2015/05/01 - 2015/05/01
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横浜臨海公園さん
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該区間は、大正10年(1921年)8月1日開通である。
我が国國有鐵道は明治41年(1908年)12月5日附官制に拠り内閣鐵道院が成立し、本院に対し下部地方統括管理機関として、北海道、東部、中部、西部、及び、九州の5鐵道管理局Ⅰが設置された。
西部(さいぶ)鐵道管理局は神戸に本局が設置され、東海道本線馬場(現 膳所)以西本州全域、四国全域、及び、宇高連絡航路、宮島航路、関門連絡航路、関釜連絡航路を管轄範囲としていた。
該局初代局長に、岩松彦松(いわまつ ひこまつ)( ? ~明治44年(1911年)2月17日)(明治41年(1908年)12月5日~明治44年(1911年)2月17日在任)が就任した。
該局管内に於いて、早急なる改善が検討されたのが、東海道本線馬場(現 膳所)‐稲荷‐京都間、山陽本線八本松‐瀬野間上り線、及び、同線長府‐幡生間に於ける連続急勾配改良だった。
既成線たる、馬場(現 膳所)‐大谷‐京都間16.9kmは、明治11年(1878年)8月21日附で建設工事に着手し、明治13年(1880年)6月28日に逢坂山隧道が竣工し、直ちに軌条設置を進行させ、同年7月15日附で大谷-馬場(現 膳所)-大津(現 濱大津)間が開通し、更に、大谷-馬場(現 膳所)間は明治31年(1898年)4月15日に複線化されたが、途中随所に急曲線、及び、連続25/1000‰急勾配が存在する為に、該区間は開通時点に於いて東海道本線内に於ける有数の隘路と化していた。
更に、当時の鉄道車輌間連結は、現在の如き自動連結器では無く螺旋式連結器だった事から、車輌間連結維持力も弱く、補助機関車1両を増結運転しても計170t輸送が限界とされていた。
因みに、螺旋連結器装着末期たる大正13年(1924年)当時の鐵道省資料に拠れば、1車輌10tとして算出し、牽引可能車輌数は、
10/1000‰ 20/1000‰ 25/1000‰
2120型 40両 18両 14両
18900(C51型) 60 27 21
9900(D50型) 62 33 30
とされていた。
該区間改良打開の為に、岩松は、明治43年(1910年)5月に、新線設置を検討する為に現地測量を命じ、当初案では東山に於ける地質不良を考慮し、該山麓を西進迂回し、稲荷経由たる路線を選定したが、該案では距離延長となり運転時間増大となる事から改善効果薄と判定され、改めて将来に対する短路化、及び、保守を考慮し、東山隧道掘削案が選定された。
然るに、不幸にして、岩松は在職中に病没した事から、内閣鐵道院は該鐵道局第2代局長に長谷川謹介を任命した。
西部鐵道管理局第2代局長 長谷川謹介(はせがわ きんすけ)(安政2年(1855年)9月20日~大正10年(1921年)8月27日)(明治44年(1911年)2月27日~大正4年(1915年)6月23日在任)は、改めて、大正3年(1914年)に現地測量を命令し、該測量結果の凡その骨子を決定し、同年4月29日附で、内閣鐵道院宛に稟議書を提出し決裁を仰いだ処、同年6月30日附で、内閣鐵道院総裁 後藤新平(ごとう しんぺい)(安政4年(1857年)7月24日~昭和4年(1929年)4月13日)(明治41年(1908年)12月5日~大正7年(1918年)4月23日在任)は、該新設線に就いて、
1)新逢坂山、東山を含めた全隧道は複線構造
2)東山隧道勾配は最大6.7/1000‰以下
3)山科付近に3箇所存在するS字状曲線を1緩曲線化
以上3要件を設置条件とした。
神戸鐵道管理局は、該要件を精審査した結果、
1)新逢坂山、及び、東山両隧道は地質不良の為に単線並立構造とする
2)該当区間緩曲線はR1609.3とする
該区間建設に於いて一番困難とされたのが、地質調査の結果、地質不良の新逢坂山隧道2325.5m(7629.5ft)、及び、東山隧道1884.0m(6180ft)構築で、該隧道形態を複線型構築か単線型構築かに就いて検討した結果、当時技術では地質不良地に対する長複線隧道を建設施工は未知数と判定され、同年8月6日附で単線並列型に決定された。
因みに、大正2年(1913年)6月1日附官制改正に拠り、西部鐵道管理局は神戸鐵道管理局に名称変更された。
工事区間を、大津-山科間を第1工区に設定し、山科-京都間を第2工区に設定し、新逢坂山(しんおおさかかやま)隧道掘削設置工事を同年12月31日に起工した。
我が国に於ける従来の隧道掘削工事は、ベルギー方式と称する頂設道坑が採用されていたが、欧州に於ける長大隧道建設工事に於いて、オーストリア方式たる底設道坑式が採用されていた事から、両者の優劣比較を検討すべく、新逢坂山隧道山科口坑口起点701m(2300ft)上下線隧道に於いて、上り線に頂設道坑式、下り線を底設道坑式に依り試工掘削した処、多数の点に於いて底設道坑式が有利と判定された事から、該隧道掘削工事は、上り線残存分を含め全部底設道坑式採用に決定を見た。
それにしても、逢坂山隧道掘削工事時の工事主任、そして、新逢坂山隧道掘削工事総責任者が 長谷川謹介だったとは因果である。
長谷川は、安政2年(1855年)8月20日に当時の周防國厚狭村(現 山陽小野田市)で生まれ、鐵道工技生養成所を卒業後、最末端8等技手として、稲荷-深草間、柳ケ瀬隧道掘削工事、及び、長良・揖斐両橋梁架橋工事に従事後、当時の鐵道局から日本鐵道に派遣され、現在の東北本線、及び、いわて銀河鉄道区間に相当する本州線宮城県北部~岩手県全域の敷設工事に従事、更に、現在の常磐線に相当する土浦線田端-友部間建設工事技師として従事した。
日清(にっしん)戦争(明治27年(1894年)7月25日~明治28年(1895年)11月30日)終結の下関條約(明治28年(1895年)5月8日効力発生)に基き、我が国は戦時賠償の一環として台湾を領有するに至った。
我が国政府は、台湾領有と同時に台湾統治の為に、台北に総督府を設置し、初代台湾総督に 海軍大将 樺山輔紀(かばやま すけゆき)(天保8年(1837年)12月9日~大正11年(1922年)2月8日)(明治28年(1895年)5月10日~明治29年(1896年)6月2日在任)を任命した。
樺山総督在任期間中は、台湾に対し、如何なる体制を行使すべきか正に暗中模索状態と云ふべき時期だった。
樺山退任後、第2代総督に 陸軍中将 桂 太郎(かつら たろう)(弘化4年(1848年)1月4日~大正2年(1913年)10月10日(明治29年(1896年)6月2日~同年9月13日在任)、及び、第3代総督に 陸軍中将 乃木希典(のぎ まれすけ)(嘉永4年(1847年)12月25日~大正元年(1912年)9月13日)(明治29年(1896年)10月14日~明治31年(1898年)2月26日在任)は、両名共に無定見で行政行使力が無く、場当り的発想故に、長期的政策策定は皆無に均しく、折しも、該当時、我が国から台湾と云う新天地に対する無限期待から、事前調査も無く身元不詳の一発一旗組の無類漢達が大挙渡台し、現地でトラブルを発生させ、台湾原住民から見た日本人への評価を著しく低下させていた。
更に、台湾原住民に対し、桂、乃木、両総督共に、陸軍駐屯部隊を背景とした強権発動を以って武断弾圧を反復使用した事から、却って台湾原住民達の反発反感感情を逆撫でて加速招来させ、土匪兆跳の要因ともなっていた。
我が国政府は、該状態を黙視する訳にもならなくなり、総督交代に依る抜本的改革を図る事に決定し、当該人選の結果、第4代総督に 児玉源太郎(こだま げんたろう)(嘉永5年(1852年)4月14日~明治39年(1906年)7月23日)(明治31年(1898年)3月21日~明治39年(1906年)4月11日在任)を任命し改善させる事になった。
児玉は、台湾に於ける統治成功は民政整備こそが最大要因と考え、民政局長に後藤新平(ごとう しんぺい)(安政4年(1857年)7月24日~昭和4年(1929年)4月13日)(明治31年(1898年)3月2日~明治39年(1906年)11月13日在任)を大抜擢させた。
後藤は熟慮の上、我が国国内より台湾経営の為に有益とした者を次々と招聘した。
農政担当
新渡戸稲造(にとべ いなぞう)(文久2年(1867年)9月1日~昭和8年(1933年)10月15日)。
新渡戸は、製糖事業拡大、及び、樟脳製造事業の起業成功。
土地調査担当
中村是公(なかむら よしこと)(慶應3年(1867年)12月20日~昭和2年(1927年)3月1日)。
中村は台湾内部をも含めた精緻な地図作成を完成。
衛生問題担当
高木友枝(たかぎ ともえ)(安政5年(1858年)8月2日~昭和18年(1943年)12月23日)。
高木の提言に依り台北に医学専門学校が創設され、上下水道整備を進めた結果、台湾伊於ける病巣とされたコレラ、チフス発生を激減。
土木建築担当
長岡半平(ながおか はんぺい)(慶應元年(1865年)9月17日~昭和11年(1936年)6月20日)。
台北総督府建築を中心に据えた台北市内道路設置を推進。
然るに、台湾に於ける最大懸案課題は鉄道設置だった。
後藤は、後に、内閣鐵道院設立時に初代総裁に就任し、大の広軌改革論者となり世論を2分させる程、沸騰させた人物だったが、実は、該時点では、児玉共々鉄道に対する知識は皆無にして全くの無知であり、鉄道関係者に人脈も無く、適任者に対し皆目見当すら無かった状態だった。
児玉は、同郷の井上馨(いのうえ かおる)(天保7年(1836年)1月16日~大正4年(1915年)9月1日)、及び、井上 勝(いのうえ まさる)(天保14年(1843年)8月25日~明治43年(1910年)8月2日)に質問した処、長谷川謹介が適任と云う回答を得た。
他方、後藤は、当時の逓信省鐵道作業局長 松本荘一郎(まつもと そういちろう)(嘉永元年(1848年)6月23日~明治36年(1903年)3月19日)(明治26年(1893年)3月~明治36年(1903年)3月19日在任)、及び、日本鐵道會社第3代社長 小野義眞(おの よしざね)(天保10年(1839年)5月29日~明治38年(1905年)5月9日)(明治25年(1892年)3月1日~明治31年(1898年)4月6日在任)に質問した処、長谷川謹介以外に該当者無しとの回答を得た。
即ち、児玉、後藤両名の質問に対し、期せずして回答者4名全員が長谷川を推挙した。
後藤は長谷川に会い人物能力共に傑出した者と認識し、その後は長谷川が提出する文書に対し全部信頼してメクラ判同様状態だった。
基隆-台北間28.6Kmは明治24年(1891年)10月20日、台北-新竹間78.1Kmは明治26年(1893年)10月20日に、我が国が台湾領有以前に開通した区間だったが、長谷川が該施設を視察した結果、余りに劣悪施設で連続25/1000‰急勾配急曲線が連続し、特に五堵隧道に至っては施工不十分が要因で度々内部崩壊が発生するなどしていた事から、将来に於いて必ずやマイナス材料になり得ると判断し、途中約4kmを残存させた以外、全部新線建設を実施し旧線は廃棄させた。
長谷川は、台北の外港として北投に注目し、総督府も該地に港湾施設建設を決定したが、他方、当時の台湾に鉄道建設に不可欠な資材生産が無に均しく、僅かに士林丘陵に於いて産出する安山岩程度しか存在しなかった事から、長谷川は、敢えて北投への路線建設を士林経由とさせ。該地に安山岩切出場を設置させた。
士林丘陵の安山岩は取り尽された時点で丘陵は平地となり無人地となっていたが、大東亜戦争終結後に大陸から逃れてた来た、外省人達が住着き商いを開始したのが現在の士林夜市の原型である。
因みに、現在の台北MRTは旧台湾鉄路局北投線廃止後に廃線跡に設置されたものである。
長谷川は、台湾鉄道建設に於いて技術者確保が最大問題だと考えていたが、実際には、日本鐵道時代の部下達が長谷川を慕い次々と渡台して来た事から、該不安は杞憂に終わった。
因みに、昭和後期を代表する作家の1人 阿川弘之(あがわ ひろゆき)(大正9年(1920年)12月24日~平成27年(2015年)8月3日)氏は、昭和17年(1942年)に東京帝國大学文学部國文科を繰上卒業と同時に帝國海軍短期現役将校として大東亜戦争末期に至るまで現役在官し、当時の体験を基に、雲の墓標 をはじめとして、軍艦長門の生涯、山本五十六、米内光政、井上成美、等々の海軍関係物大作を世に発表した人物である。
阿川氏は自書に於いて50年間に亘る台湾統治成功の要因として、総督が海軍出身者が多数を占めたからであると著していたが、実際に海軍出身総督は、前述の初代樺山大将を除けば、第17代小林斎造(こばやし せいぞう)(明治10年(1877年)10月11日~昭和37年(1962年)7月4日)(昭和11年(1936年)9月2日~昭和15年(1940年)11月27日在任)大将、及び、後任の、第18代長谷川 清(はせがわ きよし)(明治16年(1883年)5月7日~昭和45年(1970年)9月2日)(昭和15年(1940年)11月27日~昭和19年(1945年)12月30日在任)大将の3提督しか存在せず、実際には、第2~7代、及び、最後の第18代が陸軍大中将、第8~16代が内務、及び、逓信官僚出身者であり、故に、海軍贔屓だった阿川氏の思違いでないかと思われる。
然し、最後の第18代安藤利吉(あんどう りきち)(明治17年(1884年)4月3日~昭和21年(1946年)4月19日)(昭和19年(1944年)12月30日~昭和20年(1945年)10月25日在勤)大将は、当時の帝国陸軍将校として、主流で大多数を占めた陸軍幼年学校から陸軍士官学校進級者では無く、陸軍正規将校では極めて少数だった旧制中学校から陸軍士官学校進級者であり、即ち、幼年学校必須科目たるドイツ語、ロシア語を学ばず中学時代に英語を学んでいた事で、更に、2度に亘る駐英日本大使館駐在武官勤務を経験しており、大言壮語が多い陸軍高等将校として数少ない知英派に属する良識派人物だった。
台湾統治の成功は、寧ろ、牧民官として本土から転勤で台湾総督府勤務となった内務官僚や技術者の力量発揮ではなかったかと思われる。
そして、長谷川謹介も亦、当時の台湾に於ける牧民官の1人だった。
台湾に於ける産業確立の一環として、南北縦貫鉄道敷設を絶対必要要件として、長谷川は鉄道敷設に対し、有力都市経由を前提としながらも南北間を最短距離として設置する方針を固めた。
一例では、台南-打狗(現 高雄)間への路線敷設に対し、本来であれば常識的に考えれば鳳山経由が当然と見られていたが該街上下を以って鉄道通過に対し強硬に反対した為に、長谷川は該地への鉄道敷設設置説得の時間を惜しみ敢えて無視する事で別経路設置とさせた。
打狗(現 高雄港)は、鉄道開通以前は、単なる小漁村に過ぎなかったが、台湾島内に於いて、唯一、港内水深部が深い事が判明し将来に於ける海運を考慮し、浅瀬を埋立て該埋立地に駅を設置させ港湾施設を整備した結果、街は加速度的発展を遂げ、今日では誰もが知る台湾南部最大都市に発展した。
竹南、及び、苗栗は、当初の鉄道敷設計画には存在しなかったが、該地帯が肥沃な土地たる事が判明し、将来を見越し敢て路線を経由させる事に決定し、両地域共々、現在では台湾南部最大の農生産供給地に発展した。
台湾島内に於ける縦貫鉄道建設の為の実地測量は、明治32年(1899年)4月13日に開始され、明治34年(1901年)7月31日に完了したが、明治41年(1908年)4月10日に苗栗-豊原(現 胡蘆?弧)間開通を以って全線開通に漕ぎ着けたが、該区間には、大甲渓、大安渓の如き、当時の我が国本土には存在し得ない長大橋梁、第9号隧道の如き構築が有り建設は困難を極めた。
然し、台湾に於ける縦貫鉄道建設成功が、東山隧道設置を決意させた事は紛れもないと思われる。
新逢坂山隧道工事は、大正8年(1919年)9月25日に竣工した。
山科-京都間は新逢坂山隧道工事に区切りが見えた事から、作業員若干を東山に移動させ、大正5年(1916年)5月1日に工事着工し、該工事は大正10年(1921年)5月15日に竣工した。
該区間変更に依り、該区間変更前は補助機関車連結で170t牽引限度だったものが、開通後は単機で一気に580tまで可能になった。
実際に、当時、東京-下関間運転の特別急行列車1、2列車は、当該区間に於いて約1時間短縮された。
然るに、該区間開通直後より、新逢坂山、東山両隧道内部に於いて奇怪な事件が頻発した。
即ち、新逢坂山、及び、東山両隧道内部に、男女轢死体が次々と発見された。
当初、神戸鐵道局は乗客自身の自殺を疑ったが、実は、長大隧道開通に依り、客車デッキを開放状態で居合わせた旅客が、蒸気機関車から排出された一酸化炭素、及び、亜硫酸ガスを吸込み煙に巻かれ急性中毒症状の為に気絶人事不詳状態となって線路に転落した事実を確認した。
当時の客車扉は全車手動式で、特に夏期に於いて通風用に開放され、デッキに乗車した者が煙にまかれ気絶後に線路に転落死亡に至ったもので、該状態防止の為に、東山隧道に対し、昭和3年(1928年)5月に防煙垂幕、新逢坂山隧道に対しては、昭和5年(1930年)3月に排煙装置設置後は、該事故は根絶された。
該区間開通当初は、従来の双信閉塞式を導入したが、翌大正11年(1922年)8月1日附で、自動閉塞式が導入され3位腕木式自動信号機が設置された。
我が国は、昭和12年(1937年)7月7日未明、中華民國北京郊外盧溝橋付近に於いて発生した盧溝橋(ろこうきょう)事件が契機となり、日華(にっか)事変(昭和12年(1937年)7月8日~昭和16年(1941年)12月8日)勃発後に於ける平時体制から準戦時体制へ漸次移行に伴い、軍事輸送が増大した。
該区間上り列車は京都出発後、大津付近に至るまで連続登り10/1000‰勾配登攀し、特に、重量物資輸送の貨物列車は、牽引定数最大限度状態で運転する為に、低速運転を余儀無くさせられ、高速運転を旨とする旅客列車運転遅延要因ともなり、且つ、列車本数増加に依り線路補修作業たる軌条振取替、枕木交換も困難な状態へと化していた。
鐵道省は大阪鐵道局の要望を受け検討した結果、昭和14年(1939年)に、膳所-京都間11.6Km増線化を決定した。
即ち、既成線山側に1線を増設し、当時検討中だった弾丸列車用隧道1本を掘削転用する事が該事案を解決せんとした。
それ故、新逢坂山隧道、及び、新東山隧道に就いては将来を見据え弾丸列車用広幅断面が採用される事に決定した。
新東山隧道は、昭和16年(1941年)7月着工、新逢坂山隧道Ⅱは昭和17年(1942年)2月着工、両隧道共に、昭和19年(1944年)8月に竣工し9月21日より上り線は新隧道に切替えられた。
因みに、新逢坂山隧道は全長2342m、新東山隧道は全長1885mである。
引続き、既成上り線隧道補修を施工し、該工事は同年11月に完成し12月1日より上り線2線体制として客貨分離運転が実施された。
必要軌条、及び、枕木は、同時期に別線化され使用休止となった大垣-垂井-関ケ原間下り線撤去分転用品を活用した。
住宅密集地たる大津市内、及び、京都市内土地取得に就いては、国策上絶対必要と判断された事から、内務大臣命令を以って強制収用とし、膳所-山科間築堤設置工事に必要土砂12000立方メートルは両隧道排出土を活用し、該新上り線は昭和19年(1944年)12月1日に開通した。
引続き新逢坂山隧道Ⅰ内部を精査した処、一部側壁に経年変化に依る劣化、及び、変状が発見された事から、直ちに修理を施工し該工事は翌昭和20年(1945年)6月22日に竣工した。
該区間3線化後に於ける使用計画案では、上り線用を2線使用とし、高速列車たる旅客列車用、低速列車たる貨物列車用に区分使用を想定していたが、現実には竣工時が大東亜(だいとうあ)戦争(昭和16年(1941年)12月8日~昭和20年(1945年)8月15日)末期だった事から、旅客列車は軍事工場通勤者用を除き、削減に削減を重ねた状態で旅客列車自体は激減状態され、結局は貨物列車分散使用に落ち着いた。
諸説に於いて、大東亜戦争中に京都市内に空襲が無かったと言うのは俗説で事実に反し、実際には昭和20年(1945年)1月16日を皮切りに計3回空襲を受け、該日空襲で東山隧道北500m地点に戦略爆撃機B29から投下された爆弾数発が炸裂し、死者41名、重軽傷者48名が発生した。
該区間では、大東亜戦争中から終戦直後に於いて、現在の概念では考えられない奇怪事故が度々発生した。
昭和19年(1944年)11月22日12時33分頃、山科駅に於いて重大事故が発生した。
即ち、大津-山科間走行中のC57蒸気機関車C57122(梅小路機関區配置)牽引下り貨物第533列車57両編成は、該列車編成中5両目ト21575無蓋車が老朽化の為に台枠が折損、該区間内に於いて脱線し約1Kmを走行後、山科驛構内分岐器で該車輌後30両が脱線転覆箇所を、該地を走行中のD51型蒸気機関車D51694(米原機関區配置)+D51491(米原機関區配置)重連牽引の上り貨物第822列車に接触し、該列車2~11両目貨車が破損。
復旧 23日0時22分。
昭和20年(1945年)3月18日9時25分頃、山科-大津間新逢坂山隧道内東京起点504Km300m地点に於いて重大事故が発生した。
即ち、走行中のC51型蒸気機関車C51125(梅小路機関區配置)牽引上り大阪発東京行普通第132列車は、超満員状態で重量超過が原因に依り、該隧道内登り10/1000‰勾配を空転頻発の為に速度低下で時速8kmで運転中、次列車たるC57型蒸気機関車C57148(梅小路機関區配置)牽引上り京都発柘植行普通第424列車は、該区間を時速37kmで走行していたが、信号現示が進行を示していた為に減速せず、該隧道内に於いて、第424列車機関士は先行第132列車車輌後部尾燈が見えた事から非常制動を動作させるも追突し、第132列車客車4両、及び、第424列車機関車が脱線した。
事故原因は、該区間は自動閉塞区間で、本来第132列車通過時に信号回路が短路構成され停止信号現示となるべき処、施設老朽化の為に絶縁不良が原因で停止信号現示とならず進行信号現示のままとなっていたものと断定。
該事故に依り、旅客30名、職員5名重軽傷。
乗客負傷者数が少数なのは、当時は打撲切傷零度の負傷を恥とする風潮が在り、自己無申告数が相当存在したものと推定される。
隧道内脱線だった事から当該車輌搬出に手間取る。
復旧 29日2時15分。
11月19日0時18分頃、山科駅構内に於いて重大事故が発生した。
即ち、下り普通第143列車は牽引機関車火床整理の為に山科駅臨時停車中、後続D52型蒸気機関車D52232(米原機関区配置)牽引 下り貨物第955列車40両が追突し、該貨物列車は追突の衝撃に依り、14、16、19、20、及び、23両目貨車車軸箱破損、26~30両目貨車は脱線した。
事故原因は、後続貨物第955列車機関士、機関助士の居眠り運転に依る、停止信号冒進と断定。
我が国蒸気機関車に於ける最大蒸気圧は、C62型旅客用蒸気機関車登場まで最大16気圧とされたが、当時は蒸気機関車用良質九州炭が入荷せず、保存中の非常用劣化亜炭を焚く為に8~12気圧程度しか出力せず、通常であれば50Km毎に火床整理で良かった物が、劣化亜炭使用では5。0Km毎に石炭ガラを排出させなければならず、甚だしきは、停車困難時は走行中の途中橋梁上から河川へ石炭殻放出を行う如き状態だった。
該事故に依り、旅客第143列車旅客8名死亡 15名重軽傷。
復旧
上り線7時00分
下り線8時00分
昭和21年(1946年)6月12日13時51分頃、山科駅構内に於いて重大事故が発生した。
即ち、停車直前の C59型蒸気機関車C5959(宮原機関区配置)牽引 上り大阪発沼津行普通第138列車10両編成が、該牽引機関車機関士は線路前方に異物が置在さているのを発見し、非常制動を動作させたが間に合わず、該機関車は異物に乗り上げ左側に脱線転覆、続く炭水車、及び、客車2両が脱線した。
事故原因は、トロッコ用車軸を何者かが線路上に置いた悪質列車妨害と断定。
該事故に依り、該機関車前部デッキ乗車中の旅客職員計5名が重軽傷、内後2名死亡。
復旧日時不明。
昭和29年(1954年)8月30日10時20分頃、山科駅構内に於いて重大事故が発生した。
即ち、上り貨物第553列車D52型蒸気機関車D52365(吹田機関區配置)56両編成は、時速21Kmで該駅通過時に該機関車安全弁噴出と同時に大音響と共に高圧蒸気が排出した事から機関士は危険を察知し非常制動を操作させ急停車し機関士機関助士は避難退避した。
事故原因は、該機関車外火室板左肩継目板電気溶接剥離と断定。
大東亜戦争中に於ける該区間内空襲被害は記録上存在しない。
該線内に於けるRTO設置駅は、
大津駅
昭和20年(1945年)12月13日~昭和25年(1950年)12月31日
京都駅
昭和20年(1945年) 9月28日~昭和27年(1952年) 3月31日
である。
該区間は、昭和31年(1959年)11月19日に直流1500V電化されたが、該電化に依り蒸気機関車から排出された煤煙を考慮せず線路補修が可能ななる事から、上り線は2線使用する必要性が無くなり増線分は使用停止され放置状態が継続した。
昭和30年代に入り、我が国は記録的高度経済成長を遂げたが、他方、大阪千里丘陵に於いて、昭和45年(1970年)3月15日~同年9月15日に、日本万国博覧会開催が決定された事を受け、日本国有鉄道本社は全国各地発着の大量旅客輸送に対処する為に、大阪鉄道管理局を中心とした輸送体制強化の施策を検討した結果、草津-京都間複々線化が決定され昭和40年(1965年)6月に着工した。
使用停止中の旧上り線を活用し、大津-山科間は上り線側、山科-京都間は下り線側に増線工事が施工され該工事は昭和45年(1970年)3月9日に竣工。
山科盆地は、人家も疎らな農家が点在する純然たる水田中心の田園風景地で、良質な京都米生産地だったが、昭和40年代前半頃より劇的宅地化状態が進行し現在では住宅密集地と化し水田は殆んど消滅した。
表紙写真は、
上関寺(かみせきでら)跨線橋
東海道本線歴史的痕跡探訪記
~東京-濱松町間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10701644
~東京驛編~
~汐留-濱松町-品川間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10797199
~品川-川崎間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10502858
~川崎-横濱間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10711843
~横濱駅移設変転史編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10316826
~横濱-大船間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/10713813
~大船-平塚間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/10714472
~平塚-國府津間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/10715768
~國府津-真鶴間 大正浪漫編~
http://4travel.jp/travelogue/10298330
~真鶴-熱海間 大正浪漫編~
http://4travel.jp/travelogue/10310352
~丹那隧道完成秘話 丹那隧道碑文から読み取れし或る歴史的事実~
http://4travel.jp/travelogue/10291350
~丹那隧道完成秘話 三島口建設工事鉄道線探訪記~
http://4travel.jp/travelogue/10575630
~熱海-沼津間編~
~沼津駅驛編~
http://4travel.jp/travelogue/10294787
~沼津港線編~
http://4travel.jp/travelogue/10621891
~沼津-富士間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10623829
~富士-興津間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10625542
~興津-静岡間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10859308
~静岡-島田間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10855589
~島田-掛川間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10858139
~掛川-濱松間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10858815
~濱松-豊橋間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10858508
~豊橋-岡崎間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10870287
~岡崎-大府間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10898135
~大府-名古屋-尾張一宮間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/10898177
~名古屋驛編~
~尾張一宮-岐阜-大垣間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/10990946
~美濃赤坂支線編~
https://4travel.jp/travelogue/10992335
~大垣-垂井-関ケ原間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11095931
~大垣-新垂井-関ケ原間編~
https://4travel.jp/travelogue/11200178
~関ケ原-米原間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11099834
~関ケ原-深谷-長濱間(廃止線)編 明治頌歌~
~米原-近江八幡間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11099568
~近江八幡-草津間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11214049
~草津-膳所間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11102339
~膳所-濱大津間(廃止線)編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/11157145
~膳所-稲荷-京都間(廃止線)編 明治頌歌~
~膳所-山科-京都間(現行線)編 大正浪漫~
http://4travel.jp/travelogue/11157106
~京都驛編 明治頌歌~
~京都-向日町間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11243867
~向日町-高槻間編 明治頌歌~
~高槻-茨木間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11634036
~茨木-吹田間編 明治頌歌~
~吹田-淡路-大阪間(廃止線)編 明治頌歌~
~吹田-新大阪-大阪間(現行線)編 大正浪漫~
~大阪駅周辺編~
~大阪-西宮間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11366806
~西宮-灘間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11321266
~灘-神戸間編 大正浪漫~
https://4travel.jp/travelogue/11245946
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
膳所(ぜぜ)駅
該駅は、明治13年(1880年)7月15日開業である。
即ち、大谷-濱大津間開通に伴い設置された。
該駅は、開業当初は馬場(ばば)と称したが、現地名は ばんば が正当である。
その後、明治22年(1889年)7月1日附で、馬場-長岡(現 近江長岡)間が開通した。
大正2年(1913年)6月1日には大津(おおつ)Ⅱに再改称されたが、大正10年(1921年)8月1日附で新逢坂山隧道経由の新線開通に伴い、再度、馬場に改名し、且つ、該時点に於いて該駅は貨物取扱専用駅になった。
然し、開業以来42年に亘る旅客扱が廃止された事で地元は既成利用特権を喪失したが、旅客扱復活請願を再三に亘り行使したことが実り、昭和9年(1934年)9月15日附で旅客扱が復活し、同時に駅名も旧藩名たる膳所に再々々改称された。
該駅では、平成17年(2005年)3月1日まで貨車取扱が存在したが、現在では全て廃止された。
平成29年(2017年)3月18日に第3代駅本屋が竣工。
http://www.jr-odekake.net/eki/premises.php?id=0610113膳所駅 駅
-
膳所駅
旧駅本屋と新駅本屋膳所駅 駅
-
膳所駅
駅構内
周辺地域の貨物仕分を一手に行っていた事から、該駅構内は広い。
平成17年(2005年)3月1日まで三岐鉄道新藤原駅まで貨物列車が設定されていた。 -
膳所駅
第1番ホーム
現2番線は草津-京都間複々線化工事着工まで旧1番線で駅本屋と直結構造だった。
現1番線は旧0番線で、江若鉄道(現 江若交通)気動車が濱大津-膳所間乗入運転時に、該番線に入線発着していた。膳所駅 駅
-
膳所駅
濱大津連絡線跡
昭和44年(1969年)11月1日まで連絡本線が存在。
該線は側線として昭和57年(1982年)頃まで残存。
該駅開業当時はは該線が本線。 -
膳所-大津間
諸子川(もろこがわ)洪橋
全長1.82m
アーチ部分のみ煉瓦構築だが、当時の技術ではアーチ部分に対しコンクリート構築が技術的に困難だった為で、該構築物としての煉瓦構築は煉瓦建築最末期に相当する。 -
大津(おおつ)Ⅲ駅
該駅は、大正10年(1921年)8月1日開業である。
然し、駅名として定着まで紆余曲折が在った。
即ち、初代大津は、明治13年(1880年)7月15日に開業し大正2年(1913年)6月1日附で濱大津(はまおおつ)に改称され、同時に馬場駅が名称改称し、現 膳所駅が第Ⅱ代大津を称した。
然るに、大正10年(1921年)8月1日附で新逢坂山隧道経由の新線開通と同時に第2代大津は元駅名たる馬場に復帰し当駅が大津Ⅲを称し現在に至る。
該駅には、昭和20年(1945年)12月13日附でRTOが設置され昭和25年(1950年)12月31日附で廃止されるまで存続したが、取扱種別は、旅客、小荷物、及び、車扱貨物に限定され、該駅に饗庭(あえば)駐屯利用を理由に進駐軍専用列車東京-門司間運転第1005/1006列車 アライド・リミテッド他数本が停車した。
http://www.jr-odekake.net/eki/premises.php?id=0610114大津駅 駅
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大津駅
第1番ホーム
上り線専用大津駅 駅
-
大津駅
第1番ホーム
上り線専用
昭和50年(1975年)2月28日まで、東京-西鹿児島(現 鹿児島中央)間運転 急行 桜島 高千穂号は、岐阜-大津間を無停車で運転していた。
嘗て長編成優等列車停車の為にホーム延長が膳所と共に比較的長い。大津駅 駅
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大津駅
第2番ホーム
下り線専用
大正8年(1919年)9月20日設置工事開始、翌大正9年(1920年)12月25日竣工。大津駅 駅
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大津駅
第1番ホーム
北緯35度線モニュメント
該地点を通過を記念し、明治22年(1889年)2月1日開通100周年記念として西日本旅客鉄道が建立。北緯35度モニュメント 名所・史跡
-
大津-山科間
上関寺跨線橋
開通当初は、該線木曾川初代橋梁ポニーワーレントラス構桁30.2m(100ft)×1連が改造架橋されたが、昭和19年(1944年)3線化時に撤去。 -
大津-山科間
上関寺(かみせきでら)跨線橋
東京方
大正元年(1912年)12月竣工。
京津電気軌道(現 京阪電気鉄道京津線)開通の為に、東海道本線設置予定地に先行して構築。 -
大津-山科間
上関寺跨線橋
東京方
旧 上り線用
現 下り線内線用 -
大津-山科間
上関寺跨線橋
東京方 -
大津-山科間
上関寺跨線橋
東京方
旧 上り線用
現 下り線内線用 -
大津-山科間
上関寺跨線橋
東京方
旧 上り線用
現 下り線内線用
現 新逢坂山隧道 -
大津-山科間
上関寺跨線橋
東京方 -
大津-山科間
新逢坂山隧道Ⅱ
該隧道は、昭和19年(1944年)12月1日開通。
昭和31年(1956年)11月19日に米原-京都間直流1500V電化と同時に使用停止され放置状態が継続したが、昭和40年(1965年)6月に複々線工事着工と同時に復旧再用され、昭和45年(1970年)3月9日に竣工。
全長2342m -
大津‐山科間
新逢坂山(しんおうさかやま)隧道Ⅰ
該隧道は、大正10年(1921年)8月1日開通である。
全長2325.5m(7629ft)
当初計画では複線式構造で予定されたが、地質不良を理由に単線並列式構造に変更された。
大正3年(1914年)12月31日に起工。
該隧道掘削工事で、当時の代表的隧道掘削式は、ベルギー式たる頂設導坑式が採用されていたが、欧州に於ける長大隧道工事はオーストリア式たる底設導坑式が主流とされていた事から、該隧道山科口に於いて、坑門から701m(2300ft)に、上り線に頂設導坑式、下り線に底設導坑式で施工し、両者を比較した処、明らかに後者が有利だった事から、上り線工事も含め底設導坑式施工が決定された。
地質不良に依り掘削工事は難航したが、大正8年(1919年)9月25日に竣工した。
同年10月18日より若干の修正を施工し翌大正9年(1920年)4月5日に隧道本体が完成した。
引続き、同年9月22日より軌条敷設を開始し、同年11月20日に竣工した事から同月27日より砂利搬布を施工し、大正10年(1921年)3月7日完全竣工した。 -
新逢坂山隧道
東口
坑門と旧上り線排煙装置跡
写真右手コンクリート構体が排煙装置取付跡
排煙装置とは、蒸気機関車煙突から排出される煤煙を防止させる為に、当該列車隧道進入直前に、強力な吸引送風に依り排出煤煙を当該列車前方に吸出し強制的に外部に排出させる機器。
全国非電化長大主要隧道に設置されていた。
手前 旧下り線(現 下り急行線)
奥側 旧上り線(現 下り緩行線) -
大津‐山科間
新逢坂山隧道
扁額 -
大津-山科間
新逢坂山隧道
神戸方
坑口
上り線内側線 -
大津-山科間
新逢坂山隧道
神戸方
坑口
全景 -
大津-山科間
新逢坂山隧道Ⅱ
神戸方
坑口
上り線追加用として昭和15年(1940年)着工、昭和19年(1944年)12月竣工。
該隧道掘削では大東亜戦争中故に人手不足を理由に勤労報國団奉仕。
蒸気機関車から排出される煤煙排除の為に、該坑口上に排煙装置設置跡が残存。 -
大津-山科間
新逢坂山隧道
神戸方
坑口
右手から
下り線外側線(旧下り線)
下り線内側線(旧上り線) -
大津-山科間
新逢坂山隧道
神戸方
坑口
下り線外側線(旧下り線)
扁額 -
大津-山科間
新逢坂山隧道
神戸方
坑口
下り線内側線(旧上り線)
扁額 -
大津-山科間
諸羽道(もろはみち)跨線橋
諸羽神社参道。 -
大津-山科間
諸羽道跨線橋
鈑桁は交換されたが、橋台基本は開通当時の煉瓦構築。 -
大津-山科間
諸羽道跨線橋
手前2線橋台が開設当時の物。
鈑桁交換後は車高車通過が容易になった。 -
山科(やましな)駅Ⅱ
該駅は、大正10年(1921年)8月1日開業である。
初代該駅は、明治12年(1879年)8月18日に、現在の山科区勧修寺小野小学校所在地に設置された。
http://www.jr-odekake.net/eki/premises.php?id=0610115山科駅 駅
-
山科駅Ⅱ
第1番ホーム
開業当時は、現在の第2番線が第1番線で駅本屋と直結構造だった。山科駅 駅
-
山科駅Ⅱ
神戸方
俯瞰
右手は丘陵は日ノ岡疎水水路 -
山科-京都間
安祥寺川(あんしょうじがわ)橋梁
上り線側
該橋梁架橋時は純然たる河川用鉄道橋だったが、その後、該河川上部を蓋封し暗渠化して車人通行可能した。 -
山科-京都間
安祥寺川橋梁
上り線側
煉瓦構築
ほぼ開通当時の原型保持。 -
山科-京都間
安祥寺川橋梁
内部
捩り巻構造積 -
山科-京都間
琵琶湖日ノ岡疎水水路
該線建設の伴い該地点のみ水路を移設。 -
山科-京都間
安祥寺川橋梁
下り線側
昭和19年(1944年)、及び、昭和44年(1969年)線増時に追加架橋された為に原型を崩す。 -
山科-京都間
妙應寺(みょうおうじ)架道橋
下り線側
手前コンクリート巻部分は、昭和19年(1944年)8月増線部。 -
山科‐京都間
三條街道(さんじょう かいどう)架道橋
該道は、旧東海道筋を形成する京都市内に於ける名称である。
該橋付近は、高築堤上に存在する為に橋桁設置は慎重に進めら、大正9年(1920年)11月13日に該橋架橋工事に着手し、翌大正10年(1921年)1月1日に竣工した。 -
山科‐京都間
三條街道橋梁
手前橋桁は、昭和19年(1944年)11月竣工。
中央橋桁は、大正10年(1921年)8月開通。 -
山科‐京都間
御陵道(みささぎみち)橋梁 -
山科‐京都間
御陵道橋梁
内部 -
山科‐京都間
岡の西橋梁
旧安祥川 -
山科‐京都間
岡の西橋梁
旧安祥川 -
山科‐京都間
山科緩曲線
当初計画では半径804.7mの曲線設置を計画していたが、その後の計画変更に依り現在の緩曲線に決定。 -
山科‐京都間
山科緩曲線 -
山科‐京都間
花山水路橋
全景 -
山科‐京都間
花山水路橋
稚児川(ちごかわ)上流域。
元来該河川が存在した為に河川水路橋梁として架橋。 -
山科‐京都間
東山(ひがしやま)隧道
該隧道は、大正10年(1921年)8月1日開通である。
全長1884.0m(6180ft)
当初計画では複線式で予定されたが、地質不良を理由に単線並列式に変更された。
大正5年(1916年)5月1日に起工し、大正10年(1921年5月15日に竣工した。
同年1月5日より若干の修正を施工し3月25日に隧道本体が完成。
引続き5月30日より軌条敷設を開始し7月28日に完全竣工。 -
山科-京都間
東山隧道
東京方
坑口
全景 -
山科-京都間
新東山(しん ひがしやま)隧道
該隧道は、昭和19年(1944年)12月1日開通である。
全長1885.0m
該隧道着工は、昭和16年(1941年)7月で竣工は昭和19年(1944年)8月である。
折から大東亜戦争勃発に伴い作業員不足が深刻な事から、旧制中學校生徒、國防婦人會をも含めた勤労奉仕団が結成され該隧道掘削工事に従事。 -
山科-京都間
新東山隧道
東京方
坑口
全景 -
山科-京都間
東山隧道
東京方
旧下り線
扁額 -
山科-京都間
東山隧道
東京方
旧上り線
扁額
京都市山科区北花山50
京阪電気鉄道京津線御陵駅 徒歩20分 -
山科-京都間
新東山隧道
神戸方
坑口 -
山科-京都間
東山隧道・新東山隧道
神戸方
坑口
全景 -
山科-京都間
東山隧道・新東山隧道
神戸方
坑口
全景 -
山科-京都間
東山仮信号場跡
東山隧道は大正10年(1921年)8月1日に開通したが開通当初より地質不良が原因で開通後10数年後には地圧の関係で該隧道内部に変状が発見された事から、昭和9年(1934年)9月17日に、山科-該仮信号場間3.9Kmを単線運転しながら該信号場-京都間1.6Kmを複線運転させ修復させ該工事竣工後たる12月4日に竣工し翌日附で該仮信号場は廃止された。 -
山科-京都間
今熊野人道跨線橋
全景 -
山科-京都間
今熊野人道跨線橋
古軌条組合構造。
元来地元生活道路が存在した事から救済策として該跨線橋を設置。 -
山科-京都間
今熊野(いまくまの)跨線道路橋 -
山科‐京都間
今熊野跨線道路橋
橋柱
府道143号線
元来道路が存在していた事から跨線橋を設置。
大正8年(1919年)10月5日着工、翌大正9年(1920年)11月7日竣工。 -
山科-京都間
野本(のもと)陸橋
大正9年(1920年)8月6日着工、大正10年(1921年)2月12日竣工。
該跨線橋は、至近に尋常小学校が存在した事から児童の安全面を考慮し設置。
昭和39年(1964年)東海道新幹線設置に依り該部分延長。 -
山科-京都間
野本陸橋
廃橋桁を再活用。 -
山科-京都間
野本(のもと)架道橋 -
山科-京都間
京阪電気鉄道(けいはん でんきてつどう)跨線橋
下り線側
元来、地平を走行していた当時の京阪電気鐵道(現 京阪電鉄)は、明治43年(1910年)4月15日に大阪天満-五條間開通時に該地に設置された。
その後、東海道本線改良計画に依り、該地上部を該線が通過する事が決定した為に、鐡道省は該社に対し該線路盤引下を要求し、該社は要求を受入れ、施工工事費用鐵道省全額引受けに依り、該社路盤引下工事を施工した。 -
山科-京都間
京阪電気鉄道(けいはん でんきてつどう)跨線橋
下り線側
元来、地平を走行していた当時の京阪電気鐵道(現 京阪電鉄)は、大正9年(1920年)5月29日に五條-三條間延長時に該地を通過した。 -
山科-京都間
京阪電気鉄道跨線橋
上り線側 -
山科-京都間
塩小路(しおのこうじ)架道橋
手前 昭和19年(1944年)8月架橋
奥側 大正10年(1921年)8月架橋 -
山科-京都間
塩小路架道橋
山側 -
山科‐京都間
琵琶湖疎水橋梁、師団街道架道橋、鴨川橋梁
全景 -
山科-京都間
琵琶湖疎水(びわこそすい)橋梁 -
山科-京都間
師団街道(しだん かいどう)(墨染道)架道橋
道路面掘下工事は京都府が施工。
嘗て京都に駐屯し全国最弱と称された帝國陸軍第16師団の名残。 -
山科-京都間
師団街道(墨染道)架道橋
煉瓦積橋台 -
山科-京都間
鴨川(かもかわ)橋梁
全長39.1m
該橋は、大正10年(1921年)8月1日開通の橋梁である。
該橋架橋工事は2月21日に起工し7月5日竣工。 -
山科-京都間
鴨川橋梁
橋脚
煉瓦積構造 -
京都(きょうと)駅
駅本屋
該駅は、明治10年(1877年)2月5日開業である。
京阪間鉄道延伸は向日町まで開通後、京都に於ける用地収用に困難を極めた事から、取敢えず、現在の東山区油小路 現京都タワー所在地付近に大宮仮駅を設置し、翌年になり現位置に停車場を設置した。
京濱館、及び、阪神間鉄道開業当時に敷設された英國製錬鐡軌条は、錬鐡と云う使命上、軌条としての鉄材としては不適格であり損耗が著しい事から、本線使用後、側線使用を経て、明治19年(1887年)には全面的に使用が中止され鋼鐡軌条に更改されたが、該錬鐡古軌の一部を使用し、明治24年(1891年)8月に、該駅構内旅客跨線橋設置時に転活用された。
第123代 大正天皇(たいしょう てんのう)(明治12年(1879年)8月31日~大正15年(1926年)12月25日)(大正元年(1912年)7月30日~大正15年(1926年)12月25日御在位)は、大正4年(1915年)に、即位式を京都御所に於いて執行が決定した事から、此れを受け内閣鐵道院は、既に手狭と化した該駅を根本的に改良すべく、駅本屋は西部鐵道管理局工務課建築技師 渡辺 節8(わたなべ せつ)(明治17年(1884年)11月3日~昭和42年(1967年)1月21日)が設計担当したが、該駅本屋は、総檜造木造2階建で、檜材は宮内省木曾御料林が特に下賜され使用された。
大正10年(1921年)8月に膳所‐京都間新線開通に鑑み、該駅東京方配線接続工事が同年3月28日より同年9月21日にかけて施工された。
現在の南口、即ち、八條口は京都市から神戸鐵道局に対し再三に亙る西岸の結果、大正12年(1923年)4月に開設された。
昭和9年(1934年)に、該駅構内に於いて痛ましい事件が発生した。
即ち、同年1月26日に、帝國海軍呉海兵団入団予定者乗車の臨時列車歓送客が、該駅跨線橋内に於いて混乱狂乱状態となり、数百名が横転倒し、圧死者77名を出す惨事となった。
因みに、当時の庶民階級は物事に対する行列と云う概念など全く存在せず、一例では、昭和11年(1936年)東京駅に於ける燕号3等客乗車時など我先に押合い状態であり、整列乗車は日華事変中頃より必要物資に対する配給制度が施行され行われる様になったものであり、要するに庶民階級には社会常識理念など存在すらし得なかった時代である。
昭和25年(1950年)11月18日払暁、該駅本屋は失火に依り全焼した。
原因は、該駅2階に存在した 都ホテルレストランで使用するテーブルクロスにアイロンを掛けた際に、担当者が該アイロン電源を切忘れた為にアイロンが過熱発火に至ったもので、終戦直後の事とは申せ、誠に単純お粗末極まる現実である。
日本国有鉄道は、直ちに新駅本屋建築を決定し、当時全国各地の戦災復旧駅に於いて採用された民衆駅形式で再建される事になり、該第3代駅本屋は、昭和27年(1952年)5月27日に竣工したが、貴賓室に就いては、宮内庁出入業者たる宮崎木工が施工担当した。
京都市は平安遷都1200年記念事業に向け、現行駅本屋では手狭であり、関西空港開業と共に、直通特急列車運行に依る外国人観光客増加をも見越し、駅本屋改築を決定し、昭和60年(1985年)4月に設計コンペが開催された結果、原 廣司(はら ひろし)(昭和11年(1936年)9月9日~ )設計案が採用決定され、第3代駅本屋は、平成9年(1997年)7月12日に記念式が開催され、同年9月11日に建築全般が完工した。
http://www.jr-odekake.net/eki/premises.php?id=0610116京都駅 駅
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この旅行記へのコメント (11)
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- イメ・トラさん 2018/08/13 09:10:35
- いいね!ありがとうございます。
- この区間はウォーキングなどで良く知っているはずなのに
知らない風景ばかりです。
どうしてこんな構図が見つかるのか不思議。
涼しくなったら逢坂山隧道あたりを探しに行こうと思います。
目から鱗の写真を楽しみにしています
- 横浜臨海公園さん からの返信 2018/08/13 16:07:00
- 拝復
- イメトラさま、こんにちは。
拙稿旅行記に投票、及び、掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。
この旅行記作成では、直通する道路がなく、ジグザグ状態で現地を訪れたものばかりでした。
新線開通に伴い廃止された旧線の旅行記も現在作成中です。
上程致しましたら、何卒、宜敷くお願いします。
横浜臨海公園
-
- たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん 2017/09/22 01:50:37
- ご無沙汰しております。
- 横浜臨海公園さま
ご無沙汰しております。お身体を壊されていたとか。知らぬこととはいえ失礼を致しました。最近お目にかかれず休止されたのかと思っておりました。
近江に来られていたのですね。新しい膳所駅の写真を見てびっくり致しました。私は膳所の隣石山の住まいで、京都までのJR路線はさほど頻度は高くはありませんが定期的には利用しており、まして京阪電鉄には判官贔屓もあり極力利用しているにも関わらず、知らなかったことも多々ありました。
紺屋ヶ関駅の話は昭和40年代の生まれであれば湖国の小学校で必ず教えていた歴史のひとつであり、懐かしく読ませて頂きました。
相変わらず戦跡巡りを続けておりますが、都道府県によって『まやかしの平和主義』によって、国の行く末を案じつつ斃れて行った若き兵士達のことが履き違えられている気がしてならないことを感じます。私個人が偉そうに言って変わるものではないのかも知れませんが、史実は間違いなく後世に伝えなければならないとは改めて思う次第です。
拙い文章しか書けずお恥ずかしい限りですが、また気が向きましたら是非ご訪問頂きご指導下さいませ。
くれぐれもお身体を大切に。
たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。
- 横浜臨海公園さん からの返信 2017/09/22 10:30:10
- 拝復
- たかちゃんテイムちゃんはるちゃん・ついでにおまけのまゆみはんさま、こんにちは。
拙稿の閲覧、及び、掲示板に投稿を賜りまして、誠に有難うございました。
> 近江に来られていたのですね。新しい膳所駅の写真を見てびっくり致しました。私は膳所の隣石山の住まいで、京都までのJR路線はさほど頻度は高くはありませんが定期的には利用しており、まして京阪電鉄には判官贔屓もあり極力利用しているにも関わらず、知らなかったことも多々ありました。
→何時完成上程に至るか未定ですが、草津-膳所間編では、室戸台風時に瀬田川橋梁上の急行列車脱線転覆事故や膳所駅での貨物列車脱線転覆事故で、脱線転覆した発火した貨車の為に並行する京阪電鉄石山線電車が事故に巻き込まれる寸前だった事などを投稿したいと考えております。
>
> 紺屋ヶ関駅の話は昭和40年代の生まれであれば湖国の小学校で必ず教えていた歴史のひとつであり、懐かしく読ませて頂きました。
→昨今の小中高公立学校では史実を教える事を忌避し、左巻きに依る偏向教育が原因で、史実を捻じ曲げて教えるのが恰も当然との認識たる教師が少なくないのも事実で、あれでは大東亜戦争で亡くなった軍人達は無駄死にだったのかと言う事になります。
事実を事実として後世に伝えるのが我々大人の使命であると思っております。
横浜臨海公園
-
- つばめふぁんさん 2017/07/15 22:02:17
- ご無沙汰しています。
- 横浜臨海公園さま
大変ご無沙汰してしまい、失礼しました。
先日は、5年ぶりの再開にも関わらず訪問をありがとうございます。
体調を崩されていたようですね、大丈夫ですか?
なかなか乗る機会のない東海道本線ですが、こんなに歴史があるのですね。
勉強になりました!
また是非訪問させてください。
ご無理なさらず旅をたのしんでださいね!
つばめふぁん
- 横浜臨海公園さん からの返信 2017/07/23 15:55:05
- 拝復
- つばめふぁんさま、こんにちは。
過日は掲示板にコメントを賜りながら、返事を差し上げるのが遅くなりまして誠に申し訳ございませんでした。
暫くハンドルネームを拝見しておりませんでしたので、活動を止められたのではと、残念に思っておりました。
小生の方は一進一退の状態で、以前の如く歩き回るといった事は既に困難な状態です。
昔投稿した旅行記の改定でもしながらと考えております。
横浜臨海公園
-
- tadさん 2017/07/04 17:09:23
- 体力を回復されたようでなによりです。
- 旅行記が再開され、一安心しています。
今回は途中で台湾総督や台湾鉄道の件も論じられて、興味深く読ませていただきました。
後のコメントで「馬前政権から蔡英文総統に移行した結果、台湾に於いて児玉大将の再評価が高まり、神社の再建へと話が展開しているそうです。」とありますが、これは少し驚きでした。児玉大将への評価は私の知人も以前より高いのですが、このあたりのことがまた読めたらと思いました。
- 横浜臨海公園さん からの返信 2017/07/05 13:56:07
- 拝復
- tadさま、こんにちは。
拙稿に投票、および、掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。
体力の方は未だ改善された訳では無く、歩行にも困難をきたしている状況は変わらぬ状態でございます。
台湾に於ける総統選挙で、前回は国民党馬代表が選出されたものの、馬代表は北京政府ベッタリ政策を実施し、あまつさへ大陸観光客を台湾全土で58箇所に拡大した事から、香港を除く大陸観光客のトラブル続発の為に、現実を目の当たりにさせられた台湾の人々は、大陸人に対し嫌悪感を抱かさせられ、馬前総統に不信を抱き、今回の選挙で民進党蔡英文氏を総統として選択したのは、寧ろ、自然の成り行きではなったかと思います。
所謂、本島人は言うまでもなく、外省人でも3世4世ともなれば、自分は大陸系では無く台湾人なのだというアイデンテイを懐く様になり、教育の解禁で、現在の台湾の基礎を作ったのは、実は日本人たちであり、特に、児玉総督だった事を知る様になってきております。
台湾では尊敬された者を神として廟に祀る習慣があり、児玉神社復活へと動きが出てきたそうです。
尤も、昨今では沖縄本島での動きなどが台湾にも伝えられており、日本から来台する極左の団塊世代への警戒感が出てきているのも亦事実のようです。
横浜臨海公園
- tadさん からの返信 2017/07/05 15:43:57
- RE: 拝復
- こんにちは。
早速の詳しいご返事有難うございます。体力はまだ回復されてはいないとのこと、ぜひご自愛ください。充実した旅行記をお書きになったので、早合点してしまいました。
台湾は家内とこの一月にツアーで行きましたが、確かに台南などにいっても、鄭成功は人気がありますし、八田与一の灌漑の業績も有名ですね。こういうリストに、児玉総督が加わりそうだとのこと、確かに好ましいニュースではあります。反対派も必ず台湾にはいますから、予断は許しませんが、見守りたいものですね。
台湾政治の近年の動向は多少耳にしていますが、歴代の台湾総督等の業績に関しては、ほとんど、知りません。早く体力を回復されて、また、引き続きの旅行記を楽しみにしております。
-
- frau.himmelさん 2017/07/03 11:32:19
- お身体のほうは大丈夫ですか?
- 横浜臨海公園さま、その後体調はいかがですか?
今回また素晴らしい旅行記を発表され、お元気に行動なさっているのだなと少しは安堵しましたものの、心配の方が先に立ちます。
また今回のご旅行記もずっしりと読み応えのある重厚なものですね。
京都・大津辺りは私の日常にはあんまり関係のない地ですが、明治から現代まで時系列に詳しく調査なさったご旅行記から、私の知っている歴史的人物や地名を見つけては喜んでいます。
ヨーロッパでは鉄道に利用することも多い私ですが、ベルギー方式とかオーストリア方式とか地名が出てくると、オーストリア様式・・・、あのゼメリングの山岳鉄道の様式かしらとか、また、後藤新平の名前では、ああ〜あの「しんぺい号」に名前を残す人ね、とか全く横浜臨海公園さまの重厚な旅行記には似つかわしくない単純なことで感動しています。
阿川弘之氏のこともお出しになっていらっしゃいましたね。
鉄道のことはさっぱり門外漢の私ですが、横浜臨海公園さまの旅行記で、忘れていた歴史をひもときつつ、勉強させていただくことは、私の脳の老化防止に大変役立っているのではと、感謝しております。
でも、あれだけのことを調査されて発表なさるのは、大変な時間と労力を要していらっしゃるのでしょうね。
どうかくれぐれもお身体には自重なさってください。
himmel
- 横浜臨海公園さん からの返信 2017/07/03 13:31:57
- 拝復
- frau.himmelさま、こんにちは。
拙稿への投票と掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。
今回の旅行記作成に関しては、健康面から、現地での写真撮影で全部を訪れる事が叶わず、中途半端な印象に終わった感が無きにしも非ずの投稿となってしまいました。
長谷川謹介に関しては、文献が殆ど存在せず、また在っても台湾に関する業績などの記述が不十分との認識で、継接ぎの資料を精査し取捨選択するのに2年半を要しました。
また、内閣鉄道院時代の公刊されている資料は、今から見ると間違いだらけで、裏付けを取るだけでも大変な労力を要したのも亦事実でございす。
長谷川謹介は、戦前の台北駅前公園に銅像が建立されておりましたが、台湾大空襲の際に被弾破壊され、児玉源太郎陸軍大将も神社として建立されていたものが、戦後、蒋介石政権が破壊棄却させた経緯がございました。
先般、台湾人の友人の話では、馬前政権から蔡英文総統に移行した結果、台湾に於いて児玉大将の再評価が高まり、神社の再建へと話が展開しているそうです。
阿川先生には公私共々お世話になりました関係で、台湾に関する記述をさせて頂きました。
次作旅行記上程の際は、亦何卒宜敷くお願い申します。
横浜臨海公園
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