2019/03/26 - 2019/03/26
1位(同エリア126件中)
横浜臨海公園さん
- 横浜臨海公園さんTOP
- 旅行記154冊
- クチコミ812件
- Q&A回答125件
- 1,843,109アクセス
- フォロワー785人
該区間は、明治22年(1889年)7月1日開業である。
但し、該区間開業当時途中停車場は設置されなかった。
該区間途中に、仁保川(にほがわ) 光善寺川(こうぜんじがわ) 野洲川(やすがわ)各橋梁、家棟川(やねりがわ)河底隧道設置工事を要した。
大津Ⅰ(濱大津)-長濱間は、既に、太湖汽船連絡航路が存在していた事から、政府内に於いても莫大資金を要する鉄道建設に対し不要論主張者も少なからず存在する状況だった。
滋賀縣東部地域在住の発起人達は、第3代滋賀縣令 中井 弘(なかい ひろむ)(天保9年(1839年)1月14日~明治27年(1894年)10月10日)(明治17年(1888年)7月9日~明治23年(1890年)5月21日在任)に対し、該区間鉄道建設促進建設請願を行い、中井縣令は鐵道長官 井上 勝(いのうえ まさる)(天保14年(1843年)8月25日~明治43年(1910年)8月2日)に鐵道建設を上申した。
大津長濱間鐵道敷設急施ニ附請願
今般私共関西鐵道會社創立請願仕候ニ付テハ大津長濱間ノ線路モ亦私設請願仕度奉存候ヘトモ明治壱拾七年壱拾月湖東鐵道敷設請願人ヨリ該線路敷設請願出候処 工部省ヨリ既ニ官設確定ニ附其機ニ臨ミ詮議ノ次第可有之云々御指令ニ相成候附 残念ナカラ上願不仕候 就テハ該線御敷設ハ政府ニ於テ夫々御着手ノ順序有之事トハ奉恐察候ヘトモ大津長濱間ノ線路ハ我國商人ノ淵藪トモ謂ヘキ江州ノ中央ニシテ物産モ亦少カラス 故ニ該地方ノ人民ハ一日モ早ク御敷設アラン事ヲ渇望シ既ニ数年前ニ敷設急施願仕候義ニ御座候 殊ニ輓近各地之民情鐵道敷設ニ傾向シ九州ニ両毛ニ和河摂紀勢ニ其他水戸ト云ヒ山形ト云ヒ請願計画スルモノ続々興起ノ時機ニ至リ一層熱心渇望ノ感情ヲ増シ一日千秋モ啻ナラサル思ヒニ有之候間 何卒特別ノ御詮議ヲ以テ大津長濱間線路恩敷設ノ期ヲ早メラレ御着手被成下度 右敷設ハ総テ当會社ニ於テ応募出金仕度奉存候 右ハ去月参拾一日上程仕候当會社創立請願書ニ略陳仕置候ヘトモ懇願熱願望ノ情に堪ス更ニ此段奉願上候也
此れを受け8日附で井上鐵道局長官は大津-長濱間鉄道建設に就いて内閣総理大臣に対し当該上申書を添付提出した。
目下着手中ノ横濱熱田間鉄鐵道敷設竣功ニ至リ候ハ両京ノ間軌道ノ聯絡ヲ欠クモンジョ独リ大津長濱間湖東線ノミニシテ之ヲ聯絡セサレハ俚諺ニ所謂佛像ヲ造リ眼ヲ入レサルノ憾無キ能ハサルヲ以テ早暁之ヲ敷設シ両京間軌道全通ヲ要スルハ今更喋々ヲ竢タサル儀ニ有之依テ先年傭外國工師等ヲシテ測量セシメタル実績ニ就キ概計スルニ其敷設工費ハ凡金壱百五拾萬円乃至弐百萬円ヲ要スヘク而シテ横濱熱田間ハ来ル弐拾ニ年中ニ概ネ竣功スヘキ目途ナルヲ以テ湖東線モ略同時ニ竣功セムト欲セハ来年夏季ニ於テ其敷設ニ着手スルノ計画ヲ立テサル可ラス 尤其工費ハ東海道鐵道資金ヨリ一時彼此流用ハ出来可申候得共固ヨリ予算外ノモノニシテ到底別途支出ヲ仰キ候外無之然ニ此頃滋賀三重両縣知事稟請ノ関西鐵道會社創立出願書中ニ湖東線敷設費用該會社に於テ負担致度旨記載有之依テ即時具体案難致旨意見書ニ上陳致置候処尚又同線敷設急施及其資金募集ニ応シ度候 別紙ノ通該會社発起人願書添滋賀縣知事ヨリ稟申有之右資金別途支出ノ方法ニ至テハ無論本局ノ喙ヲ容ルヘキ儀ニハ無之候得共 恰モ湖東線ノ儀ニ関シ高裁ヲ仰キ候時機ニ際シ御詮議ノ一助トモ可相成哉ト存候ニ附 茲ニ之ヲテンプシ此段稟議候也
馬場(現 膳所)-長濱間、及び、米原-長岡(近江長岡)-深谷間建設は資金が払底していた事で、該区間内橋梁架橋に対し 野洲川橋梁 転用橋梁再用しの光善寺川橋梁を除き全部錬鐵鈑桁で施工された。
因みに該区間設置の隧道状の煉瓦石積洪橋群は建設後130年以上を経過し他区間存在洪橋群が改良工事等々で次々と消滅したが該区間では殆どが現存する。
草津駅設置予定地決定は遅れた。
当初、鐵道局は草津町中心部に接し駅設置計画を進行させていたが、該駅設置に対し地元から反対意見が続出し鐵道局をして困惑させる事態へと発展した。
即ち該町民は決して停車場設置を拒否していた訳では無く鉄道通過に依る駅開設必要性を充分理解していたが、他方、該町背後に存在する草津川は、該河川が天井川たるを以って微妙で厄介な状態に置かれていた。
即ち天井川とは水源地より河川を伝え長年に亘る砂岩蓄積の結果、高位置河川化したもので、更に氾濫防御の為に両堤構築に依る高床化に拍車を掛けた。
然も明治18年(1885年)6月末より7月上旬に、関西京阪間に於ける近現代最大水害被害とされる 淀川大洪水は、琵琶湖集水状態に対し激烈集中豪雨が原因に依り淀川上流域たる瀬田川排水量が追付かず、下流域たる淀川流域各地に於いて決壊が相次ぎ被害が拡大化したが、該湖を河口とする諸河川も該湖が満水状態化した事から遂に氾濫する事態を招き該河川も該町背後から大量濁流が押寄せた恐怖に直面させられた該町民達は悪夢醒めやらぬ明治21年(1888年)の段階に於いて停車場設置に対し慎重ならざる冷ややかな空気が濃厚だった。
草津町區長 南 新助Ⅱは該町に於ける停車場設置は絶対必要として各方面を説得し、水害被害に無縁とされた該河川左岸側たる田園地帯に駅設置を見る事で解決させた。
該駅設置決定の功に依り、内閣鐵道局は 南 新助Ⅱより該駅構内販売申請に対し直ちに許可を与え、南は10月10日附を以って 南洋軒(なんようけん)を創業し草津驛構内に於ける独占営業販売権を取得した。
八幡(現 近江八幡)-草津間は17.1Kmを有し、列車本数増加に依る列車交換の為にも途中停車場を必要とした事から、明治24年(1891年)6月16日附で 野洲(やす)驛が開設された。
明治29年(1896年)9月に加速度的に増大した降雨量は同月3~12日に於ける総降雨量は計1008mmに達し観測開始以来の最大降雨量を更新するに至った。
連日の豪雨の関係で琵琶湖は水位が上昇し、瀬田川、及び、琵琶湖疏水排水が追い付かず、更に、当時の該湖は本湖に対し入江状内湖が各地に点在していたが、諸内湖が氾濫状態となった事から内湖に接地する該線米原-草津間は線路上が浸水し此の為に該線は24日まで列車運行が不可能になり不通となった。
鐵道唱歌
第38番
彦根に立てる井伊の城
(ひこねに たてる ゐいのしろ)
草津にひさぐ姥が餅
(くさつに ひさぐ うばがもち)
代はる名所も名物も
(かはる めいしょの めいぶつも)
旅の徒然の憂さ晴らし♪
(たびの つれづれ うさばらし)
歌詞が彦根から、近江八幡を飛ばし、いきなり草津に跳んでしまうのは内容として不可思議。
野洲川信号所跡
野洲-草津間には野洲川が存在し複線化橋梁架橋に時間を要する事から、明治33年(1900年)6月4日に野洲川-草津間複線化時に 野洲川右岸側に野洲川合図所を設置した。
該施設では、我が国初の信号機 分岐器連動動作器 が導入された。
該区間複線化は、
八幡(現 近江八幡)-野洲間 明治34年 (1901年 )11月27日
野洲-野洲川間 明治35年(1902年) 6月16日
野洲川-草津間 明治33年(1900年) 6月
4日
である。
野洲川増設橋梁竣工に依る野洲-野洲川間複線化に依り、該信号所は不要施設となり、明治35年(1902年)6月16日附を以って廃止された。
南 新助(みなみ しんすいけ)Ⅲ(明治18年(1885年)6月23日~昭和47年(1972年)3月22日)は、2代目新助の長男 南 源吉として生まれた。
3代目新助はアイディアマンで、明治38年(1905年)に地元有志を対象に、南洋軒をして高野山参詣、伊勢神宮参拝団体旅行を企画募集し成功する。
即ち、現在に至る旅行斡旋業者 日本旅行(にほん りょこう)の嚆矢である。
明治42年(1909年)には、我が国初となる全車2等車で構成された団体貸切専用列車に依り 草津-湘南江ノ島-東京-日光-長野善光寺-草津間周遊旅行企画を立案、参加料金1名12円80銭だったにも拘らず募集420名の処、応募者900名以上となった事から、該団体出発を2回に分け、第1陣は7月20日、第2陣は8月2日出発としたが、該企画に関心を抱いた 当時の内閣鐵道院中部鐵道管理局は、態々 東京本庁から旅客課職員2名を出張させ全行程を添乗させた。
該社は、昭和初期に本社を草津駅前から大阪市東区、昭和42年(1967年)12月に東京都港区に移転し今日に至る。
野洲-草津間は7.5Km存在し、双信閉塞式では停車場間に1列車しか運転できず、列車本数増設の為に該閉塞2分割の為に、明治45年(1912年)4月16日附で 守山(もりやま)驛が開設された。
内務省土木局は瀬田川淀川に於いて頻発する淀川水系洪水対策として、
琵琶湖第1疎水 明治23年(1890年) 4月
南郷洗堰 明治38年(1905年) 3月
琵琶湖第2疎水 明治45年(1912年)
を設置したが、特に明治29年(1896年)9月3~12日に於ける総降水量は1000mmを記録し、下流域たる淀川沿岸に於いて甚大被害が発生したが、琵琶湖第1疎水が未成状態であれば、該地域に於ける被害拡大は避けられなかったものと推定される。
当該施設設置に依り当該施設設置以前と比較し、水位が平均し概ね3m76cm低下を確認された事で、琵琶湖に於ける水位調整が可能になったと判定された。
他方、鈴鹿山脈水源たる 高宮川 愛知川 仁保川 野洲川等々河川は、琵琶湖水位低下に依る急水流化防止の為に河川幅縮小を計画し、内務省土木局は内閣鐵道院と協議し、当該河川縮堤化と並行し当該河川橋梁改築を決定した。
仁保川橋梁 新橋Ⅰ旧起点489Km250m地点
大正 2年(1913年) 7月 7日
上下線第1~3号桁撤去橋梁短縮化
大正14年(1925年) 8月15日
上り線第1~9号桁 鋼鐡製鈑桁交換(石川造船所製)
旧河川跡地築堤設置
野洲川橋梁 新橋Ⅰ旧起点499Km872m地点
大正 2年(1913年) 5月29日
上下線第11~17号錬鐡製ワーレントラス構桁 単線並列型鋼鐡製ポニーワーレントラス構桁交換
八幡(現 近江八幡)-野洲間は9.6Kmを有し、双信閉塞式では停車場間に1列車しか運転できず、列車本数増設の為に該閉塞2分割の為に、大正7年(1918年)6月1日附で 篠原(しのはら)信号所が開設された。
八幡(はちまん)驛は、信越本線 鹿児島本線に同名驛が存在する事から誤取扱防止の観点から、区別化の為に旧國名を冠し、大正8年(1919年)3月11日附で 近江八幡(おうみはちまん)驛に改称された。
室戸台風は、昭和9年(1934年)9月21日5時頃に高知県室戸岬付近に上陸したが、該区間に於ける被害。
野洲‐守山間 下り貨物第2813列車
牽引蒸気機関車、及び、貨車1~16両目無事 17 18両目脱線 19~29両目脱線転覆 30~40両目無事 41~45両目脱線。
大東亜戦争中、該区間に於ける空襲被害は、
昭和20年(1945年)
7月30日
上り大阪発小田原行普通第136列車
守山驛到着時に艦載機機銃掃射に依る銃撃被害
旅客即死11名 重軽傷者多数
但し、該空襲被害は大東亜戦争末期と云う混乱時でもあり、大阪鐵道局発本省報告未達が原因か運輸省鐵道総局記録に該空襲被害概要は存在しない。
該区間は、昭和31年(1956年)11月19日に直流1500V電化された。
日本国有鉄道は電車運用拡大に伴い将来に於ける車輌留置線確保を目的に、篠原-野洲間に新電車区設置を決定し昭和40年(1965年)6月より用地買収を開始し翌昭和41年(1966年)9月1日より一部運用を開始し野洲電車区が設置された。
引続き、線草津-京都間複々線化工事と連携させ昭和45年(1970年)3月1日附で全面完成した。
滋賀県を形成する近江國は、安土桃山期まで首領の群雄割拠が著しく、一向一揆で手を焼かされた 織田信長(おだ のぶなが)(天文3年(1534年)6月23日~天正10年(1582年)6月21日)は本来であれば郷組織で充分だったにも拘らず叛徒防止の為に敢えて郡扱とさせたが、関が原の合戦(せきがはらのかっせん)(慶長5年(1600年)10月212日)の結果、東軍総大将 徳川家康(とくがわ いえやす)(天文11年(1543年)1月31日~元和2年(1616年)6月1日)は、西軍側所領地の殆どを没収し東軍側首領領地として配分したが、近江國に関しては正保3年(1646年)の段階で1万石以上7家、5000石以上4家、10~4999石79家であり、元禄10年(1697年)では、井伊、本多、甲斐徳川を含め、1万石以上8家、5000石以上5家、10~4999石70家が存在した。
明治維新以降、廃藩置県が実施されたが、第2代縣令 篭手田安正(こてだ やすまさ)(天保11年(1840年)4月23日~明治32年(1899年)3月30日)(明治8年(1875年)4月27日~明治17年(1884年)7月9日在任)は政府に対する民情調査報告に、
政治ニ帰ル所無ク諸藩ノ封地各所ニ犬訝シ参拾有余藩ノタタキニ至リ其ノ他旧藩幕府摩下ノ楽巴幾千百ナルヲ知ラス甚シキハ合給ト称シ一村ヲシテ四五乃至ハ六七ノ領主アリ
と相変らず群雄割拠が存在し自郷以外の余所者に対し排他的傾向が強い事を示していた。
因みに該線滋賀県所属柏原-大津Ⅲ間72.7kmに於ける大正期以前の開設駅所属郡は、
坂田郡: 柏原、近江長岡、醒ヶ井、米原
犬上郡: 彦根、河瀬
愛知郡: 稲枝
神崎郡: 能登川
蒲生郡: 安土、近江八幡、篠原
野洲郡: 野洲
栗太郡: 守山、草津
滋賀郡: 石山、馬場(現 膳所)、大津Ⅲ
の8郡で概ね10km毎に郡境が存在する全国的にも珍しい都道府県である。
東海道新幹線南びわこ駅設置白紙撤回問題は、地方社会に於ける村組織特有の排他的性格が自地域外利益に対する消極的支出への自己保全の為に敵対組織との提携連動と云う呆れた最悪事態へと発展した事例である。
即ち昭和期より滋賀県南部、特に草津市、及び、草津線沿線市町村に依る、東海道新幹線新駅設置要望が高く、日本国有鉄道民営分割後、東海旅客鉄道、西日本旅客鉄道各社は滋賀県との間に米原-京都間新駅設置に関する協定を締結したが、折しも該県公共事業見直しをスローガンに県知事選挙で当選した 第51~52代県知事 嘉田由紀子(かだ ゆきこ)(昭和25年(1950年)5月18日~ )(平成18年(2006年)7月20日~平成26年(2014年)7月19日在任)に依り中止と決定した。
嘉田は、革新系野党、労働組合を通じ、民主党、共産党、社民党の推薦を受け、更に該新駅開設に反対だった自民党近江八幡支部は自民党滋賀県本部に対し反旗を翻させ嘉田を推薦し対立候補を破り当選を果たした。
嘉田新知事は自身の選挙公約の公共事業工事を白紙撤回し新規事業中止を実行した事から該新駅開設は中止となり、草津市、草津線沿線所在市町村、及び、三重県伊賀地域をして落胆させた。
他方、該県から何ら事前相談も無き一方的中止に依る非礼な態度に対し激怒させた東海旅客鉄道は態度を硬化させ、当時の該社社長をして、以後、該県との交渉に一切応ぜつと、半ば該県に対しデフォルトを突き付けたに均しい判定を下した。
嘉田は該県知事退任後、該新駅は必要だった、云々、との回顧をしたが、各自治体財政逼迫だったとは云え長期的展望や計画性が欠落した受狙いのみの思い付き的行動が他からより該県信頼を完全喪失せしめた責任は重大である。
南びわこ駅開設予定地付近、同じく米原駅再開発計画中止の為に挫折を余儀無くさせられた両駅付近はは広大な荒地が残存する状態である。
かねてより地元栗東市より新駅設置請願があった守山-草津間に、平成3年(1991年)3月16日附で 栗東(りっとう)駅が開業した。
複々線化対象外だった近江八幡-草津間は該建設当時の煉瓦積円形洪梁が殆ど原型状態で現存する事は130年を経過し驚異である。
表紙写真は、
2代目光善寺川(こうぜんじがわ)橋梁
東海道本線歴史的痕跡探訪記
~東京-濱松町間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10701644
~東京驛編~
~汐留-濱松町-品川間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10797199
~品川-川崎間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10502858
~川崎-横濱間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10711843
~横濱駅移設変転史編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10316826
~横濱-大船間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/10713813
~大船-平塚間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/10714472
~平塚-國府津間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/10715768
~國府津-根府川間編~
http://4travel.jp/travelogue/10298330
~根府川-熱海間編~
http://4travel.jp/travelogue/10310352
~丹那隧道完成秘話 丹那隧道碑文から読み取れし或る歴史的事実~
http://4travel.jp/travelogue/10291350
~丹那隧道完成秘話 三島口建設工事鉄道線探訪記~
http://4travel.jp/travelogue/10575630
~熱海-沼津間編~
~沼津駅驛編~
http://4travel.jp/travelogue/10294787
~沼津港線編~
http://4travel.jp/travelogue/10621891
~沼津-富士間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10623829
~富士-興津間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10625542
~興津-静岡間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10859308
~静岡-島田間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10855589
~島田-掛川間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10858139
~掛川-濱松間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10858815
~濱松-豊橋間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10858508
~豊橋-岡崎間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10870287
~岡崎-大府間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10898135
~大府-名古屋-尾張一宮間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/10898177
~名古屋驛編~
~尾張一宮-岐阜-大垣間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/10990946
~美濃赤坂支線編~
https://4travel.jp/travelogue/10992335
~大垣-垂井-関ケ原間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11095931
~大垣-新垂井-関ケ原間編~
https://4travel.jp/travelogue/11200178
~関ケ原-米原間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11099834
~関ケ原-深谷-長濱間(廃止線)編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11141230
~米原-近江八幡間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11099568
~近江八幡-草津間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11214049
~草津-膳所間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11102339
~膳所-濱大津間(廃止線)編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/11157145
~膳所-稲荷-京都間(廃止線)編 明治頌歌~
~膳所-山科-京都間(現行線)編 大正浪漫~
http://4travel.jp/travelogue/11157106
~京都驛編 明治頌歌~
~京都-向日町間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11634036
~向日町-茨木間編 明治頌歌~
~茨木-高槻間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11634036
~高槻-吹田間編 明治頌歌~
~吹田-淡路-大阪間(廃止線)編 明治頌歌~
~吹田-新大阪-大阪間(現行線)編 大正浪漫~
~大阪駅周辺編~
~大阪-西宮間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11366806
~西宮-灘間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11321266
~灘-神戸間編 大正浪漫~
https://4travel.jp/travelogue/11245946
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 自転車 新幹線 JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
近江八幡(おうみはちまん)駅
該駅は、明治22年(1889年)7月1日開業である。
八幡中心地とは約2.0km離れた地に設置された。
近江八幡市史記述には、汽車の煙害被害を理由に鉄道通過忌避としているが、事実は線路設定は飽く迄直線たるを以って、当時の鐵道寮が八幡町至近地通過を考慮した形跡は見当たらず、云わば後世の村伝説に過ぎずと解する。
該駅は、開業当初は八幡(はちまん)と称したが、他方、九州に内務省八幡製鐡所に隣接して八幡(やはた)が存在する事から、駅名重複に依る混乱忌避の為に、大正8年(1919年)3月11日附で旧国名を冠し、現駅名たる近江八幡に改称された。
大正2年(1913年)12月29日には湖南鐵道(現 に近江鉄道)新八幡-八日市口間開通に依り連絡貨物運輸を開始した。
現駅本屋は、昭和56年(1981年)8月現駅本屋改築時に橋上化された。
http://www.jr-odekake.net/eki/premises.php?id=0610106近江八幡駅 駅
-
近江八幡-篠原間
白鳥川(しらとりがわ)橋梁
該橋は、明治22年(1889年)7月1日開通の橋梁である。
全長43.5m(780.0ft)
初代橋梁は、C.A.W.ポーナル(C.A.W.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、
錬鐡製上路鈑桁21.3m(70ft) × 2連
が架橋された。
その後、該区間複線化の為に、既成橋梁に対し下流側に新設橋梁が架橋され、
鋼鐡製上路鈑桁21.3m(70ft) × 2連
が架橋された。
八幡(現 近江八幡)-野洲間は、明治33年(1900年)11月27日に複線化され、該費より、新設橋梁は上り線専用、既成橋梁は下り線専用となった。 -
近江八幡-篠原間
白鳥川橋梁
東京方
該河川は昭和48年(1973年)に河川改修工事が施工に依り、河川流露が直線化、該橋梁は中路PCコンクリート橋桁に架替られた。 -
近江八幡-篠原間
六地川(ろくじがわ)洪橋
全長1.21m
アーチ部煉瓦積外壁石積洪橋構造 -
近江八幡-篠原間
横町川(よこちょうがわ)橋梁
全長2.90m
下り線側
石積構造 -
近江八幡-篠原間
横町川橋梁
上り線側 -
近江八幡-篠原間
横町川橋梁
鐵道省
桁銘板 -
近江八幡-篠原間
知神川(ちがみがわ)洪橋
全長1.82m
下り線側
アーチ部煉瓦積外壁石積洪橋構造 -
近江八幡-篠原間
知神川洪橋
内部
天井 -
近江八幡-篠原間
知神川洪橋
上り線側 -
近江八幡-篠原間
荒砂川(あらずながわ)洪橋
全長1.82m
下り線側
アーチ部煉瓦積外壁石積洪橋構造
河川廃止後は人道化されていたが、該隧道構体老朽化に依り現在は通行禁止。 -
近江八幡-篠原間
荒砂川洪橋
上り線側 -
近江八幡-篠原間
仁保川(にほがわ)橋梁
該橋は、明治22年(1889年)7月1日開通の橋梁である。
全長238.0m(780.0ft)
初代橋梁は、C.A.W.ポーナル(C.A.W.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、
錬鐡製上路鈑桁19.15m(ft) × 12連
が架橋された。
その後、該区間複線化の為に、既成橋梁に対し下流側に新設橋梁が架橋され、
鋼鐡製上路鈑桁19.15m(ft) × 12連
が架橋された。
八幡(現 近江八幡)-野洲間は、明治33年(1900年)11月27日に複線化され同日より新設橋梁は下り線専用、既成橋梁は上り線専用となった。 -
近江八幡-篠原間
仁保川橋梁
下り線側
現河川名は 日野川(ひのがわ)である。 -
近江八幡-篠原間
仁保川橋梁
上り線側 -
近江八幡-篠原間
仁保川橋梁
煉瓦橋脚
該橋脚上部が改造されているが、該区間開通当時の橋脚が現用。 -
近江八幡-篠原間
仁保川橋梁
上り線側
神戸方 -
近江八幡-篠原間
河田川(かわだがわ)洪橋
全長3.03m
アーチ部煉瓦積外壁石積構造 -
篠原(しのはら)駅
該駅は、大正10年(1921年)4月20日開業である。
然し、該駅前身は、大正7年(1918年)6月1日附で設置された篠原信号場が嚆矢である。
該信号所開設当時、我が国は第1次世界大戦(大正3年(1914年)8月23日~大正7年(1918年)11月11日)に於いて聨合國側として参戦したが、欧州向戦時物資輸送が盛んな時期で、該列車本数増加に依り、当時使用の保安装置たる双信閉塞を2分割させる為に設置された。
他方、該信号所設置地たる蒲生郡桐生村は、該信号所を駅昇格させる事で、該村民の利益と考えるのは自然の理であり、該村は、内閣鐵道院神戸鐵道管理局に対し、数次に亘り該信号所駅昇格に関する請願を行った結果、停車場化必要用地を全部無償献納を条件に駅昇格を認むるとの回答に、該村側が該条件を受諾し事から、駅昇格が決定した。
該駅周辺は一面田園地帯で、駅勢人口が希薄故に、該駅貨物取扱量は、米出荷、農薬類受荷状態に変化は無く、貨車取扱量が1日2両以下では該駅貨物取扱廃止論が浮上しても当然であり、昭和37年(1962年)2月1日附で、該駅貨物取扱は廃止された。
該駅本屋は老朽化が深刻な状態で、平成20年(2008年)を目途に建替が決定していたが、折しも、該県公共事業見直しをスローガンに県知事選挙で当選した 第51~52代県知事 嘉田由紀子(かだ ゆきこ)(昭和25年(1950年)5月18日~ )(平成18年(2006年)7月20日~平成26年(2014年)7月19日在任)に依り中止と決定した。
結局、該駅改築は、平成26年(2014年)着工、翌平成27年(2015年)9月19日附で第2代駅本屋が竣工し同時に橋上駅舎化され平成28年(2016年)には南口が開設された。
http://www.jr-odekake.net/eki/premises.php?id=0610107篠原駅 駅
-
篠原駅
南口
平成28年(2016年)開設。
http://www.jr-odekake.net/eki/premises.php?id=0610107篠原駅 駅
-
篠原駅
出改札口
http://www.jr-odekake.net/eki/premises.php?id=0610107篠原駅 駅
-
篠原駅
駅構内
全景
http://www.jr-odekake.net/eki/premises.php?id=0610107篠原駅 駅
-
篠原駅
第1番ホーム
東京方
裏手は旧貨物取扱施設跡
http://www.jr-odekake.net/eki/premises.php?id=0610107篠原駅 駅
-
篠原駅
旧貨物取扱施設跡
http://www.jr-odekake.net/eki/premises.php?id=0610107 -
山形屋
篠原駅北口前に存在する駅前旅館跡
現在では宿泊兼飲食業を廃止し自転車有料駐輪場だが、該駅改良工事完了後は近江八幡市に依り無料駐輪場が設置される為に、今後の予断は許されない。
山形屋(やまがたや)
近江八幡市安善寺町1260 -
篠原-野洲間
光善寺川(こうぜんじがわ)橋梁
該橋は、明治22年(1889年)7月1日開通である。
英國人 W.ポール(W.POLE)(生没年不詳)設計に依る、
下路ポニーワーレントラス構桁21.3m × 1連
が架橋された。
該橋梁本体は、錬鐡製ピン結合構造、橋台は煉瓦製構造。
旧 水戸川(みとがわ)橋梁として、明治3年(1870年)11月着工、明治6年(1870年)11月竣工。
該橋梁は、内務省土木局に依る淀川河川大改修計画で該河川が廃川廃橋となり、明治20年(1887年)に現地から撤去され、明治22年(1889年)に、東海道本線該橋梁に転用された。
その後、八幡(現 近江八幡)-野洲間は、明治34年(1901年)11月27日附で複線化されたが、該橋梁は複線化直前に単線用から複線用に改造された。
初代橋梁は、錬鐡製ピン結合構造故に、大正期ともなると次世代幹線用大型蒸気機関車、即ち、旅客用18900型(C51型)、及び、貨物用9900型(D50型)通過用として負担力に於いて不適当と判定された事から架替が決定し、大正4年(1915年)に架替を実施。 -
篠原-野洲間
光善寺川橋梁
上り線側 -
篠原-野洲間
光善寺川橋梁
初代橋梁橋台跡
東京方 -
篠原-野洲間
光善寺川橋梁
初代橋梁橋台跡
神戸方 -
篠原-野洲間
光善寺川橋梁
下り線側
10.39m + 9,95m
大正4年(1915年)架替では、トラス構桁に依らず鋼鐡製上路鈑桁2連に依り工事が実施され、同時に、該架線中央部に橋脚1基が新設された。 -
篠原-野洲間
光善寺川橋梁
神戸方
橋台 -
篠原-野洲間
光善寺川橋梁
神戸方
橋台
トラス構桁跡をコンクリートで嵩上。 -
篠原-野洲間
大町(おおまち)架道橋
全長3.03m
下り線側
アーチ部煉瓦積外壁石積構造 -
篠原-野洲間
兵作川(へいさくがわ)洪橋
帯石以外全部煉瓦積構造 -
篠原-野洲間
六反田(ろくたんだ)洪橋
橋梁アーチ部煉瓦積外壁石積構造
該橋梁内に土管を設置し水路化した。 -
篠原-野洲間
家棟川橋梁
全長22.2m
(9.86m×2連)
該河川は本来天井川だったが、度重なる水害被害の為に、昭和23年(1948年)より別河道工事化され、該橋梁は昭和28年(1953年)架橋。 -
篠原-野洲間
旧家棟川隧道跡
全長51.8m(170ft) -
篠原-野洲間
旧家棟川隧道跡
右手藪群が該旧河川跡。
昭和22年(1947年)大水害発生後、建設省土木局に依る河川改修工事に依りる河道変更で該天井川は別河道化。
該隧道は廃止撤去。 -
篠原-野洲間
野洲電車区
日本国有鉄道は、電車運用拡大に伴い、将来に於ける車輌留置線確保を目的に、篠原-野洲間に新電車区設置を決定し、昭和40年(1965年)6月より用地買収を開始し、翌昭和41年(1966年)9月1日より一部運用を開始し野洲電車区が設置された。
引続き、該線草津-京都間複々線化工事と連携させ、昭和45年(1970年)3月1日附で全面完成した。
暫く、該状態で推移したが、平成2年(1990年)3月10日附で、該電車区は、米原列車区野洲派出所に所属が変更された。
その後、平成8年(1996年)3月1日附で、京都総合運転所野洲派出所、更に、平成24年(2012年)6月1日附で、網干総合運転所野洲派出所に名称変更。 -
野洲(やす)駅
該駅は、明治24年(1891年)6月16日開業である。
該区間開通当時は、八幡(現 近江八幡)-草津間17.1kmに停車場が存在せず1閉塞扱だった。
他方、該地に於いて、該区間開通以前、及び、明治22年(1889年)12月に、再三に亘り、地元たる野洲郡野洲村より停車場開設請願が有り、更に、明治24年(1891年)1月には鐵道庁神戸建築課に対し、停車場用地献納申請が提出された事を受け、鐵道庁は審議の上、同年2月28日附で停車場設置を決定し、直ちに該駅設置工事に着手し、同年6月9日に該駅設置工事が完了した。
因みに、該駅設置に関する諸費用は、地築費3219円19銭他計10352円10銭と記録されている。
初代駅本屋は老朽化が深刻な状態となった事から改築が決定、昭和48年(1973年)1月に第2代駅本屋が竣工し、同時に橋上駅舎化された。
http://www.jr-odekake.net/eki/top.php?id=0610108野洲駅 駅
-
野洲駅
駅構内
神戸方から東京方俯瞰。 -
野洲-守山間
下ノ澤(しものさわ)架道橋
全長1.82m
下り線側
アーチ部煉瓦積外壁石積構造 -
野洲-守山間
下ノ澤架道橋
上り線側 -
野洲-守山間
野洲川(やすがわ)橋梁
該橋は、明治22年(1889年)7月1日開通の橋梁である。
全長539.2m(1769ft)
初代橋梁は、チャールズ.A.ポーナル(Charles.A.W.POWNALL)(生没不詳)設計に依る、
英國パテントシャフト(PATENTSHAFT & AXELETREE)社製
錬鐡製上路プレート・ガーダー橋桁21.3m(70ft)×7連 + 鋼鐡製下路ポニー・ワーレントラス構桁30.2m(100ft)×4連 + 錬鐡製上路プレート・ガーダー橋桁21.3m(70ft)×11連
が架橋された。
該橋梁ポニー・ワーレントラス構桁本体は、我が国鉄道橋梁として本邦初の純鋼鐡型ピン結合構造で、橋台橋脚は煉瓦石積構造で構築。
該橋は、明治21年(1888年)5月着工、翌明治22年(1889年)5月竣工。
新橋梁は、既成橋梁下流側に架橋された。
米國人 T.クーパー(T.COOPER)(1840年(天保10年)~1919年(大正8年)8月24日))及び、C.C.シュナイダー(C.C.SCHUNEIDER)(1843年(天保13年)~1916年(大正5年))共同設計に依る、
米ペンコイド製鋼所(Roberts Co. PENCOYD IRON-WOKKS)社 明治32年(1899年)製造
鋼鐡製上路プレート・ガーダー橋桁21.3m(70ft)×7連 +鋼鐡製下路ピン結合パーカートラス構桁 支間31.1m(103ft)×4連 + 鋼鉄製上路プレート・ガーダー橋桁21.3m(70ft)×11連
が架橋されたが、プレート・ガーダー橋桁は川崎造船所兵庫工場製だった。
明治35年(1902年)6月16日附で、野洲-野洲川間2.3kmは複線化され、該日より、既成橋梁は下り線専用、新設橋梁は上り線専用となった。
開通時架橋で既成橋梁の錬鐡プレート・ガーダー橋桁は、次世代大型蒸気機関車に非対応だった事から架替が決定し、東京方7連が大正2年(1913年)、神戸方11連が大正14年(1925年)に国産鋼鐡製プレートガーダー橋桁に交換された。
大東亜戦争終結後、該河川産出の砂利類がコンクリート建築資材として良質たる評価を受けていた事から、長年に亙り、半ば無制限で大量採取が継続した結果、該河川河床が低下し、此の為に、該橋梁橋脚は洗掘され強度保持の為に、常時保守を要する事態となった。
他方、建設省土木局は、昭和40年(1965年)に該河川に於ける砂利採取を全面禁止し、更に、昭和45年(1970年)12月9日より河川改修工事に着手した。
即ち、護岸工事施工と共に、別通水路設置に依り水路分離するもので、該工事は、昭和54年(1979年)6月2日に竣工した。
他方、日本国有鉄道は、老朽化が深刻な状態だった該橋梁架替を計画立案し、該工事計画に基き、昭和52年(1977年)に架替工事が着工し、該工事は昭和57年(1982年)に竣工した。
新橋梁は、既成橋梁上流側に、
全長415.0m
PCプレート・ガーダー橋桁24.5m × 3連 + 連続複線型下路3径間ダブルワーレントラス構桁65.10m × 3連(横河橋梁製造) + PCプレート・ガーダー橋桁31.0m × 4連
が架橋された。 -
野洲-守山間
野洲川橋梁
全景
神戸方俯瞰 -
野洲-守山間
野洲川橋梁
東京方
俯瞰 -
野洲-守山間
野洲川信号所跡
該信号所は、明治33年(1900年)6月4日に野洲川-草津間複線化時に 野洲川合図所 として設置されたものが嚆矢である。
該施設では、我が国初の、信号機、及び、ポイントが連動機器が導入され保安が向上した。
その後、野洲-野洲川間複線化に依り、該信号所は不要施設となり、明治35年(1902年)6月16日附を以って廃止。 -
野洲-守山間
初代野洲川橋梁
橋台跡 -
野洲-守山間
伊勢道川(いせどうがわ)洪橋
全長3.03m
1.82m×3連
アーチ部煉瓦積外壁石積構造 -
野洲-守山間
島田川(しまだがわ)橋梁
全長1.82m
煉瓦積構造
アーチ部煉瓦積外壁石積構造 -
野洲-守山間
守山駅
貨物取扱施設跡
東京方 -
守山(もりやま)駅
該駅は、明治45年(1912年)4月16日開業である。
即ち、内閣鐵道院は、満州欧州国際連絡を主目的とする特別急行列車1往復を同年6月15日附時刻改正より新橋Ⅰ-下関Ⅰ間運転開始に鑑み、該線複線区間に於ける、当時の最新保安機器たる双信閉塞式を2分割させ、列車増発を容易とすべく為に、該駅が設置された。
初代駅本屋は老朽化が深刻な状態となった事から改築が決定、昭和48年(1973年)4月1日附で第2代駅本屋が竣工し、同時に橋上駅舎化された。
http://www.jr-odekake.net/eki/top.php?id=0610109守山駅 駅
-
守山駅
出改札口
http://www.jr-odekake.net/eki/top.php?id=0610109守山駅 駅
-
守山駅
南口
https://www.jr-odekake.net/eki/top.php?id=0610109守山駅 駅
-
守山駅
旅客第1番ホーム守山駅 駅
-
守山駅
旧貨物取扱施設跡
上り線側守山駅 駅
-
守山駅
旅客第2番ホーム
ホーム上屋古軌条支柱群守山駅 駅
-
守山駅
旅客第2番ホーム
ホーム上屋古軌条支柱
第17号a守山駅 駅
-
守山駅
旅客第2番ホーム
ホーム上屋古軌条支柱
第19号a守山駅 駅
-
守山駅
旅客第2番ホーム守山駅 駅
-
守山駅
旅客第2番ホーム
裏手は旧貨物取扱施設跡守山駅 駅
-
守山駅
旧貨物取扱施設跡
現在は駐車場守山駅 駅
-
守山駅
貨物取扱施設跡守山駅 駅
-
守山駅
貨物取扱引込線跡
平成15年(2003年)3月10日まで、石油タンク車貨物取扱業務が残存した。
守山市勝部6-5
東海道本線守山駅南口 徒歩7分 -
守山-栗東間
下田川(しもだがわ)洪橋
全長2.42m
アーチ部煉瓦積外壁石積構造 -
栗東(りっとう)駅
該駅は、平成3年(1991年)3月16日開業である。
http://www.jr-odekake.net/eki/top.php?id=0610148栗東駅 駅
-
栗東駅
駅本屋
近接
http://www.jr-odekake.net/eki/top.php?id=0610148栗東駅 駅
-
栗東駅
第1番ホーム
駐車場使用地は、元来該駅建設時に将来の複々線化を想定し設置。栗東駅 駅
-
草津(くさつ)駅
該駅は、明治22年(1889年)7月1日開業である。
該駅は、旧東海道筋草津宿、及び、天井川たる草津川とは反対側に設置されたが、設置理由として、該駅開設当時は人煙稀で田畑拡がる地故に土地収用は容易とされたが、それでも該対象者14戸計1928円を支払った。
同年12月15日に、関西(かんせい)鐵道草津‐三雲間16.2kmが開通し、該区間全列車共に該駅発着となった。
旅客保安の立場より、翌明治23年(1890年)5月に構内旅客跨線橋が設置された。
該社は、第12代第Ⅰ次 西園寺公望(さいおんじ きんもち)(嘉永2年(1849年)12月6日~昭和15年(1940年)11月24日)内閣(明治39年(1906年)1月7日~明治41年(1908年)7月14日組閣)に拠り、明治40年(1907年)10月1日に政府買収され草津線と命名される。
該駅本屋は、明治45年(1912年)4月14日に改築され第2代駅本屋が竣工したが、初代駅本屋と比較して小振りな構造になったが、此れは、同年6月15日より運転開始した新橋‐下関間特別急行列車運転に依る時刻大改正を前提にしたもので、該時刻改正に依り、草津線全列車は該駅発着だったものが馬場(現 膳所)発着に直通変更になり、既に、該駅途中下車客減少を見越していた。
その後、駅本屋老朽化と草津-京都間複々線化に依る該駅構内大改良に依り、駅本屋改築が決定し、昭和42年(1967年)4月12日附で第3代駅本屋が竣工し、同時に橋上駅舎化されたが、更に、該工事は継続し、翌昭和43年(1968年)4月10日附で西口が開設された。
http://www.jr-odekake.net/eki/top.php?id=0610110草津駅 (滋賀県) 駅
-
草津駅
西口
昭和43年(1968年)4月10日竣工。
http://www.jr-odekake.net/eki/top.php?id=0610110草津駅 (滋賀県) 駅
-
草津駅
西口
近接http://www.jr-odekake.net/eki/top.php?id=0610110草津駅 (滋賀県) 駅
-
草津駅
改札口
http://www.jr-odekake.net/eki/top.php?id=0610110草津駅 (滋賀県) 駅
-
草津駅
第1番ホーム
擁壁
煉瓦積擁壁。
高さは該駅設置当時のホーム高さと同じ。草津駅 (滋賀県) 駅
-
草津駅
第1番ホーム
擁壁
煉瓦積擁壁。草津駅 (滋賀県) 駅
-
草津駅
第1番ホーム
擁壁
モルタル吹付ながら、煉瓦目が現認可能。草津駅 (滋賀県) 駅
-
日本旅行
草津駅前営業所
南 新助(みなみ しんすいけ)Ⅲ(明治18年(1885年)6月23日~唱和47年(1972年)3月22日)は、2代目新助の長男 南 源吉として生まれた。
3代目新助はアイディアマンで、明治38年(1905年)に地元有志を対象に、南洋軒をして高野山参詣、伊勢神宮参拝団体旅行を企画募集し、大当たりを見た。
即ち、現在に至る旅行斡旋業者 日本旅行(にほん りょこう)の嚆矢である。
該社元本社
南洋社ビル1階に存在。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
東海道本線歴史的痕跡探訪記Ⅱ
-
前の旅行記
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~灘-神戸間編 大正浪漫~
2019/03/25~
神戸
-
次の旅行記
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~草津-膳所間編 明治頌歌~
2019/03/27~
草津(滋賀)
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~膳所-大津Ⅲ-京都Ⅱ間(現行線)編 大正浪漫~
2015/05/01~
山科
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~膳所-濱大津間(廃止線)編 明治頌歌~
2017/05/01~
大津
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~米原-近江八幡間編 明治頌歌~
2019/01/01~
湖東三山・多賀・東近江
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~西宮-灘間編 明治頌歌~
2019/03/23~
西宮・芦屋
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~灘-神戸間編 大正浪漫~
2019/03/25~
神戸
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~近江八幡-草津間編 明治頌歌~
2019/03/26~
野洲・竜王
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~草津-膳所間編 明治頌歌~
2019/03/27~
草津(滋賀)
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~美濃赤坂線編~
2019/03/31~
大垣
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~大垣-垂井-関ケ原間編 明治頌歌~
2019/03/31~
関ヶ原・垂井
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~大阪-西宮間編 明治頌歌~
2019/11/23~
キタ(大阪駅・梅田)
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~関ケ原-深谷-長濱間/深谷-長岡(現 近江長岡)間(廃止線)編 明治頌歌~
2020/03/20~
長浜
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~関ケ原-米原間編 明治頌歌~
2020/03/22~
米原
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~高槻-茨木間編 明治頌歌~
2020/12/29~
茨木・摂津
-
東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~京都-向日町間編 明治頌歌~
2022/03/23~
京都駅周辺
旅行記グループをもっと見る
この旅行記へのコメント (6)
-
- まむーとさん 2019/12/25 23:08:48
- 昨夜ちょうど。
- 横浜臨海公園様
こんばんは!
昨夜ちょうど、「琵琶湖空港と栗東に新幹線駅があったら、今どうだったか」と夢の中で考えていました。
新幹線駅は何十年の夢だったのに、京都からひょっこり来られた方が「もったいない」と言い出して、何やら世間ももったいない風がビュービュー吹いていて私もマジックに引っ掛かってしまいました。
そのせいで、日本で住み良い町が一気に転落してしまいました。
【嘉田は該県知事退任後、該新駅は必要だった、云々、との回顧をしたが、各自治体財政逼迫だったとは云え、長期的展望や計画性すら無い受け狙いのみの思い付き的行動が、他からより該県信頼を完全喪失せしめた責任は重大である】
長年の計画と皆の夢が、一瞬で壊れた事。
やる気ある滋賀の復活を願うばかりです。
今まで見過ごして来た、線路に意識して見ようと思います。
うばがもちと南洋軒と日本旅行。
草津は旅行会社の発祥の地だったんですね。流石、交通の要だと思いました。
- 横浜臨海公園さん からの返信 2019/12/26 11:05:14
- 拝復
- まむーとさま、こんにちは。
拙稿にお立寄りと投票、そして掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。
草津、守山地区は、新幹線新駅設置に依る経済効果が一番期待された街故に、設置計画撤回に依る落胆は甚だしいものがあったものと思われます。
当時の日本国有鉄道は、新幹線新駅設置を見越し、草津線を複線化させるべく上り線を立体交差で越え、下り線は線路を付替え、準備工事が完成状態でした。
因みに、草津駅で栗東方面に向かう途中、右手に曲線状の空き地があるのは、切り替えられる前の旧草津線線路跡の名残です。
若し、新幹線新駅が開業していれば、現在の草津発着新快速電車が新駅発着に変更された事は確実で、新駅予定地付近に住宅を購入された方々は、始発から新快速電車に着席が可能で、新幹線に乗らずとも、たいへん便利になったものと思われます。
然し、単なる思い付きで人気取りのスローガンで当選した新知事の為に、新駅構想は壊滅、JR東海からは嘘つき呼ばわりされる始末で、更に、嘉田知事の福祉を履違えた政策に拠り、今や滋賀県は全国で12を争うほど、住みたくない都道府県となってしまいました。
日本旅行は、草津駅の駅弁販売の南洋軒が開設した旅行会社第1号で、草津駅前の例のビルに入居しているものが発祥です。
横浜臨海公園
- まむーとさん からの返信 2019/12/26 15:54:05
- 穏やかな気持ちで豊かに暮らせる! 湖国滋賀!
- 政治は失敗の滋賀ですが、実際は毎日の生活はとても過ごしやすいのですよ。
私は3人子どもがおりますが、出生率は全国平均より高いです。生活しやすいからだと思います。
日本のまん中に位置し大企業の工場が多くあり、あくせく働かなくても平穏で豊かな暮らしが出来ます。
なので、豊かさ指数が高い滋賀です。
滋賀は断トツ暮らしやすいです(*´∀`)
子育て世代の方、是非マイホームは滋賀に!と思います!
■2019年の幸福度は「沖縄県」「滋賀県」が同率1位
となっていました。(≧▽≦)
ただし、空港までが遠い。。
- 横浜臨海公園さん からの返信 2019/12/27 11:19:11
- 再拝復
- まむーとさま、こんにちは。
篤と納得致しました。
横浜臨海公園
-
- mzwさん 2019/04/16 06:56:14
- 懐かしい!です。
- 横浜臨海公園さん
おはようございます。
滋賀県の草津は懐かしいです。滋賀県で唯一宿泊した街です。
北海道在住、鉄道旅行はほとんどしない私にとって、知っている駅名があると読んでいていつも嬉しくなっちゃうのですが、駅の全景など印象がなく、どんな旅しているのかな?なんて思います。近くまた上洛予定ですが、今回は近江八幡にも行く予定なので、駅はちゃんと観て来ます。
お願いがあります。難しいのかもしれませんが、鉄道路線図か地図を表示してもらうのは無理でしょうか。今回はここからここまでなんだ…とわかると、私的には嬉しいのですが。勝手言ってすみません。
MZW
- 横浜臨海公園さん からの返信 2019/04/16 14:56:46
- 拝復
- MZWさま、こんにちは。
拙稿に投票と掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。
今回の旅行記も距離にして10km前後ですが、いざ現地を訪れると概ね当該距離の3倍以上を歩き回らなけばならず、然も番地を探すのに国立国会図書館でゼンリン地図と首っ引きなる為に、旅行記上程に至るまで苦労が絶えませんでした。
近江八幡も草津も、訪れると楽しい街です。
次の上程は、草津-膳所間編を予定しておりますが、重大事故と戦災復旧に関する資料取集で4年かかりました。
御期待を賜れば幸甚でございます。
横浜臨海公園
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったホテル
この旅行で行ったグルメ・レストラン
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 東海道本線歴史的痕跡探訪記Ⅱ
6
76