岐阜市旅行記(ブログ) 一覧に戻る
該区間は、中山道線建設連絡線の為に、武豊-長濱間延長線の一環として開通した。<br /><br /><br />現在の東海道本線の基幹区間たる京都-熱田間鉄道建設に対し、我が国政府は命令を以って現地測量を実施する事になり、該測量は明治7年(1874年)12月より開始したが、資金枯渇を理由に、翌明治8年(1875年)9月5日附で中止命令が発令された。<br /><br />即ち、当時は旧士族に依る反政府運動が、理論から現実暴動化への移行期に相当し、事変発生鎮定の為に軍備拡張整備が急務とされた事や、東京横濱対京阪神間連絡鉄道は、外国軍隊攻撃時に有利な中仙道経由とすべしとする見解が、陸軍卿 山縣有朋(やまがた ありとも)(天保9年(1838年)6月14日~大正11年(1922年)2月1日)(明治7年(1874年)6月30日~明治11年(1878年)11月8日在任)を筆頭に台頭していた事から、東海道筋に鉄道設置は不要とされた事が原因だった。<br /><br /><br />改めて、東海道筋に鉄道設置必要論が再興したのは明治16年(1883年)である。<br /><br />工部省鐵道局長 井上 勝(いのうえ まさる)(天保4年(1843年)8月25日~明治43年(1910年)8月2日)(明治10年(1887年)1月11日~明治16年(1893年)3月16日在任)は、同年3月に、中仙道鉄道建設が山岳地帯通過を以って建設完成が早期困難たるを理由に東海道筋鉄道建設を着工すべしとの内容の稟議書を、第5代 工部卿 佐々木高行(ささき たかゆき)(文政13年(1830年)11月26日~明治43年(1910年)3月2日)(明治14年(1881年)10月21日~明治18年(1885年)12月22日在任)に提出し、該稟議書に於いて、関ケ原-名古屋間鉄道建設が要求された。<br /><br />即ち、該当時は敦賀を起点に長濱を経由し大垣に至る経路を建設中で、木曾川、長良川、及び、揖斐川3大河川渡河地点選定で苦労したに相違無く、木曾3川に対する大架橋工事の為に、大垣-加納(現 岐阜)間測量は、明治17年(1884年)5月19日に開始され、測量、及び、土地収用完了地に対する工事着工は同年同月27日に開始された。<br /><br />加納(現 岐阜)-一ノ宮(現 尾張一宮)間測量は、翌明治18年(1885年)1月26日に開始したが、土地収用に時間を要し、該区間工事着工は同年9月になった。<br /><br />大垣-名古屋間鉄道敷設工事は、最高責任者として 権大技長 飯田俊徳(いいだ としのり)(弘化4年(1847年)8月5日~大正12年(1923年)8月27日)が担当したが、但し、揖斐川、長良川、両河川に対する架橋工事は、1等技手 長谷川謹介(はせがわ きんすけ)(安政2年(1855年)8月20日~大正10年(1921年)8月27日)、木曾川に対する架橋工事は、4等技手 足助好生(あすけ よしお)(生没年不詳)が担当した。<br /><br /><br />該区間中心を形成する濃尾平野(のうび へいや)は、我が国屈指の大河川たる、木曽川(きそがわ)、長良川(ながらがわ)、及び、揖斐川(いびがわ)が集中する輪中(わじゅう)に所在し、内務省土木局に依る護岸改修工事完成前は、該河川群に対し、培養的中小河川が存在する厄介な地域だった。<br />此の為に、該付近は、該3大河川に依る砂礫段丘から構成され、地盤は極めて軟弱質である。<br />それ故に、該大河川に対する架橋工事は慎重を極めざるを得なかった。<br /><br /><br />該区間開通は、<br />一ノ宮(現 尾張一宮)-木曾川間 明治19年(1886年) 6月 1日<br />木曾川-加納(現 岐阜)間    明治20年(1887年) 4月25日<br />加納(現 岐阜)-大垣間     明治20年(1887年) 1月21日<br />である。<br /><br /><br />木曾川、長良川、及び、揖斐川は下流域に於いて濃尾三川(のうび さんせん)と称される。<br /><br />明治期までは、該地域に於いて該3河川が合分流を反復させる複雑な地形を有しており、大雨の都度、沿岸流域は甚大被害が免れず、該地域住民は水害の都度、苦しめられていた。<br /><br />江戸期以降、治水事業が試みられるも、当時の技術力では抜本的対策とはなり得ず、それ故、各方面より早急な解決策が待望されていた。<br /><br />明治政府は、抜本的解決策として外国より土木技術者招聘を決定し、該決定に基き、明治6年(1873年)にオランダ人 ヨハニス・デ・レーケ(Johannis de RIJKE)(1848年(弘化5年)12月5日~1913年(大正2年)1月20日)が来日した。<br /><br />デ・レーケは、内務省土木局の依頼に依り、立案、及び、施工責任者として、大阪淀川治水対策事業、福井三國港改修事業、富山常願寺川治水対策事業、等々を手掛けたが、在日滞在中の最大の業績は濃尾3河川分流対策事業だった。<br /><br />即ち、デ・レーケは、現地調査の結果、明治18年(1885年)に内務省土木局に対し報告書を提出し、該文書に於いて、該3河川が下流域に於いて合分流を反復する現状が氾濫原なりと解し、それ故、該3河川を分流状態で伊勢湾に通水させるべきと結論付ていた。<br /><br />該治水事業は明治20年(1887年)に開始されたが、同時期に該3河川に対し該線鉄道用橋梁が架橋されたのは興味深い。<br /><br />該治水工事完全完成は明治45年(1912年)に竣工し、明治36年(1903年)に、デ・レーケは在日滞在30年を経てオランダ本国に帰国したが、該治水工事完成に依り、水害の都度、輪中が孤立する事も無くなり、該沿岸住民は水害被害から免れる様になった。<br /><br /><br />木曾川、及び、長良川両橋梁架橋に対する橋台、及び、橋脚設置工事に対しては、鋳鐡製柱内部にコンクリートを充填し組物構造が採用された。<br /><br />此れに対し、揖斐川橋梁架橋に対しては、岩盤不良を理由に、従来の橋梁設置工事同様の工法たる煉瓦積橋脚構造が採用された。<br /><br /><br />岐阜駅は、開業当初 加納(かのう)と称し、初代駅本屋は、現在の名古屋鉄道各務原線安良田踏切付近地点に設置されたが、翌明治21年(1888年)3月1日に、現在の名古屋鉄道名鉄岐阜駅前スクランブル交差点北側付近に移設した。<br /><br />此れに対し、大垣駅は、滋賀県長濱から延長に延長を重ねた中仙道鉄道連絡線工事一環として、関ケ原-大垣間延長工事完成たる明治17年(1884年)5月25日に開業した。<br /><br /><br />該駅開業時たる同月に揖斐川橋梁架橋工事が開始され、翌明治18年(1886年)に、該橋梁神戸方に英國製下路錬鐵製ワーレントラス橋桁63.4m(200ft)×3連が架橋されたが、然し、英國から残橋梁用鋼材2連分は日本鐵道栗橋-古河間に存在する利根川橋梁架橋用として転用された事から、同時期での該橋梁架橋は不可能となり、新橋方2連分は追加橋梁鋼材到着を待ち、明治19年(1887年)に架橋工事が再開され、同年12月に全工程が竣工した。<br /><br />因みに、大垣-木曾川間全通まで、該区間旅客連絡は、琵琶湖船運で実績を有していた太湖汽船が人力車を以って代行輸送した。<br /><br /><br />第122代 明治(めいじ)天皇(嘉永5年(1852年)11月3日~明治45年(1912年)7月29日)(慶應3年(1867年)1月30日~明治45年(1912年)7月29日御在位)は、崩御された後、直ちに、生前に於ける業績を伝記として編纂されたが、完成まで約60年を要し、該伝記は 明治天皇紀として、昭和38年(1963年)から昭和52年(1977年)にかけて宮内庁から公刊された。<br /><br />明治20年(1887年)2月に関する記述は、第6号巻129に収納されたが、該月21日に関する記述は下記の通りである。<br /><br />二十一日<br />仁孝天皇例祭、宮内時間伯爵吉井友寶ヲシテ代拝セシタマフ、天皇、皇后ト倶ニ還幸ノ途ニ就カセタマフ、午前七時三十分皇后ト御同列ニテ京都御所御出門、七條停車場を發?獻シタマフ、晃親王・朝彦親王等停車場ニ奉送ス、既ニシテ大津ニ著御、太湖汽船會社ニ少憩アラセラレ、九時五十分第二太湖丸ヲ以テ、湖上ニ泛ヒ長濱ニ抵リ、午後二時貴社ニ移御シ、木曾川西岸圓城寺村ニ著御アラセラル、時ニ木曾川架橋工事未タ竣成セサルヲ以テ、鐵道局ハ歩推車ヲ具シテ乗御ニ充テ、轆轤ヲ捲キテ之レヲ進メタテマツル、特ニ命シテ架橋工事ヲ止ムルコトナク、天皇・皇后車中ニ在リテ之レヲ觀タマウ、乃チ東岸北方村御召換所ニ入御、休憩アラセラルゝコト二十分、復汽車ニ召シ、四時三十分名古屋停車場ニ著御、東本願寺別院ヲ以テ行在所ニ充て、愛知縣知事勝間田稔奉候シテ祝詞ヲ上りリ、御駐輦ニ因ル縣民懽喜ノ情ヲ奏ス、叉陶器其ノ他ノ産物ヲ行在所ニ陳列シテ天覧ニ供シタテマツリ、叉特ニ書家木村金秋シテ舊名古屋藩士帰田ノ寶状ヲ描カシメ、加フルニ國学者野村秋足ノ文ヲ以テシ、伏屋ノ煙ト題シ、絹本金泥地ノ巻物二巻ニ製シ、乙夜ノ覧ヲ仰キタテマツリ、頗ル叡感アラセラレ、座右ニ留メ、命シテ東京ニ送ラシメタマフ、<br /><br />該文を現代語訳化すると、<br /><br />21日<br />第120代 仁孝(にんこう)天皇(寛政12年(1800年)3月16日~弘化3年(1846年)2月21日)(文化14年(1817年)10月31日~弘化3年(1846年)2月21日御在位)命日に附、宮内次官伯爵 吉井友實(よしい ともざね)(文化11年(1828年)4月10日~明治24年(1891年)4月22日)に対し代理参拝を命じる。<br />天皇、皇后両陛下共に帰京されるべく、7時30分に皇后と共に京都御所を出発せられ京都駅に移動される。<br />該駅に於いて、山階宮晃(やまなしのみや あきら)親王(文化13年(1816年)10月22日~明治31年(1898年)2月17日)、九邇宮朝彦(くにのみや あさひこ)親王(文政7年(1824年)3月27日~明治24年(1891年)10月25日)等々の送迎を受けられる。<br />御召列車は程無くして大津に到着された。<br />太湖汽船会社に於いて暫し休憩された後、9時50分に第2太湖丸に御乗船され琵琶湖上を通過され、長浜に到着された。<br />長浜駅14時発御召列車に御乗車をされた後、該列車は、木曽川西岸の圓城村(現 羽島郡笠松町)臨時乗降場に到着あらせられた。<br />該当時、木曾川橋梁は未成状態だった事から、天皇皇后両陛下の移動の為に、鐵道局は特にトロッコを用意し、ロープで引きながら該橋梁を通過された。<br />天皇皇后両陛下御通過に鑑み、特に架橋工事を中断させる事無く、天皇皇后両陛下もトロッコ内部から工事現場を参観された。<br />天皇皇后両陛下はトロッコから下車後、該橋梁東岸北方村(現 一宮市木曾川町北方)に設置された御召換所に入御され20分休憩後、再度御召列車に乗車され、該御召列車は16時30分名古屋駅に到着した。<br />天皇皇后両陛下は、名古屋に於ける行在所に充てられた東本願寺別院に入御された。<br />第5代 愛知縣知事 勝間田 稔(かつまた みのる)(天保13年(1843年)1月13日~明治39年(1906年)1月30日)(明治18年(1885年)1月22日~明治22年(1889年)12月26日在任)が天機奉候し祝詞を申上げた。<br />天皇皇后両陛下が名古屋に御駐輦された事に縣民歓喜の状況を奉告する。<br />叉、陶器その他の産物を行在所に陳列し天覧に供した。<br />叉、書家 木村金秋(きむら きんしゅう)をして旧名古屋藩士帰田の実況を描かしめ、更に、野村秋足(小学校唱歌 ちょうちょ の作詞家)の解説部を以って、伏屋の煙 と題し、絹張本金泥地巻物2巻を作成し天覧させた。<br />明治天皇は直ちに東京に送る事を命じた。<br /><br /><br />明治24年(1891年)10月28日6時38分頃に、岐阜県根尾川上流域を震源とする大地震が発生した。<br /><br />該地震は、濃尾大震災(のうび だいしんさい)と称され、マグニチュードは最大8.0で、該数値は我が国陸部地震としては観測史上最大規模とされ、且つ、120年以上を経過した現在に至るも該地震余震が発生する程である。<br /><br />該地域に於いて、死者727名、全壊家屋14217棟、山崩10224箇所の被害が発生したが、該線被害は、岡崎-大垣-長濱間に於いて甚大被害が発生し、特に、長良川橋梁は、橋脚が折損壊が原因に依り橋桁が河中に落橋する重大被害が発生した。<br /><br />一ノ宮(現 尾張一宮)-木曾川間は同年12月20日までに開通したが、木曾川-大垣間は橋梁関係の被害が著しい事から、完全復旧は、翌明治25年(1892年)4月16日に持ち越された。<br /><br />因みに、該地震発生まで帝國陸軍は国民から忌避の対象であり、当時は既に徴兵制度が導入されていたにも拘らず、徴兵免除の特例として戸主、及び、長男や、金100円を納めた者、等々、例外規定が存在し、此の為に、次男以下は養子として婿に出るなどして徴兵逃れがまかり通っていた。<br /><br />然るに、該震災に依り帝國陸軍将兵が被災地救護の為に出動し、損壊家屋撤去や被災者救護の為に尽力する姿を目の当たりに見て、此れ以降、国民の為の軍隊たる認識が強まった。<br /><br /><br />鐵道唱歌<br />第34番<br />名たかき金の鯱は<br />(なたかき きんの しゃちほこは)<br />名古屋の城の光なり<br />(なごやの しろの ひかりなり)<br />地震のはなしまだ消えぬ<br />(じしんの はなし まだきえぬ)<br />岐阜の鵜飼も見てゆかん♪<br />(ぎふの うかひも みてゆかん)<br />歌詞が、名古屋と岐阜が一緒と云う、何とも大雑把な印象が拭い切れぬ内容である。<br />但し、作詞後7年を経過しているにも拘らず、濃尾大震災の余語が出る。<br /><br /><br />第35番<br />父やしなひし養老の<br />(ちち やしなひし ようろうの)<br />瀧は今なほ大垣を<br />(たきは いまなほ おおがきを)<br />三里へだてゝ流れたり<br />(さんり へだてて ながれたり)<br />孝子の名誉ともろともに♪<br />(こうしの めいよと もろともに)<br />養老の瀧の伝説を歌詞に採入れた内容である。<br /><br /><br />穂積付近は開業当時は地平構築形式だったが、該地付近は濃尾3河川支流が入り乱れ、該河川群氾濫の都度、線路が冠水する事から、明治34年(1901年)に新規に築堤設置構築形態に改築された。<br /><br /><br />該区間に於ける複線化は、<br /> 明治36年(1903年)12月20日<br />   岐阜-長良間<br /> 明治40年(1907年) 3月 1日<br />   一ノ宮-木曾川間<br /> 明治41年(1908年) 4月29日<br />   穂積-大垣間<br /> 明治42年(1909年) 6月11日<br />   木曾橋-岐阜間<br />   長良-穂積間<br /> 大正 2年(1913年) 2月 1日<br />   木曽川-木曾橋間<br />である。<br /><br /><br />明治45年(1912年)6月17日に、大垣駅構内に於いて重大列車事故が発生した。<br /><br />即ち、当日、旅客列車第459列車は、定時より遅延していたが、一宮(現 尾張一宮)駅通過後、木曾川、岐阜、穂積各駅を通過し、揖斐川橋梁通過後、下り勾配区間となる事から、機関手は調和器を閉塞し、真空制動機を動作させるべく、大垣駅下り遠方信号機地点に於いて動作させるも、速度は低下せず加速状態で、11時23分頃、該駅に停車中の軍用丁号列車後部に激突した。<br />此の為に、第459号列車牽引機関車、及び、該軍用丁号列車後部連結の客車4両に脱線し、特に該客車4両車体は大破粉砕した事から、該軍用丁号列車に乗車していた兵4名が即死し、兵53名に重軽傷を負わせた。<br /><br />客車が純木造構造であり、且つ、現代の如き空気制動では無く1気圧しか無い真空制動で、制動力が貧弱だった事が事故内容を、より大きくさせた。<br /><br /><br />日露戦争(にちろ せんそう)(明治37年(1904年)2月8日~明治38年(1905年)9月5日)後、帝國陸軍は軍備拡張の一環として、組織拡大を謀るべく、明治41年(1908年)3月7日に、陸軍歩兵第68連隊本部を滋賀県大津より岐阜県北長森に移転させ、次いで、同年5月8日に、第122代 明治(めいじ)天皇(嘉永5年(1852年)11月3日~明治45年(1912年)7月29日)(慶應4年(1868年)10月12日~明治45年(1912年)7月29日御在位)より該隊に対し軍旗が授与された。<br /><br />此の為に、岐阜市、及び、周辺町村は、軍都として位置付られ、該駅での軍用貨物取扱が急増したが、然し、既成構内施設では該取扱に限界があり、且つ、構内拡張が困難だった事から、帝國陸軍は内閣鐵道院に対し、構内施設拡張要求を行い、内閣鐵道院は該駅移転を決定した。<br /><br />即ち、将来に於ける高山、富山方面への連絡線設置を容易とすべく、該線経路を南側に移設させ、大正2年(1913年)8月21日に現位置への移設工事が完了した。<br /><br /><br />首都圏、近畿圏をはじめとする大都市圏内では、大晦日から元旦に至る深更時間帯に初詣目的の旅客輸送扱の為の深夜運転を実施する鉄道会社が多数存在するが、社寺初詣輸送の為に終夜運転開始は、実は大正末期である。<br /><br />現在の日本人なら1月1日0時を迎えるか迎えぬかの時点で社寺詣行う者は決して少数では無い。<br /><br />然し、昭和初期までの我が国に於ける初詣とは元旦午前6時以降に行うのが常識とされていた。<br /><br />即ち、初詣とは初日の出を遥拝し、その後に近隣社寺参拝するものであり、元旦0時から6時に至る時間帯とは神職者仏職者に依る神事仏事執行時間であり、一般人には無縁な時間帯だった。<br /><br />それ故、中部地域に於ける熱田神宮、真清田神社参拝は大晦日の最終列車で詣でるのでは無く、始発列車に乗車して詣るのが常識とされ、故に、当時の名古屋鐵道局では元旦6時以降に於いて臨時列車運行こそ実施したが、深更に於ける臨時列車運転など発想すら存在し得無かった。<br /><br />然るに、大正末期に都市間輸送を目的とする名岐鐵道や、愛知電気鐵道が相次いで開業成立すると、鐵道省線に対抗すべく独自新企画として自社線終夜運転を実施した事で、我々日本人の初詣に対する認識概念を悉く覆す劇的変化を生じさせた。<br /><br />即ち、大正末期ともなると、大正デモクラシーの影響で、従来の上流階級下層階級に対し、新に中産階級が発生した事で、該階級層に属する人々は旧来の慣習に捉われず、時刻が深夜であろうと無かろうと、該人々は競って社寺詣でを行う様になり、現在に於ける初詣様式の嚆矢となった。<br /><br />片や、参拝客をゴッソリ取られた鐵道省側も翌年から終夜運転を実施させ、特に、各方面に路線を有する事は、此れら地域発着臨時列車設定を可能とした事で生活観の変化に弾みをつける結果となった。<br /><br />同様例として中部地域以外では、東京-川崎間(明治神宮、日枝神社、川崎大師)、両国橋(現 両国)-成田間(成田不動尊)、京阪神地区、及び、仙台-塩竈間(塩竈神社)に於ける対抗並行私鉄電気鉄道が存在する区間に限定され、例えば、並行私鉄が存在しない武蔵國一之宮神社たる氷川神社が存在する大宮、相模國一之宮神社たる寒川神社に対し終夜運転は行われていない。<br /><br /><br />大東亜戦争中、該区間に於ける空襲被害は、<br />昭和20年(1945年)<br />  7月 9日 第21爆撃機軍団 第314航空隊 B29戦略爆撃機計129機 岐阜大空襲<br /> 警戒警報発令 21時20分<br /> 空襲警報発令 22時00分<br /> 空襲開始   23時34分<br /> 空襲警報解除  1時20分<br /> 警戒警報解除  1時35分<br />岐阜駅構内<br />  駅本屋 構内運転室 旅客跨線橋 岐阜地方施設部倉庫3棟 職員官舎16戸<br />  線路破壊3箇所計100m 枕木焼損計15本<br />  木造客車3両 貨車100両全焼<br /><br />  7月28日 第20航空軍 第73航空隊 B29戦略爆撃機計122機 尾張一宮大空襲<br /> 警戒警報発令 22時12分<br /> 空襲警報発令 22時20分<br /> 空襲開始   22時56分<br /> 空襲警報解除  0時48分<br /> 警戒警報解除  1時20分<br />尾張一ノ宮(現 尾張一宮)駅構内<br />  駅本屋 東信号取扱所 東西貨物ホーム上屋 踏切警手詰所 職員官舎3戸<br />         <br />第20航空軍 第314航空隊 B29戦略爆撃機90機<br /> 大垣大空襲<br /> 警戒警報発令 22時15分<br /> 空襲警報発令 22時20分<br /> 空襲開始    0時52分<br /> 空襲警報解除  2時50分<br /> 警戒警報解除  3時20分<br />大垣駅構内<br />  駅本屋(半焼) 第3信号取扱所 貨物ホーム上屋 職員官舎22戸<br />  線路破壊岐阜-穂積間8箇所計100m 枕木焼損計18本<br />大垣駅構内被災車輌<br />  オハ35 192(名マイ)全焼<br />  オハ35 195(名マイ)全焼<br />  オハ41 33 (名マイ)全焼<br />  オハフ30 28(名マイ)全焼<br />  オハフ40 10(名マイ)全焼<br />  オハニ30 11(名マイ)全焼<br /> 以上、昭和21年(1946年)3月31日附戦災廃車<br /><br /><br />稲沢-米原間直流1500V電化開業は、正式には昭和30年(1955年)7月20日だが、稲沢-大垣間電化工事は同年6月20日に完成した。<br />引続き、EF15型、および、EH10型電気機関車に依る試運転が開始され、同年7月2日には大垣駅に80型電車が初入線した。<br /><br /><br />昭和31年(1956年)1月29日11時43分頃、岐阜駅構内に於いて、停車中の貨物列車に旅客列車が追突する事故が発生した。<br /><br />進駐軍専用列車 アライド リミテッド(ALLIED LIMITED)1005列車 1006列車は進駐軍の要求に拠り、昭和21年(1946年)1月31日に東京-門司間を運転開始し、該列車から一部車輌は切離され、門司-佐世保間は一般列車に併結した事から、事実上、東京-佐世保間運転の列車だったが、サンフランシスコ講和条約発効直前の昭和27年(1952年)3月31日に特殊列車として日本交通公社編纂時刻表にも掲載され、発売枚数にこそ制限を有していたが、一部車輌は我々日本人に対し開放され乗車可能となった。<br />昭和29年(1954年)10月1日附で普通急行 第1002列車 西海(さいかい)号として運転される様になったが、列車発祥が前述の如くだった事情から駐留軍関係の利用者も多く、他急行列車に比較し1、2等車連結両数比率が高かった。<br /><br />該列車は、EF5867牽引10両編成で運転されていたが、先行する貨物列車は停止現示に依り停車していたが、吹雪の為に該急行列車機関士が事前の停止信号が吹雪を原因とする視界不良に依り確認困難で、前方で停車中の貨物列車に気づき急制動を動作させたが間に合わはず、その為に、衝突時は停車直前で減速効果の為に旅客列車乗客に死者こそ発生しなかったものの、着席中の乗客をも含め約1000名弱が将棋倒しとなり、軽傷者が多数発生し駐留軍将兵にも負傷者が発生した事から社会問題化した。<br /><br />因みに、該事故発生日は、該線丹那随道内で貨物列車脱線事故も発生しており、東海道本線にとって踏んだり蹴ったりの散々な1日だった。<br /><br /><br />岐阜市内中心部は東海道本線、及び、高山本線踏切存在の為に交通渋滞が深厚な状態たる事と該2線の為に市が分断されている現状を打開する事から、昭和47年(1972年)に計4.8km間高架化が決定された。<br />県庁所在地中心部密集地施工の為に土地収用に困難を極めたが、該工事は、昭和58年(1983年)に着工し、平成8年(1996年)2月26日に竣工したが、名古屋鉄道名古屋本線高架線を跨ぐ為に、該施設は高々架化構造となる。<br /><br /><br />尾張一宮駅付近高架化工事は、平成7年(1995年)3月28日に着工し、下り線は平成15年(2003年)4月14日、上り線は平成17年(2005年)12月18日に新高架線切替が実施された。<br /><br />名古屋鉄道岐阜市内線は平成17年(2005年)4月1日附で全線路線廃止されたが、事前説明では、廃止に依り自動車通行容易とされていたにも拘らず、実際には渋滞続出となり、更に、郊外から市中心部への移動に対し、それまで路面電車を利用していた利用者がバス乗車を忌避する傾向が強い為に、移動人数は激減し、岐阜市中心部空洞化に一層拍車をかける事態を招来させたのが現実である。<br /><br /><br />明治30年(1897年)創業で 鮎の姿寿司 で知られた 嘉寿美館(かすみかん)は、該駅、及び、岐阜羽島駅構内に於いて弁当販売を行っていたが、時代の趨勢に依り販売個数が激減し、平成18年(2006年)に該販売から撤退してしまった。<br /><br /><br /><br /><br /><br />表紙写真は、<br />明治19年(1886年)竣工 初代揖斐川橋梁<br /><br /><br /><br /><br />東海道本線歴史的痕跡探訪記<br />~東京-濱松町間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10701644<br />~東京驛編~<br /><br />~汐留-濱松町-品川間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10797199<br />~品川-川崎間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10502858<br />~川崎-横濱間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10711843<br />~横濱駅移設変転史編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10316826<br />~横濱-大船間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/10713813<br />~大船-平塚間編 明治頌歌~<br /><br />~平塚-國府津間編 明治頌歌~<br /><br />~國府津-根府川間編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10298330<br />~根府川-熱海間編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10310352<br />~丹那隧道完成秘話 丹那隧道碑文から読み取れし或る歴史的事実~<br />http://4travel.jp/travelogue/10291350<br />~丹那隧道完成秘話 三島口建設工事鉄道線探訪記~<br />http://4travel.jp/travelogue/10575630<br />~熱海-沼津間編~<br /><br />~沼津駅驛編~<br 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東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~尾張一宮-岐阜-大垣間編 明治頌歌~

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2017/02/15 - 2017/02/16

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横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

該区間は、中山道線建設連絡線の為に、武豊-長濱間延長線の一環として開通した。


現在の東海道本線の基幹区間たる京都-熱田間鉄道建設に対し、我が国政府は命令を以って現地測量を実施する事になり、該測量は明治7年(1874年)12月より開始したが、資金枯渇を理由に、翌明治8年(1875年)9月5日附で中止命令が発令された。

即ち、当時は旧士族に依る反政府運動が、理論から現実暴動化への移行期に相当し、事変発生鎮定の為に軍備拡張整備が急務とされた事や、東京横濱対京阪神間連絡鉄道は、外国軍隊攻撃時に有利な中仙道経由とすべしとする見解が、陸軍卿 山縣有朋(やまがた ありとも)(天保9年(1838年)6月14日~大正11年(1922年)2月1日)(明治7年(1874年)6月30日~明治11年(1878年)11月8日在任)を筆頭に台頭していた事から、東海道筋に鉄道設置は不要とされた事が原因だった。


改めて、東海道筋に鉄道設置必要論が再興したのは明治16年(1883年)である。

工部省鐵道局長 井上 勝(いのうえ まさる)(天保4年(1843年)8月25日~明治43年(1910年)8月2日)(明治10年(1887年)1月11日~明治16年(1893年)3月16日在任)は、同年3月に、中仙道鉄道建設が山岳地帯通過を以って建設完成が早期困難たるを理由に東海道筋鉄道建設を着工すべしとの内容の稟議書を、第5代 工部卿 佐々木高行(ささき たかゆき)(文政13年(1830年)11月26日~明治43年(1910年)3月2日)(明治14年(1881年)10月21日~明治18年(1885年)12月22日在任)に提出し、該稟議書に於いて、関ケ原-名古屋間鉄道建設が要求された。

即ち、該当時は敦賀を起点に長濱を経由し大垣に至る経路を建設中で、木曾川、長良川、及び、揖斐川3大河川渡河地点選定で苦労したに相違無く、木曾3川に対する大架橋工事の為に、大垣-加納(現 岐阜)間測量は、明治17年(1884年)5月19日に開始され、測量、及び、土地収用完了地に対する工事着工は同年同月27日に開始された。

加納(現 岐阜)-一ノ宮(現 尾張一宮)間測量は、翌明治18年(1885年)1月26日に開始したが、土地収用に時間を要し、該区間工事着工は同年9月になった。

大垣-名古屋間鉄道敷設工事は、最高責任者として 権大技長 飯田俊徳(いいだ としのり)(弘化4年(1847年)8月5日~大正12年(1923年)8月27日)が担当したが、但し、揖斐川、長良川、両河川に対する架橋工事は、1等技手 長谷川謹介(はせがわ きんすけ)(安政2年(1855年)8月20日~大正10年(1921年)8月27日)、木曾川に対する架橋工事は、4等技手 足助好生(あすけ よしお)(生没年不詳)が担当した。


該区間中心を形成する濃尾平野(のうび へいや)は、我が国屈指の大河川たる、木曽川(きそがわ)、長良川(ながらがわ)、及び、揖斐川(いびがわ)が集中する輪中(わじゅう)に所在し、内務省土木局に依る護岸改修工事完成前は、該河川群に対し、培養的中小河川が存在する厄介な地域だった。
此の為に、該付近は、該3大河川に依る砂礫段丘から構成され、地盤は極めて軟弱質である。
それ故に、該大河川に対する架橋工事は慎重を極めざるを得なかった。


該区間開通は、
一ノ宮(現 尾張一宮)-木曾川間 明治19年(1886年) 6月 1日
木曾川-加納(現 岐阜)間    明治20年(1887年) 4月25日
加納(現 岐阜)-大垣間     明治20年(1887年) 1月21日
である。


木曾川、長良川、及び、揖斐川は下流域に於いて濃尾三川(のうび さんせん)と称される。

明治期までは、該地域に於いて該3河川が合分流を反復させる複雑な地形を有しており、大雨の都度、沿岸流域は甚大被害が免れず、該地域住民は水害の都度、苦しめられていた。

江戸期以降、治水事業が試みられるも、当時の技術力では抜本的対策とはなり得ず、それ故、各方面より早急な解決策が待望されていた。

明治政府は、抜本的解決策として外国より土木技術者招聘を決定し、該決定に基き、明治6年(1873年)にオランダ人 ヨハニス・デ・レーケ(Johannis de RIJKE)(1848年(弘化5年)12月5日~1913年(大正2年)1月20日)が来日した。

デ・レーケは、内務省土木局の依頼に依り、立案、及び、施工責任者として、大阪淀川治水対策事業、福井三國港改修事業、富山常願寺川治水対策事業、等々を手掛けたが、在日滞在中の最大の業績は濃尾3河川分流対策事業だった。

即ち、デ・レーケは、現地調査の結果、明治18年(1885年)に内務省土木局に対し報告書を提出し、該文書に於いて、該3河川が下流域に於いて合分流を反復する現状が氾濫原なりと解し、それ故、該3河川を分流状態で伊勢湾に通水させるべきと結論付ていた。

該治水事業は明治20年(1887年)に開始されたが、同時期に該3河川に対し該線鉄道用橋梁が架橋されたのは興味深い。

該治水工事完全完成は明治45年(1912年)に竣工し、明治36年(1903年)に、デ・レーケは在日滞在30年を経てオランダ本国に帰国したが、該治水工事完成に依り、水害の都度、輪中が孤立する事も無くなり、該沿岸住民は水害被害から免れる様になった。


木曾川、及び、長良川両橋梁架橋に対する橋台、及び、橋脚設置工事に対しては、鋳鐡製柱内部にコンクリートを充填し組物構造が採用された。

此れに対し、揖斐川橋梁架橋に対しては、岩盤不良を理由に、従来の橋梁設置工事同様の工法たる煉瓦積橋脚構造が採用された。


岐阜駅は、開業当初 加納(かのう)と称し、初代駅本屋は、現在の名古屋鉄道各務原線安良田踏切付近地点に設置されたが、翌明治21年(1888年)3月1日に、現在の名古屋鉄道名鉄岐阜駅前スクランブル交差点北側付近に移設した。

此れに対し、大垣駅は、滋賀県長濱から延長に延長を重ねた中仙道鉄道連絡線工事一環として、関ケ原-大垣間延長工事完成たる明治17年(1884年)5月25日に開業した。


該駅開業時たる同月に揖斐川橋梁架橋工事が開始され、翌明治18年(1886年)に、該橋梁神戸方に英國製下路錬鐵製ワーレントラス橋桁63.4m(200ft)×3連が架橋されたが、然し、英國から残橋梁用鋼材2連分は日本鐵道栗橋-古河間に存在する利根川橋梁架橋用として転用された事から、同時期での該橋梁架橋は不可能となり、新橋方2連分は追加橋梁鋼材到着を待ち、明治19年(1887年)に架橋工事が再開され、同年12月に全工程が竣工した。

因みに、大垣-木曾川間全通まで、該区間旅客連絡は、琵琶湖船運で実績を有していた太湖汽船が人力車を以って代行輸送した。


第122代 明治(めいじ)天皇(嘉永5年(1852年)11月3日~明治45年(1912年)7月29日)(慶應3年(1867年)1月30日~明治45年(1912年)7月29日御在位)は、崩御された後、直ちに、生前に於ける業績を伝記として編纂されたが、完成まで約60年を要し、該伝記は 明治天皇紀として、昭和38年(1963年)から昭和52年(1977年)にかけて宮内庁から公刊された。

明治20年(1887年)2月に関する記述は、第6号巻129に収納されたが、該月21日に関する記述は下記の通りである。

二十一日
仁孝天皇例祭、宮内時間伯爵吉井友寶ヲシテ代拝セシタマフ、天皇、皇后ト倶ニ還幸ノ途ニ就カセタマフ、午前七時三十分皇后ト御同列ニテ京都御所御出門、七條停車場を發?獻シタマフ、晃親王・朝彦親王等停車場ニ奉送ス、既ニシテ大津ニ著御、太湖汽船會社ニ少憩アラセラレ、九時五十分第二太湖丸ヲ以テ、湖上ニ泛ヒ長濱ニ抵リ、午後二時貴社ニ移御シ、木曾川西岸圓城寺村ニ著御アラセラル、時ニ木曾川架橋工事未タ竣成セサルヲ以テ、鐵道局ハ歩推車ヲ具シテ乗御ニ充テ、轆轤ヲ捲キテ之レヲ進メタテマツル、特ニ命シテ架橋工事ヲ止ムルコトナク、天皇・皇后車中ニ在リテ之レヲ觀タマウ、乃チ東岸北方村御召換所ニ入御、休憩アラセラルゝコト二十分、復汽車ニ召シ、四時三十分名古屋停車場ニ著御、東本願寺別院ヲ以テ行在所ニ充て、愛知縣知事勝間田稔奉候シテ祝詞ヲ上りリ、御駐輦ニ因ル縣民懽喜ノ情ヲ奏ス、叉陶器其ノ他ノ産物ヲ行在所ニ陳列シテ天覧ニ供シタテマツリ、叉特ニ書家木村金秋シテ舊名古屋藩士帰田ノ寶状ヲ描カシメ、加フルニ國学者野村秋足ノ文ヲ以テシ、伏屋ノ煙ト題シ、絹本金泥地ノ巻物二巻ニ製シ、乙夜ノ覧ヲ仰キタテマツリ、頗ル叡感アラセラレ、座右ニ留メ、命シテ東京ニ送ラシメタマフ、

該文を現代語訳化すると、

21日
第120代 仁孝(にんこう)天皇(寛政12年(1800年)3月16日~弘化3年(1846年)2月21日)(文化14年(1817年)10月31日~弘化3年(1846年)2月21日御在位)命日に附、宮内次官伯爵 吉井友實(よしい ともざね)(文化11年(1828年)4月10日~明治24年(1891年)4月22日)に対し代理参拝を命じる。
天皇、皇后両陛下共に帰京されるべく、7時30分に皇后と共に京都御所を出発せられ京都駅に移動される。
該駅に於いて、山階宮晃(やまなしのみや あきら)親王(文化13年(1816年)10月22日~明治31年(1898年)2月17日)、九邇宮朝彦(くにのみや あさひこ)親王(文政7年(1824年)3月27日~明治24年(1891年)10月25日)等々の送迎を受けられる。
御召列車は程無くして大津に到着された。
太湖汽船会社に於いて暫し休憩された後、9時50分に第2太湖丸に御乗船され琵琶湖上を通過され、長浜に到着された。
長浜駅14時発御召列車に御乗車をされた後、該列車は、木曽川西岸の圓城村(現 羽島郡笠松町)臨時乗降場に到着あらせられた。
該当時、木曾川橋梁は未成状態だった事から、天皇皇后両陛下の移動の為に、鐵道局は特にトロッコを用意し、ロープで引きながら該橋梁を通過された。
天皇皇后両陛下御通過に鑑み、特に架橋工事を中断させる事無く、天皇皇后両陛下もトロッコ内部から工事現場を参観された。
天皇皇后両陛下はトロッコから下車後、該橋梁東岸北方村(現 一宮市木曾川町北方)に設置された御召換所に入御され20分休憩後、再度御召列車に乗車され、該御召列車は16時30分名古屋駅に到着した。
天皇皇后両陛下は、名古屋に於ける行在所に充てられた東本願寺別院に入御された。
第5代 愛知縣知事 勝間田 稔(かつまた みのる)(天保13年(1843年)1月13日~明治39年(1906年)1月30日)(明治18年(1885年)1月22日~明治22年(1889年)12月26日在任)が天機奉候し祝詞を申上げた。
天皇皇后両陛下が名古屋に御駐輦された事に縣民歓喜の状況を奉告する。
叉、陶器その他の産物を行在所に陳列し天覧に供した。
叉、書家 木村金秋(きむら きんしゅう)をして旧名古屋藩士帰田の実況を描かしめ、更に、野村秋足(小学校唱歌 ちょうちょ の作詞家)の解説部を以って、伏屋の煙 と題し、絹張本金泥地巻物2巻を作成し天覧させた。
明治天皇は直ちに東京に送る事を命じた。


明治24年(1891年)10月28日6時38分頃に、岐阜県根尾川上流域を震源とする大地震が発生した。

該地震は、濃尾大震災(のうび だいしんさい)と称され、マグニチュードは最大8.0で、該数値は我が国陸部地震としては観測史上最大規模とされ、且つ、120年以上を経過した現在に至るも該地震余震が発生する程である。

該地域に於いて、死者727名、全壊家屋14217棟、山崩10224箇所の被害が発生したが、該線被害は、岡崎-大垣-長濱間に於いて甚大被害が発生し、特に、長良川橋梁は、橋脚が折損壊が原因に依り橋桁が河中に落橋する重大被害が発生した。

一ノ宮(現 尾張一宮)-木曾川間は同年12月20日までに開通したが、木曾川-大垣間は橋梁関係の被害が著しい事から、完全復旧は、翌明治25年(1892年)4月16日に持ち越された。

因みに、該地震発生まで帝國陸軍は国民から忌避の対象であり、当時は既に徴兵制度が導入されていたにも拘らず、徴兵免除の特例として戸主、及び、長男や、金100円を納めた者、等々、例外規定が存在し、此の為に、次男以下は養子として婿に出るなどして徴兵逃れがまかり通っていた。

然るに、該震災に依り帝國陸軍将兵が被災地救護の為に出動し、損壊家屋撤去や被災者救護の為に尽力する姿を目の当たりに見て、此れ以降、国民の為の軍隊たる認識が強まった。


鐵道唱歌
第34番
名たかき金の鯱は
(なたかき きんの しゃちほこは)
名古屋の城の光なり
(なごやの しろの ひかりなり)
地震のはなしまだ消えぬ
(じしんの はなし まだきえぬ)
岐阜の鵜飼も見てゆかん♪
(ぎふの うかひも みてゆかん)
歌詞が、名古屋と岐阜が一緒と云う、何とも大雑把な印象が拭い切れぬ内容である。
但し、作詞後7年を経過しているにも拘らず、濃尾大震災の余語が出る。


第35番
父やしなひし養老の
(ちち やしなひし ようろうの)
瀧は今なほ大垣を
(たきは いまなほ おおがきを)
三里へだてゝ流れたり
(さんり へだてて ながれたり)
孝子の名誉ともろともに♪
(こうしの めいよと もろともに)
養老の瀧の伝説を歌詞に採入れた内容である。


穂積付近は開業当時は地平構築形式だったが、該地付近は濃尾3河川支流が入り乱れ、該河川群氾濫の都度、線路が冠水する事から、明治34年(1901年)に新規に築堤設置構築形態に改築された。


該区間に於ける複線化は、
明治36年(1903年)12月20日
岐阜-長良間
明治40年(1907年) 3月 1日
一ノ宮-木曾川間
明治41年(1908年) 4月29日
穂積-大垣間
明治42年(1909年) 6月11日
木曾橋-岐阜間
長良-穂積間
大正 2年(1913年) 2月 1日
木曽川-木曾橋間
である。


明治45年(1912年)6月17日に、大垣駅構内に於いて重大列車事故が発生した。

即ち、当日、旅客列車第459列車は、定時より遅延していたが、一宮(現 尾張一宮)駅通過後、木曾川、岐阜、穂積各駅を通過し、揖斐川橋梁通過後、下り勾配区間となる事から、機関手は調和器を閉塞し、真空制動機を動作させるべく、大垣駅下り遠方信号機地点に於いて動作させるも、速度は低下せず加速状態で、11時23分頃、該駅に停車中の軍用丁号列車後部に激突した。
此の為に、第459号列車牽引機関車、及び、該軍用丁号列車後部連結の客車4両に脱線し、特に該客車4両車体は大破粉砕した事から、該軍用丁号列車に乗車していた兵4名が即死し、兵53名に重軽傷を負わせた。

客車が純木造構造であり、且つ、現代の如き空気制動では無く1気圧しか無い真空制動で、制動力が貧弱だった事が事故内容を、より大きくさせた。


日露戦争(にちろ せんそう)(明治37年(1904年)2月8日~明治38年(1905年)9月5日)後、帝國陸軍は軍備拡張の一環として、組織拡大を謀るべく、明治41年(1908年)3月7日に、陸軍歩兵第68連隊本部を滋賀県大津より岐阜県北長森に移転させ、次いで、同年5月8日に、第122代 明治(めいじ)天皇(嘉永5年(1852年)11月3日~明治45年(1912年)7月29日)(慶應4年(1868年)10月12日~明治45年(1912年)7月29日御在位)より該隊に対し軍旗が授与された。

此の為に、岐阜市、及び、周辺町村は、軍都として位置付られ、該駅での軍用貨物取扱が急増したが、然し、既成構内施設では該取扱に限界があり、且つ、構内拡張が困難だった事から、帝國陸軍は内閣鐵道院に対し、構内施設拡張要求を行い、内閣鐵道院は該駅移転を決定した。

即ち、将来に於ける高山、富山方面への連絡線設置を容易とすべく、該線経路を南側に移設させ、大正2年(1913年)8月21日に現位置への移設工事が完了した。


首都圏、近畿圏をはじめとする大都市圏内では、大晦日から元旦に至る深更時間帯に初詣目的の旅客輸送扱の為の深夜運転を実施する鉄道会社が多数存在するが、社寺初詣輸送の為に終夜運転開始は、実は大正末期である。

現在の日本人なら1月1日0時を迎えるか迎えぬかの時点で社寺詣行う者は決して少数では無い。

然し、昭和初期までの我が国に於ける初詣とは元旦午前6時以降に行うのが常識とされていた。

即ち、初詣とは初日の出を遥拝し、その後に近隣社寺参拝するものであり、元旦0時から6時に至る時間帯とは神職者仏職者に依る神事仏事執行時間であり、一般人には無縁な時間帯だった。

それ故、中部地域に於ける熱田神宮、真清田神社参拝は大晦日の最終列車で詣でるのでは無く、始発列車に乗車して詣るのが常識とされ、故に、当時の名古屋鐵道局では元旦6時以降に於いて臨時列車運行こそ実施したが、深更に於ける臨時列車運転など発想すら存在し得無かった。

然るに、大正末期に都市間輸送を目的とする名岐鐵道や、愛知電気鐵道が相次いで開業成立すると、鐵道省線に対抗すべく独自新企画として自社線終夜運転を実施した事で、我々日本人の初詣に対する認識概念を悉く覆す劇的変化を生じさせた。

即ち、大正末期ともなると、大正デモクラシーの影響で、従来の上流階級下層階級に対し、新に中産階級が発生した事で、該階級層に属する人々は旧来の慣習に捉われず、時刻が深夜であろうと無かろうと、該人々は競って社寺詣でを行う様になり、現在に於ける初詣様式の嚆矢となった。

片や、参拝客をゴッソリ取られた鐵道省側も翌年から終夜運転を実施させ、特に、各方面に路線を有する事は、此れら地域発着臨時列車設定を可能とした事で生活観の変化に弾みをつける結果となった。

同様例として中部地域以外では、東京-川崎間(明治神宮、日枝神社、川崎大師)、両国橋(現 両国)-成田間(成田不動尊)、京阪神地区、及び、仙台-塩竈間(塩竈神社)に於ける対抗並行私鉄電気鉄道が存在する区間に限定され、例えば、並行私鉄が存在しない武蔵國一之宮神社たる氷川神社が存在する大宮、相模國一之宮神社たる寒川神社に対し終夜運転は行われていない。


大東亜戦争中、該区間に於ける空襲被害は、
昭和20年(1945年)
  7月 9日 第21爆撃機軍団 第314航空隊 B29戦略爆撃機計129機 岐阜大空襲
 警戒警報発令 21時20分
 空襲警報発令 22時00分
 空襲開始   23時34分
 空襲警報解除  1時20分
 警戒警報解除  1時35分
岐阜駅構内
  駅本屋 構内運転室 旅客跨線橋 岐阜地方施設部倉庫3棟 職員官舎16戸
  線路破壊3箇所計100m 枕木焼損計15本
  木造客車3両 貨車100両全焼

  7月28日 第20航空軍 第73航空隊 B29戦略爆撃機計122機 尾張一宮大空襲
 警戒警報発令 22時12分
 空襲警報発令 22時20分
 空襲開始   22時56分
 空襲警報解除  0時48分
 警戒警報解除  1時20分
尾張一ノ宮(現 尾張一宮)駅構内
  駅本屋 東信号取扱所 東西貨物ホーム上屋 踏切警手詰所 職員官舎3戸
         
第20航空軍 第314航空隊 B29戦略爆撃機90機
大垣大空襲
 警戒警報発令 22時15分
 空襲警報発令 22時20分
 空襲開始    0時52分
 空襲警報解除  2時50分
 警戒警報解除  3時20分
大垣駅構内
  駅本屋(半焼) 第3信号取扱所 貨物ホーム上屋 職員官舎22戸
 線路破壊岐阜-穂積間8箇所計100m 枕木焼損計18本
大垣駅構内被災車輌
  オハ35 192(名マイ)全焼
  オハ35 195(名マイ)全焼
  オハ41 33 (名マイ)全焼
  オハフ30 28(名マイ)全焼
  オハフ40 10(名マイ)全焼
  オハニ30 11(名マイ)全焼
 以上、昭和21年(1946年)3月31日附戦災廃車


稲沢-米原間直流1500V電化開業は、正式には昭和30年(1955年)7月20日だが、稲沢-大垣間電化工事は同年6月20日に完成した。
引続き、EF15型、および、EH10型電気機関車に依る試運転が開始され、同年7月2日には大垣駅に80型電車が初入線した。


昭和31年(1956年)1月29日11時43分頃、岐阜駅構内に於いて、停車中の貨物列車に旅客列車が追突する事故が発生した。

進駐軍専用列車 アライド リミテッド(ALLIED LIMITED)1005列車 1006列車は進駐軍の要求に拠り、昭和21年(1946年)1月31日に東京-門司間を運転開始し、該列車から一部車輌は切離され、門司-佐世保間は一般列車に併結した事から、事実上、東京-佐世保間運転の列車だったが、サンフランシスコ講和条約発効直前の昭和27年(1952年)3月31日に特殊列車として日本交通公社編纂時刻表にも掲載され、発売枚数にこそ制限を有していたが、一部車輌は我々日本人に対し開放され乗車可能となった。
昭和29年(1954年)10月1日附で普通急行 第1002列車 西海(さいかい)号として運転される様になったが、列車発祥が前述の如くだった事情から駐留軍関係の利用者も多く、他急行列車に比較し1、2等車連結両数比率が高かった。

該列車は、EF5867牽引10両編成で運転されていたが、先行する貨物列車は停止現示に依り停車していたが、吹雪の為に該急行列車機関士が事前の停止信号が吹雪を原因とする視界不良に依り確認困難で、前方で停車中の貨物列車に気づき急制動を動作させたが間に合わはず、その為に、衝突時は停車直前で減速効果の為に旅客列車乗客に死者こそ発生しなかったものの、着席中の乗客をも含め約1000名弱が将棋倒しとなり、軽傷者が多数発生し駐留軍将兵にも負傷者が発生した事から社会問題化した。

因みに、該事故発生日は、該線丹那随道内で貨物列車脱線事故も発生しており、東海道本線にとって踏んだり蹴ったりの散々な1日だった。


岐阜市内中心部は東海道本線、及び、高山本線踏切存在の為に交通渋滞が深厚な状態たる事と該2線の為に市が分断されている現状を打開する事から、昭和47年(1972年)に計4.8km間高架化が決定された。
県庁所在地中心部密集地施工の為に土地収用に困難を極めたが、該工事は、昭和58年(1983年)に着工し、平成8年(1996年)2月26日に竣工したが、名古屋鉄道名古屋本線高架線を跨ぐ為に、該施設は高々架化構造となる。


尾張一宮駅付近高架化工事は、平成7年(1995年)3月28日に着工し、下り線は平成15年(2003年)4月14日、上り線は平成17年(2005年)12月18日に新高架線切替が実施された。

名古屋鉄道岐阜市内線は平成17年(2005年)4月1日附で全線路線廃止されたが、事前説明では、廃止に依り自動車通行容易とされていたにも拘らず、実際には渋滞続出となり、更に、郊外から市中心部への移動に対し、それまで路面電車を利用していた利用者がバス乗車を忌避する傾向が強い為に、移動人数は激減し、岐阜市中心部空洞化に一層拍車をかける事態を招来させたのが現実である。


明治30年(1897年)創業で 鮎の姿寿司 で知られた 嘉寿美館(かすみかん)は、該駅、及び、岐阜羽島駅構内に於いて弁当販売を行っていたが、時代の趨勢に依り販売個数が激減し、平成18年(2006年)に該販売から撤退してしまった。





表紙写真は、
明治19年(1886年)竣工 初代揖斐川橋梁




東海道本線歴史的痕跡探訪記
~東京-濱松町間編 明治頌歌~
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~東京驛編~

~汐留-濱松町-品川間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10797199
~品川-川崎間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10502858
~川崎-横濱間編 明治頌歌~
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~横濱駅移設変転史編 明治頌歌~
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~横濱-大船間編 明治頌歌~
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~大船-平塚間編 明治頌歌~

~平塚-國府津間編 明治頌歌~

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~丹那隧道完成秘話 丹那隧道碑文から読み取れし或る歴史的事実~
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~丹那隧道完成秘話 三島口建設工事鉄道線探訪記~
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~膳所-濱大津間(廃止線)編 明治頌歌~
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~膳所-稲荷-京都間(廃止線)編 明治頌歌~

~膳所-山科-京都間(現行線)編 大正浪漫~
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~京都驛編 明治頌歌~

~京都-向日町間編 明治頌歌~

~向日町-高槻間編 明治頌歌~

~高槻-吹田間編 明治頌歌~

~吹田-淡路-大阪間(廃止線)編 明治頌歌~

~吹田-新大阪-大阪間(現行線)編 大正浪漫~

~大阪駅周辺編~

~大阪-西宮間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11366806
~西宮-灘間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11321266
~灘-神戸間編 大正浪漫~
https://4travel.jp/travelogue/11245946

旅行の満足度
5.0
観光
4.5
ホテル
4.5
グルメ
4.5
交通
4.5
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
高速・路線バス 新幹線 JRローカル 私鉄 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 尾張一宮(おわりいちのみや)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治19年(1886年)5月1日開業である。<br />該駅開業当初は、一ノ宮(いちのみや)驛と称した。<br />然るに、我が国全土に鉄道が普及整備されるに従い、他地域所在一ノ宮と紛らわしいとの意見が台頭し、該見解に依り、大正5年(1916年)1月1日附で旧國名が冠され尾張一ノ宮驛に改称された。<br />一宮市は、昭和20年(1945年)7月28日未明に米戦略部隊に依る大規模空爆を受け、該駅開業当時の駅本屋、東西貨物取扱ホーム、東部信号取扱所、踏切警手小屋、職員官舎3練が被災全焼した。

    尾張一宮(おわりいちのみや)駅



    該駅は、明治19年(1886年)5月1日開業である。
    該駅開業当初は、一ノ宮(いちのみや)驛と称した。
    然るに、我が国全土に鉄道が普及整備されるに従い、他地域所在一ノ宮と紛らわしいとの意見が台頭し、該見解に依り、大正5年(1916年)1月1日附で旧國名が冠され尾張一ノ宮驛に改称された。
    一宮市は、昭和20年(1945年)7月28日未明に米戦略部隊に依る大規模空爆を受け、該駅開業当時の駅本屋、東西貨物取扱ホーム、東部信号取扱所、踏切警手小屋、職員官舎3練が被災全焼した。

    尾張一宮駅

  • 尾張一宮駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />正面

    尾張一宮駅



    駅本屋
    正面

    尾張一宮駅

  • 尾張一宮-木曾川間<br /><br /><br /><br />一宮高架橋<br />音羽架道橋<br /><br />一宮市音羽3-1-1<br />東海道本線尾張一宮駅東口 徒歩5分

    尾張一宮-木曾川間



    一宮高架橋
    音羽架道橋

    一宮市音羽3-1-1
    東海道本線尾張一宮駅東口 徒歩5分

  • 尾張一宮-木曾川間<br /><br /><br /><br />中坪踏切<br />清洲駅付近から尾張一宮駅構内高架橋を含め該踏切まで連続直線区間。<br /><br />一宮市今伊勢町馬寄25<br />名古屋鉄道名古屋本線石刀駅 徒歩3分

    尾張一宮-木曾川間



    中坪踏切
    清洲駅付近から尾張一宮駅構内高架橋を含め該踏切まで連続直線区間。

    一宮市今伊勢町馬寄25
    名古屋鉄道名古屋本線石刀駅 徒歩3分

  • 尾張一宮-木曾川間<br /><br /><br /><br />木曾川駅<br />全景<br />東京方俯瞰

    尾張一宮-木曾川間



    木曾川駅
    全景
    東京方俯瞰

  • 木曾川(きそがわ)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治19年(1886年)6月1日開業である。<br />一ノ宮(現 尾張一宮)-木曾川間開通に伴い設置された。<br />但し、初代駅本屋竣工は、何故か該駅開業2年後たる、明治21年(1888年)6月とされる。<br />初代駅本屋は、明治24年(1891年)10月28日6時37分頃発生した濃尾大震災(のうび だいしんさい)に依り全壊被災した。<br />当時の和風木造建造物には土台不設置例が多く、此の為に復旧に際し、土台として煉瓦積を施工し、翌明治25年(1892年)に第2代駅本屋が再建されたが、該駅本屋は紆余曲折を経て、平成18年(2006年)まで100年余使用された。<br />昭和9年(1934年)8月に、C50型66号機牽引旅客列車が該駅通過中に脱線事故が発生した。<br />事故原因は、近所在住児童に依る軌条上置石だったが、該機関車先台車の脱線事故原因を重視した鐵道省は、該先台車特殊構造が事故発生遠因として、C50型蒸気機関車増備中止を決定した。<br />因みに、該事故当時の名古屋鐵道局機関車掛長は、後に、大東亜戦争後の日本国有鉄道成立時の初代総裁 下村定則(しもむら さだのり)(明治34年(1901年)7月23日~昭和24年(1949年)7月6日)である。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kisogawa/index.html

    木曾川(きそがわ)駅



    該駅は、明治19年(1886年)6月1日開業である。
    一ノ宮(現 尾張一宮)-木曾川間開通に伴い設置された。
    但し、初代駅本屋竣工は、何故か該駅開業2年後たる、明治21年(1888年)6月とされる。
    初代駅本屋は、明治24年(1891年)10月28日6時37分頃発生した濃尾大震災(のうび だいしんさい)に依り全壊被災した。
    当時の和風木造建造物には土台不設置例が多く、此の為に復旧に際し、土台として煉瓦積を施工し、翌明治25年(1892年)に第2代駅本屋が再建されたが、該駅本屋は紆余曲折を経て、平成18年(2006年)まで100年余使用された。
    昭和9年(1934年)8月に、C50型66号機牽引旅客列車が該駅通過中に脱線事故が発生した。
    事故原因は、近所在住児童に依る軌条上置石だったが、該機関車先台車の脱線事故原因を重視した鐵道省は、該先台車特殊構造が事故発生遠因として、C50型蒸気機関車増備中止を決定した。
    因みに、該事故当時の名古屋鐵道局機関車掛長は、後に、大東亜戦争後の日本国有鉄道成立時の初代総裁 下村定則(しもむら さだのり)(明治34年(1901年)7月23日~昭和24年(1949年)7月6日)である。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kisogawa/index.html

    木曽川駅

  • 木曾川駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム<br />全景

    木曾川駅



    旅客ホーム
    全景

    木曽川駅

  • 木曾川駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム<br />木曽川駅開業百周年記念之碑(きそがわえき かいぎょう 100しゅうねん きねんのひ)<br />明治19年(1886年)5月1日開業以来、100周年を記念し昭和61年(1986年)5月1日に建立。<br />該碑建立例は、駅本屋傍、若しくは、駅前広場が圧倒的だが、ホームへの建立例は稀。<br />

    木曾川駅



    旅客ホーム
    木曽川駅開業百周年記念之碑(きそがわえき かいぎょう 100しゅうねん きねんのひ)
    明治19年(1886年)5月1日開業以来、100周年を記念し昭和61年(1986年)5月1日に建立。
    該碑建立例は、駅本屋傍、若しくは、駅前広場が圧倒的だが、ホームへの建立例は稀。

    木曽川駅

  • 木曾川駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム

    木曾川駅



    旅客ホーム

    木曽川駅

  • 木曾川駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム<br />全景<br />神戸方俯瞰

    木曾川駅



    旅客ホーム
    全景
    神戸方俯瞰

    木曽川駅

  • 木曾川駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム<br />側壁

    木曾川駅



    旅客ホーム
    側壁

    木曽川駅

  • 木曾川駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム<br />側壁

    木曾川駅



    旅客ホーム
    側壁

    木曽川駅

  • 木曾川駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム<br />該駅改築時に旧屋根、及び、古軌条使用支柱は全部撤去された。

    木曾川駅



    旅客ホーム
    該駅改築時に旧屋根、及び、古軌条使用支柱は全部撤去された。

    木曽川駅

  • 木曾川駅<br /><br /><br /><br />出改札口

    木曾川駅



    出改札口

    木曽川駅

  • 木曾川駅<br /><br /><br /><br />旧旅客跨線橋端柱<br />鐵道院

    木曾川駅



    旧旅客跨線橋端柱
    鐵道院

    木曽川駅

  • 木曾川駅<br /><br /><br /><br />旧旅客跨線橋端柱<br />鐵道院

    木曾川駅



    旧旅客跨線橋端柱
    鐵道院

    木曽川駅

  • 木曾川駅<br /><br /><br /><br />出改札口<br />ベンチ

    木曾川駅



    出改札口
    ベンチ

    木曽川駅

  • 木曾川駅<br /><br /><br /><br />出改札口<br />ベンチ

    木曾川駅



    出改札口
    ベンチ

    木曽川駅

  • 木曾川駅<br /><br /><br /><br />出改札口<br />ベンチ

    木曾川駅



    出改札口
    ベンチ

    木曽川駅

  • 木曾川駅<br /><br /><br /><br />潤滑油倉庫(じゅんかつゆ そうこ)<br />該建築物は、説明版に依れば大正元年(1912年)竣工とされている。<br />然るに、該煉瓦積建築物を概観する限り、疑問を抱かざるを得ない。<br />即ち、該所に設置されている説明では潤滑油倉庫としているが、明らかに、油燈庫が正当である。<br />油燈(ゆとう)とは、該当時に於ける旅客車輌車内照明は、山陽鐵道所有一部車輌を除き電燈は存在せず、殆どの車輌は油燈(ランプ)を使用していた。<br />更に、該施工を大正元年(1912年)としているが、建築様式が明らかに明治30年代前半の特徴を有しており、該建築物に10~15年の差が発生するのは不可解である<br />明治39年(1906年)に鐵道國有法が施行され、多数の私有鐵道が政府買収となり国有化され、旧鉄道資産を確定すべく不動産査定が実施されたが、他方、官設鐵道に対しても不動産査定を実施し、その際に、未登記だった該建築物を登記した事で混乱が発生したものと推定される。

    木曾川駅



    潤滑油倉庫(じゅんかつゆ そうこ)
    該建築物は、説明版に依れば大正元年(1912年)竣工とされている。
    然るに、該煉瓦積建築物を概観する限り、疑問を抱かざるを得ない。
    即ち、該所に設置されている説明では潤滑油倉庫としているが、明らかに、油燈庫が正当である。
    油燈(ゆとう)とは、該当時に於ける旅客車輌車内照明は、山陽鐵道所有一部車輌を除き電燈は存在せず、殆どの車輌は油燈(ランプ)を使用していた。
    更に、該施工を大正元年(1912年)としているが、建築様式が明らかに明治30年代前半の特徴を有しており、該建築物に10~15年の差が発生するのは不可解である
    明治39年(1906年)に鐵道國有法が施行され、多数の私有鐵道が政府買収となり国有化され、旧鉄道資産を確定すべく不動産査定が実施されたが、他方、官設鐵道に対しても不動産査定を実施し、その際に、未登記だった該建築物を登記した事で混乱が発生したものと推定される。

    木曽川駅

  • 木曾川駅<br /><br /><br /><br />潤滑油倉庫

    木曾川駅



    潤滑油倉庫

    木曽川駅

  • 木曾川駅<br /><br /><br /><br />潤滑油倉庫<br />典型的英國式積様式。

    木曾川駅



    潤滑油倉庫
    典型的英國式積様式。

    木曽川駅

  • 木曾川駅<br /><br /><br /><br />旅客通路木組上屋<br />該駅初代駅本屋は、明治24年(1891年)10月28日6時37分発生の濃尾大震災で全壊し、翌明治25年(1892年)再建時の駅本屋付属の旅客通路である。<br />該駅本屋は該大震災復旧建築の典型的存在だったが、老朽化の為に平成18年(2006年)に改築の為に解体されたが、該建築物の一部が保存された。

    木曾川駅



    旅客通路木組上屋
    該駅初代駅本屋は、明治24年(1891年)10月28日6時37分発生の濃尾大震災で全壊し、翌明治25年(1892年)再建時の駅本屋付属の旅客通路である。
    該駅本屋は該大震災復旧建築の典型的存在だったが、老朽化の為に平成18年(2006年)に改築の為に解体されたが、該建築物の一部が保存された。

    木曽川駅

  • 木曾川駅<br /><br /><br /><br />旧貨物取扱施設跡<br />該駅は、木曾川を筏流で下った木材積出駅として繁栄したが、木材輸送は自動車輸送に代り、該駅貨物取扱廃止後は日本国有鉄道清算事業団を経て地元木曽川町に払下られ、現在は小公園として開放されている。<br /><br />一宮市木曽川町黒田<br />東海道本線木曽川駅 徒歩30秒

    木曾川駅



    旧貨物取扱施設跡
    該駅は、木曾川を筏流で下った木材積出駅として繁栄したが、木材輸送は自動車輸送に代り、該駅貨物取扱廃止後は日本国有鉄道清算事業団を経て地元木曽川町に払下られ、現在は小公園として開放されている。

    一宮市木曽川町黒田
    東海道本線木曽川駅 徒歩30秒

    俳聖正岡子規 見染塚 名所・史跡

  • 木曾川駅<br /><br /><br /><br />俳聖正岡子規見染塚(はいせい まさおかしき みそめづか)<br />俳人 正岡子規(まさおか しき)(慶應3年(1867年)10月14日~明治35年(1902年)9月19日)は、明治24年(1891年)夏、木曾を経由し美濃伏見から木曾川下りの舟の客となり、北方で下船後、当時の木曾川停車場前の茶店で列車を待ちつつ休憩したが、その茶店の娘に興味を抱いた事が、明治32年(1899年)7月に発表した小作品の中に記述が見られる事から、此れを記念して木曽川町が記念碑を建立した。<br /><br />一宮市木曽川町黒田<br />東海道本線木曽川駅 徒歩30秒

    木曾川駅



    俳聖正岡子規見染塚(はいせい まさおかしき みそめづか)
    俳人 正岡子規(まさおか しき)(慶應3年(1867年)10月14日~明治35年(1902年)9月19日)は、明治24年(1891年)夏、木曾を経由し美濃伏見から木曾川下りの舟の客となり、北方で下船後、当時の木曾川停車場前の茶店で列車を待ちつつ休憩したが、その茶店の娘に興味を抱いた事が、明治32年(1899年)7月に発表した小作品の中に記述が見られる事から、此れを記念して木曽川町が記念碑を建立した。

    一宮市木曽川町黒田
    東海道本線木曽川駅 徒歩30秒

    俳聖正岡子規 見染塚 名所・史跡

  • 木曾川-岐阜間<br /><br /><br /><br />木曾橋(きそばし)信号所跡<br />該信号所は、明治42年(1909年)6月11日開設である。<br />木曾川-岐阜間7.7kmは開通以来単線だた事から、木曾川橋梁部分を介し、閉塞区間を2分割させ、木曾川2.9km地点に該信号所が設置され木曾川-木曾橋間は複線化された。<br />木曾川橋梁は、既成橋梁下流側に新橋梁が架橋され、木曾橋-岐阜間は、大正2年(1913年)1月31日に複線化された事で、該信号所は不要施設となり、翌2月1日附で一旦廃止された。<br />然るに、該橋梁上り線橋桁取替の為に、大正6年(1917年)2月12日附で木曾川3.1km地点に仮信号所として復活し該取替工事が開始されたが、折りしも、第1次世界大戦中の為に、欧米より橋梁用鋼材入手が不可能な為に、該橋梁架替工事は一旦中止に決定し、同年5月に該仮信号所は廃止された。<br />第1次世界大戦が終結し、欧米から必要鋼材入手が可能になった事から、該橋梁橋桁架替工事が再開される事に決定した為に、大正8年(1919年)2月25日附で該仮信号所は再度復活し活用されたが、同年8月に該工事が完了した事から、該仮信号所は完全廃止された。<br /><br />一宮市北方町曽根無番地<br />東海道本線木曽川駅iバス3系統線中島停留所校舎 徒歩2分

    木曾川-岐阜間



    木曾橋(きそばし)信号所跡
    該信号所は、明治42年(1909年)6月11日開設である。
    木曾川-岐阜間7.7kmは開通以来単線だた事から、木曾川橋梁部分を介し、閉塞区間を2分割させ、木曾川2.9km地点に該信号所が設置され木曾川-木曾橋間は複線化された。
    木曾川橋梁は、既成橋梁下流側に新橋梁が架橋され、木曾橋-岐阜間は、大正2年(1913年)1月31日に複線化された事で、該信号所は不要施設となり、翌2月1日附で一旦廃止された。
    然るに、該橋梁上り線橋桁取替の為に、大正6年(1917年)2月12日附で木曾川3.1km地点に仮信号所として復活し該取替工事が開始されたが、折りしも、第1次世界大戦中の為に、欧米より橋梁用鋼材入手が不可能な為に、該橋梁架替工事は一旦中止に決定し、同年5月に該仮信号所は廃止された。
    第1次世界大戦が終結し、欧米から必要鋼材入手が可能になった事から、該橋梁橋桁架替工事が再開される事に決定した為に、大正8年(1919年)2月25日附で該仮信号所は再度復活し活用されたが、同年8月に該工事が完了した事から、該仮信号所は完全廃止された。

    一宮市北方町曽根無番地
    東海道本線木曽川駅iバス3系統線中島停留所校舎 徒歩2分

  • 木曾川-岐阜間<br /><br /><br /><br />史郎兵衛北(しろうべいきた)架道橋<br />該橋は、明治20年(1887年)4月25日開通時の橋梁である。<br />然るに、該橋開通時は河川橋梁で該橋梁下を史郎兵衛川が通流し、架橋当時は史郎兵衛橋梁と称した。<br />その後、内務省土木局に依る木曾三河川治水河川改良工事に依り明治末期に廃川となり、該河川跡は道路化された。<br /><br />一宮市北方町曽根無番地<br />東海道本線木曽川駅 iバス3系統線中島停留所降車 徒歩2分

    木曾川-岐阜間



    史郎兵衛北(しろうべいきた)架道橋
    該橋は、明治20年(1887年)4月25日開通時の橋梁である。
    然るに、該橋開通時は河川橋梁で該橋梁下を史郎兵衛川が通流し、架橋当時は史郎兵衛橋梁と称した。
    その後、内務省土木局に依る木曾三河川治水河川改良工事に依り明治末期に廃川となり、該河川跡は道路化された。

    一宮市北方町曽根無番地
    東海道本線木曽川駅 iバス3系統線中島停留所降車 徒歩2分

  • 木曾川-岐阜間<br /><br /><br /><br />史郎兵衛北架道橋<br />元来が河川橋梁だった事が要因で、石積構造ながら装飾類が無い。<br /><br />一宮市北方町曽根無番地<br />東海道本線木曽川駅 iバス3系統線中島停留所降車 徒歩2分

    木曾川-岐阜間



    史郎兵衛北架道橋
    元来が河川橋梁だった事が要因で、石積構造ながら装飾類が無い。

    一宮市北方町曽根無番地
    東海道本線木曽川駅 iバス3系統線中島停留所降車 徒歩2分

  • 木曾川-岐阜間<br /><br /><br /><br />西本郷(にしほんごう)橋梁<br />全長2.42m<br />下り線側<br /><br />一宮市宇西本郷41<br />東海道本線木曽川駅 iバス3系統線東泉屋郷停留所降車 徒歩2分

    木曾川-岐阜間



    西本郷(にしほんごう)橋梁
    全長2.42m
    下り線側

    一宮市宇西本郷41
    東海道本線木曽川駅 iバス3系統線東泉屋郷停留所降車 徒歩2分

  • 木曾川-岐阜間<br /><br /><br /><br />西本郷橋梁<br />近接<br /><br />一宮市宇西本郷41<br />東海道本線木曽川駅 iバス3系統線東泉屋郷停留所降車 徒歩2分

    木曾川-岐阜間



    西本郷橋梁
    近接

    一宮市宇西本郷41
    東海道本線木曽川駅 iバス3系統線東泉屋郷停留所降車 徒歩2分

  • 木曾川-岐阜間<br /><br /><br /><br />西本郷橋梁<br />内部<br />床面以外は原形を保持。<br /><br />一宮市宇西本郷41<br />東海道本線木曽川駅 iバス3系統線東泉屋郷停留所降車 徒歩2分

    木曾川-岐阜間



    西本郷橋梁
    内部
    床面以外は原形を保持。

    一宮市宇西本郷41
    東海道本線木曽川駅 iバス3系統線東泉屋郷停留所降車 徒歩2分

  • 木曾川-岐阜間<br /><br /><br /><br />史跡 北方代官所跡(きたかた だいかんしょあと)<br />江戸期に於いて、該地域は郡奉行が管理支配していたが、幕府は管理体制強化の為に、天明元年(1781年)に該奉行を廃止し、代官職を設置をさせた。<br />北方代官は、尾張國、及び、美濃國両国に於いて総石高87193石に及び、大名並の石高を有すると同時に、別途、木曾川管理の為に、配下に川並奉行職が設置され、該奉行職は木曾川に於ける沿岸木材筏流管理を主としていた。<br />明治維新と共に、該代官職は廃止され、該跡地は政府管理地とされていたが、木曾川鉄道橋梁架橋東岸方敷地として活用された。<br /><br />一宮市宇西本郷41<br />東海道本線木曽川駅 iバス3系統線東泉屋郷停留所降車 徒歩2分

    木曾川-岐阜間



    史跡 北方代官所跡(きたかた だいかんしょあと)
    江戸期に於いて、該地域は郡奉行が管理支配していたが、幕府は管理体制強化の為に、天明元年(1781年)に該奉行を廃止し、代官職を設置をさせた。
    北方代官は、尾張國、及び、美濃國両国に於いて総石高87193石に及び、大名並の石高を有すると同時に、別途、木曾川管理の為に、配下に川並奉行職が設置され、該奉行職は木曾川に於ける沿岸木材筏流管理を主としていた。
    明治維新と共に、該代官職は廃止され、該跡地は政府管理地とされていたが、木曾川鉄道橋梁架橋東岸方敷地として活用された。

    一宮市宇西本郷41
    東海道本線木曽川駅 iバス3系統線東泉屋郷停留所降車 徒歩2分

    北方代官所跡 名所・史跡

  • 木曾川-岐阜間<br /><br /><br /><br />史跡 北方代官所跡<br />全景<br />背後のトラス橋梁は東海道本線木曾川橋梁。<br /><br />一宮市宇西本郷41<br />東海道本線木曽川駅 iバス3系統線東泉屋郷停留所降車 徒歩2分

    木曾川-岐阜間



    史跡 北方代官所跡
    全景
    背後のトラス橋梁は東海道本線木曾川橋梁。

    一宮市宇西本郷41
    東海道本線木曽川駅 iバス3系統線東泉屋郷停留所降車 徒歩2分

    北方代官所跡 名所・史跡

  • 木曾川-岐阜間<br /><br /><br /><br />木曾川(きそがわ)橋梁<br />該橋は、明治20年(1887年)4月25日開通の橋梁である。<br />全長571.0m<br />初代橋梁は、C.A.W. ポーナル(C.A.W.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る<br />英パテントシャフト(PATENT SHAFT&AXLETREE Co.Ltd)社製<br />錬鐡製下路ダブルワーレントラス構桁 支間63.4m(200ft)×9連<br />が架橋された。<br />該橋梁架橋工事は、明治18年(1885年)10月に着工し、明治20年(1887年)4月に竣工した。<br />該橋梁本体は錬鐡製ピン結合構造で、橋台、及び、橋脚は、コンクリートを充填した鋳鐡鉄管組合構造だった。<br />該橋梁架橋に関する総額は392285円65銭8厘と記録されている。<br />然るに、明治24年(1891年)10月28日6時37分頃、該地方を襲った、根尾川上流域を震源とする濃尾大震災(のうび だいしんさい)に依り、橋脚数基に折損被害が発生したが、構桁本体は蛇動状態となったが、該河川への落橋は奇跡的に免れた。<br />直ちに、復旧工事に着手したが、橋台、及び、橋脚に対し、鋳鐡組合構造使用は、大地震発生時に於ける激震動に対し、不適当なりと判定され、改めて、橋台、橋脚は煉瓦石積構造で構築された。<br />更に、明治44年(1911年)には、橋台、及び、橋脚本体補強の為に、煉瓦増積が施工された。<br />該区間複線化の為に、新橋梁は既成橋梁下流側に架橋された。<br />T.クーパー(T.COPPER)(1839年(天保10年)~1919年(大正8年)8月24日)、及び、C.C.シュナイダー(C.C.SCHUNEIDER)(1843年(天保14年)~1916年(大正5年))共同設計に依る、<br />米アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE Co.Ltd)社製<br />鋼鐡製下路ピン結合パーカートラス構桁 支間62.5m(200ft)×9連<br />が架橋された。<br />木曾川-木曾橋間は、大正2年(1913年)1月31日に複線化されたが、該日より、新設橋梁は下り線専用になり、既成橋梁は上り線専用になった。<br />内閣鐵道院は、次世代大型蒸気機関車18900型(C51型)、及び、9900型(D50型)導入決定に伴ふ入線可能対応とすべく、上り線用構桁架替を決定し、該橋梁構桁架替工事を大正3年(1914年)10月24日に着工し、翌大正4年(1915年)4月19日迄に、<br />米アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE Co.Ltd)社製<br />鋼鐡製下路鋲締パーカートラス構桁 支間62.5m(200ft)×2連<br />に架替られたが、架替完了時に、折しも、第1次世界大戦(だいいちじ せかいたいせん)(大正3年(1914年)7月28日?大正7年(1918年)11月11日)が勃発し、平時体制から戦時体制に移行した欧米から必要鋼材輸入途絶の為に、該橋梁架替工事は一旦中断を余儀無くさせられた。<br />残7連構桁架替工事は、該世界大戦終了後たる、大正8年(1919年)2月25日に再開し、同年8月に完成した。<br />米アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE Co.Ltd)社製<br />鐡製下路鋲締パーカートラス構桁 支間62.5m(200ft)×5連<br />国産石川島造船所社製<br />鋼鐡製下路鋲締パーカートラス構桁 支間62.5m(200ft)×2連<br />に架替られた。<br />因みに、捻出した旧構桁は、<br /> 左澤(あてらざわ)線羽前長崎-寒河江間(大正10年(1921年)12月11日開通<br />  最上川橋梁3連<br />  45m(150ft)改造<br /> 長井(ながい)線(現 山形鉄道長井フラワー線)鮎貝-荒砥間(大正12年(1923年)4月22日開通)<br />  最上川橋梁2連<br /> 45m(150ft)改造<br />留萌(るもい)本線大和田-留萌間(明治43年(1910年)11月23日開通)<br /> 第10留萌川橋梁1連<br /> 大正10年(1921年)襲来の台風に依り初代橋梁落橋の代替架橋<br /> 30m(100ft)改造<br />秩父鐵道(ちちぶ てつどう)行田市-武州荒木間(大正10年(1921年)4月1日開通)<br /> 見沼代用水路橋梁1連<br /> 30m(100ft)改造<br />に転用された。<br />明治42年(1909年)に下り線用に架橋された構桁9連は、ピン組結合故に、損耗が進行した事で保持困難となり、此の為に、昭和28年(1953年)に補修工事が実施された。<br />日本国有鉄道は、稲沢-米原間直流1500V電化を前に、蒸気機関車が高速運転時に老朽橋梁に対する通過時に於ける負荷効果を確認実験を実施すべく、名古屋地区から東海道本線用大型蒸気機関車配置転換を前に、昭和29年(1954年)12月15日に、名古屋機関区所属のC62型蒸気機関車17号機を使用して、該橋梁上に於いて高速運転試験を実施し、該機は最高速度129kを記録した。<br />然るに、大多数の文献に拠れば、該橋梁上に於ける蒸気機関車最高速速度達成かの如き記述を散見するが、事実誤認も甚だしく、実際には、戦前から、東海道本線優等列車に於ける、運転遅延に対し、直線区間が連続する幸田-岡崎間、安城--大府間、枇杷島-岐阜間等々に於いて、遅延回復の為に、C51型、C53型、C59型旅客用蒸気機関車牽引で満員状態の12~15両編成旅客列車が、該機関車取付機械式速度計最高速度120kmを超過して運転するなど日常的に行われていた。<br />該橋梁構桁老朽化は補修程度では修理困難と判定され、新下り線用橋梁は、昭和33年(1958年)に架替られ、上り線用新橋梁は、旧下り線用橋梁位置に架橋が決定し、橋脚は改築されたが、橋台再用の上、昭和46年(1971年)に架替が実施された。<br />旧橋梁構桁は、<br /> 樽見線(現 樽見鉄道)木知原-谷及口間 第1根尾川橋梁×2連<br /> 越美南線(現 長良川鉄道)深戸-相生間 第5長良川橋梁×1連(伊勢湾台風不通区間復旧用)<br />に転活用された。<br />該河川内に旧上り線用橋脚数本基元数基、及び、橋台が現存する。<br /><br />一宮市北方町北方<br />名古屋鉄道名古屋本線木曽川堤駅 徒歩6分

    木曾川-岐阜間



    木曾川(きそがわ)橋梁
    該橋は、明治20年(1887年)4月25日開通の橋梁である。
    全長571.0m
    初代橋梁は、C.A.W. ポーナル(C.A.W.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る
    英パテントシャフト(PATENT SHAFT&AXLETREE Co.Ltd)社製
    錬鐡製下路ダブルワーレントラス構桁 支間63.4m(200ft)×9連
    が架橋された。
    該橋梁架橋工事は、明治18年(1885年)10月に着工し、明治20年(1887年)4月に竣工した。
    該橋梁本体は錬鐡製ピン結合構造で、橋台、及び、橋脚は、コンクリートを充填した鋳鐡鉄管組合構造だった。
    該橋梁架橋に関する総額は392285円65銭8厘と記録されている。
    然るに、明治24年(1891年)10月28日6時37分頃、該地方を襲った、根尾川上流域を震源とする濃尾大震災(のうび だいしんさい)に依り、橋脚数基に折損被害が発生したが、構桁本体は蛇動状態となったが、該河川への落橋は奇跡的に免れた。
    直ちに、復旧工事に着手したが、橋台、及び、橋脚に対し、鋳鐡組合構造使用は、大地震発生時に於ける激震動に対し、不適当なりと判定され、改めて、橋台、橋脚は煉瓦石積構造で構築された。
    更に、明治44年(1911年)には、橋台、及び、橋脚本体補強の為に、煉瓦増積が施工された。
    該区間複線化の為に、新橋梁は既成橋梁下流側に架橋された。
    T.クーパー(T.COPPER)(1839年(天保10年)~1919年(大正8年)8月24日)、及び、C.C.シュナイダー(C.C.SCHUNEIDER)(1843年(天保14年)~1916年(大正5年))共同設計に依る、
    米アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE Co.Ltd)社製
    鋼鐡製下路ピン結合パーカートラス構桁 支間62.5m(200ft)×9連
    が架橋された。
    木曾川-木曾橋間は、大正2年(1913年)1月31日に複線化されたが、該日より、新設橋梁は下り線専用になり、既成橋梁は上り線専用になった。
    内閣鐵道院は、次世代大型蒸気機関車18900型(C51型)、及び、9900型(D50型)導入決定に伴ふ入線可能対応とすべく、上り線用構桁架替を決定し、該橋梁構桁架替工事を大正3年(1914年)10月24日に着工し、翌大正4年(1915年)4月19日迄に、
    米アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE Co.Ltd)社製
    鋼鐡製下路鋲締パーカートラス構桁 支間62.5m(200ft)×2連
    に架替られたが、架替完了時に、折しも、第1次世界大戦(だいいちじ せかいたいせん)(大正3年(1914年)7月28日?大正7年(1918年)11月11日)が勃発し、平時体制から戦時体制に移行した欧米から必要鋼材輸入途絶の為に、該橋梁架替工事は一旦中断を余儀無くさせられた。
    残7連構桁架替工事は、該世界大戦終了後たる、大正8年(1919年)2月25日に再開し、同年8月に完成した。
    米アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE Co.Ltd)社製
    鐡製下路鋲締パーカートラス構桁 支間62.5m(200ft)×5連
    国産石川島造船所社製
    鋼鐡製下路鋲締パーカートラス構桁 支間62.5m(200ft)×2連
    に架替られた。
    因みに、捻出した旧構桁は、
    左澤(あてらざわ)線羽前長崎-寒河江間(大正10年(1921年)12月11日開通
    最上川橋梁3連
    45m(150ft)改造
    長井(ながい)線(現 山形鉄道長井フラワー線)鮎貝-荒砥間(大正12年(1923年)4月22日開通)
    最上川橋梁2連
     45m(150ft)改造
    留萌(るもい)本線大和田-留萌間(明治43年(1910年)11月23日開通)
     第10留萌川橋梁1連
     大正10年(1921年)襲来の台風に依り初代橋梁落橋の代替架橋
     30m(100ft)改造
    秩父鐵道(ちちぶ てつどう)行田市-武州荒木間(大正10年(1921年)4月1日開通)
     見沼代用水路橋梁1連
     30m(100ft)改造
    に転用された。
    明治42年(1909年)に下り線用に架橋された構桁9連は、ピン組結合故に、損耗が進行した事で保持困難となり、此の為に、昭和28年(1953年)に補修工事が実施された。
    日本国有鉄道は、稲沢-米原間直流1500V電化を前に、蒸気機関車が高速運転時に老朽橋梁に対する通過時に於ける負荷効果を確認実験を実施すべく、名古屋地区から東海道本線用大型蒸気機関車配置転換を前に、昭和29年(1954年)12月15日に、名古屋機関区所属のC62型蒸気機関車17号機を使用して、該橋梁上に於いて高速運転試験を実施し、該機は最高速度129kを記録した。
    然るに、大多数の文献に拠れば、該橋梁上に於ける蒸気機関車最高速速度達成かの如き記述を散見するが、事実誤認も甚だしく、実際には、戦前から、東海道本線優等列車に於ける、運転遅延に対し、直線区間が連続する幸田-岡崎間、安城--大府間、枇杷島-岐阜間等々に於いて、遅延回復の為に、C51型、C53型、C59型旅客用蒸気機関車牽引で満員状態の12~15両編成旅客列車が、該機関車取付機械式速度計最高速度120kmを超過して運転するなど日常的に行われていた。
    該橋梁構桁老朽化は補修程度では修理困難と判定され、新下り線用橋梁は、昭和33年(1958年)に架替られ、上り線用新橋梁は、旧下り線用橋梁位置に架橋が決定し、橋脚は改築されたが、橋台再用の上、昭和46年(1971年)に架替が実施された。
    旧橋梁構桁は、
    樽見線(現 樽見鉄道)木知原-谷及口間 第1根尾川橋梁×2連
    越美南線(現 長良川鉄道)深戸-相生間 第5長良川橋梁×1連(伊勢湾台風不通区間復旧用)
    に転活用された。
    該河川内に旧上り線用橋脚数本基元数基、及び、橋台が現存する。

    一宮市北方町北方
    名古屋鉄道名古屋本線木曽川堤駅 徒歩6分

  • 木曾川-岐阜間<br /><br /><br /><br />木曾川橋梁<br />下り線用橋梁<br />東京方<br />昭和33年(1958年)架替<br /><br />一宮市北方町北方<br />名古屋鉄道名古屋本線木曽川堤駅 徒歩6分

    木曾川-岐阜間



    木曾川橋梁
    下り線用橋梁
    東京方
    昭和33年(1958年)架替

    一宮市北方町北方
    名古屋鉄道名古屋本線木曽川堤駅 徒歩6分

  • 木曽川-岐阜間<br /><br /><br /><br />木曾川橋梁<br />上り線用橋梁<br />東京方<br />昭和46年(1971年)架替<br /><br />一宮市北方町北方<br />名古屋鉄道名古屋本線木曽川堤駅 徒歩7分

    木曽川-岐阜間



    木曾川橋梁
    上り線用橋梁
    東京方
    昭和46年(1971年)架替

    一宮市北方町北方
    名古屋鉄道名古屋本線木曽川堤駅 徒歩7分

  • 木曾川橋梁<br /><br /><br /><br />旧上り線用橋梁橋脚基礎跡<br />全景<br /><br />上羽島郡笠松町無番地<br />東海道本線木曽川駅  iバス東泉屋敷停留所降車 徒歩5分

    木曾川橋梁



    旧上り線用橋梁橋脚基礎跡
    全景

    上羽島郡笠松町無番地
    東海道本線木曽川駅 iバス東泉屋敷停留所降車 徒歩5分

  • 木曾川橋梁<br /><br /><br /><br />旧上り線用橋梁橋脚基礎<br />拡大<br /><br />上羽島郡笠松町無番地<br />東海道本線木曽川駅  iバス東泉屋敷停留所降車 徒歩5分

    木曾川橋梁



    旧上り線用橋梁橋脚基礎
    拡大

    上羽島郡笠松町無番地
    東海道本線木曽川駅 iバス東泉屋敷停留所降車 徒歩5分

  • 木曾川-岐阜間<br /><br /><br /><br />木曾川橋梁<br />神戸方<br /><br />羽島郡笠松町中野無番地<br />名古屋鉄道名古屋本線笠松駅 徒歩8分

    木曾川-岐阜間



    木曾川橋梁
    神戸方

    羽島郡笠松町中野無番地
    名古屋鉄道名古屋本線笠松駅 徒歩8分

  • 木曾川-岐阜間<br /><br /><br /><br />木曾川橋梁<br />上り線用橋梁<br />橋台<br /><br />羽島郡笠松町中野無番地<br />名古屋鉄道名古屋本線笠松駅 徒歩8分

    木曾川-岐阜間



    木曾川橋梁
    上り線用橋梁
    橋台

    羽島郡笠松町中野無番地
    名古屋鉄道名古屋本線笠松駅 徒歩8分

  • 木曾川-岐阜間<br /><br /><br /><br />木曾川橋梁<br />旧上り線用橋梁<br />橋台跡<br /><br />羽島郡笠松町中野無番地<br />名古屋鉄道名古屋本線笠松駅 徒歩8分

    木曾川-岐阜間



    木曾川橋梁
    旧上り線用橋梁
    橋台跡

    羽島郡笠松町中野無番地
    名古屋鉄道名古屋本線笠松駅 徒歩8分

  • 木曾川-岐阜間<br /><br /><br /><br />木曾川橋梁<br />旧上り線用橋梁<br />橋台跡<br /><br />羽島郡笠松町中野無番地<br />名古屋鉄道名古屋本線笠松駅 徒歩8分

    木曾川-岐阜間



    木曾川橋梁
    旧上り線用橋梁
    橋台跡

    羽島郡笠松町中野無番地
    名古屋鉄道名古屋本線笠松駅 徒歩8分

  • 木曾川-岐阜間<br /><br /><br /><br />木曾川橋梁<br />避溢橋<br />旧上り線用橋台<br /><br />羽島郡笠松町中野無番地<br />名古屋鉄道名古屋本線笠松駅 徒歩8分

    木曾川-岐阜間



    木曾川橋梁
    避溢橋
    旧上り線用橋台

    羽島郡笠松町中野無番地
    名古屋鉄道名古屋本線笠松駅 徒歩8分

  • 木曾川-岐阜間<br /><br /><br /><br />木曾川橋梁<br />避溢橋<br />旧上り線用橋台<br />拡大<br /><br />羽島郡笠松町中野無番地<br />名古屋鉄道名古屋本線笠松駅 徒歩8分

    木曾川-岐阜間



    木曾川橋梁
    避溢橋
    旧上り線用橋台
    拡大

    羽島郡笠松町中野無番地
    名古屋鉄道名古屋本線笠松駅 徒歩8分

  • 木曾川-岐阜間<br /><br /><br /><br />木曾川橋梁<br />避溢橋<br />旧上り線用橋台<br /><br />羽島郡笠松町中野無番地<br />名古屋鉄道名古屋本線笠松駅 徒歩8分

    木曾川-岐阜間



    木曾川橋梁
    避溢橋
    旧上り線用橋台

    羽島郡笠松町中野無番地
    名古屋鉄道名古屋本線笠松駅 徒歩8分

  • 木曾川-岐阜間<br /><br /><br /><br />木曾川橋梁<br />避溢橋<br /><br />羽島郡笠松町中野無番地<br />名古屋鉄道名古屋本線笠松駅 徒歩8分

    木曾川-岐阜間



    木曾川橋梁
    避溢橋

    羽島郡笠松町中野無番地
    名古屋鉄道名古屋本線笠松駅 徒歩8分

  • 木曾川-岐阜間<br /><br /><br /><br />木曾川橋梁<br />避溢橋<br />旧上り線用橋脚<br />背割堤防内<br />短形断面橋脚<br /><br />羽島郡笠松町中野無番地<br />名古屋鉄道名古屋本線笠松駅 徒歩8分

    木曾川-岐阜間



    木曾川橋梁
    避溢橋
    旧上り線用橋脚
    背割堤防内
    短形断面橋脚

    羽島郡笠松町中野無番地
    名古屋鉄道名古屋本線笠松駅 徒歩8分

  • 木曾川-岐阜間<br /><br /><br /><br />木曾川橋梁<br />避溢橋<br />旧上り線用橋脚<br />背割堤防内<br />短形断面橋脚<br />該橋脚形態は箱形断面であり、円形断面橋脚と比較し、流水増圧の為に、明治期から昭和初期に於ける河川橋脚使用例は少数に止まったが、背割堤防内架橋橋脚使用例は相当数が存在する。<br />因みに、該橋梁該橋脚原型は煉瓦積構造だったが、昭和20年(1945年)1月13日3時38分頃、該地方を襲った渥美湾を震源とする三河大地震(みかわ おおじしん)に依り、該橋脚に亀裂変状が発生した事から、該橋脚復旧時に、表面をコンクリートモルタル塗覆が施工された。<br /><br />羽島郡笠松町中野無番地<br />名古屋鉄道名古屋本線笠松駅 徒歩8分

    木曾川-岐阜間



    木曾川橋梁
    避溢橋
    旧上り線用橋脚
    背割堤防内
    短形断面橋脚
    該橋脚形態は箱形断面であり、円形断面橋脚と比較し、流水増圧の為に、明治期から昭和初期に於ける河川橋脚使用例は少数に止まったが、背割堤防内架橋橋脚使用例は相当数が存在する。
    因みに、該橋梁該橋脚原型は煉瓦積構造だったが、昭和20年(1945年)1月13日3時38分頃、該地方を襲った渥美湾を震源とする三河大地震(みかわ おおじしん)に依り、該橋脚に亀裂変状が発生した事から、該橋脚復旧時に、表面をコンクリートモルタル塗覆が施工された。

    羽島郡笠松町中野無番地
    名古屋鉄道名古屋本線笠松駅 徒歩8分

  • 木曾川-岐阜間<br /><br /><br /><br />木曾川橋梁<br />避溢橋<br />旧上り線用橋脚<br />背割堤防内<br />短形断面橋脚<br /><br />羽島郡笠松町中野無番地<br />名古屋鉄道名古屋本線笠松駅 徒歩8分

    木曾川-岐阜間



    木曾川橋梁
    避溢橋
    旧上り線用橋脚
    背割堤防内
    短形断面橋脚

    羽島郡笠松町中野無番地
    名古屋鉄道名古屋本線笠松駅 徒歩8分

  • 木曾川-岐阜間<br /><br /><br /><br />木曾橋(きそばし)信号所跡<br />該信号所は、明治42年(1909年)6月11日開設である。<br />木曾川-岐阜間7.7kmは長らく単線だった事から、木曾川橋梁部を介し、閉塞区間を2分割させ、木曾川2.9km地点に該信号所が設置され、同月15日に木木曾橋-岐阜間が複線化された。<br />該橋梁は既成橋梁下流側に新設橋梁が架橋され、大正2年(1913年)1月31日附で木曾川-木曾橋間が複線化された事から、該信号所は不要施設となり、翌2月1日附を以って一旦廃止された。<br />然るに、既成上流側上り線用橋梁錬鐡構桁架替を要する事から、大正6年(1917年)12月12日附で、ほぼ同一地点に仮信号所として復活し、木曾川-木曾橋間を単線運転として該橋梁架替工事が開始されたが、折しも、第1次世界大戦勃発に伴い欧米より橋梁用鋼材輸出が禁止された事から、該橋梁架替工事は一旦中止され、該信号所は同年5月に再廃止された。<br />その後、第1次世界大戦が終結し、該橋梁架替工事再開が決定した為に、大正8年(1919年)2月25日附で再々復活し、同年8月に該橋梁架替工事が完了した事から、該仮信号所は廃止された。<br /><br />羽島郡笠松町中野無番地<br />名古屋鉄道名古屋本線笠松駅 徒歩8分

    木曾川-岐阜間



    木曾橋(きそばし)信号所跡
    該信号所は、明治42年(1909年)6月11日開設である。
    木曾川-岐阜間7.7kmは長らく単線だった事から、木曾川橋梁部を介し、閉塞区間を2分割させ、木曾川2.9km地点に該信号所が設置され、同月15日に木木曾橋-岐阜間が複線化された。
    該橋梁は既成橋梁下流側に新設橋梁が架橋され、大正2年(1913年)1月31日附で木曾川-木曾橋間が複線化された事から、該信号所は不要施設となり、翌2月1日附を以って一旦廃止された。
    然るに、既成上流側上り線用橋梁錬鐡構桁架替を要する事から、大正6年(1917年)12月12日附で、ほぼ同一地点に仮信号所として復活し、木曾川-木曾橋間を単線運転として該橋梁架替工事が開始されたが、折しも、第1次世界大戦勃発に伴い欧米より橋梁用鋼材輸出が禁止された事から、該橋梁架替工事は一旦中止され、該信号所は同年5月に再廃止された。
    その後、第1次世界大戦が終結し、該橋梁架替工事再開が決定した為に、大正8年(1919年)2月25日附で再々復活し、同年8月に該橋梁架替工事が完了した事から、該仮信号所は廃止された。

    羽島郡笠松町中野無番地
    名古屋鉄道名古屋本線笠松駅 徒歩8分

  • 木曾川-岐阜間<br /><br /><br /><br />旧竜門川(りゅうもんがわ)橋梁<br />下り線側<br />該橋は、明治18年(1885年)1月20日開通である。<br />元来は木曾川支流だったが、木曾3河川改修に依り、明治42年(1909年)廃川となり、橋桁は撤去されず橋梁が残存。<br /><br />羽島郡笠松町平成5-107<br />名古屋鉄道本線笠松駅 徒歩18分

    木曾川-岐阜間



    旧竜門川(りゅうもんがわ)橋梁
    下り線側
    該橋は、明治18年(1885年)1月20日開通である。
    元来は木曾川支流だったが、木曾3河川改修に依り、明治42年(1909年)廃川となり、橋桁は撤去されず橋梁が残存。

    羽島郡笠松町平成5-107
    名古屋鉄道本線笠松駅 徒歩18分

  • 木曾川-岐阜間<br /><br /><br /><br />旧竜門川橋梁<br />下り線側<br /><br />羽島郡笠松町平成5-107<br />名古屋鉄道本線笠松駅 徒歩18分

    木曾川-岐阜間



    旧竜門川橋梁
    下り線側

    羽島郡笠松町平成5-107
    名古屋鉄道本線笠松駅 徒歩18分

  • 木曾川-岐阜間<br /><br /><br /><br />旧竜門川橋梁<br />上り線側<br /><br />羽島郡笠松町平成5-107<br />名古屋鉄道本線笠松駅 徒歩18分

    木曾川-岐阜間



    旧竜門川橋梁
    上り線側

    羽島郡笠松町平成5-107
    名古屋鉄道本線笠松駅 徒歩18分

  • 木曾川-岐阜間<br /><br /><br /><br />旧竜門川橋梁<br />上り線側<br /><br />羽島郡笠松町平成5-107<br />名古屋鉄道本線笠松駅 徒歩18分<br />

    木曾川-岐阜間



    旧竜門川橋梁
    上り線側

    羽島郡笠松町平成5-107
    名古屋鉄道本線笠松駅 徒歩18分

  • 木曾川-岐阜間<br /><br /><br /><br />境川(さかいがわ)橋梁<br />該橋は、明治20年(1887年)4月25日開通の橋梁である。<br />英國製錬鐡プレート・ガーダー橋桁×3連が架橋された。<br />その後、既成橋梁下流側に新橋梁が架橋され、明治42年(1909年)6月11日附で木曾川-岐阜間に木曾橋信号所が開設され、同月15日に木曾橋-岐阜間が複線化されたが、該日より、新設橋梁は下り線専用、既成橋梁は上り線専用となった。<br /><br />岐阜市円城寺町無番地<br />名古屋鉄道名古屋本線茶所駅 徒歩6分

    木曾川-岐阜間



    境川(さかいがわ)橋梁
    該橋は、明治20年(1887年)4月25日開通の橋梁である。
    英國製錬鐡プレート・ガーダー橋桁×3連が架橋された。
    その後、既成橋梁下流側に新橋梁が架橋され、明治42年(1909年)6月11日附で木曾川-岐阜間に木曾橋信号所が開設され、同月15日に木曾橋-岐阜間が複線化されたが、該日より、新設橋梁は下り線専用、既成橋梁は上り線専用となった。

    岐阜市円城寺町無番地
    名古屋鉄道名古屋本線茶所駅 徒歩6分

  • 木曾川-岐阜間<br /><br /><br /><br />境川(さかいがわ)橋梁<br />下り線用橋梁<br />昭和42年(1967年)製<br />プレートガーダー橋桁<br /><br />岐阜市円城寺町無番地<br />名古屋鉄道名古屋本線茶所駅 徒歩6分<br />

    木曾川-岐阜間



    境川(さかいがわ)橋梁
    下り線用橋梁
    昭和42年(1967年)製
    プレートガーダー橋桁

    岐阜市円城寺町無番地
    名古屋鉄道名古屋本線茶所駅 徒歩6分

  • 木曾川-岐阜間<br /><br /><br /><br />境川橋梁<br />上り線用橋梁<br /><br />岐阜市円城寺町無番地<br />名古屋鉄道名古屋本線茶所駅 徒歩6分

    木曾川-岐阜間



    境川橋梁
    上り線用橋梁

    岐阜市円城寺町無番地
    名古屋鉄道名古屋本線茶所駅 徒歩6分

  • 木曾川-岐阜間<br /><br /><br /><br />境川橋梁<br />上り線用<br />神戸方<br />橋台<br />煉瓦積部分が残存。<br /><br />岐阜市円城寺町無番地<br />名古屋鉄道名古屋本線茶所駅 徒歩6分

    木曾川-岐阜間



    境川橋梁
    上り線用
    神戸方
    橋台
    煉瓦積部分が残存。

    岐阜市円城寺町無番地
    名古屋鉄道名古屋本線茶所駅 徒歩6分

  • 木曾川-岐阜間<br /><br /><br /><br />境川橋梁<br />下り線用<br />神戸方<br />橋台<br /><br />岐阜市円城寺町無番地<br />名古屋鉄道名古屋本線茶所駅 徒歩6分

    木曾川-岐阜間



    境川橋梁
    下り線用
    神戸方
    橋台

    岐阜市円城寺町無番地
    名古屋鉄道名古屋本線茶所駅 徒歩6分

  • 木曾川-岐阜間<br /><br /><br /><br />新旧線分岐点<br />大正2年(1913年)8月20日まで該線は直進していた。<br /><br />岐阜市祈年町4-25<br />名古屋鉄道名古屋本線加納町駅 徒歩3分

    木曾川-岐阜間



    新旧線分岐点
    大正2年(1913年)8月20日まで該線は直進していた。

    岐阜市祈年町4-25
    名古屋鉄道名古屋本線加納町駅 徒歩3分

  • 木曾川-岐阜間<br /><br /><br /><br />新旧線分岐点<br />東京方<br />俯瞰<br /><br />岐阜市祈年町4-25<br />名古屋鉄道名古屋本線加納町駅 徒歩3分

    木曾川-岐阜間



    新旧線分岐点
    東京方
    俯瞰

    岐阜市祈年町4-25
    名古屋鉄道名古屋本線加納町駅 徒歩3分

  • 木曾川-岐阜間<br /><br /><br /><br />新旧線分岐点<br />神戸方<br />俯瞰<br /><br />岐阜市祈年町4-25<br />名古屋鉄道名古屋本線加納町駅 徒歩3分

    木曾川-岐阜間



    新旧線分岐点
    神戸方
    俯瞰

    岐阜市祈年町4-25
    名古屋鉄道名古屋本線加納町駅 徒歩3分

  • 旧 東海道本線線路跡<br /><br /><br /><br />明治20年(1887年)1月21日~大正2年(1913年)8月20日<br />当該道路が初代東海道本線跡。<br />奥は現東海道本線。<br /><br />岐阜市竜田町6-11<br />東海道本線岐阜駅長良口 徒歩16分

    旧 東海道本線線路跡



    明治20年(1887年)1月21日~大正2年(1913年)8月20日
    当該道路が初代東海道本線跡。
    奥は現東海道本線。

    岐阜市竜田町6-11
    東海道本線岐阜駅長良口 徒歩16分

  • 旧 東海道本線線路跡<br /><br /><br /><br />明治20年(1887年)1月21日~大正2年(1913年)8月20日<br />当該道路が初代東海道本線跡。<br /><br />岐阜市竜田5-13<br />東海道本線岐阜駅長良口 徒歩10分

    旧 東海道本線線路跡



    明治20年(1887年)1月21日~大正2年(1913年)8月20日
    当該道路が初代東海道本線跡。

    岐阜市竜田5-13
    東海道本線岐阜駅長良口 徒歩10分

  • 初代岐阜駅跡<br /><br /><br /><br />現 名古屋鉄道各務原線世良田踏切<br />大正2年(1913年)に現駅に切替られるまで、写真奥から左手に曲線を描いていた。<br /><br />岐阜市竜田5-13<br />東海道本線岐阜駅長良口 徒歩10分

    初代岐阜駅跡



    現 名古屋鉄道各務原線世良田踏切
    大正2年(1913年)に現駅に切替られるまで、写真奥から左手に曲線を描いていた。

    岐阜市竜田5-13
    東海道本線岐阜駅長良口 徒歩10分

  • 初代岐阜駅跡<br /><br /><br /><br />現 名古屋鉄道各務原線世良田踏切<br />写真左手に初代駅本屋が存在した。<br /><br />岐阜市竜田5-13<br />東海道本線岐阜駅長良口 徒歩10分

    初代岐阜駅跡



    現 名古屋鉄道各務原線世良田踏切
    写真左手に初代駅本屋が存在した。

    岐阜市竜田5-13
    東海道本線岐阜駅長良口 徒歩10分

  • 岐阜駅<br /><br /><br /><br />初代岐阜駅所在地跡<br />明治20年(1887年)1月21日~明治21年(1888年)12月14日<br /><br />岐阜市竜田5-13<br />東海道本線岐阜駅長良口 徒歩10分

    岐阜駅



    初代岐阜駅所在地跡
    明治20年(1887年)1月21日~明治21年(1888年)12月14日

    岐阜市竜田5-13
    東海道本線岐阜駅長良口 徒歩10分

  • 旧 東海道本線線路跡<br /><br /><br /><br />明治20年(1887年)1月21日~大正2年(1913年)8月20日<br />当該道路が初代東海道本線跡。

    旧 東海道本線線路跡



    明治20年(1887年)1月21日~大正2年(1913年)8月20日
    当該道路が初代東海道本線跡。

  • 岐阜駅<br /><br /><br /><br />第2代岐阜駅本屋所在地跡<br /><br />岐阜市神田町8-9<br />東海度本線岐阜駅長良口 徒歩4分

    岐阜駅



    第2代岐阜駅本屋所在地跡

    岐阜市神田町8-9
    東海度本線岐阜駅長良口 徒歩4分

  • 岐阜駅<br /><br /><br /><br />第2代岐阜駅本屋所在地跡<br />現 第16銀行本店<br />明治21年(1888年)12月15日~大正2年(1913年)8月20日、駅本屋が存在した。<br />現在の、名鉄岐阜駅前スクランブル交差点付近<br /><br />岐阜市神田町8-26<br />東海道本線岐阜駅長良口 徒歩4分

    岐阜駅



    第2代岐阜駅本屋所在地跡
    現 第16銀行本店
    明治21年(1888年)12月15日~大正2年(1913年)8月20日、駅本屋が存在した。
    現在の、名鉄岐阜駅前スクランブル交差点付近

    岐阜市神田町8-26
    東海道本線岐阜駅長良口 徒歩4分

  • 旧 東海道本線線路跡<br /><br /><br /><br />明治20年(1887年)1月21日~大正2年(1913年)8月20日<br />当該道路が初代東海道本線跡。

    旧 東海道本線線路跡



    明治20年(1887年)1月21日~大正2年(1913年)8月20日
    当該道路が初代東海道本線跡。

  • 旧 東海道本線線路跡<br /><br /><br /><br />明治20年(1887年)1月21日~大正2年(1913年)8月20日<br />当該道路が初代東海道本線跡。

    旧 東海道本線線路跡



    明治20年(1887年)1月21日~大正2年(1913年)8月20日
    当該道路が初代東海道本線跡。

  • 木曾川-岐阜Ⅲ間<br /><br /><br /><br />東海道線乗越跨線橋<br />美濃電気軌道に依り、大正3年(1914年)12月26日に廣江(ひろえ)-新岐阜Ⅰ間延長時に架橋。<br /><br /><br />東海道本線岐阜駅加納口 徒歩4分

    木曾川-岐阜Ⅲ間



    東海道線乗越跨線橋
    美濃電気軌道に依り、大正3年(1914年)12月26日に廣江(ひろえ)-新岐阜Ⅰ間延長時に架橋。


    東海道本線岐阜駅加納口 徒歩4分

  • 木曾川-岐阜Ⅲ間<br /><br /><br /><br />東海道線乗越跨線橋<br />該線地上時代は名古屋鉄道が乗越状態だったが、高々架化工事竣工に伴い地上線は廃止され軌条は順次撤去された。<br />因みに、名古屋鉄道は、名岐鐵道時代たる昭和12年(1937年)6月に、当時の鐵道省名古屋鐵道局より廣江-新岐阜間複線化認可を得たが、実際に複線化が竣工したのは、昭和32年(1957年)9月に広江-該線乗越跨線橋手前までであり、0.3kmは現在も単線である。<br /><br />東海道本線岐阜駅加納口 徒歩4分

    木曾川-岐阜Ⅲ間



    東海道線乗越跨線橋
    該線地上時代は名古屋鉄道が乗越状態だったが、高々架化工事竣工に伴い地上線は廃止され軌条は順次撤去された。
    因みに、名古屋鉄道は、名岐鐵道時代たる昭和12年(1937年)6月に、当時の鐵道省名古屋鐵道局より廣江-新岐阜間複線化認可を得たが、実際に複線化が竣工したのは、昭和32年(1957年)9月に広江-該線乗越跨線橋手前までであり、0.3kmは現在も単線である。

    東海道本線岐阜駅加納口 徒歩4分

    名鉄岐阜駅

  • 岐阜(ぎふ)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治20年(1887年)1月21日開業である。<br />該駅開設当初は、加納(かのう)と称したが、翌明治21年(1888年)12月15日附で現駅名に改称された。<br />該駅は、開業以来、現位置定着まで2回移転している。<br />即ち、設置当時は路線自体が大きく北側を迂回し、初代該駅は、現在の名古屋鉄道各務原線安良田踏切付近に設置されたが、翌明治21年(1888年)3月に、現在の名鉄岐阜駅前スクランブル交差点北側付近に移動した。<br />僅か4箇月弱で停車場が移動した理由は定かでは無いが、当初計画では第2代位置となる地に停車場設置を予定していたが、必要用地収用に手間取り、取敢えず仮駅形態で開業したものではないかと推定される。<br />明治44年(1911年)2月11日に美濃電気軌道市内線(後 名古屋鉄道岐阜市内線→廃線)が開通し、該駅前に電停が設置された。<br />明治41年(1908年)3月7日に帝國陸軍歩兵第68連隊本部が滋賀県大津より岐阜県北長森に移転した事で、該駅貨物取扱が激増し、他方、敷地に有余が無く拡張も困難だった事から、鐵道院は該駅を南側に移転を決定し、大正2年(1913年)8月21日に現位置に再移転したが、新駅第3代駅本屋は、旧関西鐵道愛知駅本屋を移築活用した。<br />大東亜戦争末期、岐阜市内中心部は米戦力部隊攻撃の対象地に指定され、昭和20年(1945年)7月9日にB29大型爆撃機129機に依る大空襲を受け、駅本屋を含め該駅構内諸施設大多数が被災焼失した。<br />大東亜戦争後、該駅戦災復興計画一環として、岐阜県、岐阜市と共同で、該市内中心部再開発計画に取組み、即ち、狭隘だった該駅前広場拡張整備を施工すると同時に、該駅前に名古屋鉄道岐阜市内線が乗入れ、該駅乗降客の該市内移動を容易化させた。<br />応急施設に依る第4代駅本屋を経て、昭和23年(1948年)12月に木造平屋構造で第5代駅本屋が建築されたが、該建造物は、帝國陸軍航空機格納庫建築部材活用品で、昭和34年(1959年)11月まで使用後、該駅構内敷地神戸方に鉄骨鉄筋コンクリート建築3階建民衆駅が建築時に解体された。<br />当時は戦災焼失駅施設復旧に鑑み、旧陸海軍保有保管品転用例が多数存在し、該駅以外の駅本屋流用例では、函館、銚子、浜松、姫路、徳山、徳島、松山、久留米、西鹿児島(現 鹿児島中央)、及び、長崎等々が存在したが、世間が安定すると次々と改築されてしまい、現在では総武本線銚子駅等々しか残存しない。<br />該駅裏手に存在した貨物取扱施設は、昭和26年(1951年)に神戸方に移転する工事に着手し、該工事は昭和28年(1953年)12月に竣工した事から、昭和34年(1959年)3月に旧貨物取扱施設跡地に、それまで東京方に独立していた高山本線旅客列車用ホームを該地に移転させ、旅客相互乗換を容易ならしめた。<br />同年11月には、第3~5代駅本屋位置より神戸方に200m地点に鉄骨鉄筋コンクリート2階建建築に依る民衆駅本屋が第6代駅本屋として竣工したがホーム位置は現状維持とされた。<br />然して、該駅施設が地上に存在する事は、東海道本線、高山本線旅客貨物列車、及び、該駅構内貨車入換の為に、該市内中心部踏切は常に閉止状態である事から慢性的交通渋滞を発生源とされ、行政側からも早期改善を要求する時代趨勢となった。<br />日本国有鉄道は昭和47年(1972年)に該駅付近は高架化が決定したが、地方とは申せ、県庁所在地中心部に於ける密集地土地収用は容易では無く、該工事着手は昭和58年(1983年)にずれ込み、該高架化工事は平成9年(1997年)3月2日に竣工し、更に、平成15年(2003年)12月14日附で現第6代駅本屋が高架下に設置された。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/gifu/index.html

    岐阜(ぎふ)駅



    該駅は、明治20年(1887年)1月21日開業である。
    該駅開設当初は、加納(かのう)と称したが、翌明治21年(1888年)12月15日附で現駅名に改称された。
    該駅は、開業以来、現位置定着まで2回移転している。
    即ち、設置当時は路線自体が大きく北側を迂回し、初代該駅は、現在の名古屋鉄道各務原線安良田踏切付近に設置されたが、翌明治21年(1888年)3月に、現在の名鉄岐阜駅前スクランブル交差点北側付近に移動した。
    僅か4箇月弱で停車場が移動した理由は定かでは無いが、当初計画では第2代位置となる地に停車場設置を予定していたが、必要用地収用に手間取り、取敢えず仮駅形態で開業したものではないかと推定される。
    明治44年(1911年)2月11日に美濃電気軌道市内線(後 名古屋鉄道岐阜市内線→廃線)が開通し、該駅前に電停が設置された。
    明治41年(1908年)3月7日に帝國陸軍歩兵第68連隊本部が滋賀県大津より岐阜県北長森に移転した事で、該駅貨物取扱が激増し、他方、敷地に有余が無く拡張も困難だった事から、鐵道院は該駅を南側に移転を決定し、大正2年(1913年)8月21日に現位置に再移転したが、新駅第3代駅本屋は、旧関西鐵道愛知駅本屋を移築活用した。
    大東亜戦争末期、岐阜市内中心部は米戦力部隊攻撃の対象地に指定され、昭和20年(1945年)7月9日にB29大型爆撃機129機に依る大空襲を受け、駅本屋を含め該駅構内諸施設大多数が被災焼失した。
    大東亜戦争後、該駅戦災復興計画一環として、岐阜県、岐阜市と共同で、該市内中心部再開発計画に取組み、即ち、狭隘だった該駅前広場拡張整備を施工すると同時に、該駅前に名古屋鉄道岐阜市内線が乗入れ、該駅乗降客の該市内移動を容易化させた。
    応急施設に依る第4代駅本屋を経て、昭和23年(1948年)12月に木造平屋構造で第5代駅本屋が建築されたが、該建造物は、帝國陸軍航空機格納庫建築部材活用品で、昭和34年(1959年)11月まで使用後、該駅構内敷地神戸方に鉄骨鉄筋コンクリート建築3階建民衆駅が建築時に解体された。
    当時は戦災焼失駅施設復旧に鑑み、旧陸海軍保有保管品転用例が多数存在し、該駅以外の駅本屋流用例では、函館、銚子、浜松、姫路、徳山、徳島、松山、久留米、西鹿児島(現 鹿児島中央)、及び、長崎等々が存在したが、世間が安定すると次々と改築されてしまい、現在では総武本線銚子駅等々しか残存しない。
    該駅裏手に存在した貨物取扱施設は、昭和26年(1951年)に神戸方に移転する工事に着手し、該工事は昭和28年(1953年)12月に竣工した事から、昭和34年(1959年)3月に旧貨物取扱施設跡地に、それまで東京方に独立していた高山本線旅客列車用ホームを該地に移転させ、旅客相互乗換を容易ならしめた。
    同年11月には、第3~5代駅本屋位置より神戸方に200m地点に鉄骨鉄筋コンクリート2階建建築に依る民衆駅本屋が第6代駅本屋として竣工したがホーム位置は現状維持とされた。
    然して、該駅施設が地上に存在する事は、東海道本線、高山本線旅客貨物列車、及び、該駅構内貨車入換の為に、該市内中心部踏切は常に閉止状態である事から慢性的交通渋滞を発生源とされ、行政側からも早期改善を要求する時代趨勢となった。
    日本国有鉄道は昭和47年(1972年)に該駅付近は高架化が決定したが、地方とは申せ、県庁所在地中心部に於ける密集地土地収用は容易では無く、該工事着手は昭和58年(1983年)にずれ込み、該高架化工事は平成9年(1997年)3月2日に竣工し、更に、平成15年(2003年)12月14日附で現第6代駅本屋が高架下に設置された。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/gifu/index.html

    岐阜駅

  • 岐阜駅<br /><br /><br /><br />第3代駅本屋跡<br />大正2年(1913年)8月23日~昭和20年(1945年)7月9日所在。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/gifu/index.html

    岐阜駅



    第3代駅本屋跡
    大正2年(1913年)8月23日~昭和20年(1945年)7月9日所在。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/gifu/index.html

    岐阜駅

  • 岐阜駅<br /><br /><br /><br />旧駅本屋前<br />昭和20年(1945年)7月9日未明の岐阜大空襲に依り、岐阜駅周辺は全焼し壊滅状態になった。<br />岐阜市は戦災復興計画の一環として、<br /> 1)駅前広場の拡大整備<br /> 2)県道設置<br /> 3)名古屋鉄道新岐阜駅、長住町駅統合<br />を立案し、該計画に基き、名古屋鉄道は、昭和23年(1948年)4月18日附で、初代新岐阜駅を長住町駅に隣接移転し、長住町が第2代新岐阜駅に改称した。<br />運輸省鉄道総局名古屋鉄道局は、繊細直後の仮建築を経て、同年12月に神戸方に第4代駅本屋を設置した。<br />昭和27年(1952年)該駅前に県道54号線が設置された事から、同年5月1日に名古屋鉄道岐阜市内線を該道路上に移設した。<br />昭和34年(1959)11月に、鉄筋鉄骨3階建民衆駅として第5代駅本屋が竣工した。<br />長らく該状態が継続したが、東海旅客鉄道に依り、平成9年(1997年)3月2日に岐阜市内中心部高架化工事が竣工し、同年12月14日に該高架下第6代駅本屋が設置された。<br />岐阜市は該市内中心部に、路面軌条線が存在する事に依る交通渋滞の原因として、名古屋鉄道に対し該路面軌道線廃止を提言した。

    岐阜駅



    旧駅本屋前
    昭和20年(1945年)7月9日未明の岐阜大空襲に依り、岐阜駅周辺は全焼し壊滅状態になった。
    岐阜市は戦災復興計画の一環として、
    1)駅前広場の拡大整備
    2)県道設置
    3)名古屋鉄道新岐阜駅、長住町駅統合
    を立案し、該計画に基き、名古屋鉄道は、昭和23年(1948年)4月18日附で、初代新岐阜駅を長住町駅に隣接移転し、長住町が第2代新岐阜駅に改称した。
    運輸省鉄道総局名古屋鉄道局は、繊細直後の仮建築を経て、同年12月に神戸方に第4代駅本屋を設置した。
    昭和27年(1952年)該駅前に県道54号線が設置された事から、同年5月1日に名古屋鉄道岐阜市内線を該道路上に移設した。
    昭和34年(1959)11月に、鉄筋鉄骨3階建民衆駅として第5代駅本屋が竣工した。
    長らく該状態が継続したが、東海旅客鉄道に依り、平成9年(1997年)3月2日に岐阜市内中心部高架化工事が竣工し、同年12月14日に該高架下第6代駅本屋が設置された。
    岐阜市は該市内中心部に、路面軌条線が存在する事に依る交通渋滞の原因として、名古屋鉄道に対し該路面軌道線廃止を提言した。

    岐阜駅

  • 岐阜駅<br /><br /><br /><br />美濃電気軌道初代新岐阜駅跡<br />大正3年(1914年)12月26日開業<br />廣江(ひろえ)-新岐阜(現 名鉄岐阜)延長時に開設。<br />初代新岐阜駅本屋は木造3階建で、1階部分が電車乗降場、3階に美濃電気軌道本社が存在した。<br />既設の該社市内線と直結していたが、本線から30/1000‰の急勾配でR200の急曲線で降下し、ホームも計45mしか存在しなかった。<br />昭和20年(1945年)7月16日の岐阜大空襲で該駅構内は全焼し、構内狭隘で4両編成以上の電車は入線不可能だった事から、名古屋鉄道Ⅱは、長住町駅構内での移転を決定し、昭和21年(1946年)6月に該工事を着工し、昭和23年(1948年)4月18日附で、各務原線長住町駅復旧と同時に拡張乗入を果し、初代新岐阜駅は廃止され、同時に岐阜市内線との連絡線も廃止された。

    岐阜駅



    美濃電気軌道初代新岐阜駅跡
    大正3年(1914年)12月26日開業
    廣江(ひろえ)-新岐阜(現 名鉄岐阜)延長時に開設。
    初代新岐阜駅本屋は木造3階建で、1階部分が電車乗降場、3階に美濃電気軌道本社が存在した。
    既設の該社市内線と直結していたが、本線から30/1000‰の急勾配でR200の急曲線で降下し、ホームも計45mしか存在しなかった。
    昭和20年(1945年)7月16日の岐阜大空襲で該駅構内は全焼し、構内狭隘で4両編成以上の電車は入線不可能だった事から、名古屋鉄道Ⅱは、長住町駅構内での移転を決定し、昭和21年(1946年)6月に該工事を着工し、昭和23年(1948年)4月18日附で、各務原線長住町駅復旧と同時に拡張乗入を果し、初代新岐阜駅は廃止され、同時に岐阜市内線との連絡線も廃止された。

    名鉄岐阜駅

  • 岐阜駅<br /><br /><br /><br />構内<br />東京方<br />俯瞰

    岐阜駅



    構内
    東京方
    俯瞰

    岐阜駅

  • 岐阜駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム

    岐阜駅



    第1番ホーム

    岐阜駅

  • 岐阜駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />通常列車編成無のホーム上は未整備。

    岐阜駅



    第2番ホーム
    通常列車編成無のホーム上は未整備。

    岐阜駅

  • 岐阜駅<br /><br /><br /><br />加納口

    岐阜駅



    加納口

    岐阜駅

  • 岐阜-西岐阜間<br /><br /><br /><br />新旧線<br />神戸方合流地<br />東京方俯瞰<br /><br />岐阜市香蘭2-100<br />東海道本線岐阜駅長柄口 徒歩12分

    岐阜-西岐阜間



    新旧線
    神戸方合流地
    東京方俯瞰

    岐阜市香蘭2-100
    東海道本線岐阜駅長柄口 徒歩12分

  • 岐阜-西岐阜間<br /><br /><br /><br />新旧線<br />神戸方合流地<br />神戸方俯瞰<br /><br />岐阜市香蘭2-100<br />東海道本線岐阜駅長柄口 徒歩12分

    岐阜-西岐阜間



    新旧線
    神戸方合流地
    神戸方俯瞰

    岐阜市香蘭2-100
    東海道本線岐阜駅長柄口 徒歩12分

  • 岐阜-西岐阜間<br /><br /><br /><br />高架区間終端部<br /><br />岐阜市市橋1-5-1<br />東海道本線西岐阜駅 徒歩6分

    岐阜-西岐阜間



    高架区間終端部

    岐阜市市橋1-5-1
    東海道本線西岐阜駅 徒歩6分

  • 西岐阜(にしぎふ)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和61年(1986年)11月1日開業である。<br />岐阜県本庁舎は昭和41年(1966年)に現位置に移転したが、その後、該地域に公共施設が次々と設置された事から、地元請願に依り設置が決定された。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/nishi-gifu/index.html<br /><br />

    西岐阜(にしぎふ)駅



    該駅は、昭和61年(1986年)11月1日開業である。
    岐阜県本庁舎は昭和41年(1966年)に現位置に移転したが、その後、該地域に公共施設が次々と設置された事から、地元請願に依り設置が決定された。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/nishi-gifu/index.html

    西岐阜駅

  • 岐阜貨物ターミナル(ぎふ かもつ たーみなる)駅 <br /><br /><br /><br />該駅は、昭和61年(1986年)11月1日開業である。<br />岐阜市内中心部高架化計画一環として岐阜駅貨物取扱業務移管を目的に設置。

    岐阜貨物ターミナル(ぎふ かもつ たーみなる)駅



    該駅は、昭和61年(1986年)11月1日開業である。
    岐阜市内中心部高架化計画一環として岐阜駅貨物取扱業務移管を目的に設置。

  • 岐阜貨物ターミナル駅 <br /><br /><br /><br />開駅記念碑<br />貨物専用駅の記念碑は珍しい。

    岐阜貨物ターミナル駅



    開駅記念碑
    貨物専用駅の記念碑は珍しい。

  • 西岐阜-穂積間<br /><br /><br /><br />長良(ながら)信号所跡<br />該信号所は、明治36年(1903年)12月20日開設である。<br />岐阜-穂積間6.0kmは、長らく単線だった事から長良川橋梁部分を介し閉塞区間を2分割させ、岐阜5.0km地点に該信号所が設置され同日より岐阜-長良間が複線化されたが、折しも、日露間国交険悪時でもあり、翌明治37年(1904年)2月に日露戦争勃発に依り該信号所の存在は軍事輸送に貢献大だった。<br />長良川橋梁は、既成橋梁下流側に新橋梁が架橋され、長良-岐阜間は、明治42年(1909年)6月11日に複線化された事から、該信号所は不要施設となり廃止された。<br /><br />岐阜市今嶺無番地<br />東海道本線西岐阜駅 徒歩25分

    西岐阜-穂積間



    長良(ながら)信号所跡
    該信号所は、明治36年(1903年)12月20日開設である。
    岐阜-穂積間6.0kmは、長らく単線だった事から長良川橋梁部分を介し閉塞区間を2分割させ、岐阜5.0km地点に該信号所が設置され同日より岐阜-長良間が複線化されたが、折しも、日露間国交険悪時でもあり、翌明治37年(1904年)2月に日露戦争勃発に依り該信号所の存在は軍事輸送に貢献大だった。
    長良川橋梁は、既成橋梁下流側に新橋梁が架橋され、長良-岐阜間は、明治42年(1909年)6月11日に複線化された事から、該信号所は不要施設となり廃止された。

    岐阜市今嶺無番地
    東海道本線西岐阜駅 徒歩25分

  • 長良川(ながらがわ)橋梁<br /><br /><br /><br />該橋は、明治20年(1887年)1月21日開通の橋梁である。<br />全長463.5m<br />初代橋梁は、チャールズ.A.ポーナル(Charles.A.W.POWNALL)(生没不詳)設計に依る、<br />英パテントシャフト(PATENTSHAFT & AXELETREE)社製<br /> 錬鐡製下路ワーレンポニートラス構桁 支間30.2m(100ft)×3連<br /> 錬鐡製下路ダブルワーレントラス構桁 支間63.4m(200ft)×5連<br /> 錬鐡製下路ワーレンポニートラス構桁 支間30.2m(100ft)×1連<br /> 計9連が架橋された。<br />該橋梁架橋工事は、明治17年(1884年)6月に着工し、同年12月に竣工した<br />該橋梁本体は、錬鐡製ピン結合構造で、橋台、及び、橋脚は、コンクリートを充填した鋳鐡管鉄柱組合構造が採用された。<br />該橋梁架橋に関する総額は208715円2厘と記録されている。<br />然るに、明治24年(1891年)10月28日6時37分頃、該地方を襲った、根尾川上流域を震源とする濃尾大震災(のうび だいしんさい)に依り、63.4m構桁用橋脚が折損し、該構桁3連が鍋底状転落し河中に落橋被害が発生した。<br />直ちに、復旧工事に着手したが、橋台、及び、橋脚に対し、鋳鐡組合構造を用いる事は、大地震発生時に於ける激震に対し不適当なりと判定され、改めて、橋台橋脚は、煉瓦石積構造で構築されたが、橋梁全体を新橋方に若干移動させ、更に、神戸方に錬鐡製上路鋼桁18.3m(60ft)1連が追加され、該河川護岸工事を併合した事から、翌明治25年(1892年)10月28日に完全復旧した。<br />複線化用新橋梁は既成橋梁下流側に架橋された。<br /> 鋼鐡下路ポニートラス構桁      支間30.2m(100ft)×3連<br /> 鋼鐡下路曲弦プラットトラス構桁 支間63.4m(200ft)×5連<br /> 鋼鐡下路ポニートラス構桁    支間30.2m(100ft)×1連<br /> 計9連が架橋された。<br />曲弦プラットトラス構桁は、<br />鋼鐵製米アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE)社製<br />ポニートラス構桁は、鋼鐵製国産川崎造船所兵庫分工場製<br />である。<br />新橋梁完成後、既成橋梁改良が実施され、該下路ワーレンポニートラス構桁4連は国産鋼鐵製下路ポニートラス構桁30.2m(100ft)4連に架替が施工された。<br />長良-穂積間は、明治42年(1909年)6月11日に複線化されたが、該日より、新設橋梁は下り線専用、既成橋梁は上り線専用になった。<br />内閣鐵道院は、次世代大型蒸気機関車18900型(C51型)、及び、9900型(D50型)導入決定に伴ふ入線対応可能とすべく、下路ダブルワーレントラス構桁63.4m(200ft)×5連架替を大正3年(1914年)10月24日に着手し、内3連を翌大正4年(1915年)6月11日に完成させたが、第1次世界大戦勃発の為に、後続の必要鋼材輸入途絶の為に、鋼材を含め全部国産で実施する事に決定し、同年12月25日に該工事を再開し、翌大正5年(1916年)3月2日に全工程が竣工した。<br />該架替工事期間中、岐阜-穂積間単線区間を最小とすべく、東京基点405.7km地点に長良川(ながらがわ)仮信号所を各々期間設置し、列車運行影響を最小限度とした。<br />橋台、及び、橋脚は再用した。<br />大正9年(1920年)に、上り線錬鐡製上路鋼桁18.3m(60ft)1連を鋼鐵製石川島造成所製上路鋼桁18.3m(60ft)1連に架替が実施された。<br />因みに、架替られた上路鋼桁は、当時台頭した狭軌を標準軌への改軌可能な構造が採用された。<br />その後、下り線用橋梁5連は、ピン結合故に、経年変化に伴ふ保守が困難になった事から架替が決定され、昭和35年(1960年)に架替が実施された。<br />新橋梁は、鋼鉄製平行弦ワーレントラス構桁5連で構成され、架替工事は平行移動横取方式に依り列車間合に実施された。<br /><br />岐阜市今嶺無番地<br />東海道本線西岐阜駅 徒歩25分

    長良川(ながらがわ)橋梁



    該橋は、明治20年(1887年)1月21日開通の橋梁である。
    全長463.5m
    初代橋梁は、チャールズ.A.ポーナル(Charles.A.W.POWNALL)(生没不詳)設計に依る、
    英パテントシャフト(PATENTSHAFT & AXELETREE)社製
    錬鐡製下路ワーレンポニートラス構桁 支間30.2m(100ft)×3連
    錬鐡製下路ダブルワーレントラス構桁 支間63.4m(200ft)×5連
    錬鐡製下路ワーレンポニートラス構桁 支間30.2m(100ft)×1連
     計9連が架橋された。
    該橋梁架橋工事は、明治17年(1884年)6月に着工し、同年12月に竣工した
    該橋梁本体は、錬鐡製ピン結合構造で、橋台、及び、橋脚は、コンクリートを充填した鋳鐡管鉄柱組合構造が採用された。
    該橋梁架橋に関する総額は208715円2厘と記録されている。
    然るに、明治24年(1891年)10月28日6時37分頃、該地方を襲った、根尾川上流域を震源とする濃尾大震災(のうび だいしんさい)に依り、63.4m構桁用橋脚が折損し、該構桁3連が鍋底状転落し河中に落橋被害が発生した。
    直ちに、復旧工事に着手したが、橋台、及び、橋脚に対し、鋳鐡組合構造を用いる事は、大地震発生時に於ける激震に対し不適当なりと判定され、改めて、橋台橋脚は、煉瓦石積構造で構築されたが、橋梁全体を新橋方に若干移動させ、更に、神戸方に錬鐡製上路鋼桁18.3m(60ft)1連が追加され、該河川護岸工事を併合した事から、翌明治25年(1892年)10月28日に完全復旧した。
    複線化用新橋梁は既成橋梁下流側に架橋された。
    鋼鐡下路ポニートラス構桁    支間30.2m(100ft)×3連
    鋼鐡下路曲弦プラットトラス構桁 支間63.4m(200ft)×5連
    鋼鐡下路ポニートラス構桁    支間30.2m(100ft)×1連
     計9連が架橋された。
    曲弦プラットトラス構桁は、
    鋼鐵製米アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE)社製
    ポニートラス構桁は、鋼鐵製国産川崎造船所兵庫分工場製
    である。
    新橋梁完成後、既成橋梁改良が実施され、該下路ワーレンポニートラス構桁4連は国産鋼鐵製下路ポニートラス構桁30.2m(100ft)4連に架替が施工された。
    長良-穂積間は、明治42年(1909年)6月11日に複線化されたが、該日より、新設橋梁は下り線専用、既成橋梁は上り線専用になった。
    内閣鐵道院は、次世代大型蒸気機関車18900型(C51型)、及び、9900型(D50型)導入決定に伴ふ入線対応可能とすべく、下路ダブルワーレントラス構桁63.4m(200ft)×5連架替を大正3年(1914年)10月24日に着手し、内3連を翌大正4年(1915年)6月11日に完成させたが、第1次世界大戦勃発の為に、後続の必要鋼材輸入途絶の為に、鋼材を含め全部国産で実施する事に決定し、同年12月25日に該工事を再開し、翌大正5年(1916年)3月2日に全工程が竣工した。
    該架替工事期間中、岐阜-穂積間単線区間を最小とすべく、東京基点405.7km地点に長良川(ながらがわ)仮信号所を各々期間設置し、列車運行影響を最小限度とした。
    橋台、及び、橋脚は再用した。
    大正9年(1920年)に、上り線錬鐡製上路鋼桁18.3m(60ft)1連を鋼鐵製石川島造成所製上路鋼桁18.3m(60ft)1連に架替が実施された。
    因みに、架替られた上路鋼桁は、当時台頭した狭軌を標準軌への改軌可能な構造が採用された。
    その後、下り線用橋梁5連は、ピン結合故に、経年変化に伴ふ保守が困難になった事から架替が決定され、昭和35年(1960年)に架替が実施された。
    新橋梁は、鋼鉄製平行弦ワーレントラス構桁5連で構成され、架替工事は平行移動横取方式に依り列車間合に実施された。

    岐阜市今嶺無番地
    東海道本線西岐阜駅 徒歩25分

  • 西岐阜-穂積間<br /><br /><br /><br />長良川橋梁<br /><br />岐阜市今嶺無番地<br />東海道本線西岐阜駅 徒歩25分

    西岐阜-穂積間



    長良川橋梁

    岐阜市今嶺無番地
    東海道本線西岐阜駅 徒歩25分

  • 西岐阜-穂積間<br /><br /><br /><br />長良川橋梁<br /><br />岐阜市今嶺無番地<br />東海道本線西岐阜駅 徒歩25分

    西岐阜-穂積間



    長良川橋梁

    岐阜市今嶺無番地
    東海道本線西岐阜駅 徒歩25分

  • 西岐阜-穂積間<br /><br /><br /><br />長良川橋梁<br /><br />岐阜市今嶺無番地<br />東海道本線西岐阜駅 徒歩25分

    西岐阜-穂積間



    長良川橋梁

    岐阜市今嶺無番地
    東海道本線西岐阜駅 徒歩25分

  • 西岐阜-穂積間<br /><br /><br /><br />長良川橋梁<br /><br />岐阜市今嶺無番地<br />東海道本線西岐阜駅 徒歩25分

    西岐阜-穂積間



    長良川橋梁

    岐阜市今嶺無番地
    東海道本線西岐阜駅 徒歩25分

  • 西岐阜-穂積間<br /><br /><br /><br />長良川橋梁<br />上り線用橋梁

    西岐阜-穂積間



    長良川橋梁
    上り線用橋梁

  • 西岐阜-穂積間<br /><br /><br /><br />長良川橋梁<br />上り線用 第4~8連

    西岐阜-穂積間



    長良川橋梁
    上り線用 第4~8連

  • 西岐阜-穂積間<br /><br /><br /><br />長良川橋梁

    西岐阜-穂積間



    長良川橋梁

  • 西岐阜-穂積間<br /><br /><br /><br />長良川橋梁

    西岐阜-穂積間



    長良川橋梁

  • 西岐阜-穂積間<br /><br /><br /><br />長良川橋梁

    西岐阜-穂積間



    長良川橋梁

  • 西岐阜-穂積間<br /><br /><br /><br />長良川橋梁<br />神戸方<br />ポニーワーレントラス構桁<br />全景<br />

    西岐阜-穂積間



    長良川橋梁
    神戸方
    ポニーワーレントラス構桁
    全景

  • 西岐阜-穂積間<br /><br /><br /><br />長良川橋梁<br />下り線 神戸方<br />ポニーワーレントラス構桁<br />川崎造船所兵庫分工場 明治42年(1909年)製

    西岐阜-穂積間



    長良川橋梁
    下り線 神戸方
    ポニーワーレントラス構桁
    川崎造船所兵庫分工場 明治42年(1909年)製

  • 西岐阜-穂積間<br /><br /><br /><br />長良川橋梁<br />上り線 神戸方<br />ポニーワーレントラス構桁<br />川崎造船所兵庫分工場 大正8年(1919年)製造

    西岐阜-穂積間



    長良川橋梁
    上り線 神戸方
    ポニーワーレントラス構桁
    川崎造船所兵庫分工場 大正8年(1919年)製造

  • 西岐阜-穂積間<br /><br /><br /><br />長良川橋梁<br />上り線 神戸方<br />ポニーワーレントラス構桁<br />橋脚は、明治25年(1892年)の濃尾大震災復旧再建時設置。

    西岐阜-穂積間



    長良川橋梁
    上り線 神戸方
    ポニーワーレントラス構桁
    橋脚は、明治25年(1892年)の濃尾大震災復旧再建時設置。

  • 西岐阜-穂積間<br /><br /><br /><br />築堤<br />開通当時は地平線だったが、度重なる水害の為に路盤が水没した事から、築堤嵩上構築の上、水防構造とした。

    西岐阜-穂積間



    築堤
    開通当時は地平線だったが、度重なる水害の為に路盤が水没した事から、築堤嵩上構築の上、水防構造とした。

  • 穂積(ほづみ)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治39年(1906年)8月1日開業である。<br />該駅所在地付近は、長良川、及び、揖斐川の中洲に、糸貫川、中川、五六川、犀川が錯綜する中小河川が存在する輪中地であり、該駅開設前たる明治34年(1901年)に、当時の内務省土木局に依る治水護岸設置工事が施工されていたが、然し、該地では、大雨の都度、水害被害が頻発し、該駅本屋に浸水被害が発生していた事から、昭和4年(1929年)に現位置に駅本屋が移転した。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/hozumi/index.html

    穂積(ほづみ)駅



    該駅は、明治39年(1906年)8月1日開業である。
    該駅所在地付近は、長良川、及び、揖斐川の中洲に、糸貫川、中川、五六川、犀川が錯綜する中小河川が存在する輪中地であり、該駅開設前たる明治34年(1901年)に、当時の内務省土木局に依る治水護岸設置工事が施工されていたが、然し、該地では、大雨の都度、水害被害が頻発し、該駅本屋に浸水被害が発生していた事から、昭和4年(1929年)に現位置に駅本屋が移転した。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/hozumi/index.html

    穂積駅

  • 穂積駅<br /><br /><br /><br />駅前広場<br />昭和4年(1929年)現位置移転と同時に設置された駅前広場。

    穂積駅



    駅前広場
    昭和4年(1929年)現位置移転と同時に設置された駅前広場。

    穂積駅

  • 穂積駅

    穂積駅

    穂積駅

  • 穂積駅<br /><br /><br /><br />出改札口<br />東海旅客鉄道所属岐阜県内駅乗降数では第4位。<br />抜本的駅改良工事を要する。

    穂積駅



    出改札口
    東海旅客鉄道所属岐阜県内駅乗降数では第4位。
    抜本的駅改良工事を要する。

    穂積駅

  • 穂積駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム<br />神戸方<br />朝のラッシュ帯ではホームに立ち入れられず、改札制限を要する事態も度々発生している。

    穂積駅



    旅客ホーム
    神戸方
    朝のラッシュ帯ではホームに立ち入れられず、改札制限を要する事態も度々発生している。

    穂積駅

  • 穂積駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム<br />神戸方

    穂積駅



    旅客ホーム
    神戸方

    穂積駅

  • 穂積駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム<br />神戸方

    穂積駅



    旅客ホーム
    神戸方

    穂積駅

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />初代穂積駅跡<br />明治39年(1906年)8月1日~昭和4年(1929年)は当該地に該駅が存在した。

    穂積-大垣間



    初代穂積駅跡
    明治39年(1906年)8月1日~昭和4年(1929年)は当該地に該駅が存在した。

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />初代穂積駅跡

    穂積-大垣間



    初代穂積駅跡

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />三の町(さんのまち)橋梁<br />下り線側<br /><br />瑞穂市別府881<br />東海道本線穂積駅 徒歩23分

    穂積-大垣間



    三の町(さんのまち)橋梁
    下り線側

    瑞穂市別府881
    東海道本線穂積駅 徒歩23分

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />三の町橋梁<br />内部<br /><br />瑞穂市別府881<br />東海道本線穂積駅 徒歩23分<br />

    穂積-大垣間



    三の町橋梁
    内部

    瑞穂市別府881
    東海道本線穂積駅 徒歩23分

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />三の町橋梁<br />内部<br />煉瓦積<br /><br />瑞穂市別府881<br />東海道本線穂積駅 徒歩23分

    穂積-大垣間



    三の町橋梁
    内部
    煉瓦積

    瑞穂市別府881
    東海道本線穂積駅 徒歩23分

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />三の町橋梁<br />上り線側<br /><br />瑞穂市別府881<br />東海道本線穂積駅 徒歩23分

    穂積-大垣間



    三の町橋梁
    上り線側

    瑞穂市別府881
    東海道本線穂積駅 徒歩23分

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />中川(なかかわ)橋梁<br />下り線側<br /><br />瑞穂市別府1109<br />東海道本線穂積駅 徒歩25分

    穂積-大垣間



    中川(なかかわ)橋梁
    下り線側

    瑞穂市別府1109
    東海道本線穂積駅 徒歩25分

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />中川橋梁<br />神戸方<br />橋台<br /><br />瑞穂市別府1109<br />東海道本線穂積駅 徒歩25分

    穂積-大垣間



    中川橋梁
    神戸方
    橋台

    瑞穂市別府1109
    東海道本線穂積駅 徒歩25分

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />中川橋梁<br />上り線側<br /><br />瑞穂市別府1109<br />東海道本線穂積駅 徒歩25分

    穂積-大垣間



    中川橋梁
    上り線側

    瑞穂市別府1109
    東海道本線穂積駅 徒歩25分

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br />五六川(ごろくかわ)橋梁<br />22.30m<br />下り線側<br /><br />瑞穂市牛牧無番地<br />東海道本線穂積駅 徒歩30分

    穂積-大垣間


    五六川(ごろくかわ)橋梁
    22.30m
    下り線側

    瑞穂市牛牧無番地
    東海道本線穂積駅 徒歩30分

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br />五六川橋梁<br />東京方<br />橋台<br /><br />瑞穂市牛牧無番地<br />東海道本線穂積駅 徒歩30分<br />

    穂積-大垣間


    五六川橋梁
    東京方
    橋台

    瑞穂市牛牧無番地
    東海道本線穂積駅 徒歩30分

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br />五六川橋梁<br />上り線側<br /><br />瑞穂市牛牧無番地<br />東海道本線穂積駅 徒歩30分

    穂積-大垣間


    五六川橋梁
    上り線側

    瑞穂市牛牧無番地
    東海道本線穂積駅 徒歩30分

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />二の町(にのまち)橋梁<br />上り線側<br /><br />瑞穂市別府1100<br />東海道本線穂積駅 徒歩36分

    穂積-大垣間



    二の町(にのまち)橋梁
    上り線側

    瑞穂市別府1100
    東海道本線穂積駅 徒歩36分

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />二の町橋梁<br />上り線側<br /><br />瑞穂市別府1100<br />東海道本線穂積駅 徒歩36分

    穂積-大垣間



    二の町橋梁
    上り線側

    瑞穂市別府1100
    東海道本線穂積駅 徒歩36分

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />犀川(さいがわ)橋梁<br />21.30m(70ft)×2連<br /><br />瑞穂市牛牧無番地<br />樽見鉄道横屋駅 徒歩8分

    穂積-大垣間



    犀川(さいがわ)橋梁
    21.30m(70ft)×2連

    瑞穂市牛牧無番地
    樽見鉄道横屋駅 徒歩8分

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />犀川橋梁<br /><br />瑞穂市牛牧無番地<br />樽見鉄道横屋駅 徒歩8分

    穂積-大垣間



    犀川橋梁

    瑞穂市牛牧無番地
    樽見鉄道横屋駅 徒歩8分

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />甲中吹(こうなかぶき)橋梁<br />下り線側<br /><br />瑞穂市牛牧無番地<br />樽見鉄道横屋駅 徒歩7分

    穂積-大垣間



    甲中吹(こうなかぶき)橋梁
    下り線側

    瑞穂市牛牧無番地
    樽見鉄道横屋駅 徒歩7分

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />甲中吹橋梁<br />ねじりまんぽ<br />曲線状に積上げられている。<br /><br />瑞穂市牛牧無番地<br />樽見鉄道横屋駅 徒歩7分

    穂積-大垣間



    甲中吹橋梁
    ねじりまんぽ
    曲線状に積上げられている。

    瑞穂市牛牧無番地
    樽見鉄道横屋駅 徒歩7分

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />甲中吹橋梁<br />煉瓦積<br />ねじりまんぽ<br />ねじりまんぽ とは、線路に対し斜線状に坑道設置例に対し、荷重均等化を目的として構築。<br /><br />瑞穂市牛牧無番地<br />樽見鉄道横屋駅 徒歩7分

    穂積-大垣間



    甲中吹橋梁
    煉瓦積
    ねじりまんぽ
    ねじりまんぽ とは、線路に対し斜線状に坑道設置例に対し、荷重均等化を目的として構築。

    瑞穂市牛牧無番地
    樽見鉄道横屋駅 徒歩7分

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />甲中吹橋梁<br />上り線側<br /><br />瑞穂市牛牧無番地<br />樽見鉄道横屋駅 徒歩7分

    穂積-大垣間



    甲中吹橋梁
    上り線側

    瑞穂市牛牧無番地
    樽見鉄道横屋駅 徒歩7分

  • 揖斐川(いびがわ)橋梁<br /><br /><br /><br />該橋は、明治20年(1887年)1月21日開通の橋梁である。<br />全長325.1m<br />初代橋梁は、チャールズ.A.ポーナル(Charles.A.W.POWNALL)(生没不詳)設計に依る、<br />英國パテントシャフト(PATENTSHAFT & AXELETREE)社製<br />錬鐡製下路ダブルワーレントラス構桁 支間63.4m(200ft)×5連<br />が架橋された。<br />該橋梁本体は、錬鐡製ピン結合構造で、橋台、及び、橋脚は、木曾川、及び、長良川両橋梁と異なり、地盤不良を理由に煉瓦石積構造が採用された。<br />該橋梁架橋工事は、明治17年(1884年)5月に着工し、翌明治18年(1885年)に神戸方3連が架橋されたが、明治19年(1886年)1月に英國から橋梁鋼材到着分は、折から、日本鐵道栗橋-古河間利根川橋梁架橋用に転用された事から、該橋梁架橋用鋼材未着の為に残2連が架橋出来ず、新橋方2連に就いては、翌明治19年(1886年)に架橋され、同年12月に全工事が完了した。<br />該橋梁架橋に関する総額は、181545円11銭5厘と記録されている。<br />然るに、明治24年(1891年)10月28日6時37分頃、該地方を襲った根尾川上流域を震源とする濃尾大震災(のうび だいしんさい)に依り、新橋方橋台は前面側に傾斜、神戸方橋台上部、及び、第2?4橋脚に亀裂被害が発生した。<br />直ちに復旧工事に着手したが、橋脚に対しては煉瓦の追加内巻積を施工し、該工事は、明治25年(1892年)4月26日に完全復旧した。<br />新橋梁は、既成橋梁下流側に架橋された。<br />該構桁は単線様式だったが、橋台は煉瓦積構造ながら複線様式で施工された。<br />米國アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE)社製<br />鋼鐡製下路ピン結合パーカートラス構桁 支間62.5m(200ft)×5連<br />が架橋された。<br />因みに、該橋梁構桁は複線型で、従来に於いてポニートラス複線型構桁は六郷川橋梁等々に於いて存在こそしたが、大型橋梁たるパーカートラス複線型構桁は本邦初である。<br />穂積-大垣間は、明治41年(1908年)4月29日に複線化された。<br />旧初代橋梁は廃橋になり、内閣鐵道院所管から、大正2年(1913年)に大蔵省資産を経て内務省資産に移管され、道路橋に転用された。<br />該橋は、昭和63年(1988年)に大垣市に資産移管され、引続き道路橋として使用されたが、平成9年(1997年)に飲酒運転のトラックが該橋梁に激突し、該構桁本体に損傷被害を与えた。<br />原型修復を施工後、大垣市は軽自動車以上の車両を通行禁止とし、軽車両以下通行可とする人道橋として再生した。<br />初代橋梁は、我が国鉄道橋梁として原型、且つ、原位置に架橋存在する事から、平成20年(2008年)12月2日附で国指定重要文化財に指定された。<br />明治末期に架橋された鋼鉄製橋梁5連は、ピン組結合故に経年変化に伴ふ損耗が進行し、保守が困難になった事や、昭和20年(1945年)1月13日発生の三河大地震(みかわ だいじしん)に依り橋脚に亀裂被害が発生し、修復されたものの、戦争終結後、改めてエックス線検査を実施した処、重大瑕疵が発見された事から架替が決定し、昭和36年(1961年)に下流側に新橋梁が架橋された。<br />新橋梁は、<br />鋼鉄製下路複線型平行弦ワーレントラス構桁 支間62.0m×5連<br />が架橋された。<br />その後、旧橋梁は構桁が転用される事も無く現地に放置されていたが、昭和60年(1985年)撤去され現存せず。<br /><br />安八郡安八町西結無番地<br />樽見鉄道横屋駅 徒歩15分

    揖斐川(いびがわ)橋梁



    該橋は、明治20年(1887年)1月21日開通の橋梁である。
    全長325.1m
    初代橋梁は、チャールズ.A.ポーナル(Charles.A.W.POWNALL)(生没不詳)設計に依る、
    英國パテントシャフト(PATENTSHAFT & AXELETREE)社製
    錬鐡製下路ダブルワーレントラス構桁 支間63.4m(200ft)×5連
    が架橋された。
    該橋梁本体は、錬鐡製ピン結合構造で、橋台、及び、橋脚は、木曾川、及び、長良川両橋梁と異なり、地盤不良を理由に煉瓦石積構造が採用された。
    該橋梁架橋工事は、明治17年(1884年)5月に着工し、翌明治18年(1885年)に神戸方3連が架橋されたが、明治19年(1886年)1月に英國から橋梁鋼材到着分は、折から、日本鐵道栗橋-古河間利根川橋梁架橋用に転用された事から、該橋梁架橋用鋼材未着の為に残2連が架橋出来ず、新橋方2連に就いては、翌明治19年(1886年)に架橋され、同年12月に全工事が完了した。
    該橋梁架橋に関する総額は、181545円11銭5厘と記録されている。
    然るに、明治24年(1891年)10月28日6時37分頃、該地方を襲った根尾川上流域を震源とする濃尾大震災(のうび だいしんさい)に依り、新橋方橋台は前面側に傾斜、神戸方橋台上部、及び、第2?4橋脚に亀裂被害が発生した。
    直ちに復旧工事に着手したが、橋脚に対しては煉瓦の追加内巻積を施工し、該工事は、明治25年(1892年)4月26日に完全復旧した。
    新橋梁は、既成橋梁下流側に架橋された。
    該構桁は単線様式だったが、橋台は煉瓦積構造ながら複線様式で施工された。
    米國アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE)社製
    鋼鐡製下路ピン結合パーカートラス構桁 支間62.5m(200ft)×5連
    が架橋された。
    因みに、該橋梁構桁は複線型で、従来に於いてポニートラス複線型構桁は六郷川橋梁等々に於いて存在こそしたが、大型橋梁たるパーカートラス複線型構桁は本邦初である。
    穂積-大垣間は、明治41年(1908年)4月29日に複線化された。
    旧初代橋梁は廃橋になり、内閣鐵道院所管から、大正2年(1913年)に大蔵省資産を経て内務省資産に移管され、道路橋に転用された。
    該橋は、昭和63年(1988年)に大垣市に資産移管され、引続き道路橋として使用されたが、平成9年(1997年)に飲酒運転のトラックが該橋梁に激突し、該構桁本体に損傷被害を与えた。
    原型修復を施工後、大垣市は軽自動車以上の車両を通行禁止とし、軽車両以下通行可とする人道橋として再生した。
    初代橋梁は、我が国鉄道橋梁として原型、且つ、原位置に架橋存在する事から、平成20年(2008年)12月2日附で国指定重要文化財に指定された。
    明治末期に架橋された鋼鉄製橋梁5連は、ピン組結合故に経年変化に伴ふ損耗が進行し、保守が困難になった事や、昭和20年(1945年)1月13日発生の三河大地震(みかわ だいじしん)に依り橋脚に亀裂被害が発生し、修復されたものの、戦争終結後、改めてエックス線検査を実施した処、重大瑕疵が発見された事から架替が決定し、昭和36年(1961年)に下流側に新橋梁が架橋された。
    新橋梁は、
    鋼鉄製下路複線型平行弦ワーレントラス構桁 支間62.0m×5連
    が架橋された。
    その後、旧橋梁は構桁が転用される事も無く現地に放置されていたが、昭和60年(1985年)撤去され現存せず。

    安八郡安八町西結無番地
    樽見鉄道横屋駅 徒歩15分

    旧揖斐川橋梁 名所・史跡

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />初代揖斐川橋梁<br /><br />安八郡安八町西結無番地<br />樽見鉄道横屋駅 徒歩8分

    穂積-大垣間



    初代揖斐川橋梁

    安八郡安八町西結無番地
    樽見鉄道横屋駅 徒歩8分

    旧揖斐川橋梁 名所・史跡

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />初代揖斐川橋梁<br />東京方<br />坑門<br /><br />安八郡安八町西結無番地<br />樽見鉄道東大垣駅 徒歩20分

    穂積-大垣間



    初代揖斐川橋梁
    東京方
    坑門

    安八郡安八町西結無番地
    樽見鉄道東大垣駅 徒歩20分

    旧揖斐川橋梁 名所・史跡

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />旧揖斐川橋梁橋台跡<br />東京方<br /><br />安八郡安八町西無番地<br />樽見鉄道横屋駅 徒歩8分

    穂積-大垣間



    旧揖斐川橋梁橋台跡
    東京方

    安八郡安八町西無番地
    樽見鉄道横屋駅 徒歩8分

    旧揖斐川橋梁 名所・史跡

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />旧揖斐川橋梁橋台跡<br />東京方<br /><br />安八郡安八町西無番地<br />樽見鉄道横屋駅 徒歩8分

    穂積-大垣間



    旧揖斐川橋梁橋台跡
    東京方

    安八郡安八町西無番地
    樽見鉄道横屋駅 徒歩8分

    旧揖斐川橋梁 名所・史跡

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />旧揖斐川橋梁橋台跡<br />東京方

    穂積-大垣間



    旧揖斐川橋梁橋台跡
    東京方

    旧揖斐川橋梁 名所・史跡

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />旧揖斐川橋梁橋台跡<br />東京方

    穂積-大垣間



    旧揖斐川橋梁橋台跡
    東京方

    旧揖斐川橋梁 名所・史跡

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />旧揖斐川橋梁橋台跡<br />東京方

    穂積-大垣間



    旧揖斐川橋梁橋台跡
    東京方

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />初代揖斐川橋梁

    穂積-大垣間



    初代揖斐川橋梁

    旧揖斐川橋梁 名所・史跡

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />初代揖斐川橋梁

    穂積-大垣間



    初代揖斐川橋梁

    旧揖斐川橋梁 名所・史跡

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />初代揖斐川橋梁

    穂積-大垣間



    初代揖斐川橋梁

    旧揖斐川橋梁 名所・史跡

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />初代揖斐川橋梁

    穂積-大垣間



    初代揖斐川橋梁

    旧揖斐川橋梁 名所・史跡

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />初代揖斐川橋梁<br />神戸方<br />坑門

    穂積-大垣間



    初代揖斐川橋梁
    神戸方
    坑門

    旧揖斐川橋梁 名所・史跡

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />初代揖斐川橋梁

    穂積-大垣間



    初代揖斐川橋梁

    旧揖斐川橋梁 名所・史跡

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />初代揖斐川橋梁<br />製造銘板<br />PATENT SHAFT AXLETREE Co.Ltd<br />1885<br />(パテントシャフト・アクレトリー社 1885年製造)

    穂積-大垣間



    初代揖斐川橋梁
    製造銘板
    PATENT SHAFT AXLETREE Co.Ltd
    1885
    (パテントシャフト・アクレトリー社 1885年製造)

    旧揖斐川橋梁 名所・史跡

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />第2代揖斐川橋梁<br />橋台跡<br />神戸方

    穂積-大垣間



    第2代揖斐川橋梁
    橋台跡
    神戸方

    旧揖斐川橋梁 名所・史跡

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />新揖斐川(しんいびがわ)橋梁<br />昭和36年(1961年)竣工<br />全長304.8m

    穂積-大垣間



    新揖斐川(しんいびがわ)橋梁
    昭和36年(1961年)竣工
    全長304.8m

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />初代揖斐川橋梁<br />神戸方<br />俯瞰

    穂積-大垣間



    初代揖斐川橋梁
    神戸方
    俯瞰

    旧揖斐川橋梁 名所・史跡

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />新旧揖斐川橋梁。<br />神戸方

    穂積-大垣間



    新旧揖斐川橋梁。
    神戸方

    旧揖斐川橋梁 名所・史跡

  • 樽見鉄道<br /><br /><br /><br />揖斐川橋梁<br />全景

    樽見鉄道



    揖斐川橋梁
    全景

  • 樽見鉄道<br /><br /><br /><br />揖斐川橋梁

    樽見鉄道



    揖斐川橋梁

  • 樽見鉄道<br /><br /><br /><br />揖斐川橋梁

    樽見鉄道



    揖斐川橋梁

  • 樽見鉄道<br /><br /><br /><br />揖斐川橋梁<br />御殿場線 旧上り線用第1~3号橋梁転活用。

    樽見鉄道



    揖斐川橋梁
    御殿場線 旧上り線用第1~3号橋梁転活用。

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br />宮東(みやとう)橋梁<br />該橋は、明治20年(1887年)1月2日開通時の橋梁である。<br />該橋は、煉瓦積構造で、該橋内部は ねじりんぽ と称し、煉瓦を波状に巻上げた構造であり、重量車輌対応構造である。<br /><br />大垣市新開町71-1<br />樽見鉄道東大垣駅 徒歩8分

    穂積-大垣間


    宮東(みやとう)橋梁
    該橋は、明治20年(1887年)1月2日開通時の橋梁である。
    該橋は、煉瓦積構造で、該橋内部は ねじりんぽ と称し、煉瓦を波状に巻上げた構造であり、重量車輌対応構造である。

    大垣市新開町71-1
    樽見鉄道東大垣駅 徒歩8分

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />宮東橋梁<br /><br />大垣市新開町71-1<br />樽見鉄道東大垣駅 徒歩8分

    穂積-大垣間



    宮東橋梁

    大垣市新開町71-1
    樽見鉄道東大垣駅 徒歩8分

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />和合道(わごうみち)踏切<br />該踏切-大垣駅間並行。<br /><br />大垣市和合本町1-516<br />樽見鉄道東大垣駅 徒歩5分

    穂積-大垣間



    和合道(わごうみち)踏切
    該踏切-大垣駅間並行。

    大垣市和合本町1-516
    樽見鉄道東大垣駅 徒歩5分

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />西宿(にしじゅく)架道橋<br /><br />大垣市今宿三塚町941-1<br />東海道本線大垣駅南口 徒歩20分

    穂積-大垣間



    西宿(にしじゅく)架道橋

    大垣市今宿三塚町941-1
    東海道本線大垣駅南口 徒歩20分

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />西宿架道橋<br /><br />大垣市今宿三塚町941-1<br />東海道本線大垣駅南口 徒歩20分

    穂積-大垣間



    西宿架道橋

    大垣市今宿三塚町941-1
    東海道本線大垣駅南口 徒歩20分

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />西宿架道橋<br />石積橋台<br /><br />大垣市今宿三塚町941-1<br />東海道本線大垣駅南口 徒歩20分

    穂積-大垣間



    西宿架道橋
    石積橋台

    大垣市今宿三塚町941-1
    東海道本線大垣駅南口 徒歩20分

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />西宿架道橋<br />橋桁銘板<br />鐵道省<br />大阪鉄工所<br />昭和12年製造<br /><br />大垣市今宿三塚町941-1<br />東海道本線大垣駅南口 徒歩20分<br />

    穂積-大垣間



    西宿架道橋
    橋桁銘板
    鐵道省
    大阪鉄工所
    昭和12年製造

    大垣市今宿三塚町941-1
    東海道本線大垣駅南口 徒歩20分

  • 穂積-大垣間<br /><br /><br /><br />神戸製鋼所大垣工場専用線新規川橋梁跡<br />該線橋台が残存。<br />該社は昭和25年(1950年)に 振興造機として独立。<br />該工場は閉鎖され、現在はイオンタウン大垣が所在。<br /><br />大垣市藤江町1<br />東海道本線大垣駅南口 徒歩15分

    穂積-大垣間



    神戸製鋼所大垣工場専用線新規川橋梁跡
    該線橋台が残存。
    該社は昭和25年(1950年)に 振興造機として独立。
    該工場は閉鎖され、現在はイオンタウン大垣が所在。

    大垣市藤江町1
    東海道本線大垣駅南口 徒歩15分

  • 大垣駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />全景<br />俯瞰<br /><br />大垣市藤江町2-34<br />東海道本線大垣駅南口 徒歩10分

    大垣駅



    駅構内
    全景
    俯瞰

    大垣市藤江町2-34
    東海道本線大垣駅南口 徒歩10分

    大垣駅

  • 大垣(おおがき)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治17年(1884年)5月25日開業である。<br />即ち、開通当時は、滋賀県長濱を起点として中仙道鉄道建設の一環として関ケ原-大垣間路線延長工事が完成したものである。<br />然し、該駅隣接駅たる垂井から柏原に至る15.9km区間は、岐阜県から滋賀県に至る県境に於ける連続急勾配区間が存在し、既に、明治期に於いて路線変更が1度のみならず2度に亘り余儀無くさせられた区間であり、該区間下り列車は、特別急行列車と云えども該駅に於いて列車後部に勾配登攀用補助機関車を連結しなければならず、此の為に、東の山北沼津、西の大垣と称される様になり、大垣は江戸期に於ける城下町から鉄道の街へと変貌を遂げ、当然ながら、該区間開通時から該駅構内に機関庫が設置され、該区間当時は英國製2120型タンク式蒸気機関車、大正末期には9900型(D50型)が配備され、更に、膨大な鉄道関係職員が配置された。<br />開業当時の駅本屋は老朽化が進行し、手狭な状態になった事から改築が決定し、第2代駅本屋が昭和15年(1940年)11月に竣工した。<br />該線沿線は撚糸産業が盛んな地であり、該線開通以降は該線各駅に該産業関係工場が次々と立地開設したが、昭和10年代後半以降、該工場群が軍事産業関係施設へ転換した事から、大垣は軍事産業重要拠点として位置付られた事から、大東亜戦争末期、連合国軍は該地をして軍事目標殲滅を目的として、昭和20年(1945年)7月28日未明にB29戦略爆撃機92機に依る大規模空襲を受けた。<br />該空襲に依り、大垣市内中心部は壊滅的被害を蒙ったが、該駅構内では、貨物ホーム上屋、及び、職員官舎22戸が全焼したが、駅本屋は1/3が焼失したに止まり、残存施設を修復し使用可能な状態だったのは不幸中の幸いと言えた。<br />戦後、駅本屋は継続して使用されたが、三河大地震(昭和20年(1945年)1月17日)に依る該駅本屋各部の弛緩も有り、且つ、該線稲沢-米原間電化が昭和30年(1955年)7月20日に実施される事から、改築が決定され、第3代駅本屋が同年5月6日竣工した。<br />該駅北側には出改札口が存在せず、不便極まりない状態だった事から、近江撚糸工場用地を活用し、昭和33年(1958年)12月25日に北口出改札口が開設された。<br />現第4代駅本屋は、昭和59年(1984年)8月に着工し、翌昭和60年(1985年)12月1日竣工の鉄骨鉄筋5階建駅ビルである。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/ogaki/index.html

    大垣(おおがき)駅



    該駅は、明治17年(1884年)5月25日開業である。
    即ち、開通当時は、滋賀県長濱を起点として中仙道鉄道建設の一環として関ケ原-大垣間路線延長工事が完成したものである。
    然し、該駅隣接駅たる垂井から柏原に至る15.9km区間は、岐阜県から滋賀県に至る県境に於ける連続急勾配区間が存在し、既に、明治期に於いて路線変更が1度のみならず2度に亘り余儀無くさせられた区間であり、該区間下り列車は、特別急行列車と云えども該駅に於いて列車後部に勾配登攀用補助機関車を連結しなければならず、此の為に、東の山北沼津、西の大垣と称される様になり、大垣は江戸期に於ける城下町から鉄道の街へと変貌を遂げ、当然ながら、該区間開通時から該駅構内に機関庫が設置され、該区間当時は英國製2120型タンク式蒸気機関車、大正末期には9900型(D50型)が配備され、更に、膨大な鉄道関係職員が配置された。
    開業当時の駅本屋は老朽化が進行し、手狭な状態になった事から改築が決定し、第2代駅本屋が昭和15年(1940年)11月に竣工した。
    該線沿線は撚糸産業が盛んな地であり、該線開通以降は該線各駅に該産業関係工場が次々と立地開設したが、昭和10年代後半以降、該工場群が軍事産業関係施設へ転換した事から、大垣は軍事産業重要拠点として位置付られた事から、大東亜戦争末期、連合国軍は該地をして軍事目標殲滅を目的として、昭和20年(1945年)7月28日未明にB29戦略爆撃機92機に依る大規模空襲を受けた。
    該空襲に依り、大垣市内中心部は壊滅的被害を蒙ったが、該駅構内では、貨物ホーム上屋、及び、職員官舎22戸が全焼したが、駅本屋は1/3が焼失したに止まり、残存施設を修復し使用可能な状態だったのは不幸中の幸いと言えた。
    戦後、駅本屋は継続して使用されたが、三河大地震(昭和20年(1945年)1月17日)に依る該駅本屋各部の弛緩も有り、且つ、該線稲沢-米原間電化が昭和30年(1955年)7月20日に実施される事から、改築が決定され、第3代駅本屋が同年5月6日竣工した。
    該駅北側には出改札口が存在せず、不便極まりない状態だった事から、近江撚糸工場用地を活用し、昭和33年(1958年)12月25日に北口出改札口が開設された。
    現第4代駅本屋は、昭和59年(1984年)8月に着工し、翌昭和60年(1985年)12月1日竣工の鉄骨鉄筋5階建駅ビルである。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/ogaki/index.html

    大垣駅

  • 大垣駅<br /><br /><br /><br />該駅構内は開業以来追加追設を要因として狭隘だったが、稲沢-米原間直流1500V電化決定に基き、該駅神戸方に大垣電車区新設が決定した事から、日本国有鉄道は該電化工事に併せ、該駅線路配置を根本的に見直す事に決定し、該工事は、昭和27年(1952年)8月に着工し、昭和30年(1955年)7月に竣工した。<br />更に、該駅改良工事竣工に依り、該駅下り線神戸方に存在した400R急曲線は800R緩曲線に改良され、該地点に於ける速度制限が撤廃された事で減速は不要となり高速運転に寄与した。

    大垣駅



    該駅構内は開業以来追加追設を要因として狭隘だったが、稲沢-米原間直流1500V電化決定に基き、該駅神戸方に大垣電車区新設が決定した事から、日本国有鉄道は該電化工事に併せ、該駅線路配置を根本的に見直す事に決定し、該工事は、昭和27年(1952年)8月に着工し、昭和30年(1955年)7月に竣工した。
    更に、該駅改良工事竣工に依り、該駅下り線神戸方に存在した400R急曲線は800R緩曲線に改良され、該地点に於ける速度制限が撤廃された事で減速は不要となり高速運転に寄与した。

    大垣駅

  • 大垣駅<br /><br /><br /><br />構内<br />東京方<br />俯瞰

    大垣駅



    構内
    東京方
    俯瞰

    大垣駅

  • 大垣駅<br /><br /><br /><br />構内<br />神戸方<br />俯瞰

    大垣駅



    構内
    神戸方
    俯瞰

    大垣駅

  • 大垣駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />神戸方

    大垣駅



    第1番ホーム
    神戸方

    大垣駅

  • 大垣駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />東京方<br />右分岐線は補助機関車待避線跡

    大垣駅



    第1番ホーム
    東京方
    右分岐線は補助機関車待避線跡

    大垣駅

  • 大垣駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />神戸方<br />俯瞰

    大垣駅



    第1番ホーム
    神戸方
    俯瞰

    大垣駅

  • 大垣駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />記念碑園<br />全景

    大垣駅



    第1番ホーム
    記念碑園
    全景

    大垣駅

  • 大垣駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />慰霊碑<br />該駅では、昭和19年(1944年)に新垂井経由の迂回線開通まで最大25/1000‰勾配登攀の為に、列車後部に補助機関車増結を必要としたが、此の為に、連結手の死傷事故、殊に、殉職事故が多発し、該殉職者の慰霊の為に建立された。

    大垣駅



    第1番ホーム
    慰霊碑
    該駅では、昭和19年(1944年)に新垂井経由の迂回線開通まで最大25/1000‰勾配登攀の為に、列車後部に補助機関車増結を必要としたが、此の為に、連結手の死傷事故、殊に、殉職事故が多発し、該殉職者の慰霊の為に建立された。

    大垣駅

  • 大垣駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />慰霊碑<br />裏面<br />昭和36年(1961年)3月建立<br />題字は、第4代日本国有鉄道総裁 十河信二(そごう しんじ)(明治17年(1884年)4月14日~昭和56年(1981年)10月3日)(昭和30年(1955年)5月20日~昭和38年(1963年)5月19日在任)揮毫に依る物だが、該事実関係は完全に忘れ去られている。

    大垣駅



    第1番ホーム
    慰霊碑
    裏面
    昭和36年(1961年)3月建立
    題字は、第4代日本国有鉄道総裁 十河信二(そごう しんじ)(明治17年(1884年)4月14日~昭和56年(1981年)10月3日)(昭和30年(1955年)5月20日~昭和38年(1963年)5月19日在任)揮毫に依る物だが、該事実関係は完全に忘れ去られている。

    大垣駅

  • 大垣駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム

    大垣駅



    第1番ホーム

    大垣駅

  • 大垣駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム

    大垣駅



    第1番ホーム

    大垣駅

  • 大垣駅<br /><br /><br /><br />西旅客跨線橋<br />支柱に古軌条が多用。

    大垣駅



    西旅客跨線橋
    支柱に古軌条が多用。

    大垣駅

  • 大垣駅<br /><br /><br /><br />西跨線橋<br />古軌条支柱<br />手前<br />60P1923<br />(官営八幡製鐡所 1923年(大正12年)製造 鐵道省発注品)<br />中央<br />60P 1927<br />(官営八幡製鐡所 1927年(昭和2年)製造 鐵道省発注品)

    大垣駅



    西跨線橋
    古軌条支柱
    手前
    60P1923
    (官営八幡製鐡所 1923年(大正12年)製造 鐵道省発注品)
    中央
    60P 1927
    (官営八幡製鐡所 1927年(昭和2年)製造 鐵道省発注品)

    大垣駅

  • 大垣駅<br /><br /><br /><br />旅客跨線橋内部<br />稲沢-大垣間直流1500V電化時に、架線張吊の為にジャッキアップ部分のみ追加階段デザインが異なる。

    大垣駅



    旅客跨線橋内部
    稲沢-大垣間直流1500V電化時に、架線張吊の為にジャッキアップ部分のみ追加階段デザインが異なる。

    大垣駅

  • 大垣駅<br /><br /><br /><br />旅客跨線橋内部

    大垣駅



    旅客跨線橋内部

    大垣駅

  • 大垣駅<br /><br /><br /><br />旅客跨線橋内部

    大垣駅



    旅客跨線橋内部

    大垣駅

  • 大垣駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム上屋<br />支柱古軌条<br />No60A 1908<br />(官営八幡製鐡所 1908年(明治41年)製造 帝國鐵道庁発注品)<br />支柱番号第23号d1

    大垣駅



    第2番ホーム上屋
    支柱古軌条
    No60A 1908
    (官営八幡製鐡所 1908年(明治41年)製造 帝國鐵道庁発注品)
    支柱番号第23号d1

    大垣駅

  • 大垣駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />第2番ホーム

    大垣駅



    駅構内
    第2番ホーム

    大垣駅

  • 大垣駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />第2番ホーム

    大垣駅



    駅構内
    第2番ホーム

    大垣駅

  • 大垣駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />東海旅客鉄道在来線は、12両以上の旅客長編成列車が消滅した事から、不要部分を研摩した。

    大垣駅



    第2番ホーム
    東海旅客鉄道在来線は、12両以上の旅客長編成列車が消滅した事から、不要部分を研摩した。

    大垣駅

  • 大垣駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />美濃赤坂支線列車発着ホーム

    大垣駅



    駅構内
    美濃赤坂支線列車発着ホーム

    大垣駅

  • 大垣駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />第2番ホーム<br />古軌条上屋支柱<br />1948年<br />昭和30年(1955年)設置

    大垣駅



    駅構内
    第2番ホーム
    古軌条上屋支柱
    1948年
    昭和30年(1955年)設置

    大垣駅

  • 大垣駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />大阪発高山行 特急ひだ号<br />関西対飛騨方面連絡列車は当該列車1往復のみとなり、且つ、高速道路拡充に依り、現在では廉価運賃の高速バスが快適に運転されている事から、該列車利用者は、専ら、ジャパンレールパス利用外国人、及び、バスを忌避する年寄のみである。

    大垣駅



    第2番ホーム
    大阪発高山行 特急ひだ号
    関西対飛騨方面連絡列車は当該列車1往復のみとなり、且つ、高速道路拡充に依り、現在では廉価運賃の高速バスが快適に運転されている事から、該列車利用者は、専ら、ジャパンレールパス利用外国人、及び、バスを忌避する年寄のみである。

    大垣駅

  • 大垣駅<br /><br /><br />第3番ホーム

    大垣駅


    第3番ホーム

    大垣駅

  • 大垣駅<br /><br /><br />第3番ホーム<br />切込部分は本来は手小荷物車 ニ 用だったが、樽見線開業時に転活用された。

    大垣駅


    第3番ホーム
    切込部分は本来は手小荷物車 ニ 用だったが、樽見線開業時に転活用された。

    大垣駅

  • 大垣駅<br /><br /><br />第3番ホーム<br />本来は、該線沼津以遠着旅客列車用だった。

    大垣駅


    第3番ホーム
    本来は、該線沼津以遠着旅客列車用だった。

    大垣駅

  • 大垣駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />養老鉄道側<br />近畿日本鉄道養老線、及び、揖斐線は、沿線人口希薄な超閑散線区として、度重なる合理化を実施せざるを得なかったが、慢性的赤字体質から脱却出来ず、経営分離に依り経営改善を実施する事になり、平成8年(1996年)8月1日附で養老鉄道に分社化された。

    大垣駅



    駅構内
    養老鉄道側
    近畿日本鉄道養老線、及び、揖斐線は、沿線人口希薄な超閑散線区として、度重なる合理化を実施せざるを得なかったが、慢性的赤字体質から脱却出来ず、経営分離に依り経営改善を実施する事になり、平成8年(1996年)8月1日附で養老鉄道に分社化された。

    大垣駅

  • 大垣駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />養老鉄道線側<br />日本国有鉄道貨物取扱業務が、操車組成移送主義から拠点移送主義に転換した昭和59年(1984年)2月1日直前に、連絡貨物取扱業務を廃止する民鉄が続出する内、近畿日本鉄道養老線桑名-大垣間は、数少ない連絡貨車取扱業務が継続した。<br />然し、該線が経営合理化の為に分社化される最終日たる、平成8年(1996年)7月31日まで連絡貨車取扱業務が実施された。<br />東海旅客鉄道側との使用停止線路群跡が、旧連絡社線貨物取扱所跡。<br />写真中央部の軌条撤去跡は、貨物列車牽引機関車付替の為の転向線跡。

    大垣駅



    駅構内
    養老鉄道線側
    日本国有鉄道貨物取扱業務が、操車組成移送主義から拠点移送主義に転換した昭和59年(1984年)2月1日直前に、連絡貨物取扱業務を廃止する民鉄が続出する内、近畿日本鉄道養老線桑名-大垣間は、数少ない連絡貨車取扱業務が継続した。
    然し、該線が経営合理化の為に分社化される最終日たる、平成8年(1996年)7月31日まで連絡貨車取扱業務が実施された。
    東海旅客鉄道側との使用停止線路群跡が、旧連絡社線貨物取扱所跡。
    写真中央部の軌条撤去跡は、貨物列車牽引機関車付替の為の転向線跡。

    大垣駅

  • 大垣駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />養老鉄道側

    大垣駅



    駅構内
    養老鉄道側

    大垣駅

  • 大垣駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />北口<br />該駅北側には出改札口が存在せず、該駅利用者は本屋口まで著しい迂回を余儀無くさせられていた。<br />大垣市は該不便を解消させるべく、再三に亘り名古屋鉄道管理局に対し北口開設要請を請願していたが、該工事費は地元全額負担を条件に該請願が認められ、大垣市が該地に存在した近江撚糸所有地を買収し、昭和33年(1958年)12月25日附で北出改札口が開設された。

    大垣駅



    駅構内
    北口
    該駅北側には出改札口が存在せず、該駅利用者は本屋口まで著しい迂回を余儀無くさせられていた。
    大垣市は該不便を解消させるべく、再三に亘り名古屋鉄道管理局に対し北口開設要請を請願していたが、該工事費は地元全額負担を条件に該請願が認められ、大垣市が該地に存在した近江撚糸所有地を買収し、昭和33年(1958年)12月25日附で北出改札口が開設された。

    大垣駅

  • 大垣駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />元貨物取扱施設跡<br />線路が犇めき合っていたが、貨物取扱業務廃止後は、日本国有鉄道清算事業団管理地を経て現在は駐車場。

    大垣駅



    駅構内
    元貨物取扱施設跡
    線路が犇めき合っていたが、貨物取扱業務廃止後は、日本国有鉄道清算事業団管理地を経て現在は駐車場。

    大垣駅

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この旅行記へのコメント (2)

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  • winningさん 2018/10/08 23:48:46
    尾張一宮駅の変貌ぶりに唖然
    横浜臨海公園さん、こんばんは。

    最初、尾張一宮駅の駅ビル見て唖然としました。
    新人SEだった二十数年前、一宮駅近くのホテルとシステム納入先の往復という生活をしておりまして、大変懐かしく拝見したのですが、こんなすごい駅ビルができていたとは。20年以上という時の流れを感じた次第です。
    当時は仕事で疲れ切って周りを散策する元気など無かったので、今度名古屋に行った時には一宮によって、ちょっと散策してみようかなと思いました。
    辛い時期でしたが、今となっては大変貴重な体験を、この旅行記にて、思い起こさせて頂きました。ありがとうございました。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2019/04/03 17:00:46
    拝復
    winningさま、こんにちは。

    フォートラベル側のトラブルに依り、一旦は公開状態となった旅行記が完成上程に至りました。
    その為に、返信を差し控えておりました。
    兎に角、あの界隈では、穂積駅以外は昔の面影を残す駅は全く消滅してしまい、当旅行記も、近代建築物の羅列となってしましました。
    winningさまも、該旅行記沿線を廻られたら、さぞや驚愕の連続だと思われます。


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