泉湧出は大東亜戦争後たる昭和26年(1951年)。

    三河三谷駅



    駅本屋
    全景
    全盛期には、東京-名古屋・大垣間を運転した 急行東海号も停車していたが、現在では特別快速電車は通過し、何となくうらぶれた雰囲気が否定出来ない、
    因みに、三谷町に於ける温泉湧出は大東亜戦争後たる昭和26年(1951年)。

    三河三谷駅

  • 三河三谷駅<br /><br /><br /><br />出改札口<br />待合室の広さが、嘗て大量の海水浴客の受入時代を物語る。

    三河三谷駅



    出改札口
    待合室の広さが、嘗て大量の海水浴客の受入時代を物語る。

    三河三谷駅

  • 三河三谷駅<br /><br /><br /><br />改札口<br />海水浴客乗降混雑時に将棋倒し防止の為に、階段を設置せずスロープに依り第1番ホームにアプローチ。

    三河三谷駅



    改札口
    海水浴客乗降混雑時に将棋倒し防止の為に、階段を設置せずスロープに依り第1番ホームにアプローチ。

    三河三谷駅

  • 三河三谷駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム改札口接続部

    三河三谷駅



    第1番ホーム改札口接続部

    三河三谷駅

  • 三河三谷駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />跨線橋<br />開業当日の撮影された写真を精査すると、該跨線橋は存在しない。<br />然し、昭和9年(1934年)撮影の写真に設置工事中の該跨線橋が存在する為に、該跨線橋は該年以降竣工と推定され、それ迄は、構内線路通行だった。

    三河三谷駅



    第1番ホーム
    跨線橋
    開業当日の撮影された写真を精査すると、該跨線橋は存在しない。
    然し、昭和9年(1934年)撮影の写真に設置工事中の該跨線橋が存在する為に、該跨線橋は該年以降竣工と推定され、それ迄は、構内線路通行だった。

    三河三谷駅

  • 三河三谷駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム

    三河三谷駅



    第2番ホーム

    三河三谷駅

  • 三河三谷駅<br /><br /><br /><br />第1番ホームと跨線橋

    三河三谷駅



    第1番ホームと跨線橋

    三河三谷駅

  • 三河三谷駅<br /><br /><br /><br />旅客跨線橋<br />階段

    三河三谷駅



    旅客跨線橋
    階段

    三河三谷駅

  • 三河三谷駅<br /><br /><br /><br />旅客跨線橋<br />内部<br />古軌条を支柱に多用。

    三河三谷駅



    旅客跨線橋
    内部
    古軌条を支柱に多用。

    三河三谷駅

  • 三河三谷駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />支柱に古軌条を多用。

    三河三谷駅



    第2番ホーム
    支柱に古軌条を多用。

    三河三谷駅

  • 三河三谷-蒲郡間<br /><br /><br /><br />旧東海道本線路線敷跡<br />高架化工事完了後、一部が施設となった以外、休眠施設が多い。<br /><br />蒲郡市三谷町須田35<br />東海道本線三河三谷駅 徒歩5分

    三河三谷-蒲郡間



    旧東海道本線路線敷跡
    高架化工事完了後、一部が施設となった以外、休眠施設が多い。

    蒲郡市三谷町須田35
    東海道本線三河三谷駅 徒歩5分

  • 蒲郡(がまごおり)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治21年(1888年)9月1日開業である。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/gamagori/

    蒲郡(がまごおり)駅



    該駅は、明治21年(1888年)9月1日開業である。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/gamagori/

    蒲郡駅

  • 蒲郡駅<br /><br /><br /><br />北口<br />昭和44年(1969年)4月 第2代駅本屋改築。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/gamagori/

    蒲郡駅



    北口
    昭和44年(1969年)4月 第2代駅本屋改築。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/gamagori/

    蒲郡駅

  • 蒲郡駅<br /><br /><br /><br />北口<br />蒲郡の地名は、明治8年(1875年)に、当時の蒲形村、及び、西郡村が対等合併し、個々の1文字を活用し成立した事が要因である。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/gamagori/

    蒲郡駅



    北口
    蒲郡の地名は、明治8年(1875年)に、当時の蒲形村、及び、西郡村が対等合併し、個々の1文字を活用し成立した事が要因である。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/gamagori/

    蒲郡駅

  • 蒲郡駅<br /><br /><br /><br />南口<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/gamagori/

    蒲郡駅



    南口
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/gamagori/

    蒲郡駅

  • 蒲郡駅<br /><br /><br /><br />南口<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/gamagori/

    蒲郡駅



    南口
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/gamagori/

    蒲郡駅

  • 蒲郡駅<br /><br /><br /><br />南口<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/gamagori/

    蒲郡駅



    南口
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/gamagori/

    蒲郡駅

  • 蒲郡駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/gamagori/

    蒲郡駅



    駅構内
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/gamagori/

    蒲郡駅

  • 蒲郡-三河塩津間<br /><br /><br /><br />高架終了地点<br /><br />蒲郡市竹谷町井瀬木12<br />東海道本線三河塩津駅 徒歩1分

    蒲郡-三河塩津間



    高架終了地点

    蒲郡市竹谷町井瀬木12
    東海道本線三河塩津駅 徒歩1分

  • 三河塩津(みかわしおつ)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和63年(1988年)11月16日開業である。

    三河塩津(みかわしおつ)駅



    該駅は、昭和63年(1988年)11月16日開業である。

    三河塩津駅

  • 三河塩津駅<br /><br /><br /><br />出改札口

    三河塩津駅



    出改札口

    三河塩津駅

  • 三河塩津駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />該駅設置に鑑み、島式ホームでは無く、相対式ホームが設置された。

    三河塩津駅



    第2番ホーム
    該駅設置に鑑み、島式ホームでは無く、相対式ホームが設置された。

    三河塩津駅

  • 三河塩津駅<br /><br /><br /><br />海岸口<br />該地至近に蒲郡競艇場が存在するが、後発たる東海旅客鉄道は、名古屋鉄道と同じく蒲郡競艇場前(がまごおり きょうていじょうまえ)と命名する訳にもいかず、地名を流用し、半ば苦し紛れとも言ふべき駅名を設定した。<br />因みに、同一箇所に所在しながら異会社子異駅名制定例では、青森県の津軽線津軽二股駅、及び、海峡線津軽今別駅例が著名である。

    三河塩津駅



    海岸口
    該地至近に蒲郡競艇場が存在するが、後発たる東海旅客鉄道は、名古屋鉄道と同じく蒲郡競艇場前(がまごおり きょうていじょうまえ)と命名する訳にもいかず、地名を流用し、半ば苦し紛れとも言ふべき駅名を設定した。
    因みに、同一箇所に所在しながら異会社子異駅名制定例では、青森県の津軽線津軽二股駅、及び、海峡線津軽今別駅例が著名である。

    三河塩津駅

  • 三河塩津-三ヶ根間<br /><br /><br /><br />足後川(あしあとがわ)橋梁<br /><br />蒲郡市塩津町無番地<br />東海道本線三河塩津駅 徒歩20分

    三河塩津-三ヶ根間



    足後川(あしあとがわ)橋梁

    蒲郡市塩津町無番地
    東海道本線三河塩津駅 徒歩20分

  • 三河塩津-三ヶ根間<br /><br /><br /><br />足後川橋梁<br /><br />蒲郡市塩津町無番地<br />東海道本線三河塩津駅 徒歩20分

    三河塩津-三ヶ根間



    足後川橋梁

    蒲郡市塩津町無番地
    東海道本線三河塩津駅 徒歩20分

  • 三河大塚-三河三谷間<br /><br /><br /><br />深溝(ふこうず)信号所跡<br />該信号所は、大正12年(1923年)7月1日開設である。<br />東海道本線は、当時としては最新保安機器たる双信閉塞式を導入していたが、駅間閉塞を2分割し列車本数増発を可能とすべく、該信号所が設置された。<br />その後、昭和3年(1928年)2月1日附で、豊橋-岡崎間に自動閉塞式が導入された事から、該施設は不要となり、同月12日附で廃止。<br /><br /><br />額田郡幸田町深溝<br />東海道本線三ヶ根駅 徒歩5分

    三河大塚-三河三谷間



    深溝(ふこうず)信号所跡
    該信号所は、大正12年(1923年)7月1日開設である。
    東海道本線は、当時としては最新保安機器たる双信閉塞式を導入していたが、駅間閉塞を2分割し列車本数増発を可能とすべく、該信号所が設置された。
    その後、昭和3年(1928年)2月1日附で、豊橋-岡崎間に自動閉塞式が導入された事から、該施設は不要となり、同月12日附で廃止。


    額田郡幸田町深溝
    東海道本線三ヶ根駅 徒歩5分

  • 三河塩津-三ヶ根間<br /><br /><br /><br />三ヶ根駅<br />全景<br />神戸方俯瞰

    三河塩津-三ヶ根間



    三ヶ根駅
    全景
    神戸方俯瞰

    三ヶ根駅

  • 三ヶ根(さんがね)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和42年(1967年)3月20日開業である。

    三ヶ根(さんがね)駅



    該駅は、昭和42年(1967年)3月20日開業である。

    三ヶ根駅

  • 三ヶ根駅<br /><br /><br /><br />駅本屋

    三ヶ根駅



    駅本屋

    三ヶ根駅

  • 幸田(こうだ)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />該駅は、明治41年(1908年)9月11日開業である。<br />然るに、該駅前身は、明治39年(1906年)4月開設の芦谷(あしのや)信号所が嚆矢である。<br />蒲郡-岡崎間は、比較的平坦であり、且つ、隧道や大中河川も存在しない事から、他区間より早く、明治35年(1902年)9月1日に複線化された。<br />然し、該区間は、15.3kmを有する為に、当時の最新保安装置たる双信閉塞式で1閉塞とせざるを得ず、該1閉塞を途中信号所を設置する事で、2分割させ列車増発を可能とした。<br />該信号所開設当時、付近一帯は額田郡相見村と称した。<br />その後、該村は、坂崎村、及び、深溝村を合併し、広田(こうだ)村が成立し、該村は、該信号所を旅客扱可能とさせるべく、帝國鐵道庁に対し、駅昇格請願を行った処、該駅必要用地、及び、関係施設を広田村が無償提供する事を条件に該請願が認められ、明治41年(1908年)6月12日に該駅開設関係工事が起工され、同年9月11日に駅に昇格した。<br />該駅昇格当時、該駅周辺には何等存在しない地だったが、やがて深溝から郵便局が該駅前に移転し、該駅前に商店街が形成されるに至った。<br />該駅昇格時に建築された初代駅本屋は、昭和20年(1945年)8月2日に、米戦略部隊所属の艦載機P51型機数機の攻撃を受け、該駅職員官舎と共に焼失し、更に、空襲を受け該駅停車中だった下り旅客列車乗客に死傷者が発生したが、戦争末期でもあり、名古屋鐵道局静岡管理部から運輸省鐵道総局に対し、該被害状況が報告されておらず、それ故、本省記録に該空襲被災記録の記載は無い。<br />終戦後、取敢えず、仮建築で第2代駅本屋が設置されたが、昭和28年(1953年)8月に鉄骨コンクリート建築で改築されたのが現第3代駅本屋である。

    幸田(こうだ)駅



    駅本屋
    該駅は、明治41年(1908年)9月11日開業である。
    然るに、該駅前身は、明治39年(1906年)4月開設の芦谷(あしのや)信号所が嚆矢である。
    蒲郡-岡崎間は、比較的平坦であり、且つ、隧道や大中河川も存在しない事から、他区間より早く、明治35年(1902年)9月1日に複線化された。
    然し、該区間は、15.3kmを有する為に、当時の最新保安装置たる双信閉塞式で1閉塞とせざるを得ず、該1閉塞を途中信号所を設置する事で、2分割させ列車増発を可能とした。
    該信号所開設当時、付近一帯は額田郡相見村と称した。
    その後、該村は、坂崎村、及び、深溝村を合併し、広田(こうだ)村が成立し、該村は、該信号所を旅客扱可能とさせるべく、帝國鐵道庁に対し、駅昇格請願を行った処、該駅必要用地、及び、関係施設を広田村が無償提供する事を条件に該請願が認められ、明治41年(1908年)6月12日に該駅開設関係工事が起工され、同年9月11日に駅に昇格した。
    該駅昇格当時、該駅周辺には何等存在しない地だったが、やがて深溝から郵便局が該駅前に移転し、該駅前に商店街が形成されるに至った。
    該駅昇格時に建築された初代駅本屋は、昭和20年(1945年)8月2日に、米戦略部隊所属の艦載機P51型機数機の攻撃を受け、該駅職員官舎と共に焼失し、更に、空襲を受け該駅停車中だった下り旅客列車乗客に死傷者が発生したが、戦争末期でもあり、名古屋鐵道局静岡管理部から運輸省鐵道総局に対し、該被害状況が報告されておらず、それ故、本省記録に該空襲被災記録の記載は無い。
    終戦後、取敢えず、仮建築で第2代駅本屋が設置されたが、昭和28年(1953年)8月に鉄骨コンクリート建築で改築されたのが現第3代駅本屋である。

    幸田駅

  • 幸田駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />全景

    幸田駅



    駅本屋
    全景

    幸田駅

  • 幸田駅<br /><br /><br /><br />出改札口

    幸田駅



    出改札口

    幸田駅

  • 幸田駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />神戸方<br />俯瞰

    幸田駅



    駅構内
    神戸方
    俯瞰

    幸田駅

  • 幸田駅<br /><br /><br /><br />駅構内

    幸田駅



    駅構内

    幸田駅

  • 相見(あいみ)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />全景<br />該駅は、平成24年(2012年)3月17日開業である。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/aimi/index.html

    相見(あいみ)駅



    駅本屋
    全景
    該駅は、平成24年(2012年)3月17日開業である。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/aimi/index.html

    相見駅

  • 相見駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />該駅所在地たる額田郡幸田町相見は、幸田駅開業まで該地域中心地であり、当然の如く駅設置請願が行われたが、明治41年(1906年)9月11日附で幸田駅開業に伴い新駅設置請願を取り下げ、該運動は自然解消した。<br />該地に駅設置運動が再興するのは平成元年(1989年)である。<br />新駅設置に全額地元負担が原則の為に、必要用地寄贈他、高額な負担金供出問題で紛糾したが、平成20年(2008年)10月に該問題に対し解決を見た事から、新駅設置が決定し、平成21年(2009年)12月14日該工事に着工した。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/aimi/index.html

    相見駅



    駅本屋
    該駅所在地たる額田郡幸田町相見は、幸田駅開業まで該地域中心地であり、当然の如く駅設置請願が行われたが、明治41年(1906年)9月11日附で幸田駅開業に伴い新駅設置請願を取り下げ、該運動は自然解消した。
    該地に駅設置運動が再興するのは平成元年(1989年)である。
    新駅設置に全額地元負担が原則の為に、必要用地寄贈他、高額な負担金供出問題で紛糾したが、平成20年(2008年)10月に該問題に対し解決を見た事から、新駅設置が決定し、平成21年(2009年)12月14日該工事に着工した。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/aimi/index.html

    相見駅

  • 相見-岡崎間<br /><br /><br /><br />相見駅構内<br />神戸方から俯瞰。

    相見-岡崎間



    相見駅構内
    神戸方から俯瞰。

  • 相見-岡崎間<br /><br /><br /><br />柳川(やなぎがわ)橋梁<br /><br />額田郡幸田町無番地<br />東海道本線相見駅 徒歩10分

    相見-岡崎間



    柳川(やなぎがわ)橋梁

    額田郡幸田町無番地
    東海道本線相見駅 徒歩10分

  • 相見-岡崎間<br /><br /><br /><br />宮裏踏切付近<br /><br />岡崎市福岡町善棚16<br />東海道本線

    相見-岡崎間



    宮裏踏切付近

    岡崎市福岡町善棚16
    東海道本線

  • 相見-岡崎間<br /><br /><br /><br />西尾橋梁 左<br />山田下拱橋 右<br /><br />岡崎市若松町山田下94<br />東海道本線岡崎駅

    相見-岡崎間



    西尾橋梁 左
    山田下拱橋 右

    岡崎市若松町山田下94
    東海道本線岡崎駅

  • 相見-岡崎間<br /><br /><br /><br />西尾(にしお)橋梁<br />旧名古屋鉄道福岡線跡<br />現在は該社自動車専用道路。<br />明治44年(1911年)10月30日開業<br />昭和18年(1943年)12月16日戦時体制強化に伴う不急不要路線指定の為に休止後、廃止される。<br />現在は該社路線バス専用道路。<br /><br />岡崎市若松町山田下94

    相見-岡崎間



    西尾(にしお)橋梁
    旧名古屋鉄道福岡線跡
    現在は該社自動車専用道路。
    明治44年(1911年)10月30日開業
    昭和18年(1943年)12月16日戦時体制強化に伴う不急不要路線指定の為に休止後、廃止される。
    現在は該社路線バス専用道路。

    岡崎市若松町山田下94

  • 相見-岡崎間<br /><br /><br /><br />西尾橋梁<br />福岡方俯瞰。<br /><br />岡崎市福岡町山田下94<br />

    相見-岡崎間



    西尾橋梁
    福岡方俯瞰。

    岡崎市福岡町山田下94

  • 相見-岡崎間<br /><br /><br /><br />西尾橋梁<br />岡崎方俯瞰。<br /><br />岡崎市福岡町山田下94

    相見-岡崎間



    西尾橋梁
    岡崎方俯瞰。

    岡崎市福岡町山田下94

  • 相見-岡崎間<br /><br /><br /><br />山田下(やまだした)拱橋<br />全景

    相見-岡崎間



    山田下(やまだした)拱橋
    全景

  • 相見-岡崎間<br /><br /><br /><br />山田下洪橋<br />架橋当時は河川が存在したが、現在は廃川となり埋立整備され地元生活道路。

    相見-岡崎間



    山田下洪橋
    架橋当時は河川が存在したが、現在は廃川となり埋立整備され地元生活道路。

  • 相見-岡崎間<br /><br /><br /><br />山田下拱橋<br />内部<br />架橋当時の原型が残存。

    相見-岡崎間



    山田下拱橋
    内部
    架橋当時の原型が残存。

  • 岡崎(おかざき)駅<br /><br /><br /><br />東口<br />該駅は、明治21年(1888年)9月1日開業である。<br />該駅は、旧東海道宿場町たる岡崎宿より南3.3km地点に設置された。<br />当時の小型蒸気機関車での登攀力に限界が有り、急勾配を忌避する為に、現行線が設定されたと言ふのが真相であり、該宿場が線路設置に反対したとか、該路線敷設工事担当技師に蒲郡出身者が存在した、等々の理由は、後世発生した鉄道忌避伝説であり、言わば、負惜しみであると言ふのが、けだし真相であろう。<br />鉄道開通後に於ける該駅岡崎町間交通不便は如何ともし難く、該状況を打破すべく、明治31年(1898年)12月28日に、岡崎馬車鐵道に依り、岡崎停車場前-明大寺間が開通し、該区間に於ける連絡運輸が開始された。<br />該馬車鉄道は、後に改軌、且つ、直流600V電化され、最終的に、名古屋鉄道岡崎市内線を形成する一翼を担い、昭和37年(1962年)6月17日附で全線廃止されたが、現在でも、該市内線路線痕跡は多数残存する。<br />初代駅本屋は、大東亜戦争末期たる昭和20年(1945年)8月2日未明の岡崎大空襲で該駅構内諸施設数箇所と共に焼失した。<br />戦後、名古屋鐵道局静岡管理部は、仮建築に依り駅本屋を復旧させたが、改めて、昭和27年(1952年)7月に鉄骨コンクリート建築で改築したのが第3代駅本屋だったが、平成2年(1990年)10月に第4代現駅橋上本屋が完成し東西自由通路が設置された。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/okazaki/

    岡崎(おかざき)駅



    東口
    該駅は、明治21年(1888年)9月1日開業である。
    該駅は、旧東海道宿場町たる岡崎宿より南3.3km地点に設置された。
    当時の小型蒸気機関車での登攀力に限界が有り、急勾配を忌避する為に、現行線が設定されたと言ふのが真相であり、該宿場が線路設置に反対したとか、該路線敷設工事担当技師に蒲郡出身者が存在した、等々の理由は、後世発生した鉄道忌避伝説であり、言わば、負惜しみであると言ふのが、けだし真相であろう。
    鉄道開通後に於ける該駅岡崎町間交通不便は如何ともし難く、該状況を打破すべく、明治31年(1898年)12月28日に、岡崎馬車鐵道に依り、岡崎停車場前-明大寺間が開通し、該区間に於ける連絡運輸が開始された。
    該馬車鉄道は、後に改軌、且つ、直流600V電化され、最終的に、名古屋鉄道岡崎市内線を形成する一翼を担い、昭和37年(1962年)6月17日附で全線廃止されたが、現在でも、該市内線路線痕跡は多数残存する。
    初代駅本屋は、大東亜戦争末期たる昭和20年(1945年)8月2日未明の岡崎大空襲で該駅構内諸施設数箇所と共に焼失した。
    戦後、名古屋鐵道局静岡管理部は、仮建築に依り駅本屋を復旧させたが、改めて、昭和27年(1952年)7月に鉄骨コンクリート建築で改築したのが第3代駅本屋だったが、平成2年(1990年)10月に第4代現駅橋上本屋が完成し東西自由通路が設置された。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/okazaki/

    岡崎駅

  • 岡崎駅<br /><br /><br /><br />東口<br />名古屋鉄道旧岡崎市内線代替バス<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/aimi/index.html

    岡崎駅



    東口
    名古屋鉄道旧岡崎市内線代替バス
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/aimi/index.html

    岡崎駅

  • 岡崎駅<br /><br /><br /><br />東口<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/aimi/index.html

    岡崎駅



    東口
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/aimi/index.html

    岡崎駅

  • 岡崎駅<br /><br /><br /><br />西口<br />平成2年(1990年)10月橋上駅化に依り開設。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/okazaki/

    岡崎駅



    西口
    平成2年(1990年)10月橋上駅化に依り開設。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/okazaki/

    岡崎駅

  • 岡崎駅<br /><br /><br /><br />西口<br />開設記念碑。<br />平成4年(1992年)岡崎中央ライオンズクラブ建立。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/okazaki/

    岡崎駅



    西口
    開設記念碑。
    平成4年(1992年)岡崎中央ライオンズクラブ建立。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/okazaki/

    岡崎駅

  • 岡崎駅<br /><br /><br /><br />西口<br />開設記念碑。<br />6200型蒸気機関車。<br />該機関車は、明治30年(1897年)から明治33年(1900年)にかけて、逓信省鐵道局が英國NEILSОN社に計18両を製造発注したテンダー式蒸気機関車である。<br />当初の番号は224〜247号機と付番され、該機は主として、東海道本線沿線に配置され新橋-馬場(現 膳所)間で使用された。<br />日本鐵道、及び、東武鐵道でも同型機が輸入され、日本鐵道分は國有鉄道法に拠り国有財産に編入され、此れらは、明治42年(1909年)に6200型に統一された。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/okazaki/

    岡崎駅



    西口
    開設記念碑。
    6200型蒸気機関車。
    該機関車は、明治30年(1897年)から明治33年(1900年)にかけて、逓信省鐵道局が英國NEILSОN社に計18両を製造発注したテンダー式蒸気機関車である。
    当初の番号は224〜247号機と付番され、該機は主として、東海道本線沿線に配置され新橋-馬場(現 膳所)間で使用された。
    日本鐵道、及び、東武鐵道でも同型機が輸入され、日本鐵道分は國有鉄道法に拠り国有財産に編入され、此れらは、明治42年(1909年)に6200型に統一された。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/okazaki/

    岡崎駅

  • 岡崎駅<br /><br /><br /><br />出改札口<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/okazaki/

    岡崎駅



    出改札口
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/okazaki/

    岡崎駅

  • 岡崎駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/okazaki/

    岡崎駅



    第2番ホーム
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/okazaki/

    岡崎駅

  • 岡崎駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />旧ホーム段差跡<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/okazaki/

    岡崎駅



    第1番ホーム
    旧ホーム段差跡
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/okazaki/

    岡崎駅

  • 岡崎駅<br /><br /><br /><br />旧貨物取扱施設跡<br />

    岡崎駅



    旧貨物取扱施設跡

    岡崎駅

  • 岡崎駅<br /><br /><br /><br />旧貨物取扱施設跡<br />初代該駅は、明治27年(1894年)11月14日に火災により全焼被害が発生した。<br />該火災被災時駅長は、復旧に際し将来を見据え、現駅位置に移動を提言し、該提言は採用され現位置に移動した。<br />駅本屋移動後は、旧駅跡地は貨物取扱施設として存続した。

    岡崎駅



    旧貨物取扱施設跡
    初代該駅は、明治27年(1894年)11月14日に火災により全焼被害が発生した。
    該火災被災時駅長は、復旧に際し将来を見据え、現駅位置に移動を提言し、該提言は採用され現位置に移動した。
    駅本屋移動後は、旧駅跡地は貨物取扱施設として存続した。

    岡崎駅

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この旅行記へのコメント (4)

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  • norisaさん 2016/01/26 09:12:38
    明治、大正の英断
    横浜臨海公園さま、

    おはようございます。

    改めてこの旅行記を拝見して、調査の綿密さ正確さに驚きます。
    しろーとながらこの区間もなかなか大変だったことがわかります。

    ルートの選定というのもかなりの熟慮が必要なのですね。
    そういえば現在の御殿場線の状況を見ると、当時の考えはうがったもののようですが、さらに技術が進むとルート自身が見捨てられるということがわかります。

    当時の技術では斜度も大いに障害になったことは理解できます。

    それにしても明治初期から大正にかけて日本国中に鉄道を敷設したことは全国の発展に大いに寄与したことでしょう。
    開発途上国の車による渋滞と大気汚染の報道をみるにつけ当時の為政者の英断が日本の輸送力や低公害性に大いに寄与したことに感銘をおぼえます。
    (当時はいろいろ揉めたことでしょうがーー)

    労作お疲れ様でした!

    norisa

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2016/01/27 06:54:04
    拝復
    norisaさま、おはようございます。


    拙稿に投票と掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    何時もの事ですが、旅行記の作成には事前資料精査だけで疲れを覚えます。

    鉄道関係の旅行記作成で、地方での写真撮影は、周囲が枯れ草ばかりとなり毒蛇や毒虫が消える11月末から3月上旬に限定されます。
    然も、降雪ともなれば、雪で廃線敷が消える為に、時期が更に限られてしまいます。

    東海道線旅行記作成で明治期から路線変更が行われ一番厄介な関ケ原-米原間を抱え、米原に到達出来るのは、アト何年かかるか想像も出来ません。

    それにしても、既成の書籍や資料等々に、いかに歴史的裏付無き、いい加減な内容物が氾濫しているか、自分でも呆れております。

    取敢えず、名古屋までは今年中に完成する予定です。
    此れとて、大東亜戦争中の空襲被害が、各資料マチマチで、困惑させられております。



    横浜臨海公園
  • pedaruさん 2016/01/10 17:01:21
    鉄道建設の理由
    横浜臨海公園さん こんにちは

    お元気でご活躍のご様子安心いたしました。

    <鉄道開通に伴い青壮年男子が鉄道を利用して吉田(現 豊橋)遊郭で放蕩する、云々、等々の理由を以って鉄道設置に猛反対し、敷設路線は遥か彼方へと追いやられたとする説が現在ですら有力視され、且つ、事実の如く伝承されて来た。>

    実は建設に伴う地形上の問題だという考察は最もとうなずけます。それにしても事実のごとく伝承されているのには笑えます。特に、青壮年男子の遊郭での放蕩云々には特に面白く思われました。

    建設に関して実地検証されている熱意には敬服いたします。

    ありがとうございました。

    pedaru

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2016/01/19 18:53:51
    拝復
    pedaruさま、こんばんは。


    拙稿に投票と掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    明治期の鉄道建設に於いて、駅設置候補地から外れた地は、理由が存在したにも拘らず、やがて意図的に外された事に変質し、それが伝承となって現在に至っているものが数多く見受けられます。

    然し、交通不便な当時なら、尚更街道筋に路線が引かれ益が設置されるべきでありながら、現実には運転困難を理由に、別個の土地に設置され、方や繁栄し、方や没落を余儀無くされた事例は多数存在します。

    腹立ち紛れの発言が、やがて、恰も既成事実の如く伝承されるのには、事実確認の上で閉口させられます。

    建設当時のオリジナル資料の精査は重要ですが、何せ時間を要します。

    続編の旅行記作成には時間を要しますが、何卒、ご理解の程をお願い申します。



    横浜臨海公園

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