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沖縄県営平和祈念公園

公園・植物園

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沖縄戦を戦った日本軍の主力部隊の戦没者慰霊碑です。

  • 5.0
  • 旅行時期:2016/04(約10年前)
たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)

糸満・ひめゆり クチコミ:207件

第62師団、昭和18(1943)年6月に大陸で独立混成第4旅団と独立混成第6旅団の主力によって北満にて編成され、翌昭和19(1944)年8月に沖縄へと転戦し、隷下に歩兵第63旅団と歩兵64旅団の2個旅団、そして各旅団には独立歩兵4大隊(連隊)を持つ約6万の兵力を持っていたそうです。初代師団長の本郷義夫中将は体調を崩し、沖縄にて藤岡武雄中将と交代され沖縄島中部の防衛に従事しますが、その後第9師団の台湾抽出などもあり配置換えが続き、将兵の士気の低下に悩まされた時期もあったそうです。

昭和20(1945)年4月1日、米軍が読谷・北谷の海岸に上陸。第32軍司令部は水際作戦を避け一個大隊に遅滞作戦を命令し、4月7日頃からの嘉数の戦いに始まる?熾烈な戦い?を迎え撃ちます。圧倒的兵力火力に勝る米軍を互角以上にまで攻め立てたときもあったものの次第に押されることとなり、徐々に第32軍司令部のある首里へと後退せざるを得なくなります。

5月末にはほとんど主力部隊が残っていない中で首里司令部が南部摩文仁へと後退、それに同行するように師団司令部他残存部隊も南下します。6月に入ると既に横の繋がりが通信網の途絶によりほとんど不明の状態で戦わなくてはいけなくなり、どの部隊が残存しているかすらわからない状態だったようです。そのような状態の中藤岡師団長と中島旅団長がこの?第62師団慰霊碑?の地で、有川旅団長も米須にて自決。翌6月23日未明には牛島司令官と長参謀長が自決し、日本軍の組織的抵抗は終焉を迎えました。

この第62師団隷下の部隊には京都と福井(敦賀)の将兵で構成されていたとの記述がされているものが多く存在します。京都3個大隊、敦賀5個大隊がその謂れを指していますが、時期的なこともあり、この敦賀連隊区が一部滋賀県の徴兵を担当していたこともあり、それ故滋賀県ご出身の沖縄戦で戦没された将兵数が多いとされています。勿論多くは…という記述であるがため、沖縄で徴用された防衛隊の方々約10,000人も犠牲者の中に含まれています。その他補充部隊として後々投入された大隊の中には?富山丸事件?によって犠牲となった上に、残存兵士も南部戦線に送られて玉砕された事実も残っています。

この第62師団慰霊碑は、建立者が石部隊生存者とあるように、元軍人の方々の手によるものであるため、近隣の都道府県別慰霊碑とは趣が異なるように思えるところがあります。しかしそのご遺族からの願いのもと、師団長藤岡武雄中将のご令室豊子夫人の尽力もあり、昭和39(1964)年6月22日に藤岡師団長の命日に建立されたものが?第62師団慰霊碑?になります。

摩文仁の丘慰霊碑群には、建立者や祀っている戦没者によって色々と趣が異なっているものが並んでいたりすることがあります。見る観点によっては不愉快感を持たれることもあるとは聞いていますが、あくまで犠牲となった戦没者の御霊を祀っていることに違いはありません。先入観で行く行かないを決めるよりは、実際に訪れてみて自分の目で見て、体で感じてからその価値を考えれば良いのではないか…、そう思いました。

施設の満足度

5.0

利用した際の同行者:
一人旅
アクセス:
5.0
平和記念公園駐車場から徒歩15分、園内周遊バス利用が便利。
人混みの少なさ:
5.0
平日の午後はどなたもいらっしゃいませんでした。
バリアフリー:
5.0
通路は石がひいてあります。
見ごたえ:
5.0
多くの碑があり、その建立背景を知ることができます。

クチコミ投稿日:2016/05/31

いいね!:9

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