三田・田町・芝浦旅行記(ブログ) 一覧に戻る
汐留-浜松町-品川間開通は、明治5年(1872年)10月14日である。<br /><br />然し、開業当時の起点駅たる汐留駅は今日停車場として存在しない。<br /><br />明治3年(1870年)4月19日に、民部省内部に鐵道掛が設置され、築地尾張藩邸下屋敷跡を活用し、該地に事務所を開設が我が国史上に於ける鉄道事始(てつどう ことはじめ)に相当する。<br /><br />初代新橋停車場-品川停車場間建設は、兵部省用地通過が認められなかった事から、民部省鐵道寮は、已む無く現在の田町駅付近に存在した旧薩摩藩邸から八ッ山下まで東京湾岸に築堤を設置する工法を採用する事に決定した。<br /><br />然し、現地に於ける該工事は海上に築堤を構築すると云う、欧米ですら具体的先例無き工法を用い、該工事では悉く難航させられる。<br /><br /><br />嘉永6年(1853年)7月8日に、アメリカからマシュー・ペリー(Matthew PERRY)(1794年(寛政6年)4月10日~1858年(安政4年)4月10日)海軍大佐は、フリゲート型軍艦4隻を率い太平洋を横断し来航し、我が国に対し高圧的態度を以って開国を要求してきたが、翌嘉永7年(1854年)2月13日に今度は同型艦8隻を率い再来航し、幕府はアメリカ側の恫喝的開国要求に屈し、同年3月31日に神奈川に於いて、我が国にとって一方的で屈辱的内容な 日米和親條約(にちべい わしんじょうやく)(Convention of Peace and Amitey between the United State of America and Empire of Japan)の締結を以って、我が国は開国を余儀無くさせられる。<br /><br />他方、我が国国内に於いて尊王攘夷論勃興と共に、幕府は京都朝廷との間に、数年以内に該條約を破棄し改めて諸外国間に対し攘夷断行を誓約した手前、攘夷実行時に於ける江戸城防備に要する防塁設置が決定し、此れに基き、嘉永6年(1853年)から韮山代官 江川英龍(えがわ ひでたつ)(享和元年(1801年)6月25日)~安政2年(1855年)3月4日)を作事奉行に任命し、江戸湾品川沖に台場建設が開始された。<br /><br />幕府は、当初計画に於いて臺場設置を12箇所を予定していたが、幕末に於ける幕府財政逼迫から該工事は遅々として進まず、幕府は大政奉還(たいせいほうかん)(慶應3年(1867年)11月9日)の時点で7箇所完成の状態で工事は中止され、明治維新以降に於ける台場は省みられる事も無く半ば打ち果て放置された状態だった。<br /><br /><br />英國人エドモンド・モレル(Edmund MOREL)(1840年(天保11年)1月17日~1871年(明治4年)11月5日)が横濱港に上陸したのは明治3年(1870年)4月9日である。<br /><br />モレルは鉄道技師で、日本政府の招聘に依り来日した。<br /><br /><br />民部省鐵道寮は、東京方起点候補として濱離宮海軍根拠地跡地転用を明治3年(1870年)5月5日附で請願した。<br />更に、現在の汐留地区には幕末まで龍野脇坂家、仙台伊達家、及び、會津松平家諸藩の下屋敷が存在した。<br />伊達家、及び、松平家は戊辰戦争の際に幕府方として朝廷側と戦った事から明治維新以降は朝敵と看做され、脇坂家屋敷と共に公収され政府管理地になっていた。<br /><br />政府は、民部省鐵道掛の要請を受け、同年5月6日に、東京府、品川縣、及び、神奈川縣に対し、東京横濱間鐵道建設測量を令達した。<br />此れを受け、民部省鐵道掛は、同月12日に鉄道停車場工事を開始し、同月14日に起点たる新橋汐留に於いて、英国人鉄道技師 ジョン・ダイアック(John DIACK)( ? ~1900年(明治33年))が記念すべき第1抗を打ち込んだ。<br /><br />然るに、兵部省は鉄道建設工事が具体性を帯びるに及び、同月31日に民部省鐵道掛に対し停車場用地変更抗議申入をしたが、此れに対し民部省が無視した事から、兵部省は政府に対し翌6月24日に該工事に対する中止要求が提出された。<br />然し、民部省は該計画を中止させる事も無く、そのまま工事を進行させた為に、翌7月には、政府に対し、第2代兵部大輔 前原一誠(まえばら かずなり)(天保5年(1834年)4月28日~明治9年(1876年)12月3日)(明治3年(1870年)1月3日~同年9月28日在任)名を以って鐵道建設反対建議書を提出し、8月に民部省鐡道掛が計画していた濱離宮芝新銭座海軍操練所、及び、高輪兵部省管理地に対する測量立入を拒否する事態に至った。<br /><br />兵部省の予想を超えた強硬な態度に驚愕させられた民部省鐡道掛は、当初計画では東海道沿道に路線敷設に設定していたが、測量立入すら叶わぬ事態に困惑させら、改めて計画を白紙に戻し再検討した処、現在の田町駅付近に所在した旧薩摩藩邸付近より八ツ山下付近に至る区間を、東京湾上に築堤を構築し通過させる大胆な計画案を採用決定した。<br /><br />築堤工事が開始されたが、然し、前述した幕末に臺場設置の為に大量の土砂を必要とした事から、当時の江戸湾を浚渫して土砂を入手した事実を知らずに工事を進行させた状態で盛土構築し、翌朝満潮時に該盛土が全部消失する等々、工事の困難が待受けていた。<br /><br />石材は、最終的に第7番臺場を解体取壊し、該臺場から余剰石材を活用したが、不足分は神奈川縣下根府川村石材を舟運で品川沖に運搬し使用した。<br /><br />新橋-横濱間開通時に敷設された軌条は、英國DARLINGTON IRON社が製造した双頭式錬鐡製で1本7.3m(24ft)で構成されていた。<br /><br />該区間に於ける軌条敷設は明治3年(1870年)11月に着手された。<br /><br />錬鐡(れんてつ)とは鋼鐡出現前の鐡材で、1889年(明治21年)にフランス・パリに於いて開催された第4回万国博覧会の為に建築されたエッフェル塔(La tour EIFFEL)は錬鐡構築物の代表的建築物だが、材質的観点から見て軟性質の為に耐久性に於いて問題を内包し、明治20年代に東海道本線大河川に架橋された英國製錬鐡ワーレントラス橋梁群は、大正初期になると次々と架替が実施され、地方路線たる長井線最上川橋梁や小田原電気鉄道(現 箱根登山鉄道)出山橋梁に転用され現在も使用されているが、軌条に至っては錬鐡材利用としては最も不適当な製品であり、敷設後、著しい磨耗現象が原因で概ね2~2年半で交換を余儀無くさせられた。<br /><br /><br />該区間鉄道建設工事に於いて、途中区間たる品川-横濱間工事が先行竣工した事から、明治5年(1872年)6月12日に該区間が先行仮開業した。<br /><br />然し、該開通時点ですら新橋-品川間完成は全く目処すら立っておらず、前途は多難だったが、同年9月には築堤石垣構築を除き該区間工事が殆ど竣工を見た。<br /><br />築堤工事区間は高輪築場(たかなわ ちくば)と称され、全長26533m(1460間)、全幅6.4mを有し、後の複線分用地を考慮した施工だった。<br /><br />築堤外海対浜辺との連絡を要する事から、本芝雑魚河岸、芝田町表、第1高輪新堤、第2高輪新堤間に海浜連絡橋梁が設置され構成され、本芝雑魚河岸に至っては大東亜戦争終結後も海浜部一部が残存していた。<br /><br /><br />かくて、明治5年(1872年)10月14日、初代新橋-品川間開通を以って新橋-横濱間が全通した。<br /><br /><br />我が国に於いて、太陽暦採用実施は明治6年(1873年)1月1日で、旧太陰暦で明治5年12月3日だった。<br /><br />政府が太陽暦採用に踏切った背景に、鉄道開通に伴い時間制を導入した結果である。<br /><br />即ち、太陰暦は夜明けから日の入に至る間を約6分割し1間を1時(いっとき)としていた事から、春夏秋冬に於ける昼夜に於ける区分に差が大きく、且つ、太陰暦には分秒の概念が存在しない為に、太陽暦採用は鉄道運営に於いて列車運行上、絶対必要不可欠だった事が原因である。<br /><br /><br />新橋-品川間は、早くも、明治9年(1876年)12月1日に複線化され、保安装置として ブロック式電信機(BLOCK TELEGRAPH)が使用された。<br />同時に、該途中に田町仮停車場が開設されたが、何故か理由は定かでは無いが、該仮停車場は、翌明治10年(1877年)10月1日附で廃止された。<br />該駅が正式開業するのは、遥かに後年たる明治42年(1909年)12月16日である。<br /><br /><br />明治7年(1874年)6月15日附で、開業以来、初めて運賃改定が実施された。<br /><br />即ち、我が国に於いて、明治4年(1871年)6月27日に新貨条例が公布された事で、江戸期以来の両制度が廃止され近代日本に於ける通貨単位たる円制度が施行されたが、それ迄に於ける幕府発行貨幣以外に、各藩発行藩札の流通を政府に拠り統一させたものだったが、鉄道開業時は、未だ旧通貨が流用していた時代だった事から、該通貨類を有効と認め窓口に於ける乗車券購入に際し利用可能だった。<br /><br />然るに、該法施行から3年が経過し、該運賃改定と共に、乗車券購入時に円銭厘以外の通貨使用が不可能になったが、現実には、天保銭(てんぽうせん)流通は明治24年(1891年)12月31日まで使用が認められていた。<br /><br />開業当時の運賃体系は区間制であり、新橋から品川は3等25銭で、以降各駅毎に15銭増としたものだったが、何故か横濱までは1円だった事から、新橋から横濱に向かう利用者は神奈川駅で下車し、人力車利用、若しくは、徒歩で横濱まで移動した。<br /><br /><br />初代六郷川木造橋梁は、該架橋位置が汽水域故に橋脚基部腐朽が甚だしい状態になり、列車運転上危険と判断された事から、明治10年(1877年)4月に架替が実施されたが、相前後して他木造橋梁も漸次、錬鉄製橋梁架替が施工され、<br />会仙川橋梁  明治12年(1879年) 1月  13.04m<br />金杉橋梁                  7月   4.63m<br />芝橋梁                  5月   4.63m<br />雑魚場橋梁  明治11年(1878年)11月  17.67m<br />田町橋梁               11月    5.79m<br />が各々更改された。<br /><br />該橋梁橋桁群は、明治44年(1911年)から開始された複々線化工事の際に鋼鐡製プレートガーダー橋桁に再架替が実施された。<br /><br /><br />日本(にほん)鐵道會社は、工部省鐵道局線への連絡線として、該社線 東京府北豊島郡岩淵村赤羽付近に分岐点を設定し、該地を起点として赤羽-品川間20.8kmの鉄道建設工事を施工し、該工事は明治18年(1885年)3月1日に竣工し、該日より、該社車輌が乗務員と共に新橋-品川-赤羽間に直通列車運転が開始され、此の連絡運輸の為に、工部省鐵道局と日本鐵道會社間に連絡運輸取扱手続が契約制定された。<br /><br />品川駅は建設時に於ける当時の兵部省に依る鉄道建設反対の経緯から、八ッ山下の狭隘な土地に停車場を設置せざるを得ず、此れが原因で拡張余地が殆ど存在せず、当時の貨物取扱は現在の山手線電車留置線付近で細々と行っていたが、新橋横濱間に於いて貨物取扱件数が増加し、更に、明治18年(1885年)3月1日に、日本鐵道が現在の山手線一部、及び、赤羽線に相当する区間たる赤羽-品川間を新規開通したが、該社は列車を車輌乗務員共に、新橋-品川間1日4往復乗入を実施したが、他方、当然の結果ながら、貨車取扱件数が激増し、此の為に、該駅に於いて貨車滞留状態が慢性化が現出し駅構内が混乱する事態になった。<br /><br />更に、甲武(こうぶ )鐵道會社は、明治22年(1889年)4月11日に新宿-立川間を開通させたが、該日より、新橋-品川-新宿-立川間に直通列車1往復が運転開始する事から、該連絡運輸の為に、内閣鐵道局、日本鐵道會社、及び、甲武鐵道會社間に於ける3社間連絡運輸取扱手続が契約制定された。<br /><br />日清(にっしん)戦争(明治27年(1894年)7月20日~明治28年(1895年)11月30日)勃発に伴い、該状態に危機感を抱いた当時の帝國陸軍は、日本鐵道側から逓信省鐵道局東海道線側に直接連絡させるべく、逓信省鐵道局に建設工事を委託し、現在の山手線大崎駅から東海道本線大井町駅付近に至る短路連絡線を設置し、軍用列車に限定し、品川駅を仲介せず直接相互を連絡させるべく直通運転を可能にした。<br /><br /><br />該区間に、明治32年(1899年)5月に保安装置として、当時最新式だった双信閉塞式が導入され保安状態が向上する。<br /><br /><br />今日に於いても親炙されている鉄道唱歌は、正式曲名を 地理教育鐵道唱歌(ちりきょういく てつどうしょうか)と称し、大和田建樹(おおわだ たてき)作詞に依り明治33年(1900年)5月に初版本が出版発売されたものである。<br /><br />第1番<br />汽笛一声新橋を<br />(きてき いっせい しんばしを)<br />はや我汽車は離れたり<br />(はや わが きしゃは はなれたり)<br />愛宕の山に入りのこる<br />(あたごのやまに いりのこる)<br />月を旅路の友として♪<br />(つきを たびじの ともとして)<br />今日、高層ビルが群立する東京都心部に於いて、東海道本線車窓から愛宕山は望見する事は最早不可能である。<br /><br />第2番<br />右は高輪泉岳寺<br />(みぎは たかなわ せんがくじ)<br />四十七士の墓どころ<br />(しじゅうしちしの はかどころ)<br />雪は消えても消え残る<br />(ゆきは きえても きえのこる)<br />名は千載の後までも♪<br />(なは せんざいの のちまでも)<br />泉岳寺どころか、やはりビル群に遮られ、手前を縦貫する国道15号線(第1京浜国道)すら殆ど見えない。<br /><br />第3番<br />窓より近く品川の<br />(まどより ちかく しながわの)<br />臺場も見えて波白く<br />(だいばも みえて なみしろく)<br />海のあなたにうず霞む<br />(うみの あたたに うずがすむ)<br />山は上総か房州か♪<br />(やまは かずさか ぼうしゅうか)<br />後述する明治末期の埋立工事に依り海岸線は遥か遠くとなり、現在では、房総半島どころか東京湾すら見る事は不可能である。<br /><br /><br />第124代 昭和(しょうわ天皇(明治34年(1901年)4月29日~昭和64年(1989年)1月7日)(昭和元年(1926年)12月25日~昭和64年(1989年)1月7日御在位)が、初代新橋駅を初利用された日時は長年謎とされてきた。<br /><br />然るに、昭和天皇実記第1巻公刊に拠り、該日が、明治34年(1901年)10月23日である事が判明した。<br />即ち、神奈川県大磯に在る鍋島直大(なべしま なおひろ)(弘化3年(1846年)10月19日~大正10年(1921年)6月19日)侯爵別邸に於いて、避寒の為に滞在する事が決定され、該日新橋発12時20分発特別列車で大磯まで御乗車されたのが該駅利用の嚆矢とされる。<br /><br />因みに、鉄道利用第1号は、同年8月8日に避暑の為に上野から日光まで日本鐵道に御乗車されたのが初乗車体験である。<br /><br /><br />日露戦争後に於ける貨物取扱簡素化を目的として、東海道本線側発着貨車を東北本線側発着に振分をさせる為に、鐵道院は品川駅大改良計画を立案した。<br />即ち、東京湾に面した該駅旅客ホーム横側を大規模に埋立工事を施工し、大量の土地を取得するもので、此の為に必要な埋立用土砂は、当時の東京府荏原郡大井村、即ち、現在の東京都品川区西品川5~6丁目付近一帯に起立していた二葉山一帯を内閣鐵道院が土地所有者から買収し、該山を切崩し、該土砂を以って該地を埋立地114000haを確保する内容で、明治44年(1911年)6月から該駅構内埋立計画が実行され大正3年(1914年)に完工したが、同時に、該駅本屋改築工事が実施され、大正5年(1916年)5月7日に竣工した。<br />更に、余剰土砂を活用し品川区権現台地区湿地帯一帯を埋立盛土し、大正4年(1915年)に大井工場敷地が完成する。<br /><br /><br />呉服橋-品川間は、電車運転開始以来、双信閉塞式が導入されていたが、該閉塞式の特徴は非自動式で停車場間を1閉塞として扱う為に、列車が次停車場に到着確認が無ければ、次列車を発車させられず、列車を頻発運転させる為には自動閉塞式に依る自動信号機導入が不可欠だった。<br /><br />我が国に於ける自動式信号機採用は、甲武鐵道飯田町-中野間に採用されたが、該信号機は、円盤可動式で動作不良に伴う故障が頻発し、複線区間に於ける信号機故障は、即追突事故併発要因となる事から、その後、該式自動信号機採用区間が無く、鐵道院は自動閉塞式採用にあたり極めて慎重な態度だった。<br />然し、早急に自動信号機化を要すると判断された事から、大正2年(1913年)2月11日附を以って、呉服橋-田町間に米ホール社製2打腕木式自動信号機が設置され、列車増発が可能になった。<br /><br />明治42年(1909年)12月16日に烏森(現 新橋Ⅱ)-品川-新宿-池袋-上野間電化工事が竣工し、電車運転が開始されて以来、ボギー式電車は原則通常時間帯は1両、混雑時間帯にのみ総括制御装置装備車輌に依り2両編成で運転していたが、直接制御装置装備車輌が総括制御可能な装置に転換工事が完了した事から、大正5年(1916年)3月1日附時刻改正より、全列車が終日2両編成運転になった。<br /><br /><br />大正6年(1917年)10月1日に、関東に大型台風が接近し東京府に上陸した。<br />該台風は、明治43年(1910年)8月の関東大水害に匹敵する規模とされた。<br />更に、悪い事に、該台風上陸時は満潮時に加え大潮が重複した事で、潮位が標準潮位より平均3.1m上昇し、その為に、東京市内は上野松坂屋付近まで海水が押寄せ、該館は1階が床上浸水し押寄せた濁流は不忍池をも飲込み一帯は水海と化してしまったが、現実には、殆どの市内下町地区は2階に至る水没状態だった。<br />該台風に拠る死者行方不明者は全国で1324名、重軽傷者は2022名を数え、東京府内に於ける犠牲者は計563名にのぼった。<br /><br />該高潮の影響で、汐留駅構内に夥しい海水が流入し該駅は完全に水没状態になり、強風の為に貨物取扱ホーム上屋が吹き飛ばされる半壊被害が発生した。<br />更に、該台風に依る被害に、第1番ホーム内留置中の到着貨物として、綿糸玉130玉、綿20包、空ドラム缶250個、清酒20樽が流失した。<br /><br />品川駅は、該駅拡張工事着工前は、東海道本線下り用ホーム横築堤下が東京湾岸部分だったが、該工事が竣工し海岸線が遠退いた為に、直接高潮被害を受ける事は避けられた。<br /><br />即ち、明治43年大水害災害時の教訓が生かされ、被害が拡大せずに収束した。<br /><br /><br />大正8年(1919年)に、東京駅21時発明石行普通列車に乗車した体験談が文献として現存するが、列車が新橋駅発車後は車窓から見渡す限り月明り以外は全く無く、外は完全に漆黒状態だったとの記述が見られる。<br />即ち、該当時は新橋から品川一帯に於いては、現在と異なり、手工業、及び、漁師関係者家族居住地であり、当時は日の出が起床兼出発であり、日没と共に帰宅し、テレビは勿論、我が国に於けるラジオ放送開始は大正14年(1925年)3月22日からで、且つ、当時のラジオ受信機は高価で一般庶民が入手可能な物では無く、昭和10年代半ばから空襲警報令達手段として廉価な受信機が発売されて以降の事であり、故に、夜はラジオを囲み家族で娯楽など存在せず早寝が原因故に、照明痕が見当たらず一面漆黒の世界であるのも当然だった。<br /><br />因みに、一般に電力積算計開発以前に於ける電気料金課金とは、ソケット1個に対し1ヶ月何円何銭と言う形態だった事から、一般人は電気使用過剰に拠る電気代の無駄と云う発想など存在などせず、一般家庭では就寝時以外は外出不在時であろうとなかろうと、照明はつけっ放し状態が当然だった。<br /><br /><br />鐵道院は、幹線の列車運転を効率円滑化させる目的で、列車区間たる東海道本線東京-國府津間、京都-神戸間、山陽本線神戸-明石間、及び、東北本線田端-大宮間に米ホール社製の2腕式腕木式自動信号機採用を決定し設置試用したが、設置当初から腕木動作不良が頻発し保安装置として信頼性に欠けると判断された事から本採用は見送られ、改めて再検討の結果、米ウェスティングハウス社製の三動型腕木式自動信号機導入を決定し、田町-櫻木町間は大正11年(1922年)1月20日に導入し、それまで停車場間1閉塞で10分間隔運転だったが、自動閉塞導入で運転間隔短縮可能になり6分間隔運転が可能になった。<br />当時、一部私鉄では色燈式自動信号機が採用されていたにも拘らず、鐵道省が構造動作が複雑な腕木式信号機を採用した理由に、当時の我が国に於いて、色燈式信号機使用に不可欠なレンズや電球の大量生産技術が未熟だった為で、実際に使用開始後は架線柱林立の中で腕木式信号機は識別困難とされ、更に、技術の進歩で、関東大震災後は、レンズ、及び、電球の国産大量生産化が可能になった事から、東京-國府津間は大正15年(1926年)1月24日迄に色燈式信号機に漸次更改された。<br /><br /><br />関東大震災発生時、川崎-横濱間各所で被害が発生したが、特に、発電所、及び、変電所被害は円滑な電車運転を阻害させ復旧遅延の要因ともなった。<br /><br />関東大震災発生当時、汐留駅構内は激震に拠り駅本屋を初めとする諸施設に相当の被害を生じせしめたが、該段階に於いて火災発生は発生していない。<br />然し、当日15時30分頃、東京湾に到達した津波に拠り、該駅構内川岸積卸場が浸水の惧れが生じたが、16時30分頃には津波再来可能性が消滅し職員一同は安堵したとされる。<br />然るに、銀座築地方面に於いて発生した出火が大火となって延焼し、翌2日1時頃に該駅本屋、東京建設事務所、新橋運転保線事務所、職員官舎、等々に次々と着火し、該駅構内に存在した該施設は、ほぼ全焼した。<br /><br />該震災に拠り該区間内に於いて被災した蒸気機関車は計10両で、内訳は、汐留駅構内4両、濱松町駅構内1両、及び、品川駅構内5両である。<br /><br />汐留駅構内<br />    664 品川機関庫所属 火災木部焼損<br />  5526 品川機関庫所属 火災木部焼損<br />  6319 品川機関庫所属 火災木部焼損<br />  6321 品川機関庫所属 火災木部焼損<br /><br />濱松町駅構内<br /> 18638 沼津機関庫所属 火災木部焼損<br /><br />品川駅構内<br />  8700 品川機関庫所属 脱線傾斜<br />  3921 品川機関庫所属 脱線<br />  3951 品川機関庫所属 脱線<br />  9083 品川機関庫所属 脱線<br />  7058 品川機関庫所属 脱線<br /><br />該震災被災の特長として、汐留駅、及び濱松町駅構内で被災機関車が火災延焼に拠るものだったのに対し、品川駅構内被災車輌が、全車輌共に火災は無く脱線だった。<br /><br />即ち当時の東京市内所在で火災が原因たる被災機関車は、上野駅構内15両、飯田町(現在廃止)駅構内13両、両國橋(現 両国)駅構内6両、錦糸町駅構内6両で、両國橋、及び、錦糸町両駅は隣接地たる事を加味し同一地域と解釈すれば12両となるが、此れらから見れば汐留駅構内に於ける火災被災車は少数と言えた。<br /><br />寧ろ、品川駅構内に於ける該震災被災車5両は全車輌共に脱線であり、元来、該地が明治末期から大正初期に於ける海面埋立地であり、且つ、該施工後震災発生時は10年前後しか経過せず、以前、当時の文献を精査中に、地震発生と共に水道管が破裂して該付近が水浸しになった、云々、と言う記録を発券したが、此れなど、現在から見れば、明らかに液状化現象であり、当時は液状化現象に対する認識など無い時代故に土地陥没が原因だった。<br /><br />逆に、他所に於いて、脱線した機関車は、上野駅構内1両、飯田町駅構内1両、、両國橋、錦糸町両駅に至ってはゼロだった。<br /><br /><br />関東大震災に於いて被災連帯鐵道線貨車の焼失損害に就いて、東武鐵道、西武鐵道、武蔵野鐵道(現 西武鉄道池袋線)、多摩鐵道(現 西武鉄道多摩川線)、常総鐵道(現 関東鉄道常総線)、秩父鐵道、青梅鐵道(現 JR東日本青梅線)、越後鐵道(現 JR東日本越後線)、河東鐵道(現 長野電鉄河東線)、駿豆鐵道(現 伊豆箱根鉄道駿豆本線)、富士身延鐵道(現 JR東海身延線)、三河鐵道(現 名古屋鉄道三河線)、南海鐵道、吉野鐵道(現 近畿日本鉄道吉野線)、簸上鐵道(現 JR西日本木次線)15社は、計48両の貨車損害に、鐵道省に対し損害賠償請求を行った。<br />此れに対し、鐵道省は大臣官房文書課長名を以って、<br />大正十二年九月一日関東地方震災火災ノ際省線内輸送中焼損(簸上鐵道會社ニハ「破損」ト書クコト)シタル貴社所属貨車損害ニ関シテハ何等カノ名義ニテ填補方特ニ考慮致候ヘ共何分震災ニ基因スル損害ハ不可抗力ト認ムルノ外無之ニ付輸送中ノ荷物ハ勿論ソノ他一般ニ名義ノ如何ニ拘ラス補償ハ御断リ致居候次第モ有之種々御手数相煩シ候ヘ共コレ等ノ振合上特別ノ取扱致候間不悪知相成度候<br />大正十五年一月廿六日 鐵道大臣官房文書課長<br />と、些か高飛車とも取れる内容の公文書を以って回答した。<br /><br />因みに、関東大震災発生時に、駅構内に於いて列車待合せ、若しくは、列車乗車中に震災が原因で被災し死傷した旅客に対し、鐵道省は震災は不可抗力事項であるとして、一切賠償補償を行わなかった。<br />従って、大正当時は生命保険制度黎明期であり、故に、生命保険非加入者は正に死に損だった。<br /><br /><br />該震災の為に、東海道本線は東京-沼津間に被害が発生した事から、該震災発生直後から該区間に於ける列車運行が不可能になった。<br /><br />比較的被害が軽微だった品川-横濱間、及び、御殿場-沼津間は該震災被災数日後に復旧したが、横濱-國府津-御殿場間は、各地に於いて、築堤崩壊、隧道損壊、及び、橋梁損傷が多数発生し、特に、相模川河口域たる馬入川橋梁は、上下線共に、橋脚損壊倒壊が原因で殆どの橋桁が河川内に落橋し、復旧に至るまで、相当の日時を要する事が確実視された事から、門司鐵道局の提議に拠り、該鐵道局が管理監督する関釜(かんぷ)航路下関-釜山間に於いて使用中の 景福(けいふく)丸3620t、及び、高麗(こうらい)丸3029tを東京に回航させ、横濱港が震災被害で全滅状態だった事から、東京芝浦沖を発着地に決定し、清水港まで該船舶利用に依り臨時連絡航路が開設された。<br /><br />同月4日11時に鐵道省運輸局長より札幌鐵道局長宛電報に拠り、青森駅桟橋常駐の青函航路用タグボート 七重丸、及び、尾花丸に該駅桟橋船夫33名を乗船させ、準備完了次第直ちに緊急出航し東京品川沖への廻航命令が発信された。<br /><br />東京芝浦沖17:00→清水港6:00<br />清水港18:00→東京芝浦沖6:00<br /><br />該震災罹災者に対し、震災救護事務局、若しくは、地元市区町村役場発行に依る震災罹災証明書を交付し、該震災罹災者は、該証明書を田町駅に持参し、該駅に於いて、無料乗船証を発給した。<br />該乗船証を発給された罹災者達は清水港を中継し、江尻駅(現 清水駅)以西目的地まで3等に無料乗車船が可能だった。<br />鐵道省は、景福丸2500名、高麗丸1500名を乗船限度定員として同月6日公示、翌7時日より実施した。<br /><br />該臨時航路開設時は、両船内に於ける1、2、3等施設に関係せず全員一律に乗船させたが、運良く1、2等船室に乗船した罹災者が船内高級備品窃取事件が発生した事から、同月11日以降出航便に対し、景福丸1800名、高麗丸1200名を乗船限度定員とし、1、2等乗船希望者は運賃を有料として設定させた。<br /><br />横濱港は懸命の復旧工事の結果、同月27日に仮復旧工事が完工した事から、該港出入港が可能になり、此の為に、翌28日より東京芝浦沖発着に代り、該港発着に変更された。<br /><br />因みに、倒壊した馬入川橋梁は同年10月28日附で木造木組構造で仮復旧工事が竣工し、茅ヶ崎-平塚間は単線ながら列車運行が可能になった事から、該臨時連絡航路は同日を以って廃止された。<br /><br />また、同日に東京-品川間の電気設備復旧工事が完成し、京濱線電車を運行させる為に、従来の直流600Vから直流1200Vに昇圧された事で、該区間に山手線用600V専用車輌は入線不可能になり、乗換客の為に品川駅は大混雑を呈する様になった。<br /><br /><br />電車運転開始以来、途中停車駅に於ける停車時間は、他客車列車同様、最低2分以上とされていたが、然し、関東大震災以降、それ迄は市内在住者が新規に郊外に住居を求める傾向が強まった関係で、ラッシュ時に於ける電車の混雑が激化し、停車時間を2分とする事が必ずしも実態にそぐわぬ実態から、鐵道省と東京鐵道局は検討した結果、それ迄の各駅停車時間を2分から指定駅以外の停車時間を20秒に短縮する事に決定し大正14年(1925年)に実施した。<br /><br />更に、それ迄の乗客には乗車マナーなど確立しておらず、客自身は他乗降客に関係せず個々身勝手に乗降していた為に混乱が避けられぬ状態だったが、20秒停車を前に、降車を先、乗車は後とする指導を行い、少なくとも該原則が当時の鐵道省線区間に於ける電車運転区間の東京、及び、神奈川県内に於いて行列乗車が確立させた。<br /><br /><br />東海道本線列車線電化工事が竣工し、大正14年(1925年)12月13日より、東京-國府津間が直流1500V電化されたのを受け、同日より、京濱線東京-櫻木町間も、従来の直流1200Vから直流1500Vに昇圧された。<br /><br /><br />鐵道省は、電車客用扉自動開閉化工事を推進していたが、昭和4年(1929年)7月19日迄に、京濱線、及び、山手線電車全車輌客用扉に対し自動化が完了した事から、それ迄、中間車に配置していた客用手動扉開閉の為に1車1名乗務させていた中間車掌は客用扉自動化完了に依り、翌20日より後部運転車掌以外の車掌乗務を廃止した。<br /><br /><br />汐留-品川間貨物線は周囲の路線が電化後も長らく非電化で取り残されていたが、昭和3年(1928年)12月7日附で電化された。<br /><br />然し、該区間電化当時、鐵道省にF型貨物用電気機関車は未だ登場しておらず、EF10型貨物用電気機関車登場は昭和9年(1934年)であり、D型貨物用電気機関車も必要絶対数が不足していた事から、該区間貨物列車相当数に蒸気機関車牽引列車が残存した。<br /><br /><br />昭和11年(1936年)7月27日、独逸の首都ベルリン ホテル・アドロンに於いて開催されていた国際オリンピック委員会総会で、1940年(昭和15年)第12回夏季国際オリンピック開催地は東京に決定された。<br /><br />鐵道省は、該決定を受け、該オリンピック開催期間中に於ける観客輸送対策の一環として、東京-品川間3複線化を決定した。<br /><br />即ち、該区間に於いて、当時は電車運転上で線路共有していた、京濱線、及び、山手線運転を分離すると共に、横須賀線電車を京濱線線路を使用して該区間を各駅停車とする 京濱急行(けいひん きゅうこう)の名称で運転する為に、品川駅構内東京方に東海道本線乗越橋建設工事が開始された。<br /><br />然るに、同年7月7日に北京郊外盧溝橋に於いて支那軍側から不法一斉射撃を発端として日華(にっか)事変(昭和12年(1937年)7月7日~昭和16年(1941年)12月8日)に拡大し、我が国は準戦時体制に移行し、殊に、陸軍上中層部から該オリンピック開催に反対論が噴出した事から、昭和13年(1938年)7月15日に、我が国は該オリンピック開催返上を決定したが、該乗越橋一部が竣工したにも拘らず78年間列車が走る事も無く、品川駅構内再開発工事の関係で本年たる平成27年(2015年)春に解体工事に着手した。<br /><br />因みに、現在、横須賀線に於いて使用中の217系電車の裾帯の青白色は、中止になった該オリンピック・コーポレートカラーを使用している事は知られていない史実である。<br /><br /><br />大東亜戦争中に完成した東海道本線品川駅臨時列車用ホーム2本は、主に、軍用専用列車、及び、児童疎開専用列車用に使用されたが、作家 大岡昇平(おおおか しょうへい)(明治42年(1909年)3月6日~昭和63年(1988年)12月25日)の作品 出征(しゅっせい)に於いて、昭和19年(1944年)6月に、著者が軍用列車に乗車して広島市内宇品線宇品港に移動する際の該駅に於ける描写が描かれている。<br /><br /><br />大東亜戦争中の該区間空襲被害は、<br />昭和19年(1944年)<br />11月29日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 B29戦略爆撃機計24機<br /> 警戒警報発令 23時25分<br /> 空襲警報発令 23時45分<br /> 空襲開始    23時55分<br /> 空襲警報解除  2時45分<br /> 警戒警報解除  3時15分<br />汐留駅構内線路班小屋焼損<br /><br />昭和20年(1945年)<br /> 3月 9日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦絡爆撃機計279機 東京大空襲<br /> 警戒警報発令 22時30分<br /> 空襲警報発令  0時08分<br /> 空襲開始    0時15分<br /> 空襲警報解除  2時35分<br /> 警戒警報解除  3時35分<br />該記述を見て気づかれた方も多いと思われるが、空襲警報発令時刻に先立ち、空襲開始時刻が先行しているのは誤記では無い。<br />即ち、当時の関東地区防空業務は陸軍東部軍管区が担当していたが、諸情報から当日夜の東京地区空襲は必須と判断されていたにも拘らず、各方面から該本部に対し、再三に亙り空襲警報発令要請が届いていたが、その都度、当直陸軍参謀将校は悉く該要請を却下し、然も、火急の時にも拘らず、部下が上げた報告書に朱を入れる等々、事実、誰の目にも空襲が開始されている状態で、部下に空襲の事実確認をさせると言ふ、愚かにも間の抜けたマニュアル通りの行動を執った為に、空爆後7分経過後に空襲警報発令がされると言ふ本末転倒な事態となり、該時点で本所区、及び、城東区は火の海状態だった。<br />それ故、空襲被災地域住民達は、警戒警報は認知していたものの、空襲警報無き状況で、いきなり空爆が開始された為に、当初は何が発生したのか全く理解出来ず、事前退避行動に移る事も叶わぬまま人的被害を拡大させた。<br />当時、警視庁警務部警務課長 原 文兵衛(はら ぶんべい)(大正2年(1913年)4月29日~平成11年(1999年)9月17日)は、空襲警報発令直前に下町方面に火の手を現認したが、本所、深川、浅草、各区内所在警察署から電話報告が無く、洲崎警察署に至っては署長以下署員全員焼死殉職していたと回顧している。<br />戦争末期の異常事態下でありながら、陸軍内部の悪弊が通用していた典型が原因である。<br /><br />該空襲の結果、東京大空襲に於いて、特に、米陸軍航空戦略部隊に依る主要攻撃目標地区となった都区内下町各箇所被害が顕著であり、該主要攻撃対象区間に属する総武本線御茶ノ水-新小岩間被害が著しかった。<br /><br />空爆開始と共に、コンクリート構体内部に囲繞構築された駅構内が安全なりと考えるのは極めて自然な発想であり、該地を目標に次々と人々が避難して来た。<br /><br />家財道具一式を持ち込む者も少なくはなかったが、関東大震災体験者は、此れら家財道具一式に着火し、被害を大きくした事を記憶している世代の者達は身一つでの避難したが、現実には、莫大な量の焼夷弾攻撃の前に、爆発した火が集合し大火砕流に至った事から、此れらから逃避する術は殆ど不可能であり、避難者達の頭上に大火砕流が押寄せ、鎮火後、錦糸町、亀戸、及び、平井各駅構内には無数の焼死体が山積み散乱状態なる惨状を呈していた。<br /><br />5月24日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計520機<br /> 警戒警報発令  1時05分<br /> 空襲警報発令  1時36分<br /> 空襲開始     1時39分<br /> 空襲警報解除  3時38分<br /> 警戒警報解除  3時55分<br />該空襲で汐留、新橋、及び、品川各駅に被害が発生。<br />品川駅構内被災車輌<br />  オロ35 34(広セキ)小破<br /><br />5月25日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊B29戦略爆撃機計464機<br /> 警戒警報発令 21時47分<br /> 空襲警報発令 21時58分<br /> 空襲開始    22時38分<br />   空襲警報解除    1時20分<br />   警戒警報解除  1時45分<br />該空襲で汐留駅は再度被災し、駅本屋以外の殆どの構内施設が焼失した。<br />田町電車区留置<br /> モハユニ44005 + サハ48011 + サハ48026 + モハ32026<br />焼夷弾直撃に依り全焼。<br />被災したサハ48型2両は、大東亜戦争後、当時の大東京急行電鉄に払下げられ、該社が分割時に小田急電鉄に引継がれ、台枠のみ活用され、昭和25年(1950年)に該社特急専用車として再生活躍した。<br />  <br /><br />東海道本線客車取扱は、従来は東京駅八重洲側に存在したが、品川に損ざし他貨物取扱を全面的に新鶴見操車場に移転させ、遊休地化した貨物取扱跡地を活用し、客車取扱を東京駅八重洲側から品川駅構内に移転させる事を決定し、緊急案件として、大東亜戦争中も工事は継続し、該工事は昭和20年(1945年)8月に竣工した。<br /><br /><br />前述した様に、品川客車操車場は、大東亜戦争終結直前たる、昭和20年(1945年)8月10日に竣工したが、終戦と同時に我が国に連合国軍隊が進駐し、連合国軍輸送の為に活用させられる。<br /><br />品川地区には、品川駅、品川機関区、及び、品川客車区に対し、同年9月21日附でRTOが設置され、昭和27年(1952年)3月31日まで存在した。<br /><br />大東亜戦争中に運用中止となった優等客車群は連合国軍の空襲被害を避け、京成電気軌道(現 京成電鉄)上野線隧道内他、各地に分散疎開させていたが、無事だった車輌は直ちに品川に回送され徴発された。<br /><br />1等寝台車    残存車輌15両中13両  <br />1.2等寝台車  残存車輌10両全車輌<br />2等寝台車   残存車輌51両中25両<br />食堂車     残存車輌24両中23両<br />1等展望車   残存車輌 5両全車輌<br /><br /><br />連合国司令部から指示された必要工事として、1等車へのシャワー設置工事、冷房機器搭載工事、等々、があり、該工事は当初は大井工場、後に、大船工場が担当した。<br /><br />同年10月から列車蒸気暖房使用の為に、高圧蒸気送気を開始した。<br />蒸気暖房とは、蒸気機関車に於いて発生する高圧蒸気5気圧を編成客車に対し送気させ車内暖房とするもので、明治33年(1900年)12月に新橋-神戸間に最急行列車運転に際し使用開始したもので、該方法に依り一部の混合列車を除き、全国の旅客列車に於いて実施されていた。<br />然るに、大東亜戦争苛烈化と共に、石炭を多量に費消する事から、使用期間、及び、時間が大幅に短縮されていた。<br /><br />昭和19年(1944年)1月、大阪、福山方面に国民慰問の為に 特別急行 富士 の1等展望車に乗車した東京の漫談家 古川ロッパ(ふるかわ ろっぱ)(明治36年(1903年)8月13日~昭和36年(1961年)1月16日)は、東京駅13時30分出発時に1等車内にすら暖房が入っておらず、浜松停車時に暖房投入されるまで、1等利用者が車内でコートを着て寒さに震える描写を日記に残している。<br />当時の暖房使用規定は11月20日より翌年3月15日の17時から翌日6時までだったが、現実的には石炭質悪化に依り、機関車から客車に高圧蒸気を送気など事実上不可能な状態だったが、進駐軍専用列車相手では暖房使用を断る事など許されず、通常時に於ける送気圧を5気圧から8気圧に上昇させる為に、送気の為にゴムホースを特注品の厚手に交換し実施した。<br />然し、該蒸気送気は、牽引機関車から送る為に、客車編成後部になるに従い、暖房効果低下は避られず、10両以上客車を連結した編成では著しく暖房効果が低下し、此の為に連合国軍側から度々車内暖房効果が低いとの苦情が寄せられた。<br />特に、該列車に連合国軍高官が乗車時など、わざわざ編成末端に暖房車 スヌ を連結し、編成先頭に向い高圧蒸気を送気させる事で対処させた。<br /><br /><br />修学旅行は明治期に於ける学校教育が拡充する過程の中で実施校が増え、旧制中学校、及び、旧制女学校に於いて実施先鞭をつけた。<br />日華事変以前であれば、一般列車に団体専用客車を増結し対処したが、該事変以降は軍事輸送増加の為に必要客車が捻出出来ず、学生団体が一般客と混乗を余儀無くされる時代となった。<br /><br />大東亜戦争終結後も早期に修学旅行が復活したが、当時の長距離列車は押し並べて混雑しており、一般客から見れば修学旅行団体客は混雑に拍車をかけるだけの迷惑な存在だった。<br /><br />昭和20年代後半ともなると客車に余裕を見せた専用客車が用意可能な時代となったが、東海道本線筋発学生団体に対しては概ね優良車が用意されたが、関東に於いて、高崎、水戸、及び、千葉鉄道管理局内発学生団体は、鋼製車とは名ばかりの60系を主体とする超ポンコツ車輌が使用され、該車輌に長時間乗車の苦難に耐えなければならなかった。<br /><br />日本国有鉄道は利用債を募集し、155系(82系)修学旅行専用電車を開発投入した。<br /><br />該車輌使用区間は品川-京都間で一般客と混乗する事もなく移動可能だった事から利用客から好評だった。<br /><br />品川駅に団体専用待合所が設置され、臨時ホームから発着した。<br /><br />昭和39年(1964年)10月1日に東京-新大阪間に東海道新幹線が開通した。<br /><br />該新幹線開通時は全列車12両編成で、毎時、ひかり号1本、こだま号1本計2本が運転されたが、全列車共に全車指定制だった為に、学生団体はおろか、一般団体を受容れる余地など存在せず、修学旅行で新幹線利用など望むべくも無かった。<br /><br />然し、利用者増加から新幹線本数も増加を見せ、更に、昭和45年(1970年)に大阪千里丘に於いて大阪万国博覧会が開催されたが、該博覧会に合せ、ひかり号は全列車が12両から16両編成化され、こだま号に自由席が設定された事から、該博覧会閉幕後に輸送に余裕が生じたが、当時は文部省令に拠り、修学旅行等々に於ける当該都内公立中学校は72時間、都内公立高校は96時間以内の帰着規定が存在した為に、学校側も列車移動時間の短縮が本音であり、各方面からの要望を受け、新幹線に依る学生団体乗車を認定する事に決定し、昭和46年(1971年)4月1日から施行された事から、東海道本線で運転された修学旅行専用電車 きぼう ひのでは必然性が喪失したものと位置付けられ、同年10月26日に廃止された。<br /><br /><br />昭和30年代後半当時の上野駅は盆暮期に於ける帰省客が殺到し、該駅構内混雑が激化し混乱が避けられぬ状況が現出したが、他方、品川駅列車線ホームは大東亜戦争中の構内改良工事に依り臨時ホームが存在し余裕が生じていた事から、此の為に、該時期に限定し、東北奥羽方面行の一部普通急行列車を通常の上野発を品川発に変更して東北新幹線上野開通時まで対処させた。<br /><br /><br />昭和47年(1972年)10月14日は、新橋Ⅰ-横浜Ⅰ間鉄道開業100周年だった。<br /><br />此の為に、日本国有鉄道では、該日、及び、翌15日の2日間に亘り、当時に縁を有する汐留-東横浜間に記念臨時列車を運行する事に決定した。<br /><br />即ち、当時、天王寺鉄道管理局紀伊田辺機関区配置の蒸気機関車 C57型1号機、及び、水戸鉄道管理局水戸客貨車区配置のスハ32系客車を借用し、特に、32系客車窓下に旧3等識別たる赤色帯を装飾し該区間を往復運転させた。<br /><br /><br />時代は下り、昭和61年(1986年)10月31日附を以って、汐留駅営業は廃止されたが、然し、保存駅として線路は撤去されず残存され」た。<br /><br />昭和62年(1987年)4月1日0時、日本国有鉄道は民営分割され、汐留駅に梅小路機関区から搬入されたC56160号機関車の汽笛鳴吹と共に該駅歴史115年に終止符をうった。<br /><br /><br />汐留駅跡地は日本国有鉄道清算事業団が管理する事になった。<br /><br />然るに、当時はバブル真っ最中だった事から該組織に依る売却は認められず、土地をリースする単純な発想すら無い情勢だった事から、旧国鉄債務は激増する一方だった。<br /><br />東京都教育委員会は、汐留地区開発着工前に該地に於ける発掘を決定し、平成3年(1991年)6月に開始し、平成12年(2000年)まで該跡地全体が発掘対象となった。<br /><br />その結果、驚くべき事に、該地に明治初期に於ける鉄道施設設置状態が平成になり浮き出て来たという空前絶後の状態が現出し話題になった。<br /><br /><br />日本国有鉄道が経営破綻し、昭和62年(1987年)4月1日附で民営分割化を余儀無くさせられた背景に、遠く大正期、我が国は第1次世界大戦(だいいちじ せかいたいせん)(大正3年(1914年)7月28日~大正7年(1918年)11月11日)に於いて第3次日英同盟條約を根拠に聨合国側として参戦し、ヴェルサイユ講和会議(大正8年(1919年)1月18日~同年9月10日)に於いて戦勝国として敗戦国側から巨額な戦時賠償金を獲得したが、他方、当時の我が国は、2大政党として、民政党、及び、立憲政友会が存在したが、両党は政策方針の相違が著しく、政権獲得の都度、該方針の為に国内外に於いて混乱を招いた。<br /><br />即ち、鉄道に関しては、該賠償金を元手に、民政党が財閥を背景とする重化学工業生産物輸出に依る外貨獲得を主眼とし、当時の狭軌を標準軌に改築する事で幹線輸送量を増大化させ産業活性を具現させようとしていたのに対し、立憲政友会は地方を主票田母体とする政党で、特に、大正14年(1925年)5月5日施行に依り、有権者が増加し、地方票が増え立憲政友会が躍進する状況下に於いて、該改軌案は葬り去られ、当時ですら、人口希薄地域に対し、次々と路線を敷設させ、該地域は官立鉄道施設が該地方での負担は絶無に均しく、半ば漁夫の利を得るが如き状態だった。<br /><br />大東亜戦争末期、当時の鐵道省は、遊休施設と化した閑散線区軌条類等々の資材転用を目的とする該線区休止を実行したが、当時の鐵道省も半ば持余していた該線区休止処置は正に正鵠を得たものだったが、戦争終了後、此れら営業休止線区の大半は、地元のゴネ得に依り殆どの路線は復活させられ、結果的に、特別幹線や大都市圏内路線に於いて黒字を計上するも、該閑散線区の為に赤字補填を理由に黒字利益が転用された事で、赤字幅が増幅された。<br /><br />更に、戦争終了後、進駐軍命令に拠り内務省が解体され、該省土木局は運輸省の国土庁に組織編入され存続したが、該官庁は、戦後に於けるモータリゼーションの一環として、国産自動車を外貨獲得の輸出産業として奨励し、一方で道路整備を奨励した事から、昭和20年代末期ともなると交通機関としてのトラック進出が甚だしい状態となった。<br /><br />当時の日本国有鉄道は、大正期から昭和初期にかけて地方線区設置を優先した為に、本線と言えども全線複線は東海道、及び、山陽のみで、他幹線は支線と共に単線区間が普遍的状態だった。<br /><br />当時の地方幹線は列車本数が現在より遥かに少ない事もあり、慢性的混雑状態だったが、毎年夏期ともなると臨時列車設定を巡り、旅客対貨物間でしのぎを削る状況だった。<br /><br />然るに、昭和35年(1960年)に、信越本線貨物用臨時列車設定で、貨物側から旅客側に対し、該年夏期臨時貨物列車運転は不要と為に、該貨物列車分は旅客列車用に引渡すとの連絡を受けた。<br /><br />即ち、当時の該線長野県内は、軽井沢以西は全線単線で貨物列車は100%蒸気機関車牽引だった事や、横川-軽井沢間がアブト式と言ふ特殊な運転方法を使用し、且つ、車輌の連結数が制限されていた事から、長野県側たる軽井沢駅は貨車滞貨が常態化し、遅延も原因となり、折角積込んだ生鮮野菜類が、該牽引蒸気機関車から排出される熱気と蒸気の為に、東京市場到着時に高級野菜が棄損商品として該市場から安値で買叩かれていた為に、生産者は輸送方法の抜本的転換を真剣に考えなければならなかった。<br /><br />既に、地方に於いてもトラック進出は目覚しい物が在ったにも拘らず、国鉄貨物輸送担当者は目先の事に固執し、将来的構想など皆無な状態であり、更に、貨物拠点輸送実施と称し、的外れで巨額な資金を投資し、無駄とも言える巨大貨物ターミナルを次々と完成させ、結果的に国鉄末期に不要施設として閉鎖統合を併発させ、かの組織を破綻に追い込んだ責任は大である。<br /><br /><br /><br />表紙写真は、<br />復元初代新橋驛本屋<br /><br /><br /><br /><br />東海道本線歴史的痕跡探訪記<br />~東京-濱松町間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10701644<br />~東京驛編~<br /><br />~汐留-濱松町-品川間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10797199<br />~品川-川崎間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10502858<br />~川崎-横濱間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10711843<br />~横濱駅移設変転史編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10316826<br />~横濱-大船間編 明治頌歌~<br /><br />~大船-平塚間編 明治頌歌~<br /><br />~平塚-國府津間編 明治頌歌~<br /><br />~國府津-根府川間編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10298330<br />~根府川-熱海編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10310352<br />~丹那隧道完成秘話 丹那隧道碑文から読み取れし或る歴史的事実~<br />http://4travel.jp/travelogue/10291350<br />~丹那隧道完成秘話 三島口建設工事鉄道線探訪記~<br />http://4travel.jp/travelogue/10575630<br />~熱海-沼津間編~<br /><br />~沼津駅驛編~<br 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東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~汐留-浜松町-品川間編 明治頌歌~

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2015/09/23 - 2015/09/23

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横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

汐留-浜松町-品川間開通は、明治5年(1872年)10月14日である。

然し、開業当時の起点駅たる汐留駅は今日停車場として存在しない。

明治3年(1870年)4月19日に、民部省内部に鐵道掛が設置され、築地尾張藩邸下屋敷跡を活用し、該地に事務所を開設が我が国史上に於ける鉄道事始(てつどう ことはじめ)に相当する。

初代新橋停車場-品川停車場間建設は、兵部省用地通過が認められなかった事から、民部省鐵道寮は、已む無く現在の田町駅付近に存在した旧薩摩藩邸から八ッ山下まで東京湾岸に築堤を設置する工法を採用する事に決定した。

然し、現地に於ける該工事は海上に築堤を構築すると云う、欧米ですら具体的先例無き工法を用い、該工事では悉く難航させられる。


嘉永6年(1853年)7月8日に、アメリカからマシュー・ペリー(Matthew PERRY)(1794年(寛政6年)4月10日~1858年(安政4年)4月10日)海軍大佐は、フリゲート型軍艦4隻を率い太平洋を横断し来航し、我が国に対し高圧的態度を以って開国を要求してきたが、翌嘉永7年(1854年)2月13日に今度は同型艦8隻を率い再来航し、幕府はアメリカ側の恫喝的開国要求に屈し、同年3月31日に神奈川に於いて、我が国にとって一方的で屈辱的内容な 日米和親條約(にちべい わしんじょうやく)(Convention of Peace and Amitey between the United State of America and Empire of Japan)の締結を以って、我が国は開国を余儀無くさせられる。

他方、我が国国内に於いて尊王攘夷論勃興と共に、幕府は京都朝廷との間に、数年以内に該條約を破棄し改めて諸外国間に対し攘夷断行を誓約した手前、攘夷実行時に於ける江戸城防備に要する防塁設置が決定し、此れに基き、嘉永6年(1853年)から韮山代官 江川英龍(えがわ ひでたつ)(享和元年(1801年)6月25日)~安政2年(1855年)3月4日)を作事奉行に任命し、江戸湾品川沖に台場建設が開始された。

幕府は、当初計画に於いて臺場設置を12箇所を予定していたが、幕末に於ける幕府財政逼迫から該工事は遅々として進まず、幕府は大政奉還(たいせいほうかん)(慶應3年(1867年)11月9日)の時点で7箇所完成の状態で工事は中止され、明治維新以降に於ける台場は省みられる事も無く半ば打ち果て放置された状態だった。


英國人エドモンド・モレル(Edmund MOREL)(1840年(天保11年)1月17日~1871年(明治4年)11月5日)が横濱港に上陸したのは明治3年(1870年)4月9日である。

モレルは鉄道技師で、日本政府の招聘に依り来日した。


民部省鐵道寮は、東京方起点候補として濱離宮海軍根拠地跡地転用を明治3年(1870年)5月5日附で請願した。
更に、現在の汐留地区には幕末まで龍野脇坂家、仙台伊達家、及び、會津松平家諸藩の下屋敷が存在した。
伊達家、及び、松平家は戊辰戦争の際に幕府方として朝廷側と戦った事から明治維新以降は朝敵と看做され、脇坂家屋敷と共に公収され政府管理地になっていた。

政府は、民部省鐵道掛の要請を受け、同年5月6日に、東京府、品川縣、及び、神奈川縣に対し、東京横濱間鐵道建設測量を令達した。
此れを受け、民部省鐵道掛は、同月12日に鉄道停車場工事を開始し、同月14日に起点たる新橋汐留に於いて、英国人鉄道技師 ジョン・ダイアック(John DIACK)( ? ~1900年(明治33年))が記念すべき第1抗を打ち込んだ。

然るに、兵部省は鉄道建設工事が具体性を帯びるに及び、同月31日に民部省鐵道掛に対し停車場用地変更抗議申入をしたが、此れに対し民部省が無視した事から、兵部省は政府に対し翌6月24日に該工事に対する中止要求が提出された。
然し、民部省は該計画を中止させる事も無く、そのまま工事を進行させた為に、翌7月には、政府に対し、第2代兵部大輔 前原一誠(まえばら かずなり)(天保5年(1834年)4月28日~明治9年(1876年)12月3日)(明治3年(1870年)1月3日~同年9月28日在任)名を以って鐵道建設反対建議書を提出し、8月に民部省鐡道掛が計画していた濱離宮芝新銭座海軍操練所、及び、高輪兵部省管理地に対する測量立入を拒否する事態に至った。

兵部省の予想を超えた強硬な態度に驚愕させられた民部省鐡道掛は、当初計画では東海道沿道に路線敷設に設定していたが、測量立入すら叶わぬ事態に困惑させら、改めて計画を白紙に戻し再検討した処、現在の田町駅付近に所在した旧薩摩藩邸付近より八ツ山下付近に至る区間を、東京湾上に築堤を構築し通過させる大胆な計画案を採用決定した。

築堤工事が開始されたが、然し、前述した幕末に臺場設置の為に大量の土砂を必要とした事から、当時の江戸湾を浚渫して土砂を入手した事実を知らずに工事を進行させた状態で盛土構築し、翌朝満潮時に該盛土が全部消失する等々、工事の困難が待受けていた。

石材は、最終的に第7番臺場を解体取壊し、該臺場から余剰石材を活用したが、不足分は神奈川縣下根府川村石材を舟運で品川沖に運搬し使用した。

新橋-横濱間開通時に敷設された軌条は、英國DARLINGTON IRON社が製造した双頭式錬鐡製で1本7.3m(24ft)で構成されていた。

該区間に於ける軌条敷設は明治3年(1870年)11月に着手された。

錬鐡(れんてつ)とは鋼鐡出現前の鐡材で、1889年(明治21年)にフランス・パリに於いて開催された第4回万国博覧会の為に建築されたエッフェル塔(La tour EIFFEL)は錬鐡構築物の代表的建築物だが、材質的観点から見て軟性質の為に耐久性に於いて問題を内包し、明治20年代に東海道本線大河川に架橋された英國製錬鐡ワーレントラス橋梁群は、大正初期になると次々と架替が実施され、地方路線たる長井線最上川橋梁や小田原電気鉄道(現 箱根登山鉄道)出山橋梁に転用され現在も使用されているが、軌条に至っては錬鐡材利用としては最も不適当な製品であり、敷設後、著しい磨耗現象が原因で概ね2~2年半で交換を余儀無くさせられた。


該区間鉄道建設工事に於いて、途中区間たる品川-横濱間工事が先行竣工した事から、明治5年(1872年)6月12日に該区間が先行仮開業した。

然し、該開通時点ですら新橋-品川間完成は全く目処すら立っておらず、前途は多難だったが、同年9月には築堤石垣構築を除き該区間工事が殆ど竣工を見た。

築堤工事区間は高輪築場(たかなわ ちくば)と称され、全長26533m(1460間)、全幅6.4mを有し、後の複線分用地を考慮した施工だった。

築堤外海対浜辺との連絡を要する事から、本芝雑魚河岸、芝田町表、第1高輪新堤、第2高輪新堤間に海浜連絡橋梁が設置され構成され、本芝雑魚河岸に至っては大東亜戦争終結後も海浜部一部が残存していた。


かくて、明治5年(1872年)10月14日、初代新橋-品川間開通を以って新橋-横濱間が全通した。


我が国に於いて、太陽暦採用実施は明治6年(1873年)1月1日で、旧太陰暦で明治5年12月3日だった。

政府が太陽暦採用に踏切った背景に、鉄道開通に伴い時間制を導入した結果である。

即ち、太陰暦は夜明けから日の入に至る間を約6分割し1間を1時(いっとき)としていた事から、春夏秋冬に於ける昼夜に於ける区分に差が大きく、且つ、太陰暦には分秒の概念が存在しない為に、太陽暦採用は鉄道運営に於いて列車運行上、絶対必要不可欠だった事が原因である。


新橋-品川間は、早くも、明治9年(1876年)12月1日に複線化され、保安装置として ブロック式電信機(BLOCK TELEGRAPH)が使用された。
同時に、該途中に田町仮停車場が開設されたが、何故か理由は定かでは無いが、該仮停車場は、翌明治10年(1877年)10月1日附で廃止された。
該駅が正式開業するのは、遥かに後年たる明治42年(1909年)12月16日である。


明治7年(1874年)6月15日附で、開業以来、初めて運賃改定が実施された。

即ち、我が国に於いて、明治4年(1871年)6月27日に新貨条例が公布された事で、江戸期以来の両制度が廃止され近代日本に於ける通貨単位たる円制度が施行されたが、それ迄に於ける幕府発行貨幣以外に、各藩発行藩札の流通を政府に拠り統一させたものだったが、鉄道開業時は、未だ旧通貨が流用していた時代だった事から、該通貨類を有効と認め窓口に於ける乗車券購入に際し利用可能だった。

然るに、該法施行から3年が経過し、該運賃改定と共に、乗車券購入時に円銭厘以外の通貨使用が不可能になったが、現実には、天保銭(てんぽうせん)流通は明治24年(1891年)12月31日まで使用が認められていた。

開業当時の運賃体系は区間制であり、新橋から品川は3等25銭で、以降各駅毎に15銭増としたものだったが、何故か横濱までは1円だった事から、新橋から横濱に向かう利用者は神奈川駅で下車し、人力車利用、若しくは、徒歩で横濱まで移動した。


初代六郷川木造橋梁は、該架橋位置が汽水域故に橋脚基部腐朽が甚だしい状態になり、列車運転上危険と判断された事から、明治10年(1877年)4月に架替が実施されたが、相前後して他木造橋梁も漸次、錬鉄製橋梁架替が施工され、
会仙川橋梁  明治12年(1879年) 1月  13.04m
金杉橋梁                  7月   4.63m
芝橋梁                  5月   4.63m
雑魚場橋梁  明治11年(1878年)11月 17.67m
田町橋梁               11月    5.79m
が各々更改された。

該橋梁橋桁群は、明治44年(1911年)から開始された複々線化工事の際に鋼鐡製プレートガーダー橋桁に再架替が実施された。


日本(にほん)鐵道會社は、工部省鐵道局線への連絡線として、該社線 東京府北豊島郡岩淵村赤羽付近に分岐点を設定し、該地を起点として赤羽-品川間20.8kmの鉄道建設工事を施工し、該工事は明治18年(1885年)3月1日に竣工し、該日より、該社車輌が乗務員と共に新橋-品川-赤羽間に直通列車運転が開始され、此の連絡運輸の為に、工部省鐵道局と日本鐵道會社間に連絡運輸取扱手続が契約制定された。

品川駅は建設時に於ける当時の兵部省に依る鉄道建設反対の経緯から、八ッ山下の狭隘な土地に停車場を設置せざるを得ず、此れが原因で拡張余地が殆ど存在せず、当時の貨物取扱は現在の山手線電車留置線付近で細々と行っていたが、新橋横濱間に於いて貨物取扱件数が増加し、更に、明治18年(1885年)3月1日に、日本鐵道が現在の山手線一部、及び、赤羽線に相当する区間たる赤羽-品川間を新規開通したが、該社は列車を車輌乗務員共に、新橋-品川間1日4往復乗入を実施したが、他方、当然の結果ながら、貨車取扱件数が激増し、此の為に、該駅に於いて貨車滞留状態が慢性化が現出し駅構内が混乱する事態になった。

更に、甲武(こうぶ )鐵道會社は、明治22年(1889年)4月11日に新宿-立川間を開通させたが、該日より、新橋-品川-新宿-立川間に直通列車1往復が運転開始する事から、該連絡運輸の為に、内閣鐵道局、日本鐵道會社、及び、甲武鐵道會社間に於ける3社間連絡運輸取扱手続が契約制定された。

日清(にっしん)戦争(明治27年(1894年)7月20日~明治28年(1895年)11月30日)勃発に伴い、該状態に危機感を抱いた当時の帝國陸軍は、日本鐵道側から逓信省鐵道局東海道線側に直接連絡させるべく、逓信省鐵道局に建設工事を委託し、現在の山手線大崎駅から東海道本線大井町駅付近に至る短路連絡線を設置し、軍用列車に限定し、品川駅を仲介せず直接相互を連絡させるべく直通運転を可能にした。


該区間に、明治32年(1899年)5月に保安装置として、当時最新式だった双信閉塞式が導入され保安状態が向上する。


今日に於いても親炙されている鉄道唱歌は、正式曲名を 地理教育鐵道唱歌(ちりきょういく てつどうしょうか)と称し、大和田建樹(おおわだ たてき)作詞に依り明治33年(1900年)5月に初版本が出版発売されたものである。

第1番
汽笛一声新橋を
(きてき いっせい しんばしを)
はや我汽車は離れたり
(はや わが きしゃは はなれたり)
愛宕の山に入りのこる
(あたごのやまに いりのこる)
月を旅路の友として♪
(つきを たびじの ともとして)
今日、高層ビルが群立する東京都心部に於いて、東海道本線車窓から愛宕山は望見する事は最早不可能である。

第2番
右は高輪泉岳寺
(みぎは たかなわ せんがくじ)
四十七士の墓どころ
(しじゅうしちしの はかどころ)
雪は消えても消え残る
(ゆきは きえても きえのこる)
名は千載の後までも♪
(なは せんざいの のちまでも)
泉岳寺どころか、やはりビル群に遮られ、手前を縦貫する国道15号線(第1京浜国道)すら殆ど見えない。

第3番
窓より近く品川の
(まどより ちかく しながわの)
臺場も見えて波白く
(だいばも みえて なみしろく)
海のあなたにうず霞む
(うみの あたたに うずがすむ)
山は上総か房州か♪
(やまは かずさか ぼうしゅうか)
後述する明治末期の埋立工事に依り海岸線は遥か遠くとなり、現在では、房総半島どころか東京湾すら見る事は不可能である。


第124代 昭和(しょうわ天皇(明治34年(1901年)4月29日~昭和64年(1989年)1月7日)(昭和元年(1926年)12月25日~昭和64年(1989年)1月7日御在位)が、初代新橋駅を初利用された日時は長年謎とされてきた。

然るに、昭和天皇実記第1巻公刊に拠り、該日が、明治34年(1901年)10月23日である事が判明した。
即ち、神奈川県大磯に在る鍋島直大(なべしま なおひろ)(弘化3年(1846年)10月19日~大正10年(1921年)6月19日)侯爵別邸に於いて、避寒の為に滞在する事が決定され、該日新橋発12時20分発特別列車で大磯まで御乗車されたのが該駅利用の嚆矢とされる。

因みに、鉄道利用第1号は、同年8月8日に避暑の為に上野から日光まで日本鐵道に御乗車されたのが初乗車体験である。


日露戦争後に於ける貨物取扱簡素化を目的として、東海道本線側発着貨車を東北本線側発着に振分をさせる為に、鐵道院は品川駅大改良計画を立案した。
即ち、東京湾に面した該駅旅客ホーム横側を大規模に埋立工事を施工し、大量の土地を取得するもので、此の為に必要な埋立用土砂は、当時の東京府荏原郡大井村、即ち、現在の東京都品川区西品川5~6丁目付近一帯に起立していた二葉山一帯を内閣鐵道院が土地所有者から買収し、該山を切崩し、該土砂を以って該地を埋立地114000haを確保する内容で、明治44年(1911年)6月から該駅構内埋立計画が実行され大正3年(1914年)に完工したが、同時に、該駅本屋改築工事が実施され、大正5年(1916年)5月7日に竣工した。
更に、余剰土砂を活用し品川区権現台地区湿地帯一帯を埋立盛土し、大正4年(1915年)に大井工場敷地が完成する。


呉服橋-品川間は、電車運転開始以来、双信閉塞式が導入されていたが、該閉塞式の特徴は非自動式で停車場間を1閉塞として扱う為に、列車が次停車場に到着確認が無ければ、次列車を発車させられず、列車を頻発運転させる為には自動閉塞式に依る自動信号機導入が不可欠だった。

我が国に於ける自動式信号機採用は、甲武鐵道飯田町-中野間に採用されたが、該信号機は、円盤可動式で動作不良に伴う故障が頻発し、複線区間に於ける信号機故障は、即追突事故併発要因となる事から、その後、該式自動信号機採用区間が無く、鐵道院は自動閉塞式採用にあたり極めて慎重な態度だった。
然し、早急に自動信号機化を要すると判断された事から、大正2年(1913年)2月11日附を以って、呉服橋-田町間に米ホール社製2打腕木式自動信号機が設置され、列車増発が可能になった。

明治42年(1909年)12月16日に烏森(現 新橋Ⅱ)-品川-新宿-池袋-上野間電化工事が竣工し、電車運転が開始されて以来、ボギー式電車は原則通常時間帯は1両、混雑時間帯にのみ総括制御装置装備車輌に依り2両編成で運転していたが、直接制御装置装備車輌が総括制御可能な装置に転換工事が完了した事から、大正5年(1916年)3月1日附時刻改正より、全列車が終日2両編成運転になった。


大正6年(1917年)10月1日に、関東に大型台風が接近し東京府に上陸した。
該台風は、明治43年(1910年)8月の関東大水害に匹敵する規模とされた。
更に、悪い事に、該台風上陸時は満潮時に加え大潮が重複した事で、潮位が標準潮位より平均3.1m上昇し、その為に、東京市内は上野松坂屋付近まで海水が押寄せ、該館は1階が床上浸水し押寄せた濁流は不忍池をも飲込み一帯は水海と化してしまったが、現実には、殆どの市内下町地区は2階に至る水没状態だった。
該台風に拠る死者行方不明者は全国で1324名、重軽傷者は2022名を数え、東京府内に於ける犠牲者は計563名にのぼった。

該高潮の影響で、汐留駅構内に夥しい海水が流入し該駅は完全に水没状態になり、強風の為に貨物取扱ホーム上屋が吹き飛ばされる半壊被害が発生した。
更に、該台風に依る被害に、第1番ホーム内留置中の到着貨物として、綿糸玉130玉、綿20包、空ドラム缶250個、清酒20樽が流失した。

品川駅は、該駅拡張工事着工前は、東海道本線下り用ホーム横築堤下が東京湾岸部分だったが、該工事が竣工し海岸線が遠退いた為に、直接高潮被害を受ける事は避けられた。

即ち、明治43年大水害災害時の教訓が生かされ、被害が拡大せずに収束した。


大正8年(1919年)に、東京駅21時発明石行普通列車に乗車した体験談が文献として現存するが、列車が新橋駅発車後は車窓から見渡す限り月明り以外は全く無く、外は完全に漆黒状態だったとの記述が見られる。
即ち、該当時は新橋から品川一帯に於いては、現在と異なり、手工業、及び、漁師関係者家族居住地であり、当時は日の出が起床兼出発であり、日没と共に帰宅し、テレビは勿論、我が国に於けるラジオ放送開始は大正14年(1925年)3月22日からで、且つ、当時のラジオ受信機は高価で一般庶民が入手可能な物では無く、昭和10年代半ばから空襲警報令達手段として廉価な受信機が発売されて以降の事であり、故に、夜はラジオを囲み家族で娯楽など存在せず早寝が原因故に、照明痕が見当たらず一面漆黒の世界であるのも当然だった。

因みに、一般に電力積算計開発以前に於ける電気料金課金とは、ソケット1個に対し1ヶ月何円何銭と言う形態だった事から、一般人は電気使用過剰に拠る電気代の無駄と云う発想など存在などせず、一般家庭では就寝時以外は外出不在時であろうとなかろうと、照明はつけっ放し状態が当然だった。


鐵道院は、幹線の列車運転を効率円滑化させる目的で、列車区間たる東海道本線東京-國府津間、京都-神戸間、山陽本線神戸-明石間、及び、東北本線田端-大宮間に米ホール社製の2腕式腕木式自動信号機採用を決定し設置試用したが、設置当初から腕木動作不良が頻発し保安装置として信頼性に欠けると判断された事から本採用は見送られ、改めて再検討の結果、米ウェスティングハウス社製の三動型腕木式自動信号機導入を決定し、田町-櫻木町間は大正11年(1922年)1月20日に導入し、それまで停車場間1閉塞で10分間隔運転だったが、自動閉塞導入で運転間隔短縮可能になり6分間隔運転が可能になった。
当時、一部私鉄では色燈式自動信号機が採用されていたにも拘らず、鐵道省が構造動作が複雑な腕木式信号機を採用した理由に、当時の我が国に於いて、色燈式信号機使用に不可欠なレンズや電球の大量生産技術が未熟だった為で、実際に使用開始後は架線柱林立の中で腕木式信号機は識別困難とされ、更に、技術の進歩で、関東大震災後は、レンズ、及び、電球の国産大量生産化が可能になった事から、東京-國府津間は大正15年(1926年)1月24日迄に色燈式信号機に漸次更改された。


関東大震災発生時、川崎-横濱間各所で被害が発生したが、特に、発電所、及び、変電所被害は円滑な電車運転を阻害させ復旧遅延の要因ともなった。

関東大震災発生当時、汐留駅構内は激震に拠り駅本屋を初めとする諸施設に相当の被害を生じせしめたが、該段階に於いて火災発生は発生していない。
然し、当日15時30分頃、東京湾に到達した津波に拠り、該駅構内川岸積卸場が浸水の惧れが生じたが、16時30分頃には津波再来可能性が消滅し職員一同は安堵したとされる。
然るに、銀座築地方面に於いて発生した出火が大火となって延焼し、翌2日1時頃に該駅本屋、東京建設事務所、新橋運転保線事務所、職員官舎、等々に次々と着火し、該駅構内に存在した該施設は、ほぼ全焼した。

該震災に拠り該区間内に於いて被災した蒸気機関車は計10両で、内訳は、汐留駅構内4両、濱松町駅構内1両、及び、品川駅構内5両である。

汐留駅構内
    664 品川機関庫所属 火災木部焼損
  5526 品川機関庫所属 火災木部焼損
  6319 品川機関庫所属 火災木部焼損
  6321 品川機関庫所属 火災木部焼損

濱松町駅構内
 18638 沼津機関庫所属 火災木部焼損

品川駅構内
  8700 品川機関庫所属 脱線傾斜
  3921 品川機関庫所属 脱線
  3951 品川機関庫所属 脱線
  9083 品川機関庫所属 脱線
  7058 品川機関庫所属 脱線

該震災被災の特長として、汐留駅、及び濱松町駅構内で被災機関車が火災延焼に拠るものだったのに対し、品川駅構内被災車輌が、全車輌共に火災は無く脱線だった。

即ち当時の東京市内所在で火災が原因たる被災機関車は、上野駅構内15両、飯田町(現在廃止)駅構内13両、両國橋(現 両国)駅構内6両、錦糸町駅構内6両で、両國橋、及び、錦糸町両駅は隣接地たる事を加味し同一地域と解釈すれば12両となるが、此れらから見れば汐留駅構内に於ける火災被災車は少数と言えた。

寧ろ、品川駅構内に於ける該震災被災車5両は全車輌共に脱線であり、元来、該地が明治末期から大正初期に於ける海面埋立地であり、且つ、該施工後震災発生時は10年前後しか経過せず、以前、当時の文献を精査中に、地震発生と共に水道管が破裂して該付近が水浸しになった、云々、と言う記録を発券したが、此れなど、現在から見れば、明らかに液状化現象であり、当時は液状化現象に対する認識など無い時代故に土地陥没が原因だった。

逆に、他所に於いて、脱線した機関車は、上野駅構内1両、飯田町駅構内1両、、両國橋、錦糸町両駅に至ってはゼロだった。


関東大震災に於いて被災連帯鐵道線貨車の焼失損害に就いて、東武鐵道、西武鐵道、武蔵野鐵道(現 西武鉄道池袋線)、多摩鐵道(現 西武鉄道多摩川線)、常総鐵道(現 関東鉄道常総線)、秩父鐵道、青梅鐵道(現 JR東日本青梅線)、越後鐵道(現 JR東日本越後線)、河東鐵道(現 長野電鉄河東線)、駿豆鐵道(現 伊豆箱根鉄道駿豆本線)、富士身延鐵道(現 JR東海身延線)、三河鐵道(現 名古屋鉄道三河線)、南海鐵道、吉野鐵道(現 近畿日本鉄道吉野線)、簸上鐵道(現 JR西日本木次線)15社は、計48両の貨車損害に、鐵道省に対し損害賠償請求を行った。
此れに対し、鐵道省は大臣官房文書課長名を以って、
大正十二年九月一日関東地方震災火災ノ際省線内輸送中焼損(簸上鐵道會社ニハ「破損」ト書クコト)シタル貴社所属貨車損害ニ関シテハ何等カノ名義ニテ填補方特ニ考慮致候ヘ共何分震災ニ基因スル損害ハ不可抗力ト認ムルノ外無之ニ付輸送中ノ荷物ハ勿論ソノ他一般ニ名義ノ如何ニ拘ラス補償ハ御断リ致居候次第モ有之種々御手数相煩シ候ヘ共コレ等ノ振合上特別ノ取扱致候間不悪知相成度候
大正十五年一月廿六日 鐵道大臣官房文書課長
と、些か高飛車とも取れる内容の公文書を以って回答した。

因みに、関東大震災発生時に、駅構内に於いて列車待合せ、若しくは、列車乗車中に震災が原因で被災し死傷した旅客に対し、鐵道省は震災は不可抗力事項であるとして、一切賠償補償を行わなかった。
従って、大正当時は生命保険制度黎明期であり、故に、生命保険非加入者は正に死に損だった。


該震災の為に、東海道本線は東京-沼津間に被害が発生した事から、該震災発生直後から該区間に於ける列車運行が不可能になった。

比較的被害が軽微だった品川-横濱間、及び、御殿場-沼津間は該震災被災数日後に復旧したが、横濱-國府津-御殿場間は、各地に於いて、築堤崩壊、隧道損壊、及び、橋梁損傷が多数発生し、特に、相模川河口域たる馬入川橋梁は、上下線共に、橋脚損壊倒壊が原因で殆どの橋桁が河川内に落橋し、復旧に至るまで、相当の日時を要する事が確実視された事から、門司鐵道局の提議に拠り、該鐵道局が管理監督する関釜(かんぷ)航路下関-釜山間に於いて使用中の 景福(けいふく)丸3620t、及び、高麗(こうらい)丸3029tを東京に回航させ、横濱港が震災被害で全滅状態だった事から、東京芝浦沖を発着地に決定し、清水港まで該船舶利用に依り臨時連絡航路が開設された。

同月4日11時に鐵道省運輸局長より札幌鐵道局長宛電報に拠り、青森駅桟橋常駐の青函航路用タグボート 七重丸、及び、尾花丸に該駅桟橋船夫33名を乗船させ、準備完了次第直ちに緊急出航し東京品川沖への廻航命令が発信された。

東京芝浦沖17:00→清水港6:00
清水港18:00→東京芝浦沖6:00

該震災罹災者に対し、震災救護事務局、若しくは、地元市区町村役場発行に依る震災罹災証明書を交付し、該震災罹災者は、該証明書を田町駅に持参し、該駅に於いて、無料乗船証を発給した。
該乗船証を発給された罹災者達は清水港を中継し、江尻駅(現 清水駅)以西目的地まで3等に無料乗車船が可能だった。
鐵道省は、景福丸2500名、高麗丸1500名を乗船限度定員として同月6日公示、翌7時日より実施した。

該臨時航路開設時は、両船内に於ける1、2、3等施設に関係せず全員一律に乗船させたが、運良く1、2等船室に乗船した罹災者が船内高級備品窃取事件が発生した事から、同月11日以降出航便に対し、景福丸1800名、高麗丸1200名を乗船限度定員とし、1、2等乗船希望者は運賃を有料として設定させた。

横濱港は懸命の復旧工事の結果、同月27日に仮復旧工事が完工した事から、該港出入港が可能になり、此の為に、翌28日より東京芝浦沖発着に代り、該港発着に変更された。

因みに、倒壊した馬入川橋梁は同年10月28日附で木造木組構造で仮復旧工事が竣工し、茅ヶ崎-平塚間は単線ながら列車運行が可能になった事から、該臨時連絡航路は同日を以って廃止された。

また、同日に東京-品川間の電気設備復旧工事が完成し、京濱線電車を運行させる為に、従来の直流600Vから直流1200Vに昇圧された事で、該区間に山手線用600V専用車輌は入線不可能になり、乗換客の為に品川駅は大混雑を呈する様になった。


電車運転開始以来、途中停車駅に於ける停車時間は、他客車列車同様、最低2分以上とされていたが、然し、関東大震災以降、それ迄は市内在住者が新規に郊外に住居を求める傾向が強まった関係で、ラッシュ時に於ける電車の混雑が激化し、停車時間を2分とする事が必ずしも実態にそぐわぬ実態から、鐵道省と東京鐵道局は検討した結果、それ迄の各駅停車時間を2分から指定駅以外の停車時間を20秒に短縮する事に決定し大正14年(1925年)に実施した。

更に、それ迄の乗客には乗車マナーなど確立しておらず、客自身は他乗降客に関係せず個々身勝手に乗降していた為に混乱が避けられぬ状態だったが、20秒停車を前に、降車を先、乗車は後とする指導を行い、少なくとも該原則が当時の鐵道省線区間に於ける電車運転区間の東京、及び、神奈川県内に於いて行列乗車が確立させた。


東海道本線列車線電化工事が竣工し、大正14年(1925年)12月13日より、東京-國府津間が直流1500V電化されたのを受け、同日より、京濱線東京-櫻木町間も、従来の直流1200Vから直流1500Vに昇圧された。


鐵道省は、電車客用扉自動開閉化工事を推進していたが、昭和4年(1929年)7月19日迄に、京濱線、及び、山手線電車全車輌客用扉に対し自動化が完了した事から、それ迄、中間車に配置していた客用手動扉開閉の為に1車1名乗務させていた中間車掌は客用扉自動化完了に依り、翌20日より後部運転車掌以外の車掌乗務を廃止した。


汐留-品川間貨物線は周囲の路線が電化後も長らく非電化で取り残されていたが、昭和3年(1928年)12月7日附で電化された。

然し、該区間電化当時、鐵道省にF型貨物用電気機関車は未だ登場しておらず、EF10型貨物用電気機関車登場は昭和9年(1934年)であり、D型貨物用電気機関車も必要絶対数が不足していた事から、該区間貨物列車相当数に蒸気機関車牽引列車が残存した。


昭和11年(1936年)7月27日、独逸の首都ベルリン ホテル・アドロンに於いて開催されていた国際オリンピック委員会総会で、1940年(昭和15年)第12回夏季国際オリンピック開催地は東京に決定された。

鐵道省は、該決定を受け、該オリンピック開催期間中に於ける観客輸送対策の一環として、東京-品川間3複線化を決定した。

即ち、該区間に於いて、当時は電車運転上で線路共有していた、京濱線、及び、山手線運転を分離すると共に、横須賀線電車を京濱線線路を使用して該区間を各駅停車とする 京濱急行(けいひん きゅうこう)の名称で運転する為に、品川駅構内東京方に東海道本線乗越橋建設工事が開始された。

然るに、同年7月7日に北京郊外盧溝橋に於いて支那軍側から不法一斉射撃を発端として日華(にっか)事変(昭和12年(1937年)7月7日~昭和16年(1941年)12月8日)に拡大し、我が国は準戦時体制に移行し、殊に、陸軍上中層部から該オリンピック開催に反対論が噴出した事から、昭和13年(1938年)7月15日に、我が国は該オリンピック開催返上を決定したが、該乗越橋一部が竣工したにも拘らず78年間列車が走る事も無く、品川駅構内再開発工事の関係で本年たる平成27年(2015年)春に解体工事に着手した。

因みに、現在、横須賀線に於いて使用中の217系電車の裾帯の青白色は、中止になった該オリンピック・コーポレートカラーを使用している事は知られていない史実である。


大東亜戦争中に完成した東海道本線品川駅臨時列車用ホーム2本は、主に、軍用専用列車、及び、児童疎開専用列車用に使用されたが、作家 大岡昇平(おおおか しょうへい)(明治42年(1909年)3月6日~昭和63年(1988年)12月25日)の作品 出征(しゅっせい)に於いて、昭和19年(1944年)6月に、著者が軍用列車に乗車して広島市内宇品線宇品港に移動する際の該駅に於ける描写が描かれている。


大東亜戦争中の該区間空襲被害は、
昭和19年(1944年)
11月29日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 B29戦略爆撃機計24機
 警戒警報発令 23時25分
 空襲警報発令 23時45分
 空襲開始    23時55分
 空襲警報解除  2時45分
 警戒警報解除  3時15分
汐留駅構内線路班小屋焼損

昭和20年(1945年)
 3月 9日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦絡爆撃機計279機 東京大空襲
 警戒警報発令 22時30分
 空襲警報発令  0時08分
 空襲開始    0時15分
 空襲警報解除  2時35分
 警戒警報解除  3時35分
該記述を見て気づかれた方も多いと思われるが、空襲警報発令時刻に先立ち、空襲開始時刻が先行しているのは誤記では無い。
即ち、当時の関東地区防空業務は陸軍東部軍管区が担当していたが、諸情報から当日夜の東京地区空襲は必須と判断されていたにも拘らず、各方面から該本部に対し、再三に亙り空襲警報発令要請が届いていたが、その都度、当直陸軍参謀将校は悉く該要請を却下し、然も、火急の時にも拘らず、部下が上げた報告書に朱を入れる等々、事実、誰の目にも空襲が開始されている状態で、部下に空襲の事実確認をさせると言ふ、愚かにも間の抜けたマニュアル通りの行動を執った為に、空爆後7分経過後に空襲警報発令がされると言ふ本末転倒な事態となり、該時点で本所区、及び、城東区は火の海状態だった。
それ故、空襲被災地域住民達は、警戒警報は認知していたものの、空襲警報無き状況で、いきなり空爆が開始された為に、当初は何が発生したのか全く理解出来ず、事前退避行動に移る事も叶わぬまま人的被害を拡大させた。
当時、警視庁警務部警務課長 原 文兵衛(はら ぶんべい)(大正2年(1913年)4月29日~平成11年(1999年)9月17日)は、空襲警報発令直前に下町方面に火の手を現認したが、本所、深川、浅草、各区内所在警察署から電話報告が無く、洲崎警察署に至っては署長以下署員全員焼死殉職していたと回顧している。
戦争末期の異常事態下でありながら、陸軍内部の悪弊が通用していた典型が原因である。

該空襲の結果、東京大空襲に於いて、特に、米陸軍航空戦略部隊に依る主要攻撃目標地区となった都区内下町各箇所被害が顕著であり、該主要攻撃対象区間に属する総武本線御茶ノ水-新小岩間被害が著しかった。

空爆開始と共に、コンクリート構体内部に囲繞構築された駅構内が安全なりと考えるのは極めて自然な発想であり、該地を目標に次々と人々が避難して来た。

家財道具一式を持ち込む者も少なくはなかったが、関東大震災体験者は、此れら家財道具一式に着火し、被害を大きくした事を記憶している世代の者達は身一つでの避難したが、現実には、莫大な量の焼夷弾攻撃の前に、爆発した火が集合し大火砕流に至った事から、此れらから逃避する術は殆ど不可能であり、避難者達の頭上に大火砕流が押寄せ、鎮火後、錦糸町、亀戸、及び、平井各駅構内には無数の焼死体が山積み散乱状態なる惨状を呈していた。

5月24日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計520機
 警戒警報発令  1時05分
 空襲警報発令  1時36分
 空襲開始     1時39分
 空襲警報解除  3時38分
 警戒警報解除  3時55分
該空襲で汐留、新橋、及び、品川各駅に被害が発生。
品川駅構内被災車輌
  オロ35 34(広セキ)小破

5月25日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊B29戦略爆撃機計464機
 警戒警報発令 21時47分
 空襲警報発令 21時58分
 空襲開始    22時38分
空襲警報解除  1時20分
警戒警報解除  1時45分
該空襲で汐留駅は再度被災し、駅本屋以外の殆どの構内施設が焼失した。
田町電車区留置
 モハユニ44005 + サハ48011 + サハ48026 + モハ32026
焼夷弾直撃に依り全焼。
被災したサハ48型2両は、大東亜戦争後、当時の大東京急行電鉄に払下げられ、該社が分割時に小田急電鉄に引継がれ、台枠のみ活用され、昭和25年(1950年)に該社特急専用車として再生活躍した。
  

東海道本線客車取扱は、従来は東京駅八重洲側に存在したが、品川に損ざし他貨物取扱を全面的に新鶴見操車場に移転させ、遊休地化した貨物取扱跡地を活用し、客車取扱を東京駅八重洲側から品川駅構内に移転させる事を決定し、緊急案件として、大東亜戦争中も工事は継続し、該工事は昭和20年(1945年)8月に竣工した。


前述した様に、品川客車操車場は、大東亜戦争終結直前たる、昭和20年(1945年)8月10日に竣工したが、終戦と同時に我が国に連合国軍隊が進駐し、連合国軍輸送の為に活用させられる。

品川地区には、品川駅、品川機関区、及び、品川客車区に対し、同年9月21日附でRTOが設置され、昭和27年(1952年)3月31日まで存在した。

大東亜戦争中に運用中止となった優等客車群は連合国軍の空襲被害を避け、京成電気軌道(現 京成電鉄)上野線隧道内他、各地に分散疎開させていたが、無事だった車輌は直ちに品川に回送され徴発された。

1等寝台車    残存車輌15両中13両 
1.2等寝台車 残存車輌10両全車輌
2等寝台車   残存車輌51両中25両
食堂車     残存車輌24両中23両
1等展望車   残存車輌 5両全車輌


連合国司令部から指示された必要工事として、1等車へのシャワー設置工事、冷房機器搭載工事、等々、があり、該工事は当初は大井工場、後に、大船工場が担当した。

同年10月から列車蒸気暖房使用の為に、高圧蒸気送気を開始した。
蒸気暖房とは、蒸気機関車に於いて発生する高圧蒸気5気圧を編成客車に対し送気させ車内暖房とするもので、明治33年(1900年)12月に新橋-神戸間に最急行列車運転に際し使用開始したもので、該方法に依り一部の混合列車を除き、全国の旅客列車に於いて実施されていた。
然るに、大東亜戦争苛烈化と共に、石炭を多量に費消する事から、使用期間、及び、時間が大幅に短縮されていた。

昭和19年(1944年)1月、大阪、福山方面に国民慰問の為に 特別急行 富士 の1等展望車に乗車した東京の漫談家 古川ロッパ(ふるかわ ろっぱ)(明治36年(1903年)8月13日~昭和36年(1961年)1月16日)は、東京駅13時30分出発時に1等車内にすら暖房が入っておらず、浜松停車時に暖房投入されるまで、1等利用者が車内でコートを着て寒さに震える描写を日記に残している。
当時の暖房使用規定は11月20日より翌年3月15日の17時から翌日6時までだったが、現実的には石炭質悪化に依り、機関車から客車に高圧蒸気を送気など事実上不可能な状態だったが、進駐軍専用列車相手では暖房使用を断る事など許されず、通常時に於ける送気圧を5気圧から8気圧に上昇させる為に、送気の為にゴムホースを特注品の厚手に交換し実施した。
然し、該蒸気送気は、牽引機関車から送る為に、客車編成後部になるに従い、暖房効果低下は避られず、10両以上客車を連結した編成では著しく暖房効果が低下し、此の為に連合国軍側から度々車内暖房効果が低いとの苦情が寄せられた。
特に、該列車に連合国軍高官が乗車時など、わざわざ編成末端に暖房車 スヌ を連結し、編成先頭に向い高圧蒸気を送気させる事で対処させた。


修学旅行は明治期に於ける学校教育が拡充する過程の中で実施校が増え、旧制中学校、及び、旧制女学校に於いて実施先鞭をつけた。
日華事変以前であれば、一般列車に団体専用客車を増結し対処したが、該事変以降は軍事輸送増加の為に必要客車が捻出出来ず、学生団体が一般客と混乗を余儀無くされる時代となった。

大東亜戦争終結後も早期に修学旅行が復活したが、当時の長距離列車は押し並べて混雑しており、一般客から見れば修学旅行団体客は混雑に拍車をかけるだけの迷惑な存在だった。

昭和20年代後半ともなると客車に余裕を見せた専用客車が用意可能な時代となったが、東海道本線筋発学生団体に対しては概ね優良車が用意されたが、関東に於いて、高崎、水戸、及び、千葉鉄道管理局内発学生団体は、鋼製車とは名ばかりの60系を主体とする超ポンコツ車輌が使用され、該車輌に長時間乗車の苦難に耐えなければならなかった。

日本国有鉄道は利用債を募集し、155系(82系)修学旅行専用電車を開発投入した。

該車輌使用区間は品川-京都間で一般客と混乗する事もなく移動可能だった事から利用客から好評だった。

品川駅に団体専用待合所が設置され、臨時ホームから発着した。

昭和39年(1964年)10月1日に東京-新大阪間に東海道新幹線が開通した。

該新幹線開通時は全列車12両編成で、毎時、ひかり号1本、こだま号1本計2本が運転されたが、全列車共に全車指定制だった為に、学生団体はおろか、一般団体を受容れる余地など存在せず、修学旅行で新幹線利用など望むべくも無かった。

然し、利用者増加から新幹線本数も増加を見せ、更に、昭和45年(1970年)に大阪千里丘に於いて大阪万国博覧会が開催されたが、該博覧会に合せ、ひかり号は全列車が12両から16両編成化され、こだま号に自由席が設定された事から、該博覧会閉幕後に輸送に余裕が生じたが、当時は文部省令に拠り、修学旅行等々に於ける当該都内公立中学校は72時間、都内公立高校は96時間以内の帰着規定が存在した為に、学校側も列車移動時間の短縮が本音であり、各方面からの要望を受け、新幹線に依る学生団体乗車を認定する事に決定し、昭和46年(1971年)4月1日から施行された事から、東海道本線で運転された修学旅行専用電車 きぼう ひのでは必然性が喪失したものと位置付けられ、同年10月26日に廃止された。


昭和30年代後半当時の上野駅は盆暮期に於ける帰省客が殺到し、該駅構内混雑が激化し混乱が避けられぬ状況が現出したが、他方、品川駅列車線ホームは大東亜戦争中の構内改良工事に依り臨時ホームが存在し余裕が生じていた事から、此の為に、該時期に限定し、東北奥羽方面行の一部普通急行列車を通常の上野発を品川発に変更して東北新幹線上野開通時まで対処させた。


昭和47年(1972年)10月14日は、新橋Ⅰ-横浜Ⅰ間鉄道開業100周年だった。

此の為に、日本国有鉄道では、該日、及び、翌15日の2日間に亘り、当時に縁を有する汐留-東横浜間に記念臨時列車を運行する事に決定した。

即ち、当時、天王寺鉄道管理局紀伊田辺機関区配置の蒸気機関車 C57型1号機、及び、水戸鉄道管理局水戸客貨車区配置のスハ32系客車を借用し、特に、32系客車窓下に旧3等識別たる赤色帯を装飾し該区間を往復運転させた。


時代は下り、昭和61年(1986年)10月31日附を以って、汐留駅営業は廃止されたが、然し、保存駅として線路は撤去されず残存され」た。

昭和62年(1987年)4月1日0時、日本国有鉄道は民営分割され、汐留駅に梅小路機関区から搬入されたC56160号機関車の汽笛鳴吹と共に該駅歴史115年に終止符をうった。


汐留駅跡地は日本国有鉄道清算事業団が管理する事になった。

然るに、当時はバブル真っ最中だった事から該組織に依る売却は認められず、土地をリースする単純な発想すら無い情勢だった事から、旧国鉄債務は激増する一方だった。

東京都教育委員会は、汐留地区開発着工前に該地に於ける発掘を決定し、平成3年(1991年)6月に開始し、平成12年(2000年)まで該跡地全体が発掘対象となった。

その結果、驚くべき事に、該地に明治初期に於ける鉄道施設設置状態が平成になり浮き出て来たという空前絶後の状態が現出し話題になった。


日本国有鉄道が経営破綻し、昭和62年(1987年)4月1日附で民営分割化を余儀無くさせられた背景に、遠く大正期、我が国は第1次世界大戦(だいいちじ せかいたいせん)(大正3年(1914年)7月28日~大正7年(1918年)11月11日)に於いて第3次日英同盟條約を根拠に聨合国側として参戦し、ヴェルサイユ講和会議(大正8年(1919年)1月18日~同年9月10日)に於いて戦勝国として敗戦国側から巨額な戦時賠償金を獲得したが、他方、当時の我が国は、2大政党として、民政党、及び、立憲政友会が存在したが、両党は政策方針の相違が著しく、政権獲得の都度、該方針の為に国内外に於いて混乱を招いた。

即ち、鉄道に関しては、該賠償金を元手に、民政党が財閥を背景とする重化学工業生産物輸出に依る外貨獲得を主眼とし、当時の狭軌を標準軌に改築する事で幹線輸送量を増大化させ産業活性を具現させようとしていたのに対し、立憲政友会は地方を主票田母体とする政党で、特に、大正14年(1925年)5月5日施行に依り、有権者が増加し、地方票が増え立憲政友会が躍進する状況下に於いて、該改軌案は葬り去られ、当時ですら、人口希薄地域に対し、次々と路線を敷設させ、該地域は官立鉄道施設が該地方での負担は絶無に均しく、半ば漁夫の利を得るが如き状態だった。

大東亜戦争末期、当時の鐵道省は、遊休施設と化した閑散線区軌条類等々の資材転用を目的とする該線区休止を実行したが、当時の鐵道省も半ば持余していた該線区休止処置は正に正鵠を得たものだったが、戦争終了後、此れら営業休止線区の大半は、地元のゴネ得に依り殆どの路線は復活させられ、結果的に、特別幹線や大都市圏内路線に於いて黒字を計上するも、該閑散線区の為に赤字補填を理由に黒字利益が転用された事で、赤字幅が増幅された。

更に、戦争終了後、進駐軍命令に拠り内務省が解体され、該省土木局は運輸省の国土庁に組織編入され存続したが、該官庁は、戦後に於けるモータリゼーションの一環として、国産自動車を外貨獲得の輸出産業として奨励し、一方で道路整備を奨励した事から、昭和20年代末期ともなると交通機関としてのトラック進出が甚だしい状態となった。

当時の日本国有鉄道は、大正期から昭和初期にかけて地方線区設置を優先した為に、本線と言えども全線複線は東海道、及び、山陽のみで、他幹線は支線と共に単線区間が普遍的状態だった。

当時の地方幹線は列車本数が現在より遥かに少ない事もあり、慢性的混雑状態だったが、毎年夏期ともなると臨時列車設定を巡り、旅客対貨物間でしのぎを削る状況だった。

然るに、昭和35年(1960年)に、信越本線貨物用臨時列車設定で、貨物側から旅客側に対し、該年夏期臨時貨物列車運転は不要と為に、該貨物列車分は旅客列車用に引渡すとの連絡を受けた。

即ち、当時の該線長野県内は、軽井沢以西は全線単線で貨物列車は100%蒸気機関車牽引だった事や、横川-軽井沢間がアブト式と言ふ特殊な運転方法を使用し、且つ、車輌の連結数が制限されていた事から、長野県側たる軽井沢駅は貨車滞貨が常態化し、遅延も原因となり、折角積込んだ生鮮野菜類が、該牽引蒸気機関車から排出される熱気と蒸気の為に、東京市場到着時に高級野菜が棄損商品として該市場から安値で買叩かれていた為に、生産者は輸送方法の抜本的転換を真剣に考えなければならなかった。

既に、地方に於いてもトラック進出は目覚しい物が在ったにも拘らず、国鉄貨物輸送担当者は目先の事に固執し、将来的構想など皆無な状態であり、更に、貨物拠点輸送実施と称し、的外れで巨額な資金を投資し、無駄とも言える巨大貨物ターミナルを次々と完成させ、結果的に国鉄末期に不要施設として閉鎖統合を併発させ、かの組織を破綻に追い込んだ責任は大である。



表紙写真は、
復元初代新橋驛本屋




東海道本線歴史的痕跡探訪記
~東京-濱松町間編 明治頌歌~
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~東京驛編~

~汐留-濱松町-品川間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10797199
~品川-川崎間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10502858
~川崎-横濱間編 明治頌歌~
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~横濱駅移設変転史編 明治頌歌~
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~横濱-大船間編 明治頌歌~

~大船-平塚間編 明治頌歌~

~平塚-國府津間編 明治頌歌~

~國府津-根府川間編~
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~丹那隧道完成秘話 丹那隧道碑文から読み取れし或る歴史的事実~
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~丹那隧道完成秘話 三島口建設工事鉄道線探訪記~
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~熱海-沼津間編~

~沼津駅驛編~
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~沼津港線編~
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~豊橋-岡崎間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10870287
~岡崎-大府間編 明治頌歌~
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~大府-名古屋-尾張一宮間編 明治頌歌~
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~名古屋驛編~

~尾張一宮-岐阜-大垣間編 明治頌歌~
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~美濃赤坂支線編~
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~関ケ原-米原間編 明治頌歌~
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~関ケ原-深谷-長濱間/深谷-長岡(現 近江長岡)間(廃止線)編 明治頌歌~
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~膳所-稲荷-京都間(廃止線)編 明治頌歌~

~膳所-山科-京都間(現行線)編 大正浪漫~
http://4travel.jp/travelogue/11157106
~京都驛編 明治頌歌~

~京都-向日町間編 明治頌歌~

~向日町-高槻間編 明治頌歌~

~高槻-茨木間編 明治頌歌~
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~茨木-吹田間編 明治頌歌~

~吹田-淡路-大阪間(廃止線)編 明治頌歌~

~吹田-新大阪-大阪間(現行線)編 大正浪漫~

~大阪駅周辺編~

~大阪-西宮間編 明治頌歌~
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~西宮-灘間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11321266
~灘-神戸間編 大正浪漫~
https://4travel.jp/travelogue/11245946

旅行の満足度
4.5
交通
4.5
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 汐留(しおどめ)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />該駅開業は、明治5年(1872年)10月14日である。<br />該建造物建築開始は明治4年(1871年)3月21日で同年11月14日に竣工した。<br />総工費2291両3分55文を要した。<br />開業当初は新橋(しんばし)停車場と称していたが、大正3年(1914年)12月20日附で東京駅開業と同時に、従来の烏森(からすもり)駅が第2代目新橋駅に名称変更され、該駅は、爾来、汐留驛に改称され貨物取扱専用駅になった。<br />然るに、貨物取扱設備は旧駅時代施設を継承していたが、該状態では如何にも使い出が悪く、此の為に、鐵道院では、該駅大改良工事施工を決定し、大正5年(1916年)5月1日に該構内配線大改良工事に着手し、同月22日迄に旧旅客ホームを解体撤去し、跡地に貨物積卸場を設置した。<br />更に、同年10月23日に埠頭クレーン設置工事が竣工し、艀間との貨物受授が飛躍的に効率化された。<br />翌大正6年(1917年)9月には、ガントリークレーンが新設され、それ迄人力に頼り1日を要していた大型貨物移動が僅か35分で移動完了可能になった。<br />関東大震災発生時に、該駅構内は、激震に依り駅本屋を初めとして、構内諸設備に大破損壊被害こそ発生したが、該時点に於いて火災被害は発生していない。<br />更に、震災当日15時30分頃に、東京湾岸内に到達した津波は、該駅構内会仙川岸積降場浸水の可能性が懸念されたが、同日16時30分に、津波の可能性は消滅し、職員一同安堵していた。<br />然るに、銀座京橋方面で出火した火災は近隣各地を巻込み、火砕流と化し、翌2日1時頃、該駅構内に着火し、駅本屋、東京建設事務所、新橋運転保線事務所、鉄道職員官舎等々に次々と延焼し、該構内施設の殆どが全焼した。<br />該駅本屋は、昭和11年(1936年)3月に鉄骨鉄筋コンクリートで再建された。<br /><br />東京都中央区東新橋1−5−3<br />東海道本線新橋駅銀座口 徒歩5分

    汐留(しおどめ)駅



    駅本屋
    該駅開業は、明治5年(1872年)10月14日である。
    該建造物建築開始は明治4年(1871年)3月21日で同年11月14日に竣工した。
    総工費2291両3分55文を要した。
    開業当初は新橋(しんばし)停車場と称していたが、大正3年(1914年)12月20日附で東京駅開業と同時に、従来の烏森(からすもり)駅が第2代目新橋駅に名称変更され、該駅は、爾来、汐留驛に改称され貨物取扱専用駅になった。
    然るに、貨物取扱設備は旧駅時代施設を継承していたが、該状態では如何にも使い出が悪く、此の為に、鐵道院では、該駅大改良工事施工を決定し、大正5年(1916年)5月1日に該構内配線大改良工事に着手し、同月22日迄に旧旅客ホームを解体撤去し、跡地に貨物積卸場を設置した。
    更に、同年10月23日に埠頭クレーン設置工事が竣工し、艀間との貨物受授が飛躍的に効率化された。
    翌大正6年(1917年)9月には、ガントリークレーンが新設され、それ迄人力に頼り1日を要していた大型貨物移動が僅か35分で移動完了可能になった。
    関東大震災発生時に、該駅構内は、激震に依り駅本屋を初めとして、構内諸設備に大破損壊被害こそ発生したが、該時点に於いて火災被害は発生していない。
    更に、震災当日15時30分頃に、東京湾岸内に到達した津波は、該駅構内会仙川岸積降場浸水の可能性が懸念されたが、同日16時30分に、津波の可能性は消滅し、職員一同安堵していた。
    然るに、銀座京橋方面で出火した火災は近隣各地を巻込み、火砕流と化し、翌2日1時頃、該駅構内に着火し、駅本屋、東京建設事務所、新橋運転保線事務所、鉄道職員官舎等々に次々と延焼し、該構内施設の殆どが全焼した。
    該駅本屋は、昭和11年(1936年)3月に鉄骨鉄筋コンクリートで再建された。

    東京都中央区東新橋1−5−3
    東海道本線新橋駅銀座口 徒歩5分

    汐留駅

  • 汐留駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />全景<br />該駅は、昭和61年(1986年)11月1日附で廃止された。<br /><br />東京都港区東新橋1−5−3<br />東海道本線新橋駅銀座口 徒歩5分<br />

    汐留駅



    駅本屋
    全景
    該駅は、昭和61年(1986年)11月1日附で廃止された。

    東京都港区東新橋1−5−3
    東海道本線新橋駅銀座口 徒歩5分

  • 汐留駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />正面<br /><br />東京都港区東新橋1−5−3<br />東海道本線新橋駅銀座口 徒歩5分

    汐留駅



    駅本屋
    正面

    東京都港区東新橋1−5−3
    東海道本線新橋駅銀座口 徒歩5分

    汐留駅

  • 汐留駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />初代駅本屋は、明治4年(1871年)3月21日起工し、翌明治5年(1872年)6月30日竣工とされる。<br />同一図面を使用し横濱駅本屋が建築された。<br />当時の資料は工部省火災に依り現存せず、復元にあたり開業当時撮影の写真を基礎に当時の建築物を復元。<br /><br />東京都港区東新橋1−5−3<br />東海道本線新橋駅銀座口 徒歩5分

    汐留駅



    駅本屋
    初代駅本屋は、明治4年(1871年)3月21日起工し、翌明治5年(1872年)6月30日竣工とされる。
    同一図面を使用し横濱駅本屋が建築された。
    当時の資料は工部省火災に依り現存せず、復元にあたり開業当時撮影の写真を基礎に当時の建築物を復元。

    東京都港区東新橋1−5−3
    東海道本線新橋駅銀座口 徒歩5分

  • 汐留駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />側面<br /><br />東京都港区東新橋1−5−3<br />東海道本線新橋駅銀座口 徒歩5分

    汐留駅



    駅本屋
    側面

    東京都港区東新橋1−5−3
    東海道本線新橋駅銀座口 徒歩5分

  • 汐留駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />側面<br />該建築物復元後は内部一部を鉄道歴史展示室として公開。<br /><br />東京都港区東新橋1−5−3<br />東海道本線新橋駅銀座口 徒歩5分

    汐留駅



    駅本屋
    側面
    該建築物復元後は内部一部を鉄道歴史展示室として公開。

    東京都港区東新橋1−5−3
    東海道本線新橋駅銀座口 徒歩5分

    汐留駅

  • 汐留駅<br /><br /><br /><br />ホーム<br />該ホームは該駅開業時の物を復元物。<br />明治4年(1871年)9月2日に着工し、翌明治5年(1872年)6月30日に竣工した。<br />総工費は8767両2分216文以外に外貨墨洋銀25$を要した。<br /><br />東京都港区東新橋1−5−3<br />東海道本線新橋駅銀座口 徒歩5分

    汐留駅



    ホーム
    該ホームは該駅開業時の物を復元物。
    明治4年(1871年)9月2日に着工し、翌明治5年(1872年)6月30日に竣工した。
    総工費は8767両2分216文以外に外貨墨洋銀25$を要した。

    東京都港区東新橋1−5−3
    東海道本線新橋駅銀座口 徒歩5分

    汐留駅

  • 汐留駅<br /><br /><br /><br />0キロポスト<br />明治3年(1870年)5月14日に英國人鉄道技師 ジョン・ダイアック(John DIACK)( ? 〜1900年(明治33年))が第1杭設置跡。<br />第1回鉄道記念物指定。<br /><br />東京都港区東新橋1−5−3<br />東海道本線新橋駅銀座口 徒歩5分

    汐留駅



    0キロポスト
    明治3年(1870年)5月14日に英國人鉄道技師 ジョン・ダイアック(John DIACK)( ? 〜1900年(明治33年))が第1杭設置跡。
    第1回鉄道記念物指定。

    東京都港区東新橋1−5−3
    東海道本線新橋駅銀座口 徒歩5分

    汐留駅

  • 汐留駅<br /><br /><br /><br />双頭軌条<br />英DARLINGTON IRON社製造<br />錬鐡製<br />1本7.3m(24ft)<br />新潟県柏崎市内に存在した専用線に残存品を流用。<br /><br />東京都港区東新橋1−5−3<br />東海道本線新橋駅銀座口 徒歩5分

    汐留駅



    双頭軌条
    英DARLINGTON IRON社製造
    錬鐡製
    1本7.3m(24ft)
    新潟県柏崎市内に存在した専用線に残存品を流用。

    東京都港区東新橋1−5−3
    東海道本線新橋駅銀座口 徒歩5分

    汐留駅

  • 汐留駅<br /><br /><br /><br />双頭軌条<br />英DARLINGTON IRON社製造<br />錬鐡製<br />断面<br />上面が磨耗すると逆回転させ再利用した。<br /><br />東京都港区東新橋1−5−3<br />東海道本線新橋駅銀座口 徒歩5分

    汐留駅



    双頭軌条
    英DARLINGTON IRON社製造
    錬鐡製
    断面
    上面が磨耗すると逆回転させ再利用した。

    東京都港区東新橋1−5−3
    東海道本線新橋駅銀座口 徒歩5分

  • 汐留駅<br /><br /><br /><br />双頭軌条<br />取付状態<br /><br />東京都港区東新橋1−5−3<br />東海道本線新橋駅銀座口 徒歩5分

    汐留駅



    双頭軌条
    取付状態

    東京都港区東新橋1−5−3
    東海道本線新橋駅銀座口 徒歩5分

    汐留駅

  • 汐留駅<br /><br /><br /><br />ホーム敷石<br />左<br />現地発掘時に発見された開業当時の構造物。<br /><br />東京都港区東新橋1−5−3<br />東海道本線新橋駅銀座口 徒歩5分

    汐留駅



    ホーム敷石

    現地発掘時に発見された開業当時の構造物。

    東京都港区東新橋1−5−3
    東海道本線新橋駅銀座口 徒歩5分

    汐留駅

  • 汐留駅<br /><br /><br /><br />ホーム敷石<br />右<br />発掘時、完全な状態で発見された。<br /><br />東京都港区東新橋1−5−3<br />東海道本線新橋駅銀座口 徒歩5分

    汐留駅



    ホーム敷石

    発掘時、完全な状態で発見された。

    東京都港区東新橋1−5−3
    東海道本線新橋駅銀座口 徒歩5分

    汐留駅

  • 旧汐留駅<br /><br /><br /><br />構内線路群跡<br />写真上部に見えるのは ゆりかもめ<br /><br />東京都港区東新橋1−2<br />東海道本線新橋駅汐留口 徒歩5分

    旧汐留駅



    構内線路群跡
    写真上部に見えるのは ゆりかもめ

    東京都港区東新橋1−2
    東海道本線新橋駅汐留口 徒歩5分

    汐留駅

  • 旧汐留駅<br /><br /><br /><br />構内線路群跡<br /><br />東京都港区東新橋1−7−1<br />東海道本線新橋駅汐留口 徒歩6分

    旧汐留駅



    構内線路群跡

    東京都港区東新橋1−7−1
    東海道本線新橋駅汐留口 徒歩6分

    汐留駅

  • 旧汐留駅<br /><br /><br /><br />構内線路群跡<br /><br />東京都港区東新橋1−7−1<br />東海道本線新橋駅汐留口 徒歩6分

    旧汐留駅



    構内線路群跡

    東京都港区東新橋1−7−1
    東海道本線新橋駅汐留口 徒歩6分

    汐留駅

  • 新橋-浜松町間<br /><br /><br /><br />新銭座橋(しんぜにざばし)架道橋<br />該区間開通時は該架道橋は踏切構造だったが、電車運転開始を前に、明治42年(1909年)に付近一帯を築堤化時に安全上から踏切を廃止し架道橋化された。<br />該架道橋付近は土盛石留構造だが、本来の地平部分が掘下げられた為に、列車から望見すると築堤上を走行したかの如き錯覚を覚えるが、意外にも該地は地平部分に存在する。<br />当初計画では該架道橋を解体し車幅拡張が計画されていたが、歴史的建造物として最小限の修復で残存させる事に決定した。<br />但し、内部東京方は老朽化が著しい事から、崩壊防止の為に封印された。<br /><br />東京都港区東新橋1−7<br />東海道本線(山手線)浜松町駅北口 徒歩4分

    新橋-浜松町間



    新銭座橋(しんぜにざばし)架道橋
    該区間開通時は該架道橋は踏切構造だったが、電車運転開始を前に、明治42年(1909年)に付近一帯を築堤化時に安全上から踏切を廃止し架道橋化された。
    該架道橋付近は土盛石留構造だが、本来の地平部分が掘下げられた為に、列車から望見すると築堤上を走行したかの如き錯覚を覚えるが、意外にも該地は地平部分に存在する。
    当初計画では該架道橋を解体し車幅拡張が計画されていたが、歴史的建造物として最小限の修復で残存させる事に決定した。
    但し、内部東京方は老朽化が著しい事から、崩壊防止の為に封印された。

    東京都港区東新橋1−7
    東海道本線(山手線)浜松町駅北口 徒歩4分

  • 汐留-浜松町間<br /><br /><br /><br />構内線路群跡<br />港区立イタリア公園<br /><br />東京都港区東新橋1−10<br />東海道本線(山手線)浜松町駅北口 徒歩4分

    汐留-浜松町間



    構内線路群跡
    港区立イタリア公園

    東京都港区東新橋1−10
    東海道本線(山手線)浜松町駅北口 徒歩4分

  • 汐留-浜松町間<br /><br /><br /><br />構内線路群跡<br />港区立イタリア公園<br />平成元年頃まで、付近一帯に線路跡が残存した。<br /><br />東京都港区東新橋1−10<br />東海道本線(山手線)浜松町駅北口 徒歩4分

    汐留-浜松町間



    構内線路群跡
    港区立イタリア公園
    平成元年頃まで、付近一帯に線路跡が残存した。

    東京都港区東新橋1−10
    東海道本線(山手線)浜松町駅北口 徒歩4分

  • 新橋-浜松町間<br /><br /><br /><br />浜松町架道橋(はままつちょう かどうきょう)<br />該架道橋は、浜松町駅開業時に開設された。<br />然し、設置当時は道路幅2.5mの人道専用で、車馬は該架道橋横の浜松町踏切を通過していた。<br />即ち、大型架道橋として設置が見送られたのは、該地が海辺と至近距離で、且つ、該駅に隣接して芝離宮(しばりきゅう)が存在し、特に、当時は高潮時に於ける溢水防御が未確立だった為である。<br />然し、該地は電車運転本数が多数あり、当時の初代新橋駅、後の、汐留駅構内貨車入換作業の為に、殆ど該踏切が閉止状態だった事から、改めて路盤下を掘下げ架道橋として設置した。<br />大正15年(1926年)に、関東大震災後に於ける内務省土木局工事に拠る東京湾岸整備一環として日の出埠頭が竣工整備され、東京府下に大型船舶入港が可能になった事から竹芝通り拡張の際に該架道橋も拡張された。<br />平成になり、東京都営交通地下鉄大江戸線が該通り下を斜形通過する事が決定したが、調査の結果、現状の橋梁構造では橋梁支柱強度不足事が指摘され、東海道新幹線を含め各路線を付替架橋工事を施工しつつ、該架道橋を架替を実施。<br />竹芝通り<br /><br />東京都港区海岸1<br />東海道本線(山手線)浜松町駅北口 徒歩15秒

    新橋-浜松町間



    浜松町架道橋(はままつちょう かどうきょう)
    該架道橋は、浜松町駅開業時に開設された。
    然し、設置当時は道路幅2.5mの人道専用で、車馬は該架道橋横の浜松町踏切を通過していた。
    即ち、大型架道橋として設置が見送られたのは、該地が海辺と至近距離で、且つ、該駅に隣接して芝離宮(しばりきゅう)が存在し、特に、当時は高潮時に於ける溢水防御が未確立だった為である。
    然し、該地は電車運転本数が多数あり、当時の初代新橋駅、後の、汐留駅構内貨車入換作業の為に、殆ど該踏切が閉止状態だった事から、改めて路盤下を掘下げ架道橋として設置した。
    大正15年(1926年)に、関東大震災後に於ける内務省土木局工事に拠る東京湾岸整備一環として日の出埠頭が竣工整備され、東京府下に大型船舶入港が可能になった事から竹芝通り拡張の際に該架道橋も拡張された。
    平成になり、東京都営交通地下鉄大江戸線が該通り下を斜形通過する事が決定したが、調査の結果、現状の橋梁構造では橋梁支柱強度不足事が指摘され、東海道新幹線を含め各路線を付替架橋工事を施工しつつ、該架道橋を架替を実施。
    竹芝通り

    東京都港区海岸1
    東海道本線(山手線)浜松町駅北口 徒歩15秒

  • 浜松町(はままつちょう)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治42年(1909年)12月16日開業である。<br />該駅開業当初は、現在と異なり該駅付近は平屋住宅密集地で、駅本屋を設置する有効余裕地が存在せず、早期土地収用が困難と判断された事から、仕方が無く、該駅ホーム上に2階建駅本屋建築物を設置した。<br />現在と異なり、当時は高架内ホーム下に出改札口が存在する駅は他に類例が無く、異彩を放っていた。<br />大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で、該駅本屋本体に被害発生こそ無く無事だったが、近隣火災延焼に拠り、翌9月2日1時30分頃全焼した。<br />該駅被害は駅本屋が全焼した為に甚大で、震災後に於ける東京-品川間開通は早期だったが、該駅復旧は手間取り、同年10月1日にずれ込み、再開業までの間、同じく被災した有楽町、新橋両駅と共に列車は停車せず通過扱された。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1248

    浜松町(はままつちょう)駅



    該駅は、明治42年(1909年)12月16日開業である。
    該駅開業当初は、現在と異なり該駅付近は平屋住宅密集地で、駅本屋を設置する有効余裕地が存在せず、早期土地収用が困難と判断された事から、仕方が無く、該駅ホーム上に2階建駅本屋建築物を設置した。
    現在と異なり、当時は高架内ホーム下に出改札口が存在する駅は他に類例が無く、異彩を放っていた。
    大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で、該駅本屋本体に被害発生こそ無く無事だったが、近隣火災延焼に拠り、翌9月2日1時30分頃全焼した。
    該駅被害は駅本屋が全焼した為に甚大で、震災後に於ける東京-品川間開通は早期だったが、該駅復旧は手間取り、同年10月1日にずれ込み、再開業までの間、同じく被災した有楽町、新橋両駅と共に列車は停車せず通過扱された。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1248

    浜松町駅

  • 浜松町駅<br /><br /><br /><br />旧カートレイン発着場跡<br />乗用車出入口<br /><br />東京都港区海岸1−3<br />東海道本線(山手線)浜松町駅北口 徒歩30秒

    浜松町駅



    旧カートレイン発着場跡
    乗用車出入口

    東京都港区海岸1−3
    東海道本線(山手線)浜松町駅北口 徒歩30秒

    浜松町駅

  • 浜松町駅<br /><br /><br /><br />旧カートレイン発着場跡<br />カートレインとは、旅客列車客車、及び、大型貨車を連結し、該貨車に乗用車を搭載し乗客は該列車客車に乗車し、客貨共に目的地に移動可能な列車で、欧米では広く行われているが、我が国では鉄道車輌に於ける建築限界を起因とする車体幅問題から数々時間を要し、昭和60年(1985年)7月27日より汐留-東小倉間に於いて運転開始したが、勿論、我が国初の試みだった。<br />運転開始当初は利用者が存在するか否か、不安状況下での開始だったが、果たして運転期間中は連日満席状態で、寧ろ、該列車乗車券を確保出来なかった利用希望者を断るのに窓口担当者は苦労させられた。<br />該列車運転当初は、個々貨物取扱施設を使用した。<br />然るに、昭和61年(1986年)11月1日附で該駅が閉鎖された事から、東京方起点を山手線恵比寿駅に変更し使用したが、赤羽線(埼京線)電車大崎駅延長運転が決定し恵比寿駅貨物線に新ホーム設置が決定し、該駅新ホーム確保の為に該駅に於ける該列車取扱が不可能になる事から移転を余儀無くされ、検討した結果、浜松町駅構内遊休施設を整備活用させる事で可能との判断がされ、平成2年(1990年)12月21日附運転より浜松町駅発着に変更された。<br />暫くは安泰だと思われたカートレインだったが、大門通り下を地下鉄12号線、即ち、都営地下鉄大江戸線が建設設置が決定した事から、東海道本線浜松町架道橋、及び、東海道新幹線新浜松町架道橋に於ける高架線基礎強化工事を必要とする為に、該工事期間中は該駅施設が使用出来ず、再移転の必要に迫られた。<br />他方、現行の旅客鉄道線運賃料金区分は、利用区間所属会社に於ける距離、即ち、東日本旅客鉄道線浜松町-熱海間104.6km、東海旅客鉄道線熱海-米原間341.3km、西日本旅客鉄道線米原-下関間671.7km、九州旅客鉄道下関-東小倉間11.8km計1129.4kmを該各社距離に応じ区分配分算出する為に、該列車運転に依り一番利益を得る西日本旅客鉄道線に対し、九州旅客鉄道線取分は僅少であり、且つ、該社は貨物取扱専用で日本貨物鉄道所属駅たる東小倉駅に対し、該社社員を派遣し取扱を実行させる為に、該社は日本貨物鉄道に対し積降作業施設使用料支払を行わねばならず、起点駅問題が再浮上した際に、九州旅客鉄道が該列車運転継続に対し強硬反対意見が出た事で暗礁に乗り上げ、該列車は、平成10年(1998年)1月30日運転を最後に運転休止扱となった。<br />該列車運転休止後17年が経過し現在でも各方面から運転再開を要望する声が強いが、該再開可能性は殆ど無に等しい。<br />因みに、該列車に於いて乗用車を搭載した貨車は東日本旅客鉄道所属車輌、及び、九州旅客鉄道所属車輌が使用され、現在では両社所属車輌共に廃車解体されたが、九州旅客鉄道所属車輌台枠は鹿児島本線西小倉駅跨線橋拡張工事時に基礎として活用され、現在でも該姿を見る事が可能である。<br /><br />東京都港区海岸1−3<br />東海道本線(山手線)浜松町駅北口 徒歩30秒

    浜松町駅



    旧カートレイン発着場跡
    カートレインとは、旅客列車客車、及び、大型貨車を連結し、該貨車に乗用車を搭載し乗客は該列車客車に乗車し、客貨共に目的地に移動可能な列車で、欧米では広く行われているが、我が国では鉄道車輌に於ける建築限界を起因とする車体幅問題から数々時間を要し、昭和60年(1985年)7月27日より汐留-東小倉間に於いて運転開始したが、勿論、我が国初の試みだった。
    運転開始当初は利用者が存在するか否か、不安状況下での開始だったが、果たして運転期間中は連日満席状態で、寧ろ、該列車乗車券を確保出来なかった利用希望者を断るのに窓口担当者は苦労させられた。
    該列車運転当初は、個々貨物取扱施設を使用した。
    然るに、昭和61年(1986年)11月1日附で該駅が閉鎖された事から、東京方起点を山手線恵比寿駅に変更し使用したが、赤羽線(埼京線)電車大崎駅延長運転が決定し恵比寿駅貨物線に新ホーム設置が決定し、該駅新ホーム確保の為に該駅に於ける該列車取扱が不可能になる事から移転を余儀無くされ、検討した結果、浜松町駅構内遊休施設を整備活用させる事で可能との判断がされ、平成2年(1990年)12月21日附運転より浜松町駅発着に変更された。
    暫くは安泰だと思われたカートレインだったが、大門通り下を地下鉄12号線、即ち、都営地下鉄大江戸線が建設設置が決定した事から、東海道本線浜松町架道橋、及び、東海道新幹線新浜松町架道橋に於ける高架線基礎強化工事を必要とする為に、該工事期間中は該駅施設が使用出来ず、再移転の必要に迫られた。
    他方、現行の旅客鉄道線運賃料金区分は、利用区間所属会社に於ける距離、即ち、東日本旅客鉄道線浜松町-熱海間104.6km、東海旅客鉄道線熱海-米原間341.3km、西日本旅客鉄道線米原-下関間671.7km、九州旅客鉄道下関-東小倉間11.8km計1129.4kmを該各社距離に応じ区分配分算出する為に、該列車運転に依り一番利益を得る西日本旅客鉄道線に対し、九州旅客鉄道線取分は僅少であり、且つ、該社は貨物取扱専用で日本貨物鉄道所属駅たる東小倉駅に対し、該社社員を派遣し取扱を実行させる為に、該社は日本貨物鉄道に対し積降作業施設使用料支払を行わねばならず、起点駅問題が再浮上した際に、九州旅客鉄道が該列車運転継続に対し強硬反対意見が出た事で暗礁に乗り上げ、該列車は、平成10年(1998年)1月30日運転を最後に運転休止扱となった。
    該列車運転休止後17年が経過し現在でも各方面から運転再開を要望する声が強いが、該再開可能性は殆ど無に等しい。
    因みに、該列車に於いて乗用車を搭載した貨車は東日本旅客鉄道所属車輌、及び、九州旅客鉄道所属車輌が使用され、現在では両社所属車輌共に廃車解体されたが、九州旅客鉄道所属車輌台枠は鹿児島本線西小倉駅跨線橋拡張工事時に基礎として活用され、現在でも該姿を見る事が可能である。

    東京都港区海岸1−3
    東海道本線(山手線)浜松町駅北口 徒歩30秒

    浜松町駅

  • 浜松町駅<br /><br /><br /><br />旧汐留貨物線跡<br />写真左手が該線跡<br /><br />東京都港区海岸1−3<br />東海道本線浜松町駅北口 徒歩30秒

    浜松町駅



    旧汐留貨物線跡
    写真左手が該線跡

    東京都港区海岸1−3
    東海道本線浜松町駅北口 徒歩30秒

    浜松町駅

  • 浜松町-田町間<br /><br /><br /><br />港町(みなとまち)架道橋<br />山側口<br /><br />東京都港区海岸1−3<br />東海道本線(山手線)浜松町駅南口 徒歩2分

    浜松町-田町間



    港町(みなとまち)架道橋
    山側口

    東京都港区海岸1−3
    東海道本線(山手線)浜松町駅南口 徒歩2分

  • 浜松町-田町間<br /><br /><br /><br />港町架道橋<br />石積橋台<br />耐震補強工事施工済<br /><br />東京都港区海岸1−3<br />東海道本線(山手線)浜松町駅南口 徒歩2分

    浜松町-田町間



    港町架道橋
    石積橋台
    耐震補強工事施工済

    東京都港区海岸1−3
    東海道本線(山手線)浜松町駅南口 徒歩2分

  • 浜松町-田町間<br /><br /><br /><br />古川(ふるかわ)橋梁<br />該橋は、明治5年(1872年)10月14日開通の橋梁である。<br />架橋当時は木橋だったが、明治11年(1878年)7月に7.3m×1連の英國製錬鉄橋梁に架替が実施された。<br />該河川は渋谷川下流域を構成し、大正中期まで当時の東京府下に於ける六郷川(多摩川)、荒川、及び、江戸川と共に、度々洪水被害発生源だった。<br />該河川は、明治43年(1910年)8月11日に発生した関東大豪雨被害に拠り、当時の東京府を初めとする関東近隣諸県に近現代史上、記録的被害を発生させた事が発端となり、東京市は内務省土木局とも協議し、大正2年(1913年)7月の市区改正委員会に於いて、湾曲状たる該河川改良計画を決定し、翌大正3年(1913年)に芝区赤羽橋付近改良を皮切りに工事を開始したが、工事途中たる大正8年(1919年)に都市計画法公布に伴い、該工事は内務省土木局直轄に拠り該河川改良工事継続が決定され、途中、関東大震災発生の為に工事中断を余儀無くされたが、昭和6年(1931年)に竣工した。<br />然し、該河川洪水防止に於ける抜本的対策完成は、該河川上流域たる渋谷川護岸工事が竣工した平成期である。<br /><br />東京都港区芝1−2−1<br />東海道本線(山手線)浜松町駅南口 徒歩3分

    浜松町-田町間



    古川(ふるかわ)橋梁
    該橋は、明治5年(1872年)10月14日開通の橋梁である。
    架橋当時は木橋だったが、明治11年(1878年)7月に7.3m×1連の英國製錬鉄橋梁に架替が実施された。
    該河川は渋谷川下流域を構成し、大正中期まで当時の東京府下に於ける六郷川(多摩川)、荒川、及び、江戸川と共に、度々洪水被害発生源だった。
    該河川は、明治43年(1910年)8月11日に発生した関東大豪雨被害に拠り、当時の東京府を初めとする関東近隣諸県に近現代史上、記録的被害を発生させた事が発端となり、東京市は内務省土木局とも協議し、大正2年(1913年)7月の市区改正委員会に於いて、湾曲状たる該河川改良計画を決定し、翌大正3年(1913年)に芝区赤羽橋付近改良を皮切りに工事を開始したが、工事途中たる大正8年(1919年)に都市計画法公布に伴い、該工事は内務省土木局直轄に拠り該河川改良工事継続が決定され、途中、関東大震災発生の為に工事中断を余儀無くされたが、昭和6年(1931年)に竣工した。
    然し、該河川洪水防止に於ける抜本的対策完成は、該河川上流域たる渋谷川護岸工事が竣工した平成期である。

    東京都港区芝1−2−1
    東海道本線(山手線)浜松町駅南口 徒歩3分

  • 浜松町-田町間<br /><br /><br /><br />古川橋梁<br />関東大震災では橋台が座屈し橋桁移動被害が発生。<br /><br />東京都港区芝1−2−1<br />東海道本線(山手線)浜松町駅南口 徒歩3分

    浜松町-田町間



    古川橋梁
    関東大震災では橋台が座屈し橋桁移動被害が発生。

    東京都港区芝1−2−1
    東海道本線(山手線)浜松町駅南口 徒歩3分

  • 浜松町-田町間<br /><br /><br /><br />沿線山側<br />大正末期頃まで、該地区は平屋続きの庶民の住む地域だった。<br /><br />東京都港区芝1−13−6<br />東海道本線(山手線)浜松町駅南口 徒歩8分

    浜松町-田町間



    沿線山側
    大正末期頃まで、該地区は平屋続きの庶民の住む地域だった。

    東京都港区芝1−13−6
    東海道本線(山手線)浜松町駅南口 徒歩8分

  • 浜松町-田町間<br /><br /><br /><br />新浜町(しんはまちょう)架道橋<br /><br />東京都港区芝1−13−6<br />東海道本線(山手線)浜松町駅南口 徒歩10分

    浜松町-田町間



    新浜町(しんはまちょう)架道橋

    東京都港区芝1−13−6
    東海道本線(山手線)浜松町駅南口 徒歩10分

  • 浜松町-田町間<br /><br /><br /><br />新浜町架道橋<br />石積橋台<br /><br />東京都港区芝1−13−6<br />東海道本線(山手線)浜松町駅南口 徒歩10分

    浜松町-田町間



    新浜町架道橋
    石積橋台

    東京都港区芝1−13−6
    東海道本線(山手線)浜松町駅南口 徒歩10分

  • 浜松町-田町間<br /><br /><br /><br />沿線山側<br />現在ではビル群が続く。<br /><br />東京都港区芝1−13−10<br />東海道本線(山手線)浜松町駅南口 徒歩10分

    浜松町-田町間



    沿線山側
    現在ではビル群が続く。

    東京都港区芝1−13−10
    東海道本線(山手線)浜松町駅南口 徒歩10分

  • 浜松町-田町間<br /><br /><br /><br />芝橋(しばばし)架道橋<br />該橋は、明治5年(1872年)10月14日開通の橋梁である、<br />径間 9.3m(30ft)×2連<br /><br />東京都港区芝1−13−16<br />東海道本線浜松町駅南口 徒歩12分

    浜松町-田町間



    芝橋(しばばし)架道橋
    該橋は、明治5年(1872年)10月14日開通の橋梁である、
    径間 9.3m(30ft)×2連

    東京都港区芝1−13−16
    東海道本線浜松町駅南口 徒歩12分

  • 浜松町-田町間<br /><br /><br /><br />芝橋架道橋<br />架橋当時は檜材を使用した木組構造だったが、その後、数年を経ずして腐朽し列車往来に危険を生じた事から、明治12年(1879年)5月に英國リヴァプール造船所錬鐡製プレートガーダー橋桁9.8m(30ft)×2連に更改された。<br /><br />東京都港区芝4−8−12<br />東海道本線(山手線)浜松町駅南口 徒歩11分

    浜松町-田町間



    芝橋架道橋
    架橋当時は檜材を使用した木組構造だったが、その後、数年を経ずして腐朽し列車往来に危険を生じた事から、明治12年(1879年)5月に英國リヴァプール造船所錬鐡製プレートガーダー橋桁9.8m(30ft)×2連に更改された。

    東京都港区芝4−8−12
    東海道本線(山手線)浜松町駅南口 徒歩11分

  • 浜松町-田町間<br /><br /><br /><br />旧海浜境界地<br />該道路左手は旧東京湾岸部<br /><br />東京都港区芝4−18−1<br />東海道本線(山手線)三田口 徒歩8分

    浜松町-田町間



    旧海浜境界地
    該道路左手は旧東京湾岸部

    東京都港区芝4−18−1
    東海道本線(山手線)三田口 徒歩8分

  • 浜松町-田町間<br /><br /><br /><br />港区立本芝公園(ほんしば こうえん)<br />該公園敷地は、新橋-品川間建設設置工事時に海上築堤を構築し雑魚場(ざこば)と称された舟溜りが存在したが、陸地側海面部に於ける残存部が東京湾との接続が途絶後は蚊の大量発生源となった事から地元から埋立要望がされ、昭和45年(1970年)に埋立工事が施工され、跡地は整備され区立公園と化した。<br /><br />東京都港区芝4−15−1<br />東海道本線(山手線)田町駅三田口 徒歩5分<br />http://www.city.minato.tokyo.jp/shisetsu/koen/shiba/01.html

    浜松町-田町間



    港区立本芝公園(ほんしば こうえん)
    該公園敷地は、新橋-品川間建設設置工事時に海上築堤を構築し雑魚場(ざこば)と称された舟溜りが存在したが、陸地側海面部に於ける残存部が東京湾との接続が途絶後は蚊の大量発生源となった事から地元から埋立要望がされ、昭和45年(1970年)に埋立工事が施工され、跡地は整備され区立公園と化した。

    東京都港区芝4−15−1
    東海道本線(山手線)田町駅三田口 徒歩5分
    http://www.city.minato.tokyo.jp/shisetsu/koen/shiba/01.html

    港区立本芝公園 公園・植物園

  • 浜松町-田町間<br /><br /><br /><br />港区立本芝公園<br />細長敷地が海浜部痕跡として残存する。<br /><br />東京都港区芝4−15−1<br />東海道本線(山手線)田町駅三田口 徒歩4分<br />http://www.city.minato.tokyo.jp/shisetsu/koen/shiba/01.html

    浜松町-田町間



    港区立本芝公園
    細長敷地が海浜部痕跡として残存する。

    東京都港区芝4−15−1
    東海道本線(山手線)田町駅三田口 徒歩4分
    http://www.city.minato.tokyo.jp/shisetsu/koen/shiba/01.html

    港区立本芝公園 公園・植物園

  • 浜松町-田町間<br /><br /><br /><br />港区立本芝公園<br /><br />東京都港区芝4−15−1<br />東海道本線(山手線)田町駅三田口 徒歩3分<br />http://www.city.minato.tokyo.jp/shisetsu/koen/shiba/01.html

    浜松町-田町間



    港区立本芝公園

    東京都港区芝4−15−1
    東海道本線(山手線)田町駅三田口 徒歩3分
    http://www.city.minato.tokyo.jp/shisetsu/koen/shiba/01.html

    港区立本芝公園 公園・植物園

  • 浜松町-田町間<br /><br /><br /><br />雑魚場橋(ざこばばし)架道橋<br />該橋は、明治5年(1872年)10月14日開通の橋梁である。<br />架橋当時は木組橋梁だったが、良質な檜材を使用したとは言え、該橋梁設置位置は海水域であり、数年後には早くも橋脚部が腐朽化を見せたことから、明治11年(1878年)11月に英國リヴァプール造船所製7.3m×1連の錬鉄製橋梁に架替を実施された。<br />架橋当時は地元住民と東京湾魚場との連絡路として開設されたが、その後、埋立進行に拠り地元漁業組合は漁業権を放棄した事から該橋下も埋立てられ、現在は人道架道橋として現存する。<br /><br />東京都港区芝浦4−1<br />東海道本線(山手線)田町駅三田口徒歩3分

    浜松町-田町間



    雑魚場橋(ざこばばし)架道橋
    該橋は、明治5年(1872年)10月14日開通の橋梁である。
    架橋当時は木組橋梁だったが、良質な檜材を使用したとは言え、該橋梁設置位置は海水域であり、数年後には早くも橋脚部が腐朽化を見せたことから、明治11年(1878年)11月に英國リヴァプール造船所製7.3m×1連の錬鉄製橋梁に架替を実施された。
    架橋当時は地元住民と東京湾魚場との連絡路として開設されたが、その後、埋立進行に拠り地元漁業組合は漁業権を放棄した事から該橋下も埋立てられ、現在は人道架道橋として現存する。

    東京都港区芝浦4−1
    東海道本線(山手線)田町駅三田口徒歩3分

    本芝公園 (雑魚場跡) 公園・植物園

  • 浜松町-田町間<br /><br /><br /><br />雑魚場架道橋<br />該橋梁付近は、明治3年(1870年)まで海浜だった。<br />即ち、該橋梁至近に存在する 御穂鹿島神社は、海神の守であり、且つ、大漁、航海安全の守として地元漁業従事者衆から崇敬されていた。<br />当初の建設設置計画では、新橋-品川間は、會仙川、及び、金杉川架橋箇所を除き、全区間連続築堤に依り構成する予定だった。<br />然るに、地元漁業従事者達から、陸地海浜間通過が不可能になると自分達の生活問題に発展すると異議申立が上申され、此れを受け当局は検討した結果、該上申を受容れ、新橋-横濱間に陸部海浜間通行可能とする橋梁を架橋した。<br />該初代橋梁は、木造木組に依り構成されていたが、数年を経ずして早くも基部が腐朽して来た事から、明治11年(1878年)11月に、英リヴァプール造船所製錬鐡製プレートガーダー橋桁7.3m×1連に架替られた。<br />因みに、該橋桁は英國から輸入されたが、組立は新橋工場六郷河岸分工場が施工した。<br /><br />東京都港区芝4−18<br />東海道本線(山手線)田町駅西口 徒歩3分

    浜松町-田町間



    雑魚場架道橋
    該橋梁付近は、明治3年(1870年)まで海浜だった。
    即ち、該橋梁至近に存在する 御穂鹿島神社は、海神の守であり、且つ、大漁、航海安全の守として地元漁業従事者衆から崇敬されていた。
    当初の建設設置計画では、新橋-品川間は、會仙川、及び、金杉川架橋箇所を除き、全区間連続築堤に依り構成する予定だった。
    然るに、地元漁業従事者達から、陸地海浜間通過が不可能になると自分達の生活問題に発展すると異議申立が上申され、此れを受け当局は検討した結果、該上申を受容れ、新橋-横濱間に陸部海浜間通行可能とする橋梁を架橋した。
    該初代橋梁は、木造木組に依り構成されていたが、数年を経ずして早くも基部が腐朽して来た事から、明治11年(1878年)11月に、英リヴァプール造船所製錬鐡製プレートガーダー橋桁7.3m×1連に架替られた。
    因みに、該橋桁は英國から輸入されたが、組立は新橋工場六郷河岸分工場が施工した。

    東京都港区芝4−18
    東海道本線(山手線)田町駅西口 徒歩3分

    本芝公園 (雑魚場跡) 公園・植物園

  • 田町(たまち)駅<br /><br /><br /><br />三田口<br />該駅開業は、明治42年(1909年)12月16日である。<br />即ち、烏森(現 新橋)-品川間開通に伴う電車運転開始時に濱松町と共に設置された。<br />然るに、新橋(汐留)-品川間は、明治9年(1876年)12月1日附で複線化されたが、該時点に現駅位置に 田町仮停車場が開設された。<br />然し、理由は判然としないが、何故か、翌明治10年(1877年)10月1日附で該仮停車場は廃止された。<br />一説には、該停車場設置理由に、現在の慶應義塾大学三田校の前身たる、慶応義塾校が明治4年(1871年)に現在地に移転して来た事で通学生の為に開設されたとの説が存在するが、当時は、たかだか150名前後の全寮制塾生の為に、当局が停車場を設置する必要性など無く、該説は俗論で事実性に乏しい。<br />該駅は、開業以来、東京市内(現 東京都区内)所属駅で、関東大震災に於ける数少ない非被災駅だった。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=976

    田町(たまち)駅



    三田口
    該駅開業は、明治42年(1909年)12月16日である。
    即ち、烏森(現 新橋)-品川間開通に伴う電車運転開始時に濱松町と共に設置された。
    然るに、新橋(汐留)-品川間は、明治9年(1876年)12月1日附で複線化されたが、該時点に現駅位置に 田町仮停車場が開設された。
    然し、理由は判然としないが、何故か、翌明治10年(1877年)10月1日附で該仮停車場は廃止された。
    一説には、該停車場設置理由に、現在の慶應義塾大学三田校の前身たる、慶応義塾校が明治4年(1871年)に現在地に移転して来た事で通学生の為に開設されたとの説が存在するが、当時は、たかだか150名前後の全寮制塾生の為に、当局が停車場を設置する必要性など無く、該説は俗論で事実性に乏しい。
    該駅は、開業以来、東京市内(現 東京都区内)所属駅で、関東大震災に於ける数少ない非被災駅だった。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=976

    田町駅 (東京都)

  • 田町駅<br /><br /><br /><br />三田口<br />本屋<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=976

    田町駅



    三田口
    本屋
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=976

    田町駅 (東京都)

  • 田町駅<br /><br /><br /><br />芝浦口<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=976

    田町駅



    芝浦口
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=976

    田町駅 (東京都)

  • 田町駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム

    田町駅



    第1番ホーム

    田町駅 (東京都)

  • 田町駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />防火用水桶

    田町駅



    第1番ホーム
    防火用水桶

    田町駅 (東京都)

  • 田町駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />防火用水桶<br />大東亜戦争前に製造。<br />現在では全国的に見ても希少価値品。

    田町駅



    第1番ホーム
    防火用水桶
    大東亜戦争前に製造。
    現在では全国的に見ても希少価値品。

    田町駅 (東京都)

  • 田町駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />防火用水桶<br />「工」

    田町駅



    第1番ホーム
    防火用水桶
    「工」

  • 田町駅<br /><br /><br /><br />旧貨物線跡<br />元来複線だったが、東海道新幹線建設に伴い、昭和38年(1963年)4月1日に単線化された。<br /><br />東京都港区芝浦3−3<br />東海道本線(山手線)田町駅芝浦口 徒歩1分

    田町駅



    旧貨物線跡
    元来複線だったが、東海道新幹線建設に伴い、昭和38年(1963年)4月1日に単線化された。

    東京都港区芝浦3−3
    東海道本線(山手線)田町駅芝浦口 徒歩1分

    田町駅 (東京都)

  • 田町駅<br /><br /><br /><br />旧貨物線跡<br />東海道新幹線手前が該線路跡<br /><br />東京都港区芝浦3−3<br />東海道本線(山手線)田町駅芝浦口 徒歩1分

    田町駅



    旧貨物線跡
    東海道新幹線手前が該線路跡

    東京都港区芝浦3−3
    東海道本線(山手線)田町駅芝浦口 徒歩1分

    田町駅 (東京都)

  • 田町-品川間<br /><br /><br /><br />札の辻(ふだのつじ)乗越橋<br />初代橋梁 昭和8年(1933年)3月架橋。<br />全長55.1m 全幅24.7m<br />我が国政府は、明治維新以降、首都東京に直接大型船舶入港可能施設設置が長年に亘る懸案事項とされ、事実、数度に亘り現地調査を実施したが、当時の東京湾内奥海部は隅田川や江戸川等々の河川から流出する多量の土砂の為に、極端とも言える遠浅状態を呈していた事から、土砂堆積が尋常では無く、その都度、実施困難と判定され計画中止を余儀無くされていた。<br />然るに、我が国土木技術が次第に向上し、実現可能と判断された事から、日露戦争終結直後の、明治39年(1906年)に、隅田川可能改良工事に着手した。<br />即ち、現在の永代橋(えいたいばし)付近から芝口品川砲台跡に至る地域を浚渫埋立を反復させる内容で、第1次工事は明治44年(1911年)に竣工した。<br />現在の日之出町、芝浦は、昭和8年(1933年)3月に竣工と共に、当時の東京市芝区に編入された。<br />次いで、日之出、芝浦、両埠頭建設資材運搬搬入を目的として、同年に内務省土木局の手に依り東海道本線を横断させる為に該橋梁が架橋された。<br />戦後、該橋梁老朽化が深刻な状態になり、架替が決定し、平成14年(2002年)より仮橋を設置架橋しながら既成橋梁を解体撤去し、平成16年(2004年)に新橋梁が竣工した。<br /><br />東京都港区高輪2−20<br />東京都営交通地下鉄浅草線泉岳寺駅 徒歩5分

    田町-品川間



    札の辻(ふだのつじ)乗越橋
    初代橋梁 昭和8年(1933年)3月架橋。
    全長55.1m 全幅24.7m
    我が国政府は、明治維新以降、首都東京に直接大型船舶入港可能施設設置が長年に亘る懸案事項とされ、事実、数度に亘り現地調査を実施したが、当時の東京湾内奥海部は隅田川や江戸川等々の河川から流出する多量の土砂の為に、極端とも言える遠浅状態を呈していた事から、土砂堆積が尋常では無く、その都度、実施困難と判定され計画中止を余儀無くされていた。
    然るに、我が国土木技術が次第に向上し、実現可能と判断された事から、日露戦争終結直後の、明治39年(1906年)に、隅田川可能改良工事に着手した。
    即ち、現在の永代橋(えいたいばし)付近から芝口品川砲台跡に至る地域を浚渫埋立を反復させる内容で、第1次工事は明治44年(1911年)に竣工した。
    現在の日之出町、芝浦は、昭和8年(1933年)3月に竣工と共に、当時の東京市芝区に編入された。
    次いで、日之出、芝浦、両埠頭建設資材運搬搬入を目的として、同年に内務省土木局の手に依り東海道本線を横断させる為に該橋梁が架橋された。
    戦後、該橋梁老朽化が深刻な状態になり、架替が決定し、平成14年(2002年)より仮橋を設置架橋しながら既成橋梁を解体撤去し、平成16年(2004年)に新橋梁が竣工した。

    東京都港区高輪2−20
    東京都営交通地下鉄浅草線泉岳寺駅 徒歩5分

  • 田町-品川間<br /><br /><br /><br />伊皿子いさらご)鉄道跨線橋<br />田町駅構内に於ける京濱線、及び、山手線の平面交差に拠る列車本数飽和状態打開と安全概念から、平面交差解消の為に鉄道跨線橋を設置する事に決定し、大正15年(1926年)7月8日に着工し、翌昭和2年(1927年)5月12日に竣工開通。<br /><br />東京都港区高輪2−20<br />東京都営交通地下鉄浅草線泉岳寺駅 徒歩5分

    田町-品川間



    伊皿子いさらご)鉄道跨線橋
    田町駅構内に於ける京濱線、及び、山手線の平面交差に拠る列車本数飽和状態打開と安全概念から、平面交差解消の為に鉄道跨線橋を設置する事に決定し、大正15年(1926年)7月8日に着工し、翌昭和2年(1927年)5月12日に竣工開通。

    東京都港区高輪2−20
    東京都営交通地下鉄浅草線泉岳寺駅 徒歩5分

  • 田町-品川間<br /><br /><br /><br />高輪(たかなわ)架道橋<br />該橋は、明治5年(1872年)10月14日開通の橋梁である。<br />初代橋梁は檜材を使用した木造木組構造だったが、現地は海水域故に、数年後には早くも基部橋脚部分が腐朽し、列車運行上危険と判断された事から、明治11年(1879年)11月に、英國リヴァプール造船所製錬鐡橋桁5.0m(17ft)×1連に架替られた。<br /><br />東京都港区高輪2−20<br />東京都営交通地下鉄浅草線泉岳寺駅 徒歩2分

    田町-品川間



    高輪(たかなわ)架道橋
    該橋は、明治5年(1872年)10月14日開通の橋梁である。
    初代橋梁は檜材を使用した木造木組構造だったが、現地は海水域故に、数年後には早くも基部橋脚部分が腐朽し、列車運行上危険と判断された事から、明治11年(1879年)11月に、英國リヴァプール造船所製錬鐡橋桁5.0m(17ft)×1連に架替られた。

    東京都港区高輪2−20
    東京都営交通地下鉄浅草線泉岳寺駅 徒歩2分

  • 田町-品川間<br /><br /><br /><br />高輪架道橋<br />天井部分が低く大型自動車通行は禁止されている。<br /><br />東京都港区高輪2−20<br />東京都営交通地下鉄浅草線泉岳寺駅 徒歩2分

    田町-品川間



    高輪架道橋
    天井部分が低く大型自動車通行は禁止されている。

    東京都港区高輪2−20
    東京都営交通地下鉄浅草線泉岳寺駅 徒歩2分

  • 田町-品川間<br /><br /><br /><br />高輪架道橋<br />橋台中央下部石積部は、明治11年(1879年)11月に錬鐡橋桁架替当時の原型。<br /><br />東京都港区高輪2−20<br />東京都営交通地下鉄浅草線泉岳寺駅 徒歩2分

    田町-品川間



    高輪架道橋
    橋台中央下部石積部は、明治11年(1879年)11月に錬鐡橋桁架替当時の原型。

    東京都港区高輪2−20
    東京都営交通地下鉄浅草線泉岳寺駅 徒歩2分

  • 田町-品川間<br /><br /><br /><br />京浜線乗越橋

    田町-品川間



    京浜線乗越橋

  • 田町-品川間<br /><br /><br /><br />伊皿子鉄道跨線橋<br />神戸方進入口<br />東京機関区、及び、田町電車区跡地活用で、該地に新駅設置が決定。<br />京浜東北線、及び、山手線は路線が海側に移設予定の為に、該鉄道跨線路橋は廃止予定。<br /><br />東京都港区高輪2−21<br />東京都営交通地下鉄浅草線泉岳寺駅 徒歩2分

    田町-品川間



    伊皿子鉄道跨線橋
    神戸方進入口
    東京機関区、及び、田町電車区跡地活用で、該地に新駅設置が決定。
    京浜東北線、及び、山手線は路線が海側に移設予定の為に、該鉄道跨線路橋は廃止予定。

    東京都港区高輪2−21
    東京都営交通地下鉄浅草線泉岳寺駅 徒歩2分

  • 田町-品川間<br /><br /><br /><br />田町(たまち)電車区跡<br />横須賀線列車を電車化させる為に、昭和5年(1930年)東京機関庫電車配置を分離し東京機関庫田町分庫として成立。<br />設置当初は東京鉄道局各配置車両の寄集めだったが、モハ32型、サロ45型、サハ48型、クロ49型など、横須賀線独自の形式車輌も多く存在した。<br />昭和20年(1945年)5月25日未明の空襲で、<br />モハユニ44005 - サハ48011 - サハ48026 - モハ32026<br />に焼夷弾が直撃し全車輌共に焼失する被害が発生した。

    田町-品川間



    田町(たまち)電車区跡
    横須賀線列車を電車化させる為に、昭和5年(1930年)東京機関庫電車配置を分離し東京機関庫田町分庫として成立。
    設置当初は東京鉄道局各配置車両の寄集めだったが、モハ32型、サロ45型、サハ48型、クロ49型など、横須賀線独自の形式車輌も多く存在した。
    昭和20年(1945年)5月25日未明の空襲で、
    モハユニ44005 - サハ48011 - サハ48026 - モハ32026
    に焼夷弾が直撃し全車輌共に焼失する被害が発生した。

  • 田町-品川間<br /><br /><br /><br />京濱急行線乗越跨線橋<br />我が国は昭和15年(1940年)10月に東京に於いてオリンピック開催が決定した事から、東海道線電車を東京-品川間を各駅停車させる列車用に鉄道跨線橋設置が決定し、工事が相当進行した所で、オリンピック開催自体が中止となり、該工事も中止された。<br />結局、旧田町電車区内工事は竣工したものの、完成後75年間、線路が敷設される事も無く再開発計画の為に解体撤去された。<br />因みに、現在の横須賀線217系電車の帯2色は、該オリンピックで使用される予定だったコーポレートカラーである。<br /><br />東京都港区高輪3−24<br />東海道本線品川駅高輪口 徒歩6分

    田町-品川間



    京濱急行線乗越跨線橋
    我が国は昭和15年(1940年)10月に東京に於いてオリンピック開催が決定した事から、東海道線電車を東京-品川間を各駅停車させる列車用に鉄道跨線橋設置が決定し、工事が相当進行した所で、オリンピック開催自体が中止となり、該工事も中止された。
    結局、旧田町電車区内工事は竣工したものの、完成後75年間、線路が敷設される事も無く再開発計画の為に解体撤去された。
    因みに、現在の横須賀線217系電車の帯2色は、該オリンピックで使用される予定だったコーポレートカラーである。

    東京都港区高輪3−24
    東海道本線品川駅高輪口 徒歩6分

  • 品川(しながわ)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />該駅は、明治5年(1872年)6月12日開業である。<br />当時、品川-横濱間先行仮開業時の東京府方起点駅だった。<br />然るに、岩倉具視(いわくら ともみ)(文政8年(1825年)10月26日〜明治16年(1883年)7月20日)を団長格とした遣欧米使節一行が、前年たる明治4年(1871年)12月21日に品川停車場敷地内から六郷川東岸まで建設中の鉄道に乗車して移動した事が牧野伸顕(まきの のぶあき)(文久元年(1861年)11月24日〜昭和24年(1949年)11月25日)の回顧録記述に見られる。<br />然し、該時点に於いてホームは未完成状態で、該使節一行は乗車の為に難儀困惑させられる状況が、該記述から窺い知れる。<br />新橋-横濱間を全線開業させず、品川-横濱間を先行開業させた理由に、当時、鉄道建設に際し、品川高輪(たかなわ)付近に於いて、兵部省保有地が混在し、軍が鉄道と云ふ近代文明の大量同時輸送たる利点を未だ把握し切れず、結果的に鉄道用地が得られぬ事が判明し、已む無く、芝浦沖を埋立て該地を得んとしたが、八ッ山方面工事が竣工したのに対し、三田大木戸方面は風波の都度、構築堤が崩壊し、完成遅延が明確になった事から品川-横濱間を先行開業させた事が要因である。<br />更に、初代駅本屋は和洋折衷木造2階建構造だったが、明治4年(1871年)9月10日着工、翌明治5年(1872年)1月20日竣工した事も先行開業を意識したものと推定される。<br />該駅は開業当時は現位置に駅本屋が存在せず現八ッ山橋端たる山手線用電車電留線付近に設置されたが、明治18年(1885年)3月1日に日本鐵道新宿線、即ち、現在の山手線(やまのてせん)が全通し品川駅に乗入れた為に初代駅本屋付近では構内拡張の余地が殆ど無く、此の為に開通と同時に現位置に移転した。<br />更に、現駅本屋位置に明治34年(1901年)12月25日に3代目駅本屋が竣工し、関東大震災や東京南部空襲にも被災せず昭和26年(1951年)まで使用された。<br />関東大震災発生時、該駅構内諸施設に於ける被害は軽微だった。<br />然るに、該駅構内に於ける機関車の被害は、<br />傾斜<br />8700型炭水車附蒸気機関車 8700号機<br />脱線<br />3920型タンク式蒸気機関車 3921号機<br />3950型タンク式蒸気機関車 3951号機<br />3980型タンク式蒸気機関車 3983号機<br />7050型炭水車附蒸気機関車 7058号機<br />全車輌共に品川機関庫所属で、3921号機、3951号機、及び、3983号機3両は、横川-軽井沢間アブト式開通時に製造された特殊用途機関車で、電化後も電気機関車所要数不足から使用が継続されたが、所要数充足後は不要となり、将来に於ける参考資料用として該地に於いて保管中に被災した。<br />該震災直後に、東京市内中心部に於いて猛烈な大火災が発生し、何時収束するか見当すらつかぬ状態だった事から、最悪事態を想定し、該駅構内滞留の客貨車、及び、電車を個々組成させ、該車輌群に該駅重要帳票類、及び、手小荷物を搭載させ、万一の際は、直ちに安全地帯に移動可能な状態とすべく手配させたが、翌2日未明に火勢が漸次衰えた為に、此れらは移動の必要性も無くなり焼失を免れた。<br />日露戦争後は急増する客貨に対処し切れぬ状態となり、此れを打破させる為に、昭和4年(1929年)8月21日に品川-新鶴見-鶴見間に品鶴線(ひんかくせん)が開通と同時に新鶴見操車場が開設され殆どの貨物取扱は新鶴見に集約移転させ貨物取扱操車場跡に対し旅客専用操車場とすべく建設工事に着手したが、昭和初期の世界的大不況とも重なり工事遅延を反復させたが、大東亜戦争勃発直前の昭和16年(1941年)に完成し、それまで東京駅構内八重洲側に存在した東京機関区、及び、東京客車区を品川に移転させた。<br />日華事変以降、元来海面だった該駅東側は埋立てられ膨大な工業用地と化し大企業工場が進出してきたが、該工場勤務の工員利便の為に、品川駅該再開発の一環として昭和15年(1940年)4月24日に旅客地下通路と共に海岸口が開設されたが激増する通勤者を捌くには抜本的対策を迫られ、更に昭和19年(1944年)3月25日に旅客地下通路が追加された。<br />因みに、該工事過程に於いて東海道本線上下線間に設置された2本のホームは日華事変(にっか じへん)(昭和12年(1937年)7月7日〜昭和16年(1941年)12月8日)以降、主に、軍用列車、更に、大東亜戦争末期には疎開児童輸送列車発着使用機会が増え、当時の東京市民にとって、該駅が親族友人との永久の別れの場になった諸例も多く、現在でも該駅に対し複雑な心象を抱く者多きと仄聞する。<br />該駅は、昭和20年(1945年)5月29日の空襲で構内が被災したが、該構内では札の辻信号所が焼失し札の辻群線が全滅した以外、他に大きな被害も無く終戦を迎えた。<br />世情が落ち着くに従い、大東亜戦争中に工事を中止を余儀無くさせられた駅本屋改築計画が浮上し、再開が決定した事から、昭和26年(1951年)12月15日に第4代駅本屋建築工事に着手した。<br />該工事は、翌々年昭和28年(1953年)4月16日に竣工し、2階建鉄骨鉄筋コンクリート構造で、平成10年(1998年)11月1日に第5代駅本屋東西旅客自由通路完成後は、跡間には民間テナントが入居し現存する。<br />該駅は、成立過程よりホーム構造が多く混乱していた事から、ホーム整理整備が完了した昭和35年(1960年)12月15日附で、現行の如く、山手線ホームを第1番線とし内廻1番線外廻2番線という附番式に変更された。<br />該駅は、主として東海道方面臨時団体列車発着地として団体客多数が利用していたが、混乱も多く、此の為に、団体客用待合所設置を要望する声が強く、昭和39年(1964年)7月23日に該設置工事が着工し、翌昭和40年(1965年)7月13日に竣工したが、それでも不足気味だった事から、増床が決定し、昭和42年(1967年)3月31日に完成した。<br /><br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=788

    品川(しながわ)駅



    駅本屋
    該駅は、明治5年(1872年)6月12日開業である。
    当時、品川-横濱間先行仮開業時の東京府方起点駅だった。
    然るに、岩倉具視(いわくら ともみ)(文政8年(1825年)10月26日〜明治16年(1883年)7月20日)を団長格とした遣欧米使節一行が、前年たる明治4年(1871年)12月21日に品川停車場敷地内から六郷川東岸まで建設中の鉄道に乗車して移動した事が牧野伸顕(まきの のぶあき)(文久元年(1861年)11月24日〜昭和24年(1949年)11月25日)の回顧録記述に見られる。
    然し、該時点に於いてホームは未完成状態で、該使節一行は乗車の為に難儀困惑させられる状況が、該記述から窺い知れる。
    新橋-横濱間を全線開業させず、品川-横濱間を先行開業させた理由に、当時、鉄道建設に際し、品川高輪(たかなわ)付近に於いて、兵部省保有地が混在し、軍が鉄道と云ふ近代文明の大量同時輸送たる利点を未だ把握し切れず、結果的に鉄道用地が得られぬ事が判明し、已む無く、芝浦沖を埋立て該地を得んとしたが、八ッ山方面工事が竣工したのに対し、三田大木戸方面は風波の都度、構築堤が崩壊し、完成遅延が明確になった事から品川-横濱間を先行開業させた事が要因である。
    更に、初代駅本屋は和洋折衷木造2階建構造だったが、明治4年(1871年)9月10日着工、翌明治5年(1872年)1月20日竣工した事も先行開業を意識したものと推定される。
    該駅は開業当時は現位置に駅本屋が存在せず現八ッ山橋端たる山手線用電車電留線付近に設置されたが、明治18年(1885年)3月1日に日本鐵道新宿線、即ち、現在の山手線(やまのてせん)が全通し品川駅に乗入れた為に初代駅本屋付近では構内拡張の余地が殆ど無く、此の為に開通と同時に現位置に移転した。
    更に、現駅本屋位置に明治34年(1901年)12月25日に3代目駅本屋が竣工し、関東大震災や東京南部空襲にも被災せず昭和26年(1951年)まで使用された。
    関東大震災発生時、該駅構内諸施設に於ける被害は軽微だった。
    然るに、該駅構内に於ける機関車の被害は、
    傾斜
    8700型炭水車附蒸気機関車 8700号機
    脱線
    3920型タンク式蒸気機関車 3921号機
    3950型タンク式蒸気機関車 3951号機
    3980型タンク式蒸気機関車 3983号機
    7050型炭水車附蒸気機関車 7058号機
    全車輌共に品川機関庫所属で、3921号機、3951号機、及び、3983号機3両は、横川-軽井沢間アブト式開通時に製造された特殊用途機関車で、電化後も電気機関車所要数不足から使用が継続されたが、所要数充足後は不要となり、将来に於ける参考資料用として該地に於いて保管中に被災した。
    該震災直後に、東京市内中心部に於いて猛烈な大火災が発生し、何時収束するか見当すらつかぬ状態だった事から、最悪事態を想定し、該駅構内滞留の客貨車、及び、電車を個々組成させ、該車輌群に該駅重要帳票類、及び、手小荷物を搭載させ、万一の際は、直ちに安全地帯に移動可能な状態とすべく手配させたが、翌2日未明に火勢が漸次衰えた為に、此れらは移動の必要性も無くなり焼失を免れた。
    日露戦争後は急増する客貨に対処し切れぬ状態となり、此れを打破させる為に、昭和4年(1929年)8月21日に品川-新鶴見-鶴見間に品鶴線(ひんかくせん)が開通と同時に新鶴見操車場が開設され殆どの貨物取扱は新鶴見に集約移転させ貨物取扱操車場跡に対し旅客専用操車場とすべく建設工事に着手したが、昭和初期の世界的大不況とも重なり工事遅延を反復させたが、大東亜戦争勃発直前の昭和16年(1941年)に完成し、それまで東京駅構内八重洲側に存在した東京機関区、及び、東京客車区を品川に移転させた。
    日華事変以降、元来海面だった該駅東側は埋立てられ膨大な工業用地と化し大企業工場が進出してきたが、該工場勤務の工員利便の為に、品川駅該再開発の一環として昭和15年(1940年)4月24日に旅客地下通路と共に海岸口が開設されたが激増する通勤者を捌くには抜本的対策を迫られ、更に昭和19年(1944年)3月25日に旅客地下通路が追加された。
    因みに、該工事過程に於いて東海道本線上下線間に設置された2本のホームは日華事変(にっか じへん)(昭和12年(1937年)7月7日〜昭和16年(1941年)12月8日)以降、主に、軍用列車、更に、大東亜戦争末期には疎開児童輸送列車発着使用機会が増え、当時の東京市民にとって、該駅が親族友人との永久の別れの場になった諸例も多く、現在でも該駅に対し複雑な心象を抱く者多きと仄聞する。
    該駅は、昭和20年(1945年)5月29日の空襲で構内が被災したが、該構内では札の辻信号所が焼失し札の辻群線が全滅した以外、他に大きな被害も無く終戦を迎えた。
    世情が落ち着くに従い、大東亜戦争中に工事を中止を余儀無くさせられた駅本屋改築計画が浮上し、再開が決定した事から、昭和26年(1951年)12月15日に第4代駅本屋建築工事に着手した。
    該工事は、翌々年昭和28年(1953年)4月16日に竣工し、2階建鉄骨鉄筋コンクリート構造で、平成10年(1998年)11月1日に第5代駅本屋東西旅客自由通路完成後は、跡間には民間テナントが入居し現存する。
    該駅は、成立過程よりホーム構造が多く混乱していた事から、ホーム整理整備が完了した昭和35年(1960年)12月15日附で、現行の如く、山手線ホームを第1番線とし内廻1番線外廻2番線という附番式に変更された。
    該駅は、主として東海道方面臨時団体列車発着地として団体客多数が利用していたが、混乱も多く、此の為に、団体客用待合所設置を要望する声が強く、昭和39年(1964年)7月23日に該設置工事が着工し、翌昭和40年(1965年)7月13日に竣工したが、それでも不足気味だった事から、増床が決定し、昭和42年(1967年)3月31日に完成した。

    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=788

  • 品川駅<br /><br /><br /><br />港南口<br />元来海面だった該駅東側は大正中期頃から埋立てられ膨大な工業用地と化し、特に、日華事変以降、大企業工場が進出してきたが、該工場勤務の工員利便の為に、品川駅該再開発の一環として昭和15年(1940年)4月24日に海岸口が開設されたが改札口は設置されず、該駅発着工員定期所持者に限定利用とされた。

    品川駅



    港南口
    元来海面だった該駅東側は大正中期頃から埋立てられ膨大な工業用地と化し、特に、日華事変以降、大企業工場が進出してきたが、該工場勤務の工員利便の為に、品川駅該再開発の一環として昭和15年(1940年)4月24日に海岸口が開設されたが改札口は設置されず、該駅発着工員定期所持者に限定利用とされた。

  • 品川駅<br /><br /><br /><br />中央連絡大通路<br />高輪口側俯瞰

    品川駅



    中央連絡大通路
    高輪口側俯瞰

    品川駅

  • 品川駅<br /><br /><br /><br />中央連絡大通路<br />海岸口側俯瞰

    品川駅



    中央連絡大通路
    海岸口側俯瞰

    品川駅

  • 品川駅<br /><br /><br /><br />中央連絡大通路<br />南改札口側

    品川駅



    中央連絡大通路
    南改札口側

    品川駅

  • 品川駅<br /><br /><br /><br />旧団体待機所

    品川駅



    旧団体待機所

    品川駅

  • 品川駅<br /><br /><br /><br />旧団体待機所

    品川駅



    旧団体待機所

  • 品川駅<br /><br /><br /><br />旧団体待機所

    品川駅



    旧団体待機所

  • 品川駅<br /><br /><br /><br />構内郵便ポスト<br />クモユニ74型をモチィーフ

    品川駅



    構内郵便ポスト
    クモユニ74型をモチィーフ

    品川駅

  • 品川駅<br /><br /><br /><br />構内郵便ポスト<br />ヘッドライトは廃車になった113系電車で使用されていた室内予備灯、テールライトは側部扉閉確認灯を流用。

    品川駅



    構内郵便ポスト
    ヘッドライトは廃車になった113系電車で使用されていた室内予備灯、テールライトは側部扉閉確認灯を流用。

    品川駅

  • 品川駅<br /><br /><br /><br />構内郵便ポスト<br />該車輌は東海道本線が電車化され、更に、昭和37年(1962年)に111系近郊形電車が運行導入時に、郵便荷物輸送を運用させるべくモハ72型を中心に改造した車輌である。<br />

    品川駅



    構内郵便ポスト
    該車輌は東海道本線が電車化され、更に、昭和37年(1962年)に111系近郊形電車が運行導入時に、郵便荷物輸送を運用させるべくモハ72型を中心に改造した車輌である。

    品川駅

  • 品川駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />東京方

    品川駅



    第2番ホーム
    東京方

    品川駅

  • 品川駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />該ホームは昭和32年(1957年)まで東海道本線上り15両編成列車も使用していた関係でホーム長が長い。<br />

    品川駅



    第2番ホーム
    該ホームは昭和32年(1957年)まで東海道本線上り15両編成列車も使用していた関係でホーム長が長い。

    品川駅

  • 品川駅<br /><br /><br /><br />第3番ホーム<br />該ホーム上屋には、明治34年(1901年)移転時に設置された軒装飾が昭和42年(1967年)まで残存していたが、上屋改築時に撤去された。<br />現在では、品川駅開業130周年を記念し平成14年(2002年)10月14日に設置された 安全祝念碑 が存在する。<br />因みに、碑上部の鐘は、米国が占領政策上で我が国に持込んだ、DD12型電気式ディーゼル機関車に取付品を再用。<br />現在は工事中で立入不可。

    品川駅



    第3番ホーム
    該ホーム上屋には、明治34年(1901年)移転時に設置された軒装飾が昭和42年(1967年)まで残存していたが、上屋改築時に撤去された。
    現在では、品川駅開業130周年を記念し平成14年(2002年)10月14日に設置された 安全祝念碑 が存在する。
    因みに、碑上部の鐘は、米国が占領政策上で我が国に持込んだ、DD12型電気式ディーゼル機関車に取付品を再用。
    現在は工事中で立入不可。

    品川駅

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この旅行記へのコメント (10)

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  • レイジーガーデナーさん 2016/02/17 20:09:48
    こんばんは(^^)
    ご訪問&投票いただき、ありがとうございました。

    品川駅に、こうしたユニークなポストがあるなんて
    全く知りませんでした。

    最近では鉄道に興味のある女性や若い世代も多いようですし、
    このような形で歴史の片鱗が伝えられていくとよいですね。(^^)

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2016/02/18 14:58:24
    拝復
    レイジーガーデナーさま、こんにちは。


    小生こそ、掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    鉄道と郵便は明治期には逓信省として同じ役所組織だった由来からか、昭和52年(1982年)まで指定駅で電報の送受信も可能でした。

    郵便ポストが主要駅構内に設置されているのも、その時代の名残だとも言えるかも知れません。

    ただ、最近では遊び心か、品川以外にも、東京駅や大宮駅にも、鉄道の廃品活用でユニークな郵便ポストが出現しております。

    そちらを訪れました折には、是非とも一見されてみては如何でしょうか。



    横浜臨海公園
  • ecchanさん 2016/01/05 02:43:16
    おめでとうございます!
    横浜臨海公園さま

    新年おめでとうございます。

    いつもご覧いただき、ご投票もありがとうございます。

    最近、孫娘たちに会いに行く時は品川駅を利用することが多いので、
    今回の大作は更に興味深く拝見させていただきました。

    また、以前の品川ー川崎間の旅行記もあらためて拝見いたしました。

    横浜臨海公園さんが1冊の旅行記作成に費やされる時間やご苦労などは
    想像以上・・いえ想像を絶することと思います。

    どうぞ体調崩さないよう、お身体ご自愛くださいね。

    今年もよろしくお願いいたします。

    ecchanより

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2016/01/19 07:53:31
    拝復
    ecchanさま、おはようございます。


    拙稿に投票とコメントを賜りながら、返事を差し上げるのが遅くなりまして、誠に有難うございました。

    確か、以前、品川で京急に乗り換える様な事をお聞きしましたが、品川駅構内も飲食店を中心とする商業施設が拡充し、50年前を知る身には、想像だに出来なかった時代になってしまいました。

    本年も亦何卒宜敷くお願い申します。



    横浜臨海公園
  • ろこままさん 2016/01/05 01:17:18
    おめでとうございます
    横浜臨海公園様
    明けましておめでとうございます

    そして、遅くなりましたが、お誕生日おめでとうございます (*^。^*)

    佳きお年を迎えられたことと存じます。

    昨年も、拙い旅行記へのご訪問、投票をありがとうございました。

    横浜臨海公園さんは、昨年は、鉄道施設を訪ね歩かれたんですね。
    多くの事を教えていただきました。
    わからないながらも、橋梁等を眺めるようになりました。

    今年も、お元気で過ごせるといいですね。
    どうぞ、素晴らしい一年になりますように。。。

    本年も、よろしくお願いします。
    。。ろこまま。。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2016/01/19 07:47:37
    拝復
    ろこままさま、おはようございます。


    拙稿に投票とコメントを賜りながら、返事を差し上げるのが遅くなりまして、誠に申し訳ございませんでした。

    昨年末来、バタバタしておりまして、毎日の睡眠時間も2時間を切る状態になっております。

    新旅行記投稿を期待しております。

    本年も亦何卒宜敷くお願い申します。




    横浜臨海公園
  • M-koku1さん 2016/01/03 03:42:15
    明けましておめでとうございます
    横浜臨海公園さま

    いつもながらに 大作
    凄いです

    昭和41年3月
    私は新幹線で修学旅行に行きました
    京都まででした
    うちの小学校で
    新幹線で修学旅行に行った
    最初の学年となりました

    当時は 新幹線のトイレのドアが
    高速運転中に開かなくなる
    なんてことが 頻繁におきていて
    皆できゃあきゃあ言いながら
    乗った記憶があります

    開業から一年ちょっとの頃の
    懐かしい思い出です

    今年もどうぞよろしく

    Mより

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2016/01/12 12:03:32
    拝復
    M-kokuさま、こんにちは。


    改めて、寒中お見舞いを申し上げます。

    年末年始から今に至るまで、卒業論文審査と博士論文検定作業に追われ、寝る時間も2時間程度になっている状態で、旅行記を閲覧するのが精一杯で、返事を差し上げるのが遅くなりまして、本当に申し訳ございませんでした。

    旅行記の作成も、最近では構想から1年半は当然の如くとなってしまい、遅々として進まぬ状態が続いておりましたが、ナントカ年末に間に合い、上程することが叶いました。

    小生も中学校の修学旅行は新幹線利用で奈良京都でしたが、当時ですら、新幹線では風情が無く、あっという間に京都に着いてしまい、余り感激は感じられなかったのを覚えております。

    あの時代から見ても、今の新幹線は新横浜-京都間は2時間台で到着してしまい、うたた寝するのが関の山でしょう。

    あれでは、山手線に乗るのと同じです。




    横浜臨海公園



  • TaxNaXさん 2015/12/31 18:11:19
    防火用水桶 、渋過ぎます
    横浜臨海公園さん

    ご無沙汰してます。
    TaxNaXです。

    随分と久し振りの旅行記ではありませんか?

    蓄電された分気合の入った旅行記ですね。
    余りの気合に、扉の説明で挫折しかけました・・・。
    とりあえず全体の把握に、失礼ながら所々斜め読み
    させて頂いて、ようやく最後まで辿り着きました。
    二三回読まないといけないようです。

    田町駅の1番線ホーム端に置かれたのは防火用水桶
    だったんですね。
    全く存じませんでした。
    渋過ぎます。
    最近は田町駅に降りる機会も減ったのですが、今度
    通り掛ったら訪ねてみます。

    さて、今年も残すところあと数時間です。
    紅白歌合戦には興味が無くなってしまったので、
    格闘技でも見て盛り上がろうかな、とか思ってます。

    本年は大変お世話様でした。
    来年も同様に宜しくお願い申し上げます。

    それでは、良いお年を。

    TaxNaX

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2016/01/01 20:45:43
    拝復
    TaxNaxさま、こんばんは。


    あけましておめでとうございます。

    ご存知とは思いますが、小生、旅行記の作成に対しては、写真だけ羅列で、時に理解困難な内容発表を戒めておりまして、構想から完成まで、最近では1年半以上かかるのが当たり前な状態になってきております。

    田町駅1番ホーム東京方に在る防火用水桶は、現在では鉢植の代用品ですが、鉄材不足時代故にコンクリートで制作されたもので、殆どの物が廃棄された内で、貴重な歴史を物語った物が、顧みられる事も無く、忘れ去られた如く鎮座しております。

    東海道本線編分に就いては、岐阜駅まで表紙基本本文のみ、ほぼ完成しております。

    然し、何時になったら発表可能になるか、未だ見えない状況です。

    本年も亦宜敷くお願い申します。



    横浜臨海公園

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