草津(滋賀)旅行記(ブログ) 一覧に戻る
該区間は、明治22年(1889年)7月1日開業である。<br />該区間は全線平坦だったが、当時の施工困難工事として、草津川 狼川両天井川河底隧道掘削、及び、瀬田川橋梁架橋施工が存在した。<br /><br /><br />桂川下流域たる淀川は、明治期に河川改修工事が着工されるまで、大阪平野、殊に、大阪市内では、該河川が分合流を反復させる複雑な地形を形成していた。<br />明治18年(1885年)6月17日より翌7月2日の連日に亘り、滋賀縣内各地は連続記録的豪雨の為に淀川沿岸各地が決壊し、浸水水没997町村に及ぶ大洪水被害が発生した。<br /><br />内務省土木局直轄施工に依る淀川河川改修工事が決定し、琵琶湖水位調整計画が立案され、雇オランダ人土木技師 ヨハニス・デ・レーケ(Johannis de RHKE)(1848年(弘化5年)12月5日~1913年(大正2年)1月20日)指導の下に実施される事になった。<br /><br />此の為に、淀川上流域で琵琶湖取水口に相当する瀬田川では、洗壇設置工事が施工竣工した時点で東海鐵道敷設計画が浮上する。<br />該河川河口付近に鉄道用橋梁設置が計画された事を知った地元住民達が異議を唱えるのは寧ろ当然と言えば当然だった。<br />瀬田川橋梁付近住民は、明治23年(1890年)5月の降雨に依る該河川田圃が一溢原因に対し、全面水没は該橋梁架橋に原因在りとして6月10日附で第4代滋賀縣知事 岩崎小二郎(いわさき こじろう)(弘化3年(1846年)~明治28年(1895年)6月22日)(明治23年(1890年)5月21日~明治24年(1891年)4月9日在任)を経由し 鐵道局長官 井上 勝(いのうえ まさる)(天保14年(1843年)8月25日~明治43年(1910年)8月2日)(明治18年(1885年)12月28日~明治23年(1890年)9月6日在任)に対し是正陳情を行った。<br />鐵道局は該陳情を検討した結果、内務省土木局と協議し、該橋梁架橋をした経緯を有した事から、7月に井上鐵道局長官は該地に於ける溢水は該橋梁架橋が原因では無きと回答したが、別途12月に該河川内堆積土砂約8000坪の泥土撤去を特別許可し該問題は解決を見た。<br /><br /><br />鐵道唱歌<br />第39番<br />いよいよ近くに馴れくるは<br />(いよいよ ちかく なれくるは)<br />近江の海の波のいろ<br />(おうみの うみの なみのいろ)<br />その八景も居ながらに<br />(その はっけいも いあんがらに)<br />見てゆく旅の樂しさよ♪<br />(見てゆく たびの たのしさよ)<br /><br />第40番<br />瀬田の長橋右に見て<br />(せたの ながはし みぎにみて)<br />ゆけば石山観世音<br />(ゆけば いしやまかんぜおん)<br />紫式部が筆のあと<br />(むらさきしきぶが ふでのあと)<br />のこすはここよ月の夜に♪<br />(のこすは ここよ つきのよに)<br />瀬田の唐橋は進行方向右ではなく左手に存在する。<br />此の為に、第1次改訂版で歌詞が右が横に変更された。<br /><br />第41番<br />粟津の松にこととへば<br />(あはづのまつに こととへば)<br />答へがほなる風の聲<br />(こたえが ほなる かぜのこへ)<br />朝日将軍義仲の<br />(あさひしょうぐん よしなかの)<br />ほろびし深田は何かたぞ♪<br />(ほろびし ふかたは いづかたぞ)<br /><br />第42番<br />比良の高嶺は雪ならで<br />(ひらの たかねは ゆきならで)<br />花なす雲にかくれたり<br />(はななす くもに かくれたり)<br />矢走にいそぐ舟の帆も<br />(やばせに いそぐ ふねのほも)<br />みえてにぎはふ波の上♪<br />(みえて にぎはふ なみのうえ)<br /><br />第43番<br />堅田におつる雁がねの<br />(かたたに おつる かりがねの)<br />たえまに響く三井の鐘<br />(たえまに ひびく みゐのかね)<br />夕暮れさむき唐崎の<br />(ゆふぐれ さむき からさきの)<br />松にや雨のかかるらん♪<br />(まつにや あめの かかるらん)<br />土地柄、琵琶湖に関る歌詞が4曲続く。<br /><br /><br />該区間複線化は、明治33年(1900年)6月7日である。<br />新設線路は既設線路に対し山側に設置され、同日より新設線路は上り線、既設線路は下り線専用となった。<br /><br /><br />双信閉塞式では停車場間に1列車しか運転できず、列車本数増設の為に該閉塞2分割の為に、明治36年(1903年)4月1日附で草津-大津Ⅱ(現 膳所)間に 石山(いしやま)驛が開設された。<br /><br /><br />大正4年(1915年)6月23日まで、東京-馬場(現 膳所)間は当時の東京新橋に本局が存在した中部鐵道管理局管理だったが、官制改正に拠り同日附を以って中部鐡道管理局から名古屋鐵道管理局が分離独立し名古屋管理管轄に変更された。<br /><br /><br />該区間は、昭和2年(1927年)3月3日附で従来の双信閉塞式から3腕式自動閉塞式に変更された。<br /><br /><br />昭和5年(1930年)4月25日7時1分頃、石山驛構内に於いて重大事故が発生した。<br />即ち、東京発下関行23等普通急行第5列車C53型蒸気機関車C5330(梅小路機関庫配置)牽引14両編成は、当日早朝大高驛付近踏切に於いて、該列車に先行して運転されていた貨物列車が貨物用自動車と接触事故を発生させ、此の為に該列車は米驛駅22分遅延状態で運転していたが草津驛では17分遅延に回復していた。<br />然るに、該列車は本来は石山驛通過だが、遅延状態だった事から下り柘植発京都行 普通第411列車が先行運転し該駅1番線に入線停車中だった為に、該駅では第411列車に待機させ、中線たる2番線を使用して第5列車を通過させるべく場内信号機を注意現示させたが、該列車は減速する事無く高速で通過した為に2番線への転轍機上に於いて該機関車が脱線し、124m進行後、該機関車は上り線側に転覆、続く客車2両も脱線転覆した。<br />該事故に依り、旅客15名以上 職員5名重軽傷。<br />開通 上り線 9時40分<br />   下り線16時42分<br />事故原因は、東京方自動閉塞信号機が進行現示を、該列車機関手は本線通過と誤認し該駅構内を相当速度で進行した事で転轍機上に安全速度超過の為に脱線したものと断定。<br /><br /><br />室戸(むろと)台風は、死者行方不明者計3036名を発生させ、昭和期に於いて、昭和20年(1945年)9月17日襲来の 枕崎(まくらざき)台風(死者行方不明者計3756名)、及び、昭和34年(1959年)9月26日襲来の 伊勢湾(いせわん)台風(死者行方不明者計5096名)と共に、昭和3大台風と称される。<br /><br />該台風は、昭和9年(1934年)9月21日5時頃に高知県室戸岬付近に上陸したが、上陸地点至近の室戸測候所に於いて5時10分に最大風速60m 最大912hPaを記録した。<br />同時刻、大阪市内では台風通過直前の状態だったが、前日来の大雨も止み強風も低下した事から、通勤通学の為に普段と変わらず自宅を出発した者が多かった。<br />因みに、当時はテレビ放送は未だ無く、ラジオ受信機も一般庶民への普及率も依然として低い状態であり、国民一般にラジオ受信機が普及するのは大東亜戦争末期に我が国本土が空襲の現実危機に曝され、空襲警報発令時の周知徹底を理由に廉価ラジオ受信機が普及する昭和18年(1943年)末期以降である。<br />急進ぶりを発揮した該台風は、7時30分頃、通勤通学者が目的地到着直後に大阪市内を通過し8時2分に大阪測候所に於いて瞬間最大風速62mを観測し、該猛烈な強風の為に当時の木造建築物が次々と倒壊し大阪府下では児童生徒教職員計694名が圧死する惨事となった。<br /><br />東京発下関行123等普通急行第7列車C53型蒸気機関車C5373(梅小路機関庫配置)牽引11両編成は、自動閉塞信号用回線断線の為に通信閉塞式に変更し草津驛を6分遅延で通過したが、暴風雨が強烈となってきた事から、該列車機関手は時速10kmに低下させ運転し、8時35分頃に東京起点旧508Km300m地点たる瀬田川橋梁通過中に軽い衝撃を受け非常制動動作の為に、該列車機関手は後方反顧した処、該機関車、及び、続く2両の荷物車 郵便車を除き残り9両が上り線側橋梁上に脱線転覆を現認した。<br /><br />該列車の当日の編成は、<br />C5373蒸気機関車 + 郵便車 + 荷物車 +スハ32674(スハ32 75) + スハ32669(スハ32 70) + スハフ34220(スハフ32 21) + スシ37752(スシ37 51) + スロ30750(スロ34 1) + マロネ37373(マロネ37 67) + マロネ37313(マロネ37 14) + マロネ37372(マロネ37 66) + マイネフ37200<br />である。<br />該事故に依り、旅客11名(内重傷後5名)死亡 旅客216以上名職員7名食堂車従業員7名重軽傷が発生したが、若し当該事故発生地点が単線ならば、該脱線客車群は該河川内に落下し更に水死者多数が発生したものと思われる。<br /><br />事故原因は、該河川上流側より琵琶湖方面に向い、列車進行78度角度に依る台風を原因とする強風と風圧に脱線転覆したものと断定された。<br />該転覆事故発生時に、府立京都測候所に於いて、8時15~45分の30分間の平均風速は30.5mで、特に8時28分に最大瞬間風速42.1mを観測していた。<br /><br />復旧は、脱線車輌を上り線に移動させ破損した線路補修を施工し24日16時15分に該車輌群移転作業が完了し、直ちに線路補修を実施し20時に下り線が開通し、草津-石山間は下り線使用の単線運転を実施し、上り線開通は30日3時45分である。<br /><br />因みに、該列車編成中、2等寝台車マロネ37372 マロネ37373、及び、1等寝台車マイネフ37200の3両は東京大井工場に回送され、車体損傷が著しい事から、昭和10年(1935年)5月29日附で廃車決済が成立したが解体されず、2等寝台車2両は、昭和11年(1936年)3月13日附で復旧旧番号車籍復活し、1等寝台車1両は、昭和12年(1937年)3月31日附で、老朽化した検測用車輌オヤ6650の搭載機器を転用しマヤ39900に復旧改造された。<br />該車輌はマヤ37に改番され、昭和17年(1942年)6月11日附で関門隧道下関Ⅱ-大里(現 門司Ⅱ)間初試運転時にEF10型3次車の次車に連結使用、更に昭和40年代にEF65型1000番台 EF66型 EF81型等々の当時の最新電気機関車新製試運転時に当該機関車の次車に連結され各種検査に使用され最終的にマヤ38Ⅱに改番されたが、当時の写真に新型機関車の後に連結され場違いとも言える濃紺厚塗装の古色蒼然としたボロボロガタガタの3軸式ボギー客車こそ、該車輌の成れの果ての姿で、新型検測車両完成に伴い昭和50年(1975年)4月30日附で廃車解体されるまで使用された。<br /><br />当日、該台風に依る東海道線内列車被害は、<br />野洲‐守山間   下り貨物第2813列車<br />     牽引機関車、及び、貨車1~16車無事 17 18車脱線 19~29車脱線転覆 30~40車無事 41~45車脱線<br />高槻-摂津富田間東京旧起点549Km300m地点に於いて、下り柘植発姫路行普通第1307列車 C51型蒸気機関車牽引C51277(梅小路機関庫配置)蒸気機関車牽引6両編成は、京都驛出発時より向日町驛まで定時運転だったが、神足(現 長岡京)驛場内信号機が台風の為に停電消燈状態だった事から、該列車牽引蒸気機関車機関手は隔時法運転規定に従い一時停止一定時間経過後、徐行状態で山崎驛を通過し、高槻驛出発後に芥川橋梁通過時に更に微速運転とし摂津富田驛構内に差し掛かった処、暴風雨は一段と激化し強風の為に電信用通信線が次々と切断し、該列車牽引蒸気機関車に該断線が絡み付く事態となり、該列車牽引蒸気機関車機関手は危険を察し非常制動を作動し急停止させんとする直前に先に非常制動が動作し、当該機関手は該列車後方確認した処、該列車客車6両内3両が右側に脱線転覆状態たるを確認した。<br />該事故に依り、旅客11名以上 職員2名重軽傷。<br />開通は、翌22日0時20分。<br />である。<br /><br /><br />大東亜戦争中、該区間に於ける空襲被害は、<br />昭和20年(1945年)7月30日<br />空母艦載機25機 機銃掃射被害<br />大阪発沼津行旅客普通列車 守山駅到着時に艦載機機銃に依り銃撃被害<br />旅客11名即死 旅客職員重軽傷者多数<br /><br /><br />我が国は、大東亜戦争終結時に全国各地に対する大規模爆撃の結果、客車に於ける被害は、<br /> 大破全焼被害計1374両<br /> 小破焼損被害計 854両<br />     合計2228両が被災した。<br />被害内訳詳細として、<br /> 第1回調査分  868両<br /> 機銃掃射被災  540両<br /> 焼夷弾被災   748両<br /> 艦砲射撃被災   72両<br />である。<br /><br />焼失車輌には外壁が完全燃焼した結果、形式番号判読不明車輌も数多く発生し、運輸省鉄道総局が昭和21年(1946年)5月20日附で全鉄道局に対し発した文書に於いて客車所在不明調査が有り、<br /> 駅発見分 管理部→鉄道局業務部旅客課→本省旅客課宛<br /> 検車区発見分 検車区→管理部→鉄道局業務部旅客課→本省旅客課宛<br />に報告する旨通牒した。<br /><br />戦争終結後、車輌製造企業に於いて客車製造を再開したが、昭和20年(1945年)後半には、復員者、外地引揚者等々、利用者は激増するも、輸送する客車不足は深刻な状態下に在った。<br />他方、戦時中は軍需産業で繁栄した企業は、戦争終結と同時に軍部からの発注は皆無となり、企業を存続させる為に、軍事産業から平和産業に転換させ、取敢えず企業存続を賭け異業種参入を諮った。<br />大東亜戦争終結後、全国各地には該戦争空襲に依り被災車輌が放置状態だったが、急増した旅客輸送を改善させる為に、運輸省鉄道総局は当該車輌を修復就役させる計画を立て実行に移した。<br /><br />当該車輌状態に対し、<br /> A 鋼体利用可能<br /> B 鋼体人工的工作再用可能<br /> C 車体復旧困難、全体を解体し台枠床下機器台車再利用<br />の3区分とした。<br /><br />即ち、当該車輌製作企業は、<br /> 中島飛行機製造→富士産業→富士重工→SUBARU<br /> 日本鉄道自動車工業→東洋工業<br /> 日本鋼管浅野造船所<br /> 日国工業→新日国工業→日産車体製造→日産車体<br /> 富士産業半田工場→愛知富士産業→輸送機工業<br /> 日本海ドッグ工業→日本ドッグ<br /> 東洋レーヨン<br /> 三井造船玉島製作所→玉島造船所<br /> 川南造船浦崎造船所<br /> 若松車輌<br /> 三菱重工長崎造船所<br />に決定した。<br /><br />東洋レーヨンは、合成繊維製品製造を目的に、三井物産傘下子会社として大正15年(1926年)に創設された企業である。<br />該社滋賀工場は東海道本線石山駅に隣接して設置され、該駅間とは専用鉄道が敷設され、完成品が貨車に搭載され全国各地に発送されたが、大東亜戦争中は、帝國陸海軍航空機用電気式航空魚雷 魚雷頭部製造が中心だったが、戦争終結と共に該受注が皆無となり会社存続の危機に立たされる事態となった。<br />此の為に、該社滋賀工場は一見して場違いとも云える鉄道車両復旧工事を受注する事となった。<br />然し、該社滋賀工場は合成繊維輸送用貨車製造の実績を有しており該工事受注を受諾した。<br /><br />該社滋賀工場に於いて復旧された車輌は下記である。<br /><br />オハ70 62<br />原車は、昭和20年(1945年)6月10日 東海道本線濱松驛構内で焼夷弾攻撃に依り被災全焼した 2等車 オロ31 20(名ハツ)で、昭和21年(1946年)3月31日附で戦災廃車後、昭和22年(1947年)3月25日附で復旧した車輌である。<br />原車は、昭和3年(1928年)月日附で日本車輌製造本店に於いて完成した 2等車 オロ41748 で、同年10月1日附の車輌称号改正に拠り オロ30621 に改番、更に、昭和16年(1941年)10月1日附車輌称号改正に拠り オロ31 20 に再改番された。<br />その後、昭和28年(1953年)3月11日附で、鹿児島工場に於いて 荷物車 スニ75 52 に改造。<br />廃車は、昭和33年(1958年)11月10日附。<br /><br />オハ71 37<br />原車は、昭和20年(1945年)6月5日 東海道本線三ノ宮驛構内で爆弾攻撃に依り大破した 3等緩急車 スハフ32 144(東シナ)で、昭和21年(1946年)3月31日附で戦災廃車後、昭和22年(1947年)3月25日附で復旧した車輌である。<br />原車は、昭和10年(1935年)3月23日附で、梅鉢車輌製造に於いて完成した 3等緩急車 スハフ34445 で、昭和16年(1941年)10月1日附車輌称号改正に拠り、 スハフ32 144 に改番された。<br />その後、昭和26年(1951年)6月11日附で、高砂工場に於いて 荷物車 マニ74 71 に改造。<br />更に、昭和38年(1963年)3月30日附で、高砂工場に於いて 救援車 スエ71 30 に再改造。<br />廃車は、昭和62年(1987年)2月27日附。<br /><br />オハ71 45<br />原車は、昭和20年(1945年)8月11日 鹿児島本線鳥栖驛構内で焼夷弾攻撃に依り被災全焼した 23等車 スロハ31 33(門トス)で、昭和21年(1946年)3月31日附戦災廃車後、昭和22年(1947年)3月31日附で復旧したが、車体構体損傷が著しく、台車、台枠、床下機器を再用し車体は新製した車輌である。<br />原車は、昭和10年(1935年)3月23日附で、日本車輌本社に於いて完成した 23等車 スロハ31509 で、昭和16年(1941年)10月1日附車輌称号改正に拠り スロハ31 33に改番された。<br />その後、昭和28年(1953年)12月8日附で、土崎工場に於いて 郵便荷物車 スユニ72 15に改造。<br />廃車は、昭和42年(1967年)3月31日附。<br /><br />オハ71 50<br />原車は、昭和20年(1945年)6月5日 東海道本線三ノ宮驛構内で爆弾に依り大破した 3等緩急車 スハフ32 202(広ヲカ)で、昭和21年(1946年)10月1日附で戦災廃車後、昭和22年(1947年)4月25日附で復旧したが、車体鋼体損傷が著しく、台車、台枠、床下機器を再用し車体は新製した車輌である。<br />原車は、昭和11年(1936年)11月19日附で、梅鉢車輌製造に於いて完成した 3等緩急車 スハフ34503 で、昭和16年(1941年)10月1日附車輌称号改正に拠り スハフ32 202 に改番された。<br />その後、昭和29年(1954年)1月17日附で、土崎工場に於いて 郵便荷物車 スユニ72 18 に改造。<br />廃車は、昭和41年(1966年)7月1日附。<br /><br />オハ71 55<br />原車は、昭和20年(1945年)6月5日 東海道本線三ノ宮驛構内で爆弾に依り大破した 3等車 オハ34 78(東シナ)で、昭和21年(1946年)3月31日附で戦災廃車後、昭和22年(1947年)5月25日附で復旧したが、車体鋼体損傷が著しく、台車、台枠、床下機器を再用し車体は新製した車輌である。<br />原車は、昭和10年(1935年)11月12日附で、川崎車輌製造に於いて完成した 3等寝台車 スハネ30177で、昭和16年(1941年)10月1日車輌称号改正に拠り スハネ31 78に改番され、翌昭和17年(1942年)1月に、大井工機部に於いて 3等車 オハ34 78に改造された。<br />その後、昭和28年(1953年)3月26日附で、後藤工場に於いて 荷物車 マニ76 19 に改造。<br />廃車は、昭和40年(1965年)7月21日附。<br /><br />オハ71 56<br />原車は、昭和20年(1945年)6月15日 東海道本線塚本驛構内で焼夷弾に依り被災全焼した 3等車 オハ34 120(大ミハソ)で、昭和21年(1946年)3月31日附で戦災廃車後、昭和22年(1947年)6月30日附で復旧した車輌である。<br />原車は、昭和12年(1937年)3月30日附で、梅鉢車輌製造に於いて完成した 3等寝台車 スハネ30 196 で、昭和16年(1941年)10月1日附車輌称号改正に拠り スハネ31 97 に改番され、昭和18年(1943年)に鷹取工機部に於いて 3等車 オハ34 120 に改造された。<br />その後、昭和28年(1953年)11月30日附で、後藤工場に於いて 郵便荷物車 スユニ72 19 に改造。<br />更に、昭和38年(1963年)3月30日附で、名古屋工場に於いて 救援車 スエ71 34 に再改造。<br />廃車は、昭和62年(1987年)2月7日附。<br /><br />オハ71 126<br />原車は、昭和21年(1946年)11月15日 淀川電車區電車庫漏電火災で全焼した モハ60 103(大ヨト)で、昭和23年(1948年)10月8日附で事故廃車後、廃車手続執行前たる、同年9月16日附で復旧した車輌である。<br />原車は、昭和18年(1943年)3月28日附で、田中車輌製造に於いて完成。<br />その後、昭和26年(1951年)4月13日附で、高砂工場に於いて 荷物車 マニ74 12 に改造。<br />更に、昭和39年(1964年)3月31日附で、五稜郭工場に於いて 救援車 スエ71 56 に再改造。<br />廃車は、昭和45年(1970年)2月8日附。<br /><br />オハ71 127<br />原車は、昭和21年(1946年)11月15日 淀川電車區構内で電車庫漏電依り被災全焼した クハ55066(大ヨト) で、昭和22年(1947年)10月22日附で戦災廃車後、昭和23年(1948年)9月17日附で復旧した車輌である。<br />原車は、昭和15年(1940年)7月6日附で、川崎車輌製造に於いて完成。<br />その後、昭和26年(1951年)4月13日附で、高砂工場に於いて 荷物車 マニ74 13 に改造。<br />更に、昭和40年(1965年)9月25日附で、小倉工場に於いて 救援車 スエ71 88 に再改造。<br />廃車は、昭和46年(1971年)12月12日附。<br /><br />オハ71 128<br />原車は、昭和21年(1946年)11月15日 淀川電車區電車庫漏電火災で全焼した モハ40005(大ヨト) とされるが、該車は一端が半流構造たる事から、原車の半流構造 モハ60111(大ヨト)が正当と推定される車輌で、昭和23年(1948年)10月24日附で事故廃車後、同年12月28日附で復旧した車輌である。<br />原車は、昭和7年(1932年)10月24日附 日本車輌製造本店に於いて完成。<br />その後、昭和26年(1951年)3月附に、土崎工場に於いて 郵便荷物車 オユニ71 8 に改造。<br />廃車は、昭和42年(1967年)2月23日附。<br /><br />オハ71 129<br />原車は、昭和20年(1945年)6月7日 城東線(現 大阪環状線)京橋驛構内で焼夷弾に依り被災半焼した モハ60041(大ヨト)で、<br />昭和21年(1946年)11月28日附で戦災廃車後、昭和24年(1949年)1月25日附で復旧した車輌である。<br />原車は、昭和16年(1941年)7月28日附で、汽車製造會社東京支店に於いて完成。<br />その後、昭和26年(1951年)3月附で、土崎工場に於いて 郵便荷物車 オユニ71 9 に改造。<br />廃車は、昭和40年(1965年)12月16日附。<br /><br />オハ71 130<br />原車は、昭和20年(1945年)6月26日 城東線(現 大阪環状線)桜ノ宮驛構内で焼夷弾に依り被災全焼した モハ60111(大ヨト) とされるが、該車は両端が平妻構造たる事から、別時被災の モハ40005(大ヨト) が正当と推定される車輌で、昭和21年(1946年)11月28日附で戦災廃車後、昭和24年(1949年)3月18日附で復旧した車輌である。<br />その後、昭和26年(1951年)3月附で、土崎工場に於いて 郵便荷物車 オユニ71 10 に改造。<br />廃車は、昭和40年(1965年)2月3日附。<br /><br />オハフ71 131<br />原車は、事故で大破した 進駐軍司令官専用車 オイ31 3(東シナ)BOB WHITE で、昭和23年(1948年)4月7日附で事故廃車後、同年11月11日附で復旧した車輌である。<br />原車は、昭和14年(1939年)10月20日附で、汽車會社製造東京支店に於いて完成した 3等緩急車 スハフ34 765 で、昭和16年(1941年)10月1日附車輌称号改正に拠り オハフ33 46 に改番され、昭和21年(1946年)6月25日附で 大井工機部に於いて当該車輌に改造された。<br />その後、昭和26年(1951年)3月附で、長野工場に於いて 郵便荷物車 オユニ71 5 に改造。<br />更に、昭和37年(1962年)3月31日附で、盛岡工場に於いて 救援車 スエ71 11 に再改造。<br />廃車は、昭和46年(1971年)12月12日附。<br /><br />オハフ71 1<br />原車は、昭和20年(1945年)6月29日 西成線(現大阪環状線)西九條驛構内で爆弾に依り大破した モハ60030(大ヨト)で、昭和21年(1946年)11月28日附で戦災廃車後、昭和22年(1947年)11月5日附で復旧した車輌である。<br />原車は、昭和16年(1941年)2月12日附で、日本車輌製造本店に於いて完成。<br />その後、昭和28年(1953年)12月18日附で、土崎工場に於いて 郵便荷物車 スユニ72 56 に改造。<br />廃車は、昭和42年(1967年)9月21日附。<br /><br />オハフ71 2<br />原車は、昭和20年(1945年)6月29日 西成線(現 大阪環状線)西九條驛構内で爆弾に依り大破した クハ55083(大ヨト) で、昭和21年(1946年)11月28日附で戦災廃車後、昭和23年(1948年)8月5日附で復旧した車輌である。<br />原車は、昭和16年(1941年)2月12日附で、帝國車輌製造に於いて完成。<br />その後、昭和29年(1954年)3月27日附で、土崎工場に於いて 郵便荷物車 スユニ72 57 に改造。<br />廃車は、昭和41年(1966年)3月24日附。<br /><br />スハ36 103<br />原車は、昭和20年(1945年)6月15日 宮原客車操車場構内で焼夷弾に依り焼損した軍用緩急車 スヘフ30 11(大ミハソ)で、昭和22年(1947年)1月14日附で戦災廃車後、同年3月25日附で復旧した車輌である。<br />原車は、昭和5年(1930年)3月4日附で、日本車輌製造東京支店に於いて完成した特急専用3等緩急車 スハフ32260で、昭和13年(1938年)3月上旬に大井工場に於いて 軍用緩急車 スヘフ32260 に改造、昭和16年(1941年)10月1日附車輌称号改正に拠り スヘフ30 11に改番された。<br />その後、昭和24年(1949年)に鷹取工機部に於いて座席復旧工事が施工され スハ33 3Ⅰに改番。<br />更に、昭和38年(1963年)7月16日附で、幡生工場に於いて台枠以下を再用し 2等寝台車 オハネ17 161 に改造。<br />更に、昭和42年(1967年)6月2日附で、多度津工場に於いて冷房化改造され スハネ16 161に改番。<br />廃車は、昭和51年(1976年)1月15日附。<br /><br /><br />大東亜(だいとうあ)戦争(昭和16年(1941年)12月8日~昭和20年(1945年)8月15日)開戦以前に於ける我が国土木構造物、即ち、隧道、横壁、橋梁等々は、一旦構築完成後は、永久耐力が発生するとの概念に基き、経年変化に依る劣化進行思想が存在せず、それ故に、災害発生時に依る構築物損傷時は部分修理に依り対応していた。<br />然るに、大東亜戦争末期ともなると、相次ぐ熟練職員軍隊召集に依る人手不足も重り、保守点検が困難化と併行し、空襲被災が発生し、更に、終戦直前後に於ける大型地震発生、及び、大型台風襲来に依り、此れら土木構築物は急速に老朽劣化が進行する事態に発展し、事実、北海道では、橋梁通過中の旅客列車の重量に耐え切れず、該橋梁崩壊と共に該列車が河川中に転落事故が発生した事から、此れら事態に対処すべく、昭和22年(1947年)12月に運輸省内に直轄機関として技術研究所が設置され、特に、戦前には存在し得なかったエックス線検査をも含め全国調査が実施されが、該研究所設置直後たる、翌昭和23年(1948年)4月24日23時25分頃、東北本線(現 青い森鉄道)野内-浪打間野内川橋梁通過中の上り貨物第850列車 D51339 蒸気機関車牽引28両編成は、該橋梁上に於いて突然脱線し、該牽引蒸気機関車は脱線転覆の上、該河川内に転落、続く貨車20両は脱線転覆大破、2両は全軸脱線する事故が発生した。<br />該事故に依り、該列車機関士 機関助士が即死、14両目連結馬匹運搬車添乗付添人が重傷。<br />事故原因は、該橋梁第4橋脚が洗掘に依る橋脚沈下不安定状態の所に該列車通過の為に、機関車重量に耐切れず脱線転覆事故となったもので、該橋梁老朽化が原因と断定された。<br />該事故発生に依り、全国各地に所在する橋梁調査が実施され、該調査結果、該線内所在橋梁では、弁天島-新居町間第3浜名橋梁、及び、草津-石山間瀬田川橋梁に重大瑕疵発見に依り緊急架替を要するとの結論がなされた事から、直ちに架替工事に着手し、昭和25年(1950年)に現橋梁に架替られた。<br /><br /><br />米原-京都間は直流1500V電化が決定したが、該電化工事時に該区間内に存在する草津川、及び、狼川両天井川河底隧道に関し、双方隧道共に架線吊可能断面が不足し、且つ、路盤掘下を施工しても施工困難と判定された事から、草津川に就いては新に琵琶湖側に新隧道を設置、狼川に就いては該架線を頂点として前後に築堤を構築し該河川に橋梁を架橋して対処する事に決定し、昭和31年(1956年)11月19日に開通後、旧隧道は廃止放棄されたが、使用停止後60年を経過し双方とも遺構が現存する。<br /><br /><br />昭和43年(1968年)6月27日、膳所駅構内に於いて重大事故が発生した。<br />即ち、0時24分頃、吹田操車場発富山操車場行下り貨物第2077列車は該駅停車で側線進入の為に時速45km以下に減速すべき処、該列車機関士は居眠り運転が原因で減速せず相当の速度で該駅神戸方分岐器に進入した為に、該分岐器上に於いて、該列車牽引機関車以下貨車30両が脱線し、特に、貨車3両は該駅構内築堤下に転落し、該地に存在する京阪電気鉄道石山坂本線路上を支障し、且つ、3両内1両積荷が爆発炎上するに至った。<br />更に、同時刻に該駅を定時通過した下り貨物第3573列車牽引電気機関車、及び、貨車1両に接触損傷が発生した。<br />運良く、同時刻に京阪電気鉄道線に電車運転が無かった事から、転落し爆発炎上した貨車と衝突類焼の被害を受ける大惨事は免れた。<br />開通復旧は、上り線が28日4時30分、下り線は28日4時32分、更に、京阪電気鉄道線は同日22時40分。<br /><br /><br />草津-石山間は7.4Kmを有する事から、地元請願に依り昭和44年(1969年)8月12日附で草津-石山間に 瀬田(せた)駅が開設された。<br /><br /><br />草津-京都間22.2km複々線化工事は、昭和40年(1965年)6月に着工し、日本万国博覧会開催を前に昭和45年(1970年)3月9日に竣工したが、該工事着工以前は、草津、石山、膳所、及び、大津各駅は、駅本屋と第1番線が直結構造だったが、草津のみ橋上化され他3駅本屋は鉄筋コンクリート建築に改築された事から、該区間内所在駅は激変し旧駅本屋を有する駅は皆無となった。<br /><br /><br />草津-瀬田間は7.5kmを有し、平成に入り当該地付近は宅地化が急激に進行し退学誘致が成立した事で改めて駅設置運動が起動し、平成6年(1994年)9月4日附で南草津(みなみくさつ)駅が開業した。<br /><br /><br />平成7年(1995年)1月17日5時46分に発生した 阪神淡路大震災に於いて該区間走行中列車は、<br />草津駅構内<br /> 上り 貨物第2092列車 抑止<br />草津-瀬田間<br /> 上り 京都発米原行 普通第900M列車 抑止 乗客約250名は瀬田駅に徒歩誘導<br />瀬田-石山間<br /> 下り 米原発網干行 普通第705M列車 抑止 乗客約400名は石山駅に徒歩誘導<br />石山駅構内<br /> 下り 貨物第5081列車 抑止<br />運転再開 米原-京都間 当日18時30分<br /><br /><br />草津川は、元来、地平部より上部を流れる天井川だったが、度重なる氾濫の為に沿線住民は常に水害被害に晒された事から、国指定治水事業として国土交通省土木局直轄工事として平地河川化され、平成14年(2002年)までに該工事は完了し旧草津川河川は廃川し現在は公園化された。<br /><br /><br /><br />表紙写真は、<br />旧狼川河底隧道上り線側東京方坑門遺構<br /><br /><br /><br /><br />東海道本線歴史的痕跡探訪記<br />~東京-濱松町間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10701644<br />~東京驛編~<br /><br />~汐留-濱松町-品川間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10797199<br />~品川-川崎間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10502858<br />~川崎-横濱間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10711843<br />~横濱駅移設変転史編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10316826<br />~横濱-大船間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/10713813<br />~大船-平塚間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/10713813<br />~平塚-國府津間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/10715768<br />~國府津-真鶴間 大正浪漫編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10298330<br />~真鶴-熱海間 大正浪漫編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10310352<br />~丹那隧道完成秘話 丹那隧道碑文から読み取れし或る歴史的事実~<br />http://4travel.jp/travelogue/10291350<br />~丹那隧道完成秘話 三島口建設工事鉄道線探訪記~<br />http://4travel.jp/travelogue/10575630<br />~熱海-沼津間編~<br /><br />~沼津駅驛編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10294787<br />~沼津港線編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10621891<br />~沼津-富士間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10623829<br />~富士-興津間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10625542<br />~興津-静岡間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10859308<br />~静岡-島田間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10855589<br />~島田-掛川間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10858139<br />~掛川-濱松間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10858815<br />~濱松-豊橋間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10858508<br />~豊橋-岡崎間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10870287<br />~岡崎-大府間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10898135<br />~大府-名古屋-尾張一宮間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/10898177<br />~名古屋驛編~<br /><br />~尾張一宮-岐阜-大垣間編 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東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~草津-膳所間編 明治頌歌~

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2019/03/27 - 2019/03/27

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横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

該区間は、明治22年(1889年)7月1日開業である。
該区間は全線平坦だったが、当時の施工困難工事として、草津川 狼川両天井川河底隧道掘削、及び、瀬田川橋梁架橋施工が存在した。


桂川下流域たる淀川は、明治期に河川改修工事が着工されるまで、大阪平野、殊に、大阪市内では、該河川が分合流を反復させる複雑な地形を形成していた。
明治18年(1885年)6月17日より翌7月2日の連日に亘り、滋賀縣内各地は連続記録的豪雨の為に淀川沿岸各地が決壊し、浸水水没997町村に及ぶ大洪水被害が発生した。

内務省土木局直轄施工に依る淀川河川改修工事が決定し、琵琶湖水位調整計画が立案され、雇オランダ人土木技師 ヨハニス・デ・レーケ(Johannis de RHKE)(1848年(弘化5年)12月5日~1913年(大正2年)1月20日)指導の下に実施される事になった。

此の為に、淀川上流域で琵琶湖取水口に相当する瀬田川では、洗壇設置工事が施工竣工した時点で東海鐵道敷設計画が浮上する。
該河川河口付近に鉄道用橋梁設置が計画された事を知った地元住民達が異議を唱えるのは寧ろ当然と言えば当然だった。
瀬田川橋梁付近住民は、明治23年(1890年)5月の降雨に依る該河川田圃が一溢原因に対し、全面水没は該橋梁架橋に原因在りとして6月10日附で第4代滋賀縣知事 岩崎小二郎(いわさき こじろう)(弘化3年(1846年)~明治28年(1895年)6月22日)(明治23年(1890年)5月21日~明治24年(1891年)4月9日在任)を経由し 鐵道局長官 井上 勝(いのうえ まさる)(天保14年(1843年)8月25日~明治43年(1910年)8月2日)(明治18年(1885年)12月28日~明治23年(1890年)9月6日在任)に対し是正陳情を行った。
鐵道局は該陳情を検討した結果、内務省土木局と協議し、該橋梁架橋をした経緯を有した事から、7月に井上鐵道局長官は該地に於ける溢水は該橋梁架橋が原因では無きと回答したが、別途12月に該河川内堆積土砂約8000坪の泥土撤去を特別許可し該問題は解決を見た。


鐵道唱歌
第39番
いよいよ近くに馴れくるは
(いよいよ ちかく なれくるは)
近江の海の波のいろ
(おうみの うみの なみのいろ)
その八景も居ながらに
(その はっけいも いあんがらに)
見てゆく旅の樂しさよ♪
(見てゆく たびの たのしさよ)

第40番
瀬田の長橋右に見て
(せたの ながはし みぎにみて)
ゆけば石山観世音
(ゆけば いしやまかんぜおん)
紫式部が筆のあと
(むらさきしきぶが ふでのあと)
のこすはここよ月の夜に♪
(のこすは ここよ つきのよに)
瀬田の唐橋は進行方向右ではなく左手に存在する。
此の為に、第1次改訂版で歌詞が右が横に変更された。

第41番
粟津の松にこととへば
(あはづのまつに こととへば)
答へがほなる風の聲
(こたえが ほなる かぜのこへ)
朝日将軍義仲の
(あさひしょうぐん よしなかの)
ほろびし深田は何かたぞ♪
(ほろびし ふかたは いづかたぞ)

第42番
比良の高嶺は雪ならで
(ひらの たかねは ゆきならで)
花なす雲にかくれたり
(はななす くもに かくれたり)
矢走にいそぐ舟の帆も
(やばせに いそぐ ふねのほも)
みえてにぎはふ波の上♪
(みえて にぎはふ なみのうえ)

第43番
堅田におつる雁がねの
(かたたに おつる かりがねの)
たえまに響く三井の鐘
(たえまに ひびく みゐのかね)
夕暮れさむき唐崎の
(ゆふぐれ さむき からさきの)
松にや雨のかかるらん♪
(まつにや あめの かかるらん)
土地柄、琵琶湖に関る歌詞が4曲続く。


該区間複線化は、明治33年(1900年)6月7日である。
新設線路は既設線路に対し山側に設置され、同日より新設線路は上り線、既設線路は下り線専用となった。


双信閉塞式では停車場間に1列車しか運転できず、列車本数増設の為に該閉塞2分割の為に、明治36年(1903年)4月1日附で草津-大津Ⅱ(現 膳所)間に 石山(いしやま)驛が開設された。


大正4年(1915年)6月23日まで、東京-馬場(現 膳所)間は当時の東京新橋に本局が存在した中部鐵道管理局管理だったが、官制改正に拠り同日附を以って中部鐡道管理局から名古屋鐵道管理局が分離独立し名古屋管理管轄に変更された。


該区間は、昭和2年(1927年)3月3日附で従来の双信閉塞式から3腕式自動閉塞式に変更された。


昭和5年(1930年)4月25日7時1分頃、石山驛構内に於いて重大事故が発生した。
即ち、東京発下関行23等普通急行第5列車C53型蒸気機関車C5330(梅小路機関庫配置)牽引14両編成は、当日早朝大高驛付近踏切に於いて、該列車に先行して運転されていた貨物列車が貨物用自動車と接触事故を発生させ、此の為に該列車は米驛駅22分遅延状態で運転していたが草津驛では17分遅延に回復していた。
然るに、該列車は本来は石山驛通過だが、遅延状態だった事から下り柘植発京都行 普通第411列車が先行運転し該駅1番線に入線停車中だった為に、該駅では第411列車に待機させ、中線たる2番線を使用して第5列車を通過させるべく場内信号機を注意現示させたが、該列車は減速する事無く高速で通過した為に2番線への転轍機上に於いて該機関車が脱線し、124m進行後、該機関車は上り線側に転覆、続く客車2両も脱線転覆した。
該事故に依り、旅客15名以上 職員5名重軽傷。
開通 上り線 9時40分
   下り線16時42分
事故原因は、東京方自動閉塞信号機が進行現示を、該列車機関手は本線通過と誤認し該駅構内を相当速度で進行した事で転轍機上に安全速度超過の為に脱線したものと断定。


室戸(むろと)台風は、死者行方不明者計3036名を発生させ、昭和期に於いて、昭和20年(1945年)9月17日襲来の 枕崎(まくらざき)台風(死者行方不明者計3756名)、及び、昭和34年(1959年)9月26日襲来の 伊勢湾(いせわん)台風(死者行方不明者計5096名)と共に、昭和3大台風と称される。

該台風は、昭和9年(1934年)9月21日5時頃に高知県室戸岬付近に上陸したが、上陸地点至近の室戸測候所に於いて5時10分に最大風速60m 最大912hPaを記録した。
同時刻、大阪市内では台風通過直前の状態だったが、前日来の大雨も止み強風も低下した事から、通勤通学の為に普段と変わらず自宅を出発した者が多かった。
因みに、当時はテレビ放送は未だ無く、ラジオ受信機も一般庶民への普及率も依然として低い状態であり、国民一般にラジオ受信機が普及するのは大東亜戦争末期に我が国本土が空襲の現実危機に曝され、空襲警報発令時の周知徹底を理由に廉価ラジオ受信機が普及する昭和18年(1943年)末期以降である。
急進ぶりを発揮した該台風は、7時30分頃、通勤通学者が目的地到着直後に大阪市内を通過し8時2分に大阪測候所に於いて瞬間最大風速62mを観測し、該猛烈な強風の為に当時の木造建築物が次々と倒壊し大阪府下では児童生徒教職員計694名が圧死する惨事となった。

東京発下関行123等普通急行第7列車C53型蒸気機関車C5373(梅小路機関庫配置)牽引11両編成は、自動閉塞信号用回線断線の為に通信閉塞式に変更し草津驛を6分遅延で通過したが、暴風雨が強烈となってきた事から、該列車機関手は時速10kmに低下させ運転し、8時35分頃に東京起点旧508Km300m地点たる瀬田川橋梁通過中に軽い衝撃を受け非常制動動作の為に、該列車機関手は後方反顧した処、該機関車、及び、続く2両の荷物車 郵便車を除き残り9両が上り線側橋梁上に脱線転覆を現認した。

該列車の当日の編成は、
C5373蒸気機関車 + 郵便車 + 荷物車 +スハ32674(スハ32 75) + スハ32669(スハ32 70) + スハフ34220(スハフ32 21) + スシ37752(スシ37 51) + スロ30750(スロ34 1) + マロネ37373(マロネ37 67) + マロネ37313(マロネ37 14) + マロネ37372(マロネ37 66) + マイネフ37200
である。
該事故に依り、旅客11名(内重傷後5名)死亡 旅客216以上名職員7名食堂車従業員7名重軽傷が発生したが、若し当該事故発生地点が単線ならば、該脱線客車群は該河川内に落下し更に水死者多数が発生したものと思われる。

事故原因は、該河川上流側より琵琶湖方面に向い、列車進行78度角度に依る台風を原因とする強風と風圧に脱線転覆したものと断定された。
該転覆事故発生時に、府立京都測候所に於いて、8時15~45分の30分間の平均風速は30.5mで、特に8時28分に最大瞬間風速42.1mを観測していた。

復旧は、脱線車輌を上り線に移動させ破損した線路補修を施工し24日16時15分に該車輌群移転作業が完了し、直ちに線路補修を実施し20時に下り線が開通し、草津-石山間は下り線使用の単線運転を実施し、上り線開通は30日3時45分である。

因みに、該列車編成中、2等寝台車マロネ37372 マロネ37373、及び、1等寝台車マイネフ37200の3両は東京大井工場に回送され、車体損傷が著しい事から、昭和10年(1935年)5月29日附で廃車決済が成立したが解体されず、2等寝台車2両は、昭和11年(1936年)3月13日附で復旧旧番号車籍復活し、1等寝台車1両は、昭和12年(1937年)3月31日附で、老朽化した検測用車輌オヤ6650の搭載機器を転用しマヤ39900に復旧改造された。
該車輌はマヤ37に改番され、昭和17年(1942年)6月11日附で関門隧道下関Ⅱ-大里(現 門司Ⅱ)間初試運転時にEF10型3次車の次車に連結使用、更に昭和40年代にEF65型1000番台 EF66型 EF81型等々の当時の最新電気機関車新製試運転時に当該機関車の次車に連結され各種検査に使用され最終的にマヤ38Ⅱに改番されたが、当時の写真に新型機関車の後に連結され場違いとも言える濃紺厚塗装の古色蒼然としたボロボロガタガタの3軸式ボギー客車こそ、該車輌の成れの果ての姿で、新型検測車両完成に伴い昭和50年(1975年)4月30日附で廃車解体されるまで使用された。

当日、該台風に依る東海道線内列車被害は、
野洲‐守山間 下り貨物第2813列車
牽引機関車、及び、貨車1~16車無事 17 18車脱線 19~29車脱線転覆 30~40車無事 41~45車脱線
高槻-摂津富田間東京旧起点549Km300m地点に於いて、下り柘植発姫路行普通第1307列車 C51型蒸気機関車牽引C51277(梅小路機関庫配置)蒸気機関車牽引6両編成は、京都驛出発時より向日町驛まで定時運転だったが、神足(現 長岡京)驛場内信号機が台風の為に停電消燈状態だった事から、該列車牽引蒸気機関車機関手は隔時法運転規定に従い一時停止一定時間経過後、徐行状態で山崎驛を通過し、高槻驛出発後に芥川橋梁通過時に更に微速運転とし摂津富田驛構内に差し掛かった処、暴風雨は一段と激化し強風の為に電信用通信線が次々と切断し、該列車牽引蒸気機関車に該断線が絡み付く事態となり、該列車牽引蒸気機関車機関手は危険を察し非常制動を作動し急停止させんとする直前に先に非常制動が動作し、当該機関手は該列車後方確認した処、該列車客車6両内3両が右側に脱線転覆状態たるを確認した。
該事故に依り、旅客11名以上 職員2名重軽傷。
開通は、翌22日0時20分。
である。


大東亜戦争中、該区間に於ける空襲被害は、
昭和20年(1945年)7月30日
空母艦載機25機 機銃掃射被害
大阪発沼津行旅客普通列車 守山駅到着時に艦載機機銃に依り銃撃被害
旅客11名即死 旅客職員重軽傷者多数


我が国は、大東亜戦争終結時に全国各地に対する大規模爆撃の結果、客車に於ける被害は、
 大破全焼被害計1374両
 小破焼損被害計 854両
     合計2228両が被災した。
被害内訳詳細として、
 第1回調査分  868両
 機銃掃射被災  540両
 焼夷弾被災   748両
 艦砲射撃被災   72両
である。

焼失車輌には外壁が完全燃焼した結果、形式番号判読不明車輌も数多く発生し、運輸省鉄道総局が昭和21年(1946年)5月20日附で全鉄道局に対し発した文書に於いて客車所在不明調査が有り、
 駅発見分 管理部→鉄道局業務部旅客課→本省旅客課宛
 検車区発見分 検車区→管理部→鉄道局業務部旅客課→本省旅客課宛
に報告する旨通牒した。

戦争終結後、車輌製造企業に於いて客車製造を再開したが、昭和20年(1945年)後半には、復員者、外地引揚者等々、利用者は激増するも、輸送する客車不足は深刻な状態下に在った。
他方、戦時中は軍需産業で繁栄した企業は、戦争終結と同時に軍部からの発注は皆無となり、企業を存続させる為に、軍事産業から平和産業に転換させ、取敢えず企業存続を賭け異業種参入を諮った。
大東亜戦争終結後、全国各地には該戦争空襲に依り被災車輌が放置状態だったが、急増した旅客輸送を改善させる為に、運輸省鉄道総局は当該車輌を修復就役させる計画を立て実行に移した。

当該車輌状態に対し、
 A 鋼体利用可能
 B 鋼体人工的工作再用可能
 C 車体復旧困難、全体を解体し台枠床下機器台車再利用
の3区分とした。

即ち、当該車輌製作企業は、
 中島飛行機製造→富士産業→富士重工→SUBARU
 日本鉄道自動車工業→東洋工業
 日本鋼管浅野造船所
 日国工業→新日国工業→日産車体製造→日産車体
 富士産業半田工場→愛知富士産業→輸送機工業
 日本海ドッグ工業→日本ドッグ
 東洋レーヨン
 三井造船玉島製作所→玉島造船所
 川南造船浦崎造船所
 若松車輌
 三菱重工長崎造船所
に決定した。

東洋レーヨンは、合成繊維製品製造を目的に、三井物産傘下子会社として大正15年(1926年)に創設された企業である。
該社滋賀工場は東海道本線石山駅に隣接して設置され、該駅間とは専用鉄道が敷設され、完成品が貨車に搭載され全国各地に発送されたが、大東亜戦争中は、帝國陸海軍航空機用電気式航空魚雷 魚雷頭部製造が中心だったが、戦争終結と共に該受注が皆無となり会社存続の危機に立たされる事態となった。
此の為に、該社滋賀工場は一見して場違いとも云える鉄道車両復旧工事を受注する事となった。
然し、該社滋賀工場は合成繊維輸送用貨車製造の実績を有しており該工事受注を受諾した。

該社滋賀工場に於いて復旧された車輌は下記である。

オハ70 62
原車は、昭和20年(1945年)6月10日 東海道本線濱松驛構内で焼夷弾攻撃に依り被災全焼した 2等車 オロ31 20(名ハツ)で、昭和21年(1946年)3月31日附で戦災廃車後、昭和22年(1947年)3月25日附で復旧した車輌である。
原車は、昭和3年(1928年)月日附で日本車輌製造本店に於いて完成した 2等車 オロ41748 で、同年10月1日附の車輌称号改正に拠り オロ30621 に改番、更に、昭和16年(1941年)10月1日附車輌称号改正に拠り オロ31 20 に再改番された。
その後、昭和28年(1953年)3月11日附で、鹿児島工場に於いて 荷物車 スニ75 52 に改造。
廃車は、昭和33年(1958年)11月10日附。

オハ71 37
原車は、昭和20年(1945年)6月5日 東海道本線三ノ宮驛構内で爆弾攻撃に依り大破した 3等緩急車 スハフ32 144(東シナ)で、昭和21年(1946年)3月31日附で戦災廃車後、昭和22年(1947年)3月25日附で復旧した車輌である。
原車は、昭和10年(1935年)3月23日附で、梅鉢車輌製造に於いて完成した 3等緩急車 スハフ34445 で、昭和16年(1941年)10月1日附車輌称号改正に拠り、 スハフ32 144 に改番された。
その後、昭和26年(1951年)6月11日附で、高砂工場に於いて 荷物車 マニ74 71 に改造。
更に、昭和38年(1963年)3月30日附で、高砂工場に於いて 救援車 スエ71 30 に再改造。
廃車は、昭和62年(1987年)2月27日附。

オハ71 45
原車は、昭和20年(1945年)8月11日 鹿児島本線鳥栖驛構内で焼夷弾攻撃に依り被災全焼した 23等車 スロハ31 33(門トス)で、昭和21年(1946年)3月31日附戦災廃車後、昭和22年(1947年)3月31日附で復旧したが、車体構体損傷が著しく、台車、台枠、床下機器を再用し車体は新製した車輌である。
原車は、昭和10年(1935年)3月23日附で、日本車輌本社に於いて完成した 23等車 スロハ31509 で、昭和16年(1941年)10月1日附車輌称号改正に拠り スロハ31 33に改番された。
その後、昭和28年(1953年)12月8日附で、土崎工場に於いて 郵便荷物車 スユニ72 15に改造。
廃車は、昭和42年(1967年)3月31日附。

オハ71 50
原車は、昭和20年(1945年)6月5日 東海道本線三ノ宮驛構内で爆弾に依り大破した 3等緩急車 スハフ32 202(広ヲカ)で、昭和21年(1946年)10月1日附で戦災廃車後、昭和22年(1947年)4月25日附で復旧したが、車体鋼体損傷が著しく、台車、台枠、床下機器を再用し車体は新製した車輌である。
原車は、昭和11年(1936年)11月19日附で、梅鉢車輌製造に於いて完成した 3等緩急車 スハフ34503 で、昭和16年(1941年)10月1日附車輌称号改正に拠り スハフ32 202 に改番された。
その後、昭和29年(1954年)1月17日附で、土崎工場に於いて 郵便荷物車 スユニ72 18 に改造。
廃車は、昭和41年(1966年)7月1日附。

オハ71 55
原車は、昭和20年(1945年)6月5日 東海道本線三ノ宮驛構内で爆弾に依り大破した 3等車 オハ34 78(東シナ)で、昭和21年(1946年)3月31日附で戦災廃車後、昭和22年(1947年)5月25日附で復旧したが、車体鋼体損傷が著しく、台車、台枠、床下機器を再用し車体は新製した車輌である。
原車は、昭和10年(1935年)11月12日附で、川崎車輌製造に於いて完成した 3等寝台車 スハネ30177で、昭和16年(1941年)10月1日車輌称号改正に拠り スハネ31 78に改番され、翌昭和17年(1942年)1月に、大井工機部に於いて 3等車 オハ34 78に改造された。
その後、昭和28年(1953年)3月26日附で、後藤工場に於いて 荷物車 マニ76 19 に改造。
廃車は、昭和40年(1965年)7月21日附。

オハ71 56
原車は、昭和20年(1945年)6月15日 東海道本線塚本驛構内で焼夷弾に依り被災全焼した 3等車 オハ34 120(大ミハソ)で、昭和21年(1946年)3月31日附で戦災廃車後、昭和22年(1947年)6月30日附で復旧した車輌である。
原車は、昭和12年(1937年)3月30日附で、梅鉢車輌製造に於いて完成した 3等寝台車 スハネ30 196 で、昭和16年(1941年)10月1日附車輌称号改正に拠り スハネ31 97 に改番され、昭和18年(1943年)に鷹取工機部に於いて 3等車 オハ34 120 に改造された。
その後、昭和28年(1953年)11月30日附で、後藤工場に於いて 郵便荷物車 スユニ72 19 に改造。
更に、昭和38年(1963年)3月30日附で、名古屋工場に於いて 救援車 スエ71 34 に再改造。
廃車は、昭和62年(1987年)2月7日附。

オハ71 126
原車は、昭和21年(1946年)11月15日 淀川電車區電車庫漏電火災で全焼した モハ60 103(大ヨト)で、昭和23年(1948年)10月8日附で事故廃車後、廃車手続執行前たる、同年9月16日附で復旧した車輌である。
原車は、昭和18年(1943年)3月28日附で、田中車輌製造に於いて完成。
その後、昭和26年(1951年)4月13日附で、高砂工場に於いて 荷物車 マニ74 12 に改造。
更に、昭和39年(1964年)3月31日附で、五稜郭工場に於いて 救援車 スエ71 56 に再改造。
廃車は、昭和45年(1970年)2月8日附。

オハ71 127
原車は、昭和21年(1946年)11月15日 淀川電車區構内で電車庫漏電依り被災全焼した クハ55066(大ヨト) で、昭和22年(1947年)10月22日附で戦災廃車後、昭和23年(1948年)9月17日附で復旧した車輌である。
原車は、昭和15年(1940年)7月6日附で、川崎車輌製造に於いて完成。
その後、昭和26年(1951年)4月13日附で、高砂工場に於いて 荷物車 マニ74 13 に改造。
更に、昭和40年(1965年)9月25日附で、小倉工場に於いて 救援車 スエ71 88 に再改造。
廃車は、昭和46年(1971年)12月12日附。

オハ71 128
原車は、昭和21年(1946年)11月15日 淀川電車區電車庫漏電火災で全焼した モハ40005(大ヨト) とされるが、該車は一端が半流構造たる事から、原車の半流構造 モハ60111(大ヨト)が正当と推定される車輌で、昭和23年(1948年)10月24日附で事故廃車後、同年12月28日附で復旧した車輌である。
原車は、昭和7年(1932年)10月24日附 日本車輌製造本店に於いて完成。
その後、昭和26年(1951年)3月附に、土崎工場に於いて 郵便荷物車 オユニ71 8 に改造。
廃車は、昭和42年(1967年)2月23日附。

オハ71 129
原車は、昭和20年(1945年)6月7日 城東線(現 大阪環状線)京橋驛構内で焼夷弾に依り被災半焼した モハ60041(大ヨト)で、
昭和21年(1946年)11月28日附で戦災廃車後、昭和24年(1949年)1月25日附で復旧した車輌である。
原車は、昭和16年(1941年)7月28日附で、汽車製造會社東京支店に於いて完成。
その後、昭和26年(1951年)3月附で、土崎工場に於いて 郵便荷物車 オユニ71 9 に改造。
廃車は、昭和40年(1965年)12月16日附。

オハ71 130
原車は、昭和20年(1945年)6月26日 城東線(現 大阪環状線)桜ノ宮驛構内で焼夷弾に依り被災全焼した モハ60111(大ヨト) とされるが、該車は両端が平妻構造たる事から、別時被災の モハ40005(大ヨト) が正当と推定される車輌で、昭和21年(1946年)11月28日附で戦災廃車後、昭和24年(1949年)3月18日附で復旧した車輌である。
その後、昭和26年(1951年)3月附で、土崎工場に於いて 郵便荷物車 オユニ71 10 に改造。
廃車は、昭和40年(1965年)2月3日附。

オハフ71 131
原車は、事故で大破した 進駐軍司令官専用車 オイ31 3(東シナ)BOB WHITE で、昭和23年(1948年)4月7日附で事故廃車後、同年11月11日附で復旧した車輌である。
原車は、昭和14年(1939年)10月20日附で、汽車會社製造東京支店に於いて完成した 3等緩急車 スハフ34 765 で、昭和16年(1941年)10月1日附車輌称号改正に拠り オハフ33 46 に改番され、昭和21年(1946年)6月25日附で 大井工機部に於いて当該車輌に改造された。
その後、昭和26年(1951年)3月附で、長野工場に於いて 郵便荷物車 オユニ71 5 に改造。
更に、昭和37年(1962年)3月31日附で、盛岡工場に於いて 救援車 スエ71 11 に再改造。
廃車は、昭和46年(1971年)12月12日附。

オハフ71 1
原車は、昭和20年(1945年)6月29日 西成線(現大阪環状線)西九條驛構内で爆弾に依り大破した モハ60030(大ヨト)で、昭和21年(1946年)11月28日附で戦災廃車後、昭和22年(1947年)11月5日附で復旧した車輌である。
原車は、昭和16年(1941年)2月12日附で、日本車輌製造本店に於いて完成。
その後、昭和28年(1953年)12月18日附で、土崎工場に於いて 郵便荷物車 スユニ72 56 に改造。
廃車は、昭和42年(1967年)9月21日附。

オハフ71 2
原車は、昭和20年(1945年)6月29日 西成線(現 大阪環状線)西九條驛構内で爆弾に依り大破した クハ55083(大ヨト) で、昭和21年(1946年)11月28日附で戦災廃車後、昭和23年(1948年)8月5日附で復旧した車輌である。
原車は、昭和16年(1941年)2月12日附で、帝國車輌製造に於いて完成。
その後、昭和29年(1954年)3月27日附で、土崎工場に於いて 郵便荷物車 スユニ72 57 に改造。
廃車は、昭和41年(1966年)3月24日附。

スハ36 103
原車は、昭和20年(1945年)6月15日 宮原客車操車場構内で焼夷弾に依り焼損した軍用緩急車 スヘフ30 11(大ミハソ)で、昭和22年(1947年)1月14日附で戦災廃車後、同年3月25日附で復旧した車輌である。
原車は、昭和5年(1930年)3月4日附で、日本車輌製造東京支店に於いて完成した特急専用3等緩急車 スハフ32260で、昭和13年(1938年)3月上旬に大井工場に於いて 軍用緩急車 スヘフ32260 に改造、昭和16年(1941年)10月1日附車輌称号改正に拠り スヘフ30 11に改番された。
その後、昭和24年(1949年)に鷹取工機部に於いて座席復旧工事が施工され スハ33 3Ⅰに改番。
更に、昭和38年(1963年)7月16日附で、幡生工場に於いて台枠以下を再用し 2等寝台車 オハネ17 161 に改造。
更に、昭和42年(1967年)6月2日附で、多度津工場に於いて冷房化改造され スハネ16 161に改番。
廃車は、昭和51年(1976年)1月15日附。


大東亜(だいとうあ)戦争(昭和16年(1941年)12月8日~昭和20年(1945年)8月15日)開戦以前に於ける我が国土木構造物、即ち、隧道、横壁、橋梁等々は、一旦構築完成後は、永久耐力が発生するとの概念に基き、経年変化に依る劣化進行思想が存在せず、それ故に、災害発生時に依る構築物損傷時は部分修理に依り対応していた。
然るに、大東亜戦争末期ともなると、相次ぐ熟練職員軍隊召集に依る人手不足も重り、保守点検が困難化と併行し、空襲被災が発生し、更に、終戦直前後に於ける大型地震発生、及び、大型台風襲来に依り、此れら土木構築物は急速に老朽劣化が進行する事態に発展し、事実、北海道では、橋梁通過中の旅客列車の重量に耐え切れず、該橋梁崩壊と共に該列車が河川中に転落事故が発生した事から、此れら事態に対処すべく、昭和22年(1947年)12月に運輸省内に直轄機関として技術研究所が設置され、特に、戦前には存在し得なかったエックス線検査をも含め全国調査が実施されが、該研究所設置直後たる、翌昭和23年(1948年)4月24日23時25分頃、東北本線(現 青い森鉄道)野内-浪打間野内川橋梁通過中の上り貨物第850列車 D51339 蒸気機関車牽引28両編成は、該橋梁上に於いて突然脱線し、該牽引蒸気機関車は脱線転覆の上、該河川内に転落、続く貨車20両は脱線転覆大破、2両は全軸脱線する事故が発生した。
該事故に依り、該列車機関士 機関助士が即死、14両目連結馬匹運搬車添乗付添人が重傷。
事故原因は、該橋梁第4橋脚が洗掘に依る橋脚沈下不安定状態の所に該列車通過の為に、機関車重量に耐切れず脱線転覆事故となったもので、該橋梁老朽化が原因と断定された。
該事故発生に依り、全国各地に所在する橋梁調査が実施され、該調査結果、該線内所在橋梁では、弁天島-新居町間第3浜名橋梁、及び、草津-石山間瀬田川橋梁に重大瑕疵発見に依り緊急架替を要するとの結論がなされた事から、直ちに架替工事に着手し、昭和25年(1950年)に現橋梁に架替られた。


米原-京都間は直流1500V電化が決定したが、該電化工事時に該区間内に存在する草津川、及び、狼川両天井川河底隧道に関し、双方隧道共に架線吊可能断面が不足し、且つ、路盤掘下を施工しても施工困難と判定された事から、草津川に就いては新に琵琶湖側に新隧道を設置、狼川に就いては該架線を頂点として前後に築堤を構築し該河川に橋梁を架橋して対処する事に決定し、昭和31年(1956年)11月19日に開通後、旧隧道は廃止放棄されたが、使用停止後60年を経過し双方とも遺構が現存する。


昭和43年(1968年)6月27日、膳所駅構内に於いて重大事故が発生した。
即ち、0時24分頃、吹田操車場発富山操車場行下り貨物第2077列車は該駅停車で側線進入の為に時速45km以下に減速すべき処、該列車機関士は居眠り運転が原因で減速せず相当の速度で該駅神戸方分岐器に進入した為に、該分岐器上に於いて、該列車牽引機関車以下貨車30両が脱線し、特に、貨車3両は該駅構内築堤下に転落し、該地に存在する京阪電気鉄道石山坂本線路上を支障し、且つ、3両内1両積荷が爆発炎上するに至った。
更に、同時刻に該駅を定時通過した下り貨物第3573列車牽引電気機関車、及び、貨車1両に接触損傷が発生した。
運良く、同時刻に京阪電気鉄道線に電車運転が無かった事から、転落し爆発炎上した貨車と衝突類焼の被害を受ける大惨事は免れた。
開通復旧は、上り線が28日4時30分、下り線は28日4時32分、更に、京阪電気鉄道線は同日22時40分。


草津-石山間は7.4Kmを有する事から、地元請願に依り昭和44年(1969年)8月12日附で草津-石山間に 瀬田(せた)駅が開設された。


草津-京都間22.2km複々線化工事は、昭和40年(1965年)6月に着工し、日本万国博覧会開催を前に昭和45年(1970年)3月9日に竣工したが、該工事着工以前は、草津、石山、膳所、及び、大津各駅は、駅本屋と第1番線が直結構造だったが、草津のみ橋上化され他3駅本屋は鉄筋コンクリート建築に改築された事から、該区間内所在駅は激変し旧駅本屋を有する駅は皆無となった。


草津-瀬田間は7.5kmを有し、平成に入り当該地付近は宅地化が急激に進行し退学誘致が成立した事で改めて駅設置運動が起動し、平成6年(1994年)9月4日附で南草津(みなみくさつ)駅が開業した。


平成7年(1995年)1月17日5時46分に発生した 阪神淡路大震災に於いて該区間走行中列車は、
草津駅構内
 上り 貨物第2092列車 抑止
草津-瀬田間
 上り 京都発米原行 普通第900M列車 抑止 乗客約250名は瀬田駅に徒歩誘導
瀬田-石山間
 下り 米原発網干行 普通第705M列車 抑止 乗客約400名は石山駅に徒歩誘導
石山駅構内
 下り 貨物第5081列車 抑止
運転再開 米原-京都間 当日18時30分


草津川は、元来、地平部より上部を流れる天井川だったが、度重なる氾濫の為に沿線住民は常に水害被害に晒された事から、国指定治水事業として国土交通省土木局直轄工事として平地河川化され、平成14年(2002年)までに該工事は完了し旧草津川河川は廃川し現在は公園化された。



表紙写真は、
旧狼川河底隧道上り線側東京方坑門遺構




東海道本線歴史的痕跡探訪記
~東京-濱松町間編 明治頌歌~
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~東京驛編~

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~膳所-稲荷-京都間(廃止線)編 明治頌歌~

~膳所-山科-京都間(現行線)編 大正浪漫~
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~京都驛編 明治頌歌~

~京都-向日町間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11243867
~向日町-高槻間編 明治頌歌~

~高槻-茨木間編 明治頌歌~
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~茨木-吹田間編 明治頌歌~

~吹田-淡路-大阪間(廃止線)編 明治頌歌~

~吹田-新大阪-大阪間(現行線)編 大正浪漫~

~大阪駅周辺編~

~大阪-西宮間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11366806
~西宮-灘間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11321266
~灘-神戸間編 大正浪漫~
https://4travel.jp/travelogue/11245946

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
ホテル
1.0
グルメ
4.0
交通
4.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
新幹線 JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • 草津(くさつ)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治22年(1889年)7月1日開業である。<br />該駅は、旧東海道筋草津宿、及び、天井川たる草津川とは反対左岸側に設置されたが、設置理由として、該駅開設当時は人煙稀で田畑拡がる地故に土地収用は容易とされたが、それでも、該対象者14戸計1928円を支払った。<br />同年12月15日に、関西(かんせい)鐵道該駅‐三雲間16.2kmが開通し、該区間全列車共に該駅発着となる。<br />該社は、第12代第Ⅰ次 西園寺公望(さいおんじ きんもち)(嘉永2年(1849年)12月6日~昭和15年(1940年)11月24日)内閣(明治39年(1906年)1月7日~明治41年(1908年)7月14日組閣)に拠り、明治40年(1907年)10月1日に政府買収され草津線と命名される。<br />該駅本屋は、明治45年(1912年)4月14日に改築され第2代駅本屋が竣工したが、初代駅本屋と比較して小振りな構造になったが、此れは、同年6月15日より運転開始した新橋‐下関間特別急行列車運転に依る時刻大改正を前提にしたもので、該時刻改正に依り、草津線は全列車共に該駅発着だったものが馬場(現 膳所)発着の直通変更になり、該駅途中下車客減少を見越していた。<br />https://www.jr-odekake.net/eki/top.php?id=0610110

    草津(くさつ)駅



    該駅は、明治22年(1889年)7月1日開業である。
    該駅は、旧東海道筋草津宿、及び、天井川たる草津川とは反対左岸側に設置されたが、設置理由として、該駅開設当時は人煙稀で田畑拡がる地故に土地収用は容易とされたが、それでも、該対象者14戸計1928円を支払った。
    同年12月15日に、関西(かんせい)鐵道該駅‐三雲間16.2kmが開通し、該区間全列車共に該駅発着となる。
    該社は、第12代第Ⅰ次 西園寺公望(さいおんじ きんもち)(嘉永2年(1849年)12月6日~昭和15年(1940年)11月24日)内閣(明治39年(1906年)1月7日~明治41年(1908年)7月14日組閣)に拠り、明治40年(1907年)10月1日に政府買収され草津線と命名される。
    該駅本屋は、明治45年(1912年)4月14日に改築され第2代駅本屋が竣工したが、初代駅本屋と比較して小振りな構造になったが、此れは、同年6月15日より運転開始した新橋‐下関間特別急行列車運転に依る時刻大改正を前提にしたもので、該時刻改正に依り、草津線は全列車共に該駅発着だったものが馬場(現 膳所)発着の直通変更になり、該駅途中下車客減少を見越していた。
    https://www.jr-odekake.net/eki/top.php?id=0610110

    草津駅 (滋賀県)

  • 草津駅<br /><br /><br />南洋軒(なんようけん)<br />該社は、該駅弁当販売業者で、明治22年(1889年)に、初代代表 南新助が該駅構内販売権を取得し、後に駅弁販売を開始したものである。<br />因みに、我が国 大手旅行会社 日本旅行は、明治38年(1905年)に南が旅行斡旋業者として創設した日本旅行社が嚆矢である。

    草津駅


    南洋軒(なんようけん)
    該社は、該駅弁当販売業者で、明治22年(1889年)に、初代代表 南新助が該駅構内販売権を取得し、後に駅弁販売を開始したものである。
    因みに、我が国 大手旅行会社 日本旅行は、明治38年(1905年)に南が旅行斡旋業者として創設した日本旅行社が嚆矢である。

  • 草津駅<br /><br /><br /><br />旅客第2番ホーム

    草津駅



    旅客第2番ホーム

    草津駅 (滋賀県)

  • 草津駅<br /><br /><br /><br />旅客第3番ホーム

    草津駅



    旅客第3番ホーム

    草津駅 (滋賀県)

  • 草津駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />東京方<br />俯瞰

    草津駅



    駅構内
    東京方
    俯瞰

    草津駅 (滋賀県)

  • 草津-南草津間<br /><br /><br /><br />旧草津川(くさつがわ)隧道<br />東京方全景<br />河川別路改修に依る河道変更で平成14年(2012年)廃川。

    草津-南草津間



    旧草津川(くさつがわ)隧道
    東京方全景
    河川別路改修に依る河道変更で平成14年(2012年)廃川。

  • 草津-南草津間<br /><br /><br /><br />旧草津川隧道<br />全長37.8m(224ft)<br />東京方<br />坑口

    草津-南草津間



    旧草津川隧道
    全長37.8m(224ft)
    東京方
    坑口

  • 草津-南草津間<br /><br /><br /><br />旧草津川<br />河道変更に依り平成14年(2012年)廃川。

    草津-南草津間



    旧草津川
    河道変更に依り平成14年(2012年)廃川。

  • 草津-南草津間<br /><br /><br /><br />旧草津川隧道<br />神戸方<br />坑門<br />現 西日本電気システム草津訓練センター

    草津-南草津間



    旧草津川隧道
    神戸方
    坑門
    現 西日本電気システム草津訓練センター

  • 草津-南草津間<br /><br /><br /><br />旧草津川隧道<br />神戸方<br />坑門<br />旧下り線側隧道は、改築に依り原型を喪失。

    草津-南草津間



    旧草津川隧道
    神戸方
    坑門
    旧下り線側隧道は、改築に依り原型を喪失。

  • 草津-南草津間<br /><br /><br /><br />旧草津川隧道<br />神戸方<br />坑門

    草津-南草津間



    旧草津川隧道
    神戸方
    坑門

  • 草津-南草津間<br /><br /><br /><br />草津川隧道<br />神戸方全景

    草津-南草津間



    草津川隧道
    神戸方全景

  • 草津-南草津間<br /><br /><br /><br />新草津川隧道<br />神戸方<br />坑口<br />現用隧道

    草津-南草津間



    新草津川隧道
    神戸方
    坑口
    現用隧道

  • 草津-南草津間<br /><br /><br /><br />旧本線路敷跡<br />写真左手空地が旧線路跡地。

    草津-南草津間



    旧本線路敷跡
    写真左手空地が旧線路跡地。

  • 草津-南草津間<br /><br /><br /><br />第1室ノ後(だいいち むろのうしろ)橋梁<br />5.40m<br />下り内外線側

    草津-南草津間



    第1室ノ後(だいいち むろのうしろ)橋梁
    5.40m
    下り内外線側

  • 草津-南草津間<br /><br /><br /><br />第1室ノ後橋梁<br />上り内外線側

    草津-南草津間



    第1室ノ後橋梁
    上り内外線側

  • 草津-南草津間<br /><br /><br /><br />第1室ノ後橋梁<br />石積橋台<br />下り内外線側

    草津-南草津間



    第1室ノ後橋梁
    石積橋台
    下り内外線側

  • 草津-南草津間<br /><br /><br /><br />下り葉(くだりば)構橋<br />全長1.82m

    草津-南草津間



    下り葉(くだりば)構橋
    全長1.82m

  • 草津-南草津間<br /><br /><br /><br />下り葉構橋<br />近接

    草津-南草津間



    下り葉構橋
    近接

  • 草津-南草津間<br /><br /><br /><br />伯母川(おばかわ)橋梁<br />鋼鐡製上路鈑桁

    草津-南草津間



    伯母川(おばかわ)橋梁
    鋼鐡製上路鈑桁

  • 草津-南草津間<br /><br /><br /><br />新草津川(しんくさつがわ)橋梁<br />全景<br />河道変更に依り平成14年(2002年)架橋

    草津-南草津間



    新草津川(しんくさつがわ)橋梁
    全景
    河道変更に依り平成14年(2002年)架橋

  • 草津-南草津間<br /><br /><br /><br />新草津川橋梁<br />神戸方

    草津-南草津間



    新草津川橋梁
    神戸方

  • 南草津(みなみくさつ)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、平成6年(1994年)9月4日開業である。<br />https://www.jr-odekake.net/eki/top.php?id=0610149

    南草津(みなみくさつ)駅



    該駅は、平成6年(1994年)9月4日開業である。
    https://www.jr-odekake.net/eki/top.php?id=0610149

    南草津駅

  • 南草津駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />近接

    南草津駅



    駅本屋
    近接

    南草津駅

  • 南草津‐瀬田間<br /><br /><br /><br />狼川(おおかみかわ)信号所跡<br />該信号所は、明治45年(1912年)6月12日開設である。<br />即ち、内閣鐵道院は、新橋-下関間に朝鮮満州シベリア経由に依る欧州連絡用特別急行列車運転を決定し、同月23日より運転開始の為に、該区間に特別急行第1、2列車運転を円滑化させる目的で、該区間内に信号所を増設させた1箇所で、草津-石山間7.7km双信閉塞を2分割させた。<br />その後、大正14年(1925年)2月15日府で、草津-大津Ⅲ間に自動閉塞式が導入された事から該信号所は不要施設となり、翌16日附で廃止された。<br />因みに、信号所名は おおかみかわ だが、現地名は おおかみがわ が正当である。

    南草津‐瀬田間



    狼川(おおかみかわ)信号所跡
    該信号所は、明治45年(1912年)6月12日開設である。
    即ち、内閣鐵道院は、新橋-下関間に朝鮮満州シベリア経由に依る欧州連絡用特別急行列車運転を決定し、同月23日より運転開始の為に、該区間に特別急行第1、2列車運転を円滑化させる目的で、該区間内に信号所を増設させた1箇所で、草津-石山間7.7km双信閉塞を2分割させた。
    その後、大正14年(1925年)2月15日府で、草津-大津Ⅲ間に自動閉塞式が導入された事から該信号所は不要施設となり、翌16日附で廃止された。
    因みに、信号所名は おおかみかわ だが、現地名は おおかみがわ が正当である。

  • 南草津-瀬田間<br /><br /><br /><br />旧狼川隧道跡<br />全長37,8m(124ft)<br />旧上り線東京方坑門跡<br />該区間開通前たる、明治21年(1888年)12月竣工。

    南草津-瀬田間



    旧狼川隧道跡
    全長37,8m(124ft)
    旧上り線東京方坑門跡
    該区間開通前たる、明治21年(1888年)12月竣工。

  • 南草津-瀬田間<br /><br /><br /><br />狼川隧道<br />煉瓦積が典型的ねじりまんぽ。<br />ねじりまんぽ  とは、通過角度に対し斜線状態たる場合、圧力を均等化させる為に、内部煉瓦を波状積状態を言う。

    南草津-瀬田間



    狼川隧道
    煉瓦積が典型的ねじりまんぽ。
    ねじりまんぽ とは、通過角度に対し斜線状態たる場合、圧力を均等化させる為に、内部煉瓦を波状積状態を言う。

  • 南草津-瀬田間<br /><br /><br /><br />葛原(くずはら)橋梁<br />全長1.82m

    南草津-瀬田間



    葛原(くずはら)橋梁
    全長1.82m

  • 南草津-瀬田間<br /><br /><br /><br />葛原橋梁<br />該区間複々線化は、土地収用の関係で既成線両側に増線工事を施工した為に、該橋梁内部を窺い知る事は困難。

    南草津-瀬田間



    葛原橋梁
    該区間複々線化は、土地収用の関係で既成線両側に増線工事を施工した為に、該橋梁内部を窺い知る事は困難。

  • 瀬田(せた)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和44年(1969年)8月12日開業である。<br />然るに、該駅名は既に豊肥本線に於いて同名で使用されており、本来であれば後発たる該駅は、旧国名を冠し近江瀬田とすべき処、平家物語に於ける武蔵坊弁慶の瀬田の唐橋の一編で広く知られた存在であり、それ故、敢て重複名で命名された。<br />https://www.jr-odekake.net/eki/top.php?id=0610111

    瀬田(せた)駅



    該駅は、昭和44年(1969年)8月12日開業である。
    然るに、該駅名は既に豊肥本線に於いて同名で使用されており、本来であれば後発たる該駅は、旧国名を冠し近江瀬田とすべき処、平家物語に於ける武蔵坊弁慶の瀬田の唐橋の一編で広く知られた存在であり、それ故、敢て重複名で命名された。
    https://www.jr-odekake.net/eki/top.php?id=0610111

    瀬田駅

  • 瀬田駅<br /><br /><br /><br />南口

    瀬田駅



    南口

    瀬田駅

  • 瀬田-石山間<br /><br /><br /><br />久保江堀川(くぼえぼりがわ)橋梁<br />支間17.0m<br />鋼鐡製上路鈑桁

    瀬田-石山間



    久保江堀川(くぼえぼりがわ)橋梁
    支間17.0m
    鋼鐡製上路鈑桁

  • 瀬田-石山間<br /><br /><br /><br />久保江堀川橋梁<br />下り内線側<br />東京方煉瓦積橋台<br />神戸方上部橋台は改修されコンクリート化。

    瀬田-石山間



    久保江堀川橋梁
    下り内線側
    東京方煉瓦積橋台
    神戸方上部橋台は改修されコンクリート化。

  • 瀬田-石山間<br /><br /><br /><br />瀬田川(せたがわ)仮信号場跡<br />該信号場は、大正15年(1926年)11月10日附で設置された。<br />即ち、瀬田川橋梁は、明治22年(1889年)7月1日開通時に架橋されたが、該橋梁開通時は錬鐡製橋桁に依り架橋されたが、その後、該区間複線化の為に明治39年(1906年)3月31日附で下流側に増線され、該日より新線は上り線専用、既成線は下り線専用になった。<br />然るに、錬鐡製橋桁では大正中期に登場した旅客用大型蒸気機関車18900型(C51型)、及び、貨物用大型蒸気機関車9900型(D50型)に対応するとは言い難く、更に、橋桁硬性化を必要とされた事から、下り線用橋梁橋桁を鋼鐡製橋桁交換が決定し、該河川東京方に仮信号場を設置し、該信号場-石山間を単線運転しながら下り線橋梁橋桁を鋼鐡製橋桁に更改した。<br />該工事は同年12月6日に完了し翌7日附で廃止。

    瀬田-石山間



    瀬田川(せたがわ)仮信号場跡
    該信号場は、大正15年(1926年)11月10日附で設置された。
    即ち、瀬田川橋梁は、明治22年(1889年)7月1日開通時に架橋されたが、該橋梁開通時は錬鐡製橋桁に依り架橋されたが、その後、該区間複線化の為に明治39年(1906年)3月31日附で下流側に増線され、該日より新線は上り線専用、既成線は下り線専用になった。
    然るに、錬鐡製橋桁では大正中期に登場した旅客用大型蒸気機関車18900型(C51型)、及び、貨物用大型蒸気機関車9900型(D50型)に対応するとは言い難く、更に、橋桁硬性化を必要とされた事から、下り線用橋梁橋桁を鋼鐡製橋桁交換が決定し、該河川東京方に仮信号場を設置し、該信号場-石山間を単線運転しながら下り線橋梁橋桁を鋼鐡製橋桁に更改した。
    該工事は同年12月6日に完了し翌7日附で廃止。

  • 瀬田-石山間<br /><br /><br /><br /><br />瀬田川(せたがわ)橋梁<br />該橋は、明治22年(1889年)7月1日開通時の橋梁である。<br />錬鐡製上路鈑桁20.9m(70ft)×11連<br />然るに、大東亜戦争末期ともなると、相次ぐ熟練職員軍隊召集に依る人手不足も重り、保守点検が困難化と併行し、空襲被災が発生し、更に、終戦直前後に於ける大型地震発生、及び、大型台風襲来に依り、此れら土木構築物は急速に老朽劣化が進行する事態に発展し、事実、北海道では、橋梁通過中の旅客列車の重量に耐え切れず、該橋梁崩壊と共に該列車が河川中に転落事故が発生した事から、此れら事態に対処すべく、昭和22年(1947年)12月に運輸省内に直轄機関として技術研究所が設置され、特に、戦前には存在し得なかったエックス線検査をも含め全国調査実施が決定されが、該研究所設置直後たる、翌昭和23年(1948年)4月24日23時25分頃、東北本線(現 青い森鉄道)野内-浪打間野内川橋梁通過中の上り貨物第850列車 D51339 蒸気機関車牽引28両編成は、該橋梁上に於いて突然脱線し、該牽引蒸気機関車は脱線転覆の上、該河川内に転落、続く貨車20両は脱線転覆大破、2両は全軸脱線する事故が発生した。<br />該事故に依り、該列車牽引蒸気機関車機関士、及び、機関助士が即死、14両目に連結されていた馬匹運搬車添乗付添人が重傷を負った。<br />事故原因は、該橋梁第4橋脚が洗掘に依る橋脚沈下不安定状態の所に該列車通過の為に、機関車重量に耐切れず脱線転覆事故となったもので、該橋梁老朽化が原因と断定された。<br />該事故発生に依り、全国各地に所在する橋梁調査が実施され、該調査結果、該線内所在橋梁では、弁天島-新居町間第3浜名橋梁、及び、草津-石山間瀬田川橋梁に重大瑕疵発見に依り緊急架替を要するとの結論がなされた事から、直ちに架替工事に着手し、昭和25年(1950年)に現橋梁に架替られた。

    瀬田-石山間




    瀬田川(せたがわ)橋梁
    該橋は、明治22年(1889年)7月1日開通時の橋梁である。
    錬鐡製上路鈑桁20.9m(70ft)×11連
    然るに、大東亜戦争末期ともなると、相次ぐ熟練職員軍隊召集に依る人手不足も重り、保守点検が困難化と併行し、空襲被災が発生し、更に、終戦直前後に於ける大型地震発生、及び、大型台風襲来に依り、此れら土木構築物は急速に老朽劣化が進行する事態に発展し、事実、北海道では、橋梁通過中の旅客列車の重量に耐え切れず、該橋梁崩壊と共に該列車が河川中に転落事故が発生した事から、此れら事態に対処すべく、昭和22年(1947年)12月に運輸省内に直轄機関として技術研究所が設置され、特に、戦前には存在し得なかったエックス線検査をも含め全国調査実施が決定されが、該研究所設置直後たる、翌昭和23年(1948年)4月24日23時25分頃、東北本線(現 青い森鉄道)野内-浪打間野内川橋梁通過中の上り貨物第850列車 D51339 蒸気機関車牽引28両編成は、該橋梁上に於いて突然脱線し、該牽引蒸気機関車は脱線転覆の上、該河川内に転落、続く貨車20両は脱線転覆大破、2両は全軸脱線する事故が発生した。
    該事故に依り、該列車牽引蒸気機関車機関士、及び、機関助士が即死、14両目に連結されていた馬匹運搬車添乗付添人が重傷を負った。
    事故原因は、該橋梁第4橋脚が洗掘に依る橋脚沈下不安定状態の所に該列車通過の為に、機関車重量に耐切れず脱線転覆事故となったもので、該橋梁老朽化が原因と断定された。
    該事故発生に依り、全国各地に所在する橋梁調査が実施され、該調査結果、該線内所在橋梁では、弁天島-新居町間第3浜名橋梁、及び、草津-石山間瀬田川橋梁に重大瑕疵発見に依り緊急架替を要するとの結論がなされた事から、直ちに架替工事に着手し、昭和25年(1950年)に現橋梁に架替られた。

  • 瀬田-石山間<br /><br /><br /><br />瀬田川橋梁<br />下り内外線側<br />東京方

    瀬田-石山間



    瀬田川橋梁
    下り内外線側
    東京方

  • 瀬田-石山間<br /><br /><br /><br />瀬田川橋梁<br />下り内外線側<br />神戸方

    瀬田-石山間



    瀬田川橋梁
    下り内外線側
    神戸方

  • 瀬田-石山間<br /><br /><br /><br />瀬田川橋梁<br />神戸方<br />右 下り内外線<br />左 上り内外線

    瀬田-石山間



    瀬田川橋梁
    神戸方
    右 下り内外線
    左 上り内外線

  • 瀬田-石山間<br /><br /><br /><br />瀬田川橋梁<br />上り内外線<br />神戸方

    瀬田-石山間



    瀬田川橋梁
    上り内外線
    神戸方

  • 瀬田-石山間<br /><br /><br /><br />瀬田川橋梁<br />上り内外線<br />神戸方

    瀬田-石山間



    瀬田川橋梁
    上り内外線
    神戸方

  • 瀬田-石山間<br /><br /><br /><br />初代瀬田川橋梁跡<br />下り内線左手に旧橋梁線が存在。

    瀬田-石山間



    初代瀬田川橋梁跡
    下り内線左手に旧橋梁線が存在。

  • 石山駅<br /><br /><br /><br />昭和5年(1930年)4月25日列車脱線転覆事故現場<br />東京発下関行23等普通急行第5列車は、C5330旅客用大型蒸気機関車牽引14両編成で運転していたが、当日早朝、該線大高驛付近踏切に於いて、該列車に先行して運転の貨物列車がトラックと接触事故を起こし、此の為に該列車は米原駅22分遅延状態で運転していたが、草津駅では17分遅延に回復していた。<br />該列車は本来は石山驛通過だが、遅延していた為に下り柘植発京都行 普通第411列車が先行運転し該駅1番線に入線停車中だった為に、該駅では第411列車に待機させ、中線たる2番線を使用して第5列車を通過させるべく、場内信号機に注意現示したが、該列車は減速する事無く高速で通過した為に2番線への転轍機上に於いて該機関車が脱線し、124m進行後、該機関車は上り線側に転覆、続く客車2両も脱線転覆する事態となった。<br />開通は、上り線同日9時40分、下り線は同日16時42分。

    石山駅



    昭和5年(1930年)4月25日列車脱線転覆事故現場
    東京発下関行23等普通急行第5列車は、C5330旅客用大型蒸気機関車牽引14両編成で運転していたが、当日早朝、該線大高驛付近踏切に於いて、該列車に先行して運転の貨物列車がトラックと接触事故を起こし、此の為に該列車は米原駅22分遅延状態で運転していたが、草津駅では17分遅延に回復していた。
    該列車は本来は石山驛通過だが、遅延していた為に下り柘植発京都行 普通第411列車が先行運転し該駅1番線に入線停車中だった為に、該駅では第411列車に待機させ、中線たる2番線を使用して第5列車を通過させるべく、場内信号機に注意現示したが、該列車は減速する事無く高速で通過した為に2番線への転轍機上に於いて該機関車が脱線し、124m進行後、該機関車は上り線側に転覆、続く客車2両も脱線転覆する事態となった。
    開通は、上り線同日9時40分、下り線は同日16時42分。

  • 石山(いしやま)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治36年(1903年)4月1日開業である。<br />即ち、朝鮮半島情勢を巡る日露間国交断然に伴う開戦に依る兵力動員を必要とする事から、列車交換の為に途中停車場設置を理由に開設された。<br />該駅は、停車場用地が不足していた為に、開業当初は旅客扱に限定され、貨物扱は、明治41年(1908年)4月15日より緩急車扱に限定されたが、明治44年(1911年)4月1日より一般貨物扱が開始された。<br />複々線化に伴い駅本屋改築が決定し、昭和45年(1970年)2月10日附で現駅本屋が竣工した。<br />https://www.jr-odekake.net/eki/top.php?id=0610112

    石山(いしやま)駅



    該駅は、明治36年(1903年)4月1日開業である。
    即ち、朝鮮半島情勢を巡る日露間国交断然に伴う開戦に依る兵力動員を必要とする事から、列車交換の為に途中停車場設置を理由に開設された。
    該駅は、停車場用地が不足していた為に、開業当初は旅客扱に限定され、貨物扱は、明治41年(1908年)4月15日より緩急車扱に限定されたが、明治44年(1911年)4月1日より一般貨物扱が開始された。
    複々線化に伴い駅本屋改築が決定し、昭和45年(1970年)2月10日附で現駅本屋が竣工した。
    https://www.jr-odekake.net/eki/top.php?id=0610112

    石山駅

  • 石山駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />近接<br />https://www.jr-odekake.net/eki/top.php?id=0610112

    石山駅



    駅本屋
    近接
    https://www.jr-odekake.net/eki/top.php?id=0610112

    石山駅

  • 石山駅<br /><br /><br /><br />南口<br />駅周辺は東洋レーヨンの城下町。<br />https://www.jr-odekake.net/eki/top.php?id=0610112

    石山駅



    南口
    駅周辺は東洋レーヨンの城下町。
    https://www.jr-odekake.net/eki/top.php?id=0610112

    石山駅

  • 石山駅<br /><br /><br /><br />駅前<br />京阪電気鉄道坂本本線と共同使用。<br /><br />大津市粟津町6<br />東海道本線石山駅 徒歩1分

    石山駅



    駅前
    京阪電気鉄道坂本本線と共同使用。

    大津市粟津町6
    東海道本線石山駅 徒歩1分

  • 石山駅<br /><br /><br /><br />下り側線<br />該駅橋上化前は線路2本は存在せず駅本屋と直結構造。

    石山駅



    下り側線
    該駅橋上化前は線路2本は存在せず駅本屋と直結構造。

    石山駅

  • 石山駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />第2番線<br />複々線化以前は旧第1番線。

    石山駅



    第1番ホーム
    第2番線
    複々線化以前は旧第1番線。

    石山駅

  • 石山駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />第3番線<br />複々線化以前は旧第2番線。

    石山駅



    第2番ホーム
    第3番線
    複々線化以前は旧第2番線。

    石山駅

  • 石山駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />第4番線<br />複々線化以前は旧第3番線。

    石山駅



    第2番ホーム
    第4番線
    複々線化以前は旧第3番線。

    石山駅

  • 石山駅<br /><br /><br /><br />北口

    石山駅



    北口

  • 石山-膳所間<br /><br /><br /><br />石山駅貨物引上線跡<br />該駅隣接地に東洋レーヨン滋賀工場が存在し、貨車は転向し貨物取扱が行われていた。

    石山-膳所間



    石山駅貨物引上線跡
    該駅隣接地に東洋レーヨン滋賀工場が存在し、貨車は転向し貨物取扱が行われていた。

  • 石山駅<br /><br /><br /><br />東洋レーヨン貨物専用線跡

    石山駅



    東洋レーヨン貨物専用線跡

  • 東洋レーヨン滋賀工場<br /><br /><br /><br />貨物取扱専用線跡<br />左手空地が当該地。

    東洋レーヨン滋賀工場



    貨物取扱専用線跡
    左手空地が当該地。

  • 東洋レーヨン滋賀工場<br /><br /><br /><br />貨物取扱専用線跡<br />左手空地が当該地。

    東洋レーヨン滋賀工場



    貨物取扱専用線跡
    左手空地が当該地。

  • 東洋レーヨン滋賀工場<br /><br /><br /><br />貨物取扱専用線跡<br />コンクリート橋梁跡<br />現在は整備し自動車通行用に改造使用。

    東洋レーヨン滋賀工場



    貨物取扱専用線跡
    コンクリート橋梁跡
    現在は整備し自動車通行用に改造使用。

  • 東洋レーヨン滋賀事業所<br /><br /><br /><br />三井物産は、合成繊維製造に着手する事になり、該繊維製造には多量の軟水を必要とする事から、複数の工場設置設置候補地が選定され、選考の結果、最終的に、滋賀県石山、及び、名古屋庄内川流域の2地に絞られた。<br />該時点では、庄内川流域の方が断然優位だったが、改めて双方の水質検査を実施した処、庄内川には珪酸分がコロイド状に含有されている為に、該製品製造には不適当なりとの判定された事から、工場設置は石山に落ち着いたが、当時は土地買収に対し反対運動が根強く困難を極めたが、当時の 第18代 滋賀縣知事 高橋守雄(たかはし もりお)(明治18年(1883年)1月1日~昭和32年(1957年)5月6日)(大正14年(1925年)9月16日~大正15年(1926年)8月4日在任)は滋賀懸にとって将来有益なりと積極的に工場設置推進に働き、土地買収に成功し、大正15年(1926年)9月に工場が完成し、翌昭和2年(1927年)には初出荷が可能になった。<br />大東亜戦争中は、合成繊維製造を八日市に新工場を設置し移設させ、該工場では、帝國海軍航空機が使用する航空用電気式魚雷、及び、該魚雷頭部製造を専門に行った事から、昭和20年(1945年)7月24日に、米戦略部隊 B29爆撃機に依る空襲を受け、500kg爆弾1個が該工場内に投下爆発し、兵器部倉庫は全壊、従業員16名死亡 104名以上重軽傷の被害が発生。

    東洋レーヨン滋賀事業所



    三井物産は、合成繊維製造に着手する事になり、該繊維製造には多量の軟水を必要とする事から、複数の工場設置設置候補地が選定され、選考の結果、最終的に、滋賀県石山、及び、名古屋庄内川流域の2地に絞られた。
    該時点では、庄内川流域の方が断然優位だったが、改めて双方の水質検査を実施した処、庄内川には珪酸分がコロイド状に含有されている為に、該製品製造には不適当なりとの判定された事から、工場設置は石山に落ち着いたが、当時は土地買収に対し反対運動が根強く困難を極めたが、当時の 第18代 滋賀縣知事 高橋守雄(たかはし もりお)(明治18年(1883年)1月1日~昭和32年(1957年)5月6日)(大正14年(1925年)9月16日~大正15年(1926年)8月4日在任)は滋賀懸にとって将来有益なりと積極的に工場設置推進に働き、土地買収に成功し、大正15年(1926年)9月に工場が完成し、翌昭和2年(1927年)には初出荷が可能になった。
    大東亜戦争中は、合成繊維製造を八日市に新工場を設置し移設させ、該工場では、帝國海軍航空機が使用する航空用電気式魚雷、及び、該魚雷頭部製造を専門に行った事から、昭和20年(1945年)7月24日に、米戦略部隊 B29爆撃機に依る空襲を受け、500kg爆弾1個が該工場内に投下爆発し、兵器部倉庫は全壊、従業員16名死亡 104名以上重軽傷の被害が発生。

  • 東洋レーヨン滋賀事業所<br /><br /><br /><br />該工場は、合成繊維製品製造を目的に、三井物産傘下子会社として大正15年(1926年)に創設された企業である。<br />該社滋賀工場は東海道本線石山駅に隣接して設置され、該駅間とは専用鉄道が敷設され、完成品が貨車に搭載され全国各地に発送されたが、大東亜戦争中は、帝國陸海軍航空機用電気式航空魚雷、及び、該魚雷頭部製造が中心となっていたが、戦争終結と共に該受注は皆無となり、会社存続の危機に立たされる次第となった。<br />此の為に、該社滋賀工場は、一見して場違いとも云える鉄道車両復旧工事を受注する事となり数両の戦災復旧客車が完成した。

    東洋レーヨン滋賀事業所



    該工場は、合成繊維製品製造を目的に、三井物産傘下子会社として大正15年(1926年)に創設された企業である。
    該社滋賀工場は東海道本線石山駅に隣接して設置され、該駅間とは専用鉄道が敷設され、完成品が貨車に搭載され全国各地に発送されたが、大東亜戦争中は、帝國陸海軍航空機用電気式航空魚雷、及び、該魚雷頭部製造が中心となっていたが、戦争終結と共に該受注は皆無となり、会社存続の危機に立たされる次第となった。
    此の為に、該社滋賀工場は、一見して場違いとも云える鉄道車両復旧工事を受注する事となり数両の戦災復旧客車が完成した。

  • 膳所(ぜぜ)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治13年(1880年)7月15日開業である。<br />即ち、大谷-濱大津間開通に伴い設置された。<br />該駅は、開業当初は馬場(ばば)と称したが、現地名は ばんば が正当である。<br />その後、明治22年(1889年)7月1日附で、馬場-長岡(現 近江長岡)間が開通した。<br />大正2年(1913年)6月1日には大津(おおつ)Ⅱに再改称されたが、大正10年(1921年)8月1日附で新逢坂山隧道経由の新線開通に伴い、再度、馬場に改名し、且つ、該時点に於いて該駅は旅客扱が廃止され貨物取扱専用駅になり、<br />それ迄は補助機関車増解結の為に特別急行列車すら停車していたにも拘らず、新線開通後は貨物専用駅に格下された。<br />然し、開業以来42年に亘る旅客扱が廃止された事で地元は既成利用特権を喪失したが、旅客扱復活請願を再三に亘り行使したことが実り、昭和9年(1934年)9月15日附で旅客扱が復活し、同時に駅名も旧藩名たる膳所に再々々改称された。<br />江若鉄道(現 江若交通)は、該社気動車を使用し、和22年(1947年)1月10日より浜大津-該駅間に乗入運転を行い、昭和40年(1965年)7月10日まで、該駅0番線ホームに入線していた。<br />草津-京都間複々線化に伴い、昭和45年(1970年)4月に鉄筋鉄骨建築の第2代駅本屋が竣工し、同時に0番線は廃止された。<br />該駅では、平成17年(2005年)3月1日まで貨車取扱が存在したが、現在では全て廃止された。<br />該駅裏側公立病院通院者利便を考慮し、駅本屋再改築が決定し、平成29年(2017年)3月18日に第3代駅本屋が竣工。<br />http://www.jr-odekake.net/eki/premises.php?id=0610113

    膳所(ぜぜ)駅



    該駅は、明治13年(1880年)7月15日開業である。
    即ち、大谷-濱大津間開通に伴い設置された。
    該駅は、開業当初は馬場(ばば)と称したが、現地名は ばんば が正当である。
    その後、明治22年(1889年)7月1日附で、馬場-長岡(現 近江長岡)間が開通した。
    大正2年(1913年)6月1日には大津(おおつ)Ⅱに再改称されたが、大正10年(1921年)8月1日附で新逢坂山隧道経由の新線開通に伴い、再度、馬場に改名し、且つ、該時点に於いて該駅は旅客扱が廃止され貨物取扱専用駅になり、
    それ迄は補助機関車増解結の為に特別急行列車すら停車していたにも拘らず、新線開通後は貨物専用駅に格下された。
    然し、開業以来42年に亘る旅客扱が廃止された事で地元は既成利用特権を喪失したが、旅客扱復活請願を再三に亘り行使したことが実り、昭和9年(1934年)9月15日附で旅客扱が復活し、同時に駅名も旧藩名たる膳所に再々々改称された。
    江若鉄道(現 江若交通)は、該社気動車を使用し、和22年(1947年)1月10日より浜大津-該駅間に乗入運転を行い、昭和40年(1965年)7月10日まで、該駅0番線ホームに入線していた。
    草津-京都間複々線化に伴い、昭和45年(1970年)4月に鉄筋鉄骨建築の第2代駅本屋が竣工し、同時に0番線は廃止された。
    該駅では、平成17年(2005年)3月1日まで貨車取扱が存在したが、現在では全て廃止された。
    該駅裏側公立病院通院者利便を考慮し、駅本屋再改築が決定し、平成29年(2017年)3月18日に第3代駅本屋が竣工。
    http://www.jr-odekake.net/eki/premises.php?id=0610113

    膳所駅

  • 膳所駅<br /><br /><br /><br />北口

    膳所駅



    北口

    膳所駅

  • 膳所駅<br /><br /><br /><br />出改札口

    膳所駅



    出改札口

    膳所駅

  • 膳所駅<br /><br /><br /><br />旧浜大津連絡線跡<br />膳所-濱大津間、明治13年(1880年)7月15日~昭和44年(1969年)11月1日使用。

    膳所駅



    旧浜大津連絡線跡
    膳所-濱大津間、明治13年(1880年)7月15日~昭和44年(1969年)11月1日使用。

  • 膳所駅<br /><br /><br /><br />旧旅客ホーム0番線跡<br />昭和22年(1947年)1月25日~昭和40年(1965年)7月10日間、江若鉄道(現 江若交通)気動車が該駅に乗入。

    膳所駅



    旧旅客ホーム0番線跡
    昭和22年(1947年)1月25日~昭和40年(1965年)7月10日間、江若鉄道(現 江若交通)気動車が該駅に乗入。

  • 膳所駅<br /><br /><br /><br />第1番旅客ホーム<br />東京方

    膳所駅



    第1番旅客ホーム
    東京方

    膳所駅

  • 膳所駅<br /><br /><br /><br />第1番旅客ホーム<br />写真左で前方に0番線ホームが存在した。

    膳所駅



    第1番旅客ホーム
    写真左で前方に0番線ホームが存在した。

    膳所駅

  • 膳所駅<br /><br /><br /><br />第1番旅客ホーム<br />古軌条支柱群<br />接合様式が鋲締構造では無く溶接構造たる事から、大東亜戦争以前では無く該戦争終結後に設置。

    膳所駅



    第1番旅客ホーム
    古軌条支柱群
    接合様式が鋲締構造では無く溶接構造たる事から、大東亜戦争以前では無く該戦争終結後に設置。

    膳所駅

  • 膳所駅<br /><br /><br /><br />第1番旅客ホーム<br />上屋古軌条支柱<br />No60A 1921<br />(官営八幡製鐡所 1921年(大正10年)製造 鐵道省発注品)<br />支柱番号第13号b

    膳所駅



    第1番旅客ホーム
    上屋古軌条支柱
    No60A 1921
    (官営八幡製鐡所 1921年(大正10年)製造 鐵道省発注品)
    支柱番号第13号b

    膳所駅

  • 膳所駅<br /><br /><br /><br />第1番旅客ホーム<br />上屋古軌条支柱<br />No60A 1923<br />(官営八幡製鐡所 1923年(大正12年)製造 鐵道省発注品)<br />支柱番号第15号a

    膳所駅



    第1番旅客ホーム
    上屋古軌条支柱
    No60A 1923
    (官営八幡製鐡所 1923年(大正12年)製造 鐵道省発注品)
    支柱番号第15号a

    膳所駅

  • 膳所駅<br /><br /><br /><br />第1番旅客ホーム<br />上屋古軌条支柱<br />No60A 1921<br />(官営八幡製鐡所 1921年(大正10年)製造 鐵道省発注品)<br />支柱番号第17号b

    膳所駅



    第1番旅客ホーム
    上屋古軌条支柱
    No60A 1921
    (官営八幡製鐡所 1921年(大正10年)製造 鐵道省発注品)
    支柱番号第17号b

    膳所駅

  • 膳所駅<br /><br /><br /><br />第1番旅客ホーム

    膳所駅



    第1番旅客ホーム

    膳所駅

  • 膳所駅<br /><br /><br /><br />第2番旅客ホーム<br />該駅は、大津Ⅱ時代は補助機関車連結開放の為に特別急行列車も停車していたが、現在は特急急行はおろか、新快速電車も通過する。

    膳所駅



    第2番旅客ホーム
    該駅は、大津Ⅱ時代は補助機関車連結開放の為に特別急行列車も停車していたが、現在は特急急行はおろか、新快速電車も通過する。

    膳所駅

  • 膳所駅<br /><br /><br /><br />旧貨物取扱施設跡<br />現在は当該施設は全部撤去され駐車場。

    膳所駅



    旧貨物取扱施設跡
    現在は当該施設は全部撤去され駐車場。

    膳所駅

  • 膳所駅<br /><br /><br /><br />南口<br />該地には、馬場(現 膳所)-京都Ⅰ間逢坂山登攀用の補助機関車増開結の為に、機関庫が設置されていたが、大正元年(1912年)に用水池設置掘出中に、石地蔵約100体が出土し騒ぎとなった。<br />誰が何の目的で埋めたか現在でも謎である。<br />該出土を機縁とし、該駅では安全祈願として毎年8月23日~24日地蔵盆を行い供養している。

    膳所駅



    南口
    該地には、馬場(現 膳所)-京都Ⅰ間逢坂山登攀用の補助機関車増開結の為に、機関庫が設置されていたが、大正元年(1912年)に用水池設置掘出中に、石地蔵約100体が出土し騒ぎとなった。
    誰が何の目的で埋めたか現在でも謎である。
    該出土を機縁とし、該駅では安全祈願として毎年8月23日~24日地蔵盆を行い供養している。

    膳所駅

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この旅行記へのコメント (4)

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  • まむーとさん 2019/12/15 12:39:28
    知らなかった歴史と記録
    横浜臨海公園様  

    はじめまして。
    こちらの旅行記、先祖、私の記録であります。知らない事を多くありました。
    私の頭では理解がまだ出来ないのですが、
    また読み返します。
    表紙はオートバックスの下ですね。私は子どもの時に見て、なんだろうと不思議に思ったトンネル。
    その埋まったトンネルが表紙になった旅行記を拝見する日が来るとは!
    膳所駅は定期で通いました。何気ない鉄柱の歴史に感動しました。今の様子を知れて嬉しいです。

    私の祖父は蒸気機関車時代には御召列車の機関士に任命されていました。祖父にもっと鉄道の話を聞けば良かったと思いました。

    琵琶湖線の歴史と私の思い出、滋賀の歴史、祖父の思い出、鉄道事故、凝縮された旅行記。
    大変ありがとうございます。
    記録をまとめてくださった事、大変感謝です。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2019/12/16 17:37:08
    拝復
    まむーとさま、こんにちは。


    此の度は、拙稿に投票と掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    狼川廃隧道をご存じだったとは正直驚きました。
    本当は、石山神戸方も坑口が、より原形で残されているのですが、現在では個人住宅の庭内に存在しており、まさか個人所有の敷地内に立入など思いもよらぬ為に、撮影は諦めた経緯がございます。

    > 膳所駅は定期で通いました
    →と言う事は、まむーとさまは滋賀県筆頭の進学校のご出身と推察しました。

    > 私の祖父は蒸気機関車時代には御召列車の機関士に任命されていました。祖父にもっと鉄道の話を聞けば良かったと思いました。
    →おじい様は、京都梅小路機関区か大阪宮原機関区で働いていたご様子ですね。

    > 琵琶湖線の歴史と私の思い出、滋賀の歴史、祖父の思い出、鉄道事故、凝縮された旅行記。
    →実は、滋賀県は政治的背景を以って、歴史的事実を事実として公表していない為に、事実が埋没化しているのが現状です。

    宜しければ、東海道本線の他の滋賀県ヴァージョンもご覧くだされば幸甚です。


    今後とも何卒宜敷くお願い申します。





    横浜臨海公園
  • トントン+さん 2019/11/13 20:59:33
    フォローありがとうございます
    横浜臨海公園さま、こんばんは。
    フォローしていただきありがとうございました。
    これからもよろしくお願い致します。
    トントン

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2019/11/14 11:37:29
    拝復
    トントンさま、こんにちは。


    拙稿に投票とコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    やはりベトナムは南北に長く、現在でも個々融和は困難と見ております。
    サイゴン(ホーチミン)の方が、自由主義世界の空気を味わった為に、人々は温和で社交的だと来日中のベトナム人を見ても肌で感じます。


    小生こそ、今後とも末永く宜敷くお願い申します。




    横浜臨海公園

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