平塚・大磯旅行記(ブログ) 一覧に戻る
該区間は、明治20年(1887年)7月11日開通である。<br />該区間内途中停車場として 大磯(おおいそ)驛 が設置された。<br /><br />該区間内は大規模橋梁架橋工事、及び、隧道設置工事こそ発生しなかったが、数箇所に亙る緩谷渡河を要する為に中規模築堤工事が発生した。<br /><br />國府津では、内閣鐵道局が鉄道用地使用理由として同年6月18日附で該駅停車場設置予定地裏側に存在する蜜柑畑所有者の飯島善助、及び、同年9月に石塚伊右衛門他計14名より仮借上したが、最終的に鉄道用地不使用が決定した事で借地中止となり、該地は翌明治21年(1888年)4月に所有者に対し返地されたが、蜜柑木は肥料を与えず放置状態だった事から病虫害が原因で該蜜柑畑は全滅し、該土地所有者は主収入源を喪失し困窮状態となった。<br /><br />國府津驛は、明治22年(1889年)2月1日附で國府津-御殿場-沼津-静岡間延長開通に至る約1年7箇月間まで終点たるの地位に在り、該区間延長建設資材輸送拠点であり、明治20年(1887年)10月27日附で豆相(とうそう)汽船が國府津湊-熱海間に汽船運航を開始し、更に、翌明治21年(1888年)10月1日附で小田原馬車鐵道が國府津停車場前-小田原-湯本旭橋間12.9kmを開業した事で、國府津驛前は小田原、箱根、熱海地域への乗換拠点として活気を帯び急速に発展を見た。<br /><br /><br />当初、内閣鐵道局は該区間内途中停車場設置計画を有していなかった。<br />然るに、鉄道敷設工事着工直前たる明治19年(1886年)10月に、中郡大磯村願人総代として、宮代謙吉、鈴木佐平、川崎甚五郎3名連名に依り、該村への駅設置に関する請願書が提出され、此れに対し、内閣鐵道局は停車場設置に関する必要地無償提供、及び、当該不動産関係は全額地元負担とする条件に依り駅設置が認められ大磯駅設置が決定された。<br /><br />大磯駅開業当時は、該駅付近は人家が全く存在しない無人地であり、寧ろ、大磯漁港で水揚げされた鮮魚荷発送地たるの印象が強かった。<br /><br /><br />大磯が俄かに脚光を浴びたのは海水浴場開設に依る知名度向上が原因である。<br /><br />大東亜戦争(昭和16年(1941年)12月8日~昭和20年(1945年)8月15日)終結直後まで、我が国に於ける病死筆頭原因は結核だった。<br />当時、結核罹患は即ち死に直結する病気であり、該戦争終結直後、主として米国から特効薬ペニシリンが輸入接種される迄、結核患者は栄養を採り安静に過ごす以外、治療らしい治療法は確立していなかった。<br /><br />初代陸軍軍医総監 松本良順(まつもと りょうじゅん)(天保3年(1832年)7月13日~明治40年(1907年)3月12日)(明治6年(1873年)5月20日~明治12年(1879年)10月15日在任)は、日本人の体形体格が欧米人と比較し著しく劣り、栄養摂取に於いても甚だ低い事から、健康増進、体力向上の観点から海水浴を奨励した。<br /><br />松本は海水浴適格地として全国10箇所を選定し、該選定に基き、明治18年(1885年)8月に大磯に海水浴場が開設された。<br /><br />但し、各海水浴場開設当時は、我が国に於いて海水浴=運動たるの概念は薄く、一般からは海水浴とは海水身体を浸る湯治の異種と解され、事実、当時は海で泳ぐ者は限定され、海水浴場に於いて西洋式泳法で泳いでいると、寧ろ一般人からは奇異批難の視線が向けられた。<br /><br />松本の提案に依り、翌明治19年(1884年)に、宿泊兼病気療養を目的とした 旅館 壽龍館 が開業した。<br /><br />該状況下に於ける大磯駅開業だった。<br /><br />松本は大磯が風光明媚で気候温暖地たる事を世に知らしめる為に、松本自身が大磯に別荘を建てた事で、西園寺公望(さいおんじ きんもち)(嘉永2年(1849年)12月6日~昭和15年(1940年)11月24日)、鍋島直大(なべしま なおひろ)(弘化3年(1846年)10月17日~大正10年(1921年)6月19日)、伊藤博文(いとう ひろぶみ)(天保12年(1841年)10月16日~明治42年(1909年)10月26日)、山縣有朋(やまがた ありとも)(天保9年(1838年)6月14日~大正11年(1922年)2月7日)、樺山資紀(かばやま すけゆき)(天保8年(1837年)12月9日~大正11年(1922年)2月8日)等々、主として当時の華族富裕層が次々と別荘を開設し、該村は寒魚村から一転し、東京横濱日帰可能な高級別荘地として脚光を浴びる事となった。<br /><br /><br />東華軒(とうかけん)は、小田原駅を中心に駅弁販売を展開する明治21年(1888年)創業の老舗弁当販売会社である。<br />該社創業当時は本社を國府津驛前に設置し、後に運転開始された 上り特別急行 燕 号を除き上下全列車が停車した事から、該線に於いて沼津驛の駅弁販売会社 桃中軒(とうちゅうけん)と共に駅弁販売量が他駅より桁違いに多かった。<br />熱海経由線全線開通に伴い昭和9年(1934年)12月1日0時を以て、該驛に於ける機関車交換が不要となり普通急行列車も通過する様になった事から、該以降は販売拠点が徐々に小田原駅へと移行した。<br />現在も販売される、小鯛押し寿司は明治36年(1903年)販売開始、鯛めしは明治40年(1907年)販売開始、サンドイッチは明治45年(1912年)販売開始である。<br /><br /><br />該区間は、明治32年(1899年)8月5日に複線化された。<br /><br /><br />同年10月7日に地震発生に伴い、神奈川縣西部地域、及び、静岡縣東部地域に津波が到来し、該線大磯-國府津間、及び、沼津-岩淵(現 富士川)間に於いて、線路冠水、及び、軌条変状発生の為に同月15日まで列車運転が不可能になった。<br /><br /><br />鐵道唱歌<br />第12番<br />國府津おるれば馬車ありて<br />(こうづ おるれば ばしゃありて)<br />酒匂小田原とおからず<br />(さかわ おだわら とおからず)<br />箱根八里の山道も<br />(はこねはちりの やまみちも)<br />あれ見よ雲の間より♪<br />(あれ みよ くものあいだより)<br />初版発売時は馬車鐵道だったが、明治33年(1900年)3月21日附で電車運転に切換られた為に、再販版以降では 電車あり に改定された。<br /><br /><br />第124代 昭和(しょうわ)天皇(明治34年(1901年)4月29日~昭和64年(1989年)1月7日)(昭和元年(1926年)12月25日~昭和64年(1989年)1月7日御在位)は、御誕生と同時に、第122代 明治(めいじ)天皇(嘉永5年(1852年)11月3日~明治45年(1912年)7月29日)(慶應3年(1867年)2月13日~明治45年(1912年)7月29日御在位)の命に依る皇孫養育方針に鑑み、枢密院顧問官 川村純義(かわむら すみよし)(天保7年(1836年)12月18日~明治37年(1905年)8月12日)に依る直接養育が決定され、幼少期に於ける数年間、東京市麻布狸穴の川村邸に於いて生活を送られたが、避寒を目的として、同年10月23日より翌明治35年(1902年)3月13日迄、大磯に滞在された。<br />然し、川村家は大磯に別荘を所有していなかった事から、鍋島直大別邸滞在が決定した。<br />昭和天皇が大磯に於いて生活されたのは生涯此の1度に限られ、翌明治35年(1902年)以降は静岡沼津の川村別邸に滞在される様になられた。<br /><br /><br />予てより中郡要村より請願が在った駅開設に対し、地元が必要不動産全額負担を条件に明治35年(1902年)4月15日附で二宮(にのみや)驛が開設された。<br /><br /><br />同年9月28日に関東地方南東部を通過した超大型台風は上陸時に高潮と重なり、更に猛烈な風波が原因で相模湾内部に大規模共振現象が起動した事で大海嘯発生に発展し、該海嘯に依り大磯驛、及び、該線大磯-國府津間に冠水被害が発生し同年10月2日まで不通になった。<br />今回の該大海嘯は特に該縣下足柄下郡地域に於いて著しい被害が発生し、被害家屋計3500戸、内倒壊家屋500戸、内浸水家屋計1000戸に及び、特に小田原町(現 小田原市)中心部では海嘯襲来時に人馬流さるるの重大被害が発生した。<br />該事態を重視した政府は、翌29日に 第6代神奈川縣知事 周布公平(すふ きみのり)(嘉永3年(1851年)1月7日~大正10年(1921年)2月15日)(明治33年(1900年)6月10日~明治45年(1912年)1月9日在任)を被災地を視察し内務省に報告したが、該特異自然災害に鑑み、同年10月6日に 第11代第Ⅰ次内閣総理大臣 桂 太郎(かつら たろう)(弘化4年(1848年)1月4日~大正2年(1913年)10月10日)内閣(明治34年(1901年)6月2日~明治39年(1906年)1月7日組閣)は、第22代内務大臣 内海忠勝(うつみ ただかつ)(天保14年(1843年)9月12日~明治38年(1905年)1月20日(明治34年(1901年)6月2日~明治36年(1903年)10月12日在任)自身が被災地を視察し被害実態の把握に努めた。<br /><br /><br />明治36年(1903年)7月8日に近畿、東海、北陸地方に大水害を発生させた大型台風は、該線初代花水川(はなみずがわ)橋梁橋脚が傾斜被害が発生し、同月13日に単線運転が可能になったが同月17日に再不通になり、同月21日附で仮線設置に依り応急工事が完了したが完全復旧は日露戦争後の明治38年(1905年)である。<br /><br /><br />県央秦野地区産出の煙草葉輸送の為に、明治39年(1906年)8月1日附で湘南馬車鐵道が二宮-秦野間が開通したが、軽便規格だった事から二宮驛で搭載品積換を要し、狭軌規格であれば貨車乗入が可能だった事から、後に小田原急行鐵道開通と同時に業績が悪化し、昭和12年(1937年)8月25日附で全線廃止された。<br /><br /><br />該区間は、大正10年(1921年)5月1日附で従来の双信閉塞式から自動閉塞式に変更となり、米ウェスティングハウス社製の3動型腕木式自動信号機が植柱された。<br /><br /><br />関東大震災では震源地が至近だった事で該区間内に甚大被害が発生した。<br /><br />大磯驛<br /> 驛本屋、貨物保管庫 全潰<br /> 驛長事務室、貨物取扱ホーム上屋 倒潰<br /> 旅客ホーム上屋、同待合室、職員浴場 半壊<br />   旅客1名圧死<br /><br />二宮驛<br /> 驛本屋 大破傾斜同月5日倒壊<br /> 旅客ホーム事務室、同信号所全潰<br /> 職員浴場 半壊<br /><br />國府津驛<br /> 驛本屋 半壊<br /> 旅客ホーム両端陥没 同ホーム上屋沈下<br /> 煉瓦燈庫 全壊<br /> 職員官舎一部 倒壊<br /><br />該区間内被災列車<br />平塚-大磯間<br />濱松発東京行<br />上り旅客普通第74列車<br />18900型蒸気機関車 18936(沼津機関庫所属)牽引<br /> 客車11両編成<br />該列車は東京起点51.9km地点付近を走行中、該地震に遭遇し、該列車牽引蒸気機関車は脱線転覆し、機関車本体、及び、炭水車は分離し、炭水車台枠屈曲、スプリングギア屈曲、炭水車連結器屈曲、等々、被害が発生。<br />客車は10~8両目が脱線転覆、7両目2等車ホロに6両目3等車ホハが突込粉砕状態、5両目以降は無事。<br />旅客8名即死、旅客39名職員1名重傷、旅客5名軽傷。<br />即死者は全員2等ホロ乗客。<br />該列車脱線転覆車輌群は、同月13日に復線復旧。<br /><br />二宮-國府津間<br />下り貨物第151列車<br />9600型蒸気機関車(高島機関庫所属)牽引<br />築堤下脱線転覆<br />機関手 機関助手 即死<br /><br />機関車被害<br />二宮驛構内<br />8620型蒸気機関車 58687(國府津機関庫所属) 脱線<br />國府津驛構内<br /> 600型蒸気機関車   662(國府津機関庫所属) 脱線転覆 左サドルタンク亀裂 前部左側バッファー脱落<br />600型タンク式蒸気機関車は明治30年(1897年)より英國ナスミス・ウィルソン社(NASMIS WILSON & Co.Ltd)に於いて製造された輸入機で、逓信省鐵道作業局のみならず当時の主要私鐵で採用導入されたが、662号機は逓信省鐵道作業局発注機である。<br /><br />平塚驛給水塔<br />平塚-大磯間復旧工事列車、及び、馬入川西岸-國府津間普通列車4往復に対し、線路状態不安定から5500型蒸気機関車が使用されたが、該使用機関車に対する給水に鑑み、当初は平塚驛横井戸から手動ポンプに依り給水を行ったが、列車本数増加に依り手動ポンプ給水では困難になった事から、鐵道省は帝國海軍平塚火薬工廠と交渉し、同月11日該敷地内より給水を行う事になったが、該工廠専用線内橋梁前後軌条13本に不良箇所が発見された事から急遽修復を実施し、翌12日より同月20日迄は該工廠に於いて給水を行った。<br /><br />國府津機関庫給水塔<br />該機関庫給水塔は、水源地付近は掘割、該機関庫内は鉄管を使用していたが、地震発生と同時に該水路一部は崩壊し、鉄管接合部に亀裂発生の為に該鉄管内部に土砂が混入し使用不可能になった。<br />同月10日に水路を開拓し土砂排出と共に鉄管を再接合し同月15日に再給水可能となった。<br /><br />復旧は、<br /> 平塚-大磯間    同月7日着手同月 9日単線開通 18日複線復旧<br /> 大磯-二宮間    同月5日着手同月12日単線開通 20日複線復旧<br /> 二宮-國府津間   同月6日着手同月11日単線開通 13日複線復旧<br />該区間復旧に鑑み、東京鐡道局水戸保線事務所応援隊工手180名は同月4日に水戸を出発し同日茅ケ崎付近に野営し、同月8日より平塚-二宮間復旧工事に従事し、同月9日に平塚-大磯間、同月11日に大磯-二宮間単線応急復旧工事が完了し、更に、該区間複線復旧工事に従事、同月18日平塚-大磯間、同月20日大磯-二宮間複線応急復旧工事完成。<br />東京鐵道局宇都宮保線事務所応援隊工手20名は、二宮-國府津間単線復旧工事に従事し、同月11日に単線応急復旧、13日に複線応急復旧工事が完成した。<br /><br />因みに、同月13日より大磯町内各旅館、壽龍館、宮代屋、油屋、鶴屋、中村屋、角半が1名1泊40銭を条件に営業再開したが、該震災罹災者は文字通り命辛々着のみ着たまま状態の無一文者も多く、此れら旅館では該震災当該罹災者に対しては宿賃を請求せず無料で宿泊させた。<br /><br /><br />該区間は大正14年(1925年)12月13日附で直流1500V電化された。<br /><br /><br />第1次東京オリムピック大会が昭和15年(1940年)10月開催決定を受け、鐵道省は輸送効率が低い機関車牽引客車輸送を見直し、東京-小田原間運転客車列車の電車化を決定し、既成電車配置區たる田町電車區では敷地検修共に不足な為に、鐵道省は新に中郡大磯町に平塚電車區設置を決定し、該地に於いて屈曲状態だった花水川を内務省土木局に依り現流路に改修させ該地に広大な土地を入手したが、然し、日華(にっか)事変(昭和12年(1937年)7月7日~昭和16年(1941年)12月8日)拡大に伴う戦時体制強化の観点から該オリムピック大会中止が決定し該敷地は遊休地と化した。<br /><br /><br />大東亜戦争中に於ける該区間内空襲被害は、<br />昭和20年(1945年)<br />   2月17日 P51型艦載機機銃掃射<br />  7時33分 警戒警報発令<br />  8時25分 空襲警報発令<br />  8時29分 空襲開始<br />  9時45分 空襲警報解除<br /> 10時50分 警戒警報解除<br />平塚-大磯間<br />上り廣島発東京行普通第6列車<br /> 電気機関車小損<br />旅客5名死亡、20名以上重軽傷。<br /><br />2月27日 P51型艦載機機銃掃射 <br /> 國府津驛構内<br /> 貨車11両全焼<br /><br />7月16日 第20航空軍 第314航空隊 B29戦略爆撃機計129機 平塚大空襲 <br /> 23時16分 警戒警報発令<br /> 23時26分 空襲警報発令<br /> 23時32分 空襲開始<br />  1時12分 空襲警報解除<br />  2時17分 警戒警報解除<br />復旧17日12時<br />  大磯驛構内被災車輌<br />  スハ 32 509 (廣ヲカ)中破<br />  スハ 32 614 (廣ヒロ)中破<br /> 他形式番号不明車輌4両<br /> 以上、工場入場修理<br />  オロフ32  10 (廣セキ)全焼<br />  オハ 35 533 (廣ヒロ)全焼<br />  マハ 47 126 (大ヒメ)全焼<br /> 以上、昭和22年(1947年)1月14日附戦災廃車<br /><br />7月30日 <br /> 15時02分 警戒警報発令<br /> 15時06分 空襲警報発令<br /> 15時40分 空襲開始<br /> 17時04分 空襲警報解除<br /> 17時15分 警戒警報解除<br />平塚-大磯間<br />線路破壊3箇所計約80m<br />枕木損傷計30本<br />復旧31日6時<br /><br />8月 5日 P51型艦載機機銃掃射<br /> 國府津驛<br />     驛本屋機銃掃射全焼<br />      職員2名死亡<br /><br /> 8月13日 P51型艦載機機銃掃射<br />    大磯驛<br />上り大阪発東京行普通第144列車<br />   旅客職員重軽傷者数不詳。<br /><br /><br />大東亜戦争終結翌年たる昭和21年(1946年)、該区間内に於いて重大事故が2件連続発生した。<br /><br /> 5月8日2時00分頃、国府津駅構内に於いて、下り貨物第1761列車 EF10型電気機関車 EF10 5 牽引61両編成は該駅に24分遅延到着し20分遅延出発起動直後、後続 下り東京発門司行臨時第3801列車 EF57型電気機関車EF5712 牽引9両編成が追突した。<br />該追突事故に依り、下り貨物第1761列車は該編成後部車掌車は脱線大破粉砕、2~16両目貨車が脱線転覆、第3801列車牽引機関車EF5712は脱線転覆。<br />事故原因は、第3801列車機関士、及び、機関助士の居眠運転に依る停止信号冒進。<br />第1761列車後部車掌車車掌は即死、第3801列車機関車機関士、及び、機関助士が重傷。<br />追突した EF5712は廃車解体処分。<br /><br />6月18日23時53分頃、二宮駅構内に於いて下り貨物第189列車は、大磯駅に於ける該列車通過監視時に該列車3両目貨車車軸箱発煙を確認し通報を受けた為に、該駅出発信号機を停止現示とし第189列車を二宮駅に臨時停車させ当該貨車を切放すべく、該駅構内に於いて入換作業を開始したが、該駅場内信号機は停止現示の為に、後続 東京発名古屋行普通第241列車 EF5714電気機関車牽引10両編成は該信号機標示に従い停止していた処、後続 下り東京発南風崎行臨時第8019列車 EF5314電気機関車牽引10両編成が追突した。<br />該追突事故に依り、旅客第241列車3、4両目連結器破損、最後部オハフ3349は大破、第8019列車牽引機関車が脱線中破し、オハフ3349乗車中の旅客9名即死、旅客41名重軽傷を負った。<br />事故原因は、第8019列車機関士、及び、機関助士の居眠運転に依る停止信号冒進。<br />追突されたオハフ3349は、車体2/3が圧壊滅状態で廃車解体処分も当然と思われたが、台枠部分が無事だった事から、圧壊部分に車体再生工事が施工され昭和25年(1950年)9月に職用車 マヤ46 1として復旧し、スイ46 1→マイフ97 1→マロフ97 1 を経て昭和38年(1963年)2月6日附で廃車決済し車籍抹消扱されたが、廃車後も何故か解体されず常磐線隅田川客貨車区一隅に昭和63年(1988年)頃迄荒果て無残な姿を曝していた。<br /><br />昭和5年(1930年)5月14日附 同年6月15日附施行を以って 鐵道省運転規定第4号に拠り、全車貫通式制動使用列車は当該列車後部緩急車省略可能となったが、進駐軍輸送司令部は、該2件事故、及び、同年7月26日該線安土駅追突事故連続発生を重視し、運輸省鉄道総局を介し、昭和21年(1946年)9月16日附通達を以って回送列車車掌乗務省略禁止、尾燈2燈化、緊急停止時に於ける発煙筒使用等々が厳命された。<br /><br /><br />該線平塚-小田原間複々線化工事着工に伴い、該区間各駅貨物取扱業務集約化が決定され、昭和45年(1970年)5月20日附で国府津-鴨宮間に 西湘貨物(せいしょうかもつ)駅、翌昭和46年(1971年)9月25日附で平塚-大磯間に 相模貨物(さがみかもつ)駅が開業した。<br /><br /><br />該区間複々線化は、昭和54年(1979年)10月1日附である。<br />該新設線は各駅構内を除き概ね既成線海側に設置され、複々線化完成以降、新設線は旅客用、既成線は貨物用に振り分けられた。<br /><br /><br />該区間歴史的構造物は、昭和49年(1974年)4月に該区間複々線化工事着工時に殆ど破壊され現存物は寡少である。<br /><br /><br /><br /><br />表紙写真は、<br />二宮-国府津間 押切(おしきり)架道橋<br /><br /><br /><br /><br 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東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~平塚-國府津間編 明治頌歌~

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2021/06/12 - 2021/06/12

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横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

該区間は、明治20年(1887年)7月11日開通である。
該区間内途中停車場として 大磯(おおいそ)驛 が設置された。

該区間内は大規模橋梁架橋工事、及び、隧道設置工事こそ発生しなかったが、数箇所に亙る緩谷渡河を要する為に中規模築堤工事が発生した。

國府津では、内閣鐵道局が鉄道用地使用理由として同年6月18日附で該駅停車場設置予定地裏側に存在する蜜柑畑所有者の飯島善助、及び、同年9月に石塚伊右衛門他計14名より仮借上したが、最終的に鉄道用地不使用が決定した事で借地中止となり、該地は翌明治21年(1888年)4月に所有者に対し返地されたが、蜜柑木は肥料を与えず放置状態だった事から病虫害が原因で該蜜柑畑は全滅し、該土地所有者は主収入源を喪失し困窮状態となった。

國府津驛は、明治22年(1889年)2月1日附で國府津-御殿場-沼津-静岡間延長開通に至る約1年7箇月間まで終点たるの地位に在り、該区間延長建設資材輸送拠点であり、明治20年(1887年)10月27日附で豆相(とうそう)汽船が國府津湊-熱海間に汽船運航を開始し、更に、翌明治21年(1888年)10月1日附で小田原馬車鐵道が國府津停車場前-小田原-湯本旭橋間12.9kmを開業した事で、國府津驛前は小田原、箱根、熱海地域への乗換拠点として活気を帯び急速に発展を見た。


当初、内閣鐵道局は該区間内途中停車場設置計画を有していなかった。
然るに、鉄道敷設工事着工直前たる明治19年(1886年)10月に、中郡大磯村願人総代として、宮代謙吉、鈴木佐平、川崎甚五郎3名連名に依り、該村への駅設置に関する請願書が提出され、此れに対し、内閣鐵道局は停車場設置に関する必要地無償提供、及び、当該不動産関係は全額地元負担とする条件に依り駅設置が認められ大磯駅設置が決定された。

大磯駅開業当時は、該駅付近は人家が全く存在しない無人地であり、寧ろ、大磯漁港で水揚げされた鮮魚荷発送地たるの印象が強かった。


大磯が俄かに脚光を浴びたのは海水浴場開設に依る知名度向上が原因である。

大東亜戦争(昭和16年(1941年)12月8日~昭和20年(1945年)8月15日)終結直後まで、我が国に於ける病死筆頭原因は結核だった。
当時、結核罹患は即ち死に直結する病気であり、該戦争終結直後、主として米国から特効薬ペニシリンが輸入接種される迄、結核患者は栄養を採り安静に過ごす以外、治療らしい治療法は確立していなかった。

初代陸軍軍医総監 松本良順(まつもと りょうじゅん)(天保3年(1832年)7月13日~明治40年(1907年)3月12日)(明治6年(1873年)5月20日~明治12年(1879年)10月15日在任)は、日本人の体形体格が欧米人と比較し著しく劣り、栄養摂取に於いても甚だ低い事から、健康増進、体力向上の観点から海水浴を奨励した。

松本は海水浴適格地として全国10箇所を選定し、該選定に基き、明治18年(1885年)8月に大磯に海水浴場が開設された。

但し、各海水浴場開設当時は、我が国に於いて海水浴=運動たるの概念は薄く、一般からは海水浴とは海水身体を浸る湯治の異種と解され、事実、当時は海で泳ぐ者は限定され、海水浴場に於いて西洋式泳法で泳いでいると、寧ろ一般人からは奇異批難の視線が向けられた。

松本の提案に依り、翌明治19年(1884年)に、宿泊兼病気療養を目的とした 旅館 壽龍館 が開業した。

該状況下に於ける大磯駅開業だった。

松本は大磯が風光明媚で気候温暖地たる事を世に知らしめる為に、松本自身が大磯に別荘を建てた事で、西園寺公望(さいおんじ きんもち)(嘉永2年(1849年)12月6日~昭和15年(1940年)11月24日)、鍋島直大(なべしま なおひろ)(弘化3年(1846年)10月17日~大正10年(1921年)6月19日)、伊藤博文(いとう ひろぶみ)(天保12年(1841年)10月16日~明治42年(1909年)10月26日)、山縣有朋(やまがた ありとも)(天保9年(1838年)6月14日~大正11年(1922年)2月7日)、樺山資紀(かばやま すけゆき)(天保8年(1837年)12月9日~大正11年(1922年)2月8日)等々、主として当時の華族富裕層が次々と別荘を開設し、該村は寒魚村から一転し、東京横濱日帰可能な高級別荘地として脚光を浴びる事となった。


東華軒(とうかけん)は、小田原駅を中心に駅弁販売を展開する明治21年(1888年)創業の老舗弁当販売会社である。
該社創業当時は本社を國府津驛前に設置し、後に運転開始された 上り特別急行 燕 号を除き上下全列車が停車した事から、該線に於いて沼津驛の駅弁販売会社 桃中軒(とうちゅうけん)と共に駅弁販売量が他駅より桁違いに多かった。
熱海経由線全線開通に伴い昭和9年(1934年)12月1日0時を以て、該驛に於ける機関車交換が不要となり普通急行列車も通過する様になった事から、該以降は販売拠点が徐々に小田原駅へと移行した。
現在も販売される、小鯛押し寿司は明治36年(1903年)販売開始、鯛めしは明治40年(1907年)販売開始、サンドイッチは明治45年(1912年)販売開始である。


該区間は、明治32年(1899年)8月5日に複線化された。


同年10月7日に地震発生に伴い、神奈川縣西部地域、及び、静岡縣東部地域に津波が到来し、該線大磯-國府津間、及び、沼津-岩淵(現 富士川)間に於いて、線路冠水、及び、軌条変状発生の為に同月15日まで列車運転が不可能になった。


鐵道唱歌
第12番
國府津おるれば馬車ありて
(こうづ おるれば ばしゃありて)
酒匂小田原とおからず
(さかわ おだわら とおからず)
箱根八里の山道も
(はこねはちりの やまみちも)
あれ見よ雲の間より♪
(あれ みよ くものあいだより)
初版発売時は馬車鐵道だったが、明治33年(1900年)3月21日附で電車運転に切換られた為に、再販版以降では 電車あり に改定された。


第124代 昭和(しょうわ)天皇(明治34年(1901年)4月29日~昭和64年(1989年)1月7日)(昭和元年(1926年)12月25日~昭和64年(1989年)1月7日御在位)は、御誕生と同時に、第122代 明治(めいじ)天皇(嘉永5年(1852年)11月3日~明治45年(1912年)7月29日)(慶應3年(1867年)2月13日~明治45年(1912年)7月29日御在位)の命に依る皇孫養育方針に鑑み、枢密院顧問官 川村純義(かわむら すみよし)(天保7年(1836年)12月18日~明治37年(1905年)8月12日)に依る直接養育が決定され、幼少期に於ける数年間、東京市麻布狸穴の川村邸に於いて生活を送られたが、避寒を目的として、同年10月23日より翌明治35年(1902年)3月13日迄、大磯に滞在された。
然し、川村家は大磯に別荘を所有していなかった事から、鍋島直大別邸滞在が決定した。
昭和天皇が大磯に於いて生活されたのは生涯此の1度に限られ、翌明治35年(1902年)以降は静岡沼津の川村別邸に滞在される様になられた。


予てより中郡要村より請願が在った駅開設に対し、地元が必要不動産全額負担を条件に明治35年(1902年)4月15日附で二宮(にのみや)驛が開設された。


同年9月28日に関東地方南東部を通過した超大型台風は上陸時に高潮と重なり、更に猛烈な風波が原因で相模湾内部に大規模共振現象が起動した事で大海嘯発生に発展し、該海嘯に依り大磯驛、及び、該線大磯-國府津間に冠水被害が発生し同年10月2日まで不通になった。
今回の該大海嘯は特に該縣下足柄下郡地域に於いて著しい被害が発生し、被害家屋計3500戸、内倒壊家屋500戸、内浸水家屋計1000戸に及び、特に小田原町(現 小田原市)中心部では海嘯襲来時に人馬流さるるの重大被害が発生した。
該事態を重視した政府は、翌29日に 第6代神奈川縣知事 周布公平(すふ きみのり)(嘉永3年(1851年)1月7日~大正10年(1921年)2月15日)(明治33年(1900年)6月10日~明治45年(1912年)1月9日在任)を被災地を視察し内務省に報告したが、該特異自然災害に鑑み、同年10月6日に 第11代第Ⅰ次内閣総理大臣 桂 太郎(かつら たろう)(弘化4年(1848年)1月4日~大正2年(1913年)10月10日)内閣(明治34年(1901年)6月2日~明治39年(1906年)1月7日組閣)は、第22代内務大臣 内海忠勝(うつみ ただかつ)(天保14年(1843年)9月12日~明治38年(1905年)1月20日(明治34年(1901年)6月2日~明治36年(1903年)10月12日在任)自身が被災地を視察し被害実態の把握に努めた。


明治36年(1903年)7月8日に近畿、東海、北陸地方に大水害を発生させた大型台風は、該線初代花水川(はなみずがわ)橋梁橋脚が傾斜被害が発生し、同月13日に単線運転が可能になったが同月17日に再不通になり、同月21日附で仮線設置に依り応急工事が完了したが完全復旧は日露戦争後の明治38年(1905年)である。


県央秦野地区産出の煙草葉輸送の為に、明治39年(1906年)8月1日附で湘南馬車鐵道が二宮-秦野間が開通したが、軽便規格だった事から二宮驛で搭載品積換を要し、狭軌規格であれば貨車乗入が可能だった事から、後に小田原急行鐵道開通と同時に業績が悪化し、昭和12年(1937年)8月25日附で全線廃止された。


該区間は、大正10年(1921年)5月1日附で従来の双信閉塞式から自動閉塞式に変更となり、米ウェスティングハウス社製の3動型腕木式自動信号機が植柱された。


関東大震災では震源地が至近だった事で該区間内に甚大被害が発生した。

大磯驛
 驛本屋、貨物保管庫 全潰
 驛長事務室、貨物取扱ホーム上屋 倒潰
 旅客ホーム上屋、同待合室、職員浴場 半壊
  旅客1名圧死

二宮驛
 驛本屋 大破傾斜同月5日倒壊
 旅客ホーム事務室、同信号所全潰
 職員浴場 半壊

國府津驛
 驛本屋 半壊
 旅客ホーム両端陥没 同ホーム上屋沈下
 煉瓦燈庫 全壊
 職員官舎一部 倒壊

該区間内被災列車
平塚-大磯間
濱松発東京行
上り旅客普通第74列車
18900型蒸気機関車 18936(沼津機関庫所属)牽引
 客車11両編成
該列車は東京起点51.9km地点付近を走行中、該地震に遭遇し、該列車牽引蒸気機関車は脱線転覆し、機関車本体、及び、炭水車は分離し、炭水車台枠屈曲、スプリングギア屈曲、炭水車連結器屈曲、等々、被害が発生。
客車は10~8両目が脱線転覆、7両目2等車ホロに6両目3等車ホハが突込粉砕状態、5両目以降は無事。
旅客8名即死、旅客39名職員1名重傷、旅客5名軽傷。
即死者は全員2等ホロ乗客。
該列車脱線転覆車輌群は、同月13日に復線復旧。

二宮-國府津間
下り貨物第151列車
9600型蒸気機関車(高島機関庫所属)牽引
築堤下脱線転覆
機関手 機関助手 即死

機関車被害
二宮驛構内
8620型蒸気機関車 58687(國府津機関庫所属) 脱線
國府津驛構内
 600型蒸気機関車   662(國府津機関庫所属) 脱線転覆 左サドルタンク亀裂 前部左側バッファー脱落
600型タンク式蒸気機関車は明治30年(1897年)より英國ナスミス・ウィルソン社(NASMIS WILSON & Co.Ltd)に於いて製造された輸入機で、逓信省鐵道作業局のみならず当時の主要私鐵で採用導入されたが、662号機は逓信省鐵道作業局発注機である。

平塚驛給水塔
平塚-大磯間復旧工事列車、及び、馬入川西岸-國府津間普通列車4往復に対し、線路状態不安定から5500型蒸気機関車が使用されたが、該使用機関車に対する給水に鑑み、当初は平塚驛横井戸から手動ポンプに依り給水を行ったが、列車本数増加に依り手動ポンプ給水では困難になった事から、鐵道省は帝國海軍平塚火薬工廠と交渉し、同月11日該敷地内より給水を行う事になったが、該工廠専用線内橋梁前後軌条13本に不良箇所が発見された事から急遽修復を実施し、翌12日より同月20日迄は該工廠に於いて給水を行った。

國府津機関庫給水塔
該機関庫給水塔は、水源地付近は掘割、該機関庫内は鉄管を使用していたが、地震発生と同時に該水路一部は崩壊し、鉄管接合部に亀裂発生の為に該鉄管内部に土砂が混入し使用不可能になった。
同月10日に水路を開拓し土砂排出と共に鉄管を再接合し同月15日に再給水可能となった。

復旧は、
 平塚-大磯間    同月7日着手同月 9日単線開通 18日複線復旧
 大磯-二宮間    同月5日着手同月12日単線開通 20日複線復旧
 二宮-國府津間  同月6日着手同月11日単線開通 13日複線復旧
該区間復旧に鑑み、東京鐡道局水戸保線事務所応援隊工手180名は同月4日に水戸を出発し同日茅ケ崎付近に野営し、同月8日より平塚-二宮間復旧工事に従事し、同月9日に平塚-大磯間、同月11日に大磯-二宮間単線応急復旧工事が完了し、更に、該区間複線復旧工事に従事、同月18日平塚-大磯間、同月20日大磯-二宮間複線応急復旧工事完成。
東京鐵道局宇都宮保線事務所応援隊工手20名は、二宮-國府津間単線復旧工事に従事し、同月11日に単線応急復旧、13日に複線応急復旧工事が完成した。

因みに、同月13日より大磯町内各旅館、壽龍館、宮代屋、油屋、鶴屋、中村屋、角半が1名1泊40銭を条件に営業再開したが、該震災罹災者は文字通り命辛々着のみ着たまま状態の無一文者も多く、此れら旅館では該震災当該罹災者に対しては宿賃を請求せず無料で宿泊させた。


該区間は大正14年(1925年)12月13日附で直流1500V電化された。


第1次東京オリムピック大会が昭和15年(1940年)10月開催決定を受け、鐵道省は輸送効率が低い機関車牽引客車輸送を見直し、東京-小田原間運転客車列車の電車化を決定し、既成電車配置區たる田町電車區では敷地検修共に不足な為に、鐵道省は新に中郡大磯町に平塚電車區設置を決定し、該地に於いて屈曲状態だった花水川を内務省土木局に依り現流路に改修させ該地に広大な土地を入手したが、然し、日華(にっか)事変(昭和12年(1937年)7月7日~昭和16年(1941年)12月8日)拡大に伴う戦時体制強化の観点から該オリムピック大会中止が決定し該敷地は遊休地と化した。


大東亜戦争中に於ける該区間内空襲被害は、
昭和20年(1945年)
2月17日 P51型艦載機機銃掃射
  7時33分 警戒警報発令
  8時25分 空襲警報発令
  8時29分 空襲開始
  9時45分 空襲警報解除
 10時50分 警戒警報解除
平塚-大磯間
上り廣島発東京行普通第6列車
 電気機関車小損
旅客5名死亡、20名以上重軽傷。

2月27日 P51型艦載機機銃掃射 
 國府津驛構内
 貨車11両全焼

7月16日 第20航空軍 第314航空隊 B29戦略爆撃機計129機 平塚大空襲 
 23時16分 警戒警報発令
 23時26分 空襲警報発令
 23時32分 空襲開始
  1時12分 空襲警報解除
  2時17分 警戒警報解除
復旧17日12時
  大磯驛構内被災車輌
  スハ 32 509 (廣ヲカ)中破
  スハ 32 614 (廣ヒロ)中破
他形式番号不明車輌4両
 以上、工場入場修理
  オロフ32  10 (廣セキ)全焼
  オハ 35 533 (廣ヒロ)全焼
  マハ 47 126 (大ヒメ)全焼
 以上、昭和22年(1947年)1月14日附戦災廃車

7月30日 
 15時02分 警戒警報発令
 15時06分 空襲警報発令
 15時40分 空襲開始
 17時04分 空襲警報解除
 17時15分 警戒警報解除
平塚-大磯間
線路破壊3箇所計約80m
枕木損傷計30本
復旧31日6時

8月 5日 P51型艦載機機銃掃射
 國府津驛
   驛本屋機銃掃射全焼
    職員2名死亡

8月13日 P51型艦載機機銃掃射
大磯驛
上り大阪発東京行普通第144列車
   旅客職員重軽傷者数不詳。


大東亜戦争終結翌年たる昭和21年(1946年)、該区間内に於いて重大事故が2件連続発生した。

5月8日2時00分頃、国府津駅構内に於いて、下り貨物第1761列車 EF10型電気機関車 EF10 5 牽引61両編成は該駅に24分遅延到着し20分遅延出発起動直後、後続 下り東京発門司行臨時第3801列車 EF57型電気機関車EF5712 牽引9両編成が追突した。
該追突事故に依り、下り貨物第1761列車は該編成後部車掌車は脱線大破粉砕、2~16両目貨車が脱線転覆、第3801列車牽引機関車EF5712は脱線転覆。
事故原因は、第3801列車機関士、及び、機関助士の居眠運転に依る停止信号冒進。
第1761列車後部車掌車車掌は即死、第3801列車機関車機関士、及び、機関助士が重傷。
追突した EF5712は廃車解体処分。

6月18日23時53分頃、二宮駅構内に於いて下り貨物第189列車は、大磯駅に於ける該列車通過監視時に該列車3両目貨車車軸箱発煙を確認し通報を受けた為に、該駅出発信号機を停止現示とし第189列車を二宮駅に臨時停車させ当該貨車を切放すべく、該駅構内に於いて入換作業を開始したが、該駅場内信号機は停止現示の為に、後続 東京発名古屋行普通第241列車 EF5714電気機関車牽引10両編成は該信号機標示に従い停止していた処、後続 下り東京発南風崎行臨時第8019列車 EF5314電気機関車牽引10両編成が追突した。
該追突事故に依り、旅客第241列車3、4両目連結器破損、最後部オハフ3349は大破、第8019列車牽引機関車が脱線中破し、オハフ3349乗車中の旅客9名即死、旅客41名重軽傷を負った。
事故原因は、第8019列車機関士、及び、機関助士の居眠運転に依る停止信号冒進。
追突されたオハフ3349は、車体2/3が圧壊滅状態で廃車解体処分も当然と思われたが、台枠部分が無事だった事から、圧壊部分に車体再生工事が施工され昭和25年(1950年)9月に職用車 マヤ46 1として復旧し、スイ46 1→マイフ97 1→マロフ97 1 を経て昭和38年(1963年)2月6日附で廃車決済し車籍抹消扱されたが、廃車後も何故か解体されず常磐線隅田川客貨車区一隅に昭和63年(1988年)頃迄荒果て無残な姿を曝していた。

昭和5年(1930年)5月14日附 同年6月15日附施行を以って 鐵道省運転規定第4号に拠り、全車貫通式制動使用列車は当該列車後部緩急車省略可能となったが、進駐軍輸送司令部は、該2件事故、及び、同年7月26日該線安土駅追突事故連続発生を重視し、運輸省鉄道総局を介し、昭和21年(1946年)9月16日附通達を以って回送列車車掌乗務省略禁止、尾燈2燈化、緊急停止時に於ける発煙筒使用等々が厳命された。


該線平塚-小田原間複々線化工事着工に伴い、該区間各駅貨物取扱業務集約化が決定され、昭和45年(1970年)5月20日附で国府津-鴨宮間に 西湘貨物(せいしょうかもつ)駅、翌昭和46年(1971年)9月25日附で平塚-大磯間に 相模貨物(さがみかもつ)駅が開業した。


該区間複々線化は、昭和54年(1979年)10月1日附である。
該新設線は各駅構内を除き概ね既成線海側に設置され、複々線化完成以降、新設線は旅客用、既成線は貨物用に振り分けられた。


該区間歴史的構造物は、昭和49年(1974年)4月に該区間複々線化工事着工時に殆ど破壊され現存物は寡少である。




表紙写真は、
二宮-国府津間 押切(おしきり)架道橋






東海道本線歴史的痕跡探訪記
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~灘-神戸間編 大正浪漫~
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旅行の満足度
5.0
ホテル
3.5
グルメ
4.5
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 平塚(ひらつか)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治20年81887年)7月11日附開業である。<br />該駅開設当時は旧東海道筋宿場町に過ぎず旅貨共に取扱量は少なかった。<br />平塚が脚光を浴びるのは日露(にちろ)戦争(明治37年(1904年)2月4日~明治38年(1905年)9月5日)終結後に於ける海軍用火薬完全国産化の為に、当時の第3次日英同盟條約に基き、帝國海軍は同盟国英國の兵器製造企業アームストロング社に委託し、明治39年(1906年)に該社日本支社が平塚に工場を開設され、該地は帝國海軍火薬製造の拠点として俄かに脚光を浴びる様になった事から、該駅-該工場間1.1kmに専用線が敷設され貨物取扱扱量が激増した。<br />関東大震災発生で該駅施設は旅客跨線橋を除き悉く圧潰した為に、大正13年(1924年)に第2代駅本屋が建設された。<br />昭和20年(1945年)7月16日未明の平塚大空襲で当該駅本屋は焼夷弾被弾に依り全焼した。<br />昭和22年(1947年)に木造構造で第3代駅本屋が設置されたが、本来であれば戦災復興駅は民衆駅として地元資本参入が有るべき処、平塚に於ける特異な背景として、戦後流入者に依る悪辣な商売を起こした者が多数存在した事で、戦前以来の商店主達が当該戦後派連中との共同店舗営業に対し強い拒絶反応を見せた事から、民衆駅構想は敢え無く潰える事となった。<br />此の為に、日本国有鉄道は自身が駅ビル経営が可能たると判断し、現第4代相当の駅本屋を昭和48年(1973年)に建設した。<br />https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1337.html

    平塚(ひらつか)駅



    該駅は、明治20年81887年)7月11日附開業である。
    該駅開設当時は旧東海道筋宿場町に過ぎず旅貨共に取扱量は少なかった。
    平塚が脚光を浴びるのは日露(にちろ)戦争(明治37年(1904年)2月4日~明治38年(1905年)9月5日)終結後に於ける海軍用火薬完全国産化の為に、当時の第3次日英同盟條約に基き、帝國海軍は同盟国英國の兵器製造企業アームストロング社に委託し、明治39年(1906年)に該社日本支社が平塚に工場を開設され、該地は帝國海軍火薬製造の拠点として俄かに脚光を浴びる様になった事から、該駅-該工場間1.1kmに専用線が敷設され貨物取扱扱量が激増した。
    関東大震災発生で該駅施設は旅客跨線橋を除き悉く圧潰した為に、大正13年(1924年)に第2代駅本屋が建設された。
    昭和20年(1945年)7月16日未明の平塚大空襲で当該駅本屋は焼夷弾被弾に依り全焼した。
    昭和22年(1947年)に木造構造で第3代駅本屋が設置されたが、本来であれば戦災復興駅は民衆駅として地元資本参入が有るべき処、平塚に於ける特異な背景として、戦後流入者に依る悪辣な商売を起こした者が多数存在した事で、戦前以来の商店主達が当該戦後派連中との共同店舗営業に対し強い拒絶反応を見せた事から、民衆駅構想は敢え無く潰える事となった。
    此の為に、日本国有鉄道は自身が駅ビル経営が可能たると判断し、現第4代相当の駅本屋を昭和48年(1973年)に建設した。
    https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1337.html

    平塚駅

  • 平塚駅<br /><br /><br /><br />東改札口<br />土日祭日は該地に競艇場が存在開催する為に、御世辞にも柄が良い地とは言えない。

    平塚駅



    東改札口
    土日祭日は該地に競艇場が存在開催する為に、御世辞にも柄が良い地とは言えない。

    平塚駅

  • 平塚駅<br /><br /><br /><br />旧貨物取扱施設跡<br />現在の貨物線は元来は該駅貨物取扱施設跡<br />戦前は平塚海軍工廠火薬取扱。<br />戦後は横浜ゴム製品出荷に使用。

    平塚駅



    旧貨物取扱施設跡
    現在の貨物線は元来は該駅貨物取扱施設跡
    戦前は平塚海軍工廠火薬取扱。
    戦後は横浜ゴム製品出荷に使用。

    平塚駅

  • 平塚-相模貨物間<br /><br /><br /><br />乗越橋<br />平塚-小田原間複線時代に、旅客上り線支障防止の為に設置されたが、複々線化以降は東洋電機貨物専用線として使用され該専用線廃止に伴い、当該乗越橋は廃止された。

    平塚-相模貨物間



    乗越橋
    平塚-小田原間複線時代に、旅客上り線支障防止の為に設置されたが、複々線化以降は東洋電機貨物専用線として使用され該専用線廃止に伴い、当該乗越橋は廃止された。

  • 平塚-相模貨物間<br /><br /><br /><br />乗越橋<br />神戸方<br />俯瞰

    平塚-相模貨物間



    乗越橋
    神戸方
    俯瞰

  • 相模貨物(さがみ かもつ )駅<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和46年(1971年)9月25日附開業である。<br />即ち、平塚-小田原間複々線化に伴ふ該区間各駅所在の貨物取扱施設撤去に依る増線土地を捻出させ貨物取扱業務集約の為に、該駅、及び、西相貨物駅が設置された。<br />但し、鉄道貨物依存低下に依り最盛期より取扱量は激減している。

    相模貨物(さがみ かもつ )駅



    該駅は、昭和46年(1971年)9月25日附開業である。
    即ち、平塚-小田原間複々線化に伴ふ該区間各駅所在の貨物取扱施設撤去に依る増線土地を捻出させ貨物取扱業務集約の為に、該駅、及び、西相貨物駅が設置された。
    但し、鉄道貨物依存低下に依り最盛期より取扱量は激減している。

  • 相模貨物-大磯<br /><br /><br /><br />花水川(はなみずがわ)橋梁<br />該河川本来の流路は東岸側だったが、内務省土木局直轄工事に依り昭和13年(1938年)に現流路に変更された。

    相模貨物-大磯



    花水川(はなみずがわ)橋梁
    該河川本来の流路は東岸側だったが、内務省土木局直轄工事に依り昭和13年(1938年)に現流路に変更された。

  • 相模貨物-大磯<br /><br /><br /><br />花水川橋梁<br />現橋梁は複々線化工事時に改築。

    相模貨物-大磯



    花水川橋梁
    現橋梁は複々線化工事時に改築。

  • 平塚-大磯間<br /><br /><br /><br />現花水川橋梁左岸付近<br />関東大震災<br />強地震動に拠り脱線転覆した濱松発東京行上り旅客第74列車<br />乗客8名即死、44名重軽傷。<br />牽引蒸気機関車は18936(C5137)<br />該機関車は復旧され大東亜戦争後まで残存し米沢機関区配置を最後に廃車。<br />現在の中郡高麗(こま)付近<br />絵葉書<br />横浜臨海公園 蔵

    平塚-大磯間



    現花水川橋梁左岸付近
    関東大震災
    強地震動に拠り脱線転覆した濱松発東京行上り旅客第74列車
    乗客8名即死、44名重軽傷。
    牽引蒸気機関車は18936(C5137)
    該機関車は復旧され大東亜戦争後まで残存し米沢機関区配置を最後に廃車。
    現在の中郡高麗(こま)付近
    絵葉書
    横浜臨海公園 蔵

  • 相模貨物-大磯間<br /><br /><br /><br />石積築堤覆<br />関東大震災復旧後に設置されたが、複々線化工事時に依り殆ど破壊された。

    相模貨物-大磯間



    石積築堤覆
    関東大震災復旧後に設置されたが、複々線化工事時に依り殆ど破壊された。

  • 大磯(おおいそ)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治20年(1887年)7月11日開業である。<br />当初、内閣鐵道局は該区間内途中停車場設置計画を有していなかったが、鉄道敷設工事着工直前たる明治19年(1886年)10月に、中郡大磯村願人総代として、宮代謙吉、鈴木佐平、川崎甚五郎3名連名に依り、該村への駅設置に関する請願書が提出され、此れに対し、内閣鐵道局は停車場設置に関する必要地無償提供、及び、当該不動産関係は全額地元負担とする条件に依り駅設置が認められ大磯駅設置が決定された。<br />関東大震災に依り、初代駅本屋他構内施設は殆が倒壊した。<br />https://www.jreast.co.jp/estation/stations/306.html

    大磯(おおいそ)駅



    該駅は、明治20年(1887年)7月11日開業である。
    当初、内閣鐵道局は該区間内途中停車場設置計画を有していなかったが、鉄道敷設工事着工直前たる明治19年(1886年)10月に、中郡大磯村願人総代として、宮代謙吉、鈴木佐平、川崎甚五郎3名連名に依り、該村への駅設置に関する請願書が提出され、此れに対し、内閣鐵道局は停車場設置に関する必要地無償提供、及び、当該不動産関係は全額地元負担とする条件に依り駅設置が認められ大磯駅設置が決定された。
    関東大震災に依り、初代駅本屋他構内施設は殆が倒壊した。
    https://www.jreast.co.jp/estation/stations/306.html

    大磯駅

  • 大磯駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />関東大震災で倒壊した初代駅本屋に代り大正14年(1925年)に再建された第2代現駅本屋。

    大磯駅



    駅本屋
    関東大震災で倒壊した初代駅本屋に代り大正14年(1925年)に再建された第2代現駅本屋。

    大磯駅

  • 大磯駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />正面

    大磯駅



    駅本屋
    正面

    大磯駅

  • 大磯駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />内部

    大磯駅



    駅本屋
    内部

    大磯駅

  • 大磯駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />内部<br />出札窓口は近日廃止予定。

    大磯駅



    駅本屋
    内部
    出札窓口は近日廃止予定。

    大磯駅

  • 大磯駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />内部<br />改札側

    大磯駅



    駅本屋
    内部
    改札側

    大磯駅

  • 大磯駅<br /><br /><br /><br />旅客連絡通路<br />大正14年(1925年)該駅大改築まで旧第1番下り線ホーム跡。<br />旅客跨線橋連絡エレヴェーター付近に貴賓室が存在したが、平成18年(2006年)に施工された該駅構内改築時に解体撤去。

    大磯駅



    旅客連絡通路
    大正14年(1925年)該駅大改築まで旧第1番下り線ホーム跡。
    旅客跨線橋連絡エレヴェーター付近に貴賓室が存在したが、平成18年(2006年)に施工された該駅構内改築時に解体撤去。

    大磯駅

  • 大礒駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム

    大礒駅



    旅客ホーム

    大磯駅

  • 大磯駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />旧第1番旅客ホーム跡

    大磯駅



    駅本屋
    旧第1番旅客ホーム跡

    大磯駅

  • 大磯駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />旧第1番旅客ホーム跡

    大磯駅



    駅本屋
    旧第1番旅客ホーム跡

    大磯駅

  • 大磯駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />神戸方<br />俯瞰

    大磯駅



    駅構内
    神戸方
    俯瞰

    大磯駅

  • 大磯駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />旧貨物取扱跡<br />東京方<br />俯瞰

    大磯駅



    駅構内
    旧貨物取扱跡
    東京方
    俯瞰

  • 大磯駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />旧貨物取扱跡<br />大東亜戦争終結直後に戦災焼失電車車体保管箇所として当該焼損車体が山積状態に置かれた。

    大磯駅



    駅構内
    旧貨物取扱跡
    大東亜戦争終結直後に戦災焼失電車車体保管箇所として当該焼損車体が山積状態に置かれた。

    大磯駅

  • 大磯駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />大磯ローターリークラブ結成25周年記念碑<br />何故か駅前に無く駅構内に存在。

    大磯駅



    駅構内
    大磯ローターリークラブ結成25周年記念碑
    何故か駅前に無く駅構内に存在。

    大磯駅

  • 大磯駅<br /><br /><br /><br />駅前広場<br />湘南発祥の地碑<br />碑文撰文は大磯在住だった女流日本画家 堀 文子(ほり ふみこ)(大正7年(1918年)7月2日~平成31年(2019年)2月5日)。

    大磯駅



    駅前広場
    湘南発祥の地碑
    碑文撰文は大磯在住だった女流日本画家 堀 文子(ほり ふみこ)(大正7年(1918年)7月2日~平成31年(2019年)2月5日)。

  • 大磯駅<br /><br /><br /><br />駅前広場<br />松本良順頌徳碑<br />初代陸軍軍医総監 松本良順(まつもと りょうじゅん)(天保3年(1832年)7月13日~明治40年(1907年)3月12日)(明治6年(1873年)5月20日~明治12年(1879年)10月15日在任)は、日本人の体形体格が欧米人と比較し著しく劣り、栄養摂取に於いても甚だ低い事から、健康増進、体力向上の観点から海水浴を奨励した。<br />松本は海水浴適格地として全国10箇所を選定し、該選定に基き、明治18年(1885年)8月に大磯に海水浴場が開設された。<br />領徳を記念し建立。

    大磯駅



    駅前広場
    松本良順頌徳碑
    初代陸軍軍医総監 松本良順(まつもと りょうじゅん)(天保3年(1832年)7月13日~明治40年(1907年)3月12日)(明治6年(1873年)5月20日~明治12年(1879年)10月15日在任)は、日本人の体形体格が欧米人と比較し著しく劣り、栄養摂取に於いても甚だ低い事から、健康増進、体力向上の観点から海水浴を奨励した。
    松本は海水浴適格地として全国10箇所を選定し、該選定に基き、明治18年(1885年)8月に大磯に海水浴場が開設された。
    領徳を記念し建立。

  • 大磯-二宮間<br /><br /><br /><br />大磯(おおいそ)架道橋<br />橋台のみ原型。

    大磯-二宮間



    大磯(おおいそ)架道橋
    橋台のみ原型。

  • 大磯-二宮間<br /><br /><br /><br />大磯架道橋<br />橋台<br />東京方

    大磯-二宮間



    大磯架道橋
    橋台
    東京方

  • 大磯-二宮間<br /><br /><br /><br />大磯架道橋<br />橋台<br />神戸方<br />落書消の為にペイントが施工された。

    大磯-二宮間



    大磯架道橋
    橋台
    神戸方
    落書消の為にペイントが施工された。

  • 大磯-二宮間<br /><br /><br /><br />葛川(かつらがわ)橋梁<br />大正14年(1925年)の二宮駅構内改築時架橋。<br />現在は旅客下り線使用。

    大磯-二宮間



    葛川(かつらがわ)橋梁
    大正14年(1925年)の二宮駅構内改築時架橋。
    現在は旅客下り線使用。

  • 大磯-二宮間<br /><br /><br /><br />葛川橋梁<br />コンクリート製橋台。

    大磯-二宮間



    葛川橋梁
    コンクリート製橋台。

  • 大磯-二宮間<br /><br /><br /><br />葛川(かつらがわ)橋梁<br />鐵道省銘板

    大磯-二宮間



    葛川(かつらがわ)橋梁
    鐵道省銘板

  • 大磯-二宮間<br /><br /><br /><br />葛川橋梁<br />上り貨物線用

    大磯-二宮間



    葛川橋梁
    上り貨物線用

  • 大磯-二宮間<br /><br /><br /><br />葛川橋梁<br />煉瓦橋台<br />明治20年(1887年)7月11日開通時架橋。<br />東京方

    大磯-二宮間



    葛川橋梁
    煉瓦橋台
    明治20年(1887年)7月11日開通時架橋。
    東京方

  • 大磯-二宮間<br /><br /><br /><br />葛川橋梁<br />鐵道省銘板。

    大磯-二宮間



    葛川橋梁
    鐵道省銘板。

  • 大磯-二宮間<br /><br /><br /><br />葛川橋梁<br />煉瓦積橋台<br />神戸方

    大磯-二宮間



    葛川橋梁
    煉瓦積橋台
    神戸方

  • 大磯-二宮間<br /><br /><br /><br />葛川橋梁

    大磯-二宮間



    葛川橋梁

  • 大磯-二宮間<br /><br /><br /><br />葛川橋梁

    大磯-二宮間



    葛川橋梁

  • 二宮(にのみや)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治35年(1902年)4月15日開業である。<br />大磯-國府津間は9.9kmを有し、開通当時は単線だった事から、明治29年(1896年)2月に地元中吾妻村は山口喜十郎他32名連名で、衆議院、貴族院、及び、逓信省鐵道庁に対し途中列車交換可能を理由に新駅設置請願が行われたが、該請願審査の上、時期尚早と判断され新駅設置請願は却下された。<br />該村は諦めず、明治32年(1899年)2月6日附で第2回新駅設置に関する請願を行ったが、該区間は明治32年(1899年)8月5日附で複線化された為に、該理由を以って新駅設置理由が喪失した事で該村では危機感を抱く事となった。<br />他方、当時の県央秦野地区に於いて産出された繭玉は、平塚驛、若しくは二宮港から船舶輸送する事から新駅設置に関し有利たる事を強調し、該村出身の医師で当時高額納税者の特権たる衆議院議員 伊達 時(だて とき)(嘉永2年(1849年)10月23日~大正5年(1916年)10月29日)は新駅設置に積極的に動き、同年12月6日附で新駅設置が決定された。<br />新駅設置に鑑み、停車場設置に関する必要地必要不動産一切を該村全額負担が新駅開設条件とされた為に、伊達は私費を以って必要地を買収し無償提供したが、最終的に該駅設置に関し、宅地計3畝16歩、畑地計1町1反2畝15歩、畦計13歩が買収対象となった。<br />伊達は、後に明治45年(1912年)7月12日附二宮-秦野間開通の湘南軽便鐵道初代社長に就任した。<br />該駅は県央地域集積の湘南軽便鉄道貨物積替駅として栄えたが、昭和2年(1927年)4月1日附で小田原急行鐵道(現 小田急電鉄)が新宿-小田原間全線開業をした事で、貨物積替を要する湘南軌道は忽ち経営悪化となり、昭和10年(1935年)に営業休止を経て昭和12年(1937年)8月25日附廃止。<br />現駅本屋は、昭和57年(1982年)改築。<br />https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1186.html

    二宮(にのみや)駅



    該駅は、明治35年(1902年)4月15日開業である。
    大磯-國府津間は9.9kmを有し、開通当時は単線だった事から、明治29年(1896年)2月に地元中吾妻村は山口喜十郎他32名連名で、衆議院、貴族院、及び、逓信省鐵道庁に対し途中列車交換可能を理由に新駅設置請願が行われたが、該請願審査の上、時期尚早と判断され新駅設置請願は却下された。
    該村は諦めず、明治32年(1899年)2月6日附で第2回新駅設置に関する請願を行ったが、該区間は明治32年(1899年)8月5日附で複線化された為に、該理由を以って新駅設置理由が喪失した事で該村では危機感を抱く事となった。
    他方、当時の県央秦野地区に於いて産出された繭玉は、平塚驛、若しくは二宮港から船舶輸送する事から新駅設置に関し有利たる事を強調し、該村出身の医師で当時高額納税者の特権たる衆議院議員 伊達 時(だて とき)(嘉永2年(1849年)10月23日~大正5年(1916年)10月29日)は新駅設置に積極的に動き、同年12月6日附で新駅設置が決定された。
    新駅設置に鑑み、停車場設置に関する必要地必要不動産一切を該村全額負担が新駅開設条件とされた為に、伊達は私費を以って必要地を買収し無償提供したが、最終的に該駅設置に関し、宅地計3畝16歩、畑地計1町1反2畝15歩、畦計13歩が買収対象となった。
    伊達は、後に明治45年(1912年)7月12日附二宮-秦野間開通の湘南軽便鐵道初代社長に就任した。
    該駅は県央地域集積の湘南軽便鉄道貨物積替駅として栄えたが、昭和2年(1927年)4月1日附で小田原急行鐵道(現 小田急電鉄)が新宿-小田原間全線開業をした事で、貨物積替を要する湘南軌道は忽ち経営悪化となり、昭和10年(1935年)に営業休止を経て昭和12年(1937年)8月25日附廃止。
    現駅本屋は、昭和57年(1982年)改築。
    https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1186.html

    二宮駅

  • 二宮駅<br /><br /><br /><br />南口駅前広場

    二宮駅



    南口駅前広場

    二宮駅

  • 二宮駅<br /><br /><br /><br />南口駅前広場<br />伊達時顕彰碑<br />伊達時(だて とき)(嘉永2年(1849年)10月20日~大正5年(1916年)10月29日)は中郡吾妻村(現二宮町)出身の開業医で自由民権運動に参加していたが、東海道線が該村を通過するに及び、当時高額納税者として衆議院議員だったが、該村駅設置運動に伊達は私費を以って停車場必要用地買収に応じ、二宮駅開設に貢献した。<br />該碑は駅開業50周年を迎えるに当り、昭和26年(1951年)に伊達の功績顕彰の為に建立された。<br />碑文撰文は当時二宮在住だった 徳富蘇峰(とくとみ そほう)(文久3年(1863年)3月14日~昭和32年(1957年)11月2日)<br />https://shonan-ninomiya-kankou.com/sightseeing/history/%e4%bc%8a%e9%81%94%e6%99%82%e5%bd%b0%e5%be%b3%e7%a2%91/

    二宮駅



    南口駅前広場
    伊達時顕彰碑
    伊達時(だて とき)(嘉永2年(1849年)10月20日~大正5年(1916年)10月29日)は中郡吾妻村(現二宮町)出身の開業医で自由民権運動に参加していたが、東海道線が該村を通過するに及び、当時高額納税者として衆議院議員だったが、該村駅設置運動に伊達は私費を以って停車場必要用地買収に応じ、二宮駅開設に貢献した。
    該碑は駅開業50周年を迎えるに当り、昭和26年(1951年)に伊達の功績顕彰の為に建立された。
    碑文撰文は当時二宮在住だった 徳富蘇峰(とくとみ そほう)(文久3年(1863年)3月14日~昭和32年(1957年)11月2日)
    https://shonan-ninomiya-kankou.com/sightseeing/history/%e4%bc%8a%e9%81%94%e6%99%82%e5%bd%b0%e5%be%b3%e7%a2%91/

    二宮駅

  • 二宮駅<br /><br /><br /><br />南口駅前広場<br />ガラスのうさぎ像<br />圓鍔勝三(えんつば しょうぞう)(明治38年(1905年)11月30日~平成15年(2003年)10月31日)作。<br />該像は、児童作家 高木敏子(たかぎ としこ)(昭和7年(1932年)6月19日~    )は昭和20年(1945年)3月9日未明の東京空襲に依り母妹を失い、父と共に二宮町に疎開の為に該駅到着直後、米艦載機P51型より機銃掃射を受け父は即死。<br />戦後、作家として活動され自身の体験を元に当該作品を上程された。<br />因みに、米国務省機密情報開示に拠り、当該戦闘機航路追究の結果、当該戦闘機は国府津駅、及び、御殿場線下曾我駅襲撃後、二宮駅上空を経由北上し、中央本線淺川(現 ?・尾)-与瀬(現 相模湖)間走行中の新宿発長野行普通第419列車を発見し再三に渡る銃撃を行い、旅客死者計49名以上、重傷者計120名以上、軽傷者計800名以上、職員重傷者1名を出す、大東亜戦争中に於ける鉄道単独最大被害を出した湯の花隧道銃撃事件を起こした同一機である事実が判明している。

    二宮駅



    南口駅前広場
    ガラスのうさぎ像
    圓鍔勝三(えんつば しょうぞう)(明治38年(1905年)11月30日~平成15年(2003年)10月31日)作。
    該像は、児童作家 高木敏子(たかぎ としこ)(昭和7年(1932年)6月19日~    )は昭和20年(1945年)3月9日未明の東京空襲に依り母妹を失い、父と共に二宮町に疎開の為に該駅到着直後、米艦載機P51型より機銃掃射を受け父は即死。
    戦後、作家として活動され自身の体験を元に当該作品を上程された。
    因みに、米国務省機密情報開示に拠り、当該戦闘機航路追究の結果、当該戦闘機は国府津駅、及び、御殿場線下曾我駅襲撃後、二宮駅上空を経由北上し、中央本線淺川(現 ?・尾)-与瀬(現 相模湖)間走行中の新宿発長野行普通第419列車を発見し再三に渡る銃撃を行い、旅客死者計49名以上、重傷者計120名以上、軽傷者計800名以上、職員重傷者1名を出す、大東亜戦争中に於ける鉄道単独最大被害を出した湯の花隧道銃撃事件を起こした同一機である事実が判明している。

    二宮駅

  • 二宮駅<br /><br /><br /><br />出改札口

    二宮駅



    出改札口

    二宮駅

  • 二宮駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム<br />上屋<br />古軌条柱群

    二宮駅



    旅客ホーム
    上屋
    古軌条柱群

    二宮駅

  • 二宮駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム<br />使用停止箇所。

    二宮駅



    旅客ホーム
    使用停止箇所。

    二宮駅

  • 二宮駅<br /><br /><br /><br />北口

    二宮駅



    北口

    二宮駅

  • 二宮-国府津間<br /><br /><br /><br />川勾(かわわ)跨線橋<br />東京方<br />俯瞰

    二宮-国府津間



    川勾(かわわ)跨線橋
    東京方
    俯瞰

  • 二宮-国府津間<br /><br /><br /><br />川勾跨線橋<br />神戸方<br />俯瞰

    二宮-国府津間



    川勾跨線橋
    神戸方
    俯瞰

  • 二宮-国府津間<br /><br /><br /><br />列車脱線転覆事故慰霊碑<br />関東大震災発生時に該地を走行中の下り貨物第151列車9600型蒸気機関車(高島機関庫所属)は強震に耐えられず築堤下脱線転覆し、乗務中の機関手、及び、機関助手は機関車から投げ出された挙句、当該蒸気機関車高圧蒸気を浴び即死、遺体発見時は夜叉の如き姿だったと伝えられれてる。<br />後年、該殉職職員の御霊を弔う為に地元有志が祠を建立。

    二宮-国府津間



    列車脱線転覆事故慰霊碑
    関東大震災発生時に該地を走行中の下り貨物第151列車9600型蒸気機関車(高島機関庫所属)は強震に耐えられず築堤下脱線転覆し、乗務中の機関手、及び、機関助手は機関車から投げ出された挙句、当該蒸気機関車高圧蒸気を浴び即死、遺体発見時は夜叉の如き姿だったと伝えられれてる。
    後年、該殉職職員の御霊を弔う為に地元有志が祠を建立。

  • 二宮-国府津間<br /><br /><br /><br />列車脱線転覆事故慰霊碑<br />無名祠。

    二宮-国府津間



    列車脱線転覆事故慰霊碑
    無名祠。

  • 二宮-国府津間<br /><br /><br /><br />列車脱線転覆事故慰霊碑<br />無名祠。

    二宮-国府津間



    列車脱線転覆事故慰霊碑
    無名祠。

  • 二宮-国府津間<br /><br /><br /><br />押切(おしきり)架道橋<br />明治20年(1887年)7月11日開通時設置。

    二宮-国府津間



    押切(おしきり)架道橋
    明治20年(1887年)7月11日開通時設置。

  • 二宮-国府津間<br /><br /><br /><br />押切架道橋<br />上り貨物線側のみ現存。

    二宮-国府津間



    押切架道橋
    上り貨物線側のみ現存。

  • 二宮-国府津間<br /><br /><br /><br />押切架道橋<br />正面。

    二宮-国府津間



    押切架道橋
    正面。

  • 二宮-国府津間<br /><br /><br /><br />押切架道橋

    二宮-国府津間



    押切架道橋

  • 二宮-国府津間<br /><br /><br /><br />押切架道橋<br />内部<br />自動車接触痕が痛々しい。

    二宮-国府津間



    押切架道橋
    内部
    自動車接触痕が痛々しい。

  • 二宮-国府津間<br /><br /><br /><br />押切架道橋<br />内部<br />該架道橋両脇は車両に依る接触痕が生々しいが、上部は状態良好。

    二宮-国府津間



    押切架道橋
    内部
    該架道橋両脇は車両に依る接触痕が生々しいが、上部は状態良好。

  • 二宮-国府津間<br /><br /><br /><br />旧国府津機関区<br />電気機関車庫跡

    二宮-国府津間



    旧国府津機関区
    電気機関車庫跡

  • 二宮-国府津間<br /><br /><br /><br />旧国府津機関区<br />蒸気機関車扇形庫跡<br />該機関区は、明治20年(1887年)7月11日開設である。<br />明治42年(1909年)に第2代機関庫に鉄骨鉄筋コンクリート建築に改築されたが、我が国に於ける第2番目の鉄骨鉄筋コンクリート建築物だった。<br />関東大震災で被害が発生したが修復され昭和43年(1968年)7月に御殿場線国府津-御殿場間電化時まで使用された。<br />その後、蒸気機関車群は廃車の為に殆どの車輌は回送され、昭和44年(1969年)6月30日附で該区配置蒸気機関車が茅ケ崎機関区に配置移動され、転車台も撤去され門司鉄道管理局香椎駅構内に移設されたが、何故かD52型1両のみ残存され放置状態が継続したが、御殿場市が保存を決定し、昭和53年(1978年)7月4日に国府津→相模貨物間に臨時列車で回送された。

    二宮-国府津間



    旧国府津機関区
    蒸気機関車扇形庫跡
    該機関区は、明治20年(1887年)7月11日開設である。
    明治42年(1909年)に第2代機関庫に鉄骨鉄筋コンクリート建築に改築されたが、我が国に於ける第2番目の鉄骨鉄筋コンクリート建築物だった。
    関東大震災で被害が発生したが修復され昭和43年(1968年)7月に御殿場線国府津-御殿場間電化時まで使用された。
    その後、蒸気機関車群は廃車の為に殆どの車輌は回送され、昭和44年(1969年)6月30日附で該区配置蒸気機関車が茅ケ崎機関区に配置移動され、転車台も撤去され門司鉄道管理局香椎駅構内に移設されたが、何故かD52型1両のみ残存され放置状態が継続したが、御殿場市が保存を決定し、昭和53年(1978年)7月4日に国府津→相模貨物間に臨時列車で回送された。

  • 国府津(こうづ)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治20年(1887年)7月11日開業である。<br />該駅は、明治22年(1889年)2月1日附で國府津-御殿場-沼津-静岡間延長開通に至る約1年7箇月間まで終点たるの地位に在り、該区間延長建設資材輸送拠点であり、明治20年(1887年)10月27日附で豆相(とうそう)汽船が國府津湊-熱海間に汽船運航を開始し、更に、翌明治21年(1888年)10月1日附で小田原馬車鐵道が國府津停車場前-小田原-湯本旭橋間12.9kmを開業した事で、國府津駅前は小田原、箱根、熱海地域への乗換拠点として活気を帯び急速に発展を見る。<br />関東大震災では駅本屋が全壊せず奇跡的に半壊被害に留まり、該駅構内施設で大破したものは少なかった。<br />大正14年(1925年)12月13日に直流1500V電化された事で、該駅は電気機関車・蒸気機関車交換駅になり、該駅関連鐡道職員家族が激増した。<br />然し、昭和9年(1934年)12月1日0時を以って、熱海経由線が東海道本線に編入された事で機関車交換が不要となり、特別急行列車停車駅から一転して普通列車のみの停車になった。<br />昭和20年(1945年)8月5日に航空母艦艦載機に依る機銃掃射が原因で出火した為に、該駅本屋は全焼した。<br />戦後は仮建築の第2代駅本屋が建築され使用されていたが、総合合同庁舎として、昭和45年(1970年)に現第3代駅本屋が建築された。<br />https://www.jreast.co.jp/estation/stations/665.html

    国府津(こうづ)駅



    該駅は、明治20年(1887年)7月11日開業である。
    該駅は、明治22年(1889年)2月1日附で國府津-御殿場-沼津-静岡間延長開通に至る約1年7箇月間まで終点たるの地位に在り、該区間延長建設資材輸送拠点であり、明治20年(1887年)10月27日附で豆相(とうそう)汽船が國府津湊-熱海間に汽船運航を開始し、更に、翌明治21年(1888年)10月1日附で小田原馬車鐵道が國府津停車場前-小田原-湯本旭橋間12.9kmを開業した事で、國府津駅前は小田原、箱根、熱海地域への乗換拠点として活気を帯び急速に発展を見る。
    関東大震災では駅本屋が全壊せず奇跡的に半壊被害に留まり、該駅構内施設で大破したものは少なかった。
    大正14年(1925年)12月13日に直流1500V電化された事で、該駅は電気機関車・蒸気機関車交換駅になり、該駅関連鐡道職員家族が激増した。
    然し、昭和9年(1934年)12月1日0時を以って、熱海経由線が東海道本線に編入された事で機関車交換が不要となり、特別急行列車停車駅から一転して普通列車のみの停車になった。
    昭和20年(1945年)8月5日に航空母艦艦載機に依る機銃掃射が原因で出火した為に、該駅本屋は全焼した。
    戦後は仮建築の第2代駅本屋が建築され使用されていたが、総合合同庁舎として、昭和45年(1970年)に現第3代駅本屋が建築された。
    https://www.jreast.co.jp/estation/stations/665.html

    国府津駅

  • 国府津駅<br /><br /><br /><br />駅本屋

    国府津駅



    駅本屋

    国府津駅

  • 国府津駅<br /><br /><br /><br />出改札口

    国府津駅



    出改札口

    国府津駅

  • 国府津駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム<br />連絡通路

    国府津駅



    旅客ホーム
    連絡通路

    国府津駅

  • 国府津駅<br /><br /><br /><br />第1番旅客ホーム

    国府津駅



    第1番旅客ホーム

    国府津駅

  • 国府津駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム連絡地下道<br />階段

    国府津駅



    旅客ホーム連絡地下道
    階段

    国府津駅

  • 国府津駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム連絡地下道<br />階段

    国府津駅



    旅客ホーム連絡地下道
    階段

    国府津駅

  • 国府津駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム連絡地下道<br />階段<br />各旅客ホーム側俯瞰

    国府津駅



    旅客ホーム連絡地下道
    階段
    各旅客ホーム側俯瞰

    国府津駅

  • 国府津駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム連絡地下道<br />階段<br />駅本屋側俯瞰

    国府津駅



    旅客ホーム連絡地下道
    階段
    駅本屋側俯瞰

    国府津駅

  • 国府津駅<br /><br /><br /><br />第2番旅客ホーム

    国府津駅



    第2番旅客ホーム

    国府津駅

  • 国府津駅<br /><br /><br /><br />第2番旅客ホーム<br />東海旅客鉄道313系電車

    国府津駅



    第2番旅客ホーム
    東海旅客鉄道313系電車

    国府津駅

  • 国府津駅<br /><br /><br /><br />第2番旅客ホーム<br />複々線化以前は東海道本線上り線用。

    国府津駅



    第2番旅客ホーム
    複々線化以前は東海道本線上り線用。

    国府津駅

  • 国府津駅<br /><br /><br /><br />第2番旅客ホーム<br />現在は東海道本線下り列車退避用、及び、御殿場線列車発着用。

    国府津駅



    第2番旅客ホーム
    現在は東海道本線下り列車退避用、及び、御殿場線列車発着用。

    国府津駅

  • 国府津駅<br /><br /><br /><br />第2番旅客ホーム

    国府津駅



    第2番旅客ホーム

    国府津駅

  • 国府津駅<br /><br /><br /><br />第2番旅客ホーム

    国府津駅



    第2番旅客ホーム

    国府津駅

  • 国府津駅<br /><br /><br /><br />第3番旅客ホーム<br />上屋古軌条柱が残存。

    国府津駅



    第3番旅客ホーム
    上屋古軌条柱が残存。

    国府津駅

  • 国府津駅<br /><br /><br /><br />第3番旅客ホーム

    国府津駅



    第3番旅客ホーム

    国府津駅

  • 国府津駅<br /><br /><br /><br />駅前<br />国府津駅開業100周年記念碑

    国府津駅



    駅前
    国府津駅開業100周年記念碑

    国府津駅

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この旅行記へのコメント (10)

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  • mistralさん 2021/10/06 20:13:46
    旅行記というより、日本の歴史を辿るようです。
    横浜臨海公園さん

    こんばんは。
    多分コメントさせていただきますのは初めてのことかと思います。
    いつも、当方の旅行記にご投票までいただきましてありがとうございます。

    いつも横浜臨海公園さんの旅行記を拝見させていただきながら
    とても綿密な調査をされ、じっくりと時間をかけて作られた旅行記と思いつつ
    コメントを残さず失礼をしておりました。

    実は大磯には義姉夫婦が長く暮らし、その後2人とも病ゆえに亡くなり
    その後遺された娘たち二人がその家で苦労しながらも暮らしているものですから
    何度も大磯に出向く機会も多く、そんな意味あいから
    今回の旅行記は格別の想いを抱きながら拝読させていただきました。

    駅舎の佇まい、ホームにかかった階段の様子、
    駅ができるまでには民間の方々の協力があったこと、最初は人家もなかったことなどなど
    健康増進の為の海水浴の奨励
    その後の別荘建築ラッシュ

    どれをとっても私にとりましては初めて知る内容でして
    これほど詳細な記録としてまとめ上げられますまでに、3年という年月を要したと
    他の方へのコメントに書かれていましたのも納得できる事でした。

    今回の旅行記だけではなく、一つ一つの旅行記に、多大なエネルギーを傾けて
    取り組んでおられることと想像しております。
    どうぞこれからもお身体をお大切にされて、旅行記に取り組んでいただきますよう
    お祈り申し上げます。

    mistral

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2021/10/07 01:55:54
    拝復
    mistralさま、こんばんは。


    拙稿に投票と掲示板に過分なるコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    大磯は海水浴場開設以前の歴史は、大磯町史を精読しても江戸期末期から明治期中期にかけては記述が少ない為に、集めた元資料は1件1件張絵の如く、オリジナルの資料に整合性を持たせるのに苦労が伴いました。
    国立公文書館の保存文庫は分類別では無い為に、何度も足を運ばなければならず大変でした。
    よくコピーを取れば良いじゃないかと言うことを仰る方が居られますが、書籍でも40年以上経過した出版物は、酸化紙を使用している為に大抵はコピー禁止となっており、そうなりますと全部筆写手書でしなければならず、此れも手間だけは恐ろしくかかります。

    完成上程した旅行記は手前味噌と思われるかもしれませんが、何卒ご理解の程をお願い申します。

    然し、あの喧騒を忘れさせる大磯の町の雰囲気は好ましい存在だと思います。





    横浜臨海公園
  • nadeshiko28さん 2021/09/15 14:47:55
    横浜臨海公園様 ご無沙汰しています(^^♪
    こんにちは お久し振りです~お元気でしたか(笑)

    PCが急に壊れて(画面が真っ黒に) しばらく4トラから離れていました。(汗)
    それで あたらしいPCを購入したのですが・・・
    新しいPCを使いこなせなくって 、、、、。

    ボケ防止に と思って 
    昨日から又ボチボチ頑張りたいと思っているところです
    また時々覗かしていただきますね ^^。

    ではでは

    nadeshiko28

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2021/09/16 13:19:04
    拝復
    nadeshiko28さま、こんにちは。


    小生こそご無沙汰をしております。
    音信不通だったので何かあったのではと気をもんでおりました。
    此れからも宜敷くお願い申します。




    横浜臨海公園
  • M-koku1さん 2021/07/31 13:12:12
    資料集めに3年!
    横浜臨海公園先生

    いつもながらに詳細な記述 頭が下がります。
    それにしても一つの旅行記を書くために資料を集める事3年とは・・・
    素晴らしいですね

    都民からすると この辺りは通り過ぎるばかりで あまり下車することがないエリアです。平塚に一度下りた時は 上司のお葬式でした。
    だからそれぞれの街の品格などもよくわかりません。
    ご近所の市同士でも 色々軋轢があるんですね。

    隅田川駅に古い電車が放ってあるのは今もだと思います。
    コロナのパンデミックがない頃は 年に1度だったか 構内をオープンにして 中に入れてくれていたのですが、 このところそんなこともなくなりました。
    この間、ブルーインパルスがこの駅の上を見事な編隊で通り過ぎていきましたが。

    体調回復なさいましたか?
    どうぞ御身ご自愛くださいませ。

    Mより

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2021/08/01 06:16:33
    拝復
    M-koku1さま、おはようございます。


    拙稿に投票と掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。
    該事案に対し、資料が10件あり、内9件が肯定1件が否定とすると誰でも9件もの肯定が在れば間違いないと思いがちですが、実は精査した結果、1件の否定が正当だったなど多々あることで、要は9件が資料を調べもせず鵜呑みにした為に起き事実認証を怠ったなどザラにあります。
    兎に角、鉄道史では読者の知的レヴェルが高くない事もあり、嘘が罷り通る世界なのは残念に思っております。

    湘南とは神奈川県民から見れば、鎌倉から小田原に於ける地域を指すと思います。
    然しながら、鎌倉は独自の文化、小田原は湘南の定義から若干外れの印象があり、鵠沼を除いた藤沢市から高座郡を含め、中郡二宮町までが該当地だと考えられます。
    然し、其々思惑もあり、平塚が最も湘南市成立に意欲を有する事に対し、茅ヶ崎市、大磯町は自分たちより格下たる平塚が上位に関し反発反感を抱いており、平塚市民は自動車湘南ナンバー独立時とは状況の違いが理解できていなかったのが事実だと思います。

    隅田川駅は、用地提供の為に、つくばエクスプレス建設工事時に大分整備縮小され、昔の貨物駅のイメージが失せてしまったのは残念に思っております。

    例の車輌は鉄道友の会が一時期、友の会本部代用として使用を希望したものの、車両借用料と線路使用料がバカにならず、該計画は立ち消えになった様です。




    横浜臨海公園
  • pedaruさん 2021/06/25 05:10:05
    今回はじっくり拝読いたしました。
    横浜臨海公園さん おはようございます。

    失礼ながら、毎回の労作をすべて完読しているわけではありませんが、いつもながらの
    正確な調査に基づく記述には頭が下がります。
    今回大磯他の歴史を生き生きとした記述で紹介下さりとても興味深く読ませていただきました。豊かなミカン畑を借り受けながら、荒れ地にして返還するという当時の官尊民卑が具体的に分かりました。
    関東大震災の被害、太平洋戦争における空襲による惨状、歴史を忘れてはいけませんね。国民の体躯向上を念願して行動した初代陸軍軍医総監 松本良順の偉大さもしりました。
    私の好きな画家堀文子さんの書による石碑の存在を知り、また伊達時顕彰碑を拝見し、徳富蘇峰の書というのが興味をひきました。お疲れさまでした。

    pedaru

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2021/06/29 12:40:25
    拝復
    pederuさま、こんにちは。


    拙稿に投票と掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    蜜柑畑所有者たちは、その後見舞金のカタチで幾ばくかの金品を受領したとしても、やりきれない思いがあったと思います。

    それから、湘南ですが、小生の如き神奈川県民から見て、鎌倉から小田原に至る地域をして湘南と称する様です。
    然し、鎌倉は独自の文化を有し、また小田原も厳密には湘南には程遠いものが有ると思います。
    ご存じかと思われますが、以前より高座郡寒川町を含めた大湘南市構想が存在するものの、
    現実には鎌倉と小田原は不参加、そして何よりも、平塚を含む事に対し、周囲の市町村が猛反対である現状からみて、なかなか難しいものと思われます。
    事実、堀文子画伯など、自分が心から愛する大磯が、あんな平塚なんかと一緒になるなど真っ平ごめんと発言されていたそうです。



    横浜臨海公園
  • norisaさん 2021/06/24 15:13:21
    労作の極み
    横浜臨海公園さま、

    こんにちは。
    毎回拝見させていただきますが、今回は地元の神奈川西部。
    全く知らない知見が惜しげもなく披露されていて驚きます。
    確かに狭い海岸線に敷設した鉄道、苦労も相当だったことでしょうし、ましてや関東大震災での被害も平地並み以上だったと推測されます。

    大磯の歴史も日本人の健康向上というのはなるほどと納得しましたし、政財界の政治家の別荘ラッシュも目に浮かぶようです。
    日本の鉄道の成立の歴史、特に障害やその克服過程などはこのシリーズ以上の成書はないのではないでしょうか。
    いずれ出版されることでしょうが、それまでは、この4トラの貴作品群を事典がわりに拝見させていただきます!

    お疲れ様でした。

    norisa

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2021/06/25 13:59:25
    拝復
    norisaさま、こんにちは。


    ご無沙汰をしておりますが、ご活躍の事と存じます。

    さて、久々の旅行記上程で、拙稿に投票と掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。
    兎に角、当該旅行記作成の為に、資料を整えるだけで3年経過してしまいました。
    相互資料に矛盾ばかりで整合性を見出すのに苦労させられました。

    現地では建設当時の構築物の余りの少なさに、どの様に旅行記として纏めるか考えさせられたのは事実でございます。

    横浜-大船間、大船-平塚間の旅行記の表紙部分は完成しておりますが、上程には未だ未だ時間を要しそうです。

    また、当該旅行記上程に依り、国府津-根府川間編の再構成をしております。




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