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今井兼平の墓

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石山寺周辺

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施設情報

施設名
今井兼平の墓
住所
  • 滋賀県大津市晴嵐2-4-16
アクセス
JR石山駅、京阪石山駅より徒歩3分
公式ページ
詳細情報
カテゴリ
  1. 観光・遊ぶ
  2. 名所・史跡

※施設情報については、時間の経過による変化などにより、必ずしも正確でない情報が当サイトに掲載されている可能性があります。

クチコミ(5件)

石山寺周辺 観光 満足度ランキング 16位
3.3
アクセス:
3.80
京阪石山駅から北西方向に徒歩5分くらいのところにあります。 by パリが大好きさん
人混みの少なさ:
3.90
きれい整備されているので定期的に誰かがお参りされているのでしょうが、訪問時は誰も見かけませんでした。 by パリが大好きさん
バリアフリー:
3.50
平坦な地にある住宅街の一角にあります。 by パリが大好きさん
見ごたえ:
3.80
今井兼平の子孫が建てたものですから、比較的新しいものです。 by パリが大好きさん
  • 源義仲の側近として仕え、義仲挙兵に従い有名な倶利伽羅峠の戦いなどで平家軍を破り、平家を都落ちさせて義仲と共に入京しましたが...  続きを読む、源義経を大将とする源氏に追われ敗走する義仲に最後まで側近として仕えます。現在の大津市粟津の戦いで討死した義仲の後を追って自害した勇猛な人物です。「日本一の剛の者の自害の仕方を見ろ」と言い、刀の先を口の中に入れて馬上から真っ逆さまに飛び降り刀に貫かれ自害したと言われています。現在ある墓は今井兼平の子孫が建てたものだそうです。  閉じる

    投稿日:2023/04/25

  • 今井兼平は木曽義仲と乳兄弟の関係であったとされる武将です。木曽の四天王と言われた誉れ高き武将でもあります。瀬田の唐橋の防衛...  続きを読む戦に敗れ、木曽義仲が討たれたことを知り、自ら口に刀を逆さに当てて馬の背から真っ逆さまに飛び降り絶命したと言われています。江戸時代に今井兼平を尊敬した膳所藩主本多俊次が墓を建立したそうです。現在の墓は今井兼平の末裔が建てたものだそうです。  閉じる

    投稿日:2023/04/22

  • 川のほとりの整備された一角

    • 3.5
    • 旅行時期:2023/03(約1年前)
    • 0

    今井兼平の墓は、JR石山駅から歩いて。川のほとりの整備された一角です。
    今井兼平は、木曽義仲の乳兄弟にあたり、木曽の四天...  続きを読む王とも呼ばれた武将。寿永3年(1184年)、源義経、範頼の軍と粟津で戦い、討ち死にした義仲の後を追って壮絶な最期を遂げたということ。謡曲「兼平」というのもあるようです。  閉じる

    投稿日:2023/12/14

  • 平安時代末期の武将の墓

    • 3.5
    • 旅行時期:2019/10(約5年前)
    • 0

    石山駅付近を旅していますがこの「今井兼平の墓」は北口を出て北西に位置していて盛越川のほとりにあります。
    今井兼平は平安時...  続きを読む代末期の武将でここ粟津最期を遂げました人物です。義仲が討たれたことを知り自ら刀を口に逆立てて馬から飛び降りたと伝えられています。墓は江戸時代になって膳所藩主本多俊次によって建立されましたが現在の墓は今井家の末裔によって建てられています。
    盛越川沿いの道には白い看板が建っていますが墓はその奥にあり足元が悪いので気を付けてください。川に落っこちない様に注意してください。  閉じる

    投稿日:2019/10/04

  • 今井四郎兼平、平安時代末期の源平の戦いに於いて木曽義仲の腹心の一人として挙兵から最期を迎えるまで連れ添った武将です。義仲の...  続きを読む乳母子として兄弟のように育ち、実の兄弟である樋口兼光・根井行親・楯親忠とともに木曽四天王として、義仲の快進撃を支えてきました。

    寿永2(1183)年倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を駆逐した義仲は、京へ入り朝日将軍の称号を与えられるも、期待された連年の飢饉と平氏の狼藉によって荒廃した都の治安回復を計るのに失敗し、結果として治安維持の失敗と大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化を招き、更に皇位継承への介入などにより次第に後白河法皇と不和となっていきました。そして法住寺合戦に於いて法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となりましたが、僅か数ヶ月で源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により近江の国粟津の戦いで破れ義仲は打ち取られます。

    粟津に来た時には義仲に続くものは僅かに5人程だったようで、兼平は主君義仲に後世への名声のため自害を勧めますが、不運にも矢を顔面に受けて落命します。それを見ていた兼平は「自害の見本を見よ」と言い放ち、太刀を口に含んで馬から落ち、太刀に貫かれて亡くなったとされています。享年33歳。

    主君義仲の亡骸は義仲寺に運ばれて埋葬されますが、続いた兼平の墓は山手の寂しい場所に置かれていたそうです。その後江戸期に入り膳所藩初代城主本多俊次の手によってその墓碑が改築され、次代藩主本多康将が現在地に移転したとされています。二人の藩主を動かしたことは、兼平の武勇と忠臣だったことは言うまでもありません。

    石山駅北口からすぐと言えばすぐですが、駅裏から続く道は大変狭く、対向車の動きには注意が必要です。義仲の墓がある義仲寺と合わせてお参りをしたくなる場所には違いありません。  閉じる

    投稿日:2016/06/03

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