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東海道本線品川-川崎間は川崎以南区間と異なり、今日、明治期の痕跡は殆ど現存しない。<br />此れは、東海道本線と言ふ当時の大幹線、且つ、京浜間都市間輸送の存在は、開業以来140年余を経過し、度重なる改良工事を受け、当時の痕跡が殆ど消失したからに他ならない。<br /><br />然し、意外にも大正期に品川-横濱間電車運転に伴う直流1200V電化工事施工に平行し路盤高規格化改良時の痕跡の相当数が奇跡的に現存し、我々現代人をして驚愕させるに充分な区間であり、云わば、大正期遺構の宝庫と称すべき存在である。<br /><br /><br />新橋-横濱間全線開業に先立ち、明治5年(1872年)6月12日に品川-横濱間が先行仮開業したが、該区間は平坦地通過区間であり、建設工事が比較的容易とされたが、然し、品川-川崎間では、品川芝浦沖築堤、八ッ山開削、及び、六郷川架橋は難工事だった。<br />特に、当時の品川高輪地域は旧東海道筋(現 国道1号線)より東側地区をして全て東京湾海面であり、故に、鉄道用地として供与可能余裕地など殆ど存在せず、残余地は陸海軍部が専有し、然も、西南ノ役以前に於ける当時の軍部は鉄道に対する理解など無きに均しかった為に、鉄道建設側に測量許可すら与えぬ高圧拒否的態度を堅持させ、当時の鉄道建設管理官庁たる工部省鐵道寮は、新橋-品川間建設に対し、苦肉の策として、已む無く、芝田町旧薩摩藩邸跡地前から品川に至る区間は芝浦沖海中を築堤構造で通過させる事に決定し建設工事を開始する。<br /><br />然るに、当時、明治政府内に測量に詳しい技術者など存在しなかった。<br /><br />幕吏だった 小野友五郎(おの ともごろう)(文化14年(1817年)12月11日~明治31年(1898年)10月29日)は、幕末、咸臨丸(かんりんまる)航海長として当時の日本人として1度のみならず2度もの渡米経験を有した稀有の人物である。<br />帰朝後、第14代将軍 徳川家茂(とくがわ いえもち)(弘化3年(1846年)7月17日~慶應2年(1866年)8月29日)に特に謁見が許され、更に、幕府が製造した唯一の軍艦 千代田艦造船担当を命じられる程の高位の立場に在ったが、鳥羽伏見ノ戦(とば ふしみ のたたかい)(慶應4年(1868年)1月27~30日)で幕府側として戦闘に参加し、倒幕側に囚われ朝敵の汚名を受けた友五郎に、明治3年(1870年)2月に明治政府から海軍出仕の内命が再三懇願された際も、謹慎中を理由に悉く固辞していた。<br />然し、同年5月19日に民部省鐵道掛出仕に応じ、准12等出仕鐵道掛職任用が決定し、鉄道建設に欠かせない測量担当者として活動を開始し、事実、友五郎の参加に依り測量作業は飛躍的進行を見せた。<br /><br />芝浦沖海中築堤工事に要する土砂は御殿山を切り通しにする際に生じた残土を活用したが、八ッ山方築堤工事が明治5年(1872年)4月に無事竣工したのに対し、三田大木戸方築堤工事は、以前台場建設の為に土砂を得る為に該地帯を浚渫していた事から工事中に発生する風浪の都度、構築中の築堤が再三に渡り陥没流失し、海中に築堤すると言ふ当時としては前代未聞、且つ、未経験な難工事故に、新橋-品川間に就いては竣工予定すら覚束ぬ状況だった。<br /><br />然して、此の建設工事開始直後、測量に不可欠な磁石が正確な方位を示さず常に異状位置を提示する為に、原因究明の為に調査した結果、日本人測量隊に多数の士族出身者が存在し、維新後も腰に佩用した大小日本刀原材料の鋼から発する磁性が磁力を狂わせていた事実が判明し、原因を知った英国人技師達から測量時に佩刀省略を要請され、彼らも内容を理解し佩刀を略した事から以後測量に支障を来たす事も無くなり、此れが後に明治9年(1876年)3月28日に政府が公布した士族に対する廃刀令施行に繋がる。<br /><br />当初の路線敷設計画では、現在の大井町駅付近から六郷川橋梁付近まで旧東海道筋を直進する予定だったが、該街道筋は当時ですら住宅密集地で早期の土地収用に難有りとして現在のコースに変更決定された。<br />現在の、東京都品川区南大井5-7-10 品川区営大井5丁目アパート10号棟付近から東海道本線線形が大森に向かい右にカーヴするのは変更開始基点痕跡である。<br /><br />因みに、品川-六郷川東岸間建設に要した私有地土地収用費用は、田畑17町2反6畝17歩(71224㎡)に対し10202両と算定された。<br /><br /><br />六郷川(現 多摩川)架橋工事は、我が国にとって大規模な鉄道用架橋に前例など存在例も無く、当初は耐久性から鉄橋構造を計画したが、英国から架橋に要する鋼材製作輸入組立をしていては所定開業が間に合わぬと判断され、取敢えず木造組合せ構造で、先ず新橋方に第14號橋と称された避溢橋建設が橋桁8連から構成され、明治4年(1871年)4月4日に着工し同年10月15日に竣工した。<br />本橋は第15號橋と称され、ラティス様式トラス橋7連から構成され、明治3年(1870年)10月10日に着工し翌明治4年(1871年)4月5日に竣工したが、架橋必要木材は、内務省深川木場貯木場から、欅586本、檜1477本が調達活用した。<br /><br /><br />かくて、品川-横濱間が仮開業に漕ぎ着ける。<br /><br /><br />仮開業時に途中駅は存在しなかったが、列車本数増加と単線故に列車交換の必要性から、同年7月10日に、川崎駅、及び、神奈川駅が開業し、更に、同年10月15日に新橋-横濱間全線正式開業時に鶴見駅が開業した。<br /><br />鉄道開通前に於ける東京-横浜間最速移動手段は、東京霊岸島-横浜万國橋間運航の蒸気船、若しくは、幕末から明治初期に於ける写真撮影で著名な下岡蓮杖(しもおか れんじょう)(文政6年(1823年)3月24日~大正3年(1914年)3月3日)が経営主体で明治2年(1869年)6月から東京新橋-横濱吉田橋間を3時間で移動する乗合馬車だった。<br />鉄道開通後、京濱間に於ける移動手段は鉄道の利便性と速達性とが認識され、蒸気船や乗合馬車に代り、鉄道が輸送量の増加と優位を示し、早くも、明治8年(1875年)に複線化工事に着手したが、西南ノ役をはじめとする西国諸国で頻発した不平士族に依る反政府反乱事件鎮圧の煽りを受け、人手不足が原因で工事に遅延を来たす。<br /><br /><br />初代六郷川橋梁は木造構造でコールタールを表塗し防腐対策を施した様式だったが、現地は汽水域であり、架橋後、数年を経ずして木部腐朽化が著しく、且つ、当時の六郷川は河川途中にダムなど存在せず急流だった事から橋脚洗呈が激しく、此のままでは列車運行上危険と判断され、明治10年(1879年)11月26日に、工部省御雇外国人 リチャード・ヴィッカード・ボイル(Richard Vicard BOYLE) 設計、及び、テオドール・シャン(Theodore SHANN)技師指導に拠り六郷川橋梁が英リヴァプール・ハミルトン社製の複線型錬鉄製ワーレントラス橋に架替られ、大森-川崎間は明治12年(1879年)3月1日、次いで、品川-大森間は翌明治13年(1880年)11月14日に複線化された。<br /><br />現在の東日本旅客鉄道東京車両総合センターは、以前は 大井工場(おおい こうじょう)として車輌検査修理製造に於いて著名で伝統的存在だが、元来は明治5年(1872年)7月に開設された新橋機関車修復所が嚆矢である。<br />該所では車輌整備、及び、修繕が主業務だったが、明治8年(1878年)頃から、車輌整備以外業務として、当時の木造橋梁を鉄橋に更改すべく輸入鈑桁組立を開始し、品川陸橋、御殿山陸橋、東海寺裏橋梁、立会川橋梁、海老取川橋梁、呑川橋梁、及び、六郷川避溢橋分に就いては新橋工場製品が使用され、更に、六郷川東岸にも組立分工場が設置された。<br /><br />錬鐡(れんてつ)(Wought Iron)とは、鋼鉄出現以前に於ける炭素含有量が少量たる鐡材である。<br />1840年代に英國で発明されたが、高度な溶鉱炉を要せず簡易に製造可能だったが、反面、溶解点が低い為に鋼鐵出現に依り短期間で産業界から消滅した。<br />沸点が低い為に製作が容易な分、軌条材料としては尤も耐久性が低く不適格と判断され早期に姿を消したが、橋梁材料としては長命で我が国でも現役橋梁物が現存し、因みに、フランスのエッフェル塔は錬鐡製代表的建造物である。<br /><br />因みに、六郷川に架橋された錬鐡製ワーレントラス橋は、明治45年(1912年)6月まで使用された後、複々線化工事完了後、大正4年(1915年)に現地から撤去され、複線仕様を単線仕様に改造し、東海道本線第2酒匂川橋梁に再用され、昭和9年(1934年)12月1日に東海道本線から御殿場線に格下後、昭和19年(1944年)7月11日に単線化された際に該橋梁は残存し、使用停止され昭和40年(1965年)まで使用されたが老朽化の為に該地から解体撤去された。<br />然し、橋桁の歴史的価値が認定され、各々1連ずつ、静岡県三島市所在の東海旅客鉄道三島研修所、及び、愛知県犬山市所在の明治村に於いて保存展示され、特に、明治村保存展示品は原型の複線仕様に復元され、前者は、同年10月14日 第8回鉄道記念物に指定された。<br /><br /><br />荏原郡八幡村付近に於いて、明治6年(1873年)1月27日16時頃、横濱発新橋行列車が該付近通過直後、該列車牽引蒸気機関車煙突から噴出火粉が原因で、北蒲田村2軒、八幡塚村1軒、及び、町屋村2軒が全焼する我が国鉄道史上、初の沿線火災が発生した。<br />当時の蒸気機関車は、我が国で採炭未開始だった事から、貴重な外貨を使用し輸入英国炭を燃料にしていたが、該炭在庫が途絶ると已む無く薪を使用した為に、不完全燃焼が原因で折からの北強風に煽られ火粉が飛散したものと推定された。<br />英国人技師達は英国に於いて蒸気機関車燃料は100%石炭使用故に火粉が飛散する事など有り得ず、故に前代未聞の事態に困惑させられたが、事態を重視した工部省は被害者に対し所有建坪に換算して見舞金支払に依り事態を収拾する。<br />即ち、<br />北蒲田村<br /> 吉岡庄五郎宅   29坪5合 250円75銭<br /> 吉岡右衛門宅   52坪5合 416円25銭<br />八幡塚村<br /> 平野平右衛門宅 61坪9合 526円49銭<br />町屋村<br /> 石渡萬右衛門宅 17坪5合 149円17銭<br /> 宮崎角蔵宅     8坪5合  72円55銭<br />有り体に言えば、宮崎宅など掘立小屋に過ぎない存在にも拘らず、72円55銭もの支給は現代の貨幣価値から見ても破格的価格である。<br />該火災に依り被害者身代が焼太りになったであろう事は想像に難くない。<br /><br /><br />明治27年(1894年)4月に朝鮮半島に於いて東学党の乱(とうがくとうのらん)勃発に拠る事変鎮定の為、朝鮮政府の要請に拠り日清両国軍は朝鮮半島に出兵したが、該権益主張相違から日清両国間関係悪化が顕著になり、同年8月1日に両国間は国交断絶と共に開戦に至った。<br /><br />逓信省鐵道作業局東海道線 対 日本鐵道新宿線(現 山手線)間車輌連絡は、秋葉原経由線が未開業の当時としては新宿線が唯一の存在であり、予てから連絡駅たる品川駅に於ける貨車滞貨がスイッチバック構造様式の横濱駅と共に、機関車付替を要する輸送上に於ける深刻な状態に変化は無く、日清間開戦必須と診た陸軍省は車輌直通に拠る円滑輸送を謀るべく、陸軍省が逓信省鐵道作業局に路線建設工事を委託させ、同年8月に大崎-大森間陸軍省直通短路線が開通し、かろうじて開戦に間に合った。<br />日清戦争終結後は該短路線は使用されなくなり遊休状態が継続したが、施設一式を陸軍省から逓信省鐵道作業局に移管し、日本鐵道大宮駅 対 逓信省鐵道作業局横濱駅間直通定期貨物列車運転開始に伴い、短路線路盤が再整備され、東海道線分岐点に対し名称付与の必要性が生じた事から、明治34年(1901年)3月15日に大井聯絡所が開設されたが、此れが現在の大井町駅の嚆矢である。<br /><br />因みに、連絡短路線は電車線をクロスで横断する為に、電車運転保安上に於いて問題が多く、更に、品川駅構内貨物操車場が整備された為に、大正5年(1916年)4月16日に廃止されたが、大崎駅から大井工場内区間は大井工場車輌試運転線として昭和38年(1963年)3月31日まで残存し同日附で廃止されたが、現在路盤は整備され構内道路と化したが緩いカーヴが該鉄道線出自を物語る。<br /><br /><br />鐵道唱歌<br />第4番<br />梅に名をえし大森を<br />(うめに なをえし おおもりを)<br />すぐれば早くも川崎の<br />(すぐれば はやくも かわさきの)<br />大師河原は程ちかし<br />(だいしがわらは ほどちかし)<br />急げや電氣の道すぐに♪<br />(いそげや でんきの みちすぐに)<br /><br />梅とは。嘗て存在した大森梅屋敷の事で、江戸期から知られ明治期には最盛期を迎えたが、明治43年(1910年)超大型台風襲来被害が原因で全滅してしまった。<br />現在では、京急電鉄本線梅屋敷駅に名を残すのみである。<br />大師河原とは川崎大師の事であり、電氣とは電車の単語が成立する前の電車の事を称したものであり、現在の京急大師線である。<br /><br /><br />明治期後半ともなると鉄道に対する住民意識も変化を見せ、東海道本線が通過する東京府荏原郡蒲田村でも駅誘致請願運動が盛んになり、此れを受け、日露戦争開戦直後たる明治37年(1904年)4月1日に蒲田駅が開設される。<br />該駅開設に際し、該駅建設予定地に存在した蒲田尋常小学校、及び、御園神社移転を要し、該駅建設必要地は献納して完成を見る。<br />因みに、蒲田駅開業当時の駅周辺は見渡す限り田園風景が続く郊外の地だったが、関東大震災以降は旧東京市内から町工場や人家が移転し住宅密集地と化した。<br /><br /><br />京濱電気軌道は延伸を重ね明治38年(1905年)12月24日に品川八ッ山橋-神奈川青木橋間を全通させると頻発運転と快適性から京濱間に於ける旅客輸送は京濱電気軌道に大量流失する深刻な事態に直面する。<br /><br />旅客輸送をガタ減りにされた鐵道院は失地回復を謀る目的も兼ね、品川-横濱間を高規格複々線仕様化と各駅停車運転線を直流1200V電化工事を施工し都市間用高速電車を導入すべく計画し、明治43年(1910年)12月に六郷川橋梁架替工事を皮切りに大規模な改良工事に着手し大正3年(1914年)12月13日に竣工する。<br />然るに、増線工事は突貫状態で施工した為に路盤も固締無き状態でロクに試運転も行わぬ同年同月18日招待客を乗せ試乗会、20日に正式開業と云う完成から3日後に開業当日から連続事故となる醜態を招来する。<br /><br />即ち、原因として、未経験で70メートル間を超過する架線吊架、ローラー式パンタグラフの不備不調、車輌重量化が原因の路盤沈下等々が複合要素で事故発生となったもので、鐵道院は已む無く同月26日に電車運転を一旦中止させ翌大正4年(1915年)5月10日に電車運転再開まで再整備させると共に電車運転開始に伴い開業した、太井町、高島町両駅は運転再開まで営業休止した。<br />また、電車運休中は大正3年(1914年)12月18日限りで廃止された山手線列車を京濱線用に振向け運転させた。<br /><br />電車運転が安定した大正4年(1915年)12月30日から、それ迄の東京-横濱間、及び、横濱-櫻木町間を各々区切って運転していたものが通し運転に変更されると同時に、列車は蒲田、川崎、鶴見、及び、東神奈川を通過し該諸駅は電車専用停車駅となる。<br /><br /><br />明治43年(1910年)8月11日に襲来した超大型台風、及び、大正6年(1917年)9月30日来襲の台風は、関東地方に記録的大豪雨を記録し、勝つ、大暴風被害をもたらした点に於いて今日でも知られる存在である。<br /><br />後者では、当時の東海道線関係では、汐留、及び、大森両駅のホーム上屋が強風が原因で土台から一部剥離し飛散被害が発生した。<br />然し、明治43年大水害の際の教訓が生かされ、雨量増加と共に六郷川氾濫を懸念し該川土手に土嚢を積み上げ逸水を防止した為に、高潮被害こそ発生したが、堤防決壊被害を未然に防止し、付近一帯の冠水被害を最小限度に食止める事が出来た。<br /><br /><br />内閣鐵道院は、旅客急行列車牽引用大型蒸気機関車 8700型(英)、8800型(独)、8850型(独)、及び、、8900型(米)導入成功に自信を深めた結果、次世代大型蒸気機関車設計を完了させ、旅客用18900型(C51型)、及び、貨物用9900型(D50型)導入を内定させたが、然し、明治期に架橋されたトラス橋梁は、対建築限界、及び、対荷重負荷に於いて不足が懸念された事や、東京-横濱間短長距離列車分離運転推進の為に複々線化が決定された事で、既成橋梁架替に依り、六郷川橋梁架替が決定された。<br /><br />第3代橋梁は、<br />鋼鐡製プレートトラス構桁 。2m×5連<br />で構成されたが、プレートガーダー桁横にトラス構造を加味した特異な構造で、我が国橋梁に於いて、該橋梁以外に類例が存在せず、極めて稀な存在だった。<br /><br />該橋梁設計は鐵道院技師 太田圓三(おおた えんぞう)(明治16年(1881年)3月10日~大正15年(1926年)3月21日)が担当した。<br /><br />後に、関東大震災(かんとうだいしんさい)で当時の多数の隅田川橋梁群が大火の為に被災したが、太田は、第22代第Ⅱ次 山本権兵衛(やまもと ごんべい)(嘉永5年(1852年)10月15日~昭和8年(1933年)12月8日)内閣(大正12年(1923年)9月2日~大正13年(1924年)1月7日組閣)の内務大臣 後藤新平(ごとう しんぺい)(安政4年(1857年)7月24日~昭和4年(1929年)4月13日)(大正12年(1923年)9月2日~大正13年(1924年)1月7日在任)が震災復興院総裁兼務が決定した際に、特に太田を該組織に招聘し、隅田川橋梁復興を担当させた。<br /><br />現在も残存する隅田川橋梁群は、第1次世界大戦(だいいちじ せかいたいせん)(大正3年(1914年)7月28日~大正7年(1918年)11月11日)後に於ける軍備拡張停止を求める世論に応え、日英米仏伊5ヶ国は、米國首都ワシントンに於いて軍備縮小に就いて会議を開催し、該会議決定に拠り、各国海軍は、当時の主力艦艇たる戦艦、及び、巡洋戦艦建造中止を決定し現状維持が議決された事から、我が国帝國海軍は、進行中だった、戦艦、及び、巡洋戦艦を主体とする88艦隊建造計画中止が決定した。<br /><br />加賀型戦艦2艦内、加賀は航空母艦に改造、土佐は戦艦主砲射撃標的艦として活用廃棄。<br />天城型巡洋戦艦4艦内、天城は航空母艦に改造、赤城、愛宕、及び、高雄は建造中止の上、廃棄解体が決定した。<br /><br />然るに、大正12年(1923年)9月1日に関東大震災が発生し、当時、横須賀海軍工廠に於いて空母改造中の天城は、該工廠内ドックに於いて激震の為に船体が転覆し竜骨を損傷した事から、船舶として使用不可能と判定され、代りに、解体直前だった赤城が空母改造に転用が決定され、天城は解体された。<br /><br />因みに、帝國海軍が88艦隊建造用に大量に準備されていデュコール鋼材は、関東大震災で多数の橋梁が焼失した隅田川橋梁群架橋用に活用が決定され、海軍省から大蔵省を経て内務省に移管された。<br /><br /><br />関東大震災発生時、品川-川崎間に於ける震災被害は六郷川橋梁橋脚第26~28号損傷をはじめ矢口火力発電所大破焼失等々が発生したが、地震発生時に六郷川橋梁上に通過列車が存在しなかった事は不幸中の幸いだったと言ふべき事態であった。<br />大幹線故に復旧工事は震災当日に着手され、品川-蒲田間は同月4日、蒲田-鶴見間は同月5日に単線開通させ、同月10日に複線運転が再開されたが、戸塚-國府津-駿河(現 駿河小山)間や熱海線早川-真鶴間に於ける大規模被害に比較すれば品川-川崎間被害は軽微極まれりと言えた。<br /><br /><br />当時の鐵道省電車は運転開始以来、各車輌毎に車掌が乗務していた。<br /><br />即ち、当時の鉄道車輌客用扉は悉く手動開閉であり、乗客の安全保安確保から、後部運転車掌以外に中間車掌を乗務させ、停車駅毎に手動扉開閉を取扱う必要が有ったからである。<br /><br />然し、大正15年(1926年)12月から採用された自動扉開閉装置は当初の懸念も杞憂に終わり、昭和4年(1929年)7月20日までに京濱線旅客用電車全車両に装着完了した事から、同日を以って、京濱線電車は中間車掌乗務を廃止し、後部運転車掌1人乗務体制に変更された。<br /><br /><br />大森駅は開業以来、東海道本線、及び、横須賀線全普通列車停車駅だったが、昭和5年(1930年)3月15日より横須賀線が全面電車化に伴い、京濱線電車停車に限定され列車線は全旅客列車が通過する。<br />即ち、大正4年(1915年)12月30日附列車時刻改正から、従来の大井町に加え、蒲田、川崎、鶴見、及び、東神奈川各駅に対し電車のみ停車し客車列車は通過となった。<br />然るに、該時点に於いて川崎が通過対象駅で大森に客車列車が停車したのは、大正当時まで大森駅が大駅で川崎駅が小駅だった事と、大森駅周辺に各界有力者が多数居住していたからだとの説も存在する。<br />但し、列車ホーム跡は東海道本線列車信号取扱所として使用され、整備されぬホームは年々崩壊しつつも駅ビル建設が開始された昭和57年(1982年)7月まで奇跡的に残存し工事開始と共に整地されたが、現在でも東海道本線上下中央の膨張部が嘗てのホーム痕跡を示す。<br /><br /><br />関東大震災以降、年々増加の一途をたどる客貨輸送を分離させるべく、昭和4年(1929年)8月21日に通称 品鶴線(ひんかくせん)が品川-新鶴見-鶴見間に開通し、品川駅に大正5年(1916年)5月5日に設置した貨物操車場を新鶴見に移転させ、直ちに跡地を旅客専用操車場にする工事が開始され、日華事変勃発に拠る鋼材不足等々で工事は遅延し、昭和16年(1941年)に竣工した形態が平成21年(2009年)3月31日まで残存した品川駅構内基本形態となる。<br />改良された品川駅東海道本線上下線間に2本の臨時列車用ホームが新設されたが、軍用列車を人目につきやすい東海道本線始発駅たる東京駅発着を忌避した軍部は品川駅着発を希望し、東京市民にとって品川駅は親兄弟子友人が列車見送りで永遠の別れの場となった事例が多く、品川駅に辛い複雑な感情を抱く方多いと仄聞す。<br /><br /><br />大東亜戦争中の空襲被害は、沿線に当時の我が国有数の重化学産業製造線産地たる京浜工業地帯を抱える品川-川崎間だけに被害も著しく、大森駅、及び、蒲田駅は全滅に等しい被害が発生した。<br /><br />大東亜戦争中、該区間に於ける空襲被害は、<br />4月15日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 B29戦略爆撃機計109機 京濱大空襲<br /> 警戒警報発令 21時20分<br /> 空襲警報発令 22時03分<br /> 空襲開始   22時15分<br /> 空襲警報解除  1時11分<br /> 警戒警報解除  1時15分<br />大森-川崎間 線路破壊11箇所1000m 枕木焼損1200本<br />大森駅構内<br />  駅本屋 ホーム上屋 貨物取扱所上屋<br />蒲田駅構内<br />  駅本屋 西口駅舎 跨線橋 東西信号取扱所 電車線信号取扱所<br />川崎駅構内<br />  駅本屋 東西信号取扱所<br /> 電車 蒲田40両(別記) 貨車 蒲田6両 川崎7両<br />開通 旅客列車品鶴線迂回運転17日8時30分 電車線19日始発 列車線21日始発<br /><br />  5月24日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計520機 城南大空襲<br /> 警戒警報発令  1時05分<br /> 空襲警報発令  1時36分<br /> 空襲開始    1時36分<br /> 空襲警報解除  3時50分<br /> 警戒警報解除  3時55分<br />品川-川崎間 線路破壊19箇所400m 枕木焼損90本<br />蒲田駅構内<br />  新築仮駅本屋 手小荷物取扱所<br />開通 16時24分<br /><br />  5月25日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計464機 東京中央空襲<br /> 警戒警報発令 22時02分<br /> 空襲警報発令 22時22分<br /> 空襲開始   22時30分<br /> 空襲警報解除  1時00分<br /> 警戒警報解除  1時30分<br />品川-川崎間 架線切断数箇所<br />開通 電車線14時36分 列車線16時27分<br />品川-大井町間被災車輌<br />  スハフ35 10(東シナ)全焼<br /> 以上、昭和23年(1948年)12月6日戦災廃車<br /><br />  5月29日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計454機 横濱大空襲<br /> 警戒警報発令  6時26分 <br /> 空襲警報発令  8時12分<br /> 空襲開始    8時45分<br /> 空襲警報解除 10時45分<br /> 警戒警報解除 10時50分<br />蒲田駅構内<br />  電車5両<br />開通 電車線19時45分 列車線30日15時00分<br /><br />  8月13日<br /> 警戒警報発令 11時10分<br /> 空襲警報発令 11時20分<br /> 空襲開始   11時20分<br /> 空襲警報解除 17時40分<br /> 警戒警報解除 18時00分<br />大井町-蒲田間 線路破壊1箇所25m 架線切断1箇所<br />開通 15時25分<br /><br /><br />戦後は、昭和55年(1980年)10月1日より横須賀線電車は新川崎経由となった為に、従来の川崎駅は経由しなくなった。<br /><br /><br /><br />表紙写真は、<br />大森駅1番線ホーム北行方上屋に現存する大正3年(1914年)京濱線電化当時建築の軒装飾。<br /><br /><br /><br /><br /><br />東海道本線歴史的痕跡探訪記<br />~東京-濱松町間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10701644<br />~東京驛編~<br /><br />~汐留-濱松町-品川間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10797199<br />~品川-川崎間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10502858<br />~川崎-横濱間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10711843<br />~横濱駅移設変転史編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10316826<br />~横濱-大船間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/10713813<br />~大船-平塚間編 明治頌歌~<br /><br />~平塚-國府津間編 明治頌歌~<br /><br />~國府津-根府川間編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10298330<br />~根府川-熱海編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10310352<br />~丹那隧道完成秘話 丹那隧道碑文から読み取れし或る歴史的事実~<br />http://4travel.jp/travelogue/10291350<br />~丹那隧道完成秘話 三島口建設工事鉄道線探訪記~<br />http://4travel.jp/travelogue/10575630<br />~熱海-沼津間編~<br /><br />~沼津駅驛編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10294787<br />~沼津港線編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10621891<br />~沼津-富士間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10623829<br />~富士-興津間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10625542<br />~興津-静岡間編 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東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~品川-川崎間編 明治頌歌~

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2010/09/01 - 2010/09/05

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横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

東海道本線品川-川崎間は川崎以南区間と異なり、今日、明治期の痕跡は殆ど現存しない。
此れは、東海道本線と言ふ当時の大幹線、且つ、京浜間都市間輸送の存在は、開業以来140年余を経過し、度重なる改良工事を受け、当時の痕跡が殆ど消失したからに他ならない。

然し、意外にも大正期に品川-横濱間電車運転に伴う直流1200V電化工事施工に平行し路盤高規格化改良時の痕跡の相当数が奇跡的に現存し、我々現代人をして驚愕させるに充分な区間であり、云わば、大正期遺構の宝庫と称すべき存在である。


新橋-横濱間全線開業に先立ち、明治5年(1872年)6月12日に品川-横濱間が先行仮開業したが、該区間は平坦地通過区間であり、建設工事が比較的容易とされたが、然し、品川-川崎間では、品川芝浦沖築堤、八ッ山開削、及び、六郷川架橋は難工事だった。
特に、当時の品川高輪地域は旧東海道筋(現 国道1号線)より東側地区をして全て東京湾海面であり、故に、鉄道用地として供与可能余裕地など殆ど存在せず、残余地は陸海軍部が専有し、然も、西南ノ役以前に於ける当時の軍部は鉄道に対する理解など無きに均しかった為に、鉄道建設側に測量許可すら与えぬ高圧拒否的態度を堅持させ、当時の鉄道建設管理官庁たる工部省鐵道寮は、新橋-品川間建設に対し、苦肉の策として、已む無く、芝田町旧薩摩藩邸跡地前から品川に至る区間は芝浦沖海中を築堤構造で通過させる事に決定し建設工事を開始する。

然るに、当時、明治政府内に測量に詳しい技術者など存在しなかった。

幕吏だった 小野友五郎(おの ともごろう)(文化14年(1817年)12月11日~明治31年(1898年)10月29日)は、幕末、咸臨丸(かんりんまる)航海長として当時の日本人として1度のみならず2度もの渡米経験を有した稀有の人物である。
帰朝後、第14代将軍 徳川家茂(とくがわ いえもち)(弘化3年(1846年)7月17日~慶應2年(1866年)8月29日)に特に謁見が許され、更に、幕府が製造した唯一の軍艦 千代田艦造船担当を命じられる程の高位の立場に在ったが、鳥羽伏見ノ戦(とば ふしみ のたたかい)(慶應4年(1868年)1月27~30日)で幕府側として戦闘に参加し、倒幕側に囚われ朝敵の汚名を受けた友五郎に、明治3年(1870年)2月に明治政府から海軍出仕の内命が再三懇願された際も、謹慎中を理由に悉く固辞していた。
然し、同年5月19日に民部省鐵道掛出仕に応じ、准12等出仕鐵道掛職任用が決定し、鉄道建設に欠かせない測量担当者として活動を開始し、事実、友五郎の参加に依り測量作業は飛躍的進行を見せた。

芝浦沖海中築堤工事に要する土砂は御殿山を切り通しにする際に生じた残土を活用したが、八ッ山方築堤工事が明治5年(1872年)4月に無事竣工したのに対し、三田大木戸方築堤工事は、以前台場建設の為に土砂を得る為に該地帯を浚渫していた事から工事中に発生する風浪の都度、構築中の築堤が再三に渡り陥没流失し、海中に築堤すると言ふ当時としては前代未聞、且つ、未経験な難工事故に、新橋-品川間に就いては竣工予定すら覚束ぬ状況だった。

然して、此の建設工事開始直後、測量に不可欠な磁石が正確な方位を示さず常に異状位置を提示する為に、原因究明の為に調査した結果、日本人測量隊に多数の士族出身者が存在し、維新後も腰に佩用した大小日本刀原材料の鋼から発する磁性が磁力を狂わせていた事実が判明し、原因を知った英国人技師達から測量時に佩刀省略を要請され、彼らも内容を理解し佩刀を略した事から以後測量に支障を来たす事も無くなり、此れが後に明治9年(1876年)3月28日に政府が公布した士族に対する廃刀令施行に繋がる。

当初の路線敷設計画では、現在の大井町駅付近から六郷川橋梁付近まで旧東海道筋を直進する予定だったが、該街道筋は当時ですら住宅密集地で早期の土地収用に難有りとして現在のコースに変更決定された。
現在の、東京都品川区南大井5-7-10 品川区営大井5丁目アパート10号棟付近から東海道本線線形が大森に向かい右にカーヴするのは変更開始基点痕跡である。

因みに、品川-六郷川東岸間建設に要した私有地土地収用費用は、田畑17町2反6畝17歩(71224㎡)に対し10202両と算定された。


六郷川(現 多摩川)架橋工事は、我が国にとって大規模な鉄道用架橋に前例など存在例も無く、当初は耐久性から鉄橋構造を計画したが、英国から架橋に要する鋼材製作輸入組立をしていては所定開業が間に合わぬと判断され、取敢えず木造組合せ構造で、先ず新橋方に第14號橋と称された避溢橋建設が橋桁8連から構成され、明治4年(1871年)4月4日に着工し同年10月15日に竣工した。
本橋は第15號橋と称され、ラティス様式トラス橋7連から構成され、明治3年(1870年)10月10日に着工し翌明治4年(1871年)4月5日に竣工したが、架橋必要木材は、内務省深川木場貯木場から、欅586本、檜1477本が調達活用した。


かくて、品川-横濱間が仮開業に漕ぎ着ける。


仮開業時に途中駅は存在しなかったが、列車本数増加と単線故に列車交換の必要性から、同年7月10日に、川崎駅、及び、神奈川駅が開業し、更に、同年10月15日に新橋-横濱間全線正式開業時に鶴見駅が開業した。

鉄道開通前に於ける東京-横浜間最速移動手段は、東京霊岸島-横浜万國橋間運航の蒸気船、若しくは、幕末から明治初期に於ける写真撮影で著名な下岡蓮杖(しもおか れんじょう)(文政6年(1823年)3月24日~大正3年(1914年)3月3日)が経営主体で明治2年(1869年)6月から東京新橋-横濱吉田橋間を3時間で移動する乗合馬車だった。
鉄道開通後、京濱間に於ける移動手段は鉄道の利便性と速達性とが認識され、蒸気船や乗合馬車に代り、鉄道が輸送量の増加と優位を示し、早くも、明治8年(1875年)に複線化工事に着手したが、西南ノ役をはじめとする西国諸国で頻発した不平士族に依る反政府反乱事件鎮圧の煽りを受け、人手不足が原因で工事に遅延を来たす。


初代六郷川橋梁は木造構造でコールタールを表塗し防腐対策を施した様式だったが、現地は汽水域であり、架橋後、数年を経ずして木部腐朽化が著しく、且つ、当時の六郷川は河川途中にダムなど存在せず急流だった事から橋脚洗呈が激しく、此のままでは列車運行上危険と判断され、明治10年(1879年)11月26日に、工部省御雇外国人 リチャード・ヴィッカード・ボイル(Richard Vicard BOYLE) 設計、及び、テオドール・シャン(Theodore SHANN)技師指導に拠り六郷川橋梁が英リヴァプール・ハミルトン社製の複線型錬鉄製ワーレントラス橋に架替られ、大森-川崎間は明治12年(1879年)3月1日、次いで、品川-大森間は翌明治13年(1880年)11月14日に複線化された。

現在の東日本旅客鉄道東京車両総合センターは、以前は 大井工場(おおい こうじょう)として車輌検査修理製造に於いて著名で伝統的存在だが、元来は明治5年(1872年)7月に開設された新橋機関車修復所が嚆矢である。
該所では車輌整備、及び、修繕が主業務だったが、明治8年(1878年)頃から、車輌整備以外業務として、当時の木造橋梁を鉄橋に更改すべく輸入鈑桁組立を開始し、品川陸橋、御殿山陸橋、東海寺裏橋梁、立会川橋梁、海老取川橋梁、呑川橋梁、及び、六郷川避溢橋分に就いては新橋工場製品が使用され、更に、六郷川東岸にも組立分工場が設置された。

錬鐡(れんてつ)(Wought Iron)とは、鋼鉄出現以前に於ける炭素含有量が少量たる鐡材である。
1840年代に英國で発明されたが、高度な溶鉱炉を要せず簡易に製造可能だったが、反面、溶解点が低い為に鋼鐵出現に依り短期間で産業界から消滅した。
沸点が低い為に製作が容易な分、軌条材料としては尤も耐久性が低く不適格と判断され早期に姿を消したが、橋梁材料としては長命で我が国でも現役橋梁物が現存し、因みに、フランスのエッフェル塔は錬鐡製代表的建造物である。

因みに、六郷川に架橋された錬鐡製ワーレントラス橋は、明治45年(1912年)6月まで使用された後、複々線化工事完了後、大正4年(1915年)に現地から撤去され、複線仕様を単線仕様に改造し、東海道本線第2酒匂川橋梁に再用され、昭和9年(1934年)12月1日に東海道本線から御殿場線に格下後、昭和19年(1944年)7月11日に単線化された際に該橋梁は残存し、使用停止され昭和40年(1965年)まで使用されたが老朽化の為に該地から解体撤去された。
然し、橋桁の歴史的価値が認定され、各々1連ずつ、静岡県三島市所在の東海旅客鉄道三島研修所、及び、愛知県犬山市所在の明治村に於いて保存展示され、特に、明治村保存展示品は原型の複線仕様に復元され、前者は、同年10月14日 第8回鉄道記念物に指定された。


荏原郡八幡村付近に於いて、明治6年(1873年)1月27日16時頃、横濱発新橋行列車が該付近通過直後、該列車牽引蒸気機関車煙突から噴出火粉が原因で、北蒲田村2軒、八幡塚村1軒、及び、町屋村2軒が全焼する我が国鉄道史上、初の沿線火災が発生した。
当時の蒸気機関車は、我が国で採炭未開始だった事から、貴重な外貨を使用し輸入英国炭を燃料にしていたが、該炭在庫が途絶ると已む無く薪を使用した為に、不完全燃焼が原因で折からの北強風に煽られ火粉が飛散したものと推定された。
英国人技師達は英国に於いて蒸気機関車燃料は100%石炭使用故に火粉が飛散する事など有り得ず、故に前代未聞の事態に困惑させられたが、事態を重視した工部省は被害者に対し所有建坪に換算して見舞金支払に依り事態を収拾する。
即ち、
北蒲田村
 吉岡庄五郎宅   29坪5合 250円75銭
 吉岡右衛門宅   52坪5合 416円25銭
八幡塚村
 平野平右衛門宅 61坪9合 526円49銭
町屋村
 石渡萬右衛門宅 17坪5合 149円17銭
 宮崎角蔵宅     8坪5合  72円55銭
有り体に言えば、宮崎宅など掘立小屋に過ぎない存在にも拘らず、72円55銭もの支給は現代の貨幣価値から見ても破格的価格である。
該火災に依り被害者身代が焼太りになったであろう事は想像に難くない。


明治27年(1894年)4月に朝鮮半島に於いて東学党の乱(とうがくとうのらん)勃発に拠る事変鎮定の為、朝鮮政府の要請に拠り日清両国軍は朝鮮半島に出兵したが、該権益主張相違から日清両国間関係悪化が顕著になり、同年8月1日に両国間は国交断絶と共に開戦に至った。

逓信省鐵道作業局東海道線 対 日本鐵道新宿線(現 山手線)間車輌連絡は、秋葉原経由線が未開業の当時としては新宿線が唯一の存在であり、予てから連絡駅たる品川駅に於ける貨車滞貨がスイッチバック構造様式の横濱駅と共に、機関車付替を要する輸送上に於ける深刻な状態に変化は無く、日清間開戦必須と診た陸軍省は車輌直通に拠る円滑輸送を謀るべく、陸軍省が逓信省鐵道作業局に路線建設工事を委託させ、同年8月に大崎-大森間陸軍省直通短路線が開通し、かろうじて開戦に間に合った。
日清戦争終結後は該短路線は使用されなくなり遊休状態が継続したが、施設一式を陸軍省から逓信省鐵道作業局に移管し、日本鐵道大宮駅 対 逓信省鐵道作業局横濱駅間直通定期貨物列車運転開始に伴い、短路線路盤が再整備され、東海道線分岐点に対し名称付与の必要性が生じた事から、明治34年(1901年)3月15日に大井聯絡所が開設されたが、此れが現在の大井町駅の嚆矢である。

因みに、連絡短路線は電車線をクロスで横断する為に、電車運転保安上に於いて問題が多く、更に、品川駅構内貨物操車場が整備された為に、大正5年(1916年)4月16日に廃止されたが、大崎駅から大井工場内区間は大井工場車輌試運転線として昭和38年(1963年)3月31日まで残存し同日附で廃止されたが、現在路盤は整備され構内道路と化したが緩いカーヴが該鉄道線出自を物語る。


鐵道唱歌
第4番
梅に名をえし大森を
(うめに なをえし おおもりを)
すぐれば早くも川崎の
(すぐれば はやくも かわさきの)
大師河原は程ちかし
(だいしがわらは ほどちかし)
急げや電氣の道すぐに♪
(いそげや でんきの みちすぐに)

梅とは。嘗て存在した大森梅屋敷の事で、江戸期から知られ明治期には最盛期を迎えたが、明治43年(1910年)超大型台風襲来被害が原因で全滅してしまった。
現在では、京急電鉄本線梅屋敷駅に名を残すのみである。
大師河原とは川崎大師の事であり、電氣とは電車の単語が成立する前の電車の事を称したものであり、現在の京急大師線である。


明治期後半ともなると鉄道に対する住民意識も変化を見せ、東海道本線が通過する東京府荏原郡蒲田村でも駅誘致請願運動が盛んになり、此れを受け、日露戦争開戦直後たる明治37年(1904年)4月1日に蒲田駅が開設される。
該駅開設に際し、該駅建設予定地に存在した蒲田尋常小学校、及び、御園神社移転を要し、該駅建設必要地は献納して完成を見る。
因みに、蒲田駅開業当時の駅周辺は見渡す限り田園風景が続く郊外の地だったが、関東大震災以降は旧東京市内から町工場や人家が移転し住宅密集地と化した。


京濱電気軌道は延伸を重ね明治38年(1905年)12月24日に品川八ッ山橋-神奈川青木橋間を全通させると頻発運転と快適性から京濱間に於ける旅客輸送は京濱電気軌道に大量流失する深刻な事態に直面する。

旅客輸送をガタ減りにされた鐵道院は失地回復を謀る目的も兼ね、品川-横濱間を高規格複々線仕様化と各駅停車運転線を直流1200V電化工事を施工し都市間用高速電車を導入すべく計画し、明治43年(1910年)12月に六郷川橋梁架替工事を皮切りに大規模な改良工事に着手し大正3年(1914年)12月13日に竣工する。
然るに、増線工事は突貫状態で施工した為に路盤も固締無き状態でロクに試運転も行わぬ同年同月18日招待客を乗せ試乗会、20日に正式開業と云う完成から3日後に開業当日から連続事故となる醜態を招来する。

即ち、原因として、未経験で70メートル間を超過する架線吊架、ローラー式パンタグラフの不備不調、車輌重量化が原因の路盤沈下等々が複合要素で事故発生となったもので、鐵道院は已む無く同月26日に電車運転を一旦中止させ翌大正4年(1915年)5月10日に電車運転再開まで再整備させると共に電車運転開始に伴い開業した、太井町、高島町両駅は運転再開まで営業休止した。
また、電車運休中は大正3年(1914年)12月18日限りで廃止された山手線列車を京濱線用に振向け運転させた。

電車運転が安定した大正4年(1915年)12月30日から、それ迄の東京-横濱間、及び、横濱-櫻木町間を各々区切って運転していたものが通し運転に変更されると同時に、列車は蒲田、川崎、鶴見、及び、東神奈川を通過し該諸駅は電車専用停車駅となる。


明治43年(1910年)8月11日に襲来した超大型台風、及び、大正6年(1917年)9月30日来襲の台風は、関東地方に記録的大豪雨を記録し、勝つ、大暴風被害をもたらした点に於いて今日でも知られる存在である。

後者では、当時の東海道線関係では、汐留、及び、大森両駅のホーム上屋が強風が原因で土台から一部剥離し飛散被害が発生した。
然し、明治43年大水害の際の教訓が生かされ、雨量増加と共に六郷川氾濫を懸念し該川土手に土嚢を積み上げ逸水を防止した為に、高潮被害こそ発生したが、堤防決壊被害を未然に防止し、付近一帯の冠水被害を最小限度に食止める事が出来た。


内閣鐵道院は、旅客急行列車牽引用大型蒸気機関車 8700型(英)、8800型(独)、8850型(独)、及び、、8900型(米)導入成功に自信を深めた結果、次世代大型蒸気機関車設計を完了させ、旅客用18900型(C51型)、及び、貨物用9900型(D50型)導入を内定させたが、然し、明治期に架橋されたトラス橋梁は、対建築限界、及び、対荷重負荷に於いて不足が懸念された事や、東京-横濱間短長距離列車分離運転推進の為に複々線化が決定された事で、既成橋梁架替に依り、六郷川橋梁架替が決定された。

第3代橋梁は、
鋼鐡製プレートトラス構桁 。2m×5連
で構成されたが、プレートガーダー桁横にトラス構造を加味した特異な構造で、我が国橋梁に於いて、該橋梁以外に類例が存在せず、極めて稀な存在だった。

該橋梁設計は鐵道院技師 太田圓三(おおた えんぞう)(明治16年(1881年)3月10日~大正15年(1926年)3月21日)が担当した。

後に、関東大震災(かんとうだいしんさい)で当時の多数の隅田川橋梁群が大火の為に被災したが、太田は、第22代第Ⅱ次 山本権兵衛(やまもと ごんべい)(嘉永5年(1852年)10月15日~昭和8年(1933年)12月8日)内閣(大正12年(1923年)9月2日~大正13年(1924年)1月7日組閣)の内務大臣 後藤新平(ごとう しんぺい)(安政4年(1857年)7月24日~昭和4年(1929年)4月13日)(大正12年(1923年)9月2日~大正13年(1924年)1月7日在任)が震災復興院総裁兼務が決定した際に、特に太田を該組織に招聘し、隅田川橋梁復興を担当させた。

現在も残存する隅田川橋梁群は、第1次世界大戦(だいいちじ せかいたいせん)(大正3年(1914年)7月28日~大正7年(1918年)11月11日)後に於ける軍備拡張停止を求める世論に応え、日英米仏伊5ヶ国は、米國首都ワシントンに於いて軍備縮小に就いて会議を開催し、該会議決定に拠り、各国海軍は、当時の主力艦艇たる戦艦、及び、巡洋戦艦建造中止を決定し現状維持が議決された事から、我が国帝國海軍は、進行中だった、戦艦、及び、巡洋戦艦を主体とする88艦隊建造計画中止が決定した。

加賀型戦艦2艦内、加賀は航空母艦に改造、土佐は戦艦主砲射撃標的艦として活用廃棄。
天城型巡洋戦艦4艦内、天城は航空母艦に改造、赤城、愛宕、及び、高雄は建造中止の上、廃棄解体が決定した。

然るに、大正12年(1923年)9月1日に関東大震災が発生し、当時、横須賀海軍工廠に於いて空母改造中の天城は、該工廠内ドックに於いて激震の為に船体が転覆し竜骨を損傷した事から、船舶として使用不可能と判定され、代りに、解体直前だった赤城が空母改造に転用が決定され、天城は解体された。

因みに、帝國海軍が88艦隊建造用に大量に準備されていデュコール鋼材は、関東大震災で多数の橋梁が焼失した隅田川橋梁群架橋用に活用が決定され、海軍省から大蔵省を経て内務省に移管された。


関東大震災発生時、品川-川崎間に於ける震災被害は六郷川橋梁橋脚第26~28号損傷をはじめ矢口火力発電所大破焼失等々が発生したが、地震発生時に六郷川橋梁上に通過列車が存在しなかった事は不幸中の幸いだったと言ふべき事態であった。
大幹線故に復旧工事は震災当日に着手され、品川-蒲田間は同月4日、蒲田-鶴見間は同月5日に単線開通させ、同月10日に複線運転が再開されたが、戸塚-國府津-駿河(現 駿河小山)間や熱海線早川-真鶴間に於ける大規模被害に比較すれば品川-川崎間被害は軽微極まれりと言えた。


当時の鐵道省電車は運転開始以来、各車輌毎に車掌が乗務していた。

即ち、当時の鉄道車輌客用扉は悉く手動開閉であり、乗客の安全保安確保から、後部運転車掌以外に中間車掌を乗務させ、停車駅毎に手動扉開閉を取扱う必要が有ったからである。

然し、大正15年(1926年)12月から採用された自動扉開閉装置は当初の懸念も杞憂に終わり、昭和4年(1929年)7月20日までに京濱線旅客用電車全車両に装着完了した事から、同日を以って、京濱線電車は中間車掌乗務を廃止し、後部運転車掌1人乗務体制に変更された。


大森駅は開業以来、東海道本線、及び、横須賀線全普通列車停車駅だったが、昭和5年(1930年)3月15日より横須賀線が全面電車化に伴い、京濱線電車停車に限定され列車線は全旅客列車が通過する。
即ち、大正4年(1915年)12月30日附列車時刻改正から、従来の大井町に加え、蒲田、川崎、鶴見、及び、東神奈川各駅に対し電車のみ停車し客車列車は通過となった。
然るに、該時点に於いて川崎が通過対象駅で大森に客車列車が停車したのは、大正当時まで大森駅が大駅で川崎駅が小駅だった事と、大森駅周辺に各界有力者が多数居住していたからだとの説も存在する。
但し、列車ホーム跡は東海道本線列車信号取扱所として使用され、整備されぬホームは年々崩壊しつつも駅ビル建設が開始された昭和57年(1982年)7月まで奇跡的に残存し工事開始と共に整地されたが、現在でも東海道本線上下中央の膨張部が嘗てのホーム痕跡を示す。


関東大震災以降、年々増加の一途をたどる客貨輸送を分離させるべく、昭和4年(1929年)8月21日に通称 品鶴線(ひんかくせん)が品川-新鶴見-鶴見間に開通し、品川駅に大正5年(1916年)5月5日に設置した貨物操車場を新鶴見に移転させ、直ちに跡地を旅客専用操車場にする工事が開始され、日華事変勃発に拠る鋼材不足等々で工事は遅延し、昭和16年(1941年)に竣工した形態が平成21年(2009年)3月31日まで残存した品川駅構内基本形態となる。
改良された品川駅東海道本線上下線間に2本の臨時列車用ホームが新設されたが、軍用列車を人目につきやすい東海道本線始発駅たる東京駅発着を忌避した軍部は品川駅着発を希望し、東京市民にとって品川駅は親兄弟子友人が列車見送りで永遠の別れの場となった事例が多く、品川駅に辛い複雑な感情を抱く方多いと仄聞す。


大東亜戦争中の空襲被害は、沿線に当時の我が国有数の重化学産業製造線産地たる京浜工業地帯を抱える品川-川崎間だけに被害も著しく、大森駅、及び、蒲田駅は全滅に等しい被害が発生した。

大東亜戦争中、該区間に於ける空襲被害は、
4月15日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 B29戦略爆撃機計109機 京濱大空襲
 警戒警報発令 21時20分
 空襲警報発令 22時03分
 空襲開始   22時15分
 空襲警報解除  1時11分
 警戒警報解除  1時15分
大森-川崎間 線路破壊11箇所1000m 枕木焼損1200本
大森駅構内
  駅本屋 ホーム上屋 貨物取扱所上屋
蒲田駅構内
  駅本屋 西口駅舎 跨線橋 東西信号取扱所 電車線信号取扱所
川崎駅構内
  駅本屋 東西信号取扱所
 電車 蒲田40両(別記) 貨車 蒲田6両 川崎7両
開通 旅客列車品鶴線迂回運転17日8時30分 電車線19日始発 列車線21日始発

  5月24日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計520機 城南大空襲
 警戒警報発令  1時05分
 空襲警報発令  1時36分
 空襲開始    1時36分
 空襲警報解除  3時50分
 警戒警報解除  3時55分
品川-川崎間 線路破壊19箇所400m 枕木焼損90本
蒲田駅構内
  新築仮駅本屋 手小荷物取扱所
開通 16時24分

  5月25日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計464機 東京中央空襲
 警戒警報発令 22時02分
 空襲警報発令 22時22分
 空襲開始   22時30分
 空襲警報解除  1時00分
 警戒警報解除  1時30分
品川-川崎間 架線切断数箇所
開通 電車線14時36分 列車線16時27分
品川-大井町間被災車輌
  スハフ35 10(東シナ)全焼
 以上、昭和23年(1948年)12月6日戦災廃車

  5月29日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計454機 横濱大空襲
 警戒警報発令  6時26分 
 空襲警報発令  8時12分
 空襲開始    8時45分
 空襲警報解除 10時45分
 警戒警報解除 10時50分
蒲田駅構内
  電車5両
開通 電車線19時45分 列車線30日15時00分

  8月13日
 警戒警報発令 11時10分
 空襲警報発令 11時20分
 空襲開始   11時20分
 空襲警報解除 17時40分
 警戒警報解除 18時00分
大井町-蒲田間 線路破壊1箇所25m 架線切断1箇所
開通 15時25分


戦後は、昭和55年(1980年)10月1日より横須賀線電車は新川崎経由となった為に、従来の川崎駅は経由しなくなった。



表紙写真は、
大森駅1番線ホーム北行方上屋に現存する大正3年(1914年)京濱線電化当時建築の軒装飾。





東海道本線歴史的痕跡探訪記
~東京-濱松町間編 明治頌歌~
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~東京驛編~

~汐留-濱松町-品川間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10797199
~品川-川崎間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10502858
~川崎-横濱間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10711843
~横濱駅移設変転史編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10316826
~横濱-大船間編 明治頌歌~
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~大船-平塚間編 明治頌歌~

~平塚-國府津間編 明治頌歌~

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~根府川-熱海編~
http://4travel.jp/travelogue/10310352
~丹那隧道完成秘話 丹那隧道碑文から読み取れし或る歴史的事実~
http://4travel.jp/travelogue/10291350
~丹那隧道完成秘話 三島口建設工事鉄道線探訪記~
http://4travel.jp/travelogue/10575630
~熱海-沼津間編~

~沼津駅驛編~
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~沼津港線編~
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~沼津-富士間編 明治頌歌~
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http://4travel.jp/travelogue/10858815
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~米原-近江八幡間編 明治頌歌~
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~近江八幡-草津間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11214049
~草津-膳所間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11102339
~膳所-濱大津間(廃止線)編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/11157145
~膳所-稲荷-京都間(廃止線)編 明治頌歌~

~膳所-山科-京都間(現行線)編 大正浪漫~
http://4travel.jp/travelogue/11157106
~京都驛編 明治頌歌~

~京都-向日町間編 明治頌歌~

~向日町-高槻間編 明治頌歌~

~高槻-茨木間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11634036
~茨木-吹田間編 明治頌歌~

~吹田-淡路-大阪間(廃止線)編 明治頌歌~

~吹田-新大阪-大阪間(現行線)編 大正浪漫~

~大阪駅周辺編~

~大阪-西宮間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11366806
~西宮-灘間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11321266
~灘-神戸間編 大正浪漫~
https://4travel.jp/travelogue/11245946

旅行の満足度
5.0
観光
4.5
グルメ
4.5
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
高速・路線バス JRローカル 私鉄 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 品川(しながわ)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />明治5年(1872年)6月12日に品川-横濱間先行仮開業時の東京府方起点駅である。<br />然るに、岩倉具視(いわくら ともみ)(文政8年(1825年)10月26日〜明治16年(1883年)7月20日)を団長格とした遣欧米使節一行が、前年たる明治4年(1871年)12月21日に品川停車場敷地内から六郷川東岸まで建設中の鉄道に乗車して移動した事が牧野伸顕(まきの のぶあき)(文久元年(1861年)11月24日〜昭和24年(1949年)11月25日)の回顧録記述に見られる。<br />然し、該時点に於いてホームは未完成状態で、該使節一行は乗車の為に難儀困惑の状況が、該記述から窺い知れる。<br />新橋-横濱間を全線開業させず、品川-横濱間を先行開業させた理由に、当時、鉄道建設に際し、品川高輪(たかなわ)付近に於いて、兵部省保有地が混在し、軍が鉄道と云ふ近代文明の大量同時輸送たる利点を未だ把握し切れず、結果的に鉄道用地が得られぬ事が判明し、已む無く、芝浦沖を埋立て該地を得んとしたが、八ッ山方面工事が竣工したのに対し、三田大木戸方面は風波の都度、構築堤が崩壊し、完成遅延が明確になった事から品川-横濱間を先行開業させた事が要因である。<br />更に、初代駅本屋は和洋折衷木造2階建構造だったが、明治4年(1871年)9月10日着工、翌明治5年(1872年)1月20日竣工した事も先行開業を意識したものと推定される。<br />該駅は開業当時は現位置に駅本屋が存在せず現八ッ山橋端たる山手線用電車電留線付近に設置されたが、明治18年(1885年)3月1日に日本鐵道新宿線、即ち、現在の山手線(やまのてせん)が全通し品川駅に乗入れた為に初代駅本屋付近では構内拡張の余地が殆ど無く、此の為に開通と同時に現位置に移転した。<br />更に、現駅本屋位置に明治34年(1901年)12月25日に3代目駅本屋が竣工し、関東大震災や東京南部空襲にも被災せず昭和26年(1951年)まで使用された。<br />日露戦争後は急増する客貨に対処し切れぬ状態となり、此れを打破させる為に、昭和4年(1929年)8月21日に品川-新鶴見-鶴見間に品鶴線(ひんかくせん)が開通と同時に新鶴見操車場が開設され殆どの貨物取扱は新鶴見に集約移転させ貨物取扱操車場跡に対し旅客専用操車場とすべく建設工事に着手したが、昭和初期の世界的大不況とも重なり工事遅延を反復させたが、大東亜戦争勃発直前の昭和16年(1941年)に完成し、それまで東京駅構内八重洲側に存在した東京機関区、及び、東京客車区を品川に移転した。<br />日華事変以降、元来海面だった該駅東側は埋立てられ膨大な工業用地と化し大企業工場が進出してきたが、該工場勤務の工員利便の為に、品川駅該再開発の一環として昭和15年(1940年)4月24日に旅客地下通路と共に海岸口が開設されたが激増する通勤者を捌くには抜本的対策を迫られ、更に昭和19年(1944年)3月25日に旅客地下通路が追加された。<br />因みに、該工事過程に於いて東海道本線上下線間に設置された2本のホームは日華事変(にっか じへん)(昭和12年(1937年)7月7日〜昭和16年(1941年)12月8日)以降、主に、軍用列車、更に、大東亜戦争末期には疎開児童輸送列車発着使用機会が増え、当時の東京市民にとって、該駅が親族友人との永久の別れの場になった諸例も多く、現在でも該駅に対し複雑な心象を抱く者多きと仄聞する。<br />該駅は、昭和20年(1945年)5月29日の空襲で構内が被災したが、該構内では札の辻信号所が焼失し札の辻群線が全滅した以外、他に大きな被害も無く終戦を迎えた。<br /><br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=788

    品川(しながわ)駅



    駅本屋
    明治5年(1872年)6月12日に品川-横濱間先行仮開業時の東京府方起点駅である。
    然るに、岩倉具視(いわくら ともみ)(文政8年(1825年)10月26日〜明治16年(1883年)7月20日)を団長格とした遣欧米使節一行が、前年たる明治4年(1871年)12月21日に品川停車場敷地内から六郷川東岸まで建設中の鉄道に乗車して移動した事が牧野伸顕(まきの のぶあき)(文久元年(1861年)11月24日〜昭和24年(1949年)11月25日)の回顧録記述に見られる。
    然し、該時点に於いてホームは未完成状態で、該使節一行は乗車の為に難儀困惑の状況が、該記述から窺い知れる。
    新橋-横濱間を全線開業させず、品川-横濱間を先行開業させた理由に、当時、鉄道建設に際し、品川高輪(たかなわ)付近に於いて、兵部省保有地が混在し、軍が鉄道と云ふ近代文明の大量同時輸送たる利点を未だ把握し切れず、結果的に鉄道用地が得られぬ事が判明し、已む無く、芝浦沖を埋立て該地を得んとしたが、八ッ山方面工事が竣工したのに対し、三田大木戸方面は風波の都度、構築堤が崩壊し、完成遅延が明確になった事から品川-横濱間を先行開業させた事が要因である。
    更に、初代駅本屋は和洋折衷木造2階建構造だったが、明治4年(1871年)9月10日着工、翌明治5年(1872年)1月20日竣工した事も先行開業を意識したものと推定される。
    該駅は開業当時は現位置に駅本屋が存在せず現八ッ山橋端たる山手線用電車電留線付近に設置されたが、明治18年(1885年)3月1日に日本鐵道新宿線、即ち、現在の山手線(やまのてせん)が全通し品川駅に乗入れた為に初代駅本屋付近では構内拡張の余地が殆ど無く、此の為に開通と同時に現位置に移転した。
    更に、現駅本屋位置に明治34年(1901年)12月25日に3代目駅本屋が竣工し、関東大震災や東京南部空襲にも被災せず昭和26年(1951年)まで使用された。
    日露戦争後は急増する客貨に対処し切れぬ状態となり、此れを打破させる為に、昭和4年(1929年)8月21日に品川-新鶴見-鶴見間に品鶴線(ひんかくせん)が開通と同時に新鶴見操車場が開設され殆どの貨物取扱は新鶴見に集約移転させ貨物取扱操車場跡に対し旅客専用操車場とすべく建設工事に着手したが、昭和初期の世界的大不況とも重なり工事遅延を反復させたが、大東亜戦争勃発直前の昭和16年(1941年)に完成し、それまで東京駅構内八重洲側に存在した東京機関区、及び、東京客車区を品川に移転した。
    日華事変以降、元来海面だった該駅東側は埋立てられ膨大な工業用地と化し大企業工場が進出してきたが、該工場勤務の工員利便の為に、品川駅該再開発の一環として昭和15年(1940年)4月24日に旅客地下通路と共に海岸口が開設されたが激増する通勤者を捌くには抜本的対策を迫られ、更に昭和19年(1944年)3月25日に旅客地下通路が追加された。
    因みに、該工事過程に於いて東海道本線上下線間に設置された2本のホームは日華事変(にっか じへん)(昭和12年(1937年)7月7日〜昭和16年(1941年)12月8日)以降、主に、軍用列車、更に、大東亜戦争末期には疎開児童輸送列車発着使用機会が増え、当時の東京市民にとって、該駅が親族友人との永久の別れの場になった諸例も多く、現在でも該駅に対し複雑な心象を抱く者多きと仄聞する。
    該駅は、昭和20年(1945年)5月29日の空襲で構内が被災したが、該構内では札の辻信号所が焼失し札の辻群線が全滅した以外、他に大きな被害も無く終戦を迎えた。

    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=788

    品川駅

  • 品川駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />高輪口<br />戦後、昭和26年(1951年)10月31日に老朽化した駅本屋改装工事に着手し、昭和28年(1953年)4月16日に竣工したのが3代目駅本屋で、右タクシー奥に高輪口が存在した。<br />その後、平成10年(1998年)11月1日に現4代目駅橋上本屋が竣工し、現在は京急電鉄がリース使用。<br />JR利用者通路と化す。

    品川駅



    駅本屋
    高輪口
    戦後、昭和26年(1951年)10月31日に老朽化した駅本屋改装工事に着手し、昭和28年(1953年)4月16日に竣工したのが3代目駅本屋で、右タクシー奥に高輪口が存在した。
    その後、平成10年(1998年)11月1日に現4代目駅橋上本屋が竣工し、現在は京急電鉄がリース使用。
    JR利用者通路と化す。

    品川駅

  • 品川駅<br /><br /><br /><br />品川駅創業記念碑(しながわえき そうぎょうきねんひ)<br />明治五年五月七日<br />品川横濱開通<br />伴睦書

    品川駅



    品川駅創業記念碑(しながわえき そうぎょうきねんひ)
    明治五年五月七日
    品川横濱開通
    伴睦書

    品川駅創業記念碑 名所・史跡

    品川駅創業記念碑〔記念碑〕 by 横浜臨海公園さん
  • 品川駅<br /><br /><br /><br />品川駅創業記念碑<br />揮毫者 大野伴睦(おおの ばんぼく)(明治23年(1890年)9月20日〜昭和39年(1964年)5月29日)は、岐阜県出身の保守系政治家。<br />大東亜戦争前は政友会に属し、本流たる久原房之助(くはら ふさのすけ)(明治2年(1869年)7月12日〜昭和40年(1965年)1月29日)に近い存在と見做されていたが、金品収受に穢い久原と異なり、大野は金銭に対しては淡白で自己所有財産など無に均しい清貧人だった。<br />我田引鉄と称し、政治家が利権絡みで鉄道敷設誘致したのに対し、東海道新幹線を、関ヶ原の勾配区間を忌避し鈴鹿峠経由で計画中だったのを、国鉄に捩じ込み強引に岐阜県経由にさせたとの説が現在に至るも存在するが、国鉄は計画当初から三重県経由建設など計画すらしておらず、当初から岐阜県経由で計画進行させ、該説は短なる俗説に過ぎず事実無根である。

    品川駅



    品川駅創業記念碑
    揮毫者 大野伴睦(おおの ばんぼく)(明治23年(1890年)9月20日〜昭和39年(1964年)5月29日)は、岐阜県出身の保守系政治家。
    大東亜戦争前は政友会に属し、本流たる久原房之助(くはら ふさのすけ)(明治2年(1869年)7月12日〜昭和40年(1965年)1月29日)に近い存在と見做されていたが、金品収受に穢い久原と異なり、大野は金銭に対しては淡白で自己所有財産など無に均しい清貧人だった。
    我田引鉄と称し、政治家が利権絡みで鉄道敷設誘致したのに対し、東海道新幹線を、関ヶ原の勾配区間を忌避し鈴鹿峠経由で計画中だったのを、国鉄に捩じ込み強引に岐阜県経由にさせたとの説が現在に至るも存在するが、国鉄は計画当初から三重県経由建設など計画すらしておらず、当初から岐阜県経由で計画進行させ、該説は短なる俗説に過ぎず事実無根である。

    品川駅創業記念碑 名所・史跡

    品川駅創業記念碑〔記念碑〕 by 横浜臨海公園さん
  • 品川駅<br /><br /><br /><br />品川駅創業記念碑<br />裏面<br />該駅開設当時の駅時刻表と運賃。

    品川駅



    品川駅創業記念碑
    裏面
    該駅開設当時の駅時刻表と運賃。

    品川駅創業記念碑 名所・史跡

    品川駅創業記念碑〔記念碑〕 by 横浜臨海公園さん
  • 品川駅<br /><br /><br /><br />港南口<br />日華事変以降、元来海面だった該駅東側は埋立てられ膨大な工業用地と化し大企業工場が進出してきたが、該工場勤務の工員利便の為に、品川駅該再開発の一環として昭和15年(1940年)4月24日に海岸口が開設されたが改札は設置されず、該駅発着工員定期所持者に限定利用とされた。

    品川駅



    港南口
    日華事変以降、元来海面だった該駅東側は埋立てられ膨大な工業用地と化し大企業工場が進出してきたが、該工場勤務の工員利便の為に、品川駅該再開発の一環として昭和15年(1940年)4月24日に海岸口が開設されたが改札は設置されず、該駅発着工員定期所持者に限定利用とされた。

    品川駅

  • 品川駅<br /><br /><br /><br />港南口<br />開設後、激増する通勤者を捌く為に抜本的対策が講じられ、昭和19年(1944年)3月25日に地下通路延長に拠り海岸口に改札口が設置され、一般客も利用可能になる。

    品川駅



    港南口
    開設後、激増する通勤者を捌く為に抜本的対策が講じられ、昭和19年(1944年)3月25日に地下通路延長に拠り海岸口に改札口が設置され、一般客も利用可能になる。

    品川駅

  • 品川駅<br /><br /><br /><br />港南口<br />平成10年(1998年)11月1日に東西自由通路完成に拠り地下通路は廃止されたが、現在でも業務専用通路として現存。

    品川駅



    港南口
    平成10年(1998年)11月1日に東西自由通路完成に拠り地下通路は廃止されたが、現在でも業務専用通路として現存。

    品川駅

  • 品川驛<br /><br /><br /><br />初代駅構内<br />開設当社は八ッ山橋端に所在。<br />明治18年(1885年)3月に新橋方100m地点に移動移転。<br /><br />絵葉書<br />横浜臨海公園 蔵

    品川驛



    初代駅構内
    開設当社は八ッ山橋端に所在。
    明治18年(1885年)3月に新橋方100m地点に移動移転。

    絵葉書
    横浜臨海公園 蔵

    品川駅

  • 品川驛<br /><br /><br /><br />初代駅本屋所在地跡<br />該駅開設当時は八ッ山橋端に所在。<br />柵手前は品川区所属地。<br />故に、初代該駅は現在の品川区に所在した。<br /><br />東京都港区港南2−25<br />東海道本線品川駅高輪口 徒歩5分

    品川驛



    初代駅本屋所在地跡
    該駅開設当時は八ッ山橋端に所在。
    柵手前は品川区所属地。
    故に、初代該駅は現在の品川区に所在した。

    東京都港区港南2−25
    東海道本線品川駅高輪口 徒歩5分

    品川駅

  • 品川驛<br /><br /><br /><br />初代駅本屋所在地跡<br />現在は京急電鉄品川橋梁が設置されている。<br /><br />東京都品川区北品川4−7<br />京急電鉄北品川駅 徒歩3分<br /><br />

    品川驛



    初代駅本屋所在地跡
    現在は京急電鉄品川橋梁が設置されている。

    東京都品川区北品川4−7
    京急電鉄北品川駅 徒歩3分

    北品川駅

  • 品川-大井町間<br /><br /><br /><br />八ッ山橋(やつやまばし)<br />2代目八ッ山橋鋳鉄製主装飾親柱とアーチ端部柱(エンドポスト)<br />八ッ山橋は明治5年(1872年)6月12日に品川-横濱間仮開業に先達ち、鉄道建設の為に御殿山(ごてんやま)を開鑿した掘割上を結ぶ為に第9号橋として架橋し、明治4年(1871年)7月に着工し翌年2月に竣工した。<br />建設費用は13371両を要し当時は木造構造だったが、神奈川青木橋(あおきばし)と共に我が国最初の大型鉄道跨線橋。<br />明治28年(1895年)5月10日附で木造構造のまま補強工事施工。<br /><br />東京都品川区北品川4−7<br />京急電鉄北品川駅 徒歩3分

    品川-大井町間



    八ッ山橋(やつやまばし)
    2代目八ッ山橋鋳鉄製主装飾親柱とアーチ端部柱(エンドポスト)
    八ッ山橋は明治5年(1872年)6月12日に品川-横濱間仮開業に先達ち、鉄道建設の為に御殿山(ごてんやま)を開鑿した掘割上を結ぶ為に第9号橋として架橋し、明治4年(1871年)7月に着工し翌年2月に竣工した。
    建設費用は13371両を要し当時は木造構造だったが、神奈川青木橋(あおきばし)と共に我が国最初の大型鉄道跨線橋。
    明治28年(1895年)5月10日附で木造構造のまま補強工事施工。

    東京都品川区北品川4−7
    京急電鉄北品川駅 徒歩3分

    北品川駅

  • 品川-大井町間<br /><br /><br /><br />八ッ山橋<br />明治28年(1895年)5月10日に補強工事が施行されたが、木造構造故に交通量増加に対応し切れず、大正3年(1914年)12月20日に鉄道院が京濱間電車導入開始に伴う複々線工事の際に、当時の内務省土木局直轄工事に拠り架替が実施され2代目八ッ山橋が完成した。<br />2代目八ッ山橋は近代的鋼鐵製タイド・アーチ型トラス橋で構成され、将来、東京市電が郊外に延長時を想定し道路中央部には1372mm軌道敷が複線構造で設置準備がされていたが、実際の使用開始は10数年後となり、その間、軌道敷は撤去もされず休眠状態が継続し、此れを見た東京市民から、「待てど暮らせど電車が来ない八ッ山橋お化け線路」と揶揄された。<br />関東大震災で八ッ山橋本体に被害は生じなかったが、大正14年(1925年)3月11日から中央道路敷併用軌道を活用し、京濱電気軌道は従来は品川八ッ山橋停留所止だったが鉄道省線路を越え品川高輪停留所まで延伸運転し、東京市電は京濱電気軌道北品川停留所まで延伸運転され、茲に、相互乗入が開始される。<br />大正末期ともなると八ッ山橋に於ける交通量が激増し此れに対応すべく、現行鋼鐵トラス橋と同型を山側に追架橋すべく大正15年(1926年)6月10日に着工し、昭和5年(1930年)6月10日に竣工した。<br />京濱電気鐵道は昭和8年(1933年)4月1日に海側に独自のトラス橋を架橋し高架線で鐵道省品川駅に直接乗入を開始し、従来の内務省八ッ山橋中央併用軌道敷を使用した相互乗入は前日を以って廃止。<br />昭和40年代ともなると八ッ山橋鋼鉄部分腐食荒廃が深刻な状態になり、架替が実施され、昭和60年(1985年)4月1日に現行3代目八ッ山橋完成。<br /><br />東京都品川区北品川4−7<br />京急電鉄北品川駅 徒歩3分

    品川-大井町間



    八ッ山橋
    明治28年(1895年)5月10日に補強工事が施行されたが、木造構造故に交通量増加に対応し切れず、大正3年(1914年)12月20日に鉄道院が京濱間電車導入開始に伴う複々線工事の際に、当時の内務省土木局直轄工事に拠り架替が実施され2代目八ッ山橋が完成した。
    2代目八ッ山橋は近代的鋼鐵製タイド・アーチ型トラス橋で構成され、将来、東京市電が郊外に延長時を想定し道路中央部には1372mm軌道敷が複線構造で設置準備がされていたが、実際の使用開始は10数年後となり、その間、軌道敷は撤去もされず休眠状態が継続し、此れを見た東京市民から、「待てど暮らせど電車が来ない八ッ山橋お化け線路」と揶揄された。
    関東大震災で八ッ山橋本体に被害は生じなかったが、大正14年(1925年)3月11日から中央道路敷併用軌道を活用し、京濱電気軌道は従来は品川八ッ山橋停留所止だったが鉄道省線路を越え品川高輪停留所まで延伸運転し、東京市電は京濱電気軌道北品川停留所まで延伸運転され、茲に、相互乗入が開始される。
    大正末期ともなると八ッ山橋に於ける交通量が激増し此れに対応すべく、現行鋼鐵トラス橋と同型を山側に追架橋すべく大正15年(1926年)6月10日に着工し、昭和5年(1930年)6月10日に竣工した。
    京濱電気鐵道は昭和8年(1933年)4月1日に海側に独自のトラス橋を架橋し高架線で鐵道省品川駅に直接乗入を開始し、従来の内務省八ッ山橋中央併用軌道敷を使用した相互乗入は前日を以って廃止。
    昭和40年代ともなると八ッ山橋鋼鉄部分腐食荒廃が深刻な状態になり、架替が実施され、昭和60年(1985年)4月1日に現行3代目八ッ山橋完成。

    東京都品川区北品川4−7
    京急電鉄北品川駅 徒歩3分

    八ツ山橋 旧橋親柱 名所・史跡

  • 品川-大井町間<br /><br /><br /><br />八ッ山橋<br />現使用中の欄干は2代目の活用では無く、あくまで複製新製。<br /><br />東京都品川区北品川4−7<br />京急電鉄北品川駅 徒歩3分

    品川-大井町間



    八ッ山橋
    現使用中の欄干は2代目の活用では無く、あくまで複製新製。

    東京都品川区北品川4−7
    京急電鉄北品川駅 徒歩3分

    八ツ山橋 旧橋親柱 名所・史跡

  • 品川-大井町間<br /><br /><br /><br />八ッ山橋<br />右手は京急電鉄品川鉄橋<br /><br />東京都品川区北品川4−7<br />京急電鉄北品川駅 徒歩3分

    品川-大井町間



    八ッ山橋
    右手は京急電鉄品川鉄橋

    東京都品川区北品川4−7
    京急電鉄北品川駅 徒歩3分

    北品川駅

  • 品川-大井町間<br /><br /><br /><br />八ッ山橋<br />近接<br /><br />東京都品川区北品川4−7<br />京急電鉄北品川駅 徒歩3分

    品川-大井町間



    八ッ山橋
    近接

    東京都品川区北品川4−7
    京急電鉄北品川駅 徒歩3分

    北品川駅

  • 品川-大井町間<br /><br /><br /><br />八ッ山橋<br />国道1号線(第1京浜国道)<br />該道路上を戦後、昭和31年(1956年)6月25日まで京浜急行電鉄電車が時速20?の低速で北品川駅構内まで道路中央を併用軌道で走行していた。<br /><br />東京都品川区北品川1−14<br />京急電鉄北品川駅 徒歩2分

    品川-大井町間



    八ッ山橋
    国道1号線(第1京浜国道)
    該道路上を戦後、昭和31年(1956年)6月25日まで京浜急行電鉄電車が時速20?の低速で北品川駅構内まで道路中央を併用軌道で走行していた。

    東京都品川区北品川1−14
    京急電鉄北品川駅 徒歩2分

  • 品川-大井町間<br /><br /><br /><br />御殿山橋(ごてんやまばし)<br />八ッ山橋、青木橋と共に、我が国最古の鉄道跨線橋<br /><br />東京都港区高輪4−33<br />京急電鉄北品川駅 徒歩3分

    品川-大井町間



    御殿山橋(ごてんやまばし)
    八ッ山橋、青木橋と共に、我が国最古の鉄道跨線橋

    東京都港区高輪4−33
    京急電鉄北品川駅 徒歩3分

    北品川駅

  • 品川-大井町間<br /><br /><br /><br />御殿山橋<br />付近走行中の京浜東北線233系電車<br /><br />東京都港区高輪4−33<br />京急電鉄北品川駅 徒歩3分

    品川-大井町間



    御殿山橋
    付近走行中の京浜東北線233系電車

    東京都港区高輪4−33
    京急電鉄北品川駅 徒歩3分

  • 品川-大井町間<br /><br /><br /><br /><br />東海寺付近<br />明治初期に該付近に存在した御殿山の切崩址。<br /><br />東京都品川区北品川4−11−8<br />東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 東急バス第一三共前停留所降車 徒歩3分

    品川-大井町間




    東海寺付近
    明治初期に該付近に存在した御殿山の切崩址。

    東京都品川区北品川4−11−8
    東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 東急バス第一三共前停留所降車 徒歩3分

    大井町駅

  • 品川-大井町間<br /><br /><br /><br />東海寺大山墓所<br />入口<br /><br />東京都品川区北品川4−11−8<br />?: 03−3471−6943<br />東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 東急バス第一三共前停留所降車 徒歩1分<br />http://sinagawasigen.jp/kanko/view.cgi?mode=find&amp;no=141

    品川-大井町間



    東海寺大山墓所
    入口

    東京都品川区北品川4−11−8
    ?: 03−3471−6943
    東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 東急バス第一三共前停留所降車 徒歩1分
    http://sinagawasigen.jp/kanko/view.cgi?mode=find&no=141

    大井町駅

  • 品川-大井町間<br /><br /><br /><br />東海寺大山墓所<br />井上家墓地<br />昭和39年(1964年)10月14日 第7回鉄道記念物指定<br /><br />東京都品川区北品川4−11−8<br />?: 03−3471−6943<br />東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 東急バス第一三共前停留所降車 徒歩1分<br />http://sinagawasigen.jp/kanko/view.cgi?mode=find&amp;no=141

    品川-大井町間



    東海寺大山墓所
    井上家墓地
    昭和39年(1964年)10月14日 第7回鉄道記念物指定

    東京都品川区北品川4−11−8
    ?: 03−3471−6943
    東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 東急バス第一三共前停留所降車 徒歩1分
    http://sinagawasigen.jp/kanko/view.cgi?mode=find&no=141

    東海寺大山墓地 名所・史跡

    東海寺大山墓地〔旧跡〕 by 横浜臨海公園さん
  • 品川-大井町間<br /><br /><br /><br />東海寺大山墓所<br />井上家墓地<br />背景は品鶴線と東海道新幹線を背景。<br />井上 勝(いのうえ まさる)(天保14年(1843年)8月25日〜明治43年(1910年)8月2日)は、長州萩藩出身で、幼少の頃から秀才の誉れ高く、15才で長崎に留学しオランダ士官から兵学を学び、江戸に出て砲術を学んだが、そのまま明治維新後は新政府で海軍士官になってもおかしくない経歴であった。<br />文久3年(1863年)に脱藩し伊藤博文(いとう ひろぶみ)、井上馨(いのうえ かおる)、遠藤謹助(えんどう きんすけ)、山尾庸三(やまお ようぞう)の5人が英国に密航留学し後に 長州幕末5傑 と称される。<br />元治元年(1864年)に4国聨合艦隊馬関砲撃事件の発生を知るや、急遽、伊藤、井上馨が帰国したのに対し、残り3名は明治維新まで勉学に励み、井上は鐵道学と鑛山学を習得し、帰国後、新政府に招かれ、鑛山頭、及び、鐵道頭、工部大輔、鐵道庁長官、等々を歴任。<br />小岩井農場(こいわい のうじょう)、及び、汽車製造會社(きしゃせいぞうがいしゃ)設立にも尽力する。<br />伊藤博文とは同じ密航留学仲間だった事も手伝い終生仲が良く、東海道線や横須賀線建設では井上と伊藤の尽力なくば即時建設は困難だったと伝えられている。<br />反面、井上は、相当我が強く癇癪持ちの性格だった様で、鉄道創業当時は国内では長崎高島以外で採炭を行っている所は無く、海軍と共同で英ウェールズ炭を輸入使用していたが、時に石炭が払底し列車運転が数日に亘り運休する事態も珍しくなかった様であるが、自身が利用する為に新橋駅に出向いた処、欠炭で運転不可能を知ると、「石炭が無いなら薪を焚いて走れ」と命じたり、明治18年(1885年)7月14日には折からの暴風雨で神流川橋梁が濁流状態であるにも拘らず、自身が指揮官となり、「何だ、此れしきの事で渡れぬ事があるものか。やれやれ、全速力でやれ」と烈しい号令をかけ、機関士が仕方なく列車を進めた処、渡橋直後に橋桁が転落するなど、幾分自信過剰で上司として仕えるには問題無き性格とは言いかねる人物だったが、自身は長州出身で出世は望み通りだったにも拘らず、権力志向が低くく政府に媚びる事も無く、且つ、能力有能人物たりと知るや、当時は朝敵とされた會津、桑名、長岡、鶴岡諸藩出身者をも重用し欽慕された。<br />後に、ヨーロッパ視察中、英ロンドンで客死。<br />井上の遺言に依り当地に葬られた。<br />因みに、昨年8月2日は井上没100回忌で、墓前に於いてJR東日本本社主催で法要が営まれた。<br /><br />東京都品川区北品川4−11−8<br />?: 03−3471−6943<br />東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 東急バス第一三共前停留所降車 徒歩1分<br />http://sinagawasigen.jp/kanko/view.cgi?mode=find&amp;no=141

    品川-大井町間



    東海寺大山墓所
    井上家墓地
    背景は品鶴線と東海道新幹線を背景。
    井上 勝(いのうえ まさる)(天保14年(1843年)8月25日〜明治43年(1910年)8月2日)は、長州萩藩出身で、幼少の頃から秀才の誉れ高く、15才で長崎に留学しオランダ士官から兵学を学び、江戸に出て砲術を学んだが、そのまま明治維新後は新政府で海軍士官になってもおかしくない経歴であった。
    文久3年(1863年)に脱藩し伊藤博文(いとう ひろぶみ)、井上馨(いのうえ かおる)、遠藤謹助(えんどう きんすけ)、山尾庸三(やまお ようぞう)の5人が英国に密航留学し後に 長州幕末5傑 と称される。
    元治元年(1864年)に4国聨合艦隊馬関砲撃事件の発生を知るや、急遽、伊藤、井上馨が帰国したのに対し、残り3名は明治維新まで勉学に励み、井上は鐵道学と鑛山学を習得し、帰国後、新政府に招かれ、鑛山頭、及び、鐵道頭、工部大輔、鐵道庁長官、等々を歴任。
    小岩井農場(こいわい のうじょう)、及び、汽車製造會社(きしゃせいぞうがいしゃ)設立にも尽力する。
    伊藤博文とは同じ密航留学仲間だった事も手伝い終生仲が良く、東海道線や横須賀線建設では井上と伊藤の尽力なくば即時建設は困難だったと伝えられている。
    反面、井上は、相当我が強く癇癪持ちの性格だった様で、鉄道創業当時は国内では長崎高島以外で採炭を行っている所は無く、海軍と共同で英ウェールズ炭を輸入使用していたが、時に石炭が払底し列車運転が数日に亘り運休する事態も珍しくなかった様であるが、自身が利用する為に新橋駅に出向いた処、欠炭で運転不可能を知ると、「石炭が無いなら薪を焚いて走れ」と命じたり、明治18年(1885年)7月14日には折からの暴風雨で神流川橋梁が濁流状態であるにも拘らず、自身が指揮官となり、「何だ、此れしきの事で渡れぬ事があるものか。やれやれ、全速力でやれ」と烈しい号令をかけ、機関士が仕方なく列車を進めた処、渡橋直後に橋桁が転落するなど、幾分自信過剰で上司として仕えるには問題無き性格とは言いかねる人物だったが、自身は長州出身で出世は望み通りだったにも拘らず、権力志向が低くく政府に媚びる事も無く、且つ、能力有能人物たりと知るや、当時は朝敵とされた會津、桑名、長岡、鶴岡諸藩出身者をも重用し欽慕された。
    後に、ヨーロッパ視察中、英ロンドンで客死。
    井上の遺言に依り当地に葬られた。
    因みに、昨年8月2日は井上没100回忌で、墓前に於いてJR東日本本社主催で法要が営まれた。

    東京都品川区北品川4−11−8
    ?: 03−3471−6943
    東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 東急バス第一三共前停留所降車 徒歩1分
    http://sinagawasigen.jp/kanko/view.cgi?mode=find&no=141

    東海寺大山墓地 名所・史跡

    東海寺大山墓地〔旧跡〕 by 横浜臨海公園さん
  • 品川-大井町間<br /><br /><br /><br />目黒通架道橋(めぐろどおり かどうきょう)<br />斜景<br /><br />東京都品川区北品川4−11−5<br />東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 東急バス第一三共前停留所降車 徒歩1分

    品川-大井町間



    目黒通架道橋(めぐろどおり かどうきょう)
    斜景

    東京都品川区北品川4−11−5
    東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 東急バス第一三共前停留所降車 徒歩1分

    大井町駅

  • 品川-大井町間<br /><br /><br /><br />目黒通架道橋<br />全景<br /><br />東京都品川区北品川4−11−5<br />東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 東急バス第一三共前停留所降車 徒歩1分

    品川-大井町間



    目黒通架道橋
    全景

    東京都品川区北品川4−11−5
    東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 東急バス第一三共前停留所降車 徒歩1分

  • 品川-大井町間<br /><br /><br /><br />目黒通架道橋<br />該道路は関東大震災後に於ける東京市復興計画に基づき内務省帝都復興局に拠り完成。<br /><br />東京都品川区北品川4−11−5<br />東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 東急バス第一三共前停留所降車 徒歩1分

    品川-大井町間



    目黒通架道橋
    該道路は関東大震災後に於ける東京市復興計画に基づき内務省帝都復興局に拠り完成。

    東京都品川区北品川4−11−5
    東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 東急バス第一三共前停留所降車 徒歩1分

    大井町駅

  • 品川-大井町間<br /><br /><br /><br />目黒通架道橋<br />京浜東北線北行線橋梁部銘板<br />鐵道省 の刻印が見える。<br /><br />東京都品川区北品川4−11−5<br />東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 東急バス第一三共前停留所降車 徒歩1分

    品川-大井町間



    目黒通架道橋
    京浜東北線北行線橋梁部銘板
    鐵道省 の刻印が見える。

    東京都品川区北品川4−11−5
    東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 東急バス第一三共前停留所降車 徒歩1分

  • 品川-大井町間<br /><br /><br /><br />東海寺橋裏梁(とうかいじうら きょうりょう)<br /><br />東京都品川区北品川4−11−5<br />東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 東急バス第一三共前停留所降車 徒歩1分

    品川-大井町間



    東海寺橋裏梁(とうかいじうら きょうりょう)

    東京都品川区北品川4−11−5
    東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 東急バス第一三共前停留所降車 徒歩1分

    大井町駅

  • 品川-大井町間<br /><br /><br /><br />東海寺裏橋梁<br />河川は目黒川(めぐろがわ)。<br />何故架橋当時河川名称を使用せず、寺名を使用したか理由は定かではない。<br /><br />東京都品川区北品川4−11−5<br />東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 東急バス第一三共前停留所降車 徒歩1分

    品川-大井町間



    東海寺裏橋梁
    河川は目黒川(めぐろがわ)。
    何故架橋当時河川名称を使用せず、寺名を使用したか理由は定かではない。

    東京都品川区北品川4−11−5
    東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 東急バス第一三共前停留所降車 徒歩1分

    大井町駅

  • 品川-大井町間<br /><br /><br /><br />碑文谷架道橋(ひもんや かどうきょう)<br />碑文谷街道上に設置<br />京濱線電化当時は品川から目黒に向かう道は此れ1本だけの存在。<br />品川-横濱間開通当時は踏切構造だったが、関東大震災後の本格的復旧に合わせ、付近一帯は大正13年(1924年)に半築堤化され該踏切も架道橋。<br /><br />東京都品川区広町1−5−28<br />東海道本線(京浜東北線)大井町駅北口 徒歩6分

    品川-大井町間



    碑文谷架道橋(ひもんや かどうきょう)
    碑文谷街道上に設置
    京濱線電化当時は品川から目黒に向かう道は此れ1本だけの存在。
    品川-横濱間開通当時は踏切構造だったが、関東大震災後の本格的復旧に合わせ、付近一帯は大正13年(1924年)に半築堤化され該踏切も架道橋。

    東京都品川区広町1−5−28
    東海道本線(京浜東北線)大井町駅北口 徒歩6分

  • 品川-大井町間<br /><br /><br /><br />鉄路犠牲者供養塔(てつろぎせいしゃくようとう)<br />平成18年(2006年)9月再建。<br /><br />東京都品川区広町1−5−21<br />東海道本線(京浜東北線)大井町駅北口 徒歩5分

    品川-大井町間



    鉄路犠牲者供養塔(てつろぎせいしゃくようとう)
    平成18年(2006年)9月再建。

    東京都品川区広町1−5−21
    東海道本線(京浜東北線)大井町駅北口 徒歩5分

    大井町駅

  • 品川-大井町間<br /><br /><br /><br />鉄路犠牲者供養塔<br />建立理由時期は不明。<br />但し、大宮鉄道博物館保管の大正6年(1917年)鐵道院記録に職務上の不手際から碑文谷踏切に於いて鉄道傷害事故を起こした職員2名が、現場付近で飛込自殺をしている事から、此れがきっかけで初代供養塔が建立されたものと推定される。<br /><br />東京都品川区広町1−5−21<br />東海道本線(京浜東北線)大井町駅北口 徒歩5分

    品川-大井町間



    鉄路犠牲者供養塔
    建立理由時期は不明。
    但し、大宮鉄道博物館保管の大正6年(1917年)鐵道院記録に職務上の不手際から碑文谷踏切に於いて鉄道傷害事故を起こした職員2名が、現場付近で飛込自殺をしている事から、此れがきっかけで初代供養塔が建立されたものと推定される。

    東京都品川区広町1−5−21
    東海道本線(京浜東北線)大井町駅北口 徒歩5分

    大井町駅

  • 品川-大井町間<br /><br /><br /><br />東日本旅客鉄道大井町変電所(ひがしにほんりょかくてつどう おおいまち へんでんしょ)<br />大正3年(1914年)京濱線電化時建築<br />原形は煉瓦石積構造<br />関東大震災で家屋本体に亀裂多数、被災中破。<br />モルタル吹付けで同年10月1日復旧。<br /><br />東京都品川区広町2−5−21<br />東海道本線大井町駅北口 徒歩9分

    品川-大井町間



    東日本旅客鉄道大井町変電所(ひがしにほんりょかくてつどう おおいまち へんでんしょ)
    大正3年(1914年)京濱線電化時建築
    原形は煉瓦石積構造
    関東大震災で家屋本体に亀裂多数、被災中破。
    モルタル吹付けで同年10月1日復旧。

    東京都品川区広町2−5−21
    東海道本線大井町駅北口 徒歩9分

  • 品川-大井町間<br /><br /><br /><br />大崎大井町短路線跡<br />大正5年(1916年)4月16日に廃止後、大井工場車輌試運転線として残存し昭和38年(1963年)3月31日まで使用。<br />右横の架線柱群跡が嘗て線路が存在した証。<br /><br />東京都品川区広町1−5−22<br />東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 徒歩10分

    品川-大井町間



    大崎大井町短路線跡
    大正5年(1916年)4月16日に廃止後、大井工場車輌試運転線として残存し昭和38年(1963年)3月31日まで使用。
    右横の架線柱群跡が嘗て線路が存在した証。

    東京都品川区広町1−5−22
    東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 徒歩10分

  • 品川-大井町間<br /><br /><br /><br />大崎大井町間短路線跡<br />緩いカーヴが鉄道線出自を物語る。<br /><br />東京都品川区広町1−5−30<br />東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 徒歩6分

    品川-大井町間



    大崎大井町間短路線跡
    緩いカーヴが鉄道線出自を物語る。

    東京都品川区広町1−5−30
    東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 徒歩6分

  • 品川-大井町間<br /><br /><br /><br />大崎大井町間短路線跡<br />明治27年(1894年)日清間は甲子事変勃発後の朝鮮半島に於ける権益を廻り風雲急を告げる事態が極めて濃厚になり後に両国は開戦に至るが、日本鐵道新宿線(現 山手線)対逓信省鐵道作業局東海道線間連絡は現在の如き秋葉原経由の路線が未開業の当時では品川駅を経由せざるを得ず、反面、当時の車輌間の連結は現在の如く自動式では無く螺子式螺旋形だった為に、全車両が連結可能と言ふ訳では無く、双方の装着が一致無き時は他方を取付部から交換せねばならず、品川駅は横浜駅と共に貨車滞貨が著しく放置出来ぬ事態が深刻な状況となって現出していた。<br />此の現状に危機感を抱いた陸軍省は日本鐵道新宿線から品川駅を経由せず官設東海道線に直通可能とする路線新設を立案し、逓信省鐵道作業局に委託建設させ同年8月に開通した。<br />日清戦争終結後は遊休施設と化したが、明治34年(1901年)3月15日に大井聯絡所(おおい れんらくじょ)が開設され日本鐵道株式會社所属貨車を使用し大宮駅対横浜駅直通貨物列車を運転開始し、次いで、同年8月1日に一切の施設を陸軍省から逓信省鐵道作業局に移管運用された。<br />大正3年(1914年)12月20日に大井町駅開業と共に大井聯絡所-大森間は廃止されたが、引続き大崎-大井町間は使用。<br />品川駅構内貨物操車場完成に拠り、大正5年(1916年)4月16日に廃止されたが、大崎駅から撮影地点まで 大井工場構内車輌試運転線 として、昭和38年(1963年)3月31日まで残存。<br />また、大井聯絡所こそ大井町駅の嚆矢。<br /><br />東京都品川区広町2−1−18<br />東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 徒歩1分

    品川-大井町間



    大崎大井町間短路線跡
    明治27年(1894年)日清間は甲子事変勃発後の朝鮮半島に於ける権益を廻り風雲急を告げる事態が極めて濃厚になり後に両国は開戦に至るが、日本鐵道新宿線(現 山手線)対逓信省鐵道作業局東海道線間連絡は現在の如き秋葉原経由の路線が未開業の当時では品川駅を経由せざるを得ず、反面、当時の車輌間の連結は現在の如く自動式では無く螺子式螺旋形だった為に、全車両が連結可能と言ふ訳では無く、双方の装着が一致無き時は他方を取付部から交換せねばならず、品川駅は横浜駅と共に貨車滞貨が著しく放置出来ぬ事態が深刻な状況となって現出していた。
    此の現状に危機感を抱いた陸軍省は日本鐵道新宿線から品川駅を経由せず官設東海道線に直通可能とする路線新設を立案し、逓信省鐵道作業局に委託建設させ同年8月に開通した。
    日清戦争終結後は遊休施設と化したが、明治34年(1901年)3月15日に大井聯絡所(おおい れんらくじょ)が開設され日本鐵道株式會社所属貨車を使用し大宮駅対横浜駅直通貨物列車を運転開始し、次いで、同年8月1日に一切の施設を陸軍省から逓信省鐵道作業局に移管運用された。
    大正3年(1914年)12月20日に大井町駅開業と共に大井聯絡所-大森間は廃止されたが、引続き大崎-大井町間は使用。
    品川駅構内貨物操車場完成に拠り、大正5年(1916年)4月16日に廃止されたが、大崎駅から撮影地点まで 大井工場構内車輌試運転線 として、昭和38年(1963年)3月31日まで残存。
    また、大井聯絡所こそ大井町駅の嚆矢。

    東京都品川区広町2−1−18
    東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 徒歩1分

  • 品川-大井町間<br /><br /><br /><br />東京総合車両区倉庫(とうきょう そうごうしゃりょうく そうこ)<br />元鐵道院大井火力発電所跡<br />京濱線電化時に建設。<br />外壁煉瓦は 日本煉瓦製造株式会社 製品使用。<br /><br />東京都品川区広町1−5−21<br />東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 徒歩5分

    品川-大井町間



    東京総合車両区倉庫(とうきょう そうごうしゃりょうく そうこ)
    元鐵道院大井火力発電所跡
    京濱線電化時に建設。
    外壁煉瓦は 日本煉瓦製造株式会社 製品使用。

    東京都品川区広町1−5−21
    東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 徒歩5分

  • 品川-大井町間<br /><br /><br /><br />東京総合車両区倉庫<br />神戸方側面<br /><br />東京都品川区広町1−5−21<br />東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 徒歩5分

    品川-大井町間



    東京総合車両区倉庫
    神戸方側面

    東京都品川区広町1−5−21
    東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 徒歩5分

  • 品川-大井町間<br /><br /><br /><br />東京総合車両区倉庫<br />煉瓦積構造は典型的英国積。<br /><br />東京都品川区広町1−5−21<br />東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 徒歩5分

    品川-大井町間



    東京総合車両区倉庫
    煉瓦積構造は典型的英国積。

    東京都品川区広町1−5−21
    東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 徒歩5分

  • 品川-大井町間<br /><br /><br /><br />東京総合車両区倉庫<br /><br />東京都品川区広町1−5−21<br />東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 徒歩5分

    品川-大井町間



    東京総合車両区倉庫

    東京都品川区広町1−5−21
    東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 徒歩5分

  • 品川-大井町間<br /><br /><br /><br />東京総合車両区倉庫<br /><br />東京都品川区広町<br />東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 徒歩5分

    品川-大井町間



    東京総合車両区倉庫

    東京都品川区広町
    東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 徒歩5分

  • 品川-大井町間<br /><br /><br /><br />東京総合車両区倉庫<br /><br />東京都品川区広町1−5−21<br />東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 徒歩5分

    品川-大井町間



    東京総合車両区倉庫

    東京都品川区広町1−5−21
    東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 徒歩5分

  • 品川-大井町間<br /><br /><br /><br />東京総合車両区倉庫<br />石板記載の I R G は建築当時の 帝國鐵道庁 の略称。<br /><br />東京都品川区広町1−5−21<br />東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 徒歩5分

    品川-大井町間



    東京総合車両区倉庫
    石板記載の I R G は建築当時の 帝國鐵道庁 の略称。

    東京都品川区広町1−5−21
    東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口 徒歩5分

  • 大井町(おおいまち)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />該駅は、大正3年(1914年)12月20日開業である。<br />帝國陸軍は品川、及び、横濱両駅に於けるスイッチバックに拠る慢性的な貨物滞貨状態に平時ですら閉口させられていたが、日清戦争(にっしん せんそう)(明治27年(1894年)7月25日〜明治28年(1895年)11月30日)勃発に伴い、従来の如く品川駅を経由せず日本鐵道線から逓信省鐵道作業局線に直通運転可能とするべく同年8月に短路線を完成させ軍隊輸送に貢献した。<br />即ち、明治34年(1901年)3月15日に該地に大井聯絡所(おおい れんらくじょ)が設置されたのが該駅嚆矢である。<br />駅格上は京濱間電化と同時だったが、電車運転が初期故障を伴い頓挫した事から、同年同月26日に運転休止と共に該駅も高島町と共に、翌大正4年(1915年)5月10日に運転再開されるまで営業休止扱にされた。<br /><br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=307

    大井町(おおいまち)駅



    駅本屋
    該駅は、大正3年(1914年)12月20日開業である。
    帝國陸軍は品川、及び、横濱両駅に於けるスイッチバックに拠る慢性的な貨物滞貨状態に平時ですら閉口させられていたが、日清戦争(にっしん せんそう)(明治27年(1894年)7月25日〜明治28年(1895年)11月30日)勃発に伴い、従来の如く品川駅を経由せず日本鐵道線から逓信省鐵道作業局線に直通運転可能とするべく同年8月に短路線を完成させ軍隊輸送に貢献した。
    即ち、明治34年(1901年)3月15日に該地に大井聯絡所(おおい れんらくじょ)が設置されたのが該駅嚆矢である。
    駅格上は京濱間電化と同時だったが、電車運転が初期故障を伴い頓挫した事から、同年同月26日に運転休止と共に該駅も高島町と共に、翌大正4年(1915年)5月10日に運転再開されるまで営業休止扱にされた。

    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=307

    大井町駅

  • 大井町駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />現駅本屋は、平成5年(1993年)3月起工。<br />平成14年(2002年)11月25日竣工。<br /><br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=307

    大井町駅



    駅本屋
    現駅本屋は、平成5年(1993年)3月起工。
    平成14年(2002年)11月25日竣工。

    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=307

    大井町駅

  • 大井町駅<br /><br /><br /><br />東口駅舎<br />該駅は元来海岸側に駅舎が存在しなかったが、該駅改築と共に設置。<br /><br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=307

    大井町駅



    東口駅舎
    該駅は元来海岸側に駅舎が存在しなかったが、該駅改築と共に設置。

    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=307

    大井町駅

  • 大井町駅<br /><br /><br /><br />ホーム<br />東海道本線列車線側は通過の為にホームは存在せず。<br />東海道本線下り線線路際に存在する水色送水管は、東京地下線隧道内湧水を立会川浄化の為の転送管。<br />東京随道は品川-錦糸町間を結ぶ連続随道。<br />竣工当時はビル冷房に使用する為に、地下水汲上現象に拠り何ら問題無かったが、その後、環境庁が率先して地下水汲上を制限し、且つ、冷房機製造企業が地下水を要しない別方法で冷房機器製造に成功し地下水汲上を中止した事から、経年に拠り地下水水位が上昇し、該随道本体を圧迫座屈させる原因を発生させた。<br />東日本旅客鉄道では、東北新幹線上野随道と共に、地下水防圧対策を迫られ、東京随道に就いては、該随道内に於いて排出された地下水を送水管を用い、当時住宅密集地で深刻な水質汚染の状態だった立会川浄化に供応すべく、東京都と協力し送水管を設置し該地下水排水を活用した。

    大井町駅



    ホーム
    東海道本線列車線側は通過の為にホームは存在せず。
    東海道本線下り線線路際に存在する水色送水管は、東京地下線隧道内湧水を立会川浄化の為の転送管。
    東京随道は品川-錦糸町間を結ぶ連続随道。
    竣工当時はビル冷房に使用する為に、地下水汲上現象に拠り何ら問題無かったが、その後、環境庁が率先して地下水汲上を制限し、且つ、冷房機製造企業が地下水を要しない別方法で冷房機器製造に成功し地下水汲上を中止した事から、経年に拠り地下水水位が上昇し、該随道本体を圧迫座屈させる原因を発生させた。
    東日本旅客鉄道では、東北新幹線上野随道と共に、地下水防圧対策を迫られ、東京随道に就いては、該随道内に於いて排出された地下水を送水管を用い、当時住宅密集地で深刻な水質汚染の状態だった立会川浄化に供応すべく、東京都と協力し送水管を設置し該地下水排水を活用した。

    大井町駅

  • 大井町駅<br /><br /><br /><br />ホーム全景<br />大井町駅開業当時の段差痕跡が唯一残存。

    大井町駅



    ホーム全景
    大井町駅開業当時の段差痕跡が唯一残存。

    大井町駅

  • 大井町駅<br /><br /><br /><br />ホーム<br />京濱線開業当時から昭和元年(1926年)12月27日に鋼製電車登場まで当時の電車はステップが取付られホーム側壁に該段差跡が残存。

    大井町駅



    ホーム
    京濱線開業当時から昭和元年(1926年)12月27日に鋼製電車登場まで当時の電車はステップが取付られホーム側壁に該段差跡が残存。

    大井町駅

  • 大井町-大森間<br /><br /><br /><br />鹿島谷架道橋(かしまや かどうきょう)<br /><br />東京都品川区南大井5−7−10<br />京急電鉄立会川駅 徒歩6分

    大井町-大森間



    鹿島谷架道橋(かしまや かどうきょう)

    東京都品川区南大井5−7−10
    京急電鉄立会川駅 徒歩6分

  • 大井町-大森間<br /><br /><br /><br />鹿島谷架道橋<br />京濱線複々線当時の橋台を現用。<br /><br />東京都品川区大井4−27−2<br />京急電鉄立会川駅 徒歩6分

    大井町-大森間



    鹿島谷架道橋
    京濱線複々線当時の橋台を現用。

    東京都品川区大井4−27−2
    京急電鉄立会川駅 徒歩6分

  • 大井町-大森間<br /><br /><br /><br />大佛架道橋(だいぶつ かどうきょう)<br /><br />東京都品川区大井6−15−12<br />東海道本線(京浜東北線)大森駅東口 徒歩8分

    大井町-大森間



    大佛架道橋(だいぶつ かどうきょう)

    東京都品川区大井6−15−12
    東海道本線(京浜東北線)大森駅東口 徒歩8分

  • 大井町-大森間<br /><br /><br /><br />架線柱<br />大正13年(1924年)東海道本線電化当時の架線柱<br />ドイツ製輸入品<br />コンパウンド・カテナリー用<br /><br />東京都品川区南大井6−15<br />東海道本線(京浜東北線)大森駅東口 徒歩5分

    大井町-大森間



    架線柱
    大正13年(1924年)東海道本線電化当時の架線柱
    ドイツ製輸入品
    コンパウンド・カテナリー用

    東京都品川区南大井6−15
    東海道本線(京浜東北線)大森駅東口 徒歩5分

  • 大井町-大森間<br /><br /><br /><br />架線柱<br />大正12年(1923年)ドイツ製架線柱<br />コンパウンド・カテナリーはドイツ帝國鐵道が開発した架線吊架方式。<br />架線標準経間を36.6mで植柱し、パンタグラフ集電部分に対し追従性が良く高速走行用に適応している反面、三重構造の為に架線高さを必要とし、シングル・カテナリー方式よりケーブルも必要となる事から建設経費が嵩み、東海道本線、及び、横須賀線大船-横須賀間以外では余り普及しなかった。<br />パンタグラフがシングルアーム様式が主流となり架線への追従力が向上した事から、必ずしもコンパウンドカテナリー式吊架を必要としなくなった。<br />老朽化の為に今年度中に新柱更新で姿を消す予定。<br /><br />東京都品川区南大井6−15<br />東海道本線(京浜東北線)大森駅東口 徒歩5分

    大井町-大森間



    架線柱
    大正12年(1923年)ドイツ製架線柱
    コンパウンド・カテナリーはドイツ帝國鐵道が開発した架線吊架方式。
    架線標準経間を36.6mで植柱し、パンタグラフ集電部分に対し追従性が良く高速走行用に適応している反面、三重構造の為に架線高さを必要とし、シングル・カテナリー方式よりケーブルも必要となる事から建設経費が嵩み、東海道本線、及び、横須賀線大船-横須賀間以外では余り普及しなかった。
    パンタグラフがシングルアーム様式が主流となり架線への追従力が向上した事から、必ずしもコンパウンドカテナリー式吊架を必要としなくなった。
    老朽化の為に今年度中に新柱更新で姿を消す予定。

    東京都品川区南大井6−15
    東海道本線(京浜東北線)大森駅東口 徒歩5分

  • 大森駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />大森駅は明治6年(1873年)10月15日に新橋-横濱間が正式開通以来、中間駅として川崎、鶴見、神奈川各駅が開業した事になっているが、実は、明治5年(1872年)6月11日に品川-横濱間仮開通以前から該駅付近に列車を停車させていた事は歴史的事実である。<br />即ち、鉄道建設にあたり英国人技師達は現在の大森山王地区に住居を求め、此の為に現在の学校踏切付近線路際に休息所を設置し、便宜上、休息所横に列車を停車させ英国人技師達の乗降に便宜を図っていた。<br />正式開業は、折から西国方面に於いて頻発していた不平士族に依る反政府叛乱鎮定の為に輸送量増加が主因とする列車本数増大と此れに伴う列車交換施設増設の必要性が生じ開設されるに至った。<br />然るに、大森駅開業当時は、大森が東京市内から至近地たる事もあり、所用者は往路復路共に従来通り徒歩か駕籠を利用し、高額な運賃を支払い陸蒸気を利用する物好きは僅少だったと見え、駅開業5日後たる17日附発行の郵便報知(現在の 報知新聞)記事に<br />「此度新築サレシ大森ステンショハ諸オ車往返度五大人下車客有レ、但上車スル者無キ開業以来稀ナル存在ナリト門外茶店デ出ケリ」<br />と言ふのが実態だった。<br />該駅付近は駅開設以来、農家が点在する農村風景だったが、明治22年(1889年)以降、気候が温暖で東京府中心から至近たる事から、現在の山王地区が脚光を浴び、西園寺公望(さいおんじ きんもち)(嘉永2年(1848年12月7日〜昭和15年(1940年)11月24日)や加納久宣(かのう ひさよし)(嘉永元年(1847年)〜大正8年(1919年)2月26日)等々の華族、児島惟謙(こじま これかた)(天保3年(1837年)3月7日〜明治41年(1908年)7月1日)等々の高等官吏が好んで住居を構える様になった為に、大森山王側は高級住宅街を形成するに至った。<br />大森駅ホーム上屋第2番線側に面した第7号b〜第21号bの軒装飾は、現在の京浜東北線の始祖たる京濱線が大正3年(1914年)12月20日に電車運転開始に伴う大森駅大改良工事の際に新設されたオリジナルで、此の様に原型形態が残存する所は他に無く、昭和20年(1945年)4月15日の東京城南地区空襲の際に大森駅は駅本屋他殆どの施設が被災焼失したにも拘わらず、ホーム上屋の一部は奇跡的に無事残り現在では貴重な存在。<br /><br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=351

    大森駅



    駅本屋
    大森駅は明治6年(1873年)10月15日に新橋-横濱間が正式開通以来、中間駅として川崎、鶴見、神奈川各駅が開業した事になっているが、実は、明治5年(1872年)6月11日に品川-横濱間仮開通以前から該駅付近に列車を停車させていた事は歴史的事実である。
    即ち、鉄道建設にあたり英国人技師達は現在の大森山王地区に住居を求め、此の為に現在の学校踏切付近線路際に休息所を設置し、便宜上、休息所横に列車を停車させ英国人技師達の乗降に便宜を図っていた。
    正式開業は、折から西国方面に於いて頻発していた不平士族に依る反政府叛乱鎮定の為に輸送量増加が主因とする列車本数増大と此れに伴う列車交換施設増設の必要性が生じ開設されるに至った。
    然るに、大森駅開業当時は、大森が東京市内から至近地たる事もあり、所用者は往路復路共に従来通り徒歩か駕籠を利用し、高額な運賃を支払い陸蒸気を利用する物好きは僅少だったと見え、駅開業5日後たる17日附発行の郵便報知(現在の 報知新聞)記事に
    「此度新築サレシ大森ステンショハ諸オ車往返度五大人下車客有レ、但上車スル者無キ開業以来稀ナル存在ナリト門外茶店デ出ケリ」
    と言ふのが実態だった。
    該駅付近は駅開設以来、農家が点在する農村風景だったが、明治22年(1889年)以降、気候が温暖で東京府中心から至近たる事から、現在の山王地区が脚光を浴び、西園寺公望(さいおんじ きんもち)(嘉永2年(1848年12月7日〜昭和15年(1940年)11月24日)や加納久宣(かのう ひさよし)(嘉永元年(1847年)〜大正8年(1919年)2月26日)等々の華族、児島惟謙(こじま これかた)(天保3年(1837年)3月7日〜明治41年(1908年)7月1日)等々の高等官吏が好んで住居を構える様になった為に、大森山王側は高級住宅街を形成するに至った。
    大森駅ホーム上屋第2番線側に面した第7号b〜第21号bの軒装飾は、現在の京浜東北線の始祖たる京濱線が大正3年(1914年)12月20日に電車運転開始に伴う大森駅大改良工事の際に新設されたオリジナルで、此の様に原型形態が残存する所は他に無く、昭和20年(1945年)4月15日の東京城南地区空襲の際に大森駅は駅本屋他殆どの施設が被災焼失したにも拘わらず、ホーム上屋の一部は奇跡的に無事残り現在では貴重な存在。

    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=351

    大森駅 (東京都)

  • 大森駅<br /><br /><br /><br />東海道本線<br />上下線間旧列車ホーム跡<br />該駅は開業以来、東海道本線普通列車停車駅だったが、昭和5年(1930年)3月15日から横須賀線全面電車化を受け停車駅再編に依り京濱線電車停車に限定され、東海道本線、及び、横須賀線列車は通過となる。<br />以後、ホーム跡は形態を残存させつつ、東海道本線信号取扱所として機能しつつ自然崩壊するに任せていたが、昭和57年(1982年)7月に大森駅ビル工事着工と同時に解体撤去された。

    大森駅



    東海道本線
    上下線間旧列車ホーム跡
    該駅は開業以来、東海道本線普通列車停車駅だったが、昭和5年(1930年)3月15日から横須賀線全面電車化を受け停車駅再編に依り京濱線電車停車に限定され、東海道本線、及び、横須賀線列車は通過となる。
    以後、ホーム跡は形態を残存させつつ、東海道本線信号取扱所として機能しつつ自然崩壊するに任せていたが、昭和57年(1982年)7月に大森駅ビル工事着工と同時に解体撤去された。

    大森駅 (東京都)

  • 大森駅<br /><br /><br /><br />東海道本線<br />上下線間旧列車ホーム跡<br />拡がった線路間が嘗てホームが存在し旅客扱実施の事実を残す。

    大森駅



    東海道本線
    上下線間旧列車ホーム跡
    拡がった線路間が嘗てホームが存在し旅客扱実施の事実を残す。

    大森駅 (東京都)

  • 大森駅<br /><br /><br /><br />東海道本線上下線間旧列車ホーム跡<br />木碑<br />新橋-横濱間開業の翌年たる明治6年(1873年)10月10日より、池上本門寺御会式(開祖遠忌式)参拝者の為に臨時列車が運行され以後、池上電気鐵道開業まで慣例行事となった。<br />明治18年(1885年)10月13日1時頃、池上本門寺お会式参列者の為に運転された新橋発大森行単車14両編成臨時列車が、大森駅で乗客を下車させ下り線から上り線に転線中、大森駅員の連絡不首尾と不注意が原因で脱線事故が発生した。<br />該事故で、車内点検で見過され下車しそこねた乗客1名死亡、1名が重傷を負う事故となった。<br />諮らずも、該事故は鉄道事故史に於ける本邦初死亡事故である。<br />該木碑は事故犠牲者の為慰霊の為に植柱。<br />因みに、大森駅と池上本門寺お会式に関する事故では、大正8年(1919年)10月12日22時頃、該駅に大量下車客が本門寺お会式参列者通行中に道路からはみ出した一部群集が線路に立入った所に走行中の京濱線上り第932電車運転士は前方30m付近を群集が押合っているのを発見し急制動を動作させたが効果及ばず、即死8名、重傷3名(内2名死亡)の轢断死亡事故も発生したが、要するに当時の庶民階層の民度が知れる事故である。

    大森駅



    東海道本線上下線間旧列車ホーム跡
    木碑
    新橋-横濱間開業の翌年たる明治6年(1873年)10月10日より、池上本門寺御会式(開祖遠忌式)参拝者の為に臨時列車が運行され以後、池上電気鐵道開業まで慣例行事となった。
    明治18年(1885年)10月13日1時頃、池上本門寺お会式参列者の為に運転された新橋発大森行単車14両編成臨時列車が、大森駅で乗客を下車させ下り線から上り線に転線中、大森駅員の連絡不首尾と不注意が原因で脱線事故が発生した。
    該事故で、車内点検で見過され下車しそこねた乗客1名死亡、1名が重傷を負う事故となった。
    諮らずも、該事故は鉄道事故史に於ける本邦初死亡事故である。
    該木碑は事故犠牲者の為慰霊の為に植柱。
    因みに、大森駅と池上本門寺お会式に関する事故では、大正8年(1919年)10月12日22時頃、該駅に大量下車客が本門寺お会式参列者通行中に道路からはみ出した一部群集が線路に立入った所に走行中の京濱線上り第932電車運転士は前方30m付近を群集が押合っているのを発見し急制動を動作させたが効果及ばず、即死8名、重傷3名(内2名死亡)の轢断死亡事故も発生したが、要するに当時の庶民階層の民度が知れる事故である。

    大森駅 (東京都)

  • 大森駅<br /><br /><br /><br />東海道本線上下線旧列車ホーム跡<br />木碑<br />全景

    大森駅



    東海道本線上下線旧列車ホーム跡
    木碑
    全景

    大森駅 (東京都)

  • 大森駅<br /><br /><br /><br />ホーム上屋<br />軒装飾<br />表側<br />大正3年(1914年)12月20日に京濱線電化の際に改築された当時の原形を留める。<br /><br />ホーム上屋支柱番号第7号b〜第21号b

    大森駅



    ホーム上屋
    軒装飾
    表側
    大正3年(1914年)12月20日に京濱線電化の際に改築された当時の原形を留める。

    ホーム上屋支柱番号第7号b〜第21号b

    大森駅 (東京都)

  • 大森駅<br /><br /><br /><br />ホーム上屋<br />軒装飾<br />表側<br />京濱線電化の際に改築ホームで軒装飾が現存するのは該区間で大森駅のみ。

    大森駅



    ホーム上屋
    軒装飾
    表側
    京濱線電化の際に改築ホームで軒装飾が現存するのは該区間で大森駅のみ。

    大森駅 (東京都)

  • 大森駅<br /><br /><br /><br />ホーム上屋<br />軒装飾<br />裏側

    大森駅



    ホーム上屋
    軒装飾
    裏側

    大森駅 (東京都)

  • 大森駅<br /><br /><br /><br />ホーム上屋<br />軒装飾<br />表側<br />但し、軒装飾表側の撮影の為に現地へのアクセスは困難を極める。

    大森駅



    ホーム上屋
    軒装飾
    表側
    但し、軒装飾表側の撮影の為に現地へのアクセスは困難を極める。

    大森駅 (東京都)

  • 大森駅<br /><br /><br /><br />ホーム上屋<br />軒装飾<br />裏側

    大森駅



    ホーム上屋
    軒装飾
    裏側

    大森駅 (東京都)

  • 大森駅<br /><br /><br /><br />ホーム上屋<br />軒装飾<br />裏側

    大森駅



    ホーム上屋
    軒装飾
    裏側

    大森駅 (東京都)

  • 大森駅<br /><br /><br /><br />ホーム中央<br />『日本考古学発祥の地』の碑<br />大森貝塚発見100周年を記念して昭和52年(1977年)9月に建立。

    大森駅



    ホーム中央
    『日本考古学発祥の地』の碑
    大森貝塚発見100周年を記念して昭和52年(1977年)9月に建立。

    大森駅 (東京都)

  • 大森駅<br /><br /><br /><br />山王口<br />該駅山王口は、大正2年(1913年)7月に開設されたが、同時期に竣工した恵比寿、渋谷、原宿、鎌倉、小田原、白河各駅本屋を想起させるルネッサンス調の駅舎構造建築だった。<br />大東亜戦争中の帝都城南大空襲で被災せず無事だったが、戦後、老朽化を理由に解体され、現用鉄筋コンクリート建に改築された。

    大森駅



    山王口
    該駅山王口は、大正2年(1913年)7月に開設されたが、同時期に竣工した恵比寿、渋谷、原宿、鎌倉、小田原、白河各駅本屋を想起させるルネッサンス調の駅舎構造建築だった。
    大東亜戦争中の帝都城南大空襲で被災せず無事だったが、戦後、老朽化を理由に解体され、現用鉄筋コンクリート建に改築された。

    大森駅 (東京都)

  • 大森駅<br /><br /><br /><br />山王北口

    大森駅



    山王北口

    大森駅 (東京都)

  • 大森駅<br /><br /><br /><br />東急バス大森池上本門寺線<br />該駅は駅開業以来、池上本門寺至近乗降駅として知られた存在だったが、大正8年(1919年)に地元陸送業者が大森駅から本門寺まで乗合馬車運行を開始し利用者から好評だった事から、他方では鉄道輸送を志す者も出現した。<br />池上電気鐵道(いけがみ でんきてつどう)は大森-池上間に鉄道開通させるべく土地取得に乗り出したが、該駅西口付近は大正期に於いて、既に住宅密集地で土地収用が困難だった事から、已む無く起点を蒲田に変更し大正11年(1922年)10月6日にお会式に合せ開通した。<br />因みに、該乗合馬車は昭和初期の世界的大不況の影響をまともに受け経営困難に直面した事から、昭和5年(1930年)8月に池上電気鐵道が買収し従来の乗合馬車を自動車に代え運行を継続させたが、買収当時、東京市近隣部運行の最後の乗合馬車で運賃は東京市内を運行する市バスが大人1名8銭だったのに対し、該鉄道馬車は大人1名20銭も収受していたが、買収後は8銭に値下を断行した事から地元住民から好評を以って迎えられた。<br />その後、池上電気鐵道は不況の煽りを受け、昭和9年(1934年)10月1日に目黒蒲田電気鐵道に吸収合併され、大東急成立(昭和17年(1942年5月1日)から大東急解体分離(昭和23年(1948年)6月1日)を経て東急電鉄に残留し、該路線は東急バス線として盛業中であるが元を糺せば大正8年開業の乗合馬車発端の古参路線である。<br /><br />東京都大田区山王2−2−6<br />東海道本線(京浜東北線)大森駅山王口 徒歩20秒

    大森駅



    東急バス大森池上本門寺線
    該駅は駅開業以来、池上本門寺至近乗降駅として知られた存在だったが、大正8年(1919年)に地元陸送業者が大森駅から本門寺まで乗合馬車運行を開始し利用者から好評だった事から、他方では鉄道輸送を志す者も出現した。
    池上電気鐵道(いけがみ でんきてつどう)は大森-池上間に鉄道開通させるべく土地取得に乗り出したが、該駅西口付近は大正期に於いて、既に住宅密集地で土地収用が困難だった事から、已む無く起点を蒲田に変更し大正11年(1922年)10月6日にお会式に合せ開通した。
    因みに、該乗合馬車は昭和初期の世界的大不況の影響をまともに受け経営困難に直面した事から、昭和5年(1930年)8月に池上電気鐵道が買収し従来の乗合馬車を自動車に代え運行を継続させたが、買収当時、東京市近隣部運行の最後の乗合馬車で運賃は東京市内を運行する市バスが大人1名8銭だったのに対し、該鉄道馬車は大人1名20銭も収受していたが、買収後は8銭に値下を断行した事から地元住民から好評を以って迎えられた。
    その後、池上電気鐵道は不況の煽りを受け、昭和9年(1934年)10月1日に目黒蒲田電気鐵道に吸収合併され、大東急成立(昭和17年(1942年5月1日)から大東急解体分離(昭和23年(1948年)6月1日)を経て東急電鉄に残留し、該路線は東急バス線として盛業中であるが元を糺せば大正8年開業の乗合馬車発端の古参路線である。

    東京都大田区山王2−2−6
    東海道本線(京浜東北線)大森駅山王口 徒歩20秒

  • 大森-蒲田間<br /><br /><br /><br />新井道架道橋(あらいみち かどうきょう)<br />京浜東北線側<br /><br />東京都大田区山王2−3−12<br />東海道本線(京浜東北線)大森駅北口 徒歩2分

    大森-蒲田間



    新井道架道橋(あらいみち かどうきょう)
    京浜東北線側

    東京都大田区山王2−3−12
    東海道本線(京浜東北線)大森駅北口 徒歩2分

    大森駅 (東京都)

  • 大森-蒲田間<br /><br /><br /><br />新井道架道橋<br />京浜東北線側<br />架道通過の為に該部分のみ道路がU状態。<br /><br />東京都大田区山王2−3−12<br />東海道本線(京浜東北線)大森駅北口 徒歩2分

    大森-蒲田間



    新井道架道橋
    京浜東北線側
    架道通過の為に該部分のみ道路がU状態。

    東京都大田区山王2−3−12
    東海道本線(京浜東北線)大森駅北口 徒歩2分

  • 大森-蒲田間<br /><br /><br /><br />新井道架道橋<br />手前は東海道本線橋台<br />奥は京浜東北線橋台<br />本来は新井川跡で現在は暗渠。<br />初代は木造構造橋梁、2代目は明治11年(1878年)6月に新橋工場製の錬鉄構造橋に更改された。<br />現在は明治45年(1912年9更改された3代目プレートガーター構造橋である。<br />京浜東北線橋台はガーター橋桁からプレート・ガーター橋桁に交換された為にコンクリートで打上部跡が見られる。<br /><br />東京都大田区大森北4−39<br />東海道本線(京浜東北線)大森駅南口 徒歩3分

    大森-蒲田間



    新井道架道橋
    手前は東海道本線橋台
    奥は京浜東北線橋台
    本来は新井川跡で現在は暗渠。
    初代は木造構造橋梁、2代目は明治11年(1878年)6月に新橋工場製の錬鉄構造橋に更改された。
    現在は明治45年(1912年9更改された3代目プレートガーター構造橋である。
    京浜東北線橋台はガーター橋桁からプレート・ガーター橋桁に交換された為にコンクリートで打上部跡が見られる。

    東京都大田区大森北4−39
    東海道本線(京浜東北線)大森駅南口 徒歩3分

    大森駅 (東京都)

  • 大森-蒲田間<br /><br /><br /><br />新井道架道橋<br />東海道本線側<br /><br />東京都大田区大森北4−39<br />東海道本線(京浜東北線)大森駅南口 徒歩3分

    大森-蒲田間



    新井道架道橋
    東海道本線側

    東京都大田区大森北4−39
    東海道本線(京浜東北線)大森駅南口 徒歩3分

    大森駅 (東京都)

  • 大森-蒲田間<br /><br /><br /><br />環状7号線春日陸橋<br />京浜東北線用233系電車<br />架線柱交換が進行している。<br /><br />東京都大田区大森北5−16−1<br />東海道本線(京浜東北線)大森駅西口 東急バス大森郵便局停留所降車 徒歩2分

    大森-蒲田間



    環状7号線春日陸橋
    京浜東北線用233系電車
    架線柱交換が進行している。

    東京都大田区大森北5−16−1
    東海道本線(京浜東北線)大森駅西口 東急バス大森郵便局停留所降車 徒歩2分

    大森駅 (東京都)

  • 大森-蒲田間<br /><br /><br /><br />環状7号線春日陸橋<br /><br />東京都大田区大森北5−16−1<br />東海道本線(京浜東北線)大森駅西口 東急バス大森郵便局停留所降車 徒歩2分

    大森-蒲田間



    環状7号線春日陸橋

    東京都大田区大森北5−16−1
    東海道本線(京浜東北線)大森駅西口 東急バス大森郵便局停留所降車 徒歩2分

    大森駅 (東京都)

  • 大森-蒲田間<br /><br /><br /><br />東日本旅客鉄道蒲田変電所<br /><br />東京都大田区中央8−43−6<br />東海道本線(京浜東北線)大森駅東口 東急バス大森西4丁目停留所降車 徒歩3分

    大森-蒲田間



    東日本旅客鉄道蒲田変電所

    東京都大田区中央8−43−6
    東海道本線(京浜東北線)大森駅東口 東急バス大森西4丁目停留所降車 徒歩3分

    大森駅 (東京都)

  • 大森-蒲田間<br /><br /><br /><br />新井宿踏切(あらいじゅく ふみきり)<br />該付近路線開業時は地平に対し平面に路盤が敷設されたが、明治43年(1910年)8月上旬に関東地方全域に記録的大豪雨災害は、現在でも語り草になる程の甚大な被害をもたらしたが、他方、東海道本線も、六郷川、鶴見川が氾濫し、品川-横濱間が冠水した為に、数日間に亙り列車運転不能になった。<br />折しも、鐵道院は列車本数増大を理由に品川-横濱間複々線化を計画していたが、同時に品川-川崎間の路盤を嵩上げさせ築堤化する事で水害対策を立案したが、該計画を知った荏原郡東部住民が、築堤構築に拠り、海老取川、及び、呑川河川氾濫時に、東海道本線が防水堤を形成する事が原因で、付近一帯の冠水が懸念された事から該計画案に対し強硬な反対論が現出した。<br />結局、鐵道院も計画を見直し、該築堤高さを当初計画を半減させる事で双方が妥協した。<br />該踏切は当初案では架道橋化が予定されていたが、築堤高さが当初計画より半減された為に踏切導入部が階段状に変更された。<br /><br />東京都大田区中央8−43−6<br />東海道本線(京浜東北線)大森駅東口 東急バス大森西4丁目停留所降車 徒歩3分

    大森-蒲田間



    新井宿踏切(あらいじゅく ふみきり)
    該付近路線開業時は地平に対し平面に路盤が敷設されたが、明治43年(1910年)8月上旬に関東地方全域に記録的大豪雨災害は、現在でも語り草になる程の甚大な被害をもたらしたが、他方、東海道本線も、六郷川、鶴見川が氾濫し、品川-横濱間が冠水した為に、数日間に亙り列車運転不能になった。
    折しも、鐵道院は列車本数増大を理由に品川-横濱間複々線化を計画していたが、同時に品川-川崎間の路盤を嵩上げさせ築堤化する事で水害対策を立案したが、該計画を知った荏原郡東部住民が、築堤構築に拠り、海老取川、及び、呑川河川氾濫時に、東海道本線が防水堤を形成する事が原因で、付近一帯の冠水が懸念された事から該計画案に対し強硬な反対論が現出した。
    結局、鐵道院も計画を見直し、該築堤高さを当初計画を半減させる事で双方が妥協した。
    該踏切は当初案では架道橋化が予定されていたが、築堤高さが当初計画より半減された為に踏切導入部が階段状に変更された。

    東京都大田区中央8−43−6
    東海道本線(京浜東北線)大森駅東口 東急バス大森西4丁目停留所降車 徒歩3分

    大森駅 (東京都)

  • 大森-蒲田間<br /><br /><br /><br />京濱線電車と東海道本線列車<br />京濱線に架線柱が存在し東海道本線側が無く、且つ、連結器が螺旋式の蒸気機関車索引から大正12年(1923年)3月以前の撮影と推定。<br />但し、京濱線電車車体色は当時の色見本を参照する限り、該品の如く茶色では無く限りなく暗黒色に近い。<br /><br />着色絵葉書<br />横浜臨海公園 蔵

    大森-蒲田間



    京濱線電車と東海道本線列車
    京濱線に架線柱が存在し東海道本線側が無く、且つ、連結器が螺旋式の蒸気機関車索引から大正12年(1923年)3月以前の撮影と推定。
    但し、京濱線電車車体色は当時の色見本を参照する限り、該品の如く茶色では無く限りなく暗黒色に近い。

    着色絵葉書
    横浜臨海公園 蔵

  • 大森-蒲田間<br /><br /><br /><br />上仲踏切<br />上記絵葉書と同一地点<br />京浜東北線233系電車<br />但し、背景は田園風景から住宅地に激変している。<br /><br />東京都大田区大森西7−9−12<br />東海道本線(京浜東北線)大森駅東口 東急バス大森西4丁目停留所降車 徒歩3分

    大森-蒲田間



    上仲踏切
    上記絵葉書と同一地点
    京浜東北線233系電車
    但し、背景は田園風景から住宅地に激変している。

    東京都大田区大森西7−9−12
    東海道本線(京浜東北線)大森駅東口 東急バス大森西4丁目停留所降車 徒歩3分

    大森駅 (東京都)

  • 蒲田(かまた)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />東口駅本屋<br />東京府荏原郡蒲田村は、明治5年(1872年)6月12日の鉄道開通後も村内を通過するだけで駅が存在せず30年以上を経過した。<br />然るに、京濱電気軌道が内務省に対し旧東海道上に軌道設置願を申請し許可と同時に工事に着工したが、明治32年(1899年)2月1日に澤田(現 平和島)-六郷土手間に釣掛音も高らかに電車運転が開始されるに及び、村民達は地団太を踏んで悔しがった。<br />建設を急ぐ京濱電気軌道は六郷川併用橋改築を終え、明治37年(1904年)5月8日に品川八ッ山橋-横濱神奈川間全通が確実になり、逓信省鐵道作業局としても蒲田村請願に依る駅設置問題を無視し得なくなり、荏原郡立蒲田尋常小学校(現 大田区立蒲田小学校)や八幡神社を移転させる事で敷地を捻出させ、更に、当時存在した蒲田菖蒲園観客誘致をも設置目的に加え、同年4月11日に蒲田駅が開設されたが、当時の蒲田駅周辺は呑川流域の単なる一村落に過ぎず、20時以降ともなると乗降客の姿は絶えホーム上の油灯に浮かぶ鉄道職員の姿が見えるに過ぎない存在だった。<br />然し、明治38年(1905年)12月24日に京濱電気軌道品川八ッ山橋-神奈川間全通に拠り、その快適性から京浜間旅客の6割以上を奪われた逓信省鐵道作業局としては無為無策に手をこまねいていた訳では無く、対抗策として東京横濱間複々線化と並行し直流1200V電化導入に拠る高速電車運転を決定し、荏原郡矢口村に鐵道院直営火力発電所設置が決定し、蒲田駅から引込線建設を実行した事から、俄に該駅の重要性が増す結果をもたらした。<br />更に、京濱線電車基地として、大正12年(1923年)10月に品川電車庫蒲田分庫が開設され、翌大正13年(1924年)5月5日に正式分離独立し蒲田電車庫、即ち、現在の蒲田電車区が開設され、鐵道省職員通勤者が激増する。<br />大正6年(1917年)9月30日に関東地方南部は記録的大型台風に見舞われ、不幸にも該台風上陸時に満潮と重なった為に、東京湾内各地域では高潮被害が続出した。<br />該駅では、設置後数年経過のホーム上屋が強風に拠り吹飛ぶ被害が発生したが、電車出発直後だった為に被害者を生じなかったのは不幸中の幸いだった。<br />長らく該駅は現東口のみの存在だったが、内陸側居住者から再三に亙る要求を受け、地元が土地無償提供する事で、鐵道省東京鐵道局は西口設置を決定し、鐵道省直轄工事に依り西口駅舎、及び、跨線橋延長工事が大正11年(1922年)6月末竣工し同年7月2日より営業開始した。<br />東京府に於ける家内工業は明治中期頃より大正中期まで神田区(現 千代田区)から本所区(現 墨田区)にかけて集中したが、関東大震災で悉く焼失し、騒音や悪臭等々の問題解決の為に郊外移転を必要とし、次々と荏原郡六郷地区に移転して来た事から蒲田駅貨物取扱量が激増する結果を招く内で、昭和10年(1935年)頃より、現在の大田区立蒲田図書館所在地付近に国産科学研究所なる組織が移転して来た。<br />該組織は、陸軍士官学校第9期卒業 近藤至誠 陸軍歩兵大佐が代表を務め、外向には資材製造業を称していたが、実は、軍機兵器たる風船爆弾の特殊紙風船製造専門工場で、蒲田駅から工場内部まで専用引込線が布設され、工場周囲は高塀に囲まれ制服私服憲兵が警備徘徊していた。<br />貨車送達宛先は、古間木(現 三沢)、勝田、那珂湊、相馬、及び、上総一ノ宮等々宛に対し該物資が送付された。<br />大東亜戦争終結時に関係資料類一切が焼却処分された為に現在でも実態が解明されておらず依然謎に包まれている。<br />大東亜戦争末期、我が国は全国各地が空襲被害に見まわれたが、該駅に関しては、昭和20年(1945年)4月15日、及び、同年5月24日に発生した。<br />即ち、前者は、東部軍管区情報に依り、21時20分警戒警報発令、22時0分空襲警報発令、翌16日1時10分警報解除で、該駅は、小荷物取扱所以外の全施設が全焼し、蒲田電車区も被害を生じ、留置中の電車40両が全焼し、該施設を含め、ほぼ全滅状態となった。<br />東海道本線は列車線電車線共に、大森-鶴見間各所で被害続出し、蒲田-鶴見間は16日14時50分に仮復旧するも、品川-蒲田間は19日初電まで完全復旧する迄、架線柱、架線送電線等々の電車運転に不可欠な施設復旧が遅延し、その間、18日終列車まで電車線に6700型テンダ式中型蒸気機関車を両端に配し中間に大型木造客車ナハ22000型数両を連結した京濱線電化以前の大正初期の如き姿を髣髴とさせる列車を運転し急場をしのぐ。<br />後者は、東部軍管区情報に依り、1時5分警戒警報発令、1時29分空襲警報発令、3時50分警報解除と云ふ深夜帯で短時間の攻撃であり、此の空襲で該駅では、前回の空襲で全焼し仮再建した駅本屋、及び、残存した小荷物取扱所が全焼した。<br />また、該駅停車中の電車13両も全焼被害を受けた。<br />モハ30065 サハ39005 モハ40029 モハ41041 サハ57022 モハ60118 クハ65036 65076 65092 65103 65106 サハ78014 クハ79009<br />東海道本線有楽町-川崎間で投下爆弾爆発に拠る線路破壊が21箇所計420m生じ、開通は同日6時30分だったが、前回同様、架線柱、送電線等々復旧に手間取り、電車運転は同日16時24分に再開される迄、前回同様の手法で運転した。<br />東京鐵道局新橋管理部では焼失施設の為に東京客車区配置で特別急行富士号専用車で休車中のマイネ38型1等寝台車2両を該駅に回送し、仮駅長事務室兼出札窓口代用として使用している。<br />駅本屋は戦後に応急建築のまま使用されたが、東口に昭和37年(1962年)に駅ビルが完成し、西口にも昭和45年(1970年)に駅ビルが建設され現在も使用されている。

    蒲田(かまた)駅



    駅本屋
    東口駅本屋
    東京府荏原郡蒲田村は、明治5年(1872年)6月12日の鉄道開通後も村内を通過するだけで駅が存在せず30年以上を経過した。
    然るに、京濱電気軌道が内務省に対し旧東海道上に軌道設置願を申請し許可と同時に工事に着工したが、明治32年(1899年)2月1日に澤田(現 平和島)-六郷土手間に釣掛音も高らかに電車運転が開始されるに及び、村民達は地団太を踏んで悔しがった。
    建設を急ぐ京濱電気軌道は六郷川併用橋改築を終え、明治37年(1904年)5月8日に品川八ッ山橋-横濱神奈川間全通が確実になり、逓信省鐵道作業局としても蒲田村請願に依る駅設置問題を無視し得なくなり、荏原郡立蒲田尋常小学校(現 大田区立蒲田小学校)や八幡神社を移転させる事で敷地を捻出させ、更に、当時存在した蒲田菖蒲園観客誘致をも設置目的に加え、同年4月11日に蒲田駅が開設されたが、当時の蒲田駅周辺は呑川流域の単なる一村落に過ぎず、20時以降ともなると乗降客の姿は絶えホーム上の油灯に浮かぶ鉄道職員の姿が見えるに過ぎない存在だった。
    然し、明治38年(1905年)12月24日に京濱電気軌道品川八ッ山橋-神奈川間全通に拠り、その快適性から京浜間旅客の6割以上を奪われた逓信省鐵道作業局としては無為無策に手をこまねいていた訳では無く、対抗策として東京横濱間複々線化と並行し直流1200V電化導入に拠る高速電車運転を決定し、荏原郡矢口村に鐵道院直営火力発電所設置が決定し、蒲田駅から引込線建設を実行した事から、俄に該駅の重要性が増す結果をもたらした。
    更に、京濱線電車基地として、大正12年(1923年)10月に品川電車庫蒲田分庫が開設され、翌大正13年(1924年)5月5日に正式分離独立し蒲田電車庫、即ち、現在の蒲田電車区が開設され、鐵道省職員通勤者が激増する。
    大正6年(1917年)9月30日に関東地方南部は記録的大型台風に見舞われ、不幸にも該台風上陸時に満潮と重なった為に、東京湾内各地域では高潮被害が続出した。
    該駅では、設置後数年経過のホーム上屋が強風に拠り吹飛ぶ被害が発生したが、電車出発直後だった為に被害者を生じなかったのは不幸中の幸いだった。
    長らく該駅は現東口のみの存在だったが、内陸側居住者から再三に亙る要求を受け、地元が土地無償提供する事で、鐵道省東京鐵道局は西口設置を決定し、鐵道省直轄工事に依り西口駅舎、及び、跨線橋延長工事が大正11年(1922年)6月末竣工し同年7月2日より営業開始した。
    東京府に於ける家内工業は明治中期頃より大正中期まで神田区(現 千代田区)から本所区(現 墨田区)にかけて集中したが、関東大震災で悉く焼失し、騒音や悪臭等々の問題解決の為に郊外移転を必要とし、次々と荏原郡六郷地区に移転して来た事から蒲田駅貨物取扱量が激増する結果を招く内で、昭和10年(1935年)頃より、現在の大田区立蒲田図書館所在地付近に国産科学研究所なる組織が移転して来た。
    該組織は、陸軍士官学校第9期卒業 近藤至誠 陸軍歩兵大佐が代表を務め、外向には資材製造業を称していたが、実は、軍機兵器たる風船爆弾の特殊紙風船製造専門工場で、蒲田駅から工場内部まで専用引込線が布設され、工場周囲は高塀に囲まれ制服私服憲兵が警備徘徊していた。
    貨車送達宛先は、古間木(現 三沢)、勝田、那珂湊、相馬、及び、上総一ノ宮等々宛に対し該物資が送付された。
    大東亜戦争終結時に関係資料類一切が焼却処分された為に現在でも実態が解明されておらず依然謎に包まれている。
    大東亜戦争末期、我が国は全国各地が空襲被害に見まわれたが、該駅に関しては、昭和20年(1945年)4月15日、及び、同年5月24日に発生した。
    即ち、前者は、東部軍管区情報に依り、21時20分警戒警報発令、22時0分空襲警報発令、翌16日1時10分警報解除で、該駅は、小荷物取扱所以外の全施設が全焼し、蒲田電車区も被害を生じ、留置中の電車40両が全焼し、該施設を含め、ほぼ全滅状態となった。
    東海道本線は列車線電車線共に、大森-鶴見間各所で被害続出し、蒲田-鶴見間は16日14時50分に仮復旧するも、品川-蒲田間は19日初電まで完全復旧する迄、架線柱、架線送電線等々の電車運転に不可欠な施設復旧が遅延し、その間、18日終列車まで電車線に6700型テンダ式中型蒸気機関車を両端に配し中間に大型木造客車ナハ22000型数両を連結した京濱線電化以前の大正初期の如き姿を髣髴とさせる列車を運転し急場をしのぐ。
    後者は、東部軍管区情報に依り、1時5分警戒警報発令、1時29分空襲警報発令、3時50分警報解除と云ふ深夜帯で短時間の攻撃であり、此の空襲で該駅では、前回の空襲で全焼し仮再建した駅本屋、及び、残存した小荷物取扱所が全焼した。
    また、該駅停車中の電車13両も全焼被害を受けた。
    モハ30065 サハ39005 モハ40029 モハ41041 サハ57022 モハ60118 クハ65036 65076 65092 65103 65106 サハ78014 クハ79009
    東海道本線有楽町-川崎間で投下爆弾爆発に拠る線路破壊が21箇所計420m生じ、開通は同日6時30分だったが、前回同様、架線柱、送電線等々復旧に手間取り、電車運転は同日16時24分に再開される迄、前回同様の手法で運転した。
    東京鐵道局新橋管理部では焼失施設の為に東京客車区配置で特別急行富士号専用車で休車中のマイネ38型1等寝台車2両を該駅に回送し、仮駅長事務室兼出札窓口代用として使用している。
    駅本屋は戦後に応急建築のまま使用されたが、東口に昭和37年(1962年)に駅ビルが完成し、西口にも昭和45年(1970年)に駅ビルが建設され現在も使用されている。

    蒲田駅

  • 蒲田駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />東口駅ビル<br />グランディオ<br />昭和37年(1962年)開業。

    蒲田駅



    駅本屋
    東口駅ビル
    グランディオ
    昭和37年(1962年)開業。

    蒲田駅

  • 蒲田駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />石積側壁<br />唯一残存する蒲田駅開業時痕跡<br />旧上り1番線跡<br />大正15年(1926年)鋼製車輌導入に敏速乗降容易化の為にステップ廃止が決定し、軌条面上760mmだったものが電車客車兼用920mmに打上られ、更に、木造車輌のステップ廃止撤去で1100mmに再度打上げた際の痕跡が現存。<br />3段階に分けたのはステップレス、ステップ附が車輌混用が原因で不慣れな利用者の転倒防止の為で、近年では、相模線、八高線、及び、片町線残存部電化でも同様例が存在。

    蒲田駅



    第2番ホーム
    石積側壁
    唯一残存する蒲田駅開業時痕跡
    旧上り1番線跡
    大正15年(1926年)鋼製車輌導入に敏速乗降容易化の為にステップ廃止が決定し、軌条面上760mmだったものが電車客車兼用920mmに打上られ、更に、木造車輌のステップ廃止撤去で1100mmに再度打上げた際の痕跡が現存。
    3段階に分けたのはステップレス、ステップ附が車輌混用が原因で不慣れな利用者の転倒防止の為で、近年では、相模線、八高線、及び、片町線残存部電化でも同様例が存在。

    蒲田駅

  • 蒲田駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />2番3番中線<br />開業時の上り線<br />京浜東北線北行線路に直線状態。

    蒲田駅



    第2番ホーム
    2番3番中線
    開業時の上り線
    京浜東北線北行線路に直線状態。

    蒲田駅

  • 蒲田駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />乗務員乗継詰所<br />古軌条支柱

    蒲田駅



    第2番ホーム
    乗務員乗継詰所
    古軌条支柱

    蒲田駅

  • 蒲田駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />乗務員乗継詰所<br />古軌条支柱<br /><br />商工省八幡製鐵所 60ポンド 1927年(昭和2年)11月製造 鐵道省発注品

    蒲田駅



    第2番ホーム
    乗務員乗継詰所
    古軌条支柱

    商工省八幡製鐵所 60ポンド 1927年(昭和2年)11月製造 鐵道省発注品

    蒲田駅

  • 蒲田駅<br /><br /><br /><br />西口駅ビル<br />サンカマタ<br />昭和45年(1970年)開業。

    蒲田駅



    西口駅ビル
    サンカマタ
    昭和45年(1970年)開業。

    蒲田駅

  • 蒲田駅<br /><br /><br /><br />元貨物取扱所跡<br />大東亜戦争終結まで該地には国産科学研究所と称した実は軍機兵器たる風船爆弾の風船製造工場が存在した。

    蒲田駅



    元貨物取扱所跡
    大東亜戦争終結まで該地には国産科学研究所と称した実は軍機兵器たる風船爆弾の風船製造工場が存在した。

    蒲田駅

  • 蒲田駅<br /><br /><br /><br />旧貨物取扱跡<br />旧国産科学研究所所在地。<br />軍機兵器でハーグ条約違反を承知の上で風船爆弾使用の風船部分を密造していた。<br /><br />東京都大田区蒲田5−13−22<br />東海道本線(京浜東北線)蒲田駅東口 徒歩4分

    蒲田駅



    旧貨物取扱跡
    旧国産科学研究所所在地。
    軍機兵器でハーグ条約違反を承知の上で風船爆弾使用の風船部分を密造していた。

    東京都大田区蒲田5−13−22
    東海道本線(京浜東北線)蒲田駅東口 徒歩4分

    蒲田駅

  • 御園神社(みその じんじゃ)<br /><br /><br /><br />境内全景<br />該神社は元来は現蒲田駅東口付近に所在した八幡神社が起源だったが、東海道本線建設に拠り境内相当敷地を献納させられた事から明治21年(1888年)に現位置に移転。<br /><br />東京都大田区西蒲田7−40−8<br />?: 03−3735−5096<br />東海道本線(京浜東北線)蒲田駅西口 徒歩4分<br />http://misono.kamatahachiman.org/

    御園神社(みその じんじゃ)



    境内全景
    該神社は元来は現蒲田駅東口付近に所在した八幡神社が起源だったが、東海道本線建設に拠り境内相当敷地を献納させられた事から明治21年(1888年)に現位置に移転。

    東京都大田区西蒲田7−40−8
    ?: 03−3735−5096
    東海道本線(京浜東北線)蒲田駅西口 徒歩4分
    http://misono.kamatahachiman.org/

    蒲田駅

  • 御園神社<br /><br /><br /><br />本殿<br />該神社は、昭和20年(1945年)4月15日の帝都城南地区空襲で境内に焼夷弾落下に依り全焼したが戦後、昭和35年(1960年)に再建された。<br /><br />東京都大田区西蒲田7−40−8<br />?: 03−3735−5096<br />東海道本線(京浜東北線)蒲田駅西口 徒歩4分<br />http://misono.kamatahachiman.org/

    御園神社



    本殿
    該神社は、昭和20年(1945年)4月15日の帝都城南地区空襲で境内に焼夷弾落下に依り全焼したが戦後、昭和35年(1960年)に再建された。

    東京都大田区西蒲田7−40−8
    ?: 03−3735−5096
    東海道本線(京浜東北線)蒲田駅西口 徒歩4分
    http://misono.kamatahachiman.org/

    蒲田駅

  • 御園神社<br /><br /><br /><br />境内<br />惣右衛門翁領徳碑(そうえもんおう りょうとくひ)<br />惣右衛門(嘉永元年(1848年)8月3日〜大正5年(1916年)12月21日)は地元庄屋の出身。<br />蒲田駅設置に対し、当時、現在の西口駅ビル付近に所在した蒲田尋常小学校移設や不足分所要地を私費を投じ鐵道院に献納し該駅開駅に漕ぎ付けた。<br />没後、惣右衛門翁を偲ぶ地元住民の総意に依り建立。<br />撰文は 碑建立当時の鐵道大臣 男爵 大木遠吉(おおき えんきち)(明治4年(1871年)9月19日〜大正15年(1926年)2月14日)。<br /><br />東京都大田区西蒲田7−40−8<br />?: 03−3735−5096<br />東海道本線(京浜東北線)蒲田駅西口 徒歩4分<br />http://misono.kamatahachiman.org/

    御園神社



    境内
    惣右衛門翁領徳碑(そうえもんおう りょうとくひ)
    惣右衛門(嘉永元年(1848年)8月3日〜大正5年(1916年)12月21日)は地元庄屋の出身。
    蒲田駅設置に対し、当時、現在の西口駅ビル付近に所在した蒲田尋常小学校移設や不足分所要地を私費を投じ鐵道院に献納し該駅開駅に漕ぎ付けた。
    没後、惣右衛門翁を偲ぶ地元住民の総意に依り建立。
    撰文は 碑建立当時の鐵道大臣 男爵 大木遠吉(おおき えんきち)(明治4年(1871年)9月19日〜大正15年(1926年)2月14日)。

    東京都大田区西蒲田7−40−8
    ?: 03−3735−5096
    東海道本線(京浜東北線)蒲田駅西口 徒歩4分
    http://misono.kamatahachiman.org/

    蒲田駅

  • 蒲田-川崎間<br /><br /><br /><br />京浜東北線<br />写真左線が鉄道開業時の本線。<br />現在は京浜東北線蒲田駅中線。<br />京浜東北線北行線と直線たるが出自を立証。<br /><br />東京都大田区蒲田本町1−1−10<br />東海道本線(京浜東北線)蒲田駅東口 徒歩6分

    蒲田-川崎間



    京浜東北線
    写真左線が鉄道開業時の本線。
    現在は京浜東北線蒲田駅中線。
    京浜東北線北行線と直線たるが出自を立証。

    東京都大田区蒲田本町1−1−10
    東海道本線(京浜東北線)蒲田駅東口 徒歩6分

    蒲田駅

  • 蒲田-川崎間<br /><br /><br /><br />京浜東北線<br />北行線<br />大正12年(1923年)10月に当時の蒲田電車庫設置に伴い構内路線配置変更。<br /><br />東京都大田区蒲田本町1−1−10<br />東海道本線(京浜東北線)蒲田駅東口 徒歩6分

    蒲田-川崎間



    京浜東北線
    北行線
    大正12年(1923年)10月に当時の蒲田電車庫設置に伴い構内路線配置変更。

    東京都大田区蒲田本町1−1−10
    東海道本線(京浜東北線)蒲田駅東口 徒歩6分

    蒲田駅

  • 蒲田-川崎間<br /><br /><br /><br />本線蒲田電車区合流点<br /><br />東京都大田区新蒲田1−24<br />東海道本線(京浜東北線)蒲田駅西口 徒歩4分

    蒲田-川崎間



    本線蒲田電車区合流点

    東京都大田区新蒲田1−24
    東海道本線(京浜東北線)蒲田駅西口 徒歩4分

    蒲田駅

  • 蒲田電車区引込線<br /><br /><br /><br />該電車区遠景<br />右手家屋は蒲田電車区信号取扱所<br /><br />東京都大田区新蒲田1−24<br />東海道本線(京浜東北線)蒲田駅西口 徒歩4分

    蒲田電車区引込線



    該電車区遠景
    右手家屋は蒲田電車区信号取扱所

    東京都大田区新蒲田1−24
    東海道本線(京浜東北線)蒲田駅西口 徒歩4分

    蒲田駅

  • 蒲田電車区(かまた でんしゃく)<br /><br /><br />大正後期ともなると京濱線電車利用者は増加の一途をたどり、鐵道省は大正11年(1922年)1月20日に品川-横濱間に米ウェスティグハウス社製3動型腕木式自動信号機を導入し電車運転増加を可能にした。<br />他方、京濱線電車運転受持担当の品川電車庫は場所狭隘地で増車余裕無く、且つ、京濱線用デハ43200型新型大型電車は、東海道線東京-熱海間、及び、横須賀線電化電車化用に設計製造された車輌で、此れ以前の車輌搭載の電磁式制御器と異なる電空型カム軸式制御器を採用した為に、相互連結で総括制御不可能な床下機器が異種車輌配置は不経済との判断から、府下荏原郡蒲田町に品川電車庫蒲田分庫として、関東大震災前から鐵道省矢口火力発電所への石炭運搬線に平行し建設を進め、震災発生で一時中断したが大正12年(1923年)10月設置。<br />関東大震災被災部分を復旧し、翌大正13年(1924年)5月5日に蒲田電車庫として独立。<br />昭和11年(1936年)9月1日附で従来の電車庫は電車区に名称変更。<br />昭和20年(1945年)4月15日東京城南地区空襲に拠り該電車区敷地に焼夷弾多数が落下炎上し、他区配置車輌預分を含め留置中電車52両に全焼被害が発生。<br />該空襲罹災車輌は、<br />モハ10型(木造16m電動片運旅客3扉車輌)<br />144<br />モユニ12型(木造16m電動両運郵便荷物専用車輌)<br />004、005、007、008、009、010<br />モニ13型(木造16m電動両運荷物専用車輌)<br />023、024、029<br />モハ30型(半鋼17m電動方運旅客3扉車輌)<br />041、064、067、071、079、083、094、097、108<br />サハ36型(半鋼17m中間付随旅客3扉車輌)<br />026、042<br />モハ40型(半鋼20m電動両運転台付旅客3扉車輌)<br />025、031、032<br />モハ41型(半鋼20m電動片運転台付旅客3扉車輌)<br />115<br />サハ48型(半鋼20m中間付随旅客2扉車輌)<br />023<br />クハ55型(半鋼20m片運転台付旅客3扉車輌)<br />033<br />サハ57型(半鋼20m中間付随旅客3扉車輌)<br />002、055<br />モハ60型(半鋼20m電動片運転台付旅客3扉車輌)<br />011、013、014、021、025、120<br />クハ65型(半鋼16m片運転台付旅客3扉車輌)<br />039、042、044、052、060、062、068、087、096、193、196<br />サハ78型(半鋼20m中間付随旅客4扉車輌)<br />001、003、004、019、022、031<br /><br />東京都大田区新蒲田1−24<br />東海道本線(京浜東北線)蒲田駅西口 徒歩4分

    蒲田電車区(かまた でんしゃく)


    大正後期ともなると京濱線電車利用者は増加の一途をたどり、鐵道省は大正11年(1922年)1月20日に品川-横濱間に米ウェスティグハウス社製3動型腕木式自動信号機を導入し電車運転増加を可能にした。
    他方、京濱線電車運転受持担当の品川電車庫は場所狭隘地で増車余裕無く、且つ、京濱線用デハ43200型新型大型電車は、東海道線東京-熱海間、及び、横須賀線電化電車化用に設計製造された車輌で、此れ以前の車輌搭載の電磁式制御器と異なる電空型カム軸式制御器を採用した為に、相互連結で総括制御不可能な床下機器が異種車輌配置は不経済との判断から、府下荏原郡蒲田町に品川電車庫蒲田分庫として、関東大震災前から鐵道省矢口火力発電所への石炭運搬線に平行し建設を進め、震災発生で一時中断したが大正12年(1923年)10月設置。
    関東大震災被災部分を復旧し、翌大正13年(1924年)5月5日に蒲田電車庫として独立。
    昭和11年(1936年)9月1日附で従来の電車庫は電車区に名称変更。
    昭和20年(1945年)4月15日東京城南地区空襲に拠り該電車区敷地に焼夷弾多数が落下炎上し、他区配置車輌預分を含め留置中電車52両に全焼被害が発生。
    該空襲罹災車輌は、
    モハ10型(木造16m電動片運旅客3扉車輌)
    144
    モユニ12型(木造16m電動両運郵便荷物専用車輌)
    004、005、007、008、009、010
    モニ13型(木造16m電動両運荷物専用車輌)
    023、024、029
    モハ30型(半鋼17m電動方運旅客3扉車輌)
    041、064、067、071、079、083、094、097、108
    サハ36型(半鋼17m中間付随旅客3扉車輌)
    026、042
    モハ40型(半鋼20m電動両運転台付旅客3扉車輌)
    025、031、032
    モハ41型(半鋼20m電動片運転台付旅客3扉車輌)
    115
    サハ48型(半鋼20m中間付随旅客2扉車輌)
    023
    クハ55型(半鋼20m片運転台付旅客3扉車輌)
    033
    サハ57型(半鋼20m中間付随旅客3扉車輌)
    002、055
    モハ60型(半鋼20m電動片運転台付旅客3扉車輌)
    011、013、014、021、025、120
    クハ65型(半鋼16m片運転台付旅客3扉車輌)
    039、042、044、052、060、062、068、087、096、193、196
    サハ78型(半鋼20m中間付随旅客4扉車輌)
    001、003、004、019、022、031

    東京都大田区新蒲田1−24
    東海道本線(京浜東北線)蒲田駅西口 徒歩4分

    蒲田駅

  • 鐵道省矢口火力発電所<br /><br /><br /><br />石炭運搬引込線跡<br /><br />東京都大田区新蒲田3−29−14<br />東海道本線(京浜東北線)蒲田駅西口 徒歩9分

    鐵道省矢口火力発電所



    石炭運搬引込線跡

    東京都大田区新蒲田3−29−14
    東海道本線(京浜東北線)蒲田駅西口 徒歩9分

    蒲田駅

  • 鐵道省矢口火力発電所<br /><br /><br /><br />石炭運搬引込線跡<br /><br />東京都大田区西六郷1−6−2<br />東海道本線(京浜東北線)蒲田駅西口 徒歩6分

    鐵道省矢口火力発電所



    石炭運搬引込線跡

    東京都大田区西六郷1−6−2
    東海道本線(京浜東北線)蒲田駅西口 徒歩6分

    蒲田駅

  • 鐵道省矢口火力発電所<br /><br /><br /><br />石炭運搬引込線跡<br />画面左側は蒲田電車区<br /><br />東京都大田区西六郷1−4−15<br />東海道本線(京浜東北線)蒲田駅西口 徒歩8分

    鐵道省矢口火力発電所



    石炭運搬引込線跡
    画面左側は蒲田電車区

    東京都大田区西六郷1−4−15
    東海道本線(京浜東北線)蒲田駅西口 徒歩8分

    蒲田駅

  • 鐵道省矢口火力発電所<br /><br /><br /><br />石炭運搬引込線跡<br />現 東京都水道局施設<br /><br />東京都大田区新蒲田3−29−3<br />東海道本線(京浜東北線)蒲田駅西口 徒歩10分

    鐵道省矢口火力発電所



    石炭運搬引込線跡
    現 東京都水道局施設

    東京都大田区新蒲田3−29−3
    東海道本線(京浜東北線)蒲田駅西口 徒歩10分

    蒲田駅

  • 鐵道省矢口火力発電所<br /><br /><br /><br />石炭運搬引込線跡<br />現 大田区立道塚南公園<br />線路跡同様、該公園は鰻の寝床状。<br /><br />東京都大田区新蒲田3−30−1<br />東海道本線(京浜東北線)蒲田駅西口 徒歩11分

    鐵道省矢口火力発電所



    石炭運搬引込線跡
    現 大田区立道塚南公園
    線路跡同様、該公園は鰻の寝床状。

    東京都大田区新蒲田3−30−1
    東海道本線(京浜東北線)蒲田駅西口 徒歩11分

    蒲田駅

  • 鐵道省矢口火力発電所<br /><br /><br /><br />石炭運搬引込線跡<br />現 大田区立道塚南公園<br />写真車輪は国鉄ワム8000型2軸平軸受式貨車使用発生品と推定。<br />然し、不思議な事に現地に該公園出自などの解説が存在しない為に、地元住民の殆んどは何故に該公園の謂れを承知しおらず。<br /><br />東京都大田区新蒲田3−30−1<br />東海道本線(京浜東北線)蒲田駅西口 徒歩11分

    鐵道省矢口火力発電所



    石炭運搬引込線跡
    現 大田区立道塚南公園
    写真車輪は国鉄ワム8000型2軸平軸受式貨車使用発生品と推定。
    然し、不思議な事に現地に該公園出自などの解説が存在しない為に、地元住民の殆んどは何故に該公園の謂れを承知しおらず。

    東京都大田区新蒲田3−30−1
    東海道本線(京浜東北線)蒲田駅西口 徒歩11分

    蒲田駅

  • 鐵道省矢口火力発電所<br /><br /><br /><br />石炭運搬引込線跡<br />現 大田区立道塚南公園<br />1952年(昭和27年)9月製造。<br /><br />東京都大田区新蒲田3−30−1<br />東海道本線(京浜東北線)蒲田駅西口 徒歩11分

    鐵道省矢口火力発電所



    石炭運搬引込線跡
    現 大田区立道塚南公園
    1952年(昭和27年)9月製造。

    東京都大田区新蒲田3−30−1
    東海道本線(京浜東北線)蒲田駅西口 徒歩11分

    蒲田駅

  • 鐵道省矢口火力発電所<br /><br /><br /><br />石炭運搬引込線跡<br />現 大田区立古川児童公園<br /><br />東京都大田区西六郷1−23−3<br />東海道本線(京浜東北線)蒲田駅西口 徒歩15分

    鐵道省矢口火力発電所



    石炭運搬引込線跡
    現 大田区立古川児童公園

    東京都大田区西六郷1−23−3
    東海道本線(京浜東北線)蒲田駅西口 徒歩15分

    蒲田駅

  • 鐵道省矢口火力発電所跡<br /><br /><br /><br />該火力発電所は、京濱線電化計画に伴い明治44年(1911年)設置決定され、直ちに英独メーカーに対し必要発電機が発注され、翌明治45年(1912年)4月に着工した鐵道院直営火力発電所である。<br />硫酸アンモニアを原料にガス式機関に拠り1500kw発電機を動作させ架線に1200Vを送電する方式で製作当時は斬新な形態だったが、予想外に振動、騒音、及び、アンモニア臭が酷く、六郷川反対岸側たる神奈川県橘樹郡丸子地区ですら振動が著しく伝導する状態であり、地元からは「発電所が動作する都度、地元の狸どもが集結し悪さする」と揶揄非難の対象だった。<br />関東大震災で激震と液状化現象をまともに受け該建築物は大破するに至り、折から、鐵道省は東海道本線旅客線東京-國府津間、及び、横須賀線全線を1500V電化工事に併せ京濱線も1500Vに昇圧させる事に決定していた為に、該発電所は敢えて必要とされず、検討の結果、鐵道省は該発電所廃止を決定し1500V昇圧後の大正14年(1925年)に廃止した。<br /><br /><br />大田区多摩川2−24−25<br />東海道本線(京浜東北線)蒲田駅西口 東急バス西六郷1丁目停留所降車 徒歩3分

    鐵道省矢口火力発電所跡



    該火力発電所は、京濱線電化計画に伴い明治44年(1911年)設置決定され、直ちに英独メーカーに対し必要発電機が発注され、翌明治45年(1912年)4月に着工した鐵道院直営火力発電所である。
    硫酸アンモニアを原料にガス式機関に拠り1500kw発電機を動作させ架線に1200Vを送電する方式で製作当時は斬新な形態だったが、予想外に振動、騒音、及び、アンモニア臭が酷く、六郷川反対岸側たる神奈川県橘樹郡丸子地区ですら振動が著しく伝導する状態であり、地元からは「発電所が動作する都度、地元の狸どもが集結し悪さする」と揶揄非難の対象だった。
    関東大震災で激震と液状化現象をまともに受け該建築物は大破するに至り、折から、鐵道省は東海道本線旅客線東京-國府津間、及び、横須賀線全線を1500V電化工事に併せ京濱線も1500Vに昇圧させる事に決定していた為に、該発電所は敢えて必要とされず、検討の結果、鐵道省は該発電所廃止を決定し1500V昇圧後の大正14年(1925年)に廃止した。


    大田区多摩川2−24−25
    東海道本線(京浜東北線)蒲田駅西口 東急バス西六郷1丁目停留所降車 徒歩3分

    蒲田駅

  • 鐵道省矢口火力発電所跡<br /><br /><br /><br />該火力発電所迄の石炭運搬引込専用線は大東亜戦争終結後も更地として残存していたが、民営後は日本国有鉄道清算事業団保有を経て、大田区に払下げられ、現在は数ヵ所の区立公園が設置され、該火力発電所跡地は、多摩川芙蓉ハイツ、大田区立多摩川図書館等々が建設され昔の痕跡は絶無。<br /><br />大田区多摩川2−24−25<br />東海道本線(京浜東北線)蒲田駅西口 東急バス西六郷1丁目停留所降車 徒歩5分

    鐵道省矢口火力発電所跡



    該火力発電所迄の石炭運搬引込専用線は大東亜戦争終結後も更地として残存していたが、民営後は日本国有鉄道清算事業団保有を経て、大田区に払下げられ、現在は数ヵ所の区立公園が設置され、該火力発電所跡地は、多摩川芙蓉ハイツ、大田区立多摩川図書館等々が建設され昔の痕跡は絶無。

    大田区多摩川2−24−25
    東海道本線(京浜東北線)蒲田駅西口 東急バス西六郷1丁目停留所降車 徒歩5分

    蒲田駅

  • 鐵道省矢口火力発電所跡<br /><br /><br /><br />大田区立施設<br />現在は大田区立多摩川図書館、及び、多摩川保育園敷地。<br /><br />大田区多摩川2−24−25<br />東海道本線(京浜東北線)蒲田駅西口 東急バス西六郷1丁目停留所降車 徒歩3分

    鐵道省矢口火力発電所跡



    大田区立施設
    現在は大田区立多摩川図書館、及び、多摩川保育園敷地。

    大田区多摩川2−24−25
    東海道本線(京浜東北線)蒲田駅西口 東急バス西六郷1丁目停留所降車 徒歩3分

    蒲田駅

  • 蒲田-川崎間<br /><br /><br /><br />六郷川橋梁(ろくごうがわ きょうりょう)<br />現在の多摩川下流域名。<br />全景<br /><br />東京都大田区

    蒲田-川崎間



    六郷川橋梁(ろくごうがわ きょうりょう)
    現在の多摩川下流域名。
    全景

    東京都大田区

  • 蒲田-川崎間<br /><br /><br /><br />六郷川橋梁<br /><br />東京都大田区

    蒲田-川崎間



    六郷川橋梁

    東京都大田区

  • 蒲田-川崎間<br /><br /><br /><br />六郷川橋梁<br />川身部<br /><br />東京都大田区

    蒲田-川崎間



    六郷川橋梁
    川身部

    東京都大田区

  • 川崎駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム東連絡跨線橋支柱古軌条<br /><br />I.T.S. 100 LBS PSH WENDEL V 1927 エ<br />(仏ド・ヴァンデル社 1927年6月製造 鐵道省発注品)<br /><br />支柱番号 第7号a

    川崎駅



    第2番ホーム東連絡跨線橋支柱古軌条

    I.T.S. 100 LBS PSH WENDEL V 1927 エ
    (仏ド・ヴァンデル社 1927年6月製造 鐵道省発注品)

    支柱番号 第7号a

    川崎駅

  • 川崎駅<br /><br /><br /><br />北跨線橋<br />該駅は昭和初期まで乗降人員は、ごく少数で限定された存在だったが、日華事変勃発前後を境に、我が国が戦時体制へと移行する内で、京浜工業地帯への通勤客を含め、昭和12年(1937年)の1日相当乗降人員は48000人前後だったが、2年後の昭和14年(1939年)には105000人前後に激増を見せた事から、東京駅八重洲側改良工事に伴い捻出された跨線橋廃材を活用し、昭和14年(1939年)に設置された。

    川崎駅



    北跨線橋
    該駅は昭和初期まで乗降人員は、ごく少数で限定された存在だったが、日華事変勃発前後を境に、我が国が戦時体制へと移行する内で、京浜工業地帯への通勤客を含め、昭和12年(1937年)の1日相当乗降人員は48000人前後だったが、2年後の昭和14年(1939年)には105000人前後に激増を見せた事から、東京駅八重洲側改良工事に伴い捻出された跨線橋廃材を活用し、昭和14年(1939年)に設置された。

  • 川崎駅<br /><br /><br /><br />北跨線橋<br />該駅橋上化工事完了と共に南跨線橋と共に現在では各ホーム間連絡橋。

    川崎駅



    北跨線橋
    該駅橋上化工事完了と共に南跨線橋と共に現在では各ホーム間連絡橋。

  • 川崎駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />

    川崎駅



    駅本屋

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  • chieko2014さん 2016/08/05 12:43:06
    こんにちは\(^_^)/
    暑い日が続きますね!体調はいかがでしょうか?

    何故だか黙々と執筆していそうですよね(*^^*)
    それかめちゃめちゃ読書ですか?

    変わらず奥深いUPですよね。私の薄い?UPと趣が違います!

    そんなクチコミにいいねをありがとうございます。
    懲りずにまたの訪問を\(^_^)/
    chieko2014

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2016/08/24 15:19:56
    拝復
    chieko2014さま、こんにちは。



    掲示板にコメントを賜りながら、返事を差し上げるのが遅くなり、誠に申し訳ございませんでした。

    小生、昨年は7月13日、今年は7月8日に過労が原因で倒れ、入院生活を余儀無くさせられておりました。

    まだまだ暑い日が続きます。

    何卒お体にはご自愛下さいませ。



    横浜臨海公園
  • Medinaさん 2013/09/16 13:33:11
    東京総合車両区倉庫について教えてください。
    横浜臨海公園様

    こんにちはMedinaでございます。
    今日台風の接近中なので家におりました。


    東京総合車両区倉庫についてですが、当時はこの場所に線路があったのでしょうか?
    車両用の部品の保管庫か大宮総合車両センターみたいに車両の全般検査を受け持つだけの技量があったのでしょうか?

    元鐵道院大井火力発電所跡と明記されているので普通の倉庫みたいですが?
    ただ東海道本線(京浜東北線)大井町駅西口付近なので、東海道本線から
    線路を引いても可能だと思いますが。。。

    お手数ですが宜しくお願い致します。

    しかし、昨日リニューアルした万世橋駅舎跡といい、この倉庫は鉄道省の時代なので歴史を感じますね。

    Medina

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2013/09/16 13:47:12
    拝復
    Medinaさま、こんにちは。


    メッセージを賜りまして誠に有難うございました。

    関東は台風直撃の為に、鉄道各線は運休や遅延が生じており、家に居るのが一番です。

    > 東京総合車両区倉庫についてですが、当時はこの場所に線路があったのでしょうか?
    →旅行記にも記述しておりますが、当時は、東北線対東海道線との連絡は、現在の山手線しか存在せず、然も、品川駅での機関車の付替えだけでは無く、当時の螺旋式連結器では、連結器本体の交換も必要であり、日清戦争を控え、当時の品川駅、及び、横浜駅は貨車の滞貨が著しい状態になり、輸送の隘路と化してしまいました。
    当時の陸軍が、大崎-大井町間に短路線を敷設し大正中期まで現役線として使用されましたが、その後は、大井工場の試運転線として昭和30年代まで残存しておりました。
    火力発電所時代は、その試運転線で石炭を輸送し、該発電所に搬入しておりました。

    > 車両用の部品の保管庫か大宮総合車両センターみたいに車両の全般検査を受け持つだけの技量があったのでしょうか?
    現在の、東京総合車両区は昔の大井工場で、大宮総合車両センターが大宮工場であったのに対し、大井工場の方が力量的には遥かに上位で、戦前まで、御召車両や展望車は民間鉄道車両製造会社に依頼させず、全部大井工場で製造検査を実施しておりました。

    電車の製造修理検査は、殆ど、大井工場独占で、戦後、大船と大宮に分散されましたが、大井首位は平成初期まで絶対でした。




    横浜臨海公園

    Medina

    Medinaさん からの返信 2013/09/18 20:04:38
    拝復
    横浜臨海公園様

    こんばんはMedinaでございます。

    ご質問の件で詳しくご回答賜りましてありがとうございます。

    大変勉強になりました。

    これからも宜しくお願い致します。

    Medina
  • わんぱく大将さん 2013/07/11 08:04:38
    無題
    横浜臨海公園さん

    せっかくご説明を書かれてるのですが、お写真だけにさせていただきます。
    長すぎて、読めません。すみませんが。しかし、レンガの建物に一票。

     大将

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2013/07/12 12:13:04
    拝復
    大将さま、こんにちは。


    今日の東京は38度を超える暑さで眩暈がしそう天候です。

    掲示板に書込みと投稿を賜りまして誠に有難うございました。

    次作の旅行記は、更に本文が長くなる予定ですのでご了解下さいませ。



    横浜臨海公園
  • TaxNaXさん 2013/06/30 22:49:55
    東京総合車両区倉庫を素敵に感じました
    横浜臨海公園さん

    TaxNaXです。

    東海道本線品川-川崎間は
    ・・・中略・・・
    云わば、大正期遺構の宝庫と称すべき存在である。

    というドラマチックな書き出しで、楽しく読ませて頂きました。
    私はミーハーなので、東京総合車両区倉庫が素敵に感じました。
    英国積みの様式は縦線が一続きにならないので、遠目に見ると縞模様に見え、私は遠目で楽しむのが好きですね。
    この建物は窓や出入口がアーチになっており、要石が綺麗な装飾になっているところも素敵です。
    ただ、出入口のアーチの下側は増築されたもののようですが、もうちょっとやり方がなかったのかなと感じました。
    新しいものを付け加える事は悪い事ではないと思うのです。
    ですが自分が技術者だからか、機能美を感じないものには否定的で。
    機能がないのであれば追加しなければ良いのに、と思ってしまいました。

    さて、私の通勤路線は横須賀線ですので、現在準備中の横須賀線の旅行記を楽しみに待っています。

    横浜駅の横須賀線ホームは拡幅工事で使い易くなりました。それは否定していなくて、利用する立場から言って大変助かっています。
    ただ拡幅前夜まで狭い幅で使用する制限から、屋根は不思議な増築、床は安普請になっています。
    工事している時から不思議で、上手く考えたのか考えなしなのか全然分からなかったので、触れていてあったりすると疑問も解けるかな、なんて他力本願を期待しています。

    TaxNaX

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2013/07/01 13:46:52
    拝復
    TaxNaXさま、こんにちは。


    旅行記に投票とメッセージを賜りまして誠に有難うございました。

    以前のフォートラベルのシステムでは旅行記の仮登録機能が無く、下原稿を作成したままの旅行記が数点眠っている状態です。

    > 私はミーハーなので、東京総合車両区倉庫が素敵に感じました。
    > 英国積みの様式は縦線が一続きにならないので、遠目に見ると縞模様に見え、私は遠目で楽しむのが好きですね。
    > この建物は窓や出入口がアーチになっており、要石が綺麗な装飾になっているところも素敵です。
    > ただ、出入口のアーチの下側は増築されたもののようですが、もうちょっとやり方がなかったのかなと感じました。
    →大井町変電所が完成した段階で、該発電所の使命は終わり、倉庫に改造した際に、闇雲に入口をこじ開け美的な感覚は全く無かったと言って差し支えないと考えております。

    > 新しいものを付け加える事は悪い事ではないと思うのです。
    > ですが自分が技術者だからか、機能美を感じないものには否定的で。
    > 機能がないのであれば追加しなければ良いのに、と思ってしまいました。
    →全く仰せの通りだと思います。

    > さて、私の通勤路線は横須賀線ですので、現在準備中の横須賀線の旅行記を楽しみに待っています。
    >
    > 横浜駅の横須賀線ホームは拡幅工事で使い易くなりました。それは否定していなくて、利用する立場から言って大変助かっています。
    > ただ拡幅前夜まで狭い幅で使用する制限から、屋根は不思議な増築、床は安普請になっています。
    > 工事している時から不思議で、上手く考えたのか考えなしなのか全然分からなかったので、触れていてあったりすると疑問も解けるかな、なんて他力本願を期待しています。
    →横浜駅は、現在改造中の千葉駅と共に線路上空間を利用して大駅ビルを建築する事になっておりまして、該駅ビル完成後はホーム上屋を全部撤去する計画だそうです。
    然し、あの無理やりくっつけた屋根や列車表示板など、もう少し何とかならなかったものなのかとJR東日本のセンスを疑っております。




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