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明治5年(1872年)7月11日に品川-横濱間が鉄道仮開業以来、現在に至るまで、横浜駅はその位置を必要応じ3回移設移動した。<br /><br />即ち、開業当初の横浜駅は現在の桜木町駅前広場付近に所在した事は広く知られているが、2代目横浜駅が旧東急東横線高島町駅付近に存在していた史実は、横浜市民と言えども、既に忘却されているのが現実である。<br /><br />明治20年(1887年)7月11日に初代横濱駅から西に國府津まで路線が延長されたが、当時と言えど横濱駅の頭端式スイッチバック構造では運転扱上不便この上も無く、常に滞貨の山に悩まされる状態だったが、間も無く日清戦争勃発(明治27年(1894年)7月)と共に軍専用列車運転目的の為に陸軍省は同年9月に初代横濱駅を無視し短路線建設する事で輸送の効率化を謀る。<br /><br />此れが現路線の原形である。<br /><br />後に、廃止された神奈川駅から平沼町付近を経由して程ヶ谷(現 保土ヶ谷)に至る新線は陸軍省の依頼で逓信省鐵道作業局が工事を代施工し、同年12月下旬に竣工した。<br />翌年、日清戦争が終結し短路線は遊休施設化していたが、明治29年(1896年)に陸軍省から逓信省鉄道作業局に対し施設一切を移管し、明治31年(1898年)8月1日から営業運転が開始され、此れ以来、主要長距離列車は初代横濱駅を経由せず短路線を直行する。<br />短路線上に平沼(ひらぬま)駅が開設されたのは明治34年(1901年)10月10日で、当時の平沼は埋立後の葦繁る湿地帯上に在り人家も稀で夜ともなると漆黒の世界で時折追剥も出現する不穏な地であり、利便性から横濱市民は長距離列車は従来通り神奈川駅から乗車し、明治45年(1912年)6月に新橋-馬関(現 下関)間に運転開始された我が国最初の特別急行列車も横濱駅には入線せず神奈川駅に停車した。<br /><br />大正3年(1914年)12月19日、当時の鐵道院は平行す京濱電気軌道に対抗すべく品川-横濱間を複々線化し品川-高島町間各駅停車列車の線路を直流1200V電化工事を施工し、神奈川-櫻木町駅間に高島町(たかしまちょう)駅を開設し翌20日より都市間用高速電車を投入し運転開始したが、試運転も無に均し状態で、いきなり開業本番を迎えた為にトラブル続きで電車運行に支障を来たす深刻な状態となり、已む無く同年12月26日に電車運転を一時中止したが、此の高島町駅こそ2代目横濱駅の嚆矢の存在である。<br />大正4年(1915年)5月10日から京濱線電車運転が復活し、同年8月15日に横浜市民の便を考慮して高島町駅にルネッサンス様式煉瓦造3階建の壮麗な建築物と共に開業したのが2代目横濱駅で設計者は東京駅や萬世橋駅と同じく辰野金吾(たつの きんご)(嘉永7年(1854年)10月13日~大正8年(1919年)3月25日)博士が担当した。<br /><br />2代目横濱駅は1階に出札口と各等待合室が設置され2階に改札口を設置して跨線橋で東海道本線と京濱線各ホームと連絡する現在で言ふ橋上駅構造で当時としては画期的且つ大胆な構造だったが、反面真夏ともなると通風が悪く冷房も無い時代故に、駅全体が蒸し風呂状態だったとの古老の回顧も仄聞している。<br /><br />櫻木町所在時代同様、駅構内では現在も桜木町駅構内で営業する川村屋(かわむらや)がレストランを営業し、浜っ子は市電や人力車で早めに駅に到着し待ち時間を川村屋で食事を済ませ列車に乗り込むと言ふスティタスを確立させていた。<br /><br />また、同年12月30日に高島から程ヶ谷(現 保土ヶ谷)への貨物専用線が開通したが、駅前を高架線の縦貫構造で昭和4年(1929年)9月16日に廃止されるまで訪横者の目には煉瓦建築物の目の前に高架線が存在し威勢良く黒煙を吐き轟音を立てて走り抜ける蒸気機関車が貨物列車を牽き行き来する姿を目にし奇異ぶりを感じたに相違無かったと思われる。<br /><br />但し、2代目横濱駅開業と同時に神奈川-程ヶ谷間短路線と平沼駅は廃止される。<br /><br />2代目横濱駅開業に拠り石崎川を挟んだ駅本屋裏側は何も無い葦そよぐ湿地帯だったが次第に商業地としての形態が整備され平沼商店街(ひらぬま しょうてんがい)が形成さるに至ったが、関東大震災に伴う再開発で駅移転が決定的致命傷となり、現在ではすっかり衰退してしまったが、此の点では、大都市中心部に所在しながら栄枯衰退著しい例として、東京萬世橋駅や大阪湊町駅や片町駅所在地付近に共通する事例と云える。<br /><br />櫻木町から高島町に駅が移転開業した際に当時の鐵道院が横濱(高島町)-櫻木町駅間の旅客営業廃止を検討していた事は当時の資料を検討する限り事実だったと考えられる。<br />然るに、当時の横濱駅は市内への入口拠点として駅前から市内中心部に対し市電が開業して輸送を独占状態であり、鐵道院は都市間輸送たるインターバン輸送を主とする指向であれば良く、サバー輸送たる短区間輸送を行う必然性は何ら見出し得なかったものと思われる。<br />即ち、2代目横濱駅開業と同時に横濱(高島町)-櫻木町駅間の旅客営業形態を現代人の我々から見て極めて驚異に感じるが、朝夕4往復のみの運行に限定した事からも鐵道院の真意の一端が読み取れる。<br />4ヶ月後の12月30日になり櫻木町駅まで電化区間が延長され電車運転を開始したが、それとて旅客営業継続を積極的根拠が存在したとは傍証に乏しい。<br /><br />他方、大正7年(1918年)4月1日に横濱-櫻木町駅間の高架化工事が竣工し当時の痕跡は現在でも散見される。<br /><br />死児の年齢を数えるの例えでは無いが、若し、関東大震災の如き予想外の事態無くば現在でも横浜駅は高島町に設置されていた公算が高かったものと推定される。<br /><br />更に、平沼商店街は伊勢佐木町や元町と並ぶ横浜屈指の高級志向商店街に発展した可能性が高かったと思われる。<br /><br />然し、関東大震災で2代目横浜駅は損壊被害こそ免れたが、北港町に所在した米ライシング・サン石油会社所有のタンクが震害で破損しタンク内の石油に引火炎上しながら帷子川周辺流域家屋を延焼させながら同日14時30分頃横濱駅本屋に引火全焼し駅機能が一時的に壊滅する。<br /><br />震災復興計画の一環として最大懸案事項として当時の内務省建設局は高島町から平沼町浅間下に抜ける新規道路建設(現在の県道横浜生田線)が計画され道路建設上に駅本屋が存在し支障する為に当時の鐵道省に対し2代目横濱駅の撤去移転を打診する。<br /><br />帝都復興院は神奈川-櫻木町間の旅客営業廃止を前提とする高架線撤去をも横濱市に打診した。<br /><br />然し、当時の渡邉勝三郎(わたなべ かつさぶろう(明治5年(1872年)2月12日~昭和15年(1940年)9月25日)第9代横濱市長(大正11年(1922年)11月29日~大正14年(1925年)4月10日在任)は、 横濱ノ現状ニ鑑ミ到底納得デキス受入難シ として帝都復興院や鐵道省に対し強硬に拒否姿勢を見せ、代案として北港町の米ライディングサン石油会社所有地を横濱市が買上げ此処に新停車場設置を要求した。<br /><br />此の辺の経緯に就いて国会図書館憲政資料室が保存する当時の内務省対横浜市間交換公文書綴を仔細に検証すると緊迫した遣り取りが伝わる。<br /><br />当時鉄道の復旧工事は最優先で進められ、全損し一番被害が酷い馬入川橋梁ですら9月6日工事着手にも拘らず、神奈川-櫻木町間の復旧工事開始が12月5日着工を見ても、鐵道省が路線廃止に積極的意思を有するのは明白な事実と見るべきである。<br /><br />横濱市議会と共に横濱市復興会も駅移転に関し全面的に反対し移転賛成要件として、<br />1)市の脊髄に相当する桜木町通と直線部を位置にする。<br />2)平沼町は一辺に偏し市の将来の為に海岸位置が効果大。<br />と結論付けていた。<br /><br />結局、横濱市の要求が受容れられ、新駅設置まで高島町の現駅で営業後に北幸町付近に移転する事で合意する旨、大正13年(1924年)2月6日附答申に見られる。<br /><br />因みに、最近公刊された2代目横浜駅に関する最新文献に於ける記述中、横浜駅が高島町から現在位置に移転した最大理由として、駅構内を国道が直角に交差し常に踏切が閉じていた事に拠り横濱市民をして監督官庁たる鐵道省に対する不満反発が存在し遠因だったと称する記述に就いて、然し、実際に該道路、即ち、現在の横浜生田線竣工は横浜駅が現在地に移転後の昭和4年(1929年)1月であり、該論と日時に対する整合性が合わず矛盾する。<br />震災発生当時は道路自体が存在せず、故に、該記述に関する限り史実に反し亦事実無根である。<br /><br />かくて、横濱-櫻木町間は存続が決定し昭和39年(1964年)5月19日に桜木町-磯子間が開通し横浜-桜木町間を含め 根岸(ねぎし)線 に分離編入されるまで東海道本線支線として存続する。<br /><br />紆余曲折しつつ、現在地に昭和2年(1927年)5月24日着工し翌昭和3年(1928年)10月15日に竣工移転したのが3代目横濱駅となる。<br /><br />京濱線は昭和5年(1930年)1月26日に3代目横濱駅構内から旧高島町に至る連絡線が竣工開通し、此れを以って戦前に於ける鐵道省横濱地区所管路線網が完成する。<br /><br />然るに、3代目横濱駅開業に伴い、即ち、2代目横濱駅所在地たる現在の西区高島町一帯の衰退をもたらし、同じく、神奈川駅廃止は神奈川区青木橋地区一帯の凋落の原因となる。<br /><br /><br />尚、本旅行記使用の歴史的写真資料は断り無きものは全部横浜臨海公園個人所蔵品。<br /><br /><br /><br />表紙は第、<br />第2代目横濱駅本屋絵葉書<br />横浜臨海公園 蔵<br /><br /><br /><br /><br /><br />東海道本線歴史的痕跡探訪記<br />~東京-濱松町間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10701644<br />~東京驛編~<br /><br />~汐留-濱松町-品川間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10797199<br />~品川-川崎間編 明治頌歌~<br 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東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~横濱驛移設変転史編~

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2009/03 - 2009/07

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横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

明治5年(1872年)7月11日に品川-横濱間が鉄道仮開業以来、現在に至るまで、横浜駅はその位置を必要応じ3回移設移動した。

即ち、開業当初の横浜駅は現在の桜木町駅前広場付近に所在した事は広く知られているが、2代目横浜駅が旧東急東横線高島町駅付近に存在していた史実は、横浜市民と言えども、既に忘却されているのが現実である。

明治20年(1887年)7月11日に初代横濱駅から西に國府津まで路線が延長されたが、当時と言えど横濱駅の頭端式スイッチバック構造では運転扱上不便この上も無く、常に滞貨の山に悩まされる状態だったが、間も無く日清戦争勃発(明治27年(1894年)7月)と共に軍専用列車運転目的の為に陸軍省は同年9月に初代横濱駅を無視し短路線建設する事で輸送の効率化を謀る。

此れが現路線の原形である。

後に、廃止された神奈川駅から平沼町付近を経由して程ヶ谷(現 保土ヶ谷)に至る新線は陸軍省の依頼で逓信省鐵道作業局が工事を代施工し、同年12月下旬に竣工した。
翌年、日清戦争が終結し短路線は遊休施設化していたが、明治29年(1896年)に陸軍省から逓信省鉄道作業局に対し施設一切を移管し、明治31年(1898年)8月1日から営業運転が開始され、此れ以来、主要長距離列車は初代横濱駅を経由せず短路線を直行する。
短路線上に平沼(ひらぬま)駅が開設されたのは明治34年(1901年)10月10日で、当時の平沼は埋立後の葦繁る湿地帯上に在り人家も稀で夜ともなると漆黒の世界で時折追剥も出現する不穏な地であり、利便性から横濱市民は長距離列車は従来通り神奈川駅から乗車し、明治45年(1912年)6月に新橋-馬関(現 下関)間に運転開始された我が国最初の特別急行列車も横濱駅には入線せず神奈川駅に停車した。

大正3年(1914年)12月19日、当時の鐵道院は平行す京濱電気軌道に対抗すべく品川-横濱間を複々線化し品川-高島町間各駅停車列車の線路を直流1200V電化工事を施工し、神奈川-櫻木町駅間に高島町(たかしまちょう)駅を開設し翌20日より都市間用高速電車を投入し運転開始したが、試運転も無に均し状態で、いきなり開業本番を迎えた為にトラブル続きで電車運行に支障を来たす深刻な状態となり、已む無く同年12月26日に電車運転を一時中止したが、此の高島町駅こそ2代目横濱駅の嚆矢の存在である。
大正4年(1915年)5月10日から京濱線電車運転が復活し、同年8月15日に横浜市民の便を考慮して高島町駅にルネッサンス様式煉瓦造3階建の壮麗な建築物と共に開業したのが2代目横濱駅で設計者は東京駅や萬世橋駅と同じく辰野金吾(たつの きんご)(嘉永7年(1854年)10月13日~大正8年(1919年)3月25日)博士が担当した。

2代目横濱駅は1階に出札口と各等待合室が設置され2階に改札口を設置して跨線橋で東海道本線と京濱線各ホームと連絡する現在で言ふ橋上駅構造で当時としては画期的且つ大胆な構造だったが、反面真夏ともなると通風が悪く冷房も無い時代故に、駅全体が蒸し風呂状態だったとの古老の回顧も仄聞している。

櫻木町所在時代同様、駅構内では現在も桜木町駅構内で営業する川村屋(かわむらや)がレストランを営業し、浜っ子は市電や人力車で早めに駅に到着し待ち時間を川村屋で食事を済ませ列車に乗り込むと言ふスティタスを確立させていた。

また、同年12月30日に高島から程ヶ谷(現 保土ヶ谷)への貨物専用線が開通したが、駅前を高架線の縦貫構造で昭和4年(1929年)9月16日に廃止されるまで訪横者の目には煉瓦建築物の目の前に高架線が存在し威勢良く黒煙を吐き轟音を立てて走り抜ける蒸気機関車が貨物列車を牽き行き来する姿を目にし奇異ぶりを感じたに相違無かったと思われる。

但し、2代目横濱駅開業と同時に神奈川-程ヶ谷間短路線と平沼駅は廃止される。

2代目横濱駅開業に拠り石崎川を挟んだ駅本屋裏側は何も無い葦そよぐ湿地帯だったが次第に商業地としての形態が整備され平沼商店街(ひらぬま しょうてんがい)が形成さるに至ったが、関東大震災に伴う再開発で駅移転が決定的致命傷となり、現在ではすっかり衰退してしまったが、此の点では、大都市中心部に所在しながら栄枯衰退著しい例として、東京萬世橋駅や大阪湊町駅や片町駅所在地付近に共通する事例と云える。

櫻木町から高島町に駅が移転開業した際に当時の鐵道院が横濱(高島町)-櫻木町駅間の旅客営業廃止を検討していた事は当時の資料を検討する限り事実だったと考えられる。
然るに、当時の横濱駅は市内への入口拠点として駅前から市内中心部に対し市電が開業して輸送を独占状態であり、鐵道院は都市間輸送たるインターバン輸送を主とする指向であれば良く、サバー輸送たる短区間輸送を行う必然性は何ら見出し得なかったものと思われる。
即ち、2代目横濱駅開業と同時に横濱(高島町)-櫻木町駅間の旅客営業形態を現代人の我々から見て極めて驚異に感じるが、朝夕4往復のみの運行に限定した事からも鐵道院の真意の一端が読み取れる。
4ヶ月後の12月30日になり櫻木町駅まで電化区間が延長され電車運転を開始したが、それとて旅客営業継続を積極的根拠が存在したとは傍証に乏しい。

他方、大正7年(1918年)4月1日に横濱-櫻木町駅間の高架化工事が竣工し当時の痕跡は現在でも散見される。

死児の年齢を数えるの例えでは無いが、若し、関東大震災の如き予想外の事態無くば現在でも横浜駅は高島町に設置されていた公算が高かったものと推定される。

更に、平沼商店街は伊勢佐木町や元町と並ぶ横浜屈指の高級志向商店街に発展した可能性が高かったと思われる。

然し、関東大震災で2代目横浜駅は損壊被害こそ免れたが、北港町に所在した米ライシング・サン石油会社所有のタンクが震害で破損しタンク内の石油に引火炎上しながら帷子川周辺流域家屋を延焼させながら同日14時30分頃横濱駅本屋に引火全焼し駅機能が一時的に壊滅する。

震災復興計画の一環として最大懸案事項として当時の内務省建設局は高島町から平沼町浅間下に抜ける新規道路建設(現在の県道横浜生田線)が計画され道路建設上に駅本屋が存在し支障する為に当時の鐵道省に対し2代目横濱駅の撤去移転を打診する。

帝都復興院は神奈川-櫻木町間の旅客営業廃止を前提とする高架線撤去をも横濱市に打診した。

然し、当時の渡邉勝三郎(わたなべ かつさぶろう(明治5年(1872年)2月12日~昭和15年(1940年)9月25日)第9代横濱市長(大正11年(1922年)11月29日~大正14年(1925年)4月10日在任)は、 横濱ノ現状ニ鑑ミ到底納得デキス受入難シ として帝都復興院や鐵道省に対し強硬に拒否姿勢を見せ、代案として北港町の米ライディングサン石油会社所有地を横濱市が買上げ此処に新停車場設置を要求した。

此の辺の経緯に就いて国会図書館憲政資料室が保存する当時の内務省対横浜市間交換公文書綴を仔細に検証すると緊迫した遣り取りが伝わる。

当時鉄道の復旧工事は最優先で進められ、全損し一番被害が酷い馬入川橋梁ですら9月6日工事着手にも拘らず、神奈川-櫻木町間の復旧工事開始が12月5日着工を見ても、鐵道省が路線廃止に積極的意思を有するのは明白な事実と見るべきである。

横濱市議会と共に横濱市復興会も駅移転に関し全面的に反対し移転賛成要件として、
1)市の脊髄に相当する桜木町通と直線部を位置にする。
2)平沼町は一辺に偏し市の将来の為に海岸位置が効果大。
と結論付けていた。

結局、横濱市の要求が受容れられ、新駅設置まで高島町の現駅で営業後に北幸町付近に移転する事で合意する旨、大正13年(1924年)2月6日附答申に見られる。

因みに、最近公刊された2代目横浜駅に関する最新文献に於ける記述中、横浜駅が高島町から現在位置に移転した最大理由として、駅構内を国道が直角に交差し常に踏切が閉じていた事に拠り横濱市民をして監督官庁たる鐵道省に対する不満反発が存在し遠因だったと称する記述に就いて、然し、実際に該道路、即ち、現在の横浜生田線竣工は横浜駅が現在地に移転後の昭和4年(1929年)1月であり、該論と日時に対する整合性が合わず矛盾する。
震災発生当時は道路自体が存在せず、故に、該記述に関する限り史実に反し亦事実無根である。

かくて、横濱-櫻木町間は存続が決定し昭和39年(1964年)5月19日に桜木町-磯子間が開通し横浜-桜木町間を含め 根岸(ねぎし)線 に分離編入されるまで東海道本線支線として存続する。

紆余曲折しつつ、現在地に昭和2年(1927年)5月24日着工し翌昭和3年(1928年)10月15日に竣工移転したのが3代目横濱駅となる。

京濱線は昭和5年(1930年)1月26日に3代目横濱駅構内から旧高島町に至る連絡線が竣工開通し、此れを以って戦前に於ける鐵道省横濱地区所管路線網が完成する。

然るに、3代目横濱駅開業に伴い、即ち、2代目横濱駅所在地たる現在の西区高島町一帯の衰退をもたらし、同じく、神奈川駅廃止は神奈川区青木橋地区一帯の凋落の原因となる。


尚、本旅行記使用の歴史的写真資料は断り無きものは全部横浜臨海公園個人所蔵品。



表紙は第、
第2代目横濱駅本屋絵葉書
横浜臨海公園 蔵





東海道本線歴史的痕跡探訪記
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~汐留-濱松町-品川間編 明治頌歌~
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https://4travel.jp/travelogue/11095931
~大垣-新垂井-関ケ原間編~
https://4travel.jp/travelogue/11200178
~関ケ原-米原間編 明治頌歌~

~関ケ原-深谷-長濱間(廃止線)編 明治頌歌~

~米原-近江八幡間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11099568
~近江八幡-草津間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11214049
~草津-膳所間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11102339
~膳所-濱大津間(廃止線)編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/11157145
~膳所-稲荷-京都間(廃止線)編 明治頌歌~

~膳所-山科-京都間(現行線)編 大正浪漫~
http://4travel.jp/travelogue/11157106
~京都驛編 明治頌歌~

~京都-向日町間編 明治頌歌~

~向日町-高槻間編 明治頌歌~

~高槻-吹田間編 明治頌歌~

~吹田-淡路-大阪間(廃止線)編 明治頌歌~

~吹田-新大阪-大阪間(現行線)編 大正浪漫~

~大阪駅周辺編~

~大阪-西宮間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11366806
~西宮-灘間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11321266
~灘-神戸間編 大正浪漫~
https://4travel.jp/travelogue/11245946

同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
高速・路線バス JRローカル 私鉄 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 初代横濱駅本屋<br /><br /><br /><br />外観<br />正面構図と背景から明治20年代前半撮影と推定<br />該駅移転後は櫻木町駅と改称され関東大震災まで使用。<br />関東大震災発生時は無事なれど都橋付近で発生した火事が類焼して焼失。<br /><br />着色絵葉書<br />横浜臨海公園 蔵

    初代横濱駅本屋



    外観
    正面構図と背景から明治20年代前半撮影と推定
    該駅移転後は櫻木町駅と改称され関東大震災まで使用。
    関東大震災発生時は無事なれど都橋付近で発生した火事が類焼して焼失。

    着色絵葉書
    横浜臨海公園 蔵

  • 神奈川貿易新報社地図<br /><br /><br /><br />図面から高島町に駅と路線が記載されていない事から明治末期頃作図と推定。<br />現在の横浜駅西口地域大部分は入江。<br />北幸は北港、南幸は南港と称した舟溜。<br />後に昭和初期に埋立られ、旧地名の印象を残す為に、港→幸(こう)と漢字表記を変更。<br />高島貨物線鶴見-高島間は未開通ながら桜木町駅から現在の汽車道に相当する臨港線群は既に開通済。<br />また、赤線は当時の横濱電気軌道(後の横浜市電)の路線で、あの狭隘な馬車道(ばしゃみち)や伊勢佐木町(いせざきちょう)商店街等に進出していた事実が解る。<br />尚、神奈川貿易新報社は現在の神奈川新聞社の前身。<br /><br />横浜臨海公園 蔵

    神奈川貿易新報社地図



    図面から高島町に駅と路線が記載されていない事から明治末期頃作図と推定。
    現在の横浜駅西口地域大部分は入江。
    北幸は北港、南幸は南港と称した舟溜。
    後に昭和初期に埋立られ、旧地名の印象を残す為に、港→幸(こう)と漢字表記を変更。
    高島貨物線鶴見-高島間は未開通ながら桜木町駅から現在の汽車道に相当する臨港線群は既に開通済。
    また、赤線は当時の横濱電気軌道(後の横浜市電)の路線で、あの狭隘な馬車道(ばしゃみち)や伊勢佐木町(いせざきちょう)商店街等に進出していた事実が解る。
    尚、神奈川貿易新報社は現在の神奈川新聞社の前身。

    横浜臨海公園 蔵

  • 第2代目横濱駅本屋<br /><br /><br /><br />第2代目横濱駅本屋は東京駅丸ノ内本屋や萬世橋駅本屋等と同じ辰野金吾(たつの きんご)(嘉永7年(1854年)10月13日〜大正8年(1919年)3月25日)博士設計、鹿島組(現 鹿島建設)施工。<br />関東大震災発生時に駅本屋は無事なれど、米ライシングサン横濱支店備蓄石油タンクが破損しタンク内容物の石油が流失し、横濱電線倉庫火災が引火炎上し新田間川(現 内海川)周辺流域を焼失させ、更に川面から逆火砕流が発生し、14時30分頃に横浜駅旅客跨線橋に着火、引火延焼に拠り16時30分頃に駅本屋発火全焼し23時30分頃鎮火。<br /><br />着色絵葉書<br />横浜臨海公園 蔵

    第2代目横濱駅本屋



    第2代目横濱駅本屋は東京駅丸ノ内本屋や萬世橋駅本屋等と同じ辰野金吾(たつの きんご)(嘉永7年(1854年)10月13日〜大正8年(1919年)3月25日)博士設計、鹿島組(現 鹿島建設)施工。
    関東大震災発生時に駅本屋は無事なれど、米ライシングサン横濱支店備蓄石油タンクが破損しタンク内容物の石油が流失し、横濱電線倉庫火災が引火炎上し新田間川(現 内海川)周辺流域を焼失させ、更に川面から逆火砕流が発生し、14時30分頃に横浜駅旅客跨線橋に着火、引火延焼に拠り16時30分頃に駅本屋発火全焼し23時30分頃鎮火。

    着色絵葉書
    横浜臨海公園 蔵

  • 第2代目横濱駅本屋<br /><br /><br /><br />京浜東北線の始祖 京濱線ホーム<br />京濱線東京-高島町駅間は大正3年(1914年)12月20日から電車運転開始。<br />但し、12月19日に竣工し、慌しい中でロクに試運転もせず翌日開業すると言ふ現代では考えられぬ綱渡り的暴挙に、車輌故障、特に、ローラー式パンダグラフ破損が続出した事が致命傷となり、同年12月26日に一旦電車運転を中止した後、徹底的に整備し、翌大正4年(1915年)5月10日に万全を期して開業に漕ぎ着ける。<br />尚、電車運転中止の余波を受け高島町駅と同時に開業した大井町駅は運転中止期間中は営業休止となる。<br /><br />着色絵葉書<br />横浜臨海公園 蔵

    第2代目横濱駅本屋



    京浜東北線の始祖 京濱線ホーム
    京濱線東京-高島町駅間は大正3年(1914年)12月20日から電車運転開始。
    但し、12月19日に竣工し、慌しい中でロクに試運転もせず翌日開業すると言ふ現代では考えられぬ綱渡り的暴挙に、車輌故障、特に、ローラー式パンダグラフ破損が続出した事が致命傷となり、同年12月26日に一旦電車運転を中止した後、徹底的に整備し、翌大正4年(1915年)5月10日に万全を期して開業に漕ぎ着ける。
    尚、電車運転中止の余波を受け高島町駅と同時に開業した大井町駅は運転中止期間中は営業休止となる。

    着色絵葉書
    横浜臨海公園 蔵

  • 第2代目横濱駅本屋<br /><br /><br /><br />停車中のデハ6340型電車は京濱線東京行列車<br />京濱線下りホームから本屋側を撮影。<br />大正6年(1917年)頃撮影と推定。<br />デハ6340型は大正3年(1914年)から大正末期にかけて100馬力電動機を装備した鐵道院初の中距離都市間用輸送電車。<br />100馬力電動機とは米GM(ジェネラル・エレクトリック)社製造のGE-244A型モーターで、第1次世界大戦勃発後は欧米が戦時体制の為に輸入が途絶し、鐵道院大井工場に於いて試作させ国産化が成功し更に民間企業の東洋電機や芝浦電気でも製造された。<br />製造時期に拠り3タイプに分類される。<br />昭和初期以降は75キロワット出力に規定される。<br />昭和3年(1928年)の車輌形式規定大改正後はモハ1型に集約。<br />昭和28年(1953年)6月1日に広島鉄道管理局横川電車区配置の最後の車両が老朽化を理由に廃車され国鉄上から姿を消した。<br />大井川鐵道に譲渡され廃車車輌をJR東海が購入し、モハ1035として復活保存された。<br /><br /><br />絵葉書<br /><br />横浜臨海公園 蔵

    第2代目横濱駅本屋



    停車中のデハ6340型電車は京濱線東京行列車
    京濱線下りホームから本屋側を撮影。
    大正6年(1917年)頃撮影と推定。
    デハ6340型は大正3年(1914年)から大正末期にかけて100馬力電動機を装備した鐵道院初の中距離都市間用輸送電車。
    100馬力電動機とは米GM(ジェネラル・エレクトリック)社製造のGE-244A型モーターで、第1次世界大戦勃発後は欧米が戦時体制の為に輸入が途絶し、鐵道院大井工場に於いて試作させ国産化が成功し更に民間企業の東洋電機や芝浦電気でも製造された。
    製造時期に拠り3タイプに分類される。
    昭和初期以降は75キロワット出力に規定される。
    昭和3年(1928年)の車輌形式規定大改正後はモハ1型に集約。
    昭和28年(1953年)6月1日に広島鉄道管理局横川電車区配置の最後の車両が老朽化を理由に廃車され国鉄上から姿を消した。
    大井川鐵道に譲渡され廃車車輌をJR東海が購入し、モハ1035として復活保存された。


    絵葉書

    横浜臨海公園 蔵

  • 横浜駅<br /><br /><br /><br />関東大震災発生直後<br />横浜市民避難民が横浜駅に殺到<br />駅本屋やホーム上屋、及び、跨線橋が焼失していない事から震災当日11時58分〜14時頃撮影されたものと推定

    横浜駅



    関東大震災発生直後
    横浜市民避難民が横浜駅に殺到
    駅本屋やホーム上屋、及び、跨線橋が焼失していない事から震災当日11時58分〜14時頃撮影されたものと推定

  • 第3代目横濱駅本屋<br /><br /><br /><br />現在の横浜駅位置に昭和3年(1928年)10月15日開業<br /><br />着色絵葉書<br />横浜臨海公園 蔵

    第3代目横濱駅本屋



    現在の横浜駅位置に昭和3年(1928年)10月15日開業

    着色絵葉書
    横浜臨海公園 蔵

  • 第2代目横浜駅跡<br /><br /><br /><br />現在の高島町交差点付近<br />高島町交番所在地こそ第2代目横浜駅本屋存在地。<br /><br />横浜市西区高島2−1−5<br />横浜市営交通地下鉄線高島町駅 徒歩1分

    第2代目横浜駅跡



    現在の高島町交差点付近
    高島町交番所在地こそ第2代目横浜駅本屋存在地。

    横浜市西区高島2−1−5
    横浜市営交通地下鉄線高島町駅 徒歩1分

  • 2代目横浜駅本屋痕跡<br /><br /><br /><br />マンション建設時に発掘発見され大部分は埋め戻されたが一部を史蹟小公園とした。<br /><br />横浜市西区高島2−1−3<br />横浜市営交通地下鉄線高島町駅 徒歩1分

    2代目横浜駅本屋痕跡



    マンション建設時に発掘発見され大部分は埋め戻されたが一部を史蹟小公園とした。

    横浜市西区高島2−1−3
    横浜市営交通地下鉄線高島町駅 徒歩1分

  • 2代目横浜駅本屋痕跡<br /><br /><br /><br />横濱駅本屋は関東大震災では無事だったが類焼に依り全焼。<br /><br />横浜市西区高島2−1−3<br />横浜市営交通地下鉄線高島町駅 徒歩1分

    2代目横浜駅本屋痕跡



    横濱駅本屋は関東大震災では無事だったが類焼に依り全焼。

    横浜市西区高島2−1−3
    横浜市営交通地下鉄線高島町駅 徒歩1分

  • 2代目横浜駅本屋痕跡<br /><br /><br /><br />建築に使用された建築普通煉瓦純国産品<br />日本煉瓦製造株式会社 は我が国政府指導に於ける内閣制度発足に伴う日比谷霞ヶ関官庁街建設の為に富国強兵政策の下、ドイツから招聘した煉瓦製造技師指導下に創設した企業。<br />地元深谷出身の渋澤栄一翁も発起出資人で同社初代会長。<br />該建築構造用煉瓦を使用した代表的鉄道用関連関係施設は2代目横濱駅以外では、<br />東京駅(大正3年(1914年))<br />萬世橋駅(明治45年(1912年))<br />2代目新橋駅(明治42年(1909年))<br />東京-有楽町-新橋間高架橋群(明治43年(1910年))<br />碓氷峠煉瓦橋梁隧道群(明治26年(1893年))<br />大井工場発電所(大正3年(1914年9)<br />等々。<br />外部の装飾煉瓦は『金町煉瓦』製品使用。<br />萬世橋駅、新橋駅?、横濱駅?は関東大震災被災で類焼全焼。<br />此れらは外壁をモルタル塗にして復旧。<br /><br />横浜市西区高島2−1−3<br />横浜市営交通地下鉄線高島町駅 徒歩1分

    2代目横浜駅本屋痕跡



    建築に使用された建築普通煉瓦純国産品
    日本煉瓦製造株式会社 は我が国政府指導に於ける内閣制度発足に伴う日比谷霞ヶ関官庁街建設の為に富国強兵政策の下、ドイツから招聘した煉瓦製造技師指導下に創設した企業。
    地元深谷出身の渋澤栄一翁も発起出資人で同社初代会長。
    該建築構造用煉瓦を使用した代表的鉄道用関連関係施設は2代目横濱駅以外では、
    東京駅(大正3年(1914年))
    萬世橋駅(明治45年(1912年))
    2代目新橋駅(明治42年(1909年))
    東京-有楽町-新橋間高架橋群(明治43年(1910年))
    碓氷峠煉瓦橋梁隧道群(明治26年(1893年))
    大井工場発電所(大正3年(1914年9)
    等々。
    外部の装飾煉瓦は『金町煉瓦』製品使用。
    萬世橋駅、新橋駅?、横濱駅?は関東大震災被災で類焼全焼。
    此れらは外壁をモルタル塗にして復旧。

    横浜市西区高島2−1−3
    横浜市営交通地下鉄線高島町駅 徒歩1分

  • 2代目横浜駅本屋痕跡<br /><br /><br /><br />英国積煉瓦<br />煉瓦連接部を仔細に検証すると 英国積<br />明治末期以降に於いて我が国に於ける煉瓦積みは殆どイギリス積に1本化される。<br />理由としてフランス積やドイツ積は外見的見栄えは良好なれど振動に弱い、即ち、地震の揺れに対し脆弱であるとの指摘からイギリス積へと集約化された感あり。<br />即ち、明治24年(1890年)10月28日に発生した濃尾大震災(のうび だいしんさい)の被害判定結果が建築工法を移行させたものではないかと推察。<br /><br />横浜市西区高島2−1−3<br />横浜市営交通地下鉄線高島町駅 徒歩1分

    2代目横浜駅本屋痕跡



    英国積煉瓦
    煉瓦連接部を仔細に検証すると 英国積
    明治末期以降に於いて我が国に於ける煉瓦積みは殆どイギリス積に1本化される。
    理由としてフランス積やドイツ積は外見的見栄えは良好なれど振動に弱い、即ち、地震の揺れに対し脆弱であるとの指摘からイギリス積へと集約化された感あり。
    即ち、明治24年(1890年)10月28日に発生した濃尾大震災(のうび だいしんさい)の被害判定結果が建築工法を移行させたものではないかと推察。

    横浜市西区高島2−1−3
    横浜市営交通地下鉄線高島町駅 徒歩1分

  • 2代目横浜駅本屋痕跡<br /><br /><br /><br />明治期から昭和初期まで使用され、その後は廃棄された建造物は基礎から上部を解体撤去されたものの、基礎部分は土砂で埋没させ整地させた例が殆どで、汐留や桜木町、横浜港等々例に限り無し。<br />全国で案外、件の如き事例が多く今後発掘に拠り近代史を歴史的解明を期待。<br /><br />横浜市西区高島2−1−3<br />横浜市営交通地下鉄線高島町駅 徒歩1分<br />

    2代目横浜駅本屋痕跡



    明治期から昭和初期まで使用され、その後は廃棄された建造物は基礎から上部を解体撤去されたものの、基礎部分は土砂で埋没させ整地させた例が殆どで、汐留や桜木町、横浜港等々例に限り無し。
    全国で案外、件の如き事例が多く今後発掘に拠り近代史を歴史的解明を期待。

    横浜市西区高島2−1−3
    横浜市営交通地下鉄線高島町駅 徒歩1分

  • 2代目横浜駅本屋痕跡<br /><br /><br /><br />関東大震災で横浜駅本屋と同様、萬世橋駅本屋も類焼被害で全焼したが、萬世橋駅本屋は東京市と陸軍震災救援部隊の依頼で駅機能停止中は臨時焼死体収容所に使用。<br />横浜駅は此の様な活用方をされず幸甚だったと言ふべきか。<br /><br />横浜市西区高島2−1−3<br />横浜市営交通地下鉄線高島町駅 徒歩1分

    2代目横浜駅本屋痕跡



    関東大震災で横浜駅本屋と同様、萬世橋駅本屋も類焼被害で全焼したが、萬世橋駅本屋は東京市と陸軍震災救援部隊の依頼で駅機能停止中は臨時焼死体収容所に使用。
    横浜駅は此の様な活用方をされず幸甚だったと言ふべきか。

    横浜市西区高島2−1−3
    横浜市営交通地下鉄線高島町駅 徒歩1分

  • 2代目横浜駅本屋痕跡<br /><br /><br /><br />関東大震災で全焼後、モルタル吹付と構体弱化を理由に上部が解体され第3代目駅本屋が金港町に移転するまで使用。<br />昭和3年(1928年)10月15日に横浜駅が現在地に移転後、建築物は基礎を残し上部解体後埋め立てられてそのまま忘却されていた。<br /><br />横浜市西区高島2−1−3<br />横浜市営交通地下鉄線高島町駅 徒歩1分

    2代目横浜駅本屋痕跡



    関東大震災で全焼後、モルタル吹付と構体弱化を理由に上部が解体され第3代目駅本屋が金港町に移転するまで使用。
    昭和3年(1928年)10月15日に横浜駅が現在地に移転後、建築物は基礎を残し上部解体後埋め立てられてそのまま忘却されていた。

    横浜市西区高島2−1−3
    横浜市営交通地下鉄線高島町駅 徒歩1分

  • 2代目横浜駅本屋痕跡<br /><br /><br /><br />関東大震災で被災後、一時期駅復旧後に施設拡張の噂が流れ、高島町平沼町一帯の土地価格が暴騰し、土地成金を夢見て1坪70円〜100円で取引されたが、結局該情報はガセと判明し投資者の破産続出。<br /><br />横浜市西区高島2−1−3<br />横浜市営交通地下鉄線高島町駅 徒歩1分

    2代目横浜駅本屋痕跡



    関東大震災で被災後、一時期駅復旧後に施設拡張の噂が流れ、高島町平沼町一帯の土地価格が暴騰し、土地成金を夢見て1坪70円〜100円で取引されたが、結局該情報はガセと判明し投資者の破産続出。

    横浜市西区高島2−1−3
    横浜市営交通地下鉄線高島町駅 徒歩1分

  • 第2代横濱駅前<br /><br /><br /><br />横浜駅本屋3階から駅前を俯瞰<br />横濱電気鐵道36形電車が写っている事から大正初期に川村屋構内レストラン内から撮影されたものと推定<br />駅本屋前を通過していた貨物線が写っていない事から3階から撮影。<br />横浜電気鐵道電車と左手に京濱線高架が見える。<br /><br />着色絵葉書<br />横浜臨海公園蔵

    第2代横濱駅前



    横浜駅本屋3階から駅前を俯瞰
    横濱電気鐵道36形電車が写っている事から大正初期に川村屋構内レストラン内から撮影されたものと推定
    駅本屋前を通過していた貨物線が写っていない事から3階から撮影。
    横浜電気鐵道電車と左手に京濱線高架が見える。

    着色絵葉書
    横浜臨海公園蔵

  • 第2代目横濱駅本屋と京濱線電車<br /><br /><br /><br />横濱-櫻木町間<br />京濱線電車は横濱駅発車後、高島-程ヶ谷間貨物高架線下を抜け登り勾配で高架線で櫻木町駅に向かう構造だった。<br /><br />絵葉書<br />横浜臨海公園 蔵

    第2代目横濱駅本屋と京濱線電車



    横濱-櫻木町間
    京濱線電車は横濱駅発車後、高島-程ヶ谷間貨物高架線下を抜け登り勾配で高架線で櫻木町駅に向かう構造だった。

    絵葉書
    横浜臨海公園 蔵

  • 横浜-桜木町駅間<br /><br /><br /><br />前項写真と同一箇所での撮影<br /><br />横浜市西区桜木町7−10<br />横浜市営交通バス花咲町停留所降車 徒歩1分<br />

    横浜-桜木町駅間



    前項写真と同一箇所での撮影

    横浜市西区桜木町7−10
    横浜市営交通バス花咲町停留所降車 徒歩1分

  • 第2代目横濱駅本屋と京濱線電車<br /><br /><br /><br />横濱駅を出発後、櫻木町駅に向かう京濱線電車。<br />高架を登り切った所で横濱電気軌道(後の横浜市電)と立体交差。<br />横浜臨海公園は35年前に直流1500V昇圧前の伊豆箱根鉄道大雄山線でデハ6340型電車の鋼体化改造車輌に乗車した体験を有しているが釣掛音が大きい割に低出力だったとの心象。<br /><br />絵葉書<br />横浜臨海公園 蔵

    第2代目横濱駅本屋と京濱線電車



    横濱駅を出発後、櫻木町駅に向かう京濱線電車。
    高架を登り切った所で横濱電気軌道(後の横浜市電)と立体交差。
    横浜臨海公園は35年前に直流1500V昇圧前の伊豆箱根鉄道大雄山線でデハ6340型電車の鋼体化改造車輌に乗車した体験を有しているが釣掛音が大きい割に低出力だったとの心象。

    絵葉書
    横浜臨海公園 蔵

  • 旧鐵道院京濱線高架橋跡<br /><br /><br /><br />上記絵葉書と同一個所<br />此の箇所は東京急行電鉄が施工したものと考えがちだが、実は、大正7年(1918年)4月1日に当時の鐵道院が横濱-櫻木町駅間を単線で高架線構築した際の建築物。<br />その後、複線、更に3線化され、昭和8年に当時の東京横濱電気鐵道が高島町-櫻木町間を延長するにあたり資産保有管理者たる鐵道省から金90万円で払下げを受け敷設運行されていた高架線。<br />更に写真では橋台が線路に向かい斜めに構築されているのが見られるが、此れは大正期から昭和5年まで当時の横浜市電が花咲橋電停-高島町1丁目ステーシヨン前電停間を2代目横浜駅前をナナメ右に曲がり線路が敷設されていた痕跡。<br />現在はボードで封印され望見不可能。<br /><br />横浜市西区桜木町7−2−48<br />横浜市営交通バス高島町停留所降車 徒歩1分

    旧鐵道院京濱線高架橋跡



    上記絵葉書と同一個所
    此の箇所は東京急行電鉄が施工したものと考えがちだが、実は、大正7年(1918年)4月1日に当時の鐵道院が横濱-櫻木町駅間を単線で高架線構築した際の建築物。
    その後、複線、更に3線化され、昭和8年に当時の東京横濱電気鐵道が高島町-櫻木町間を延長するにあたり資産保有管理者たる鐵道省から金90万円で払下げを受け敷設運行されていた高架線。
    更に写真では橋台が線路に向かい斜めに構築されているのが見られるが、此れは大正期から昭和5年まで当時の横浜市電が花咲橋電停-高島町1丁目ステーシヨン前電停間を2代目横浜駅前をナナメ右に曲がり線路が敷設されていた痕跡。
    現在はボードで封印され望見不可能。

    横浜市西区桜木町7−2−48
    横浜市営交通バス高島町停留所降車 徒歩1分

  • 旧鐵道院京濱線高架橋跡<br /><br /><br /><br />尚、京濱線が現在の様に 京浜東北線(けいひんとうほくせん)と呼称されるのは、意外と遅く実は大東亜戦争中時代。<br />電車の前面中央下部に吊るされていた「大宮」「赤羽」「櫻木町」などの行先表示板が戦争苛烈と共に昭和18年(1943年)秋に当局から金属回収命令で全部撤去され、代わりに正面運転台左側に紙製で『京浜・東北線』と表示したのが嚆矢。<br />戦後になり表示から『・』が抜け京浜東北線となり現在に至る。<br /><br />横浜市西区桜木町7−2−48<br />横浜市営交通バス高島町停留所 徒歩1分

    旧鐵道院京濱線高架橋跡



    尚、京濱線が現在の様に 京浜東北線(けいひんとうほくせん)と呼称されるのは、意外と遅く実は大東亜戦争中時代。
    電車の前面中央下部に吊るされていた「大宮」「赤羽」「櫻木町」などの行先表示板が戦争苛烈と共に昭和18年(1943年)秋に当局から金属回収命令で全部撤去され、代わりに正面運転台左側に紙製で『京浜・東北線』と表示したのが嚆矢。
    戦後になり表示から『・』が抜け京浜東北線となり現在に至る。

    横浜市西区桜木町7−2−48
    横浜市営交通バス高島町停留所 徒歩1分

  • 旧鉄道院京濱線高架橋跡<br /><br /><br /><br />橋台が道路と線路に対し斜めに敷設されている。<br />後期に開業した高架橋部分は当初より封鎖されていた。<br /><br />横浜市西区桜木町7−2−48<br />横浜市営交通バス高島町停留所降車 徒歩1分

    旧鉄道院京濱線高架橋跡



    橋台が道路と線路に対し斜めに敷設されている。
    後期に開業した高架橋部分は当初より封鎖されていた。

    横浜市西区桜木町7−2−48
    横浜市営交通バス高島町停留所降車 徒歩1分

  • 旧鐵道院京濱線高架橋跡<br /><br /><br /><br />浮浪者立入防止対策の為に該開口部はボードは封印。<br /><br />横浜市西区桜木町7−2−48<br />横浜市営交通バス高島町停留所降車 徒歩1分

    旧鐵道院京濱線高架橋跡



    浮浪者立入防止対策の為に該開口部はボードは封印。

    横浜市西区桜木町7−2−48
    横浜市営交通バス高島町停留所降車 徒歩1分

  • 旧鐵道院京濱線高架橋跡<br /><br /><br /><br />横面<br /><br />横浜市西区桜木町5−25−3<br />横浜市営交通バス花咲橋停留所降車 徒歩1分

    旧鐵道院京濱線高架橋跡



    横面

    横浜市西区桜木町5−25−3
    横浜市営交通バス花咲橋停留所降車 徒歩1分

  • 鐵道院京濱線高架橋<br /><br /><br /><br />当時の京濱線電車と横浜市電<br />道路は現在の国道16号線<br />撮影は大正初期〜中期頃と推定<br /><br />絵葉書<br />横浜臨海公園 蔵

    鐵道院京濱線高架橋



    当時の京濱線電車と横浜市電
    道路は現在の国道16号線
    撮影は大正初期〜中期頃と推定

    絵葉書
    横浜臨海公園 蔵

  • 鐵道院京濱高架橋<br /><br /><br /><br />京濱線電車と横濱市電<br />横浜市電車輌は300型<br />背後関係から関東大震災直前撮影と推定<br /><br />絵葉書<br />横浜臨海公園 蔵

    鐵道院京濱高架橋



    京濱線電車と横濱市電
    横浜市電車輌は300型
    背後関係から関東大震災直前撮影と推定

    絵葉書
    横浜臨海公園 蔵

  • 旧東急東横線高島町-桜木町駅間高架線跡<br /><br /><br /><br />高架下迷物見苦しい落書群も一掃され奇麗になった。<br /><br />横浜市西区桜木町5−26−7<br />横浜市営交通バス花咲町停留所 降車1分

    旧東急東横線高島町-桜木町駅間高架線跡



    高架下迷物見苦しい落書群も一掃され奇麗になった。

    横浜市西区桜木町5−26−7
    横浜市営交通バス花咲町停留所 降車1分

  • 東急東横線高島町駅跡<br /><br /><br /><br />昭和6年(1931年)1月20日開業当時の高島町駅は平沼町界隈への最寄り駅であり同時に戦後まで存在した高島桟橋(たかしま さんばし)着発の東海汽船木更津、館山、大島諸各航路の乗換指定駅としての責務も存在した。<br />横浜以南は新規開業する横浜高速鉄道みなとみらい線が代替営業する事になり平成16年(2004年)1月30日に東急東横線横浜-桜木町間区間廃止に伴い高島町駅廃止。<br /><br />横浜市西区高島2−2−30<br />横浜市営交通地下鉄線高島町駅 徒歩1分

    東急東横線高島町駅跡



    昭和6年(1931年)1月20日開業当時の高島町駅は平沼町界隈への最寄り駅であり同時に戦後まで存在した高島桟橋(たかしま さんばし)着発の東海汽船木更津、館山、大島諸各航路の乗換指定駅としての責務も存在した。
    横浜以南は新規開業する横浜高速鉄道みなとみらい線が代替営業する事になり平成16年(2004年)1月30日に東急東横線横浜-桜木町間区間廃止に伴い高島町駅廃止。

    横浜市西区高島2−2−30
    横浜市営交通地下鉄線高島町駅 徒歩1分

  • 横浜-桜木町間<br /><br /><br /><br />第2帷子川橋梁(だいに かたびらがわ きょうりょう)<br />該区間は、昭和5年(1930年)1月26日開通<br /><br />横浜市西区高島2−15<br />東海道本線横浜駅みなみ東口 徒歩4分

    横浜-桜木町間



    第2帷子川橋梁(だいに かたびらがわ きょうりょう)
    該区間は、昭和5年(1930年)1月26日開通

    横浜市西区高島2−15
    東海道本線横浜駅みなみ東口 徒歩4分

  • 横浜-桜木町間<br /><br /><br /><br />第2帷子川橋梁<br />中央橋桁はプレートガーター、両側橋桁がアイビームガーターで構成<br /><br />横浜市西区高島2−15<br />東海道本線横浜駅みなみ東口 徒歩4分

    横浜-桜木町間



    第2帷子川橋梁
    中央橋桁はプレートガーター、両側橋桁がアイビームガーターで構成

    横浜市西区高島2−15
    東海道本線横浜駅みなみ東口 徒歩4分

  • 横浜-桜木町間<br /><br /><br /><br />第1高島架道橋(だいいち たかしま かどうきょう)<br /><br />横浜市西区高島2−10−10<br />東海道本線横浜駅みなみ東口 徒歩4分

    横浜-桜木町間



    第1高島架道橋(だいいち たかしま かどうきょう)

    横浜市西区高島2−10−10
    東海道本線横浜駅みなみ東口 徒歩4分

  • 横浜-桜木町間<br /><br /><br /><br />第2高島架道橋(だいに たかしま かどうきょう)<br /><br />横浜市西区高島2−10−5<br />東海道本線横浜駅みなみ東口 徒歩4分

    横浜-桜木町間



    第2高島架道橋(だいに たかしま かどうきょう)

    横浜市西区高島2−10−5
    東海道本線横浜駅みなみ東口 徒歩4分

  • 横浜-桜木町間<br /><br /><br />第2高島架道橋<br />奥が第2高島架道橋<br />橋桁に鐵道省の製造銘板<br />手前は廃線になった旧東急東横線高架橋<br /><br />横浜市西区高島2−10−5<br />東海道本線横浜駅みなみ東口 徒歩4分<br />

    横浜-桜木町間


    第2高島架道橋
    奥が第2高島架道橋
    橋桁に鐵道省の製造銘板
    手前は廃線になった旧東急東横線高架橋

    横浜市西区高島2−10−5
    東海道本線横浜駅みなみ東口 徒歩4分

  • 横浜-桜木町間<br /><br /><br /><br />根岸線高架<br />該区間からラーメン構造<br /><br />横浜市西区高島2−6<br />東海道本線横浜駅みなみ東口 徒歩6分

    横浜-桜木町間



    根岸線高架
    該区間からラーメン構造

    横浜市西区高島2−6
    東海道本線横浜駅みなみ東口 徒歩6分

  • 横浜-桜木町間<br /><br /><br /><br />根岸線高架<br />該区間のみ石積構造<br /><br />横浜市西区高島2−4<br />東海道本線横浜駅みなみ東口 徒歩5分

    横浜-桜木町間



    根岸線高架
    該区間のみ石積構造

    横浜市西区高島2−4
    東海道本線横浜駅みなみ東口 徒歩5分

  • 横浜-桜木町間<br /><br /><br /><br />第4高島架道橋(だいよん たかしま かどうきょう)<br />横浜駅から該部分まで、昭和5年(1930年)1月26日開通部分<br /><br />横浜市西区高島2−1−1<br />東海道本線横浜駅みなみ南口 徒歩7分<br />

    横浜-桜木町間



    第4高島架道橋(だいよん たかしま かどうきょう)
    横浜駅から該部分まで、昭和5年(1930年)1月26日開通部分

    横浜市西区高島2−1−1
    東海道本線横浜駅みなみ南口 徒歩7分

  • 横浜-桜木町間<br /><br /><br /><br />第4高島架道橋<br />道路中央部を、昭和4年(1929年)9月16日に廃止になるまで高島-程ヶ谷(現 保土ヶ谷)間を貨物高架線が通過した。<br /><br />横浜市西区高島2−1−1<br />東海道本線横浜駅みなみ東口 徒歩7分

    横浜-桜木町間



    第4高島架道橋
    道路中央部を、昭和4年(1929年)9月16日に廃止になるまで高島-程ヶ谷(現 保土ヶ谷)間を貨物高架線が通過した。

    横浜市西区高島2−1−1
    東海道本線横浜駅みなみ東口 徒歩7分

  • 横浜-桜木町駅間<br /><br /><br /><br />内田町第2架道橋橋台部<br />手前から鐵道院単線開業時<br />中間は複線開業時<br />後部は昭和5年(1930年)1月26日開通時<br /><br />横浜市西区桜木町6−7<br />横浜市営交通バス花咲町停留所降車 徒歩1分

    横浜-桜木町駅間



    内田町第2架道橋橋台部
    手前から鐵道院単線開業時
    中間は複線開業時
    後部は昭和5年(1930年)1月26日開通時

    横浜市西区桜木町6−7
    横浜市営交通バス花咲町停留所降車 徒歩1分

  • 横浜-桜木町駅間<br /><br /><br /><br />内田町第2架道橋<br />内田町は嘗て三菱ドック(みつびし どっく)一帯を総称する広大な敷地を有する横浜市内有数な町名だったが、再開発の為に三菱ドックが撤退し再開発後は「みなとみらい1〜4丁目」に再編された結果、内田町は登記簿上の関係上、現在のJR東日本と旧東急東横線高架線部所在地にのみ残存する特異な存在。<br /><br />横浜市西区桜木町6−7<br />横浜市営交通バス花咲町停留所降車 徒歩1分<br /><br />

    横浜-桜木町駅間



    内田町第2架道橋
    内田町は嘗て三菱ドック(みつびし どっく)一帯を総称する広大な敷地を有する横浜市内有数な町名だったが、再開発の為に三菱ドックが撤退し再開発後は「みなとみらい1〜4丁目」に再編された結果、内田町は登記簿上の関係上、現在のJR東日本と旧東急東横線高架線部所在地にのみ残存する特異な存在。

    横浜市西区桜木町6−7
    横浜市営交通バス花咲町停留所降車 徒歩1分

  • 横浜-桜木町駅間<br /><br /><br /><br />内田町第2架道橋<br />橋桁部<br /><br />横浜市西区桜木町6−7<br />横浜市営交通バス花咲町停留所降車 徒歩1分

    横浜-桜木町駅間



    内田町第2架道橋
    橋桁部

    横浜市西区桜木町6−7
    横浜市営交通バス花咲町停留所降車 徒歩1分

  • 横浜-桜木町駅間<br /><br /><br /><br />内田町第2架道橋<br />橋桁部<br /><br />横浜市西区桜木町6−7<br />横浜市営交通バス花咲町停留所降車 徒歩1分

    横浜-桜木町駅間



    内田町第2架道橋
    橋桁部

    横浜市西区桜木町6−7
    横浜市営交通バス花咲町停留所降車 徒歩1分

  • 横浜-桜木町駅間<br /><br /><br /><br />内田町第2架道橋<br />橋桁と橋台部<br /><br />横浜市西区桜木町6−7<br />横浜市営交通バス花咲町停留所降車 徒歩1分

    横浜-桜木町駅間



    内田町第2架道橋
    橋桁と橋台部

    横浜市西区桜木町6−7
    横浜市営交通バス花咲町停留所降車 徒歩1分

  • 横浜-桜木町駅間<br /><br /><br /><br />内田町第2架道橋<br />橋桁と橋台部<br /><br />横浜市西区桜木町6−7<br />横浜市営交通バス花咲町停留所降車 徒歩1分

    横浜-桜木町駅間



    内田町第2架道橋
    橋桁と橋台部

    横浜市西区桜木町6−7
    横浜市営交通バス花咲町停留所降車 徒歩1分

  • 横浜-桜木町駅間<br /><br /><br /><br />内田町第2架道橋(うちだちょう だいにかどうきょう)<br />大正7年(1918年)4月1日横濱-櫻木町駅間高架化工事完成時の姿を現在に残す。<br />写真右手2線が高架化当時の物。<br /><br />横浜市西区桜木町6−7<br />横浜市営交通バス花咲町停留所降車 徒歩1分

    横浜-桜木町駅間



    内田町第2架道橋(うちだちょう だいにかどうきょう)
    大正7年(1918年)4月1日横濱-櫻木町駅間高架化工事完成時の姿を現在に残す。
    写真右手2線が高架化当時の物。

    横浜市西区桜木町6−7
    横浜市営交通バス花咲町停留所降車 徒歩1分

  • 東海道本線神奈川駅跡<br /><br /><br /><br />明治5年(1872年)7月11日に新橋-横濱間仮開通の約1ヶ月に途中列車交換駅を必要とすとの理由から川崎駅と共に開設された我が国最古の中間駅だった。<br /><br />横浜市神奈川区台町1−1<br />東海道本線横浜駅北東口 徒歩3分

    東海道本線神奈川駅跡



    明治5年(1872年)7月11日に新橋-横濱間仮開通の約1ヶ月に途中列車交換駅を必要とすとの理由から川崎駅と共に開設された我が国最古の中間駅だった。

    横浜市神奈川区台町1−1
    東海道本線横浜駅北東口 徒歩3分

  • 東海道本線神奈川駅跡<br /><br /><br /><br />昭和3年(1928年)10月15日に3代目横浜駅移転開業時に双方の距離が180メートル弱しか離れておらず、至近と存在喪失とを理由に56年の歴史に幕を下ろし廃止。<br />現代なら至近距離に横浜駅が移転開業しても神奈川駅は残存した可能性が強い。<br /><br />横浜市神奈川区台町3−2<br />東海道本線横浜駅北東口 徒歩3分

    東海道本線神奈川駅跡



    昭和3年(1928年)10月15日に3代目横浜駅移転開業時に双方の距離が180メートル弱しか離れておらず、至近と存在喪失とを理由に56年の歴史に幕を下ろし廃止。
    現代なら至近距離に横浜駅が移転開業しても神奈川駅は残存した可能性が強い。

    横浜市神奈川区台町3−2
    東海道本線横浜駅北東口 徒歩3分

  • 東神奈川-横浜間<br /><br /><br />青木橋(あおきばし)<br />東京都品川区所在の 八ッ山橋(やつやまばし)と共に我が国の鉄道跨線橋として最古の存在。<br /><br />横浜市神奈川区高島台1−1<br />東海道本線横浜駅きた東口 徒歩5分

    東神奈川-横浜間


    青木橋(あおきばし)
    東京都品川区所在の 八ッ山橋(やつやまばし)と共に我が国の鉄道跨線橋として最古の存在。

    横浜市神奈川区高島台1−1
    東海道本線横浜駅きた東口 徒歩5分

  • 東海道本線神奈川駅<br /><br /><br /><br />神奈川駅前<br />駅前から市内に横浜電気鐵道が連絡。<br />奥に見えるのは京濱電気軌道神奈川青木橋停留所。<br /><br />絵葉書<br />横浜臨海公園蔵<br /><br />

    東海道本線神奈川駅



    神奈川駅前
    駅前から市内に横浜電気鐵道が連絡。
    奥に見えるのは京濱電気軌道神奈川青木橋停留所。

    絵葉書
    横浜臨海公園蔵

  • 東海道本線神奈川駅跡<br /><br /><br /><br />大東亜戦争中に金属回収令に拠り柵の鉄柱材が回収されたまま66年以上経過するも支柱のみ虚しく残る。<br /><br />横浜市神奈川区金港町5−9<br />東海道本線横浜駅北東口 徒歩5分

    東海道本線神奈川駅跡



    大東亜戦争中に金属回収令に拠り柵の鉄柱材が回収されたまま66年以上経過するも支柱のみ虚しく残る。

    横浜市神奈川区金港町5−9
    東海道本線横浜駅北東口 徒歩5分

  • 東海道本線神奈川駅跡<br /><br /><br /><br />写真中央に見えるスペースが元神奈川駅本屋敷地跡。<br /><br />横浜市神奈川区金港町8−1<br />東海道本線横浜駅北東口 徒歩3分

    東海道本線神奈川駅跡



    写真中央に見えるスペースが元神奈川駅本屋敷地跡。

    横浜市神奈川区金港町8−1
    東海道本線横浜駅北東口 徒歩3分

  • 東海道本線神奈川駅跡<br /><br /><br /><br />旧神奈川駅前通り<br /><br />横浜市神奈川区金港町8−1<br />東海道本線横浜駅北東口 徒歩3分

    東海道本線神奈川駅跡



    旧神奈川駅前通り

    横浜市神奈川区金港町8−1
    東海道本線横浜駅北東口 徒歩3分

  • 東神奈川-横浜間<br /><br /><br /><br />右側から<br />京急本線下り線<br />京急本線上り線<br />京浜東北線南行線<br />京浜東北線北行線<br />東海道本線下り線<br />東海道本線上り線<br />横須賀線下り線<br />横須賀線上り線<br /><br />横浜市西区高島2−16<br />東海道本線横浜駅北東口 徒歩45秒

    東神奈川-横浜間



    右側から
    京急本線下り線
    京急本線上り線
    京浜東北線南行線
    京浜東北線北行線
    東海道本線下り線
    東海道本線上り線
    横須賀線下り線
    横須賀線上り線

    横浜市西区高島2−16
    東海道本線横浜駅北東口 徒歩45秒

  • 東神奈川-横浜間<br /><br /><br /><br />横浜駅が現在地に移転するまで、東海道本線は手前に左向きに線路が向かわず直進していた。<br /><br />横浜市西区高島2−16<br />東海道本線横浜駅北東口 徒歩45秒

    東神奈川-横浜間



    横浜駅が現在地に移転するまで、東海道本線は手前に左向きに線路が向かわず直進していた。

    横浜市西区高島2−16
    東海道本線横浜駅北東口 徒歩45秒

  • 旧東海道本線線路敷跡<br /><br /><br /><br />内海川月見橋(つきみばし)<br />現在線との分岐点<br />東京方面に向かい現在線に直線コース。<br />塘路正面奥に廃止された神奈川駅が存在した。<br /><br />横浜市西区高島2−16<br />東海道本線横浜駅北東口 徒歩30秒

    旧東海道本線線路敷跡



    内海川月見橋(つきみばし)
    現在線との分岐点
    東京方面に向かい現在線に直線コース。
    塘路正面奥に廃止された神奈川駅が存在した。

    横浜市西区高島2−16
    東海道本線横浜駅北東口 徒歩30秒

  • 旧東海道本線線路敷跡<br /><br /><br /><br />旧内海川橋梁跡(きゅう うちうみがわ きょうりょうあと)<br />明治3年(1870年)〜昭和5年(1930年)1月26日使用。<br />関東大震災(大正12年(1923年)9月1日)発生当時、現横浜駅西口付近に所在した米ライシングサン石油横浜支店の備蓄石油タンク数基が破損し内海川に流出したガソリンが着火爆発炎上しながら沿岸流域家屋を焼失させた。<br />同時に、該地に存在した内海川橋梁も高熱の為に錬鉄製ガーター橋桁3連変形屈曲損傷し使用不可能となる。<br />京濱線線路変更まで使用された後、大蔵省移管を経て内務省所管となり、戦後は横浜市所有となり現在に至る。<br />月見橋橋桁は橋梁架替まで鉄道用プレートガーター橋桁を活用し該橋が鉄道橋出自たるを濃厚に物語っていた。<br /><br />横浜市西区高島2−16<br />東海道本線横浜駅北東口 徒歩30秒

    旧東海道本線線路敷跡



    旧内海川橋梁跡(きゅう うちうみがわ きょうりょうあと)
    明治3年(1870年)〜昭和5年(1930年)1月26日使用。
    関東大震災(大正12年(1923年)9月1日)発生当時、現横浜駅西口付近に所在した米ライシングサン石油横浜支店の備蓄石油タンク数基が破損し内海川に流出したガソリンが着火爆発炎上しながら沿岸流域家屋を焼失させた。
    同時に、該地に存在した内海川橋梁も高熱の為に錬鉄製ガーター橋桁3連変形屈曲損傷し使用不可能となる。
    京濱線線路変更まで使用された後、大蔵省移管を経て内務省所管となり、戦後は横浜市所有となり現在に至る。
    月見橋橋桁は橋梁架替まで鉄道用プレートガーター橋桁を活用し該橋が鉄道橋出自たるを濃厚に物語っていた。

    横浜市西区高島2−16
    東海道本線横浜駅北東口 徒歩30秒

  • 旧東海道本線線路敷跡<br /><br /><br /><br />写真中央道路が昭和3年(1928年)10月14日まで複々線として使用、残存部分は昭和5年(1930年)1月25日まで東海道本線京濱線電車線複線用用地として使用されていた路盤跡。<br />右手は横浜中央郵便局。<br />左手は崎陽軒(きようけん)本社ビル。<br /><br />横浜市西区高島2−14−27<br />東海道本線横浜駅みなみ東口 徒歩1分

    旧東海道本線線路敷跡



    写真中央道路が昭和3年(1928年)10月14日まで複々線として使用、残存部分は昭和5年(1930年)1月25日まで東海道本線京濱線電車線複線用用地として使用されていた路盤跡。
    右手は横浜中央郵便局。
    左手は崎陽軒(きようけん)本社ビル。

    横浜市西区高島2−14−27
    東海道本線横浜駅みなみ東口 徒歩1分

  • 旧東海道本線線路敷跡<br /><br /><br /><br />横浜市西区高島2−14−9<br />東海道本線横浜駅みなみ東口 徒歩2分

    旧東海道本線線路敷跡



    横浜市西区高島2−14−9
    東海道本線横浜駅みなみ東口 徒歩2分

  • 旧東海道本線路線敷跡<br /><br /><br /><br />帷子川万里橋<br />橋を渡り向かいの道路と手前の道路が旧線路跡。<br /><br />横浜市西区高島2−14−17<br />東海道本線横浜駅みなみ東口 徒歩2分

    旧東海道本線路線敷跡



    帷子川万里橋
    橋を渡り向かいの道路と手前の道路が旧線路跡。

    横浜市西区高島2−14−17
    東海道本線横浜駅みなみ東口 徒歩2分

  • 旧東海道本線路線敷跡<br /><br /><br /><br />横浜市西区高島2−19−8<br />東海道本線横浜駅みなみ東口 徒歩3分

    旧東海道本線路線敷跡



    横浜市西区高島2−19−8
    東海道本線横浜駅みなみ東口 徒歩3分

  • 旧東海道本線路線敷跡<br /><br /><br /><br />明治5年(1872年)鉄道開業から昭和5年(1930年)1月25日まで鉄道線跡。<br />開業当初は海中に築堤構築し路盤敷設。<br /><br />3代目横浜駅が現在位置に開業し3代目横濱駅-旧高島町間京濱線高架橋が開通した事から廃止され大蔵省から内務省に不動産移転移管後道路に転用。<br /><br />現在では明治初期まで両サイドが海だったとは想像外想像の光景。<br /><br />尚、最近JR東日本が作成配布したパンフレットに当該道路は大正4年(1915年)まで使用したとの記述は明らかに誤り。<br /><br />横浜市西区高島2−3−1<br />東海道本線横浜駅みなみ東口 徒歩4分

    旧東海道本線路線敷跡



    明治5年(1872年)鉄道開業から昭和5年(1930年)1月25日まで鉄道線跡。
    開業当初は海中に築堤構築し路盤敷設。

    3代目横浜駅が現在位置に開業し3代目横濱駅-旧高島町間京濱線高架橋が開通した事から廃止され大蔵省から内務省に不動産移転移管後道路に転用。

    現在では明治初期まで両サイドが海だったとは想像外想像の光景。

    尚、最近JR東日本が作成配布したパンフレットに当該道路は大正4年(1915年)まで使用したとの記述は明らかに誤り。

    横浜市西区高島2−3−1
    東海道本線横浜駅みなみ東口 徒歩4分

  • 京浜急行電鉄旧平沼駅跡<br /><br /><br /><br />コンクリート表面に僅かに残る側面の剥離タイル跡が辛うじて駅だった痕跡を示す証。<br /><br />横浜市西区平沼1−33−65<br />東海道本線横浜駅みなみ東口 徒歩5分

    京浜急行電鉄旧平沼駅跡



    コンクリート表面に僅かに残る側面の剥離タイル跡が辛うじて駅だった痕跡を示す証。

    横浜市西区平沼1−33−65
    東海道本線横浜駅みなみ東口 徒歩5分

  • 京浜急行電鉄旧平沼駅跡<br /><br /><br /><br />高島町界隈に於いて戦前一番最後の開業。<br />当時の京濱電気鐵道が昭和6年(1931年)12月26日に横濱-黄金町間開通時に開業。<br />高島町から平沼、野毛を経て初音町までの区間は当時の横浜市内でも最密集地だった為に大正後期まで土地取得に手間取るが、関東大震災発生で付近一帯が焼野原となった事から一転して土地取得が容易となり、又、当時の鐵道省が櫻木町-蒔田(まいた)間延長計画で取得済所有地が震災で延長計画自体が中止になり代わりに京濱電気鐵道が払下を受け建設が進めた。<br />然し、平沼駅開業時は既に平沼界隈が最盛期を過ぎ衰退の一途を辿っていた時期であり、開業当初から乗降客が予想を下回る状態だった。<br />結局、戦時体制強化の中、昭和18年(1943年)6月30日に営業休止となり、翌年の昭和19年(1944年)11月20日に廃止。<br />更に追い討ちをかけるが如く昭和20年(1945年)4月4日の横浜第1次空襲の際に敵機から投下された焼夷弾数発が旧駅構内に命中爆発し駅構内全体が被災焼失。<br />戦後になり地元平沼商店街を中心に何度か平沼駅復活要求が提出されるも京急電鉄側は頑な態度を崩さず現在に至る。<br />駅構内内部は黒焦げ状態。<br />左手奥は品川方面ホームへの階段。<br /><br />横浜市西区平沼1−33−−30<br />東海道本線横浜駅みなみ東口 徒歩5分

    京浜急行電鉄旧平沼駅跡



    高島町界隈に於いて戦前一番最後の開業。
    当時の京濱電気鐵道が昭和6年(1931年)12月26日に横濱-黄金町間開通時に開業。
    高島町から平沼、野毛を経て初音町までの区間は当時の横浜市内でも最密集地だった為に大正後期まで土地取得に手間取るが、関東大震災発生で付近一帯が焼野原となった事から一転して土地取得が容易となり、又、当時の鐵道省が櫻木町-蒔田(まいた)間延長計画で取得済所有地が震災で延長計画自体が中止になり代わりに京濱電気鐵道が払下を受け建設が進めた。
    然し、平沼駅開業時は既に平沼界隈が最盛期を過ぎ衰退の一途を辿っていた時期であり、開業当初から乗降客が予想を下回る状態だった。
    結局、戦時体制強化の中、昭和18年(1943年)6月30日に営業休止となり、翌年の昭和19年(1944年)11月20日に廃止。
    更に追い討ちをかけるが如く昭和20年(1945年)4月4日の横浜第1次空襲の際に敵機から投下された焼夷弾数発が旧駅構内に命中爆発し駅構内全体が被災焼失。
    戦後になり地元平沼商店街を中心に何度か平沼駅復活要求が提出されるも京急電鉄側は頑な態度を崩さず現在に至る。
    駅構内内部は黒焦げ状態。
    左手奥は品川方面ホームへの階段。

    横浜市西区平沼1−33−−30
    東海道本線横浜駅みなみ東口 徒歩5分

  • 横浜駅付近案内図<br /><br /><br /><br />道路化した線路跡<br />地図上で見ると嘗ての線路が廃止後、道路に変化した事が一目瞭然。

    横浜駅付近案内図



    道路化した線路跡
    地図上で見ると嘗ての線路が廃止後、道路に変化した事が一目瞭然。

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この旅行記へのコメント (17)

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  • mei1110さん 2018/08/12 03:02:13
    勉強になりました。
    初めまして。

    読み応えのある記録の数々、とても勉強になりました。
    この旅行記に使われた写真に20年以上住んだ実家が写っています。
    それだけ慣れ親しんだ地元でありながら、
    >2代目横浜駅が旧東急東横線高島町駅付近に存在していた史実は、横浜市民と言えども、既に忘却されているのが現実である。
    仰る通りです。
    私もこの存在を知ったのは成人後です。
    該当マンション建設時に遺構が出てきたと話題になったので今は多少知られているように感じますが、
    それもご近所さんだけかもしれません。

    また京急平沼駅についても存在自体は知られていますが、
    私達は「空襲で焼けてそのまま廃駅になった」と教えられていました。
    空襲以前に廃止されていたんですね…初めて知りました。
    京急乗車時に見える駅の様子がいかにも焼け焦げた跡というもので
    (1999年まで残っていた柱などが特にその雰囲気を醸し出していました)
    空襲で焼けてそのままという言葉に非常に説得力があったため驚きました。
    今復活したらそこそこの利用客がいそうな気もしますが、難しそうですね。

    他の旅行記もコツコツと楽しませていただきますね。

    mei1110

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2018/08/13 16:01:48
    拝復
    mei1110さま、こんにちは。

    拙稿旅行記に投票と掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。
    mei1110さまの旅行記を拝見し、横浜市民の方とお見受けしておりましたが、やはりそうだったのですね。
    仰せの通り、京急平沼駅は、当時の京浜電気鉄道が東急電鉄に合併後に該社湘南線横浜-戸部間近距離を理由に、該社京浜線反町駅と同時に営業休止となり、更に、廃止後に空襲で被災したにも拘らず、横浜市史等々でも、営業中に空襲で被災したかの如き記述となっており、此れが誤解の原因となっていることは残念に思います。
    あの近辺は東急が地下化別線になり、現在では地下鉄しか無く、すご不便な所になってしまいました。
    駅復活で、近隣マンション住民は便利かもしれませんが、あの現在の朝のラッシュの状態では乗車自体が困難だと思います。



    横浜臨海公園
  • kazuさん 2016/08/22 09:45:36
    夏休みの宿題の助けになりました。
    何時も私のつたない旅行記に投票を有り難うございます。

    義母は横浜出身で「横浜駅は昔は石炭が置いてある場所だったのよー。何て言っても中心は伊勢佐木町」と言っていました。
    そんな横浜駅は嫁に来てから、子供のお迎えやら、買い物やらで行く機会が多くとても身近な駅です。

    子供が夏休みの宿題で昔の横浜を調べていて、とっても参考になりました。
    まるで自分が調べたかの様に子供達に自慢させて頂きたいと思います。

    ではまた、
    kazu
  • ねずみんさん 2016/01/06 13:25:35
    歴史ある街、横浜。
    私が幼いころの記憶にある、横浜駅や桜木町の駅舎。なつかしい。歴史資料館に入ったような気持ちになりました。この旅行記の写真は後世に残すべき素晴らしいものだと思います。
    横浜駅東口は、ヨーロッパの駅舎を思わせるような高い吹き抜けのある開放感いっぱいだったように覚えています。桜木町もどんどん変わっていってしまって・・・普段何気なく見ている横浜の風景ですが、改めてじっくり堪能させていただきました。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2016/01/19 15:29:31
    拝復
    ねずみんさま、こんにちは。


    拙稿に投票とコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    横浜駅本屋は昭和49年(1974年)に解体されてしまいましたが、あの天井が高く、どっしりとした構造は、クラシック音楽の管弦楽の演奏でもやったら良いのにと何度か思ったものでした。

    桜木町駅も根岸線建設で半分が壊され、残った半分も昭和62年(1987年)に解体されてしまいましたが。あの飛行機の格納庫を思わせる様な建物も、関東では銚子ぐらいしか残っておらず残念です。



    横浜臨海公園
  • mamamaさん 2010/10/03 23:59:57
    こんばんわ
    私は先日、清里に行ってきました。
    そのアクセスに新宿からでるバスが便利と思い利用する際、横須賀線(湘南新宿ライン)が武蔵小杉に停車するのをはじめて経験しました。
    克明にしらべていらっしゃる横浜臨海公園さんの旅行記は、横浜駅周辺に対する感性がとってもすばらしいですね。
    西口の横浜銀行のところは、友人の実家だ段階だった聞いています。
    まだまだ発達段階の頃の横浜のようですが、なんとなく興味がわいた頃この旅行記にであいました。
    私は毎週、レッスンのため横浜駅に行きます。
    飲み屋がよくリニューアルするような次元でかんがえていた横浜駅周辺も歴史的な感覚でとらえてみたいですね。
    またの旅行記を期待します。
    こんごともよろしく。mamama

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2010/10/10 12:49:50
    拝復
    mamamaさま、こんにちは。


    メッセージを賜りながら返事を差し上げるのが遅くなりまして誠に申し訳ございませんでした。

    > 私は先日、清里に行ってきました。
    > そのアクセスに新宿からでるバスが便利と思い利用する際、横須賀線(湘南新宿ライン)が武蔵小杉に停車するのをはじめて経験しました。
    →湘南新宿ラインの武蔵小杉駅は来年全面開業まで、乗換には不便さが残ります。

    > 西口の横浜銀行のところは、友人の実家だ段階だった聞いています。
    →更に戦前は、米ライシングサン石油所有地で開戦と共に国が回収したものです。

    > まだまだ発達段階の頃の横浜のようですが、なんとなく興味がわいた頃この旅行記にであいました。
    →お誉めのお言葉を賜りまして誠に有難うございます。

    > またの旅行記を期待します。
    当方こそ宜敷くお願い申します。



    横浜臨海公園
  • 義臣さん 2010/07/17 17:56:37
    資料
    大変な資料お持ちですね。。

    これで見ると 初代新橋駅に似ていますね。

     これも本になりますか?

               義臣

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2010/07/21 03:34:16
    拝復
    義臣さま、こんばんは。


    何時も拙稿をご覧くださいまして誠に有難うございます。
    メッセージを賜りながら返事を差し上げるのが遅くなりまして誠に申し訳ございませんでした。

    > 大変な資料お持ちですね。。
    →いえいえ。ほんの一部に過ぎません。

    > これで見ると 初代新橋駅に似ていますね。
    →設計者は同一人物の様です。
    関東大震災で焼失した処も同じです。

    >  これも本になりますか?
    救う数の所から非公式に打診が来ております。



    横浜臨海公園
  • 義臣さん 2010/02/01 17:01:02
    資料
    何時もながらの詳細な資料、、
    驚くばかりです。
    イギリス積みの多く採用されていた原因は此れにあったのですね。。
     絵葉書、、私も東京、京都 奈良のは収集していますが
    横浜は何枚もありません、、
     骨董屋に言って置けば、、いまさらながら残念です。

    敗戦後の時代の写真も殆ど焼失で、
    記憶には三渓園から真下の海岸など写した覚えも有りましたが、
    山下公園の駐留軍住宅、
    付近でトランポリンで遊ぶ駐留軍の青年の姿もなつかしい 
    今あれば。。
                    義臣

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2010/02/01 21:54:39
    拝復
    義臣さま、こんばんは。



    メッセージを賜りまして誠に有難うございました。

    私儀ながら小生の祖父は帝國海軍将校として当時全国各地を訪問しており、絵葉書を蒐集しており、我が家は関東大震災と大東亜戦争中の空襲に耐えた為に資料が現存しております。

    横浜市内は関東大震災で県庁市役所始め関係各所が焼失した為に横浜には意外と資料が残存しておりません。
    小生が関係ヶ所に貸与してコピーを保存願っている状態です。
    またご存知とは思いますが、広島では当時の資料が全滅状態だった為に資料を無償譲渡しております。

    当時の資料を基に旅行記を作成するのは兎に角大変です。




    横浜臨海公園
  • 一歩人さん 2009/06/07 12:25:24
    イギリス積みなんですか
    横浜臨海公園さんへ
    いつもクチコミへのたくさんの応援ありがとうございます。
    お城の石垣も決まった積み方があるようですが、
    煉瓦にはお国柄で違うんですね。
    興味津々の一歩人でした。

    東海道の痕跡はとても重厚な歴史を感じさせて
    感激しました。ありがとうございました。
    失礼します。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2009/06/07 16:44:35
    拝復
    一歩人さま、こんにちは、


    メッセージを賜りまして誠に有難うございました。
    仰せの通り2代目横浜駅内部構造の煉瓦積みは『イギリス積み』です。

    明治末期ともなると煉瓦積み工法に慣れが生じ、イギリス積みが強度的にも良好であると判断された様です。
    東京駅も外壁装飾煉瓦は『ドイツ積み』で構成しておりますが内部構造煉瓦はイギリス積みです。

    他の煉瓦積み工法には『オランダ積み』『フランス積み』が存在します。



    横浜臨海公園
  • ragnagさん 2009/06/02 17:42:19
    私も行ってみます。
    こんにちは。はじめまして。

    先日たまたま見たこのページが忘れられず、
    またやってきました。

    2代目横浜駅界隈は車でよく通るのですが、
    こんなところに駅舎跡があるとは知りませんでした。

    私も写真を撮りに行ってみます〜。
    横浜臨海公園さんの写真と同じアングルになって
    しまったりして・・・と少々不安ですが。。。

    横須賀線シリーズの続きを楽しみにしております。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2009/06/03 07:20:46
    拝復
    ラグナグさま、おはようございます。


    > 2代目横浜駅界隈は車でよく通るのですが、
    > こんなところに駅舎跡があるとは知りませんでした。
    恐らく横浜市民と言えども大抵の方々はご存知では無いと思います。

    > 私も写真を撮りに行ってみます〜。
    > 横浜臨海公園さんの写真と同じアングルになって
    > しまったりして・・・と少々不安ですが。。。
    全然構いません。
    寧ろ会員の方々に高島町に2代目横浜駅舎が存在した事をアピールする良いきっかけになると思います。

    > 横須賀線シリーズの続きを楽しみにしております。
    深謝でございます。
    なにぶん多忙の身ゆえもう少しお時間をくださいませ。

    小生こそ今後とも宜しくお願いします。




    横浜臨海公園
  • 一歩人さん 2009/05/19 13:06:45
    力作ですね
    横浜臨海公園さんへ
    クチコミに夢中で、旅行記に築いた一歩人です。
    とっても含蓄のある力作です。
    旅行記を超えて、生き証人!?、時代を語る語りべだと
    思います。語り伝えたい衝動を感じました。
    ありがとうございました。
    教えていただいた百馬力電動機がずっと
    頭から離れなくて。
    失礼しま〜す。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2009/05/21 18:54:31
    拝復
    一歩人さま、こんばんは。


    早速メッセージを賜りまして返事を差し上げるのが遅くなりまして誠に申し訳ございませんでした。

    > 教えていただいた百馬力電動機がずっと頭から離れなくて。
    国会図書館で資料を調べましたら、件のモーターは当時の鉄道院でモハ1型に装備され鉄道院での形式名を『MTー4型』と呼称され最後は戦後広島県の可部線横川-可部間で使用されてました。



    横浜臨海公園

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