磐田旅行記(ブログ) 一覧に戻る
静岡-濱松間は、明治22年(1889年)4月16日開通である。<br />掛川-濱松間開通時に、袋井、中泉(現 磐田)の2停車場が設置された。<br /><br />当初計画では、掛川-中泉(現 磐田)間は直線コースで敷設予定していたが、然るに、該計画に依ると磐田原台地河食崖地通過の為に、途中、長大隧道設置工事を要する事が判明し、改めて再測量の結果、袋井経由の現行経路に決定された。<br /><br />また、路線選定中に旧東海道筋磐田宿は熱心に地元通過誘致を当局に働きかけたが、該宿経路に路線設定時に、天龍川架橋地に於ける川幅狭隘箇所通過となり、架橋工事は有利ながら、多出水時に於ける橋梁橋脚に対する過負荷となる事から路線設定対象外とされ、敢えて現行の広川幅地に架橋させた。<br /><br /><br />該区間に於ける最大建築構造物は、初代天龍川(てんりゅうがわ)橋梁である。<br />然るに、該橋梁は、酒匂川上中流域や富士川、大井川に架橋された錬鐡製橋梁群と異なり、同一図面を使用しながら我が国初の鋼錬鐡混製構造橋梁で製作された。<br /><br />建設当時の我が国は、錬鐡から鋼鐡への移行期に相当したが、錬鐡の硬強度性質をして、概ね、30m(100ft)を限度として、該数値以下をプレートガーダー橋梁、該数値以上はトラス構桁を架橋した。<br />それ故、原野谷川橋梁、及び、大田川橋梁は、現在の技術ならプレートガーダー橋梁での架橋が充分可能だが、支間30mとは言え、当時の錬鐡材構築ではトラス橋梁架橋に頼わざるを得なかった。<br /><br /><br />静岡-濱松間開通に依り遠江側地区に於いて特異な現象が発生した。<br /><br />現在の静岡県立静岡高校は、明治10年(1878年)開校の静岡師範学校中等課を嚆矢とするが、該当時、静岡県内に於いて中等学校は静岡町以外では他に存在しなかった事から、磐田、濱松地区在住の有力者子弟で該校生徒は、静岡町内に寄宿して通学していたが、該区間開通に依り、磐田・濱松-静岡間を毎日遠距離列車通学切替者が続出した。<br /><br />該当時は、定期券の出現は明治19年(1886年)1月1日で、上等、及び、中等客に対してのみ、且つ、個々指定保証金を担保に発売され、然も、発売区間は、新橋-品川、新橋-横濱間、等々に限定され、静岡-濱松間は発売指定区間外だった。<br /><br />一般用定期乗車券発売に先立ち、明治28年(1895年)3月1日から通学用下等定期乗車券として1箇月間用が発売されたのが現在の通学定期券の嚆矢である。<br /><br />回数券発売に至っては、明治33年(1900年)11月1日からであり、発売当時は50枚綴で90日間有効だった。<br /><br />それ故、彼ら中等学校生徒諸君は、乗車の都度、片道、若しくは、往復乗車券を購入し乗車していたものと思われる。<br /><br />因みに、開通当時の濱松-静岡間下等片道運賃は大人1名49銭で、大部分の者は、往路は神戸発静岡行列車 濱松6時00分→静岡8時40分に乗車、帰路は新橋発名古屋行列車 静岡16時15分→濱松18時34分に乗車したものと推定される。<br /><br />因みに、濱松に中学校が開設されるのは、明治29年(1894年)設置の静岡県尋常中学校濱松分校であり、該校開設まで、遠江國在住の有力者子弟は静岡まで毎日汽車通学をしていた。<br /><br />現在の感覚で言えば、浜松-東京間新幹線通学とは比較にならぬ程、大変な列車通学である。<br /><br /><br />天龍川駅正式開業は、明治31年(1898年)7月10日だが、実際には、明治25年(1892年)9月20日に設置された 天龍川貨物取扱所が嚆矢である。<br />該貨物取扱所設置当時、濱松駅が全国第8位収入だったのに対し、該駅は貨物専用で旅客収入無にも拘らず、該収入は全国第7位だった事から天龍川を下った材木輸送運輸収入額は莫大だった。<br /><br /><br />天竜川橋梁は、当時の東海道本線に於け最大隘路であり、明治41年(1908年)11月5日に新橋-天龍橋間が完全複線化された後も、天龍川橋梁増設工事は遅延し、大正2年(1913年)8月1日附を以って増設橋梁が竣工し、天龍橋-天龍川間複線化に依り、該線全線複線化が達成された。<br /><br /><br />鐵道唱歌 <br />第25番<br />掛川、袋井、中泉<br />(かけがわ、ふくろい、なかいずみ)<br />いつしかあとに早なりて<br />(いつしか あとに はやなりて)<br />さかまき来る天龍の<br />(さかまき きたる てんりゅうの)<br />川瀬の淵に雪ぞふる♪<br />(かわせの ふちに ゆきぞふる)<br /><br />第26番<br />この水上にありと聞く<br />(この みなかみに ありときく)<br />諏訪の湖水の冬げしき<br />(すわの こすいの ふゆげしき)<br />雪と氷の懸橋を<br />(ゆきと こおりの かけはしを)<br />わたるは神か里人か♪<br />(わたるは かみか さとびとか)<br /><br /><br />該区間に於ける複線化は、<br />掛川-袋井間        明治40年(1907年)12月20日<br />袋井-中泉(現 磐田)間  明治41年(1908年) 3月28日<br />中泉(現 磐田)-天龍橋間 明治41年(1908年)11月 5日<br />天龍橋-天竜川間      大正 2年(1913年) 8月 1日<br />天竜川-濱松間       明治38年(1905年)   2月20日<br />である。<br /><br /><br />初代天龍川橋梁は明治22年(1889年)竣工の鋼錬鐡混合製橋梁だったが、設置当初から橋脚位置が低位置で設置された事から、橋梁本体が低く、対水害被害が指摘されていた。<br />即ち洪水等々で大増水時に、橋脚が大水量に耐久困難となり、落橋の可能性を有しており、事実、大正3年(1914年)8月12日に中部地方に上陸後、関東東北北海道に甚大被害を発生させた大型台風の為に、東海道本線(現 御殿場線)駿河(現 駿河小山)-足柄間に存在する第5相澤川橋梁が落橋した原因は、該台風で鮎澤川が異常増水し、水位が該橋たる平行弦上路プラットトラス構桁下部を洗盤し、水流障害を発生させた事で、該橋梁橋台が水流に耐久困難となった事が主原因だった。<br />鐵道院は、該橋落事故を重視し、全国主要幹線に於いて該問題を発生し得る可能性を有する橋梁を精査させ、東海道本線に於いて、富士川、天龍川、及び、揖斐川各橋梁に就いて、該可能性大と判定された。<br />此れを受け、天龍川橋梁は、単に橋脚高を嵩上するだけでは抜本的対策となり得ず、橋梁に対する取付線路を別途設置して高位置に架橋させる事に決定し、大正4年(1915年)に施工されたが、あたかも時代は第1次世界大戦中で、折しも戦闘続行中の欧州諸国から鐡鋼材輸入が途絶していた事から、構桁は国産品たる神戸川崎造船所、及び、大阪汽車會製造製品が架橋された。<br /><br />因みに、第1次世界大戦(大正3年(1914年)7月28日~大正7年(1918年)11月11日)勃発に伴い、我が国は聨合國側として第3次日英同盟条約を根拠に、英國の要請に基き、同年8月23日に独墺に対し宣戦布告したが、開戦後、敵国関係となった独墺枢軸国側から輸入途絶したのは当然ながら、聨合國側たる欧州が主要戦場になった関係上、同時に英仏からの輸入も途絶し、更に戦争が長期化した事から、英國は、大正5年(1916年)4月1日附で鉄鋼の国外輸出を全面禁止した。<br /><br />他方、米國は、該大戦に対し勃発当初は局外中立を表明し聯合國側枢軸國側双方に武器弾薬鋼鉄材類を供給していたが、次第に聨合國側への物資供給国へと変化を遂げ、同年8月1日附で、対外鉄鋼輸出を禁止する法案を議会上院で可決成立させ為に、事前の成行きとして、我が国も重工業は国産内需に転換をせざるを得なかったが、反面、我が国に於ける重化学工業の急速発展は、第1次世界大戦勃発に伴う自給自足体制の急務が要因だった。<br /><br />架替前の錬鐡製橋桁に就いては、概ね、2級線橋梁転用例や私鉄払下等々に依り、出先に於いて長命を維持させた。<br /><br /><br />昭和19年(1944年)12月7日13時36分に大地が突然大揺れに揺れ 東南海地震(とうなんかい じしん)と称された大地震が発生した。<br />震源地は三重県志摩半島沖20km深度20km付近と推定された。<br />菊川-浜松-鷲津付近は震度6を観測したとされたが、昨今の調査で、袋井の震災被害程度から、現在では、該地に於いて震度7.9とする学説が最有力であるが、該地震は大東亜戦争中で利敵行為防止の観点から、内務省警保局の命令に拠り報道管制を受け、特に震災被害が著しかった静岡、愛知、三重各県に於いて、具体的内容を伴う報道が禁止された事から、現在に至るも該震災被害に於ける実態は依然として謎に包まれた状態である。<br /><br />震度7.9と言えば、関東大震災(かんとうだいしんさい)(大正12年(1923年)9月1日)に於いて、最大震度7を記録した神奈川県平塚町(現 平塚市)と同じ規模であり、当時東海道本線戸塚-國府津-御殿場間に於いて激甚被害が発生したが、東南海地震では堀之内(現 菊川)-濱松-鷲津間に重大被害が発生し、該区間運転中の計19本の列車に脱線転覆被害が生し、特に、袋井-磐田間に存在する原野谷川から大田川付近に於ける囲繞地は、元来が該河川粘土質沖積層砂丘上に存在する事から、地震発生と同時に建造物倒壊が相次ぎ、磐田郡今井村(現 袋井市今井町)では、在所住宅内98.5%が全壊した事から該村建造物は全滅と見做して良い被害である。<br />また、該地域で約158名以上の死者行方不明者が発生し、殊に、袋井國民学校児童20名、袋井保育園園児20名保母1名は木造建築物倒壊に伴う圧死である。<br /><br />東海道本線は該区間上に於ける盛土が崩壊陥没し路盤が壊滅的被害を受けた。<br />特に、菊川橋梁、原野谷川橋梁、大田川橋梁、及び、今之浦川橋梁は、橋脚変位倒壊、橋台崩壊し、天龍川橋梁は橋脚変位座屈が原因で構桁自体の落橋は免れたるも、上下線構桁郡19連が蛇動状態等々の重大被害が発生し、該区間に於ける列車運転が不可能になった。<br />該地震発生当時、磐田-袋井間駒洗川橋梁上走行中のD51523蒸気機関車牽引上り貨物第164列車47両編成は、速度43kmで走行中、該機関車機関士は異状動揺を感知した為に非常制動を動作させ緊急停車し調査した処、貨車、2両目、4~6両目、9~30両目、及び、35~39両目が脱線、若しくは、脱線転覆し、一部車輌は上下線を支障した。<br />更に、36両目、及び、38両目貨車搭載品たるドラム缶入揮発油が、転落時の振動で爆発炎上した事から付近一帯への被害を大きくし、2次災害を併発させ陸軍に消火要請を依頼し鎮火させたが、当時は大東亜戦争中であり、報道管制を受け、東海地域以外では該地震報道は一切省略され認知されなかったが、実は米英両国は、我が国に於いて巨大地震が発生した事実を、地震学に於ける科学的根拠を以って承知していた。<br />該区間復旧は、同年同月9日13時40分とされる。<br />天龍川橋梁は、仮復旧後、運輸通信省直轄扱として本復旧工事施工中に、翌年の濱松空襲の際に艦砲射撃に遭遇した為に再遅延し、該橋梁完全復旧は、大東亜戦争終結後も継続を余儀無くさせた。<br /><br />該区間復旧まで、二俣線(現 天竜浜名湖鉄道天浜線(掛川-遠江二俣-新所原間を活用し、主として長距離旅客列車、及び、軍用列車を中心に迂回運転を実施した。<br /><br /><br />大東亜戦争(だいとうあせんそう)末期に於ける濱松地区は、昭和19年(1944年)5月27日附で新居に帝國海軍濱名海兵団が開所され、帝國陸軍は、航空関係施設が複数点在する状態だった。<br />他方、民間では、山葉楽器(現 ヤマハ)、河合楽器、鈴木自動車(現 スズキ)等々の各企業が、製造内容を軍事産業に転換させ、陸海軍部の要求に拠り軍用品を製造製作し、運輸通信省鐵道総局濱松工機部(現 東海旅客鉄道浜松工場)は、中部地区配置の機関車修繕を一手での取扱実績から、昭和18年(1943年)11月から翌昭和19年(1944年)12月にかけて、貨物用大型蒸気機関車D52型15両を製造し、更に、帝國陸軍41式山砲、高射砲部品を製造供給を実施していた事から、浜松地区は聯合国側から見れば日本に於ける軍事産業代表的生産地として認定され、それ故に、昭和20年(1945年)1月以降、終戦に至るまで、26回に亘り執拗且つ執念的空襲を受けるに至った。<br /><br />因みに、昭和20年(1945年)8月6日に広島に原子爆弾が投下された際に、山陽本線広島-横川間に下り貨物第377列車が猿候川(えんこうがわ)橋梁走行中に原子爆弾が炸裂し、強烈な爆風に依り、貨車数両が該橋梁上に於いて脱線転覆し、次いで強熱線の為に木造貨車は発火全焼した。<br /><br />該橋は、山陽鐵道時代たる明治30年(1897年)9月25日に開通当時の橋梁で、橋桁こそ鐵道省時代に鋼鐵製に架替を実施したが、橋台、橋脚は架橋当時の煉瓦構築原型であり、被爆翌日たる7日早朝に撮影されたものと推定される該橋梁写真を精査する限り、原爆に依る該橋梁に関する被害は枕木焼損以外全く無事で、8日には上下線共開通している。<br /><br />鉄道用橋梁は、原子爆弾炸裂時に発した想像外の強烈な爆風にも耐久性を有していた。<br /><br />然し、橋梁自体に爆弾、機銃掃射や、大東亜戦争末期に艦載機に搭載されたロケット弾が命中し、殊に、艦砲射撃ともなると事情は甚だ異なる。<br /><br />特に、昭和20年(1945年)7月30日未明に開始された27回目の攻撃は空襲では無く、米戦艦群を主体とした艦砲射撃では、浜松市内は壊滅被害が発生した。<br /> 戦艦 インディアナ(INDIANA)<br /> 戦艦 サウスダコダ(SOUTH DAKOTA)<br /> 戦艦 マサチューセッツ(MASSACHUSETTS)<br />何れも、我が国の戦艦大和級に数艦で対抗戦闘すべく建造され、1942年(昭和17年)3~5月に就航した35000t級の戦艦で、16インチ(40cm)45口径主砲9門を搭載し、最大速度27.8ノットで戦闘航行可能だった。<br />該戦艦群に、戦艦護衛用重巡洋艦2隻、及び、駆逐艦9隻を随伴させ、北海道室蘭市、岩手県釜石市、茨城県日立市を個々砲撃後、浜松市が艦砲射撃標的目標地になった。<br /><br />米艦隊は、同年7月30日未明より遠州灘沖に展開し、濱松市内主要目標に対し、戦艦搭載40センチ主砲一斉射撃を開始し、艦砲射撃に拠り、該市内は壊滅的状態になった。<br /><br /> インディアナ 浜松駅、浜松機関区。<br /> サウスダゴダ 浜松工機部。<br /> マサチューセッツ 天龍川橋梁。<br />主砲攻撃目標に設定されていた。<br /><br />他方、戦艦護衛の為に随伴していた駆逐艦9隻中6隻に対し、艦隊司令官は分派行動を命じ、戦艦群が濱松市内を砲撃開始と同時刻に、駆逐艦隊は駿河湾清水港内潜入に成功し、該12センチ主砲一斉射撃に拠り清水市内要所に火炎が上がったが、時は、大東亜戦争末期とは申せ、かくの如き小型艦艇に内海侵入を可能ならしめたのは、要するに、我が国陸海軍に拠る防衛防御が話しにならぬ程粗末極まりない状態だった為である。<br /><br />戦艦群主砲一斉射撃を真っ先に知ったのは、皮肉にも、新居に展開していた濱名海兵団首脳部だった。<br /><br />該海兵団から沖合に展開する多数の艦船を発見して不審を抱いていた処、突然主砲一斉射が開始された事で、該地に米戦艦群が展開している事を悟り茫然自失したものに相違なかったと思われる。<br /><br /><br />大東亜戦争中、該区間に於ける被害は、<br />  1月 3日 <br /> 警戒警報発令  0時32分<br /> 空襲警報発令  1時00分<br /> 空襲開始    1時12分<br /> 空襲警報解除  4時15分<br /> 警戒警報解除  4時25分<br />天龍川-濱松間 <br />  焼夷弾攻撃 枕木焦損30本<br /><br />  2月15日<br /> 警戒警報発令 21時20分<br /> 空襲警報発令 22時00分<br /> 空襲開始   22時15分<br /> 空襲警報解除  1時10分<br /> 警戒警報解除  1時15分<br />天龍川-濱松間<br />  線路破壊 1箇所30m 枕木焼損11本<br />天龍川駅構内<br />  爆弾 東南海地震天龍川橋梁震害復旧倉庫全焼<br />濱松駅構内<br />  爆弾 西信号所 踏切番官舎全焼<br />  貨車4両全焼<br />     開通 17時30分<br /><br />  2月17日<br />袋井-磐田間<br />  線路破壊 1箇所30m<br />開通 10時37分<br /><br />  4月30日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 第313航空隊 B29戦略爆撃機計69機<br /> 警戒警報発令  6時12分<br /> 空襲警報発令  8時12分<br /> 空襲開始    8時45分<br /> 空襲警報解除 10時45分<br /> 警戒警報解除 10時50分<br />天龍川-濱松間<br />  土橋川橋梁<br />  艦載機機銃掃射 貫通孔<br /> 安間架道橋(下り線用)<br />艦載機機銃掃射 縦材損傷<br />  線路破壊 8箇所185m 橋梁損傷2箇所<br />  客車3両小破 蒸気機関車1両 貨車1両中破<br />  旅客3名死亡 24名重軽傷<br />      開通16時10分<br /><br />  5月19日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計272機<br /> 警戒警報発令 23時12分 <br /> 空襲警報発令  0時 0分<br /> 空襲開始    1時 0分<br /> 空襲警報解除  1時47分<br /> 警戒警報解除  2時20分<br />磐田-天龍川-濱松間<br />  線路破壊 11箇所 900m 枕木破損500本<br />      開通 下り線20日 1時30分<br />      上り線    4時30分<br />磐田-天龍川間<br />  川東暗渠橋<br />  艦載機機銃掃射 貫通孔<br />  久保川橋梁<br />  艦載機機銃掃射 貫通孔<br />  天龍川橋梁<br />  川上から川下に向け右45度角度から航空攻撃<br />   橋梁500m地点から25m地点に於いて、爆弾8個投下<br />   漏斗状孔経7~15m 深度1.3~5.0m<br />天龍川-濱松間<br />  安間架道橋(下り線用)<br />  艦載機機銃掃射 縦材損傷<br />  上り旅客第710列車<br />   爆風、及び、該弾片を受け、旅客職員2名死亡 軽症者若干<br />濱松駅構内<br />  南口駅舎 職員集会所 甲乙合宿所 職員官舎4戸 東診療所 踏切番官舎2戸<br /><br />  6月10日(浜松大空襲)<br /> 警戒警報発令  5時20分<br /> 空襲警報発令  5時21分<br /> 空襲開始    5時26分<br /> 空襲警報解除  8時35分<br /> 警戒警報解除 10時32分<br />濱松駅構内<br />  駅本屋 出改札口 電信室 跨線橋 梃子扱所<br />  上下本線 上下ホーム駅長事務室 <br />  線路破壊18箇所1964m 枕木焼失800本<br />  該駅構内落下爆弾計12個<br /> 該駅停車中 下り軍用貨物第777列車に投下弾被弾し爆弾搭載貨車 に誘爆した為に、更に被害甚大になった。<br />   職員1名死亡 1名重傷<br />      本線開通 同日19時00分<br />濱松駅構内被災車輌<br />  マロネロ37 22(廣セキ)小破 同年6月18日全焼<br />  オハ31 460 (廣セキ)中破<br />  オハ34 125 (廣セキ)中破<br />  スハ32 373 (廣セキ)小破 同年6月18日全焼<br /> 以上、濱松工場臨時入場修理<br />  オロ31 19  (名ハツ)全焼<br />  オロ31 20  (名ハツ)全焼<br />  オロ31 85  (名カキ)全焼<br />  スハ32 320 (名トヤ)全焼<br />  オハニ30 31 (名シツ)全焼<br />  オハニ30 36 (名シツ)全焼<br /> 以上、昭和21年(1946年)3月31日附戦災廃車<br />  オハニ30 22 (名ハツ)全焼<br /> 以上、昭和22年(1947年)1月14日附戦災廃車<br />  <br />  6月18日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 B29戦略爆撃機計130機<br /> 警戒警報発令  0時32分<br /> 空襲警報発令  1時00分<br /> 空襲開始    1時12分<br /> 空襲警報解除  4時15分<br /> 警戒警報解除  4時25分<br />濱松駅構内 <br />  上下本線 仕分線 跨線橋 倉庫 貨物ホーム上屋 枕木焼損<br />  客車15両 気動車10両 貨車30両 全焼<br />当時の被災車輌にキハ43000型ディーゼル式気動車3両が存在した。<br />先頭車は当時流行だった流線型で形成され、名古屋凡太平洋平和博覧会(昭和12年(1937年)3月15日~同年5月31日開催)会場輸送用で登場したが、構造が複雑で故障続きだった事と、戦時体制強化に拠る燃料入手困難から、休車状態で濱松機関区で休車状態時に被災した。<br />該空襲で先頭車は窓ガラス全損被害だったが、同年7月31日艦砲射撃で車体が半焼損後、戦後は、浜松工機部職員輸送用に使用され、昭和23年(1948年)9月に廃車された。<br />      本線開通 同日 7時05分<br />濱松駅構内被災車輌<br />  マロネロ37 22(廣セキ)全焼<br />  オロ31   21(名ハツ)全焼<br />  スロ34   12(大ミハソ)全焼<br />  オハ31  397(廣セキ)全焼<br />  オハ31  479(大キト)全焼<br />  オハ35   82(東シナ)全焼<br />  オハ35  198(名マイ)全焼<br />  オハ35  261(門カコ)全焼<br />  スハ32  232(門オウ)全焼<br />  スハ32  277(廣セキ)全焼<br />  スハ32  373(廣セキ)全焼<br />  スハ32  631(廣ヲカ)全焼<br />  スハ32  741(名ハツ)全焼<br />  オハフ33  98(名ナコ)全焼<br />  オハフ33 196(東ヲク)全焼<br />  スハフ32 317(名ハツ)全焼<br />  オハニ30  23(名ハツ)全焼<br /> 以上、昭和21年(1946年)3月31日附戦災廃車<br />  オロ31  103(廣ヒロ)全焼<br />  オロハ30   5(名ハツ)全焼<br />  スハ32  531(大ミハソ)全焼<br />  オハニ30  21(名ハツ)全焼<br />  オハニ30  26(名トヤ)全焼<br /> 以上、昭和22年(1947年)1月14日附戦災廃車<br />  <br />  6月26日<br /> 警戒警報発令 21時20分<br /> 空襲警報発令 22時00分<br /> 空襲開始   22時15分<br /> 空襲警報解除  1時10分<br /> 警戒警報解除  1時15分<br />濱松駅構内<br />  線路破壊 1箇所80m 枕木破壊50本<br />  客車13両中小破 貨車4両中破<br />   旅客3名死亡 12名重軽傷<br />     開通 27日13時00分<br /><br />  7月24日<br /> 警戒警報発令  6時12分<br /> 空襲警報発令  8時12分<br /> 空襲開始    8時45分<br /> 空襲警報解除 10時45分<br /> 警戒警報解除 10時50分<br />濱松駅構内<br />  洗濯場 給水ボイラー室 浴場 集技室(該駅構内残存施設全部)<br /><br />  7月30日(浜松艦砲射撃)<br /> 警戒警報発令 23時12分 <br /> 空襲警報発令  0時 0分<br /> 空襲開始    1時 0分<br /> 空襲警報解除  1時47分<br /> 警戒警報解除  2時20分<br />磐田-天龍川間<br />  天龍川橋梁 下り線60.7m(200ft)×1桁<br />  艦砲射撃に依る破壊 中破<br />天龍川-濱松間<br />  線路破壊9箇所 200m<br />  下り旅客列車 艦砲射撃直撃弾命中 客車3両大破<br />  旅客43名 職員3名死亡<br />  旅客26名 職員9名重軽傷<br />     開通 31日17時00分 上り線単線運転<br />被災車輌<br />  オハ34 400(廣コリ)中破<br /> 以上、濱松工機部修理<br /> 他大破車輌形式番号不明<br />濱松駅構内<br />  残存施設全部 艦砲射撃 被弾19箇所<br />  蒸気機関車 2両大破 15両中破 10両小破<br />     開通 8月2日17時00分<br />被災車輌<br />  オロ31 69(廣ヲカ)中破<br /> 以上、濱松工機部修理<br /><br /><br />大東亜戦争後、該戦時下に於ける東南海大震災、及び、空襲に依る異常発生橋梁は、安全運転上の見地から徹底的な架替が実施された。<br /><br /><br />戦後、浜松市内は慢性的交通渋滞の関係から、該状態緩和を目的として、東京起点254.3km地点から259.3km地点に至るまでの区間を高架化させる事に決定し、昭和54年(1979年)10月16日附で全面的に新線に移行し完全高架化工事が竣工した。<br /><br /><br /><br />表紙写真は、<br /> 天龍川橋梁<br /><br /><br /><br /><br />東海道本線歴史的痕跡探訪記<br />~東京-濱松町間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10701644<br />~東京驛編~<br /><br />~汐留-濱松町-品川間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10797199<br />~品川-川崎間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10502858<br />~川崎-横濱間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10711843<br />~横濱駅移設変転史編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10316826<br />~横濱-大船間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/10713813<br />~大船-平塚間編 明治頌歌~<br /><br />~平塚-國府津間編 明治頌歌~<br /><br />~國府津-根府川間編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10298330<br />~根府川-熱海編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10310352<br />~丹那隧道完成秘話 丹那隧道碑文から読み取れし或る歴史的事実~<br />http://4travel.jp/travelogue/10291350<br />~丹那隧道完成秘話 三島口建設工事鉄道線探訪記~<br />http://4travel.jp/travelogue/10575630<br />~熱海-沼津間編~<br /><br />~沼津駅驛編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10294787<br />~沼津港線編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10621891<br />~沼津-富士間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10623829<br />~富士-興津間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10625542<br />~興津-静岡間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10859308<br />~静岡-島田間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10855589<br />~島田-掛川間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10858139<br />~掛川-濱松間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10858815<br />~濱松-豊橋間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10858508<br />~豊橋-岡崎間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10870287<br />~岡崎-大府間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10898135<br />~大府-名古屋-尾張一宮間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/10898177<br />~名古屋驛編~<br /><br />~尾張一宮-岐阜-大垣間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/10990946<br />~美濃赤坂支線編~<br />https://4travel.jp/travelogue/10992335<br />~大垣-垂井-関ケ原間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/11095931<br />~大垣-新垂井-関ケ原間編~<br />https://4travel.jp/travelogue/11200178<br />~関ケ原-米原間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/11099834<br />~関ケ原-深谷-長濱間(廃止線)編 明治頌歌~<br /><br />~米原-近江八幡間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/11099568<br />~近江八幡-草津間編 明治頌歌~<br 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東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~掛川-濱松間編 明治頌歌~

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2015/04/24 - 2015/04/26

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横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

静岡-濱松間は、明治22年(1889年)4月16日開通である。
掛川-濱松間開通時に、袋井、中泉(現 磐田)の2停車場が設置された。

当初計画では、掛川-中泉(現 磐田)間は直線コースで敷設予定していたが、然るに、該計画に依ると磐田原台地河食崖地通過の為に、途中、長大隧道設置工事を要する事が判明し、改めて再測量の結果、袋井経由の現行経路に決定された。

また、路線選定中に旧東海道筋磐田宿は熱心に地元通過誘致を当局に働きかけたが、該宿経路に路線設定時に、天龍川架橋地に於ける川幅狭隘箇所通過となり、架橋工事は有利ながら、多出水時に於ける橋梁橋脚に対する過負荷となる事から路線設定対象外とされ、敢えて現行の広川幅地に架橋させた。


該区間に於ける最大建築構造物は、初代天龍川(てんりゅうがわ)橋梁である。
然るに、該橋梁は、酒匂川上中流域や富士川、大井川に架橋された錬鐡製橋梁群と異なり、同一図面を使用しながら我が国初の鋼錬鐡混製構造橋梁で製作された。

建設当時の我が国は、錬鐡から鋼鐡への移行期に相当したが、錬鐡の硬強度性質をして、概ね、30m(100ft)を限度として、該数値以下をプレートガーダー橋梁、該数値以上はトラス構桁を架橋した。
それ故、原野谷川橋梁、及び、大田川橋梁は、現在の技術ならプレートガーダー橋梁での架橋が充分可能だが、支間30mとは言え、当時の錬鐡材構築ではトラス橋梁架橋に頼わざるを得なかった。


静岡-濱松間開通に依り遠江側地区に於いて特異な現象が発生した。

現在の静岡県立静岡高校は、明治10年(1878年)開校の静岡師範学校中等課を嚆矢とするが、該当時、静岡県内に於いて中等学校は静岡町以外では他に存在しなかった事から、磐田、濱松地区在住の有力者子弟で該校生徒は、静岡町内に寄宿して通学していたが、該区間開通に依り、磐田・濱松-静岡間を毎日遠距離列車通学切替者が続出した。

該当時は、定期券の出現は明治19年(1886年)1月1日で、上等、及び、中等客に対してのみ、且つ、個々指定保証金を担保に発売され、然も、発売区間は、新橋-品川、新橋-横濱間、等々に限定され、静岡-濱松間は発売指定区間外だった。

一般用定期乗車券発売に先立ち、明治28年(1895年)3月1日から通学用下等定期乗車券として1箇月間用が発売されたのが現在の通学定期券の嚆矢である。

回数券発売に至っては、明治33年(1900年)11月1日からであり、発売当時は50枚綴で90日間有効だった。

それ故、彼ら中等学校生徒諸君は、乗車の都度、片道、若しくは、往復乗車券を購入し乗車していたものと思われる。

因みに、開通当時の濱松-静岡間下等片道運賃は大人1名49銭で、大部分の者は、往路は神戸発静岡行列車 濱松6時00分→静岡8時40分に乗車、帰路は新橋発名古屋行列車 静岡16時15分→濱松18時34分に乗車したものと推定される。

因みに、濱松に中学校が開設されるのは、明治29年(1894年)設置の静岡県尋常中学校濱松分校であり、該校開設まで、遠江國在住の有力者子弟は静岡まで毎日汽車通学をしていた。

現在の感覚で言えば、浜松-東京間新幹線通学とは比較にならぬ程、大変な列車通学である。


天龍川駅正式開業は、明治31年(1898年)7月10日だが、実際には、明治25年(1892年)9月20日に設置された 天龍川貨物取扱所が嚆矢である。
該貨物取扱所設置当時、濱松駅が全国第8位収入だったのに対し、該駅は貨物専用で旅客収入無にも拘らず、該収入は全国第7位だった事から天龍川を下った材木輸送運輸収入額は莫大だった。


天竜川橋梁は、当時の東海道本線に於け最大隘路であり、明治41年(1908年)11月5日に新橋-天龍橋間が完全複線化された後も、天龍川橋梁増設工事は遅延し、大正2年(1913年)8月1日附を以って増設橋梁が竣工し、天龍橋-天龍川間複線化に依り、該線全線複線化が達成された。


鐵道唱歌
第25番
掛川、袋井、中泉
(かけがわ、ふくろい、なかいずみ)
いつしかあとに早なりて
(いつしか あとに はやなりて)
さかまき来る天龍の
(さかまき きたる てんりゅうの)
川瀬の淵に雪ぞふる♪
(かわせの ふちに ゆきぞふる)

第26番
この水上にありと聞く
(この みなかみに ありときく)
諏訪の湖水の冬げしき
(すわの こすいの ふゆげしき)
雪と氷の懸橋を
(ゆきと こおりの かけはしを)
わたるは神か里人か♪
(わたるは かみか さとびとか)


該区間に於ける複線化は、
掛川-袋井間        明治40年(1907年)12月20日
袋井-中泉(現 磐田)間  明治41年(1908年) 3月28日
中泉(現 磐田)-天龍橋間 明治41年(1908年)11月 5日
天龍橋-天竜川間     大正 2年(1913年) 8月 1日
天竜川-濱松間      明治38年(1905年) 2月20日
である。


初代天龍川橋梁は明治22年(1889年)竣工の鋼錬鐡混合製橋梁だったが、設置当初から橋脚位置が低位置で設置された事から、橋梁本体が低く、対水害被害が指摘されていた。
即ち洪水等々で大増水時に、橋脚が大水量に耐久困難となり、落橋の可能性を有しており、事実、大正3年(1914年)8月12日に中部地方に上陸後、関東東北北海道に甚大被害を発生させた大型台風の為に、東海道本線(現 御殿場線)駿河(現 駿河小山)-足柄間に存在する第5相澤川橋梁が落橋した原因は、該台風で鮎澤川が異常増水し、水位が該橋たる平行弦上路プラットトラス構桁下部を洗盤し、水流障害を発生させた事で、該橋梁橋台が水流に耐久困難となった事が主原因だった。
鐵道院は、該橋落事故を重視し、全国主要幹線に於いて該問題を発生し得る可能性を有する橋梁を精査させ、東海道本線に於いて、富士川、天龍川、及び、揖斐川各橋梁に就いて、該可能性大と判定された。
此れを受け、天龍川橋梁は、単に橋脚高を嵩上するだけでは抜本的対策となり得ず、橋梁に対する取付線路を別途設置して高位置に架橋させる事に決定し、大正4年(1915年)に施工されたが、あたかも時代は第1次世界大戦中で、折しも戦闘続行中の欧州諸国から鐡鋼材輸入が途絶していた事から、構桁は国産品たる神戸川崎造船所、及び、大阪汽車會製造製品が架橋された。

因みに、第1次世界大戦(大正3年(1914年)7月28日~大正7年(1918年)11月11日)勃発に伴い、我が国は聨合國側として第3次日英同盟条約を根拠に、英國の要請に基き、同年8月23日に独墺に対し宣戦布告したが、開戦後、敵国関係となった独墺枢軸国側から輸入途絶したのは当然ながら、聨合國側たる欧州が主要戦場になった関係上、同時に英仏からの輸入も途絶し、更に戦争が長期化した事から、英國は、大正5年(1916年)4月1日附で鉄鋼の国外輸出を全面禁止した。

他方、米國は、該大戦に対し勃発当初は局外中立を表明し聯合國側枢軸國側双方に武器弾薬鋼鉄材類を供給していたが、次第に聨合國側への物資供給国へと変化を遂げ、同年8月1日附で、対外鉄鋼輸出を禁止する法案を議会上院で可決成立させ為に、事前の成行きとして、我が国も重工業は国産内需に転換をせざるを得なかったが、反面、我が国に於ける重化学工業の急速発展は、第1次世界大戦勃発に伴う自給自足体制の急務が要因だった。

架替前の錬鐡製橋桁に就いては、概ね、2級線橋梁転用例や私鉄払下等々に依り、出先に於いて長命を維持させた。


昭和19年(1944年)12月7日13時36分に大地が突然大揺れに揺れ 東南海地震(とうなんかい じしん)と称された大地震が発生した。
震源地は三重県志摩半島沖20km深度20km付近と推定された。
菊川-浜松-鷲津付近は震度6を観測したとされたが、昨今の調査で、袋井の震災被害程度から、現在では、該地に於いて震度7.9とする学説が最有力であるが、該地震は大東亜戦争中で利敵行為防止の観点から、内務省警保局の命令に拠り報道管制を受け、特に震災被害が著しかった静岡、愛知、三重各県に於いて、具体的内容を伴う報道が禁止された事から、現在に至るも該震災被害に於ける実態は依然として謎に包まれた状態である。

震度7.9と言えば、関東大震災(かんとうだいしんさい)(大正12年(1923年)9月1日)に於いて、最大震度7を記録した神奈川県平塚町(現 平塚市)と同じ規模であり、当時東海道本線戸塚-國府津-御殿場間に於いて激甚被害が発生したが、東南海地震では堀之内(現 菊川)-濱松-鷲津間に重大被害が発生し、該区間運転中の計19本の列車に脱線転覆被害が生し、特に、袋井-磐田間に存在する原野谷川から大田川付近に於ける囲繞地は、元来が該河川粘土質沖積層砂丘上に存在する事から、地震発生と同時に建造物倒壊が相次ぎ、磐田郡今井村(現 袋井市今井町)では、在所住宅内98.5%が全壊した事から該村建造物は全滅と見做して良い被害である。
また、該地域で約158名以上の死者行方不明者が発生し、殊に、袋井國民学校児童20名、袋井保育園園児20名保母1名は木造建築物倒壊に伴う圧死である。

東海道本線は該区間上に於ける盛土が崩壊陥没し路盤が壊滅的被害を受けた。
特に、菊川橋梁、原野谷川橋梁、大田川橋梁、及び、今之浦川橋梁は、橋脚変位倒壊、橋台崩壊し、天龍川橋梁は橋脚変位座屈が原因で構桁自体の落橋は免れたるも、上下線構桁郡19連が蛇動状態等々の重大被害が発生し、該区間に於ける列車運転が不可能になった。
該地震発生当時、磐田-袋井間駒洗川橋梁上走行中のD51523蒸気機関車牽引上り貨物第164列車47両編成は、速度43kmで走行中、該機関車機関士は異状動揺を感知した為に非常制動を動作させ緊急停車し調査した処、貨車、2両目、4~6両目、9~30両目、及び、35~39両目が脱線、若しくは、脱線転覆し、一部車輌は上下線を支障した。
更に、36両目、及び、38両目貨車搭載品たるドラム缶入揮発油が、転落時の振動で爆発炎上した事から付近一帯への被害を大きくし、2次災害を併発させ陸軍に消火要請を依頼し鎮火させたが、当時は大東亜戦争中であり、報道管制を受け、東海地域以外では該地震報道は一切省略され認知されなかったが、実は米英両国は、我が国に於いて巨大地震が発生した事実を、地震学に於ける科学的根拠を以って承知していた。
該区間復旧は、同年同月9日13時40分とされる。
天龍川橋梁は、仮復旧後、運輸通信省直轄扱として本復旧工事施工中に、翌年の濱松空襲の際に艦砲射撃に遭遇した為に再遅延し、該橋梁完全復旧は、大東亜戦争終結後も継続を余儀無くさせた。

該区間復旧まで、二俣線(現 天竜浜名湖鉄道天浜線(掛川-遠江二俣-新所原間を活用し、主として長距離旅客列車、及び、軍用列車を中心に迂回運転を実施した。


大東亜戦争(だいとうあせんそう)末期に於ける濱松地区は、昭和19年(1944年)5月27日附で新居に帝國海軍濱名海兵団が開所され、帝國陸軍は、航空関係施設が複数点在する状態だった。
他方、民間では、山葉楽器(現 ヤマハ)、河合楽器、鈴木自動車(現 スズキ)等々の各企業が、製造内容を軍事産業に転換させ、陸海軍部の要求に拠り軍用品を製造製作し、運輸通信省鐵道総局濱松工機部(現 東海旅客鉄道浜松工場)は、中部地区配置の機関車修繕を一手での取扱実績から、昭和18年(1943年)11月から翌昭和19年(1944年)12月にかけて、貨物用大型蒸気機関車D52型15両を製造し、更に、帝國陸軍41式山砲、高射砲部品を製造供給を実施していた事から、浜松地区は聯合国側から見れば日本に於ける軍事産業代表的生産地として認定され、それ故に、昭和20年(1945年)1月以降、終戦に至るまで、26回に亘り執拗且つ執念的空襲を受けるに至った。

因みに、昭和20年(1945年)8月6日に広島に原子爆弾が投下された際に、山陽本線広島-横川間に下り貨物第377列車が猿候川(えんこうがわ)橋梁走行中に原子爆弾が炸裂し、強烈な爆風に依り、貨車数両が該橋梁上に於いて脱線転覆し、次いで強熱線の為に木造貨車は発火全焼した。

該橋は、山陽鐵道時代たる明治30年(1897年)9月25日に開通当時の橋梁で、橋桁こそ鐵道省時代に鋼鐵製に架替を実施したが、橋台、橋脚は架橋当時の煉瓦構築原型であり、被爆翌日たる7日早朝に撮影されたものと推定される該橋梁写真を精査する限り、原爆に依る該橋梁に関する被害は枕木焼損以外全く無事で、8日には上下線共開通している。

鉄道用橋梁は、原子爆弾炸裂時に発した想像外の強烈な爆風にも耐久性を有していた。

然し、橋梁自体に爆弾、機銃掃射や、大東亜戦争末期に艦載機に搭載されたロケット弾が命中し、殊に、艦砲射撃ともなると事情は甚だ異なる。

特に、昭和20年(1945年)7月30日未明に開始された27回目の攻撃は空襲では無く、米戦艦群を主体とした艦砲射撃では、浜松市内は壊滅被害が発生した。
戦艦 インディアナ(INDIANA)
戦艦 サウスダコダ(SOUTH DAKOTA)
戦艦 マサチューセッツ(MASSACHUSETTS)
何れも、我が国の戦艦大和級に数艦で対抗戦闘すべく建造され、1942年(昭和17年)3~5月に就航した35000t級の戦艦で、16インチ(40cm)45口径主砲9門を搭載し、最大速度27.8ノットで戦闘航行可能だった。
該戦艦群に、戦艦護衛用重巡洋艦2隻、及び、駆逐艦9隻を随伴させ、北海道室蘭市、岩手県釜石市、茨城県日立市を個々砲撃後、浜松市が艦砲射撃標的目標地になった。

米艦隊は、同年7月30日未明より遠州灘沖に展開し、濱松市内主要目標に対し、戦艦搭載40センチ主砲一斉射撃を開始し、艦砲射撃に拠り、該市内は壊滅的状態になった。

インディアナ 浜松駅、浜松機関区。
サウスダゴダ 浜松工機部。
マサチューセッツ 天龍川橋梁。
主砲攻撃目標に設定されていた。

他方、戦艦護衛の為に随伴していた駆逐艦9隻中6隻に対し、艦隊司令官は分派行動を命じ、戦艦群が濱松市内を砲撃開始と同時刻に、駆逐艦隊は駿河湾清水港内潜入に成功し、該12センチ主砲一斉射撃に拠り清水市内要所に火炎が上がったが、時は、大東亜戦争末期とは申せ、かくの如き小型艦艇に内海侵入を可能ならしめたのは、要するに、我が国陸海軍に拠る防衛防御が話しにならぬ程粗末極まりない状態だった為である。

戦艦群主砲一斉射撃を真っ先に知ったのは、皮肉にも、新居に展開していた濱名海兵団首脳部だった。

該海兵団から沖合に展開する多数の艦船を発見して不審を抱いていた処、突然主砲一斉射が開始された事で、該地に米戦艦群が展開している事を悟り茫然自失したものに相違なかったと思われる。


大東亜戦争中、該区間に於ける被害は、
  1月 3日
 警戒警報発令  0時32分
 空襲警報発令  1時00分
 空襲開始    1時12分
 空襲警報解除  4時15分
 警戒警報解除  4時25分
天龍川-濱松間
  焼夷弾攻撃 枕木焦損30本

  2月15日
 警戒警報発令 21時20分
 空襲警報発令 22時00分
 空襲開始   22時15分
 空襲警報解除  1時10分
 警戒警報解除  1時15分
天龍川-濱松間
  線路破壊 1箇所30m 枕木焼損11本
天龍川駅構内
  爆弾 東南海地震天龍川橋梁震害復旧倉庫全焼
濱松駅構内
  爆弾 西信号所 踏切番官舎全焼
  貨車4両全焼
     開通 17時30分

  2月17日
袋井-磐田間
  線路破壊 1箇所30m
開通 10時37分

  4月30日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 第313航空隊 B29戦略爆撃機計69機
 警戒警報発令  6時12分
 空襲警報発令  8時12分
 空襲開始    8時45分
 空襲警報解除 10時45分
 警戒警報解除 10時50分
天龍川-濱松間
  土橋川橋梁
  艦載機機銃掃射 貫通孔
 安間架道橋(下り線用)
艦載機機銃掃射 縦材損傷
  線路破壊 8箇所185m 橋梁損傷2箇所
  客車3両小破 蒸気機関車1両 貨車1両中破
  旅客3名死亡 24名重軽傷
      開通16時10分

  5月19日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計272機
 警戒警報発令 23時12分 
 空襲警報発令  0時 0分
 空襲開始    1時 0分
 空襲警報解除  1時47分
 警戒警報解除  2時20分
磐田-天龍川-濱松間
  線路破壊 11箇所 900m 枕木破損500本
      開通 下り線20日 1時30分
      上り線    4時30分
磐田-天龍川間
  川東暗渠橋
  艦載機機銃掃射 貫通孔
  久保川橋梁
  艦載機機銃掃射 貫通孔
  天龍川橋梁
  川上から川下に向け右45度角度から航空攻撃
   橋梁500m地点から25m地点に於いて、爆弾8個投下
   漏斗状孔経7~15m 深度1.3~5.0m
天龍川-濱松間
  安間架道橋(下り線用)
  艦載機機銃掃射 縦材損傷
  上り旅客第710列車
   爆風、及び、該弾片を受け、旅客職員2名死亡 軽症者若干
濱松駅構内
  南口駅舎 職員集会所 甲乙合宿所 職員官舎4戸 東診療所 踏切番官舎2戸

  6月10日(浜松大空襲)
 警戒警報発令  5時20分
 空襲警報発令  5時21分
 空襲開始    5時26分
 空襲警報解除  8時35分
 警戒警報解除 10時32分
濱松駅構内
  駅本屋 出改札口 電信室 跨線橋 梃子扱所
  上下本線 上下ホーム駅長事務室
  線路破壊18箇所1964m 枕木焼失800本
  該駅構内落下爆弾計12個
 該駅停車中 下り軍用貨物第777列車に投下弾被弾し爆弾搭載貨車 に誘爆した為に、更に被害甚大になった。
   職員1名死亡 1名重傷
      本線開通 同日19時00分
濱松駅構内被災車輌
  マロネロ37 22(廣セキ)小破 同年6月18日全焼
  オハ31 460 (廣セキ)中破
  オハ34 125 (廣セキ)中破
  スハ32 373 (廣セキ)小破 同年6月18日全焼
 以上、濱松工場臨時入場修理
  オロ31 19  (名ハツ)全焼
  オロ31 20  (名ハツ)全焼
  オロ31 85  (名カキ)全焼
  スハ32 320 (名トヤ)全焼
  オハニ30 31 (名シツ)全焼
  オハニ30 36 (名シツ)全焼
 以上、昭和21年(1946年)3月31日附戦災廃車
  オハニ30 22 (名ハツ)全焼
 以上、昭和22年(1947年)1月14日附戦災廃車
  
  6月18日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 B29戦略爆撃機計130機
 警戒警報発令  0時32分
 空襲警報発令  1時00分
 空襲開始    1時12分
 空襲警報解除  4時15分
 警戒警報解除  4時25分
濱松駅構内
  上下本線 仕分線 跨線橋 倉庫 貨物ホーム上屋 枕木焼損
  客車15両 気動車10両 貨車30両 全焼
当時の被災車輌にキハ43000型ディーゼル式気動車3両が存在した。
先頭車は当時流行だった流線型で形成され、名古屋凡太平洋平和博覧会(昭和12年(1937年)3月15日~同年5月31日開催)会場輸送用で登場したが、構造が複雑で故障続きだった事と、戦時体制強化に拠る燃料入手困難から、休車状態で濱松機関区で休車状態時に被災した。
該空襲で先頭車は窓ガラス全損被害だったが、同年7月31日艦砲射撃で車体が半焼損後、戦後は、浜松工機部職員輸送用に使用され、昭和23年(1948年)9月に廃車された。
      本線開通 同日 7時05分
濱松駅構内被災車輌
  マロネロ37 22(廣セキ)全焼
  オロ31   21(名ハツ)全焼
  スロ34   12(大ミハソ)全焼
  オハ31  397(廣セキ)全焼
  オハ31  479(大キト)全焼
  オハ35   82(東シナ)全焼
  オハ35  198(名マイ)全焼
  オハ35  261(門カコ)全焼
  スハ32  232(門オウ)全焼
  スハ32  277(廣セキ)全焼
  スハ32  373(廣セキ)全焼
  スハ32  631(廣ヲカ)全焼
  スハ32  741(名ハツ)全焼
  オハフ33  98(名ナコ)全焼
  オハフ33 196(東ヲク)全焼
  スハフ32 317(名ハツ)全焼
  オハニ30  23(名ハツ)全焼
 以上、昭和21年(1946年)3月31日附戦災廃車
  オロ31  103(廣ヒロ)全焼
  オロハ30   5(名ハツ)全焼
  スハ32  531(大ミハソ)全焼
  オハニ30  21(名ハツ)全焼
  オハニ30  26(名トヤ)全焼
 以上、昭和22年(1947年)1月14日附戦災廃車
  
  6月26日
 警戒警報発令 21時20分
 空襲警報発令 22時00分
 空襲開始   22時15分
 空襲警報解除  1時10分
 警戒警報解除  1時15分
濱松駅構内
  線路破壊 1箇所80m 枕木破壊50本
  客車13両中小破 貨車4両中破
   旅客3名死亡 12名重軽傷
     開通 27日13時00分

  7月24日
 警戒警報発令  6時12分
 空襲警報発令  8時12分
 空襲開始    8時45分
 空襲警報解除 10時45分
 警戒警報解除 10時50分
濱松駅構内
  洗濯場 給水ボイラー室 浴場 集技室(該駅構内残存施設全部)

  7月30日(浜松艦砲射撃)
 警戒警報発令 23時12分 
 空襲警報発令  0時 0分
 空襲開始    1時 0分
 空襲警報解除  1時47分
 警戒警報解除  2時20分
磐田-天龍川間
  天龍川橋梁 下り線60.7m(200ft)×1桁
  艦砲射撃に依る破壊 中破
天龍川-濱松間
  線路破壊9箇所 200m
  下り旅客列車 艦砲射撃直撃弾命中 客車3両大破
  旅客43名 職員3名死亡
  旅客26名 職員9名重軽傷
     開通 31日17時00分 上り線単線運転
被災車輌
  オハ34 400(廣コリ)中破
 以上、濱松工機部修理
 他大破車輌形式番号不明
濱松駅構内
  残存施設全部 艦砲射撃 被弾19箇所
  蒸気機関車 2両大破 15両中破 10両小破
     開通 8月2日17時00分
被災車輌
  オロ31 69(廣ヲカ)中破
 以上、濱松工機部修理


大東亜戦争後、該戦時下に於ける東南海大震災、及び、空襲に依る異常発生橋梁は、安全運転上の見地から徹底的な架替が実施された。


戦後、浜松市内は慢性的交通渋滞の関係から、該状態緩和を目的として、東京起点254.3km地点から259.3km地点に至るまでの区間を高架化させる事に決定し、昭和54年(1979年)10月16日附で全面的に新線に移行し完全高架化工事が竣工した。



表紙写真は、
天龍川橋梁




東海道本線歴史的痕跡探訪記
~東京-濱松町間編 明治頌歌~
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~東京驛編~

~汐留-濱松町-品川間編 明治頌歌~
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~草津-膳所間編 明治頌歌~
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~膳所-濱大津間(廃止線)編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/11157145
~膳所-稲荷-京都間(廃止線)編 明治頌歌~

~膳所-山科-京都間(現行線)編 大正浪漫~
http://4travel.jp/travelogue/11157106
~京都驛編 明治頌歌~

~京都-向日町間編 明治頌歌~

~向日町-高槻間編 明治頌歌~

~高槻-吹田間編 明治頌歌~

~吹田-淡路-大阪間(廃止線)編 明治頌歌~

~吹田-新大阪-大阪間(現行線)編 大正浪漫~

~大阪駅周辺編~

~大阪-西宮間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11366806
~西宮-灘間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11321266
~灘-神戸間編 大正浪漫~
https://4travel.jp/travelogue/11245946

旅行の満足度
5.0
観光
4.0
ホテル
4.5
グルメ
4.0
交通
4.5
同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
高速・路線バス 新幹線 JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 掛川(かけがわ)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />該駅は、明治22年(1889年)4月16日開業である。<br />昭和15年(1940年)改築の第2代目駅本屋。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/kakegawa/

    掛川(かけがわ)駅



    駅本屋
    該駅は、明治22年(1889年)4月16日開業である。
    昭和15年(1940年)改築の第2代目駅本屋。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/kakegawa/

    掛川駅

  • 掛川駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />全景

    掛川駅



    駅本屋
    全景

    掛川駅

  • 掛川-愛野間<br /><br /><br /><br />西遠江(にしとおとうみ)踏切<br />手前 東海道本線<br />向側 天竜浜名湖鉄道天浜線(旧 二俣線)<br />該踏切管理は全て東海旅客鉄道が施工。<br /><br />掛川市南西郷38<br />東海道本線掛川駅北口 徒歩8分

    掛川-愛野間



    西遠江(にしとおとうみ)踏切
    手前 東海道本線
    向側 天竜浜名湖鉄道天浜線(旧 二俣線)
    該踏切管理は全て東海旅客鉄道が施工。

    掛川市南西郷38
    東海道本線掛川駅北口 徒歩8分

  • 掛川-愛野間<br /><br /><br /><br />高御所(こうごしょ)隧道<br />全長67m<br />東京方坑門<br /><br />掛川市長谷2−9<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス長谷寺前停留所降車 徒歩3分

    掛川-愛野間



    高御所(こうごしょ)隧道
    全長67m
    東京方坑門

    掛川市長谷2−9
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス長谷寺前停留所降車 徒歩3分

  • 掛川-愛野間<br /><br /><br /><br />高御所隧道<br />東京方坑門<br />近接<br /><br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス長谷寺前停留所降車 徒歩3分

    掛川-愛野間



    高御所隧道
    東京方坑門
    近接

    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス長谷寺前停留所降車 徒歩3分

  • 掛川-愛野間<br /><br /><br /><br />高御所隧道<br />神戸方坑門<br /><br />掛川市高御所1628<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス長谷寺前停留所降車 徒歩6分

    掛川-愛野間



    高御所隧道
    神戸方坑門

    掛川市高御所1628
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス長谷寺前停留所降車 徒歩6分

  • 掛川-愛野間<br /><br /><br /><br />高御所隧道<br />神戸方坑門<br /><br />掛川市高御所1628<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス長谷寺前停留所降車 徒歩6分

    掛川-愛野間



    高御所隧道
    神戸方坑門

    掛川市高御所1628
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス長谷寺前停留所降車 徒歩6分

  • 掛川-愛野間<br /><br /><br /><br />平之澤(ひらのさわ)架道橋<br /><br />袋井市篠場無番地<br />東海道本線愛野駅北口 徒歩15分

    掛川-愛野間



    平之澤(ひらのさわ)架道橋

    袋井市篠場無番地
    東海道本線愛野駅北口 徒歩15分

  • 掛川-愛野間<br /><br /><br /><br />平之澤架道橋<br />昭和19年(1944年)12月7日発生の東南海大地震に於ける数少ない非被災橋梁。<br /><br />袋井市篠場無番地<br />東海道本線愛野駅北口 徒歩15分

    掛川-愛野間



    平之澤架道橋
    昭和19年(1944年)12月7日発生の東南海大地震に於ける数少ない非被災橋梁。

    袋井市篠場無番地
    東海道本線愛野駅北口 徒歩15分

  • 掛川-袋井間<br /><br /><br /><br />梅橋(うめはし)信号所跡<br />該信号所は、大正12年(1923年)7月1日開設である。<br />東海道本線は、当時としては最新保安機器たる双信閉塞式を導入していたが、駅間閉塞を2分割し列車本数増発を可能とすべく、該信号所が設置された。<br />自動信号機設置に依り、昭和4年(1929年)4月17日附で廃止。<br /><br />掛川市梅橋180<br />東海道本線愛野駅北口 徒歩5分

    掛川-袋井間



    梅橋(うめはし)信号所跡
    該信号所は、大正12年(1923年)7月1日開設である。
    東海道本線は、当時としては最新保安機器たる双信閉塞式を導入していたが、駅間閉塞を2分割し列車本数増発を可能とすべく、該信号所が設置された。
    自動信号機設置に依り、昭和4年(1929年)4月17日附で廃止。

    掛川市梅橋180
    東海道本線愛野駅北口 徒歩5分

  • 愛野(あいの)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、平成13年(2001年)4月22日開業である。<br />全景

    愛野(あいの)駅



    該駅は、平成13年(2001年)4月22日開業である。
    全景

    愛野駅

  • 愛野駅

    愛野駅

    愛野駅

  • 愛野駅

    愛野駅

    愛野駅

  • 愛野駅<br /><br /><br /><br />出改札口

    愛野駅



    出改札口

    愛野駅

  • 愛野-袋井間<br /><br /><br /><br />能光寺(のうこうじ)踏切付近<br />直線区間<br />日本国有鉄道は、東海道本線全線電化の目途がついた事から、次世代旅客列車高速化に向け動力集中形たる機関車牽引客車様式、及び、動力分散形たる電車様式に於ける比較実験を実施すべく、昭和30年(1955年)に、金谷-浜松間に於いて、EH10型貨物用電気機関車15号機を活用し、該機関車ギア比を高速用に交換し、軽量客車4両を牽引し、掛川-磐田間に於いて最高速度123kmを記録した。<br /><br />袋井市愛野小野田3036<br />東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩12分

    愛野-袋井間



    能光寺(のうこうじ)踏切付近
    直線区間
    日本国有鉄道は、東海道本線全線電化の目途がついた事から、次世代旅客列車高速化に向け動力集中形たる機関車牽引客車様式、及び、動力分散形たる電車様式に於ける比較実験を実施すべく、昭和30年(1955年)に、金谷-浜松間に於いて、EH10型貨物用電気機関車15号機を活用し、該機関車ギア比を高速用に交換し、軽量客車4両を牽引し、掛川-磐田間に於いて最高速度123kmを記録した。

    袋井市愛野小野田3036
    東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩12分

  • 愛野-袋井間<br /><br /><br /><br />能光寺踏切付近<br />袋井駅構内<br />俯瞰<br /><br />袋井市愛野小野田3036<br />東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩12分

    愛野-袋井間



    能光寺踏切付近
    袋井駅構内
    俯瞰

    袋井市愛野小野田3036
    東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩12分

  • 愛野-袋井間<br /><br /><br /><br />高尾(たかお)跨線道路橋<br /><br />袋井市高尾933<br />東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩4分

    愛野-袋井間



    高尾(たかお)跨線道路橋

    袋井市高尾933
    東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩4分

  • 愛野-袋井間<br /><br /><br /><br />高尾跨線人道橋<br />旧橋桁<br /><br />袋井市高尾933<br />東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩4分

    愛野-袋井間



    高尾跨線人道橋
    旧橋桁

    袋井市高尾933
    東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩4分

  • 愛野-袋井間<br /><br /><br /><br />高尾跨線人道橋<br />旧橋桁<br />機銃掃射痕が残存。<br />昭和20年(1945年)7月に米艦載機攻撃の受痕とされる。<br />当時の運輸省鉄道総局資料に拠れば、同月24日、若しくは、31日の可能性が高いと推定される。<br /><br />袋井市高尾933<br />東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩4分

    愛野-袋井間



    高尾跨線人道橋
    旧橋桁
    機銃掃射痕が残存。
    昭和20年(1945年)7月に米艦載機攻撃の受痕とされる。
    当時の運輸省鉄道総局資料に拠れば、同月24日、若しくは、31日の可能性が高いと推定される。

    袋井市高尾933
    東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩4分

  • 愛野-袋井間<br /><br /><br /><br />高尾跨線人道橋<br />旧橋桁<br />機銃掃射痕<br />下部に貫通痕が残存。<br /><br />袋井市高尾933<br />東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩4分

    愛野-袋井間



    高尾跨線人道橋
    旧橋桁
    機銃掃射痕
    下部に貫通痕が残存。

    袋井市高尾933
    東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩4分

  • 袋井(ふくろい)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治22年(1889年)4月16日開業である。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/fukuroi/index.html

    袋井(ふくろい)駅



    該駅は、明治22年(1889年)4月16日開業である。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/fukuroi/index.html

    袋井駅

  • 袋井駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />秋葉(あきは)北口

    袋井駅



    駅本屋
    秋葉(あきは)北口

    袋井駅

  • 袋井駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />駿遠(すんえん)南口

    袋井駅



    駅本屋
    駿遠(すんえん)南口

    袋井駅

  • 袋井駅<br /><br /><br />北口駅前広場<br />正岡子規ノ句碑(まさおかしき の くひ)<br />

    袋井駅


    北口駅前広場
    正岡子規ノ句碑(まさおかしき の くひ)

    袋井駅

  • 袋井駅<br /><br /><br />北口駅前広場<br />正岡子規ノ句碑<br />冬枯れの中に家居や村一つ<br />(ふゆがれの なかにいえいは むらひとつ)<br />東海道線静岡-濱松間は、明治22年(1889年)4月16日に開通したが、同年12月25日に、俳人 正岡子規(まさおか しき)(慶應3年(1867年)10月14日〜明治35年(1902年)9月19日)は、郷里松山に帰郷すべく東海道線列車の客となった。<br />朝、東京新橋を出発した列車は夕暮時たる18時02分に袋井駅に到着したが、該駅周辺は夜の帳に包まれていた。<br />該駅は開業したばかりの事で周囲に建物は無いに均しく、客車の窓ガラスに照らされた該村の燈を詠んだ句である。<br />昭和32年(1957年)建立。<br /><br />袋井市

    袋井駅


    北口駅前広場
    正岡子規ノ句碑
    冬枯れの中に家居や村一つ
    (ふゆがれの なかにいえいは むらひとつ)
    東海道線静岡-濱松間は、明治22年(1889年)4月16日に開通したが、同年12月25日に、俳人 正岡子規(まさおか しき)(慶應3年(1867年)10月14日〜明治35年(1902年)9月19日)は、郷里松山に帰郷すべく東海道線列車の客となった。
    朝、東京新橋を出発した列車は夕暮時たる18時02分に袋井駅に到着したが、該駅周辺は夜の帳に包まれていた。
    該駅は開業したばかりの事で周囲に建物は無いに均しく、客車の窓ガラスに照らされた該村の燈を詠んだ句である。
    昭和32年(1957年)建立。

    袋井市

    袋井駅

  • 袋井-磐田間<br /><br /><br /><br />原野谷川(はらのやがわ)橋梁<br />該橋は、明治22年(1889年)4月16日開通時の橋梁である。<br />開通時は英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、<br />英国パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製<br />錬鐡製<br />下路ポニーワーレントラス構桁 支間30.2m(100ft)×2連<br />上路プレートガーダー橋桁 支間12.2m( 40ft)×1連<br />上路プレートガーダー橋桁 支間 5.5m( 17ft)×8連<br />が架橋された。<br />掛川-袋井間は、明治41年(1908年)3月28日に複線化されたが、増線橋梁に、<br />米國アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE)社製<br />鋼鐡製ピン結合<br />下路曲弦ワーレントラス構桁 支間31.4m(102ft)×2連<br />上路プレートガーダー橋桁 支間12.2m( 40ft)×1連<br />上路プレートガーダー橋桁 支間 5.5m( 17ft)×8連<br />が上流側に架橋され、新橋梁は上り線専用、既成橋梁は下り線専用になった。<br />その後、次世代大型蒸気機関車導入が想定され、該橋梁構造では対応困難と判定され、大正2年(1913年)11月27日に、該橋梁西岸方に原野谷信号所を設置し、袋井-該信号所間を単線運転させ、該橋上下線橋梁架替が実施され<br />国産汽車製造會社製<br />鋼鐡製鋲締<br />下路曲弦ワーレントラス構桁 支間31.4m(102ft)×2連<br />上路プレートガーダー橋桁 支間12.2m( 40ft)×1連<br />上路プレートガーダー橋桁 支間 5.5m( 17ft)×8連<br />に架替られ、架替完了後の大正3年(1914年)3月31日附で複線運転に復帰し該信号所は廃止された。<br />因みに、架替前の開通当時の錬鐡製ポニーワーレントラス構桁2連は、大正6年(1917年)に、伊那電気軌道(現 当会旅客鉄道飯田線天竜峡-辰野間)に払下げられ、該軌道線伊那本郷-飯島町間与田切川(よだきりがわ)橋梁に架橋され、国鉄買収後の昭和27年(1952年)に新橋梁に架替られるまで使用された。<br />昭和19年(1944年)12月7日発生の東南海地震では、該橋梁、及び、大田川橋梁付近の路盤が崩壊し、走行中の貨物列車に脱線転覆被害が発生した。<br /><br />袋井市高尾2626<br />東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩12分

    袋井-磐田間



    原野谷川(はらのやがわ)橋梁
    該橋は、明治22年(1889年)4月16日開通時の橋梁である。
    開通時は英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、
    英国パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製
    錬鐡製
    下路ポニーワーレントラス構桁 支間30.2m(100ft)×2連
    上路プレートガーダー橋桁 支間12.2m( 40ft)×1連
    上路プレートガーダー橋桁 支間 5.5m( 17ft)×8連
    が架橋された。
    掛川-袋井間は、明治41年(1908年)3月28日に複線化されたが、増線橋梁に、
    米國アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE)社製
    鋼鐡製ピン結合
    下路曲弦ワーレントラス構桁 支間31.4m(102ft)×2連
    上路プレートガーダー橋桁 支間12.2m( 40ft)×1連
    上路プレートガーダー橋桁 支間 5.5m( 17ft)×8連
    が上流側に架橋され、新橋梁は上り線専用、既成橋梁は下り線専用になった。
    その後、次世代大型蒸気機関車導入が想定され、該橋梁構造では対応困難と判定され、大正2年(1913年)11月27日に、該橋梁西岸方に原野谷信号所を設置し、袋井-該信号所間を単線運転させ、該橋上下線橋梁架替が実施され
    国産汽車製造會社製
    鋼鐡製鋲締
    下路曲弦ワーレントラス構桁 支間31.4m(102ft)×2連
    上路プレートガーダー橋桁 支間12.2m( 40ft)×1連
    上路プレートガーダー橋桁 支間 5.5m( 17ft)×8連
    に架替られ、架替完了後の大正3年(1914年)3月31日附で複線運転に復帰し該信号所は廃止された。
    因みに、架替前の開通当時の錬鐡製ポニーワーレントラス構桁2連は、大正6年(1917年)に、伊那電気軌道(現 当会旅客鉄道飯田線天竜峡-辰野間)に払下げられ、該軌道線伊那本郷-飯島町間与田切川(よだきりがわ)橋梁に架橋され、国鉄買収後の昭和27年(1952年)に新橋梁に架替られるまで使用された。
    昭和19年(1944年)12月7日発生の東南海地震では、該橋梁、及び、大田川橋梁付近の路盤が崩壊し、走行中の貨物列車に脱線転覆被害が発生した。

    袋井市高尾2626
    東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩12分

  • 袋井-磐田間<br /><br /><br /><br />原野谷川橋梁<br />橋台跡<br />東京方<br /><br />袋井市高尾2626<br />東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩12分

    袋井-磐田間



    原野谷川橋梁
    橋台跡
    東京方

    袋井市高尾2626
    東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩12分

  • 袋井-磐田間<br /><br /><br /><br />原野谷川橋梁<br />橋台跡<br />東京方<br />近接<br />河川改修に依り神戸方橋台は現存せず。<br /><br />袋井市高尾2626<br />東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩12分

    袋井-磐田間



    原野谷川橋梁
    橋台跡
    東京方
    近接
    河川改修に依り神戸方橋台は現存せず。

    袋井市高尾2626
    東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩12分

  • 袋井-磐田間<br /><br /><br /><br />原野谷川橋梁<br />東南海地震で被害を受け復旧したが、大東亜戦争後、精密検査実施に依り橋脚に致命的瑕疵が発生している事が判明し、昭和31年(1956年)に中路プレートガーダー橋梁に架替された。<br /><br />袋井市高尾2626<br />東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩12分

    袋井-磐田間



    原野谷川橋梁
    東南海地震で被害を受け復旧したが、大東亜戦争後、精密検査実施に依り橋脚に致命的瑕疵が発生している事が判明し、昭和31年(1956年)に中路プレートガーダー橋梁に架替された。

    袋井市高尾2626
    東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩12分

  • 袋井-磐田間<br /><br /><br /><br />蟹田川(かにたがわ)橋梁<br />該橋は、明治22年(1889年)4月16日開通時の橋梁である。<br />開通時は英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、<br />英国パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製<br />錬鐡製<br />上路プレトガーダー橋桁 支間12.2m(40ft)×2連<br />が架橋された。<br />袋井-中泉(現 磐田)間は、明治41年(1908年)3月28日に複線化されたが、増線橋梁に、<br />米國アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE)社製<br />鋼鐡製<br />上路プレートガーダー橋桁 支間12.2m( 40ft)×2連<br />が上流側に架橋され、新橋梁は上り線専用、既成橋梁は下り線専用になった。<br />昭和19年(1944年)12月7日発生の東南海地震では、該震災発生と同時に該橋梁、橋脚に変位座屈被害が発生した。<br /><br />袋井市新池無番地<br />東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩30分

    袋井-磐田間



    蟹田川(かにたがわ)橋梁
    該橋は、明治22年(1889年)4月16日開通時の橋梁である。
    開通時は英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、
    英国パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製
    錬鐡製
    上路プレトガーダー橋桁 支間12.2m(40ft)×2連
    が架橋された。
    袋井-中泉(現 磐田)間は、明治41年(1908年)3月28日に複線化されたが、増線橋梁に、
    米國アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE)社製
    鋼鐡製
    上路プレートガーダー橋桁 支間12.2m( 40ft)×2連
    が上流側に架橋され、新橋梁は上り線専用、既成橋梁は下り線専用になった。
    昭和19年(1944年)12月7日発生の東南海地震では、該震災発生と同時に該橋梁、橋脚に変位座屈被害が発生した。

    袋井市新池無番地
    東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩30分

  • 袋井-磐田間<br /><br /><br /><br />蟹田川橋梁<br />上り線側<br />該震災本復旧時に河川改修を見越し4連橋梁化。<br /><br /><br />袋井市新池無番地<br />東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩30分

    袋井-磐田間



    蟹田川橋梁
    上り線側
    該震災本復旧時に河川改修を見越し4連橋梁化。


    袋井市新池無番地
    東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩30分

  • 袋井-磐田間<br /><br /><br /><br />蟹田川橋梁<br />下り線側<br /><br />袋井市新池無番地<br />東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩30分

    袋井-磐田間



    蟹田川橋梁
    下り線側

    袋井市新池無番地
    東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩30分

  • 袋井-磐田間<br /><br /><br /><br />駒洗川(こまあらいがわ)橋梁<br />該橋は、明治22年(1889年)4月16日開通時の橋梁である。<br />開通時は英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、<br />英国パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製<br />錬鐡製<br />上路プレトガーダー橋桁 支間12.2m(40ft)×3連<br />が架橋された。<br />袋井-中泉(現 磐田)間は、明治41年(1908年)3月28日に複線化されたが、増線橋梁に、<br />米國アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE)社製<br />鋼鐡製<br />上路プレートガーダー橋桁 支間12.2m( 40ft)×3連<br />が上流側に架橋され、新橋梁は上り線専用、既成橋梁は下り線専用になった。<br />昭和19年(1944年)12月7日発生の東南海地震では、該震災発生と同時に該橋梁、橋脚に変位が発生した。<br />大東亜戦争後に於ける精密検査の結果、該橋梁前後の築堤を含め致命的瑕疵が発見され、路線付替の上、昭和32年(1957年)に架替実施。<br /><br />袋井市彦島無番地<br />東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩35分

    袋井-磐田間



    駒洗川(こまあらいがわ)橋梁
    該橋は、明治22年(1889年)4月16日開通時の橋梁である。
    開通時は英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、
    英国パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製
    錬鐡製
    上路プレトガーダー橋桁 支間12.2m(40ft)×3連
    が架橋された。
    袋井-中泉(現 磐田)間は、明治41年(1908年)3月28日に複線化されたが、増線橋梁に、
    米國アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE)社製
    鋼鐡製
    上路プレートガーダー橋桁 支間12.2m( 40ft)×3連
    が上流側に架橋され、新橋梁は上り線専用、既成橋梁は下り線専用になった。
    昭和19年(1944年)12月7日発生の東南海地震では、該震災発生と同時に該橋梁、橋脚に変位が発生した。
    大東亜戦争後に於ける精密検査の結果、該橋梁前後の築堤を含め致命的瑕疵が発見され、路線付替の上、昭和32年(1957年)に架替実施。

    袋井市彦島無番地
    東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩35分

  • 袋井-磐田間<br /><br /><br /><br />駒洗川橋梁<br />旧橋梁橋台<br />東京方<br /><br />袋井市彦島無番地<br />東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩35分

    袋井-磐田間



    駒洗川橋梁
    旧橋梁橋台
    東京方

    袋井市彦島無番地
    東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩35分

  • 袋井-磐田間<br /><br /><br /><br />駒洗川橋梁<br />旧橋梁橋脚<br /><br />袋井市彦島無番地<br />東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩35分

    袋井-磐田間



    駒洗川橋梁
    旧橋梁橋脚

    袋井市彦島無番地
    東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩35分

  • 袋井-磐田間<br /><br /><br /><br />駒洗川橋梁<br />旧橋梁橋台<br />神戸方<br /><br />袋井市彦島無番地<br />東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩35分

    袋井-磐田間



    駒洗川橋梁
    旧橋梁橋台
    神戸方

    袋井市彦島無番地
    東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩35分

  • 袋井-磐田間<br /><br /><br /><br />大田川(おおたがわ)橋梁<br />該橋は、明治22年(1889年)4月16日開通時の橋梁である。<br />開通時は英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、<br />英国パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製<br />錬鐡製<br />下路ポニーワーレントラス構桁 支間30.2m(100ft)×2連<br />上路プレートガーダー橋桁 支間15.2m( 50ft)×2連<br />が架橋された。<br />袋井-中泉(現 磐田)間は、明治41年(1908年)月20日に複線化されたが、増線橋梁は該河川上流側に、<br />米國<br />鋼鐡製<br />下路曲弦ワーレントラス構桁 支間31.4m(102ft)×2連<br />上路プレートガーダー橋桁 支間15.2m(50ft)×2連<br />が架橋され、新橋は上り線専用、既成橋梁は下り線専用になった。<br /><br />袋井市新貝38<br />東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩50分

    袋井-磐田間



    大田川(おおたがわ)橋梁
    該橋は、明治22年(1889年)4月16日開通時の橋梁である。
    開通時は英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、
    英国パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製
    錬鐡製
    下路ポニーワーレントラス構桁 支間30.2m(100ft)×2連
    上路プレートガーダー橋桁 支間15.2m( 50ft)×2連
    が架橋された。
    袋井-中泉(現 磐田)間は、明治41年(1908年)月20日に複線化されたが、増線橋梁は該河川上流側に、
    米國
    鋼鐡製
    下路曲弦ワーレントラス構桁 支間31.4m(102ft)×2連
    上路プレートガーダー橋桁 支間15.2m(50ft)×2連
    が架橋され、新橋は上り線専用、既成橋梁は下り線専用になった。

    袋井市新貝38
    東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩50分

  • 袋井-磐田間<br /><br /><br /><br />大田川橋梁<br />昭和19年(1944年)12月7日13時36分に発生した東南海地震に依り、該橋梁は、橋台が座屈し、橋脚が変位した事から橋桁が河川中に落橋する被害が発生した。<br />応急復旧の上、再使用されたが、大東亜戦争後、改めて該橋梁構築物を精査した処、橋脚内部に致命的瑕疵が発生している事が判明し、列車運行上、危険と判断された為に、該橋梁修理を断念し、旧橋台橋脚は放棄し、該橋梁下流側に中路プレートガーダー新橋を架橋した。<br />その後、該河川改修工事に拠り、初代橋梁橋台橋脚は全部撤去され現存しない。<br /><br />袋井市新貝38<br />東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩50分

    袋井-磐田間



    大田川橋梁
    昭和19年(1944年)12月7日13時36分に発生した東南海地震に依り、該橋梁は、橋台が座屈し、橋脚が変位した事から橋桁が河川中に落橋する被害が発生した。
    応急復旧の上、再使用されたが、大東亜戦争後、改めて該橋梁構築物を精査した処、橋脚内部に致命的瑕疵が発生している事が判明し、列車運行上、危険と判断された為に、該橋梁修理を断念し、旧橋台橋脚は放棄し、該橋梁下流側に中路プレートガーダー新橋を架橋した。
    その後、該河川改修工事に拠り、初代橋梁橋台橋脚は全部撤去され現存しない。

    袋井市新貝38
    東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩50分

  • 袋井-磐田間<br /><br /><br /><br />佛晴川(ほとはれかわ)橋梁<br />該橋は、明治22年(1889年)4月16日開通時の橋梁である。<br />開通時は英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、<br />英国パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製<br />錬鐡製<br />上路プレトガーダー橋桁 支間6.1m(20ft)×1連<br />が架橋された。<br />袋井-中泉(現 磐田)間は、明治41年(1908年)3月28日に複線化されたが、増線橋梁に、<br />米國アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE)社製<br />鋼鐡製<br />上路プレートガーダー橋桁 支間6.1m( 20ft)×1連<br />が上流側に架橋され、新橋梁は上り線専用、既成橋梁は下り線専用になった。<br /><br />磐田市新貝1351<br />東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩55分

    袋井-磐田間



    佛晴川(ほとはれかわ)橋梁
    該橋は、明治22年(1889年)4月16日開通時の橋梁である。
    開通時は英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、
    英国パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製
    錬鐡製
    上路プレトガーダー橋桁 支間6.1m(20ft)×1連
    が架橋された。
    袋井-中泉(現 磐田)間は、明治41年(1908年)3月28日に複線化されたが、増線橋梁に、
    米國アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE)社製
    鋼鐡製
    上路プレートガーダー橋桁 支間6.1m( 20ft)×1連
    が上流側に架橋され、新橋梁は上り線専用、既成橋梁は下り線専用になった。

    磐田市新貝1351
    東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩55分

  • 袋井-磐田間<br /><br /><br /><br />佛晴川橋梁<br />旧橋梁橋台<br />東京方<br /><br />磐田市新貝1351<br />東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩55分

    袋井-磐田間



    佛晴川橋梁
    旧橋梁橋台
    東京方

    磐田市新貝1351
    東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩55分

  • 袋井-磐田間<br /><br /><br /><br />佛晴川橋梁<br />旧橋梁橋台<br />東京方<br />神戸方橋台は道路拡張時に撤去され現存せず。<br /><br />磐田市新貝1351<br />東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩55分

    袋井-磐田間



    佛晴川橋梁
    旧橋梁橋台
    東京方
    神戸方橋台は道路拡張時に撤去され現存せず。

    磐田市新貝1351
    東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩55分

  • 袋井-磐田間<br /><br /><br /><br />小犬間川(こいぬまかわ)橋梁<br />該橋は、明治22年(1889年)4月16日開通時の橋梁である。<br />開通時は英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、<br />英国パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製<br />錬鐡製<br />上路プレトガーダー橋桁 支間6.1m(20ft)×1連<br />が架橋された。<br />袋井-中泉(現 磐田)間は、明治41年(1908年)3月28日に複線化されたが、増線橋梁に、<br />米國アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE)社製<br />鋼鐡製<br />上路プレートガーダー橋桁 支間6.1m( 20ft)×1連<br />が上流側に架橋され、新橋梁は上り線専用、既成橋梁は下り線専用になった。<br />下り線橋桁は老朽化の為にPCコンクリート製に架替られたが橋台は再用された。<br />開通時の煉瓦積橋台に最新式コンクリート橋桁の組合は全国的にも稀である。<br /><br />磐田市新貝無番地<br />東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩65分

    袋井-磐田間



    小犬間川(こいぬまかわ)橋梁
    該橋は、明治22年(1889年)4月16日開通時の橋梁である。
    開通時は英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、
    英国パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製
    錬鐡製
    上路プレトガーダー橋桁 支間6.1m(20ft)×1連
    が架橋された。
    袋井-中泉(現 磐田)間は、明治41年(1908年)3月28日に複線化されたが、増線橋梁に、
    米國アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE)社製
    鋼鐡製
    上路プレートガーダー橋桁 支間6.1m( 20ft)×1連
    が上流側に架橋され、新橋梁は上り線専用、既成橋梁は下り線専用になった。
    下り線橋桁は老朽化の為にPCコンクリート製に架替られたが橋台は再用された。
    開通時の煉瓦積橋台に最新式コンクリート橋桁の組合は全国的にも稀である。

    磐田市新貝無番地
    東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩65分

  • 袋井-磐田間<br /><br /><br /><br />小犬間川橋梁<br />上り線橋桁<br /><br />磐田市新貝無番地<br />東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩65分

    袋井-磐田間



    小犬間川橋梁
    上り線橋桁

    磐田市新貝無番地
    東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩65分

  • 袋井-磐田間<br /><br /><br /><br />小犬間川橋梁<br />上り線橋桁<br />大正8年(1919年)製造<br />鐵道院時代。<br /><br />磐田市新貝無番地<br />東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩65分

    袋井-磐田間



    小犬間川橋梁
    上り線橋桁
    大正8年(1919年)製造
    鐵道院時代。

    磐田市新貝無番地
    東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩65分

  • 袋井-磐田間<br /><br /><br /><br />小犬間川橋梁<br />製造銘板<br />大正八年(1919年)<br />内閣鐵道院<br /><br />磐田市新貝無番地<br />東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩65分

    袋井-磐田間



    小犬間川橋梁
    製造銘板
    大正八年(1919年)
    内閣鐵道院

    磐田市新貝無番地
    東海道本線袋井駅秋葉北口 徒歩65分

  • 袋井-磐田間<br /><br /><br /><br />鳥ノ瀬(とりのせ)架道橋<br />旧橋梁橋台<br />東南海大地震被害に依り、今之浦川橋梁付近築堤不良に拠り架替時に廃橋。<br /><br />磐田市鳥之瀬40<br />東海道本線磐田駅北口 徒歩25分

    袋井-磐田間



    鳥ノ瀬(とりのせ)架道橋
    旧橋梁橋台
    東南海大地震被害に依り、今之浦川橋梁付近築堤不良に拠り架替時に廃橋。

    磐田市鳥之瀬40
    東海道本線磐田駅北口 徒歩25分

  • 袋井-磐田間<br /><br /><br /><br />今之浦川(いまのうらがわ)橋梁<br />該橋は、明治22年(1889年)4月16日開通時の橋梁である。<br />開通時は英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、<br />英国パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製<br />錬鐡製<br />上路プレトガーダー橋桁 支間12.2m(40ft)×2連<br />が架橋された。<br />袋井-中泉(現 磐田)間は、明治41年(1908年)3月28日に複線化されたが、増線橋梁に、<br />米國アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE)社製<br />鋼鐡製<br />上路プレートガーダー橋桁 支間12.2m( 40ft)×2連<br />が上流側に架橋され、新橋梁は上り線専用、既成橋梁は下り線専用になった。<br /><br />磐田市西貝612<br />東海道本線磐田駅北口 徒歩20分

    袋井-磐田間



    今之浦川(いまのうらがわ)橋梁
    該橋は、明治22年(1889年)4月16日開通時の橋梁である。
    開通時は英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、
    英国パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製
    錬鐡製
    上路プレトガーダー橋桁 支間12.2m(40ft)×2連
    が架橋された。
    袋井-中泉(現 磐田)間は、明治41年(1908年)3月28日に複線化されたが、増線橋梁に、
    米國アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE)社製
    鋼鐡製
    上路プレートガーダー橋桁 支間12.2m( 40ft)×2連
    が上流側に架橋され、新橋梁は上り線専用、既成橋梁は下り線専用になった。

    磐田市西貝612
    東海道本線磐田駅北口 徒歩20分

  • 袋井-磐田間<br /><br /><br /><br />今之浦川(いまのうらがわ)橋梁<br />昭和19年(1944年)12月7日発生の東南海大地震では、該震災発生と同時に該橋梁、橋脚に変位が発生した。<br />大東亜戦争後、精密検査を実施した処、該橋梁前後築堤を含め重大瑕疵が発見された事から、昭和36年(1961年)に全面架替が実施された。<br /><br />磐田市二之宮町4−284<br />東海道本線磐田駅北口 徒歩18分

    袋井-磐田間



    今之浦川(いまのうらがわ)橋梁
    昭和19年(1944年)12月7日発生の東南海大地震では、該震災発生と同時に該橋梁、橋脚に変位が発生した。
    大東亜戦争後、精密検査を実施した処、該橋梁前後築堤を含め重大瑕疵が発見された事から、昭和36年(1961年)に全面架替が実施された。

    磐田市二之宮町4−284
    東海道本線磐田駅北口 徒歩18分

  • 磐田(いわた)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治22年(1889年)4月16日開業である。<br />開業当初は、中泉(なかいずみ)駅と称した。<br />鉄道開業当時は、該分野に対する未知の世界から、地元への誘致忌避の動きが存在した事も亦事実だったが、西南ノ役(せんなんのえき)(明治10年(1877年)2月4日〜同年9月24日)に於いて、軍事関係に於ける鉄道輸送が効果を発した事から、少なくとも、明治10年代後半以降に於いては、鉄道の有効性を認識する動きが強まり、政府が東海道筋に鉄道敷設を決定した事を受け、地元中泉村有力者達は、明治19年(1886年)8月23日に静岡縣知事宛に対し、該村に鉄道停車場設置請願書を提出している。<br />該村に停車場設置は明治20年(1887年)6月に決定され、該決定を受け、該村では、停車場設置必要用地を全部献納し政府に協力した。<br />初代駅本屋は、旧中泉尋常小学校本館施設を解体移築し使用した。<br />然し、その後、客貨増加に伴い初代駅本屋は狭隘な事から建替が決定し、大正4年(1915年)に第2代目駅本屋が建築された。<br />更に、該駅初代跨線橋は鋳鉄木造混合構造物だった事から駅本屋建替と同時に該跨線橋も更改された。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/iwata/

    磐田(いわた)駅



    該駅は、明治22年(1889年)4月16日開業である。
    開業当初は、中泉(なかいずみ)駅と称した。
    鉄道開業当時は、該分野に対する未知の世界から、地元への誘致忌避の動きが存在した事も亦事実だったが、西南ノ役(せんなんのえき)(明治10年(1877年)2月4日〜同年9月24日)に於いて、軍事関係に於ける鉄道輸送が効果を発した事から、少なくとも、明治10年代後半以降に於いては、鉄道の有効性を認識する動きが強まり、政府が東海道筋に鉄道敷設を決定した事を受け、地元中泉村有力者達は、明治19年(1886年)8月23日に静岡縣知事宛に対し、該村に鉄道停車場設置請願書を提出している。
    該村に停車場設置は明治20年(1887年)6月に決定され、該決定を受け、該村では、停車場設置必要用地を全部献納し政府に協力した。
    初代駅本屋は、旧中泉尋常小学校本館施設を解体移築し使用した。
    然し、その後、客貨増加に伴い初代駅本屋は狭隘な事から建替が決定し、大正4年(1915年)に第2代目駅本屋が建築された。
    更に、該駅初代跨線橋は鋳鉄木造混合構造物だった事から駅本屋建替と同時に該跨線橋も更改された。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/iwata/

    磐田駅

  • 磐田駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />北口

    磐田駅



    駅本屋
    北口

    磐田駅

  • 磐田駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />南口

    磐田駅



    駅本屋
    南口

    磐田駅

  • 磐田駅<br /><br /><br /><br />北口駅前広場<br />大樟<br />該駅開設以前に於ける該地には、青山家所有地、及び、善導寺が存在した。<br />鉄道開業の為に該寺は移転を余儀無くさせられたが、該寺境内に所在した徳大寺侯墓所の大楠の大木の移転は不可能であり、鉄道開業後は駅前広場と化した旧境内に残置された事から、該駅目印になった。<br />樹齢は約700年余と推定される。

    磐田駅



    北口駅前広場
    大樟
    該駅開設以前に於ける該地には、青山家所有地、及び、善導寺が存在した。
    鉄道開業の為に該寺は移転を余儀無くさせられたが、該寺境内に所在した徳大寺侯墓所の大楠の大木の移転は不可能であり、鉄道開業後は駅前広場と化した旧境内に残置された事から、該駅目印になった。
    樹齢は約700年余と推定される。

    磐田駅

  • 磐田駅<br /><br /><br /><br />出改札口

    磐田駅



    出改札口

    磐田駅

  • 磐田駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />全景

    磐田駅



    第1番ホーム
    全景

    磐田駅

  • 磐田駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />煉瓦積構造が現存。

    磐田駅



    第1番ホーム
    煉瓦積構造が現存。

    磐田駅

  • 磐田駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />煉瓦積構造<br />駅建替えで高架構造になり該ホーム使用頻度は激減している。

    磐田駅



    第1番ホーム
    煉瓦積構造
    駅建替えで高架構造になり該ホーム使用頻度は激減している。

    磐田駅

  • 磐田駅<br /><br /><br /><br />旧貨物取扱施設跡<br />旧線路跡。

    磐田駅



    旧貨物取扱施設跡
    旧線路跡。

    磐田駅

  • 磐田駅<br /><br /><br /><br />旧跨線橋端柱<br />該跨線橋は記録上に於いて大正5年(1916年)該駅に設置され、改築の為に昭和61年(1986年)7月まで使用。<br />歴史的構築物として認定され左右端柱が保存決定された。<br />該駅本屋地上保存展示分。

    磐田駅



    旧跨線橋端柱
    該跨線橋は記録上に於いて大正5年(1916年)該駅に設置され、改築の為に昭和61年(1986年)7月まで使用。
    歴史的構築物として認定され左右端柱が保存決定された。
    該駅本屋地上保存展示分。

    磐田駅

  • 磐田駅<br /><br /><br /><br />旧跨線橋端柱<br />鐵道院<br />明治四拾四年<br />川崎造船所兵庫分工場鐵道製造班<br />の刻印を有する鋳物製。<br />旧跨線橋は明治44年(1911年)に鐵道院が神戸川崎造船所鐵道部に対し発注した鋳物製で、鋳物の特徴として同時に複数製造が可能であり、信越本線安中駅、及び、日豊本線別府駅跨線橋は同時製造品である。<br />該駅本屋地上保存展示分。

    磐田駅



    旧跨線橋端柱
    鐵道院
    明治四拾四年
    川崎造船所兵庫分工場鐵道製造班
    の刻印を有する鋳物製。
    旧跨線橋は明治44年(1911年)に鐵道院が神戸川崎造船所鐵道部に対し発注した鋳物製で、鋳物の特徴として同時に複数製造が可能であり、信越本線安中駅、及び、日豊本線別府駅跨線橋は同時製造品である。
    該駅本屋地上保存展示分。

    磐田駅

  • 磐田駅<br /><br /><br /><br />旧跨線橋端柱<br />該跨線橋は記録上に於いて大正5年(1916年)該駅に設置され、改築の為に昭和61年(1986年)7月まで使用。<br />歴史的構築物として認定され左右端柱が保存決定された。<br />第2番ホーム保存展示分。

    磐田駅



    旧跨線橋端柱
    該跨線橋は記録上に於いて大正5年(1916年)該駅に設置され、改築の為に昭和61年(1986年)7月まで使用。
    歴史的構築物として認定され左右端柱が保存決定された。
    第2番ホーム保存展示分。

    磐田駅

  • 磐田駅<br /><br /><br /><br />旧跨線橋端柱<br />鐵道院<br />明治四拾四年<br />川崎造船所兵庫分工場鐵道製造班<br />の刻印を有する鋳物製。<br />旧跨線橋は明治44年(1911年)に鐵道院が神戸川崎造船所鐵道部に対し発注した鋳物製で、鋳物の特徴として同時に複数製造が可能であり、信越本線安中駅、及び、日豊本線別府駅跨線橋は同時製造品である。<br />第2番ホーム展示保存分。

    磐田駅



    旧跨線橋端柱
    鐵道院
    明治四拾四年
    川崎造船所兵庫分工場鐵道製造班
    の刻印を有する鋳物製。
    旧跨線橋は明治44年(1911年)に鐵道院が神戸川崎造船所鐵道部に対し発注した鋳物製で、鋳物の特徴として同時に複数製造が可能であり、信越本線安中駅、及び、日豊本線別府駅跨線橋は同時製造品である。
    第2番ホーム展示保存分。

    磐田駅

  • 磐田駅<br /><br /><br /><br />南口駅前広場<br />青山宙平(あおやま ちゅうへい)顕彰碑<br />該人物は中泉村出身で該駅設置時に自身所有地を無償提供し該駅設置に貢献した。

    磐田駅



    南口駅前広場
    青山宙平(あおやま ちゅうへい)顕彰碑
    該人物は中泉村出身で該駅設置時に自身所有地を無償提供し該駅設置に貢献した。

    磐田駅

  • 磐田駅<br /><br /><br /><br />南口駅前広場<br />前島 密 胸像<br />前島 密(まえじま ひそか)(天保6年(1835年)2月4日〜大正8年(1919年)4月27日)は、我が国に於ける近代郵便事業創設者。<br />中泉は元来 天領地だったが、明治2年(1869年)に徳川静岡藩が成立した事で、該地は静岡藩領地となった事から代官所が設置され、前島が該藩代官として赴任し善政を敷いた事を記念し建立。

    磐田駅



    南口駅前広場
    前島 密 胸像
    前島 密(まえじま ひそか)(天保6年(1835年)2月4日〜大正8年(1919年)4月27日)は、我が国に於ける近代郵便事業創設者。
    中泉は元来 天領地だったが、明治2年(1869年)に徳川静岡藩が成立した事で、該地は静岡藩領地となった事から代官所が設置され、前島が該藩代官として赴任し善政を敷いた事を記念し建立。

    磐田駅

  • 磐田-天竜川間<br /><br /><br /><br />久保川(くぼかわ)橋梁<br />全景<br />明治22年(1889年)4月16日開業時は、純然たる河川橋梁だった。<br />昭和20年(1945年)4月30日の空襲で上り線側橋桁に機銃掃射を受け貫通孔が生じた事から、戦後、PCコンクリート桁に架替が実施された。<br />手前、鉄道用橋梁橋台跡は、平成8年(1996年)2月28日附で廃止された、日本たばこ産業磐田工場専用線跡。<br />橋桁が撤去された旧橋台跡<br /><br />磐田市磐田栄町2<br />東海道本線磐田駅北口 遠鉄バス磐田栄町停留所降車 徒歩2分

    磐田-天竜川間



    久保川(くぼかわ)橋梁
    全景
    明治22年(1889年)4月16日開業時は、純然たる河川橋梁だった。
    昭和20年(1945年)4月30日の空襲で上り線側橋桁に機銃掃射を受け貫通孔が生じた事から、戦後、PCコンクリート桁に架替が実施された。
    手前、鉄道用橋梁橋台跡は、平成8年(1996年)2月28日附で廃止された、日本たばこ産業磐田工場専用線跡。
    橋桁が撤去された旧橋台跡

    磐田市磐田栄町2
    東海道本線磐田駅北口 遠鉄バス磐田栄町停留所降車 徒歩2分

  • 磐田-天竜川間<br /><br /><br /><br />一言川(ひとことかわ)橋梁<br />該橋は、明治22年(1889年)4月16日開通時の橋梁である。<br />開通時は英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、<br />英国パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製<br />錬鐡製<br />上路プレトガーダー橋桁 支間6.1m(20ft)×1連<br />が架橋された。<br />中泉(現 磐田)間-天龍川間は、明治41年(1908年)3月28日に複線化されたが、増線橋梁に、<br />米國アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE)社製<br />鋼鐡製<br />上路プレートガーダー橋桁 支間6.1m( 20ft)×1連<br />が上流側に架橋され、新橋梁は上り線専用、既成橋梁は下り線専用になった。<br /><br />磐田市笹原51<br />東海道本線磐田駅北口 遠鉄バス磐田石原町停留所降車 徒歩10分

    磐田-天竜川間



    一言川(ひとことかわ)橋梁
    該橋は、明治22年(1889年)4月16日開通時の橋梁である。
    開通時は英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、
    英国パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製
    錬鐡製
    上路プレトガーダー橋桁 支間6.1m(20ft)×1連
    が架橋された。
    中泉(現 磐田)間-天龍川間は、明治41年(1908年)3月28日に複線化されたが、増線橋梁に、
    米國アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE)社製
    鋼鐡製
    上路プレートガーダー橋桁 支間6.1m( 20ft)×1連
    が上流側に架橋され、新橋梁は上り線専用、既成橋梁は下り線専用になった。

    磐田市笹原51
    東海道本線磐田駅北口 遠鉄バス磐田石原町停留所降車 徒歩10分

  • 磐田-豊田町間<br /><br /><br /><br />一言川橋梁<br />全景<br /><br />磐田市笹原51<br />東海道本線磐田駅北口 遠鉄バス磐田石原町停留所降車 徒歩10分

    磐田-豊田町間



    一言川橋梁
    全景

    磐田市笹原51
    東海道本線磐田駅北口 遠鉄バス磐田石原町停留所降車 徒歩10分

  • 磐田-豊田町間<br /><br /><br /><br />?委僧川(ほうそうかわ)橋梁<br />該橋は、明治22年(1889年)4月16日開通時の橋梁である。<br />開通時は英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、<br />英国パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製<br />錬鐡製<br />上路プレトガーダー橋桁 支間6.1m(20ft)×1連<br />が架橋された。<br />中泉(現 磐田)間-天龍川間は、明治41年(1908年)11月5日に複線化されたが、増線橋梁に、<br />米國アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE)社製<br />鋼鐡製<br />上路プレートガーダー橋桁 支間6.1m( 20ft)×1連<br />が上流側に架橋され、新橋梁は上り線専用、既成橋梁は下り線専用になった。<br />建設省(現 国土交通省)は、該河川改修を決定した。<br />即ち、川幅が拡大する事から橋梁自体の架替を必要とし、該橋梁は既存橋梁下流側に設置される事に決定し、此れに基き、平成6年(1994年)7月18日に着工し、翌平成7年(1995年)2月17日に竣工した。<br />新橋梁は複線型PCコンクリート製である。<br />因みに、豊田町駅開業は平成3年(1991年)12月14日だが、該駅設置決定時は該河川改修が計画されており、此の為に、該橋梁架替切替まで、該駅東京方に急曲線が発生し、全列車に対し速度制限が追加された。<br /><br />磐田市気子島無番地<br />東海道本線豊田町駅北口 徒歩3分

    磐田-豊田町間



    ?委僧川(ほうそうかわ)橋梁
    該橋は、明治22年(1889年)4月16日開通時の橋梁である。
    開通時は英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、
    英国パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製
    錬鐡製
    上路プレトガーダー橋桁 支間6.1m(20ft)×1連
    が架橋された。
    中泉(現 磐田)間-天龍川間は、明治41年(1908年)11月5日に複線化されたが、増線橋梁に、
    米國アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE)社製
    鋼鐡製
    上路プレートガーダー橋桁 支間6.1m( 20ft)×1連
    が上流側に架橋され、新橋梁は上り線専用、既成橋梁は下り線専用になった。
    建設省(現 国土交通省)は、該河川改修を決定した。
    即ち、川幅が拡大する事から橋梁自体の架替を必要とし、該橋梁は既存橋梁下流側に設置される事に決定し、此れに基き、平成6年(1994年)7月18日に着工し、翌平成7年(1995年)2月17日に竣工した。
    新橋梁は複線型PCコンクリート製である。
    因みに、豊田町駅開業は平成3年(1991年)12月14日だが、該駅設置決定時は該河川改修が計画されており、此の為に、該橋梁架替切替まで、該駅東京方に急曲線が発生し、全列車に対し速度制限が追加された。

    磐田市気子島無番地
    東海道本線豊田町駅北口 徒歩3分

  • 豊田町(とよだちょう)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、平成3年(1991年)12月14日開業である。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/toyodacho/index.html?sess=72a26fb2ba975655b6017e9c13b00010

    豊田町(とよだちょう)駅



    該駅は、平成3年(1991年)12月14日開業である。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/toyodacho/index.html?sess=72a26fb2ba975655b6017e9c13b00010

    豊田町駅

  • 豊田町駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />全景

    豊田町駅



    駅本屋
    全景

    豊田町駅

  • 豊田町-天竜川間<br /><br /><br /><br />高木用水(たかぎようすい)橋梁<br />該橋は、明治22年(1889年)4月16日開通時の橋梁である。<br />開通時は英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、<br />英国パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製<br />錬鐡製<br />上路プレトガーダー橋桁 支間9.1m(30ft)×1連<br />が架橋された。<br />中泉(現 磐田)-天龍橋間は、明治41年(1908年11月5日に複線化されたが、増線橋梁に、<br />米國アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE)社製<br />鋼鐡製<br />上路プレートガーダー橋桁 支間9.1m( 30ft)×1連<br />が上流側に架橋され、新橋梁は上り線専用、既成橋梁は下り線専用になった。<br /><br />磐田市森本1019<br />東海道本線豊田町駅北口 徒歩10分

    豊田町-天竜川間



    高木用水(たかぎようすい)橋梁
    該橋は、明治22年(1889年)4月16日開通時の橋梁である。
    開通時は英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、
    英国パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製
    錬鐡製
    上路プレトガーダー橋桁 支間9.1m(30ft)×1連
    が架橋された。
    中泉(現 磐田)-天龍橋間は、明治41年(1908年11月5日に複線化されたが、増線橋梁に、
    米國アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE)社製
    鋼鐡製
    上路プレートガーダー橋桁 支間9.1m( 30ft)×1連
    が上流側に架橋され、新橋梁は上り線専用、既成橋梁は下り線専用になった。

    磐田市森本1019
    東海道本線豊田町駅北口 徒歩10分

  • 豊田町-天竜川間<br /><br /><br /><br />高木用水橋梁<br />橋台<br />左 開通時設置<br />右 増線時設置<br /><br />磐田市森本1019<br />東海道本線豊田町駅北口 徒歩10分

    豊田町-天竜川間



    高木用水橋梁
    橋台
    左 開通時設置
    右 増線時設置

    磐田市森本1019
    東海道本線豊田町駅北口 徒歩10分

  • 豊田町-天竜川間<br /><br /><br /><br />高木用水橋梁<br />開通当時は全幅該用水用橋梁だったが、戦後農業利用低下と共に該用水利用が半ば不要となった事から遊休部2/3を道路に転用した。<br /><br />磐田市森本1019<br />東海道本線豊田町駅北口 徒歩10分

    豊田町-天竜川間



    高木用水橋梁
    開通当時は全幅該用水用橋梁だったが、戦後農業利用低下と共に該用水利用が半ば不要となった事から遊休部2/3を道路に転用した。

    磐田市森本1019
    東海道本線豊田町駅北口 徒歩10分

  • 豊田町-天竜川間<br /><br /><br /><br />旧天竜橋信号所跡<br />該信号所は、明治41年(1908年)10月26日設置である。<br />東海道本線東京-神戸間に於いて天竜川橋梁は該線最長橋梁であるが、明治22年(1889年)4月16日開通以降、複線化計画の一環として該橋梁増設が度々検討されたが、架橋が困難な事もあり、長く単線の状態に置かれた。<br />他方、列車本数は増大傾向が強まり、明治41年(1908年)年11月5日に中泉(現 磐田)-天竜橋間複線化で、新橋-該信号所間は全線複線化された。<br />大正2年(1913年)8月1日に天竜川橋梁が増設され東海道本線が全線複線化が達成されたが、引続き、既成橋梁が当時計画されていた標準軌非対応様式だった事から架替を施工する事になり、該工事竣工後の、大正4年(1915年)5月10日に廃止された。<br /><br />磐田市森本492<br />東海道本線豊田町駅北口 徒歩15分

    豊田町-天竜川間



    旧天竜橋信号所跡
    該信号所は、明治41年(1908年)10月26日設置である。
    東海道本線東京-神戸間に於いて天竜川橋梁は該線最長橋梁であるが、明治22年(1889年)4月16日開通以降、複線化計画の一環として該橋梁増設が度々検討されたが、架橋が困難な事もあり、長く単線の状態に置かれた。
    他方、列車本数は増大傾向が強まり、明治41年(1908年)年11月5日に中泉(現 磐田)-天竜橋間複線化で、新橋-該信号所間は全線複線化された。
    大正2年(1913年)8月1日に天竜川橋梁が増設され東海道本線が全線複線化が達成されたが、引続き、既成橋梁が当時計画されていた標準軌非対応様式だった事から架替を施工する事になり、該工事竣工後の、大正4年(1915年)5月10日に廃止された。

    磐田市森本492
    東海道本線豊田町駅北口 徒歩15分

  • 豊田町-天竜川間<br /><br /><br /><br />天龍川(てんりゅうがわ)橋梁<br />該橋は、明治22年(1889年)4月16日開通時の橋梁である。<br />開通時は、英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、<br />英國パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製<br />鋼鐡製 下路平行ダブルワーレントラス構桁 支間61.0m(200ft)×19連<br />が架橋された。<br />架橋工事に鑑み、初めての試みとして、ガットメル削岩機、サンドポンプが使用され、更に、潜水夫が使役された。<br />また、該橋梁は我が国初の総鋼鐡構造だった。<br />該橋梁架橋工事は明治20年(1887年)6月に着工し、難工事だったが、明治22年(1889年)4月に竣工した。<br />磐田-天龍川間複線化工事は、明治41年(1908年)に着工し、該河川上流側に、<br />米國アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE Co)社製ピン結合<br />鋼鐚製 下路曲弦ワーレントラス構桁 支間62.4m(202ft)×19連 明治45年(1912年)製<br />が架橋され、新製橋梁は上り線専用になり、既存橋梁は下り線専用になった。<br />然るに、下り線専用橋梁は、内閣鐵道院主導に依る次期導入計画の大型蒸気機関車入線に、建築限界上、非対応だった事から、翌大正3年(1914年)に架替が実施され<br />国産<br />川崎造船所製<br />鋼鐡製鋲締 <br />下路曲弦ワーレントラス構桁 支間62.4m(202ft)×19連<br />に架替られた。<br />昭和19年(1944年)12月7日に発生した東南海地震に依り該橋梁は上下線共に被災し、橋脚大亀裂傾斜、等々の重大被害が発生したが、仮復旧工事の後、本復旧工事施工中たる、昭和20年(1945年)5月19日空襲に依り、米陸軍航空部隊は該橋梁に対し攻撃を仕掛け、至近弾命中に依る被害が発生したが、同年7月30日の米英連合艦隊艦砲射撃に依り下り線用該橋梁1桁に命中被弾が発生し、緊急に修理を要する事態に発展した。<br />終戦後、直ちに本復旧工事が施工されたが、昭和23年(1948年)に改めて修復工事が施工された。<br />然るに、不安定な状態が継続して発生した事から昭和27年(1952年)にも復旧工事が再施工されたが、世の中が安定するに従い、改めて橋脚をエックス線検査を実施した処、橋脚内部に重大な瑕疵が発見され、取敢えず修理をしたが将来に亘る安全運転上、重大な障害を有する事が判明した事から、日本国有鉄道岐阜建設局では、該河川に複線用橋脚を建設設置し、昭和43年(1968年)に、<br />国産<br />川崎重工業製<br />下路平行ワーレントラス構桁 支間62.5m(202ft)×19連<br />を架橋し、該橋梁は上り線用に指定され、更に、遊休化した旧上り線用構桁を新橋脚に移設すべく、小改造を施工し新橋脚に架橋し新下り線用橋梁になった。<br />此の結果、老朽化と戦時中の応急修理を施工された旧下り線用橋梁は廃橋となり、昭和47年(1972年)7月12日未明に神奈川県西部地域に襲来した大型台風の為に、橋桁が落橋した御殿場線第3酒匂川橋梁に1連が転用された以外、昭和53年(1978年)迄に、構桁、橋脚共に全部撤去された。<br />現在では同一橋脚上に、上り線用が昭和後期形式橋桁、下り線用に明治末期形式橋桁が共存すると云う、全く形態が異なる状態で、全国でも稀有例橋梁である。<br /><br />磐田市森本無番地<br />東海道本線豊田町駅北口 徒歩25分

    豊田町-天竜川間



    天龍川(てんりゅうがわ)橋梁
    該橋は、明治22年(1889年)4月16日開通時の橋梁である。
    開通時は、英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、
    英國パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製
    鋼鐡製 下路平行ダブルワーレントラス構桁 支間61.0m(200ft)×19連
    が架橋された。
    架橋工事に鑑み、初めての試みとして、ガットメル削岩機、サンドポンプが使用され、更に、潜水夫が使役された。
    また、該橋梁は我が国初の総鋼鐡構造だった。
    該橋梁架橋工事は明治20年(1887年)6月に着工し、難工事だったが、明治22年(1889年)4月に竣工した。
    磐田-天龍川間複線化工事は、明治41年(1908年)に着工し、該河川上流側に、
    米國アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE Co)社製ピン結合
    鋼鐚製 下路曲弦ワーレントラス構桁 支間62.4m(202ft)×19連 明治45年(1912年)製
    が架橋され、新製橋梁は上り線専用になり、既存橋梁は下り線専用になった。
    然るに、下り線専用橋梁は、内閣鐵道院主導に依る次期導入計画の大型蒸気機関車入線に、建築限界上、非対応だった事から、翌大正3年(1914年)に架替が実施され
    国産
    川崎造船所製
    鋼鐡製鋲締
    下路曲弦ワーレントラス構桁 支間62.4m(202ft)×19連
    に架替られた。
    昭和19年(1944年)12月7日に発生した東南海地震に依り該橋梁は上下線共に被災し、橋脚大亀裂傾斜、等々の重大被害が発生したが、仮復旧工事の後、本復旧工事施工中たる、昭和20年(1945年)5月19日空襲に依り、米陸軍航空部隊は該橋梁に対し攻撃を仕掛け、至近弾命中に依る被害が発生したが、同年7月30日の米英連合艦隊艦砲射撃に依り下り線用該橋梁1桁に命中被弾が発生し、緊急に修理を要する事態に発展した。
    終戦後、直ちに本復旧工事が施工されたが、昭和23年(1948年)に改めて修復工事が施工された。
    然るに、不安定な状態が継続して発生した事から昭和27年(1952年)にも復旧工事が再施工されたが、世の中が安定するに従い、改めて橋脚をエックス線検査を実施した処、橋脚内部に重大な瑕疵が発見され、取敢えず修理をしたが将来に亘る安全運転上、重大な障害を有する事が判明した事から、日本国有鉄道岐阜建設局では、該河川に複線用橋脚を建設設置し、昭和43年(1968年)に、
    国産
    川崎重工業製
    下路平行ワーレントラス構桁 支間62.5m(202ft)×19連
    を架橋し、該橋梁は上り線用に指定され、更に、遊休化した旧上り線用構桁を新橋脚に移設すべく、小改造を施工し新橋脚に架橋し新下り線用橋梁になった。
    此の結果、老朽化と戦時中の応急修理を施工された旧下り線用橋梁は廃橋となり、昭和47年(1972年)7月12日未明に神奈川県西部地域に襲来した大型台風の為に、橋桁が落橋した御殿場線第3酒匂川橋梁に1連が転用された以外、昭和53年(1978年)迄に、構桁、橋脚共に全部撤去された。
    現在では同一橋脚上に、上り線用が昭和後期形式橋桁、下り線用に明治末期形式橋桁が共存すると云う、全く形態が異なる状態で、全国でも稀有例橋梁である。

    磐田市森本無番地
    東海道本線豊田町駅北口 徒歩25分

  • 豊田町-天竜川間<br /><br /><br /><br />天竜川橋梁<br />上流側<br />東海道本線全通時に於ける代表的蒸気機関車は、B形態の600型タンク式機関車で整備全重量が36.88tに過ぎなかった。<br />然るに、15年後の日露戦争(にちろ せんそう)(明治37年(1904年)2月8日〜明治38年(1905年)9月5日)に英独米から大量輸入されたC形態の2120型タンク式機関車は整備全重量は49.17tにも達し、早くも10t以上も重くなった。<br />明治45年(1912年)に、ロシア欧州連絡用特別急行列車運転の為に導入されたC形態の8800型炭水車附機関車は、機関車本体50.84t、炭水車31.36t計82.20tにも及び、英國製錬鐵橋構では強度不足と共に、橋門上横桁が建築限界支障となる可能性が生じて来た。<br />更に、当時、鐵道院は次世代新型蒸気機関車設計が完了し、導入に向けて検討中だった事から、明治20年代前半に東海道本線主要幹線に於いて架橋された英國製ワーレントラス橋桁は架替を必要とする事態に直面させられる。<br />即ち、我が国の如き狭軌を採用している以上、出力向上を目的とする為に、ボイラーを広火室様式にするには動輪上に設置せざるを得ず、此の為に、蒸気機関車は、自然、背高になる傾向となった。<br />トラス橋梁に於いて門構端上位構造が存在無き形態であれば、例え該橋構が錬鐡構造であっても、明治9年(1876年)に英國で製造され、翌明治10年(1877年)に六郷川橋梁として架橋され、後に、第2酒匂川橋梁に転用架替られたポニートラス構桁の如く、D52型大型貨物用蒸気機関車通過が可能な状態で昭和40年(1965年)まで使用された例も存在する。<br />然し、端柱上位に横構が存在すると該部に対し建築限界が発生させ早急な架替を実施させられた。<br /><br />磐田市森本無番地<br />東海道本線豊田町駅北口 徒歩32分

    豊田町-天竜川間



    天竜川橋梁
    上流側
    東海道本線全通時に於ける代表的蒸気機関車は、B形態の600型タンク式機関車で整備全重量が36.88tに過ぎなかった。
    然るに、15年後の日露戦争(にちろ せんそう)(明治37年(1904年)2月8日〜明治38年(1905年)9月5日)に英独米から大量輸入されたC形態の2120型タンク式機関車は整備全重量は49.17tにも達し、早くも10t以上も重くなった。
    明治45年(1912年)に、ロシア欧州連絡用特別急行列車運転の為に導入されたC形態の8800型炭水車附機関車は、機関車本体50.84t、炭水車31.36t計82.20tにも及び、英國製錬鐵橋構では強度不足と共に、橋門上横桁が建築限界支障となる可能性が生じて来た。
    更に、当時、鐵道院は次世代新型蒸気機関車設計が完了し、導入に向けて検討中だった事から、明治20年代前半に東海道本線主要幹線に於いて架橋された英國製ワーレントラス橋桁は架替を必要とする事態に直面させられる。
    即ち、我が国の如き狭軌を採用している以上、出力向上を目的とする為に、ボイラーを広火室様式にするには動輪上に設置せざるを得ず、此の為に、蒸気機関車は、自然、背高になる傾向となった。
    トラス橋梁に於いて門構端上位構造が存在無き形態であれば、例え該橋構が錬鐡構造であっても、明治9年(1876年)に英國で製造され、翌明治10年(1877年)に六郷川橋梁として架橋され、後に、第2酒匂川橋梁に転用架替られたポニートラス構桁の如く、D52型大型貨物用蒸気機関車通過が可能な状態で昭和40年(1965年)まで使用された例も存在する。
    然し、端柱上位に横構が存在すると該部に対し建築限界が発生させ早急な架替を実施させられた。

    磐田市森本無番地
    東海道本線豊田町駅北口 徒歩32分

  • 豊田町-天竜川間<br /><br /><br /><br />天竜川橋梁<br />右<br />上り線用橋梁<br />昭和43年(1968年)新製設置<br />下路平行弦ワーレントラス橋桁<br />左<br />下り線用橋梁<br />昭和44年(1969年)移設設置<br />下路曲弦プラットトラス橋桁<br />本来、該橋梁は下流側に存在したが、架替の為に上流側に複線用橋脚を構築し、上り線用橋梁を設置すると共に、旧上り線用橋梁を平行移動させ、一部改造の上、下り線用橋梁として再用。<br /><br />磐田市森本無番地<br />東海道本線豊田町駅北口 徒歩35分

    豊田町-天竜川間



    天竜川橋梁

    上り線用橋梁
    昭和43年(1968年)新製設置
    下路平行弦ワーレントラス橋桁

    下り線用橋梁
    昭和44年(1969年)移設設置
    下路曲弦プラットトラス橋桁
    本来、該橋梁は下流側に存在したが、架替の為に上流側に複線用橋脚を構築し、上り線用橋梁を設置すると共に、旧上り線用橋梁を平行移動させ、一部改造の上、下り線用橋梁として再用。

    磐田市森本無番地
    東海道本線豊田町駅北口 徒歩35分

  • 豊田町-天竜川間<br /><br /><br /><br />天竜川橋梁<br />橋脚<br />昭和43年(1968年)設置<br /><br />磐田市森本無番地<br />東海道本線豊田町駅北口 徒歩32分

    豊田町-天竜川間



    天竜川橋梁
    橋脚
    昭和43年(1968年)設置

    磐田市森本無番地
    東海道本線豊田町駅北口 徒歩32分

  • 豊田町-天竜川間<br /><br /><br /><br />天竜川橋梁<br />西岸<br /><br />浜松市東区材木町無番地<br />東海道本線天竜川駅 徒歩25分

    豊田町-天竜川間



    天竜川橋梁
    西岸

    浜松市東区材木町無番地
    東海道本線天竜川駅 徒歩25分

  • 豊田町-天竜川間<br /><br /><br /><br />天竜川橋梁<br />奥<br />上り線用橋梁<br />昭和43年(1968年)新製設置<br />下路平行弦ワーレントラス橋桁<br />手前<br />下り線用橋梁<br />昭和44年(1969年)移設設置<br />下路曲弦プラットトラス橋桁<br />製造時期が大幅に異なる為に、外観形態が著しく相違。<br /><br />浜松市東区材木町無番地<br />東海道本線天竜川駅 徒歩25分

    豊田町-天竜川間



    天竜川橋梁

    上り線用橋梁
    昭和43年(1968年)新製設置
    下路平行弦ワーレントラス橋桁
    手前
    下り線用橋梁
    昭和44年(1969年)移設設置
    下路曲弦プラットトラス橋桁
    製造時期が大幅に異なる為に、外観形態が著しく相違。

    浜松市東区材木町無番地
    東海道本線天竜川駅 徒歩25分

  • 豊田町-天竜川間<br /><br /><br /><br />天竜川橋梁<br />左<br />上り線用橋梁<br />昭和43年(1968年)新製設置<br />下路平行弦ワーレントラス橋桁<br />右<br />下り線用橋梁<br />昭和44年(1969年)移設設置<br />下路曲弦プラットトラス橋桁<br />製造時期が大幅に異なる為に、形態が著しく相違。<br /><br />浜松市東区材木町無番地<br />東海道本線天竜川駅 徒歩25分

    豊田町-天竜川間



    天竜川橋梁

    上り線用橋梁
    昭和43年(1968年)新製設置
    下路平行弦ワーレントラス橋桁

    下り線用橋梁
    昭和44年(1969年)移設設置
    下路曲弦プラットトラス橋桁
    製造時期が大幅に異なる為に、形態が著しく相違。

    浜松市東区材木町無番地
    東海道本線天竜川駅 徒歩25分

  • 豊田町-天竜川間<br /><br /><br /><br />天竜川橋梁<br />端柱<br />銘板<br />上<br />AMERICAN BRIDGE Co Ltd<br />   I J R<br />   1912<br />(アメリカン・ブリッジ社)<br />(大日本帝國内閣鐵道院発注品)<br />中下<br />移設時横桁縦桁改造<br /><br />浜松市東区材木町無番地<br />東海道本線天竜川駅 徒歩25分

    豊田町-天竜川間



    天竜川橋梁
    端柱
    銘板

    AMERICAN BRIDGE Co Ltd
       I J R
       1912
    (アメリカン・ブリッジ社)
    (大日本帝國内閣鐵道院発注品)
    中下
    移設時横桁縦桁改造

    浜松市東区材木町無番地
    東海道本線天竜川駅 徒歩25分

  • 豊田町-天竜川間<br /><br /><br /><br />東安間架道橋<br />天龍川橋梁下り線橋脚嵩上時に廃止。<br /><br />浜松市東区龍光町60<br />東海道本線天竜川駅 徒歩15分

    豊田町-天竜川間



    東安間架道橋
    天龍川橋梁下り線橋脚嵩上時に廃止。

    浜松市東区龍光町60
    東海道本線天竜川駅 徒歩15分

  • 豊田町-天竜川間<br /><br /><br /><br />安間川(あんまがわ)橋梁<br />全景<br />該橋は、明治22年(1889年)4月16日開通時の橋梁である。<br />開通時は、英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、<br />英國<br />錬鐡製<br />プレートガーダー橋桁 支間6.1m(20ft)×3連<br />が架橋された。<br />その後、該河川上流側に新橋梁が設置され、天竜橋-天竜川間は、大正2年(1913年)8月1日に複線化されたが、引続き既成橋梁架替の為に、天竜橋信号所-天竜川間は単線交互運転とした。<br /><br />浜松市東区龍光町60<br />東海道本線天竜川駅 徒歩15分

    豊田町-天竜川間



    安間川(あんまがわ)橋梁
    全景
    該橋は、明治22年(1889年)4月16日開通時の橋梁である。
    開通時は、英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、
    英國
    錬鐡製
    プレートガーダー橋桁 支間6.1m(20ft)×3連
    が架橋された。
    その後、該河川上流側に新橋梁が設置され、天竜橋-天竜川間は、大正2年(1913年)8月1日に複線化されたが、引続き既成橋梁架替の為に、天竜橋信号所-天竜川間は単線交互運転とした。

    浜松市東区龍光町60
    東海道本線天竜川駅 徒歩15分

  • 豊田町-天竜川間<br /><br /><br /><br />安間川橋梁<br /><br />浜松市東区龍光町60<br />東海道本線天竜川駅 徒歩15分

    豊田町-天竜川間



    安間川橋梁

    浜松市東区龍光町60
    東海道本線天竜川駅 徒歩15分

  • 豊田町-天竜川間<br /><br /><br /><br />安間川橋梁<br />下流側<br /><br />浜松市東区安田町無番地<br />東海道本線天竜川駅 徒歩12分

    豊田町-天竜川間



    安間川橋梁
    下流側

    浜松市東区安田町無番地
    東海道本線天竜川駅 徒歩12分

  • 豊田町-天竜川間<br /><br /><br /><br />安間川橋梁<br />橋桁<br />銘板<br />昭和四年<br />汽車製造株式會社製作<br />荷重E40<br />鐵道省<br /><br />浜松市東区龍光町2<br />東海道本線天竜川駅 徒歩12分

    豊田町-天竜川間



    安間川橋梁
    橋桁
    銘板
    昭和四年
    汽車製造株式會社製作
    荷重E40
    鐵道省

    浜松市東区龍光町2
    東海道本線天竜川駅 徒歩12分

  • 豊田町-天竜川間<br /><br /><br /><br />安間(あんま)架道橋<br />下り線用 鐵道院架橋<br />上り線用 運輸省架橋<br />該架道橋は、上下共に鐵道院が架替2代目の橋桁だったが、昭和20年(1945年)5月19日の空襲に依り、上り線用橋桁は機銃掃射を受け、橋桁本体に損傷が発生した。<br />運輸省(うんゆしょう)は、運輸通信省から旧逓信省部門を分離独立させ、昭和20年(1945年)5月19日成立の官庁であり、即ち、該官庁成立当日の空襲で被災した。<br />旧鐵道省は、運輸省鐵道総局が管理監督し、該橋桁は応急復旧され使用されたが、長期継続使用は困難と判定され、運輸省鉄道総局が、昭和24年(1949年)4月に日本橋梁株式会社に発注した物だったが、同年6月1日に運輸省から旧鐵道省部門が分離独立し、日本国有鉄道が成立した事から、該完成品受領は日本国有鉄道が行った。<br />運輸省鐵道総局時代は4年11日間しか存在せず、橋梁構造物で該官庁名称を使用し残存するのは全国でも稀な存在である。<br /><br />浜松市東区龍光町2<br />東海道本線天竜川駅 徒歩12分

    豊田町-天竜川間



    安間(あんま)架道橋
    下り線用 鐵道院架橋
    上り線用 運輸省架橋
    該架道橋は、上下共に鐵道院が架替2代目の橋桁だったが、昭和20年(1945年)5月19日の空襲に依り、上り線用橋桁は機銃掃射を受け、橋桁本体に損傷が発生した。
    運輸省(うんゆしょう)は、運輸通信省から旧逓信省部門を分離独立させ、昭和20年(1945年)5月19日成立の官庁であり、即ち、該官庁成立当日の空襲で被災した。
    旧鐵道省は、運輸省鐵道総局が管理監督し、該橋桁は応急復旧され使用されたが、長期継続使用は困難と判定され、運輸省鉄道総局が、昭和24年(1949年)4月に日本橋梁株式会社に発注した物だったが、同年6月1日に運輸省から旧鐵道省部門が分離独立し、日本国有鉄道が成立した事から、該完成品受領は日本国有鉄道が行った。
    運輸省鐵道総局時代は4年11日間しか存在せず、橋梁構造物で該官庁名称を使用し残存するのは全国でも稀な存在である。

    浜松市東区龍光町2
    東海道本線天竜川駅 徒歩12分

  • 豊田町-天竜川間<br /><br /><br /><br />安間架道橋<br />上り線用橋桁<br />銘板<br />運輸省<br />昭和24年 製造番号第2204号<br />日本鋼管株式會社鶴見製作所製作<br />運輸省管理時代は昭和20年(1945年)5月19日〜昭和24年(1949年)6月1日の4年弱しか無く、構造物に於ける製造銘板に運輸省記載は珍しい。<br /><br />浜松市東区龍光町2<br />東海道本線天竜川駅 徒歩12分

    豊田町-天竜川間



    安間架道橋
    上り線用橋桁
    銘板
    運輸省
    昭和24年 製造番号第2204号
    日本鋼管株式會社鶴見製作所製作
    運輸省管理時代は昭和20年(1945年)5月19日〜昭和24年(1949年)6月1日の4年弱しか無く、構造物に於ける製造銘板に運輸省記載は珍しい。

    浜松市東区龍光町2
    東海道本線天竜川駅 徒歩12分

  • 豊田町-天竜川間<br /><br /><br /><br />安間架道橋<br />下り線用橋桁<br />銘板<br />大正参年<br />汽車製造株式會社組立<br />鐵道院<br />US STEEL PRODUCT CO<br />INTERNATIONAL STEEL WORKS<br />鋼材を米国から輸入し国内に於いて組立。<br />初代橋梁架替時に更改。<br />米国は第1次世界大戦の影響を受け、大正5年(1916年)8月1日附で鋼鉄海外輸出を全面禁止した為に、米國輸入鋼材活用橋桁としては最末期品。<br /><br />浜松市東区龍光町2<br />東海道本線天竜川駅 徒歩12分

    豊田町-天竜川間



    安間架道橋
    下り線用橋桁
    銘板
    大正参年
    汽車製造株式會社組立
    鐵道院
    US STEEL PRODUCT CO
    INTERNATIONAL STEEL WORKS
    鋼材を米国から輸入し国内に於いて組立。
    初代橋梁架替時に更改。
    米国は第1次世界大戦の影響を受け、大正5年(1916年)8月1日附で鋼鉄海外輸出を全面禁止した為に、米國輸入鋼材活用橋桁としては最末期品。

    浜松市東区龍光町2
    東海道本線天竜川駅 徒歩12分

  • 豊田町-天竜川間<br /><br /><br /><br />安間橋梁<br />初代橋台<br />煉瓦積構造<br />英國積式<br />東海道本線下り線橋梁橋台として天龍川橋梁橋脚嵩上時に使用停止され、その後は貨物専用線橋梁として使用されたが、貨物取扱廃止時に橋桁は撤去され橋台が残存。<br /><br />浜松市東区龍光町2<br />東海道本線天竜川駅 徒歩12分

    豊田町-天竜川間



    安間橋梁
    初代橋台
    煉瓦積構造
    英國積式
    東海道本線下り線橋梁橋台として天龍川橋梁橋脚嵩上時に使用停止され、その後は貨物専用線橋梁として使用されたが、貨物取扱廃止時に橋桁は撤去され橋台が残存。

    浜松市東区龍光町2
    東海道本線天竜川駅 徒歩12分

  • 天竜川(てんりゅうがわ)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治25年(1892年)9月20日開設の天龍川貨物取扱所が嚆矢である。<br />即ち、地元川舟輸送業者 金原明善(きんばら めいぜん)(天保3年(1832年)7月4日〜大正12年(1923年)1月14日)の請願に依り開設された。<br />仮設貨物駅時代、明治31年(1898年)1月、及び、2月に於ける鐵道納金は全国第7位で、隣接駅濱濱松駅が第8位だった事を加味すると、当時の該駅が莫大な収益が存在した事を示している。<br />同年7月10日附を以って天龍川停車場に格上され旅客扱を開始したが、寧ろ自然の成行きと称するべきだった。<br />明治38年(1905年)12月20日に天龍川-濱松間が複線化されたが、該区間が複線化される以前より該区間列車が多数運転されている事実から、複線化は遅きに失した感が無きにしも非ずだった。<br />該駅は、当初は貨物取扱所として開業したが、平成5年(1993年)3月15日附で該駅発着の貨物列車が廃止され、更に、平成18年(2006年)4月1日附で、該駅付属専用線が廃止され、貨物取扱が完全に廃止された。<br /><br />

    天竜川(てんりゅうがわ)駅



    該駅は、明治25年(1892年)9月20日開設の天龍川貨物取扱所が嚆矢である。
    即ち、地元川舟輸送業者 金原明善(きんばら めいぜん)(天保3年(1832年)7月4日〜大正12年(1923年)1月14日)の請願に依り開設された。
    仮設貨物駅時代、明治31年(1898年)1月、及び、2月に於ける鐵道納金は全国第7位で、隣接駅濱濱松駅が第8位だった事を加味すると、当時の該駅が莫大な収益が存在した事を示している。
    同年7月10日附を以って天龍川停車場に格上され旅客扱を開始したが、寧ろ自然の成行きと称するべきだった。
    明治38年(1905年)12月20日に天龍川-濱松間が複線化されたが、該区間が複線化される以前より該区間列車が多数運転されている事実から、複線化は遅きに失した感が無きにしも非ずだった。
    該駅は、当初は貨物取扱所として開業したが、平成5年(1993年)3月15日附で該駅発着の貨物列車が廃止され、更に、平成18年(2006年)4月1日附で、該駅付属専用線が廃止され、貨物取扱が完全に廃止された。

    天竜川駅

  • 天竜川駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />平成18年(2006年)4月1日附で貨物取扱が全廃され、現在では純然たる旅客専用駅である。

    天竜川駅



    駅本屋
    平成18年(2006年)4月1日附で貨物取扱が全廃され、現在では純然たる旅客専用駅である。

    天竜川駅

  • 天竜川駅<br /><br /><br /><br />旧貨物取扱所跡<br />現在は市営中駐車場

    天竜川駅



    旧貨物取扱所跡
    現在は市営中駐車場

    天竜川駅

  • 天竜川駅<br /><br /><br /><br />駅構内

    天竜川駅



    駅構内

    天竜川駅

  • 天竜川-浜松間<br /><br /><br /><br />小土橋川(こどばしがわ)橋梁<br />全景<br />明治22年(1889年)4月16日開業時は、純然たる河川橋梁だった。<br />昭和20年(1945年)4月30日の空襲で上り線側橋桁に機銃掃射を受け貫通孔が生じた。<br />戦後、PCコンクリート桁に架替が実施された。<br /><br />浜松市東区和田町325<br />東海道本線浜松駅北口 遠鉄バス子安停留所降車 徒歩12分

    天竜川-浜松間



    小土橋川(こどばしがわ)橋梁
    全景
    明治22年(1889年)4月16日開業時は、純然たる河川橋梁だった。
    昭和20年(1945年)4月30日の空襲で上り線側橋桁に機銃掃射を受け貫通孔が生じた。
    戦後、PCコンクリート桁に架替が実施された。

    浜松市東区和田町325
    東海道本線浜松駅北口 遠鉄バス子安停留所降車 徒歩12分

  • 天竜川-浜松間<br /><br /><br /><br />小土橋川橋梁<br />開通当時の橋台が現存。<br /><br />浜松市東区和田町325<br />東海道本線浜松駅北口 遠鉄バス子安停留所降車 徒歩12分

    天竜川-浜松間



    小土橋川橋梁
    開通当時の橋台が現存。

    浜松市東区和田町325
    東海道本線浜松駅北口 遠鉄バス子安停留所降車 徒歩12分

  • 天竜川-浜松間<br /><br /><br /><br />小土橋川橋梁<br />戦後、河川改修工事に依り該河川は廃止され、地元生活通路に転換された。<br /><br />浜松市東区和田町325<br />東海道本線浜松駅北口 遠鉄バス子安停留所降車 徒歩12分

    天竜川-浜松間



    小土橋川橋梁
    戦後、河川改修工事に依り該河川は廃止され、地元生活通路に転換された。

    浜松市東区和田町325
    東海道本線浜松駅北口 遠鉄バス子安停留所降車 徒歩12分

  • 天竜川-浜松間<br /><br /><br /><br />子安(こやす)踏切付近<br />浜松駅高架線起点<br />神戸方俯瞰<br /><br />浜松市東区子安町335<br />東海道本線浜松駅北口 遠鉄バス子安停留所降車 徒歩11分

    天竜川-浜松間



    子安(こやす)踏切付近
    浜松駅高架線起点
    神戸方俯瞰

    浜松市東区子安町335
    東海道本線浜松駅北口 遠鉄バス子安停留所降車 徒歩11分

  • 天竜川-浜松間<br /><br /><br /><br />芳川(ほうかわ)橋梁<br />高架化以前の痕跡は、神戸方橋台が残存するのみ。<br /><br />浜松市東区植松83<br />東海道本線浜松駅北口 遠鉄バス子安停留所降車 徒歩10分

    天竜川-浜松間



    芳川(ほうかわ)橋梁
    高架化以前の痕跡は、神戸方橋台が残存するのみ。

    浜松市東区植松83
    東海道本線浜松駅北口 遠鉄バス子安停留所降車 徒歩10分

  • 天竜川-浜松間<br /><br /><br /><br />芳川橋梁<br />地平線時代の橋台跡。<br />橋台が開通当時の煉瓦構造と異なりコンクリート構造なのは、東南海大地震(とうなんかい おおじしん)(昭和19年(1944年)12月7日)発生時に損傷した際の修復痕。<br /><br />浜松市東区植松町83<br />東海道本線浜松駅北口 遠鉄バス子安停留所降車 徒歩10分

    天竜川-浜松間



    芳川橋梁
    地平線時代の橋台跡。
    橋台が開通当時の煉瓦構造と異なりコンクリート構造なのは、東南海大地震(とうなんかい おおじしん)(昭和19年(1944年)12月7日)発生時に損傷した際の修復痕。

    浜松市東区植松町83
    東海道本線浜松駅北口 遠鉄バス子安停留所降車 徒歩10分

  • 浜松(はままつ)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />該駅は、明治21年(1888年)9月1日開業である。<br />即ち、大府-濱松間延長の終端駅として設置された。<br />当初計画では、該駅は、龍禅寺(りゅうぜんじ)付近、現在の浜松市中区旭町付近に設置を予定していた。<br />然るに、明治10年代半ばともなると、鉄道に対する偏見認識も変化を見せ、当時の濱松にとって鉄道開通は必要不可欠の存在とされた事から、該計画を知った濱松に於ける住民代表達は、地元出身で帝國海軍主計総監 長谷川貞雄(はせがわ さだお)(弘化2年(1845年)5月20日〜明治38年(1905年)2月8日)を通じ、時の政府に対し町中心至近地への停車場設置を要請し、此の為に、天龍川方面から高塚に対し、線路向が「へ」の字状に敷設された為に、該駅一帯高架化工事完了まで地上線として残存した線路が該駅構内に於いて急曲線を描き、該駅通過列車は徐行しながら運転する状態が継続した。<br />開業時に建設された初代駅本屋は、改良を重ね使用されていたが、手狭になった事から、改築される事になり、大正15年(1926年)12月12日附で第2代目駅本屋が竣工した。<br />更に、該駅南方面住民達から、駅舎改札設置要請が度々なされた事から、昭和5年(1930年)4月15日附で南口駅舎が設置された。<br />昭和15年(1940年)以降に於ける濱松は、山葉楽器(現 ヤマハ)、河合楽器、鈴木自動車(現 スズキ)等々の各企業が、製造内容を陸海軍の要請に基き軍事品に転換させ、軍用品を製造製作する一方、鐵道省濱松工機部(現 東海旅客鉄道浜松工場)は、中部地域配置の蒸気機関車検収を一手に取扱い、更に、蒸気機関車製造も開始していた事から、大東亜戦争遂行に於ける軍需品主要生産地と位置付けられ、聯合国側から昭和19年(1944年)末頃より、度重なる空襲や戦艦を主体とした艦砲射撃に依り、該駅構内諸設備は全滅に瀕した。<br />終戦後、戦禍に依り全滅した該駅諸設備を再興すべく、仮建築の駅本屋を経て昭和21年(1946年)10月に駅本屋建築を開始し、翌昭和22年(1947年)5月に竣工したのが第4代目駅本屋である。<br />その後、該駅は、東海道本線が地上線だった事から、静岡市と共に浜松市が東西に鉄道gは縦貫する事で分断された形態になり、殊に、該状態が交通渋滞の要因ともなっていた事から、付近一帯を高架化する事に決定された。<br />取敢えず、貨物取扱を独立させるべく、昭和46年(1971年)4月26日附で西浜松(にしはままつ)駅が開業した。<br />然るに、問題となったのは、当時の遠州鉄道(えんしゅう てつどう)本線は、該鉄道馬込駅に於いて連絡線を使用し国鉄との貨車中継を実施し、特に、遠州鉄道は車輌全般検査を名古屋鉄道(なごや てつどう)鳴海工場に委託していた為に、連絡線を廃止する事は該社本線の死活問題に発展する重大課題だった事から、昭和51年(1979年)3月31日まで継続して連絡線が使用された。<br />その後、電車回送輸送は、西鹿島駅から二俣線(現 天竜浜名湖鉄道天浜線)を経由させる事に決着した為に、該連絡線を廃止させる事が可能になった。<br />該駅付近高架化工事は下り線、次いで、上り線の順位で竣工し、終戦直後に新築した駅本屋もビル化される事になり、昭和54年(1979年)10月16日に竣工したのが現行第5代目駅本屋である。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/hamamatsu/index.html

    浜松(はままつ)駅



    駅本屋
    該駅は、明治21年(1888年)9月1日開業である。
    即ち、大府-濱松間延長の終端駅として設置された。
    当初計画では、該駅は、龍禅寺(りゅうぜんじ)付近、現在の浜松市中区旭町付近に設置を予定していた。
    然るに、明治10年代半ばともなると、鉄道に対する偏見認識も変化を見せ、当時の濱松にとって鉄道開通は必要不可欠の存在とされた事から、該計画を知った濱松に於ける住民代表達は、地元出身で帝國海軍主計総監 長谷川貞雄(はせがわ さだお)(弘化2年(1845年)5月20日〜明治38年(1905年)2月8日)を通じ、時の政府に対し町中心至近地への停車場設置を要請し、此の為に、天龍川方面から高塚に対し、線路向が「へ」の字状に敷設された為に、該駅一帯高架化工事完了まで地上線として残存した線路が該駅構内に於いて急曲線を描き、該駅通過列車は徐行しながら運転する状態が継続した。
    開業時に建設された初代駅本屋は、改良を重ね使用されていたが、手狭になった事から、改築される事になり、大正15年(1926年)12月12日附で第2代目駅本屋が竣工した。
    更に、該駅南方面住民達から、駅舎改札設置要請が度々なされた事から、昭和5年(1930年)4月15日附で南口駅舎が設置された。
    昭和15年(1940年)以降に於ける濱松は、山葉楽器(現 ヤマハ)、河合楽器、鈴木自動車(現 スズキ)等々の各企業が、製造内容を陸海軍の要請に基き軍事品に転換させ、軍用品を製造製作する一方、鐵道省濱松工機部(現 東海旅客鉄道浜松工場)は、中部地域配置の蒸気機関車検収を一手に取扱い、更に、蒸気機関車製造も開始していた事から、大東亜戦争遂行に於ける軍需品主要生産地と位置付けられ、聯合国側から昭和19年(1944年)末頃より、度重なる空襲や戦艦を主体とした艦砲射撃に依り、該駅構内諸設備は全滅に瀕した。
    終戦後、戦禍に依り全滅した該駅諸設備を再興すべく、仮建築の駅本屋を経て昭和21年(1946年)10月に駅本屋建築を開始し、翌昭和22年(1947年)5月に竣工したのが第4代目駅本屋である。
    その後、該駅は、東海道本線が地上線だった事から、静岡市と共に浜松市が東西に鉄道gは縦貫する事で分断された形態になり、殊に、該状態が交通渋滞の要因ともなっていた事から、付近一帯を高架化する事に決定された。
    取敢えず、貨物取扱を独立させるべく、昭和46年(1971年)4月26日附で西浜松(にしはままつ)駅が開業した。
    然るに、問題となったのは、当時の遠州鉄道(えんしゅう てつどう)本線は、該鉄道馬込駅に於いて連絡線を使用し国鉄との貨車中継を実施し、特に、遠州鉄道は車輌全般検査を名古屋鉄道(なごや てつどう)鳴海工場に委託していた為に、連絡線を廃止する事は該社本線の死活問題に発展する重大課題だった事から、昭和51年(1979年)3月31日まで継続して連絡線が使用された。
    その後、電車回送輸送は、西鹿島駅から二俣線(現 天竜浜名湖鉄道天浜線)を経由させる事に決着した為に、該連絡線を廃止させる事が可能になった。
    該駅付近高架化工事は下り線、次いで、上り線の順位で竣工し、終戦直後に新築した駅本屋もビル化される事になり、昭和54年(1979年)10月16日に竣工したのが現行第5代目駅本屋である。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/hamamatsu/index.html

    浜松駅

  • 浜松駅<br /><br /><br /><br />北口バスターミナル<br />写真バス停車位置に旧駅本屋が存在した。

    浜松駅



    北口バスターミナル
    写真バス停車位置に旧駅本屋が存在した。

    浜松駅

  • 浜松駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />昭和54年(1979年)10月16日に在来線高架化竣工時は、在来線に東京発着の11両編成普通列車や客車寝台特急列車が複数存在していた為に、ホームも長距離様式を必要としたが、該駅に於いて、現在では此れらの列車は全滅し、僅かに、電車寝台列車1往復の為に使用されるに過ぎず、それ故、施設全体が持余され気味な感は否めない。

    浜松駅



    駅構内
    昭和54年(1979年)10月16日に在来線高架化竣工時は、在来線に東京発着の11両編成普通列車や客車寝台特急列車が複数存在していた為に、ホームも長距離様式を必要としたが、該駅に於いて、現在では此れらの列車は全滅し、僅かに、電車寝台列車1往復の為に使用されるに過ぎず、それ故、施設全体が持余され気味な感は否めない。

    浜松駅

  • 浜松駅<br /><br /><br /><br />南口駅舎<br />該口開設は、昭和5年(1930年)4月15日附である。

    浜松駅



    南口駅舎
    該口開設は、昭和5年(1930年)4月15日附である。

    浜松駅

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この旅行記へのコメント (4)

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  • sirokuma123さん 2022/05/17 23:41:05
    フォローありがとうございます 
    こんばんは 横浜臨海公園さん

    旅行記の内容の充実度が凄いです。
    レベルが違いすぎて、とても追いつけそうもありませんが、読んでくれた方が現地に行かれた時に少しでも思い出してもらえるように頑張ってみます!

    今は秋田に来ています。お天気も良く気温も過ごしやすいので、10泊くらいかけてのんびり散策したいと思っています。

    引き続きよろしくお願いいたします。

    sirokuma133

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2022/05/19 12:36:30
    拝復
    sirokuma133さま、こんにちは。

    懇切なメッセージを賜りまして、誠に有難うございました。
    小生、旅行記作成では資料として活用可能な範囲に仕上げる様に心掛けております。
    小生こそ、今後とも何卒宜敷くお願い申します。



    横浜臨海公園
  • 三昧さん 2019/07/03 11:40:13
    勉強になりました
    今日は。
    磐田とか豊田町辺りは、生活範囲なので そこそこ知ってるつもりでしたが、知らない事ばかりで勉強になりました。
    って言うか、ここまで知ってる横浜臨海公園にドン引き状態の三昧です。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2019/07/04 17:14:48
    拝復
    三昧さま、こんにちは。


    拙稿に投票と掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    資料精査だけでは無く、地図を基に現地を訪れると、資料に現れない現実が見えてくる事が多数ございます。

    今後とも何卒宜敷くお願い申します。



    横浜臨海公園

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