今井兼平の墓
名所・史跡
3.30
クチコミ・評判
1~5件(全5件中)
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源義仲の側近として最後まで仕え自害した人物の墓です。
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- 旅行時期:2023/04(約3年前)
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源義仲の討ち死にを知り壮絶な最期を遂げた武将の墓です。
- 3.5
- 旅行時期:2023/04(約3年前)
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川のほとりの整備された一角
- 3.5
- 旅行時期:2023/03(約3年前)
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平安時代末期の武将の墓
- 3.5
- 旅行時期:2019/10(約6年前)
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石山駅北口、盛越川沿いにひっそりとあります。
- 5.0
- 旅行時期:2016/06(約10年前)
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今井四郎兼平、平安時代末期の源平の戦いに於いて木曽義仲の腹心の一人として挙兵から最期を迎えるまで連れ添った武将です。義仲の... 続きを読む乳母子として兄弟のように育ち、実の兄弟である樋口兼光・根井行親・楯親忠とともに木曽四天王として、義仲の快進撃を支えてきました。
寿永2(1183)年倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を駆逐した義仲は、京へ入り朝日将軍の称号を与えられるも、期待された連年の飢饉と平氏の狼藉によって荒廃した都の治安回復を計るのに失敗し、結果として治安維持の失敗と大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化を招き、更に皇位継承への介入などにより次第に後白河法皇と不和となっていきました。そして法住寺合戦に於いて法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となりましたが、僅か数ヶ月で源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により近江の国粟津の戦いで破れ義仲は打ち取られます。
粟津に来た時には義仲に続くものは僅かに5人程だったようで、兼平は主君義仲に後世への名声のため自害を勧めますが、不運にも矢を顔面に受けて落命します。それを見ていた兼平は「自害の見本を見よ」と言い放ち、太刀を口に含んで馬から落ち、太刀に貫かれて亡くなったとされています。享年33歳。
主君義仲の亡骸は義仲寺に運ばれて埋葬されますが、続いた兼平の墓は山手の寂しい場所に置かれていたそうです。その後江戸期に入り膳所藩初代城主本多俊次の手によってその墓碑が改築され、次代藩主本多康将が現在地に移転したとされています。二人の藩主を動かしたことは、兼平の武勇と忠臣だったことは言うまでもありません。
石山駅北口からすぐと言えばすぐですが、駅裏から続く道は大変狭く、対向車の動きには注意が必要です。義仲の墓がある義仲寺と合わせてお参りをしたくなる場所には違いありません。 閉じる投稿日:2016/06/03
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基本情報(地図・住所・アクセス)
- 施設名
- 今井兼平の墓
- 住所
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- 滋賀県大津市晴嵐2-4-16
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- アクセス
- JR石山駅、京阪石山駅より徒歩3分
- 公式ページ
- 詳細情報
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