2011/06/15 - 2011/06/15
2位(同エリア127件中)
横浜臨海公園さん
- 横浜臨海公園さんTOP
- 旅行記153冊
- クチコミ811件
- Q&A回答123件
- 1,681,300アクセス
- フォロワー732人
丹那隧道(たんな ずいどう)は東海道本線(とうかいどうほんせん)熱海-函南間に存在する開通当時は総延長7803mの隧道である。
隧道西口三島方坑道工事は大正7年(1918年)7月15日に開始された。
然し、丹那隧道建設工事に於ける必須機材と作業員宿舎建設資材輸送の為に、坑口付近に至る工事専用鉄道建設を必要とし、隧道工事開始に先立ち大正5年(1916年)8月1日に起工する。
江戸期から明治初期に於いて、伊豆國三嶋宿は山間通行の苦労と山賊の襲撃に脅え箱根八里越えを終えた旅人にとって一時の安息地であり、且つ、三嶋大社所在地として門前町を形成させ大いに繁栄した。
然るに、明治初期に東京阪神間に不定期ながら蒸気船が就航し3日程度で到着する事から東海道を徒歩往還者が漸次低下を見せ、更に追討ちをかけるが如く、明治22年(1889年)に逓信省鐵道作業局が國府津-静岡間を一気に開通させた際に、三島町首脳部は三島町付近に駅設置を強く要望したのに対し、鐵道作業局側は路線設定上、急勾配が存在する該地点付近への駅設置は技術上不可能として佐野(現 裾野)-沼津間は三島の西北部を翳めて通過し停車場設置が見送られた為に、三島町の衰退が更に顕著になる次第となったが、当時の低出力蒸気機関車しか存在しない状況下での停車場設置を見送った当局の判断は正しかったものと推定される。
此れが原因で、旧東海道の宿場町、且つ、門前町であった三島は近代輸送の鉄道の恩恵から完全に取残され、以前では想定すらされぬ程の衰退著しい寂れ方を呈する様になった。
駅設置の恩恵から見放された焦慮感は次第に危機感を募らせ、三島の有識者達は佐野-沼津間に新停車場設置請願を反復させたのは寧ろ自然の成り行きであると云えた。
その後、当局に対する請願が通過し鐵道作業局が新停車場設置を決定させた事から、地元資本に依る中伊豆に至る東海道線連絡線たる私鉄建設が決定し豆相鐵道(ずそう てつどう)が設立され明示29年(1896年)2月から測量が開始され、翌々年の明治31年(1898年)5月20日に三島町(現 三島田町)-南條(現 伊豆長岡)間が開通し、更に、同年6月15日に東海道本線初代三島駅(現 下土狩)開業に併せ豆相鐵道も三島町-三島間を延長して三島駅構内に乗入れを果し、東京から御殿場経由の大迂回ながら鉄道利用移動が可能になり、翌明治32年(1899年)7月17日には南條-大仁(おおひと)間が延長された。
即ち、現在の伊豆箱根鉄道(いずはこね てつどう)駿豆本線である。
現在にも残す 鐵道唱歌(てつどう しょうか)第1篇初版発売は此の開業直後の明治33年(1900年)5月1日で三島駅は第16曲目に早速登場し、
三島は近年拓けたる
(みしまは きんねん ひらけたる)
豆相線路の岐道
(ずそうせんろの わかれみち)
驛とは此地の名を得たる
(えきとは このちのなをえたる)
官幣大社の宮居在り♪
(かんぺいたいしゃの みやいあり)
と作詞されていた。
該鐵道は早くも明治40年(1907年)7月19日に動産不動産一式を伊豆鐵道(いず てつどう)に譲渡し会社は解散するが、伊豆鐵道は明治45年(1912年)4月1日に三島六反田(現 三島広小路)-沼津停車場間を運営していた駿豆電気鐵道(すんず でんきてつどう)に吸収合併され、大正6年(1917年)11月5日に社名を駿豆鐵道(すんず てつどう)に変更する。
駿豆鐵道では旧駿豆電気鐵道保有の諸電気施設を活用して、翌大正7年(1918年)8月10日に三島町-大場間、翌大正8年(1919年)5月25日には三島-三島町間が直流600ボルト電化され鐵道院から山手線電化創成期時代の中古電車の払下を受け運転された。
丹那隧道(たんな ずいどう)は大正7年(1918年)3月21日に熱海口坑門建設予定地に於いて東西工事関係者一同を集め起工式が挙行された。
丹那隧道西口掘削工事は新橋驛本屋2階に存在した熱海線建設事務所内に於いて籤引に拠り鹿島組(現 鹿島建設)請負に決定し、大正7年(1918年)7月5日に着工したが、当時の西口工事現場たる大竹函南地区は真梨川流域で沼沢地帯を形成し人家は農家4軒程度が存在するに過ぎぬ大蛇無尽の超過疎地帯だった為に、先ず隧道工事開始前に先立ち大正5年(1916年)3月15日附で建甲第193號公文書を以って路線設置承認を得て鐵道院直轄工事に拠り同年8月1日に極狭軌762mmの軽便鉄道が駿豆鐵道大場(だいば)駅から大竹地区まで約3.8km区間を着工し、途中橋梁7ヶ所と最急40‰勾配で施設され工事価格103997円40銭を要し大正7年(1918年)7月1日に竣工した。
完成後は工事資材が東海道本線三島駅から駿豆鐵道大場駅まで貨車を乗入させ大場駅で軽便鉄道車輌に積替えられ大竹に運ばれたが、此の為に、駿豆鐵道は輸送力増強を名目に鐵道院から全面資金援助を得て三島-大場間の沿線施設たる路盤や橋梁等々が重量車輌通過対応対策として従来設備の橋台や橋桁を交換し路盤強化工事が施行され完成後は隧道建設工事専用列車が運転可能となった。
此の時に路盤施設強化拡充を実行した事は、後に大東亜戦争後の昭和25年(1950年)10月1日から東京-三島-修善寺間に於いて国鉄モハ80系湘南電車が乗入運転開始したが、日本国有鉄道線との間に架線電圧相違問題こそ残存したが、基礎構造強固を以って国鉄大型車輌直通運転を容易にし駿豆線沿線に寄与ならしめる。
因みに、大場-大竹間の軽便鉄道建設資材一式は北海道の湧別軽便線(ゆうべつ けいべんせん)が改軌で遊休施設資材を転活用されたが、湧別軽便線は買収線区以外で唯一、鐵道院が極狭軌線の新開設路線で留辺蘂(るべしべ)を起点に遠軽(えんがる)-社名淵(さなふち)(後 開盛)(かいせい)間を結ぶ、現在の石北本線(せきほく ほんせん)と平成元年(1989年)4月30日に全線廃止した名寄本線(なよろ ほんせん)を形成する路線だったが、開通以前から開拓者関係以外の利用は見込めず輸送量過少を以って数値が算出されていた為に敢えて極狭軌で建設されたが、折から第1次世界大戦中の好景気に支えられ、現実には木材資材等々需要要求から輸送量が予測を遥かに上回る結果だった為に、留辺蘂駅に於ける貨物積替えの煩瑣は日常的に貨物の滞貨が深刻な状況を現出させ、現場の要求も有り敷設翌々年に改軌し直通運転に対する必要性に迫られ、開通後僅か1年余で改軌を余儀無くされ、此の為に改軌後に不要資材を隧道工事の為に転用可能となったが、大場駅での積替えに対し短距離の軽便線区間では無駄が多く後に大場駅に於いても積替量が多い事から滞貨が著しい状態が現出し隧道工事に支障する事態すら現出する。
湧別軽便線で使用された小型蒸気機関車はケ200型4両が使用されたが、丹那隧道東西建設現場に2両ずつ配備され西口用にはケ200、及び、ケ202が使用された。
然るに、資材輸送ルートが確立したとは申せ、大場駅に於ける積替えの非能率性はロスが大きく大正11年(1922年)11月に極狭軌線は狭軌線に改軌され、明治30年(1897年)に北海道炭礦鐵道(ほっかいどう たんこう てつどう)発注品で国有化後は鐵道省所有の米ボールドウィン社製造で簡易線級急曲線に於いても使用可能な7200型テンダー式蒸気機関車7221、及び、7222の2両が投入され、此の結果、発送資材積載貨車が大竹まで直接乗入可能になり作業効率が改めて飛躍的に増大する。
また原則的に大場-大竹間は工事用資材運搬専用鉄道だったが、工事関係者、及び、該家族に限定利用とし、朝昼夕3往復の旅客輸送を実施し、その際は貨物列車に鐵道院貸与の単車型客車が連結され地元出身車掌が乗務した。
関東大震災(かんとうだいしんさい)(大正12年(1923年)9月1日)発生時は震源至近の隧道だったにも拘らず坑道内に山鳴りがして初めて地震だと気付く状態であり、坑内より坑外に出て家屋倒壊等々被害の実態に驚愕したとされ、丹那隧道内では本坑一部に亀裂が発生した程度であり、寧ろ、昭和5年(1930年)11月26日発生の北伊豆地震(きたいず じしん)の方が丹那隧道工事関係に於いて被害甚大で、工事中の先導坑に活断層(Living or actiing fault)が発生し、その結果、熱海坑口が北、三島坑口が南に移動し、本来は直進状たる本坑をも修整を余儀無くされ、現在も見られるが如き緩やかなS字状曲線を描き完成を見る。
隧道内工事進捗に拠り、昭和6年(1931年)4月1日附で西口工事現場では人員削減、及び、人員整理を理由に鹿島組雇の日本人労働者53名、朝鮮人労働者12名、計65名が初めて解雇を実行した。
因みに、同年の内務省警保局作成極秘資料に拠れば、静岡県内に於ける朝鮮人登録労働者総数は2411名で、その内、丹那隧道西口工事現場従事作業員は総数306名だったと記録されている。
駿豆鐵道本線は丹那隧道開通前日の昭和9年(1934年)11月30日の最終列車通過後、路線付替工事を実施し、下土狩駅への路線を廃止し新三島駅へのアプローチ工事を施工し現在の如き急曲線が現出する。
該切替は鐵道省直轄全面工事として駿豆鐵道に不利益を被らせる事無く工事費用は全額鐵道省負担とし施行された。
丹那隧道開通当日の昭和9年(1934年)12月1日、三島で挙行された丹那隧道開通記念式典に折から国会会期中で出席出来なかった第31代内閣総理大臣 岡田啓介(おかだ けいすけ)(慶應4年(1868年)2月14日~昭和27年(1952年)10月17日)(昭和9年(1934年)7月8日~昭和11年(1936年)3月9日組閣)の鐵道大臣 内田信也(うちだ のぶや)(明治13年(1880年)12月16日~昭和46年(1971年)1月17日)(昭和9年(1934年)7月8日~昭和11年(1936年)3月6日在任)は、多忙にも拘らず鹿島組組長 鹿島精一(かしま せいいち)(明治8年(1875年)7月1日~昭和22年(1947年)2月6日)及び、東口工事担当の鐵道工業社長 菅原恒賢(すがわら つねみ)(安政6年(1859年)8月22日~昭和15年(1940年)4月10日)両名を本省大臣室に招致し、丹那隧道建設に長年貢献した功に依り当時としては異例たる監督官庁大臣が民間企業に対し感謝状を贈与した。
鐵道省からの帰路、鹿島と菅原は17年に亘る苦労が走馬燈の如く甦えり脳裏を翳めたに相違ない。
その数々の苦しみを想い出しながら鹿島と菅原両名の頬には涙が止めもなく伝い仕舞には脇目も憚らず男泣きに号泣したそうである。
丹那隧道は後に三島口坑門上部から線路上への土砂崩落が著しく列車運転保安上からも問題が多く、昭和47年(1972年)から翌年にかけ坑門部を延長し防護体を設置し総延長が7841mになった。
尚、岩波書店発売の 広辞苑(こうじえん)に於ける丹那隧道に関する項目で丹那隧道総延長を7840mと記述しているが明らかに誤りである
表紙の写真は、
丹那隧道工事殉職者慰霊碑
東海道本線歴史的痕跡探訪記
~東京-濱松町間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10701644
~東京驛編~
~汐留-濱松町-品川間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10797199
~品川-川崎間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10502858
~川崎-横濱間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10711843
~横濱駅移設変転史編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10316826
~横濱-大船間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/10713813
~大船-平塚間編 明治頌歌~
~平塚-國府津間編 明治頌歌~
~國府津-根府川間編~
http://4travel.jp/travelogue/10298330
~根府川-熱海編~
http://4travel.jp/travelogue/10310352
~丹那隧道完成秘話 丹那隧道碑文から読み取れし或る歴史的事実~
http://4travel.jp/travelogue/10291350
~丹那隧道完成秘話 三島口建設工事鉄道線探訪記~
http://4travel.jp/travelogue/10575630
~熱海-沼津間編~
~沼津駅驛編~
http://4travel.jp/travelogue/10294787
~沼津港線編~
http://4travel.jp/travelogue/10621891
~沼津-富士間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10623829
~富士-興津間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10625542
~興津-静岡間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10859308
~静岡-島田間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10855589
~島田-掛川間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10858139
~掛川-濱松間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10858815
~濱松-豊橋間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10858508
~豊橋-岡崎間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10870287
~岡崎-大府間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10898135
~大府-名古屋-尾張一宮間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/10898177
~名古屋驛編~
~尾張一宮-岐阜-大垣間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/10990946
~美濃赤坂支線編~
https://4travel.jp/travelogue/10992335
~大垣-垂井-関ケ原間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11095931
~大垣-新垂井-関ケ原間編~
https://4travel.jp/travelogue/11200178
~関ケ原-米原間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11099834
~関ケ原-深谷-長濱間(廃止線)編 明治頌歌~
~米原-近江八幡間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11099568
~近江八幡-草津間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11214049
~草津-膳所間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11102339
~膳所-濱大津間(廃止線)編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/11157145
~膳所-稲荷-京都間(廃止線)編 明治頌歌~
~膳所-山科-京都間(現行線)編 大正浪漫~
http://4travel.jp/travelogue/11157106
~京都驛編 明治頌歌~
~京都-向日町間編 明治頌歌~
~向日町-高槻間編 明治頌歌~
~高槻-吹田間編 明治頌歌~
~吹田-淡路-大阪間(廃止線)編 明治頌歌~
~吹田-新大阪-大阪間(現行線)編 大正浪漫~
~大阪駅周辺編~
~大阪-西宮間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11366806
~西宮-灘間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11321266
~灘-神戸間編 大正浪漫~
https://4travel.jp/travelogue/11245946
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
下土狩(しもとがり)駅
駅本屋
明治31年(1898年)6月15日逓信省鐵道作業局に拠り初代三島駅として開業。
昭和9年(1934年)9月30日24時まで東海道本線三島駅を名乗る。
同年10月1日0時〜同年11月30日24時まで重複混乱を避ける為に
駅名改称に拠り東海道本線下土狩駅。
同年12月1日0時〜現在 御殿場線下土狩駅。
http://www.gotembasen.net/stinfo/shimotogari.html -
下土狩駅前
コミュニティながいずみ(こみゅにてぃ ながいずみ)
旧御殿場線貨物取扱所跡
コミュニティながいずみ
駿東郡長泉町下土狩新田東1683−11
?: 055−988−7800
御殿場線下土狩駅 徒歩30秒
http://japan.nagaizumi.org/commu/下土狩駅 駅
-
下土狩駅前
県道22号線
該道路は初代三島駅開業に伴い、該駅対田方郡三島町中心地連絡取付道路として明治31年(1898年)3月に敷設された。
大いちょう通り(おおいちょうどおり)の愛称で知られている。 -
下土狩駅
駿豆鐵道旧駅ホーム跡
撮影位置付近に旧駿豆鐵道線用ホームが存在。
昔ホームが存在した雰囲気が残存。下土狩駅 駅
-
下土狩駅
駅構内
駿豆鐵道旧線跡
駿東郡長泉町下土狩薄原1283−11下土狩駅 駅
-
下土狩-三島広小路間
駿豆鐵道旧線跡
下土狩駅から駿豆鐵道線路は東海道本線と分岐し築堤を登り勾配で登攀。
現三島駅開業に依り旧線廃止後は鐵道省買収所有地を経て日本国有鉄道が所有し築堤も平成初期まで残存し東海道新幹線車内からも望見可能だったが、民営分割後は国鉄清算事業団所有地となり民間払下後は整地され築堤痕跡は消滅。
駿東郡長泉町薄原1445
御殿場線下土狩駅 徒歩2分 -
下土狩-三島広小路間
駿豆鐵道旧線跡
駿東郡長泉町下土狩薄原1487−31
御殿場線下土狩駅 徒歩4分下土狩駅 駅
-
下土狩-三島広小路間
駿豆鐵道旧線跡
駿東郡長泉町下土狩薄原1537−13
御殿場線下土狩駅 徒歩5分下土狩駅 駅
-
下土狩-三島広小路間
駿豆鐵道旧線跡
駿東郡長泉町下土狩開キ339−9
御殿場線下土狩駅 徒歩5分下土狩駅 駅
-
下土狩-三島広小路間
駿豆鐵道旧線跡
道路奥突当りは東海道新幹線高架築堤。
東海道新幹線建設障害区間。
東海道新幹線建設に伴い真先に築堤撤去。
駿東郡長泉町下土狩薄原1445
御殿場線下土狩駅 徒歩6分下土狩駅 駅
-
下土狩-三島広小路間
駿豆鐵道旧線跡
該道路左側住宅群が旧線路跡地。
駿東郡長泉町下土狩横溝391−1
東海道本線三島駅南口 徒歩13分 -
下土狩-三島広小路間
駿豆鐵道旧線跡
旧門川橋梁跡
煉瓦積橋台が残存。
駿東郡長泉町下土狩開キ375−4
東海道本線三島駅南口 徒歩12分 -
下土狩-三島広小路間
駿豆鐵道旧線跡
旧門川橋梁橋台
駿東郡長泉町下土狩開キ342−8
東海道本線三島駅南口 徒歩12分 -
下土狩-三島広小路間
駿豆鐵道旧線跡
旧門川橋梁橋台跡
駿東郡長泉町下土狩開キ342−8
東海道本線三島駅南口 徒歩12分 -
下土狩-三島広小路間
駿豆鐵道旧線跡
旧門川橋梁橋台跡
現在は一般住宅駐車場の一角。
橋台上部を削った為に構造上の煉瓦積状態が克明に残存。
駿東郡長泉町下土狩開キ342−8
東海道本線三島駅南口 徒歩12分 -
下土狩-三島広小路間
駿豆鐵道旧線
河原ヶ谷(現 三島)-天神原間建設工事区間は昭和7年(1932年)3月20日に竣工したが、此の結果、工事完成区間と既存線たる駿豆鐵道本線と平面交差部が発生した。
此れのままの状態では双方衝突の可能性も伏在する事から、鐵道省熱海工事事務所は、現地に信号保安装置を設備し、更に、信号保安要員を配置して万全の処置を講じた。
駿東郡長泉町下土狩開キ350−1
東海道本線三島駅南口 徒歩12分 -
下土狩-三島広小路間
駿豆鐵道旧線跡
旧岩崎木工所跡地
駿東郡長泉町下土狩柄在家143−7
東海道本線三島駅南口 徒歩12分 -
下土狩-三島広小路間
駿豆鐵道旧線跡
駿東郡長泉町下土狩柄在家140−3
東海道本線三島駅南口 徒歩12分 -
下土狩-三島広小路間
駿豆鐵道旧線跡
Z会出版下土狩ビル
玄関付近が路線跡。
駿東郡長泉町下土狩柄在家105−17
東海道本線三島駅南口 徒歩11分 -
下土狩-三島広小路間
駿豆鐵道旧線跡
パストラルハイム三島壱番館(ぱすとらるはいむ みしまいちばんかん)
駐車場
駿東郡長泉町下土狩柄在家4−2
東海道本線三島駅南口 徒歩11分 -
下土狩-三島広小路間
駿豆鐵道旧線跡
旧箱根川橋梁跡
石積橋台が残存。
駿東郡長泉町下土狩柄在家140−3
東海道本線三島駅南口 徒歩11分 -
下土狩-三島広小路間
駿豆鐵道旧線跡
旧箱根川橋梁跡
但し、橋桁は路線撤去後、後年設置された別物。
駿東郡長泉町下土狩柄在家140−3
東海道本線三島駅南口 徒歩11分 -
下土狩-三島広小路間
駿豆鐵道旧線跡
パストラルハイム三島壱番館内小公園
写真中央部が線路跡。
三島市西若町6−5
東海道本線三島駅南口 徒歩10分 -
下土狩-三島広小路間
駿豆鐵道旧線跡
伊豆箱根タクシー西若営業所(いずはこねたくしー にしわか えいぎょうしょ)
駐車場内を直進していた。
三島市西若町15−37
?: 055−975−2895
東海道本線三島駅南口 徒歩7分
http://www.izuhakone.co.jp/taxi/shop/index.html -
下土狩-三島広小路間
駿豆鐵道旧線跡
伊豆箱根タクシー西若営業所内
該正面道路が旧線路跡。
三島市西若町15−37
?: 055−975−2895
東海道本線三島駅南口 徒歩8分 -
下土狩-三島広小路間
駿豆鐵道旧線跡
伊豆箱根タクシー西若営業所内
合流点。
三島市西若町15−37
?: 055−975−2895
東海道本線三島駅南口 徒歩8分 -
三島-三島広小路間
現路線合流地点
旧駿豆鐵道線は直進していた。
パストラルハイム三島壱番館が線路に向かい直線上に存在する事に注意。
三島市西若町5−4
東海道本線三島駅南口 徒歩8分三島駅 駅
-
三島-三島広小路間
現路線合流地点
現行線は右折。
三島市西若町5−4
東海道本線三島駅南口 徒歩8分三島駅 駅
-
三島-三島広小路間
蓮沼川橋梁(はすぬまがわ きょうりょう)
丹那隧道建設に伴う重量物資輸送の為に、鐵道院全面補助に拠り軌道強化。
橋台が追強化された痕跡残存。
三島市広小路町3−1
伊豆箱根鉄道駿豆本線三島広小路駅 徒歩1分三島広小路駅 駅
-
三島-三島広小路間
蓮沼川橋梁
三島市広小路町3−1
伊豆箱根鉄道駿豆本線三島広小路駅 徒歩1分三島広小路駅 駅
-
三島広小路(みしま ひろこうじ)駅
駅本屋
大正3年(1914年)広小路連絡所開設
昭和3年(1930年)4月18日 駅開業
写真中央から伊豆箱根鉄道軌道線が着発した。 -
三島広小路-三島田町間
旧広小路連絡所敷地跡
現在の三島広小路駅は旧東海道山側に存在するが、昭和初期まで駅本屋、及び、ホームは旧東海道を挟んで反対側に存在した。
三島市広小路町3−1
伊豆箱根鉄道駿豆本線三島広小路駅 徒歩20秒 -
三島広小路-三島田町間
旧広小路連絡所敷地跡
写真左手空地が敷地跡。
三島市広小路町3−1
伊豆箱根鉄道駿豆本線三島広小路駅 徒歩20秒 -
三島広小路-三島田町間
源兵衛川橋梁(げんべいがわ きょうりょう)
構築者 寺尾源兵衛の名に由来。
三島市広小路町12−1
伊豆箱根鉄道駿豆本線三島広小路駅 徒歩2分 -
三島広小路-三島田町間
源兵衛川橋梁
三島市広小路町12−1
伊豆箱根鉄道駿豆本線三島広小路駅 徒歩2分
御殿川橋梁(ごてんがわ きょうりょう)
人道橋のみ原型残存。
三島市北田町2−26
伊豆箱根鉄道駿豆本線三島田町駅 徒歩3分 -
三島広小路-三島田町間
旧源兵衛川橋梁跡
丹那隧道工事に伴う路盤強化の際に河川改修を実施し新架橋し旧橋は廃棄。
三島市広小路町12−1
伊豆箱根鉄道駿豆本線三島広小路駅 徒歩2分 -
三島広小路-三島田町間
旧源兵衛川橋梁跡
三島市広小路町12−1
伊豆箱根鉄道駿豆本線三島広小路駅 徒歩2分 -
三島広小路-三島田町間
御殿川橋梁(ごてんがわ きょうりょう)
三島市北田町2−26
伊豆箱根鉄道駿豆本線三島田町駅 徒歩3分三島田町駅 駅
-
三島広小路-三島田町間
御殿川橋梁
人道橋のみ原型残存。
三島市北田町2−26
伊豆箱根鉄道駿豆本線三島田町駅 徒歩3分三島田町駅 駅
-
三島田町(みしま たまち)駅
駅本屋
明治31年(1898年)5月20日 三島町駅として開業
昭和31年(1956年)2月1日 現駅名改称三島田町駅 駅
-
三島二日町(みしま ふつかまち)駅
駅本屋
昭和7年(1932年)12月15日開業三島二日町駅 駅
-
三島二日町-大場間
大場川橋梁
河川改修に伴いPCコンクリート橋梁に架替が実施され橋台共に更新済。 -
大場(だいば)駅
駅本屋
明治31年(1898年)5月20日開業
大正7年(1918年)7月1日 丹那隧道西口工事建設線開通大場駅 駅
-
大場駅
旧構内貨物取扱所跡
現 コーポラス大場
三島市大場163−18
伊豆箱根鉄道駿豆本線大場駅東口 徒歩1分大場駅 駅
-
大場駅
旧構内貨物取扱所跡
当時の隧道建設資材輸送路は、
?)東京汐留-三島-大場-大竹
?)横濱港-横濱高島-三島-大場-大竹
?)沼津港-沼津-三島-大場-大竹
が主流とされた。
表記起点駅は現在全部廃止済。
三島市大場163−18
伊豆箱根鉄道駿豆本線大場駅東口 徒歩1分大場駅 駅
-
大場-平井間
丹那隧道西口工事軽便鉄道線跡
県道141号 清水函南停車場線
工事軽便線取付部分。
田方郡函南町大場233−4
伊豆箱根鉄道駿豆本線大場駅東口 徒歩3分大場駅 駅
-
大場-平井間
丹那隧道西口工事軽便線跡
県道141号 清水函南停車場線
構内貨物取扱所から工事軽便線への取付部分。
田方郡函南町大場240
伊豆箱根鉄道駿豆鉄道本線大場駅東口 徒歩3分大場駅 駅
-
大場-平井間
丹那隧道西口工事軽便線跡
菊川橋梁(きくがわ きょうりょう)
現在は架替られ遺構残存無し。
田方郡函南町大場399−4
伊豆箱根鉄道駿豆本線大場駅 伊豆箱根バス東王日停留所降車 徒歩1分大場駅 駅
-
大場-平井間
丹那隧道西口工事軽便線跡
菊川橋梁端
馬頭観音碑
隧道工事関係で事故死した馬霊を偲ぶ。
田方郡函南町大場399−4
伊箱根鉄道駿豆本線大場駅 伊豆箱根バス東王日停留所降車 徒歩1分大場駅 駅
-
大場-平井間
丹那隧道西口工事軽便線跡
田方郡函南町南上沢230−4
伊豆箱根鉄道駿豆本線大場駅 伊豆箱根バス柏崎停留所降車 徒歩2分大場駅 駅
-
大場-平井間
丹那隧道西口工事軽便線跡
田方郡函南町南上沢230−4
伊豆箱根鉄道駿豆本線大場駅 伊豆箱根バス柏崎停留所降車 徒歩2分大場駅 駅
-
大場-平井間
上沢堰(うえざわ せき)
丹那隧道掘削進行に坑内は異常出水に見舞われたが、他方、該地域付近では時ならぬ水飢饉が発生し農民達の生活を脅かす深刻で困惑、且つ、深刻な事態になった。
鐵道省では被害農家に対し灌漑用に丹那隧道内部から流出する湧水を川に流水し各方面に堰を設置し対処した。
田方郡函南町上沢236−5
伊豆箱根鉄道大場駅 伊豆箱根バス上沢停留所降車 徒歩2分大場駅 駅
-
大場-平井間
丹那隧道西口工事軽便線跡
築堤で手前を越河。
田方郡函南町平井無番地
伊豆箱根鉄道大場駅 伊豆箱根バス逓信病院前停留所降車 徒歩11分大場駅 駅
-
大場-平井間
丹那隧道西口工事軽便線跡
元来は築堤。
廃止後築堤は削除去れ道路化。
田方郡函南町平井下平井無番地
伊豆箱根鉄道大場駅 伊豆箱根バス逓信病院前停留所降車 徒歩11分大場駅 駅
-
大場-平井間
丹那隧道西口工事軽便線跡
該地を40‰の登り急勾配で登攀
重量物資輸送では苦労が絶えなかった。
田方郡函南町平井下平井無番地
伊豆箱根鉄道大場駅 伊豆箱根バス下平井停留所降車 徒歩8分大場駅 駅
-
大場-平井間
丹那隧道西口工事軽便線跡
田方郡函南町平井下平井563
伊豆箱根鉄道大場駅 伊豆箱根バス下平井停留所降車 徒歩7分大場駅 駅
-
大場-平井間
丹那隧道西口工事軽便線跡
該地付近は大正中期頃まで山葵田だったが丹那隧道掘削工事進捗に依り芳醇な水が枯果て地目転換し現在は畑作地。
田方郡函南町平井371−1
伊豆箱根鉄道伊豆箱根バス下平井停留所降車 徒歩5分大場駅 駅
-
平井-大竹間
天地神社
参道口
反那隧道西口工事軽便線跡
写真中央道路付近に 平井列車交換所 が設置されていた。
田方郡函南町平井1112
東海道本線函南駅 伊豆箱根バス平井停留所降車 徒歩3分函南駅 駅
-
平井-大竹間
天地神社
正面
旧村社格。
田方郡函南町平井1116−1
東海道本線函南駅 伊豆箱根バス平井停留所降車 徒歩2分函南駅 駅
-
平井-大竹間
水道工事開通記念碑
丹那隧道掘削工事進捗と共に坑内は大湧水に見舞われ工事進行が遅延し始めたが、他方、丹那隧道上部たる丹那盆地では他ならぬ水飢饉が襲い村民達の生活を苦しめる。
即ち、隧道工事進捗に拠る隧道本体が水抜坑と化した事が原因だったが、鐵道省は村民救済を以って、排出された坑内湧水を導管で送水すべく工事を施工し完成させた。
該石碑は工事完成を祝し建立された物。
昭和4年(1929年)3月着工し、同年11月竣工した旨、記述が見られる。
田方郡函南町平井1116−1
東海道本線函南駅 伊豆箱根バス平井停留所降車 徒歩2分函南駅 駅
-
平井-大竹間
天地神社
記念碑裏面拡大
池原栄治に就いてはNTT東日本伊豆病院に於いて後述。
田方郡函南町平井1116−1
東海道本線函南駅 伊豆箱根バス平井停留所降車 徒歩2分函南駅 駅
-
平井-大竹間
丹那隧道西口工事軽便線跡
函南駅入口交差点
該鉄道は左手から左折していた。
田方郡函南町平井101
東海道本線函南駅 伊豆箱根バス平井停留所降車 徒歩1分函南駅 駅
-
平井-大竹間
丹那隧道西口工事軽便線跡
現 県道田原野函南停車場線
道路右手が路線跡
田方郡函南町平井75
東海道本線函南駅 伊豆箱根バス平井停留所降車 徒歩3分函南駅 駅
-
平井-大竹間
丹那隧道西口工事軽便線跡
現 県道田原野函南停車場線
田方郡函南町平井56−1
東海道本線函南駅 伊豆箱根バス上平井停留所降車 徒歩2分函南駅 駅
-
平井-大竹間
丹那隧道西口工事軽便線跡
現 県道田原野函南停車場線
写真右手崖裾が線路跡。
田方郡函南町平井75
東海道本線函南駅 伊豆箱根バス横当り停留所降車 徒歩5分函南駅 駅
-
平井-大竹間
丹那隧道西口工事軽便線跡
現県道田原野函南停車場線
土手上が旧線路跡。
田方郡函南町平井182−40
東海道本線函南駅 伊豆箱根バス横当り停留所降車 徒歩3分函南駅 駅
-
平井-大竹間
丹那隧道西口工事軽便線跡
田方郡函南町平井181−15
東海道本線函南駅 伊豆箱根バス横当り停留所降車 徒歩6分函南駅 駅
-
平井-大竹間
丹那隧道西口工事軽便線跡
人家が完全に途絶える。
付近は深山幽谷。
田方郡函南町平井無番地
東海道本線函南駅 徒歩18分函南駅 駅
-
平井-大竹間
丹那隧道西口工事軽便線跡
中川組紐会社函南工場
該鉄道開設当時の終点で元荷降場。
田方郡函南町大竹1746
東海道本線函南駅 徒歩5分函南駅 駅
-
函南(かんなみ)駅
駅本屋
昭和9年(1934年)12月1日開業
該駅舎は開業当時の物だが民営化後に徹底的に改装され原型を留めず。 -
函南駅
駅構内
神戸方函南駅 駅
-
函南駅
旧駅構内
神戸方
該工事軽便線は左手 中川組紐会社函南工場から合流しスイッチバックして構内に入線していた。函南駅 駅
-
熱海-函南間
丹那隧道
該隧道殉職者慰霊碑は建立当初、写真左手に存在したが、東海道新幹線建設工事に支障する為に現位置に移動した。
作家 吉村 昭(よしむら あきら)(昭和2年(1927年)5月1日〜平成18年(2006年)7月31日)著 闇を裂く道(やみをさくみち)は丹那隧道掘削工事を題材にしたノンフィクション作品だが、該作品中に於いて該慰霊碑が該隧道三島坑口左手所在との記述は明らかに誤りである。 -
熱海-函南間
丹那隧道 -
熱海-函南間
丹那隧道 -
丹那隧道工事殉職者慰霊碑
敷地入口
建立当時は東海道本線を挟み反対側に存在したが、東海道新幹線建設に支障する事から昭和37年(1962年)に現位置に移転。
田方郡函南町平井746−2
東海道本線函南駅 徒歩4分函南駅 駅
-
丹那隧道工事殉職者慰霊碑(たんな ずいどう こうじ じゅんしょくしゃ いれいひ)
鹿島組(現 鹿島建設)社長 鹿島精一の手に依り昭和9年(1934年)10月21日建立。
田方郡函南町平井746−2
東海道本線函南駅 徒歩4分函南駅 駅
-
丹那隧道工事殉職者慰霊碑
碑本体
田方郡函南町平井746−2
東海道本線函南駅 徒歩4分函南駅 駅
-
丹那隧道工事殉職者慰霊碑
田方郡函南町平井746−2
東海道本線函南駅 徒歩4分函南駅 駅
-
丹那隧道工事殉職者慰霊碑
碑本体
前方線路は東海道本線
隧道工事完成後、石碑は東海道本線を通過する列車を静かに見守っている。
田方郡函南町平井746−2
東海道本線函南駅 徒歩4分函南駅 駅
-
平井-大竹間
丹那隧道西口工事軽便線跡
山腹中腹が軽便線跡
田方郡函南町平井8−5
東海道本線函南駅 徒歩5分函南駅 駅
-
平井-大竹間
丹那隧道西口工事軽便線大竹火力発電所支線跡
現 県道田原野函南停車場線
途中で大竹本線から分岐した。
左手 函南駅前郵便局横道が路線跡。
田方郡函南町平井10−19
東海道本線函南駅 徒歩6分函南駅 駅
-
平井-大竹間
丹那隧道西口工事軽便線大竹火力発電所支線跡
函南冷川橋梁跡
田方郡函南町大竹178−4
東海道本線函南駅 徒歩2分函南駅 駅
-
平井-大竹間
丹那隧道西口工事軽便線大竹火力発電所支線跡
函南冷川橋梁跡
コンクリート製橋脚が残存。
田方郡函南町大竹178−4
東海道本線函南駅 徒歩2分函南駅 駅
-
平井-大竹間
丹那隧道西口工事軽便線大竹火力発電所支線跡
函南冷川橋梁跡
コンクリート製橋脚が両岸共現存。
大竹火力発電所支線は大正9年(1920年)6月開通。
田方郡函南町大竹178−4
東海道本線函南駅 徒歩2分函南駅 駅
-
鐵道省大竹火力発電所跡(てつどうしょう おおたけ かりょくはつでんしょ あと)
かつて、田方郡函南大竹地域一帯に於ける電力供給は富士水力発電が独占支配していたが、鐵道院は丹那隧道掘削工事開始にあたり、該企業から電力供給を受くるべく事前想定していたが、折しも、第1次世界大戦(だいいちじせかいたいせん)(大正3年(1914年)7月28日〜大正7年(1918年)11月11日)勃発に伴い、欧米向輸出工業生産が激増した事から、当初想定価格より電力料金単価が暴騰し鉄道院としては該電力会社提示金額受諾は到底受入れ難く使用は不可能と判断された為に、鐵道院が独自に直営発電所建設を決定し、直轄工事として建設費988920円を要し大正9年(1920年)6月に竣工した。
高さ53.3m、口径2.7mの大煙突が東海道本線列車車窓から遠目でも望見され函南名所の1つとなった。
然るに、皮肉な事に、該発電所完成時は第1次世界大戦終結後に於ける世界的大不況時代に突入し、該電力会社電力販売価格も著しい低下を見せた事で該電力会社の懇願に依り廉価購入が可能になった事から、該火力発電所は該電力会社停電時に限定し使用される以外、殆ど稼動する機会も無く、更に、追討ちをかけるが如く、関東大震災(大正12年(1923年)9月1日)で該発電所外壁損傷等々の被害が生じたが、鐵道省は修理不要と判定し損傷箇所は放置された。
丹那隧道完成後は不要資産として民間に払下げられ、日華事変(にっか じへん)(昭和12年(1937年)7月7日〜昭和16年(1941年)12月8日)以後はエボナイト製造工場として自動車ハンドル製造所となり、戦後は東海製菓函南工場を経て三共製薬が保有したが件の大煙突の存在は変わらなかった。
昭和39年(1964年)に廃止され建築物は解体され整地化された後、現在は住宅地となった。
田方郡函南町大竹180
東海道本線函南駅 徒歩1分函南駅 駅
-
函南-三島間
東海道本線
来光川暗渠
大築堤
田方郡函南町大竹無番地
東海道本線函南駅 徒歩4分函南駅 駅
-
函南-三島間
東海道本線
来光川暗渠全景
背後は185系踊り子号
田方郡函南町大竹無番地
東海道本線函南駅 徒歩4分函南駅 駅
-
NTT東日本伊豆病院(NTTひがしにほん いず びょういん)
旧逓信省伊豆結核療養所
池原英治(いけはら えいじ)(明治20年(1887年)8月10日〜昭和8年(1933年)4月21日)は、新潟県出身で昭和初期の熱海建設事務所長。
丹那隧道工事は坑道掘削工事進行の都度、異常大出水に見舞われ工事遅延の最大要因ともなったが、他方、隧道上部の丹那盆地では、大正13年(1924年)夏頃より、畑毛、細井澤、大久保澤、檜澤各地区で時ならぬ渇水騒動が表面化していた。
当時、鐵道省は隧道内大湧水と隧道上部に於ける異常渇水とは因果関係が存在せず無関係との態度に終始したが、やがて、調査の結果、丹那盆地上に於ける断水状態が隧道工事に拠り水抜坑の役目を果たしている事が証明され、鐵道省も無視する訳にもならなくなり、具体的実行策を迫られる事になった。
池原所長は、該渇水被害農家を救済すべく、当時該地が桑畑たる事に着眼し、丹那隧道から流出湧水を該地に流入させ、地目変更で田園にする事で地元被害農家救済を立案提議したが、結局、該救済案は採用されず、該地は更地化され逓信省所有となり、逓信病院伊豆結核療養所が建設され、戦後、逓信省が郵政省と電気通信省分離時に電気通信省所属から日本電信電話公社を経て現在は後身組織たるNTT東日本伊豆病院となる。
因みに、静岡県一帯は湯河原地区を除き全域NTT西日本エリアだが該病院所有はNTT東日本である。
NTT東日本伊豆病院
田方郡函南町平井750
?: 055−978−2320
伊豆箱根鉄道大場駅 伊豆箱根バス逓信病院停留所降車 徒歩1分
http://www.ntt-east.co.jp/izu_mhc/大場駅 駅
-
函南町役場
旧鐵道省取得用地跡
田方郡函南町平井750
?: 055−
伊豆箱根鉄道大場駅 伊豆箱根バス岐れ道停留所降車 徒歩1分
http://www.town.kannami.shizuoka.jp/大場駅 駅
-
三島(みしま)駅
駅本屋
現東海道本線開通と共に昭和9年(1934年)12月1日開業。
駅本屋は開業当時の物。
http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/mishima/index.html -
-
三島市立楽寿園
旧庭園敷地跡
三島市寿町2−15
東海道本線三島駅南口 徒歩3分三島駅 駅
-
三島市立楽寿園
旧庭園敷地跡
現 楽寿園駐車場
2本の大松樹が昔庭園存在を示す。
三島市寿町2−15
東海道本線三島駅南口 徒歩3分三島駅 駅
-
三島市立楽寿園
旧丘陵跡
元来、現三島駅付近は標高39.2mの丘陵が存在した。
旧小松宮(こまつのみや)家別邸で現在の楽寿園(らくじゅえん)は、該丘陵を借景とし、更に、富士山や愛鷹山(あしたかやま)から吹き下ろす強冷風除けを兼ね活用して設計された泉水式庭園だったが、丹那隧道堀削進捗に拠り、該地区にに新三島停車場設置が決定し、駿豆鐵道路線乗入切替を要する事から該丘陵は切崩され、楽寿園借景景観は喪失するに至った。
該2本の松木が嘗て丘陵存在を証明す。
三島市寿町2−15
東海道本線三島駅南口 徒歩3分三島駅 駅
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
東海道本線歴史的痕跡探訪記Ⅰ
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~丹那隧道完成秘話 碑文から読取れし或る歴史的事実~
2008/11/30~
熱海
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~沼津驛編~
2008/12/18~
沼津
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~横濱驛移設変転史編~
2009/03/~
横浜
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~品川-川崎間編 明治頌歌~
2010/09/01~
羽田・大森・蒲田
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~川崎-横濱間編 明治頌歌~
2011/05/08~
横浜
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~丹那隧道完成秘話 三島口建設工事鉄道線跡探訪編~
2011/06/15~
函南
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~沼津港線編~
2011/12/11~
沼津
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~富士-興津間編 明治頌歌~
2014/03/12~
富士川・由比
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~東京-浜松町間 明治頌歌~
2014/10/26~
お台場・新橋・汐留
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~濱松-豊橋間編 明治頌歌~
2014/11/02~
浜名湖
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~島田-掛川間編 明治頌歌~
2015/03/15~
島田・金谷
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~興津-静岡間編 明治頌歌~
2015/03/20~
清水
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~掛川-濱松間編 明治頌歌~
2015/04/24~
磐田
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~汐留-浜松町-品川間編 明治頌歌~
2015/09/23~
三田・田町・芝浦
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~豊橋-岡崎間編 明治頌歌~
2015/12/25~
蒲郡
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~岡崎-大府間編 明治頌歌~
2016/01/15~
刈谷・知立
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~大府-名古屋-尾張一宮間編 明治頌歌~
2017/02/13~
名古屋
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~尾張一宮-岐阜-大垣間編 明治頌歌~
2017/02/15~
岐阜市
-
東海道本線歴史的痕跡探訪紀 ~南荒尾-新垂井-関ケ原間編~
2019/03/31~
関ヶ原・垂井
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~横濱-大船間編 明治頌歌~
2019/11/16~
戸塚・いずみ野・港南台
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~平塚-國府津間編 明治頌歌~
2021/06/12~
平塚・大磯
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~大船-平塚間編 明治頌歌~
2021/10/31~
茅ヶ崎
旅行記グループをもっと見る
この旅行記へのコメント (4)
-
- TaxNaXさん 2013/09/10 11:57:26
- 遅ればせながら拝見しました
- 横浜臨海公園さん
いつもお世話様です。
TaxNaXです。
以前に書かれた旅行記が修正によりTOPに上がってきたのだと思いますが、まだ読んでいないものでしたので、遅ればせながら拝見しました。
事前の十分な調査に基づいて道筋を辿る事の楽しさが理解できます。
旧箱根川橋梁跡の石積橋台については近隣にお住まいの方もご存じない方が多いのではないでしょうか。
自分の身の回りにも似たようなものがありそうです。
また住所など細かく書かれてあるので場所を特定するのが容易で、例えば三島-三島広小路間の現路線合流地点については、どの場所で撮影されていて過去の線路はどうだったのかとかを地図と照合できるので、違う楽しみ方をさせて頂いています。
https://maps.google.co.jp/maps?q=%E3%83%91%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%A0%E4%B8%89%E5%B3%B6%E5%A3%B1%E7%95%AA%E9%A4%A8&hl=ja&ie=UTF8&ll=35.120975,138.908949&spn=0.001544,0.004077&sll=35.121383,138.908558&sspn=0.054548,0.065231&gl=jp&brcurrent=3,0x60199a9c869b78c5:0x371e37e8b1f63c9f,0&hq=%E3%83%91%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%A0%E4%B8%89%E5%B3%B6%E5%A3%B1%E7%95%AA%E9%A4%A8&t=m&z=18&layer=c&cbll=35.120973,138.908951&panoid=7VPI_yxeEpCC2F70FeXMoA&cbp=12,288.26,,2,-1.32
これからも宜しくお願いします。
TaxNaX
- 横浜臨海公園さん からの返信 2013/09/11 03:31:27
- 拝復
- NaxTaXさま、おはようございます。
旅行記への投票と掲示板へのコメントを賜りまして誠に有難うございました。
該旅行記作成の時点で不明だった、旅行記での登場人物の没月日が判明した関係で記述追加をした結果でした。
> 事前の十分な調査に基づいて道筋を辿る事の楽しさが理解できます。
> 旧箱根川橋梁跡の石積橋台については近隣にお住まいの方もご存じない方が多いのではないでしょうか。
→仰せの通り、地元公立中央図書館、及び、教育委員会ですら、全て該事実を、全くご存知ではありませんでした。
それから、地元のトラベラーも旅行記は山ほど作成投稿されている様ですが、小生が旅行記の投稿以降も、旅行記やクチコミを投稿した形跡は無い様子です。
> また住所など細かく書かれてあるので場所を特定するのが容易で、例えば三島-三島広小路間の現路線合流地点については、どの場所で撮影されていて過去の線路はどうだったのかとかを地図と照合できるので、違う楽しみ方をさせて頂いています。
> https://maps.google.co.jp/maps?q=%E3%83%91%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%A0%E4%B8%89%E5%B3%B6%E5%A3%B1%E7%95%AA%E9%A4%A8&hl=ja&ie=UTF8&ll=35.120975,138.908949&spn=0.001544,0.004077&sll=35.121383,138.908558&sspn=0.054548,0.065231&gl=jp&brcurrent=3,0x60199a9c869b78c5:0x371e37e8b1f63c9f,0&hq=%E3%83%91%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%A0%E4%B8%89%E5%B3%B6%E5%A3%B1%E7%95%AA%E9%A4%A8&t=m&z=18&layer=c&cbll=35.120973,138.908951&panoid=7VPI_yxeEpCC2F70FeXMoA&cbp=12,288.26,,2,-1.32
→地図で照合しながらの作業の結果です。
横浜臨海公園
-
- 潮来メジロさん 2011/07/17 03:41:29
- 訪問回数550回目、ありがとうございました。ヾ(^o^)
- 横浜臨海公園様、こんばんは! ヾ(^o^)
毎度、訪問ありがとうございました。
昨日、横浜臨海公園さんの訪問回数が、550回目となっておりました。
拙いブログなのに、度々訪問して戴きありがとうございました。m(..)m
> 丹那隧道西口工事軽便線跡
> 菊川橋梁端
> 馬頭観音碑
> 隧道工事関係で事故死した馬霊を偲ぶ。
昔はトンネル工事は大変な作業だったんでしょうね。
馬頭観音って、子供の頃はよく道端に建てられているのを見ましたが、江戸時代以前のものかと漠然に思っていましたが、昭和の時代に入っても作られていたとは知りませんでした。
馬頭観音って日本特有のものなのでしょうか。
ではまた・・・。(^o^)/~~~
(潮来メジロ)
- 横浜臨海公園さん からの返信 2011/07/19 01:24:14
- 拝復
- 潮来メジロさま、こんばんは。
メッセージを賜りながら多忙を極めておりまして返事を差し上げるのが遅くなりまして誠に申し訳ございませんでした。
> 拙いブログなのに、度々訪問して戴きありがとうございました。m(..)m
→いえいえ。
何時も心癒される想いで拝見させて頂いております。
> > 丹那隧道西口工事軽便線跡
> > 菊川橋梁端
> > 馬頭観音碑
> > 隧道工事関係で事故死した馬霊を偲ぶ。
>
> 昔はトンネル工事は大変な作業だったんでしょうね。
> 馬頭観音って、子供の頃はよく道端に建てられているのを見ましたが、江戸時代以前のものかと漠然に思っていましたが、昭和の時代に入っても作られていたとは知りませんでした。
→実は丹那隧道では、馬頭観音は西口だけではなく東口にも存在します。
但し、オチがございまして、東口の物は表向き「馬頭」ですが、実は、強牛を祀ったものです。
> 馬頭観音って日本特有のものなのでしょうか。
→どうでしょうか?
何だか台湾には存在しそうな気がするのですが、不勉強で申し訳ございません。
横浜臨海公園
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったホテル
この旅行で行ったスポット
もっと見る
この旅行で行ったグルメ・レストラン
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 東海道本線歴史的痕跡探訪記Ⅰ
4
95