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江戸期末期まで、江戸市内に存在した武家地、及び、寺社地に町名なるものは存在しなかった。<br />即ち、町名とは町人庶民居住地識別の為に必要存在するものであり、それ故、武家地や寺社地に対し、別に町名など必要ともしなかったからである。<br /><br />明治2年(1869年)当時に、市内に982町存在したとされるが、江戸全体との割合は約15%で、寺社地が約15%、残りは約70%は全部武家地であり、要するに当時の東京市内約85%には町名が存在しなかった。<br /><br />然るに、明治維新直前に幕府は全大名の参勤交代制を廃止した事が原因で、全国諸藩は江戸上中下武家屋敷など最早無用の存在と化していたが、明治政府は、明治4年(1871年)8月29日附で廃藩置県を断行した事で、原則として在京藩邸跡地は公収され国有地に編入された。<br />他方、該地に対し最寄至近町に編入処置が講じられたが、該地が余りに広大な所は、半ば強引にして独自の町名が命名された。<br />即ち、該例代表的存在として、現在の千代田区紀尾井町(きおいちょう)(紀伊藩徳川家、尾張藩徳川家、彦根藩井伊家)は最たる存在である。<br /><br />藩邸跡地たる現在の千代田区丸ノ内から霞ヶ関にかけて、司法省関係官庁、及び、後の 帝國陸軍第1師団となる東京鎮台が設置されたが、該鎮台が明治20年(1887年)に麻布区六本木に移転後は広大な空地化していた。<br /><br /><br />内務省は、明治11年(1878年)11月2日附を以って、郡区町村編成法(ぐんくちょうそん へんせいほう)を施行し、東京市下に、麹町區、神田區(現 千代田区)、日本橋區、京橋區(現 中央区)、芝區、麻布區、赤坂區(現 港区)、四谷區、牛込區(新宿区)、小石川區、本郷區(現 文京区)、下谷區、浅草區(現 台東区)、本所區、深川區(現 墨田区)の15区が設置された。<br />戦後、東京都政の下に区の統廃合を実施し、別名カッコ内区名に変更存続の結果、旧区名は消滅したが、現行行政関連施設として、概ね、警察署名、消防署名、及び、郵便本局名に、該痕跡名称が残存する。<br /><br /><br />今日に於ける首都東京の街並み形成の嚆矢は、第8代東京府知事 芳川顕正(よしかわ あきまさ)(天保13年(1842年)1月21日~大正9年(1920年)1月10日)(明治15年(1882年)7月19日~明治18年(1885年)6月13日在任)が、旧態然たる東京を近代国家首都に相応しい街並みに改変すべく、鉄道、道路、河川、橋梁、市場、公園、上下水道、火葬場、共同墓地、等々設置を近代的都市基盤事業として立案し、市区改正事業に着手した事が発端である。<br />即ち、我が国は、内閣制度導入と国会開設を目前に控え、丸ノ内地区他に点在している官庁を、霞ヶ関、及び、日比谷地区に移転集約させる案で、此の為に、東京府土木課工事課長 原口 要(はらぐち かなめ)(嘉永4年(1851年)5月25日~昭和2年(1927年)1月23日)に該担当研究を一任させた。<br />原口は、明治8年(1875年)に渡米し、創立当初のトロイ大学(TROY UNIVERSITY)で土木工学を専攻する傍ら、自ら志願して1年半に亘りペンシルヴァニア鐵道建設工事に従事し、特に、フィラデルフィア市街高架線建設工事で、該地区で採用された鋼鐡製連続橋桁橋梁構造の長短を熟知する機会を得ており、帰路、独逸の首都ベルリン高架線を見学研究した実績を有する人物だった。<br />原口は、明治13年(1880年)に帰国し、芳川の下で市区改正事業考査を担当する事になった。<br /><br />市区改正審査委員会が明治18年(1885年)12月に創設設置され、委員長に 内務大臣 山縣有朋(やまがた ありとも)(天保9年(1838年)6月14日~大正11年(1922年)2月1日)(明治18年(1885年)12月22日~明治23年(1890年)5月11日在任)を据え、芳川をはじめ、井上 勝(いのうえ まさる)(天保14年(1843年)8月25日~明治43年(1910年)8月2日)鐵道局長官、樺山資紀(かばやま すけゆき)(天保8年(1837年)12月9日~大正11年(1922年)2月8日)警視総監、及び、三島通庸(みしま つねみち)(天保6年(1835年)6月26日~明治21年(1888年)10月23日)内務省土木局長が委員に就任した。<br />原口は、該委員会に於いて高架線設置の原則意義を教示説明させられたが、委員の中で鉄道に精通している筈の井上ですら、留学先のロンドンで高架線の実態を殆ど実見しておらず、故に他の委員は高架線に関する概念など絶無に均しく、樺山に至っては、鉄道線路を高架なる物にすれば、祭礼時に於ける神輿通過障害が発生する、云々、等々の無智低次な珍問を成し、説明役の原口は肥前島原藩出身で、該藩は戊辰戦争の際は朝廷側だったとは申せ、無智単純でも出世栄達可能な薩長藩閥連中に対し、隔靴掻痒たる心情を抱いていたに相違無い。<br />然るに、此の委員中で該効果を逸早く理解したのは三島だったと思われる。<br />三島は、初代山形縣令在任中に福島米澤間栗子街道や仙台山形間関山街道を開通整備させ、栃木縣令在任中は那須疎水設置の実績を有した人物故に、近代交通に於ける土木構築設置に対する地域活性経済効果が大なる事を深く理解しており、原口に対する質問事項も的確を極め、高架線設置に対し該案を積極的に全面支持していた。<br />議論は喧々囂々堂々巡りの反復状態だったが、明治22年(1889年)5月に高架線設置に関し、委員会は原口案一任する事に最終決定した。<br />然し、原口案を全面支持し善き理解者だった三島が該決定直前に急逝した事は、原口にとって何より痛恨の極みだったものと推察される。<br /><br /><br />他方、官庁集中計画推進筆頭は、当時の外務卿 井上 馨(いのうえ かおる)(天保6年(1836年)1月16日~大正4年(1915年)9月1日)である。<br />井上は、英国人建築家 ジョサイア・コンドル(Josiah CANDER)(1852年(嘉永4年)9月28日~1920年(大正9年)6月21日)に該計画案を盛込んだ見積りをさせた。<br />然るに、コンドルは、格子型街路に官庁を並立させた、古典的、且つ、平凡極まりない原案だった事から、井上が期待していた、近代的バロック風威風堂々とした想定案とは余りに掛離れていた為に、井上を失望させ該提案は却下された。<br />井上は、独逸から都市計画立案の専門家を招致させる事に決定し、ヤーメス・ホープレヒト(James HOBRECHT)(1825年(文政8年)12月31日~1902年(明治35年)9月8日)、ヘルマン・エンデ(Hermann ENDE)(1832年(天保3年)3月4日~1907年(明治40年)8月10日)、及び、ヴィルヘルム・ベックマン(Wilhelm BOCKMANN)(1832年(天保3年)1月29日~1902年(明治35年)10月22日)3名は明治19年(1886年)に訪日し、井上は直ちに該計画を検討させた。<br />特に、ホープレヒトは、ホープレヒト・プラン(HOBRECHT PLAN)と称する、ベルリン都市計画推進中枢担当の第一人者である。<br />ホープレヒトは、東京市内に分散していた官庁施設を霞ヶ関に集中させ、隣接する日比谷は自然を生かした近代的西欧風公園を設置し、更に、新橋-上野間に連絡鉄道線を建設し、該中間部に首都に相応しい中央停車場設置を骨子とする計画案を提示した。<br /><br />独逸からヘルマン・ルムシュッテル(Hermann RUMSCHUTTEL)(1844年(天保15年)11月21日~1918年(大正7年)9月22日)が来日したのは明治20年(1887年)11月である。<br />ルムシュッテルは、プロイセン國有鐵道機械監督職として1884年(明治17年)まで在勤したが、当時の独逸帝國は特別管理職者に対し開発途上国に派遣指導する政府制度が存在した。<br /><br />ルムシュッテル等々の独逸人技師達来日に至る経緯として、当時の駐独日本公使 青木周蔵(あおき しゅうぞう)(天保15年(1844年)3月3日~大正3年(1914年)2月16日)に依る独逸政府への要請斡旋仲介が存在したものと推定される。<br /><br />青木は、長州萩藩出身で、明治元年(1868年)に、当時の藩主 毛利敬親(もうり よしちか)(文政2年(1819年)3月5日~明治4年(1871年)5月17日)から独プロイセン王国(KONIGREICH PREUSSEN)に留学が命ぜられ、青木は渡独後、医学、化学、軍事学、法学、経済学、外交学、等々を学んだ。<br />青木が留学当時の独逸国内は王公國が群雄割拠する状態だったが、プロイセンが筆頭格になり次第に勢力を強め、スペイン王位継承問題に端を発したエムス電報事件(EMS Dispkt)の結果、フランスとの間に対立が深まり、遂に、普仏戦争(ふふつ せんそう)(1870年(明治3年)7月9日~1871年(明治4年)5月10日)が勃発し、該戦争はプロイセンが勝利しフランスは敗北に期した。<br />明治4年(1871年)1月18日に国内統一を果たされた事で、プロイセン國王ヴィルヘルム-Ⅰ世(WILHELM-Ⅰ)(1794年(寛政9年)3月22日~1888年(明治21年)3月9日)は講和条約締結の為にフランスの首都パリに乗込み、ヴェルサイユ宮殿に於いて独逸帝國成立を宣言し、初代独逸帝國皇帝(KAISER)に即位した。<br />國王ヴィルヘルム-Ⅰ世時世から配下で采配を振るっていたのが、鉄血宰相とも称された オットー・フォン・ビスマルク(Otto von BISMARK)(1815年(文化12年)4月1日~1898年(明治31年)7月30日)である。<br />即ち、独逸帝國は我が国と相前後して国内統一を成立させた新興国家であり、ビスマルクは主潜在仮想敵国たるフランスとの有事の際に備えるべく、軍事重視の為に重化学工業重点主義政策を導入していた時代に青木が渡独し、青木は正に新興国家独逸帝國隆盛期を目の当たりに見た。<br />青木は帰国後、明治6年(1873年)に外務省入省後、翌明治7年(1874年)8月17日附で駐独弁理公使を拝命して首都ベルリンに赴任し、同年9月13日附で特命全権公使に昇格後、明治30年(1897年)に至るまで、計4回、駐独特命公使を拝命した、当時の我が国に於ける独逸通筆頭外交官だった。<br />ビスマルクは人一倍猜疑心が強く、容易に他人を信用しない意固地な性格だったと伝えられているが、青木公使との関係は極めて良好で、青木は当時の在独日本人としてビスマルクから最も信頼されていた事は、現存する当時の独逸政府の記録文書を閲覧しても明確である。<br /><br />ルムシュッテルは、来日後、九州鐵道會社から技師として招聘され、明治23年(1890年)から明治27年(1894年)まで該社技師長として主要幹線建設に貢献する傍ら、逓信省鐵道作業局はルムシュテットを枢密院特命建設技監に推挙し、新橋-上野間連絡線設置構想に対し、計画段階から参加助言を求めていた。<br /><br />ルムシュッテルは、該区間建設に対し、<br />Ⅰ)全区間高架線構造とする。<br />Ⅱ)長距離列車、及び、各駅停車列車運転を完全分離させ複々線構造とする。<br />とした骨子を構想案として策定提言している。<br /><br />即ち、ルムシュッテルは、該区間に対し高架式構造を提言した理由として、既に当時の東京市内道路は交通量が多く、既に、明治15年(1882年)6月25日に東京馬車鐵道が新橋-日本橋間を開通させていた事から、将来に於いて該市内に、馬車式、若しくは、電気式路面鉄道設置時に、平面式構造では双方に対し交通障害が発生するのは必須と解していた事と、更に、東京市内は地下水位が高く、且つ、当時の我が国に於ける未熟な土木技術では地下式構造構築など論外であり、当然の如く高架線構造に落ち着いたと見るべきであろう。<br />また、後に東京驛となる中央停車場設置に就いて、該停車場を頭端様式では無く通過様式として新橋-上野間連絡鉄道線の中間駅として設定した。<br /><br /><br />第3代第Ⅰ次山縣有朋(やまがた ありとも)(天保9年(1838年)6月14日~大正11年(1922年)2月1日)内閣(明治22年(1889年)12月24日~明治24年(1891年)5月6日組閣)の内務大臣 西郷従道(さいごう つぐみち)(天保14年(1843年)6月1日~明治35年(1902年)7月18日)(明治23年(1890年)5月11日~明治24年(1891年)5月6日在任)は、鐵道庁長官 井上 勝(いのうえ まさる)(天保14年(1843年)8月26日~明治43年(1910年)8月2日)に対し、明治23年(1890年)9月17日附文書 市街線建設ニ関スル訓令 を交付した。<br />即ち、該内容は、<br />Ⅰ)麹町区永楽町付近に中央停車場建設設置。<br />Ⅱ)新橋から上野に至る新設高架式鐵道建設。<br />Ⅲ)中央停車場以南区間は東海道線延長区間として官設鐵道とする。<br />該停車場以北から上野に至る区間は日本鐵道會社が建設するが、該社財政支出困難時は秋葉原を境界として、該以南は政府が代理設置工事を施工。<br /><br />此れを受け、ルムシュテットは、鐵道庁技師 仙石 貢(せんごく みつぎ)(安政4年(1857年)7月22日~昭和6年(1931年)10月30日)と共に現地測量調査を実施した。<br /><br /><br />明治14年(1881年)8月1日に日本鐵道會社(にほん てつどう かいしゃ)が創設され、政府は同年11月11日附で該社に対し特許路線條約書を交付し、該社では此れを基に鉄道建設工事を開始し、明治16年(1883年)7月28日に、上野(うえの)-熊谷(くまがや)間を開通させた。<br />該社は、路線延長を重ね、明治23年(1890年)11月1日に、上野-秋葉原(あきばのがはら)間に貨物専用線を開通させた事で、官民共に、新橋-秋葉原間の鉄道線連結構想が発生するのは、官民共に必然的自然の成り行きと言うべきであった。<br /><br /><br />然るに、日清戦争(にっしん せんそう)(明治27年(1894年)7月25日~明治28年(1895年)11月30日)勃発に伴い、該計画は中断を余儀無くされる。<br /><br /><br />内務省は明治28年(1895年)9月の第9回帝國議会に対し7ヶ年継続事業として建設予算請求を行い350万円の支出承認を受け、芝区新銭座町(しんぜにざちょう)-麹町区永楽町(えいらくちょう)高架線設置計画の一環として、翌明治29年(1896年)4月28日に、新橋駅構内に、新永間建設工事事務所(しんえいかん けんせつこうじじむしょ)が設置された。<br />因みに、芝区新銭座町とは現在の東京都港区東新橋1丁目、麹町区永楽町とは現在の東京都千代田区丸ノ内1丁目である。<br />然し、永楽町-秋葉原間建設分に対しては、日本鐵道會社が独自に資金調達を達成し建設するか、該社の委託に拠り、逓信省鐵道作業局が代理建設するかに就いて、結論が出ぬまま該社が二の足を踏み、該区間建設は自然消滅する形で中断した。<br />然も、懸念した通り、明治43年(1910年)9月15日に有楽町-呉服橋間開通が要因で、該地域一帯地価は大暴騰し、特に、神田-秋葉原間土地収用に就いては、東京市神田区一帯に於ける該鉄道建設反対運動は東京市議会をも巻込み激化した為に、一時は工事着工すら絶望視する声すらされたが、用地収用は大正11年(1922年)迄に概ね完了した。<br /><br /><br />ルムシュッテルは、雇用契約満了に拠り独逸に帰国するが、帰国前に該工事遂行の為に絶対必要不可欠とし推挙した人物こそ、ベルリン市街高架線設計主任技師だった フランツ・バルツァー(Franz BALTZER)(1857年(安政5年)5月29日~1927年(昭和2年)9月13日)である。<br /><br />バルツァーが逓信省工務局顧問として来日したのは明治31年(1898年)2月である。<br /><br />現在の欧米各国主要鉄道駅は頭端式と称する現在の上野駅地上ホーム群様式が主流である。<br />然るに、頭端式は路線延長の際に根本的改築を伴わない限り反転するスイッチバック形態以外、直進様式設置は不可能に近く、鐵道作業局では品川驛、横浜驛、及び、馬場驛(現 膳所駅)に於いて、常に、機関車付替を伴う方向転換を要する事から、滞貨輸送障害に苦い体験を有していた。<br /><br />ベルリン市街線鉄道は、ベルリン都市鉄道とも称し、Sバーン(S-Bahn)を代表する環状線構造だった事から、各路線間に於ける直通運転が可能になっていたが、此れは、バルツァー指導の下で設置工事が施行された為である。<br />当時の欧州に於いて、ロンドン、及び、パリ等々首都に高架線は部分的に存在したが、然し、該存在は飽くまで終端部分の連結結合部に限定され、市内数キロに亘り縦貫する高架橋設置は独逸首都ベルリン以外に存在しなかった。<br />即ち、ベルリン市内に分散していた各鉄道終端駅を連結させる為に、プロイセン國有鐵道はバルツァーの設計指導の下、1882年(明治15年)にシャロッテンブルク(CHARLOTTENBURG)-シュレージェン(SCHLESIEN)間12.1kmを総煉瓦造連続高架橋構造で建設した。<br />シャロッテンブルク-シュレージェン間連続高架橋は複々線構造で建設され、各複線毎に、S-Bahn(Stadtbahn)都市間線、及び、U-Bahn(Untergrundbahn)短距離区間線に走行が分離されていた。<br />更に、ケルン、ニュールンベルク、及び、ブリュッセル各駅は、元来頭端式構造だったが、バルツァー指導下に拠り中間駅構造に大改造された。<br /><br /><br />該区間建設工事に先立ち、最初に手掛けたのは路線選定である。<br />計画案として、 <br />Ⅰ)新橋(汐留)停車場から分岐し銀座を斜め横断し有楽町を経て秋葉原に至る経路。<br />Ⅱ)新橋停車場手前中途より分岐し外濠淵を経由し秋葉原に至る経路。<br />の2案に絞られた。<br />バルツァ-は当初第Ⅰ案を支持していたが、該案は、新橋驛構内の抜本的改造を必要とし、更に、繁華街たる銀座中心地通過の為に、土地収用に困難を伴い建設費が莫大になるものと算定されたのに対し、第Ⅱ案は烏森から有楽町にかけて外濠土手石垣の撤去跡地が活用可能で、且つ、有楽町から永楽町にかけて国有地転用が可能な為に民有地収用が少件で済む事から第Ⅱ案に決定した。<br />次いで、建築様式検討に入ったが、<br /> Ⅰ)土盛石留築堤構造<br /> Ⅱ)連続橋桁構造<br /> Ⅲ)煉瓦造連続拱橋構造<br />の3点に絞られた。<br />此の為に、明治32年(1899年)7月に該区間に対する地質調査が実施された。<br />因みに、明治期に於ける建造物設置の為の地質調査は我が国に於いて先例が無く、該調査不要論も少なからず存在したが、バルツァーは敢えて該調査を必要不可欠と解し実施させた。<br />現在の東京駅丸ノ内側を除く殆どの区間は江戸初期まで東京湾が大きく入る入江を形成し、当時神田駿河台付近に存在した神田山を切崩た土砂を活用した埋立地で、該調査の結果、外濠内幸町橋から内山下橋間は地下は沖積地層粘土質である事実が判明し、第Ⅰ案では数年後に大雨等々が要因として土盛内部の土砂が流失し、座屈波状化現象発生の危険性が指摘された為に該案は不採用となった。<br />バルツァーの所見に拠れば、該建設予定区間に沖積地層を中心とした軟弱地盤地帯が存在し、且つ、我が国が世界有数の地震発生国たる事実に鑑み、大地震発生時に於ける煉瓦アーチ橋に対する耐震性が未知数たる事を踏まえ、敢えて第Ⅱ案を推挙した。<br />然るに、当時の我が国では、鋼鐡材は未だ国産化されておらず全部輸入に頼らざるを得ない状況下に在り、更に、埼玉県深谷町に所在する日本煉瓦製造工場に於いて良質な国産建築用煉瓦が製造されている事実から、バルツァーも当初提案を撤回し第Ⅲ案が望ましいとして結局第Ⅲ案に落着した。<br /><br />因みに、明治37年(1904年)4月5日に総武鐵道(Ⅰ)は本所(現 錦糸町)-両國橋(現 両国)間を延長完成させたが、該工事着工前に、逓信省鐵道作業局から該区間建設は、地上交通相互障害排除の観点から、地上線構造様式では無く高架線構造様式に依り建設要求された事から、該社では、煉瓦建築が高価で工期が長期間に亙る事を考慮し、連続上路プレート・ガーダー橋桁83連構造を採択し、当時、東京市内に於ける高架式鉄道線第1号として注目を集めたが、当時の亀戸-両國橋間は東武鐵道列車が乗務員ごと直通乗入運転も実施しており、客貨列車を含め列車本数が少なくなかった事から、列車通過時の騒音が甚だしく、更に、当時の列車内便所は垂流し構造だった事から、地上へ不快な落下物の為に、洗濯物乾干も困難になる等々、該沿線住民にとって該区間開業は利用する機会も無く、単に迷惑苦痛以外何物でも無かった。<br />内閣鐵道院は、大正初期に次世代幹線用大型旅客用蒸気機関車18900型(C51型)、及び、幹線用大型貨物用蒸気機関車9900型(D50型)導入計画案に基き、該区間橋梁橋台強化工事を施行したが、騒音軽減に対しては何等効果が無く、更に、大正12年(1923年)9月1日に関東大震災が発生し、該所である、東京市本所区、即ち、現在の東京都墨田区は大火砕流群が原因で、該区内がほぼ全滅に瀕し被服廠跡地を筆頭とする焼死者数は東京市内に於ける最大発生地だったが、該大火の為に、該橋桁群は火災高熱を長時間受けた為に悉く変形状し再用不可能になり、殆どの橋桁交換を要する事態となり、鐵道省は該区間復旧工事に苦渋を味わさせられた。<br />該橋梁群は、鐵道省に拠る両國-平井間複々線化工事計画決定の一環として現行線に腹付複線が建設され、新路線移行後、老朽化した旧線を撤去し新複線を建設すべく昭和14年(1939年)までに旧線橋桁を撤去した段階で、準戦時体制強化の影響で該複々線計画自体が中止となり、多数の橋脚橋台等々の構造物は撤去される事も無く、戦後改めて総武本線複々線化が決定し該工事支障の為に、昭和42年(1967年)に完全撤去されるまで現地で無残な姿を晒存させていた。<br /><br />更に、東京市は該市区部への鉄道敷設は官民営を問わず、一部の貨物専用線を例外として、全て高架式構造建設を要求した為に、殆どの私鉄は資金面に於いて東京市区中心部への鉄道線新設は困難と認識し、遂には路線延長を断念を余儀無くされるに至ったが、代りに、山手線在駅を拠点起点駅とする地域培養線的性格が強まった。<br />中間停車場設置に就いては、明治30年(1897年)7月16日附に於ける線路設計説明書に拠れば、濱松町1箇所、日蔭町烏森町1箇所、及び、有楽町1箇所と現設駅の外輪が決定明記された。<br /><br /><br />該工事は全体を5工区に分け、<br />Ⅰ)金杉橋町-新銭座町間<br />Ⅱ)新銭座町-烏森町間<br />Ⅲ)烏森町-有楽町間 <br />Ⅳ)有楽町-鍛冶町間<br />Ⅴ)鍛冶町-銭瓶町間<br />の施工が決定し難工事が予想された第Ⅲ工区から着手した。<br /><br />該工事の為に、杉丸太1本16m様式が大量に準備されたが、該丸太は1本に対し対受重量35tが可能と算定され、最終的に19140本が使用され現地に打ち込まれた。<br />地表を6m掘下げ該杉丸太材を打ち込んだが、当時はすべて手作業であり丸太1本で岩盤に到達せぬ事例も多く現場は苦労の連続だった。<br />基礎抗打後、1.5m厚コンクリート打設をし、基礎煉瓦を高さ3.9m積上げ、地上表面部分5.2mを積上げる工事が予定されていた。<br /><br />当時は現在の如き自動式ハンマー抗打機器類などは存在せず、已む無く人力抗打を実施しなければならず、1日1本、乃至は2本打込みが限度であり、天候不良時や日没時の為に完全打込みが困難な時は、作業を途中で中止した状態で放置すると、地下水の押上げ効果の為に、翌日は打込んだ抗木全体が浮出状態になるなど、作業には常に困難が付き纏っていた。<br />因みに、道路面から算出された架道橋底高頂は、天皇御召用馬車に随伴する供奉槍長の数値である。<br /><br />明治33年(1900年)7月に芝区金杉橋-中央停車場間工事着工が予定されていたが、開始直前に北清事変(ほくしん じへん)(同年6月20日~明治34年(1901年)9月7日)勃発の為に、該工事予算が該事変鎮定に補填流用され工事開始は延期したが、同年9月に改めて工事が開始され順調に進行しかに見えた。<br />然るに、日露間関係低下に伴う軍事予算流用の為に着工が一旦延期を余儀無くされたが、間も無く工事が再開されたものの、翌明治34年(1901年)4月に二葉町橋高架橋以遠工事は一旦中断を余儀無くされた。<br />該区間工事再開は翌明治35年(1902年)だったが、明治37年(1904年)2月4日に日露戦争勃発の関係で該工事は再度全面的中止に追い込まれた。<br />此の様に、当時の我が国の置かれた複雑な社会情勢に伴う、該工事は、開始、延期、中止、再開の反復状態だった。<br /><br />この間、明治36年(1903年)2月にバルツァーは独逸に帰国し、以後、工事進行は日本人技術者のみで実行された。<br />我が国政府はバルツァーの該功績に対し勲三等旭日瑞宝章を授与した。<br /><br />明治38年(1905年)9月5日に該戦争が終結し、該工事は全面的に再開され、明治40年(1907年)9月には銭瓶町付近以北以外の全高架橋群工事が竣工した。<br />煉瓦建造物構築で、建築用煉瓦は日本煉瓦製造製品が使用されたが、外観を装飾する化粧煉瓦は、品川白煉瓦、大阪窯業千葉工場、及び、長坂煉瓦製造製品が使用された。<br /><br /><br />同年4月に新永間建設事務所は市街線建設事務所(しがいせん けんせつじむしょ)に名称変更され事務所も京橋区木挽町に移転した。<br />即ち、該時点に於いて、高架線敷設工事は殆ど完成し、残るは、東京中央停車場設置工事に重点が置かれ、更に、御茶ノ水-萬世橋間高架工事追加決定が該名称変更の要因である。<br /><br /><br />該区間に於ける橋桁は英米独から輸入されたが、独逸製はハーコート(HARKORT)社製が輸入使用された。<br />即ち、該社は、フリードリヒ・ハーコート(Friedrich HARKORT)(1793年(寛政8年)2月22日~1880年(明治12年)3月6日)に拠り創設された鋼鉄部材製造供給企業で、デュッセルドルフ・デュイスブルク(DUISBURG)に本社が設置され、アーヘン製鐵組合(Aachener Hutternaktievein)を組織筆頭となり隆盛した。<br />因みに、独逸側該製品発送担当最高責任者は帰国したルムシュッテルだった。<br />橋桁鋼材を輸入し、該材組立は東京石川島造船所、及び、神戸川崎造船所に於いて施工したが、橋桁底に床鋼板を追加した閉床式を採用した為に、列車内設置便所落下物を防止し、更に砕石を装填し有道床構造とした事で列車通過時に於ける騒音防止効果が発揮された。<br /><br /><br />基本設計が決定し、現在の東京駅丸ノ内駅本屋たる中央停車場建設工事開始は、翌明治41年(1908年)3月25日である。<br />当初案では、中央停車場設置予定地、即ち、現東京駅八重洲側地上部分に貨物取扱施設を設置する計画だった。<br />然るに、該取扱施設面積が狭隘で将来に於ける拡張余地が無に均しく、再検討した結果、初代新橋駅旅客扱廃止に伴い遊休施設が発生する事、及び、品川駅背後に拡がる東京湾埋立が決定していた事から、東海道方面貨物取扱は、新橋駅遊休地、及び、品川駅埋立地を活用させる事に変更し、該停車場八重洲川地上部分は、機関庫、及び、客車操車場として使用する事に決定した。<br /><br /><br />明治42年(1909年)12月16日に、烏森-品川間、及び、日暮里-田端間に電車専用複線設置工事が竣工し、同日、烏森驛が開業した。<br />更に、翌明治43年(1910年)6月25日に有楽町驛、同年9月15日には呉服橋驛まで開通した。<br />但し、烏森-有楽町間開通時は単線で、烏森-有楽町間が1閉塞扱で列車折返で使用されたが、呉服橋延長時に複線化された。<br />開通当時、該線は開通時から直流600V複架線直吊架式で電化され電車は2本のポールを並立させて運行された。<br />該区間開通に拠り、東海道本線は呉服橋-神戸間とされ、東京駅開業まで、該線停車場最遠区間だった。<br /><br /><br />因みに、当初、高架線軌道設置は複々線構造ながら電車線のみ設置開通させ列車線軌道は未設置だったが、東京駅丸ノ内駅本屋開業直前たる、大正3年(1914年)2月から漸次設置工事が実施された。<br /><br /><br />当時は東京中央停車場設置工事が盛んに行われていた。<br /><br />東京中央停車場は 東京驛(とうきょうえき)と正式命名され大正3年(1914年)12月14日に竣工し、同月18日に第17代第Ⅱ次 大隈重信(おおくま しげのぶ)(天保9年(1838年)3月11日~大正11年(1922年)1月10日)内閣(大正3年(1914年)4月16日~大正5年(1916年)10月9日組閣)以下を来賓として招待し盛大に開業式典が挙行され、同月20日から正式営業開始した。<br />同時に、京濱間に都市間高速電車が運転される事になり、該新型電車はパンダグラフ集電式だった為に、東京驛開業直前に呉服橋-品川間架線は複架線直吊式から単線カテナリー吊架式に改造された。<br /><br /><br />大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災で、東京-濱松町間に於ける主要被災箇所は、<br />有楽町、新橋、濱松町各駅全焼。<br />有楽町-新橋間高架橋台傾斜。<br />有楽町-濱松町間道床沈下、及び、電線、及び、架線焼失。<br />永楽町変電所全焼。<br />の被害が発生したが、然して、緻密に建築された該高架橋群は震災に拠る直接的被害は発生せず、付近の火災延焼に拠る煉瓦表面に弱焼損被害が発生した程度で、改めて該煉瓦高架橋が頑丈に構築された事を実証させた。<br /><br />因みに、該高架線工事工法と類似建造物に帝國ホテル旧本館建造物を類例とする説が存在する。<br />該建造物は、建築開始以前に米松丸太を地面に打込んだ点では同様である。<br />然るに、該建造物が該高架線土台設置工事と根本的に異なるのは、該高架線工事が丸太を岩盤に到達させたのに対し、該構造物は丸太を浮床式に打込んだ事から、該ホテル開業当日たる関東大震災発生と同時に構造物全体が約600mm沈下し、その後も解体まで沈下現象が継続した事から、該建造物全体が波打状態になり、ホテル館内でありながらカート使用も不可能で、昭和30年(1955年)7月18日未明には、孔雀ノ間軒先が崩壊落下すると言う、建造物として既に深刻な状態になっていた。<br />該建造物は竣工後44年使用されたが、診断の結果、修復は不可能と判定され、惜しくも解体が決定されたが、解体直前の測定では、2階廊下仕上面は新築当時と比較して1100mm沈下していた事が判明し、改めて、該建築物の状態の深刻さが浮彫りにさせた。<br />該建造物は、昭和42年(1967年)11月15日を最後に閉館し、同年12月28日より解体工事に着手し、翌昭和43年(1968年)2月25日に解体工事が完了したが、幸いにして歪みが発生しなかった部分を接合させた上で、正面玄関部分を復元させ、愛知県犬山市所在の明治村で保存展示されている。<br /><br /><br />震災発生当時、東京鐵道局管内では、79本の客貨列車、及び、48本182両の電車が運転されていたが、客貨列車27本、及び、電車8本31両が被災遭遇した。<br /><br />東京-濱松町間で被災した客貨列車は、<br />新橋驛停車中の<br />下関10時10分発東京行 3等普通急行第6列車<br />牽引機関車 18638<br />客車14両編成1本が、該驛停車中に該震災が発生し乗客は該駅に於いて全員下車させた。<br />該列車に車輌脱線損壊等々の異常は発生しなかったが、震災発生後、付近一帯で大火災数群が発生した為に、該駅では駅本屋への延焼を懸念し、該列車に該駅備品重要書類等々を搭載させた。<br />然るに、同日20時頃に該駅に火災が迫ってきた為に、駅長 杉田武造は総員退避を命令し、該列車は同日20時30分に推進運転で品川に向け運転したが、濱松町驛先の古川に架橋の金杉橋橋梁付近路盤が陥没崩壊していた事から該列車は該位置に停車せざるを得ず、沿線火災の為に牽引機関車もろとも全車輌、震災当日23時頃焼失。<br /><br />電車編成は、<br />Ⅰ)有楽町-新橋間 第333列車(京濱線)<br />デロハ6140 + サハ33723 + サロハ6194 + デハ33513<br />震災当日20時頃焼失。<br /><br />Ⅱ)濱松町-新橋間 第326列車(京濱線)<br />デハ23507 + サハ33775 + デハ23515 + デハ23516<br />震災当日23時頃焼失。<br />両編成は、大井工場派遣技手に依り同月6日に撤去された。<br /><br /><br />関東大震災に依る該区間復旧は、鐵道省東京第1改良事務所、及び、帝國陸軍第1鐵道連隊将兵が施工を担当した。<br />震災後に於ける該区間復旧は、電車線被害が甚大だった事から、先ず、同月18日に列車線が復旧開通し、同月24日に電車線が開通したが、有楽町、新橋、及び、濱松町各駅設備被害が甚大だった事から、各駅復旧は同月27日にずれ込み、同月26日まで東京-品川間途中駅は通過した。<br />然し、永楽町変電所焼失の為に、該区間に対し直流600V送電が不可能になり、24日の電車線復旧では蒸気機関車が電車を牽引して運転する形態だったが、大井発電所復旧に拠り、同年10月1日より該区間に対し直流1200V送電が可能になり、京濱線電車を使用し萬世橋驛まで運転された。<br />有楽町、新橋両驛は火災鎮火後、構造物を形成する鋼鉄枠脱落が目立ったが、当時の金属間結合は現在の如き溶接法が未確立時代であり、鋲(リベット)結合しか存在し得ない時代故に、火災等々を原因として高熱発生時に該金属が膨張し、鋲が剥離離脱する事で、構造物が崩壊する事は、はからずも関東大震災に於ける被災に拠り実証し、後に、昭和20年(1945年)5月25日東京霞ヶ関空襲時に東京駅本屋が罹災した際も同様崩壊例が現出した。<br /><br />因みに、震災災害時に鉄道高架橋上を徒歩移動するのは、道路上と異なり一見すると障害物等々が少なく安全にも思えるが、然し、当時の東京市内たる、有楽町、新橋、濱松町、神田、及び、水道橋各駅付近に於いて、各駅設備のみならず高架線上に於いて列車編成ごと焼失している事実、及び、東京駅で勤務中に震災に遭遇し翌日まで救護活動を含めた超過勤務後、徒歩で帰宅した該駅職員は、東京-萬世橋間高架橋上に性別不明の炭化状焼死体が無数に散乱していた事実を目撃しており、火流は下位から上昇する性質である事を加味し、故に、地平に於いて火災延焼中に鉄道高架橋上を徒歩避難移動するのは甚だ危険行為と察し、現在に於いても再考されるべき主要事項である。<br /><br /><br />震災復旧工事が優先された為に遅延していた列車線電化工事は、大正14年(1925年)12月13日に、東海道本線東京-國府津間、及び、横須賀線全線が直流1500V電化工事が竣工し、安定が確認される迄、電気機関車に蒸気機関車を連結して運転された。<br />また、同日に京濱線東京-櫻木町間も、従来の直流1200Vから直流1500Vに昇圧された。<br /><br /><br />昭和4年(1929年)4月15日に東京市は町名変更を実施し、東京驛所在地たる麹町区永楽町は丸ノ内1丁目に変更された。<br /><br /><br />昭和8年(1933年)に煉瓦内外に亀裂が発見され、調査の結果、地下水過剰揚水を主因とする地盤沈下の為に圧密沈下と判定され、該高架橋群の一部が沈下変状するの被害が発生したが、早期発見で修復され大事には至らずに済んだ。<br /><br /><br />国際オリンピック運営委員会は昭和15年(1940年)8月の夏季オリンピック開催地は東京に決定し、更に、東京の8月開催は熱帯性暑気との欧州委員関係者の指摘に依り、同年9月21日~10月6日開催に最終決定したが、此れに対応すべく、鐵道省は主要幹線改良計画の一環として、東京驛、及び、品川驛構内大改良、更に、田町-田端間に於ける京濱線、及び、山手線電車運転分離を実施させるべく、昭和10年(1935年)に東京-品川間3複線化工事を着工した。<br />該工事は、東京市内最密集地に高架橋を追設するもので、有楽町、及び、新橋付近の土地収用は困難を極め、更に、内山下町高架橋から幸橋架道橋に至る外濠川内に連続複線型コンクリート・ラーメン高架橋を追設置する工事で、昭和14年(1939年)に竣工予定だったが、日華事変(にっか じへん)(昭和12年(1937年)7月7日~昭和16年(1941年)12月8日)勃発に伴う資材割当制度導入、且つ、時代は戦時体制移行に伴う物資不足、更に、昭和16年(1941年)12月8日に大東亜戦争勃発に拠る深刻な労働力不足に拠り、新列車線完成は昭和17年(1942年)6月にずれ込み、有楽町-浜松町間を新列車線に移設した段階で戦局悪化に依り他工事は中止された。<br /><br /><br />昭和12年(1937年)に、当時の陸軍参謀本部は陸軍軍務局と協同で航空機に拠る爆弾弾着時に於ける極秘被害確認実験を実施した。<br />即ち、実際に鉄骨鉄筋コンクリート建築物を構築し、上空200m地点の航空機から投下した爆弾被害を調査測定が目的だった。<br />此れに拠れば、<br />50kg爆弾を該地点から投下すると<br />該建造物は3階部分を貫通後爆発、<br />着弾地点  15m以内は強烈な爆風に拠り内臓破裂で全員即死。<br />      20m以内は爆弾破片が飛散し全員即死。<br />     100m以内は爆弾建築物小破片で死傷者多数。<br />250kg爆弾を該地点から投下<br />該建造物は8階部分を貫通後爆発、<br />着弾地点  30m以内は強烈な爆風に拠り内臓破裂で全員即死。<br />      45m以内は爆弾破片が飛散し全員即死。<br />     200m以内は爆弾建築物小破片で死傷者多数。<br />との実験結果が得られた。<br /><br /><br />戦後公開された米空軍日本本土戦略攻撃に関する資料に依れば、昭和20年(1945年)1月27日の第21爆撃機軍団第73航空隊所属B29戦略爆撃機39機に依る空襲は、当初は東京都武蔵野市在の中島飛行機武蔵製作所を目標としたものだったが、雲量厚く天候不良の為に、帰路、東京銀座築地地区に攻撃目標を変更したもので、<br /> 警戒警報発令 13時03分<br /> 空襲警報発令 14時00分<br /> 空襲開始   14時03分<br /> 空襲警報解除 15時10分<br /> 警戒警報解除 15時20分<br />当時は空襲警報発令空襲中で、有楽町駅では首席助役以外の者は、全員、防空壕に避難していたが、空襲警報発令時、及び、解除時の令達用サイレンが空襲時たるにも拘らず、突然故障で鳴り出し、此れを耳にした者達は空襲が終了したものと解し安心したが、事実、ラジオからは、<br />只今の空襲警報解除のサイレンはサイレン本体の故障であり、依然敵機は我が帝都上空で戦闘行為を継続中なり、帝都臣民は引き続き本空襲に対し厳重なる警戒を要する。<br />と放送したが、有楽町駅前の地下防空壕に退避していた者達が該放送を聞く事も無く、サイレンを耳にし空襲警報解除と誤認即断した防空壕避難者達は、該壕から出て少しでも早い電車に乗車すべく該駅出札口に乗車券を購入すべく行列に殺到した時に、B29戦略爆撃機70機中の1機が投下した250kg級爆弾が、東海道線有楽町駅下り新列車線に命中、該新高架線を貫通破壊し、該駅中央出札所付近で爆発炸裂した。<br />該爆発で該駅該所付近は大破飛散し、不運にも、該駅職員は、出札主任 室田義一氏以外、駅長以下9名即死、若しくは、行方不明、公衆約130~180名以上即死と記録されている。<br />然し、実際には、該爆弾に依る爆発爆風で遺体は四散状態になり、肢体完全な遺体など殆ど存在しなかった事から、実際には回収された遺体部分から付近に偶然居合せた公衆を含め400~500名以上が犠牲になったともされ、当時、第48代警視総監 山崎 巌(やまざき いわお)(明治27年(1894年)9月16日~昭和43年(1968年)6月26日)(昭和15年(1940年)12月23日~昭和16年(1941年)9月20日在任)の直命に拠り、非常時に於ける空襲被災現場の写真撮影に従事した警視庁巡査 石川光陽(いしかわ こうよう)(明治37年(1904年)7月5日~平成元年(1989年)12月26日)が撮影した該現場写真を拡大精査した限り、四散散乱した遺体胴体数は150名程度などでは無く約倍数と考察される。<br />取敢えず遺体は日比谷公園有楽門花壇脇に運び、東京都が空襲罹災死者の為に事前に用意していた組立式棺桶に納棺され該地で火葬された。<br />作家 内田百聞(うちだ ひゃっけん)(明治22年(1889年)5月29日~昭和46年(1971年)4月20日)の戦時中の日記 東京焼儘(とうきょう しょうじん)に於いて、<br />省線電車も東京驛へは入れなかつた由にて今日の空襲は銀座方面では大変だつた事が段段わかる<br />との記述があり、当時の東京都民にとって関心高い情報だった。<br /><br />該区間開通は、<br />電車線同日20時00分<br />列車線  24時00分<br />と記録されてるが、勿論、列車線は仮復旧での状態であり本復旧は翌2月中旬である。<br />また、同時に有楽町変電所も被災し、配電盤が損傷した為に送電が不可能になり、翌28日より他変電所から応急送電を受け電車運転が可能になり並列運転が制限されたが、元来、該変電所付近は急曲線連続区間で高速を必要としない事から影響は僅少で済んだが、本復旧まで約2週間を要した。<br /><br />因みに、大東亜戦争中の東京都区内に於ける運輸通信省路線内での空襲被害で、大量死者が発生したのは、該駅以外では、及び、同年3月9日未明の東京大空襲で総武本線錦糸町駅、亀戸駅、及び、平井駅構内に避難者上に火砕流が襲い、生存者は無く、死者240名弱が発生した2件である。<br /><br />因みに、該空襲で当時の帝都高速度交通営団銀座駅上に500kg級爆弾が命中し、該駅施設を含め破壊された為に、新橋-京橋間が不通になった。<br />該社は緊急整備を施し、同年2月1日から新橋-京橋間が開通したが同年3月10日に完全復旧するまで該区間は単線運転で急場を凌いだ。<br /><br />政府は、関東大震災発生時の物見遊山式に震災見物せんと地方から上京する連中が後を絶たず、此れらの者達の為に、本来の鉄道輸送に支障を来たした苦い経験に鑑み、京浜地区空襲時に於ける混乱防止の為に、京浜地区発着、及び、該地区通過となる乗車券類に就いて、軍公務者以外への発売禁止を決定し、同年2月1日附で実施した。<br />その為に、地方に疎開していた者達が、実家付近が空襲を受けた事を知り、実家に帰らんとして該法令の為に乗車券が入手出来ず、実家家族の安否状況すら把握し得ぬ事態が続出する。<br /><br />その後に於ける、該区間に於ける大東亜戦争中の空襲被害は、<br /> 3月 9日  第21爆撃機軍団 第73航空隊 第313虚空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計279機<br /> 警戒警報発令 22時30分<br /> 空襲開始    0時08分<br /> 空襲警報発令  0時15分<br /> 空襲警報解除  2時35分<br /> 警戒警報発令  3時55分<br />   新橋駅構内<br />    列車ホーム上屋半焼<br />東京-浜松町間線路破壊2か所150m 枕木焼損264本<br />新橋駅構内被災車輌<br />  スロ33 4   (東シナ)全焼<br />  スハ36 10(東シナ)全焼<br />  スハニ33 8(東シナ)全焼<br /> 以上、昭和21年(1946年)1月23日附戦災廃車<br />該空襲に於いて、空襲警報発令時刻に対し空襲開始時刻が前後しているのは誤記では無い。<br />即ち、当時の関東地区防空業務は陸軍東部軍管区が担当だったが、当直陸軍将校が、当時の状況から東京が空襲必須であり、且つ、下部機関から空襲警報発令を再三に亘り要請されたにも拘らず、その都度却下させ、事実空爆開始がされた時点ですら空爆の事実確認を求めると言ふ、マニュアル通りの愚行の為に、貴重な時間を費消した結果、空襲警報発令時点で、城東区、本所区、深川区、平井区、及び、浅草区は火の海状態だった。<br />それ故、当時の東京下町の人々は、警戒警報後、空襲警報発令無き状態の内で、いきなり空爆が開始され、何が発生したか全く寝耳に水状況での事前退避行動を執る事も叶わず、此の為に、人的被害を大きくさせた。<br />戦争末期に於ける、陸軍士官学校に於ける極端な迄の偏狭詰込愚直教育の悪弊が、正に非常時と言えど検討もされず通用していた典型である。<br /><br />5月24日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計477機<br /> 警戒警報発令  1時05分<br /> 空襲警報発令  1時29分<br /> 空襲開始    1時36分<br /> 空襲警報解除  3時50分<br />警戒警報解除  3時55分<br />   新橋駅構内<br />    列車ホーム上屋半焼<br />   新橋-浜松町間線路破壊2ヵ所<br />    同日 6時30分開通<br /><br />5月25日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計464機<br /> 警戒警報発令 22時02分<br /> 空襲警報発令 22時22分<br /> 空襲開始   22時30分<br /> 空襲警報解除  1時02分<br /> 警戒警報解除  1時30分<br />   東京-有楽町間、及び、新橋-品川間<br />     線路破壊3ヶ所300m、枕木1000本焼失<br />    東京駅構内<br />    丸ノ内駅本屋全焼<br />  電車線27日12時00分開通<br />  列車線   18時00分開通<br />東京駅構内被災車輌<br />  スロ32 12      (東シナ)全焼<br />  スハ36 2       (東シナ)全焼<br />  スハフ32 233(東シナ)全焼<br /> 以上、昭和23年(1948年)5月17日附戦災廃車<br /><br /><br />東京都は、昭和22年(1947年)3月15日附を以って、行政合理化の為に旧35箇所存在した区を22区を経て現行23区に統廃合し新区名を制定命名した。<br /><br /><br />東京都区内中心地は、度重なる空襲に依り相当数の建造物に被害が発生したが、戦後、該空襲塵芥処理を目的として、半ば遊休化していた河川を活用する事に決定した。<br />即ち、大正中期以前の状況と異なり、水運利用が激減し、特に、関東大震災以降、都内中心地に於ける道路整備が進行した事から、舟運を必要としなくなり、更に、水質汚濁が原因とする病虫害発生防止の観点から、昭和23年(1948年)に、三十間堀川、東堀留川、龍閑川、新川、翌昭和24年(1949年)に真田裏川、波田川、六間堀川、鍛冶屋橋下外濠が活用埋立てられた。<br /><br /><br />田町-田端間は、京浜東北線、及び、山手線電車が双方使用し、列車本数の増加が困難になり混雑緩和を目的として、戦後、昭和24年(1949年)9月に複々線化工事が再開され、戦前に構築されていた田町-浜松町間に存在した芝浦跨線鉄道橋築堤解体等々の難作業が在った。<br /><br />常磐線は、昭和11年(1936年)12月11日に日暮里-松戸間が電化され上野-松戸間が電車運転されていたが、戦後は、東京都区内に於ける数次に亙る空襲で焼出された人々が、該沿線に疎開土着定住者が増えた事から、東京近郊に於いて乗車率激増が著しい状況だった。<br />占領軍GHQの工事中止命令に拠り該工事が中止させられた高崎線電化工事余剰資材を活用し、昭和24年(1949年)6月1日に松戸-取手間が電化延長したが既に焼け石に水状態であり、日暮里駅、及び、上野駅に於ける常磐線からの乗換は殺人的状態だともされていた。<br />東京鉄道管理局では、昭和26年(1951年)1月から日暮里駅、及び、上野駅混雑緩和を目的として常磐線電車1本を上野駅で転線して山手線に乗入をさせたが、山手線外回り電車、及び、京浜東北線南行電車のダイヤを乱すとして直ぐ中止を余儀無くされてしまった。<br /><br />然し、該工事最中の昭和27年(1952年)6月18日に日暮里駅で重大事故が発生した。<br />即ち、当日朝ラッシュ時たる7時45分頃、該駅南跨線橋羽目板が大混雑の為に圧力に耐えかね破損剥離し、該跨線橋通行中の旅客数十名が7m下線路上に次々と落下し、運悪く、京浜東北線浦和行電車が入線していた事から落下者を次々とはね、死者8名、重軽傷者5名を出す惨事となった。<br />事故原因は、該跨線橋は昭和3年(1928年)に架橋された木造構造で、大東亜戦争末期の空襲で焼損被害が発生していたにも拘らず、保守修理も侭ならぬ当時の状況で酷使され続け、山手京浜東北線対常磐線乗換は上野駅より該駅が好まれた事から過酷な条件下での耐用が維持出来なかった事が椿事の原因だった。<br /><br />然るに、該増線工事は、同年に有楽町駅、及び、昭和30年(1955年)に浜松町駅新ホームが竣工した事から、混雑緩和の為に新ホーム使用を機に、一部完成区間を使用し、昭和29年(1954年)4月15日より日暮里駅、及び、上野駅混雑緩和を目的として常磐線電車を上野-有楽町間を平日朝上り13本、夕方下り15本を延長運転し混雑緩和をはかったが、残存部分も昭和31年(1956年)11月19日に完成し、該双方の運転は完全分離された。<br /><br /><br />昭和27年(1952年)10月14日は、鉄道開業80周年記念日だった。<br /><br />本来であれば、70周年記念と云う,キリが良い、昭和17年(1942年)10月14日に祝典されるべきものであったが、該当時は大東亜戦争中の事でもあり、時節柄、祝典など自粛する時代だったが、それでも、地味ながら各地で祝祭行事が施行され、逓信省は蒸気機関車C59型を図柄にした記念切手を発売した。<br />日本国有鉄道は、70周年記念分をも含め全国各地に於いて記念行事を展開させる事に決定し、翌15日に首都圏主要駅に於いて、当時の著名人を起用し、名誉1日駅長任命が行われた。<br />東京駅  作家 内田百聞(うちだ ひゃっけん)(明治22年(1889年5月29日~昭和46年(1971年)4月20日)<br />有楽町駅 女優 越路吹雪(こしじ ふぶき)(大正13年(1924年)2月18日~昭和55年(1980年)11月7日)<br />が選出された。<br /><br />有楽町駅では、駅長と共に越路が該駅構内巡回し、構内放送を行うと、当時当代きっての宝塚出身男役スターで知られた越路を一目見ようとした野次馬達が該駅に群がり、該群集達の為に、大混乱になり収拾がつかぬ状態になった。<br /><br />東京駅では、百聞が駅長と共に構内巡視の一環として巡回中に前代未聞の椿事が発生した。<br />即ち、東京駅12時30分発大阪駅行 特別急行列車はと号発車に合せ出発式典が予定され、百聞が該列車乗客専務車掌に花束贈呈と出発合図を送る手筈となっていた。<br />然るに、百聞は該車掌に花束を手渡す訳でも無く、時間になり発車ベルが鳴ると同時に、該列車最後尾の1等展望車オープンデッキに<br />職務放棄<br />と叫び、花束を持ったまま飛び乗り、居並ぶ国鉄幹部が呆気にとられ、野次馬達の大爆笑の渦中、該列車に乗車して熱海まで行ってしまった。<br />本当は、百聞は該列車終点たる大阪まで乗車したかったのだが、熱海までで断念せざるを得なかったのは、前日に入手可能な1等特別急行券が東京-大阪間が外国人訪日団体旅行者乗車の為に満席で、東京-熱海間しか空席が無かったかったからである。<br /><br /><br />戦後、千代田、中央、及び、港区所在の小河川は道路網整備と反比例し舟運衰退と同時に戦災塵芥処分活用地として利用され、跡地は道路と化したが、以前とは異なり舟運の必要性が薄れた事から、最終的に外濠川も活用される事になり、東京都より公有水面埋立許可を得た事で昭和28年(1953年)に着工され、昭和39年(1964年)迄に該跡地に、東海道新幹線、及び、首都高速道路KK線が漸次建設設置され、外濠川が存在した当時の面影は完全に消滅した。<br />然し、東京都が区境界線を未設定のまま埋立工事を施工した事から、該濠に於ける千代田、中央、及び、港区への帰属地問題が現在も争点として存在する。<br /><br /><br />帝都高速度交通営団では、次期地下鉄建設に就いて、池袋を起点に大手町、銀座、霞ヶ関、新宿を経由する路線を選定し、開通時に丸ノ内線と命名された。<br /><br />東京-有楽町-新橋間に於いて、該高架橋下を通過する事が決定した為に、該高架橋建設当時に設置した基礎構造を支障させない工夫を必要とさせた。<br />即ち、該地下鉄東京-西銀座(現 銀座)間工事では、第4有楽町高架橋下通過の為に、該高架橋に対し42度の角度で通過する事から、?隙隙型コンクリート構造を採用構築し、西銀座(現 銀座)-霞ヶ関間工事では、山下橋架道橋下通過地点に対し、該高架橋に対し66度の角度で通過する事から、ケーソン基礎12m×4基を設置し、各施設が変状変形を発生させぬ様に施工させた。<br /><br /><br />昭和30年(1955年)当時、東海道本線、横須賀線列車は、東京-大船間は同一線路を使用して運転されていた事から、当時ですら列車本数増加は不可能とされていた為に、両線列車分離運転の一環として、東京-品川間増線工事が計画された。<br /><br />当初計画では、現行東海道本線に腹付させ地上線走行とさせる為に、昭和32年(1957年)から有楽町駅付近土地買収を行い必要地取得を開始した。<br />然るに、用地取得が順調に進行する内、昭和35年(1960年)1月に新幹線建設が閣議決定し、日本国有鉄道が取得済だった既得用地は新幹線建設用地に転用が決定された事から、東海道本線、横須賀線列車分離運転計画は一時中止の已む無きに至った。<br />昭和40年代になり、東海道本線列車、及び、横須賀線列車運転分離工事実施の為に、品川-東京-錦糸町間は地下化される事になり、該区間は該高架橋群直下をシールド工法で掘削される為に、該高架橋煉瓦構体保護強化の必要性から、コンクリート防護工事が施工され、建設当時の面影が相当喪失してしまったのは誠に残念である。<br /><br /><br />日本国政府は、首都東京を中心とした首都圏に於いて、平成32年(2020年)夏季オリンピック大会開催決定に基き、各方面に於ける建築関係が盛んに目白押し状態だが、他方、有楽町、新橋、及び、浜松町各駅に於いて、該各駅構内改築工事の一環として、自由通路設置が決定した事から大改築工事が予定されている。<br />此の為に、特に、有楽町、及び、新橋両駅に就いて、該建築構築に対し障害となる煉瓦高架橋構造物群解体撤去が計画されている。<br />更に、山手線全駅に対し電車扉に連動作用するホームドア設置が進行しており、それ故、該駅開業以来の煉瓦構造物解体が施工される。<br />設置以来100年を超えた歴史的建造物故に、已む無しとは申せ、解体撤去は誠に残念の極みである。<br /><br /><br />平成27年(2015年)3月の時刻改正から東海道本線対東北本線列車相互乗入

東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~東京-浜松町間 明治頌歌~

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2014/10/26 - 2014/10/26

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横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

江戸期末期まで、江戸市内に存在した武家地、及び、寺社地に町名なるものは存在しなかった。
即ち、町名とは町人庶民居住地識別の為に必要存在するものであり、それ故、武家地や寺社地に対し、別に町名など必要ともしなかったからである。

明治2年(1869年)当時に、市内に982町存在したとされるが、江戸全体との割合は約15%で、寺社地が約15%、残りは約70%は全部武家地であり、要するに当時の東京市内約85%には町名が存在しなかった。

然るに、明治維新直前に幕府は全大名の参勤交代制を廃止した事が原因で、全国諸藩は江戸上中下武家屋敷など最早無用の存在と化していたが、明治政府は、明治4年(1871年)8月29日附で廃藩置県を断行した事で、原則として在京藩邸跡地は公収され国有地に編入された。
他方、該地に対し最寄至近町に編入処置が講じられたが、該地が余りに広大な所は、半ば強引にして独自の町名が命名された。
即ち、該例代表的存在として、現在の千代田区紀尾井町(きおいちょう)(紀伊藩徳川家、尾張藩徳川家、彦根藩井伊家)は最たる存在である。

藩邸跡地たる現在の千代田区丸ノ内から霞ヶ関にかけて、司法省関係官庁、及び、後の 帝國陸軍第1師団となる東京鎮台が設置されたが、該鎮台が明治20年(1887年)に麻布区六本木に移転後は広大な空地化していた。


内務省は、明治11年(1878年)11月2日附を以って、郡区町村編成法(ぐんくちょうそん へんせいほう)を施行し、東京市下に、麹町區、神田區(現 千代田区)、日本橋區、京橋區(現 中央区)、芝區、麻布區、赤坂區(現 港区)、四谷區、牛込區(新宿区)、小石川區、本郷區(現 文京区)、下谷區、浅草區(現 台東区)、本所區、深川區(現 墨田区)の15区が設置された。
戦後、東京都政の下に区の統廃合を実施し、別名カッコ内区名に変更存続の結果、旧区名は消滅したが、現行行政関連施設として、概ね、警察署名、消防署名、及び、郵便本局名に、該痕跡名称が残存する。


今日に於ける首都東京の街並み形成の嚆矢は、第8代東京府知事 芳川顕正(よしかわ あきまさ)(天保13年(1842年)1月21日~大正9年(1920年)1月10日)(明治15年(1882年)7月19日~明治18年(1885年)6月13日在任)が、旧態然たる東京を近代国家首都に相応しい街並みに改変すべく、鉄道、道路、河川、橋梁、市場、公園、上下水道、火葬場、共同墓地、等々設置を近代的都市基盤事業として立案し、市区改正事業に着手した事が発端である。
即ち、我が国は、内閣制度導入と国会開設を目前に控え、丸ノ内地区他に点在している官庁を、霞ヶ関、及び、日比谷地区に移転集約させる案で、此の為に、東京府土木課工事課長 原口 要(はらぐち かなめ)(嘉永4年(1851年)5月25日~昭和2年(1927年)1月23日)に該担当研究を一任させた。
原口は、明治8年(1875年)に渡米し、創立当初のトロイ大学(TROY UNIVERSITY)で土木工学を専攻する傍ら、自ら志願して1年半に亘りペンシルヴァニア鐵道建設工事に従事し、特に、フィラデルフィア市街高架線建設工事で、該地区で採用された鋼鐡製連続橋桁橋梁構造の長短を熟知する機会を得ており、帰路、独逸の首都ベルリン高架線を見学研究した実績を有する人物だった。
原口は、明治13年(1880年)に帰国し、芳川の下で市区改正事業考査を担当する事になった。

市区改正審査委員会が明治18年(1885年)12月に創設設置され、委員長に 内務大臣 山縣有朋(やまがた ありとも)(天保9年(1838年)6月14日~大正11年(1922年)2月1日)(明治18年(1885年)12月22日~明治23年(1890年)5月11日在任)を据え、芳川をはじめ、井上 勝(いのうえ まさる)(天保14年(1843年)8月25日~明治43年(1910年)8月2日)鐵道局長官、樺山資紀(かばやま すけゆき)(天保8年(1837年)12月9日~大正11年(1922年)2月8日)警視総監、及び、三島通庸(みしま つねみち)(天保6年(1835年)6月26日~明治21年(1888年)10月23日)内務省土木局長が委員に就任した。
原口は、該委員会に於いて高架線設置の原則意義を教示説明させられたが、委員の中で鉄道に精通している筈の井上ですら、留学先のロンドンで高架線の実態を殆ど実見しておらず、故に他の委員は高架線に関する概念など絶無に均しく、樺山に至っては、鉄道線路を高架なる物にすれば、祭礼時に於ける神輿通過障害が発生する、云々、等々の無智低次な珍問を成し、説明役の原口は肥前島原藩出身で、該藩は戊辰戦争の際は朝廷側だったとは申せ、無智単純でも出世栄達可能な薩長藩閥連中に対し、隔靴掻痒たる心情を抱いていたに相違無い。
然るに、此の委員中で該効果を逸早く理解したのは三島だったと思われる。
三島は、初代山形縣令在任中に福島米澤間栗子街道や仙台山形間関山街道を開通整備させ、栃木縣令在任中は那須疎水設置の実績を有した人物故に、近代交通に於ける土木構築設置に対する地域活性経済効果が大なる事を深く理解しており、原口に対する質問事項も的確を極め、高架線設置に対し該案を積極的に全面支持していた。
議論は喧々囂々堂々巡りの反復状態だったが、明治22年(1889年)5月に高架線設置に関し、委員会は原口案一任する事に最終決定した。
然し、原口案を全面支持し善き理解者だった三島が該決定直前に急逝した事は、原口にとって何より痛恨の極みだったものと推察される。


他方、官庁集中計画推進筆頭は、当時の外務卿 井上 馨(いのうえ かおる)(天保6年(1836年)1月16日~大正4年(1915年)9月1日)である。
井上は、英国人建築家 ジョサイア・コンドル(Josiah CANDER)(1852年(嘉永4年)9月28日~1920年(大正9年)6月21日)に該計画案を盛込んだ見積りをさせた。
然るに、コンドルは、格子型街路に官庁を並立させた、古典的、且つ、平凡極まりない原案だった事から、井上が期待していた、近代的バロック風威風堂々とした想定案とは余りに掛離れていた為に、井上を失望させ該提案は却下された。
井上は、独逸から都市計画立案の専門家を招致させる事に決定し、ヤーメス・ホープレヒト(James HOBRECHT)(1825年(文政8年)12月31日~1902年(明治35年)9月8日)、ヘルマン・エンデ(Hermann ENDE)(1832年(天保3年)3月4日~1907年(明治40年)8月10日)、及び、ヴィルヘルム・ベックマン(Wilhelm BOCKMANN)(1832年(天保3年)1月29日~1902年(明治35年)10月22日)3名は明治19年(1886年)に訪日し、井上は直ちに該計画を検討させた。
特に、ホープレヒトは、ホープレヒト・プラン(HOBRECHT PLAN)と称する、ベルリン都市計画推進中枢担当の第一人者である。
ホープレヒトは、東京市内に分散していた官庁施設を霞ヶ関に集中させ、隣接する日比谷は自然を生かした近代的西欧風公園を設置し、更に、新橋-上野間に連絡鉄道線を建設し、該中間部に首都に相応しい中央停車場設置を骨子とする計画案を提示した。

独逸からヘルマン・ルムシュッテル(Hermann RUMSCHUTTEL)(1844年(天保15年)11月21日~1918年(大正7年)9月22日)が来日したのは明治20年(1887年)11月である。
ルムシュッテルは、プロイセン國有鐵道機械監督職として1884年(明治17年)まで在勤したが、当時の独逸帝國は特別管理職者に対し開発途上国に派遣指導する政府制度が存在した。

ルムシュッテル等々の独逸人技師達来日に至る経緯として、当時の駐独日本公使 青木周蔵(あおき しゅうぞう)(天保15年(1844年)3月3日~大正3年(1914年)2月16日)に依る独逸政府への要請斡旋仲介が存在したものと推定される。

青木は、長州萩藩出身で、明治元年(1868年)に、当時の藩主 毛利敬親(もうり よしちか)(文政2年(1819年)3月5日~明治4年(1871年)5月17日)から独プロイセン王国(KONIGREICH PREUSSEN)に留学が命ぜられ、青木は渡独後、医学、化学、軍事学、法学、経済学、外交学、等々を学んだ。
青木が留学当時の独逸国内は王公國が群雄割拠する状態だったが、プロイセンが筆頭格になり次第に勢力を強め、スペイン王位継承問題に端を発したエムス電報事件(EMS Dispkt)の結果、フランスとの間に対立が深まり、遂に、普仏戦争(ふふつ せんそう)(1870年(明治3年)7月9日~1871年(明治4年)5月10日)が勃発し、該戦争はプロイセンが勝利しフランスは敗北に期した。
明治4年(1871年)1月18日に国内統一を果たされた事で、プロイセン國王ヴィルヘルム-Ⅰ世(WILHELM-Ⅰ)(1794年(寛政9年)3月22日~1888年(明治21年)3月9日)は講和条約締結の為にフランスの首都パリに乗込み、ヴェルサイユ宮殿に於いて独逸帝國成立を宣言し、初代独逸帝國皇帝(KAISER)に即位した。
國王ヴィルヘルム-Ⅰ世時世から配下で采配を振るっていたのが、鉄血宰相とも称された オットー・フォン・ビスマルク(Otto von BISMARK)(1815年(文化12年)4月1日~1898年(明治31年)7月30日)である。
即ち、独逸帝國は我が国と相前後して国内統一を成立させた新興国家であり、ビスマルクは主潜在仮想敵国たるフランスとの有事の際に備えるべく、軍事重視の為に重化学工業重点主義政策を導入していた時代に青木が渡独し、青木は正に新興国家独逸帝國隆盛期を目の当たりに見た。
青木は帰国後、明治6年(1873年)に外務省入省後、翌明治7年(1874年)8月17日附で駐独弁理公使を拝命して首都ベルリンに赴任し、同年9月13日附で特命全権公使に昇格後、明治30年(1897年)に至るまで、計4回、駐独特命公使を拝命した、当時の我が国に於ける独逸通筆頭外交官だった。
ビスマルクは人一倍猜疑心が強く、容易に他人を信用しない意固地な性格だったと伝えられているが、青木公使との関係は極めて良好で、青木は当時の在独日本人としてビスマルクから最も信頼されていた事は、現存する当時の独逸政府の記録文書を閲覧しても明確である。

ルムシュッテルは、来日後、九州鐵道會社から技師として招聘され、明治23年(1890年)から明治27年(1894年)まで該社技師長として主要幹線建設に貢献する傍ら、逓信省鐵道作業局はルムシュテットを枢密院特命建設技監に推挙し、新橋-上野間連絡線設置構想に対し、計画段階から参加助言を求めていた。

ルムシュッテルは、該区間建設に対し、
Ⅰ)全区間高架線構造とする。
Ⅱ)長距離列車、及び、各駅停車列車運転を完全分離させ複々線構造とする。
とした骨子を構想案として策定提言している。

即ち、ルムシュッテルは、該区間に対し高架式構造を提言した理由として、既に当時の東京市内道路は交通量が多く、既に、明治15年(1882年)6月25日に東京馬車鐵道が新橋-日本橋間を開通させていた事から、将来に於いて該市内に、馬車式、若しくは、電気式路面鉄道設置時に、平面式構造では双方に対し交通障害が発生するのは必須と解していた事と、更に、東京市内は地下水位が高く、且つ、当時の我が国に於ける未熟な土木技術では地下式構造構築など論外であり、当然の如く高架線構造に落ち着いたと見るべきであろう。
また、後に東京驛となる中央停車場設置に就いて、該停車場を頭端様式では無く通過様式として新橋-上野間連絡鉄道線の中間駅として設定した。


第3代第Ⅰ次山縣有朋(やまがた ありとも)(天保9年(1838年)6月14日~大正11年(1922年)2月1日)内閣(明治22年(1889年)12月24日~明治24年(1891年)5月6日組閣)の内務大臣 西郷従道(さいごう つぐみち)(天保14年(1843年)6月1日~明治35年(1902年)7月18日)(明治23年(1890年)5月11日~明治24年(1891年)5月6日在任)は、鐵道庁長官 井上 勝(いのうえ まさる)(天保14年(1843年)8月26日~明治43年(1910年)8月2日)に対し、明治23年(1890年)9月17日附文書 市街線建設ニ関スル訓令 を交付した。
即ち、該内容は、
Ⅰ)麹町区永楽町付近に中央停車場建設設置。
Ⅱ)新橋から上野に至る新設高架式鐵道建設。
Ⅲ)中央停車場以南区間は東海道線延長区間として官設鐵道とする。
該停車場以北から上野に至る区間は日本鐵道會社が建設するが、該社財政支出困難時は秋葉原を境界として、該以南は政府が代理設置工事を施工。

此れを受け、ルムシュテットは、鐵道庁技師 仙石 貢(せんごく みつぎ)(安政4年(1857年)7月22日~昭和6年(1931年)10月30日)と共に現地測量調査を実施した。


明治14年(1881年)8月1日に日本鐵道會社(にほん てつどう かいしゃ)が創設され、政府は同年11月11日附で該社に対し特許路線條約書を交付し、該社では此れを基に鉄道建設工事を開始し、明治16年(1883年)7月28日に、上野(うえの)-熊谷(くまがや)間を開通させた。
該社は、路線延長を重ね、明治23年(1890年)11月1日に、上野-秋葉原(あきばのがはら)間に貨物専用線を開通させた事で、官民共に、新橋-秋葉原間の鉄道線連結構想が発生するのは、官民共に必然的自然の成り行きと言うべきであった。


然るに、日清戦争(にっしん せんそう)(明治27年(1894年)7月25日~明治28年(1895年)11月30日)勃発に伴い、該計画は中断を余儀無くされる。


内務省は明治28年(1895年)9月の第9回帝國議会に対し7ヶ年継続事業として建設予算請求を行い350万円の支出承認を受け、芝区新銭座町(しんぜにざちょう)-麹町区永楽町(えいらくちょう)高架線設置計画の一環として、翌明治29年(1896年)4月28日に、新橋駅構内に、新永間建設工事事務所(しんえいかん けんせつこうじじむしょ)が設置された。
因みに、芝区新銭座町とは現在の東京都港区東新橋1丁目、麹町区永楽町とは現在の東京都千代田区丸ノ内1丁目である。
然し、永楽町-秋葉原間建設分に対しては、日本鐵道會社が独自に資金調達を達成し建設するか、該社の委託に拠り、逓信省鐵道作業局が代理建設するかに就いて、結論が出ぬまま該社が二の足を踏み、該区間建設は自然消滅する形で中断した。
然も、懸念した通り、明治43年(1910年)9月15日に有楽町-呉服橋間開通が要因で、該地域一帯地価は大暴騰し、特に、神田-秋葉原間土地収用に就いては、東京市神田区一帯に於ける該鉄道建設反対運動は東京市議会をも巻込み激化した為に、一時は工事着工すら絶望視する声すらされたが、用地収用は大正11年(1922年)迄に概ね完了した。


ルムシュッテルは、雇用契約満了に拠り独逸に帰国するが、帰国前に該工事遂行の為に絶対必要不可欠とし推挙した人物こそ、ベルリン市街高架線設計主任技師だった フランツ・バルツァー(Franz BALTZER)(1857年(安政5年)5月29日~1927年(昭和2年)9月13日)である。

バルツァーが逓信省工務局顧問として来日したのは明治31年(1898年)2月である。

現在の欧米各国主要鉄道駅は頭端式と称する現在の上野駅地上ホーム群様式が主流である。
然るに、頭端式は路線延長の際に根本的改築を伴わない限り反転するスイッチバック形態以外、直進様式設置は不可能に近く、鐵道作業局では品川驛、横浜驛、及び、馬場驛(現 膳所駅)に於いて、常に、機関車付替を伴う方向転換を要する事から、滞貨輸送障害に苦い体験を有していた。

ベルリン市街線鉄道は、ベルリン都市鉄道とも称し、Sバーン(S-Bahn)を代表する環状線構造だった事から、各路線間に於ける直通運転が可能になっていたが、此れは、バルツァー指導の下で設置工事が施行された為である。
当時の欧州に於いて、ロンドン、及び、パリ等々首都に高架線は部分的に存在したが、然し、該存在は飽くまで終端部分の連結結合部に限定され、市内数キロに亘り縦貫する高架橋設置は独逸首都ベルリン以外に存在しなかった。
即ち、ベルリン市内に分散していた各鉄道終端駅を連結させる為に、プロイセン國有鐵道はバルツァーの設計指導の下、1882年(明治15年)にシャロッテンブルク(CHARLOTTENBURG)-シュレージェン(SCHLESIEN)間12.1kmを総煉瓦造連続高架橋構造で建設した。
シャロッテンブルク-シュレージェン間連続高架橋は複々線構造で建設され、各複線毎に、S-Bahn(Stadtbahn)都市間線、及び、U-Bahn(Untergrundbahn)短距離区間線に走行が分離されていた。
更に、ケルン、ニュールンベルク、及び、ブリュッセル各駅は、元来頭端式構造だったが、バルツァー指導下に拠り中間駅構造に大改造された。


該区間建設工事に先立ち、最初に手掛けたのは路線選定である。
計画案として、
Ⅰ)新橋(汐留)停車場から分岐し銀座を斜め横断し有楽町を経て秋葉原に至る経路。
Ⅱ)新橋停車場手前中途より分岐し外濠淵を経由し秋葉原に至る経路。
の2案に絞られた。
バルツァ-は当初第Ⅰ案を支持していたが、該案は、新橋驛構内の抜本的改造を必要とし、更に、繁華街たる銀座中心地通過の為に、土地収用に困難を伴い建設費が莫大になるものと算定されたのに対し、第Ⅱ案は烏森から有楽町にかけて外濠土手石垣の撤去跡地が活用可能で、且つ、有楽町から永楽町にかけて国有地転用が可能な為に民有地収用が少件で済む事から第Ⅱ案に決定した。
次いで、建築様式検討に入ったが、
 Ⅰ)土盛石留築堤構造
 Ⅱ)連続橋桁構造
 Ⅲ)煉瓦造連続拱橋構造
の3点に絞られた。
此の為に、明治32年(1899年)7月に該区間に対する地質調査が実施された。
因みに、明治期に於ける建造物設置の為の地質調査は我が国に於いて先例が無く、該調査不要論も少なからず存在したが、バルツァーは敢えて該調査を必要不可欠と解し実施させた。
現在の東京駅丸ノ内側を除く殆どの区間は江戸初期まで東京湾が大きく入る入江を形成し、当時神田駿河台付近に存在した神田山を切崩た土砂を活用した埋立地で、該調査の結果、外濠内幸町橋から内山下橋間は地下は沖積地層粘土質である事実が判明し、第Ⅰ案では数年後に大雨等々が要因として土盛内部の土砂が流失し、座屈波状化現象発生の危険性が指摘された為に該案は不採用となった。
バルツァーの所見に拠れば、該建設予定区間に沖積地層を中心とした軟弱地盤地帯が存在し、且つ、我が国が世界有数の地震発生国たる事実に鑑み、大地震発生時に於ける煉瓦アーチ橋に対する耐震性が未知数たる事を踏まえ、敢えて第Ⅱ案を推挙した。
然るに、当時の我が国では、鋼鐡材は未だ国産化されておらず全部輸入に頼らざるを得ない状況下に在り、更に、埼玉県深谷町に所在する日本煉瓦製造工場に於いて良質な国産建築用煉瓦が製造されている事実から、バルツァーも当初提案を撤回し第Ⅲ案が望ましいとして結局第Ⅲ案に落着した。

因みに、明治37年(1904年)4月5日に総武鐵道(Ⅰ)は本所(現 錦糸町)-両國橋(現 両国)間を延長完成させたが、該工事着工前に、逓信省鐵道作業局から該区間建設は、地上交通相互障害排除の観点から、地上線構造様式では無く高架線構造様式に依り建設要求された事から、該社では、煉瓦建築が高価で工期が長期間に亙る事を考慮し、連続上路プレート・ガーダー橋桁83連構造を採択し、当時、東京市内に於ける高架式鉄道線第1号として注目を集めたが、当時の亀戸-両國橋間は東武鐵道列車が乗務員ごと直通乗入運転も実施しており、客貨列車を含め列車本数が少なくなかった事から、列車通過時の騒音が甚だしく、更に、当時の列車内便所は垂流し構造だった事から、地上へ不快な落下物の為に、洗濯物乾干も困難になる等々、該沿線住民にとって該区間開業は利用する機会も無く、単に迷惑苦痛以外何物でも無かった。
内閣鐵道院は、大正初期に次世代幹線用大型旅客用蒸気機関車18900型(C51型)、及び、幹線用大型貨物用蒸気機関車9900型(D50型)導入計画案に基き、該区間橋梁橋台強化工事を施行したが、騒音軽減に対しては何等効果が無く、更に、大正12年(1923年)9月1日に関東大震災が発生し、該所である、東京市本所区、即ち、現在の東京都墨田区は大火砕流群が原因で、該区内がほぼ全滅に瀕し被服廠跡地を筆頭とする焼死者数は東京市内に於ける最大発生地だったが、該大火の為に、該橋桁群は火災高熱を長時間受けた為に悉く変形状し再用不可能になり、殆どの橋桁交換を要する事態となり、鐵道省は該区間復旧工事に苦渋を味わさせられた。
該橋梁群は、鐵道省に拠る両國-平井間複々線化工事計画決定の一環として現行線に腹付複線が建設され、新路線移行後、老朽化した旧線を撤去し新複線を建設すべく昭和14年(1939年)までに旧線橋桁を撤去した段階で、準戦時体制強化の影響で該複々線計画自体が中止となり、多数の橋脚橋台等々の構造物は撤去される事も無く、戦後改めて総武本線複々線化が決定し該工事支障の為に、昭和42年(1967年)に完全撤去されるまで現地で無残な姿を晒存させていた。

更に、東京市は該市区部への鉄道敷設は官民営を問わず、一部の貨物専用線を例外として、全て高架式構造建設を要求した為に、殆どの私鉄は資金面に於いて東京市区中心部への鉄道線新設は困難と認識し、遂には路線延長を断念を余儀無くされるに至ったが、代りに、山手線在駅を拠点起点駅とする地域培養線的性格が強まった。
中間停車場設置に就いては、明治30年(1897年)7月16日附に於ける線路設計説明書に拠れば、濱松町1箇所、日蔭町烏森町1箇所、及び、有楽町1箇所と現設駅の外輪が決定明記された。


該工事は全体を5工区に分け、
Ⅰ)金杉橋町-新銭座町間
Ⅱ)新銭座町-烏森町間
Ⅲ)烏森町-有楽町間
Ⅳ)有楽町-鍛冶町間
Ⅴ)鍛冶町-銭瓶町間
の施工が決定し難工事が予想された第Ⅲ工区から着手した。

該工事の為に、杉丸太1本16m様式が大量に準備されたが、該丸太は1本に対し対受重量35tが可能と算定され、最終的に19140本が使用され現地に打ち込まれた。
地表を6m掘下げ該杉丸太材を打ち込んだが、当時はすべて手作業であり丸太1本で岩盤に到達せぬ事例も多く現場は苦労の連続だった。
基礎抗打後、1.5m厚コンクリート打設をし、基礎煉瓦を高さ3.9m積上げ、地上表面部分5.2mを積上げる工事が予定されていた。

当時は現在の如き自動式ハンマー抗打機器類などは存在せず、已む無く人力抗打を実施しなければならず、1日1本、乃至は2本打込みが限度であり、天候不良時や日没時の為に完全打込みが困難な時は、作業を途中で中止した状態で放置すると、地下水の押上げ効果の為に、翌日は打込んだ抗木全体が浮出状態になるなど、作業には常に困難が付き纏っていた。
因みに、道路面から算出された架道橋底高頂は、天皇御召用馬車に随伴する供奉槍長の数値である。

明治33年(1900年)7月に芝区金杉橋-中央停車場間工事着工が予定されていたが、開始直前に北清事変(ほくしん じへん)(同年6月20日~明治34年(1901年)9月7日)勃発の為に、該工事予算が該事変鎮定に補填流用され工事開始は延期したが、同年9月に改めて工事が開始され順調に進行しかに見えた。
然るに、日露間関係低下に伴う軍事予算流用の為に着工が一旦延期を余儀無くされたが、間も無く工事が再開されたものの、翌明治34年(1901年)4月に二葉町橋高架橋以遠工事は一旦中断を余儀無くされた。
該区間工事再開は翌明治35年(1902年)だったが、明治37年(1904年)2月4日に日露戦争勃発の関係で該工事は再度全面的中止に追い込まれた。
此の様に、当時の我が国の置かれた複雑な社会情勢に伴う、該工事は、開始、延期、中止、再開の反復状態だった。

この間、明治36年(1903年)2月にバルツァーは独逸に帰国し、以後、工事進行は日本人技術者のみで実行された。
我が国政府はバルツァーの該功績に対し勲三等旭日瑞宝章を授与した。

明治38年(1905年)9月5日に該戦争が終結し、該工事は全面的に再開され、明治40年(1907年)9月には銭瓶町付近以北以外の全高架橋群工事が竣工した。
煉瓦建造物構築で、建築用煉瓦は日本煉瓦製造製品が使用されたが、外観を装飾する化粧煉瓦は、品川白煉瓦、大阪窯業千葉工場、及び、長坂煉瓦製造製品が使用された。


同年4月に新永間建設事務所は市街線建設事務所(しがいせん けんせつじむしょ)に名称変更され事務所も京橋区木挽町に移転した。
即ち、該時点に於いて、高架線敷設工事は殆ど完成し、残るは、東京中央停車場設置工事に重点が置かれ、更に、御茶ノ水-萬世橋間高架工事追加決定が該名称変更の要因である。


該区間に於ける橋桁は英米独から輸入されたが、独逸製はハーコート(HARKORT)社製が輸入使用された。
即ち、該社は、フリードリヒ・ハーコート(Friedrich HARKORT)(1793年(寛政8年)2月22日~1880年(明治12年)3月6日)に拠り創設された鋼鉄部材製造供給企業で、デュッセルドルフ・デュイスブルク(DUISBURG)に本社が設置され、アーヘン製鐵組合(Aachener Hutternaktievein)を組織筆頭となり隆盛した。
因みに、独逸側該製品発送担当最高責任者は帰国したルムシュッテルだった。
橋桁鋼材を輸入し、該材組立は東京石川島造船所、及び、神戸川崎造船所に於いて施工したが、橋桁底に床鋼板を追加した閉床式を採用した為に、列車内設置便所落下物を防止し、更に砕石を装填し有道床構造とした事で列車通過時に於ける騒音防止効果が発揮された。


基本設計が決定し、現在の東京駅丸ノ内駅本屋たる中央停車場建設工事開始は、翌明治41年(1908年)3月25日である。
当初案では、中央停車場設置予定地、即ち、現東京駅八重洲側地上部分に貨物取扱施設を設置する計画だった。
然るに、該取扱施設面積が狭隘で将来に於ける拡張余地が無に均しく、再検討した結果、初代新橋駅旅客扱廃止に伴い遊休施設が発生する事、及び、品川駅背後に拡がる東京湾埋立が決定していた事から、東海道方面貨物取扱は、新橋駅遊休地、及び、品川駅埋立地を活用させる事に変更し、該停車場八重洲川地上部分は、機関庫、及び、客車操車場として使用する事に決定した。


明治42年(1909年)12月16日に、烏森-品川間、及び、日暮里-田端間に電車専用複線設置工事が竣工し、同日、烏森驛が開業した。
更に、翌明治43年(1910年)6月25日に有楽町驛、同年9月15日には呉服橋驛まで開通した。
但し、烏森-有楽町間開通時は単線で、烏森-有楽町間が1閉塞扱で列車折返で使用されたが、呉服橋延長時に複線化された。
開通当時、該線は開通時から直流600V複架線直吊架式で電化され電車は2本のポールを並立させて運行された。
該区間開通に拠り、東海道本線は呉服橋-神戸間とされ、東京駅開業まで、該線停車場最遠区間だった。


因みに、当初、高架線軌道設置は複々線構造ながら電車線のみ設置開通させ列車線軌道は未設置だったが、東京駅丸ノ内駅本屋開業直前たる、大正3年(1914年)2月から漸次設置工事が実施された。


当時は東京中央停車場設置工事が盛んに行われていた。

東京中央停車場は 東京驛(とうきょうえき)と正式命名され大正3年(1914年)12月14日に竣工し、同月18日に第17代第Ⅱ次 大隈重信(おおくま しげのぶ)(天保9年(1838年)3月11日~大正11年(1922年)1月10日)内閣(大正3年(1914年)4月16日~大正5年(1916年)10月9日組閣)以下を来賓として招待し盛大に開業式典が挙行され、同月20日から正式営業開始した。
同時に、京濱間に都市間高速電車が運転される事になり、該新型電車はパンダグラフ集電式だった為に、東京驛開業直前に呉服橋-品川間架線は複架線直吊式から単線カテナリー吊架式に改造された。


大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災で、東京-濱松町間に於ける主要被災箇所は、
有楽町、新橋、濱松町各駅全焼。
有楽町-新橋間高架橋台傾斜。
有楽町-濱松町間道床沈下、及び、電線、及び、架線焼失。
永楽町変電所全焼。
の被害が発生したが、然して、緻密に建築された該高架橋群は震災に拠る直接的被害は発生せず、付近の火災延焼に拠る煉瓦表面に弱焼損被害が発生した程度で、改めて該煉瓦高架橋が頑丈に構築された事を実証させた。

因みに、該高架線工事工法と類似建造物に帝國ホテル旧本館建造物を類例とする説が存在する。
該建造物は、建築開始以前に米松丸太を地面に打込んだ点では同様である。
然るに、該建造物が該高架線土台設置工事と根本的に異なるのは、該高架線工事が丸太を岩盤に到達させたのに対し、該構造物は丸太を浮床式に打込んだ事から、該ホテル開業当日たる関東大震災発生と同時に構造物全体が約600mm沈下し、その後も解体まで沈下現象が継続した事から、該建造物全体が波打状態になり、ホテル館内でありながらカート使用も不可能で、昭和30年(1955年)7月18日未明には、孔雀ノ間軒先が崩壊落下すると言う、建造物として既に深刻な状態になっていた。
該建造物は竣工後44年使用されたが、診断の結果、修復は不可能と判定され、惜しくも解体が決定されたが、解体直前の測定では、2階廊下仕上面は新築当時と比較して1100mm沈下していた事が判明し、改めて、該建築物の状態の深刻さが浮彫りにさせた。
該建造物は、昭和42年(1967年)11月15日を最後に閉館し、同年12月28日より解体工事に着手し、翌昭和43年(1968年)2月25日に解体工事が完了したが、幸いにして歪みが発生しなかった部分を接合させた上で、正面玄関部分を復元させ、愛知県犬山市所在の明治村で保存展示されている。


震災発生当時、東京鐵道局管内では、79本の客貨列車、及び、48本182両の電車が運転されていたが、客貨列車27本、及び、電車8本31両が被災遭遇した。

東京-濱松町間で被災した客貨列車は、
新橋驛停車中の
下関10時10分発東京行 3等普通急行第6列車
牽引機関車 18638
客車14両編成1本が、該驛停車中に該震災が発生し乗客は該駅に於いて全員下車させた。
該列車に車輌脱線損壊等々の異常は発生しなかったが、震災発生後、付近一帯で大火災数群が発生した為に、該駅では駅本屋への延焼を懸念し、該列車に該駅備品重要書類等々を搭載させた。
然るに、同日20時頃に該駅に火災が迫ってきた為に、駅長 杉田武造は総員退避を命令し、該列車は同日20時30分に推進運転で品川に向け運転したが、濱松町驛先の古川に架橋の金杉橋橋梁付近路盤が陥没崩壊していた事から該列車は該位置に停車せざるを得ず、沿線火災の為に牽引機関車もろとも全車輌、震災当日23時頃焼失。

電車編成は、
Ⅰ)有楽町-新橋間 第333列車(京濱線)
デロハ6140 + サハ33723 + サロハ6194 + デハ33513
震災当日20時頃焼失。

Ⅱ)濱松町-新橋間 第326列車(京濱線)
デハ23507 + サハ33775 + デハ23515 + デハ23516
震災当日23時頃焼失。
両編成は、大井工場派遣技手に依り同月6日に撤去された。


関東大震災に依る該区間復旧は、鐵道省東京第1改良事務所、及び、帝國陸軍第1鐵道連隊将兵が施工を担当した。
震災後に於ける該区間復旧は、電車線被害が甚大だった事から、先ず、同月18日に列車線が復旧開通し、同月24日に電車線が開通したが、有楽町、新橋、及び、濱松町各駅設備被害が甚大だった事から、各駅復旧は同月27日にずれ込み、同月26日まで東京-品川間途中駅は通過した。
然し、永楽町変電所焼失の為に、該区間に対し直流600V送電が不可能になり、24日の電車線復旧では蒸気機関車が電車を牽引して運転する形態だったが、大井発電所復旧に拠り、同年10月1日より該区間に対し直流1200V送電が可能になり、京濱線電車を使用し萬世橋驛まで運転された。
有楽町、新橋両驛は火災鎮火後、構造物を形成する鋼鉄枠脱落が目立ったが、当時の金属間結合は現在の如き溶接法が未確立時代であり、鋲(リベット)結合しか存在し得ない時代故に、火災等々を原因として高熱発生時に該金属が膨張し、鋲が剥離離脱する事で、構造物が崩壊する事は、はからずも関東大震災に於ける被災に拠り実証し、後に、昭和20年(1945年)5月25日東京霞ヶ関空襲時に東京駅本屋が罹災した際も同様崩壊例が現出した。

因みに、震災災害時に鉄道高架橋上を徒歩移動するのは、道路上と異なり一見すると障害物等々が少なく安全にも思えるが、然し、当時の東京市内たる、有楽町、新橋、濱松町、神田、及び、水道橋各駅付近に於いて、各駅設備のみならず高架線上に於いて列車編成ごと焼失している事実、及び、東京駅で勤務中に震災に遭遇し翌日まで救護活動を含めた超過勤務後、徒歩で帰宅した該駅職員は、東京-萬世橋間高架橋上に性別不明の炭化状焼死体が無数に散乱していた事実を目撃しており、火流は下位から上昇する性質である事を加味し、故に、地平に於いて火災延焼中に鉄道高架橋上を徒歩避難移動するのは甚だ危険行為と察し、現在に於いても再考されるべき主要事項である。


震災復旧工事が優先された為に遅延していた列車線電化工事は、大正14年(1925年)12月13日に、東海道本線東京-國府津間、及び、横須賀線全線が直流1500V電化工事が竣工し、安定が確認される迄、電気機関車に蒸気機関車を連結して運転された。
また、同日に京濱線東京-櫻木町間も、従来の直流1200Vから直流1500Vに昇圧された。


昭和4年(1929年)4月15日に東京市は町名変更を実施し、東京驛所在地たる麹町区永楽町は丸ノ内1丁目に変更された。


昭和8年(1933年)に煉瓦内外に亀裂が発見され、調査の結果、地下水過剰揚水を主因とする地盤沈下の為に圧密沈下と判定され、該高架橋群の一部が沈下変状するの被害が発生したが、早期発見で修復され大事には至らずに済んだ。


国際オリンピック運営委員会は昭和15年(1940年)8月の夏季オリンピック開催地は東京に決定し、更に、東京の8月開催は熱帯性暑気との欧州委員関係者の指摘に依り、同年9月21日~10月6日開催に最終決定したが、此れに対応すべく、鐵道省は主要幹線改良計画の一環として、東京驛、及び、品川驛構内大改良、更に、田町-田端間に於ける京濱線、及び、山手線電車運転分離を実施させるべく、昭和10年(1935年)に東京-品川間3複線化工事を着工した。
該工事は、東京市内最密集地に高架橋を追設するもので、有楽町、及び、新橋付近の土地収用は困難を極め、更に、内山下町高架橋から幸橋架道橋に至る外濠川内に連続複線型コンクリート・ラーメン高架橋を追設置する工事で、昭和14年(1939年)に竣工予定だったが、日華事変(にっか じへん)(昭和12年(1937年)7月7日~昭和16年(1941年)12月8日)勃発に伴う資材割当制度導入、且つ、時代は戦時体制移行に伴う物資不足、更に、昭和16年(1941年)12月8日に大東亜戦争勃発に拠る深刻な労働力不足に拠り、新列車線完成は昭和17年(1942年)6月にずれ込み、有楽町-浜松町間を新列車線に移設した段階で戦局悪化に依り他工事は中止された。


昭和12年(1937年)に、当時の陸軍参謀本部は陸軍軍務局と協同で航空機に拠る爆弾弾着時に於ける極秘被害確認実験を実施した。
即ち、実際に鉄骨鉄筋コンクリート建築物を構築し、上空200m地点の航空機から投下した爆弾被害を調査測定が目的だった。
此れに拠れば、
50kg爆弾を該地点から投下すると
該建造物は3階部分を貫通後爆発、
着弾地点  15m以内は強烈な爆風に拠り内臓破裂で全員即死。
      20m以内は爆弾破片が飛散し全員即死。
     100m以内は爆弾建築物小破片で死傷者多数。
250kg爆弾を該地点から投下
該建造物は8階部分を貫通後爆発、
着弾地点  30m以内は強烈な爆風に拠り内臓破裂で全員即死。
      45m以内は爆弾破片が飛散し全員即死。
     200m以内は爆弾建築物小破片で死傷者多数。
との実験結果が得られた。


戦後公開された米空軍日本本土戦略攻撃に関する資料に依れば、昭和20年(1945年)1月27日の第21爆撃機軍団第73航空隊所属B29戦略爆撃機39機に依る空襲は、当初は東京都武蔵野市在の中島飛行機武蔵製作所を目標としたものだったが、雲量厚く天候不良の為に、帰路、東京銀座築地地区に攻撃目標を変更したもので、
警戒警報発令 13時03分
空襲警報発令 14時00分
空襲開始   14時03分
空襲警報解除 15時10分
警戒警報解除 15時20分
当時は空襲警報発令空襲中で、有楽町駅では首席助役以外の者は、全員、防空壕に避難していたが、空襲警報発令時、及び、解除時の令達用サイレンが空襲時たるにも拘らず、突然故障で鳴り出し、此れを耳にした者達は空襲が終了したものと解し安心したが、事実、ラジオからは、
只今の空襲警報解除のサイレンはサイレン本体の故障であり、依然敵機は我が帝都上空で戦闘行為を継続中なり、帝都臣民は引き続き本空襲に対し厳重なる警戒を要する。
と放送したが、有楽町駅前の地下防空壕に退避していた者達が該放送を聞く事も無く、サイレンを耳にし空襲警報解除と誤認即断した防空壕避難者達は、該壕から出て少しでも早い電車に乗車すべく該駅出札口に乗車券を購入すべく行列に殺到した時に、B29戦略爆撃機70機中の1機が投下した250kg級爆弾が、東海道線有楽町駅下り新列車線に命中、該新高架線を貫通破壊し、該駅中央出札所付近で爆発炸裂した。
該爆発で該駅該所付近は大破飛散し、不運にも、該駅職員は、出札主任 室田義一氏以外、駅長以下9名即死、若しくは、行方不明、公衆約130~180名以上即死と記録されている。
然し、実際には、該爆弾に依る爆発爆風で遺体は四散状態になり、肢体完全な遺体など殆ど存在しなかった事から、実際には回収された遺体部分から付近に偶然居合せた公衆を含め400~500名以上が犠牲になったともされ、当時、第48代警視総監 山崎 巌(やまざき いわお)(明治27年(1894年)9月16日~昭和43年(1968年)6月26日)(昭和15年(1940年)12月23日~昭和16年(1941年)9月20日在任)の直命に拠り、非常時に於ける空襲被災現場の写真撮影に従事した警視庁巡査 石川光陽(いしかわ こうよう)(明治37年(1904年)7月5日~平成元年(1989年)12月26日)が撮影した該現場写真を拡大精査した限り、四散散乱した遺体胴体数は150名程度などでは無く約倍数と考察される。
取敢えず遺体は日比谷公園有楽門花壇脇に運び、東京都が空襲罹災死者の為に事前に用意していた組立式棺桶に納棺され該地で火葬された。
作家 内田百聞(うちだ ひゃっけん)(明治22年(1889年)5月29日~昭和46年(1971年)4月20日)の戦時中の日記 東京焼儘(とうきょう しょうじん)に於いて、
省線電車も東京驛へは入れなかつた由にて今日の空襲は銀座方面では大変だつた事が段段わかる
との記述があり、当時の東京都民にとって関心高い情報だった。

該区間開通は、
電車線同日20時00分
列車線  24時00分
と記録されてるが、勿論、列車線は仮復旧での状態であり本復旧は翌2月中旬である。
また、同時に有楽町変電所も被災し、配電盤が損傷した為に送電が不可能になり、翌28日より他変電所から応急送電を受け電車運転が可能になり並列運転が制限されたが、元来、該変電所付近は急曲線連続区間で高速を必要としない事から影響は僅少で済んだが、本復旧まで約2週間を要した。

因みに、大東亜戦争中の東京都区内に於ける運輸通信省路線内での空襲被害で、大量死者が発生したのは、該駅以外では、及び、同年3月9日未明の東京大空襲で総武本線錦糸町駅、亀戸駅、及び、平井駅構内に避難者上に火砕流が襲い、生存者は無く、死者240名弱が発生した2件である。

因みに、該空襲で当時の帝都高速度交通営団銀座駅上に500kg級爆弾が命中し、該駅施設を含め破壊された為に、新橋-京橋間が不通になった。
該社は緊急整備を施し、同年2月1日から新橋-京橋間が開通したが同年3月10日に完全復旧するまで該区間は単線運転で急場を凌いだ。

政府は、関東大震災発生時の物見遊山式に震災見物せんと地方から上京する連中が後を絶たず、此れらの者達の為に、本来の鉄道輸送に支障を来たした苦い経験に鑑み、京浜地区空襲時に於ける混乱防止の為に、京浜地区発着、及び、該地区通過となる乗車券類に就いて、軍公務者以外への発売禁止を決定し、同年2月1日附で実施した。
その為に、地方に疎開していた者達が、実家付近が空襲を受けた事を知り、実家に帰らんとして該法令の為に乗車券が入手出来ず、実家家族の安否状況すら把握し得ぬ事態が続出する。

その後に於ける、該区間に於ける大東亜戦争中の空襲被害は、
3月 9日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 第313虚空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計279機
警戒警報発令 22時30分
空襲開始    0時08分
空襲警報発令  0時15分
空襲警報解除  2時35分
警戒警報発令  3時55分
   新橋駅構内
    列車ホーム上屋半焼
東京-浜松町間線路破壊2か所150m 枕木焼損264本
新橋駅構内被災車輌
  スロ33 4 (東シナ)全焼
  スハ36 10(東シナ)全焼
  スハニ33 8(東シナ)全焼
 以上、昭和21年(1946年)1月23日附戦災廃車
該空襲に於いて、空襲警報発令時刻に対し空襲開始時刻が前後しているのは誤記では無い。
即ち、当時の関東地区防空業務は陸軍東部軍管区が担当だったが、当直陸軍将校が、当時の状況から東京が空襲必須であり、且つ、下部機関から空襲警報発令を再三に亘り要請されたにも拘らず、その都度却下させ、事実空爆開始がされた時点ですら空爆の事実確認を求めると言ふ、マニュアル通りの愚行の為に、貴重な時間を費消した結果、空襲警報発令時点で、城東区、本所区、深川区、平井区、及び、浅草区は火の海状態だった。
それ故、当時の東京下町の人々は、警戒警報後、空襲警報発令無き状態の内で、いきなり空爆が開始され、何が発生したか全く寝耳に水状況での事前退避行動を執る事も叶わず、此の為に、人的被害を大きくさせた。
戦争末期に於ける、陸軍士官学校に於ける極端な迄の偏狭詰込愚直教育の悪弊が、正に非常時と言えど検討もされず通用していた典型である。

5月24日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計477機
警戒警報発令  1時05分
空襲警報発令  1時29分
空襲開始    1時36分
空襲警報解除  3時50分
警戒警報解除  3時55分
   新橋駅構内
    列車ホーム上屋半焼
   新橋-浜松町間線路破壊2ヵ所
    同日 6時30分開通

5月25日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計464機
警戒警報発令 22時02分
空襲警報発令 22時22分
空襲開始   22時30分
空襲警報解除  1時02分
警戒警報解除  1時30分
   東京-有楽町間、及び、新橋-品川間
     線路破壊3ヶ所300m、枕木1000本焼失
    東京駅構内
    丸ノ内駅本屋全焼
  電車線27日12時00分開通
  列車線   18時00分開通
東京駅構内被災車輌
  スロ32 12 (東シナ)全焼
  スハ36 2  (東シナ)全焼
  スハフ32 233(東シナ)全焼
 以上、昭和23年(1948年)5月17日附戦災廃車


東京都は、昭和22年(1947年)3月15日附を以って、行政合理化の為に旧35箇所存在した区を22区を経て現行23区に統廃合し新区名を制定命名した。


東京都区内中心地は、度重なる空襲に依り相当数の建造物に被害が発生したが、戦後、該空襲塵芥処理を目的として、半ば遊休化していた河川を活用する事に決定した。
即ち、大正中期以前の状況と異なり、水運利用が激減し、特に、関東大震災以降、都内中心地に於ける道路整備が進行した事から、舟運を必要としなくなり、更に、水質汚濁が原因とする病虫害発生防止の観点から、昭和23年(1948年)に、三十間堀川、東堀留川、龍閑川、新川、翌昭和24年(1949年)に真田裏川、波田川、六間堀川、鍛冶屋橋下外濠が活用埋立てられた。


田町-田端間は、京浜東北線、及び、山手線電車が双方使用し、列車本数の増加が困難になり混雑緩和を目的として、戦後、昭和24年(1949年)9月に複々線化工事が再開され、戦前に構築されていた田町-浜松町間に存在した芝浦跨線鉄道橋築堤解体等々の難作業が在った。

常磐線は、昭和11年(1936年)12月11日に日暮里-松戸間が電化され上野-松戸間が電車運転されていたが、戦後は、東京都区内に於ける数次に亙る空襲で焼出された人々が、該沿線に疎開土着定住者が増えた事から、東京近郊に於いて乗車率激増が著しい状況だった。
占領軍GHQの工事中止命令に拠り該工事が中止させられた高崎線電化工事余剰資材を活用し、昭和24年(1949年)6月1日に松戸-取手間が電化延長したが既に焼け石に水状態であり、日暮里駅、及び、上野駅に於ける常磐線からの乗換は殺人的状態だともされていた。
東京鉄道管理局では、昭和26年(1951年)1月から日暮里駅、及び、上野駅混雑緩和を目的として常磐線電車1本を上野駅で転線して山手線に乗入をさせたが、山手線外回り電車、及び、京浜東北線南行電車のダイヤを乱すとして直ぐ中止を余儀無くされてしまった。

然し、該工事最中の昭和27年(1952年)6月18日に日暮里駅で重大事故が発生した。
即ち、当日朝ラッシュ時たる7時45分頃、該駅南跨線橋羽目板が大混雑の為に圧力に耐えかね破損剥離し、該跨線橋通行中の旅客数十名が7m下線路上に次々と落下し、運悪く、京浜東北線浦和行電車が入線していた事から落下者を次々とはね、死者8名、重軽傷者5名を出す惨事となった。
事故原因は、該跨線橋は昭和3年(1928年)に架橋された木造構造で、大東亜戦争末期の空襲で焼損被害が発生していたにも拘らず、保守修理も侭ならぬ当時の状況で酷使され続け、山手京浜東北線対常磐線乗換は上野駅より該駅が好まれた事から過酷な条件下での耐用が維持出来なかった事が椿事の原因だった。

然るに、該増線工事は、同年に有楽町駅、及び、昭和30年(1955年)に浜松町駅新ホームが竣工した事から、混雑緩和の為に新ホーム使用を機に、一部完成区間を使用し、昭和29年(1954年)4月15日より日暮里駅、及び、上野駅混雑緩和を目的として常磐線電車を上野-有楽町間を平日朝上り13本、夕方下り15本を延長運転し混雑緩和をはかったが、残存部分も昭和31年(1956年)11月19日に完成し、該双方の運転は完全分離された。


昭和27年(1952年)10月14日は、鉄道開業80周年記念日だった。

本来であれば、70周年記念と云う,キリが良い、昭和17年(1942年)10月14日に祝典されるべきものであったが、該当時は大東亜戦争中の事でもあり、時節柄、祝典など自粛する時代だったが、それでも、地味ながら各地で祝祭行事が施行され、逓信省は蒸気機関車C59型を図柄にした記念切手を発売した。
日本国有鉄道は、70周年記念分をも含め全国各地に於いて記念行事を展開させる事に決定し、翌15日に首都圏主要駅に於いて、当時の著名人を起用し、名誉1日駅長任命が行われた。
東京駅  作家 内田百聞(うちだ ひゃっけん)(明治22年(1889年5月29日~昭和46年(1971年)4月20日)
有楽町駅 女優 越路吹雪(こしじ ふぶき)(大正13年(1924年)2月18日~昭和55年(1980年)11月7日)
が選出された。

有楽町駅では、駅長と共に越路が該駅構内巡回し、構内放送を行うと、当時当代きっての宝塚出身男役スターで知られた越路を一目見ようとした野次馬達が該駅に群がり、該群集達の為に、大混乱になり収拾がつかぬ状態になった。

東京駅では、百聞が駅長と共に構内巡視の一環として巡回中に前代未聞の椿事が発生した。
即ち、東京駅12時30分発大阪駅行 特別急行列車はと号発車に合せ出発式典が予定され、百聞が該列車乗客専務車掌に花束贈呈と出発合図を送る手筈となっていた。
然るに、百聞は該車掌に花束を手渡す訳でも無く、時間になり発車ベルが鳴ると同時に、該列車最後尾の1等展望車オープンデッキに
職務放棄
と叫び、花束を持ったまま飛び乗り、居並ぶ国鉄幹部が呆気にとられ、野次馬達の大爆笑の渦中、該列車に乗車して熱海まで行ってしまった。
本当は、百聞は該列車終点たる大阪まで乗車したかったのだが、熱海までで断念せざるを得なかったのは、前日に入手可能な1等特別急行券が東京-大阪間が外国人訪日団体旅行者乗車の為に満席で、東京-熱海間しか空席が無かったかったからである。


戦後、千代田、中央、及び、港区所在の小河川は道路網整備と反比例し舟運衰退と同時に戦災塵芥処分活用地として利用され、跡地は道路と化したが、以前とは異なり舟運の必要性が薄れた事から、最終的に外濠川も活用される事になり、東京都より公有水面埋立許可を得た事で昭和28年(1953年)に着工され、昭和39年(1964年)迄に該跡地に、東海道新幹線、及び、首都高速道路KK線が漸次建設設置され、外濠川が存在した当時の面影は完全に消滅した。
然し、東京都が区境界線を未設定のまま埋立工事を施工した事から、該濠に於ける千代田、中央、及び、港区への帰属地問題が現在も争点として存在する。


帝都高速度交通営団では、次期地下鉄建設に就いて、池袋を起点に大手町、銀座、霞ヶ関、新宿を経由する路線を選定し、開通時に丸ノ内線と命名された。

東京-有楽町-新橋間に於いて、該高架橋下を通過する事が決定した為に、該高架橋建設当時に設置した基礎構造を支障させない工夫を必要とさせた。
即ち、該地下鉄東京-西銀座(現 銀座)間工事では、第4有楽町高架橋下通過の為に、該高架橋に対し42度の角度で通過する事から、?隙隙型コンクリート構造を採用構築し、西銀座(現 銀座)-霞ヶ関間工事では、山下橋架道橋下通過地点に対し、該高架橋に対し66度の角度で通過する事から、ケーソン基礎12m×4基を設置し、各施設が変状変形を発生させぬ様に施工させた。


昭和30年(1955年)当時、東海道本線、横須賀線列車は、東京-大船間は同一線路を使用して運転されていた事から、当時ですら列車本数増加は不可能とされていた為に、両線列車分離運転の一環として、東京-品川間増線工事が計画された。

当初計画では、現行東海道本線に腹付させ地上線走行とさせる為に、昭和32年(1957年)から有楽町駅付近土地買収を行い必要地取得を開始した。
然るに、用地取得が順調に進行する内、昭和35年(1960年)1月に新幹線建設が閣議決定し、日本国有鉄道が取得済だった既得用地は新幹線建設用地に転用が決定された事から、東海道本線、横須賀線列車分離運転計画は一時中止の已む無きに至った。
昭和40年代になり、東海道本線列車、及び、横須賀線列車運転分離工事実施の為に、品川-東京-錦糸町間は地下化される事になり、該区間は該高架橋群直下をシールド工法で掘削される為に、該高架橋煉瓦構体保護強化の必要性から、コンクリート防護工事が施工され、建設当時の面影が相当喪失してしまったのは誠に残念である。


日本国政府は、首都東京を中心とした首都圏に於いて、平成32年(2020年)夏季オリンピック大会開催決定に基き、各方面に於ける建築関係が盛んに目白押し状態だが、他方、有楽町、新橋、及び、浜松町各駅に於いて、該各駅構内改築工事の一環として、自由通路設置が決定した事から大改築工事が予定されている。
此の為に、特に、有楽町、及び、新橋両駅に就いて、該建築構築に対し障害となる煉瓦高架橋構造物群解体撤去が計画されている。
更に、山手線全駅に対し電車扉に連動作用するホームドア設置が進行しており、それ故、該駅開業以来の煉瓦構造物解体が施工される。
設置以来100年を超えた歴史的建造物故に、已む無しとは申せ、解体撤去は誠に残念の極みである。


平成27年(2015年)3月の時刻改正から東海道本線対東北本線列車相互乗入

旅行の満足度
5.0
交通
4.5
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 東京(とうきょう)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、大正3年(1914年)12月20日開業である。<br />東京駅は当初計画で中央停車場として提案され、当初駅本屋建築をフランツ・バルツァー(1857年(安政25年)5月29日〜昭和2年(1927年)9月13日)が設計した該案は自身の論文Die Hochbahn von Tokioに掲載されているが、和洋混用建築であり、後に、改めて該計画を推進立案を担当した辰野金吾(たつの きんご)(嘉永7年(1854年)10月13日〜大正8年(1919年)3月25日)は、該設計をして、西欧婦人ヲシテ準洋服姿で赤毛の島田髷に花簪ヲ挿テ下駄ヲ履イタ珍妙ナ姿と揶揄したが、我々日本人が観ても極めて不思議な形態だった事から、当時の人々は該図面を見て強い違和感を抱いたに相違無かった。<br />結局、バルツァーの該案は不採用となり、改めて辰野が設計する事になったが、当初の1階建案から、初代内閣鐵道院総裁 後藤新平(ごとう しんぺい)(安政4年(1857年)7月24日〜昭和4年(1929年)4月13日)から3階建構造を要求された事から最終的に3階建鉄骨煉瓦建築に決着を見た。

    東京(とうきょう)駅



    該駅は、大正3年(1914年)12月20日開業である。
    東京駅は当初計画で中央停車場として提案され、当初駅本屋建築をフランツ・バルツァー(1857年(安政25年)5月29日〜昭和2年(1927年)9月13日)が設計した該案は自身の論文Die Hochbahn von Tokioに掲載されているが、和洋混用建築であり、後に、改めて該計画を推進立案を担当した辰野金吾(たつの きんご)(嘉永7年(1854年)10月13日〜大正8年(1919年)3月25日)は、該設計をして、西欧婦人ヲシテ準洋服姿で赤毛の島田髷に花簪ヲ挿テ下駄ヲ履イタ珍妙ナ姿と揶揄したが、我々日本人が観ても極めて不思議な形態だった事から、当時の人々は該図面を見て強い違和感を抱いたに相違無かった。
    結局、バルツァーの該案は不採用となり、改めて辰野が設計する事になったが、当初の1階建案から、初代内閣鐵道院総裁 後藤新平(ごとう しんぺい)(安政4年(1857年)7月24日〜昭和4年(1929年)4月13日)から3階建構造を要求された事から最終的に3階建鉄骨煉瓦建築に決着を見た。

    東京駅

  • 東京駅<br /><br /><br /><br />第3番ホーム<br />架線門柱<br />全景<br />明治43年(1910年)建柱<br />鋳物構造<br />鋳鉄の腐食老朽化と覆上屋改築の為に、昨年7月上旬に殆ど撤去済。

    東京駅



    第3番ホーム
    架線門柱
    全景
    明治43年(1910年)建柱
    鋳物構造
    鋳鉄の腐食老朽化と覆上屋改築の為に、昨年7月上旬に殆ど撤去済。

  • 東京駅<br /><br /><br /><br />第3番ホーム<br />架線門柱<br />近接

    東京駅



    第3番ホーム
    架線門柱
    近接

  • 東京駅<br /><br /><br /><br />第3番ホーム<br />架線柱<br />近接

    東京駅



    第3番ホーム
    架線柱
    近接

  • 東京駅<br /><br /><br /><br />第3番ホーム<br />架線柱<br />近接

    東京駅



    第3番ホーム
    架線柱
    近接

  • 東京駅<br /><br /><br /><br />第3番ホーム<br />側壁<br />該駅開業当時の煉瓦積構造が一部残存。

    東京駅



    第3番ホーム
    側壁
    該駅開業当時の煉瓦積構造が一部残存。

  • 東京駅<br /><br /><br /><br />東海道本線<br />起点<br />0キロポスト<br />全景

    東京駅



    東海道本線
    起点
    0キロポスト
    全景

  • 東京駅<br /><br /><br /><br />東海道本線<br />起点<br />0キロポスト<br />接写

    東京駅



    東海道本線
    起点
    0キロポスト
    接写

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />銭瓶町橋(ぜにかめちょうばし)高架橋<br />当初計画では他高架橋同様4線構造で設計されたが、後に6線構造に変更され、設計見直しの為に着工が遅れ、明治35年(1902年)11月着工し、明治39年(1906年)12月に竣工した。<br />該高架橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で命名された麹町區銭瓶町(ぜんいかめちょう)から採用されたものである。<br />その後、行政合理化で、昭和4年(1929年)3月30日附府告示第203号に拠り、付近一帯は大手町1丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年4月15日附で施行され、該町名は消滅した。<br />該高架橋中央部は、現在の東京駅構内。<br /><br />東京都千代田区丸ノ内1−9<br />東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩2分

    東京-有楽町間



    銭瓶町橋(ぜにかめちょうばし)高架橋
    当初計画では他高架橋同様4線構造で設計されたが、後に6線構造に変更され、設計見直しの為に着工が遅れ、明治35年(1902年)11月着工し、明治39年(1906年)12月に竣工した。
    該高架橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で命名された麹町區銭瓶町(ぜんいかめちょう)から採用されたものである。
    その後、行政合理化で、昭和4年(1929年)3月30日附府告示第203号に拠り、付近一帯は大手町1丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年4月15日附で施行され、該町名は消滅した。
    該高架橋中央部は、現在の東京駅構内。

    東京都千代田区丸ノ内1−9
    東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩2分

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />銭瓶町橋高架橋<br />円盤形装飾<br />近接<br />該部分煉瓦は英国積式。<br />看板等々に覆われていた事で破損破壊を免れ残存した。<br /><br />東京都港区千代田区丸ノ内1−9<br />東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩2分

    東京-有楽町間



    銭瓶町橋高架橋
    円盤形装飾
    近接
    該部分煉瓦は英国積式。
    看板等々に覆われていた事で破損破壊を免れ残存した。

    東京都港区千代田区丸ノ内1−9
    東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩2分

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />銭瓶町橋高架橋<br />大正期架線柱<br />該高架橋に大正期建植の鋼鉄製架線柱が現存。<br /><br /><br />東京都千代田区丸ノ内1−10−7<br />東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩2分

    東京-有楽町間



    銭瓶町橋高架橋
    大正期架線柱
    該高架橋に大正期建植の鋼鉄製架線柱が現存。


    東京都千代田区丸ノ内1−10−7
    東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩2分

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />銭瓶町橋高架橋<br />大正期架線柱<br />横写<br />明治43年(1910年)9月15日に、有楽町-呉服橋間開通時に於ける架線は直流600V複線直接吊架式で架線柱も\_/様状に建植されていたが、大正3年(1914年)12月20日に東京驛開業と同時に東京-高島町間にパンダグラフ集電式新型車輌が導入が決定し、パンダグラフ使用では+−並列複線式架線での集電不可能な事から、東京-品川間は単線カテナリー吊架式に改造された。<br />然るに、関東大震災で特に沿線火災の為に焼損し、更に、直流1200Vに昇圧し、直流1500V再昇圧も時間の問題だった事から、原架線柱では強度不足が懸念された為に、大正末期に現在の架線柱に更改された。<br /><br /><br />東京都千代田区丸ノ内1−10−7<br />東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩2分

    東京-有楽町間



    銭瓶町橋高架橋
    大正期架線柱
    横写
    明治43年(1910年)9月15日に、有楽町-呉服橋間開通時に於ける架線は直流600V複線直接吊架式で架線柱も\_/様状に建植されていたが、大正3年(1914年)12月20日に東京驛開業と同時に東京-高島町間にパンダグラフ集電式新型車輌が導入が決定し、パンダグラフ使用では+−並列複線式架線での集電不可能な事から、東京-品川間は単線カテナリー吊架式に改造された。
    然るに、関東大震災で特に沿線火災の為に焼損し、更に、直流1200Vに昇圧し、直流1500V再昇圧も時間の問題だった事から、原架線柱では強度不足が懸念された為に、大正末期に現在の架線柱に更改された。


    東京都千代田区丸ノ内1−10−7
    東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩2分

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />銭瓶町橋高架橋<br />大正期架線柱<br />柱塔頭装飾<br /><br /><br />東京都千代田区丸ノ内1−10−7<br />東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩2分

    東京-有楽町間



    銭瓶町橋高架橋
    大正期架線柱
    柱塔頭装飾


    東京都千代田区丸ノ内1−10−7
    東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩2分

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />銭瓶町橋高架橋<br />アーチ部外観<br />該高架橋竣工直後の明治40年(1907年)1月22日2時頃、当時銀座に所在した鐵道作業局監督官庁たる逓信省本省庁舎が火事で全焼する事件が発生した。<br />火災原因は煙草の火の不始末と断定されたが、政府は直ちに該省本省庁舎再建を決定したが、銀座の焼跡に新庁舎完成まで期間を要する事から、第12代第?次西園寺公望(さいおんじ きんもち)(嘉永2年(1849年)12月7日〜昭和15年(1940年)11月24日)内閣(明治39年(1906年)1月7日〜明治41年(1908年)7月14日在任)の逓信大臣 山縣伊三郎(やまがた いさぶろう)(安政4年(1858年)2月6日〜昭和2年(1927年)9月24日)(明治39年(1906年)1月7日〜明治41年(1908年)1月14日在任)は海軍大臣 齋藤 實(さいとう まこと)(安政5年(1858年)12月2日〜昭和11年(1936年)2月26日)(明治39年(1906年)1月7日〜明治41年(1908年)7月14日在任)に要請し、築地水交社の一部階を借受け該所に仮事務所を設置した。<br />然るに、当時遊休状態だった該高架橋上に着眼し、取敢えず、該高架橋上に仮庁舎設置が決定し、同年4月に着工し44日後たる翌5月に欧州風民族建築ハーフティンバー風木造2階建仮庁舎が14連設置された。<br />設計者は逓信省設計技師、吉井茂則(よしい しげのり)(安政4年(1857年)〜昭和5年(1930年)10月20日)が担当した。<br />明治42年(1909年)6月に焼失した旧本庁舎跡地に新本庁舎が竣工し、直ちに仮庁舎群を解体撤去し、直ちに軌道、及び、架線設置工事を施工し、翌明治43年(1910年)9月15日に有楽町-呉服橋間開通に漕ぎ着けた。<br />因みに、当時の鉄道部門を管理していた逓信省鐵道作業局は、帝國鐵道庁(ていこく てつどうちょう)が同年4月1日附成立を経て、明治41年(1908年)12月5日附で内閣鐵道院(ないかく てつどういん)に独立昇格した。<br /><br />東京都千代田区丸ノ内1−10−6<br />東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩2分

    東京-有楽町間



    銭瓶町橋高架橋
    アーチ部外観
    該高架橋竣工直後の明治40年(1907年)1月22日2時頃、当時銀座に所在した鐵道作業局監督官庁たる逓信省本省庁舎が火事で全焼する事件が発生した。
    火災原因は煙草の火の不始末と断定されたが、政府は直ちに該省本省庁舎再建を決定したが、銀座の焼跡に新庁舎完成まで期間を要する事から、第12代第?次西園寺公望(さいおんじ きんもち)(嘉永2年(1849年)12月7日〜昭和15年(1940年)11月24日)内閣(明治39年(1906年)1月7日〜明治41年(1908年)7月14日在任)の逓信大臣 山縣伊三郎(やまがた いさぶろう)(安政4年(1858年)2月6日〜昭和2年(1927年)9月24日)(明治39年(1906年)1月7日〜明治41年(1908年)1月14日在任)は海軍大臣 齋藤 實(さいとう まこと)(安政5年(1858年)12月2日〜昭和11年(1936年)2月26日)(明治39年(1906年)1月7日〜明治41年(1908年)7月14日在任)に要請し、築地水交社の一部階を借受け該所に仮事務所を設置した。
    然るに、当時遊休状態だった該高架橋上に着眼し、取敢えず、該高架橋上に仮庁舎設置が決定し、同年4月に着工し44日後たる翌5月に欧州風民族建築ハーフティンバー風木造2階建仮庁舎が14連設置された。
    設計者は逓信省設計技師、吉井茂則(よしい しげのり)(安政4年(1857年)〜昭和5年(1930年)10月20日)が担当した。
    明治42年(1909年)6月に焼失した旧本庁舎跡地に新本庁舎が竣工し、直ちに仮庁舎群を解体撤去し、直ちに軌道、及び、架線設置工事を施工し、翌明治43年(1910年)9月15日に有楽町-呉服橋間開通に漕ぎ着けた。
    因みに、当時の鉄道部門を管理していた逓信省鐵道作業局は、帝國鐵道庁(ていこく てつどうちょう)が同年4月1日附成立を経て、明治41年(1908年)12月5日附で内閣鐵道院(ないかく てつどういん)に独立昇格した。

    東京都千代田区丸ノ内1−10−6
    東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩2分

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />銭瓶町橋高架橋<br />アーチ部外観<br />耐震工事が施工されているが、ほぼ原型を維持。<br /><br /><br />東京都千代田区丸ノ内1−10−6<br />東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩2分

    東京-有楽町間



    銭瓶町橋高架橋
    アーチ部外観
    耐震工事が施工されているが、ほぼ原型を維持。


    東京都千代田区丸ノ内1−10−6
    東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩2分

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />銭瓶町橋高架橋<br />アーチ部内観<br />長期間に亙り資材置場だった事で概ね原型を残存させた。<br /><br /><br />東京都千代田区丸ノ内1−10−6<br />東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩2分

    東京-有楽町間



    銭瓶町橋高架橋
    アーチ部内観
    長期間に亙り資材置場だった事で概ね原型を残存させた。


    東京都千代田区丸ノ内1−10−6
    東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩2分

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />銭瓶町橋高架橋<br />橋脚基部<br />透かし窓紋様<br /><br />東京都千代田区丸ノ内1−10−6<br />東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩2分

    東京-有楽町間



    銭瓶町橋高架橋
    橋脚基部
    透かし窓紋様

    東京都千代田区丸ノ内1−10−6
    東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩2分

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />銭瓶町橋高架橋<br />橋脚基部<br />透かし窓紋様<br />縦窓様式。<br /><br />東京都千代田区丸ノ内1−10−6<br />東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩2分

    東京-有楽町間



    銭瓶町橋高架橋
    橋脚基部
    透かし窓紋様
    縦窓様式。

    東京都千代田区丸ノ内1−10−6
    東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩2分

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />銭瓶町橋高架橋<br />手前コンクリート築部分は大正8年(1919年)中央本線萬世橋-東京間延長時の追設部分。<br />東京方俯瞰。<br /><br />東京都千代田区丸ノ内1−10−6<br />東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩2分

    東京-有楽町間



    銭瓶町橋高架橋
    手前コンクリート築部分は大正8年(1919年)中央本線萬世橋-東京間延長時の追設部分。
    東京方俯瞰。

    東京都千代田区丸ノ内1−10−6
    東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩2分

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />鍛冶橋架道橋<br />東京方橋台<br /><br />東京都千代田区丸ノ内1−10−5<br />東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩2分

    東京-有楽町間



    鍛冶橋架道橋
    東京方橋台

    東京都千代田区丸ノ内1−10−5
    東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩2分

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />鍛治橋(かじばし)架道橋<br />鋼鐡製複線型<br />カンチレバー・プレート・ガーダー橋桁 支間36.2m×1連(2)<br />明治35年(1902年)10月29日設計完了。<br />明治41年(1908年)架橋。<br />鍛治橋通り(都道第406号線)<br /><br />東京都千代田区丸ノ内1−10<br />東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩3分

    東京-有楽町間



    鍛治橋(かじばし)架道橋
    鋼鐡製複線型
    カンチレバー・プレート・ガーダー橋桁 支間36.2m×1連(2)
    明治35年(1902年)10月29日設計完了。
    明治41年(1908年)架橋。
    鍛治橋通り(都道第406号線)

    東京都千代田区丸ノ内1−10
    東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩3分

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />鍛治橋架道橋<br />近接<br /><br />東京都千代田区丸ノ内1−10<br />東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩3分

    東京-有楽町間



    鍛治橋架道橋
    近接

    東京都千代田区丸ノ内1−10
    東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩3分

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />鍛治橋架道橋<br />球体支柱<br />全景<br /><br />東京都千代田区丸ノ内1−10<br />東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩3分

    東京-有楽町間



    鍛治橋架道橋
    球体支柱
    全景

    東京都千代田区丸ノ内1−10
    東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩3分

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />鍛治橋架道橋<br />球体支柱<br />底球様式<br />横姿全景<br /><br />東京都千代田区丸ノ内1−10<br />東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩3分

    東京-有楽町間



    鍛治橋架道橋
    球体支柱
    底球様式
    横姿全景

    東京都千代田区丸ノ内1−10
    東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩3分

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />鍛治橋架道橋<br />球体支承(きゅうたい ししょう)<br />該物は、橋梁に於ける重量物受支柱 対 台座接点部に球体を設置する事で柱全体に於ける振動揺に遊間を付与軽減させる構造、ピボット支承とも称する。<br /><br />東京都千代田区丸ノ内1−10<br />東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩3分

    東京-有楽町間



    鍛治橋架道橋
    球体支承(きゅうたい ししょう)
    該物は、橋梁に於ける重量物受支柱 対 台座接点部に球体を設置する事で柱全体に於ける振動揺に遊間を付与軽減させる構造、ピボット支承とも称する。

    東京都千代田区丸ノ内1−10
    東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩3分

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />鍛治橋架道橋<br />球体支柱<br />横姿接写<br /><br />東京都千代田区丸ノ内1−10<br />東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩3分

    東京-有楽町間



    鍛治橋架道橋
    球体支柱
    横姿接写

    東京都千代田区丸ノ内1−10
    東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩3分

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />鍛治橋架道橋<br />球体支柱<br />柱頭装飾<br /><br />東京都千代田区丸ノ内1−10<br />東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩3分

    東京-有楽町間



    鍛治橋架道橋
    球体支柱
    柱頭装飾

    東京都千代田区丸ノ内1−10
    東海道本線東京駅丸ノ内南口 徒歩3分

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />鍛治橋架道橋<br />浜松町方橋台。<br /><br />東京都千代田区丸ノ内3−7−18<br />東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩2分

    東京-有楽町間



    鍛治橋架道橋
    浜松町方橋台。

    東京都千代田区丸ノ内3−7−18
    東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩2分

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />第4有楽町橋(だいし ゆうらくちょうばし)高架橋<br />24連構成<br />総延長235.5m<br />スパン間長 8m<br />明治40年(1907年)竣工。<br />浜松町方俯瞰。<br /><br />東京都千代田区丸ノ内3−7−18<br />東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩2分

    東京-有楽町間



    第4有楽町橋(だいし ゆうらくちょうばし)高架橋
    24連構成
    総延長235.5m
    スパン間長 8m
    明治40年(1907年)竣工。
    浜松町方俯瞰。

    東京都千代田区丸ノ内3−7−18
    東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩2分

    有楽町駅

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />第4有楽町橋高架橋<br /><br />東京都千代田区丸ノ内3−7−16<br />東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩2分

    東京-有楽町間



    第4有楽町橋高架橋

    東京都千代田区丸ノ内3−7−16
    東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩2分

    有楽町駅

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />第4有楽町橋高架橋<br /><br />東京都千代田区丸ノ内3−7−16<br />東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩2分

    東京-有楽町間



    第4有楽町橋高架橋

    東京都千代田区丸ノ内3−7−16
    東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩2分

    有楽町駅

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />第4有楽町橋高架橋<br />耐震工事未施行アーチ部<br />店子が未退去状態だった事から該アーチのみ耐震工事が未施行で建設当時の原型が残存。<br />然し、事実は該アーチ真下に昭和30年(1955年)に、当時の帝都高速度交通営団丸ノ内線が42度の角度を以って通過が決定し、同年1月15日に工事着工と同時に基礎木材を撤去し、改めて基礎工を施工した事から、今回の一連の耐震工事を必要とせず、故に該部分に限り原型残存が可能になった。<br />因みに、該線東京-西銀座(現 銀座)間開通は昭和32年(1957年)12月15日。<br /><br />東京都千代田区丸ノ内3−7−16<br />東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩2分

    東京-有楽町間



    第4有楽町橋高架橋
    耐震工事未施行アーチ部
    店子が未退去状態だった事から該アーチのみ耐震工事が未施行で建設当時の原型が残存。
    然し、事実は該アーチ真下に昭和30年(1955年)に、当時の帝都高速度交通営団丸ノ内線が42度の角度を以って通過が決定し、同年1月15日に工事着工と同時に基礎木材を撤去し、改めて基礎工を施工した事から、今回の一連の耐震工事を必要とせず、故に該部分に限り原型残存が可能になった。
    因みに、該線東京-西銀座(現 銀座)間開通は昭和32年(1957年)12月15日。

    東京都千代田区丸ノ内3−7−16
    東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩2分

    有楽町駅

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />第4有楽町橋高架橋<br />耐震工事未施行アーチ部<br />近接<br /><br />東京都千代田区丸ノ内3−7−16<br />東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩2分

    東京-有楽町間



    第4有楽町橋高架橋
    耐震工事未施行アーチ部
    近接

    東京都千代田区丸ノ内3−7−16
    東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩2分

    有楽町駅

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />第4有楽町橋高架橋<br />耐震工事未施行アーチ<br />内部<br />内部煉瓦積状態が確認可能。<br /><br />東京都千代田区丸ノ内3−7−16<br />東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩2分

    東京-有楽町間



    第4有楽町橋高架橋
    耐震工事未施行アーチ
    内部
    内部煉瓦積状態が確認可能。

    東京都千代田区丸ノ内3−7−16
    東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩2分

    有楽町駅

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />第4有楽町橋高架橋<br />橋脚基部<br />円盤形装飾<br /><br />東京都千代田区丸ノ内3−7−16<br />東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩2分

    東京-有楽町間



    第4有楽町橋高架橋
    橋脚基部
    円盤形装飾

    東京都千代田区丸ノ内3−7−16
    東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩2分

    有楽町駅

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />第4有楽町橋高架橋<br />橋脚基部<br />円盤形装飾<br />近接<br /><br />東京都千代田区丸ノ内3−7−16<br />東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩2分

    東京-有楽町間



    第4有楽町橋高架橋
    橋脚基部
    円盤形装飾
    近接

    東京都千代田区丸ノ内3−7−16
    東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩2分

    有楽町駅

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />第4有楽町橋高架橋<br />旧有楽町印刷所跡<br />官制形成に拠り、明治41年(1908年)12月5日附で、従来の逓信省鐵道作業局、及び、帝國鐵道庁が廃止され、新たに、鉄道行政管理組織として内閣鐵道院が成立し、鐵道院本庁の下に、東部、中部、西部、九州、及び、北海道の5鐵道管理局が設置された。<br />当時の鐵道院線乗車券類印刷業務は旧時代業務を継承する形で、東部鐵道管理局所在地上野、及び、中部鐵道管理局所在地新橋に於いて、本州内所在駅全駅分を行い、九州、及び、北海道に対しては、該印刷所から乗車券原紙を供給し、現地印刷所に於いて印刷していた。<br />然るに、大正3年(1914年)5月5日附官制改正に拠り、東部、及び、中部鐵道管理局が統合され、東京鐵道管理局が成立した事で、現業機関統合も推進され、東京鐵道局は、新橋、及び、上野に分散していた乗車券印刷を第4有楽町橋高架橋内に移転統合集約し、有楽町印刷所が開設された。<br />その後、大正8年(1919年)5月1日附官制改正に拠り、北海道鐵道管理局は札幌鐵道管理局、西部鐵道管理局は神戸鐵道管理局、九州鐵道管理局は門司鐵道管理局に名称変更され、更に、東京鐵道管理局から仙台鐵道管理局、及び、名古屋鐵道管理局を分離独立させた。<br />大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災に於いて、該印刷所に隣接する有楽町驛は、築地銀座方面で発生した火災延焼が原因で、当日23時頃に類焼全焼したが、該印刷所は職員の懸命な努力に依り周囲が延焼する中で奇蹟的に焼失を免れた。<br />然し、震災初動が原因で乗車券類印刷に必要な活版印刷活字ケースが倒れ乗車券原紙が散乱し、更に停電状態の為に、印刷機器を稼働させる事すら不可能になった。<br />然して、鐵道省全線に亙る乗車券類印刷が不可能なりと云ふ状態は当局の好まざる状況であり、所内整備を進め非常用電力供給を受ける事が可能になった為に、同年同月8日に動力性能試験を実施し、翌9日から印刷業務を再開させた。<br />その後、印刷業務が拡大するに従い、該施設に於ける狭隘から業務推進に支障が顕著になって来た事から、鐵道省は該印刷所移転を検討し、昭和9年(1934年)5月に、東京市芝区濱離宮脇に移転し同時に東京印刷所と改称するまで該地に於いて稼働した。<br /><br />東京都千代田区丸ノ内3−7−16<br />東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩2分

    東京-有楽町間



    第4有楽町橋高架橋
    旧有楽町印刷所跡
    官制形成に拠り、明治41年(1908年)12月5日附で、従来の逓信省鐵道作業局、及び、帝國鐵道庁が廃止され、新たに、鉄道行政管理組織として内閣鐵道院が成立し、鐵道院本庁の下に、東部、中部、西部、九州、及び、北海道の5鐵道管理局が設置された。
    当時の鐵道院線乗車券類印刷業務は旧時代業務を継承する形で、東部鐵道管理局所在地上野、及び、中部鐵道管理局所在地新橋に於いて、本州内所在駅全駅分を行い、九州、及び、北海道に対しては、該印刷所から乗車券原紙を供給し、現地印刷所に於いて印刷していた。
    然るに、大正3年(1914年)5月5日附官制改正に拠り、東部、及び、中部鐵道管理局が統合され、東京鐵道管理局が成立した事で、現業機関統合も推進され、東京鐵道局は、新橋、及び、上野に分散していた乗車券印刷を第4有楽町橋高架橋内に移転統合集約し、有楽町印刷所が開設された。
    その後、大正8年(1919年)5月1日附官制改正に拠り、北海道鐵道管理局は札幌鐵道管理局、西部鐵道管理局は神戸鐵道管理局、九州鐵道管理局は門司鐵道管理局に名称変更され、更に、東京鐵道管理局から仙台鐵道管理局、及び、名古屋鐵道管理局を分離独立させた。
    大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災に於いて、該印刷所に隣接する有楽町驛は、築地銀座方面で発生した火災延焼が原因で、当日23時頃に類焼全焼したが、該印刷所は職員の懸命な努力に依り周囲が延焼する中で奇蹟的に焼失を免れた。
    然し、震災初動が原因で乗車券類印刷に必要な活版印刷活字ケースが倒れ乗車券原紙が散乱し、更に停電状態の為に、印刷機器を稼働させる事すら不可能になった。
    然して、鐵道省全線に亙る乗車券類印刷が不可能なりと云ふ状態は当局の好まざる状況であり、所内整備を進め非常用電力供給を受ける事が可能になった為に、同年同月8日に動力性能試験を実施し、翌9日から印刷業務を再開させた。
    その後、印刷業務が拡大するに従い、該施設に於ける狭隘から業務推進に支障が顕著になって来た事から、鐵道省は該印刷所移転を検討し、昭和9年(1934年)5月に、東京市芝区濱離宮脇に移転し同時に東京印刷所と改称するまで該地に於いて稼働した。

    東京都千代田区丸ノ内3−7−16
    東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩2分

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />第4有楽町橋高架橋<br />東京方俯瞰。<br /><br />東京都千代田区丸ノ内3−7−11<br />東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩1分

    東京-有楽町間



    第4有楽町橋高架橋
    東京方俯瞰。

    東京都千代田区丸ノ内3−7−11
    東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩1分

    有楽町駅

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />第3有楽橋(だいさん ゆうらくばし)架道橋<br />鋼鐡製単線型<br />カンチレバー・プレート・ガーダー 支間21.2m橋桁×1連(4)<br />明治35年(1902年)12月12日設計完了。<br />明治41年(1908年)架橋。<br />銀座柳通り<br /><br />東京都千代田区丸ノ内3−6<br />東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩1分

    東京-有楽町間



    第3有楽橋(だいさん ゆうらくばし)架道橋
    鋼鐡製単線型
    カンチレバー・プレート・ガーダー 支間21.2m橋桁×1連(4)
    明治35年(1902年)12月12日設計完了。
    明治41年(1908年)架橋。
    銀座柳通り

    東京都千代田区丸ノ内3−6
    東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩1分

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />第3有楽橋架道橋<br />支柱<br />下部球体支承型<br /><br />東京都千代田区丸ノ内3−6<br />東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩1分

    東京-有楽町間



    第3有楽橋架道橋
    支柱
    下部球体支承型

    東京都千代田区丸ノ内3−6
    東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩1分

    有楽町駅

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />第3有楽橋架道橋<br />支柱<br />上部装飾<br /><br />東京都千代田区丸ノ内3−6<br />東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩1分

    東京-有楽町間



    第3有楽橋架道橋
    支柱
    上部装飾

    東京都千代田区丸ノ内3−6
    東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩1分

    有楽町駅

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />第3有楽町橋(だいさん ゆうらくちょうばし)高架橋<br />17連構成<br />総延長170.5m<br />スパン間長 8m<br />明治40年(1907年)竣工。<br />該高架橋は、現在の有楽町駅構内。<br />浜松町方俯瞰。<br /><br />東京都千代田区丸ノ内2−9<br />東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩15秒

    東京-有楽町間



    第3有楽町橋(だいさん ゆうらくちょうばし)高架橋
    17連構成
    総延長170.5m
    スパン間長 8m
    明治40年(1907年)竣工。
    該高架橋は、現在の有楽町駅構内。
    浜松町方俯瞰。

    東京都千代田区丸ノ内2−9
    東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩15秒

    有楽町駅

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />第3有楽町橋高架橋<br />橋脚基部<br />円盤形装飾<br />煉瓦部は塗装されているが該装飾は、ほぼ原型を維持。<br />関東大震災発生に伴い剥落箇所が多い。<br />煉瓦は英國積。<br /><br />東京都千代田区丸ノ内2−9<br />東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩15秒

    東京-有楽町間



    第3有楽町橋高架橋
    橋脚基部
    円盤形装飾
    煉瓦部は塗装されているが該装飾は、ほぼ原型を維持。
    関東大震災発生に伴い剥落箇所が多い。
    煉瓦は英國積。

    東京都千代田区丸ノ内2−9
    東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩15秒

    有楽町駅

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />第3有楽町橋高架橋<br /><br />東京都千代田区丸ノ内2−9<br />東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩15秒

    東京-有楽町間



    第3有楽町橋高架橋

    東京都千代田区丸ノ内2−9
    東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩15秒

    有楽町駅

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />第3有楽町橋高架橋<br />有楽町駅中央口架道橋<br />日比谷側全景<br /><br />東京都千代田区有楽町2−9<br />東海道本線(山手線)有楽町駅中央西口改札口 徒歩15秒

    東京-有楽町間



    第3有楽町橋高架橋
    有楽町駅中央口架道橋
    日比谷側全景

    東京都千代田区有楽町2−9
    東海道本線(山手線)有楽町駅中央西口改札口 徒歩15秒

    有楽町駅

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />第3有楽町橋高架橋<br />有楽町駅中央口架道橋<br />銀座側<br />2連アーチ内に設置。<br />煉瓦アーチ手前は東海道本線列車線用高架橋。<br />通行可。<br /><br />東京都千代田区有楽町2−9<br />東海道本線(山手線)有楽町駅中央改札口 徒歩15秒

    東京-有楽町間



    第3有楽町橋高架橋
    有楽町駅中央口架道橋
    銀座側
    2連アーチ内に設置。
    煉瓦アーチ手前は東海道本線列車線用高架橋。
    通行可。

    東京都千代田区有楽町2−9
    東海道本線(山手線)有楽町駅中央改札口 徒歩15秒

    有楽町駅

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />第3有楽町橋高架橋<br />有楽町駅中央口架道橋<br />昭和20年(1945年)1月27日の東京銀座空襲の際に該駅に命中した爆弾の直撃弾弾片を受け被災し、戦後復旧時にモルタル吹付で修復。<br /><br />東京都千代田区有楽町2−9<br />東海道本線(山手線)有楽町駅中央改札口 徒歩5秒

    東京-有楽町間



    第3有楽町橋高架橋
    有楽町駅中央口架道橋
    昭和20年(1945年)1月27日の東京銀座空襲の際に該駅に命中した爆弾の直撃弾弾片を受け被災し、戦後復旧時にモルタル吹付で修復。

    東京都千代田区有楽町2−9
    東海道本線(山手線)有楽町駅中央改札口 徒歩5秒

    有楽町駅

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />第3有楽町橋高架橋<br />有楽町駅中央口架道橋<br />一部吹付モルタルが剥離し煉瓦地が露出。<br /><br />東京都千代田区有楽町2−9<br />東海道本線(山手線)有楽町駅中央改札口 徒歩15秒

    東京-有楽町間



    第3有楽町橋高架橋
    有楽町駅中央口架道橋
    一部吹付モルタルが剥離し煉瓦地が露出。

    東京都千代田区有楽町2−9
    東海道本線(山手線)有楽町駅中央改札口 徒歩15秒

    有楽町駅

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />第3有楽町橋高架橋<br />有楽町駅中央口改札口<br />該改札口上部は改装されているがアーチ部痕跡が残存。<br /><br />東京都千代田区有楽町2−9<br />東海道本線(山手線)有楽町駅中央改札口

    東京-有楽町間



    第3有楽町橋高架橋
    有楽町駅中央口改札口
    該改札口上部は改装されているがアーチ部痕跡が残存。

    東京都千代田区有楽町2−9
    東海道本線(山手線)有楽町駅中央改札口

  • 有楽町(ゆうらくちょう)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />該駅は、明治43年(1910年)6月25日開業である。<br />烏森(現 新橋)-有楽町間高架橋完成に拠り開通した。<br />該駅は本邦初の独立駅本屋を有せぬ高架内駅構造である。<br />大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災初震動時に於ける該駅施設被害は軽微だった。<br />然るに、該震災直後に、該駅前から出火した火は、折からの強い南風に煽られ漸次拡大し、中華料理店 大厦楼を全焼させたが、他方、同日15時30分頃には、東京電燈會社(現 東京電力本社)付近から新たに出火し、該火は忽ち付近一帯を焼失させ、数寄屋橋から銀座方面に延焼させた。<br />風向きが刻々変化した事から、火勢猛烈の状況でありながら、漸次該駅付近から遠退いた為に該駅職員一同安堵したが、同日23時頃、呉服橋付近で発生した火砕流は、次々と付近一帯の民家に延焼し、更に、第4有楽町橋高架橋内倉庫に引火した事から、断水状態での防火手段が無く、遂に、該駅ホーム内建物、及び、該高架橋内倉庫が焼失するに至った。<br />然し、該時点直前に鐵道省所属自動車派遣を要請し、大部分の該駅備品、重要帳票類搬出に成功した為に類焼は免れ、該駅長室、出札室、及び、手小荷物取扱所は類焼せず無事だった。<br />ホーム床面大部分が、火災に拠る高熱が原因で剥離落下した為に、残存焼損部分に就いては、大井工場から派遣出動した技工手に依りガス切断処置が講じられたが、該作業中、技工手が危く落下したが、途中突起物に引掛り、事無きを得た事故も発生した。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1617

    有楽町(ゆうらくちょう)駅



    駅本屋
    該駅は、明治43年(1910年)6月25日開業である。
    烏森(現 新橋)-有楽町間高架橋完成に拠り開通した。
    該駅は本邦初の独立駅本屋を有せぬ高架内駅構造である。
    大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災初震動時に於ける該駅施設被害は軽微だった。
    然るに、該震災直後に、該駅前から出火した火は、折からの強い南風に煽られ漸次拡大し、中華料理店 大厦楼を全焼させたが、他方、同日15時30分頃には、東京電燈會社(現 東京電力本社)付近から新たに出火し、該火は忽ち付近一帯を焼失させ、数寄屋橋から銀座方面に延焼させた。
    風向きが刻々変化した事から、火勢猛烈の状況でありながら、漸次該駅付近から遠退いた為に該駅職員一同安堵したが、同日23時頃、呉服橋付近で発生した火砕流は、次々と付近一帯の民家に延焼し、更に、第4有楽町橋高架橋内倉庫に引火した事から、断水状態での防火手段が無く、遂に、該駅ホーム内建物、及び、該高架橋内倉庫が焼失するに至った。
    然し、該時点直前に鐵道省所属自動車派遣を要請し、大部分の該駅備品、重要帳票類搬出に成功した為に類焼は免れ、該駅長室、出札室、及び、手小荷物取扱所は類焼せず無事だった。
    ホーム床面大部分が、火災に拠る高熱が原因で剥離落下した為に、残存焼損部分に就いては、大井工場から派遣出動した技工手に依りガス切断処置が講じられたが、該作業中、技工手が危く落下したが、途中突起物に引掛り、事無きを得た事故も発生した。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1617

  • 有楽町駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />東京方より俯瞰<br />端部に煉瓦積構造が辛うじて残存。

    有楽町駅



    第1番ホーム
    東京方より俯瞰
    端部に煉瓦積構造が辛うじて残存。

  • 有楽町駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />架線柱<br />該駅増線化工事前まで、現在の山手線外廻線が列車上り線で、該架線柱右側を下り列車線の通過痕跡。

    有楽町駅



    第2番ホーム
    架線柱
    該駅増線化工事前まで、現在の山手線外廻線が列車上り線で、該架線柱右側を下り列車線の通過痕跡。

  • 有楽町駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />日比谷口<br />改札口

    有楽町駅



    駅本屋
    日比谷口
    改札口

  • 有楽町駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />該駅開業当初は写真中央のチケットショップ フナキ付近部分が道路に対し開口し出改札口が存在した。

    有楽町駅



    駅本屋
    該駅開業当初は写真中央のチケットショップ フナキ付近部分が道路に対し開口し出改札口が存在した。

  • 有楽町駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />中央改札口<br />

    有楽町駅



    駅構内
    中央改札口

  • 有楽町駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />大東亜戦争末期たる昭和20年(1945年)1月27日14時25分頃、東京銀座空襲の際に該地点に250kg爆弾が命中爆発し、500名以上の犠牲者が発生したとされる現場。<br />右柱は該爆発の際に爆風でコンクリートが剥離し、内部鉄筋が露出し爆風方向に向い屈折被害が発生した。<br />被災当日中に木枠桁を組込み仮復旧させたが、完全復旧は翌2月中旬にずれ込む。<br /><br />東京都千代田区有楽町2−9<br />東海道本線(山手線)有楽町駅中央改札口 徒歩15秒

    有楽町駅



    駅構内
    大東亜戦争末期たる昭和20年(1945年)1月27日14時25分頃、東京銀座空襲の際に該地点に250kg爆弾が命中爆発し、500名以上の犠牲者が発生したとされる現場。
    右柱は該爆発の際に爆風でコンクリートが剥離し、内部鉄筋が露出し爆風方向に向い屈折被害が発生した。
    被災当日中に木枠桁を組込み仮復旧させたが、完全復旧は翌2月中旬にずれ込む。

    東京都千代田区有楽町2−9
    東海道本線(山手線)有楽町駅中央改札口 徒歩15秒

    有楽町駅

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />第3有楽町橋高架橋<br />東京方俯瞰。<br />都道第402号線<br /><br />東京都千代田区丸ノ内2−9<br />東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩1分

    東京-有楽町間



    第3有楽町橋高架橋
    東京方俯瞰。
    都道第402号線

    東京都千代田区丸ノ内2−9
    東海道本線(山手線)有楽町駅国際フォーラム口 徒歩1分

    有楽町駅

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />第2有楽橋(だいに ゆうらくばし)架道橋<br />鋼鐡製単線型<br />カンチレバー・プレート・ガーダー 支間17.9m橋桁×1連(4)<br />明治35年(1902年)12月12日設計完了。<br />明治41年(1908年)架橋。<br />該架道橋は、現在の有楽町駅構内。<br /><br />東京都千代田区有楽町1−4<br />東海道本線(山手線)有楽町駅日比谷口 徒歩15秒

    東京-有楽町間



    第2有楽橋(だいに ゆうらくばし)架道橋
    鋼鐡製単線型
    カンチレバー・プレート・ガーダー 支間17.9m橋桁×1連(4)
    明治35年(1902年)12月12日設計完了。
    明治41年(1908年)架橋。
    該架道橋は、現在の有楽町駅構内。

    東京都千代田区有楽町1−4
    東海道本線(山手線)有楽町駅日比谷口 徒歩15秒

    有楽町駅

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />第2有楽橋架道橋<br />関東大震災では、該橋梁橋台接合部に剥離損傷被害が発生。<br /><br />東京都千代田区有楽町1−4<br />東海道本線(山手線)有楽町駅日比谷口 徒歩15秒

    東京-有楽町間



    第2有楽橋架道橋
    関東大震災では、該橋梁橋台接合部に剥離損傷被害が発生。

    東京都千代田区有楽町1−4
    東海道本線(山手線)有楽町駅日比谷口 徒歩15秒

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />第2有楽橋架道橋<br /><br />東京都千代田区有楽町1−4<br />東海道本線(山手線)有楽町駅日比谷口 徒歩15秒

    東京-有楽町間



    第2有楽橋架道橋

    東京都千代田区有楽町1−4
    東海道本線(山手線)有楽町駅日比谷口 徒歩15秒

  • 東京-有楽町間<br /><br /><br /><br />第2有楽町橋(だいに ゆうらくちょうばし)高架橋<br />6連構成<br />総延長67.8m<br />スパン間長 8m<br />明治40年(1907年)竣工。<br />該高架橋は、現在の有楽町駅構内。<br /><br />東京都千代田区有楽町1−1−13<br />東海道本線(山手線)有楽町駅日比谷口 徒歩1分

    東京-有楽町間



    第2有楽町橋(だいに ゆうらくちょうばし)高架橋
    6連構成
    総延長67.8m
    スパン間長 8m
    明治40年(1907年)竣工。
    該高架橋は、現在の有楽町駅構内。

    東京都千代田区有楽町1−1−13
    東海道本線(山手線)有楽町駅日比谷口 徒歩1分

  • 有楽町-新橋間<br /><br /><br /><br />第2有楽町橋高架橋<br />東京方俯瞰。<br /><br />東京都千代田区有楽町2−4−1<br />東海道本線(山手線)有楽町駅日比谷口 徒歩1分

    有楽町-新橋間



    第2有楽町橋高架橋
    東京方俯瞰。

    東京都千代田区有楽町2−4−1
    東海道本線(山手線)有楽町駅日比谷口 徒歩1分

  • 有楽町-新橋間<br /><br /><br /><br />第1有楽橋(だいいち ゆうらくばし)架道橋<br />鋼鐡製単線型<br />カンチレバー・プレート・ガーダー橋桁 支間18.2m×4連<br />明治37年(1904年)10月25日設計完了。<br />明治41年(1908年)架橋。<br />晴海通り<br /><br />東京都千代田区有楽町2−4<br />東海道本線(山手線)有楽町駅日比谷口 徒歩1分

    有楽町-新橋間



    第1有楽橋(だいいち ゆうらくばし)架道橋
    鋼鐡製単線型
    カンチレバー・プレート・ガーダー橋桁 支間18.2m×4連
    明治37年(1904年)10月25日設計完了。
    明治41年(1908年)架橋。
    晴海通り

    東京都千代田区有楽町2−4
    東海道本線(山手線)有楽町駅日比谷口 徒歩1分

  • 有楽町-新橋間<br /><br /><br /><br />第1有楽橋架道橋<br />戦後、自動車通行量増加に伴い球体支承支柱に衝突事故が多発し、列車運行安全上、放置し得ない事態に至っていた事から、東京都側の要請も有り、山手線・京浜東北線電車運転分離工事と平行し、支柱を廃止し橋桁を一体型に交換させる事に決定し、昭和30年(1955年)10月25日に着工し、翌昭和31年(1956年)8月25日に竣工した。<br />大阪橋梁株式会社製造銘板<br /><br />東京都千代田区有楽町2−4<br />東海道本線(山手線)有楽町駅日比谷口 徒歩1分

    有楽町-新橋間



    第1有楽橋架道橋
    戦後、自動車通行量増加に伴い球体支承支柱に衝突事故が多発し、列車運行安全上、放置し得ない事態に至っていた事から、東京都側の要請も有り、山手線・京浜東北線電車運転分離工事と平行し、支柱を廃止し橋桁を一体型に交換させる事に決定し、昭和30年(1955年)10月25日に着工し、翌昭和31年(1956年)8月25日に竣工した。
    大阪橋梁株式会社製造銘板

    東京都千代田区有楽町2−4
    東海道本線(山手線)有楽町駅日比谷口 徒歩1分

  • 有楽町-新橋間<br /><br /><br /><br />第1有楽町橋(だいいち ゆうらくちょうばし)高架橋<br />14連構成<br />総延長192.4m<br />スパン間長 11〜12m<br />明治40年(1907年)竣工。<br /><br />東京都千代田区有楽町1−1−10<br />東海道本線(山手線)有楽町駅日比谷口 徒歩2分

    有楽町-新橋間



    第1有楽町橋(だいいち ゆうらくちょうばし)高架橋
    14連構成
    総延長192.4m
    スパン間長 11〜12m
    明治40年(1907年)竣工。

    東京都千代田区有楽町1−1−10
    東海道本線(山手線)有楽町駅日比谷口 徒歩2分

    新橋駅 (JR・地下鉄)

  • 有楽町-新橋間<br /><br /><br /><br />第1有楽町橋高架橋<br />窓装飾<br /><br />東京都千代田区有楽町1−1−12<br />東海道本線(山手線)有楽町駅日比谷口 徒歩3分

    有楽町-新橋間



    第1有楽町橋高架橋
    窓装飾

    東京都千代田区有楽町1−1−12
    東海道本線(山手線)有楽町駅日比谷口 徒歩3分

  • 有楽町-新橋間<br /><br /><br /><br />山下橋(やましたばし)架道橋<br />鋼鐡製複線型<br />カンチレバー・プレート・ガーダー 支間18.2m橋桁×1連(2)<br />明治34年(1901年)3月16日設計完了。<br />明治41年(1908年)架橋。<br />みゆき通り<br />昭和20年(1945年)1月27日の銀座築地空襲時に付近ビルに至近弾が命中爆発し、該橋桁に爆発痕が残存する。<br /><br />東京都中央区銀座5−1<br />東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩4分

    有楽町-新橋間



    山下橋(やましたばし)架道橋
    鋼鐡製複線型
    カンチレバー・プレート・ガーダー 支間18.2m橋桁×1連(2)
    明治34年(1901年)3月16日設計完了。
    明治41年(1908年)架橋。
    みゆき通り
    昭和20年(1945年)1月27日の銀座築地空襲時に付近ビルに至近弾が命中爆発し、該橋桁に爆発痕が残存する。

    東京都中央区銀座5−1
    東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩4分

  • 有楽町-新橋間<br /><br /><br /><br />山下橋架道橋<br />浜松町方橋台<br /><br />東京都中央区銀座5−1<br />東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩4分

    有楽町-新橋間



    山下橋架道橋
    浜松町方橋台

    東京都中央区銀座5−1
    東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩4分

  • 有楽町-新橋間<br /><br /><br /><br />内山下町橋(うちやましたちょうばし)高架橋<br />21連構成<br />総延長299.2m<br />スパン間長 12m<br />明治40年(1907年)竣工。<br />該高架橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で命名された麹町區内山下町(うちやましたちょう)から採用されたものである。<br />その後、行政合理化で、昭和13年(1938年)3月1日附府告示第106号に拠り、付近一帯は、内幸町1丁目に統合改称が決定し、該府告示は同日府で施行され、該町名は消滅した。<br />浜松町方俯瞰。<br /><br />東京都千代田区内幸町1−7<br />東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩4分

    有楽町-新橋間



    内山下町橋(うちやましたちょうばし)高架橋
    21連構成
    総延長299.2m
    スパン間長 12m
    明治40年(1907年)竣工。
    該高架橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で命名された麹町區内山下町(うちやましたちょう)から採用されたものである。
    その後、行政合理化で、昭和13年(1938年)3月1日附府告示第106号に拠り、付近一帯は、内幸町1丁目に統合改称が決定し、該府告示は同日府で施行され、該町名は消滅した。
    浜松町方俯瞰。

    東京都千代田区内幸町1−7
    東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩4分

  • 有楽町-新橋間<br /><br /><br /><br />内山下町橋高架橋<br />橋脚基部<br />透かし窓模様。<br />3窓様式。<br /><br />東京都千代田区内幸町1−7<br />東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩4分

    有楽町-新橋間



    内山下町橋高架橋
    橋脚基部
    透かし窓模様。
    3窓様式。

    東京都千代田区内幸町1−7
    東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩4分

  • 有楽町-新橋間<br /><br /><br /><br />内山下町橋高架橋<br />橋脚基部<br />透かし窓模様。<br />3窓様式。<br />全景。<br /><br />東京都千代田区内幸町1−7<br />東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩4分

    有楽町-新橋間



    内山下町橋高架橋
    橋脚基部
    透かし窓模様。
    3窓様式。
    全景。

    東京都千代田区内幸町1−7
    東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩4分

  • 有楽町-新橋間<br /><br /><br /><br />内山下町橋高架橋<br />橋脚基部<br />透かし窓模様。<br />3窓様式。<br />全景。<br /><br />東京都千代田区内幸町1−7<br />東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩4分

    有楽町-新橋間



    内山下町橋高架橋
    橋脚基部
    透かし窓模様。
    3窓様式。
    全景。

    東京都千代田区内幸町1−7
    東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩4分

  • 有楽町-新橋間<br /><br /><br /><br />内山下町橋高架橋<br />橋脚基部<br />透かし窓模様。<br />3窓様式。<br />Gewohnlicher Zwischenpfeiler<br />柱間 1.79m<br />基部1〜7、9〜12、14〜18、20〜24<br />全景。<br />耐震工事の為のコンクリート増強部分を除き、窓扉を含め、殆ど建造当時の原型を残存させる。<br /><br />東京都千代田区内幸町1−7−7<br />東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩4分

    有楽町-新橋間



    内山下町橋高架橋
    橋脚基部
    透かし窓模様。
    3窓様式。
    Gewohnlicher Zwischenpfeiler
    柱間 1.79m
    基部1〜7、9〜12、14〜18、20〜24
    全景。
    耐震工事の為のコンクリート増強部分を除き、窓扉を含め、殆ど建造当時の原型を残存させる。

    東京都千代田区内幸町1−7−7
    東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩4分

  • 有楽町-新橋間<br /><br /><br /><br />内山下町橋高架橋<br />橋脚基部<br />透かし窓模様。<br />4窓様式。<br />Gruppenpfeiler<br />柱間 2.75m<br />基部8、13、19<br />全景。<br /><br />東京都千代田区内幸町1−7−9<br />東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩4分

    有楽町-新橋間



    内山下町橋高架橋
    橋脚基部
    透かし窓模様。
    4窓様式。
    Gruppenpfeiler
    柱間 2.75m
    基部8、13、19
    全景。

    東京都千代田区内幸町1−7−9
    東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩4分

  • 有楽町-新橋間<br /><br /><br /><br />内山下町橋高架橋<br />東京方俯瞰。<br /><br /><br />東京都千代田区有楽町1−1−3<br />東海道本線(山手線)有楽町駅日比谷口 徒歩3分

    有楽町-新橋間



    内山下町橋高架橋
    東京方俯瞰。


    東京都千代田区有楽町1−1−3
    東海道本線(山手線)有楽町駅日比谷口 徒歩3分

  • 有楽町-新橋間<br /><br /><br /><br />内幸橋(うちさいわいばし)架道橋<br />鋼鐡製複線型<br />カンチレバー・プレート・ガーダー 支間18.2m橋桁×1連(2)<br />明治34年(1901年)3月16日設計完了。<br />明治41年(1908年)架橋。<br />みゆき通り<br />昭和20年(1945年)1月27日の銀座築地空襲時に付近ビルに至近弾が命中爆発し、該橋桁に爆発痕が残存する。<br /><br />東京都中央区銀座5−1<br />東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩4分

    有楽町-新橋間



    内幸橋(うちさいわいばし)架道橋
    鋼鐡製複線型
    カンチレバー・プレート・ガーダー 支間18.2m橋桁×1連(2)
    明治34年(1901年)3月16日設計完了。
    明治41年(1908年)架橋。
    みゆき通り
    昭和20年(1945年)1月27日の銀座築地空襲時に付近ビルに至近弾が命中爆発し、該橋桁に爆発痕が残存する。

    東京都中央区銀座5−1
    東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩4分

    新橋駅 (JR・地下鉄)

  • 有楽町-新橋間<br /><br /><br /><br />内幸町橋(うちさいちょうばし)高架線<br />10連構成<br />総延長140.4m<br />スパン間長 11〜12m<br />明治40年(1908年)竣工。<br />該高架橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で命名された麹町區内幸町(うちさいわいちょう)から採用されたものである。<br />その後、行政合理化で、昭和13年(1938年)3月1日附府告示第106号に拠り、付近一帯は内幸町1丁目に統合された。<br />浜松町方俯瞰。<br /><br />東京都千代田区内幸町1−7<br />東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩2分

    有楽町-新橋間



    内幸町橋(うちさいちょうばし)高架線
    10連構成
    総延長140.4m
    スパン間長 11〜12m
    明治40年(1908年)竣工。
    該高架橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で命名された麹町區内幸町(うちさいわいちょう)から採用されたものである。
    その後、行政合理化で、昭和13年(1938年)3月1日附府告示第106号に拠り、付近一帯は内幸町1丁目に統合された。
    浜松町方俯瞰。

    東京都千代田区内幸町1−7
    東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩2分

  • 有楽町-新橋間<br /><br /><br /><br />内幸町橋高架橋

    有楽町-新橋間



    内幸町橋高架橋

  • 有楽町-新橋間<br /><br /><br /><br />内幸町橋高架橋

    有楽町-新橋間



    内幸町橋高架橋

  • 有楽町-新橋間<br /><br /><br /><br />内幸町橋高架橋<br />神戸方俯瞰。<br /><br />東京都千代田区内幸町1−7<br />東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩4分

    有楽町-新橋間



    内幸町橋高架橋
    神戸方俯瞰。

    東京都千代田区内幸町1−7
    東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩4分

  • 有楽町-新橋間<br /><br /><br /><br />内幸町橋高架橋

    有楽町-新橋間



    内幸町橋高架橋

  • 有楽町-新橋間<br /><br /><br /><br />内幸町橋高架橋<br />東京方俯瞰。<br /><br />東京都千代田区内幸町1−7<br />東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩2分

    有楽町-新橋間



    内幸町橋高架橋
    東京方俯瞰。

    東京都千代田区内幸町1−7
    東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩2分

  • 有楽町-新橋間<br /><br /><br /><br />内幸町橋高架橋<br />東京方俯瞰。<br /><br />東京都千代田区内幸町1−7<br />東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩2分

    有楽町-新橋間



    内幸町橋高架橋
    東京方俯瞰。

    東京都千代田区内幸町1−7
    東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩2分

  • 有楽町-新橋間<br /><br /><br /><br />幸橋(さいわいばし)架道橋<br />鋼鐡製単線型<br />カンチレバー・プレート・ガーダー橋桁 支間22.3m×1連(4)<br />明治35年(1902年)6月20日設計完了。<br />明治41年(1908年)架橋。<br />外堀通り<br /><br />東京都港区東新橋1−3<br />東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩2分

    有楽町-新橋間



    幸橋(さいわいばし)架道橋
    鋼鐡製単線型
    カンチレバー・プレート・ガーダー橋桁 支間22.3m×1連(4)
    明治35年(1902年)6月20日設計完了。
    明治41年(1908年)架橋。
    外堀通り

    東京都港区東新橋1−3
    東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩2分

  • 有楽町-新橋間<br /><br /><br /><br />幸橋架道橋<br />鋼鐡製単線型<br />元来、該橋梁左手半分は旧外濠跡である。<br />東京市区改正新設計計画に拠り、明治37年(1904年)から明治41年(1908年)にかけて継続事業として外濠川埋立工事が施工され、明治43年(1910年)完了まで該濠が存在した。<br /><br />東京都港区東新橋1−3<br />東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩2分

    有楽町-新橋間



    幸橋架道橋
    鋼鐡製単線型
    元来、該橋梁左手半分は旧外濠跡である。
    東京市区改正新設計計画に拠り、明治37年(1904年)から明治41年(1908年)にかけて継続事業として外濠川埋立工事が施工され、明治43年(1910年)完了まで該濠が存在した。

    東京都港区東新橋1−3
    東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩2分

  • 有楽町-新橋間<br /><br /><br /><br />幸橋架道橋<br />球体支柱<br />写真右端支柱の充鋼板部分は、昭和20年(1945年)1月27日銀座京橋地区空襲時に、焼夷弾が該橋梁支柱に命中発火損傷した修復痕。<br /><br />東京都港区東新橋1−3<br />東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩2分

    有楽町-新橋間



    幸橋架道橋
    球体支柱
    写真右端支柱の充鋼板部分は、昭和20年(1945年)1月27日銀座京橋地区空襲時に、焼夷弾が該橋梁支柱に命中発火損傷した修復痕。

    東京都港区東新橋1−3
    東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩2分

  • 有楽町-新橋間<br /><br /><br /><br />二葉町橋(ふたばちょうばし)高架橋<br />5連構成<br />総延長40.0m<br />スパン間長 8m<br />明治39年(1907年)竣工。<br />浜松町方俯瞰。<br /><br />東京都港区東新橋1−7<br />東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩2分<br /><br /><br />東京都港区新橋1−3<br />東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩1分

    有楽町-新橋間



    二葉町橋(ふたばちょうばし)高架橋
    5連構成
    総延長40.0m
    スパン間長 8m
    明治39年(1907年)竣工。
    浜松町方俯瞰。

    東京都港区東新橋1−7
    東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩2分


    東京都港区新橋1−3
    東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩1分

  • 有楽町-新橋間<br /><br /><br /><br />二葉町橋(ふたばちょうばし)高架橋<br />5連構成<br />総延長40.0m<br />スパン間長 8m<br />明治39年(1907年)竣工。<br />該高架橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で命名された芝區二葉町(ふたばちょう)から採用されたものである。<br />その後、行政合理化で、昭和7年(1932年)9月20日附府告示第679号に拠り、付近一帯は新橋2丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年10月1日附で施行され、該町名は消滅した。<br />更に、大東亜戦争後に於ける行政再合理化で、昭和40年(1965年)2月1日附都告示に拠り、付近一帯は東新橋2丁目に再改称された。<br />神戸方俯瞰。<br /><br />東京都港区東新橋1−7<br />東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩2分<br /><br /><br />東京都港区新橋1−3<br />東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩1分

    有楽町-新橋間



    二葉町橋(ふたばちょうばし)高架橋
    5連構成
    総延長40.0m
    スパン間長 8m
    明治39年(1907年)竣工。
    該高架橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で命名された芝區二葉町(ふたばちょう)から採用されたものである。
    その後、行政合理化で、昭和7年(1932年)9月20日附府告示第679号に拠り、付近一帯は新橋2丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年10月1日附で施行され、該町名は消滅した。
    更に、大東亜戦争後に於ける行政再合理化で、昭和40年(1965年)2月1日附都告示に拠り、付近一帯は東新橋2丁目に再改称された。
    神戸方俯瞰。

    東京都港区東新橋1−7
    東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩2分


    東京都港区新橋1−3
    東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩1分

    新橋駅 (JR・地下鉄)

  • 有楽町-新橋間<br /><br /><br /><br />二葉町橋高架橋<br />東京方俯瞰<br /><br />東京都港区東新橋1−3<br />東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩1分

    有楽町-新橋間



    二葉町橋高架橋
    東京方俯瞰

    東京都港区東新橋1−3
    東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩1分

  • 有楽町-新橋間<br /><br /><br /><br />二葉町橋高架橋<br />アーチ内部<br /><br />東京都港区東新橋1−3<br />東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩1分

    有楽町-新橋間



    二葉町橋高架橋
    アーチ内部

    東京都港区東新橋1−3
    東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩1分

    新橋駅 (JR・地下鉄)

  • 有楽町-新橋間<br /><br /><br /><br />二葉町橋高架橋<br />神戸方最終アーチは半通路として使用。<br /><br />東京都港区東新橋1−3<br />東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩1分

    有楽町-新橋間



    二葉町橋高架橋
    神戸方最終アーチは半通路として使用。

    東京都港区東新橋1−3
    東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩1分

  • 有楽町-新橋間<br /><br /><br /><br />二葉橋(ふたばばし)架道橋<br />鋼鐡製単線型<br />カンチレバー・プレート・ガーダー橋桁 支間29.0m×1連(4)<br />明治35年(1902年)6月5日設計完了。<br />明治41年(1908年)架橋。<br />該架道橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で命名された二葉町(ふたばちょう)から採用されたものである。<br />その後、行政合理化で、昭和7年(1932年)9月20日附府告示第579号に拠り、付近一帯は新橋2丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年10月1日附で施行され、該町名は消滅した。<br />更に、大東亜戦争後に於ける行政再合理化で、昭和40年(1965年)2月1日附都告示に拠り、付近一帯は東新橋1丁目に再改称された。<br />該架線道橋は、現在の新橋駅構内所在。<br />外堀通り<br /><br />東京都港区東新橋1−3<br />東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩1分

    有楽町-新橋間



    二葉橋(ふたばばし)架道橋
    鋼鐡製単線型
    カンチレバー・プレート・ガーダー橋桁 支間29.0m×1連(4)
    明治35年(1902年)6月5日設計完了。
    明治41年(1908年)架橋。
    該架道橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で命名された二葉町(ふたばちょう)から採用されたものである。
    その後、行政合理化で、昭和7年(1932年)9月20日附府告示第579号に拠り、付近一帯は新橋2丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年10月1日附で施行され、該町名は消滅した。
    更に、大東亜戦争後に於ける行政再合理化で、昭和40年(1965年)2月1日附都告示に拠り、付近一帯は東新橋1丁目に再改称された。
    該架線道橋は、現在の新橋駅構内所在。
    外堀通り

    東京都港区東新橋1−3
    東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩1分

    新橋駅 (JR・地下鉄)

  • 有楽町-新橋間<br /><br /><br /><br />二葉橋架道橋<br />該橋桁に石川島造船所の銘板が現存。<br /><br />東京都港区東新橋1−3<br />東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩1分

    有楽町-新橋間



    二葉橋架道橋
    該橋桁に石川島造船所の銘板が現存。

    東京都港区東新橋1−3
    東海道本線新橋駅日比谷口 徒歩1分

  • 有楽町-新橋間<br /><br /><br /><br />高架線上<br />東京方俯瞰<br />架線柱は昭和15年(1940年)植替

    有楽町-新橋間



    高架線上
    東京方俯瞰
    架線柱は昭和15年(1940年)植替

  • 新橋駅<br /><br /><br /><br />烏森町橋(からすもりちょう)高架橋<br />20連構成<br />総延長195.7m<br />スパン間長 8m<br />明治39年(1906年)竣工。<br />該高架橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で命名された芝區烏森町(からすもりちょう)から採用されたものである。<br />その後、行政合理化で、昭和7年(1932年)9月20日附府告示第579号に拠り、付近一帯は新橋2丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年10月1日附で施行され、該町名は消滅した。<br />更に、大東亜戦争後に於ける行政再合理化で、昭和40年(1965年)2月1日附都告示に拠り、付近一帯は東新橋2丁目に再改称された。<br />該高架橋は、新橋駅構内である。<br />神戸方俯瞰。<br /><br />東京都港区東新橋2−17<br />東海道本線新橋駅烏森口 徒歩15秒

    新橋駅



    烏森町橋(からすもりちょう)高架橋
    20連構成
    総延長195.7m
    スパン間長 8m
    明治39年(1906年)竣工。
    該高架橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で命名された芝區烏森町(からすもりちょう)から採用されたものである。
    その後、行政合理化で、昭和7年(1932年)9月20日附府告示第579号に拠り、付近一帯は新橋2丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年10月1日附で施行され、該町名は消滅した。
    更に、大東亜戦争後に於ける行政再合理化で、昭和40年(1965年)2月1日附都告示に拠り、付近一帯は東新橋2丁目に再改称された。
    該高架橋は、新橋駅構内である。
    神戸方俯瞰。

    東京都港区東新橋2−17
    東海道本線新橋駅烏森口 徒歩15秒

    新橋駅 (JR・地下鉄)

  • 新橋(しんばし)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治42年(1909年)12月16日開業である。<br />開業当初は、烏森(からすもり)駅と称した。<br />江戸末期、該駅付近には、越後新発田溝口藩邸、及び、近江大津分部藩邸が存在した。<br />即ち、該駅開業当時の駅名が示す様に芝区烏森町に設置されたが、該駅所在地一帯は烏森神社(からすもり じんじゃ)社叢地だった。<br />該線建設の為に用地取得が絶対不可欠たる事から、当時の該社宮司が国家の御為と無償献納し該駅設置が可能実現した。<br />大正3年(1914年)12月20日に第2代目新橋驛に改称。<br />当時の該駅は普通列車のみならず普通急行列車も停車していた。<br />関東大震災で駅本屋は約100箇所弱の大小亀裂が発生したが倒壊には至らなかった。<br />該駅停車中の下関10時10分発東京行 3等普通急行第6列車 牽引機関車 18638 客車14両編成1本が、該驛停車中に該震災が発生し乗客は該駅に於いて全員下車させた。<br />該列車に車輌脱線損壊等々の異常は発生しなかったが、震災発生後、付近一帯で大火災数群が発生した為に、該駅では駅本屋への延焼を懸念し、該列車に該駅備品重要書類等々を搭載させた。<br />然るに、同日20時頃に該駅に火災が迫ってきた為に、駅長 杉田武造は総員退避を命令し当日20時50分頃全焼した。<br />震災後に於ける該区間復旧は、該駅構内に飛来した重量鉄板等々の除去作業が愁眉とされ、同月6日より該駅ホーム連絡階段障害物除去作業が大井工場技工達の手に依り開始され、同月12日まで継続して行われた。<br />該駅は、震災当時、地上からホームへの階段は列車線2箇所、電車線1個所が存在したが、何れも焼失したが骨組が鉄製で原枠組を残存していた事から、同月7日から該枠組に木板を組設置する事で階段を設置させ、欄干も簡単に取付け、同月12日に完了した。<br />電車線被害が甚大だった事から、先ず、同月18日に列車線が復旧開通し、同月24日に電車線が開通したが、有楽町、新橋、及び、濱松町各駅設備被害が甚大だった事から、各駅復旧は同月27日にずれ込み、26日まで列車は東京-品川間途中駅は通過した。<br />然し、永楽町変電所焼失の為に、該区間に対し直流600V送電が不可能になり、24日の電車線復旧では蒸気機関車が電車を牽引して運転する形態だったが、大井発電所復旧に拠り、同年10月1日より該区間に対し直流1200V送電が可能になり、京濱線電車を使用し萬世橋驛まで運転された。<br />該駅に於ける大東亜戦争中の空襲被害は、<br />3月 9日<br />警戒警報発令 22時30分<br />空襲開始    0時08分<br />空襲警報発令  0時15分<br />空襲警報解除  2時35分<br />警戒警報発令  3時55分<br /> 駅列車ホーム上屋半焼<br />  旅客線客車3輌半焼<br />昭和20年(1945年)3月9日未明の東京大空襲に於いて、米空軍に依る主要攻撃対象地域たる都区内被災地は、特に下町地域に於いて著しかった。<br />空襲開始と共に、該駅にも強固な構体で囲繞構築されている駅構内は安全なりと考えた人々が次々と避難して来た。<br />焼夷弾が爆発炎上した火災が集合し大火砕流が無数発生し、特に、総武本線、錦糸町、亀戸、及び、平井各駅では、大火砕流が押寄せた避難者頭上を襲い、無数の焼死体の山が重なる大惨事になった。<br />該駅構内にも焼夷弾が落下炎上した為に、第1番ホーム上屋半焼、及び、停車中の旅客列車客車3両が全半焼被害が発生したが、職員、及び、避難者達の必死の消火活動に拠り、該駅被害は軽微で、関東大震災で被災当時同様、死者が発生しなかったのは不幸中の幸いであった。<br />戦後は、東海道新幹線設置工事に拠り大幅に取崩されたが、横須賀線が東京-品川間を東海道本線運行から地下別線化される事になり、該駅本屋基礎が該工事に支障する事から残存部も昭和43年(1968年)に完全解体撤去された。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=877

    新橋(しんばし)駅



    該駅は、明治42年(1909年)12月16日開業である。
    開業当初は、烏森(からすもり)駅と称した。
    江戸末期、該駅付近には、越後新発田溝口藩邸、及び、近江大津分部藩邸が存在した。
    即ち、該駅開業当時の駅名が示す様に芝区烏森町に設置されたが、該駅所在地一帯は烏森神社(からすもり じんじゃ)社叢地だった。
    該線建設の為に用地取得が絶対不可欠たる事から、当時の該社宮司が国家の御為と無償献納し該駅設置が可能実現した。
    大正3年(1914年)12月20日に第2代目新橋驛に改称。
    当時の該駅は普通列車のみならず普通急行列車も停車していた。
    関東大震災で駅本屋は約100箇所弱の大小亀裂が発生したが倒壊には至らなかった。
    該駅停車中の下関10時10分発東京行 3等普通急行第6列車 牽引機関車 18638 客車14両編成1本が、該驛停車中に該震災が発生し乗客は該駅に於いて全員下車させた。
    該列車に車輌脱線損壊等々の異常は発生しなかったが、震災発生後、付近一帯で大火災数群が発生した為に、該駅では駅本屋への延焼を懸念し、該列車に該駅備品重要書類等々を搭載させた。
    然るに、同日20時頃に該駅に火災が迫ってきた為に、駅長 杉田武造は総員退避を命令し当日20時50分頃全焼した。
    震災後に於ける該区間復旧は、該駅構内に飛来した重量鉄板等々の除去作業が愁眉とされ、同月6日より該駅ホーム連絡階段障害物除去作業が大井工場技工達の手に依り開始され、同月12日まで継続して行われた。
    該駅は、震災当時、地上からホームへの階段は列車線2箇所、電車線1個所が存在したが、何れも焼失したが骨組が鉄製で原枠組を残存していた事から、同月7日から該枠組に木板を組設置する事で階段を設置させ、欄干も簡単に取付け、同月12日に完了した。
    電車線被害が甚大だった事から、先ず、同月18日に列車線が復旧開通し、同月24日に電車線が開通したが、有楽町、新橋、及び、濱松町各駅設備被害が甚大だった事から、各駅復旧は同月27日にずれ込み、26日まで列車は東京-品川間途中駅は通過した。
    然し、永楽町変電所焼失の為に、該区間に対し直流600V送電が不可能になり、24日の電車線復旧では蒸気機関車が電車を牽引して運転する形態だったが、大井発電所復旧に拠り、同年10月1日より該区間に対し直流1200V送電が可能になり、京濱線電車を使用し萬世橋驛まで運転された。
    該駅に於ける大東亜戦争中の空襲被害は、
    3月 9日
    警戒警報発令 22時30分
    空襲開始    0時08分
    空襲警報発令  0時15分
    空襲警報解除  2時35分
    警戒警報発令  3時55分
     駅列車ホーム上屋半焼
      旅客線客車3輌半焼
    昭和20年(1945年)3月9日未明の東京大空襲に於いて、米空軍に依る主要攻撃対象地域たる都区内被災地は、特に下町地域に於いて著しかった。
    空襲開始と共に、該駅にも強固な構体で囲繞構築されている駅構内は安全なりと考えた人々が次々と避難して来た。
    焼夷弾が爆発炎上した火災が集合し大火砕流が無数発生し、特に、総武本線、錦糸町、亀戸、及び、平井各駅では、大火砕流が押寄せた避難者頭上を襲い、無数の焼死体の山が重なる大惨事になった。
    該駅構内にも焼夷弾が落下炎上した為に、第1番ホーム上屋半焼、及び、停車中の旅客列車客車3両が全半焼被害が発生したが、職員、及び、避難者達の必死の消火活動に拠り、該駅被害は軽微で、関東大震災で被災当時同様、死者が発生しなかったのは不幸中の幸いであった。
    戦後は、東海道新幹線設置工事に拠り大幅に取崩されたが、横須賀線が東京-品川間を東海道本線運行から地下別線化される事になり、該駅本屋基礎が該工事に支障する事から残存部も昭和43年(1968年)に完全解体撤去された。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=877

  • 新橋駅<br /><br /><br /><br />日比谷口<br />駅前広場は寧ろSL広場として広く周知されている。

    新橋駅



    日比谷口
    駅前広場は寧ろSL広場として広く周知されている。

  • 新橋駅<br /><br /><br /><br />日比谷口<br />因みに、烏森町橋高架橋は、平成28年(2016年)竣工予定の新橋駅大改良工事の影響に依り、大部分が解体撤去の予定である。

    新橋駅



    日比谷口
    因みに、烏森町橋高架橋は、平成28年(2016年)竣工予定の新橋駅大改良工事の影響に依り、大部分が解体撤去の予定である。

  • 新橋駅<br /><br /><br /><br />日比谷口<br />改装中アーチ部

    新橋駅



    日比谷口
    改装中アーチ部

  • 新橋駅<br /><br /><br />第1番ホーム<br />電車線用ホーム<br />開通時は電車長さ1車15m×4両対応 総延長93.6m。<br />現在は電車長さ1車20m×11両対応 総延長226.5m。

    新橋駅


    第1番ホーム
    電車線用ホーム
    開通時は電車長さ1車15m×4両対応 総延長93.6m。
    現在は電車長さ1車20m×11両対応 総延長226.5m。

    新橋駅 (JR・地下鉄)

  • 新橋駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />旧列車線用ホーム

    新橋駅



    第2番ホーム
    旧列車線用ホーム

  • 新橋駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />第3番ホームと共に、該駅開業当時の構造が現存。<br />因みに、第3番ホームに対し第2番ホームは幅10mを有し1m広い。<br />此れは、開設当時の第2番ホームが、長距離列車用対応として手小荷物輸送台車通行を円滑化させる為。<br />尚、該駅構内に於いて、橋上構築物設置の為に、既に相当工事が進行しており、該工事設置過程に於いて、現ホーム上屋、及び、該古軌条支柱は全部撤去を予定している。

    新橋駅



    第2番ホーム
    第3番ホームと共に、該駅開業当時の構造が現存。
    因みに、第3番ホームに対し第2番ホームは幅10mを有し1m広い。
    此れは、開設当時の第2番ホームが、長距離列車用対応として手小荷物輸送台車通行を円滑化させる為。
    尚、該駅構内に於いて、橋上構築物設置の為に、既に相当工事が進行しており、該工事設置過程に於いて、現ホーム上屋、及び、該古軌条支柱は全部撤去を予定している。

  • 新橋駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />旧列車線用

    新橋駅



    第2番ホーム
    旧列車線用

  • 新橋駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />旧列車線用<br />側壁<br />山手線ホーム扉設置工事の為に、側壁に対する開口試験の為に研磨。<br />旧列車線時代の低床ホーム痕跡と共に煉瓦積構造が露出。

    新橋駅



    第2番ホーム
    旧列車線用
    側壁
    山手線ホーム扉設置工事の為に、側壁に対する開口試験の為に研磨。
    旧列車線時代の低床ホーム痕跡と共に煉瓦積構造が露出。

  • 新橋駅<br /><br /><br /><br />第3番ホーム<br />旧電車線用<br />全景<br />東京方より俯瞰

    新橋駅



    第3番ホーム
    旧電車線用
    全景
    東京方より俯瞰

  • 新橋駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />日比谷口階段<br />全景

    新橋駅



    第2番ホーム
    日比谷口階段
    全景

  • 新橋駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />日比谷口階段<br />手摺は大正13年(1924年)設置当時の原型

    新橋駅



    第2番ホーム
    日比谷口階段
    手摺は大正13年(1924年)設置当時の原型

  • 新橋駅<br /><br /><br /><br />第3番ホーム<br />北口側階段<br />ホーム上部<br />該階段は、該駅設置時に設計準備されていたが、然し、該駅開業時は、現在の汐留口相当の駅本屋口1箇所が設置されたに過ぎなかった。<br />然し、大正期ともなると銀座方面利用者から、該駅乗降に対する不便たる指摘が多かった。<br />然るに、該駅は関東大震災直後の火災が原因で被災全焼し、復旧工事遂行と共に、銀座側出改札口設置要求が高まった事から、東京鐵道局は、出改札口設置を決定し、大正14年(1925年)3月に土橋(どばし)口として新規設置した。<br />

    新橋駅



    第3番ホーム
    北口側階段
    ホーム上部
    該階段は、該駅設置時に設計準備されていたが、然し、該駅開業時は、現在の汐留口相当の駅本屋口1箇所が設置されたに過ぎなかった。
    然し、大正期ともなると銀座方面利用者から、該駅乗降に対する不便たる指摘が多かった。
    然るに、該駅は関東大震災直後の火災が原因で被災全焼し、復旧工事遂行と共に、銀座側出改札口設置要求が高まった事から、東京鐵道局は、出改札口設置を決定し、大正14年(1925年)3月に土橋(どばし)口として新規設置した。

  • 新橋駅<br /><br /><br /><br />第3番ホーム<br />古軌条上屋支柱群<br />該駅第1番ホーム上屋支柱は古軌条再用品である。<br />即ち、第1次使用として本来の軌条敷設使用後、損耗等々の理由に依り、軌条としての耐用到来を理由に使用を中止し、その後、建築物支柱として再用された物である。<br />尚、一部資料に、該駅ホーム上屋建築を大正2年(1913年)とする文献が存在するが、該駅が、明治42年(1909年)12月16日開業当時のホーム上屋は、総木造構造で構築され、関東大震災で被災全焼後に再建された事実から、該ホーム上屋は、大正14年(1925年)改築が正当であり、故に、該資料記述は事実無根である。

    新橋駅



    第3番ホーム
    古軌条上屋支柱群
    該駅第1番ホーム上屋支柱は古軌条再用品である。
    即ち、第1次使用として本来の軌条敷設使用後、損耗等々の理由に依り、軌条としての耐用到来を理由に使用を中止し、その後、建築物支柱として再用された物である。
    尚、一部資料に、該駅ホーム上屋建築を大正2年(1913年)とする文献が存在するが、該駅が、明治42年(1909年)12月16日開業当時のホーム上屋は、総木造構造で構築され、関東大震災で被災全焼後に再建された事実から、該ホーム上屋は、大正14年(1925年)改築が正当であり、故に、該資料記述は事実無根である。

  • 新橋駅<br /><br /><br /><br />第3番ホーム<br />古軌条上屋支柱<br />CAMMELLS FIELD TOUGHENED STEEL W.1880 SEC131 □□□□<br />(英キャムメル・フィールド・スティール社 1880年製造 製造ロット番号131番 発注者不明)<br />製造ロット番号から工部省鐵道作業局発注品たる事が判明。<br />同品は東海道本線新子安駅、同線早川駅、横須賀線田浦駅、同線横須賀駅、及び、伊東線伊東駅ホーム上屋支柱に現存。<br />支柱番号第11号d

    新橋駅



    第3番ホーム
    古軌条上屋支柱
    CAMMELLS FIELD TOUGHENED STEEL W.1880 SEC131 □□□□
    (英キャムメル・フィールド・スティール社 1880年製造 製造ロット番号131番 発注者不明)
    製造ロット番号から工部省鐵道作業局発注品たる事が判明。
    同品は東海道本線新子安駅、同線早川駅、横須賀線田浦駅、同線横須賀駅、及び、伊東線伊東駅ホーム上屋支柱に現存。
    支柱番号第11号d

  • 新橋駅<br /><br /><br /><br />第3番ホーム<br />側壁<br />該駅創業期とホーム延長時に於ける接点。<br />左 創業期<br />右 大正14年(1925年)ホーム延長期<br />煉瓦積状態が異なる。<br />実は、該ホーム延長時はコンクリート建築で構築し、違和感を生じさせぬ為に側壁に煉瓦タイルを張布。

    新橋駅



    第3番ホーム
    側壁
    該駅創業期とホーム延長時に於ける接点。
    左 創業期
    右 大正14年(1925年)ホーム延長期
    煉瓦積状態が異なる。
    実は、該ホーム延長時はコンクリート建築で構築し、違和感を生じさせぬ為に側壁に煉瓦タイルを張布。

  • 新橋駅<br /><br /><br /><br />第3番ホーム<br />旧電車線用<br />側壁<br />山手線ホーム扉設置工事の為に、側壁に対する開口試験の為に削取。<br />旧列車線時代の低床ホーム痕跡と共に設置当時の煉瓦積構造が露出。

    新橋駅



    第3番ホーム
    旧電車線用
    側壁
    山手線ホーム扉設置工事の為に、側壁に対する開口試験の為に削取。
    旧列車線時代の低床ホーム痕跡と共に設置当時の煉瓦積構造が露出。

  • 新橋駅<br /><br /><br />第3番ホーム<br />側壁<br />大正14年(1925年)に該ホーム延長時設置分。<br />該当時は煉瓦積構造では無く、コンクリート建築に移行した時代故に、表面を剥離するとコンクリート構造で構築されてた事が歴然。

    新橋駅


    第3番ホーム
    側壁
    大正14年(1925年)に該ホーム延長時設置分。
    該当時は煉瓦積構造では無く、コンクリート建築に移行した時代故に、表面を剥離するとコンクリート構造で構築されてた事が歴然。

  • 新橋駅<br /><br /><br /><br />第3番線ホーム<br />日比谷口階段

    新橋駅



    第3番線ホーム
    日比谷口階段

  • 新橋駅<br /><br /><br /><br />第3番線ホーム<br />日比谷口階段<br />コンクリート製手摺は大正13年(1924年)設置当時の原型

    新橋駅



    第3番線ホーム
    日比谷口階段
    コンクリート製手摺は大正13年(1924年)設置当時の原型

  • 新橋駅<br /><br /><br /><br />旅客線<br />手摺<br />大東亜戦争中に完成。<br />金属が貴重とされた時代に鋼鉄製で竣工。

    新橋駅



    旅客線
    手摺
    大東亜戦争中に完成。
    金属が貴重とされた時代に鋼鉄製で竣工。

  • 新橋駅<br /><br /><br /><br />構内通路<br />該駅初代駅本屋時代の改札口からホームへの連絡地下通路。<br />該駅本屋解体まで、ステンドグラス付近に改札口が存在。<br />横須賀線電車地下ホーム発着に拠り駅本屋は解体され連絡通路に改造された。

    新橋駅



    構内通路
    該駅初代駅本屋時代の改札口からホームへの連絡地下通路。
    該駅本屋解体まで、ステンドグラス付近に改札口が存在。
    横須賀線電車地下ホーム発着に拠り駅本屋は解体され連絡通路に改造された。

  • 新橋駅<br /><br /><br /><br />該駅汐留改札口階段上 ステンドグラス<br />くじゃく窓<br />日本画家 吉岡堅二(よしおか けんじ)(明治39年(1906年)12月27日〜平成2年(1990年)7月15日)の手に依り、東京地下線東京-品川間開通を記念し、昭和53年(1978年)10月1日設置されたステンドグラス。<br />画面左に、大宮鉄道博物館所蔵の 鉄道創業時の第1号蒸気機関車を配し、画面右に青梅鉄道公園に於いて保存展示されている E10型蒸気機関車2号機を配し、全体を孔雀で覆った画像である。<br />該画作成の為に、画材たるアンティックグラスは欧州輸入品を使用。<br />題名揮毫は、第8代日本国有鉄道総裁 高木文雄(たかぎ ふみお)(大正8年(1919年)4月6日〜平成18年(2006年)2月14日)(昭和51年(1976年)3月6日〜昭和57年(1982年)12月1日在任)。

    新橋駅



    該駅汐留改札口階段上 ステンドグラス
    くじゃく窓
    日本画家 吉岡堅二(よしおか けんじ)(明治39年(1906年)12月27日〜平成2年(1990年)7月15日)の手に依り、東京地下線東京-品川間開通を記念し、昭和53年(1978年)10月1日設置されたステンドグラス。
    画面左に、大宮鉄道博物館所蔵の 鉄道創業時の第1号蒸気機関車を配し、画面右に青梅鉄道公園に於いて保存展示されている E10型蒸気機関車2号機を配し、全体を孔雀で覆った画像である。
    該画作成の為に、画材たるアンティックグラスは欧州輸入品を使用。
    題名揮毫は、第8代日本国有鉄道総裁 高木文雄(たかぎ ふみお)(大正8年(1919年)4月6日〜平成18年(2006年)2月14日)(昭和51年(1976年)3月6日〜昭和57年(1982年)12月1日在任)。

  • 新橋駅<br /><br /><br /><br />地下1階汐留改札口階段<br />旧新橋駅駅本屋痕跡

    新橋駅



    地下1階汐留改札口階段
    旧新橋駅駅本屋痕跡

    新橋駅 (JR・地下鉄)

  • 新橋駅<br /><br /><br /><br />地下1階汐留改札口階段<br />旧新橋駅駅本屋痕跡<br />壁に塗り込まれているが、該駅構内に唯一残存する旧駅本屋出札口痕跡跡。

    新橋駅



    地下1階汐留改札口階段
    旧新橋駅駅本屋痕跡
    壁に塗り込まれているが、該駅構内に唯一残存する旧駅本屋出札口痕跡跡。

    新橋駅 (JR・地下鉄)

  • 新橋駅<br /><br /><br /><br />階段支柱<br /><br />但し、展示場所は烏森口トイレ入口横<br />余りにセンスの無さを感じる。

    新橋駅



    階段支柱

    但し、展示場所は烏森口トイレ入口横
    余りにセンスの無さを感じる。

    新橋駅 (JR・地下鉄)

  • 新橋駅<br /><br /><br /><br />階段支柱<br />明治四十一年一月<br />株式會社 東京堅物鐵骨製作所<br />の刻印。<br />現在の 東京鐵骨製作所株式会社の前身。

    新橋駅



    階段支柱
    明治四十一年一月
    株式會社 東京堅物鐵骨製作所
    の刻印。
    現在の 東京鐵骨製作所株式会社の前身。

    新橋駅 (JR・地下鉄)

  • 新橋駅<br /><br /><br /><br />鉄道唱歌の碑(てつどうしょうかのひ)<br />全景<br /><br />東京都港区新橋2−17−14<br />東海道本線新橋駅汐留口 徒歩15秒

    新橋駅



    鉄道唱歌の碑(てつどうしょうかのひ)
    全景

    東京都港区新橋2−17−14
    東海道本線新橋駅汐留口 徒歩15秒

  • 新橋駅<br /><br /><br /><br />鉄道唱歌の碑<br />現在でも親しまれている該歌作詞家 大和田建樹(おおわだ たてき)(安政4年(1851年)4月29日〜明治43年(1910年)10月1日)生誕100周年を記念し新橋駅所縁駅前広場に建立された。<br />題字は、 旧制第一高等学校長や学習院長を務めた 安倍能成(あべ よししげ)(明治16年(1883年)12月23日〜昭和41年(1966年)6月17日)である。<br /><br />東京都港区新橋2−17−14<br />東海道本線新橋駅汐留口 徒歩15秒

    新橋駅



    鉄道唱歌の碑
    現在でも親しまれている該歌作詞家 大和田建樹(おおわだ たてき)(安政4年(1851年)4月29日〜明治43年(1910年)10月1日)生誕100周年を記念し新橋駅所縁駅前広場に建立された。
    題字は、 旧制第一高等学校長や学習院長を務めた 安倍能成(あべ よししげ)(明治16年(1883年)12月23日〜昭和41年(1966年)6月17日)である。

    東京都港区新橋2−17−14
    東海道本線新橋駅汐留口 徒歩15秒

  • 新橋駅<br /><br /><br /><br />烏森町橋高架橋<br />東京方俯瞰。<br /><br />東京都港区新橋2−17<br />東海道本線新橋駅烏森口 徒歩15秒

    新橋駅



    烏森町橋高架橋
    東京方俯瞰。

    東京都港区新橋2−17
    東海道本線新橋駅烏森口 徒歩15秒

    新橋駅 (JR・地下鉄)

  • 新橋駅<br /><br /><br /><br />烏森橋(からすもりばし)架道橋<br />鋼鐡製単線型<br />プレート・ガーダー橋桁 支間12.6m×1連(4)<br />明治35年(1902年)4月18日設計完了。<br />明治40年(1907年)6月架橋。<br />該架道橋は、現在の新橋駅構内。<br /><br />東京都港区新橋3−25<br />東海道本線新橋駅烏森口 徒歩15秒

    新橋駅



    烏森橋(からすもりばし)架道橋
    鋼鐡製単線型
    プレート・ガーダー橋桁 支間12.6m×1連(4)
    明治35年(1902年)4月18日設計完了。
    明治40年(1907年)6月架橋。
    該架道橋は、現在の新橋駅構内。

    東京都港区新橋3−25
    東海道本線新橋駅烏森口 徒歩15秒

    新橋駅 (JR・地下鉄)

  • 新橋駅<br /><br /><br /><br />烏森橋架道橋<br />駅構内<br />第1番ホーム架橋状態<br />架橋後115年が経過したが現在も現役使用。<br /><br />東京都港区新橋3−25<br />東海道本線新橋駅烏森口 徒歩15秒

    新橋駅



    烏森橋架道橋
    駅構内
    第1番ホーム架橋状態
    架橋後115年が経過したが現在も現役使用。

    東京都港区新橋3−25
    東海道本線新橋駅烏森口 徒歩15秒

    新橋駅 (JR・地下鉄)

  • 新橋-浜松町間<br /><br /><br /><br />日陰町橋(ひかげちょうばし)高架橋<br />7連構成<br />総延長71.4m<br />スパン間長 8m<br />明治39年(1906年)竣工。<br />神戸方俯瞰。<br /><br />東京都港区新橋3−25<br />東海道本線新橋駅烏森口 徒歩1分

    新橋-浜松町間



    日陰町橋(ひかげちょうばし)高架橋
    7連構成
    総延長71.4m
    スパン間長 8m
    明治39年(1906年)竣工。
    神戸方俯瞰。

    東京都港区新橋3−25
    東海道本線新橋駅烏森口 徒歩1分

    新橋駅 (JR・地下鉄)

  • 新橋-浜松町間<br /><br /><br /><br />日陰町橋高架橋<br />円盤形装飾<br />該装飾はメダリオンとも称し、独逸国内に於いて散見される独自の装飾である。<br />東京-浜松町間高架橋群に於いて皇居側は兎も角、東京湾側は昭和18年(1943年)3複線化工事の際に、殆どの区間に於いて密接設置された為に、該側を見る事が可能個所は僅少である。<br /><br />東京都港区新橋3−25−17<br />東海道本線新橋駅烏森口 徒歩1分

    新橋-浜松町間



    日陰町橋高架橋
    円盤形装飾
    該装飾はメダリオンとも称し、独逸国内に於いて散見される独自の装飾である。
    東京-浜松町間高架橋群に於いて皇居側は兎も角、東京湾側は昭和18年(1943年)3複線化工事の際に、殆どの区間に於いて密接設置された為に、該側を見る事が可能個所は僅少である。

    東京都港区新橋3−25−17
    東海道本線新橋駅烏森口 徒歩1分

    新橋駅 (JR・地下鉄)

  • 新橋-浜松町間<br /><br /><br /><br />日陰町橋高架橋<br />円盤形装飾<br />近接<br />該部分煉瓦は英国積式。<br /><br />東京都港区新橋3−25−17<br />東海道本線新橋駅烏森口 徒歩1分

    新橋-浜松町間



    日陰町橋高架橋
    円盤形装飾
    近接
    該部分煉瓦は英国積式。

    東京都港区新橋3−25−17
    東海道本線新橋駅烏森口 徒歩1分

    新橋駅 (JR・地下鉄)

  • 新橋-浜松町間<br /><br /><br /><br />日陰町橋高架橋<br />東京方俯瞰。<br /><br />東京都港区新橋3−25<br />東海道本線新橋駅烏森口 徒歩1分

    新橋-浜松町間



    日陰町橋高架橋
    東京方俯瞰。

    東京都港区新橋3−25
    東海道本線新橋駅烏森口 徒歩1分

    新橋駅 (JR・地下鉄)

  • 新橋-浜松町間<br /><br /><br /><br />芝口橋(しばぐちばし)架道橋<br />鋼鐡製複線型<br />プレート・ガーダー橋桁 径間21.9m×1連(2)<br />明治35年(1902年)7月30日設計完了。<br />明治40年(1906年)5月架橋。<br /><br />東京都港区新橋3−25<br />東海道本線新橋駅烏森口 徒歩1分

    新橋-浜松町間



    芝口橋(しばぐちばし)架道橋
    鋼鐡製複線型
    プレート・ガーダー橋桁 径間21.9m×1連(2)
    明治35年(1902年)7月30日設計完了。
    明治40年(1906年)5月架橋。

    東京都港区新橋3−25
    東海道本線新橋駅烏森口 徒歩1分

    新橋駅 (JR・地下鉄)

  • 新橋-浜松町間<br /><br /><br /><br />芝口橋架道橋<br />山手線外回り線、及び、京浜東北線南行線に対してのみ橋台が存在する。<br />該架道橋下道路がダイヤ状に設置されている為に執られた処置。<br />中央部台座状が該橋台。<br /><br />東京都港区新橋3−25<br />東海道本線新橋駅烏森口 徒歩1分

    新橋-浜松町間



    芝口橋架道橋
    山手線外回り線、及び、京浜東北線南行線に対してのみ橋台が存在する。
    該架道橋下道路がダイヤ状に設置されている為に執られた処置。
    中央部台座状が該橋台。

    東京都港区新橋3−25
    東海道本線新橋駅烏森口 徒歩1分

    新橋駅 (JR・地下鉄)

  • 新橋-浜松町間<br /><br /><br /><br />芝口橋架道橋<br /><br />東京都港区新橋3−25<br />東海道本線新橋駅烏森口 徒歩1分

    新橋-浜松町間



    芝口橋架道橋

    東京都港区新橋3−25
    東海道本線新橋駅烏森口 徒歩1分

    新橋駅 (JR・地下鉄)

  • 新橋-浜松町間<br /><br /><br /><br />芝口橋架道橋<br />山手線外回り線、及び、京浜東北線南行線用橋桁はPCコンクリート製に交換されている。<br /><br />東京都港区新橋3−25<br />東海道本線新橋駅烏森口 徒歩1分

    新橋-浜松町間



    芝口橋架道橋
    山手線外回り線、及び、京浜東北線南行線用橋桁はPCコンクリート製に交換されている。

    東京都港区新橋3−25
    東海道本線新橋駅烏森口 徒歩1分

    新橋駅 (JR・地下鉄)

  • 新橋-浜松町間<br /><br /><br /><br />第2源助町橋(だいに げんすけちょうばし)高架橋<br />4連構成<br />総延長39.2m<br />スパン間長 6〜8m<br />明治39年(1906年)竣工。<br />該高架橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で命名された芝區源助町(げんすけちょう)から採用されたものである。<br />その後、行政合理化で、昭和7年(1932年)9月20日附府告示第579号に拠り、付近一帯は新橋3丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年10月1日附で施行され、該町名は消滅した。<br />神戸方俯瞰。<br /><br />東京都港区新橋3−25<br />東海道本線新橋駅烏森口 徒歩3分

    新橋-浜松町間



    第2源助町橋(だいに げんすけちょうばし)高架橋
    4連構成
    総延長39.2m
    スパン間長 6〜8m
    明治39年(1906年)竣工。
    該高架橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で命名された芝區源助町(げんすけちょう)から採用されたものである。
    その後、行政合理化で、昭和7年(1932年)9月20日附府告示第579号に拠り、付近一帯は新橋3丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年10月1日附で施行され、該町名は消滅した。
    神戸方俯瞰。

    東京都港区新橋3−25
    東海道本線新橋駅烏森口 徒歩3分

  • 新橋-浜松町間<br /><br /><br /><br />第2源助町橋高架橋<br />東京-浜松町間高架橋アーチ間部が自由通路代用としているのは数箇所存在する。<br /><br />東京都港区新橋3−24−14<br />東海道本線新橋駅烏森口 徒歩2分

    新橋-浜松町間



    第2源助町橋高架橋
    東京-浜松町間高架橋アーチ間部が自由通路代用としているのは数箇所存在する。

    東京都港区新橋3−24−14
    東海道本線新橋駅烏森口 徒歩2分

    新橋駅 (JR・地下鉄)

  • 新橋-浜松町間<br /><br /><br /><br />第2源助町橋高架橋<br />該高架橋上部淵装飾。<br />一部欠落部が存在するのは、大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災で沿線火災で類焼した焼損痕跡。<br /><br />東京都港区新橋3−25<br />東海道本線新橋駅烏森口 徒歩2分

    新橋-浜松町間



    第2源助町橋高架橋
    該高架橋上部淵装飾。
    一部欠落部が存在するのは、大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災で沿線火災で類焼した焼損痕跡。

    東京都港区新橋3−25
    東海道本線新橋駅烏森口 徒歩2分

    新橋駅 (JR・地下鉄)

  • 新橋-浜松町間<br /><br /><br /><br />第2源助町橋高架橋<br />該高架橋表面は装飾煉瓦を使用し小口積たる独逸積を採用。<br />構体内部は建築煉瓦を使用し英国積で構築。<br /><br />東京都港区新橋3−25<br />東海道本線新橋駅烏森口 徒歩2分

    新橋-浜松町間



    第2源助町橋高架橋
    該高架橋表面は装飾煉瓦を使用し小口積たる独逸積を採用。
    構体内部は建築煉瓦を使用し英国積で構築。

    東京都港区新橋3−25
    東海道本線新橋駅烏森口 徒歩2分

    新橋駅 (JR・地下鉄)

  • 新橋-浜松町間<br /><br /><br /><br />第2源助町橋高架橋<br />東京方俯瞰。<br /><br />東京都港区新橋3−25<br />東海道本線新橋駅烏森口 徒歩3分

    新橋-浜松町間



    第2源助町橋高架橋
    東京方俯瞰。

    東京都港区新橋3−25
    東海道本線新橋駅烏森口 徒歩3分

    新橋駅 (JR・地下鉄)

  • 新橋-浜松町間<br /><br /><br /><br />源助橋(げんすけばし)架道橋<br />鋼鐡製複線型<br />プレート・ガーダー橋桁 径間27.2m×1連(2)<br />明治34年(1901年)6月17日設計完了。<br />明治40年(1907年)4月架橋。<br />第1京浜国道(国道第15号線)<br />該架道橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で命名された芝區源助町(げんすけちょう)から採用されたものである。<br />その後、行政合理化で、昭和7年(1932年)9月20日附府告示第579号に拠り、付近一帯は新橋3丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年10月1日附で施行され、該町名は消滅した。<br />該道路は昭和期に入り、京浜間連絡道路として重視した当時の陸海軍部が鐵道省に対し重要物資輸送障害を理由に横幅拡大を要求し、昭和10年(1935年)に中間支柱が撤去された。<br />更に、該道路拡張工事に拠り、平成13年(2001年)に首都第2号環状線建設設置の為に、浜松町方橋台が撤去されたが、東京方橋台は現存する。<br /><br />東京都港区東新橋1−4<br />東海道本線新橋駅烏森口 徒歩3分

    新橋-浜松町間



    源助橋(げんすけばし)架道橋
    鋼鐡製複線型
    プレート・ガーダー橋桁 径間27.2m×1連(2)
    明治34年(1901年)6月17日設計完了。
    明治40年(1907年)4月架橋。
    第1京浜国道(国道第15号線)
    該架道橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で命名された芝區源助町(げんすけちょう)から採用されたものである。
    その後、行政合理化で、昭和7年(1932年)9月20日附府告示第579号に拠り、付近一帯は新橋3丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年10月1日附で施行され、該町名は消滅した。
    該道路は昭和期に入り、京浜間連絡道路として重視した当時の陸海軍部が鐵道省に対し重要物資輸送障害を理由に横幅拡大を要求し、昭和10年(1935年)に中間支柱が撤去された。
    更に、該道路拡張工事に拠り、平成13年(2001年)に首都第2号環状線建設設置の為に、浜松町方橋台が撤去されたが、東京方橋台は現存する。

    東京都港区東新橋1−4
    東海道本線新橋駅烏森口 徒歩3分

    新橋駅 (JR・地下鉄)

  • 新橋-浜松町間<br /><br /><br /><br />源助橋架道橋<br />全景<br /><br />東京都港区東新橋1−4<br />東海道本線新橋駅烏森口 徒歩3分

    新橋-浜松町間



    源助橋架道橋
    全景

    東京都港区東新橋1−4
    東海道本線新橋駅烏森口 徒歩3分

  • 新橋-浜松町間<br /><br /><br /><br />源助橋架道橋<br />その後、山手線、及び、京浜東北線電車運転分離工事に伴い、昭和30年(1955年)に橋桁を交換し一体化された。<br /><br />東京都港区東新橋1−4<br />東海道本線新橋駅烏森口 徒歩3分

    新橋-浜松町間



    源助橋架道橋
    その後、山手線、及び、京浜東北線電車運転分離工事に伴い、昭和30年(1955年)に橋桁を交換し一体化された。

    東京都港区東新橋1−4
    東海道本線新橋駅烏森口 徒歩3分

    新橋駅 (JR・地下鉄)

  • 新橋-浜松町間<br /><br /><br /><br />源助橋架道橋<br />橋桁銘板<br />戦後、山手線、及び、京浜東北線電車運転分離工事の際に設置当時の橋桁が昭和30年(1955年)に交換時の物。<br /><br />東京都港区新橋3−24−12<br />東海道本線新橋駅烏森口 徒歩3分

    新橋-浜松町間



    源助橋架道橋
    橋桁銘板
    戦後、山手線、及び、京浜東北線電車運転分離工事の際に設置当時の橋桁が昭和30年(1955年)に交換時の物。

    東京都港区新橋3−24−12
    東海道本線新橋駅烏森口 徒歩3分

    新橋駅 (JR・地下鉄)

  • 新橋-浜松町間<br /><br /><br /><br />源助橋架道橋<br />球体支承<br />下部球体承型<br />明治40年(1907年)4月架橋時に於ける原型。<br /><br />東京都港区新橋3−24−12<br />東海道本線新橋駅烏森口 徒歩3分

    新橋-浜松町間



    源助橋架道橋
    球体支承
    下部球体承型
    明治40年(1907年)4月架橋時に於ける原型。

    東京都港区新橋3−24−12
    東海道本線新橋駅烏森口 徒歩3分

    新橋駅 (JR・地下鉄)

  • 新橋-浜松町間<br /><br /><br /><br />第1源助町橋(だいいち げんすけちょうばし)高架橋<br /><br />東京都港区東新橋1−4<br />東海道本線新橋駅烏森口 徒歩4分

    新橋-浜松町間



    第1源助町橋(だいいち げんすけちょうばし)高架橋

    東京都港区東新橋1−4
    東海道本線新橋駅烏森口 徒歩4分

  • 新橋-浜松町間<br /><br /><br /><br />第1源助町橋高架橋<br />PCコンクリート橋桁に更改済。<br /><br />東京都港区東新橋1−4<br />東海道本線新橋駅烏森口 徒歩4分

    新橋-浜松町間



    第1源助町橋高架橋
    PCコンクリート橋桁に更改済。

    東京都港区東新橋1−4
    東海道本線新橋駅烏森口 徒歩4分

    新橋駅 (JR・地下鉄)

  • 新橋-浜松町間<br /><br /><br /><br />シオサイド(しおさいど)架道橋<br />該道路建設は昭和15年(1940年)開催予定の東京オリンピックに合せ計画されていたが、該地域付近一帯は密集地故に土地収用に困難を来した為に戦後も建設工事は難航した。<br />該部分は東海道本線開通以来、第1源助町橋高架橋が設置され、該橋梁下は道路と平行し会仙川が存在したが、該河川は昭和28年(1953年)に廃止され埋立が実施された以外に変化は発生しなかった。<br />然し、該道路建設に支障する為に該橋梁、及び、高架橋がは全面解体され、代りに、平成19年(2007年)10月に該架道橋が設置された。<br />尚、該道路区間は平成26年(2014年)3月全面開通。<br /><br />東京都港区東新橋1−47<br />東海道本線新橋駅烏森口 徒歩4分

    新橋-浜松町間



    シオサイド(しおさいど)架道橋
    該道路建設は昭和15年(1940年)開催予定の東京オリンピックに合せ計画されていたが、該地域付近一帯は密集地故に土地収用に困難を来した為に戦後も建設工事は難航した。
    該部分は東海道本線開通以来、第1源助町橋高架橋が設置され、該橋梁下は道路と平行し会仙川が存在したが、該河川は昭和28年(1953年)に廃止され埋立が実施された以外に変化は発生しなかった。
    然し、該道路建設に支障する為に該橋梁、及び、高架橋がは全面解体され、代りに、平成19年(2007年)10月に該架道橋が設置された。
    尚、該道路区間は平成26年(2014年)3月全面開通。

    東京都港区東新橋1−47
    東海道本線新橋駅烏森口 徒歩4分

  • 新橋-浜松町間<br /><br /><br /><br />汐留橋(しおどめばし)架道橋<br />鋼鐡製複線型<br />プレート・ガーダー橋桁 径間25.6m×1連(2)<br />明治35年(1902年)5月21日設計完了。<br />明治40年(1907年)3月架橋。<br />但し、第1京浜国道拡張工事の為に、平成14年(2002年)3月から架替工事を着手し橋桁を含め全体を交換更新し、平成9年(2007年)10月に竣工し、故に、架橋当時の痕跡は無い。<br /><br />東京都港区東新橋1−47<br />東海道本線新橋駅烏森口 徒歩4分

    新橋-浜松町間



    汐留橋(しおどめばし)架道橋
    鋼鐡製複線型
    プレート・ガーダー橋桁 径間25.6m×1連(2)
    明治35年(1902年)5月21日設計完了。
    明治40年(1907年)3月架橋。
    但し、第1京浜国道拡張工事の為に、平成14年(2002年)3月から架替工事を着手し橋桁を含め全体を交換更新し、平成9年(2007年)10月に竣工し、故に、架橋当時の痕跡は無い。

    東京都港区東新橋1−47
    東海道本線新橋駅烏森口 徒歩4分

  • 新橋-浜松町間<br /><br /><br /><br />新銭座橋(しんぜにざばし)架道橋<br />該架道橋付近は土盛石留構造だが、本来の地平部分が掘下げられた為に、列車から望見すると築堤上を走行したかの如き錯覚を覚えるが、意外にも該地は地平部分に存在する。<br />当初計画では該架道橋を解体し車幅拡張が計画されていたが、歴史的建造物として最小限の修復で残存させる事に決定した。<br /><br />東京都港区東新橋1−7<br />東海道本線(山手線)浜松町駅北口 徒歩4分

    新橋-浜松町間



    新銭座橋(しんぜにざばし)架道橋
    該架道橋付近は土盛石留構造だが、本来の地平部分が掘下げられた為に、列車から望見すると築堤上を走行したかの如き錯覚を覚えるが、意外にも該地は地平部分に存在する。
    当初計画では該架道橋を解体し車幅拡張が計画されていたが、歴史的建造物として最小限の修復で残存させる事に決定した。

    東京都港区東新橋1−7
    東海道本線(山手線)浜松町駅北口 徒歩4分

  • 新橋-浜松町間<br /><br /><br /><br />新銭座橋架道橋<br />東京方<br />煉瓦積橋台<br /><br />東京都港区東新橋1−7<br />東海道本線(山手線)浜松町駅北口 徒歩4分

    新橋-浜松町間



    新銭座橋架道橋
    東京方
    煉瓦積橋台

    東京都港区東新橋1−7
    東海道本線(山手線)浜松町駅北口 徒歩4分

    浜松町駅

  • 新橋-浜松町間<br /><br /><br /><br />新銭座橋架道橋<br />浜松町方<br />煉瓦積橋台<br /><br />東京都港区東新橋1−7<br />東海道本線(山手線)浜松町駅北口 徒歩4分

    新橋-浜松町間



    新銭座橋架道橋
    浜松町方
    煉瓦積橋台

    東京都港区東新橋1−7
    東海道本線(山手線)浜松町駅北口 徒歩4分

  • 新橋-浜松町間<br /><br /><br /><br />東日本旅客鉄道東京変電区新橋変電所<br />東海道本線電化用に大正12年(1923年)建設途上に関東大震災で被災し外壁が焼損したがモルタル吹付けで復旧した。<br />大東亜戦争中の昭和20年(1945年)5月24日銀座空襲で全焼したが直ちに復旧された。<br />然し、昭和23年(1948年)2月に走行中の電車の地気事故から該施設が全焼した。<br />該事故を精査した結果、該所より遠隔地発生の地気事故は、該変電所設置の高速度遮断器が自動遮断動作せず手動でなければ断流しない事が判明した。<br />該事故を精査検証していれば、後の桜木町事件は発生阻止が可能だったともさている。<br /><br />東京都港区東新橋2−8−28<br />東海道本線(山手線)浜松町駅北口 徒歩6分

    新橋-浜松町間



    東日本旅客鉄道東京変電区新橋変電所
    東海道本線電化用に大正12年(1923年)建設途上に関東大震災で被災し外壁が焼損したがモルタル吹付けで復旧した。
    大東亜戦争中の昭和20年(1945年)5月24日銀座空襲で全焼したが直ちに復旧された。
    然し、昭和23年(1948年)2月に走行中の電車の地気事故から該施設が全焼した。
    該事故を精査した結果、該所より遠隔地発生の地気事故は、該変電所設置の高速度遮断器が自動遮断動作せず手動でなければ断流しない事が判明した。
    該事故を精査検証していれば、後の桜木町事件は発生阻止が可能だったともさている。

    東京都港区東新橋2−8−28
    東海道本線(山手線)浜松町駅北口 徒歩6分

    浜松町駅

  • 新橋-浜松町間<br /><br /><br /><br />新橋管理部庁舎(しんばし かんりぶちょうしゃ)跡<br />該地一帯は江戸期は各藩邸が林立していたが、明治維新と同時に公収され、兵部省管理地として海軍操練所等々が設置された。<br />横濱に所在した東海軍鎮守府が土地狭隘と防諜を理由に明治17年(1884年)12月15日附で横須賀海軍鎮守府として移転した際に、該操練所も横須賀に移転した後、内閣鐵道局管理地に管理移行された。<br />関東大震災で焼失した鐵道省東京鐵道局新橋運輸事務所を昭和5年(19330年)に鉄骨鉄筋コンクリート剛建築で再建された。<br />新橋管理部庁舎を経て、戦後は東京鉄道管理局新橋支所となり、平成5年(1993年)に解体された。<br />現在は該地域最後の再開発中。<br /><br />東京都港区東新橋2−13−7<br />東海道本線(山手線)浜松町駅北口 徒歩6分

    新橋-浜松町間



    新橋管理部庁舎(しんばし かんりぶちょうしゃ)跡
    該地一帯は江戸期は各藩邸が林立していたが、明治維新と同時に公収され、兵部省管理地として海軍操練所等々が設置された。
    横濱に所在した東海軍鎮守府が土地狭隘と防諜を理由に明治17年(1884年)12月15日附で横須賀海軍鎮守府として移転した際に、該操練所も横須賀に移転した後、内閣鐵道局管理地に管理移行された。
    関東大震災で焼失した鐵道省東京鐵道局新橋運輸事務所を昭和5年(19330年)に鉄骨鉄筋コンクリート剛建築で再建された。
    新橋管理部庁舎を経て、戦後は東京鉄道管理局新橋支所となり、平成5年(1993年)に解体された。
    現在は該地域最後の再開発中。

    東京都港区東新橋2−13−7
    東海道本線(山手線)浜松町駅北口 徒歩6分

    浜松町駅

  • 新橋-浜松町間<br /><br /><br /><br />架線柱<br />昭和10年(1935年)に3複線化工事が開始されたが、該区間門型架線柱群は該工事進行中たる昭和12年(1937年)更改。<br /><br />東京都港区東新橋2−18−4<br />東海道本線(山手線)浜松町駅北口 徒歩4分

    新橋-浜松町間



    架線柱
    昭和10年(1935年)に3複線化工事が開始されたが、該区間門型架線柱群は該工事進行中たる昭和12年(1937年)更改。

    東京都港区東新橋2−18−4
    東海道本線(山手線)浜松町駅北口 徒歩4分

    浜松町駅

  • 新橋-浜松町間<br /><br /><br /><br />架線柱<br />近接拡大<br />植柱以来76年が経過。<br /><br />東京都港区東新橋2−18−4<br />東海道本線(山手線)浜松町駅北口 徒歩4分

    新橋-浜松町間



    架線柱
    近接拡大
    植柱以来76年が経過。

    東京都港区東新橋2−18−4
    東海道本線(山手線)浜松町駅北口 徒歩4分

    浜松町駅

  • 新橋-浜松町間<br /><br /><br /><br />浜松町(はままつちょう)架道橋<br />該架道橋は、浜松町駅開業時に開設された。<br />然し、設置当時は道路幅2.5mの人道専用で、車馬は該架道橋横の浜松町踏切を通過していた。<br />即ち、大型架道橋として設置が見送られたのは、該地が海辺と至近距離で、且つ、該駅に隣接して芝離宮(しばりきゅう)が存在し、特に、当時は高潮時に於ける溢水防御手立てが未確立だった為である。<br />然し、該地は電車運転本数が多数あり、当時の初代新橋駅、後の、汐留駅構内貨車入換作業の為に、殆ど該踏切が閉止状態だった事から、改めて路盤下を掘下げ架道橋として設置した。<br />大正15年(1926年)に、関東大震災後に於ける内務省土木局工事に拠る東京湾岸整備一環として日の出埠頭が竣工整備され、東京府下に大型船舶入港が可能になった事から竹芝通り拡張の際に該架道橋も拡張された。<br />平成になり、東京都営交通地下鉄大江戸線が該通り下を斜形通過する事が決定したが、調査の結果、現状の橋梁構造では橋梁支柱強度不足事が指摘され、各路線を付替工事を施工しつつ、該架道橋を架替を実施。<br />竹芝通り<br /><br />東京都港区海岸1<br />東海道本線(山手線)浜松町駅北口 徒歩15秒

    新橋-浜松町間



    浜松町(はままつちょう)架道橋
    該架道橋は、浜松町駅開業時に開設された。
    然し、設置当時は道路幅2.5mの人道専用で、車馬は該架道橋横の浜松町踏切を通過していた。
    即ち、大型架道橋として設置が見送られたのは、該地が海辺と至近距離で、且つ、該駅に隣接して芝離宮(しばりきゅう)が存在し、特に、当時は高潮時に於ける溢水防御手立てが未確立だった為である。
    然し、該地は電車運転本数が多数あり、当時の初代新橋駅、後の、汐留駅構内貨車入換作業の為に、殆ど該踏切が閉止状態だった事から、改めて路盤下を掘下げ架道橋として設置した。
    大正15年(1926年)に、関東大震災後に於ける内務省土木局工事に拠る東京湾岸整備一環として日の出埠頭が竣工整備され、東京府下に大型船舶入港が可能になった事から竹芝通り拡張の際に該架道橋も拡張された。
    平成になり、東京都営交通地下鉄大江戸線が該通り下を斜形通過する事が決定したが、調査の結果、現状の橋梁構造では橋梁支柱強度不足事が指摘され、各路線を付替工事を施工しつつ、該架道橋を架替を実施。
    竹芝通り

    東京都港区海岸1
    東海道本線(山手線)浜松町駅北口 徒歩15秒

    浜松町駅

  • 浜松町(はままつちょう)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治42年(1909年)12月16日開業である。<br />該駅開業当初は、現在と異なり該駅付近は平屋住宅密集地で、駅本屋を設置する有効余裕地が存在せず、早期土地収用が困難と判断された事から、仕方が無く、該駅ホーム上に2階建駅本屋建築物を設置した。<br />現在と異なり、当時は高架内ホーム下に出改札口が存在する駅は他に類例が無く、異彩を放っていた。<br />大正12年(1923年)9月1日二発生した関東大震災で、該駅本屋本体に外壁が剥離脱落程度の被害が生じ無事だった。<br />然し、同日23時頃、芝區田村町付近火勢が折からの烈風に煽られ火砕流化し、該火砕流は同區愛宕下町、宇田川町、神明町を通過焼失させ、該駅に到達した事から、該駅は、翌2日1時30分頃全焼した。<br />該駅被害は駅本屋が全焼した為に甚大で、震災後に於ける東京-品川間開通は早期だったが、該駅復旧は手間取り、同年10月1日にずれ込み、再開業までの間、同じく被災した有楽町、新橋両駅と共に列車は停車せず通過扱になった。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1248

    浜松町(はままつちょう)駅



    該駅は、明治42年(1909年)12月16日開業である。
    該駅開業当初は、現在と異なり該駅付近は平屋住宅密集地で、駅本屋を設置する有効余裕地が存在せず、早期土地収用が困難と判断された事から、仕方が無く、該駅ホーム上に2階建駅本屋建築物を設置した。
    現在と異なり、当時は高架内ホーム下に出改札口が存在する駅は他に類例が無く、異彩を放っていた。
    大正12年(1923年)9月1日二発生した関東大震災で、該駅本屋本体に外壁が剥離脱落程度の被害が生じ無事だった。
    然し、同日23時頃、芝區田村町付近火勢が折からの烈風に煽られ火砕流化し、該火砕流は同區愛宕下町、宇田川町、神明町を通過焼失させ、該駅に到達した事から、該駅は、翌2日1時30分頃全焼した。
    該駅被害は駅本屋が全焼した為に甚大で、震災後に於ける東京-品川間開通は早期だったが、該駅復旧は手間取り、同年10月1日にずれ込み、再開業までの間、同じく被災した有楽町、新橋両駅と共に列車は停車せず通過扱になった。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1248

  • 浜松町駅<br /><br /><br /><br />北口改札<br />該駅開業当初は現在の北口が開設された。

    浜松町駅



    北口改札
    該駅開業当初は現在の北口が開設された。

    浜松町駅

  • 浜松町駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />北口側階段<br />採光窓

    浜松町駅



    第2番ホーム
    北口側階段
    採光窓

  • 浜松町駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />北口階段<br />ホーム段<br />関東大震災で被災焼失後、復旧時に採光窓を設置。

    浜松町駅



    第2番ホーム
    北口階段
    ホーム段
    関東大震災で被災焼失後、復旧時に採光窓を設置。

  • 浜松町駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />北口<br />階段部分<br />震災本格復旧時に採光用窓を設置。

    浜松町駅



    第1番ホーム
    北口
    階段部分
    震災本格復旧時に採光用窓を設置。

  • 浜松町駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />昭和元年(1926年)12月27日に、鐵道省は新型半鋼製電車を運用開始したが、此れに伴い、各駅停車毎旅客乗降に支障影響する木造製電車に設置されていたステップ廃止を決定した。<br />木造車輌時代のホームは軌条面760mm高さで設置されていたが、電車運転区間各ホームは、逐次、大正15年(1926年)9月以降、軌条面920mmに嵩上され、更に、昭和2年(1927年)7月迄に軌条面1100mmに再嵩上された。<br />平成期以降の直流電車運転区間は軌条面1150mm前後が標準。<br />当時の嵩上痕跡が残存。

    浜松町駅



    第1番ホーム
    昭和元年(1926年)12月27日に、鐵道省は新型半鋼製電車を運用開始したが、此れに伴い、各駅停車毎旅客乗降に支障影響する木造製電車に設置されていたステップ廃止を決定した。
    木造車輌時代のホームは軌条面760mm高さで設置されていたが、電車運転区間各ホームは、逐次、大正15年(1926年)9月以降、軌条面920mmに嵩上され、更に、昭和2年(1927年)7月迄に軌条面1100mmに再嵩上された。
    平成期以降の直流電車運転区間は軌条面1150mm前後が標準。
    当時の嵩上痕跡が残存。

    浜松町駅

  • 浜松町駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />該駅建設時の原ホーム先端部。<br />煉瓦積部はコンクリートで補強され塗固められている。

    浜松町駅



    第1番ホーム
    該駅建設時の原ホーム先端部。
    煉瓦積部はコンクリートで補強され塗固められている。

    浜松町駅

  • 浜松町駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />全景

    浜松町駅



    第1番ホーム
    全景

    浜松町駅

  • 浜松町駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />該部分が該驛開業当時のホーム<br />先端から93.6m部分が当時の原形部分が現存。

    浜松町駅



    第1番ホーム
    該部分が該驛開業当時のホーム
    先端から93.6m部分が当時の原形部分が現存。

    浜松町駅

  • 浜松町駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />元列車線跡<br />列車線移設後、昭和30年(1955年)5月8日使用開始。

    浜松町駅



    第2番ホーム
    元列車線跡
    列車線移設後、昭和30年(1955年)5月8日使用開始。

    浜松町駅

  • 浜松町駅<br /><br /><br /><br />小便小僧像<br />戦前に計画された、京浜東北線、山手線電車運転分離工事は戦時体制強化に伴い昭和18年(1943年)に工事中止に追い込まれ、旧列車線上にホーム建設途上の状態で無残な姿で放置された。<br />戦後になり、該状態をして余りに殺風景だとする意見が起き、昭和27年(1952年)10月14日の鉄道開業80周年を記念し、当時の国鉄嘱託歯科医で小林歯科医院長 小林 光が該像を該ホーム上に設置した処、たいへん評判になった。<br />初代該像は陶器製で、設置後、数年間は第1番ホームの参観のみだったが、昭和30年(1955年)5月8日より混雑緩和を目的に第2番ホームが片線使用を開始し、傍で参観可能になった際に現在のブロンズ製に交換された。<br />身長43.0cm<br />頭囲24.2cm<br />首廻19.5cm<br />肩幅18.0cm

    浜松町駅



    小便小僧像
    戦前に計画された、京浜東北線、山手線電車運転分離工事は戦時体制強化に伴い昭和18年(1943年)に工事中止に追い込まれ、旧列車線上にホーム建設途上の状態で無残な姿で放置された。
    戦後になり、該状態をして余りに殺風景だとする意見が起き、昭和27年(1952年)10月14日の鉄道開業80周年を記念し、当時の国鉄嘱託歯科医で小林歯科医院長 小林 光が該像を該ホーム上に設置した処、たいへん評判になった。
    初代該像は陶器製で、設置後、数年間は第1番ホームの参観のみだったが、昭和30年(1955年)5月8日より混雑緩和を目的に第2番ホームが片線使用を開始し、傍で参観可能になった際に現在のブロンズ製に交換された。
    身長43.0cm
    頭囲24.2cm
    首廻19.5cm
    肩幅18.0cm

    浜松町駅

  • 浜松町駅<br /><br /><br /><br />小便小僧<br />数々の儀式行事の際に大礼服や様々な衣装を纏う。<br />此れらは、全国の篤志家や小便小僧友の会から寄贈され毎月欠かさず着せ替えられている。<br />今月は祭り衣装。<br />昨年10月に還暦を迎えた該像。

    浜松町駅



    小便小僧
    数々の儀式行事の際に大礼服や様々な衣装を纏う。
    此れらは、全国の篤志家や小便小僧友の会から寄贈され毎月欠かさず着せ替えられている。
    今月は祭り衣装。
    昨年10月に還暦を迎えた該像。

    浜松町駅

  • 浜松町駅<br /><br /><br /><br />小便小僧像<br />近接<br />背景山手線電車はウグイス色塗装車輌導入50周年記念電車。

    浜松町駅



    小便小僧像
    近接
    背景山手線電車はウグイス色塗装車輌導入50周年記念電車。

    浜松町駅

  • 浜松町駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />小便小僧像<br />毎日電車を送迎。<br />背後は京浜東北線南行電車。

    浜松町駅



    第2番ホーム
    小便小僧像
    毎日電車を送迎。
    背後は京浜東北線南行電車。

    浜松町駅

  • 浜松町駅<br /><br /><br /><br />中央口<br />昭和45年(1970年)3月に世界貿易センタービルが竣工した。<br />地上40階、高さ152mで該ビル竣工当時は我が国最大高だった。<br />該ビル利用者の便を考慮し、該駅に中央口が開設されたが、該口造営物は、該駅開業時に於けるホーム上駅本屋建築基礎を活用し設置。

    浜松町駅



    中央口
    昭和45年(1970年)3月に世界貿易センタービルが竣工した。
    地上40階、高さ152mで該ビル竣工当時は我が国最大高だった。
    該ビル利用者の便を考慮し、該駅に中央口が開設されたが、該口造営物は、該駅開業時に於けるホーム上駅本屋建築基礎を活用し設置。

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この旅行記へのコメント (20)

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  • M-koku1さん 2017/11/04 11:57:13
    いつもながらの詳細な大作 すばらしいですね
    横浜臨海公園様

    現在 秋葉原ー浅草橋間の総武線高架下が 
    店舗を解体して 丸裸になっています 
    とても高い高架ながら 脚が細くて 何だか不安を覚えたりします 

    今回取り上げられたエリアは よくおとづれる場所ですし 
    実際に高架の周りをウロウロしているので 興味深く
    数時間かけて 読み終わりました

    上空200m地点の航空機から 投下して 爆弾被害を調べた 
    というのは まさか 本当の人間を使ったわけではないですよね
    たまたま爆撃された時の 被害状況をまとめて得た結論ですよね 
    そうじゃないと とても怖いんですが・・・

    中島飛行機の攻撃の代わりに 東京だったとは・・・
    中島飛行機の後継者も 知り合った頃はまだ30台になるかならないかで 
    実に気持ちの良い若者だったのに 
    色々辛いことがあって 最後には自殺なさってしまいました 
    色々の人々の怨念?てことはないと思いますが 
    Mの中では とても悲しい思い出です 

    1951年にはすでに常磐線が日暮里から山手線に乗り入れていたんですか 
    乗り入れたり 乗り入れをやめたり 繰り返しているのですね
    やっと東京上野ラインとして 再定着に至っているように感じます
    新しい時刻表の編成では 上野発を減らして 
    品川発を増やす方向性が発表されました 
    日暮里駅での凄まじい常磐線から山手・京浜東北への乗り換えを目にしたら 
    品川までの延長は 賢い選択と思われます 

    新橋の手すりが 大正13年の頃のオリジナルだったとは 驚きました 
    今度行った時には そういう気持ちで眺めてみたいと思います

    ではまた
    Mより

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2017/11/04 15:52:30
    拝復
    M-koku1さま、こんにちは。


    掲示板にコメントを賜りまして、深謝しております。

    この旅行記も資料収集から完成まで1年半かかっております。

    > 現在 秋葉原ー浅草橋間の総武線高架下が 店舗を解体して 丸裸になっています 
    > とても高い高架ながら 脚が細くて 何だか不安を覚えたりします 
    →あの御茶ノ水-両国間は、昭和7年(1932年)7月開通区間で、関東大震災の経験から耐震構造を採用しており、然も、戦時体制前だった事から鋼材もふんだんに使用されており、同時期に竣工した神戸市街高架線も阪神大震災でビクともしておりませんでしたので、たぶん大丈夫だと思います。

    > 上空200m地点の航空機から 投下して 爆弾被害を調べた 
    > というのは まさか 本当の人間を使ったわけではないですよね
    > たまたま爆撃された時の 被害状況をまとめて得た結論ですよね 
    > そうじゃないと とても怖いんですが・・・
    →藁人形は使用した様ですが、人間は捕虜も含め使用した形跡は無い様です。

    > 1951年にはすでに常磐線が日暮里から山手線に乗り入れていたんですか 
    →現在の山手線京浜東北線分離運転の為に複々線化工事が進行中に、混雑対策の為に乗入を実施したものです。

    > 日暮里駅での凄まじい常磐線から山手・京浜東北への乗り換えを目にしたら 
    > 品川までの延長は 賢い選択と思われます 
    →常磐線対京浜東北線山手線乗換客など、上野駅に於ける高崎線乗換客の埼玉県民どもの下品さガサツさから見れば、まだ常磐線沿線住民などカワイイものだと思います。




    横浜臨海公園
  • ドロミティさん 2016/03/29 18:46:13
    こんばんは。
    横浜臨海公園さま

    東海道本線歴史的痕跡探訪記、ゆっくり拝見させていただいております。

    江戸期には町名など殆ど存在しなかった、そして首都東京が形成されるに至ったくだり、たいへん興味深かったです。

    新橋駅は昔から利用しているのですが、汐留改札口階段上の ステンドグラスは意識して見たことがありません。
    今度行くときは時間に余裕を持って、しっかり観察します。クジャク窓!覚えました。ありがとうございます。

    駅構内のトイレ脇の柱も、何十回も前を横切っています。
    駅周辺の高架橋もこうして解説していただくと、これからは格別な思いで見上げることができます。

    浜松町の小便弁小僧♪いつもどなたが洋服を着せ替えてらっしゃるのかな?と思っていたんです。50年ですか〜長いですね。

    いつもありがとうございます。
    またお邪魔いたしますので、宜しくお願いいたします。ドロミティ

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2016/04/24 20:08:57
    拝復
    ドロミティさま、こんばんは。


    掲示板にコメントを賜りながら、返事を差し上げなければと思いつつ、たいへん遅くなりまして、本当に申し訳ございませんでした。

    東京-浜松町間高架橋は明治期に建設された歴史的建造物ながら、実は殆どの方が実態をご存知では無く、然も、所有者たるJR東日本も万世橋高架橋の様なアピールをしていないのが現状です。

    新橋駅は改造工事真っ最中で、新橋駅部分の件の高架橋も殆どの部分が解体予定です。

    是非とも今のうちに記憶に留めて頂ければ幸いです。




    横浜臨海公園

  • mzwさん 2015/10/22 20:27:03
    あまりの充実さに圧倒されました!

    横浜臨海公園さん

    はじめまして。
    私の拙いブログにも訪問いただき、ありがとうございます。
    歴史の勉強にもなるし、知らないことだらけなので、ちゃんと読もうとすると、
    3〜4回来ないと1冊が読み終わりません。
    それにしても、すばらしい知識です。
    少しずつにはなると思いますが、読ませていただきます。


                           by MZW

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2015/10/23 16:45:13
    拝復
    mzwさま、こんにちは。


    小生の旅行記に投票と過分なるコメントを賜りまして深謝しております。
    誠に有難うございました。

    小生、旅行記作成に対しては、現在公開されている資料では無く、可能な限り当時の1次資料にアプローチ、且つリサーチし、篩いにかけ、事実を掘り出しております。

    その為に、作成途中の未公開旅行記ばかり80点前後が建造中になっている状態です。
    それ故に、旅行記本文を完成させ、挿入すべき写真は最後に撮影で訪れる様な状態です。

    旅行記の内容も時間ばかり食ってばかりですが、御納得を頂ければ幸甚でございます。

    小生こそ、今後とも何卒宜敷くお願い申します。




    横浜臨海公園
  • わんぱく大将さん 2015/10/16 01:29:09
    新幹線
    横浜臨海公園さん

    こうやってみると東京は新幹線、低い所を走りますね。まあ、駅をそんなに高くできないか? しかし、東京でびっくりなのは、駅に上の階と下の階があること。下にも、上にも電車走ってるってことですか?? おかげで秋葉原、一瞬迷いました。

     大将

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2015/10/26 06:03:44
    拝復
    わんぱく大将さま、おはようございます。


    東京近郊で新線を建設しようとすると、用地の捻出に苦労させられる事例が多く発生するようです。

    東京上野連絡線増設では、よくぞコンナ所に路線を敷設させたのかと感心させられます。



    横浜臨海公園
  • nichiさん 2015/03/07 20:59:23
    山手線は歴史遺産的な部分が現役で使われているんですね。
    横浜臨海公園さん
    私の拙い旅行記に「いいね」ありがとうございます。
    東京駅や新橋、有楽町はよく行く場所です。
    さりげなく存在する鉄道施設は実は歴史のあるものがものが多いのですね。
    煉瓦の橋梁や鋼鉄の支柱など、恐らく戦前の古いものなんだろうなぁ〜という漠然とした意識でした。
    円形装飾などは全くその存在に気づくことはできませんでした。
    今度は少し意識して見るようにします。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2015/03/08 14:13:45
    拝復
    nichiさま、こんにちは。


    拙稿旅行記に投票と掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    東京の高架線施設は、現実的に歴史的意義も多い所ですが、東京駅100周年直前まで、注目される事も少なく、半ば省みられぬ存在だったと称しても過言では無かったと思います。

    JR東日本だけでは無く都市美観の立場から、東京都も本腰を入れて整備して欲しいと願っておりますが、芸術に理解があった石原元知事なら実行も可能性があったかと思いますが、あの現都知事の性格では無理でしょう。

    都心の高架橋に就いては、東京-飯田橋間、及び、東京-上野間に就いても資料収集をしており、何れ機会を見て発表させて頂きたいと思っております。



    横浜臨海公園
  • frau.himmelさん 2015/01/27 22:04:38
    重厚な革張り表紙の旅行記です。
    横浜臨海公園さま こんばんは。

    わあーすごい!と言うのが私の感想です。
    長年構想を練られて熟成させてやっと今、陽の目を見たという感じでしょうか。
    素晴らしい重厚な革張りの旅行記。
    私達のノートのようなペラペラの旅行記と一緒にするのが申し訳ないようです。

    題材も身近な東京都内の話や、遠くドイツの歴史にまで及び、見ごたえがありすぎてとっても短時間では拝見できません。
    私も今回で3度目です。

    日本に鉄道が敷設されるようになったドイツとのいきさつ、その頃のドイツおよびヨーロッパの情勢、エムス電報事件、駐独公使だった青木と鉄拳宰相ビスマルクとの友好関係など、非常に興味深く読ませていただきました。
    まだこれからも何度かお邪魔して拝見させていただきます。

    ありがとうございました。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2015/01/29 12:40:23
    拝復
    frau.himmelさま、こんにちは。


    旅行記に投票と掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    > 長年
    構想を練られて熟成させてやっと今、陽の目を見たという感じでしょうか。
    →着想から完成まで4年間かかってしまいました。

    > 私達のノートのようなペラペラの旅行記と一緒にするのが申し訳ないようです。
    →いえいえ。frau.himmelさまの旅行記は内容が濃く面白さがございます。
    それにしても、昨今のフォートラベル会員が上程する旅行記には、旅行記どころか日記の形式にすらなっていないガサツで粗末な愚にもつかぬ内容の旅行記が散見され、それがもてはやされているのが嘆かわしい現状です。

    > 題材も身近な東京都内の話や、遠くドイツの歴史にまで及び、見ごたえがありすぎてとっても短時間では拝見できません。
    > 私も今回で3度目です。
    >
    > 日本に鉄道が敷設されるようになったドイツとのいきさつ、その頃のドイツおよびヨーロッパの情勢、エムス電報事件、駐独公使だった青木と鉄拳宰相ビスマルクとの友好関係など、非常に興味深く読ませていただきました。
    →兎に角、資料の収集に2年半、それから、資料を吟味して取捨選択に1年余がかかりました。

    東海道本線全線分を上程するとなると、あと何年かかるか想像すら出来ません。
    既に、岡崎まで該資料の取捨選択している段階でございます。




    横浜臨海公園
  • ごまさん 2015/01/27 12:06:29
    毎回素晴らしいですね。
    横浜臨海公園さんへ

    こんにちは、今回はかなりの長文で本当に良く調べられたと関心しました。
    個人的に東京駅と有楽町駅周辺が好きなので、興味深く拝見しました。
    でも全部は読めなかったので、ごめんなさい。

    ご自分の足でこれだけ細部まで撮影されて、毎回ながら素晴らしいですね。
    感動さえ覚えました。
    東京は戦前の面影が随所に残っているので、わくわくさせてくれる街だと思います。

    東京駅の地下構内を車椅子だと、駅員さんに押して移動してもらえます。
    でも毎回撮影するチャンスが無いので残念ですが、地下構内は実に明治か大正時代そのものに煉瓦のアーチが続き、ガス灯も壁に残り素敵です。

    主人を連れて横浜方面へ出かける時の最大の楽しみが、東京駅の地下構内です。
      ごま

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2015/01/28 14:59:35
    拝復
    ごまさま、こんにちは。


    この度は、小生の旅行記を閲覧され、投票とコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    今回の旅行記は着想から完成まで4年も経過してしまいました。

    東京駅南側地下通路は、数少ない、東京駅構内で戦災に被災しなかった箇所だった所なので、大正3年(1914年)竣工当時の雰囲気が色濃く残っております。

    また、よく注意して見て頂くと判りますが、途中、丸ノ内側から八重洲側に向かって右手に、コンクリートで封印した箇所がございますが、其処は、嘗ての東京中央郵便局との連絡通路が存在した所で、昭和8年(1933年)まで、東京駅と電気動車で郵便物の移動に使用しており、封印部以降の側壁に、引掻き傷が見られるのは、その電気動車の台車が引掻いた痕です。

    今度、通られましたおりに、よくご覧になってみて下さいませ。



    横浜臨海公園
  • わんぱく大将さん 2015/01/27 11:13:52
    レンガのアーチ
    横浜臨海公園さん

    のっけから文章長くて申し訳ないですが、読んでませんが、お写真は拝見しました。 レンガのアーチの違い、カタルニアと比較したかったので。日本では想像つかないアーチの作り方をこちらは普通にやってます。

     大将

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2015/01/28 12:07:35
    拝復
    わんぱく大将さま、こんにちは。


    旅行記への投票と掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。




    横浜臨海公園
  • かっちんさん 2015/01/26 10:38:29
    よく調べられています
    横浜臨海公園さま

     こんにちは

     東京−浜松町間の建設秘話を興味深く読ませてもらいました。
     今度歩いて建造物をじっくり観察してみたいと思います。

     小便小僧は還暦を迎えたのですね。
     子供のまま大きくなってしまったようで。。。
     季節ごとに衣替えするので、よく写真を撮っていたことがあります。

      かっちん

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2015/01/28 12:17:11
    拝復
    かっちんさま、こんにちは。


    旅行記に投票とコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    構想から完成まで、今回の旅行記は約4年かかってしまいました。
    本当は、新橋駅、及び、有楽町駅ホーム上屋支柱古軌条に就いても、詳しく投稿したいと考えたのですが、それをも含むと220ページ前後になってしまい断念せざるを得ませんでした。

    あのロクでも無いウィキペディアの投稿ミスが、小生の旅行記を参考にした者が、おそらく1週間以内に訂正投稿をするかと思うと、正直笑えます。



    横浜臨海公園
  • 蔦之丞さん 2015/01/25 14:57:40
    いつもながら感心させられっぱなしです。
    いつもの生活の中で
    流されつつある歴史を
    細かく紐解き尋ねられる姿に低頭致します。

    また、今回は
    『東京都は、昭和22年(1947年)3月15日附を以って、行政合理化の為に旧36箇所存在した区を現行23区に統廃合し新区名を制定命名した。』
    私が生まれる2日前!!!
    知れただけでもお礼申し上げます。

    ※以前の旅行記ですが
    神奈川に住んでいた頃もあり
    何気に無関心でその土地を踏んでいた事を
    関心を抱いて拝見させて頂きました。

    また、旅行記を楽しみにしておりますので
    これからもよろしくお願いいたします。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2015/01/26 15:34:34
    拝復
    蔦之丞さま、こんにちは。


    今回は拙稿旅行記への投票と掲示板へのコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    仰せの通り、今回の旅行記は、元資料を読み出す事から作業がはじまり、気がつけば、完成まで4年もかかってしまいました。

    例えば、10例あるとして、9例が肯定、1例が否定とすると、常識で考えれば多数例が事実と思うかもしれませんが、実際には、該1例が正当で、あとの9例は孫引きの結果であり、調査を怠った結果などというのは度々出くわしました。

    現在製作中の、汐留-品川間編、及び、川崎-横浜間編も資料の取捨選択に苦労させられております。



    横浜臨海公園

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