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國府津-静岡間は、明治22年(1889年)2月1日開通である。<br /><br />該区間開通時に、富士-興津間には、岩淵(現 富士川駅)、及び、興津各停車場が設置されたが、富士駅は未設置だった。<br /><br /><br />該区間工事で建設困難とされたのは、富士川橋梁架橋を筆頭に、さった峠下、洞隧道建設、興津川架橋、等々、施工だった。<br /><br />富士川橋梁は、当初計画では橋梁設置位置は富士川河口部たる蒲原新道付近を予定していたが、該地に於ける河床岩盤は深い位置に存在し、且つ、急流域たる事で、当時の技術では橋脚設置は困難との判断が下され、再検討の結果、現行経路に決定した。<br />此れら、当時の経緯に就いては、拙稿 東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~沼津-富士間編 明治頌歌~ に詳細を記述している。<br />現在でも、該橋梁線路取付部が該川を隔て、直線状では無く「八」の字状たる事が、当時の架橋位置変更の痕跡である。<br />因みに、昭和39年(1964年)10月1日開通の東海道新幹線は、該河川河口部に架橋された。<br /><br /><br />さった峠下は安政(あんせい)大震災(安政2年(1855年)11月11日)が原因に拠り現地が2メートル弱隆起した為に通行可能になったが、然し、鉄道建設の為の寸余の土地は極めて貴重な存在だった。<br />洞(ほら)隧道掘削は、明治19年(1886年)7月に着工したが、途中背後の山が崖崩し、土砂が駿河湾まで押寄せる事故も発生した。<br /><br /><br />該区間の複線化は、<br />鈴川(現 吉原)-富士川合図所間  明治33年(1900年)11月 5日<br />富士川信号所-岩淵(現 富士川)間 明治43年(1910年) 3月 6日<br />岩淵(現 富士川)-蒲原間     明治31年(1898年)12月25日<br />蒲原-興津間           明治31年(1898年) 7月15日<br />である。<br /><br /><br />鉄道唱歌で、該区間に関して、<br />第18番<br />鳥の羽音におどろきし<br />(とりの はおとに おどろきし)<br />平家のはなしは昔にて<br />(へいけの はなしは むかしにて)<br />今は汽車ゆく富士川を<br />(いまは きしゃゆく ふじかわを)<br />下るは身延の帰り舟♪<br />(くだるは みのぶの かえりぶね)<br />と歌われた。<br />当時は富士身延鐵道が未開業であり、身延山参詣は富士川を舟で行くか身延道を徒歩で行くの選択肢しか無く、岩淵が身延への起点だった事から歌詞に記された。<br /><br /><br />我が国は自然障害として大河川の存在無くして語る事は出来ない。<br />特に、東海道筋は広河原と乱流河川の存在は、明治期以前に於いて、此れら河川への架橋を困難にさせた一因である。<br /><br /><br />明治29年(1896年)9月11日に中部地方に上陸した大型台風は、富士川水位を最大3.3mを記録させた大雨を降らせたが、富士川橋梁に被害が発生せず無事だったのは、寧ろ意外な感がする。<br /><br />然し、大正3年(1914年)8月12日未明上陸の大型台風が原因で、第1号橋脚根元が洗盤された事で、該橋脚が傾斜する被害が発生し、水害対策として、大正5年(1916年)に一部構桁架替を余儀無くされた。<br /><br /><br />該区間開通後、天候不良を要因とする富士川異常出水、蒲原-興津間に於ける駿河湾側面通過時の波浪洗盤被害、及び、洞隧道付近側面法面崩落、等々に拠る区間不通状態が半ば常態化し、大幹線たる東海道本線をして、山北-御殿場間と共に、通行障害地と化した感があった。<br /><br />度重なる自然災害対策に業を煮やした鐵道省、及び、名古屋鐵道局は、大正13年(1924年)に、蒲原から由比を経由せず、内陸部を直進しさった峠直下を長大隧道で貫通させ、興津川東岸に至る路線移転計画を策定した。<br /><br />然し、鐵道省に拠る該計画を知った庵原郡蒲原町、及び、由比町住民達は、当然の事ながら驚愕の色を隠せなかった。<br /><br />特に、由比は該線全通後も停車場設置が見送られた事から鉄道の恩恵に与る事が叶わず、該町を挙げて再三に亘り停車場設置請願を提出反復させ、停車場設置の為に必要用地無償提供や資金援助等々の犠牲の上に成立していた事から、駅開業から僅か数年をして駅廃止が現実化し得る内容に、到底受容れ難い計画だった事から、駅廃止に対し由比村を挙げて猛反対になるのは当然の成行きだった。<br /><br /><br />大東亜戦争勃発後、東海道本線に於ける列車本数が増加の一途をたどり、昭和17年(1942年)11月15日の関門隧道開通に伴う全国白紙時刻改正に於いて、沼津-静岡間に於ける貨物列車本数は、時刻改正前の上下46本から上下85本が設定された反面、旅客列車の相当数が犠牲を強いられた。<br /><br /><br />大東亜戦争(だいとうあ せんそう)(昭和16年(1941年)12月8日~昭和20年(1945年)8月15日)末期、我が国の防衛は皆無に均しい状態に陥った際に、全国各地が敵航空機の空襲範囲となったが、安倍川、及び、天龍川橋梁が爆撃された事を受け、大本営は、我が国最大の基幹幹線たる東海道本線が橋梁爆撃に依る不通を避ける為に、長大橋梁とは別個に緊急橋梁設置を決定し、大井川橋梁は、ほぼ完成したが、帝國陸軍第86部隊の手に拠り、富士川迂回橋梁を木造木組構造で架橋を計画していたが、着手直前に終戦になった。<br /><br /><br />明治末期に開始されたコンクリート建築は、該材料として良質な砂と砕石を必要としたが、該河川流域では砂石を採取する業者が入乱れ、乱掘状態となった事から、河床が低下し、河川流域に存在する橋梁橋脚根が露呈する状態となった。<br /><br />大東亜戦争後、当時の建設省は主要河川に於ける砂利採取を全面的に禁止したが、該橋梁に就いて、殊に下り線用橋梁の橋脚変位が顕著になった事から、昭和31年(1956年)に、上流側に新橋梁を架橋した。<br /><br />昭和57年(1982年)8月2日上陸の台風10号に拠り、富士川水位が急上昇し、富士川橋梁第4号、及び、第5号間橋脚が押流された為に、該構桁は落橋したが、原因は、橋脚根露呈に拠る橋脚崩壊であったと断定された。<br /><br />取敢えず、日本国有鉄道は、富士-富士川間を無事だった富士川上り橋梁を使用し単線運転したが、保安装置は何と通票閉塞式と言う、天下の東海道本線が明治末期の時代に戻ったかの感があった。<br /><br />然し、貨物列車等々の遅速長大編成列車を通票閉塞式で列車交換させるには無駄が過大である事から、該橋梁東岸に渡り線を設置し、同月末から自動閉塞式を採用した事で、列車遅延は最小になった。<br /><br />該橋梁復旧に対し、建設途上の久慈線(現 三陸鉄道北リアス線)に於いて架橋予定資材を転用し、同年10月12日に複線運転が可能になったが、当初想定された輸送障害が殊の他僅少だったのは、東海道新幹線や東名高速道路等々の代替輸送路が成立しており、東海道本線自体が、最早、時代として、東京-神戸間たる長大ローカル線に過ぎない存在たる事を証明した事であった。<br /><br /><br /><br />表紙写真は、<br />富士川橋梁全景<br /><br /><br /><br /><br /><br />東海道本線歴史的痕跡探訪記<br />~東京-濱松町間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10701644<br />~東京驛編~<br /><br />~汐留-濱松町-品川間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10797199<br />~品川-川崎間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10502858<br />~川崎-横濱間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10711843<br />~横濱駅移設変転史編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10316826<br />~横濱-大船間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/10713813<br />~大船-平塚間編 明治頌歌~<br /><br />~平塚-國府津間編 明治頌歌~<br /><br />~國府津-根府川間編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10298330<br />~根府川-熱海編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10310352<br />~丹那隧道完成秘話 丹那隧道碑文から読み取れし或る歴史的事実~<br />http://4travel.jp/travelogue/10291350<br />~丹那隧道完成秘話 三島口建設工事鉄道線探訪記~<br />http://4travel.jp/travelogue/10575630<br />~熱海-沼津間編~<br /><br 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東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~富士-興津間編 明治頌歌~

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2014/03/12 - 2014/03/13

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横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

國府津-静岡間は、明治22年(1889年)2月1日開通である。

該区間開通時に、富士-興津間には、岩淵(現 富士川駅)、及び、興津各停車場が設置されたが、富士駅は未設置だった。


該区間工事で建設困難とされたのは、富士川橋梁架橋を筆頭に、さった峠下、洞隧道建設、興津川架橋、等々、施工だった。

富士川橋梁は、当初計画では橋梁設置位置は富士川河口部たる蒲原新道付近を予定していたが、該地に於ける河床岩盤は深い位置に存在し、且つ、急流域たる事で、当時の技術では橋脚設置は困難との判断が下され、再検討の結果、現行経路に決定した。
此れら、当時の経緯に就いては、拙稿 東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~沼津-富士間編 明治頌歌~ に詳細を記述している。
現在でも、該橋梁線路取付部が該川を隔て、直線状では無く「八」の字状たる事が、当時の架橋位置変更の痕跡である。
因みに、昭和39年(1964年)10月1日開通の東海道新幹線は、該河川河口部に架橋された。


さった峠下は安政(あんせい)大震災(安政2年(1855年)11月11日)が原因に拠り現地が2メートル弱隆起した為に通行可能になったが、然し、鉄道建設の為の寸余の土地は極めて貴重な存在だった。
洞(ほら)隧道掘削は、明治19年(1886年)7月に着工したが、途中背後の山が崖崩し、土砂が駿河湾まで押寄せる事故も発生した。


該区間の複線化は、
鈴川(現 吉原)-富士川合図所間  明治33年(1900年)11月 5日
富士川信号所-岩淵(現 富士川)間 明治43年(1910年) 3月 6日
岩淵(現 富士川)-蒲原間     明治31年(1898年)12月25日
蒲原-興津間           明治31年(1898年) 7月15日
である。


鉄道唱歌で、該区間に関して、
第18番
鳥の羽音におどろきし
(とりの はおとに おどろきし)
平家のはなしは昔にて
(へいけの はなしは むかしにて)
今は汽車ゆく富士川を
(いまは きしゃゆく ふじかわを)
下るは身延の帰り舟♪
(くだるは みのぶの かえりぶね)
と歌われた。
当時は富士身延鐵道が未開業であり、身延山参詣は富士川を舟で行くか身延道を徒歩で行くの選択肢しか無く、岩淵が身延への起点だった事から歌詞に記された。


我が国は自然障害として大河川の存在無くして語る事は出来ない。
特に、東海道筋は広河原と乱流河川の存在は、明治期以前に於いて、此れら河川への架橋を困難にさせた一因である。


明治29年(1896年)9月11日に中部地方に上陸した大型台風は、富士川水位を最大3.3mを記録させた大雨を降らせたが、富士川橋梁に被害が発生せず無事だったのは、寧ろ意外な感がする。

然し、大正3年(1914年)8月12日未明上陸の大型台風が原因で、第1号橋脚根元が洗盤された事で、該橋脚が傾斜する被害が発生し、水害対策として、大正5年(1916年)に一部構桁架替を余儀無くされた。


該区間開通後、天候不良を要因とする富士川異常出水、蒲原-興津間に於ける駿河湾側面通過時の波浪洗盤被害、及び、洞隧道付近側面法面崩落、等々に拠る区間不通状態が半ば常態化し、大幹線たる東海道本線をして、山北-御殿場間と共に、通行障害地と化した感があった。

度重なる自然災害対策に業を煮やした鐵道省、及び、名古屋鐵道局は、大正13年(1924年)に、蒲原から由比を経由せず、内陸部を直進しさった峠直下を長大隧道で貫通させ、興津川東岸に至る路線移転計画を策定した。

然し、鐵道省に拠る該計画を知った庵原郡蒲原町、及び、由比町住民達は、当然の事ながら驚愕の色を隠せなかった。

特に、由比は該線全通後も停車場設置が見送られた事から鉄道の恩恵に与る事が叶わず、該町を挙げて再三に亘り停車場設置請願を提出反復させ、停車場設置の為に必要用地無償提供や資金援助等々の犠牲の上に成立していた事から、駅開業から僅か数年をして駅廃止が現実化し得る内容に、到底受容れ難い計画だった事から、駅廃止に対し由比村を挙げて猛反対になるのは当然の成行きだった。


大東亜戦争勃発後、東海道本線に於ける列車本数が増加の一途をたどり、昭和17年(1942年)11月15日の関門隧道開通に伴う全国白紙時刻改正に於いて、沼津-静岡間に於ける貨物列車本数は、時刻改正前の上下46本から上下85本が設定された反面、旅客列車の相当数が犠牲を強いられた。


大東亜戦争(だいとうあ せんそう)(昭和16年(1941年)12月8日~昭和20年(1945年)8月15日)末期、我が国の防衛は皆無に均しい状態に陥った際に、全国各地が敵航空機の空襲範囲となったが、安倍川、及び、天龍川橋梁が爆撃された事を受け、大本営は、我が国最大の基幹幹線たる東海道本線が橋梁爆撃に依る不通を避ける為に、長大橋梁とは別個に緊急橋梁設置を決定し、大井川橋梁は、ほぼ完成したが、帝國陸軍第86部隊の手に拠り、富士川迂回橋梁を木造木組構造で架橋を計画していたが、着手直前に終戦になった。


明治末期に開始されたコンクリート建築は、該材料として良質な砂と砕石を必要としたが、該河川流域では砂石を採取する業者が入乱れ、乱掘状態となった事から、河床が低下し、河川流域に存在する橋梁橋脚根が露呈する状態となった。

大東亜戦争後、当時の建設省は主要河川に於ける砂利採取を全面的に禁止したが、該橋梁に就いて、殊に下り線用橋梁の橋脚変位が顕著になった事から、昭和31年(1956年)に、上流側に新橋梁を架橋した。

昭和57年(1982年)8月2日上陸の台風10号に拠り、富士川水位が急上昇し、富士川橋梁第4号、及び、第5号間橋脚が押流された為に、該構桁は落橋したが、原因は、橋脚根露呈に拠る橋脚崩壊であったと断定された。

取敢えず、日本国有鉄道は、富士-富士川間を無事だった富士川上り橋梁を使用し単線運転したが、保安装置は何と通票閉塞式と言う、天下の東海道本線が明治末期の時代に戻ったかの感があった。

然し、貨物列車等々の遅速長大編成列車を通票閉塞式で列車交換させるには無駄が過大である事から、該橋梁東岸に渡り線を設置し、同月末から自動閉塞式を採用した事で、列車遅延は最小になった。

該橋梁復旧に対し、建設途上の久慈線(現 三陸鉄道北リアス線)に於いて架橋予定資材を転用し、同年10月12日に複線運転が可能になったが、当初想定された輸送障害が殊の他僅少だったのは、東海道新幹線や東名高速道路等々の代替輸送路が成立しており、東海道本線自体が、最早、時代として、東京-神戸間たる長大ローカル線に過ぎない存在たる事を証明した事であった。



表紙写真は、
富士川橋梁全景





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旅行の満足度
4.5
観光
4.5
ホテル
4.5
ショッピング
5.0
交通
4.5
同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
高速・路線バス JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • 富士(ふじ)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治42年(1909年)4月21日開業である。<br />即ち、明治22年(1889年)2月1日に國府津-静岡間開通時に該駅は未設置だった。<br />当時、富士川を挟み両岸村から停車場設置誘致運動が盛んに行われたが、結果的に西岸側が身延連絡が可能として設置さ、此れに基き 岩淵(いわぶち)(現 富士川)駅が設置された。<br />他方、資本金20万円を以って明治21年(1888年)1月に富士製紙株式会社が設立され富士郡原田村に工場設置が内定した事で富士郡南部地域に産業構造変化が到来したかに思えた。<br />然し、当初計画案では、藁(わら)、楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、ボロ布を原材料にした前近代的製紙産業だったが、欧米に製紙機器買付に派遣した担当者報告に拠り、欧米に於ける製紙産業は木材を原料加工とするパルプを活用した大規模製紙産業が主流を占めているとの情報から、原田村に於ける工場建設予定地を検討した結果、該地に於ける能力は河川水量と段差が過小であり不適当と判定された為に、改めて他所を検討した結果、潤井川流域たる同郡入山瀬村が適当との報告が為され、かくて明治23年(1990年)に該地に建設が決定し第1工場が設置された。<br />第1工場では藁を原料にザラ紙生産を開始したが、販路が国内から東南アジア地域に拡大し、該社業績は順調に伸びたが、他方、富士川の水運活用でイカダ流しで原木入手が容易になった事から、明治30年(1897年)10月に同郡富士根村に第2工場、同郡源道寺村に第3工場が起業稼動開始した事から、旧来の富士鐵道馬車線路を利用し鈴川(現 吉原)駅での積替えの現状では自ずから限界を生じせしめ、生産品輸送は逼迫状態となり完成品が工場で滞貨の山を成す状況になった。<br />それ故に、富士製紙は監督官庁たる逓信省鐵道作業局に対し再三に亙り同郡加島村に停車場設置を請願する次第となった。<br />更に、加島村に富士製紙が第8工場を設置する事となり駅設置は不可欠な状況になった。<br />富士駅正式開業は明治42年(1909年)4月21日だが、然し、実際には全額地元出資負担に拠り、前年たる明治41年(1908年)7月3日附で臨時仮乗降場が設置され、製紙産業品以外に現地名産の梨果出荷に利用された。<br />作家 内田百聞(うちだ ひゃっけん)(明治22年(1889年)5月25日〜昭和46年(1971年)4月20日)は、自身の作品に於いて、開業間も無い富士駅が未だ貨物専用駅だった時代に、自身が乗車した最急行列車の窓を開け前方を注視していたが、富士駅構内で入換小型機関車が牽引機関車にぶつかり跳ね飛ばされる描写が存在する。<br />横浜臨海公園は高校生の時に該作品を読み、富士駅は貨物専用駅として開業し、後に旅客扱する様になったものと信じていたが、富士駅が貨物専用だったと云う資料が発見されず長年疑問を抱いていた処、該資料に遭遇し謎が氷解した次第である。<br />該駅正式開業を前に、地元では所在地名たる加島(かしま)を推挙する声が多数を占めたが、富士川河口地に属し、且つ、富士製紙の膝元に所在する事から富士驛と命名された。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/fuji/index.html

    富士(ふじ)駅



    該駅は、明治42年(1909年)4月21日開業である。
    即ち、明治22年(1889年)2月1日に國府津-静岡間開通時に該駅は未設置だった。
    当時、富士川を挟み両岸村から停車場設置誘致運動が盛んに行われたが、結果的に西岸側が身延連絡が可能として設置さ、此れに基き 岩淵(いわぶち)(現 富士川)駅が設置された。
    他方、資本金20万円を以って明治21年(1888年)1月に富士製紙株式会社が設立され富士郡原田村に工場設置が内定した事で富士郡南部地域に産業構造変化が到来したかに思えた。
    然し、当初計画案では、藁(わら)、楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、ボロ布を原材料にした前近代的製紙産業だったが、欧米に製紙機器買付に派遣した担当者報告に拠り、欧米に於ける製紙産業は木材を原料加工とするパルプを活用した大規模製紙産業が主流を占めているとの情報から、原田村に於ける工場建設予定地を検討した結果、該地に於ける能力は河川水量と段差が過小であり不適当と判定された為に、改めて他所を検討した結果、潤井川流域たる同郡入山瀬村が適当との報告が為され、かくて明治23年(1990年)に該地に建設が決定し第1工場が設置された。
    第1工場では藁を原料にザラ紙生産を開始したが、販路が国内から東南アジア地域に拡大し、該社業績は順調に伸びたが、他方、富士川の水運活用でイカダ流しで原木入手が容易になった事から、明治30年(1897年)10月に同郡富士根村に第2工場、同郡源道寺村に第3工場が起業稼動開始した事から、旧来の富士鐵道馬車線路を利用し鈴川(現 吉原)駅での積替えの現状では自ずから限界を生じせしめ、生産品輸送は逼迫状態となり完成品が工場で滞貨の山を成す状況になった。
    それ故に、富士製紙は監督官庁たる逓信省鐵道作業局に対し再三に亙り同郡加島村に停車場設置を請願する次第となった。
    更に、加島村に富士製紙が第8工場を設置する事となり駅設置は不可欠な状況になった。
    富士駅正式開業は明治42年(1909年)4月21日だが、然し、実際には全額地元出資負担に拠り、前年たる明治41年(1908年)7月3日附で臨時仮乗降場が設置され、製紙産業品以外に現地名産の梨果出荷に利用された。
    作家 内田百聞(うちだ ひゃっけん)(明治22年(1889年)5月25日〜昭和46年(1971年)4月20日)は、自身の作品に於いて、開業間も無い富士駅が未だ貨物専用駅だった時代に、自身が乗車した最急行列車の窓を開け前方を注視していたが、富士駅構内で入換小型機関車が牽引機関車にぶつかり跳ね飛ばされる描写が存在する。
    横浜臨海公園は高校生の時に該作品を読み、富士駅は貨物専用駅として開業し、後に旅客扱する様になったものと信じていたが、富士駅が貨物専用だったと云う資料が発見されず長年疑問を抱いていた処、該資料に遭遇し謎が氷解した次第である。
    該駅正式開業を前に、地元では所在地名たる加島(かしま)を推挙する声が多数を占めたが、富士川河口地に属し、且つ、富士製紙の膝元に所在する事から富士驛と命名された。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/fuji/index.html

    富士駅

  • 富士駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />石積側壁

    富士駅



    第2番ホーム
    石積側壁

    富士駅

  • 富士駅<br /><br /><br /><br />第3番ホーム上屋

    富士駅



    第3番ホーム上屋

    富士駅

  • 富士駅<br /><br /><br /><br />第3番ホーム上屋<br />支柱古軌条

    富士駅



    第3番ホーム上屋
    支柱古軌条

    富士駅

  • 富士駅<br /><br /><br /><br />第3番ホーム上屋<br />支柱古軌条

    富士駅



    第3番ホーム上屋
    支柱古軌条

    富士駅

  • 富士駅<br /><br /><br /><br />第3番ホーム上屋<br />支柱古軌条

    富士駅



    第3番ホーム上屋
    支柱古軌条

    富士駅

  • 富士駅<br /><br /><br /><br />第3番ホーム上屋<br />支柱古軌条<br />6009 ILINOIS STEEL Co SOUTH WKS 1898 I.R.J.<br />(米イリノイ・スティール社 南ウィスコン州 1898年製造 逓信省鐵道作業局発注品)<br />該駅ホーム上屋支柱使用中の同製品は、<br />第5b番、第9b番<br /><br />支柱番号第5番a

    富士駅



    第3番ホーム上屋
    支柱古軌条
    6009 ILINOIS STEEL Co SOUTH WKS 1898 I.R.J.
    (米イリノイ・スティール社 南ウィスコン州 1898年製造 逓信省鐵道作業局発注品)
    該駅ホーム上屋支柱使用中の同製品は、
    第5b番、第9b番

    支柱番号第5番a

    富士駅

  • 富士駅<br /><br /><br /><br />ホーム上屋<br />支柱古軌条<br />H.WENDEL IX 1929 L.B.S. ASCE TB エ<br />(仏ド・ヴァンデル社 1929年9月製造 鐵道省発注品 米土木学会統一規格仕様)<br />支柱番号第16a号

    富士駅



    ホーム上屋
    支柱古軌条
    H.WENDEL IX 1929 L.B.S. ASCE TB エ
    (仏ド・ヴァンデル社 1929年9月製造 鐵道省発注品 米土木学会統一規格仕様)
    支柱番号第16a号

    富士駅

  • 富士駅<br /><br /><br /><br />第3番ホーム上屋<br />支柱古軌条

    富士駅



    第3番ホーム上屋
    支柱古軌条

    富士駅

  • 富士駅<br /><br /><br /><br />第3ホーム<br />路面<br />東海道本線筋のブルートレインが廃止後数年が経過するもホーム表示痕跡は消し去れぬ。<br />さくら<br />みずほ<br />の停車位置表示が残存。

    富士駅



    第3ホーム
    路面
    東海道本線筋のブルートレインが廃止後数年が経過するもホーム表示痕跡は消し去れぬ。
    さくら
    みずほ
    の停車位置表示が残存。

    富士駅

  • 富士-富士川間<br /><br /><br /><br />分岐器設置点跡<br />昭和57年(1982年)8月2日未明に静岡県地方に襲来した台風10号で富士川下り線橋脚が濁流に押流され落橋した際に、復旧まで上り線橋梁を使用して単線運転を実施したが、急遽、該地点に分岐器を設置し、閉塞区間短縮を謀り列車遅延減少をさせた。<br />分岐器は、同年10月12日に完全復旧後に撤去された。<br /><br />富士市松岡1805<br />東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス四手河原停留所降車 徒歩10分

    富士-富士川間



    分岐器設置点跡
    昭和57年(1982年)8月2日未明に静岡県地方に襲来した台風10号で富士川下り線橋脚が濁流に押流され落橋した際に、復旧まで上り線橋梁を使用して単線運転を実施したが、急遽、該地点に分岐器を設置し、閉塞区間短縮を謀り列車遅延減少をさせた。
    分岐器は、同年10月12日に完全復旧後に撤去された。

    富士市松岡1805
    東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス四手河原停留所降車 徒歩10分

  • 富士-富士川間<br /><br /><br /><br />富士川(ふじかわ)信号所跡<br />該信号所は、明治33年(1900年)11月5日設置である。<br />東海道本線は、該日を以って、新橋-富士川東岸まで複線化を達成したが、富士川橋梁は単線で残されたまま、日露戦争を直前に控えた我が国は、軍事費最優先の状況に、新規架橋すべき予算が存在せず、鈴川(現 吉原)-岩淵(現 富士川)間は単線で残存させられたが、富士川合図所を設置した事で、鈴川-該信号所-岩淵間閉塞を2区間に分割する事で列車増発が可能になった。<br />富士川橋梁が増設され、明治43年(1910年)3月6日附で複線化された事で該信号所は不要な存在と化し、同月15日附で廃止された。<br /><br /><br />富士市松岡1805<br />東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス四手河原停留所降車 徒歩10分

    富士-富士川間



    富士川(ふじかわ)信号所跡
    該信号所は、明治33年(1900年)11月5日設置である。
    東海道本線は、該日を以って、新橋-富士川東岸まで複線化を達成したが、富士川橋梁は単線で残されたまま、日露戦争を直前に控えた我が国は、軍事費最優先の状況に、新規架橋すべき予算が存在せず、鈴川(現 吉原)-岩淵(現 富士川)間は単線で残存させられたが、富士川合図所を設置した事で、鈴川-該信号所-岩淵間閉塞を2区間に分割する事で列車増発が可能になった。
    富士川橋梁が増設され、明治43年(1910年)3月6日附で複線化された事で該信号所は不要な存在と化し、同月15日附で廃止された。


    富士市松岡1805
    東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス四手河原停留所降車 徒歩10分

  • 富士-富士川間<br /><br /><br /><br />富士川橋梁東岸<br />取付部<br /><br />富士市松岡1805<br />東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス四手河原停留所降車 徒歩10分

    富士-富士川間



    富士川橋梁東岸
    取付部

    富士市松岡1805
    東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス四手河原停留所降車 徒歩10分

  • 富士-富士川間<br /><br /><br /><br />富士川(ふじかわ)橋梁<br />該橋は、明治22年(1889年)2月1日開通時の橋梁である。<br />開通時は、英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、<br />英パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製<br />錬鐡製 下路平行ダブルワーレントラス構桁 支間61.0m(200ft)×9連<br />が架橋された。<br />該橋梁工事は、明治21年(1888年)1月に着工し、同年9月に竣工した。<br />総工費は計282360円。<br />鈴川(現 吉原)-岩淵(現 富士川)間複線化工事は、明治41年(1908年)に着工し、該工事進捗と共に、翌明治42年(1909年)6月に、増線分が開通し、取敢えず、運転線路を新線に移行させ、既成線改良工事が実施された。<br />即ち、強度強化、及び、建築限界拡大を目的として、米國人技師 テオドール・クーパー(Theodore COOPER)(1839年(天保10年)~1919年(大正8年)8月24日)、及び、カール・C・シュナイダー(Carl.C.SCHNEIDER)(1843年(天保14年)~1916年(大正5年))共同設計に依る、<br />米國ペンコイド(PENCOYDE)社製<br />鋼鐡製 下路曲弦プラットトラス構桁 支間62.4m(202ft)×9連<br />が架橋され、該改良工事として、既成線橋梁も新橋同様の構桁に架替が施工され、同年3月6日以降は、既成線が上り線専用、新線が下り線専用になった。<br />その後、次世代大型蒸気機関車導入計画が具体化した事から、大正5年(1916年)に、上下線共に、<br />国産<br />川崎造船所製<br />鋼鐡製鋲締<br />下路曲弦ワーレントラス構桁 支間62.4m(202ft)×9連<br />に架替られた。<br /><br />富士市松岡1805<br />東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス四手河原停留所降車 徒歩20分

    富士-富士川間



    富士川(ふじかわ)橋梁
    該橋は、明治22年(1889年)2月1日開通時の橋梁である。
    開通時は、英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、
    英パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製
    錬鐡製 下路平行ダブルワーレントラス構桁 支間61.0m(200ft)×9連
    が架橋された。
    該橋梁工事は、明治21年(1888年)1月に着工し、同年9月に竣工した。
    総工費は計282360円。
    鈴川(現 吉原)-岩淵(現 富士川)間複線化工事は、明治41年(1908年)に着工し、該工事進捗と共に、翌明治42年(1909年)6月に、増線分が開通し、取敢えず、運転線路を新線に移行させ、既成線改良工事が実施された。
    即ち、強度強化、及び、建築限界拡大を目的として、米國人技師 テオドール・クーパー(Theodore COOPER)(1839年(天保10年)~1919年(大正8年)8月24日)、及び、カール・C・シュナイダー(Carl.C.SCHNEIDER)(1843年(天保14年)~1916年(大正5年))共同設計に依る、
    米國ペンコイド(PENCOYDE)社製
    鋼鐡製 下路曲弦プラットトラス構桁 支間62.4m(202ft)×9連
    が架橋され、該改良工事として、既成線橋梁も新橋同様の構桁に架替が施工され、同年3月6日以降は、既成線が上り線専用、新線が下り線専用になった。
    その後、次世代大型蒸気機関車導入計画が具体化した事から、大正5年(1916年)に、上下線共に、
    国産
    川崎造船所製
    鋼鐡製鋲締
    下路曲弦ワーレントラス構桁 支間62.4m(202ft)×9連
    に架替られた。

    富士市松岡1805
    東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス四手河原停留所降車 徒歩20分

  • 富士-富士川間<br /><br /><br /><br />富士川橋梁<br />現下り線<br />下路曲弦プラットトラス構桁<br />大正3年(1914年)8月12日未明上陸の大型台風の大水害が原因で、第1号橋脚が洗堀され該橋脚が11時方向に傾斜した。<br />仮復旧されたが橋脚の状態が不安定な状態だった事から、改めて大正5年(1916年)に、77.9m×1連 47.1m×1連架替が施工された。<br />その後、下り線橋梁の老朽化が深刻な状態になり、昭和31年(1956年)に、上り線橋梁の上流側にスルーガーダー橋桁に依り設置されたのが現上り線用橋梁で、旧上り線用橋梁は下り線専用に変更され使用された。<br />然るに、昭和57年(1982年)8月2日未明に静岡県地方を襲来した台風10号被害に拠り富士川水量が激流化し同日5時14分頃、下り線用橋梁、及び、旧下り線橋梁の一部橋脚、及び、橋桁が流失落下事故が発生した。<br />国鉄本社では取敢えず、無事だった上り線用橋梁を使用して同年同月4日より通票閉塞式を使用し単線運転を再開させた。<br />また、工事中であった久慈線(現 三陸鉄道北リアス線)で架橋予定の部材を活用流用し、下り線流失部に設置架橋させ同年10月12日に完全復旧した。<br /><br />富士市松岡1805<br />東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス四手河原停留所降車 徒歩20分

    富士-富士川間



    富士川橋梁
    現下り線
    下路曲弦プラットトラス構桁
    大正3年(1914年)8月12日未明上陸の大型台風の大水害が原因で、第1号橋脚が洗堀され該橋脚が11時方向に傾斜した。
    仮復旧されたが橋脚の状態が不安定な状態だった事から、改めて大正5年(1916年)に、77.9m×1連 47.1m×1連架替が施工された。
    その後、下り線橋梁の老朽化が深刻な状態になり、昭和31年(1956年)に、上り線橋梁の上流側にスルーガーダー橋桁に依り設置されたのが現上り線用橋梁で、旧上り線用橋梁は下り線専用に変更され使用された。
    然るに、昭和57年(1982年)8月2日未明に静岡県地方を襲来した台風10号被害に拠り富士川水量が激流化し同日5時14分頃、下り線用橋梁、及び、旧下り線橋梁の一部橋脚、及び、橋桁が流失落下事故が発生した。
    国鉄本社では取敢えず、無事だった上り線用橋梁を使用して同年同月4日より通票閉塞式を使用し単線運転を再開させた。
    また、工事中であった久慈線(現 三陸鉄道北リアス線)で架橋予定の部材を活用流用し、下り線流失部に設置架橋させ同年10月12日に完全復旧した。

    富士市松岡1805
    東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス四手河原停留所降車 徒歩20分

  • 富士-富士川間<br /><br /><br /><br />富士川橋梁<br />東京方<br />下り線橋台<br /><br />富士市松岡1805<br />東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス四手河原停留所降車 徒歩20分

    富士-富士川間



    富士川橋梁
    東京方
    下り線橋台

    富士市松岡1805
    東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス四手河原停留所降車 徒歩20分

  • 富士-富士川間<br /><br /><br /><br />富士川橋梁<br />東京方<br />下り線橋台<br />石積構造。<br /><br />富士市松岡1805<br />東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス四手河原停留所降車 徒歩20分

    富士-富士川間



    富士川橋梁
    東京方
    下り線橋台
    石積構造。

    富士市松岡1805
    東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス四手河原停留所降車 徒歩20分

  • 富士-富士川間<br /><br /><br /><br />富士川橋梁<br />東京方<br />旧下り線橋台<br />台座部分は撤去済。<br /><br />富士市松岡1805<br />東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス四手河原停留所降車 徒歩20分

    富士-富士川間



    富士川橋梁
    東京方
    旧下り線橋台
    台座部分は撤去済。

    富士市松岡1805
    東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス四手河原停留所降車 徒歩20分

  • 富士-富士川間<br /><br /><br /><br />富士川橋梁<br />橋脚<br />写真の如き角張った橋脚構造は珍しい。<br /><br />富士市松岡1805<br />東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス四手河原停留所降車 徒歩20分

    富士-富士川間



    富士川橋梁
    橋脚
    写真の如き角張った橋脚構造は珍しい。

    富士市松岡1805
    東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス四手河原停留所降車 徒歩20分

  • 富士-富士川間<br /><br /><br /><br />富士川橋梁<br />上り線用橋梁<br />スルーガーダー9連。<br />昭和31年(1956年)架替。<br /><br />富士市松岡1805<br />東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス四手河原停留所降車 徒歩20分

    富士-富士川間



    富士川橋梁
    上り線用橋梁
    スルーガーダー9連。
    昭和31年(1956年)架替。

    富士市松岡1805
    東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス四手河原停留所降車 徒歩20分

  • 富士-富士川間<br /><br /><br /><br />富士川橋梁<br />上り線用橋梁<br />全景<br /><br />富士市松岡1805<br />東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス四手河原停留所降車 徒歩20分

    富士-富士川間



    富士川橋梁
    上り線用橋梁
    全景

    富士市松岡1805
    東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス四手河原停留所降車 徒歩20分

  • 富士-富士川間<br /><br /><br /><br />職員殉職慰霊碑<br />全景<br /><br />富士市松岡1805<br />東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス四手河原停留所降車 徒歩20分

    富士-富士川間



    職員殉職慰霊碑
    全景

    富士市松岡1805
    東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス四手河原停留所降車 徒歩20分

  • 富士-富士川間<br /><br /><br /><br />職員殉職慰霊碑<br />該碑たる 保科清秀氏が該橋梁点検中に列車に接触し殉職した事を受け、故人を偲ぶ為に、平成5年(1992年)8月吉日に建立された。富士-富士川間<br /><br />富士市松岡1805<br />東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス四手河原停留所降車 徒歩20分

    富士-富士川間



    職員殉職慰霊碑
    該碑たる 保科清秀氏が該橋梁点検中に列車に接触し殉職した事を受け、故人を偲ぶ為に、平成5年(1992年)8月吉日に建立された。富士-富士川間

    富士市松岡1805
    東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス四手河原停留所降車 徒歩20分

  • 富士-富士川間<br /><br /><br /><br />職員殉職慰霊碑<br />背面<br />該碑は、富士山を見上げる角度で設置されている。<br /><br />富士市松岡1805<br />東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス四手河原停留所降車 徒歩20分

    富士-富士川間



    職員殉職慰霊碑
    背面
    該碑は、富士山を見上げる角度で設置されている。

    富士市松岡1805
    東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス四手河原停留所降車 徒歩20分

  • 富士-富士川間<br /><br /><br /><br />富士川橋梁<br />国産<br />川崎造船所製<br />鋼鐡製 <br />下路曲弦ワーレントラス構桁 支間62.4m(202ft)<br />全景<br /><br />富士市岩淵815<br />東海道本線富士川駅 徒歩15分

    富士-富士川間



    富士川橋梁
    国産
    川崎造船所製
    鋼鐡製
    下路曲弦ワーレントラス構桁 支間62.4m(202ft)
    全景

    富士市岩淵815
    東海道本線富士川駅 徒歩15分

  • 富士-富士川間<br /><br /><br /><br />富士川橋梁<br />西岸側<br />全景<br /><br />富士市岩淵815<br />東海道本線富士川駅 徒歩15分

    富士-富士川間



    富士川橋梁
    西岸側
    全景

    富士市岩淵815
    東海道本線富士川駅 徒歩15分

  • 富士-富士川間<br /><br /><br /><br />富士川橋梁<br />西岸側<br />右 下り線用橋梁<br />左 上り線用橋梁<br /><br />富士市岩淵815<br />東海道本線富士川駅 徒歩15分

    富士-富士川間



    富士川橋梁
    西岸側
    右 下り線用橋梁
    左 上り線用橋梁

    富士市岩淵815
    東海道本線富士川駅 徒歩15分

  • 富士-富士川間<br /><br /><br /><br />中ノ郷(なかのごう)橋梁<br /><br />富士市岩淵中之郷793<br />東海道本線富士川駅 徒歩10分

    富士-富士川間



    中ノ郷(なかのごう)橋梁

    富士市岩淵中之郷793
    東海道本線富士川駅 徒歩10分

  • 富士-富士川間<br /><br /><br /><br />中ノ郷橋梁<br />旧下り本線橋台跡<br /><br />富士市岩淵中之郷793<br />東海道本線富士川駅 徒歩10分

    富士-富士川間



    中ノ郷橋梁
    旧下り本線橋台跡

    富士市岩淵中之郷793
    東海道本線富士川駅 徒歩10分

  • 富士-富士川間<br /><br /><br /><br />中ノ郷橋梁<br />旧下り本線橋台跡<br /><br />富士市岩淵中之郷793<br />東海道本線富士川駅 徒歩10分

    富士-富士川間



    中ノ郷橋梁
    旧下り本線橋台跡

    富士市岩淵中之郷793
    東海道本線富士川駅 徒歩10分

  • 富士-富士川間<br /><br /><br /><br />中ノ郷橋梁<br />旧下り本線橋台跡<br />橋台が角型では無く橋脚等々で見られる馬蹄型形式は珍しい。<br /><br />富士市岩淵中之郷793<br />東海道本線富士川駅 徒歩10分

    富士-富士川間



    中ノ郷橋梁
    旧下り本線橋台跡
    橋台が角型では無く橋脚等々で見られる馬蹄型形式は珍しい。

    富士市岩淵中之郷793
    東海道本線富士川駅 徒歩10分

  • 富士-富士川間<br /><br /><br /><br />岩淵(いわぶち)踏切<br /><br /><br />富士市中之郷793<br />東海道本線富士川駅 徒歩5分

    富士-富士川間



    岩淵(いわぶち)踏切


    富士市中之郷793
    東海道本線富士川駅 徒歩5分

  • 富士川(ふじかわ)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治22年(1889年)2月1日開業である。<br />開業当初は岩淵(いわぶち)駅と称した。<br />内閣鐵道局は、当初計画に於いて、鈴川-興津間に途中停車場設置は予定していなかった。<br />然るに、岩淵村では、該地に身延道起点たる事を宣伝し停車場誘致運動を展開し、該駅設置必要用地を無償献納する条件で該駅接地が決定した。<br />また、身延道入口たる事も他候補を排除し、停車場設置の決定打になった。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/fujikawa/index.html

    富士川(ふじかわ)駅



    該駅は、明治22年(1889年)2月1日開業である。
    開業当初は岩淵(いわぶち)駅と称した。
    内閣鐵道局は、当初計画に於いて、鈴川-興津間に途中停車場設置は予定していなかった。
    然るに、岩淵村では、該地に身延道起点たる事を宣伝し停車場誘致運動を展開し、該駅設置必要用地を無償献納する条件で該駅接地が決定した。
    また、身延道入口たる事も他候補を排除し、停車場設置の決定打になった。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/fujikawa/index.html

    富士川駅

  • 富士川駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム

    富士川駅



    第1番ホーム

    富士川駅

  • 富士川駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />特急ふじかわ号

    富士川駅



    駅構内
    特急ふじかわ号

    富士川駅

  • 富士川駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />構内跨線橋<br />昭和37年(1962年)12月竣工

    富士川駅



    第1番ホーム
    構内跨線橋
    昭和37年(1962年)12月竣工

    富士川駅

  • 富士川駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />構内跨線橋<br />竣工当時の銘板<br />岩淵駅跨線橋

    富士川駅



    第1番ホーム
    構内跨線橋
    竣工当時の銘板
    岩淵駅跨線橋

    富士川駅

  • 富士川駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム

    富士川駅



    第2番ホーム

    富士川駅

  • 富士川-新蒲原間<br /><br /><br /><br />日本軽金属専用送水管<br /><br />静岡市清水区蒲原2−1<br />東海道本線新蒲原駅 徒歩7分

    富士川-新蒲原間



    日本軽金属専用送水管

    静岡市清水区蒲原2−1
    東海道本線新蒲原駅 徒歩7分

  • 新蒲原(しんかんばら)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和43年(1968年)10月1日開業である。<br />蒲原町中心部に所在。<br />明治22年(1889年)2月1日に国府津-静岡間開通時に岩淵(現 富士川)-興津間に途中停車場は設置され無かった。<br />同年4月1日に小金村、堰澤村、中村、及び、神澤村が合併し蒲原町が成立した。<br />然し、当時の東海道線は単線であり、且つ、蒲原-由比-興津間に於ける暴風雨の都度、列車運転が規制され遅延原因になっていた事から、岩淵-興津間に停車場設置を要する必然性から、翌明治23年(1890年)5月16日に旧堰澤村地区に蒲原駅が開業する。<br />然し、蒲原駅開業の地たる堰澤地区は蒲原町西端地で、早くも大正7年(1918年)10月に第1回目の駅移転請願陳情がされたが、その都度、鐵道省は請願を却下した。<br />然るに、昭和に入り、日華事変以降、戦時体制に移行する過程に於いて、昭和14年(1939年)に古河電工子会社の日本軽金属工業が現新蒲原駅附近の埋立地にアルミニューム精錬の為に工場設置を決定し、翌昭和15年(1940年)10月15日に操業開始した事も新駅開設に拍車がかかったが、間もなく大東亜戦争勃発に伴い立消えとなった。<br />戦後も新駅開設の為に請願と陳情を反復させた結果、昭和35年(1960年)9月に国鉄本社、及び、運輸省に対する陳情が受容れられ、昭和42年(1967年)8月に蒲原地区新駅設置に関する国鉄本社の許可が下り、此の為に、蒲原町当局は、日本軽金属蒲原工場所有地1293平方メートル、町所有地276平方メートル双方が国鉄に土地を無償提供し開業した。

    新蒲原(しんかんばら)駅



    該駅は、昭和43年(1968年)10月1日開業である。
    蒲原町中心部に所在。
    明治22年(1889年)2月1日に国府津-静岡間開通時に岩淵(現 富士川)-興津間に途中停車場は設置され無かった。
    同年4月1日に小金村、堰澤村、中村、及び、神澤村が合併し蒲原町が成立した。
    然し、当時の東海道線は単線であり、且つ、蒲原-由比-興津間に於ける暴風雨の都度、列車運転が規制され遅延原因になっていた事から、岩淵-興津間に停車場設置を要する必然性から、翌明治23年(1890年)5月16日に旧堰澤村地区に蒲原駅が開業する。
    然し、蒲原駅開業の地たる堰澤地区は蒲原町西端地で、早くも大正7年(1918年)10月に第1回目の駅移転請願陳情がされたが、その都度、鐵道省は請願を却下した。
    然るに、昭和に入り、日華事変以降、戦時体制に移行する過程に於いて、昭和14年(1939年)に古河電工子会社の日本軽金属工業が現新蒲原駅附近の埋立地にアルミニューム精錬の為に工場設置を決定し、翌昭和15年(1940年)10月15日に操業開始した事も新駅開設に拍車がかかったが、間もなく大東亜戦争勃発に伴い立消えとなった。
    戦後も新駅開設の為に請願と陳情を反復させた結果、昭和35年(1960年)9月に国鉄本社、及び、運輸省に対する陳情が受容れられ、昭和42年(1967年)8月に蒲原地区新駅設置に関する国鉄本社の許可が下り、此の為に、蒲原町当局は、日本軽金属蒲原工場所有地1293平方メートル、町所有地276平方メートル双方が国鉄に土地を無償提供し開業した。

    新蒲原駅

  • 新蒲原駅<br /><br /><br /><br />駅前広場

    新蒲原駅



    駅前広場

    新蒲原駅

  • 新蒲原駅<br /><br /><br /><br />駅前広場

    新蒲原駅



    駅前広場

    新蒲原駅

  • 新蒲原駅<br /><br /><br /><br />構内

    新蒲原駅



    構内

    新蒲原駅

  • 新蒲原-蒲原間<br /><br /><br /><br />新蒲原駅構内<br />神戸方から俯瞰。<br /><br />静岡市清水区蒲原4−4−6<br />東海道本線新蒲原駅 徒歩3分

    新蒲原-蒲原間



    新蒲原駅構内
    神戸方から俯瞰。

    静岡市清水区蒲原4−4−6
    東海道本線新蒲原駅 徒歩3分

  • 新蒲原-蒲原間<br /><br /><br /><br />向田川(むかいだがわ)橋梁<br />該橋は、明治22年(1889年)2月1日開通時の橋梁である。<br />開通時は、英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計の、<br />英國製<br />錬鐡製<br />プレート・ガーダー橋桁 径間12.2m(40ft)×1連<br />が架橋された。<br />蒲原-興津間は、明治31年(1898年)7月15日に複線化されたが、その際に、上流側に増線分が設置され完成後は上り線専用となり、既成線は下り線専用になった。<br />その後、上下線橋梁とも架替が実施され、<br />横河橋梁製造<br />鉄道省発注品<br />プレート・ガーダー橋桁 径間12.2m(40ft)が架橋されているが、橋台は初代架橋当時の原型である。<br /><br />静岡市清水区蒲原新田1−20<br />東海道本線新蒲原駅 富士急バス静岡 蒲原文化センター前停留所降車 徒歩1分

    新蒲原-蒲原間



    向田川(むかいだがわ)橋梁
    該橋は、明治22年(1889年)2月1日開通時の橋梁である。
    開通時は、英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計の、
    英國製
    錬鐡製
    プレート・ガーダー橋桁 径間12.2m(40ft)×1連
    が架橋された。
    蒲原-興津間は、明治31年(1898年)7月15日に複線化されたが、その際に、上流側に増線分が設置され完成後は上り線専用となり、既成線は下り線専用になった。
    その後、上下線橋梁とも架替が実施され、
    横河橋梁製造
    鉄道省発注品
    プレート・ガーダー橋桁 径間12.2m(40ft)が架橋されているが、橋台は初代架橋当時の原型である。

    静岡市清水区蒲原新田1−20
    東海道本線新蒲原駅 富士急バス静岡 蒲原文化センター前停留所降車 徒歩1分

  • 新蒲原-蒲原間<br /><br /><br /><br />向田川橋梁<br />全景<br /><br />静岡市清水区蒲原新田1−21−1<br />東海道本線新蒲原駅 富士急バス静岡 蒲原文化センター前停留所降車 徒歩1分

    新蒲原-蒲原間



    向田川橋梁
    全景

    静岡市清水区蒲原新田1−21−1
    東海道本線新蒲原駅 富士急バス静岡 蒲原文化センター前停留所降車 徒歩1分

  • 蒲原(かんばら)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治23年(1890年)5月16日開業である。<br />明治22年(1889年)2月1日に国府津-静岡間開通時に岩淵(現 富士川)-興津間に停車場は設置されなかった。<br />更に、同年4月1日に小金村、堰澤村、中村、及び、神澤村が合併し蒲原町が成立した。<br />然し、当時の東海道線は単線であり、且つ、蒲原-由比-興津間に於ける暴風雨波浪の都度、列車運転が規制され遅延原因になっていた事から、岩淵-興津間に停車場設置を要する事となり旧堰澤村地区に蒲原駅が開設された。<br />当初地元では、旧蒲原本宿附近に停車場設置を希望したが、蒲原町、及び、由比村中間点として現位置に決定を見た。<br />然し、蒲原駅開業の地たる堰澤地区は蒲原町西端地で、何度か駅移転請願陳情がされたが、その都度、鐵道省は請願を却下した。<br />堰澤地区では停車場設置が決定した事で土地を進んで無償提供した。<br />大東亜戦争後、富士宮大石寺への団体参拝客は当時の身延線は全線単線で富士駅に於ける転線扱も限界だった為に、神戸方からの団体列車旅客は蒲原駅で下車させバスで移動させた為に、当時の駅施設では貧弱さが免れなかった為に、上り駅ホーム上屋設置が決定し、昭和39年(1964年)9月に着工し同年11月に竣工し同時に駅前広場も舗装された。<br />更に、駅本屋も老朽化が顕著になった事から昭和41年(1966年)9月に改築工事を開始し、翌昭和42年(1967年)12月6日に第2代目現行駅本屋が竣工した。<br />

    蒲原(かんばら)駅



    該駅は、明治23年(1890年)5月16日開業である。
    明治22年(1889年)2月1日に国府津-静岡間開通時に岩淵(現 富士川)-興津間に停車場は設置されなかった。
    更に、同年4月1日に小金村、堰澤村、中村、及び、神澤村が合併し蒲原町が成立した。
    然し、当時の東海道線は単線であり、且つ、蒲原-由比-興津間に於ける暴風雨波浪の都度、列車運転が規制され遅延原因になっていた事から、岩淵-興津間に停車場設置を要する事となり旧堰澤村地区に蒲原駅が開設された。
    当初地元では、旧蒲原本宿附近に停車場設置を希望したが、蒲原町、及び、由比村中間点として現位置に決定を見た。
    然し、蒲原駅開業の地たる堰澤地区は蒲原町西端地で、何度か駅移転請願陳情がされたが、その都度、鐵道省は請願を却下した。
    堰澤地区では停車場設置が決定した事で土地を進んで無償提供した。
    大東亜戦争後、富士宮大石寺への団体参拝客は当時の身延線は全線単線で富士駅に於ける転線扱も限界だった為に、神戸方からの団体列車旅客は蒲原駅で下車させバスで移動させた為に、当時の駅施設では貧弱さが免れなかった為に、上り駅ホーム上屋設置が決定し、昭和39年(1964年)9月に着工し同年11月に竣工し同時に駅前広場も舗装された。
    更に、駅本屋も老朽化が顕著になった事から昭和41年(1966年)9月に改築工事を開始し、翌昭和42年(1967年)12月6日に第2代目現行駅本屋が竣工した。

    蒲原駅

  • 蒲原駅<br /><br /><br /><br />駅前広場<br />団体バスを捌く為に、近隣諸駅と比較して駅前広場が際立って広い。

    蒲原駅



    駅前広場
    団体バスを捌く為に、近隣諸駅と比較して駅前広場が際立って広い。

    蒲原駅

  • 蒲原駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />東京方<br />俯瞰

    蒲原駅



    駅構内
    東京方
    俯瞰

    蒲原駅

  • 蒲原駅<br /><br /><br /><br />駅構内

    蒲原駅



    駅構内

    蒲原駅

  • 蒲原駅<br /><br /><br /><br />駅構内

    蒲原駅



    駅構内

    蒲原駅

  • 蒲原駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />団体列車着発をしていた事から、ホーム総延長が長く設置された。

    蒲原駅



    第1番ホーム
    団体列車着発をしていた事から、ホーム総延長が長く設置された。

    蒲原駅

  • 蒲原-由比間<br /><br /><br /><br />神澤川(かみざわがわ)橋梁<br />該橋は、明治22年(1889年)2月1日開通時の橋梁である。<br />開通時は、英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles A.POWNALL)(生没年不詳)設計に拠る<br />英國製<br />錬鐡製<br />プレートガーダー橋桁 径間9.1m(30ft)×1連<br />が架橋された。<br />蒲原-興津間複線化工事は、明治30年(1897年)に着工したが、複線化工事進捗と共に、翌明治31年(1898年)2月に増線分が開通し、取敢えず、運転線路を新線に移行させ、直ちに既存線の改良工事に着手し、<br />米國人技師 テオドール・クーパー(Thodore COOPER)(生没年不詳)、及び、カール・D・シュナイダー(Carl C.SCHNEIDER)(生没年不詳)共同設計に拠る<br />米國製<br />鋼鐡製<br />プレートガーダー橋桁 径間9.1m(30ft)×1連<br />に架替が実施され、明治31年(1898年)7月15日に複線化工事竣工後、新線は上り線となり、既存線は下り線専用になった。<br />更に、次世代大型蒸気機関車導入計画に伴い、該機種対応とすべく、<br />国産<br />鋼鐡製<br />プレートガーダー橋桁 径間9.1m(30ft)×1連<br />に再架替された。<br /><br />静岡市清水区蒲原町神沢425<br />東海道本線蒲原駅 徒歩12分

    蒲原-由比間



    神澤川(かみざわがわ)橋梁
    該橋は、明治22年(1889年)2月1日開通時の橋梁である。
    開通時は、英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles A.POWNALL)(生没年不詳)設計に拠る
    英國製
    錬鐡製
    プレートガーダー橋桁 径間9.1m(30ft)×1連
    が架橋された。
    蒲原-興津間複線化工事は、明治30年(1897年)に着工したが、複線化工事進捗と共に、翌明治31年(1898年)2月に増線分が開通し、取敢えず、運転線路を新線に移行させ、直ちに既存線の改良工事に着手し、
    米國人技師 テオドール・クーパー(Thodore COOPER)(生没年不詳)、及び、カール・D・シュナイダー(Carl C.SCHNEIDER)(生没年不詳)共同設計に拠る
    米國製
    鋼鐡製
    プレートガーダー橋桁 径間9.1m(30ft)×1連
    に架替が実施され、明治31年(1898年)7月15日に複線化工事竣工後、新線は上り線となり、既存線は下り線専用になった。
    更に、次世代大型蒸気機関車導入計画に伴い、該機種対応とすべく、
    国産
    鋼鐡製
    プレートガーダー橋桁 径間9.1m(30ft)×1連
    に再架替された。

    静岡市清水区蒲原町神沢425
    東海道本線蒲原駅 徒歩12分

  • 蒲原-由比間<br /><br /><br /><br />低防波堤<br />開始地点<br /><br />静岡市清水区由比町由比178<br />東海道本線蒲原駅 富士急静岡バス西神沢停留所降車 徒歩2分

    蒲原-由比間



    低防波堤
    開始地点

    静岡市清水区由比町由比178
    東海道本線蒲原駅 富士急静岡バス西神沢停留所降車 徒歩2分

  • 蒲原-由比間<br /><br /><br /><br />高防波堤<br />開始地点<br /><br />静岡市清水区由比町由比174<br />東海道本線蒲原駅 富士急静岡バス西神沢停留所降車 徒歩3分

    蒲原-由比間



    高防波堤
    開始地点

    静岡市清水区由比町由比174
    東海道本線蒲原駅 富士急静岡バス西神沢停留所降車 徒歩3分

  • 蒲原-由比間<br /><br /><br /><br />高防波堤<br />蒲原-由比-興津間は駿河湾に直接面している為に常に大波浪を直接受け、暴風雨時は列車運行に重大支障を来たす路盤浸食作用が多発していた事から、鐵道省と名古屋鐵道局は、大正13年(1924年)に東海道本線を該被害に無関係となる、さった山側への長大隧道設置に依る路線移設計画を立案した。<br />然るに、該計画を知った、蒲原町、及び、由比村は路線変更に伴う駅廃止に拠る既成権喪失を理由に該計画に対し強硬に反対を唱え名古屋鐵道局長に対し嘆願書を提出した。<br />当時の第20代静岡縣知事 伊東喜八郎(いとう きはちろう)(明治15年(1882年)7月15日〜昭和52年(1977年)3月30日)(大正13年(1924年)7月23日〜大正15年(1926年)9月28日在任)も地元側見解を支持した事から、鐵道省は防波堤設置で解決を諮ろうとしたが、該計画案は海岸部に対し階段状に拠るものだった為に舟の陸揚着水時に不便たる事から、地元の受容れられぬ事となり、鐵道省は再検討の結果、海岸部へは通路状に設計変更する計画案で双方合意し、翌大正14年(1925年)10月に着工し昭和2年(1926年)7月に竣工した。<br /><br />静岡市清水区由比町由比131<br />東海道本線蒲原駅 富士急静岡バス老人福祉センター入口停留所降車 徒歩4分

    蒲原-由比間



    高防波堤
    蒲原-由比-興津間は駿河湾に直接面している為に常に大波浪を直接受け、暴風雨時は列車運行に重大支障を来たす路盤浸食作用が多発していた事から、鐵道省と名古屋鐵道局は、大正13年(1924年)に東海道本線を該被害に無関係となる、さった山側への長大隧道設置に依る路線移設計画を立案した。
    然るに、該計画を知った、蒲原町、及び、由比村は路線変更に伴う駅廃止に拠る既成権喪失を理由に該計画に対し強硬に反対を唱え名古屋鐵道局長に対し嘆願書を提出した。
    当時の第20代静岡縣知事 伊東喜八郎(いとう きはちろう)(明治15年(1882年)7月15日〜昭和52年(1977年)3月30日)(大正13年(1924年)7月23日〜大正15年(1926年)9月28日在任)も地元側見解を支持した事から、鐵道省は防波堤設置で解決を諮ろうとしたが、該計画案は海岸部に対し階段状に拠るものだった為に舟の陸揚着水時に不便たる事から、地元の受容れられぬ事となり、鐵道省は再検討の結果、海岸部へは通路状に設計変更する計画案で双方合意し、翌大正14年(1925年)10月に着工し昭和2年(1926年)7月に竣工した。

    静岡市清水区由比町由比131
    東海道本線蒲原駅 富士急静岡バス老人福祉センター入口停留所降車 徒歩4分

  • 蒲原-由比間<br /><br /><br /><br />防波堤<br />内陸海岸接続部<br />現在は通行禁止<br /><br />静岡市清水区由比町由比21<br />東海道本線蒲原駅 富士急静岡バス老人福祉センター入口停留所降車 徒歩5分

    蒲原-由比間



    防波堤
    内陸海岸接続部
    現在は通行禁止

    静岡市清水区由比町由比21
    東海道本線蒲原駅 富士急静岡バス老人福祉センター入口停留所降車 徒歩5分

  • 蒲原-由比間<br /><br /><br /><br />由比川(ゆいがわ)橋梁<br />該橋は、明治22年(1889年)2月1日開通時の橋梁である。<br />開通時は、英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、<br />英國製<br />錬鐵製<br />プレート・ガーダー橋桁 支間18.3m(60ft)×5連<br />が架橋された。<br />蒲原-興津間は、明治31年(1898年)7月11日に複線化された際に、該河川上流側に新橋が架橋され、既成橋は下り線専用になった。<br />その後、<br />横河橋梁製<br />鐡道省発注品<br />鋼鉄製<br />プレート・ガーダー橋桁 支間18.3m(60ft)×5連<br />に架替が実施された。<br />該橋、橋台、及び、橋脚は一部改造されているが、何れも架橋当時の原型である。<br /><br />静岡市清水区由比町由比21<br />東海道本線由比駅 徒歩20分

    蒲原-由比間



    由比川(ゆいがわ)橋梁
    該橋は、明治22年(1889年)2月1日開通時の橋梁である。
    開通時は、英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、
    英國製
    錬鐵製
    プレート・ガーダー橋桁 支間18.3m(60ft)×5連
    が架橋された。
    蒲原-興津間は、明治31年(1898年)7月11日に複線化された際に、該河川上流側に新橋が架橋され、既成橋は下り線専用になった。
    その後、
    横河橋梁製
    鐡道省発注品
    鋼鉄製
    プレート・ガーダー橋桁 支間18.3m(60ft)×5連
    に架替が実施された。
    該橋、橋台、及び、橋脚は一部改造されているが、何れも架橋当時の原型である。

    静岡市清水区由比町由比21
    東海道本線由比駅 徒歩20分

  • 蒲原-由比間<br /><br /><br /><br />由比川橋梁<br />橋脚<br /><br />静岡市清水区由比町由比21<br />東海道本線由比駅 徒歩20分

    蒲原-由比間



    由比川橋梁
    橋脚

    静岡市清水区由比町由比21
    東海道本線由比駅 徒歩20分

  • 蒲原-由比間<br /><br /><br /><br />低防波堤<br /><br />静岡市清水区由比町北田421<br />東海道本線由比駅 徒歩18分

    蒲原-由比間



    低防波堤

    静岡市清水区由比町北田421
    東海道本線由比駅 徒歩18分

  • 蒲原-由比間<br /><br /><br /><br />和瀬川(わせ がわ)橋梁<br />該橋は、明治22年(1889年)2月1日開通時の橋梁である。<br />開通時は、英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles A.POWNALL)(生没年不詳)設計に拠る<br />英國製<br />錬鐡混在<br />プレートガーダー橋桁 径間12.2m(40ft)×1連<br />が架橋された。<br />蒲原-興津間複線化工事は、明治30年(1897年)に着工したが、複線化工事進捗と共に、翌明治31年(1898年)2月に増線分が開通し、取敢えず、運転線路を新線に移行させ、直ちに既存線の改良工事に着手し、<br />米國人技師 テオドール・クーパー(Thodore COOPER)(生没年不詳)、及び、カール・D・シュナイダー(Carl C.SCHNEIDER)(生没年不詳)共同設計に拠る<br />米國製<br />鋼鐡製<br />プレートガーダー橋桁 径間12.2m(40ft)×1連<br />に架替が実施され、明治31年(1898年)7月15日に複線化工事竣工後、新線は上り線となり、既存線は下り線専用になった。<br />更に、次世代大型蒸気機関車導入計画に伴い、該機種対応とすべく、<br />国産<br />鋼鐡製<br />プレートガーダー橋桁 径間12.2m(40ft)×1連<br />に再架替された。<br /><br />静岡市清水区由比町屋敷1−1<br />東海道本線由比駅 徒歩12分

    蒲原-由比間



    和瀬川(わせ がわ)橋梁
    該橋は、明治22年(1889年)2月1日開通時の橋梁である。
    開通時は、英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles A.POWNALL)(生没年不詳)設計に拠る
    英國製
    錬鐡混在
    プレートガーダー橋桁 径間12.2m(40ft)×1連
    が架橋された。
    蒲原-興津間複線化工事は、明治30年(1897年)に着工したが、複線化工事進捗と共に、翌明治31年(1898年)2月に増線分が開通し、取敢えず、運転線路を新線に移行させ、直ちに既存線の改良工事に着手し、
    米國人技師 テオドール・クーパー(Thodore COOPER)(生没年不詳)、及び、カール・D・シュナイダー(Carl C.SCHNEIDER)(生没年不詳)共同設計に拠る
    米國製
    鋼鐡製
    プレートガーダー橋桁 径間12.2m(40ft)×1連
    に架替が実施され、明治31年(1898年)7月15日に複線化工事竣工後、新線は上り線となり、既存線は下り線専用になった。
    更に、次世代大型蒸気機関車導入計画に伴い、該機種対応とすべく、
    国産
    鋼鐡製
    プレートガーダー橋桁 径間12.2m(40ft)×1連
    に再架替された。

    静岡市清水区由比町屋敷1−1
    東海道本線由比駅 徒歩12分

  • 蒲原-由比間<br /><br /><br /><br />高防波堤<br /><br />静岡市清水区由比町今宿54<br />東海道本線由比駅 徒歩9分

    蒲原-由比間



    高防波堤

    静岡市清水区由比町今宿54
    東海道本線由比駅 徒歩9分

  • 由比駅<br /><br /><br /><br />低防波堤

    由比駅



    低防波堤

    由比駅

  • 由比駅<br /><br /><br /><br />低防波堤<br />断面

    由比駅



    低防波堤
    断面

    由比駅

  • 由比(ゆい)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、大正5年(1916年)4月15日開業である。<br />然るに、該駅付近は駿河湾に急傾斜で直面し、背後は急峻な山並を形成していた為に、東海道線國府津-静岡間開通時より風水害、及び、地滑り被害が頻発していた事から、該駅開業後数年後には所管の名古屋鐵道局が山側への路線変更を立案した程だった。<br />昭和36年(1961年)3月14日5時頃に、寺尾山中腹に於いて発生した地滑りは土砂が東海道本線至近地まで押寄せ、事の重大性から、当時の国鉄本社は該駅に災害対策本部を設置し、最悪時に於ける交通遮断の際は、関東大震災直後に実施した先例に従い、沼津港-清水間に廃船寸前の旧関釜航路連絡船 徳寿丸(とくじゅまる)3619tを活用し代替輸送も検討されたが、東海道本線に対し地滑り被害が発生しなかった為に日の目を見ず終わった。<br />然るに、昭和49年(1974年)7月7日未明に浜名湖に上陸した台風8号は、静岡県下に記録的集中豪雨を出し、静岡地方気象台では1時間当り最大508mmと言う該気象台創設以来、記録的雨量を観測し、由比駅設置の雨量計が1時間当り最大376mmを記録した矢先、由比町に於いて大規模土石流が発生した。<br />不幸中の幸いに該土石流発生に拠る死者こそ生じなかったが、流失土砂は国道1号線から東海道本線を抜け駿河湾まで押寄せ、国道1号線は23日間、東海道本線は7日間不通になった。<br />政府は、建設省土木局、及び、国土庁をして災害復旧工事として恒久的地滑り対策工事を施工する事になったが、東海道本線は、該駅構内神戸方で地滑り再来に備え、140mに亙り恒久的土砂覆が設置されたが、他方、該駅では、土石流流失土砂で使用不能になった貨物取扱施設は復旧を放棄し、同年10月1日附で該駅貨物取扱を廃止した。<br />旧貨物取扱ホーム跡864?は、翌昭和50年(1975年)11月1日附で国鉄より由比町に払下られ、町では跡地を駅前公園として整備造成し、翌昭和51年(1976年)3月に竣工した。<br />開業以来使用された駅本屋は老朽化の為に昭和53年(1978年)10月に解体され、翌昭和54年(1979年)3月に鉄筋コンクリート平屋造駅本屋が竣工し同年4月8日に落成式を挙行した。

    由比(ゆい)駅



    該駅は、大正5年(1916年)4月15日開業である。
    然るに、該駅付近は駿河湾に急傾斜で直面し、背後は急峻な山並を形成していた為に、東海道線國府津-静岡間開通時より風水害、及び、地滑り被害が頻発していた事から、該駅開業後数年後には所管の名古屋鐵道局が山側への路線変更を立案した程だった。
    昭和36年(1961年)3月14日5時頃に、寺尾山中腹に於いて発生した地滑りは土砂が東海道本線至近地まで押寄せ、事の重大性から、当時の国鉄本社は該駅に災害対策本部を設置し、最悪時に於ける交通遮断の際は、関東大震災直後に実施した先例に従い、沼津港-清水間に廃船寸前の旧関釜航路連絡船 徳寿丸(とくじゅまる)3619tを活用し代替輸送も検討されたが、東海道本線に対し地滑り被害が発生しなかった為に日の目を見ず終わった。
    然るに、昭和49年(1974年)7月7日未明に浜名湖に上陸した台風8号は、静岡県下に記録的集中豪雨を出し、静岡地方気象台では1時間当り最大508mmと言う該気象台創設以来、記録的雨量を観測し、由比駅設置の雨量計が1時間当り最大376mmを記録した矢先、由比町に於いて大規模土石流が発生した。
    不幸中の幸いに該土石流発生に拠る死者こそ生じなかったが、流失土砂は国道1号線から東海道本線を抜け駿河湾まで押寄せ、国道1号線は23日間、東海道本線は7日間不通になった。
    政府は、建設省土木局、及び、国土庁をして災害復旧工事として恒久的地滑り対策工事を施工する事になったが、東海道本線は、該駅構内神戸方で地滑り再来に備え、140mに亙り恒久的土砂覆が設置されたが、他方、該駅では、土石流流失土砂で使用不能になった貨物取扱施設は復旧を放棄し、同年10月1日附で該駅貨物取扱を廃止した。
    旧貨物取扱ホーム跡864?は、翌昭和50年(1975年)11月1日附で国鉄より由比町に払下られ、町では跡地を駅前公園として整備造成し、翌昭和51年(1976年)3月に竣工した。
    開業以来使用された駅本屋は老朽化の為に昭和53年(1978年)10月に解体され、翌昭和54年(1979年)3月に鉄筋コンクリート平屋造駅本屋が竣工し同年4月8日に落成式を挙行した。

    由比駅

  • 由比駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />跨線橋<br />側板等々は取替られているが本体は設置当時の原型。

    由比駅



    第1番ホーム
    跨線橋
    側板等々は取替られているが本体は設置当時の原型。

    由比駅

  • 由比駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />跨線橋<br />古軌条支柱<br />八幡製鐡所社標 ND60 A 1906

    由比駅



    第1番ホーム
    跨線橋
    古軌条支柱
    八幡製鐡所社標 ND60 A 1906

    由比駅

  • 由比駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />跨線橋<br />古軌条支柱<br />八幡製鐡所社標 ND60 A 1906

    由比駅



    第1番ホーム
    跨線橋
    古軌条支柱
    八幡製鐡所社標 ND60 A 1906

    由比駅

  • 由比駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />跨線橋<br />古軌条支柱<br />八幡製鐡所社標 ND60 A 1906

    由比駅



    第2番ホーム
    跨線橋
    古軌条支柱
    八幡製鐡所社標 ND60 A 1906

    由比駅

  • 由比駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />跨線橋<br />古軌条支柱<br />八幡製鐡所社標 ND60 A 1906<br />(八幡製鐡所1906年製造 60ポンド(37kg)軌条)<br />我が国は、日清戦争以降、従来に於ける重化学製品海外依存を国産化させる為に政府指導で準備を進め、明治34年(1901年)2月6日に北九州八幡に内務省八幡製鐡所を開設し、同年7月より30kg軌条が生産開始された。<br />然し、操業黎明期故に、当時の我が国技術では上級品を生産する事は困難であり、事実完成品を試用した処、48時間後の検査では25mmの磨耗が発見される状態だった。<br />明治38年(1905年)より幹線用60ポンド軌条、即ち、37kg軌条の生産を開始したが、該跨線橋支柱に転用された軌条は37kg軌条生産当初の製品で貴重な物である。<br />因みに軌条類で特殊目的用途品以外の軌条の完全国産化は昭和6年(1931年)である。

    由比駅



    第2番ホーム
    跨線橋
    古軌条支柱
    八幡製鐡所社標 ND60 A 1906
    (八幡製鐡所1906年製造 60ポンド(37kg)軌条)
    我が国は、日清戦争以降、従来に於ける重化学製品海外依存を国産化させる為に政府指導で準備を進め、明治34年(1901年)2月6日に北九州八幡に内務省八幡製鐡所を開設し、同年7月より30kg軌条が生産開始された。
    然し、操業黎明期故に、当時の我が国技術では上級品を生産する事は困難であり、事実完成品を試用した処、48時間後の検査では25mmの磨耗が発見される状態だった。
    明治38年(1905年)より幹線用60ポンド軌条、即ち、37kg軌条の生産を開始したが、該跨線橋支柱に転用された軌条は37kg軌条生産当初の製品で貴重な物である。
    因みに軌条類で特殊目的用途品以外の軌条の完全国産化は昭和6年(1931年)である。

    由比駅

  • 由比駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />第2番ホーム<br />古軌条支柱

    由比駅



    駅構内
    第2番ホーム
    古軌条支柱

    由比駅

  • 由比駅<br /><br /><br /><br />旧貨物取扱所跡<br />昭和49年(1974年)7月7日未明に浜名湖に上陸した台風8号は、静岡県下に記録的集中豪雨を出し、静岡地方気象台では1時間当り最大508mmと言う該気象台創設以来、記録的雨量を観測し、由比駅設置の雨量計が1時間当り最大376mmを記録した矢先、由比町に於いて大規模土石流が発生した。<br />不幸中の幸いに該土石流発生に拠る死者こそ生じなかったが、流失土砂は国道1号線から東海道本線を抜け駿河湾まで押寄せ、国道1号線は23日間、東海道本線は7日間不通になった。<br />政府は、建設省土木局、及び、国土庁をして災害復旧工事として恒久的地滑り対策工事を施工する事になったが、東海道本線は、該駅構内神戸方で地滑り再来に備え、140mに亙り恒久的土砂覆が設置されたが、他方、該駅では、土石流流失土砂で使用不能になった貨物取扱施設は復旧を放棄し、同年10月1日附で該駅貨物取扱を廃止した。<br />旧貨物取扱ホーム跡864?は、翌昭和50年(1975年)11月1日附で国鉄より由比町に払下られ、町では跡地を駅前公園として整備造成し、翌昭和51年(1976年)3月に竣工した。

    由比駅



    旧貨物取扱所跡
    昭和49年(1974年)7月7日未明に浜名湖に上陸した台風8号は、静岡県下に記録的集中豪雨を出し、静岡地方気象台では1時間当り最大508mmと言う該気象台創設以来、記録的雨量を観測し、由比駅設置の雨量計が1時間当り最大376mmを記録した矢先、由比町に於いて大規模土石流が発生した。
    不幸中の幸いに該土石流発生に拠る死者こそ生じなかったが、流失土砂は国道1号線から東海道本線を抜け駿河湾まで押寄せ、国道1号線は23日間、東海道本線は7日間不通になった。
    政府は、建設省土木局、及び、国土庁をして災害復旧工事として恒久的地滑り対策工事を施工する事になったが、東海道本線は、該駅構内神戸方で地滑り再来に備え、140mに亙り恒久的土砂覆が設置されたが、他方、該駅では、土石流流失土砂で使用不能になった貨物取扱施設は復旧を放棄し、同年10月1日附で該駅貨物取扱を廃止した。
    旧貨物取扱ホーム跡864?は、翌昭和50年(1975年)11月1日附で国鉄より由比町に払下られ、町では跡地を駅前公園として整備造成し、翌昭和51年(1976年)3月に竣工した。

    由比駅

  • 由比駅<br /><br /><br /><br />駅前広場<br />由比驛記念碑<br />開駅記念碑

    由比駅



    駅前広場
    由比驛記念碑
    開駅記念碑

    由比駅

  • 由比駅<br /><br /><br /><br />駅前広場<br />開駅記念碑と開業記念に植樹されたイチョウ<br />然し、現状はゴミ集積場。<br />該駅設置の為に奔走した先人達は此れを見たら如何にと思うか。

    由比駅



    駅前広場
    開駅記念碑と開業記念に植樹されたイチョウ
    然し、現状はゴミ集積場。
    該駅設置の為に奔走した先人達は此れを見たら如何にと思うか。

    由比駅

  • 由比駅<br /><br /><br /><br />駅構内

    由比駅



    駅構内

    由比駅

  • 由比駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />右手は旧貨物取扱施設跡

    由比駅



    駅構内
    右手は旧貨物取扱施設跡

    由比駅

  • 由比駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />全景

    由比駅



    駅構内
    全景

    由比駅

  • 由比駅<br /><br /><br /><br />中ノ沢防土覆<br />

    由比駅



    中ノ沢防土覆

  • 由比駅<br /><br /><br /><br />崩壊部分<br />写真中央部凹部分が崩壊し、山津波と化して海岸まで土石流が押寄せた。<br /><br />静岡市清水区由比町寺尾791<br />東海道本線由比駅 徒歩6分

    由比駅



    崩壊部分
    写真中央部凹部分が崩壊し、山津波と化して海岸まで土石流が押寄せた。

    静岡市清水区由比町寺尾791
    東海道本線由比駅 徒歩6分

  • 由比駅<br /><br /><br /><br />中ノ沢防土覆<br /><br />静岡市清水区由比町寺尾523<br />東海道本線由比駅 徒歩6分

    由比駅



    中ノ沢防土覆

    静岡市清水区由比町寺尾523
    東海道本線由比駅 徒歩6分

  • 由比駅<br /><br /><br /><br />中ノ沢防土覆<br /><br />静岡市清水区由比町寺尾545<br />東海道本線由比駅 徒歩8分

    由比駅



    中ノ沢防土覆

    静岡市清水区由比町寺尾545
    東海道本線由比駅 徒歩8分

  • 由比-興津間<br /><br /><br /><br />安政大震災隆起部<br /><br />静岡市清水区由比町寺尾83<br />東海道本線由比駅 徒歩16分

    由比-興津間



    安政大震災隆起部

    静岡市清水区由比町寺尾83
    東海道本線由比駅 徒歩16分

  • 由比-興津間<br /><br /><br /><br />洞隧道(ほら ずいどう)信号所跡<br />該信号所は、明治43年(1910年)8月24日設置である。<br />同年同月11日未明に関東地方に襲来した暴風雨は、近現代に於ける台風勢力としては、観測史上記録的超大型台風だったとされ、此の為に、関東、及び、近隣諸県に甚大被害を生じせしめた。<br />該台風襲来の結果、該隧道新橋方入口付近法面が大規模崩壊し、更に、該隧道内部に変状が発見された事から、同年同月24日附で、現在の東京起点161.7km地点に該信号所を設置し、該信号所-興津間を単線運転させながら、休止中隧道内部整備工事を施工させた。<br />因みに、該工事は同年内に竣工したが、該信号所廃止日は不明である。<br /><br />静岡市清水区興津東町無番地<br />東海道本線興津駅 タクシー12分

    由比-興津間



    洞隧道(ほら ずいどう)信号所跡
    該信号所は、明治43年(1910年)8月24日設置である。
    同年同月11日未明に関東地方に襲来した暴風雨は、近現代に於ける台風勢力としては、観測史上記録的超大型台風だったとされ、此の為に、関東、及び、近隣諸県に甚大被害を生じせしめた。
    該台風襲来の結果、該隧道新橋方入口付近法面が大規模崩壊し、更に、該隧道内部に変状が発見された事から、同年同月24日附で、現在の東京起点161.7km地点に該信号所を設置し、該信号所-興津間を単線運転させながら、休止中隧道内部整備工事を施工させた。
    因みに、該工事は同年内に竣工したが、該信号所廃止日は不明である。

    静岡市清水区興津東町無番地
    東海道本線興津駅 タクシー12分

  • 由比-興津間<br /><br /><br /><br />洞隧道(ほら ずいどう)信号所跡<br />該信号所は、明治44年(1911年)3月9日設置である。<br />該仮信号所付近は、さった峠直下に所在し、側面意対し崖が直立する為に、常時側面崩壊、崩落被害が頻発していた事から、鐵道院は抜本的対策として擁護壁設置を決定し、此の為に、敢えて山側上り線線路敷地を該工事用地して一時活用させる為に、該擁護壁工事中、該所に仮信号所、及び、分岐機器を設置し、現在の東京起点161.8km地点に該信号所を設置し、該信号所-興津間を単線運転させながら、擁護壁設置工事を施工させた。<br />因みに、該工事は同年内に竣工したが、該信号所廃止日は不明である。<br /><br />静岡市清水区興津東町無番地<br />東海道本線興津駅 タクシー12分

    由比-興津間



    洞隧道(ほら ずいどう)信号所跡
    該信号所は、明治44年(1911年)3月9日設置である。
    該仮信号所付近は、さった峠直下に所在し、側面意対し崖が直立する為に、常時側面崩壊、崩落被害が頻発していた事から、鐵道院は抜本的対策として擁護壁設置を決定し、此の為に、敢えて山側上り線線路敷地を該工事用地して一時活用させる為に、該擁護壁工事中、該所に仮信号所、及び、分岐機器を設置し、現在の東京起点161.8km地点に該信号所を設置し、該信号所-興津間を単線運転させながら、擁護壁設置工事を施工させた。
    因みに、該工事は同年内に竣工したが、該信号所廃止日は不明である。

    静岡市清水区興津東町無番地
    東海道本線興津駅 タクシー12分

  • 由比-興津間<br /><br /><br /><br />洞(ほら)隧道<br />上下線東京方坑門<br />遠景<br /><br />静岡市清水区興津東町無番地<br />東海道本線興津駅 タクシー11分

    由比-興津間



    洞(ほら)隧道
    上下線東京方坑門
    遠景

    静岡市清水区興津東町無番地
    東海道本線興津駅 タクシー11分

  • 由比-興津間<br /><br /><br /><br />洞第1号(ほら だいいち ごう)隧道<br />該隧道は御殿場-静岡間に於ける唯一の隧道施設で、明治19年(1886年)7月に着工したが、工事途中に背後が崖崩れが発生し土砂が海辺まで押し流される事故も生じた。<br />明治20年(1887年)12月迄に坑内煉瓦巻作業が完了。<br />竣工時は、東京方より洞第1号隧道96m、洞隧道294m。<br />尚、当時現場では、<br />弁天ノ穴ヲ昼掘ラレテモ親知ラストハ洞ンヤナルマイ<br />なる卑猥な狂歌も謡われた。<br />その後、複線化を前に山側に新隧道302mを掘削し、該新隧道完成後は旧隧道改良工事を施行し、改良工事完成後は旧隧道2本を下り専用とし、新隧道は上り線専用となる。<br /><br />静岡市清水区興津東町無番地<br />東海道本線興津駅 タクシー11分

    由比-興津間



    洞第1号(ほら だいいち ごう)隧道
    該隧道は御殿場-静岡間に於ける唯一の隧道施設で、明治19年(1886年)7月に着工したが、工事途中に背後が崖崩れが発生し土砂が海辺まで押し流される事故も生じた。
    明治20年(1887年)12月迄に坑内煉瓦巻作業が完了。
    竣工時は、東京方より洞第1号隧道96m、洞隧道294m。
    尚、当時現場では、
    弁天ノ穴ヲ昼掘ラレテモ親知ラストハ洞ンヤナルマイ
    なる卑猥な狂歌も謡われた。
    その後、複線化を前に山側に新隧道302mを掘削し、該新隧道完成後は旧隧道改良工事を施行し、改良工事完成後は旧隧道2本を下り専用とし、新隧道は上り線専用となる。

    静岡市清水区興津東町無番地
    東海道本線興津駅 タクシー11分

  • 由比-興津間<br /><br /><br /><br />洞第2号(ほら だいにごう)隧道<br />東京方<br />坑門<br />上り線用<br /><br />静岡市清水区興津東町無番地<br />東海道本線興津駅 タクシー11分

    由比-興津間



    洞第2号(ほら だいにごう)隧道
    東京方
    坑門
    上り線用

    静岡市清水区興津東町無番地
    東海道本線興津駅 タクシー11分

  • 由比-興津間<br /><br /><br /><br />洞第2号隧道<br />東京方坑門<br />該隧道は、明治31年(1898年)7月15日に東海道本線複線化時設置の上り線用隧道。<br />完成時に於ける全長は1385m。<br /><br />静岡市清水区興津東町無番地<br />東海道本線興津駅 タクシー11分

    由比-興津間



    洞第2号隧道
    東京方坑門
    該隧道は、明治31年(1898年)7月15日に東海道本線複線化時設置の上り線用隧道。
    完成時に於ける全長は1385m。

    静岡市清水区興津東町無番地
    東海道本線興津駅 タクシー11分

  • 由比-興津間<br /><br /><br /><br />由比川-洞隧道東口間は、洞隧道貫通を以って、明治21年(1888年)1月に路盤工事着工。<br />該工事は鹿島組(現 鹿島建設)が担当し、1日当り1500〜1600名の人足を起用していたと伝えられているが、該地は崖が海に落込む地で余地は存在せず、文字通り肩をぶつかりながらの作業だったと推定される。<br />該区間に於ける試運転は翌明治22年(1889年)1月4日と記録されている事から正に開業直前の綱渡り状態だった。<br /><br />静岡市清水区興津東町無番地<br />東海道本線興津駅 タクシー11分

    由比-興津間



    由比川-洞隧道東口間は、洞隧道貫通を以って、明治21年(1888年)1月に路盤工事着工。
    該工事は鹿島組(現 鹿島建設)が担当し、1日当り1500〜1600名の人足を起用していたと伝えられているが、該地は崖が海に落込む地で余地は存在せず、文字通り肩をぶつかりながらの作業だったと推定される。
    該区間に於ける試運転は翌明治22年(1889年)1月4日と記録されている事から正に開業直前の綱渡り状態だった。

    静岡市清水区興津東町無番地
    東海道本線興津駅 タクシー11分

  • 由比-興津間<br /><br /><br /><br />洞第1号(ほら だいいちごう)隧道<br />東京方<br />坑門<br /><br />静岡市清水区興津東町無番地<br />東海道本線興津駅 タクシー11分

    由比-興津間



    洞第1号(ほら だいいちごう)隧道
    東京方
    坑門

    静岡市清水区興津東町無番地
    東海道本線興津駅 タクシー11分

  • 由比-興津間<br /><br /><br /><br />洞隧道<br />神戸方<br />旧坑門跡<br />直立する山懐から土砂崩壊防護の為に隧道延長を施工した為に、旧坑門跡が残存する。<br /><br />静岡市清水市興津東町1385<br />東海道本線興津駅 タクシー10分

    由比-興津間



    洞隧道
    神戸方
    旧坑門跡
    直立する山懐から土砂崩壊防護の為に隧道延長を施工した為に、旧坑門跡が残存する。

    静岡市清水市興津東町1385
    東海道本線興津駅 タクシー10分

  • 由比-興津間<br /><br /><br />洞隧道<br />神戸方坑門<br />現在は下り線専用<br /><br />静岡市清水区興津東町1385<br />東海道本線興津駅 タクシー10分

    由比-興津間


    洞隧道
    神戸方坑門
    現在は下り線専用

    静岡市清水区興津東町1385
    東海道本線興津駅 タクシー10分

  • 由比-興津間<br /><br /><br /><br />洞隧道<br />単線時代の貴重な写真<br /><br />絵葉書<br />横浜臨海公園 蔵

    由比-興津間



    洞隧道
    単線時代の貴重な写真

    絵葉書
    横浜臨海公園 蔵

  • 由比-興津間<br /><br /><br />洞隧道<br />上記の絵葉書と、ほぼ同地点<br />興津川-由比間平行道路は、殆どの区間が自動車専用道路。<br />故に、歩行者、及び、自転車を含む軽車輌通行禁止。<br /><br />静岡市清水区興津東町無番地<br />東海道本線興津駅 タクシー10分

    由比-興津間


    洞隧道
    上記の絵葉書と、ほぼ同地点
    興津川-由比間平行道路は、殆どの区間が自動車専用道路。
    故に、歩行者、及び、自転車を含む軽車輌通行禁止。

    静岡市清水区興津東町無番地
    東海道本線興津駅 タクシー10分

  • 由比-興津間<br /><br /><br /><br />洞隧道<br />神戸方坑門<br />全景<br /><br />静岡市清水区興津東町無番地<br />東海道本線興津駅 タクシー10分

    由比-興津間



    洞隧道
    神戸方坑門
    全景

    静岡市清水区興津東町無番地
    東海道本線興津駅 タクシー10分

  • 由比-興津間<br /><br /><br /><br />洞第2隧道<br />神戸方坑門<br />架線架吊がギリギリ確保も状態。<br /><br />静岡市清水区興津東町無番地<br />東海道本線興津駅 タクシー10分

    由比-興津間



    洞第2隧道
    神戸方坑門
    架線架吊がギリギリ確保も状態。

    静岡市清水区興津東町無番地
    東海道本線興津駅 タクシー10分

  • 由比-興津間<br /><br /><br /><br />防波堤<br />終端部<br /><br />静岡市清水区興津東町無番地<br />東海道本線興津駅 タクシー10分

    由比-興津間



    防波堤
    終端部

    静岡市清水区興津東町無番地
    東海道本線興津駅 タクシー10分

  • 由比-興津間<br /><br /><br /><br />洞(ほら)信号場跡<br />該信号場は、昭和21年(1946年)6月28日設置である。<br />東海道本線は、昭和9年(1934年)12月1日に沼津まで電化されたが、大東亜戦争後、電化区間を延長する事が決定され、その為に、該隧道内部に架線を吊架する有効空間を確保させる為に、該隧道を単線運転を実施実施させながら改良工事を施工した。<br />同年9月13日に該関係工事が完了し、同日附をして、害信号場は廃止された。<br /><br />静岡市清水区興津東町無番地<br />東海道本線興津駅 タクシー9分

    由比-興津間



    洞(ほら)信号場跡
    該信号場は、昭和21年(1946年)6月28日設置である。
    東海道本線は、昭和9年(1934年)12月1日に沼津まで電化されたが、大東亜戦争後、電化区間を延長する事が決定され、その為に、該隧道内部に架線を吊架する有効空間を確保させる為に、該隧道を単線運転を実施実施させながら改良工事を施工した。
    同年9月13日に該関係工事が完了し、同日附をして、害信号場は廃止された。

    静岡市清水区興津東町無番地
    東海道本線興津駅 タクシー9分

  • 由比-興津間<br /><br /><br /><br />興津川仮乗降場(おきつがわ かりじょうこうじょう)東岸側跡<br />興津川橋梁は、開通翌年たる明治23年(1890年)8月30日未明に襲来した台風の影響で該河川が増水し、該橋梁橋脚を傾斜損傷させた事から、該橋梁橋桁が川中に落下し該線は不通になった。<br />内務省鐵道庁は、同年9月7日より、該河川両岸に臨時仮乗降場を設置し、現地では、帝國陸軍工兵隊が架橋した仮設渡舟橋が設置され、旅客は、該河川両岸間は徒歩連絡とした。<br />該橋梁復旧工事は、同年11月19日に完成し、同日より列車通行が再開された事から、該仮乗降場は廃止された。<br />因みに、一部資料に、該仮乗降場をして駅として扱った内容の物を散見するが、初歩的規定解釈に無理解な内容であり、明らかに事実無根である。<br /><br />静岡市清水区興津東町1253<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津団地前停留所降車 徒歩6分

    由比-興津間



    興津川仮乗降場(おきつがわ かりじょうこうじょう)東岸側跡
    興津川橋梁は、開通翌年たる明治23年(1890年)8月30日未明に襲来した台風の影響で該河川が増水し、該橋梁橋脚を傾斜損傷させた事から、該橋梁橋桁が川中に落下し該線は不通になった。
    内務省鐵道庁は、同年9月7日より、該河川両岸に臨時仮乗降場を設置し、現地では、帝國陸軍工兵隊が架橋した仮設渡舟橋が設置され、旅客は、該河川両岸間は徒歩連絡とした。
    該橋梁復旧工事は、同年11月19日に完成し、同日より列車通行が再開された事から、該仮乗降場は廃止された。
    因みに、一部資料に、該仮乗降場をして駅として扱った内容の物を散見するが、初歩的規定解釈に無理解な内容であり、明らかに事実無根である。

    静岡市清水区興津東町1253
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津団地前停留所降車 徒歩6分

  • 由比-興津間<br /><br /><br /><br />興津川仮乗降場東岸側跡<br /><br />静岡市清水区興津東1253<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津団地まえ停留所降車 徒歩6分

    由比-興津間



    興津川仮乗降場東岸側跡

    静岡市清水区興津東1253
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津団地まえ停留所降車 徒歩6分

  • 由比-興津間<br /><br /><br /><br />興津川橋梁<br />明治22年(1889年)2月1日開通時の橋梁である。<br />開通時は、英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計の、<br />英國製<br />錬鐡製<br />プレート・ガーダー橋桁 径間18.3m(60ft)×10連<br />が架橋された。<br />蒲原-興津間は、明治31年(1898年)7月15日に複線化されたが、その際に、上流側に増線分が設置され完成後は上り線専用となり、既成線は下り線専用になった。<br />その後、上下線橋梁とも架替が実施され、<br />汽車會社製造<br />鐵道省発注品<br />プレート・ガーダー橋桁 径間18.2m(60ft)×10連が架橋されているが、橋台は初代架橋当時の物である。<br /><br />静岡市清水区蒲原新田1−20<br />東海道本線新蒲原駅 富士急バス静岡 蒲原文化センター前停留所降車 徒歩1分<br />静岡市清水区興津東町1246<br />東海道本線興津駅

    由比-興津間



    興津川橋梁
    明治22年(1889年)2月1日開通時の橋梁である。
    開通時は、英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計の、
    英國製
    錬鐡製
    プレート・ガーダー橋桁 径間18.3m(60ft)×10連
    が架橋された。
    蒲原-興津間は、明治31年(1898年)7月15日に複線化されたが、その際に、上流側に増線分が設置され完成後は上り線専用となり、既成線は下り線専用になった。
    その後、上下線橋梁とも架替が実施され、
    汽車會社製造
    鐵道省発注品
    プレート・ガーダー橋桁 径間18.2m(60ft)×10連が架橋されているが、橋台は初代架橋当時の物である。

    静岡市清水区蒲原新田1−20
    東海道本線新蒲原駅 富士急バス静岡 蒲原文化センター前停留所降車 徒歩1分
    静岡市清水区興津東町1246
    東海道本線興津駅

  • 由比-興津間<br /><br /><br /><br />興津川橋梁<br />橋桁銘板<br />第2号橋桁取付物<br />鐵道省<br />汽車會社製造<br />の刻印が見える。

    由比-興津間



    興津川橋梁
    橋桁銘板
    第2号橋桁取付物
    鐵道省
    汽車會社製造
    の刻印が見える。

  • 由比-興津間<br /><br /><br /><br />興津川橋梁<br />中央部コンクリート製橋脚は通信用電線架線用基礎跡。<br /><br />静岡市清水区興津東町1202<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン新浦安橋停留所降車 徒歩5分

    由比-興津間



    興津川橋梁
    中央部コンクリート製橋脚は通信用電線架線用基礎跡。

    静岡市清水区興津東町1202
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン新浦安橋停留所降車 徒歩5分

  • 由比-興津間<br /><br /><br /><br />興津川仮乗降場(おきつがわ かりじょうこうじょう)西岸側跡<br />興津川橋梁は、開通翌年たる明治23年(1890年)8月30日未明に襲来した台風の影響で該河川が増水し、該橋梁橋脚を傾斜損傷させた事から、該橋梁橋桁が川中に落下し該線は不通になった。<br />内務省鐵道庁は、同年9月7日より、該河川両岸に臨時仮乗降場を設置し、現地では、帝國陸軍工兵隊が架橋した仮設渡舟橋が設置され、旅客は、該河川両岸間は徒歩連絡とした。<br />該橋梁復旧工事は、同年11月19日に完成し、同日より列車通行が再開された事から、該仮乗降場は廃止された。<br />因みに、一部資料に、該仮乗降場をして駅として扱った内容の物を散見するが、初歩的規定解釈に無理解な内容であり、明らかに事実無根である。<br /><br />静岡市清水区興津東町1202−19<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津団地前停留所降車 徒歩3分

    由比-興津間



    興津川仮乗降場(おきつがわ かりじょうこうじょう)西岸側跡
    興津川橋梁は、開通翌年たる明治23年(1890年)8月30日未明に襲来した台風の影響で該河川が増水し、該橋梁橋脚を傾斜損傷させた事から、該橋梁橋桁が川中に落下し該線は不通になった。
    内務省鐵道庁は、同年9月7日より、該河川両岸に臨時仮乗降場を設置し、現地では、帝國陸軍工兵隊が架橋した仮設渡舟橋が設置され、旅客は、該河川両岸間は徒歩連絡とした。
    該橋梁復旧工事は、同年11月19日に完成し、同日より列車通行が再開された事から、該仮乗降場は廃止された。
    因みに、一部資料に、該仮乗降場をして駅として扱った内容の物を散見するが、初歩的規定解釈に無理解な内容であり、明らかに事実無根である。

    静岡市清水区興津東町1202−19
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津団地前停留所降車 徒歩3分

  • 由比-興津間<br /><br /><br /><br />興津川仮乗降場西岸側跡<br /><br />静岡市清水区興津東町1202−19<br />東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津団地前停留所降車 徒歩3分

    由比-興津間



    興津川仮乗降場西岸側跡

    静岡市清水区興津東町1202−19
    東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津団地前停留所降車 徒歩3分

  • 由比-興津間<br /><br /><br /><br />初代興津駅跡<br />明治22年(1889年)2月1日開業時に現駅設置が間に合わず、約2か月間、該地に該駅が設置された。<br /><br />静岡市清水区興津中町507<br />東海道本線興津駅 徒歩7分

    由比-興津間



    初代興津駅跡
    明治22年(1889年)2月1日開業時に現駅設置が間に合わず、約2か月間、該地に該駅が設置された。

    静岡市清水区興津中町507
    東海道本線興津駅 徒歩7分

  • 由比-興津間<br /><br /><br /><br />興津駅構内<br />俯瞰

    由比-興津間



    興津駅構内
    俯瞰

  • 興津駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治22年(1889年)2月1日開業である。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/okitsu/index.html

    興津駅



    該駅は、明治22年(1889年)2月1日開業である。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/okitsu/index.html

    興津駅

  • 興津駅<br /><br /><br /><br />旧貨物取扱所跡<br />該駅は、昭和55年(1980年)11月1日に駅本屋改築と同時に貨物取扱を廃止し、跡地は軌条も撤去されず放置状態だった。<br />民営分割後、該地は国鉄清算事業団所有を経て民間企業に売却され、マンションが建設された。

    興津駅



    旧貨物取扱所跡
    該駅は、昭和55年(1980年)11月1日に駅本屋改築と同時に貨物取扱を廃止し、跡地は軌条も撤去されず放置状態だった。
    民営分割後、該地は国鉄清算事業団所有を経て民間企業に売却され、マンションが建設された。

    興津駅

  • 興津駅<br /><br /><br /><br /><br />駅構内<br />第1番線ホーム

    興津駅




    駅構内
    第1番線ホーム

    興津駅

  • 興津駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />第1番線ホーム<br />

    興津駅



    駅構内
    第1番線ホーム

    興津駅

  • 興津駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />俯瞰

    興津駅



    駅構内
    俯瞰

    興津駅

  • 興津駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />第2番線ホーム

    興津駅



    駅構内
    第2番線ホーム

    興津駅

  • 興津駅<br /><br /><br /><br />跨線橋<br />明治35年(1902年)9月竣工。

    興津駅



    跨線橋
    明治35年(1902年)9月竣工。

    興津駅

  • 興津駅<br /><br /><br /><br />跨線橋<br />明治35年(1902年)9月竣工。

    興津駅



    跨線橋
    明治35年(1902年)9月竣工。

    興津駅

  • 興津駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム上屋<br />支柱古軌条<br />八幡製鐵所社印 1928 IIIIIエ<br />(八幡製鐵所 1928年5月製造 鐵道省発注品)<br />支柱番号第5a号

    興津駅



    第1番ホーム上屋
    支柱古軌条
    八幡製鐵所社印 1928 IIIIIエ
    (八幡製鐵所 1928年5月製造 鐵道省発注品)
    支柱番号第5a号

    興津駅

  • 興津駅<br /><br /><br /><br />構内跨線橋<br />内部<br />古軌条を多用<br />ペイント厚塗で銘柄判断不詳。

    興津駅



    構内跨線橋
    内部
    古軌条を多用
    ペイント厚塗で銘柄判断不詳。

    興津駅

  • 興津駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />古軌条使用支柱

    興津駅



    第2番ホーム
    古軌条使用支柱

    興津駅

  • 興津駅<br /><br /><br /><br />駅構内

    興津駅



    駅構内

    興津駅

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム跨線橋<br />支柱古軌条<br />6009 ILINOIS STEEL Co SOUTH WKS 1919 I.R.J.<br />(米イリノイ・スチール社 南ウィスコン州 1919年製造 鐵道院発注品)

    横須賀駅



    第2番ホーム跨線橋
    支柱古軌条
    6009 ILINOIS STEEL Co SOUTH WKS 1919 I.R.J.
    (米イリノイ・スチール社 南ウィスコン州 1919年製造 鐵道院発注品)

    興津駅

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この旅行記へのコメント (19)

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  • イメ・トラさん 2018/07/06 17:51:29
    フォローありがとうございます。
    18切符で途中下車しながら旅をするのが好きです。
    とうかいどうせんもとざんの道すがら、いろいろな駅で下車をしました。
    鉄道唱歌に合わせて旅をするのも楽しいですね。
    楽しみに読ませていただきます
    よろしくお願いします

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2018/07/07 14:38:25
    拝復 はじめまして
    イメ・トラさま、メッセージを賜りまして、誠に有難うございました。


    拙稿にお立寄りと投票、掲示板にコメントを賜りまして深謝しております。

    小生が、かの如き旅行記作成を思い立ったのは、世間で流布されている出版物の内容がデタラメばかりで、最たるものは、昭和46年(1971年)から公刊された日本国有鉄道100年史など、一例では被災したのは飯田町駅にも拘らず、飯田橋駅が空襲で駅本屋他施設全焼との記載がされた為に、以後雨後の筍の如く、事実ではない記載がまかり通ってしまい、呆れた結果、自身で正確で資料としても活用可能な旅行記作成を思い立った次第です。

    小生、旅行記上程は遅速にして少数ですが、納得できる内容をと心掛けております。

    今後とも宜敷くお願い申します。

    先ずは略儀ながら、御礼とご挨拶まで。




    横浜臨海公園
  • スノーマンさん 2017/09/10 11:33:24
    こんなに歴史があったんですね
    横浜臨海公園様
     

     富士川の鉄橋が小学生の時に台風で流されたことを覚えています。
    その橋もそうですが、東海道本線の建造物はこれほどの歴史を持っているんですね。
    すごい調査力に感心してしまいます。

     富士駅などの屋根がレールで作られているのは知っておりましたが、まさかこんないみがあったとは。今度帰省した時には、注意深く見てみたいと思います。

     いつも素晴らしい記録を、ありがとうございます。


     スノーマン

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2017/09/10 13:54:56
    拝復
    スノーマンさま、こんにちは。


    旅行記に投票、及び、コメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    富士川鉄橋落下事故は、本来であれば事故発生時に通過する東京発大垣行普通列車が遅れた為に、寸でのところで助かりましたが、若し、定刻運転であれば、列車もろとも被害に遭っていた筈で、そうなれば水死者も出る大惨事になった可能性がありました。

    富士駅の古軌条支柱で使用されているフランス製軌条は、我が国への輸入軌条としては最晩期の物で、特殊な路面軌道用軌条を除き、翌昭和5年(1930年)から全面的に国産へと移行する時期の物でございます。

    富士駅はコンテナ扱の為に、明治末期に設置した貨物用ホームの大部分を破壊撤去したのは惜しまれます。




    横浜臨海公園
  • レイジーガーデナーさん 2016/02/16 18:48:45
    こんにちは(^^)
    先日はご訪問&投票いただき、ありがとうございました。

    もっと早くに御礼申し上げるべきところ、
    遅くなって大変、失礼いたしました。

    大変、詳細かつ博識でいらっしゃる旅行記を拝見して、
    鉄道に詳しくない私が何かコメントらしきものが書けるのかと、
    気後れしてしまいまして(汗)。

    プロフィールを拝見して、英国でのご経験が、鉄道が
    お好きなことにも関わっているのかな、と勝手に想像したり。

    きっと現地でも、いろんな鉄道を体験されたのではと
    ハリーポッターの映像の世界を重ねております。(^^)


    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2016/02/17 17:46:10
    拝復
    レイジーガーデナーさま、こんにちは。


    拙稿旅行記への投票、及び、掲示板に過分なるコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    小生、手軽な所で、且つ、今まで言われ続けていた史実のウソを事実に則した旅行記をと思い投稿しております。

    英国の鉄道も昔は風情がありましたが、今では何処に行っても同じになってしまい、興醒めです。

    小生こそ、今後とも何卒宜敷くお願い申します。



    横浜臨海公園

  • のんき茂野さん 2015/01/26 16:01:22
    こんにちは〜
    よくもまあぁ〜 調べ上げられたものと
    感心します。アップするだけでも相当の時間が・・・

    富士駅

    http://img.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/37/18/51/src_37185150.jpg

    この赤い線が開通当初の駅のプラットホームの高さなのでしょうか?
    この壁を利用して拡張された?

    古いレールを柱に流用・・・これは理解できます。
    レール留めの穴を背中合わせにすれば、より太い柱が
    造れますよね〜

    戦時中は、満州鉄道=満鉄のレールを軍刀に流用できた
    くらい品質が良かったそうですから・・・

    富士川橋梁架橋・・・そうでしょうね?
    ご維新から僅か22年(私のじい様は23年の生まれ〜関係ないか?)で
    あれだけの建造物を造る技術は無かったでしょうから・・・

    アメリカの技術者の指導の下、アメリカ製の鉄骨を使って
    建造? またはアメリカで組み立てたものを輸入して
    アメリカの技術者の下、連結した?

    当時の日本人のほうが現代人より理解する力・受け入れる能力が
    上だった? または単に先進国の指導を闇雲に信じていた?

    どちらにしても凄いことですし、現在に至るも流用しているのも
    素晴らしいことです。

    これからも、素晴らしい日記をアップしてください。

                 のんき茂野

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2015/01/27 19:00:50
    拝復
    のんき茂野さま、こんばんは。


    この度は旅行記への訪問と投票、掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    > よくもまあぁ〜 調べ上げられたものと
    > 感心します。アップするだけでも相当の時間が・・・
    →仰せのとおり、この旅行記の作成は2年かかりました。

    > 富士駅
    >
    > http://img.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/37/18/51/src_37185150.jpg
    >
    > この赤い線が開通当初の駅のプラットホームの高さなのでしょうか?
    →そのとおりでございまして、設置当時の高さです。
    当時の客車は外付でステップが設置されていた事から、あるかないかの差しか存在しなくとも、機関車はチャント動きました。

    旅行記作成は疲れます。
  • 琉球熱さん 2015/01/21 15:51:34
    富士川鉄橋
    横浜臨海公園さん
    こんにちは

    今さら、で申し訳ないのですが、ふと調べたいことがありまして、このページに再訪しました。
    富士川駅について少々知りたいことがありましたが、予想通り私の知りたい事柄が完璧に網羅されておりました。

    改めて全編熟読すると、アップされた直後には見落としていた事項が沢山あり、その情報量に改めて敬服します。おそらく臨海公園さんが実際に調べた情報量はここに記載された数倍になるであろうということは容易に想像がつきます。
    取捨選択の作業を考えると、上梓に至るまでの作業工程は並大抵のものではなかっただろうと。

    私もそれなりに調べますが、いつも「早く解放されたい」という想いに負けて、結構端折ってしまいます(笑)

    ところで、富士川鉄橋が台風で流出したことはよく覚えています。
    その台風が通過した後、文字通り「台風一過の快晴」の日に様子を見に行ったのです。橋の残骸が陽光の下で殊更無残に見えたことをはっきり覚えています。「飴のように」という形容がまさにぴったり、レールがぐにゃりと曲がり、自然の猛威をまざまざと見せつけられました。

    由比の土石流は記憶にありませんでした。
    由比には友人が沢山いますので、今度聞いてみようと思います。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2015/01/22 13:49:16
    拝復
    琉球熱さま、こんにちは。


    掲示板にメッセージを賜りまして、誠に有難うございました。

    > 富士川駅について少々知りたいことがありましたが、予想通り私の知りたい事柄が完璧に網羅されておりました。
    >
    > 改めて全編熟読すると、アップされた直後には見落としていた事項が沢山あり、その情報量に改めて敬服します。おそらく臨海公園さんが実際に調べた情報量はここに記載された数倍になるであろうということは容易に想像がつきます。
    →信じられないかも知れませんが、富士-興津編で採用しなかったデータは掲載した量の約8倍でございます。
    > 取捨選択の作業を考えると、上梓に至るまでの作業工程は並大抵のものではなかっただろうと。
    →写真だけなら半月に1編の上程も可能かと思います。

    > 由比の土石流は記憶にありませんでした。
    > 由比には友人が沢山いますので、今度聞いてみようと思います。
    →昨年10月の大型台風襲来時も由比方隧道手前で土砂崩壊が発生し10日ほど由比-興津間が不通になりました。
    さった峠下は土質が脆く、大正末期に計画し中止された、さった山を隧道で貫通させる方が災害の心配をせず好都合だと思います。

    因みに、東海道本線編は8編製作中でございます。



    横浜臨海公園
  • 空飛ぶ旅人さん 2014/07/23 09:43:19
    フォローありがとうございます。
    横浜臨海公園さん。こんにちは。

    このたびは フォローありがとうございます。

    新参者で文章も苦手で読みにくく恐縮ですが、今後も出かけた際には投稿したいと思っています。

    今後とも どうぞ よろしくお願いします。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2014/07/23 19:39:51
    拝復
    空飛ぶ旅人さま、こんばんは。


    この度は、小生のページをフォローを賜りまして、深謝しております。

    誠に有難うございました。

    小生の旅行記作成は、遅速にして数少ない状態ですが資料として活用可能な状態に仕上げておりますので、遅速の点は何卒お許し下さいませ。

    小生こそ何卒宜敷くお願い申します。




    横浜臨海公園

    空飛ぶ旅人

    空飛ぶ旅人さん からの返信 2014/07/23 19:48:48
    こんばんは。
    横浜臨海公園様 こんばんは。

    お返事いただきありがとうございます。

    とても詳しく書かれていて、失礼ながら興味深く拝読させていただいていました。

    他の旅行記も順次拝読させていただきたく思っています。

    失礼ながら、今後も楽しみに拝読させていただきます。

    夜分に失礼いたしました。


                              空飛ぶ旅人
  • わんぱく大将さん 2014/06/04 07:48:10
    鉄橋に一票
    横浜臨海公園さん

    せっかく詳しく、論文の如く書かれているのに、正直全く読んでいません。
    このところ、長い文章を読めません。 興味のあるお写真だけ見せていただき、その部分の記述も読ませていただきと言う具合で申し訳ないですが、旅行記を15秒位でみて、おかえしに投票するよりはましだと思ってください。今回は鉄橋に一票です。

     大将

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2014/06/04 16:31:47
    拝復
    大将さま、こんにちは。


    ご無沙汰をしておりましたが、ご活躍の事と存じます。

    旅行記への訪問投票、及び、掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    東海道本線全篇完成が何時になるか判りませんが、徐々に上程して行く予定です。
    また、お立寄りを賜れば幸甚でございます。





    横浜臨海公園
  • 蔦之丞さん 2014/05/21 19:45:53
    感服致しました
    痕跡探訪記の細かい描写に
    驚・脅威・敬服・感銘を覚えます。
    とても、とても、現実のスピードに着いて行こうと必死です

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2014/05/25 13:14:06
    拝復
    蔦之丞さま、こんにちは。


    過分にすぎるメッセージを賜りながら、返事を差し上げるのが遅くなりまして、誠に申し訳ございませんでした。

    小生、フォートラベルに於ける内外の一般的で写真の羅列だけで内容不明な旅行記には、些かウンザリしておりまして、ならば、使用として活用可能な内容が濃厚な旅行記を作成上程しております。

    その為に、元資料収集に1〜2年はザラで、中には、御殿場線山北-御殿場間編の如き、資料収集で5年かけ取捨選択しながら、上程した旅行記もございます。

    それ故、大量生産粗製乱造など不可能で、1箇月に1作上程可能かどうかの状態ですが、何卒、遅動ですのでお許し下されば幸甚でございます。



    横浜臨海公園
  • くまくまさん 2014/05/09 23:44:54
    横浜臨海公園さん
    くまくまです。こんにちは。このたびはくまくまの旅行記にご訪問&投票ありがとうございました。

    御礼にきました

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2014/05/14 14:44:11
    拝復
    くまくまさま、こんにちは。


    わざわざ、御礼を掲示板の投稿されながら、返事を差し上げるのが遅くなりまして、誠に申し訳ございませんでした。

    次回の旅行記投稿を期待しております。




    横浜臨海公園

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