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該区間は、明治21年(1888年)9月1日開通である。<br /><br />即ち、政府は東京横濱対京阪神間連絡鉄道敷設案として、外国陸海軍に依る沿岸攻撃防御として海岸線筋への鉄道敷設を好まず、山岳地帯経由たる中仙道線鉄道敷設案に同意した経緯を有していた。<br /><br />然るに、該決定に基き、改めて現地測量を実施した処、当初予定を遙に超越した現地実態と建設困難とする現実に直面させられる事態に発展した事から、東海道鉄道建設案が再浮上する次第となった。<br /><br />それ故、地図上に於いて該地意域を俯瞰すると、武豊港-岐阜間70.1kmに於ける鉄道敷設が、半ば、一直線状たる形態を示すのは、当時の建設案が中仙道鉄道建設の予備連絡線であり、大府を起点と分岐形態たるは当初計画変更の結果である。<br /><br /><br />現在の路線は、数次に亘る測量の結果、明治20年(1887年)5月に確定した。<br /><br /><br />該区間途中には、1級河川たる 矢矧川(やはぎがわ)が存在する。<br /><br />該河川に架橋された橋梁は全長347.16m(113.9ft)を有し、明治20年(1887年)7月に着工し、翌明治21年(1888年)6月に竣工した。<br />該架橋工事に要した総工費は64973円と記録されている。<br /><br />該橋梁設置に対し、本来であれば、河川狭川幅地点を渡河するのが賢明とも思えるが、大雨等々を原因として鉄砲水が川流した際に、強水流が該橋梁橋脚に当たる事で、強度不安定や落橋を回避させる為に、敢えて該位置を選定した。<br /><br />更に、該橋梁設置に対し、額田郡福島新田村(現 岡崎市天白町)では、鉄道線路土堤構築に依る大水時排水の為に通水設備設置に関する請願が明治20年(1887年)11月6日附で該郡役所を経由し愛知縣に対し行われたが、翌明治21年(1888年)7月4日附で愛知縣より該村に対し、水抜土瓶設置願を却下する旨回答した。<br /><br /><br />安城驛は、明治24年(1891年)6月16日附で開業したが、当時は、岡崎-刈谷間15.7kmが単線で、該区間開通以前の時点に於いて、既に、当局に対し地元から停車場設置に関する請願が提出されていたが、他方、当時の我が国に於ける国際情勢は朝鮮半島に於ける権益確保に鑑み、日清間に於ける対立が深刻化し、国交断絶時に伴う両国間での戦闘行為開始を想定し、該区間中間地点に停車場設置を実行する事で、列車増発が可能となり、且つ、軍事輸送円滑化ならしめる政府軍部の思惑と一致したと言ふのが、けだし真相であろうと推定される。<br /><br /><br />同年10月28日に岐阜県根尾谷村付近を震源とする 濃尾大震災(のうび だいしんさい)が発生し、該区間内にも被害が発生したが被害程度は軽微であり同年11月5日に復旧した。<br /><br /><br />明治27年(1894年)11月14日に、岡崎駅は火災に依り該駅構内施設一切が全焼する被害が発生し復旧時に現位置に駅を移転した。<br /><br /><br />鐵道唱歌<br />第31番<br />見よや徳川家康の<br />(みよや とくがわいえやすの)<br />おこりし土地の岡崎を<br />(おこりし とちの おかざきを)<br />矢矧の橋に残れるは<br />(やはぎのはしに のこれるは)<br />藤吉郎の物語♪<br />(とうきちろうの ものがたり)<br />該区間に関係する歌詞は此れだけである。<br /><br /><br />該区間複線化は、<br /> 岡崎-安城間 明治41年(1908年)  7月28日<br /> 安城-刈谷間               3月28日<br /> 刈谷-大府間             2月 2日<br />である。<br /><br /><br />昭和19年(1944年)12月7日に発生した東南海大地震(とうなんかい だいじしん)に依り、岡崎-安城間の矢矧川橋梁東京方築堤部分が陥没被害が発生したが、該被害は地震発生当日夜に応急復旧された。<br /><br /><br />大東亜戦争中、該区間に於ける空襲被害は、<br /> 8月14日 <br /> 警戒警報発令  0時32分<br /> 空襲警報発令  1時00分<br /> 空襲開始    1時12分<br /> 空襲警報解除  4時15分<br /> 警戒警報解除  4時25分<br /> 刈谷-大府間 <br />  下り旅客列車<br />  艦載機機銃掃射攻撃<br />  旅客多数死傷<br />  職員3名重傷<br />記録上は該1件とされるが、運転中列車に対する艦載機に依る機銃掃射攻撃等々は記録に残存しない例が多い。<br /><br /><br />該区間開業以来、原-大府間は名古屋鉄道局静岡管理部が管轄担当だった。<br />此れは、明治21年(1888年)9月1日に大府-濱松間開通に伴い静岡が伝統的に一括管理を行ってきた痕跡だった。<br /><br />然るに、大東亜戦争後、昭和24年(1949年)6月1日附を以って運輸省から日本国有鉄道が分離独立し、当初は運輸省鉄道総局時代の境界点を継承していたが、愛知県や地元行政側要望も強い事から、翌昭和25年(1950年)8月1日附で支社、鉄道管理局制度導入と共に、豊橋-西小坂井間に変更されたが、それまでは西小坂井-刈谷間は名古屋鉄道管理局管轄に変更されるまで62年間に亘り静岡管理体制が施行されていた。<br />昭和25年(1950年)から62年後が平成24年(2012年)相当である事から、地元に於ける静岡に対する認識は強かったものと思われる。<br />更に、民営分割後は、境界点が新所原-二川間に再変更され愛知県内全域が名古屋本社直轄扱とされた。<br /><br /><br />日本国有鉄道に於ける貨物輸送は、創業時より貨車組成主義を用いていたが、昭和59年(1984年)2月1日時刻改正より、一部列車を除き、拠点移送主義へと変化した。<br /><br />此の為に、貨車1車輌貸切扱を以って貨物輸送を主とする私鉄各社は、貨物取扱業務継続廃止選択を否応無く選択させられた。<br /><br />該当時、名古屋鉄道は、鵜沼、弥富、大曽根と共に、刈谷に於いて連絡貨車授受取扱業務を実施し、該駅取扱区間として、該社三河線刈谷‐見合間20.9km、及び、同線刈谷‐三河広瀬間30.5kmに於いて該業務を行っていたが、該貨車取扱体系変更に依り、昭和58年(1983年)12月31日附で、該駅に於ける連絡貨車授受取扱業務は、該社他取扱駅と共に全面廃止された。<br /><br />即ち、地方私鉄は鐵道省線に於ける末端培養線としての成立発展した路線が多い。<br /><br />大東亜戦争終結時に、該戦災に依る車輌数激減を理由に一般客への貨車配車が困難だった時代を克服し、我が国は国土経済成長を受け、昭和38年(1963年)に、日本国有鉄道に於ける貨車輸送実績が創業以来最高の2億600tを達成したが、他方、当時の運輸省土木局の方針に拠り、道路整備が拡充し、トラック輸送進出が顕著となりつつあった。<br /><br />然るに、昭和50年(1975年)11月26日~12月4日8日間に亙る動労国労に依るスト権スト実施に依り列車運行が完全に停止した結果、多数の荷主信用を喪失させた事で、鉄道貨物依存に対する信用低下を現出させた。<br /><br />実際に、貨物取扱益が昭和40年(1965年)に2918駅存在したが、昭和59年(1984年)には422駅に激減した。<br /><br />更に、貨物取扱業務廃止は、当該駅に於ける駅員数削減、甚だしきに至っては当該駅自体が無人化を余儀無くさせられる。<br />然も、当該駅に於いて貨車荷貨積降が廃止された事で、荷扱業者、該当荷受取発送人に依る当該駅周辺飲食店利用激減を招来させ、挙句の果て店舗自体が廃業に追い込まれた事例も数多く存在する。<br />此の為に、当該駅に於ける貨物取扱業務廃止は、殊に地方に於ける過疎化進行に拍車をかけた点に於いて、決して黙視出来ぬ現実だった。<br /><br /><br /><br />表紙写真は、<br />護岸工事後に埋没した初代矢矧川橋梁橋台跡<br /><br /><br /><br /><br />東海道本線歴史的痕跡探訪記<br />~東京-濱松町間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10701644<br />~東京驛編~<br /><br />~汐留-濱松町-品川間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10797199<br />~品川-川崎間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10502858<br />~川崎-横濱間編 明治頌歌~<br 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東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~岡崎-大府間編 明治頌歌~

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2016/01/15 - 2016/01/15

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横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

該区間は、明治21年(1888年)9月1日開通である。

即ち、政府は東京横濱対京阪神間連絡鉄道敷設案として、外国陸海軍に依る沿岸攻撃防御として海岸線筋への鉄道敷設を好まず、山岳地帯経由たる中仙道線鉄道敷設案に同意した経緯を有していた。

然るに、該決定に基き、改めて現地測量を実施した処、当初予定を遙に超越した現地実態と建設困難とする現実に直面させられる事態に発展した事から、東海道鉄道建設案が再浮上する次第となった。

それ故、地図上に於いて該地意域を俯瞰すると、武豊港-岐阜間70.1kmに於ける鉄道敷設が、半ば、一直線状たる形態を示すのは、当時の建設案が中仙道鉄道建設の予備連絡線であり、大府を起点と分岐形態たるは当初計画変更の結果である。


現在の路線は、数次に亘る測量の結果、明治20年(1887年)5月に確定した。


該区間途中には、1級河川たる 矢矧川(やはぎがわ)が存在する。

該河川に架橋された橋梁は全長347.16m(113.9ft)を有し、明治20年(1887年)7月に着工し、翌明治21年(1888年)6月に竣工した。
該架橋工事に要した総工費は64973円と記録されている。

該橋梁設置に対し、本来であれば、河川狭川幅地点を渡河するのが賢明とも思えるが、大雨等々を原因として鉄砲水が川流した際に、強水流が該橋梁橋脚に当たる事で、強度不安定や落橋を回避させる為に、敢えて該位置を選定した。

更に、該橋梁設置に対し、額田郡福島新田村(現 岡崎市天白町)では、鉄道線路土堤構築に依る大水時排水の為に通水設備設置に関する請願が明治20年(1887年)11月6日附で該郡役所を経由し愛知縣に対し行われたが、翌明治21年(1888年)7月4日附で愛知縣より該村に対し、水抜土瓶設置願を却下する旨回答した。


安城驛は、明治24年(1891年)6月16日附で開業したが、当時は、岡崎-刈谷間15.7kmが単線で、該区間開通以前の時点に於いて、既に、当局に対し地元から停車場設置に関する請願が提出されていたが、他方、当時の我が国に於ける国際情勢は朝鮮半島に於ける権益確保に鑑み、日清間に於ける対立が深刻化し、国交断絶時に伴う両国間での戦闘行為開始を想定し、該区間中間地点に停車場設置を実行する事で、列車増発が可能となり、且つ、軍事輸送円滑化ならしめる政府軍部の思惑と一致したと言ふのが、けだし真相であろうと推定される。


同年10月28日に岐阜県根尾谷村付近を震源とする 濃尾大震災(のうび だいしんさい)が発生し、該区間内にも被害が発生したが被害程度は軽微であり同年11月5日に復旧した。


明治27年(1894年)11月14日に、岡崎駅は火災に依り該駅構内施設一切が全焼する被害が発生し復旧時に現位置に駅を移転した。


鐵道唱歌
第31番
見よや徳川家康の
(みよや とくがわいえやすの)
おこりし土地の岡崎を
(おこりし とちの おかざきを)
矢矧の橋に残れるは
(やはぎのはしに のこれるは)
藤吉郎の物語♪
(とうきちろうの ものがたり)
該区間に関係する歌詞は此れだけである。


該区間複線化は、
岡崎-安城間 明治41年(1908年) 7月28日
安城-刈谷間             3月28日
刈谷-大府間             2月 2日
である。


昭和19年(1944年)12月7日に発生した東南海大地震(とうなんかい だいじしん)に依り、岡崎-安城間の矢矧川橋梁東京方築堤部分が陥没被害が発生したが、該被害は地震発生当日夜に応急復旧された。


大東亜戦争中、該区間に於ける空襲被害は、
8月14日
 警戒警報発令  0時32分
 空襲警報発令  1時00分
 空襲開始    1時12分
 空襲警報解除  4時15分
 警戒警報解除  4時25分
刈谷-大府間
  下り旅客列車
  艦載機機銃掃射攻撃
  旅客多数死傷
  職員3名重傷
記録上は該1件とされるが、運転中列車に対する艦載機に依る機銃掃射攻撃等々は記録に残存しない例が多い。


該区間開業以来、原-大府間は名古屋鉄道局静岡管理部が管轄担当だった。
此れは、明治21年(1888年)9月1日に大府-濱松間開通に伴い静岡が伝統的に一括管理を行ってきた痕跡だった。

然るに、大東亜戦争後、昭和24年(1949年)6月1日附を以って運輸省から日本国有鉄道が分離独立し、当初は運輸省鉄道総局時代の境界点を継承していたが、愛知県や地元行政側要望も強い事から、翌昭和25年(1950年)8月1日附で支社、鉄道管理局制度導入と共に、豊橋-西小坂井間に変更されたが、それまでは西小坂井-刈谷間は名古屋鉄道管理局管轄に変更されるまで62年間に亘り静岡管理体制が施行されていた。
昭和25年(1950年)から62年後が平成24年(2012年)相当である事から、地元に於ける静岡に対する認識は強かったものと思われる。
更に、民営分割後は、境界点が新所原-二川間に再変更され愛知県内全域が名古屋本社直轄扱とされた。


日本国有鉄道に於ける貨物輸送は、創業時より貨車組成主義を用いていたが、昭和59年(1984年)2月1日時刻改正より、一部列車を除き、拠点移送主義へと変化した。

此の為に、貨車1車輌貸切扱を以って貨物輸送を主とする私鉄各社は、貨物取扱業務継続廃止選択を否応無く選択させられた。

該当時、名古屋鉄道は、鵜沼、弥富、大曽根と共に、刈谷に於いて連絡貨車授受取扱業務を実施し、該駅取扱区間として、該社三河線刈谷‐見合間20.9km、及び、同線刈谷‐三河広瀬間30.5kmに於いて該業務を行っていたが、該貨車取扱体系変更に依り、昭和58年(1983年)12月31日附で、該駅に於ける連絡貨車授受取扱業務は、該社他取扱駅と共に全面廃止された。

即ち、地方私鉄は鐵道省線に於ける末端培養線としての成立発展した路線が多い。

大東亜戦争終結時に、該戦災に依る車輌数激減を理由に一般客への貨車配車が困難だった時代を克服し、我が国は国土経済成長を受け、昭和38年(1963年)に、日本国有鉄道に於ける貨車輸送実績が創業以来最高の2億600tを達成したが、他方、当時の運輸省土木局の方針に拠り、道路整備が拡充し、トラック輸送進出が顕著となりつつあった。

然るに、昭和50年(1975年)11月26日~12月4日8日間に亙る動労国労に依るスト権スト実施に依り列車運行が完全に停止した結果、多数の荷主信用を喪失させた事で、鉄道貨物依存に対する信用低下を現出させた。

実際に、貨物取扱益が昭和40年(1965年)に2918駅存在したが、昭和59年(1984年)には422駅に激減した。

更に、貨物取扱業務廃止は、当該駅に於ける駅員数削減、甚だしきに至っては当該駅自体が無人化を余儀無くさせられる。
然も、当該駅に於いて貨車荷貨積降が廃止された事で、荷扱業者、該当荷受取発送人に依る当該駅周辺飲食店利用激減を招来させ、挙句の果て店舗自体が廃業に追い込まれた事例も数多く存在する。
此の為に、当該駅に於ける貨物取扱業務廃止は、殊に地方に於ける過疎化進行に拍車をかけた点に於いて、決して黙視出来ぬ現実だった。



表紙写真は、
護岸工事後に埋没した初代矢矧川橋梁橋台跡




東海道本線歴史的痕跡探訪記
~東京-濱松町間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10701644
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~汐留-濱松町-品川間編 明治頌歌~
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~品川-川崎間編 明治頌歌~
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~川崎-横濱間編 明治頌歌~
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~横濱駅移設変転史編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10316826
~横濱-大船間編 明治頌歌~
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~大船-平塚間編 明治頌歌~

~平塚-國府津間編 明治頌歌~

~國府津-根府川間編~
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~根府川-熱海間編~
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~丹那隧道完成秘話 丹那隧道碑文から読み取れし或る歴史的事実~
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~丹那隧道完成秘話 三島口建設工事鉄道線探訪記~
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~熱海-沼津間編~

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~豊橋-岡崎間編 明治頌歌~
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~大府-名古屋-尾張一宮間編 明治頌歌~
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~名古屋驛編~

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旅行の満足度
4.5
観光
4.5
ホテル
4.5
交通
4.5
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
新幹線 JRローカル 私鉄 徒歩

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  • 岡崎(おかざき)駅<br /><br /><br /><br />東口<br />該駅は、明治21年(1888年)9月1日開業である。<br />該駅改行当初は、矢矧川水運を考慮し額田郡福島新田村(現 岡崎市天白町)に設置された。<br />然るに、初代該駅は、明治27年(1894年)11月14日に火災が原因で該駅構内施設悉くが焼失する被害が発生した。<br />出火原因は不明とされたが、該事件当時の、第3代駅長 一之瀬嘉吉は、該火災に依り焼失した停車場復旧に対し、単に停車場施設復興に止まらず、岡崎町に近ける存在とすべく、現位置への駅移転、及び、同時の該駅施設拡張を実施させた。<br />一之瀬駅長退任後、地元は該駅長への人徳を偲び、龍海院明大寺境内に石碑を建立した。<br />該駅は、旧東海道宿場町たる岡崎宿より南3.3km地点に設置された。<br />当時の小型蒸気機関車での登攀力には限界が有り、急勾配を忌避する為に、現行線が設定されたと言ふのが真相であり、該宿場が線路設置に反対したとか、該路線敷設工事担当技師に蒲郡出身者が存在した、等々の理由は、後世発生した鉄道忌避伝説であり、言わば、負惜しみであると言ふのが、けだし真相であろう。<br />鉄道開通後に於ける該駅岡崎町中心部間交通不便は如何ともし難く、該状況を打破すべく、明治31年(1898年)12月28日に、岡崎馬車鐵道に依り、岡崎停車場前-明大寺間が開通し、該区間に於ける連絡運輸が開始された。<br />該馬車鉄道は、後に改軌、且つ、直流600V電化され、最終的に、名古屋鉄道岡崎市内線を形成する一翼を担い、昭和37年(1962年)6月17日附で全線廃止されたが、現在でも、該市内線路線跡は多数残存する。<br />第2代駅本屋は、大東亜戦争末期たる昭和20年(1945年)8月2日未明の岡崎大空襲で該駅構内諸施設数箇所と共に焼失した。<br />戦後、名古屋鐵道局静岡管理部時代に、仮建築に依り駅本屋を復旧させたが、改めて、昭和27年(1952年)7月に鉄骨コンクリート建築で改築したのが第4代駅本屋だったが、平成2年(1990年)に橋上化された。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/okazaki/

    岡崎(おかざき)駅



    東口
    該駅は、明治21年(1888年)9月1日開業である。
    該駅改行当初は、矢矧川水運を考慮し額田郡福島新田村(現 岡崎市天白町)に設置された。
    然るに、初代該駅は、明治27年(1894年)11月14日に火災が原因で該駅構内施設悉くが焼失する被害が発生した。
    出火原因は不明とされたが、該事件当時の、第3代駅長 一之瀬嘉吉は、該火災に依り焼失した停車場復旧に対し、単に停車場施設復興に止まらず、岡崎町に近ける存在とすべく、現位置への駅移転、及び、同時の該駅施設拡張を実施させた。
    一之瀬駅長退任後、地元は該駅長への人徳を偲び、龍海院明大寺境内に石碑を建立した。
    該駅は、旧東海道宿場町たる岡崎宿より南3.3km地点に設置された。
    当時の小型蒸気機関車での登攀力には限界が有り、急勾配を忌避する為に、現行線が設定されたと言ふのが真相であり、該宿場が線路設置に反対したとか、該路線敷設工事担当技師に蒲郡出身者が存在した、等々の理由は、後世発生した鉄道忌避伝説であり、言わば、負惜しみであると言ふのが、けだし真相であろう。
    鉄道開通後に於ける該駅岡崎町中心部間交通不便は如何ともし難く、該状況を打破すべく、明治31年(1898年)12月28日に、岡崎馬車鐵道に依り、岡崎停車場前-明大寺間が開通し、該区間に於ける連絡運輸が開始された。
    該馬車鉄道は、後に改軌、且つ、直流600V電化され、最終的に、名古屋鉄道岡崎市内線を形成する一翼を担い、昭和37年(1962年)6月17日附で全線廃止されたが、現在でも、該市内線路線跡は多数残存する。
    第2代駅本屋は、大東亜戦争末期たる昭和20年(1945年)8月2日未明の岡崎大空襲で該駅構内諸施設数箇所と共に焼失した。
    戦後、名古屋鐵道局静岡管理部時代に、仮建築に依り駅本屋を復旧させたが、改めて、昭和27年(1952年)7月に鉄骨コンクリート建築で改築したのが第4代駅本屋だったが、平成2年(1990年)に橋上化された。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/okazaki/

    岡崎駅

  • 岡崎-西岡崎間<br /><br /><br /><br />初代岡崎駅跡地<br />旧矢矧川橋梁取付築堤跡<br />橋台は撤去済。<br />該地は昭和16年(1941年)矢矧川川幅拡張工事着工に依り引堤するまで平地だった。<br />該地は、明治21年(1888年)9月1日に該地に初代駅施設が設置されたが、即ち、当時は矢矧川水運活用を主としていたが、然るに、下り列車は該駅構内出発時に急勾配登攀構造となっていた事から、度々、登攀困難な状態が現出した。<br />その後、明治27年(1894年)11月14日に不審火に依る火災で該駅構内施設が全焼被害が発生したが、将来を見据え、該駅復旧時に現位置に移転した。<br />その後、初代駅施設用地跡は貨物取扱所を経て、岡多線(現 愛知環状鉄道)構内分岐交差地用地として活用された。<br /><br />岡崎市天白町宇川成30<br />東海道本線岡崎駅東口 名鉄バス天白町停留所降車 徒歩3分

    岡崎-西岡崎間



    初代岡崎駅跡地
    旧矢矧川橋梁取付築堤跡
    橋台は撤去済。
    該地は昭和16年(1941年)矢矧川川幅拡張工事着工に依り引堤するまで平地だった。
    該地は、明治21年(1888年)9月1日に該地に初代駅施設が設置されたが、即ち、当時は矢矧川水運活用を主としていたが、然るに、下り列車は該駅構内出発時に急勾配登攀構造となっていた事から、度々、登攀困難な状態が現出した。
    その後、明治27年(1894年)11月14日に不審火に依る火災で該駅構内施設が全焼被害が発生したが、将来を見据え、該駅復旧時に現位置に移転した。
    その後、初代駅施設用地跡は貨物取扱所を経て、岡多線(現 愛知環状鉄道)構内分岐交差地用地として活用された。

    岡崎市天白町宇川成30
    東海道本線岡崎駅東口 名鉄バス天白町停留所降車 徒歩3分

  • 岡崎-西岡崎間<br /><br /><br /><br />矢矧川(やはぎがわ)橋梁<br />該橋は、明治21年(1888年)9月1日開通時の橋梁である。<br />開通時は、英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、<br />英國パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製<br />錬鐡製 上路プレートガーダー橋桁 径間21.3m(70ft)×15連<br />が架橋された。<br />該架橋工事は、明治20年(1887年)7月に着工し、翌明治21年(1888年)6月に竣工した。<br />岡崎-安城間複線化工事は、明治40年(1907年)に着工し、新橋梁は既存橋梁下流側に架橋され、翌明治41年(1908年)7月28日に竣工した。<br />強度強化、及び、建築限界拡大を目的として、日本人鐵道院技師設計に依る、<br />米國アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE)社製<br />鋼鐡製 上路プレートガーダー橋桁 径間21.3m(70ft)×15連<br />が架橋され、同日以降は、既成線が上り線専用、新線が下り線専用になった。<br />然るに、初代架橋下り線橋梁は、次世代登場予定の大型蒸気機関車導入に鑑み、総重量に対し対応困難と判定された事から、鐵道院では構桁交換を決定し大正6年(1917年)に架替が実施された。<br />国産川崎造船所兵庫分工場製<br />鋼鐡製 上路プレートガーダー橋桁 径間21.3m(70ft)×15連<br />に架替られたが、橋台、及び、橋脚は再用された。<br />該橋梁旧錬鐡製橋桁は、名古屋鐵道局に於いて暫く保管されていたが、当時、本州下関対九州門司間に於ける輸送増大打破を目的として、門司鐵道局は、貨物専用の下関小森江間航路開設を決定し、大正11年(1922年)に第2可動橋橋梁として1連が転用され、該可動橋は関門隧道開通に伴い該航路廃止まで使用された。<br />該河川は、1級河川として度々洪水被害を発生させていた事から、内務省土木局は、治水事業として該河川改修工事に着手し、時節柄、大東亜戦争中だったが、需要事項として継続工事とされ、該治水工事の為に、該橋梁付近は川幅を約100m拡大する引堤設置が決定され、該決定に基き、上下線橋梁共、昭和19年(1944年)に22.3m×4連、及び、12.9m×1連が追加架橋された。<br />戦後になり、戦時中に於ける無理な森林伐採、及び、コンクリート建築に不可欠な川砂採取が原因で、該河川は河床低下が発生し、該橋梁橋脚下部が露呈する事態から該橋梁が不安定な状態となり、列車運行上、懸念される事態となった。<br />此の為に、昭和39年(1964年)1月に、日本国有鉄道は該橋梁架替を決定し、該架替工事に着手した。<br />新橋梁は、既設上り線橋梁の上流側17m地点に架橋され、翌昭和40年(1965年)5月に竣工し、上り線は同年6月18日、下り線は同年8月25日に新橋切替が実施された<br />新橋梁は、50m×1連、45m×8連、46m×4連、45.8m×2連、計15連で構成されている。<br /><br />岡崎市天白町宇川成30<br />東海道本線岡崎駅東口 名鉄バス天白町停留所降車 徒歩7分

    岡崎-西岡崎間



    矢矧川(やはぎがわ)橋梁
    該橋は、明治21年(1888年)9月1日開通時の橋梁である。
    開通時は、英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、
    英國パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製
    錬鐡製 上路プレートガーダー橋桁 径間21.3m(70ft)×15連
    が架橋された。
    該架橋工事は、明治20年(1887年)7月に着工し、翌明治21年(1888年)6月に竣工した。
    岡崎-安城間複線化工事は、明治40年(1907年)に着工し、新橋梁は既存橋梁下流側に架橋され、翌明治41年(1908年)7月28日に竣工した。
    強度強化、及び、建築限界拡大を目的として、日本人鐵道院技師設計に依る、
    米國アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE)社製
    鋼鐡製 上路プレートガーダー橋桁 径間21.3m(70ft)×15連
    が架橋され、同日以降は、既成線が上り線専用、新線が下り線専用になった。
    然るに、初代架橋下り線橋梁は、次世代登場予定の大型蒸気機関車導入に鑑み、総重量に対し対応困難と判定された事から、鐵道院では構桁交換を決定し大正6年(1917年)に架替が実施された。
    国産川崎造船所兵庫分工場製
    鋼鐡製 上路プレートガーダー橋桁 径間21.3m(70ft)×15連
    に架替られたが、橋台、及び、橋脚は再用された。
    該橋梁旧錬鐡製橋桁は、名古屋鐵道局に於いて暫く保管されていたが、当時、本州下関対九州門司間に於ける輸送増大打破を目的として、門司鐵道局は、貨物専用の下関小森江間航路開設を決定し、大正11年(1922年)に第2可動橋橋梁として1連が転用され、該可動橋は関門隧道開通に伴い該航路廃止まで使用された。
    該河川は、1級河川として度々洪水被害を発生させていた事から、内務省土木局は、治水事業として該河川改修工事に着手し、時節柄、大東亜戦争中だったが、需要事項として継続工事とされ、該治水工事の為に、該橋梁付近は川幅を約100m拡大する引堤設置が決定され、該決定に基き、上下線橋梁共、昭和19年(1944年)に22.3m×4連、及び、12.9m×1連が追加架橋された。
    戦後になり、戦時中に於ける無理な森林伐採、及び、コンクリート建築に不可欠な川砂採取が原因で、該河川は河床低下が発生し、該橋梁橋脚下部が露呈する事態から該橋梁が不安定な状態となり、列車運行上、懸念される事態となった。
    此の為に、昭和39年(1964年)1月に、日本国有鉄道は該橋梁架替を決定し、該架替工事に着手した。
    新橋梁は、既設上り線橋梁の上流側17m地点に架橋され、翌昭和40年(1965年)5月に竣工し、上り線は同年6月18日、下り線は同年8月25日に新橋切替が実施された
    新橋梁は、50m×1連、45m×8連、46m×4連、45.8m×2連、計15連で構成されている。

    岡崎市天白町宇川成30
    東海道本線岡崎駅東口 名鉄バス天白町停留所降車 徒歩7分

  • 岡崎-西岡崎間<br /><br /><br /><br />矢矧川橋梁<br />全景<br /><br />岡崎市天白町宇川成30<br />東海道本線岡崎駅東口 名鉄バス天白町停留所降車 徒歩7分<br />

    岡崎-西岡崎間



    矢矧川橋梁
    全景

    岡崎市天白町宇川成30
    東海道本線岡崎駅東口 名鉄バス天白町停留所降車 徒歩7分

  • 岡崎-西岡崎間<br /><br /><br /><br />旧矢矧川橋梁架橋跡<br />写真手前は引堤跡<br />該橋梁は架替後に旧橋梁は橋脚も根元も全面撤去され痕跡類は皆無。<br /><br />岡崎市天白町宇川成30<br />東海道本線岡崎駅東口 名鉄バス天白町停留所降車 徒歩7分

    岡崎-西岡崎間



    旧矢矧川橋梁架橋跡
    写真手前は引堤跡
    該橋梁は架替後に旧橋梁は橋脚も根元も全面撤去され痕跡類は皆無。

    岡崎市天白町宇川成30
    東海道本線岡崎駅東口 名鉄バス天白町停留所降車 徒歩7分

  • 岡崎-西岡崎間<br /><br /><br /><br />矢矧川橋梁<br />神戸方<br /><br />岡崎市渡町八本松無番地<br />東海道本線岡崎駅東口名鉄バス天白町停留所降車 徒歩25分

    岡崎-西岡崎間



    矢矧川橋梁
    神戸方

    岡崎市渡町八本松無番地
    東海道本線岡崎駅東口名鉄バス天白町停留所降車 徒歩25分

  • 岡崎-西岡崎間<br /><br /><br /><br />矢矧川避溢橋梁<br />全景<br /><br />岡崎市渡里町八本松<br />東海道本線西岡崎駅 徒歩30分

    岡崎-西岡崎間



    矢矧川避溢橋梁
    全景

    岡崎市渡里町八本松
    東海道本線西岡崎駅 徒歩30分

  • 岡崎-西岡崎間<br /><br /><br /><br />矢矧川避溢橋梁<br />橋桁は鋼鉄桁からPCコンクリート桁に更改。<br /><br />岡崎市渡里町八本松<br />東海道本線西岡崎駅 徒歩30分

    岡崎-西岡崎間



    矢矧川避溢橋梁
    橋桁は鋼鉄桁からPCコンクリート桁に更改。

    岡崎市渡里町八本松
    東海道本線西岡崎駅 徒歩30分

  • 西岡崎(にしおかざき)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和63年(1988年)3月13日開業である。

    西岡崎(にしおかざき)駅



    該駅は、昭和63年(1988年)3月13日開業である。

    西岡崎駅

  • 西岡崎駅<br /><br /><br /><br />南口<br />駅前広場

    西岡崎駅



    南口
    駅前広場

    西岡崎駅

  • 西岡崎駅<br /><br /><br /><br />北口<br />全景<br /><br />

    西岡崎駅



    北口
    全景

    西岡崎駅

  • 西岡崎駅<br /><br /><br /><br />北口<br />近接

    西岡崎駅



    北口
    近接

    西岡崎駅

  • 西岡崎-安城間<br /><br /><br /><br />市草川橋梁<br />旧市草神社境内跡

    西岡崎-安城間



    市草川橋梁
    旧市草神社境内跡

  • 西岡崎-安城間<br /><br /><br /><br />市草川(いちくさがわ)橋梁<br />該橋は、明治21年(1888年)9月1日開通時の橋梁である。<br />支間4.19m<br />因みに、該橋梁架橋当時の該河川名は市草川だったが、大東亜戦争終結後の耕地区画整理事業に依り、該河川改修工事が施工され、現在は渡用水に名称変更された。<br /><br />岡崎市渡町荒居20<br />東海道本線西岡崎駅 徒歩30分

    西岡崎-安城間



    市草川(いちくさがわ)橋梁
    該橋は、明治21年(1888年)9月1日開通時の橋梁である。
    支間4.19m
    因みに、該橋梁架橋当時の該河川名は市草川だったが、大東亜戦争終結後の耕地区画整理事業に依り、該河川改修工事が施工され、現在は渡用水に名称変更された。

    岡崎市渡町荒居20
    東海道本線西岡崎駅 徒歩30分

  • 西岡崎-安城間<br /><br /><br /><br />市草神社(いちくさ じんじゃ)跡碑<br /><br />岡崎市渡町荒居30<br />東海道本線西岡崎駅 徒歩30分

    西岡崎-安城間



    市草神社(いちくさ じんじゃ)跡碑

    岡崎市渡町荒居30
    東海道本線西岡崎駅 徒歩30分

  • 西岡崎-安城間<br /><br /><br /><br />市草神社跡碑<br />該社は該地に存在したが、鐵道建設の為に移転を余儀無くさせられた。<br /><br />岡崎市渡町荒居30<br />東海道本線西岡崎駅 徒歩30分

    西岡崎-安城間



    市草神社跡碑
    該社は該地に存在したが、鐵道建設の為に移転を余儀無くさせられた。

    岡崎市渡町荒居30
    東海道本線西岡崎駅 徒歩30分

  • 西岡崎-安城間<br /><br /><br /><br />鹿乗川(かのりかわ)橋梁<br /><br />岡崎市東牧内街日久未<br />東海道本線西岡崎駅 徒歩20分

    西岡崎-安城間



    鹿乗川(かのりかわ)橋梁

    岡崎市東牧内街日久未
    東海道本線西岡崎駅 徒歩20分

  • 西岡崎-安城間<br /><br /><br /><br />鹿乗川橋梁<br /><br />岡崎市東牧内街日久未<br />東海道本線西岡崎駅 徒歩20分

    西岡崎-安城間



    鹿乗川橋梁

    岡崎市東牧内街日久未
    東海道本線西岡崎駅 徒歩20分

  • 西岡崎-安城間<br /><br /><br /><br />下本線<br />該線右手に、嘗て名古屋鉄道安城支線線が存在した。<br />遠目橋梁は名古屋鉄道西尾線<br /><br />安城市明治本町13<br />東海道本線安城駅南口 徒歩4分

    西岡崎-安城間



    下本線
    該線右手に、嘗て名古屋鉄道安城支線線が存在した。
    遠目橋梁は名古屋鉄道西尾線

    安城市明治本町13
    東海道本線安城駅南口 徒歩4分

  • 西岡崎-安城間<br /><br /><br /><br />追田川(おいだがわ)橋梁<br />支間6.1m(20ft)<br />鋼鉄製プレートガーダー橋桁<br /><br />安城市明治本町13<br />東海道本線安城駅南口 徒歩3分

    西岡崎-安城間



    追田川(おいだがわ)橋梁
    支間6.1m(20ft)
    鋼鉄製プレートガーダー橋桁

    安城市明治本町13
    東海道本線安城駅南口 徒歩3分

  • 西岡崎-安城間<br /><br /><br /><br />追田川橋梁<br /><br />安城市明治本町13<br />東海道本線安城駅南口 徒歩3分

    西岡崎-安城間



    追田川橋梁

    安城市明治本町13
    東海道本線安城駅南口 徒歩3分

  • 西岡崎-安城間<br /><br /><br /><br />名古屋鉄道安城支線<br />追田川橋梁跡<br />該線は、昭和14年(1939年)12月21日に、当時の碧南(へきなん)電気鐵道に依り南安城-安城間1.1kmが開通したが、然し、開通当初は貨物専用線だった。<br />路盤は複線仕様で建設されたが、路線廃止に至るまで単線のまま据置かれた。<br />旅客扱を開始したのは大東亜戦争後で、貴賓車改造の単車が半ば該線専用に使用された。<br />然るに、輸送量僅少を理由に昭和36年(1961年)7月30日に路線廃止された。<br /><br />安城市明治本町13<br />東海道本線安城駅南口 徒歩3分

    西岡崎-安城間



    名古屋鉄道安城支線
    追田川橋梁跡
    該線は、昭和14年(1939年)12月21日に、当時の碧南(へきなん)電気鐵道に依り南安城-安城間1.1kmが開通したが、然し、開通当初は貨物専用線だった。
    路盤は複線仕様で建設されたが、路線廃止に至るまで単線のまま据置かれた。
    旅客扱を開始したのは大東亜戦争後で、貴賓車改造の単車が半ば該線専用に使用された。
    然るに、輸送量僅少を理由に昭和36年(1961年)7月30日に路線廃止された。

    安城市明治本町13
    東海道本線安城駅南口 徒歩3分

  • 安城駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />神戸方俯瞰<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/anjo/index.html

    安城駅



    駅構内
    神戸方俯瞰
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/anjo/index.html

    安城駅

  • 安城(あんじょう)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治24年(1891年)6月16日開業である。<br />明治21年(1888年)9月1日に、東海道線延長工事の一環として、大府-濱松間が延長された際に、刈谷、及び、岡崎両停車場が設置を見たものの、該駅間は15.7kmをも在り、早くも列車設定上に於いて困難が生じ、途中停車場設置要求が高まるのも亦自然の成り行きだった。<br />他方、地元名士で後に安城村長、町長を歴任した 岡田菊次郎(おかだ きくじろう)(慶應3年(1867年)~昭和37年(1962年))は、安城村停車場設置請願書を碧南郡役所に提出し、該請願書は愛知縣を経て内閣鐵道局に取次がれた。<br />内閣鐵道局としても、岡崎-刈谷間に途中停車場が存在する事は、列車増発や列車交換が可能になり好ましい事と考えられた為に、明治23年(1890年)11月に碧南郡安城村に停車場設置が内定したが、内閣鐵道局が提示した停車場設置要件として、停車場必要地の無償提供、及び、西尾街道に対する新停車場取付道路設置が義務条件に新停車場設置が決定した。<br />然し、当時に於ける我が国の国際情勢は、朝鮮半島に於ける権益に対し、日清間に於いて対立が深刻化し、国交緊迫状態から開戦必須を想定し、軍事輸送の為に列車本数増加を必要とする事から、政府軍部の思惑と一致したと言ふのが、けだし真相であろうと推定される。<br />因みに、該駅は、岡崎-刈谷間の、ほぼ中間点に設置されたが、該駅開業当初は、該駅北側に農家が数軒存在するだけの侘しい所だった。<br />年々客貨共に増加した事から明治36年(1903年)には駅本屋が拡張され、更に、明治41年(1908年)には旅客跨線橋が設置された。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/anjo/index.html

    安城(あんじょう)駅



    該駅は、明治24年(1891年)6月16日開業である。
    明治21年(1888年)9月1日に、東海道線延長工事の一環として、大府-濱松間が延長された際に、刈谷、及び、岡崎両停車場が設置を見たものの、該駅間は15.7kmをも在り、早くも列車設定上に於いて困難が生じ、途中停車場設置要求が高まるのも亦自然の成り行きだった。
    他方、地元名士で後に安城村長、町長を歴任した 岡田菊次郎(おかだ きくじろう)(慶應3年(1867年)~昭和37年(1962年))は、安城村停車場設置請願書を碧南郡役所に提出し、該請願書は愛知縣を経て内閣鐵道局に取次がれた。
    内閣鐵道局としても、岡崎-刈谷間に途中停車場が存在する事は、列車増発や列車交換が可能になり好ましい事と考えられた為に、明治23年(1890年)11月に碧南郡安城村に停車場設置が内定したが、内閣鐵道局が提示した停車場設置要件として、停車場必要地の無償提供、及び、西尾街道に対する新停車場取付道路設置が義務条件に新停車場設置が決定した。
    然し、当時に於ける我が国の国際情勢は、朝鮮半島に於ける権益に対し、日清間に於いて対立が深刻化し、国交緊迫状態から開戦必須を想定し、軍事輸送の為に列車本数増加を必要とする事から、政府軍部の思惑と一致したと言ふのが、けだし真相であろうと推定される。
    因みに、該駅は、岡崎-刈谷間の、ほぼ中間点に設置されたが、該駅開業当初は、該駅北側に農家が数軒存在するだけの侘しい所だった。
    年々客貨共に増加した事から明治36年(1903年)には駅本屋が拡張され、更に、明治41年(1908年)には旅客跨線橋が設置された。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/anjo/index.html

    安城駅

  • 安城駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/anjo/index.html

    安城駅



    駅本屋
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/anjo/index.html

    安城駅

  • 安城駅<br /><br /><br /><br />改札口<br />嘗ての急行列車停車駅とは思えない程、閑散としている。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/anjo/index.html

    安城駅



    改札口
    嘗ての急行列車停車駅とは思えない程、閑散としている。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/anjo/index.html

    安城駅

  • 安城駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/anjo/index.html

    安城駅



    第2番ホーム
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/anjo/index.html

    安城駅

  • 安城駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/anjo/index.html

    安城駅



    第2番ホーム
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/anjo/index.html

    安城駅

  • 安城駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />ホーム上屋<br />古軌条支柱。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/anjo/index.html

    安城駅



    第2番ホーム
    ホーム上屋
    古軌条支柱。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/anjo/index.html

    安城駅

  • 安城駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/anjo/index.html

    安城駅



    第2番ホーム
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/anjo/index.html

    安城駅

  • 安城駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />元来、該駅ホームは現第2番ホームしか存在しなかったが、民営化後、列車増発の為に上下待避線に個々ホームを増設。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/anjo/index.html

    安城駅



    第2番ホーム
    元来、該駅ホームは現第2番ホームしか存在しなかったが、民営化後、列車増発の為に上下待避線に個々ホームを増設。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/anjo/index.html

    安城駅

  • 安城駅<br /><br /><br /><br />第3番ホーム<br />本来は上り待避線だったが、旅客ホーム設置に依り旅客列車退避が可能になる。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/anjo/index.html

    安城駅



    第3番ホーム
    本来は上り待避線だったが、旅客ホーム設置に依り旅客列車退避が可能になる。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/anjo/index.html

    安城駅

  • 三河安城(みかわあんじょう)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和63年(1988年)3月13日開業である。<br />因みに、該線同時開業駅として、新富士、及び、逢妻両駅が設置された。<br />本来は、該駅設置箇所として該千、及び、東海道新幹線交差地点が望ましかったが、該地は既に住宅密集地で土地収用が困難と判断され、現地点に決定したが、それ故、両地点を連絡通路に依り接続させたが、此の為に180m弱をも離れた地に設置され、嘗ての地上時代の該線浜松駅をも凌ぐ距離を彷彿させた。http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/mikawa-anjo/<br />

    三河安城(みかわあんじょう)駅



    該駅は、昭和63年(1988年)3月13日開業である。
    因みに、該線同時開業駅として、新富士、及び、逢妻両駅が設置された。
    本来は、該駅設置箇所として該千、及び、東海道新幹線交差地点が望ましかったが、該地は既に住宅密集地で土地収用が困難と判断され、現地点に決定したが、それ故、両地点を連絡通路に依り接続させたが、此の為に180m弱をも離れた地に設置され、嘗ての地上時代の該線浜松駅をも凌ぐ距離を彷彿させた。http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/mikawa-anjo/

    三河安城駅

  • 三河安城駅<br /><br /><br /><br />在来線出改札口<br />普通列車のみ停車で閑散としている。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/mikawa-anjo/

    三河安城駅



    在来線出改札口
    普通列車のみ停車で閑散としている。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/mikawa-anjo/

    三河安城駅

  • 三河安城駅<br /><br /><br /><br />新幹線在来線連絡通路<br />在来線連絡の為に該駅開業時に設置。<br />約180mを徒歩で移動。<br />昭和39年(1964年)10月1日に東海道新幹線開業時に於ける浜松駅連絡跨線橋約150mを超越する距離。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/mikawa-anjo/

    三河安城駅



    新幹線在来線連絡通路
    在来線連絡の為に該駅開業時に設置。
    約180mを徒歩で移動。
    昭和39年(1964年)10月1日に東海道新幹線開業時に於ける浜松駅連絡跨線橋約150mを超越する距離。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/mikawa-anjo/

    三河安城駅

  • 三河安城-東刈谷間<br /><br /><br /><br />野田信号所跡<br />該信号所は、大正9年(1920年)11月15日設置である。<br />安城-刈谷間は、7.9km在り、明治41年(1908年)3月28日附で該区間は複線化されたが、同時に保安装置として双信閉塞式が導入された。<br />列車本数増発の為に該駅間閉塞を分割させる為に該信号所が開設された。<br />その後、昭和2年(1927年)2月25日附で岡崎-大府間に自動閉塞式が導入された事で該信号所は不要施設となり、翌26日附で廃止された。<br />

    三河安城-東刈谷間



    野田信号所跡
    該信号所は、大正9年(1920年)11月15日設置である。
    安城-刈谷間は、7.9km在り、明治41年(1908年)3月28日附で該区間は複線化されたが、同時に保安装置として双信閉塞式が導入された。
    列車本数増発の為に該駅間閉塞を分割させる為に該信号所が開設された。
    その後、昭和2年(1927年)2月25日附で岡崎-大府間に自動閉塞式が導入された事で該信号所は不要施設となり、翌26日附で廃止された。

  • 東刈谷(ひがしかりや)駅<br /><br /><br /><br />北口<br />該駅は、昭和41年(1966年)12月24日開業である。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/higashi-kariya/index.html

    東刈谷(ひがしかりや)駅



    北口
    該駅は、昭和41年(1966年)12月24日開業である。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/higashi-kariya/index.html

    東刈谷駅

  • 東刈谷駅<br /><br /><br /><br />南口<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/higashi-kariya/<br /><br />

    東刈谷駅



    南口
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/higashi-kariya/

    東刈谷駅

  • 東刈谷駅<br /><br /><br /><br />北口<br />駅前広場<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/higashi-kariya/

    東刈谷駅



    北口
    駅前広場
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/higashi-kariya/

    東刈谷駅

  • 東刈谷駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />近接<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/higashi-kariya/

    東刈谷駅



    駅本屋
    近接
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/higashi-kariya/

    東刈谷駅

  • 東刈谷駅<br /><br /><br /><br />出改札口<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/higashi-kariya/index.html

    東刈谷駅



    出改札口
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/higashi-kariya/index.html

    東刈谷駅

  • 野田新町(のだしんまち)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、平成19年(2007年)3月18日開業である。<br />該区間開通時に於ける中間停車場設置に鑑み、当時人口が一番多い野田村付近が最有力候補とされたが、現実には有力者が存在した現安城駅に決定し、その後も駅設置に関する請願が数回行われたが、該駅設置が実現したのは平成に入ってから。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/noda-shimmachi/index.html

    野田新町(のだしんまち)駅



    該駅は、平成19年(2007年)3月18日開業である。
    該区間開通時に於ける中間停車場設置に鑑み、当時人口が一番多い野田村付近が最有力候補とされたが、現実には有力者が存在した現安城駅に決定し、その後も駅設置に関する請願が数回行われたが、該駅設置が実現したのは平成に入ってから。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/noda-shimmachi/index.html

    野田新町駅

  • 野田新町駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />南口

    野田新町駅



    駅本屋
    南口

    野田新町駅

  • 野田新町駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />北口

    野田新町駅



    駅本屋
    北口

    野田新町駅

  • 野田新町駅<br /><br /><br /><br />出改札口<br />朝通勤通学時以外の時間帯は閑散としている。

    野田新町駅



    出改札口
    朝通勤通学時以外の時間帯は閑散としている。

    野田新町駅

  • 野田新町-刈谷間<br /><br /><br /><br />猿渡川(さわたりがわ)橋梁<br /><br />刈谷市東目45<br />東海道本線刈谷駅北口 徒歩25分

    野田新町-刈谷間



    猿渡川(さわたりがわ)橋梁

    刈谷市東目45
    東海道本線刈谷駅北口 徒歩25分

  • 野田新町-刈谷間<br /><br /><br /><br />猿渡川橋梁<br /><br />刈谷市東目45<br />東海道本線刈谷駅北口 徒歩25分

    野田新町-刈谷間



    猿渡川橋梁

    刈谷市東目45
    東海道本線刈谷駅北口 徒歩25分

  • 野田新町-刈谷間<br /><br /><br /><br />名古屋鉄道三河線(なごやてつどうみかわせん)乗越跨線橋<br />該橋梁左橋台下で宮城道雄が墜落状態で発見された。<br /><br />刈谷市神田町3?17<br />東海道本線刈谷駅南口 徒歩9分

    野田新町-刈谷間



    名古屋鉄道三河線(なごやてつどうみかわせん)乗越跨線橋
    該橋梁左橋台下で宮城道雄が墜落状態で発見された。

    刈谷市神田町3?17
    東海道本線刈谷駅南口 徒歩9分

  • 野田新町-刈谷間<br /><br /><br /><br />宮城道雄供養塔(みやぎみちお くようとう)<br />宮城道雄(みやぎ みちお)(明治27年(1894年)4月7日~昭和31年(1957年)6月25日)は、神戸市出身。<br />我が国屈指の筝奏者で、且つ、筝曲作曲者である。<br />例え、宮城の名を知らずとも、筝曲 春の海(はるのうみ)は、我々、日本人のみならず欧米亜人で我が国を識る者なら、誰しもが知り、正月時に必ず耳にする名曲である。<br />病気が原因で宮城は8歳までに全盲となり、辛酸を舐めた生活を送るが、持ち前の気力と性格の明るさで我が国筝業界頂点を極めた人物である。<br />宮城は、関西方面での演奏会の為に、昭和31年(1956年)6月25日未明、寝台急行 銀河号1等寝台車に乗車中、手洗に立つべく、該車デッキで足を滑らせ線路に転落し、更に、不幸が重なり、転落現場に名古屋鉄道三河線跨線橋が存在し、宮城の身体は該跨線橋に強く叩きつけられた為に、人事不祥となり、救急車で病院に搬送されたが、同日午後死去した。<br />該供養塔は、宮城の人徳を慕った人々の浄財を元に、刈谷市、宮城会、及び、日本盲人会3者が協同で、翌昭和32年(1957年)5月に建立されたものである。<br />http://www.kariya-guide.com/sightseeing/000013.html<br />http://www.miyagikai.gr.jp/music/index.html<br /><br />刈谷市神田町3?17<br />東海道本線刈谷駅南口 徒歩8分

    野田新町-刈谷間



    宮城道雄供養塔(みやぎみちお くようとう)
    宮城道雄(みやぎ みちお)(明治27年(1894年)4月7日~昭和31年(1957年)6月25日)は、神戸市出身。
    我が国屈指の筝奏者で、且つ、筝曲作曲者である。
    例え、宮城の名を知らずとも、筝曲 春の海(はるのうみ)は、我々、日本人のみならず欧米亜人で我が国を識る者なら、誰しもが知り、正月時に必ず耳にする名曲である。
    病気が原因で宮城は8歳までに全盲となり、辛酸を舐めた生活を送るが、持ち前の気力と性格の明るさで我が国筝業界頂点を極めた人物である。
    宮城は、関西方面での演奏会の為に、昭和31年(1956年)6月25日未明、寝台急行 銀河号1等寝台車に乗車中、手洗に立つべく、該車デッキで足を滑らせ線路に転落し、更に、不幸が重なり、転落現場に名古屋鉄道三河線跨線橋が存在し、宮城の身体は該跨線橋に強く叩きつけられた為に、人事不祥となり、救急車で病院に搬送されたが、同日午後死去した。
    該供養塔は、宮城の人徳を慕った人々の浄財を元に、刈谷市、宮城会、及び、日本盲人会3者が協同で、翌昭和32年(1957年)5月に建立されたものである。
    http://www.kariya-guide.com/sightseeing/000013.html
    http://www.miyagikai.gr.jp/music/index.html

    刈谷市神田町3?17
    東海道本線刈谷駅南口 徒歩8分

    宮城道雄供養塔 名所・史跡

    宮城道雄供養塔〔慰霊碑〕 by 横浜臨海公園さん
  • 刈谷(かりや)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治21年(1888年)9月1日開業である。<br />該駅設置に対し、当時は鉄道に対する認識も変化を見せ、停車場設置に対し、碧南郡内に於いて、猿渡川を挟み刈谷村対野田村に依る対岸同士が該駅誘致を競ったが、最終的に現在の刈谷村に軍配が上り現在地に停車場設置が決定した。<br />該駅開業当時は田畑続く農村地帯だったが、やがて貨物出荷取扱が激増し、該駅開業後数年を経ずして該駅構内施設が狭隘と化した事から、明治28年(1895年)11月に該駅構内拡張工事が施工された。<br />大正3年(1914年)2月5日には三河鐵道(現 名古屋鉄道三河線)が大浜港(現 碧南)から該駅まで開通させた事で、該社間と貨車授受関係が発生する。<br />該駅が本格的発展を遂げるのは大正12年(1923年)12月からである。<br />即ち、該年に該地に豊田紡織が工場設置を果たした事で、刈谷は農村から工業都市への変貌を見せはじめ、豊田関連企業のみならず、愛知製鋼等々が該地に工場進出をした。<br />開業以来の駅本屋は木造構造で老朽化が著しい事から改築が決定し、第2代駅本屋が昭和28年(1953年)3月に鉄骨コンクリート2階建築で改築された。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kariya/

    刈谷(かりや)駅



    該駅は、明治21年(1888年)9月1日開業である。
    該駅設置に対し、当時は鉄道に対する認識も変化を見せ、停車場設置に対し、碧南郡内に於いて、猿渡川を挟み刈谷村対野田村に依る対岸同士が該駅誘致を競ったが、最終的に現在の刈谷村に軍配が上り現在地に停車場設置が決定した。
    該駅開業当時は田畑続く農村地帯だったが、やがて貨物出荷取扱が激増し、該駅開業後数年を経ずして該駅構内施設が狭隘と化した事から、明治28年(1895年)11月に該駅構内拡張工事が施工された。
    大正3年(1914年)2月5日には三河鐵道(現 名古屋鉄道三河線)が大浜港(現 碧南)から該駅まで開通させた事で、該社間と貨車授受関係が発生する。
    該駅が本格的発展を遂げるのは大正12年(1923年)12月からである。
    即ち、該年に該地に豊田紡織が工場設置を果たした事で、刈谷は農村から工業都市への変貌を見せはじめ、豊田関連企業のみならず、愛知製鋼等々が該地に工場進出をした。
    開業以来の駅本屋は木造構造で老朽化が著しい事から改築が決定し、第2代駅本屋が昭和28年(1953年)3月に鉄骨コンクリート2階建築で改築された。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kariya/

    刈谷駅

  • 刈谷駅<br /><br /><br /><br />旧第1番ホーム跡<br />駅本屋橋上化時に廃止。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kariya/

    刈谷駅



    旧第1番ホーム跡
    駅本屋橋上化時に廃止。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kariya/

    刈谷駅

  • 刈谷駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />第2番ホーム<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kariya/

    刈谷駅



    駅構内
    第2番ホーム
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kariya/

    刈谷駅

  • 刈谷駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kariya/

    刈谷駅



    第2番ホーム
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kariya/

    刈谷駅

  • 刈谷駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム側壁<br />開業当時の煉瓦積構造に対し、昭和28年(1953年)7月21日に電化時に、将来に於ける電車運転を想定し、該ホーム打上を実施。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kariya/

    刈谷駅



    第2番ホーム側壁
    開業当時の煉瓦積構造に対し、昭和28年(1953年)7月21日に電化時に、将来に於ける電車運転を想定し、該ホーム打上を実施。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kariya/

    刈谷駅

  • 刈谷駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />側壁<br />煉瓦積が開業当時、車輌構造の変化で側壁が打上げられた。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kariya/

    刈谷駅



    第2番ホーム
    側壁
    煉瓦積が開業当時、車輌構造の変化で側壁が打上げられた。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kariya/

    刈谷駅

  • 刈谷駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム間<br />業務用構内踏切跡<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kariya/

    刈谷駅



    旅客ホーム間
    業務用構内踏切跡
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kariya/

    刈谷駅

  • 刈谷駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />該構内空地は、昔貨物取扱で三河鐵道時代より貨車授受地跡<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kariya/

    刈谷駅



    駅構内
    該構内空地は、昔貨物取扱で三河鐵道時代より貨車授受地跡
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kariya/

    刈谷駅

  • 刈谷駅<br /><br /><br /><br />東海道本線名古屋鉄道三河線貨車授受取扱所跡。<br />日本国有鉄道に於ける貨物輸送は、創業時より貨車組成主義を用いていたが、昭和59年(1984年)2月1日時刻改正より、一部列車を除き、拠点移送主義へと変化した。<br />此の為に、貨車1車輌貸切扱を以って貨物輸送を主とする私鉄各社は、貨物取扱業務継続廃止選択を否応無く選択させられた事から、該貨車取扱体系変更に依り、昭和58年(1983年)12月31日附で、該駅に於ける連絡貨車授受取扱業務は、該社他取扱駅と共に全面廃止され、両社間に多数存在した側線は全部撤去された。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kariya/

    刈谷駅



    東海道本線名古屋鉄道三河線貨車授受取扱所跡。
    日本国有鉄道に於ける貨物輸送は、創業時より貨車組成主義を用いていたが、昭和59年(1984年)2月1日時刻改正より、一部列車を除き、拠点移送主義へと変化した。
    此の為に、貨車1車輌貸切扱を以って貨物輸送を主とする私鉄各社は、貨物取扱業務継続廃止選択を否応無く選択させられた事から、該貨車取扱体系変更に依り、昭和58年(1983年)12月31日附で、該駅に於ける連絡貨車授受取扱業務は、該社他取扱駅と共に全面廃止され、両社間に多数存在した側線は全部撤去された。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kariya/

    刈谷駅

  • 刈谷駅<br /><br /><br /><br />側線跡<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kariya/

    刈谷駅



    側線跡
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kariya/

    刈谷駅

  • 刈谷駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />東京方俯瞰<br /><br /><br />

    刈谷駅



    駅構内
    東京方俯瞰


  • 刈谷-逢妻間<br /><br /><br /><br />貨物専用線跡<br />写真左手空地が線路跡。

    刈谷-逢妻間



    貨物専用線跡
    写真左手空地が線路跡。

  • 逢妻(あいづま)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />該駅は、昭和63年(1988年)3月13日開業である。<br />該駅名は、該駅至近に存在する逢妻川から命名されたが、該河川は、平安期の貴族 在原業平(ありはらの なりひら)(天長2年(852年)~天慶4年(880年)7月9日)が、杜若姫との邂逅があったと伝承される。<br />然るに、当時の平安貴族が故無くして交通不便な全国各地に出没理由も無く、東京都墨田区在の業平橋同様、該説は眉唾物であると言ふのが、けだし真相であろうと推定される。<br />因みに、水戸黄門漫遊記で知られる常陸徳川家第2代藩主 徳川光圀(とくがわ みつくに)公(寛永5年(1628年)7月11日~元禄13年(1701年)1月14日)も全国各地を漫遊したかの如き印象を有するが、実際には、箱根を湯治で訪れたのは事実だが、箱根の関所を越え以西に足を向けた事実は全く無く、要は完全なるフィクションであり、該地に於ける業平伝説も、同様のものと推定される。

    逢妻(あいづま)駅



    駅本屋
    該駅は、昭和63年(1988年)3月13日開業である。
    該駅名は、該駅至近に存在する逢妻川から命名されたが、該河川は、平安期の貴族 在原業平(ありはらの なりひら)(天長2年(852年)~天慶4年(880年)7月9日)が、杜若姫との邂逅があったと伝承される。
    然るに、当時の平安貴族が故無くして交通不便な全国各地に出没理由も無く、東京都墨田区在の業平橋同様、該説は眉唾物であると言ふのが、けだし真相であろうと推定される。
    因みに、水戸黄門漫遊記で知られる常陸徳川家第2代藩主 徳川光圀(とくがわ みつくに)公(寛永5年(1628年)7月11日~元禄13年(1701年)1月14日)も全国各地を漫遊したかの如き印象を有するが、実際には、箱根を湯治で訪れたのは事実だが、箱根の関所を越え以西に足を向けた事実は全く無く、要は完全なるフィクションであり、該地に於ける業平伝説も、同様のものと推定される。

    逢妻駅

  • 逢妻駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />近接

    逢妻駅



    駅本屋
    近接

    逢妻駅

  • 逢妻-大府間<br /><br /><br /><br />旧境川橋梁取付築堤跡<br />土盛は撤去済。<br /><br />刈谷市三田町1-180<br />東海道本線逢妻駅 徒歩25分

    逢妻-大府間



    旧境川橋梁取付築堤跡
    土盛は撤去済。

    刈谷市三田町1-180
    東海道本線逢妻駅 徒歩25分

  • 逢妻-大府間<br /><br /><br /><br />境川(さかいがわ)橋梁<br />該橋は、明治21年(1888年)9月1日開通の橋梁である。<br />初代橋梁は、C.A.W.ポーナル(C.A.W.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、<br />錬鐡製プレート・ガーダー橋桁21.3m(70ft)×3蓮<br />が架橋された。<br />該橋は、昭和7年(1932年)に架替が実施され、舟底形プレートガーダー橋桁と称する、全国的にも、関西本線三郷-河内堅上間第4大和川橋梁使用例程度しか存在しない様式である。<br />その後、該河川改修に伴い、該橋梁は架替を要する事から、平成18年(2006年)12月にハープ橋梁状のPCコンクリート橋梁に架替られ、旧橋梁橋台橋脚は廃止撤去された。<br /><br />刈谷市三田町1‐180<br />東海道本線逢妻駅 徒歩20分

    逢妻-大府間



    境川(さかいがわ)橋梁
    該橋は、明治21年(1888年)9月1日開通の橋梁である。
    初代橋梁は、C.A.W.ポーナル(C.A.W.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、
    錬鐡製プレート・ガーダー橋桁21.3m(70ft)×3蓮
    が架橋された。
    該橋は、昭和7年(1932年)に架替が実施され、舟底形プレートガーダー橋桁と称する、全国的にも、関西本線三郷-河内堅上間第4大和川橋梁使用例程度しか存在しない様式である。
    その後、該河川改修に伴い、該橋梁は架替を要する事から、平成18年(2006年)12月にハープ橋梁状のPCコンクリート橋梁に架替られ、旧橋梁橋台橋脚は廃止撤去された。

    刈谷市三田町1‐180
    東海道本線逢妻駅 徒歩20分

  • 逢妻-大府間<br /><br /><br /><br />境川橋梁<br />全景<br />該橋梁部付近のみ河川改修済。<br />鉄道橋梁部分を除き河川改修工事完了例は多いが逆例は稀な存在。<br />左手 境川中央部が旧三河國尾張國境界線。<br /><br />刈谷市逢妻町3-4<br />東海道本線逢妻駅 徒歩25分

    逢妻-大府間



    境川橋梁
    全景
    該橋梁部付近のみ河川改修済。
    鉄道橋梁部分を除き河川改修工事完了例は多いが逆例は稀な存在。
    左手 境川中央部が旧三河國尾張國境界線。

    刈谷市逢妻町3-4
    東海道本線逢妻駅 徒歩25分

  • 逢妻-大府間<br /><br /><br /><br />境川橋梁<br />全景<br /><br />刈谷市逢妻町3-4<br />東海道本線逢妻駅 徒歩25分

    逢妻-大府間



    境川橋梁
    全景

    刈谷市逢妻町3-4
    東海道本線逢妻駅 徒歩25分

  • 逢妻-大府間<br /><br /><br /><br />境川橋梁<br />逢妻川上流部側<br />河川改修は該橋梁部のみ、他は未改修。<br /><br />刈谷市逢妻町3‐4<br />東海道本線逢妻駅 徒歩25分

    逢妻-大府間



    境川橋梁
    逢妻川上流部側
    河川改修は該橋梁部のみ、他は未改修。

    刈谷市逢妻町3‐4
    東海道本線逢妻駅 徒歩25分

  • 逢妻-大府間<br /><br /><br /><br />旧境川橋梁取付築堤跡<br />盛土が削取され築堤跡が現存。<br /><br />大府市森岡霞野無番地<br />東海道本線大府駅 徒歩35分

    逢妻-大府間



    旧境川橋梁取付築堤跡
    盛土が削取され築堤跡が現存。

    大府市森岡霞野無番地
    東海道本線大府駅 徒歩35分

  • 逢妻-大府間<br /><br /><br /><br />旧境川橋梁取付築堤跡<br />写真中央部フェンス付近が、昭和25年(1950年)8月1日附で変更されるまで、旧名古屋鉄道局静岡管理部対名古屋管理部境界点所在地。<br /><br />大府市盛岡霞野無番地<br />東海道本線大府駅 徒歩35分

    逢妻-大府間



    旧境川橋梁取付築堤跡
    写真中央部フェンス付近が、昭和25年(1950年)8月1日附で変更されるまで、旧名古屋鉄道局静岡管理部対名古屋管理部境界点所在地。

    大府市盛岡霞野無番地
    東海道本線大府駅 徒歩35分

  • 大府(おおぶ)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治20年(1887年)9月10日開業である。<br />武豊-熱田Ⅰ間は32.7kmは、明治18年(1885年)7月に鉄道建設資材一式を武豊港に陸揚し、同年8月に該建設工事に着手し、該区間は、明治19年(1886年)3月1日に開通したが、該区間建設は中仙道線建設の為に設置されたもので、開通当時は初代緒川-大高間に途中停車場は設置されなかった。<br />然るに、東京-京阪神間鉄道設置を急ぐ政府は、当初計画たる中仙道鉄道線建設で、碓氷峠をはじめとする急勾配存在で該設置が困難たる事を知らされる。<br />特に、日清間に於ける緊急勃発時に鉄道存在の有無を懸念する政府は、急遽、東海道経由での鉄道建設に変更し、該区間内分岐点として該駅が開設された。<br />即ち、地図上に於いて武豊-大府-岐阜間が、ほぼ一直線状なのが建設経緯を物語ものである。<br />本来、停車場が存在しない地に分岐線建設の為に新規に駅設置がされた所では、明治期では大船、赤羽、大宮、昭和期では新所原、等々、が存在する。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/noda-shimmachi/index.html

    大府(おおぶ)駅



    該駅は、明治20年(1887年)9月10日開業である。
    武豊-熱田Ⅰ間は32.7kmは、明治18年(1885年)7月に鉄道建設資材一式を武豊港に陸揚し、同年8月に該建設工事に着手し、該区間は、明治19年(1886年)3月1日に開通したが、該区間建設は中仙道線建設の為に設置されたもので、開通当時は初代緒川-大高間に途中停車場は設置されなかった。
    然るに、東京-京阪神間鉄道設置を急ぐ政府は、当初計画たる中仙道鉄道線建設で、碓氷峠をはじめとする急勾配存在で該設置が困難たる事を知らされる。
    特に、日清間に於ける緊急勃発時に鉄道存在の有無を懸念する政府は、急遽、東海道経由での鉄道建設に変更し、該区間内分岐点として該駅が開設された。
    即ち、地図上に於いて武豊-大府-岐阜間が、ほぼ一直線状なのが建設経緯を物語ものである。
    本来、停車場が存在しない地に分岐線建設の為に新規に駅設置がされた所では、明治期では大船、赤羽、大宮、昭和期では新所原、等々、が存在する。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/noda-shimmachi/index.html

    大府駅

  • 大府駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />近接<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/noda-shimmachi/index.html

    大府駅



    駅本屋
    近接
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/noda-shimmachi/index.html

    大府駅

  • 大府駅<br /><br /><br /><br />出改札口<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/noda-shimmachi/index.html

    大府駅



    出改札口
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/noda-shimmachi/index.html

    大府駅

  • 大府駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/noda-shimmachi/index.html

    大府駅



    第2番ホーム
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/noda-shimmachi/index.html

    大府駅

  • 大府駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/noda-shimmachi/index.html

    大府駅



    第2番ホーム
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/noda-shimmachi/index.html

    大府駅

  • 大府駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />貨物取扱が残存する為に該駅構内は広い。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/noda-shimmachi/index.html

    大府駅



    駅構内
    貨物取扱が残存する為に該駅構内は広い。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/noda-shimmachi/index.html

    大府駅

  • 大府駅<br /><br /><br /><br />旧貨物取扱跡地<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/noda-shimmachi/index.html

    大府駅



    旧貨物取扱跡地
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/noda-shimmachi/index.html

    大府駅

  • 大府駅<br /><br /><br />駅構内<br />衣浦臨海鉄道<br />KE65型ディーゼル機関車<br />武豊線東成岩・東浦-大府間を該社機関車が貨物列車ごと乗入する為に該駅に姿を見せる。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/noda-shimmachi/index.html

    大府駅


    駅構内
    衣浦臨海鉄道
    KE65型ディーゼル機関車
    武豊線東成岩・東浦-大府間を該社機関車が貨物列車ごと乗入する為に該駅に姿を見せる。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/noda-shimmachi/index.html

    大府駅

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この旅行記へのコメント (3)

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  • makiさん 2018/12/30 19:38:00
    お礼
    今晩わ!
    今年も残り少なく、寒くなりましたが、
    お元気ですか?
    来年も良き年を迎え、感動的な旅が出きると良いですね!
    旅行記待ってます!

    又、今年は写真も無く下手な文章で退屈な
    旅行記に訪問し「いいね!」を頂き有難う御座います!
    お陰様でモスクワの旅とサンクトペテルブルックの旅・デンハーグ記が
    写真が無くポイントは付きませんが1位にランキングされ感謝してます!

    良いお正月を迎えられますようお祈りしてます!
    Maki
  • S...t...e...Pha...n...i...Eさん 2017/01/28 13:07:56
    駅には歴史が沢山♪
    横浜臨海公園さん、こんにちは!

    ようやくゆっくり読ませていただきました〜
    今回も大作で、綿密に調べ上げられたうえでの内容なんだろうなぁと思うと本当に尊敬します。
    また、その区間を歩いて実際に確かめてらっしゃるからすごい!
    これぞ百聞は一見に如かずですね。

    東海道は新幹線でビュンと通りずぎてしまうことが多いので、とっても興味深かったです。
    去年の9月に通ったとはいえ、下車していないのですが、橋の多い区間やったんですね。
    ただただ乗っていたときは気が付かなかった。。。

    一つ一つ、駅には建設されるまでの歴史が必ずありますよね。
    そこには政府の思惑や軍事的なこと、地元との兼ね合いなど、結局今と変わらないいろんな情勢と利害関係の中で造られ、そして廃止されていくんですね。
    この岡崎〜大府間も日清戦争前、明治期の日本でどれほど鉄道が重要視されていたかがよくわかる区間なんですね。
    読んでいて、へ〜〜〜〜〜!!!って思うことばっかりです
    無知ですみません(^-^;

    普段は通り過ぎてしまう駅もそういうことを知ってるとまた違う観点からも楽しめそうです。
    駅に降りてもただその雰囲気だけ感じて楽しんでる私と違ってw
    本当に詳しくて、とても勉強になります♪ありがとうございます^^
    東海道、乗り鉄する際は大いに参考にさせていただこうと思います♪

    このシリーズ、完成したら本にできるんじゃないでしょうか?!
    次の旅行記も楽しみにしています(^^)/

    ステファニー

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2017/01/28 16:34:02
    拝復
    ステファニーさま、こんにちは。


    拙稿旅行記への投票と掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    > 今回も大作で、綿密に調べ上げられたうえでの内容なんだろうなぁと思うと本当に尊敬します。
    > また、その区間を歩いて実際に確かめてらっしゃるからすごい!
    > これぞ百聞は一見に如かずですね。
    →実は、該区間の旅行記作成は、東海道本線全区間で一番楽な所でしたが、それでも完成まで1年半かかってしまいました。

    > 去年の9月に通ったとはいえ、下車していないのですが、橋の多い区間やったんですね。
    > ただただ乗っていたときは気が付かなかった。。。
    →特に、ムーンライトながらに乗車してしまうと夏期運転の下り列車以外、闇亦闇の世界で車窓からは電照菊栽培の灯りしか見えませんね。

    兎に角、立入禁止たる線路に入らず写真を撮るのは至難の業です。
    特に、逢妻-大府間の旧静岡名古屋管理部境界点は、現地にアクセスする手段が無く、道路橋上からの撮影に止まってしまいました。

    さて、次に、大府-名古屋-尾張一宮間の大作が控えております。
    兎に角、愛知県、名古屋市、国立国会図書館、旧鉄道省の資料記載事項がバラバラで、10に対し8が○、2が×とすると8の○を信頼してしまいそうですが、実は歴史研究の落とし穴で、2×が正当なんてザラに在り、次作の旅行記も、該落とし穴に、ひっかかりそうになりかけました。

    > このシリーズ、完成したら本にできるんじゃないでしょうか?!
    →実は、ステファニーさまもご存知の出版社を含め数社から出版打診が来ております。
    然し、完成までアト何年かかるのか、小生にも判りかねる状態です。



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